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現実と二次元の境目について
2017/04/10 12:00 | Comments(4) | 思考及び書くこと
今日の一言「命は光陰に移されて暫くもとどめ難し」「一年が経つぜ」

物語という言葉について

 まず、物語という語をきくと、小説やドラマなど、フィクションを想像する。
 が、辞書的な定義としては、語り聞かせることということでもあり、何もフィクションに限定されるものではない。

 僕はこの記事で、「人生は物語である」という主張をしようと思うのだけれども、その主張の意味するところは、自分の生き方を構築する上での、方法論の整理ということである。

 よって、「人生は物語ではない」という主張と対立をする必要はないと思う。

 人生とは何か。生きてから死ぬまでの、生きている間のことである。それを、どのように全うするのか。



 ……上のような問題提起のやり方では、僕は、言葉が出てこない。何だか、面白くない。心が動かない。

なりたい職業

 他者と自分……。何だろうか、何もないところから、言葉をつむぐのは難しい。
 落ち着いた時間。何も予定がない時間。そんな休日。それが幸せである。

 幸せ?

 幸せって何だ。平穏な感情。時間。空間と時間。


 責任。自らの行為が、現実に与える影響について、自分が引き受けること。
 しかし、その責任の所在は、法律という、人が作り上げたルールに基づくものになる。


 僕は、人に、何かを教える仕事をしたかった。
 しかし、いろいろ考えて、僕自身が、いったい、何が教えられるのか分からなくなって、辞めた。何か、ピンポイントの知識を教えることは可能だろう。けれども、「人格」として、人間として、何か教えることができるかと自問自答した際に、僕は、あまりにも自分自身に、自信がなかった。

 どんな生き方が正しいのか、分からなかった。

 どうすれば、普遍的に、みんな幸せになれるのか分からなかった。

 勉強を教える仕事もしたことがある。けれども、何故勉強をするのか。勉強をしたら必ず幸せになれるのか、自信はもてなかった。


 言い換えれば、責任をとるのが嫌だったのかもしれない。否定されるのが嫌だったのかもしれない。「お前の生き方は間違っている!」とか「お前のせいで人生が失敗した!」とか言われるのが嫌だったのかもしれない。そんなふうに言われても、他者の人生なんて背負えない、そう思ったのかもしれない。


 そんな風にいろいろ悩んでいた時期について、「必死に考えていた」という表現ができるかどうか、僕は疑問である。遊んでいる時間はあったのだ。一分一秒、ずっと真剣に考えていたわけではなかった。睡眠時間だってあった。寝る間を惜しんで毎日考えていたかというと、そうではなかった。

 必死さが足りなかったと、過去の自分を責めることはいくらでも可能だろう。

残りの人生をどう使うか

 過去を責めても、戻れるわけでもないし、戻ったところで、結局、何か大きく変えることはできないだろう。今の自分の知識や感情があったとしても、時間的限界性や身体的限界性によって、未来を劇的に変えることなどできはしない。
 むしろ、過去にかえって、もっといろんなことにチャレンジしてみて、その結果、もっとひどいことになる可能性だってあることを、タイムマシンに期待する人たちは思わないのだろうか。
「あのとき、ああしておけばよかった」

 というのは、その時間平面上での結果であって、過去にもどって、もう一度その場面をやったときに、その「ああしたこと」の結果がどうなるかなど、わかりゃしないのである。そういう意味で、僕は、過去に戻りたいと思ったことはこの方一度もない。やり直したい自分の人生など、いついつ時点もありはしない。後悔という感情が生じたことがないと言えばうそになろうが、少し時間をおいて冷静に考えれば、せめてできるのは、反省と言う作業にすぎない。


 だから、僕は、この先、残りの、10年なのか、20年なのか、30年なのか、40年なのか、50年なのか60年なのか分からないが、その残りの時間をどう使おうかしか考えないことにする。(する、というか、している。)

