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孤独死について(感想)
2017/04/09 12:00 | Comments(6) | 思考及び書くこと
今日の一言「死後の体液すごい」

特殊清掃員の仕事を見た

 事故物件、大家さん、遺族とのいざこざ、死臭、孤独死、体液、しみ、床下まで浸透。

「ザ・ノンフィクション」

 よい作品だった。テレビ番組に「作品」というのは間違っているだろうか。内容が内容なので、「よい」というのは間違っているだろうか。いささかの言葉遣いに悩むよりも、書きたいと思ったこと、書かなければならないことを優先して書き進めたい。


 ここ一年の間に、漫画で、同内容を取り扱った作品を読む機会があった。タイトルは忘れてしまったけれども、中々に興味深かった。
 自殺や、孤独死した人の部屋の清掃を行う、「特殊清掃員」。死後、二週間足らずで、死体の腐敗は進み、悪臭が部屋の外まで流れ出す。死体はぐちゃぐちゃになって、体中の血液や汗やその他の体液は、カーペットや畳など当たり前で、床板もたやすく浸透し、家の基礎までしみわたっていく。
 それらの影響範囲を瞬時に判断、確認し、特殊な道具や薬品で処置をしていく仕事である。

 一般のテレビ番組で放映できる程度の編集がされているとはいえ、それでも、その現場の凄惨さは伝わってきた。

言葉を丁寧に使いたいと思った

 孤独死をした人は、みな、玄関を向いているのだという。それは、苦しいから。苦しくて、もがいて、助けを求めようと、出口を求めるのである。しかし、力尽き、倒れる。




 最近僕は、「面白いことないかなぁ」とか言っている。それは否定することではない、ただし、「死んでしまいたい」とか、「生きている意味が分からない」とか、そんな表現をする前に、よくよく、「死」について、考えてみたいと思う。

「つまんねぇなぁ」

 という言葉を発する、その瞬間に、自分が、自分のいるこの部屋で、喉をかきむしって、胸をつまらせ呼吸困難に陥り、助けを呼ぼうと腕をあげながらフローリングに倒れ込む、その瞬間を、想像してみたらどうだろうか。


 生きることも死ぬことも、その表現について、言葉が、軽くなってはいないだろうか。
 感情を込めて言葉をつむいでいるか? よく自問自答したい。

 表現的に、言葉の使い方など気にせず書き進めたい、と書いたけれども、その書きたいことは、「言葉を丁寧に使いたい」という思いである。

 どういうことか。つまり、「生きる意味」とか、「生きているのがつまらねえ」とか、「一生独りでいいや」とか、そういった感覚を表す言葉について、よく考えて使いたいと思うということだ。

でもつまらないもんはつまらない

 話しが若干変わってしまうが、先日、「生産的エンタメも消費的エンタメもどっちもどうでもいい分類である」ということで、「そうかもしれないなぁ」と思った。
 ただ、先日夜、帰宅の途を歩んでいるとき、「いや、やっぱりちがうな」と思った。

 スポーツ観戦を、僕は否定するわけではない、と最初に書きながら、しかし、野球やサッカーを観るというのは、消費的エンタメ行為であると思う。
 ボクシングを観戦するのは、「自分ではない誰か」が戦っているのに、血沸き肉踊らせるのである。スポーツチームの勝ち負けに一喜一憂するのは、その勝敗が、まさに自分の運命を左右するような何かであるかのように思い込むことである。

 いや違う、そんな大そうなものではないのだ。単に、楽しきゃいい、なんか、ルールに従って人同士が対戦するのを、勝ち負けを観るのが楽しいのだ。それは、それ以上でも、それ以下でもない。


 もう一度念のため書いておこう。スポーツ観戦を、僕は否定しているのではない(※)。同じスポーツを行う人たちの会話のタネにもなるだろうし、自分がスポーツをやるうえで、参考になることもあるだろう。
 しかし、やっぱり、自分の「生き様」的な何かに影響を与えるようなエンターテイメントと、ただ現実的な問題の解決とは異なる次元において感情の恒常性(つまり落ち着きたいとか癒されたいとか)を求めるエンターテイメントとは、大きく異なるものに思える。


 もちろん、創作するうえで、自分がどっちを目指すかなど、それを、最初から決める必要などないし、作り手と受け手との関係性からも、どっちになるかは分からないだろう。
 しかし、エンターテイメントというものに、「生産的な何か」を求める人と、「癒し的な何か」を求める人と、両者は存在することだろう。

※「それじゃあ、自分が野球するわけでもないのに、どっかの球団の勝敗がとっても気になる人については否定しているのか」と問われると、そうかもしれない。

エンタメの語がそもそもブレている

 そもそも、「ザ・ノンフィクション」的なテレビ番組を、「エンターテイメント」と僕は今表現しているわけだけれども、それが間違っていると言われたら、そうかもしれん。

 しかし、エンタメとはそもそも何だ?

