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現実と二次元の境目について
2017/04/10 12:00 | Comments(4) | 思考及び書くこと
今日の一言「命は光陰に移されて暫くもとどめ難し」「一年が経つぜ」

物語という言葉について

 まず、物語という語をきくと、小説やドラマなど、フィクションを想像する。
 が、辞書的な定義としては、語り聞かせることということでもあり、何もフィクションに限定されるものではない。

 僕はこの記事で、「人生は物語である」という主張をしようと思うのだけれども、その主張の意味するところは、自分の生き方を構築する上での、方法論の整理ということである。

 よって、「人生は物語ではない」という主張と対立をする必要はないと思う。

 人生とは何か。生きてから死ぬまでの、生きている間のことである。それを、どのように全うするのか。



 ……上のような問題提起のやり方では、僕は、言葉が出てこない。何だか、面白くない。心が動かない。

なりたい職業

 他者と自分……。何だろうか、何もないところから、言葉をつむぐのは難しい。
 落ち着いた時間。何も予定がない時間。そんな休日。それが幸せである。

 幸せ?

 幸せって何だ。平穏な感情。時間。空間と時間。


 責任。自らの行為が、現実に与える影響について、自分が引き受けること。
 しかし、その責任の所在は、法律という、人が作り上げたルールに基づくものになる。


 僕は、人に、何かを教える仕事をしたかった。
 しかし、いろいろ考えて、僕自身が、いったい、何が教えられるのか分からなくなって、辞めた。何か、ピンポイントの知識を教えることは可能だろう。けれども、「人格」として、人間として、何か教えることができるかと自問自答した際に、僕は、あまりにも自分自身に、自信がなかった。

 どんな生き方が正しいのか、分からなかった。

 どうすれば、普遍的に、みんな幸せになれるのか分からなかった。

 勉強を教える仕事もしたことがある。けれども、何故勉強をするのか。勉強をしたら必ず幸せになれるのか、自信はもてなかった。


 言い換えれば、責任をとるのが嫌だったのかもしれない。否定されるのが嫌だったのかもしれない。「お前の生き方は間違っている!」とか「お前のせいで人生が失敗した!」とか言われるのが嫌だったのかもしれない。そんなふうに言われても、他者の人生なんて背負えない、そう思ったのかもしれない。


 そんな風にいろいろ悩んでいた時期について、「必死に考えていた」という表現ができるかどうか、僕は疑問である。遊んでいる時間はあったのだ。一分一秒、ずっと真剣に考えていたわけではなかった。睡眠時間だってあった。寝る間を惜しんで毎日考えていたかというと、そうではなかった。

 必死さが足りなかったと、過去の自分を責めることはいくらでも可能だろう。

残りの人生をどう使うか

 過去を責めても、戻れるわけでもないし、戻ったところで、結局、何か大きく変えることはできないだろう。今の自分の知識や感情があったとしても、時間的限界性や身体的限界性によって、未来を劇的に変えることなどできはしない。
 むしろ、過去にかえって、もっといろんなことにチャレンジしてみて、その結果、もっとひどいことになる可能性だってあることを、タイムマシンに期待する人たちは思わないのだろうか。
「あのとき、ああしておけばよかった」

 というのは、その時間平面上での結果であって、過去にもどって、もう一度その場面をやったときに、その「ああしたこと」の結果がどうなるかなど、わかりゃしないのである。そういう意味で、僕は、過去に戻りたいと思ったことはこの方一度もない。やり直したい自分の人生など、いついつ時点もありはしない。後悔という感情が生じたことがないと言えばうそになろうが、少し時間をおいて冷静に考えれば、せめてできるのは、反省と言う作業にすぎない。


 だから、僕は、この先、残りの、10年なのか、20年なのか、30年なのか、40年なのか、50年なのか60年なのか分からないが、その残りの時間をどう使おうかしか考えないことにする。(する、というか、している。)

 ちなみに、70年はないだろう。60年もない気がする。多分、それぐらいになると、そもそも、「自己」という単一の記憶維持が曖昧になっている気がする。分かりやすく書けば、「ボケ」ているだろう。

 その段階までになって、未だ、「自分とは何か」「生きる意味とは何なのか」なんて考えているとは、ちょっと想像しにくい。
 その、最後の最後で、「ああ、ワシの人生は、本当に無意味じゃったのぅ……」と、そんな風に思って死んでいく可能性がなくもないが、多分、先日みた、「ザ・ノンフィクション」の特殊清掃の現場なんかみていると、「ウッ苦しい、た、助けてくれ、うぁあぐああぎゃああ! ……」と、「死」を感じることができるかどうかも、不明なところだ。

