ちなみに、ちなんでもいないが、この連載作品は、オチが決まっていない。ある意味、僕が小説を書く過程そのものかもしれない。いや、普段は、おぼろげながら、ゴールというか、エンディングとか、核になるストーリー・エピソードの骨格は考えてはいる。そして、こんなもんかなーっと、表現とか描写とか設定とかあまり細かいこと考えずに、先へ先へと書き進めてみる。それで、前後の整合性などを踏まえながら、「あーこのエピソードは矛盾するから使えないわ」とか、「ここでこうしないと後々流れが悪くなるな」とか考えながら、切ってはくっつけ、ちぎっては直してあーだこーだつくっていくのである。
まぁ、公開していなければ、水面下で設定を変えつつ新しい方向性に舵取りしていくこともできるが、今回、途中で詰まってしまったらどうしよう……。公開して航海ができなくなって後悔……。
以下続き。
まぁ、公開していなければ、水面下で設定を変えつつ新しい方向性に舵取りしていくこともできるが、今回、途中で詰まってしまったらどうしよう……。公開して航海ができなくなって後悔……。
以下続き。
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今日の一言「いきなりド暗い話をしたい」「聞きたくない」
サキちゃんが、最初ツンツンしているが、しんちゃんの開けっぴろげでアホで、それでいて温かい接し方により、徐々に心を開いていくのが良かった。きゅんとなった。描き方が上手い。ストーリーとか、キャラクターメイキングというのはこうじゃなきゃダメだ。
子供向け作品(全年齢対象)のため、ある意味安心して、「お約束」としてみることができるから、少し落ち着いた気分の時に見るのはいい。
いつもは、父ちゃんのヒロシさんがカッコいい場面が多い映画だけれど、今回は、母ちゃんのみさえさんが超かっこよかった。子どもを思う母の愛って、いいもんだなぁ。
一般的な話はおいておいて、とにかくここに、学生時代にいじめにあって、友達に裏切られて、誰も助けてくれなくて、孤立して寂しく哀しい学校生活(幼稚園生活でもいいが)を送った人を考えてみよう。
その人にとって、クレヨンしんちゃんの、愛とか友情という作品は、心をうつのだろうか?
一概には言えない。
仮定1)「俺は、こんな助けてくれる友達なんていなかった。それどころか、裏切られた。でも、もし、こんなしんちゃんのような友達がいたら、人生かわっていたかもしれない。そうだ、今からでも遅くない。もう一度、頑張ってみよう」
仮定2)「俺は、こんな助けてくれる友達なんていなかった。それどころか、裏切られた。こんな、苦しいとき、困ったときに助けてくれる友達、人なんて、所詮はアニメの世界でしかありえない。俺の人生はどうせこの先も真っ暗だ。一人で生きていくしかないんだ。つまんねぇ。みんな死ね」
と、どちらの感情が発生するかは、非常に繊細な問題だ。そのときのちょっとした環境や、タイミング、その人の性格傾向、もしくは血液型とかそんな占いチックな影響によっても変わってしまうかもしれない。
だから、どっちが正しいとか、そういう傾向があるとか、そういった一般的な話、科学的な話をするつもりはない。
ただし、仮定1でも、仮定2でも、共通していることがある。何か。
「友情」
自体は、とても素晴らしいものであると、認めていることである。
仮定2は、確かに、自暴自棄になっている。しかし、それでも、もし、万が一、何かの因果で、自分にも助けてくれる友達があらわれたなら、どんなに良かっただろうと、そんな思いが発生しているのである。
ここで、仮定3として、そもそもそういった友情とか愛とかを一切感じない、思わない人というのも想定してもいいが、それは所謂「サイコパス」という存在であり、この次元の話しをするときは、別個にした方がいいだろう。
二次元、三次元、リアル、ネット、の違いがあっても、僕は、その違いにさほど興味がないというか、重要性を思っていない。この感覚が、そもそも、ふつうのひとと、相容れない場合があるけれども、たぶん、説明が足りていないだけな気がする。
昔から、ドラマにはまる人はいたわけだけれども、アニメにはまる人に対しては気持ち悪いという感情を抱く時代があった。三次元の映像はよくて、二次元の映像はよくない、というのは、いささか不自然に思う。じゃあ文字媒体の小説とかで、頭の中で想像を膨らませるのはどうなんだ? むっつりスケベじゃないのか? いやそもそも、ドラマだって、テレビ筐体の中での物語であれば、所詮は二次元でしかない。
とにかく、物語ってのは、人に、生き方を与えてくれるものである。
本当に、何もなく、一から、生き方を構築できる人など、いない。ただし、広義の二次元の物語に頼らない人もいる。昔はみんなそうだった。親や、会社や、友人や、夫婦関係、その関係性において、「物語」を学んでいった。
いまは、いろんなところで、物語を学ぶことができる。
人生は、物語である。
正解がない物語だ。しかし、終わりは必ずやってくる。
人生は、クソゲーだともいわれる。
そうかもしれない。イケメンはそれだけで得をするかもしれない。
同じことを言っても、信頼性が変わったりする。
僕はよく、イケメンブサメンを例に挙げるけれども、最近読ませて頂いているブログさんでは、学歴についてよく取りあげられている。それもきっと関係すると思う。
金もそうだ。僕と同じ歳のブログさんで、4000万円近い資産を、投資努力の末手にしている方もいる一方、貧乏な人もいるだろう。そういった人は、お金がある人をうらやむ。
いじめられた経験がある人もいるだろう。性的虐待をうけたとか、トラウマがある人もいるだろう。
きりがねーよ。
