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物語の効用について(清濁併せのみたい)
2017/04/05 00:38 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「いきなりド暗い話をしたい」「聞きたくない」

ユメミーワールドを見た

 クレヨンしんちゃんの映画、「ユメミーワールド」を見た。面白かった。
 サキちゃんが、最初ツンツンしているが、しんちゃんの開けっぴろげでアホで、それでいて温かい接し方により、徐々に心を開いていくのが良かった。きゅんとなった。描き方が上手い。ストーリーとか、キャラクターメイキングというのはこうじゃなきゃダメだ。

 子供向け作品(全年齢対象)のため、ある意味安心して、「お約束」としてみることができるから、少し落ち着いた気分の時に見るのはいい。

 いつもは、父ちゃんのヒロシさんがカッコいい場面が多い映画だけれど、今回は、母ちゃんのみさえさんが超かっこよかった。子どもを思う母の愛って、いいもんだなぁ。

暗い話に反転する

 ところで、皆さんはいじめ、というのをどう思うだろうか? よくないことだ、と口をそろえて言うだろう。しかし、実際問題、自分も加害者になったり、被害者になったりする可能性は、特に閉鎖空間の学生生活においては大きいのである。

 一般的な話はおいておいて、とにかくここに、学生時代にいじめにあって、友達に裏切られて、誰も助けてくれなくて、孤立して寂しく哀しい学校生活(幼稚園生活でもいいが)を送った人を考えてみよう。

 その人にとって、クレヨンしんちゃんの、愛とか友情という作品は、心をうつのだろうか?

 一概には言えない。
仮定1)「俺は、こんな助けてくれる友達なんていなかった。それどころか、裏切られた。でも、もし、こんなしんちゃんのような友達がいたら、人生かわっていたかもしれない。そうだ、今からでも遅くない。もう一度、頑張ってみよう」

仮定2)「俺は、こんな助けてくれる友達なんていなかった。それどころか、裏切られた。こんな、苦しいとき、困ったときに助けてくれる友達、人なんて、所詮はアニメの世界でしかありえない。俺の人生はどうせこの先も真っ暗だ。一人で生きていくしかないんだ。つまんねぇ。みんな死ね」

 と、どちらの感情が発生するかは、非常に繊細な問題だ。そのときのちょっとした環境や、タイミング、その人の性格傾向、もしくは血液型とかそんな占いチックな影響によっても変わってしまうかもしれない。

 だから、どっちが正しいとか、そういう傾向があるとか、そういった一般的な話、科学的な話をするつもりはない。

 ただし、仮定1でも、仮定2でも、共通していることがある。何か。

「友情」
 自体は、とても素晴らしいものであると、認めていることである。

 仮定2は、確かに、自暴自棄になっている。しかし、それでも、もし、万が一、何かの因果で、自分にも助けてくれる友達があらわれたなら、どんなに良かっただろうと、そんな思いが発生しているのである。


 ここで、仮定3として、そもそもそういった友情とか愛とかを一切感じない、思わない人というのも想定してもいいが、それは所謂「サイコパス」という存在であり、この次元の話しをするときは、別個にした方がいいだろう。

物語の効用

 何が言いたいか。エンターテイメントにおける物語も、政治信条による物語も、イデオロギーによる物語も、ゲームによる物語も、ハイファンタジーも、科学による物語も、結婚制度による物語も、テレビ番組による物語も、すべて、物語である。

 二次元、三次元、リアル、ネット、の違いがあっても、僕は、その違いにさほど興味がないというか、重要性を思っていない。この感覚が、そもそも、ふつうのひとと、相容れない場合があるけれども、たぶん、説明が足りていないだけな気がする。

 昔から、ドラマにはまる人はいたわけだけれども、アニメにはまる人に対しては気持ち悪いという感情を抱く時代があった。三次元の映像はよくて、二次元の映像はよくない、というのは、いささか不自然に思う。じゃあ文字媒体の小説とかで、頭の中で想像を膨らませるのはどうなんだ? むっつりスケベじゃないのか? いやそもそも、ドラマだって、テレビ筐体の中での物語であれば、所詮は二次元でしかない。