 先日、ちょっと危険な目にあったけれども、その瞬間は、「死ぬ」とかどうとか、感じている暇はなかった。とにかく、目の前の危険の対処に全身全霊意識が集中していた。そんなもんである。

 だから、「死」を考えることができるのは、逆説的だが、結局、安全に生きている今、でしかありえない。

ただ独り黄泉に赴くのみなり

 先日、目標にしていた本の読了が終わってから、目標のない生活をしている。
 トイレ掃除もしたし、エアコンのフィルター清掃も行った。エアコンのフィルターはかなり埃がたまっていた。一か月に一度掃除するというのは必要かもしれない。あの埃の中で暖房を焚いていたと思うと、少し気分が悪くなる。

 料理もするようになった。今日つくった焼きポテトは、分厚く切りすぎたせいか、火の通りが悪かった。まぁ自分で食べる分には十分だ。人に出せるレベルの料理も作れるようになった方がよいのだが。

 目標というのは、何か、「できるようになること」に対しての行動方策である。最近、それがないのだ。

 焦るな、今年の大目標は何だ? そう、整理をすることだ。体系と、住居。身の回りを見渡す。うん、いい感じだ。少しずつ物が整理されてきている。この休日は、箱類を整理した。HDDとかその他ソフトウェア等の空き箱だ。引っ越しとか、もろもろをするときはあって便利だった。けれども、捨てることにしよう。使用頻度が低いけれども、スペースを広く使っているものは、思い切って捨てた方がいい。本の整理にいつも時間を使うけれども、本は、意外と並べておけばそう邪魔にはならないのだ。それ以外の、細々としたものの整理が、綺麗に部屋を保つために必要であろう。

書きたいしかし書けない

 ああ、しかし、書くことないなぁ。いや、なんというか、「書きたい」という衝動はあるのだ。

 なら書いてみよう、書いてみる。その内容のなさに驚愕する! 仕方がない、知能が低いのだから仕方がないと思いつつ、いつもなら、そのまま投稿する。しかし、最近、他者のブログで面白い記事を読んだ。おーん。これは……こんな、どーでもいい、くだらないことを書いている俺は、いったい何なんだ。こんなもん投稿していいのかあああ(言外の叫び)。

 ふむ……。



 なるほど、やはり、何か、インプットが無ければ、僕は書けないのだ。一からなにか新しいことを生み出せるなんて、そんな天才だなんて自分を思ってはいかんのである。
 んで、そのインプットした内容に対する感動さ……思いというのが、なにも、自分だけの特別なものだという思い、それすらもかなぐり捨てて良かろう。

 信じて、よかろう。
 自分のこの感性、感覚、思い、思考、感覚、感動、目的、意味……信念、生き様、その他に共感や、近いものを思ってくれる人が存在することを。

 まー苦難である。深い付き合いをしなければそんな人と出会えることはないし、それをするにあたってぶつかりあって、時に傷つくことや嫌な思いをすることもあろう。
 それだけではない。そもそも、他者とかかわるということは、自分自身の上記の感覚等を、上手い具合に表現する方法を明確にしておく必要がある。

 それでも、何もせずに厭世するよりはよかろう。


(たまには、ものすごい明るい記事でも書いてみようか。嘘くさくなりそうだな)


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孤独死について(感想)
2017/04/09 12:00 | Comments(6) | 思考及び書くこと
今日の一言「死後の体液すごい」

特殊清掃員の仕事を見た

 事故物件、大家さん、遺族とのいざこざ、死臭、孤独死、体液、しみ、床下まで浸透。

「ザ・ノンフィクション」

 よい作品だった。テレビ番組に「作品」というのは間違っているだろうか。内容が内容なので、「よい」というのは間違っているだろうか。いささかの言葉遣いに悩むよりも、書きたいと思ったこと、書かなければならないことを優先して書き進めたい。


 ここ一年の間に、漫画で、同内容を取り扱った作品を読む機会があった。タイトルは忘れてしまったけれども、中々に興味深かった。
 自殺や、孤独死した人の部屋の清掃を行う、「特殊清掃員」。死後、二週間足らずで、死体の腐敗は進み、悪臭が部屋の外まで流れ出す。死体はぐちゃぐちゃになって、体中の血液や汗やその他の体液は、カーペットや畳など当たり前で、床板もたやすく浸透し、家の基礎までしみわたっていく。
 それらの影響範囲を瞬時に判断、確認し、特殊な道具や薬品で処置をしていく仕事である。