 人生とは、物語である。そして、それをどんな物語にするかは、自分の、自由意志に委ねられている。自由意志があるのか、ないのか、その疑問というか、問いというのも大事だけれども、現時点の僕の考えとしては、自由意志は「ある」としている。いやそもそも、じゃあ、「自由意志」って何だよ、という表現の無限遡及を回避するための、十分な定義をする紙面はここにはない。

 法律の条文が難しい理由や、専門書が難しい理由は何だろうか。
 それは、「定義」が緻密であるからだ。複雑な文章構造で、読解が難儀である文章であっても、驚くほど、その意味するところがシンプルだったりすることがある。それは、法律の条文や専門書は、厳密な、普遍的な表現を目指しているからである。

 しかしそもそも、現実の「世界」は、「言葉」で区切れるものではない。
 厳密な相互理解など、不可能である。しかし、お互いが「分かっている」という前提を共有することが、人間は可能である。その高度複雑化した体系的な決めごとが、「社会」であったり、法律であったりするのである。

 その、「お互いが分かっている」というために必要なのが、「感情」という機能である(※)。


 さて、じゃあ、改めて、エンタメとは何か。僕は、「物語」という語と同様に使っているのだ。
 人生=物語=エンターテイメント

 としているのだ。しかし、エンターテイメントとは、「娯楽」という訳である。変じゃないか? 娯楽とは、現実でメインでやることから外れた、余暇に行うことである。そんな定義は分かっているが、僕は、その「現実でメインでやること」というのが、そもそも、「生きることそのものじゃなかろうか」と思うのである。


※そういう意味で、「アイ・ロボット」や「エクス・マキナ」に登場するアンドロイドが、見た目が完全にロボット(アンドロイド)であるにも関わらず、その言わば不思議な「人格」(攻殻機動隊で言うところの「ゴースト」)を感じさせるところが面白い。

生きているから生きている

 現実……仕事、と言い換えても良いが、仕事と余暇という対比は、あまり重要性をもたない。(少なくても僕にとっては。そして、今後の社会や人々にとっても、恐らくは。)

 前述のテレビ番組においては、結局遺族が一度も訪れずに清掃費用50万ぐらいも支払いたくないと大家さんともめるケースもあれば、まだ清掃が完全に終わっていない現場にかけつけて、故人の想いでの品をみながら涙を流すケースもあった。

 後者が感動的だった、というのはそうなのだけれども、僕はもう一つ思ったことがあった。

 ――家族がいようがいまいが、独り死ぬこともある。


 

しばらく経って

 ある方のブログを読んで、「文章力がすごい」と思った。「読ませる文章」だと思った。
 そして、この記事の自分の文章を読み返してみて、「うーむ、面白くない」と思った。

 何というか、何を言いたいのかよく分からない。Aか、Bか、それともCなのか、Aの否定をしたいのか、Bの否定をしたいのか、それによってCの肯定をしたいのか、よく分からない。

 分からない、分からないを連発している記事が、面白くなる可能性があるのだろうか?

 問題提起は重要だ。しかし、問題を提起したまま終わってしまえば、先日触れた、アイアムアヒーローの最終巻のような印象を与えることになるだろう。問題を提起したら、解決しなきゃならないのだ。それが「責任」である。


 が。

 そんな肩ひじ張って、真面目くさった感覚をもって書いていくと、そりゃあもう、面白くない。読んだ人は面白いと思う可能性があっても、自分はきっと、面白くないだろう。

 僕が他者のブログで期待しているのは、「プロセス」である。
 結果ではない。結果は分かっている。「幸せになっちまえよ!」で以上だ。

 婚活で頑張っている人がいる。付き合っていた人に先立たれてしまった人がいる。子どもを失った人がいる。子どもが障害を抱えていた人がいる。不妊治療に苦しむ人がいる。難病を抱えている人がいる。孤独に押しつぶされそうになっている人がいる。いじめにあって苦しんでいる人がいる。貧困に喘いでいる人がいる――いろんな「物語」がある。

 それらすべてに共通した結論、最終回、エンディングは何だろうか? ハッピーエンドになりやがれ、である。
 僕がいつも思う、全世界の平和と幸福というのはそういうことだ。

