今日の一言「よし三連休だぜ」「何の予定も考えていない」
いや何も、週休二日制を無視していたわけではない。しかし、何もない休日は久しぶりな気がする。
思うに、その休日に入る前の「準備」が大切だ。ボロボロつかれた状態で休日に突入すると、十中八九、ボロボロな休日になってしまう。
だが、僕はふと思った。
休日そのものが嬉しいのではなく、「何もない時間が続くこと」自体がうれしいのではないかと。
つまり、とりあえず、まぁ、なんか仕事もプライベートもうまくいかないが、三日間は、無為な時間が得られるということである。
とりあえず、日々の雑事について、思い煩うことがないのである。
そりゃあ、もちろん、何か予定があるのは良いことのように思う。けれども、予定があるってのは、その予定に対して「思い煩っている」ということになるまいか。いやなるだろう。
だから、「あー、何しよっかなー」とか、ぼけーっと考えられるってことそれ自体が、とっても幸せなことのように僕は思うのだ、思ったのだ。
何だろう、何かこう活動していて充実しているなぁ、楽しいなぁと思うことはあるけれども、何もしていないこの瞬間が、なんかワクワクしてくる。
こういった時間を多くしていくことが、人生を楽しむっていうことなんだろうか。
そうすると、日がらずーっと、テレビをみて、縁側で日向ぼっこしながら過ごすお年寄り(こんなモデルはもはや段々くずれていってるだろう。いや老人ホームとかでは日常茶飯事か)になるのが、目指すべきものだろうか。
しかし、このことに、一つ懐疑はある。今のこのワクワク感は、いつもの「雑事」(=めんどうなこと)から、一時的に解放されたという、その解放感によるものかもしれないということ。
つまり、そもそも、「雑事」がなくなってしまえば、もはや、そういったわくわく感も得られなくなるのではないか、ということである。
確かに、そんなことは、一生懸命働いて、定年を迎えてから感じたり考えてもいいかもしれない。
――僕は、断じて、否、という。
将来のために生きるということを、僕は否定する。
頑張って、報われるという物語を否定する。
どん底の状況から這い上がるのは必要だ。しかし、物語はそこで終わっても、人生という長い物語は、一つ状況好転したところで決して終わりではない。
モテない男(女)が、自分を磨き、彼女をつくることができた。意中の彼(彼女)の心をつかんだ。
素晴らしい物語だ。
だが、恋愛物語はそこで終わったとしても、その主人公の旅はまだ続く。
終わりなき物語。
しかし、たいていの人は、それを受け入れている。
生涯学習とか、頑張り続けることが大事だとか、日々チャレンジだとか。
誤解や、批判を恐れずに書けば、そういった方策は、「終わり」ということから目を背けていることに過ぎないと僕は思う。
終わることが怖いのだ。だから、終わらないように、次々と目標を掲げ、努力し、ゴールを目指そうとする。
しかし、本当に、ゴールにたどり着きたいと思っているのだろうか? 僕は、否と思う。
のけものにされていた人が、力をつけて、周囲を黙らせるようになる。
その主人公が、みじめであればみじめであるほどに、そこに「打算」などない。生きるために、ただ、戦わなければならない。現状維持は、何ら福音にはならない。だから目指す。ゴールというよりも、深い穴から抜け出そうとあがくのだ。
「人生に退屈した老人どもに、世界を救うだなど言われて、信じられるはずなかろう」――メイガス中佐(EDENより)。
戦うことに理由などない。ただ、戦わなければ生きられないのだ。
僕は先日、周りと比べて「自分はなんてダメなやつなんだ……」などと落ち込む必要など、まったくないと書いた。
それは、すごい人はいっぱいいるし、ダメな人はたくさんいるからだ。比較してもきりがないからだ。そんなたくさんの人がいるこの世界において、自己卑下したところで、それは単に「自己エクスキューズ」(きっぱり言っちゃえば、「言い訳」)に過ぎなかろう。
ただし、そんな中でも、負けちゃいけない人がいる。誰か? 自分だ。
自分にゃあ負けるなと。
他者に負けたっていい。そりゃ、勝ち続けられたらいいが、暴力の世界でも、知識の世界でも、政治の世界でも、技術の世界でも、コミュ力の世界でも、どこでもかしこでも、上がいれば下がいる。
僕はもう一つ、これも昔に書いたことがあるが、「総合力」で勝負しろと。
「人間とは総合である」(※)とは、実存主義の哲学者キルケゴールさんの言葉だが、様々な要素……それは、体を構成するたんぱく質にとどまらず、自分を取り巻く人、環境も含めて、自分という存在であると、私は思う。