 一般のテレビ番組で放映できる程度の編集がされているとはいえ、それでも、その現場の凄惨さは伝わってきた。

言葉を丁寧に使いたいと思った

 孤独死をした人は、みな、玄関を向いているのだという。それは、苦しいから。苦しくて、もがいて、助けを求めようと、出口を求めるのである。しかし、力尽き、倒れる。




 最近僕は、「面白いことないかなぁ」とか言っている。それは否定することではない、ただし、「死んでしまいたい」とか、「生きている意味が分からない」とか、そんな表現をする前に、よくよく、「死」について、考えてみたいと思う。

「つまんねぇなぁ」

 という言葉を発する、その瞬間に、自分が、自分のいるこの部屋で、喉をかきむしって、胸をつまらせ呼吸困難に陥り、助けを呼ぼうと腕をあげながらフローリングに倒れ込む、その瞬間を、想像してみたらどうだろうか。


 生きることも死ぬことも、その表現について、言葉が、軽くなってはいないだろうか。
 感情を込めて言葉をつむいでいるか? よく自問自答したい。

 表現的に、言葉の使い方など気にせず書き進めたい、と書いたけれども、その書きたいことは、「言葉を丁寧に使いたい」という思いである。

 どういうことか。つまり、「生きる意味」とか、「生きているのがつまらねえ」とか、「一生独りでいいや」とか、そういった感覚を表す言葉について、よく考えて使いたいと思うということだ。

でもつまらないもんはつまらない

 話しが若干変わってしまうが、先日、「生産的エンタメも消費的エンタメもどっちもどうでもいい分類である」ということで、「そうかもしれないなぁ」と思った。
 ただ、先日夜、帰宅の途を歩んでいるとき、「いや、やっぱりちがうな」と思った。

 スポーツ観戦を、僕は否定するわけではない、と最初に書きながら、しかし、野球やサッカーを観るというのは、消費的エンタメ行為であると思う。
 ボクシングを観戦するのは、「自分ではない誰か」が戦っているのに、血沸き肉踊らせるのである。スポーツチームの勝ち負けに一喜一憂するのは、その勝敗が、まさに自分の運命を左右するような何かであるかのように思い込むことである。

 いや違う、そんな大そうなものではないのだ。単に、楽しきゃいい、なんか、ルールに従って人同士が対戦するのを、勝ち負けを観るのが楽しいのだ。それは、それ以上でも、それ以下でもない。


 もう一度念のため書いておこう。スポーツ観戦を、僕は否定しているのではない(※)。同じスポーツを行う人たちの会話のタネにもなるだろうし、自分がスポーツをやるうえで、参考になることもあるだろう。
 しかし、やっぱり、自分の「生き様」的な何かに影響を与えるようなエンターテイメントと、ただ現実的な問題の解決とは異なる次元において感情の恒常性(つまり落ち着きたいとか癒されたいとか)を求めるエンターテイメントとは、大きく異なるものに思える。


 もちろん、創作するうえで、自分がどっちを目指すかなど、それを、最初から決める必要などないし、作り手と受け手との関係性からも、どっちになるかは分からないだろう。
 しかし、エンターテイメントというものに、「生産的な何か」を求める人と、「癒し的な何か」を求める人と、両者は存在することだろう。

※「それじゃあ、自分が野球するわけでもないのに、どっかの球団の勝敗がとっても気になる人については否定しているのか」と問われると、そうかもしれない。

エンタメの語がそもそもブレている

 そもそも、「ザ・ノンフィクション」的なテレビ番組を、「エンターテイメント」と僕は今表現しているわけだけれども、それが間違っていると言われたら、そうかもしれん。

 しかし、エンタメとはそもそも何だ?

