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書けないのではない書かないのである
2017/01/16 19:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「答えは自分で導くものだ」

無駄だからやらないでいいのか?

 面白い記事みんな書けやぁごるぁ! みたいなことを先日書いた。けれども、これは、傲慢チキ極まりない。

 よくある刑事ドラマとか、サスペンスとかで、狂人的犯人が、「だってお前、ほら、みんな人は、人を殺したいって欲望があるだろ? 人間の歴史みてみろよ、戦争のオンパレードだぜ! もっと正直になれよこの偽善者どもがァ!」とか叫んだりする。
 それに対して、刑事さんとか、主人公サイドの人たちが、「バカはてめーだ! みんなそんなこと分かってるんだ。分かっていて、そんなことをしても無意味だから、やらねーだけだ! 哀れな奴だな!」とか煽りかえすシーンを何度かみたことがある。

 この、「みんな分かっているけれども無意味だからやらない」理論が、さも正しいように吹聴されているのだが、僕はこれには違和感を覚える。

本当にみんな分かっているのか?

 まず疑問その一。「みんな」というけれども、本当にみんな分かってるの? それは、無意識下で、「人を殺すのは無駄なことだ」というのはあるのかもしれない。ただ、それを意識的に、「分かっている」と断定する根拠はあるのか、あるはずがない。
 逆に言えば、「人間は誰だって殺害衝動がある」という犯人側の主張も、何ら根拠がないものであり、「てめーが思うなら、そうなんだろうよ」程度のことである。

 だから、上の例シーンにおいては、刑事側も犯人側も、低レベルな煽りの応酬に過ぎないのである。
 にもかかわらず、ドラマ的には、刑事側の主張がさも正しいかのように描かれたりする。そのことに違和感なのである。

書けないから書かないのではない?

 話を戻すと、「面白い記事(=意味や価値を表現するもの)をみんな書いてくれよ!」という主張は、みんなが、書けないということではなく、むしろ、書いても意味がないことを、重々わかっていて、それで、できる限り、そのことに触れないように、触らないように、恐れ多いものだとして書かないだけなのだろうか? という疑問。

 それを僕は分からず、無駄なことをしているというのだろうか?

 残り僅かな時間。人生には限りがある。清く正しく美しく生きるべきだ。人に思いやりを持って優しく生きていくべきだ。いまここを大事にし、日々の生活を精一杯いきて輝いていくべきだ。


「家畜と何の違いがある!」

 と、敢えて強烈な言葉で言い放とう。いや僕自身も、未だ、僕の成そうとしていることが正しいなどと、心底信じられているわけではない。しかし、逆に、他者の、というよりも一般的に「正しい」とされている生き方というもの、すなわち、意味など求めずに、ただ「生きていることそれ自体が素晴らしいことなのだ」という価値観、それに対しても、僕は正しいと心底信じることができない。

ただ生きることだけが目的ならばもはやユートピア

 慎ましく生きるだけであれば、現代日本は、批判も多くあるだろうが、これまでで最大に「幸せな国」の一つであるといえよう。縄文時代など、狩猟採集民たちの時代に戻らずとも、戦国時代や、大戦下と比較するまでもなく、「生存確率」的な意味と、人口総数的な意味においては、素晴らしい時代と国であると、僕は思う。

 がしかし、3万人未満程度の自殺者数や、200万だかの生活保護者数(しかしこれは逆に豊かさと換言すらできよう、皮肉なもんだが)、労働時間の多さや過労死、いじめや犯罪、政治汚職や他国の外圧などなど、マイナス要素だって大したものである。

スタンドアローンを維持すること

 パッケージ化された生き方(一般的に正しいとされていることに従った生き方)にすがり生きていくことに、家畜のような生き方に、人は耐えられない。こんな表現をすれば、「当たり前だ!」と誰しもが思う。みんな誰もが、自分は特別な人間で、自分の人生は自分の手で切り開いていくものだと信じ疑わない。

 だが、その「正しいこと」から零れ落ちてしまう人はいつの時代も、どんな社会においても存在する。
 そんな人を切り捨てて、理想的な社会を構築しようというのが、「サイコパス」という作品においては、シビラシステムの目指す社会であるし、政治家や経営者が求める理想的な統治である。

 理想、という表現は美しいが、この理想をいかに現実化しようとすると、その急進的なやり方は、「世界系」という、全ての人の垣根を取り払ってしまおうとする、急進的な「虐殺的世界再構築」になる可能性がある。

 攻殻機動隊ARISEを見終わった。そのために、そちらに思考が偏っている気もするが、「スタンドアローン」と「ゴースト」(人としての人格そのもの)を重要視しながら、「組織」的に生きることが、それと反比例する場合があることに対しての抗い、そんな表現がなされている作品だと思っている。

まとめ的な

 読みづらい文章になったなぁ。
 ただ、この記事において理解できればいいのは、「無駄だからしない」という判断は、到底、個人でできるものではないことを理解しつつ、同時に、誰かから言われたところで変えるべきものですらないということだ。




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