今日の一言「記憶の定着には繰り返し復習」「普段使わない知識は劣化する」
ところで、「中学生でも分かるレベル」というのは、中学生を馬鹿にしているわけではない。中学生とは、日本では、義務教育であり、日本国民で中学校を卒業していない人はいない。実際問題、その中学生レベルの技能・知識が、100%身についている人など稀であろう。僕も、中学校の教科書の内容を100%覚えて、理解できているかなど、大いに怪しい。
知識とは、「記憶可能性」と、「運用可能性」の二つに分けられる(完全に僕オリジナルの今思いついた表現である)。
記憶可能性とは、字面の通り、覚えることができるかどうか、である。
運用可能性とは、その覚えられた知識を運用(利用)できるかどうか、である。
例えば、微分積分というのを、高校生では習う。物理学への応用とか、高度なレベルではなく、あくまで高校生レベルとしたとき、僕は「記憶可能性」と「運用可能性」で、微分積分の知識はいかなる状態か。
まず、しばらく触れていないので、多分基本的な計算方法も忘れてしまっている気がする。ので、「運用可能性」は今は無い。ただ、一度ある程度の理解はできて、基本的な問題は解けるようになったことがあったので、「記憶可能性」は有る、といえる。
例えば、中学校の社会の知識として、三権分立というのがある。立法、行政、裁判所と、権力は分かれているというものだ。これは、現在記憶もしていて、この概念を使ってブログなんかも書いたりしているから、「運用可能性」も有る、といえる。
初めに書いた、「中学生レベルでも分かる」というのは、僕は、「運用可能性」を言っているのではなく、「記憶可能性」のレベルで言っている。つまり、中学校で勉強した知識が現状100%身についている必要などなく、中学校で学んだ内容を「記憶できる」人であれば、理解できるレベルの内容を書こう、ということである。
で、なかなか本題に入らなくて申し訳ないが、基本、誰でも、面白いと、分かりやすいというブログ・文章など書くとしたら、「中学生レベル」を目指すべきである。
特に僕は頭が良くないため、難しいことを言われても殆ど理解できない。記憶することは、努力すれば可能だが、それを運用にもっていくのは困難である。学校のテストで点は取れても、実生活やコミュニケーションに役立てられないとか、そういう奴。
でも、いくら頭の良い人でも、まったく知らない専門外の話を、一瞬で理解することなどできないのである。だから、話の導入ってのはとっても大事だ。逆に、導入を間違えると、そもそも読んでもらえないってことも多いわけだが。
まず、利益とは何か、ということ。一般用語でもあるので、ここではまず、経営とか会社とかの概念で用いるものであると定義する。
つまり、会社(企業)が活動して、生み出した価値(お金)のことである。
・企業は、利益を出す存在である
さて、ではその利益とは、どのように求められるのか。
企業は、物とサービスをつくりだす。それに「価格」を決めて、消費者(僕らや、他の会社)が購入する。そうして得られたお金(有形・無形問わず)は「売上」と表現される。
じゃあ、売り上げ=利益か、というと違う。なぜなら、物・サービスの価格には、「費用」がかかっているからだ。
費用とは何か。コストと言われたりする。何かつくるのに必要な物やお金のことだ。本当は、「時間」もコストなのだけど、会社のことを考えるとすれば、時間もお金に変換されているとして考えないこととする。
ので、利益とは、以下の式で表せる。
・利益=売上-費用
ここまでは良いだろう。
しかし、会社のことをもう少し分析するには、少し粗すぎる考え方である。
上に挙げた式は、「営業利益」と呼ばれる。いわゆる、本業であげたお金である。しかし、企業は、本業だけをやっているのではない。そこで新しい考え方が登場する。「経常利益」だ。
上のことを、「営業利益」と呼ぶと書いた。
・営業利益 = 売上 - 費用
しかし、本業以外の企業の活動もあると書いた。それを加味した考え方が、「経常利益」である。
・経常利益 = 営業利益 + 営業外利益(※) - 営業外費用
※一般に、営業外収益というらしいが、取り敢えず違いがよく分からなかったので利益に用語統一した
じゃあ、営業外利益・費用ってなんじゃいな、となる。まぁ調べるといろいろ出てくるが、トップダウン知識(抽象)として、「企業が行う投資活動によって得られるもの」としておく。あとは、借入しているお金の手数料とか何とか。
・純利益(税引前) = 経常利益 + 特別利益 - 特別費用
・純利益 = 経常利益 + 特別利益 - 特別費用 - 法人税
じゃあ、特別利益・費用ってなんじゃいな、となる。まぁ調べるといろいろ出てくるが、トップダウン知識(抽象)として、「一時的に発生したもの」としておく。土地を売ったとか。勘だけど、クレームがあって裁判になってしまって、その費用とかもこっちなのかも。まぁそれで賠償が必要になって、数年に分けて支払う必要が発生したとかなると、営業外費用(経常利益に含める)のかもしれないが。
「税引前」というのは、特に書かないけれども、なるほど、法人税とか、国におさめる税金は、経常利益には含まれていないのだなということは、覚えておいてよいかもしれない。
経常利益
純利益
と、三つの利益について、覚えていることをメモしたわけだけれど、じゃあそれをどう「運用」するかというのは、これからのことである。
まとめてみれば、それぞれの利益が、それぞれ重要だということが分かるだろう。
特に、投資という観点からすると、経常利益に着目するのも大事だろう。営業利益で、本業の順調具合をみることができるだろうが、その他の資産運用でうまくいっていないと(経常利益がマイナス)、結局本業の首を絞めることにもなるだろうからだ。
さて、これだけで終わると短すぎるので、「自己資本」についてもまとめてみよう。
企業の財産である。
総資産 = 純資産 + 負債
ということで、負債(借入金なども含む)点に注目。
で。うまく記憶できていないのだけれど、貸借対照表と、損益計算書の違いが、いまいち分かっていない。
これから書こうとしている、資産は、貸借対照表に記載されるほうだ。何回か調べて覚えたつもりになっていても、さぁまとめてみようとなると、こんがらがる。ので、ここは何も調べず、とりあえず分かっていることだけ整理してみよう。
純資産といっても、いろいろ種類があるのだ。
大きく、株主資本、自己資本というのがある。
自己資本に、「新株予約権」なるものを足すと、純資産になる。
……。
おお、全然分かっていない(かっこわらい)。
何が分かっていて、分かっていないかも分からない。
とにかく、最初に書いた「利益」の話が記載されるのが、損益計算書で、自己資本が記載されるのが貸借対照表である。
で、「自己資本」とは何か、ってのを理解していないと、次のステージの、「ROE」(自己資本収益率)の理解に進めないのである。
まぁもちろん、なんとなく、企業が保有している純資産(正確には、自己資本。純資産-新株予約権等)と比較して、どれだけ純利益を出しているか、というものだろうというのは分かっているが、しっかしとして理解にはつながっていない。
僕の師匠は、流動資産が多い企業で、さらにその流動資産の中で現金・預金(キャッシュ)が多い企業が良い企業と仰っていたような気がするが、このように、ファンダメンタル(企業の業績などを分析する基盤的な)投資をする上では、そもそも資産ってなんだよ、ということを分かっておく必要があるのである。簿記でもやったことがある人ならここら辺、一発なのだろうけど。何が貸方で借方かとか、暗記できれば簿記3級は受かると聞いたことがある。
完全に記憶の定着ができなければ、知識の運用ができないかといえば、そうではないが、その運用が間違っている可能性もあるだろうし、そもそも、途中で理解が追い付かなくなって、そもそも全体が曖昧になってしまうこともあるだろう。
しかし、基礎ばっかりやっていても、結局使えない知識になる可能性もある。
ので、前にも書いたけれども、トップダウン・ボトムアップの両方から攻めていくのが、新しい概念獲得の近道である。
例えば、PBRという指標がある。
これは、時価総額を純資産で割ると算出できる。……と書いてから不安になって調べたら、時価総額÷自己資本だった。あはは(笑いごとじゃない)。
例えば、僕がこの前買った企業の場合、
・時価総額:5800億円
・自己資本:4300億円
・PBR=5800÷4300=約1.3倍
となる。
とある銀行の場合、
・時価総額:51,000億円
・自己資本:85,000億円
・PBR=5800÷4300=約0.6倍
・PBR=51,000÷85,000=約0.6倍(※)
となる。
※コメントにてご指摘を頂き慌てて訂正。
自己資本ってのは、仮にその会社が倒産した場合、株主に返るお金である。
そうすると、前者の企業の場合、1500億円ぐらい損する可能性があるということだ。
たいてい、PBRは、1倍以上なのが普通だという。
一方、銀行の場合、0.6倍と、1倍を割っている。ということは、例え倒産しても、まぁ、投資した分ぐらいは戻ってくると考えられる(?)。
じゃあ、銀行のほうが投資先として優良なんじゃね? と思ったりもする。ただ、PBR1倍切るってことは、「市場価値が全然ありませんよ」ということらしい。
ふーん……。
なんか、分かったような、分からないような。
もっと、「なるほど! そういうことか!」という感動を味わいたいよね。それが勉強の醍醐味っていうか、楽しい部分だと思う。先日載せた本の第一章と、第二章の途中あたりは、うんうんなるほどねーと思いながら読めていたが、やっぱり難しいな!! これが、一切何も分かりませんお手上げです! というのなら逆に潔いが、分かるような分からないようなというのが、なんとも悔しい部分である。
(実践と勉強の繰り返しが大事。で、それにはモチベーションが大事。モチベを維持するには、目的・目標が大事。目的・目標を持つには、感性・欲求が大事。感性・欲求を持つには、……どうしたらいいの?)