 人生とは、物語である。そして、それをどんな物語にするかは、自分の、自由意志に委ねられている。自由意志があるのか、ないのか、その疑問というか、問いというのも大事だけれども、現時点の僕の考えとしては、自由意志は「ある」としている。いやそもそも、じゃあ、「自由意志」って何だよ、という表現の無限遡及を回避するための、十分な定義をする紙面はここにはない。

 法律の条文が難しい理由や、専門書が難しい理由は何だろうか。
 それは、「定義」が緻密であるからだ。複雑な文章構造で、読解が難儀である文章であっても、驚くほど、その意味するところがシンプルだったりすることがある。それは、法律の条文や専門書は、厳密な、普遍的な表現を目指しているからである。

 しかしそもそも、現実の「世界」は、「言葉」で区切れるものではない。
 厳密な相互理解など、不可能である。しかし、お互いが「分かっている」という前提を共有することが、人間は可能である。その高度複雑化した体系的な決めごとが、「社会」であったり、法律であったりするのである。

 その、「お互いが分かっている」というために必要なのが、「感情」という機能である(※)。


 さて、じゃあ、改めて、エンタメとは何か。僕は、「物語」という語と同様に使っているのだ。
 人生=物語=エンターテイメント

 としているのだ。しかし、エンターテイメントとは、「娯楽」という訳である。変じゃないか? 娯楽とは、現実でメインでやることから外れた、余暇に行うことである。そんな定義は分かっているが、僕は、その「現実でメインでやること」というのが、そもそも、「生きることそのものじゃなかろうか」と思うのである。


※そういう意味で、「アイ・ロボット」や「エクス・マキナ」に登場するアンドロイドが、見た目が完全にロボット(アンドロイド)であるにも関わらず、その言わば不思議な「人格」(攻殻機動隊で言うところの「ゴースト」)を感じさせるところが面白い。

生きているから生きている

 現実……仕事、と言い換えても良いが、仕事と余暇という対比は、あまり重要性をもたない。(少なくても僕にとっては。そして、今後の社会や人々にとっても、恐らくは。)

 前述のテレビ番組においては、結局遺族が一度も訪れずに清掃費用50万ぐらいも支払いたくないと大家さんともめるケースもあれば、まだ清掃が完全に終わっていない現場にかけつけて、故人の想いでの品をみながら涙を流すケースもあった。

 後者が感動的だった、というのはそうなのだけれども、僕はもう一つ思ったことがあった。

 ――家族がいようがいまいが、独り死ぬこともある。


 

しばらく経って

 ある方のブログを読んで、「文章力がすごい」と思った。「読ませる文章」だと思った。
 そして、この記事の自分の文章を読み返してみて、「うーむ、面白くない」と思った。

 何というか、何を言いたいのかよく分からない。Aか、Bか、それともCなのか、Aの否定をしたいのか、Bの否定をしたいのか、それによってCの肯定をしたいのか、よく分からない。

 分からない、分からないを連発している記事が、面白くなる可能性があるのだろうか?

 問題提起は重要だ。しかし、問題を提起したまま終わってしまえば、先日触れた、アイアムアヒーローの最終巻のような印象を与えることになるだろう。問題を提起したら、解決しなきゃならないのだ。それが「責任」である。


 が。

 そんな肩ひじ張って、真面目くさった感覚をもって書いていくと、そりゃあもう、面白くない。読んだ人は面白いと思う可能性があっても、自分はきっと、面白くないだろう。

 僕が他者のブログで期待しているのは、「プロセス」である。
 結果ではない。結果は分かっている。「幸せになっちまえよ!」で以上だ。

 婚活で頑張っている人がいる。付き合っていた人に先立たれてしまった人がいる。子どもを失った人がいる。子どもが障害を抱えていた人がいる。不妊治療に苦しむ人がいる。難病を抱えている人がいる。孤独に押しつぶされそうになっている人がいる。いじめにあって苦しんでいる人がいる。貧困に喘いでいる人がいる――いろんな「物語」がある。

 それらすべてに共通した結論、最終回、エンディングは何だろうか? ハッピーエンドになりやがれ、である。
 僕がいつも思う、全世界の平和と幸福というのはそういうことだ。

 だから、「〇〇したら●●になりました!」とかいう、結論が見えているブログに、価値を僕は求めていない。

 ある方が言っていた言葉をふと思い出した。
「物語(小説など二次元の世界に限る。以下同じ)であれば、うだうだドロドロしたのを求めていないんです。そんなの、現実(僕らの物理環境に限る。以下同じ)で沢山溢れているじゃないですか。けれど、現実において、何かもがいているとか、必死になっているようなものは、ちょっと物語とは違って、面白いんですよね」


 僕はこの記事において、物語、という言葉を、現実も含めて全部、物語である、と書いてきた。それは、二次元の物語でも、現実の物語でも、どちらも、終わりがあることには変わらないからだ。