他者と比べることの無意味さは、俺はとことん思う。思いながら、ネトゲなり、創作活動なり、なんでもそうだが、スゲー人はこの世にいっぱいいるから、やる気をなくしてしまうことは往々にしてあるんだけど、まぁ、それはおいておく。
とにかく、自分の「いい!」と思う感性を、ずっと、磨き続けて欲しいと思う。
大人になったら、嫌なことも無理してでも、耐えたり、頑張ったりすることも必要だ、時には。それでも、いやむしろ、そのことを、「いやだ!」「めんどい!」と思うなら、それはそれで、大切な感情であると、しっかりインプットして欲しい。その嫌だ、めんどい、という思いから、大事なことが何か分かることだってあるのだから。
そういったことをせずに、「我慢」とか、「真面目」とかして生きてくると、俺みたいに、「何が面白いのか分からねえ」とか、「生きる意味って何なんだろう」とかなる。
これはとっても哀しいことだ。是非、若い皆さんは、そんなことにならないように、「自分」ってものを大切にして欲しい。
つーか、意味のない啓蒙である。我慢とか、真面目とかで、今現に生きている人たちは少なからずいるわけだが、その人たちにとって、それが「正」、正しいことなのだから、「真面目にやんなくていいよ」という掛け声は、単に堕落の象徴に過ぎないのである。
だからこそ、僕が常日頃書いている、「反転したポジティブ」というのが大事になるのだけれども、まぁ、これも上手い具合に伝えられる自信がない。というか、そんなことを欲している人が誰なのか、分からん。いるのかどうかも、分からん。ただ、少なくても、ひとりだけはいるから、こうして書いているのだけれどもな。
因みに最後に。
テーマとか、主張が一貫しているブログさんは、やっぱり面白いのだけれど、そうではない、矛盾したことを言ったり書いたりしているブログさんでも、面白い場合がある。
ただ、その場合は、そのブログ主さんが、自分が二律背反的なことを言ったりしていることに自覚的であることが必要条件である。
無自覚に、矛盾したことをさも当然のごとく書き続けられる人は、それは精神錯乱者か、詐欺師である。
僕はどうだろうか。
過去の記事から読んでいくと、取り巻く環境や、興味の対象などは違うけれども、しかし、結節点になるような事柄は、変わっていないような気がする。
でも、変わっている部分もある気がする。その差分が、今後の「面白いこと」「良いと感じること」を見つけていく上で、大事なような気がするけれども、膨大なテキストの中から探していくのは、至難の業である。
(といったところから、物語の大切さについて書きたいところだが、時間切れ、というか、眠い)
ユメミーワールドを見た
クレヨンしんちゃんの映画、「ユメミーワールド」を見た。面白かった。サキちゃんが、最初ツンツンしているが、しんちゃんの開けっぴろげでアホで、それでいて温かい接し方により、徐々に心を開いていくのが良かった。きゅんとなった。描き方が上手い。ストーリーとか、キャラクターメイキングというのはこうじゃなきゃダメだ。
子供向け作品(全年齢対象)のため、ある意味安心して、「お約束」としてみることができるから、少し落ち着いた気分の時に見るのはいい。
いつもは、父ちゃんのヒロシさんがカッコいい場面が多い映画だけれど、今回は、母ちゃんのみさえさんが超かっこよかった。子どもを思う母の愛って、いいもんだなぁ。
暗い話に反転する
ところで、皆さんはいじめ、というのをどう思うだろうか? よくないことだ、と口をそろえて言うだろう。しかし、実際問題、自分も加害者になったり、被害者になったりする可能性は、特に閉鎖空間の学生生活においては大きいのである。一般的な話はおいておいて、とにかくここに、学生時代にいじめにあって、友達に裏切られて、誰も助けてくれなくて、孤立して寂しく哀しい学校生活(幼稚園生活でもいいが)を送った人を考えてみよう。
その人にとって、クレヨンしんちゃんの、愛とか友情という作品は、心をうつのだろうか?
一概には言えない。
仮定1)「俺は、こんな助けてくれる友達なんていなかった。それどころか、裏切られた。でも、もし、こんなしんちゃんのような友達がいたら、人生かわっていたかもしれない。そうだ、今からでも遅くない。もう一度、頑張ってみよう」
仮定2)「俺は、こんな助けてくれる友達なんていなかった。それどころか、裏切られた。こんな、苦しいとき、困ったときに助けてくれる友達、人なんて、所詮はアニメの世界でしかありえない。俺の人生はどうせこの先も真っ暗だ。一人で生きていくしかないんだ。つまんねぇ。みんな死ね」
と、どちらの感情が発生するかは、非常に繊細な問題だ。そのときのちょっとした環境や、タイミング、その人の性格傾向、もしくは血液型とかそんな占いチックな影響によっても変わってしまうかもしれない。
だから、どっちが正しいとか、そういう傾向があるとか、そういった一般的な話、科学的な話をするつもりはない。
ただし、仮定1でも、仮定2でも、共通していることがある。何か。
「友情」
自体は、とても素晴らしいものであると、認めていることである。
仮定2は、確かに、自暴自棄になっている。しかし、それでも、もし、万が一、何かの因果で、自分にも助けてくれる友達があらわれたなら、どんなに良かっただろうと、そんな思いが発生しているのである。
ここで、仮定3として、そもそもそういった友情とか愛とかを一切感じない、思わない人というのも想定してもいいが、それは所謂「サイコパス」という存在であり、この次元の話しをするときは、別個にした方がいいだろう。
物語の効用