中学生レベルとは
今日も今日とて、中学生でも分かるレベルを目指して、記憶の定着を図る。ところで、「中学生でも分かるレベル」というのは、中学生を馬鹿にしているわけではない。中学生とは、日本では、義務教育であり、日本国民で中学校を卒業していない人はいない。実際問題、その中学生レベルの技能・知識が、100%身についている人など稀であろう。僕も、中学校の教科書の内容を100%覚えて、理解できているかなど、大いに怪しい。
知識とは、「記憶可能性」と、「運用可能性」の二つに分けられる(完全に僕オリジナルの今思いついた表現である)。
記憶可能性とは、字面の通り、覚えることができるかどうか、である。
運用可能性とは、その覚えられた知識を運用(利用)できるかどうか、である。
例えば、微分積分というのを、高校生では習う。物理学への応用とか、高度なレベルではなく、あくまで高校生レベルとしたとき、僕は「記憶可能性」と「運用可能性」で、微分積分の知識はいかなる状態か。
まず、しばらく触れていないので、多分基本的な計算方法も忘れてしまっている気がする。ので、「運用可能性」は今は無い。ただ、一度ある程度の理解はできて、基本的な問題は解けるようになったことがあったので、「記憶可能性」は有る、といえる。
例えば、中学校の社会の知識として、三権分立というのがある。立法、行政、裁判所と、権力は分かれているというものだ。これは、現在記憶もしていて、この概念を使ってブログなんかも書いたりしているから、「運用可能性」も有る、といえる。
初めに書いた、「中学生レベルでも分かる」というのは、僕は、「運用可能性」を言っているのではなく、「記憶可能性」のレベルで言っている。つまり、中学校で勉強した知識が現状100%身についている必要などなく、中学校で学んだ内容を「記憶できる」人であれば、理解できるレベルの内容を書こう、ということである。
で、なかなか本題に入らなくて申し訳ないが、基本、誰でも、面白いと、分かりやすいというブログ・文章など書くとしたら、「中学生レベル」を目指すべきである。
特に僕は頭が良くないため、難しいことを言われても殆ど理解できない。記憶することは、努力すれば可能だが、それを運用にもっていくのは困難である。学校のテストで点は取れても、実生活やコミュニケーションに役立てられないとか、そういう奴。
でも、いくら頭の良い人でも、まったく知らない専門外の話を、一瞬で理解することなどできないのである。だから、話の導入ってのはとっても大事だ。逆に、導入を間違えると、そもそも読んでもらえないってことも多いわけだが。
利益の考え方
本題と関係ないことが長くなったが、タイトルの内容に入ろう。まず、利益とは何か、ということ。一般用語でもあるので、ここではまず、経営とか会社とかの概念で用いるものであると定義する。
つまり、会社(企業)が活動して、生み出した価値(お金)のことである。
・企業は、利益を出す存在である
さて、ではその利益とは、どのように求められるのか。
企業は、物とサービスをつくりだす。それに「価格」を決めて、消費者(僕らや、他の会社)が購入する。そうして得られたお金(有形・無形問わず)は「売上」と表現される。
じゃあ、売り上げ=利益か、というと違う。なぜなら、物・サービスの価格には、「費用」がかかっているからだ。
費用とは何か。コストと言われたりする。何かつくるのに必要な物やお金のことだ。本当は、「時間」もコストなのだけど、会社のことを考えるとすれば、時間もお金に変換されているとして考えないこととする。
ので、利益とは、以下の式で表せる。
・利益=売上-費用
ここまでは良いだろう。
しかし、会社のことをもう少し分析するには、少し粗すぎる考え方である。
上に挙げた式は、「営業利益」と呼ばれる。いわゆる、本業であげたお金である。しかし、企業は、本業だけをやっているのではない。そこで新しい考え方が登場する。「経常利益」だ。
経常利益とは
・利益=売上-費用上のことを、「営業利益」と呼ぶと書いた。
・営業利益 = 売上 - 費用
しかし、本業以外の企業の活動もあると書いた。それを加味した考え方が、「経常利益」である。
・経常利益 = 営業利益 + 営業外利益(※) - 営業外費用
※一般に、営業外収益というらしいが、取り敢えず違いがよく分からなかったので利益に用語統一した
じゃあ、営業外利益・費用ってなんじゃいな、となる。まぁ調べるといろいろ出てくるが、トップダウン知識(抽象)として、「企業が行う投資活動によって得られるもの」としておく。あとは、借入しているお金の手数料とか何とか。
純利益とは
上の、営業利益で終わっておいてくれれば、まぁそんなもんか、となるが、さらにプラスアルファで、「純利益」という考え方もある。これは以下の式になる。・純利益(税引前) = 経常利益 + 特別利益 - 特別費用
・純利益 = 経常利益 + 特別利益 - 特別費用 - 法人税
じゃあ、特別利益・費用ってなんじゃいな、となる。まぁ調べるといろいろ出てくるが、トップダウン知識(抽象)として、「一時的に発生したもの」としておく。土地を売ったとか。勘だけど、クレームがあって裁判になってしまって、その費用とかもこっちなのかも。まぁそれで賠償が必要になって、数年に分けて支払う必要が発生したとかなると、営業外費用(経常利益に含める)のかもしれないが。
「税引前」というのは、特に書かないけれども、なるほど、法人税とか、国におさめる税金は、経常利益には含まれていないのだなということは、覚えておいてよいかもしれない。
利益のまとめ
営業利益経常利益
純利益
と、三つの利益について、覚えていることをメモしたわけだけれど、じゃあそれをどう「運用」するかというのは、これからのことである。
まとめてみれば、それぞれの利益が、それぞれ重要だということが分かるだろう。
特に、投資という観点からすると、経常利益に着目するのも大事だろう。営業利益で、本業の順調具合をみることができるだろうが、その他の資産運用でうまくいっていないと(経常利益がマイナス)、結局本業の首を絞めることにもなるだろうからだ。
さて、これだけで終わると短すぎるので、「自己資本」についてもまとめてみよう。
総資産とは
資産とは何か。企業の財産である。
総資産 = 純資産 + 負債
ということで、負債(借入金なども含む)点に注目。
で。うまく記憶できていないのだけれど、貸借対照表と、損益計算書の違いが、いまいち分かっていない。
これから書こうとしている、資産は、貸借対照表に記載されるほうだ。何回か調べて覚えたつもりになっていても、さぁまとめてみようとなると、こんがらがる。ので、ここは何も調べず、とりあえず分かっていることだけ整理してみよう。
純資産といっても、いろいろ種類があるのだ。
大きく、株主資本、自己資本というのがある。
自己資本に、「新株予約権」なるものを足すと、純資産になる。
……。
おお、全然分かっていない(かっこわらい)。
何が分かっていて、分かっていないかも分からない。
とにかく、最初に書いた「利益」の話が記載されるのが、損益計算書で、自己資本が記載されるのが貸借対照表である。
で、「自己資本」とは何か、ってのを理解していないと、次のステージの、「ROE」(自己資本収益率)の理解に進めないのである。
まぁもちろん、なんとなく、企業が保有している純資産(正確には、自己資本。純資産-新株予約権等)と比較して、どれだけ純利益を出しているか、というものだろうというのは分かっているが、しっかしとして理解にはつながっていない。
僕の師匠は、流動資産が多い企業で、さらにその流動資産の中で現金・預金(キャッシュ)が多い企業が良い企業と仰っていたような気がするが、このように、ファンダメンタル(企業の業績などを分析する基盤的な)投資をする上では、そもそも資産ってなんだよ、ということを分かっておく必要があるのである。簿記でもやったことがある人ならここら辺、一発なのだろうけど。何が貸方で借方かとか、暗記できれば簿記3級は受かると聞いたことがある。
まとめ
記憶の定着は、地道な繰り返し・反復練習が必要である。完全に記憶の定着ができなければ、知識の運用ができないかといえば、そうではないが、その運用が間違っている可能性もあるだろうし、そもそも、途中で理解が追い付かなくなって、そもそも全体が曖昧になってしまうこともあるだろう。
しかし、基礎ばっかりやっていても、結局使えない知識になる可能性もある。
ので、前にも書いたけれども、トップダウン・ボトムアップの両方から攻めていくのが、新しい概念獲得の近道である。
例えば、PBRという指標がある。
これは、時価総額を純資産で割ると算出できる。……と書いてから不安になって調べたら、時価総額÷自己資本だった。あはは(笑いごとじゃない)。
例えば、僕がこの前買った企業の場合、
・時価総額:5800億円
・自己資本:4300億円
・PBR=5800÷4300=約1.3倍
となる。
とある銀行の場合、
・時価総額:51,000億円
・自己資本:85,000億円
・PBR=5800÷4300=約0.6倍
・PBR=51,000÷85,000=約0.6倍(※)
となる。
※コメントにてご指摘を頂き慌てて訂正。
自己資本ってのは、仮にその会社が倒産した場合、株主に返るお金である。
そうすると、前者の企業の場合、1500億円ぐらい損する可能性があるということだ。
たいてい、PBRは、1倍以上なのが普通だという。
一方、銀行の場合、0.6倍と、1倍を割っている。ということは、例え倒産しても、まぁ、投資した分ぐらいは戻ってくると考えられる(?)。
じゃあ、銀行のほうが投資先として優良なんじゃね? と思ったりもする。ただ、PBR1倍切るってことは、「市場価値が全然ありませんよ」ということらしい。
ふーん……。
なんか、分かったような、分からないような。
もっと、「なるほど! そういうことか!」という感動を味わいたいよね。それが勉強の醍醐味っていうか、楽しい部分だと思う。先日載せた本の第一章と、第二章の途中あたりは、うんうんなるほどねーと思いながら読めていたが、やっぱり難しいな!! これが、一切何も分かりませんお手上げです! というのなら逆に潔いが、分かるような分からないようなというのが、なんとも悔しい部分である。
(実践と勉強の繰り返しが大事。で、それにはモチベーションが大事。モチベを維持するには、目的・目標が大事。目的・目標を持つには、感性・欲求が大事。感性・欲求を持つには、……どうしたらいいの?)
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今日の一言「ギャンブルは好きではない」「乾坤一擲ってギャンブル?」
僕は、ギャンブルが嫌いである。理由は、三つ。
1.運が弱い
2.例え利益が得られても継続しない
3.ドキドキするのが別に楽しくない
競馬とか行ったことはある。ビール片手に、お馬さんが走るのを見るのは楽しかった。数千円負けて、数千円勝った。まぁ、ネカフェとかと比べて、時間対費用で考えると、別に悪いものじゃない気もした。
パチンコも行ったことある。うるさくてイライラした。金属玉がピコピコはじかれて画面のルーレットが回った。あんまり楽しくなかった。どう考えてもゲームとかやってた方が、「ゲーム性」として楽しいと思う。お金がかからずとも、単純にあれを楽しいというのは如何なものか。まぁ、競艇や競馬や宝くじはまぁよいが、パチンコは、収益構造が気に入らないというのもあるだけかもしれないが。
僕は別に誰がどんな趣味をもっていたとしても否定しない。とあるブログさんで、「ボーイズラブ好きなのが彼氏にばれたらひかれた」とか描かれていたが、そんな全然かまわないじゃないか、と思う。
けれども、ギャンブルが好きです、趣味です、という人はどうだろう。もちろん、それが、身持ちを崩さない程度の、あくまで趣味である分には構わないと思うけれども、あまりお近づきになりたくはないなというのが正直なところだ。
どうせだったら、道端で女の子をナンパしてお持ち帰りできるかというギャンブルの方が面白くなかろうか。ベンチャー、新しい会社を興すとかいうギャンブルだったら面白いかもしれない。
そう考えると、そもそも、僕は「ギャンブル」という用語に、どこまでを含めて考えているのだろうか。そして、どこまでは許せて、どこまでは気に食わないと思っているのだろうか。
本記事の目的と少しずれるので、簡単にまとめておこう。
1.ギャンブルとは、運の要素が強い行為(趣味・娯楽)である。なお、プロ・ギャンブラーという用語もあるかもしれないが、例外として考えないこととする。
2.事業構造が公共の福祉に利するものであれば嫌悪しない。
3.2.に関わらず、趣味の範囲を超えて生活に困窮するレベルで行為に没頭するものを嫌悪する。
第一章は、株式投資とはそもそも何なんだ、ということが書かれている。
未だ、多くの日本人は、株式投資は、ギャンブルのようなものだと考えている(※1)
実際問題、家計の資産(貯金・預金)は、1500兆円ということで、国内総生産(GDP)(※2)の3倍近くもあるらしい。
よく比較される、個人金融資産の割合の他国との比較について、日本は、約50%が預金であり、株式投資は10%満たないのに対し、アメリカは預金が10%程度に対し、株式投資が30%である。
日本 アメリカ
株式投資 10% 30%
預金 50% 10%
面白かったのは、イギリスが、50%を保険・年金が占めていたということだ。なるほど、ゆりかごから墓場まで、というのは、こういうところで数値に表れているんだなぁ。
ただし、現金・預金を重視していた人たちを、金融の勉強が足りていないとか、馬鹿にすることなど全くできない。
なぜなら、実際問題、株式投資より現金・預金のほうが非常に合理的な時代が、日本の場合続いていたからだ。
定期預金の金利が、6%もあった時代があったことを、いま若い人たちは知らないだろう。
元本が保証され、年利6%の金利がつくというのは、相当魅力的である。それが、90年代からどんどん下げられ始めて、1996年には、1%を切って、株式の配当利回りをしたまわった。
金利6%なら、1000万円預けていたら、1年で60万円生み出されるのだ。今はどうだ? 先日調べたのは普通預金だったが、0.001%だった。なんじゃそりゃ。暗算すらできない(わらい)。電卓で計算したら、100円だった。ゴミだ。
時代が、変わったのである。
預金なんてしていても、お金は一切増えない。しかし、こんな単純なことに、多くの優秀な日本人が気付かないのだろうか? そんなはずはない。何故そんな大きな問題にならなかったかというと、これは僕の推測だが、デフレ(物価が下がること)が起こっていたからだ。いわゆる不況。
お金が増えなくても、身の回りの物・サービスの価格が低くなっていけば、まぁそんなに生活水準が下がるということはあるまい。
だから、国や経済界は、できるだけ預金(ストック)を金融市場にまわしてもらおうといろいろ対策をしていたようだけれども、日本人の意識がすぐさま革命を起こすことはなかったのだろう。
これは、上から目線でも何でもないが、人は、危機に直面しないと、そうそう自分の考えを改めようとしない。僕も同じ。まぁそりゃそうだ。今までうまくいっていたのなら、これからもうまくいくだろうと考えるのは、それはそれで合理的である。わざわざリスクを冒して、間違うことや失敗する可能性があることをする必要もないだろう。
不思議だなと僕は思っていた。
不況だ、景気が悪いとか、巷ではみんな言って、経済対策が必要だとか言うのに、みんなうんうんと言いながら、預金が多くて、金融市場にはお金が回らないという。
景気が良いということって、どういう意識なんだろうか? それって単純に、自分の給料が増えるってことを想像しているのだろうか? 僕は、そもそも、景気がよくなって給料が増えても、物価が上がったら別に生活水準がよくなるわけじゃないのに、なぜそんな「景気をよくすること」が必要なのか、いまいち実感がなかった。その点は、今もない。――話は少しそれるが、そういう意味で、「成長すること」というのが、何故みんな無批判に大切なことなのかと思っているのかというのも疑問なのである。本当に、人類世界の幸福を考えたとき、「成長し続けること」が絶対必要なのか。「ワム」(無限の電力を供給できる)とか資源があるならそうだろう。でも、地球という全体資源が有限であるのならば(そもそも、恒星(自分で熱を発する星)には寿命がある)、そもそも成長し続けることなど考え方として矛盾ではなかろうか(いやもちろん、有限であろうと、使用できる範囲を桁違いに超えていれば、無限として扱うことも可能だろうが)。
閑話休題。
株とギャンブルの違い、だったな。
確かに、先日書いたように、PER(純利益に対して株価が何倍の値段になっているか)は、バブル(1989年)前から50倍程度と高かったが、バブルをこえて、現在は、10倍~20倍の、国際水準に落ち着いているという。
(逆に言えば、これから株を購入しようとするときに、PERが10倍~20倍であるというのが、目安になるだろう。ただし、当然これだけがポイントではない)
確かに、株は、ハイリスクの、ギャンブル性が強い状態が続く状態があった。バブル後に一気に株価が下がった瞬間など、まさにギャンブルといった感覚を生じさせたかもしれない。
けれども、日本の証券市場や、国の政策(新会社法とか、NISAもその一つだろう)も、預貯金から、株や保険や債券といった金融資産にシフトさせようとしていることからも、株とギャンブルは異なるといえるだろう。
もう一つ、違いとしては、ギャンブルは、固有の商品に過ぎない。他の表現を用いれば、再分配に過ぎないということだ。もっと他の表現にすれば、付加価値を生み出さない、ということだ。
どういうことか。宝くじを例にすれば、くじを、300円で10,000人が購入したとする。3,000,000円集まる。胴元が、100万円ぐらいもらう。200万円を、一等賞の一人に渡す。一人はハッピー、300円が200万円になった。他の9,999人は残念。でも、「夢が買えた」ということで、とりあえず満足する。
株とギャンブルの違い、という表題にしてしまったが、株・債権・保険・年金に、預金を含めても、金融資産とギャンブルは構造がまったく違うのである。
金融資産とは、「市場」(しじょう)に流れるお金である。
ギャンブルは、胴元(国だったり、某店の経営者だったり)が集めて、購入者に再分配する仕組みである。
※1:ような気がするだけ。というのは、株式投資をやっている方のブログなど拝見していると、周囲の人たちの反応がいまいちだと触れられていることが多いからだ。「へー株やってるんだ。それってもうかるの?」と反応はするものの、いざ真面目にやろうとか、勉強しようとする人はあんまりいないということである。そういったフレーズが、いくつかのブログさんで書かれていたので、やっぱりそういった傾向が強いのかなと思ったわけだ。
※2:GDPとは、日本国内で生産された付加価値の総額である。よく比較されるGNP(国民総生産)との違いは、「場所(ドメスティック)」にこだわるか、「人(ネイション)」にこだわるか、である。GDPは、日本人以外が生産した価値も含めるが、海外で働く日本人の生産した価値は含めない。GNPは、海外で働く日本人の生産した価値も含めるが、国内で日本人以外が生産した価値は含めない。
⇒って理解してたら、大きく間違っていた。要は、「海外からの純所得」を含めるかどうか、ということで、日本人かどうかは関係ないらしい。――GDPとGNPの違いって?中学生にも分かるように解説!