 けれども、上のある方の言葉における表現においては、二次元と現実の物語では決定的な差異がある。それは、その「終わり」を第三者として追体験できることである。時間軸を異なってみることができるということだ。

 今まさに、物語の中に組み込まれているのが「現実」であり、物語を物語として俯瞰することができるのが、二次元の物語である、ということだ。


 何だか、長くなってきたし、主旨が分かりにくくなってきたので、強制終了とする。


(続く)

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汎用型支援ロボット(004)
2017/04/08 12:00 | Comments(0) | 連載
ちなみに、ちなんでもいないが、この連載作品は、オチが決まっていない。ある意味、僕が小説を書く過程そのものかもしれない。いや、普段は、おぼろげながら、ゴールというか、エンディングとか、核になるストーリー・エピソードの骨格は考えてはいる。そして、こんなもんかなーっと、表現とか描写とか設定とかあまり細かいこと考えずに、先へ先へと書き進めてみる。それで、前後の整合性などを踏まえながら、「あーこのエピソードは矛盾するから使えないわ」とか、「ここでこうしないと後々流れが悪くなるな」とか考えながら、切ってはくっつけ、ちぎっては直してあーだこーだつくっていくのである。

 まぁ、公開していなければ、水面下で設定を変えつつ新しい方向性に舵取りしていくこともできるが、今回、途中で詰まってしまったらどうしよう……。公開して航海ができなくなって後悔……。
 以下続き。


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物語の効用について(清濁併せのみたい)
2017/04/05 00:38 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「いきなりド暗い話をしたい」「聞きたくない」

ユメミーワールドを見た

 クレヨンしんちゃんの映画、「ユメミーワールド」を見た。面白かった。
 サキちゃんが、最初ツンツンしているが、しんちゃんの開けっぴろげでアホで、それでいて温かい接し方により、徐々に心を開いていくのが良かった。きゅんとなった。描き方が上手い。ストーリーとか、キャラクターメイキングというのはこうじゃなきゃダメだ。

 子供向け作品(全年齢対象)のため、ある意味安心して、「お約束」としてみることができるから、少し落ち着いた気分の時に見るのはいい。

 いつもは、父ちゃんのヒロシさんがカッコいい場面が多い映画だけれど、今回は、母ちゃんのみさえさんが超かっこよかった。子どもを思う母の愛って、いいもんだなぁ。

暗い話に反転する

 ところで、皆さんはいじめ、というのをどう思うだろうか? よくないことだ、と口をそろえて言うだろう。しかし、実際問題、自分も加害者になったり、被害者になったりする可能性は、特に閉鎖空間の学生生活においては大きいのである。

 一般的な話はおいておいて、とにかくここに、学生時代にいじめにあって、友達に裏切られて、誰も助けてくれなくて、孤立して寂しく哀しい学校生活(幼稚園生活でもいいが)を送った人を考えてみよう。

 その人にとって、クレヨンしんちゃんの、愛とか友情という作品は、心をうつのだろうか?

 一概には言えない。
仮定1)「俺は、こんな助けてくれる友達なんていなかった。それどころか、裏切られた。でも、もし、こんなしんちゃんのような友達がいたら、人生かわっていたかもしれない。そうだ、今からでも遅くない。もう一度、頑張ってみよう」

仮定2)「俺は、こんな助けてくれる友達なんていなかった。それどころか、裏切られた。こんな、苦しいとき、困ったときに助けてくれる友達、人なんて、所詮はアニメの世界でしかありえない。俺の人生はどうせこの先も真っ暗だ。一人で生きていくしかないんだ。つまんねぇ。みんな死ね」

 と、どちらの感情が発生するかは、非常に繊細な問題だ。そのときのちょっとした環境や、タイミング、その人の性格傾向、もしくは血液型とかそんな占いチックな影響によっても変わってしまうかもしれない。

 だから、どっちが正しいとか、そういう傾向があるとか、そういった一般的な話、科学的な話をするつもりはない。

 ただし、仮定1でも、仮定2でも、共通していることがある。何か。

「友情」
 自体は、とても素晴らしいものであると、認めていることである。

 仮定2は、確かに、自暴自棄になっている。しかし、それでも、もし、万が一、何かの因果で、自分にも助けてくれる友達があらわれたなら、どんなに良かっただろうと、そんな思いが発生しているのである。


 ここで、仮定3として、そもそもそういった友情とか愛とかを一切感じない、思わない人というのも想定してもいいが、それは所謂「サイコパス」という存在であり、この次元の話しをするときは、別個にした方がいいだろう。