何が言いたいか。エンターテイメントにおける物語も、政治信条による物語も、イデオロギーによる物語も、ゲームによる物語も、ハイファンタジーも、科学による物語も、結婚制度による物語も、テレビ番組による物語も、すべて、物語である。二次元、三次元、リアル、ネット、の違いがあっても、僕は、その違いにさほど興味がないというか、重要性を思っていない。この感覚が、そもそも、ふつうのひとと、相容れない場合があるけれども、たぶん、説明が足りていないだけな気がする。
昔から、ドラマにはまる人はいたわけだけれども、アニメにはまる人に対しては気持ち悪いという感情を抱く時代があった。三次元の映像はよくて、二次元の映像はよくない、というのは、いささか不自然に思う。じゃあ文字媒体の小説とかで、頭の中で想像を膨らませるのはどうなんだ? むっつりスケベじゃないのか? いやそもそも、ドラマだって、テレビ筐体の中での物語であれば、所詮は二次元でしかない。
とにかく、物語ってのは、人に、生き方を与えてくれるものである。
本当に、何もなく、一から、生き方を構築できる人など、いない。ただし、広義の二次元の物語に頼らない人もいる。昔はみんなそうだった。親や、会社や、友人や、夫婦関係、その関係性において、「物語」を学んでいった。
いまは、いろんなところで、物語を学ぶことができる。
人生のマイナス要素
このように、「物語」を、こういった文脈で用いていくと、単に、エンターテイメントの物語を指しているのではないことが分かるだろう。人生は、物語である。
正解がない物語だ。しかし、終わりは必ずやってくる。
人生は、クソゲーだともいわれる。
そうかもしれない。イケメンはそれだけで得をするかもしれない。
同じことを言っても、信頼性が変わったりする。
僕はよく、イケメンブサメンを例に挙げるけれども、最近読ませて頂いているブログさんでは、学歴についてよく取りあげられている。それもきっと関係すると思う。
金もそうだ。僕と同じ歳のブログさんで、4000万円近い資産を、投資努力の末手にしている方もいる一方、貧乏な人もいるだろう。そういった人は、お金がある人をうらやむ。
いじめられた経験がある人もいるだろう。性的虐待をうけたとか、トラウマがある人もいるだろう。
きりがねーよ。
他者と比べることの無意味さは、俺はとことん思う。思いながら、ネトゲなり、創作活動なり、なんでもそうだが、スゲー人はこの世にいっぱいいるから、やる気をなくしてしまうことは往々にしてあるんだけど、まぁ、それはおいておく。
とにかく、自分の「いい!」と思う感性を、ずっと、磨き続けて欲しいと思う。
大人になったら、嫌なことも無理してでも、耐えたり、頑張ったりすることも必要だ、時には。それでも、いやむしろ、そのことを、「いやだ!」「めんどい!」と思うなら、それはそれで、大切な感情であると、しっかりインプットして欲しい。その嫌だ、めんどい、という思いから、大事なことが何か分かることだってあるのだから。
そういったことをせずに、「我慢」とか、「真面目」とかして生きてくると、俺みたいに、「何が面白いのか分からねえ」とか、「生きる意味って何なんだろう」とかなる。
これはとっても哀しいことだ。是非、若い皆さんは、そんなことにならないように、「自分」ってものを大切にして欲しい。
アンビバレンス
とか、啓発的に書いてみるなんて、がらじゃねえか。つーか、意味のない啓蒙である。我慢とか、真面目とかで、今現に生きている人たちは少なからずいるわけだが、その人たちにとって、それが「正」、正しいことなのだから、「真面目にやんなくていいよ」という掛け声は、単に堕落の象徴に過ぎないのである。
だからこそ、僕が常日頃書いている、「反転したポジティブ」というのが大事になるのだけれども、まぁ、これも上手い具合に伝えられる自信がない。というか、そんなことを欲している人が誰なのか、分からん。いるのかどうかも、分からん。ただ、少なくても、ひとりだけはいるから、こうして書いているのだけれどもな。
因みに最後に。
テーマとか、主張が一貫しているブログさんは、やっぱり面白いのだけれど、そうではない、矛盾したことを言ったり書いたりしているブログさんでも、面白い場合がある。
ただ、その場合は、そのブログ主さんが、自分が二律背反的なことを言ったりしていることに自覚的であることが必要条件である。
無自覚に、矛盾したことをさも当然のごとく書き続けられる人は、それは精神錯乱者か、詐欺師である。
僕はどうだろうか。
過去の記事から読んでいくと、取り巻く環境や、興味の対象などは違うけれども、しかし、結節点になるような事柄は、変わっていないような気がする。
でも、変わっている部分もある気がする。その差分が、今後の「面白いこと」「良いと感じること」を見つけていく上で、大事なような気がするけれども、膨大なテキストの中から探していくのは、至難の業である。
(といったところから、物語の大切さについて書きたいところだが、時間切れ、というか、眠い)
今日の一言「なんか面白いことないかなぁ」「そんな発言する時点で人生オワットル」
集めていたアイアムアヒーローの22巻、最終巻を買って読んだのである。
これで、買って読んでいる作品は、キングダムやゴキブリの話しとかが脱落していく中、進撃の巨人のみとなってしまった。
ああ、いい作品が終わるというのは、寂愁を感じさせるなぁ、でも、それはまた、一つの感動を与えてくれるのだから、悪いことではないのだ。さぁ、アイアムアヒーローは、僕にどんな感動を与えてくれるのだろうか……!
とか思っていたら、「なんじゃこりゃあああ!」となった。
というか、22巻で最終巻とは全く予想していなかったのだ。何故なら、まだまだ、謎が深まっていったような段階で、これから問題が一つ一つ解決していくような、そんな内容であったのである。
それが、ゆうてみれば、全部伏線は伏線のまま、そのまま終わってしまったのだ!