 ちなみに、70年はないだろう。60年もない気がする。多分、それぐらいになると、そもそも、「自己」という単一の記憶維持が曖昧になっている気がする。分かりやすく書けば、「ボケ」ているだろう。

 その段階までになって、未だ、「自分とは何か」「生きる意味とは何なのか」なんて考えているとは、ちょっと想像しにくい。
 その、最後の最後で、「ああ、ワシの人生は、本当に無意味じゃったのぅ……」と、そんな風に思って死んでいく可能性がなくもないが、多分、先日みた、「ザ・ノンフィクション」の特殊清掃の現場なんかみていると、「ウッ苦しい、た、助けてくれ、うぁあぐああぎゃああ! ……」と、「死」を感じることができるかどうかも、不明なところだ。

 先日、ちょっと危険な目にあったけれども、その瞬間は、「死ぬ」とかどうとか、感じている暇はなかった。とにかく、目の前の危険の対処に全身全霊意識が集中していた。そんなもんである。

 だから、「死」を考えることができるのは、逆説的だが、結局、安全に生きている今、でしかありえない。

ただ独り黄泉に赴くのみなり

 先日、目標にしていた本の読了が終わってから、目標のない生活をしている。
 トイレ掃除もしたし、エアコンのフィルター清掃も行った。エアコンのフィルターはかなり埃がたまっていた。一か月に一度掃除するというのは必要かもしれない。あの埃の中で暖房を焚いていたと思うと、少し気分が悪くなる。

 料理もするようになった。今日つくった焼きポテトは、分厚く切りすぎたせいか、火の通りが悪かった。まぁ自分で食べる分には十分だ。人に出せるレベルの料理も作れるようになった方がよいのだが。

 目標というのは、何か、「できるようになること」に対しての行動方策である。最近、それがないのだ。

 焦るな、今年の大目標は何だ? そう、整理をすることだ。体系と、住居。身の回りを見渡す。うん、いい感じだ。少しずつ物が整理されてきている。この休日は、箱類を整理した。HDDとかその他ソフトウェア等の空き箱だ。引っ越しとか、もろもろをするときはあって便利だった。けれども、捨てることにしよう。使用頻度が低いけれども、スペースを広く使っているものは、思い切って捨てた方がいい。本の整理にいつも時間を使うけれども、本は、意外と並べておけばそう邪魔にはならないのだ。それ以外の、細々としたものの整理が、綺麗に部屋を保つために必要であろう。

書きたいしかし書けない

 ああ、しかし、書くことないなぁ。いや、なんというか、「書きたい」という衝動はあるのだ。

 なら書いてみよう、書いてみる。その内容のなさに驚愕する! 仕方がない、知能が低いのだから仕方がないと思いつつ、いつもなら、そのまま投稿する。しかし、最近、他者のブログで面白い記事を読んだ。おーん。これは……こんな、どーでもいい、くだらないことを書いている俺は、いったい何なんだ。こんなもん投稿していいのかあああ(言外の叫び)。

 ふむ……。



 なるほど、やはり、何か、インプットが無ければ、僕は書けないのだ。一からなにか新しいことを生み出せるなんて、そんな天才だなんて自分を思ってはいかんのである。
 んで、そのインプットした内容に対する感動さ……思いというのが、なにも、自分だけの特別なものだという思い、それすらもかなぐり捨てて良かろう。

 信じて、よかろう。
 自分のこの感性、感覚、思い、思考、感覚、感動、目的、意味……信念、生き様、その他に共感や、近いものを思ってくれる人が存在することを。

 まー苦難である。深い付き合いをしなければそんな人と出会えることはないし、それをするにあたってぶつかりあって、時に傷つくことや嫌な思いをすることもあろう。
 それだけではない。そもそも、他者とかかわるということは、自分自身の上記の感覚等を、上手い具合に表現する方法を明確にしておく必要がある。

 それでも、何もせずに厭世するよりはよかろう。


(たまには、ものすごい明るい記事でも書いてみようか。嘘くさくなりそうだな)