例であがってたのが、イチロー選手。彼は日本国籍をもっているが、海外で働いていて、海外で税金を納めているので、GNPにも含まれないということだ。当然、日本のGDPにも含まれない。ポイントは、日本に住んでいる人の所得かどうか、という点。

というのが、上の本で書かれているらしいと、先日ふとアマゾンのおすすめに上がってきたので、レビューなどみてみた。面白そうである。しかし、ちょっと高いな……。
近くの図書館などにおいてないか探してみるか……。
(取りあえず、「株式投資入門」の第一章、第二章は理解しながら読めた。二章の金利計算はまだちょっと難しそうだが……)
ギャンブルとは何か
競馬、宝くじ、パチンコ、博打、賭博、カイジ……。僕は、ギャンブルが嫌いである。理由は、三つ。
1.運が弱い
2.例え利益が得られても継続しない
3.ドキドキするのが別に楽しくない
競馬とか行ったことはある。ビール片手に、お馬さんが走るのを見るのは楽しかった。数千円負けて、数千円勝った。まぁ、ネカフェとかと比べて、時間対費用で考えると、別に悪いものじゃない気もした。
パチンコも行ったことある。うるさくてイライラした。金属玉がピコピコはじかれて画面のルーレットが回った。あんまり楽しくなかった。どう考えてもゲームとかやってた方が、「ゲーム性」として楽しいと思う。お金がかからずとも、単純にあれを楽しいというのは如何なものか。まぁ、競艇や競馬や宝くじはまぁよいが、パチンコは、収益構造が気に入らないというのもあるだけかもしれないが。
僕は別に誰がどんな趣味をもっていたとしても否定しない。とあるブログさんで、「ボーイズラブ好きなのが彼氏にばれたらひかれた」とか描かれていたが、そんな全然かまわないじゃないか、と思う。
けれども、ギャンブルが好きです、趣味です、という人はどうだろう。もちろん、それが、身持ちを崩さない程度の、あくまで趣味である分には構わないと思うけれども、あまりお近づきになりたくはないなというのが正直なところだ。
どうせだったら、道端で女の子をナンパしてお持ち帰りできるかというギャンブルの方が面白くなかろうか。ベンチャー、新しい会社を興すとかいうギャンブルだったら面白いかもしれない。
そう考えると、そもそも、僕は「ギャンブル」という用語に、どこまでを含めて考えているのだろうか。そして、どこまでは許せて、どこまでは気に食わないと思っているのだろうか。
本記事の目的と少しずれるので、簡単にまとめておこう。
1.ギャンブルとは、運の要素が強い行為(趣味・娯楽)である。なお、プロ・ギャンブラーという用語もあるかもしれないが、例外として考えないこととする。
2.事業構造が公共の福祉に利するものであれば嫌悪しない。
3.2.に関わらず、趣味の範囲を超えて生活に困窮するレベルで行為に没頭するものを嫌悪する。
株式投資とギャンブルの違いは?
先日触れた、「株式投資入門――井出正介」の第一章をさかのぼって読む。第一章は、株式投資とはそもそも何なんだ、ということが書かれている。
未だ、多くの日本人は、株式投資は、ギャンブルのようなものだと考えている(※1)
実際問題、家計の資産(貯金・預金)は、1500兆円ということで、国内総生産(GDP)(※2)の3倍近くもあるらしい。
よく比較される、個人金融資産の割合の他国との比較について、日本は、約50%が預金であり、株式投資は10%満たないのに対し、アメリカは預金が10%程度に対し、株式投資が30%である。
日本 アメリカ
株式投資 10% 30%
預金 50% 10%
面白かったのは、イギリスが、50%を保険・年金が占めていたということだ。なるほど、ゆりかごから墓場まで、というのは、こういうところで数値に表れているんだなぁ。
ただし、現金・預金を重視していた人たちを、金融の勉強が足りていないとか、馬鹿にすることなど全くできない。
なぜなら、実際問題、株式投資より現金・預金のほうが非常に合理的な時代が、日本の場合続いていたからだ。
定期預金の金利が、6%もあった時代があったことを、いま若い人たちは知らないだろう。
元本が保証され、年利6%の金利がつくというのは、相当魅力的である。それが、90年代からどんどん下げられ始めて、1996年には、1%を切って、株式の配当利回りをしたまわった。
金利6%なら、1000万円預けていたら、1年で60万円生み出されるのだ。今はどうだ? 先日調べたのは普通預金だったが、0.001%だった。なんじゃそりゃ。暗算すらできない(わらい)。電卓で計算したら、100円だった。ゴミだ。
時代が、変わったのである。
預金なんてしていても、お金は一切増えない。しかし、こんな単純なことに、多くの優秀な日本人が気付かないのだろうか? そんなはずはない。何故そんな大きな問題にならなかったかというと、これは僕の推測だが、デフレ(物価が下がること)が起こっていたからだ。いわゆる不況。
お金が増えなくても、身の回りの物・サービスの価格が低くなっていけば、まぁそんなに生活水準が下がるということはあるまい。
だから、国や経済界は、できるだけ預金(ストック)を金融市場にまわしてもらおうといろいろ対策をしていたようだけれども、日本人の意識がすぐさま革命を起こすことはなかったのだろう。
これは、上から目線でも何でもないが、人は、危機に直面しないと、そうそう自分の考えを改めようとしない。僕も同じ。まぁそりゃそうだ。今までうまくいっていたのなら、これからもうまくいくだろうと考えるのは、それはそれで合理的である。わざわざリスクを冒して、間違うことや失敗する可能性があることをする必要もないだろう。
不思議だなと僕は思っていた。
不況だ、景気が悪いとか、巷ではみんな言って、経済対策が必要だとか言うのに、みんなうんうんと言いながら、預金が多くて、金融市場にはお金が回らないという。
景気が良いということって、どういう意識なんだろうか? それって単純に、自分の給料が増えるってことを想像しているのだろうか? 僕は、そもそも、景気がよくなって給料が増えても、物価が上がったら別に生活水準がよくなるわけじゃないのに、なぜそんな「景気をよくすること」が必要なのか、いまいち実感がなかった。その点は、今もない。――話は少しそれるが、そういう意味で、「成長すること」というのが、何故みんな無批判に大切なことなのかと思っているのかというのも疑問なのである。本当に、人類世界の幸福を考えたとき、「成長し続けること」が絶対必要なのか。「ワム」(無限の電力を供給できる)とか資源があるならそうだろう。でも、地球という全体資源が有限であるのならば(そもそも、恒星(自分で熱を発する星)には寿命がある)、そもそも成長し続けることなど考え方として矛盾ではなかろうか(いやもちろん、有限であろうと、使用できる範囲を桁違いに超えていれば、無限として扱うことも可能だろうが)。
閑話休題。
株とギャンブルの違い、だったな。
確かに、先日書いたように、PER(純利益に対して株価が何倍の値段になっているか)は、バブル(1989年)前から50倍程度と高かったが、バブルをこえて、現在は、10倍~20倍の、国際水準に落ち着いているという。
(逆に言えば、これから株を購入しようとするときに、PERが10倍~20倍であるというのが、目安になるだろう。ただし、当然これだけがポイントではない)
確かに、株は、ハイリスクの、ギャンブル性が強い状態が続く状態があった。バブル後に一気に株価が下がった瞬間など、まさにギャンブルといった感覚を生じさせたかもしれない。
けれども、日本の証券市場や、国の政策(新会社法とか、NISAもその一つだろう)も、預貯金から、株や保険や債券といった金融資産にシフトさせようとしていることからも、株とギャンブルは異なるといえるだろう。
もう一つ、違いとしては、ギャンブルは、固有の商品に過ぎない。他の表現を用いれば、再分配に過ぎないということだ。もっと他の表現にすれば、付加価値を生み出さない、ということだ。
どういうことか。宝くじを例にすれば、くじを、300円で10,000人が購入したとする。3,000,000円集まる。胴元が、100万円ぐらいもらう。200万円を、一等賞の一人に渡す。一人はハッピー、300円が200万円になった。他の9,999人は残念。でも、「夢が買えた」ということで、とりあえず満足する。
株とギャンブルの違い、という表題にしてしまったが、株・債権・保険・年金に、預金を含めても、金融資産とギャンブルは構造がまったく違うのである。
金融資産とは、「市場」(しじょう)に流れるお金である。
ギャンブルは、胴元(国だったり、某店の経営者だったり)が集めて、購入者に再分配する仕組みである。
※1:ような気がするだけ。というのは、株式投資をやっている方のブログなど拝見していると、周囲の人たちの反応がいまいちだと触れられていることが多いからだ。「へー株やってるんだ。それってもうかるの?」と反応はするものの、いざ真面目にやろうとか、勉強しようとする人はあんまりいないということである。そういったフレーズが、いくつかのブログさんで書かれていたので、やっぱりそういった傾向が強いのかなと思ったわけだ。
※2:GDPとは、日本国内で生産された付加価値の総額である。よく比較されるGNP(国民総生産)との違いは、「場所(ドメスティック)」にこだわるか、「人(ネイション)」にこだわるか、である。GDPは、日本人以外が生産した価値も含めるが、海外で働く日本人の生産した価値は含めない。GNPは、海外で働く日本人の生産した価値も含めるが、国内で日本人以外が生産した価値は含めない。
⇒って理解してたら、大きく間違っていた。要は、「海外からの純所得」を含めるかどうか、ということで、日本人かどうかは関係ないらしい。――GDPとGNPの違いって?中学生にも分かるように解説!