これ、打ち切り? 打ち切りなの? でも、映画化もしたり、まだまだ人気がでてきそうだったのに、え、マジでこれで終わりなの!? と。
信頼する方がお勧めしたり触れている作品は、興味が出たら手を出してみるけれども、必要以上に他の人の意見などは見ないようにしている。それは、先入観を排するためだ。まずは、おのれの感性にどう影響させるか、その点を重要視するのである。そうでなければ、エンターテイメント作品なんて、価値は半減する。みんな見たり知ってるから、話題づくりのために見るだとか、そんなふざけた態度でみるつもりなどない。「君の名は。」は流行っていたが、それは、多くの人を感動させているだろう作品なので、自分自身はどう思うのだろうか、という観点で見に行ったのだ。決して、流行にのってみようとか、そんなちゃちい理由じゃあない。
(とか、自分語り乙。上のような内容は、きっと面白くないだろう)
まぁ、そんな自分ではあるが、この、アイアムアヒーローの最終巻については、否定的レビューに全く同意見である。
ダメな人間は、結局ダメで、変われない。
そんなテーマであっても、別に何ら問題ないと思う。
そういう意味で、何の解決もされないままエンディング、というのは悪いことではないのだ。
しかし、今作のラストが良くないのは、伏線を回収する気が一切ないことである。
いやいやもちろん、現実において、パンデミックとか、不条理に理由なんてないよ、何でも解決して物語が終わるなんて思うなよ?
と言いたいのかもしれない。それはそれでいい。何の解決も救いもないまま、陰鬱な気持ちにさせて終わらせるのもアリだ。
そうじゃないんだ、アイアムアヒーローの場合は、全く終わってないんだ。「ダメな男が、ひとり生き残って、東京を寂しくサバイバルして生きていく」それをテーマにしたいのだったら、海外で巨大なZQNが登場し一人の少女を宿主として、意識をもったZQNとそれを狩る新ZQN的な存在の描写は一切するべきでなかった。
韓国で、漫画編集者が女性漫画家と不倫旅行に出かけて、ZQNに冒されてしまうとかそんなシーンエピソードは不要だった。
全部、主人公英雄さんの視点だけを描いているのであれば良かった。それなら、まぁ、僕も納得しただろう。一人の人間が、人生において知り得ることなどたかが知れている。世界の真理(ここでは、ZQNの発生原因とか、宇宙人のテラフォーミング説とかクルスとは何かとかモロモロ)など分からず必死に生きて、そして死ぬってのも、またそれは人生である、人間である、物語である。
それが、いろいろ風呂敷を広げて、ネタを広げて、伏線を張り巡らせて、「はい、やーめた」みたいな。これじゃあ、打ち切りなったの? 投げ出したの? 金儲け主義なの? ネタ切れなの? と言われても仕方がない。
21巻まで、ずっと面白かったのだ。映画も見にいこうかなと思ってたくらいなのだ。
そんな思いの人が、きっと多かったのだろう。だから、アマゾンレビューも、☆1が非常に多い。
まぁ、批判だけならだれでもできる。
んじゃあ、自分なら、どういった終わりを描けるのか、そんな風に考えた方が、よほど有意義である。
他にも、ダメな物語のつくりかたの反面教師にしてもよい。せっかくだから、役に立つ方向に頭を使いたいものだ。
んでもって、だ。
何か、面白いこと、ないかなぁと、つくづく思う。仕事で嫌なことがあったり、人間関係で疲れたり、お金を失ったり、ミスしたりと、そんなことが重なると余計思う。
めんどくせーなぁー。
いろいろと、面倒くさくなる。面倒くさいとは何か? それは、「興味」をもてることがなくなっている状態だ。興味とは何か? おもしれーことだ!
人生が暇つぶしだろうが、生きる意味があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいのだ。
とにかく、俺の心を沸き立たせる、すげー面白いことが欲しいのだ。
それってどこに転がってるのか?
そんな思考になる状態が、既に大間違いである。面白いことなど、探すのではない! つくるのだ! 知るのだ! 感じるのだ! 人のせいにするな! 他人任せにするな! 生きろ! 生きるのは、自分自身として生きろ!
習い事でも始めるか?
婚活パーティーでも行ってみるか?
うーむ、やる気が起きない、興味がひかれない。
2.寝ること。
3.遊ぶこと→趣味。
4.仕事。
5.家事→子供を育てる。
6.セックス
3番の、趣味というのは、分解すればたくさん種類はあるだろう。
そん中で、自分が本気になれるものを探すってのも手である。
しかし、現代日本人において、生きる目的的には、大体6つぐらいしかない。
裏返しに、宮台先生の「終わりなき日常を生きろ」的な方策も残っているが、それは諸所の事情で却下しておく。取りあえず、物理現実的な意味をおさえておきたい。
そうすると、だいたいは、上の6つのいくつか、もしくは全部の総合が、人間の行動目的となっている。
自分からは何もせずに、批判ばっかで、つまんねーなーとか言いながら生きてるような人間にはなりたくない。
思いっきり生きろよ! 愉しめよ! やってやれよ! と、思う。
思うのに、俺自身が、何をしていいか分からず、悶々とする。
取りあえず、暴飲暴食をする。
何の解決にもなりゃしない。
こんなこと書いていると、「今すぐ死ねよ」と思う気持ちもよく分かる。グチグチいってるんなら、とにかく行動だ! と思うのも分かる。
だが、しかし。
何をしていいか、ほんとに、よく分からん。
ある意味、非常に、自由で、幸せなのだ。
そもそも、ひとり暮らしというのが、高級なのである。
お金も時間もなければ、独り暮らしなどできないのだ。独り暮らしは寂しいとか、そんな風に言われることもある。とんでもない! これからの時代、シェアハウスとか、そもそも単独収入で暮らせない貧困層が増えていけば、ワンルームアパートが憧れの時代になるかもしれない。
大学生の多くも、都会での一人暮らしなど夢のまた夢で、実家から通える大学にしかいかなくなるかもしれない。
……とか、そんな一般論的なのはいいんだよ。とにかく、俺を何か、楽しませるものがないだろうか。愉しませなくてもいい、満足させてくれる美味しいごはんでも何でもいいから、何かくれ……。助けてくれ……。
(比較的、こうやって書いていることが楽しいのだけれども、このまま、40代、50代、と続けていく未来が見えない)
アイアムアヒーローの最終巻
昨日、書こうと思ったことがあったけれども、忘れてしまった、と書いたが、一つ思い出した。集めていたアイアムアヒーローの22巻、最終巻を買って読んだのである。
これで、買って読んでいる作品は、キングダムやゴキブリの話しとかが脱落していく中、進撃の巨人のみとなってしまった。
ああ、いい作品が終わるというのは、寂愁を感じさせるなぁ、でも、それはまた、一つの感動を与えてくれるのだから、悪いことではないのだ。さぁ、アイアムアヒーローは、僕にどんな感動を与えてくれるのだろうか……!