(だから、どこまでが「自分」という境界であるのか、実は、甚だ曖昧なのだと思うが、それはともかく)
例えば、絵をかくのが得意な人でも、アマチュア・プロ含めて数多の中では、かすんでしまうだろう。しかし、絵の能力と、WEBプログラミングの能力があったらどうだろう。なんだか、人を驚かせる面白いことが少しできる可能性が増えはしまいか。
仕事で営業トークがうまいとしても、それだけでは大して重宝されないかもしれない。しかし、営業トークにプラスで、権力者に気に入られる能力も高ければ、いい思いができる可能性が増えはしまいか。
先日暗く感傷的なの書いてしまったので、たまにはポジティブなことも書いてみれば、PHPのプログラミングが少しできるだけでは大したことはないが、エクセルのマクロも少し使えて、パワーポイントが少し使えて、タイピングが少し速くて、小説を少し書くことができて、ピアノが少し弾けて、作曲が少しできて、初音ミクが少し使えて、10kmぐらいは走ることができて、筋トレを少し続けることができて、友人も少しいて、恋人を作ることも何回かできて、法律の文書を少し読むことができて、仕事で中よりは上の評価をもらえて、自動二輪の運転ができて、般若心経は暗唱できて、――と、まぁ、その一つひとつは大したことがないが、全部「総合」してみると、「唯一性」に少しずつ近づくことができる。
まー。それでも、すべてを超越する人は、たくさんいっぱい、いるんだけどね。哀しいことに。
だけど、その一つ一つを他者と比べて、「あー、やっぱり俺って駄目な奴だなぁ」なんて思っても仕方がない。無意味だ。じゃあ、そのできることの一つが、本当に、どんな環境で、どんな周囲の人との間であっても、絶対に自分が一番ダメか、って考えたら、そんなことあるまいよ。
小学生の中にいってみたまえ。「おぉ! おじちゃん、すごい!」っていってもらえる何かが、きっとあるだろうよ。
小学生の中で褒められても、虚しいだけだって?
違う、そういう意味ではない。そりゃあ、小さな環境の中で、井の中の蛙やってることを自覚しないで、本当に自分はすごいやつなんだって、勘違いしているのは痛いだけである。
でも、そんなんでも、周囲の人に何らか良い影響を与えられたら、それだけで、素晴らしいことじゃあなかろうか。
どんな優れた技術や、思想をもっていたとしても、それが誰にも伝えられなければ、世界にとっては無意味である。
ゴータマ・シッダールタさんも、最初は、「あー悟ったし、もういいや」と思ったそうだが、梵天という神様に、「いやいや、お願いだから、衆生に教えを広めてやってくださいな」と請われてじゃあいっちょやってやっか、と、80歳で亡くなるまで頑張ってくれたのだ。
――ん? はなしそれた! 話を戻す。
ええと、とにかく、自分に負けるな、ってことを、僕は以前から書いていた、ということだ。しかし、あるブログさんの記事を読んで、僕は、ちょっとこの考えも甘い部分が多大だな、と思ったわけだ。
次の章にその内容を書く。
確かに、若い人だとしても、身体的なピークというのは、10代後半だか20歳前半だか(曖昧)と聞いたことがある。そしたら、「過去の自分には負けるな!」と言い続けても、絶対いつか……いつかというより、結構早い段階で、過去の自分にも勝てなくなる。スポーツ選手の引退とか、そういうもんだろう。
たまに、現役で、まだまだやれるんじゃあなかろうかと思われていた選手が、現役引退! とかいって、驚かせることがあるけれども、その方にとっての、自分のピークというのはもう過ぎたんだと、類まれな感覚で分かってしまったのだろう。
確かに、すごい能力をもっているから、ある程度はまだまだ現役で活躍できるかもしれない。しかし、その人にとっては、徐々に、衰えていく自分を感じ続けなければならないということなのだ。それはある意味、つらいことだ。特に、向上心を持って、心身を鍛え続ける必要があるトップアスリートにとっては、自身の成長が望めなくなるというのは、何にもましてつらいことだろう。
だから、「自分に負けるな」というのは、いつでもどこでも、だれにでも使える魔法の言葉なんかじゃあないということを、しっかり銘記すべきだろう。
しかしそれでも、いまだ僕は、この言葉は有効だと思っている。
それはやっぱり、最初に書いた、「総合力」という意味においてだ。
僕がさっき挙げた「できること」の羅列は、確かに、自分の要素の一つでもある。しかし何も、「できること」である必要すらない。