例であがってたのが、イチロー選手。彼は日本国籍をもっているが、海外で働いていて、海外で税金を納めているので、GNPにも含まれないということだ。当然、日本のGDPにも含まれない。ポイントは、日本に住んでいる人の所得かどうか、という点。
・GNP=GDP+海外からの純所得
・GDP=GNP-海外からの純所得
つまり、日本に住んでいる人に対して(国籍問わず)、海外から純所得(給料など)が支払われた場合、そのお金を含めるかどうか、ということ。含める場合は、GNP。含めない場合はGDPということ。
じゃあ何故GDPが重視されるように昨今なっているかというと、純粋に各国の生産性を見る指標として役に立つからだ。GNPでも、その国の活性状況がみれるかもしれないが、他国がお金を引き上げたときの影響が大きくなるだろう。
GDPとGNPの併記を各国で比較してみると面白いかもしれない。
でも、本来、学習ってのは楽しいことなんだと僕は思うのだが。
その、面白くない理由は、上の章の内容は、別に今初めて思ったことでも、初めて学んだことでもないというのが一つ。なんとなく、思っていた感じていたことではあった。ただ、こうやって文章でまとめたのは初めてな気がする。
そういう意味で、銀行にお金を預けておくというのが、非常に無駄……とは言わないが、眠っている状態であるというのは感じていた。
ただ、じゃあそれをどう運用すべきか、ということについては、明確に、具体的行動ができるほど知識も、そもそもやる気が出なかったのである。つまり面倒だったということだ(かっこわらい)。ので、多くの人は、「銀行にお金を預けておくこと」が、これからインフレ(物価が上がること)になっていったら、どんどん損(目減り)するんだろうなぁと感じていながら、なかなか金融市場に参画できないのは、「合理的判断ができない」というよりかは、単に面倒である、というのもあるのかもしれない。
何せ毎日忙しいのだ、誰しも。
だから、「忙しい」という言葉自体、僕は価値を思っていない。忙しくない人なんて、どこにいるの?
――まぁいる。大富豪は資産家は、アーリーリタイアした人たちは、悠々自適な自分の時間を過ごしているのだろう。でもそういう人たちは、逆に、金融市場の仕組みを理解していたか、もともと自身の環境に恵まれていたのだろう(もともとお金持ちの家庭だった)。
だから、「貧乏暇なし」という諧謔は、なんとも皮肉にも、正しいように思われる。
でも、別に、僕はいつも書いている(つもり)だが、その「忙しい」というのが本当に悪いことだとも思っていない。
仕事を、「いやー大変だよね~」といいながら、実は楽しんでいるという人も大勢いるだろう。仕事をすることで、自身を成長させてくれるのだと、そんな風に信じている人も大勢いるだろう。それらは、「すべて」間違ってなどいない。
別に、どんな生き方も、人生も、正解も、間違いもないのだ。その人にとって正しければ、それでいいのだ。そんなもんだ。万物普遍の真理などない。
けれども。
逆に。
それら、「すべて」正しい故に、「衝突」(コンフリクト)が起こる。
無差別テロや暴力は、断じて許されることではないが、しかし、「テロリスト」とレッテルを貼ることは簡単だが、それら行為をなす人々にとって、その暴力的行為は「正義」なのである。これが未だ、人類が解決できていない問題だ。
平和主義者たち。戦争反対を主張する人たち。大いに賛成だ。人同士で殺しあう世界が正しいはずないだろう。けれども、「テロリスト」が、果たして、必ず間違っているといえるのか。
もちろん、自己の利益や、欲求のみを追求する存在に、正義などなかろう。そういった存在は、「悪」としてよいかもしれない。しかし、その「幸福の範囲」は、自民族や、同じ宗教を信じる者たちに限定されたとしても、それが「悪」だと唾棄し殺戮して浄化してよいというのか。別に、右の腕を切り落とされたら、左の腕も差し出せと言っているのではない。「テロリスト」や危険な国を容認すべきといっているのではない。ただ、正義を主張する者たちを、別の正義で押しつぶすということを、人類は長い歴史で繰り返してきたわけだが、本当にこれからも、同じ方法でやっていくのが「正解」なのだろうか?
と、自分にとって、あんまし、どうでもいいことを書いてしまった。ただ、こういった点も、ずっと今まで思って考えていたことでもある(愛とは何か、友人とは何かとかいうのと同じぐらいのレベルで)。
――そんなことはない、人類は徐々に平和へと向かっているんだ!
つまり、日本に住んでいる人に対して(国籍問わず)、海外から純所得(給料など)が支払われた場合、そのお金を含めるかどうか、ということ。含める場合は、GNP。含めない場合はGDPということ。
じゃあ何故GDPが重視されるように昨今なっているかというと、純粋に各国の生産性を見る指標として役に立つからだ。GNPでも、その国の活性状況がみれるかもしれないが、他国がお金を引き上げたときの影響が大きくなるだろう。
GDPとGNPの併記を各国で比較してみると面白いかもしれない。
まとめ
あんまり面白い記事じゃあないなぁ。まぁ、学習カテゴリなので仕方がないか。でも、本来、学習ってのは楽しいことなんだと僕は思うのだが。
その、面白くない理由は、上の章の内容は、別に今初めて思ったことでも、初めて学んだことでもないというのが一つ。なんとなく、思っていた感じていたことではあった。ただ、こうやって文章でまとめたのは初めてな気がする。
そういう意味で、銀行にお金を預けておくというのが、非常に無駄……とは言わないが、眠っている状態であるというのは感じていた。
ただ、じゃあそれをどう運用すべきか、ということについては、明確に、具体的行動ができるほど知識も、そもそもやる気が出なかったのである。つまり面倒だったということだ(かっこわらい)。ので、多くの人は、「銀行にお金を預けておくこと」が、これからインフレ(物価が上がること)になっていったら、どんどん損(目減り)するんだろうなぁと感じていながら、なかなか金融市場に参画できないのは、「合理的判断ができない」というよりかは、単に面倒である、というのもあるのかもしれない。
何せ毎日忙しいのだ、誰しも。
だから、「忙しい」という言葉自体、僕は価値を思っていない。忙しくない人なんて、どこにいるの?
――まぁいる。大富豪は資産家は、アーリーリタイアした人たちは、悠々自適な自分の時間を過ごしているのだろう。でもそういう人たちは、逆に、金融市場の仕組みを理解していたか、もともと自身の環境に恵まれていたのだろう(もともとお金持ちの家庭だった)。
だから、「貧乏暇なし」という諧謔は、なんとも皮肉にも、正しいように思われる。
でも、別に、僕はいつも書いている(つもり)だが、その「忙しい」というのが本当に悪いことだとも思っていない。
仕事を、「いやー大変だよね~」といいながら、実は楽しんでいるという人も大勢いるだろう。仕事をすることで、自身を成長させてくれるのだと、そんな風に信じている人も大勢いるだろう。それらは、「すべて」間違ってなどいない。
別に、どんな生き方も、人生も、正解も、間違いもないのだ。その人にとって正しければ、それでいいのだ。そんなもんだ。万物普遍の真理などない。
けれども。
逆に。
それら、「すべて」正しい故に、「衝突」(コンフリクト)が起こる。
無差別テロや暴力は、断じて許されることではないが、しかし、「テロリスト」とレッテルを貼ることは簡単だが、それら行為をなす人々にとって、その暴力的行為は「正義」なのである。これが未だ、人類が解決できていない問題だ。
平和主義者たち。戦争反対を主張する人たち。大いに賛成だ。人同士で殺しあう世界が正しいはずないだろう。けれども、「テロリスト」が、果たして、必ず間違っているといえるのか。
もちろん、自己の利益や、欲求のみを追求する存在に、正義などなかろう。そういった存在は、「悪」としてよいかもしれない。しかし、その「幸福の範囲」は、自民族や、同じ宗教を信じる者たちに限定されたとしても、それが「悪」だと唾棄し殺戮して浄化してよいというのか。別に、右の腕を切り落とされたら、左の腕も差し出せと言っているのではない。「テロリスト」や危険な国を容認すべきといっているのではない。ただ、正義を主張する者たちを、別の正義で押しつぶすということを、人類は長い歴史で繰り返してきたわけだが、本当にこれからも、同じ方法でやっていくのが「正解」なのだろうか?
と、自分にとって、あんまし、どうでもいいことを書いてしまった。ただ、こういった点も、ずっと今まで思って考えていたことでもある(愛とは何か、友人とは何かとかいうのと同じぐらいのレベルで)。
――そんなことはない、人類は徐々に平和へと向かっているんだ!
というのが、上の本で書かれているらしいと、先日ふとアマゾンのおすすめに上がってきたので、レビューなどみてみた。面白そうである。しかし、ちょっと高いな……。
近くの図書館などにおいてないか探してみるか……。
(取りあえず、「株式投資入門」の第一章、第二章は理解しながら読めた。二章の金利計算はまだちょっと難しそうだが……)
今日の一言「よし三連休だぜ」「何の予定も考えていない」
いや何も、週休二日制を無視していたわけではない。しかし、何もない休日は久しぶりな気がする。
思うに、その休日に入る前の「準備」が大切だ。ボロボロつかれた状態で休日に突入すると、十中八九、ボロボロな休日になってしまう。
だが、僕はふと思った。
休日そのものが嬉しいのではなく、「何もない時間が続くこと」自体がうれしいのではないかと。
つまり、とりあえず、まぁ、なんか仕事もプライベートもうまくいかないが、三日間は、無為な時間が得られるということである。
とりあえず、日々の雑事について、思い煩うことがないのである。
そりゃあ、もちろん、何か予定があるのは良いことのように思う。けれども、予定があるってのは、その予定に対して「思い煩っている」ということになるまいか。いやなるだろう。
だから、「あー、何しよっかなー」とか、ぼけーっと考えられるってことそれ自体が、とっても幸せなことのように僕は思うのだ、思ったのだ。
何だろう、何かこう活動していて充実しているなぁ、楽しいなぁと思うことはあるけれども、何もしていないこの瞬間が、なんかワクワクしてくる。
こういった時間を多くしていくことが、人生を楽しむっていうことなんだろうか。
そうすると、日がらずーっと、テレビをみて、縁側で日向ぼっこしながら過ごすお年寄り(こんなモデルはもはや段々くずれていってるだろう。いや老人ホームとかでは日常茶飯事か)になるのが、目指すべきものだろうか。
しかし、このことに、一つ懐疑はある。今のこのワクワク感は、いつもの「雑事」(=めんどうなこと)から、一時的に解放されたという、その解放感によるものかもしれないということ。
つまり、そもそも、「雑事」がなくなってしまえば、もはや、そういったわくわく感も得られなくなるのではないか、ということである。
確かに、そんなことは、一生懸命働いて、定年を迎えてから感じたり考えてもいいかもしれない。
――僕は、断じて、否、という。
将来のために生きるということを、僕は否定する。
頑張って、報われるという物語を否定する。
どん底の状況から這い上がるのは必要だ。しかし、物語はそこで終わっても、人生という長い物語は、一つ状況好転したところで決して終わりではない。
モテない男(女)が、自分を磨き、彼女をつくることができた。意中の彼(彼女)の心をつかんだ。
素晴らしい物語だ。
だが、恋愛物語はそこで終わったとしても、その主人公の旅はまだ続く。
終わりなき物語。
しかし、たいていの人は、それを受け入れている。
生涯学習とか、頑張り続けることが大事だとか、日々チャレンジだとか。
誤解や、批判を恐れずに書けば、そういった方策は、「終わり」ということから目を背けていることに過ぎないと僕は思う。
終わることが怖いのだ。だから、終わらないように、次々と目標を掲げ、努力し、ゴールを目指そうとする。
しかし、本当に、ゴールにたどり着きたいと思っているのだろうか? 僕は、否と思う。
のけものにされていた人が、力をつけて、周囲を黙らせるようになる。
その主人公が、みじめであればみじめであるほどに、そこに「打算」などない。生きるために、ただ、戦わなければならない。現状維持は、何ら福音にはならない。だから目指す。ゴールというよりも、深い穴から抜け出そうとあがくのだ。
「人生に退屈した老人どもに、世界を救うだなど言われて、信じられるはずなかろう」――メイガス中佐(EDENより)。
戦うことに理由などない。ただ、戦わなければ生きられないのだ。
僕は先日、周りと比べて「自分はなんてダメなやつなんだ……」などと落ち込む必要など、まったくないと書いた。
それは、すごい人はいっぱいいるし、ダメな人はたくさんいるからだ。比較してもきりがないからだ。そんなたくさんの人がいるこの世界において、自己卑下したところで、それは単に「自己エクスキューズ」(きっぱり言っちゃえば、「言い訳」)に過ぎなかろう。
ただし、そんな中でも、負けちゃいけない人がいる。誰か? 自分だ。
自分にゃあ負けるなと。
他者に負けたっていい。そりゃ、勝ち続けられたらいいが、暴力の世界でも、知識の世界でも、政治の世界でも、技術の世界でも、コミュ力の世界でも、どこでもかしこでも、上がいれば下がいる。
僕はもう一つ、これも昔に書いたことがあるが、「総合力」で勝負しろと。
「人間とは総合である」(※)とは、実存主義の哲学者キルケゴールさんの言葉だが、様々な要素……それは、体を構成するたんぱく質にとどまらず、自分を取り巻く人、環境も含めて、自分という存在であると、私は思う。
(だから、どこまでが「自分」という境界であるのか、実は、甚だ曖昧なのだと思うが、それはともかく)
例えば、絵をかくのが得意な人でも、アマチュア・プロ含めて数多の中では、かすんでしまうだろう。しかし、絵の能力と、WEBプログラミングの能力があったらどうだろう。なんだか、人を驚かせる面白いことが少しできる可能性が増えはしまいか。
仕事で営業トークがうまいとしても、それだけでは大して重宝されないかもしれない。しかし、営業トークにプラスで、権力者に気に入られる能力も高ければ、いい思いができる可能性が増えはしまいか。
先日暗く感傷的なの書いてしまったので、たまにはポジティブなことも書いてみれば、PHPのプログラミングが少しできるだけでは大したことはないが、エクセルのマクロも少し使えて、パワーポイントが少し使えて、タイピングが少し速くて、小説を少し書くことができて、ピアノが少し弾けて、作曲が少しできて、初音ミクが少し使えて、10kmぐらいは走ることができて、筋トレを少し続けることができて、友人も少しいて、恋人を作ることも何回かできて、法律の文書を少し読むことができて、仕事で中よりは上の評価をもらえて、自動二輪の運転ができて、般若心経は暗唱できて、――と、まぁ、その一つひとつは大したことがないが、全部「総合」してみると、「唯一性」に少しずつ近づくことができる。
まー。それでも、すべてを超越する人は、たくさんいっぱい、いるんだけどね。哀しいことに。
だけど、その一つ一つを他者と比べて、「あー、やっぱり俺って駄目な奴だなぁ」なんて思っても仕方がない。無意味だ。じゃあ、そのできることの一つが、本当に、どんな環境で、どんな周囲の人との間であっても、絶対に自分が一番ダメか、って考えたら、そんなことあるまいよ。
小学生の中にいってみたまえ。「おぉ! おじちゃん、すごい!」っていってもらえる何かが、きっとあるだろうよ。
小学生の中で褒められても、虚しいだけだって?