物語の効用

 何が言いたいか。エンターテイメントにおける物語も、政治信条による物語も、イデオロギーによる物語も、ゲームによる物語も、ハイファンタジーも、科学による物語も、結婚制度による物語も、テレビ番組による物語も、すべて、物語である。

 二次元、三次元、リアル、ネット、の違いがあっても、僕は、その違いにさほど興味がないというか、重要性を思っていない。この感覚が、そもそも、ふつうのひとと、相容れない場合があるけれども、たぶん、説明が足りていないだけな気がする。

 昔から、ドラマにはまる人はいたわけだけれども、アニメにはまる人に対しては気持ち悪いという感情を抱く時代があった。三次元の映像はよくて、二次元の映像はよくない、というのは、いささか不自然に思う。じゃあ文字媒体の小説とかで、頭の中で想像を膨らませるのはどうなんだ? むっつりスケベじゃないのか? いやそもそも、ドラマだって、テレビ筐体の中での物語であれば、所詮は二次元でしかない。

 とにかく、物語ってのは、人に、生き方を与えてくれるものである。
 本当に、何もなく、一から、生き方を構築できる人など、いない。ただし、広義の二次元の物語に頼らない人もいる。昔はみんなそうだった。親や、会社や、友人や、夫婦関係、その関係性において、「物語」を学んでいった。

 いまは、いろんなところで、物語を学ぶことができる。

人生のマイナス要素

 このように、「物語」を、こういった文脈で用いていくと、単に、エンターテイメントの物語を指しているのではないことが分かるだろう。
 人生は、物語である。

 正解がない物語だ。しかし、終わりは必ずやってくる。

 人生は、クソゲーだともいわれる。

 そうかもしれない。イケメンはそれだけで得をするかもしれない。
 同じことを言っても、信頼性が変わったりする。

 僕はよく、イケメンブサメンを例に挙げるけれども、最近読ませて頂いているブログさんでは、学歴についてよく取りあげられている。それもきっと関係すると思う。
 金もそうだ。僕と同じ歳のブログさんで、4000万円近い資産を、投資努力の末手にしている方もいる一方、貧乏な人もいるだろう。そういった人は、お金がある人をうらやむ。

 いじめられた経験がある人もいるだろう。性的虐待をうけたとか、トラウマがある人もいるだろう。

 きりがねーよ。

 他者と比べることの無意味さは、俺はとことん思う。思いながら、ネトゲなり、創作活動なり、なんでもそうだが、スゲー人はこの世にいっぱいいるから、やる気をなくしてしまうことは往々にしてあるんだけど、まぁ、それはおいておく。

 とにかく、自分の「いい!」と思う感性を、ずっと、磨き続けて欲しいと思う。
 大人になったら、嫌なことも無理してでも、耐えたり、頑張ったりすることも必要だ、時には。それでも、いやむしろ、そのことを、「いやだ!」「めんどい!」と思うなら、それはそれで、大切な感情であると、しっかりインプットして欲しい。その嫌だ、めんどい、という思いから、大事なことが何か分かることだってあるのだから。

 そういったことをせずに、「我慢」とか、「真面目」とかして生きてくると、俺みたいに、「何が面白いのか分からねえ」とか、「生きる意味って何なんだろう」とかなる。

 これはとっても哀しいことだ。是非、若い皆さんは、そんなことにならないように、「自分」ってものを大切にして欲しい。

アンビバレンス

 とか、啓発的に書いてみるなんて、がらじゃねえか。

 つーか、意味のない啓蒙である。我慢とか、真面目とかで、今現に生きている人たちは少なからずいるわけだが、その人たちにとって、それが「正」、正しいことなのだから、「真面目にやんなくていいよ」という掛け声は、単に堕落の象徴に過ぎないのである。

 だからこそ、僕が常日頃書いている、「反転したポジティブ」というのが大事になるのだけれども、まぁ、これも上手い具合に伝えられる自信がない。というか、そんなことを欲している人が誰なのか、分からん。いるのかどうかも、分からん。ただ、少なくても、ひとりだけはいるから、こうして書いているのだけれどもな。


 因みに最後に。
 テーマとか、主張が一貫しているブログさんは、やっぱり面白いのだけれど、そうではない、矛盾したことを言ったり書いたりしているブログさんでも、面白い場合がある。
 ただ、その場合は、そのブログ主さんが、自分が二律背反的なことを言ったりしていることに自覚的であることが必要条件である。