例えば、目に見えない、人脈だとか、カリスマ性。カリスマ性って何? って考えるのは面白そうだが、それは置いておいて、他にも、さっきのアスリートの例で行けば、金メダルをとった実績だとか、仕事の営業さんでいけば、大きな契約を取った実績だとか、過去の実績というのも自分を成り立たせる要素の一つだ。
または「経験」。あまり好きな例ではないが、「修羅場」とか「つらい状況」を乗り越えたといった体験・経験というのも、一つの要素である。
そういった目に見えるもの、見えないもの含めて、自分の内部・外部含めた「総合」を考えたとき、いまだ、「過去の自分に負けるな」というのは、有効な言葉だと思うのだ。
確かに、ある分野では、もう過去の自分に勝つことはできなくなってしまったかもしれない。しかし、ピークを過ぎてしまって、挫折や苦しい思いを経験したって、それ自体が一つの自分を成り立たせる要素だとしたとき、自分という総合力は、まだまだ、全体としてマイナスに転じているとは言えないではないか、そう思うのだ。
しかし、僕の思考さんは、残念ながらここで終わらない。というよりも、上のことを書きながら、頭のわきに常にあったのだけれども、「で、その、自分に負けないようにして総合としての成長を感じていって、それで何を目指してるの?」と聞かれている。
上に書いたのは、
>将来のために生きるということを、僕は否定する。
>頑張って、報われるという物語を否定する。
ということであった。
自分に負けずに成長していくということは、僕が上で否定したことと矛盾しまいか。
つまりだ、徹底的な現状肯定こそが、本来あるべき姿じゃあなかろうか。
ここで強引だけど、株の勉強で知った言葉を使ってみると、「現在価値(PV)」ってやつだ。
現金(キャッシュ)ってのは、確かに、それ自体がお金を生む力がないので、ファイナンス理論の中では価値が低いものとされる。しかし、今日得られる100万円は、明日得られる101万円よりも価値が高いのだ。
頑張って、頑張って頑張って到達できる「ゴールA」があるとする。
そのゴールは、確かに、自分にとって「幸せ」であったとする。
一方、目の前に、そのゴールより手近な「ゴールB」があったとする。そのゴールBで得られる幸せは、頑張って到達できる「ゴールA」よりも少なかったとする。
さて、このとき、ゴールAを目指すのが人生の正解か、ゴールBで満足するのが人生の正解か、どちらであろうか?
もう一つ提起して、今回は終わっておこう。
僕はこの記事の最初のほうで、
>物語は終わりがあるが、人生という物語に終わりはない
と書いた。
つまり、ゴールAとゴールB問題は、それ自体で難問でありながら、「そもそも」僕は、その「ゴール」という問題提起の在り方そのものに疑問が生じてもいるのである。
(とにかく、三連休わーい)
何かしよう(雑)
よし、ようやく休みだ!いや何も、週休二日制を無視していたわけではない。しかし、何もない休日は久しぶりな気がする。
思うに、その休日に入る前の「準備」が大切だ。ボロボロつかれた状態で休日に突入すると、十中八九、ボロボロな休日になってしまう。
だが、僕はふと思った。
休日そのものが嬉しいのではなく、「何もない時間が続くこと」自体がうれしいのではないかと。
つまり、とりあえず、まぁ、なんか仕事もプライベートもうまくいかないが、三日間は、無為な時間が得られるということである。
とりあえず、日々の雑事について、思い煩うことがないのである。
そりゃあ、もちろん、何か予定があるのは良いことのように思う。けれども、予定があるってのは、その予定に対して「思い煩っている」ということになるまいか。いやなるだろう。
だから、「あー、何しよっかなー」とか、ぼけーっと考えられるってことそれ自体が、とっても幸せなことのように僕は思うのだ、思ったのだ。
何もない
まずは、この、現状の気持ちを書き残しておこう。とっても、楽しい。何だろう、何かこう活動していて充実しているなぁ、楽しいなぁと思うことはあるけれども、何もしていないこの瞬間が、なんかワクワクしてくる。
こういった時間を多くしていくことが、人生を楽しむっていうことなんだろうか。
そうすると、日がらずーっと、テレビをみて、縁側で日向ぼっこしながら過ごすお年寄り(こんなモデルはもはや段々くずれていってるだろう。いや老人ホームとかでは日常茶飯事か)になるのが、目指すべきものだろうか。
しかし、このことに、一つ懐疑はある。今のこのワクワク感は、いつもの「雑事」(=めんどうなこと)から、一時的に解放されたという、その解放感によるものかもしれないということ。