違う、そういう意味ではない。そりゃあ、小さな環境の中で、井の中の蛙やってることを自覚しないで、本当に自分はすごいやつなんだって、勘違いしているのは痛いだけである。
でも、そんなんでも、周囲の人に何らか良い影響を与えられたら、それだけで、素晴らしいことじゃあなかろうか。
どんな優れた技術や、思想をもっていたとしても、それが誰にも伝えられなければ、世界にとっては無意味である。
ゴータマ・シッダールタさんも、最初は、「あー悟ったし、もういいや」と思ったそうだが、梵天という神様に、「いやいや、お願いだから、衆生に教えを広めてやってくださいな」と請われてじゃあいっちょやってやっか、と、80歳で亡くなるまで頑張ってくれたのだ。
――ん? はなしそれた! 話を戻す。
ええと、とにかく、自分に負けるな、ってことを、僕は以前から書いていた、ということだ。しかし、あるブログさんの記事を読んで、僕は、ちょっとこの考えも甘い部分が多大だな、と思ったわけだ。
次の章にその内容を書く。
確かに、若い人だとしても、身体的なピークというのは、10代後半だか20歳前半だか(曖昧)と聞いたことがある。そしたら、「過去の自分には負けるな!」と言い続けても、絶対いつか……いつかというより、結構早い段階で、過去の自分にも勝てなくなる。スポーツ選手の引退とか、そういうもんだろう。
たまに、現役で、まだまだやれるんじゃあなかろうかと思われていた選手が、現役引退! とかいって、驚かせることがあるけれども、その方にとっての、自分のピークというのはもう過ぎたんだと、類まれな感覚で分かってしまったのだろう。
確かに、すごい能力をもっているから、ある程度はまだまだ現役で活躍できるかもしれない。しかし、その人にとっては、徐々に、衰えていく自分を感じ続けなければならないということなのだ。それはある意味、つらいことだ。特に、向上心を持って、心身を鍛え続ける必要があるトップアスリートにとっては、自身の成長が望めなくなるというのは、何にもましてつらいことだろう。
だから、「自分に負けるな」というのは、いつでもどこでも、だれにでも使える魔法の言葉なんかじゃあないということを、しっかり銘記すべきだろう。
しかしそれでも、いまだ僕は、この言葉は有効だと思っている。
それはやっぱり、最初に書いた、「総合力」という意味においてだ。
僕がさっき挙げた「できること」の羅列は、確かに、自分の要素の一つでもある。しかし何も、「できること」である必要すらない。
例えば、目に見えない、人脈だとか、カリスマ性。カリスマ性って何? って考えるのは面白そうだが、それは置いておいて、他にも、さっきのアスリートの例で行けば、金メダルをとった実績だとか、仕事の営業さんでいけば、大きな契約を取った実績だとか、過去の実績というのも自分を成り立たせる要素の一つだ。
または「経験」。あまり好きな例ではないが、「修羅場」とか「つらい状況」を乗り越えたといった体験・経験というのも、一つの要素である。
そういった目に見えるもの、見えないもの含めて、自分の内部・外部含めた「総合」を考えたとき、いまだ、「過去の自分に負けるな」というのは、有効な言葉だと思うのだ。
確かに、ある分野では、もう過去の自分に勝つことはできなくなってしまったかもしれない。しかし、ピークを過ぎてしまって、挫折や苦しい思いを経験したって、それ自体が一つの自分を成り立たせる要素だとしたとき、自分という総合力は、まだまだ、全体としてマイナスに転じているとは言えないではないか、そう思うのだ。
しかし、僕の思考さんは、残念ながらここで終わらない。というよりも、上のことを書きながら、頭のわきに常にあったのだけれども、「で、その、自分に負けないようにして総合としての成長を感じていって、それで何を目指してるの?」と聞かれている。
上に書いたのは、
>将来のために生きるということを、僕は否定する。
>頑張って、報われるという物語を否定する。
ということであった。
自分に負けずに成長していくということは、僕が上で否定したことと矛盾しまいか。
つまりだ、徹底的な現状肯定こそが、本来あるべき姿じゃあなかろうか。
ここで強引だけど、株の勉強で知った言葉を使ってみると、「現在価値(PV)」ってやつだ。
現金(キャッシュ)ってのは、確かに、それ自体がお金を生む力がないので、ファイナンス理論の中では価値が低いものとされる。しかし、今日得られる100万円は、明日得られる101万円よりも価値が高いのだ。
頑張って、頑張って頑張って到達できる「ゴールA」があるとする。
そのゴールは、確かに、自分にとって「幸せ」であったとする。
一方、目の前に、そのゴールより手近な「ゴールB」があったとする。そのゴールBで得られる幸せは、頑張って到達できる「ゴールA」よりも少なかったとする。
さて、このとき、ゴールAを目指すのが人生の正解か、ゴールBで満足するのが人生の正解か、どちらであろうか?
もう一つ提起して、今回は終わっておこう。
僕はこの記事の最初のほうで、
>物語は終わりがあるが、人生という物語に終わりはない
と書いた。
つまり、ゴールAとゴールB問題は、それ自体で難問でありながら、「そもそも」僕は、その「ゴール」という問題提起の在り方そのものに疑問が生じてもいるのである。
(とにかく、三連休わーい)
何かしよう(雑)
よし、ようやく休みだ!いや何も、週休二日制を無視していたわけではない。しかし、何もない休日は久しぶりな気がする。
思うに、その休日に入る前の「準備」が大切だ。ボロボロつかれた状態で休日に突入すると、十中八九、ボロボロな休日になってしまう。
だが、僕はふと思った。
休日そのものが嬉しいのではなく、「何もない時間が続くこと」自体がうれしいのではないかと。
つまり、とりあえず、まぁ、なんか仕事もプライベートもうまくいかないが、三日間は、無為な時間が得られるということである。
とりあえず、日々の雑事について、思い煩うことがないのである。
そりゃあ、もちろん、何か予定があるのは良いことのように思う。けれども、予定があるってのは、その予定に対して「思い煩っている」ということになるまいか。いやなるだろう。
だから、「あー、何しよっかなー」とか、ぼけーっと考えられるってことそれ自体が、とっても幸せなことのように僕は思うのだ、思ったのだ。
何もない
まずは、この、現状の気持ちを書き残しておこう。とっても、楽しい。何だろう、何かこう活動していて充実しているなぁ、楽しいなぁと思うことはあるけれども、何もしていないこの瞬間が、なんかワクワクしてくる。
こういった時間を多くしていくことが、人生を楽しむっていうことなんだろうか。
そうすると、日がらずーっと、テレビをみて、縁側で日向ぼっこしながら過ごすお年寄り(こんなモデルはもはや段々くずれていってるだろう。いや老人ホームとかでは日常茶飯事か)になるのが、目指すべきものだろうか。
しかし、このことに、一つ懐疑はある。今のこのワクワク感は、いつもの「雑事」(=めんどうなこと)から、一時的に解放されたという、その解放感によるものかもしれないということ。
つまり、そもそも、「雑事」がなくなってしまえば、もはや、そういったわくわく感も得られなくなるのではないか、ということである。
確かに、そんなことは、一生懸命働いて、定年を迎えてから感じたり考えてもいいかもしれない。
――僕は、断じて、否、という。
将来のために生きるということを、僕は否定する。
頑張って、報われるという物語を否定する。
どん底の状況から這い上がるのは必要だ。しかし、物語はそこで終わっても、人生という長い物語は、一つ状況好転したところで決して終わりではない。
モテない男(女)が、自分を磨き、彼女をつくることができた。意中の彼(彼女)の心をつかんだ。
素晴らしい物語だ。
だが、恋愛物語はそこで終わったとしても、その主人公の旅はまだ続く。
終わりなき物語。
しかし、たいていの人は、それを受け入れている。
生涯学習とか、頑張り続けることが大事だとか、日々チャレンジだとか。
誤解や、批判を恐れずに書けば、そういった方策は、「終わり」ということから目を背けていることに過ぎないと僕は思う。
終わることが怖いのだ。だから、終わらないように、次々と目標を掲げ、努力し、ゴールを目指そうとする。
しかし、本当に、ゴールにたどり着きたいと思っているのだろうか? 僕は、否と思う。
這い上がる物語は別だ
ある意味、心を打つのは、そういった「打算的なゴール」など、一切感じさせない物語(生き方)である。のけものにされていた人が、力をつけて、周囲を黙らせるようになる。
その主人公が、みじめであればみじめであるほどに、そこに「打算」などない。生きるために、ただ、戦わなければならない。現状維持は、何ら福音にはならない。だから目指す。ゴールというよりも、深い穴から抜け出そうとあがくのだ。
「人生に退屈した老人どもに、世界を救うだなど言われて、信じられるはずなかろう」――メイガス中佐(EDENより)。
戦うことに理由などない。ただ、戦わなければ生きられないのだ。
現状維持の難しさ
話はスパッと変わる。とあるブログさんを読んで思ったこと。昨日の自分に比べたら、今日の自分は成長してる。何しろ、1日分の体験・情報があるから。しかし、昔の方が色々なことを記憶していたと、昔の自分にすら劣等感を覚える可能性もある。でも、やっぱり、人生経験という点では、昨日より今日の方が成長してるのだろう…
しかし、僕は過去に考えていたことも忘れてしまっていることが多く、ぐるぐる堂々巡りの思索の日々で、進展と後退を繰り返しながら、本当は成長も何もしてないんだろうなあとも思うことが少なくない…カラ回りしてるというか、無駄な無為な日々を送ってるんではないかと落ち込んでしまう…
――人生の意味:現状維持も立派な目標――
僕は先日、周りと比べて「自分はなんてダメなやつなんだ……」などと落ち込む必要など、まったくないと書いた。
それは、すごい人はいっぱいいるし、ダメな人はたくさんいるからだ。比較してもきりがないからだ。そんなたくさんの人がいるこの世界において、自己卑下したところで、それは単に「自己エクスキューズ」(きっぱり言っちゃえば、「言い訳」)に過ぎなかろう。
ただし、そんな中でも、負けちゃいけない人がいる。誰か? 自分だ。
自分にゃあ負けるなと。
他者に負けたっていい。そりゃ、勝ち続けられたらいいが、暴力の世界でも、知識の世界でも、政治の世界でも、技術の世界でも、コミュ力の世界でも、どこでもかしこでも、上がいれば下がいる。
僕はもう一つ、これも昔に書いたことがあるが、「総合力」で勝負しろと。
「人間とは総合である」(※)とは、実存主義の哲学者キルケゴールさんの言葉だが、様々な要素……それは、体を構成するたんぱく質にとどまらず、自分を取り巻く人、環境も含めて、自分という存在であると、私は思う。
(だから、どこまでが「自分」という境界であるのか、実は、甚だ曖昧なのだと思うが、それはともかく)
例えば、絵をかくのが得意な人でも、アマチュア・プロ含めて数多の中では、かすんでしまうだろう。しかし、絵の能力と、WEBプログラミングの能力があったらどうだろう。なんだか、人を驚かせる面白いことが少しできる可能性が増えはしまいか。
仕事で営業トークがうまいとしても、それだけでは大して重宝されないかもしれない。しかし、営業トークにプラスで、権力者に気に入られる能力も高ければ、いい思いができる可能性が増えはしまいか。
先日暗く感傷的なの書いてしまったので、たまにはポジティブなことも書いてみれば、PHPのプログラミングが少しできるだけでは大したことはないが、エクセルのマクロも少し使えて、パワーポイントが少し使えて、タイピングが少し速くて、小説を少し書くことができて、ピアノが少し弾けて、作曲が少しできて、初音ミクが少し使えて、10kmぐらいは走ることができて、筋トレを少し続けることができて、友人も少しいて、恋人を作ることも何回かできて、法律の文書を少し読むことができて、仕事で中よりは上の評価をもらえて、自動二輪の運転ができて、般若心経は暗唱できて、――と、まぁ、その一つひとつは大したことがないが、全部「総合」してみると、「唯一性」に少しずつ近づくことができる。
まー。それでも、すべてを超越する人は、たくさんいっぱい、いるんだけどね。哀しいことに。
だけど、その一つ一つを他者と比べて、「あー、やっぱり俺って駄目な奴だなぁ」なんて思っても仕方がない。無意味だ。じゃあ、そのできることの一つが、本当に、どんな環境で、どんな周囲の人との間であっても、絶対に自分が一番ダメか、って考えたら、そんなことあるまいよ。
小学生の中にいってみたまえ。「おぉ! おじちゃん、すごい!」っていってもらえる何かが、きっとあるだろうよ。
小学生の中で褒められても、虚しいだけだって?