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コメント

> どんな生き方が正しいのか、分からなかった。
> どうすれば、普遍的に、みんな幸せになれるのか分からなかった。

 なんというか、この二行に遠藤さんの疑問が全部詰まっている気がしました。
 そして、だからずっと納得のいく答えを求めて考え続けている。

 私は私の価値観や思考としてあれこれ言っていますが、それと異なる価値観や意見に遭遇した時は極力許容する方向に考えたいなと思っているんですよね。同調しない、できない時も「そういう考えもあるか、でも私はこう考えるからなぁ」と、自分は曲げないが相手も折ろうとしないようにして、対立を避けているような感じです。
 誰かと対立する場合があるとすれば、それは他者の考えを否定し、自分の意見を上書きしてこようとする相手(自覚の有無問わず)でしょうね。

 過去をやり直せたら、と思うことはありますが、私の場合は「あの時の選択は間違っていたから」というよりは「あの時別の選択をしていたらどうなっていただろうか」という興味の方が強いですね。
 今現在の自分の状況を手放して、今現在と同等以上の状況を手に入れられる保障もないリトライをしたいか、というと微妙なところです。
 タイムマシン的なものを自分なりにあれこれ考察した作品のネタもあったりするんですけど中々そっちまで手が回らないんですよねぇ。

 私がブログを滞らせていたのはまさに「内容のなさ」に自分で愕然として、「こんなもん投稿してどうするんだ」と感じてしまったからなんですよね。
 何かしら書く方向性を決めていないと、「今日は平日なので日中は仕事。○○を食べた。帰ってゲーム、××を△△するまでやった。寝る」と、ただ事実を淡々と羅列するだけで面白味のないログにしかならないなーと。そしてそれを残すことに意義を見出せないと余計に……。
 創作の方面においても、書きたい、という衝動はあるのにどうしてか気が乗らないなんてこともあって、中々ままならなかったりします。
posted by 白銀URLat 2017/04/11 13:52 [ コメントを修正する ]
何かを目指すとき、または目指さなくても何処かへ行きたいとき、方法は2つあると思う

一つは何かをすると決めて、そこまでの工程を逆算して行動に移す方法、「引っ張り型」の方法だ。

もう1つは、何をするとも決めずに、何かをして、それを繰り返す方法、「積み上げ型」の方法だ。

わたしは「引っ張り型」はどうも性に合わないみたいで専ら「積み上げ型」の生き方をしてきました。

何となく興味の引くことをしてみる。すると次の興味の引くことが現れるからそれをする。その繰り返しです。

遠藤さんはどっちが好みですか?
posted by QUWEat 2017/04/11 23:15 [ コメントを修正する ]
>> どんな生き方が正しいのか、分からなかった。
>> どうすれば、普遍的に、みんな幸せになれるのか分からなかった。
> なんというか、この二行に遠藤さんの疑問が全部詰まっている気がしました。
> そして、だからずっと納得のいく答えを求めて考え続けている。

 なるほど! そうかもしれません。
 何気なく書いた言葉でしたが、こうしてピックアップされると、確かに、色々詰まっている気がしてきました。
 ただこれ、ほんと傲慢な感覚ですよねー。お前何様だ、って感じです(笑)

> 私は私の価値観や思考としてあれこれ言っていますが、それと異なる価値観や意見に遭遇した時は極力許容する方向に考えたいなと思っているんですよね。同調しない、できない時も「そういう考えもあるか、でも私はこう考えるからなぁ」と、自分は曲げないが相手も折ろうとしないようにして、対立を避けているような感じです。

 私も非常に似た考えというか感性ですね。対立を前提とはせず、許容していきたいという思いが先に来ます。

 最近思うのですが、それって、もしかして、「ゆずれない何か」が自分の中でないからなのかもしれないなぁとも思います。
「絶対これは正しい! 誰にとっても!」
 そんなことがあれば、他者が「違った」ことを言っていたら、黙っていられないはず。それが許容できるということは、その「絶対正しい」ことへの拘りもあまりないということなのでしょう。