 無自覚に、矛盾したことをさも当然のごとく書き続けられる人は、それは精神錯乱者か、詐欺師である。

 僕はどうだろうか。
 過去の記事から読んでいくと、取り巻く環境や、興味の対象などは違うけれども、しかし、結節点になるような事柄は、変わっていないような気がする。

 でも、変わっている部分もある気がする。その差分が、今後の「面白いこと」「良いと感じること」を見つけていく上で、大事なような気がするけれども、膨大なテキストの中から探していくのは、至難の業である。


(といったところから、物語の大切さについて書きたいところだが、時間切れ、というか、眠い)

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面白いことないかなぁ
2017/04/03 23:48 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「なんか面白いことないかなぁ」「そんな発言する時点で人生オワットル」

アイアムアヒーローの最終巻

 昨日、書こうと思ったことがあったけれども、忘れてしまった、と書いたが、一つ思い出した。
 集めていたアイアムアヒーローの22巻、最終巻を買って読んだのである。
 これで、買って読んでいる作品は、キングダムやゴキブリの話しとかが脱落していく中、進撃の巨人のみとなってしまった。
 ああ、いい作品が終わるというのは、寂愁を感じさせるなぁ、でも、それはまた、一つの感動を与えてくれるのだから、悪いことではないのだ。さぁ、アイアムアヒーローは、僕にどんな感動を与えてくれるのだろうか……!

 とか思っていたら、「なんじゃこりゃあああ!」となった。


 というか、22巻で最終巻とは全く予想していなかったのだ。何故なら、まだまだ、謎が深まっていったような段階で、これから問題が一つ一つ解決していくような、そんな内容であったのである。

 それが、ゆうてみれば、全部伏線は伏線のまま、そのまま終わってしまったのだ!

 これ、打ち切り? 打ち切りなの? でも、映画化もしたり、まだまだ人気がでてきそうだったのに、え、マジでこれで終わりなの!? と。

アマゾンレビューさんにも納得

 僕はあまり、他者の評価を、作品を読んだり見たりするときに気にしない。
 信頼する方がお勧めしたり触れている作品は、興味が出たら手を出してみるけれども、必要以上に他の人の意見などは見ないようにしている。それは、先入観を排するためだ。まずは、おのれの感性にどう影響させるか、その点を重要視するのである。そうでなければ、エンターテイメント作品なんて、価値は半減する。みんな見たり知ってるから、話題づくりのために見るだとか、そんなふざけた態度でみるつもりなどない。「君の名は。」は流行っていたが、それは、多くの人を感動させているだろう作品なので、自分自身はどう思うのだろうか、という観点で見に行ったのだ。決して、流行にのってみようとか、そんなちゃちい理由じゃあない。
(とか、自分語り乙。上のような内容は、きっと面白くないだろう)

 まぁ、そんな自分ではあるが、この、アイアムアヒーローの最終巻については、否定的レビューに全く同意見である。

バッドエンドが悪いのではない

 強調したいのは、僕は別に、ハッピーエンドが読みたいとか、救いのある話が読みたいとか、そういうんじゃないのである。
 ダメな人間は、結局ダメで、変われない。
 そんなテーマであっても、別に何ら問題ないと思う。

 そういう意味で、何の解決もされないままエンディング、というのは悪いことではないのだ。

 しかし、今作のラストが良くないのは、伏線を回収する気が一切ないことである。
 いやいやもちろん、現実において、パンデミックとか、不条理に理由なんてないよ、何でも解決して物語が終わるなんて思うなよ?
 と言いたいのかもしれない。それはそれでいい。何の解決も救いもないまま、陰鬱な気持ちにさせて終わらせるのもアリだ。

 そうじゃないんだ、アイアムアヒーローの場合は、全く終わってないんだ。「ダメな男が、ひとり生き残って、東京を寂しくサバイバルして生きていく」それをテーマにしたいのだったら、海外で巨大なZQNが登場し一人の少女を宿主として、意識をもったZQNとそれを狩る新ZQN的な存在の描写は一切するべきでなかった。
 韓国で、漫画編集者が女性漫画家と不倫旅行に出かけて、ZQNに冒されてしまうとかそんなシーンエピソードは不要だった。
 全部、主人公英雄さんの視点だけを描いているのであれば良かった。それなら、まぁ、僕も納得しただろう。一人の人間が、人生において知り得ることなどたかが知れている。世界の真理(ここでは、ZQNの発生原因とか、宇宙人のテラフォーミング説とかクルスとは何かとかモロモロ)など分からず必死に生きて、そして死ぬってのも、またそれは人生である、人間である、物語である。