違う、そういう意味ではない。そりゃあ、小さな環境の中で、井の中の蛙やってることを自覚しないで、本当に自分はすごいやつなんだって、勘違いしているのは痛いだけである。
でも、そんなんでも、周囲の人に何らか良い影響を与えられたら、それだけで、素晴らしいことじゃあなかろうか。
どんな優れた技術や、思想をもっていたとしても、それが誰にも伝えられなければ、世界にとっては無意味である。
ゴータマ・シッダールタさんも、最初は、「あー悟ったし、もういいや」と思ったそうだが、梵天という神様に、「いやいや、お願いだから、衆生に教えを広めてやってくださいな」と請われてじゃあいっちょやってやっか、と、80歳で亡くなるまで頑張ってくれたのだ。
――ん? はなしそれた! 話を戻す。
ええと、とにかく、自分に負けるな、ってことを、僕は以前から書いていた、ということだ。しかし、あるブログさんの記事を読んで、僕は、ちょっとこの考えも甘い部分が多大だな、と思ったわけだ。
次の章にその内容を書く。
現状維持の難しさ2
つまり、「自分には負けるんじゃないぞ」というのは、ある程度若い人向けの言葉なんじゃないかなぁということだ。確かに、若い人だとしても、身体的なピークというのは、10代後半だか20歳前半だか(曖昧)と聞いたことがある。そしたら、「過去の自分には負けるな!」と言い続けても、絶対いつか……いつかというより、結構早い段階で、過去の自分にも勝てなくなる。スポーツ選手の引退とか、そういうもんだろう。
たまに、現役で、まだまだやれるんじゃあなかろうかと思われていた選手が、現役引退! とかいって、驚かせることがあるけれども、その方にとっての、自分のピークというのはもう過ぎたんだと、類まれな感覚で分かってしまったのだろう。
確かに、すごい能力をもっているから、ある程度はまだまだ現役で活躍できるかもしれない。しかし、その人にとっては、徐々に、衰えていく自分を感じ続けなければならないということなのだ。それはある意味、つらいことだ。特に、向上心を持って、心身を鍛え続ける必要があるトップアスリートにとっては、自身の成長が望めなくなるというのは、何にもましてつらいことだろう。
だから、「自分に負けるな」というのは、いつでもどこでも、だれにでも使える魔法の言葉なんかじゃあないということを、しっかり銘記すべきだろう。
しかしそれでも、いまだ僕は、この言葉は有効だと思っている。
それはやっぱり、最初に書いた、「総合力」という意味においてだ。
僕がさっき挙げた「できること」の羅列は、確かに、自分の要素の一つでもある。しかし何も、「できること」である必要すらない。
例えば、目に見えない、人脈だとか、カリスマ性。カリスマ性って何? って考えるのは面白そうだが、それは置いておいて、他にも、さっきのアスリートの例で行けば、金メダルをとった実績だとか、仕事の営業さんでいけば、大きな契約を取った実績だとか、過去の実績というのも自分を成り立たせる要素の一つだ。
または「経験」。あまり好きな例ではないが、「修羅場」とか「つらい状況」を乗り越えたといった体験・経験というのも、一つの要素である。
そういった目に見えるもの、見えないもの含めて、自分の内部・外部含めた「総合」を考えたとき、いまだ、「過去の自分に負けるな」というのは、有効な言葉だと思うのだ。
確かに、ある分野では、もう過去の自分に勝つことはできなくなってしまったかもしれない。しかし、ピークを過ぎてしまって、挫折や苦しい思いを経験したって、それ自体が一つの自分を成り立たせる要素だとしたとき、自分という総合力は、まだまだ、全体としてマイナスに転じているとは言えないではないか、そう思うのだ。
最後に落とす
とまぁ、ここでブログを終わっておけば、まぁ前向きな記事になった気がする。しかし、僕の思考さんは、残念ながらここで終わらない。というよりも、上のことを書きながら、頭のわきに常にあったのだけれども、「で、その、自分に負けないようにして総合としての成長を感じていって、それで何を目指してるの?」と聞かれている。
上に書いたのは、
>将来のために生きるということを、僕は否定する。
>頑張って、報われるという物語を否定する。
ということであった。
自分に負けずに成長していくということは、僕が上で否定したことと矛盾しまいか。
つまりだ、徹底的な現状肯定こそが、本来あるべき姿じゃあなかろうか。
ここで強引だけど、株の勉強で知った言葉を使ってみると、「現在価値(PV)」ってやつだ。
現金(キャッシュ)ってのは、確かに、それ自体がお金を生む力がないので、ファイナンス理論の中では価値が低いものとされる。しかし、今日得られる100万円は、明日得られる101万円よりも価値が高いのだ。
頑張って、頑張って頑張って到達できる「ゴールA」があるとする。
そのゴールは、確かに、自分にとって「幸せ」であったとする。
一方、目の前に、そのゴールより手近な「ゴールB」があったとする。そのゴールBで得られる幸せは、頑張って到達できる「ゴールA」よりも少なかったとする。
さて、このとき、ゴールAを目指すのが人生の正解か、ゴールBで満足するのが人生の正解か、どちらであろうか?
もう一つ提起して、今回は終わっておこう。
僕はこの記事の最初のほうで、
>物語は終わりがあるが、人生という物語に終わりはない
と書いた。
つまり、ゴールAとゴールB問題は、それ自体で難問でありながら、「そもそも」僕は、その「ゴール」という問題提起の在り方そのものに疑問が生じてもいるのである。
(とにかく、三連休わーい)
今日の一言「思い出って良いものとは思えない」「振り返りたい過去などない」
そしたら、古い携帯が出てきた。
ふと。ACアダプタもセットになっていたので、接続し、スイッチを入れる。
ついた。
もう3年以上はとっくに過ぎているだろうに、古い、日焼けして黄ばんだ携帯は、ピロリンと安っぽい音を出して起動した。
――こんなこと書くと、僕のブログに、みじめな男であるということを期待して頂いた方々をがっかりさせるだろうが、いろいろ、「リア充」的な写真や、メールなどが見つかった。古い携帯は、ちょうど、「彼女」がいたころが、直近として時を止めていたのだった。
とある作品を最近読んで、感傷的な気分もあいまったのだろう。ついつい、こんなことを書いてしまっている。
他にも、「愛とは何か」について書かれたブログさんを読んだのもあったのかもしれない。
とにかく、他にすべきことはたくさんあるだろうに、何をもってしても、この感傷としか言えない、役立たずな気持ちを、少しばかり書き残したいと思ってしまった。
せっかく、早く帰れたのに、腹痛が、ひどい。たまに、こうなる。超音波検査などいってみたが、異常はなかった。空腹とか、そんなせいかもしれない。
感傷。
今を生きる人には役に立たない感情。
よく言われるのは、「つらいことだって、そういった感情があるから、人生って素晴らしいんだ」というようなもの。人生は波であるとか、そんな風なもの。
それはそうなんじゃないかな、と思う。ただ、その思いは、「まぁ、君がそう思うならそうなんだろうね」といったレベルだ。
それに関して思うのは、「つらいことや苦しいことだって、人生を鮮やかにするために必要なんだ」なんて言えるのは、その「つらかったことや苦しかったこと」(以下「マイナス事象」という)を、乗り越えた人たちだけだ。
そのマイナス事象の、重い軽いはここでは問題にならない。
人それぞれ、乗り越えられる苦難なんて別々だ。「え、なんでそんなことで?」というので死んでしまう人だっているだろう。それに、他者の苦難について、どの程度「重いか」なんてのは、主観で決まってしまう。他者がその重さを、本当の意味で分かってあげることなどできない。
そういう意味で、僕のこの、おもっ苦しい気持ちを、誰かに理解してもらおうなんてのは、やめた。あきらめた。
でもそれは、他者を敬遠するということではない。他者と、適切な距離をとるってことを学んだに過ぎない。さめた人間? ――かもしれない。人とかかわることが臆病な人間? ――かもしれない。けれども、こうした諦めによって、僕の「世界」は、ずいぶんと住みよく、心地よく変化したことは、間違いないのである。
話しが分かりにくくなった。
なんというか、感情のまま生きるって、いいことだなぁ、と。……いや、そうなると、言いたいことが真逆になってしまう。おかしいな、混乱しているんだな、俺は。お腹痛い。
僕は人間が嫌いだ。
どちらでもあって、どちらでもない。
こんな表現、読んだだけで気分が悪くなるだろう。人は無意識に分かりやすさを求める。答えを求める。
ゼロから、自分で考えるなんて、非効率なことは誰もがしたくない。
答えをくれる人を頼りたい。道を示してくれる人に付き従いたい。
僕はそんな凡人たちとは違う! などと表現したいわけではない。僕も、分かりやすさが欲しいし、答えが欲しい。一般的な人間だ。
でも。
そう、こんなとき。
突如、ふとした瞬間、とても、感傷的な気分になったとき。
積み上げられたものも、自分という人格も、知識も、技術も、お金も、持ち物も、身体さえも、――ほんとうに、無常を思う。
そんな気持ちに浸りたいだけ?
自分は他の人たちと違うんだって思いたいだけ?
卑屈になることで自分のいたらなさを慰めている?