 とにかく、物語ってのは、人に、生き方を与えてくれるものである。
 本当に、何もなく、一から、生き方を構築できる人など、いない。ただし、広義の二次元の物語に頼らない人もいる。昔はみんなそうだった。親や、会社や、友人や、夫婦関係、その関係性において、「物語」を学んでいった。

 いまは、いろんなところで、物語を学ぶことができる。

人生のマイナス要素

 このように、「物語」を、こういった文脈で用いていくと、単に、エンターテイメントの物語を指しているのではないことが分かるだろう。
 人生は、物語である。

 正解がない物語だ。しかし、終わりは必ずやってくる。

 人生は、クソゲーだともいわれる。

 そうかもしれない。イケメンはそれだけで得をするかもしれない。
 同じことを言っても、信頼性が変わったりする。

 僕はよく、イケメンブサメンを例に挙げるけれども、最近読ませて頂いているブログさんでは、学歴についてよく取りあげられている。それもきっと関係すると思う。
 金もそうだ。僕と同じ歳のブログさんで、4000万円近い資産を、投資努力の末手にしている方もいる一方、貧乏な人もいるだろう。そういった人は、お金がある人をうらやむ。

 いじめられた経験がある人もいるだろう。性的虐待をうけたとか、トラウマがある人もいるだろう。

 きりがねーよ。

 他者と比べることの無意味さは、俺はとことん思う。思いながら、ネトゲなり、創作活動なり、なんでもそうだが、スゲー人はこの世にいっぱいいるから、やる気をなくしてしまうことは往々にしてあるんだけど、まぁ、それはおいておく。

 とにかく、自分の「いい!」と思う感性を、ずっと、磨き続けて欲しいと思う。
 大人になったら、嫌なことも無理してでも、耐えたり、頑張ったりすることも必要だ、時には。それでも、いやむしろ、そのことを、「いやだ!」「めんどい!」と思うなら、それはそれで、大切な感情であると、しっかりインプットして欲しい。その嫌だ、めんどい、という思いから、大事なことが何か分かることだってあるのだから。

 そういったことをせずに、「我慢」とか、「真面目」とかして生きてくると、俺みたいに、「何が面白いのか分からねえ」とか、「生きる意味って何なんだろう」とかなる。

 これはとっても哀しいことだ。是非、若い皆さんは、そんなことにならないように、「自分」ってものを大切にして欲しい。

アンビバレンス

 とか、啓発的に書いてみるなんて、がらじゃねえか。

 つーか、意味のない啓蒙である。我慢とか、真面目とかで、今現に生きている人たちは少なからずいるわけだが、その人たちにとって、それが「正」、正しいことなのだから、「真面目にやんなくていいよ」という掛け声は、単に堕落の象徴に過ぎないのである。

 だからこそ、僕が常日頃書いている、「反転したポジティブ」というのが大事になるのだけれども、まぁ、これも上手い具合に伝えられる自信がない。というか、そんなことを欲している人が誰なのか、分からん。いるのかどうかも、分からん。ただ、少なくても、ひとりだけはいるから、こうして書いているのだけれどもな。


 因みに最後に。
 テーマとか、主張が一貫しているブログさんは、やっぱり面白いのだけれど、そうではない、矛盾したことを言ったり書いたりしているブログさんでも、面白い場合がある。
 ただ、その場合は、そのブログ主さんが、自分が二律背反的なことを言ったりしていることに自覚的であることが必要条件である。

 無自覚に、矛盾したことをさも当然のごとく書き続けられる人は、それは精神錯乱者か、詐欺師である。

 僕はどうだろうか。
 過去の記事から読んでいくと、取り巻く環境や、興味の対象などは違うけれども、しかし、結節点になるような事柄は、変わっていないような気がする。

 でも、変わっている部分もある気がする。その差分が、今後の「面白いこと」「良いと感じること」を見つけていく上で、大事なような気がするけれども、膨大なテキストの中から探していくのは、至難の業である。


(といったところから、物語の大切さについて書きたいところだが、時間切れ、というか、眠い)

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