とか思っていたら、「なんじゃこりゃあああ!」となった。
というか、22巻で最終巻とは全く予想していなかったのだ。何故なら、まだまだ、謎が深まっていったような段階で、これから問題が一つ一つ解決していくような、そんな内容であったのである。
それが、ゆうてみれば、全部伏線は伏線のまま、そのまま終わってしまったのだ!
これ、打ち切り? 打ち切りなの? でも、映画化もしたり、まだまだ人気がでてきそうだったのに、え、マジでこれで終わりなの!? と。
アマゾンレビューさんにも納得
僕はあまり、他者の評価を、作品を読んだり見たりするときに気にしない。信頼する方がお勧めしたり触れている作品は、興味が出たら手を出してみるけれども、必要以上に他の人の意見などは見ないようにしている。それは、先入観を排するためだ。まずは、おのれの感性にどう影響させるか、その点を重要視するのである。そうでなければ、エンターテイメント作品なんて、価値は半減する。みんな見たり知ってるから、話題づくりのために見るだとか、そんなふざけた態度でみるつもりなどない。「君の名は。」は流行っていたが、それは、多くの人を感動させているだろう作品なので、自分自身はどう思うのだろうか、という観点で見に行ったのだ。決して、流行にのってみようとか、そんなちゃちい理由じゃあない。
(とか、自分語り乙。上のような内容は、きっと面白くないだろう)
まぁ、そんな自分ではあるが、この、アイアムアヒーローの最終巻については、否定的レビューに全く同意見である。
バッドエンドが悪いのではない
強調したいのは、僕は別に、ハッピーエンドが読みたいとか、救いのある話が読みたいとか、そういうんじゃないのである。ダメな人間は、結局ダメで、変われない。
そんなテーマであっても、別に何ら問題ないと思う。
そういう意味で、何の解決もされないままエンディング、というのは悪いことではないのだ。
しかし、今作のラストが良くないのは、伏線を回収する気が一切ないことである。
いやいやもちろん、現実において、パンデミックとか、不条理に理由なんてないよ、何でも解決して物語が終わるなんて思うなよ?
と言いたいのかもしれない。それはそれでいい。何の解決も救いもないまま、陰鬱な気持ちにさせて終わらせるのもアリだ。
そうじゃないんだ、アイアムアヒーローの場合は、全く終わってないんだ。「ダメな男が、ひとり生き残って、東京を寂しくサバイバルして生きていく」それをテーマにしたいのだったら、海外で巨大なZQNが登場し一人の少女を宿主として、意識をもったZQNとそれを狩る新ZQN的な存在の描写は一切するべきでなかった。
韓国で、漫画編集者が女性漫画家と不倫旅行に出かけて、ZQNに冒されてしまうとかそんなシーンエピソードは不要だった。
全部、主人公英雄さんの視点だけを描いているのであれば良かった。それなら、まぁ、僕も納得しただろう。一人の人間が、人生において知り得ることなどたかが知れている。世界の真理(ここでは、ZQNの発生原因とか、宇宙人のテラフォーミング説とかクルスとは何かとかモロモロ)など分からず必死に生きて、そして死ぬってのも、またそれは人生である、人間である、物語である。
それが、いろいろ風呂敷を広げて、ネタを広げて、伏線を張り巡らせて、「はい、やーめた」みたいな。これじゃあ、打ち切りなったの? 投げ出したの? 金儲け主義なの? ネタ切れなの? と言われても仕方がない。
期待していたことからの裏切り
と、まぁ、酷評したけれども、これは、愛情の裏返しでもあるのかもしれない。なんやかんや、期待していた作品であったのだ。21巻まで、ずっと面白かったのだ。映画も見にいこうかなと思ってたくらいなのだ。
そんな思いの人が、きっと多かったのだろう。だから、アマゾンレビューも、☆1が非常に多い。
まぁ、批判だけならだれでもできる。
んじゃあ、自分なら、どういった終わりを描けるのか、そんな風に考えた方が、よほど有意義である。
他にも、ダメな物語のつくりかたの反面教師にしてもよい。せっかくだから、役に立つ方向に頭を使いたいものだ。
面白いこと無いかなぁ
ふぅ。んでもって、だ。
何か、面白いこと、ないかなぁと、つくづく思う。仕事で嫌なことがあったり、人間関係で疲れたり、お金を失ったり、ミスしたりと、そんなことが重なると余計思う。
めんどくせーなぁー。
いろいろと、面倒くさくなる。面倒くさいとは何か? それは、「興味」をもてることがなくなっている状態だ。興味とは何か? おもしれーことだ!
人生が暇つぶしだろうが、生きる意味があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいのだ。
とにかく、俺の心を沸き立たせる、すげー面白いことが欲しいのだ。
それってどこに転がってるのか?
そんな思考になる状態が、既に大間違いである。面白いことなど、探すのではない! つくるのだ! 知るのだ! 感じるのだ! 人のせいにするな! 他人任せにするな! 生きろ! 生きるのは、自分自身として生きろ!