いろいろ批判はできるだろう。簡単に言ってしまえば、いわゆる、気持ちの悪い人間だろう。そうだ、だから、僕は、多くの人前では、そんなこと絶対言うまい、思うまいと思っていた。
人生は、前向きに、ポジティブに、建設的に、楽しく、みんなでワイワイ、パーティピーポーになるのが大事なんだって、そう思っていた――思うようにしていた。
いや、今も思っている。それがきっと、「正しい」。正しいんだ。だって時間は有限だ。人生は限りがある。楽しく、うれしくやっていくのが当たり前に大事なんだ。
――でも。
それでも、無常だなって、思う。
僕は、両親ともに生きている。素晴らしいことだ。ひどく、落ち込んでいた時期も、とりあえず、親が生きているうちは生きてみるか、と思ったりもしていた。
とりあえず、親は、僕が死んだら悲しんでくれるだろうと、そう「信じれる」から。
親が若いうちに死んでしまった人たちは、一般的には、「かわいそう」だろう。
しかし、悲しみを乗り越える機会が早いほうが、その後自分が長く生きるとしたらよいのかもしれない。
人は、環境になれてしまう。
僕も、僕を大切にしてくれた肉親の死を最近経験した。いろいろ思い出もあいまって、泣いた。悲しんだ。
でも、それも、もう1年くらい経って、慣れてしまった。
今でも、思い出すと、もう会えないことにとても残念な気持ちになる。それでも、毎日目を真っ赤に泣きはらすことはない。
そのうえで、やっぱりこの世は無常なんだと思う。
楽しんだり、笑ったり、喜んだり、うれしかったり、恥ずかしかったり、怒ったり、泣いたり、苦しんだり、嫉妬したり。
いっぱい、いろんなことがある。
仕事だとか勉強だとか創作だとか遊びだとか世話だとかやることもたくさんある。
それでも、どうして、「生きる意味を徹底して考える」みたいなことを、僕はしなきゃならないのかって、たまに疑問になることもある。
やっぱり、感情的に、物欲的に生きるのが「正解」なんじゃないかって、良いことがある度に思ったりする(まぁ、そんなにイイことなんてあんまないが)。
でもやっぱり、こうやって、感傷的な感覚になると、よく分かる。
やっぱり、すべては、うつろいゆくものなのだということ(諸行無常)。
すべて幻影だとか、幻想だとか、そういうわけではない。
すべての物や、事や、人は、「ある」。
ただそれは、「現象」しているだけである。唯一不変の根源などもっていない(諸法無我)。
それを信じたくない人が、量子物理学を研究するのかもしれない。物質の根源は、「ある」のだと。分子、原子、陽子・中性子・電子、クォーク……と、小さく、小さく自然を探求していく。
物質の根源はあるのだと。そして、僕ら人間の根源もあるのだと、そう信じて。
何をまぁ、30代のおっさんが言っているのか。
慕ってついてきてくれる後輩も、先日知り合った女性も、こんなん読んだらドン引きである。
――と、いつもそうおもうのだけど、実際どうだろうか。
まぁ、経験上、ドン引きされる確率が高いのだけれども、ただ、よく考えると、だれしもこの手のことは考えているのではなかろうか。
だって、人はいずれ死ぬってことに、異議を唱えるひとはいまい。
小学生ぐらいだったら、死という概念もわからないかもしれない。他者の死というのは、動かなくなったり、会えなくなるということで、理解できるかもしれない。でも、自分の死というのは、幼い子は理解できるのだろうか?
いや、それを言ったら、僕らも同じだ。人の死は容易に想像できるが、自分の死というのは、どこか、遠い事象のように思っている。明日、無事目が覚めることを疑うことはない。
――そうやって、脳機能ができている。死の恐怖に取りつかれないようになっている。死刑を宣告され、ずた袋をかぶされ、首をはねられる瞬間まで、自分の死を覚悟することはない(わけでもなかろうが)。
いやいや、当たり前だ。こんなことばかり考えていたら、まともに生活など送れない。
死なんて、どっか遠いできごとなのだ。
だから、どこか遠い死を実感するために、僕らは物語を欲する。どこか知らない誰かの死を思うことで、自分ではなかったと、自分は違うのだと信じるために。
好き、なのだが、今楽しんでいるかというと、非常に陰鬱な気分である。
じゃあやめればいい。誰も、お前に、そんな苦しみながら書くことを求めていない。
わかっている、わかっているが、しかし、やっぱり、書かないといけないだろう。
なぜか?
できるだけ多くの人に、こんなめんどくさい思いをさせなくて済むようにだ。
みんな忙しいだろう。家族に、恋人に、友人に、子供に、後輩に、上司に、お客さんに、いろいろ、やることたくさんあるだろう。考えている暇なんてないだろう。
でも、たまーに、ごくまれに、「〇〇」という思いが生じる人もいるだろう。
そういった人のために、少しでも、考えるプロセスというか、要素の洗い出しというか、流れの整理というかを、先んじてやっておきたい。
僕なんかがやらなくても、いろいろ、先人の「表現」がいろいろあるだろう。
けれども、「僕の」表現言語によってしか、伝わらないことってのもあると思う。大雑把なくくりの中で、30代の男ってカテゴライズされてしまうに過ぎないけれども、それでも、僕の「感覚」によって表現する「〇〇」というのは、きっと、唯一性と一回性が備わっているのである。
(携帯つながりで最後にメモだけれど、格安SIMに切り替えたスマホの調子は悪くない。MVNOだからといって、やはり回線スピードが著しく遅くなるなんてことはなかった。通話料は、auだと、5分間以内は無料で、5分超は30秒20円であり、格安SIMのプランは、5分間以内無料がないだけで、料金は同じである。電話をよく使う人は、MNOの方がよい場合もあるかもしれないが、大半の人はMVNOで十分なんじゃあないかと思う。まぁ、首都圏でのレビューであって、地方の回線事情とかとは違うかもしれないが)
古い携帯が出土した
最近珍しく、早く帰ることができたので、部屋の片づけを実施。そしたら、古い携帯が出てきた。
ふと。ACアダプタもセットになっていたので、接続し、スイッチを入れる。
ついた。
もう3年以上はとっくに過ぎているだろうに、古い、日焼けして黄ばんだ携帯は、ピロリンと安っぽい音を出して起動した。
――こんなこと書くと、僕のブログに、みじめな男であるということを期待して頂いた方々をがっかりさせるだろうが、いろいろ、「リア充」的な写真や、メールなどが見つかった。古い携帯は、ちょうど、「彼女」がいたころが、直近として時を止めていたのだった。
とある作品を最近読んで、感傷的な気分もあいまったのだろう。ついつい、こんなことを書いてしまっている。
他にも、「愛とは何か」について書かれたブログさんを読んだのもあったのかもしれない。
とにかく、他にすべきことはたくさんあるだろうに、何をもってしても、この感傷としか言えない、役立たずな気持ちを、少しばかり書き残したいと思ってしまった。
ある人のメール
あー。せっかく、早く帰れたのに、腹痛が、ひどい。たまに、こうなる。超音波検査などいってみたが、異常はなかった。空腹とか、そんなせいかもしれない。
感傷。
今を生きる人には役に立たない感情。
よく言われるのは、「つらいことだって、そういった感情があるから、人生って素晴らしいんだ」というようなもの。人生は波であるとか、そんな風なもの。
それはそうなんじゃないかな、と思う。ただ、その思いは、「まぁ、君がそう思うならそうなんだろうね」といったレベルだ。
それに関して思うのは、「つらいことや苦しいことだって、人生を鮮やかにするために必要なんだ」なんて言えるのは、その「つらかったことや苦しかったこと」(以下「マイナス事象」という)を、乗り越えた人たちだけだ。
そのマイナス事象の、重い軽いはここでは問題にならない。
人それぞれ、乗り越えられる苦難なんて別々だ。「え、なんでそんなことで?」というので死んでしまう人だっているだろう。それに、他者の苦難について、どの程度「重いか」なんてのは、主観で決まってしまう。他者がその重さを、本当の意味で分かってあげることなどできない。
そういう意味で、僕のこの、おもっ苦しい気持ちを、誰かに理解してもらおうなんてのは、やめた。あきらめた。
でもそれは、他者を敬遠するということではない。他者と、適切な距離をとるってことを学んだに過ぎない。さめた人間? ――かもしれない。人とかかわることが臆病な人間? ――かもしれない。けれども、こうした諦めによって、僕の「世界」は、ずいぶんと住みよく、心地よく変化したことは、間違いないのである。
話しが分かりにくくなった。
なんというか、感情のまま生きるって、いいことだなぁ、と。……いや、そうなると、言いたいことが真逆になってしまう。おかしいな、混乱しているんだな、俺は。お腹痛い。
他者の痛みが分かる人間
僕は人間が好きだ。僕は人間が嫌いだ。
どちらでもあって、どちらでもない。
こんな表現、読んだだけで気分が悪くなるだろう。人は無意識に分かりやすさを求める。答えを求める。
ゼロから、自分で考えるなんて、非効率なことは誰もがしたくない。
答えをくれる人を頼りたい。道を示してくれる人に付き従いたい。
僕はそんな凡人たちとは違う! などと表現したいわけではない。僕も、分かりやすさが欲しいし、答えが欲しい。一般的な人間だ。
でも。
そう、こんなとき。
突如、ふとした瞬間、とても、感傷的な気分になったとき。
積み上げられたものも、自分という人格も、知識も、技術も、お金も、持ち物も、身体さえも、――ほんとうに、無常を思う。
そんな気持ちに浸りたいだけ?
自分は他の人たちと違うんだって思いたいだけ?
卑屈になることで自分のいたらなさを慰めている?
いろいろ批判はできるだろう。簡単に言ってしまえば、いわゆる、気持ちの悪い人間だろう。そうだ、だから、僕は、多くの人前では、そんなこと絶対言うまい、思うまいと思っていた。
人生は、前向きに、ポジティブに、建設的に、楽しく、みんなでワイワイ、パーティピーポーになるのが大事なんだって、そう思っていた――思うようにしていた。
いや、今も思っている。それがきっと、「正しい」。正しいんだ。だって時間は有限だ。人生は限りがある。楽しく、うれしくやっていくのが当たり前に大事なんだ。
――でも。
それでも、無常だなって、思う。
親の死
僕の友人の何人かは、親がいなかったりする。僕は、両親ともに生きている。素晴らしいことだ。ひどく、落ち込んでいた時期も、とりあえず、親が生きているうちは生きてみるか、と思ったりもしていた。
とりあえず、親は、僕が死んだら悲しんでくれるだろうと、そう「信じれる」から。
親が若いうちに死んでしまった人たちは、一般的には、「かわいそう」だろう。
しかし、悲しみを乗り越える機会が早いほうが、その後自分が長く生きるとしたらよいのかもしれない。
人は、環境になれてしまう。
僕も、僕を大切にしてくれた肉親の死を最近経験した。いろいろ思い出もあいまって、泣いた。悲しんだ。
でも、それも、もう1年くらい経って、慣れてしまった。
今でも、思い出すと、もう会えないことにとても残念な気持ちになる。それでも、毎日目を真っ赤に泣きはらすことはない。
無常
素晴らしいものや、ことや、人はたくさんあったり、いたりするという前提で。そのうえで、やっぱりこの世は無常なんだと思う。
楽しんだり、笑ったり、喜んだり、うれしかったり、恥ずかしかったり、怒ったり、泣いたり、苦しんだり、嫉妬したり。
いっぱい、いろんなことがある。
仕事だとか勉強だとか創作だとか遊びだとか世話だとかやることもたくさんある。
それでも、どうして、「生きる意味を徹底して考える」みたいなことを、僕はしなきゃならないのかって、たまに疑問になることもある。
やっぱり、感情的に、物欲的に生きるのが「正解」なんじゃないかって、良いことがある度に思ったりする(まぁ、そんなにイイことなんてあんまないが)。
でもやっぱり、こうやって、感傷的な感覚になると、よく分かる。
やっぱり、すべては、うつろいゆくものなのだということ(諸行無常)。
すべて幻影だとか、幻想だとか、そういうわけではない。
すべての物や、事や、人は、「ある」。
ただそれは、「現象」しているだけである。唯一不変の根源などもっていない(諸法無我)。
それを信じたくない人が、量子物理学を研究するのかもしれない。物質の根源は、「ある」のだと。分子、原子、陽子・中性子・電子、クォーク……と、小さく、小さく自然を探求していく。
物質の根源はあるのだと。そして、僕ら人間の根源もあるのだと、そう信じて。
中学生ぐらいならありかな
とまぁ、こういった文章が、彼女にふられたばかりの、中学生、高校生ぐらいならありかもしれない。何をまぁ、30代のおっさんが言っているのか。
慕ってついてきてくれる後輩も、先日知り合った女性も、こんなん読んだらドン引きである。
――と、いつもそうおもうのだけど、実際どうだろうか。
まぁ、経験上、ドン引きされる確率が高いのだけれども、ただ、よく考えると、だれしもこの手のことは考えているのではなかろうか。
だって、人はいずれ死ぬってことに、異議を唱えるひとはいまい。
小学生ぐらいだったら、死という概念もわからないかもしれない。他者の死というのは、動かなくなったり、会えなくなるということで、理解できるかもしれない。でも、自分の死というのは、幼い子は理解できるのだろうか?
いや、それを言ったら、僕らも同じだ。人の死は容易に想像できるが、自分の死というのは、どこか、遠い事象のように思っている。明日、無事目が覚めることを疑うことはない。
――そうやって、脳機能ができている。死の恐怖に取りつかれないようになっている。死刑を宣告され、ずた袋をかぶされ、首をはねられる瞬間まで、自分の死を覚悟することはない(わけでもなかろうが)。
いやいや、当たり前だ。こんなことばかり考えていたら、まともに生活など送れない。
死なんて、どっか遠いできごとなのだ。
だから、どこか遠い死を実感するために、僕らは物語を欲する。どこか知らない誰かの死を思うことで、自分ではなかったと、自分は違うのだと信じるために。
感傷に浸っている?