 ただし、同時に、その感覚は、「絶対正しい」ことへの懐疑でもあると思います。「絶対正しい」……即ち、それは「真理」とも言い換えられますが、万人普遍な真理なんて無い、というのが僕の現在の立場と言うか感覚なので、色んな人の、色んな来歴に基づいたら、それもまた「正解」なんじゃないのかなぁと、そう思ってしまう。

 それはそれで、まぁいわゆる「おとな」な感性とも言えますが、それが同時に、「実存的空虚感」という、「結局何で生きてるねん?」という問題に繋がっている原因であるとも考えられており、現在その対策を猛烈に研究中です!(コメントの方向性がズレてる!)

> 誰かと対立する場合があるとすれば、それは他者の考えを否定し、自分の意見を上書きしてこようとする相手(自覚の有無問わず)でしょうね。

 昔はそんな人も多かったのでしょう。今の時代、そういう人はますます減っていくような気がします、というか、そうであって欲しいような(笑)。
 そもそも、「上書き」なんてのは、ある程度人格形成された「おとな」もしくは、子ども相手にだって不可能に思います。それができるとしたら、マインドコントロール、洗脳って奴でしょう。そうした生き方というか、それによって幸せになる人もいるかもしれませんが、いわゆる一般的な、正常な対人関係には含まれないでしょうなぁ。


> 過去をやり直せたら、と思うことはありますが、私の場合は「あの時の選択は間違っていたから」というよりは「あの時別の選択をしていたらどうなっていただろうか」という興味の方が強いですね。

 なるほど! いいですね~そういった興味が強い方はかっこいいと思います。
 僕の場合は、その「決断」をするに至るまでの過程がぐちゃぐちゃーっと大変なので、繰り返したい場面というのがあまり思いつかないですなぁ。

> 今現在の自分の状況を手放して、今現在と同等以上の状況を手に入れられる保障もないリトライをしたいか、というと微妙なところです。

 あー、白銀さんのコメントで思いましたが、「過去をやり直せる」ということが、結局何度でもやり直せるのであれば、「保障」はなくても、上手くいくまで繰り返せばいいんだから、それならやり直すのも悪くない気もしました。
 何回やっても上手くいかないなら、しゃーない、最初の選択にしとくか、的な感じでいけますからね。
 あーでも、やっぱり、そんな何度も失敗とか煩悶とかしたくないな。やっぱりタイムマシンいらないわ(笑)。

> タイムマシン的なものを自分なりにあれこれ考察した作品のネタもあったりするんですけど中々そっちまで手が回らないんですよねぇ。

 時間と空間というのが、異世界作品においても、基本的には共有されているというか、前提にされていますからね。時間や空間を超越(タイムマシンやワープ・どこでもドア)する作品と言うのは面白いのですが、リアリティを出すのが難しいですよね。


> 私がブログを滞らせていたのはまさに「内容のなさ」に自分で愕然として、「こんなもん投稿してどうするんだ」と感じてしまったからなんですよね。
> 何かしら書く方向性を決めていないと、「今日は平日なので日中は仕事。○○を食べた。帰ってゲーム、××を△△するまでやった。寝る」と、ただ事実を淡々と羅列するだけで面白味のないログにしかならないなーと。そしてそれを残すことに意義を見出せないと余計に……。