 それが、いろいろ風呂敷を広げて、ネタを広げて、伏線を張り巡らせて、「はい、やーめた」みたいな。これじゃあ、打ち切りなったの? 投げ出したの? 金儲け主義なの? ネタ切れなの? と言われても仕方がない。

期待していたことからの裏切り

 と、まぁ、酷評したけれども、これは、愛情の裏返しでもあるのかもしれない。なんやかんや、期待していた作品であったのだ。
 21巻まで、ずっと面白かったのだ。映画も見にいこうかなと思ってたくらいなのだ。

 そんな思いの人が、きっと多かったのだろう。だから、アマゾンレビューも、☆1が非常に多い。

 まぁ、批判だけならだれでもできる。
 んじゃあ、自分なら、どういった終わりを描けるのか、そんな風に考えた方が、よほど有意義である。
 他にも、ダメな物語のつくりかたの反面教師にしてもよい。せっかくだから、役に立つ方向に頭を使いたいものだ。

面白いこと無いかなぁ

 ふぅ。
 んでもって、だ。

 何か、面白いこと、ないかなぁと、つくづく思う。仕事で嫌なことがあったり、人間関係で疲れたり、お金を失ったり、ミスしたりと、そんなことが重なると余計思う。

 めんどくせーなぁー。

 いろいろと、面倒くさくなる。面倒くさいとは何か? それは、「興味」をもてることがなくなっている状態だ。興味とは何か? おもしれーことだ!

 人生が暇つぶしだろうが、生きる意味があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいのだ。

 とにかく、俺の心を沸き立たせる、すげー面白いことが欲しいのだ。

 それってどこに転がってるのか?

 そんな思考になる状態が、既に大間違いである。面白いことなど、探すのではない! つくるのだ! 知るのだ! 感じるのだ! 人のせいにするな! 他人任せにするな! 生きろ! 生きるのは、自分自身として生きろ!


 習い事でも始めるか?

 婚活パーティーでも行ってみるか?

 うーむ、やる気が起きない、興味がひかれない。

そもそもやることって何だ

1.食べること・飲むこと。
2.寝ること。
3.遊ぶこと→趣味。
4.仕事。
5.家事→子供を育てる。
6.セックス

 3番の、趣味というのは、分解すればたくさん種類はあるだろう。
 そん中で、自分が本気になれるものを探すってのも手である。

 しかし、現代日本人において、生きる目的的には、大体6つぐらいしかない。
 裏返しに、宮台先生の「終わりなき日常を生きろ」的な方策も残っているが、それは諸所の事情で却下しておく。取りあえず、物理現実的な意味をおさえておきたい。

 そうすると、だいたいは、上の6つのいくつか、もしくは全部の総合が、人間の行動目的となっている。

 
 自分からは何もせずに、批判ばっかで、つまんねーなーとか言いながら生きてるような人間にはなりたくない。
 思いっきり生きろよ! 愉しめよ! やってやれよ! と、思う。

 思うのに、俺自身が、何をしていいか分からず、悶々とする。

 取りあえず、暴飲暴食をする。

 何の解決にもなりゃしない。


 こんなこと書いていると、「今すぐ死ねよ」と思う気持ちもよく分かる。グチグチいってるんなら、とにかく行動だ! と思うのも分かる。

 だが、しかし。
 何をしていいか、ほんとに、よく分からん。

 ある意味、非常に、自由で、幸せなのだ。

 そもそも、ひとり暮らしというのが、高級なのである。

 お金も時間もなければ、独り暮らしなどできないのだ。独り暮らしは寂しいとか、そんな風に言われることもある。とんでもない! これからの時代、シェアハウスとか、そもそも単独収入で暮らせない貧困層が増えていけば、ワンルームアパートが憧れの時代になるかもしれない。
 大学生の多くも、都会での一人暮らしなど夢のまた夢で、実家から通える大学にしかいかなくなるかもしれない。

 ……とか、そんな一般論的なのはいいんだよ。とにかく、俺を何か、楽しませるものがないだろうか。愉しませなくてもいい、満足させてくれる美味しいごはんでも何でもいいから、何かくれ……。助けてくれ……。


(比較的、こうやって書いていることが楽しいのだけれども、このまま、40代、50代、と続けていく未来が見えない)

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