僕は、文章を書くのが好きだ。好き、なのだが、今楽しんでいるかというと、非常に陰鬱な気分である。
じゃあやめればいい。誰も、お前に、そんな苦しみながら書くことを求めていない。
わかっている、わかっているが、しかし、やっぱり、書かないといけないだろう。
なぜか?
できるだけ多くの人に、こんなめんどくさい思いをさせなくて済むようにだ。
みんな忙しいだろう。家族に、恋人に、友人に、子供に、後輩に、上司に、お客さんに、いろいろ、やることたくさんあるだろう。考えている暇なんてないだろう。
でも、たまーに、ごくまれに、「〇〇」という思いが生じる人もいるだろう。
そういった人のために、少しでも、考えるプロセスというか、要素の洗い出しというか、流れの整理というかを、先んじてやっておきたい。
僕なんかがやらなくても、いろいろ、先人の「表現」がいろいろあるだろう。
けれども、「僕の」表現言語によってしか、伝わらないことってのもあると思う。大雑把なくくりの中で、30代の男ってカテゴライズされてしまうに過ぎないけれども、それでも、僕の「感覚」によって表現する「〇〇」というのは、きっと、唯一性と一回性が備わっているのである。
(携帯つながりで最後にメモだけれど、格安SIMに切り替えたスマホの調子は悪くない。MVNOだからといって、やはり回線スピードが著しく遅くなるなんてことはなかった。通話料は、auだと、5分間以内は無料で、5分超は30秒20円であり、格安SIMのプランは、5分間以内無料がないだけで、料金は同じである。電話をよく使う人は、MNOの方がよい場合もあるかもしれないが、大半の人はMVNOで十分なんじゃあないかと思う。まぁ、首都圏でのレビューであって、地方の回線事情とかとは違うかもしれないが)
今日の一言「メモ」
人は、他者と関わる際に、社会的な人格をもちいる。社会的な人格とは、建前だったり、礼儀だったり、マナーだったり。それが「ペルソナ」(仮面)である。
誰しも、「本音」と呼ばれる部分がある。――本心、潜在意識と呼ばれたりもする。それを、ペルソナによって隠しているのだ。
そして、このアニメーション作品では、どっちのこと言ってるんだろう?
まぁそんな難しいことおいておいて、第二の自分(つよい!)(≒スタンド)をもちいて、敵を倒していく作品だ!(雑)
よく分からないな、と思っていたが、第三話までみて、あれ、よく考えたら第二話みてないな、と気づいた。そりゃあよく分からないはずだ。
多分、真夜中テレビという異次元に入り込むと、自分の「本心・本音」の具現化したのが存在している。そいつは、時に醜悪な感情を表出している。でもそれを認めて、そんな気持ちの悪い自分というのも、自分の一つの要素なのだと理解することを通じて、「ペルソナ」(≒スタンド)が使えるようになるのだろう。
とすると、本心の方がペルソナってこと? でもそうすると、原義としての、「社会的人格」「仮面」といった意味が反転していないか? と思う。
いや違うのだろう。本心とか、仮面とか、そういった区別自体がさほど意味をもたない、ということを表現しているのだろう。獰悪で邪悪な心もまた、自分の一部なのだと。
取り敢えず2話をみよう。話はそれからだ。
しかし、3話目の、ちえちゃんが自分のペルソナに追い込みかけられるのは結構面白かった。
大人は引き受けるものだ、と先日の記事で触れたけれども、大人とは、自分の複数の要素を統合して認めることができる人のことを言うのかもしれない。
いや確かに、子供を育てたり、部下を育てたりと、「育てることができる人」(誰かの模範となれる)というのが、大人の要素ではあるだろう。むしろ社会的には、その要素だけで十分に思われる。
けれども、いかに言動が品行方正で立派な大人であろうと、自身の人格の陶冶ができていなければ、大人として不十分なのではなかろうか。なんてね、どうでもいいか。
SQLも、使っているうちにだんだん覚えてきた。次の目標は、検索機能の強化だなぁ。せっかく情報があっても、それを上手く検索したり使えなかったりしたら、意味がない。
そして、今更ながら、CSSをもう一度勉強しなおそうかと思った。CSSも、HTMLも、当時サイト構築したころからヴァージョンがあがっていて、色々便利な機能やかっこいい機能なども手軽に使えるようになっている。
クライアント端末のスペックも――何かっこつけた書き方してんだ、単に、利用する人たちの使うパソコンの性能も全般的に向上しているから、ブラウザ側の処理で多少負荷をかけても大丈夫になってきている。それどころか、最近、広告が多いサイトが多い。大昔は、あんなん、表示するだけで大変だった。僕が小学校ぐらいのときのパソコンなんて、数百キロバイトの画像を開くだけで一苦労だった。
時代は変わって、いろいろ便利になっていっている。しかし、「やりたいこと」というのが明確になっていないと、使える技術だけが広がっていき、覚えることばかりが増えていき、結局、何が「やりたいこと」なのか分からなくなってしまうことになりかねない。
そういう意味で、実践って、とっても大事だなぁと思うわけである。
何って、株の話だ。
非常に基本的な用語のようであるが、なかなか概念が自分の中に定着しないので、これまた何も参照せずに、いったん、自分の知識を整理する。
まず求め方。
時価総額 ÷ 純利益
または、
株価 ÷ 一株当たり利益
となる。
時価総額とは、株価×発行株式数である。
ある企業で、発行株式数が「5,090,000」であった。して、株価が319円であった。
5090000×319 = 1,623,710,000 が、時価総額。
ペルソナ4のアニメ
「ペルソナ」。仮面と訳されることもある。人は、他者と関わる際に、社会的な人格をもちいる。社会的な人格とは、建前だったり、礼儀だったり、マナーだったり。それが「ペルソナ」(仮面)である。
誰しも、「本音」と呼ばれる部分がある。――本心、潜在意識と呼ばれたりもする。それを、ペルソナによって隠しているのだ。
そして、このアニメーション作品では、どっちのこと言ってるんだろう?
まぁそんな難しいことおいておいて、第二の自分(つよい!)(≒スタンド)をもちいて、敵を倒していく作品だ!(雑)
よく分からないな、と思っていたが、第三話までみて、あれ、よく考えたら第二話みてないな、と気づいた。そりゃあよく分からないはずだ。
多分、真夜中テレビという異次元に入り込むと、自分の「本心・本音」の具現化したのが存在している。そいつは、時に醜悪な感情を表出している。でもそれを認めて、そんな気持ちの悪い自分というのも、自分の一つの要素なのだと理解することを通じて、「ペルソナ」(≒スタンド)が使えるようになるのだろう。
とすると、本心の方がペルソナってこと? でもそうすると、原義としての、「社会的人格」「仮面」といった意味が反転していないか? と思う。
いや違うのだろう。本心とか、仮面とか、そういった区別自体がさほど意味をもたない、ということを表現しているのだろう。獰悪で邪悪な心もまた、自分の一部なのだと。
取り敢えず2話をみよう。話はそれからだ。
しかし、3話目の、ちえちゃんが自分のペルソナに追い込みかけられるのは結構面白かった。
大人は引き受けるものだ、と先日の記事で触れたけれども、大人とは、自分の複数の要素を統合して認めることができる人のことを言うのかもしれない。
いや確かに、子供を育てたり、部下を育てたりと、「育てることができる人」(誰かの模範となれる)というのが、大人の要素ではあるだろう。むしろ社会的には、その要素だけで十分に思われる。
けれども、いかに言動が品行方正で立派な大人であろうと、自身の人格の陶冶ができていなければ、大人として不十分なのではなかろうか。なんてね、どうでもいいか。
サイトの改修
プログラミング実施。大体2~3時間所要。作品の情報を増やすため、データベースに新しい項目を追加し、新規投稿・編集・一覧表示・1件表示のロジック部分を改修。SQLも、使っているうちにだんだん覚えてきた。次の目標は、検索機能の強化だなぁ。せっかく情報があっても、それを上手く検索したり使えなかったりしたら、意味がない。
そして、今更ながら、CSSをもう一度勉強しなおそうかと思った。CSSも、HTMLも、当時サイト構築したころからヴァージョンがあがっていて、色々便利な機能やかっこいい機能なども手軽に使えるようになっている。
クライアント端末のスペックも――何かっこつけた書き方してんだ、単に、利用する人たちの使うパソコンの性能も全般的に向上しているから、ブラウザ側の処理で多少負荷をかけても大丈夫になってきている。それどころか、最近、広告が多いサイトが多い。大昔は、あんなん、表示するだけで大変だった。僕が小学校ぐらいのときのパソコンなんて、数百キロバイトの画像を開くだけで一苦労だった。
時代は変わって、いろいろ便利になっていっている。しかし、「やりたいこと」というのが明確になっていないと、使える技術だけが広がっていき、覚えることばかりが増えていき、結局、何が「やりたいこと」なのか分からなくなってしまうことになりかねない。
そういう意味で、実践って、とっても大事だなぁと思うわけである。
プライス・アーニングス・レシオ
PERの略。何って、株の話だ。
非常に基本的な用語のようであるが、なかなか概念が自分の中に定着しないので、これまた何も参照せずに、いったん、自分の知識を整理する。
まず求め方。
時価総額 ÷ 純利益
または、
株価 ÷ 一株当たり利益
となる。
時価総額とは、株価×発行株式数である。
ある企業で、発行株式数が「5,090,000」であった。して、株価が319円であった。
5090000×319 = 1,623,710,000 が、時価総額。
この企業の有価証券報告書を参照し、28年度末の純利益が、131百万円であった。
すると、1623百万円 ÷ 131百万円 = 約12倍 となる。
これが、PERである。
もう一つの求め方。
株価(319円) ÷ 一株当たり利益(26円) = 約12倍 となる。
これで、どれぐらいの期間(何年間)で、株価のもとがとれるか、ということを見る指標ということだ。
当然、少ないほうが、株価に対して利益が大きいということだから、お得な銘柄であるといえる。
100万円で事業をはじめて、1年で100万円の利益を出せるならPER1倍。これだけ考えると、単純にPERが低い銘柄を買えばよいような気になるが、そう単純でもないようである。これから勉強が必要だ。
例えば、割り返す数字に、「純利益」が使われている点。
純利益とは、その企業のメインの以外の活動も含めた、最終出た利益のこと。つまり、本事業でうまくいっていなくても、資産(土地とか建物とか、人とか)を売り払って、臨時で利益が出ているだけの可能性もある。
そしたら、一時的にPERは小さい数字をはじくかもしれないが、翌年にはあえなく倒産、とか、そんな可能性もあるだろうたぶん。
(そのほか、例えば、業界の平均を調べるとか、その企業における推移を調べるとかも必要)
と、そこまで言われてはいないが、気を付けようとは思った。しかし、どうにも難しい、というか、短い記事だと面白くない。ので、三つまとめてみた。
PCの調子がよくなくなったので、強制終了。
(しかし、近況メモ的なのは、書いていてもあんまり面白くないな。あとから読んだら、どうだろうか。まぁ、しばらくして読み返してみよう。あんまりダメそうなら修正するか消そう)
すると、1623百万円 ÷ 131百万円 = 約12倍 となる。
これが、PERである。
もう一つの求め方。
株価(319円) ÷ 一株当たり利益(26円) = 約12倍 となる。
これで、どれぐらいの期間(何年間)で、株価のもとがとれるか、ということを見る指標ということだ。
当然、少ないほうが、株価に対して利益が大きいということだから、お得な銘柄であるといえる。
100万円で事業をはじめて、1年で100万円の利益を出せるならPER1倍。これだけ考えると、単純にPERが低い銘柄を買えばよいような気になるが、そう単純でもないようである。これから勉強が必要だ。
例えば、割り返す数字に、「純利益」が使われている点。
純利益とは、その企業のメインの以外の活動も含めた、最終出た利益のこと。つまり、本事業でうまくいっていなくても、資産(土地とか建物とか、人とか)を売り払って、臨時で利益が出ているだけの可能性もある。
そしたら、一時的にPERは小さい数字をはじくかもしれないが、翌年にはあえなく倒産、とか、そんな可能性もあるだろうたぶん。
(そのほか、例えば、業界の平均を調べるとか、その企業における推移を調べるとかも必要)
まとめ
「お前のブログはなげーんだよ。もっとテーマしぼって短く書けよ」と、そこまで言われてはいないが、気を付けようとは思った。しかし、どうにも難しい、というか、短い記事だと面白くない。ので、三つまとめてみた。
PCの調子がよくなくなったので、強制終了。
(しかし、近況メモ的なのは、書いていてもあんまり面白くないな。あとから読んだら、どうだろうか。まぁ、しばらくして読み返してみよう。あんまりダメそうなら修正するか消そう)