 うーん。確かにですねぇ、「今日は腹筋100回、英語の勉強2時間やった。ご飯は中華を食べた。以上」みたいなブログもありますけど、正直何ら価値を見いだせないですね。
 ただ、僕はいつも思うのですが、それに対しての「思考」や「感情」の表現があれば、それだけで価値があるというか、面白くなる可能性がぐんとあがると思います。
「腹筋を100回やった。去年の今頃は、10回がせいぜいで、それも、一週間に一度程度だった。それが、毎日できるようになった。色々飽きっぽい私だけれど、ちょっと自信がついた! 心なしか、何だか前向きな気持ちにもなっている! よーし、今年の夏は新しい水着を買って海にでも行こうかな!」
 とか、「事実」や「結果」に対しての、自分の気持ちを加えたら、それはちゃんとした日記になるし、ブログとして他者との体験の共有にもなるわけです。
 僕はそういった気持ちの変遷の過程を他の方のブログで期待していたりします。
(更に、その変遷の先……向かうところの、目指すところの、求めるところの表現があると、とってもとても興味深い。)

> 創作の方面においても、書きたい、という衝動はあるのにどうしてか気が乗らないなんてこともあって、中々ままならなかったりします。

 こればっかりは自分だけではどうしようもない面がありますなぁ……。
 だからこそ、小説家はもちろん、エンターテイナーや、好きなことを仕事にしている人って、大変だと思います。好きでもない仕事なら、まぁ金のため、と割り切ってやってもいいですが、「好きなこと」なら、それが「好きなのに」、気が乗らないというか、つまらないというか、やりたくないというのは、何とも歯がゆく苦しいことに思います。

posted by 遠藤at 2017/04/12 22:43 [ コメントを修正する ]
>一つは何かをすると決めて、そこまでの工程を逆算して行動に移す方法、「引っ張り型」の方法だ。

 トップダウン思考と僕が勝手に呼んでいる奴だと思いました。目標を設定し、それに必要な対策を行っていく行動方策。
 僕は基本的にこっちばっかりだった気がします。20歳前半のある時期においては、とある後者(ボトムアップ思考と勝手に呼んでますが、「積み上げ型の行動方策」)の生き方が中心な友人の影響もあり、それもイイナーと、何年かそんな感じでやってきたときもありました。

 というか、最近1~2年前ぐらいまでは、積み上げ型の生き方をしていた気がします。
 それが、最近直近、どうにも行き詰まり感を思っているのです。

>何となく興味の引くことをしてみる。すると次の興味の引くことが現れるからそれをする。その繰り返しです。

 なんというか、ベースライン上は、こっちの、QUWEさんの生き方が、ホント正解というか、大切というか、真理なんじゃあないかなって思っています。

 でも、僕はそれに二つ疑義……というよりも、怖いなって思うことがあって、

 一つは、「興味の連鎖」が断ち切れた時。例えば、仕事で忙殺されたり、悪いことが重なったりして、心に余裕がなくなる時って、きっと誰しもあると思うんです。そんなとき、「興味」……ここでは、小さくても大切な生きる糧みたいなものを、殆ど感じられなくなってしまったとき、もうどうにも、生きること自体の方策がみえなくなってしまうんじゃあないかという心配が一つ。

 もう一つは、一つ目と似ていますが、大目標がないゆえの行き詰まり。何か、「これがあるか生きてるんだ!」「これがあるから頑張れるんだ!」的なのがないと、興味(面白いと思うこと全般)を繋げられない気がするのです。段々、面白いという感覚が鈍ってくるというか、逆に鋭敏になるが故に心的な満足を得られなくなっていくというか。
 というのはきっと、「終わりに対しての準備の無さに対する不安」というのが原因な気がします。日々、ささやかに生きていっても、それの終わりが近づいていったとき、本当に、安寧に、落ち着いて過ごすことができるのか、過去のすべてを許すことができるのか、満足することができるのか……などなど。


 何となくまとめ。
 どちらが好みかと問われれば、「引っ張り型」が好みだと思います。
 ただ、現実実際通常の行動方策としては、「積み上げ型」が良いと思います。
 安易な折衷案で、何の解決にも、表明にもなっていない気がしますが、今年はとにかく、積み上げ型の行動も大切にしつつ、引っ張り型による大きな目標、目的と言ったものの構築についても目指したいと思っています。
posted by 遠藤at 2017/04/12 23:02 [ コメントを修正する ]

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