習い事でも始めるか?
婚活パーティーでも行ってみるか?
うーむ、やる気が起きない、興味がひかれない。
そもそもやることって何だ
1.食べること・飲むこと。2.寝ること。
3.遊ぶこと→趣味。
4.仕事。
5.家事→子供を育てる。
6.セックス
3番の、趣味というのは、分解すればたくさん種類はあるだろう。
そん中で、自分が本気になれるものを探すってのも手である。
しかし、現代日本人において、生きる目的的には、大体6つぐらいしかない。
裏返しに、宮台先生の「終わりなき日常を生きろ」的な方策も残っているが、それは諸所の事情で却下しておく。取りあえず、物理現実的な意味をおさえておきたい。
そうすると、だいたいは、上の6つのいくつか、もしくは全部の総合が、人間の行動目的となっている。
自分からは何もせずに、批判ばっかで、つまんねーなーとか言いながら生きてるような人間にはなりたくない。
思いっきり生きろよ! 愉しめよ! やってやれよ! と、思う。
思うのに、俺自身が、何をしていいか分からず、悶々とする。
取りあえず、暴飲暴食をする。
何の解決にもなりゃしない。
こんなこと書いていると、「今すぐ死ねよ」と思う気持ちもよく分かる。グチグチいってるんなら、とにかく行動だ! と思うのも分かる。
だが、しかし。
何をしていいか、ほんとに、よく分からん。
ある意味、非常に、自由で、幸せなのだ。
そもそも、ひとり暮らしというのが、高級なのである。
お金も時間もなければ、独り暮らしなどできないのだ。独り暮らしは寂しいとか、そんな風に言われることもある。とんでもない! これからの時代、シェアハウスとか、そもそも単独収入で暮らせない貧困層が増えていけば、ワンルームアパートが憧れの時代になるかもしれない。
大学生の多くも、都会での一人暮らしなど夢のまた夢で、実家から通える大学にしかいかなくなるかもしれない。
……とか、そんな一般論的なのはいいんだよ。とにかく、俺を何か、楽しませるものがないだろうか。愉しませなくてもいい、満足させてくれる美味しいごはんでも何でもいいから、何かくれ……。助けてくれ……。
(比較的、こうやって書いていることが楽しいのだけれども、このまま、40代、50代、と続けていく未来が見えない)
今日の一言「いろいろ!」「借金しない程度の金で解決できる失敗はいろいろした方が良かろう」
原因は、判断ミス! ……なのか?
うーん、そうなんだろうなぁ、結局は。「あそこで、ああしておけば……」というのは、判断ミスに他ならない。だが、今回は、結構前から「やばいかも」と思っていたが、足を踏み入れた時点で、引き返すことができなかった。引き返すこともまた、既にリスクと化していた。そうであれば、進む! 戦うしかなかろう!(※)
ただ、命を失わなかっただけ良かった。下手したら、まぁ死にはしなくても大けが的な……ああ、いや、ホントに下手したら死んでたかもしれんな。死にゃあせん、という思いは、まだまだ慢心である。
だがそれでも、過ぎ去ってしまったことは、どうにもならない。過ちをしないのにこしたことはないが、その過ちをどう対処するかというのが、人間としての真価を試されるだろう! ……とか、空虚な言葉は嫌いだ。
ただな、まぁ、終わったことをくよくよ後悔しても仕方が無いだろう。発生している苛立ちや哀しさを抑え込む必要はないが、かといってそれに囚われても仕方がない。
※追い詰められたときの行動が自分というものなのかもしれない。そうすると、僕は、「進も危険、引き返すも危険」とか「戦うもリスク、逃げるもリスク」とかいった状況になったときは、戦略的撤退をするよりは、失敗覚悟で突撃するタイプなのかもしれない。いっつも、文章的には、口語的には、対人的には冷静ぶっているが、実際は猪突猛進、いい言葉であれば勇猛果敢、悪い言葉では匹夫の勇タイプなのかもしれない。
これは久方ぶりに面白かった! アマゾンのレビューみたくなってしまってカッコ悪い気がしてしまうが、「絵柄で倦厭してたけど、見てみたらストーリーが深くて面白かった」となる。うーん、小並感(初めて使ってみる)である。。。
多分、今更、2011年の作品だから、きっと多くの方が述べているだろうが、まどマギは、非常に仏教的に感じた。
何故か。
因果応報という言葉の意味を深く表現していたからだ。希望は、絶望の相対であるという「インキュベーター」のキュウベエさん。過去や未来の少女たちは、叶えたい願いをかなえられるのと引き換えに、呪いや絶望を背負わせられていく。
んでまーその目的が、「感情エネルギー」の蒐集により、宇宙のエントロピー増大による破滅を回避しようということ。当然、そんな高次元の目的なんて、「そんな訳の分からない理由で、私たちを戦わせてきたのね!」と少女たちはキレる。あたりめーだ。しかし、崇高な次元で生存するキュウベエさんたちは、逆に、そんな低次な「感情」に振り回される人間たちを理解できない。
作品中「サイコパス」という言葉すらでてこなかったが、キュウベエさんは完全にサイコパスである。人間なら当たり前にもっているはずの「感情」が理解できないのだ。(もちろん、サイコパスは、生物学的な人間に対して使う言葉であるのだから、宇宙生命体であるキュウベエさんに当てはめるのは適切では無かろう。)
愛くるしい見た目と、耳障りのよいもの言いから、初回登場時点で怪しい奴だと思っていたが、まぁその通りだった(笑)。
だが、キュウベエさんも、「悪」というわけではない。いやまぁ、少女たちからしたら「悪」なのだけれども、彼(そして彼らの類)は、悪を成そうとして悪たらんとするのではないのである。それゆえに、人類との相容れなさ、理解のできなさが、余計に不気味さを掻き立てているのがまた面白いポイントである。
うん、ともかく、面白かった。上から目線だけれども、久々によい作品をみることができた。この「よい」というのが、非常に難しいのである、とくに昨今。
少なくても、「君の名は。」とか、「ソードアートオンライン・オーディナルスケール」よりも面白かった。
やっぱり、作品は、絵柄だけじゃないな。こうして、絵柄で倦厭していて、見てみたら面白かった作品は、JOJOシリーズに引き続き二作目となったのであった。
が、思い出せない。
そう、リアル世界(ブログ世界との比較)でいろいろあると、何だかよく分からないまま過ぎ去るのである。
だが。
そういうもんなのか?