 だから、「〇〇したら●●になりました!」とかいう、結論が見えているブログに、価値を僕は求めていない。

 ある方が言っていた言葉をふと思い出した。
「物語(小説など二次元の世界に限る。以下同じ)であれば、うだうだドロドロしたのを求めていないんです。そんなの、現実(僕らの物理環境に限る。以下同じ)で沢山溢れているじゃないですか。けれど、現実において、何かもがいているとか、必死になっているようなものは、ちょっと物語とは違って、面白いんですよね」


 僕はこの記事において、物語、という言葉を、現実も含めて全部、物語である、と書いてきた。それは、二次元の物語でも、現実の物語でも、どちらも、終わりがあることには変わらないからだ。

 けれども、上のある方の言葉における表現においては、二次元と現実の物語では決定的な差異がある。それは、その「終わり」を第三者として追体験できることである。時間軸を異なってみることができるということだ。

 今まさに、物語の中に組み込まれているのが「現実」であり、物語を物語として俯瞰することができるのが、二次元の物語である、ということだ。


 何だか、長くなってきたし、主旨が分かりにくくなってきたので、強制終了とする。


(続く)

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コメント

孤独死や特殊清掃に関する動画はいくらかみてましたが、「出口を目指す」という描写ははじめて聞きました。
最後まで生きようとするものなんですね。素晴らしいです。

死に面した人間の中にあったのが「諦め」ではなくって「生きようとする意志」だったというのは感動します。
posted by QUWEat 2017/04/09 12:58 [ コメントを修正する ]
出口を求めるというのは、生々しさが現れていますよね。
固定電話とか、ケータイとかスマホとか持っている人なら、取りあえず救急車を呼ぼうとする気がしますが、それすら余裕がないときは、無意識に外に出ようとするのかもしれませんね。
確かに、生存戦略として、外に倒れていた方が助かる見込みが僅かばかりかはあるのだし。
ただ、本当に「助かりたい」という「意志」があったのか、単なる「本能」的な行動だったのかは、もはや確かめるすべは何もないですね。
posted by 遠藤at 2017/04/09 22:01 [ コメントを修正する ]
死んでもいいと思う意志とは裏腹に、生きたいと行動する本能が隠されているというのは、凄く肯定的な気持ちになれるんだが、そうでもないですか?
posted by QUWEat 2017/04/11 23:00 [ コメントを修正する ]
>死んでもいいと思う意志とは裏腹に、生きたいと行動する本能が隠されているというのは、凄く肯定的な気持ちになれるんだが、そうでもないですか?

 うーん、分からんでもないですが、「肯定的な気持ち」になれるかというと、そこまで達観できていないのが正直なところに思います。
 恐らく、どんな美辞麗句並べて「生きこと死ぬこと」を言葉にし表現しようとも、人間の本能的な生存欲求は抗えないということなのだと思いますが、それが美しいこと、肯定的なこと、ワクワクすること、なのかというと、よく分かりません。
 生きたいという本能を否定するわけでも、軽視するわけでもないのですが、その本能が前提とされた生きるという行為自体に、僕は積極的なモチベーションを感じられない気がします。
 暇つぶしの人生だったり、本能に生かされた人生だろうがどうだろうが、とにかく、世界や人生といったものは、自分の手で「面白く」する必要があると思うのです。それは、本能的な欲求に基づくものだけでは、得られないと、そんな風に思うのです。
posted by 遠藤at 2017/04/12 22:19 [ コメントを修正する ]
人生の物語性というか、「これは俺の物語だ」的な生き方をしたいという気持ちの現れだと思う。

いいとか悪いとか、そういう意図は無くって、ただ単にそうなんだと思う。

実際、わたしもそうなんだよね。

この不満足感やもやもやした気持ちは「ありたい自分と実際の自分との乖離」によって生まれている。でも、「ありたい自分」がどんな姿をしているかがよくわからない。

僕の場合、調査する人であったり、投資家であったり、ブログを書く人だったりするんだけど、そういう人ってどんな姿をしているのかよくわからない。

そこをはっきりさせるのってどうやったらいいんだろうなぁ・・・
posted by QUWEat 2017/04/12 22:43 [ コメントを修正する ]
>この不満足感やもやもやした気持ちは「ありたい自分と実際の自分との乖離」によって生まれている。でも、「ありたい自分」がどんな姿をしているかがよくわからない。

 そうですねぇ……。まったくもって、そうですねぇ……。
 その、「なりたい姿」が明確になって、それが「お金・生活」に結びついた生き方ってのが、最高にハッピーな人生なんでしょうね。
posted by 遠藤at 2017/04/23 14:39 [ コメントを修正する ]

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