もしかして、「ふつーのひと」的には、こうやって、日記的に、振り返ったりしないものなのかもしれん。
ただ、人と話して、悩んで、おいしーもの食べて、笑って、一日を終えて、よーし今日も頑張るぞ的な感じで、10年、20年とやっていくのかもしれない。
まぁ、それができたら、それでもよかった。
だが、俺は、そんな風にはなれなかった。そこは、繰り返し書いているけれども、もう、こうやって考えることや、書き残すことをなくして、俺は俺で無いのではないか、ということは、刷り込んでいっても、信じても、開き直ってもいいんじゃないかと、思う。
それが例えモテなくても、理解されなくても、「サイコパスだ!」と言われようとも、仕方がない、俺は生きてきてしまった。
んー。なんて、書いていると、後から読んで、面白くないかな? カッコ悪いかな? 気持ち悪いかな? どうなんだろう。
だが先日、隙間時間にいつぞやの自分の書いた記事を読んでいたが、いい暇つぶしにはなった。
そう、やっぱり、面白い記事はあるのである。
ただ、僕が面白いと思ったのが、他者にとって面白いと思うかどうかは別問題だ。たまたま一致することもあれば、歯牙にもかからない場合もあろう。
ええと、つまり、俺が面白いと思うのは、「レーゾンデートル」(存在理由、生きる意味とか)に絡まった奴とか、縁起因縁に絡まった奴とか、そんな要素があると面白いのかもしれない。
面白い、とは。
興味があるとも言い換えられる。即ち、それは、今本当に自分が求めているものに他ならない。
イイ女を抱きたいとか美味しいものを食べたいとか皆から称賛されたいとか、そういった欲求は俺もあるに違いない。
だが、存在規定とか縁起とか空とかいった事柄は、欲望として求めているのではなかろうか。
欲求は、足りてないから欲しくなることだとすれば、後者の生きる意味といったものも、僕にとっては足りていないのだろうから、欲求に他ならないのかもしれない。ただ、後者の「欲」は、本当に満たすことができるものなのだろうか?
そもそも、「欲望」といったものは、根源的に満たされるということが無いのではなかろうか。無限遡及、充たせども充たせども、尚階下へ続く永遠の螺旋階段のようなものではなかろうか。足りていようがいまいが、兎に角求め続けてしまうもの、そうしなくてはいられないもの、それが「欲望」なのではなかろうか。
そう考えると、ちょっと身震いをするのだが、「生きる意味」というものが、「欲望」規定とされているのであれば、それは、延々と「自分とは何か?」を追い求め、終わりなき無間地獄に陥るようなものではなかろうか。
まどマギのほむらさんは、大切な友達、まどかを守るために戦い続ける、しかし、その戦いが続くほどに因果が強まり、望みは、徐々に絶望へと変わっていく……そんなようなものではなかろうか。(←無理やり、作品と関連付けて書き残そうと努力する図)
……。
うーん、しかし、結局書きなぐっても、モヤモヤした気持ちはなくならなかった。体調もよくないし、もう寝よう……。
(とはいえ、少しは気持ちも緩和したからよしとしよう。)
お金が吹っ飛んだ
詳しくは書いている時間がないから、結論だけ書こう! お金が、数万円、無意味に消失した!原因は、判断ミス! ……なのか?
うーん、そうなんだろうなぁ、結局は。「あそこで、ああしておけば……」というのは、判断ミスに他ならない。だが、今回は、結構前から「やばいかも」と思っていたが、足を踏み入れた時点で、引き返すことができなかった。引き返すこともまた、既にリスクと化していた。そうであれば、進む! 戦うしかなかろう!(※)
ただ、命を失わなかっただけ良かった。下手したら、まぁ死にはしなくても大けが的な……ああ、いや、ホントに下手したら死んでたかもしれんな。死にゃあせん、という思いは、まだまだ慢心である。
だがそれでも、過ぎ去ってしまったことは、どうにもならない。過ちをしないのにこしたことはないが、その過ちをどう対処するかというのが、人間としての真価を試されるだろう! ……とか、空虚な言葉は嫌いだ。
ただな、まぁ、終わったことをくよくよ後悔しても仕方が無いだろう。発生している苛立ちや哀しさを抑え込む必要はないが、かといってそれに囚われても仕方がない。
※追い詰められたときの行動が自分というものなのかもしれない。そうすると、僕は、「進も危険、引き返すも危険」とか「戦うもリスク、逃げるもリスク」とかいった状況になったときは、戦略的撤退をするよりは、失敗覚悟で突撃するタイプなのかもしれない。いっつも、文章的には、口語的には、対人的には冷静ぶっているが、実際は猪突猛進、いい言葉であれば勇猛果敢、悪い言葉では匹夫の勇タイプなのかもしれない。
まどかマギカは仏教的作品である
そして、そのイライラのせいか知らないが、じっくり見ていこうと思っていた魔法少女まどか☆マギカを、一気に12話まで見てしまった。これは久方ぶりに面白かった! アマゾンのレビューみたくなってしまってカッコ悪い気がしてしまうが、「絵柄で倦厭してたけど、見てみたらストーリーが深くて面白かった」となる。うーん、小並感(初めて使ってみる)である。。。
多分、今更、2011年の作品だから、きっと多くの方が述べているだろうが、まどマギは、非常に仏教的に感じた。
何故か。
因果応報という言葉の意味を深く表現していたからだ。希望は、絶望の相対であるという「インキュベーター」のキュウベエさん。過去や未来の少女たちは、叶えたい願いをかなえられるのと引き換えに、呪いや絶望を背負わせられていく。
んでまーその目的が、「感情エネルギー」の蒐集により、宇宙のエントロピー増大による破滅を回避しようということ。当然、そんな高次元の目的なんて、「そんな訳の分からない理由で、私たちを戦わせてきたのね!」と少女たちはキレる。あたりめーだ。しかし、崇高な次元で生存するキュウベエさんたちは、逆に、そんな低次な「感情」に振り回される人間たちを理解できない。
作品中「サイコパス」という言葉すらでてこなかったが、キュウベエさんは完全にサイコパスである。人間なら当たり前にもっているはずの「感情」が理解できないのだ。(もちろん、サイコパスは、生物学的な人間に対して使う言葉であるのだから、宇宙生命体であるキュウベエさんに当てはめるのは適切では無かろう。)
愛くるしい見た目と、耳障りのよいもの言いから、初回登場時点で怪しい奴だと思っていたが、まぁその通りだった(笑)。
だが、キュウベエさんも、「悪」というわけではない。いやまぁ、少女たちからしたら「悪」なのだけれども、彼(そして彼らの類)は、悪を成そうとして悪たらんとするのではないのである。それゆえに、人類との相容れなさ、理解のできなさが、余計に不気味さを掻き立てているのがまた面白いポイントである。
うん、ともかく、面白かった。上から目線だけれども、久々によい作品をみることができた。この「よい」というのが、非常に難しいのである、とくに昨今。
少なくても、「君の名は。」とか、「ソードアートオンライン・オーディナルスケール」よりも面白かった。
やっぱり、作品は、絵柄だけじゃないな。こうして、絵柄で倦厭していて、見てみたら面白かった作品は、JOJOシリーズに引き続き二作目となったのであった。
あとはもういろいろ
なんだか、あと三つぐらいは、書いておこうと思ったことがあった気がしてならない。が、思い出せない。
そう、リアル世界(ブログ世界との比較)でいろいろあると、何だかよく分からないまま過ぎ去るのである。
だが。
そういうもんなのか?
もしかして、「ふつーのひと」的には、こうやって、日記的に、振り返ったりしないものなのかもしれん。
ただ、人と話して、悩んで、おいしーもの食べて、笑って、一日を終えて、よーし今日も頑張るぞ的な感じで、10年、20年とやっていくのかもしれない。
まぁ、それができたら、それでもよかった。
だが、俺は、そんな風にはなれなかった。そこは、繰り返し書いているけれども、もう、こうやって考えることや、書き残すことをなくして、俺は俺で無いのではないか、ということは、刷り込んでいっても、信じても、開き直ってもいいんじゃないかと、思う。
それが例えモテなくても、理解されなくても、「サイコパスだ!」と言われようとも、仕方がない、俺は生きてきてしまった。
んー。なんて、書いていると、後から読んで、面白くないかな? カッコ悪いかな? 気持ち悪いかな? どうなんだろう。
だが先日、隙間時間にいつぞやの自分の書いた記事を読んでいたが、いい暇つぶしにはなった。
そう、やっぱり、面白い記事はあるのである。
ただ、僕が面白いと思ったのが、他者にとって面白いと思うかどうかは別問題だ。たまたま一致することもあれば、歯牙にもかからない場合もあろう。
面白い記事とは
そんでは、せっかくなので、この記事の序盤の内容と絡めてみよう。ええと、つまり、俺が面白いと思うのは、「レーゾンデートル」(存在理由、生きる意味とか)に絡まった奴とか、縁起因縁に絡まった奴とか、そんな要素があると面白いのかもしれない。
面白い、とは。
興味があるとも言い換えられる。即ち、それは、今本当に自分が求めているものに他ならない。
イイ女を抱きたいとか美味しいものを食べたいとか皆から称賛されたいとか、そういった欲求は俺もあるに違いない。
だが、存在規定とか縁起とか空とかいった事柄は、欲望として求めているのではなかろうか。
欲求は、足りてないから欲しくなることだとすれば、後者の生きる意味といったものも、僕にとっては足りていないのだろうから、欲求に他ならないのかもしれない。ただ、後者の「欲」は、本当に満たすことができるものなのだろうか?
そもそも、「欲望」といったものは、根源的に満たされるということが無いのではなかろうか。無限遡及、充たせども充たせども、尚階下へ続く永遠の螺旋階段のようなものではなかろうか。足りていようがいまいが、兎に角求め続けてしまうもの、そうしなくてはいられないもの、それが「欲望」なのではなかろうか。
そう考えると、ちょっと身震いをするのだが、「生きる意味」というものが、「欲望」規定とされているのであれば、それは、延々と「自分とは何か?」を追い求め、終わりなき無間地獄に陥るようなものではなかろうか。
まどマギのほむらさんは、大切な友達、まどかを守るために戦い続ける、しかし、その戦いが続くほどに因果が強まり、望みは、徐々に絶望へと変わっていく……そんなようなものではなかろうか。(←無理やり、作品と関連付けて書き残そうと努力する図)
……。
うーん、しかし、結局書きなぐっても、モヤモヤした気持ちはなくならなかった。体調もよくないし、もう寝よう……。
(とはいえ、少しは気持ちも緩和したからよしとしよう。)