つまり、そもそも、「雑事」がなくなってしまえば、もはや、そういったわくわく感も得られなくなるのではないか、ということである。
確かに、そんなことは、一生懸命働いて、定年を迎えてから感じたり考えてもいいかもしれない。
――僕は、断じて、否、という。
将来のために生きるということを、僕は否定する。
頑張って、報われるという物語を否定する。
どん底の状況から這い上がるのは必要だ。しかし、物語はそこで終わっても、人生という長い物語は、一つ状況好転したところで決して終わりではない。
モテない男(女)が、自分を磨き、彼女をつくることができた。意中の彼(彼女)の心をつかんだ。
素晴らしい物語だ。
だが、恋愛物語はそこで終わったとしても、その主人公の旅はまだ続く。
終わりなき物語。
しかし、たいていの人は、それを受け入れている。
生涯学習とか、頑張り続けることが大事だとか、日々チャレンジだとか。
誤解や、批判を恐れずに書けば、そういった方策は、「終わり」ということから目を背けていることに過ぎないと僕は思う。
終わることが怖いのだ。だから、終わらないように、次々と目標を掲げ、努力し、ゴールを目指そうとする。
しかし、本当に、ゴールにたどり着きたいと思っているのだろうか? 僕は、否と思う。
這い上がる物語は別だ
ある意味、心を打つのは、そういった「打算的なゴール」など、一切感じさせない物語(生き方)である。のけものにされていた人が、力をつけて、周囲を黙らせるようになる。
その主人公が、みじめであればみじめであるほどに、そこに「打算」などない。生きるために、ただ、戦わなければならない。現状維持は、何ら福音にはならない。だから目指す。ゴールというよりも、深い穴から抜け出そうとあがくのだ。
「人生に退屈した老人どもに、世界を救うだなど言われて、信じられるはずなかろう」――メイガス中佐(EDENより)。
戦うことに理由などない。ただ、戦わなければ生きられないのだ。
現状維持の難しさ
話はスパッと変わる。とあるブログさんを読んで思ったこと。昨日の自分に比べたら、今日の自分は成長してる。何しろ、1日分の体験・情報があるから。しかし、昔の方が色々なことを記憶していたと、昔の自分にすら劣等感を覚える可能性もある。でも、やっぱり、人生経験という点では、昨日より今日の方が成長してるのだろう…
しかし、僕は過去に考えていたことも忘れてしまっていることが多く、ぐるぐる堂々巡りの思索の日々で、進展と後退を繰り返しながら、本当は成長も何もしてないんだろうなあとも思うことが少なくない…カラ回りしてるというか、無駄な無為な日々を送ってるんではないかと落ち込んでしまう…
――人生の意味:現状維持も立派な目標――
僕は先日、周りと比べて「自分はなんてダメなやつなんだ……」などと落ち込む必要など、まったくないと書いた。
それは、すごい人はいっぱいいるし、ダメな人はたくさんいるからだ。比較してもきりがないからだ。そんなたくさんの人がいるこの世界において、自己卑下したところで、それは単に「自己エクスキューズ」(きっぱり言っちゃえば、「言い訳」)に過ぎなかろう。
ただし、そんな中でも、負けちゃいけない人がいる。誰か? 自分だ。
自分にゃあ負けるなと。
他者に負けたっていい。そりゃ、勝ち続けられたらいいが、暴力の世界でも、知識の世界でも、政治の世界でも、技術の世界でも、コミュ力の世界でも、どこでもかしこでも、上がいれば下がいる。
僕はもう一つ、これも昔に書いたことがあるが、「総合力」で勝負しろと。
「人間とは総合である」(※)とは、実存主義の哲学者キルケゴールさんの言葉だが、様々な要素……それは、体を構成するたんぱく質にとどまらず、自分を取り巻く人、環境も含めて、自分という存在であると、私は思う。
(だから、どこまでが「自分」という境界であるのか、実は、甚だ曖昧なのだと思うが、それはともかく)
例えば、絵をかくのが得意な人でも、アマチュア・プロ含めて数多の中では、かすんでしまうだろう。しかし、絵の能力と、WEBプログラミングの能力があったらどうだろう。なんだか、人を驚かせる面白いことが少しできる可能性が増えはしまいか。
仕事で営業トークがうまいとしても、それだけでは大して重宝されないかもしれない。しかし、営業トークにプラスで、権力者に気に入られる能力も高ければ、いい思いができる可能性が増えはしまいか。
先日暗く感傷的なの書いてしまったので、たまにはポジティブなことも書いてみれば、PHPのプログラミングが少しできるだけでは大したことはないが、エクセルのマクロも少し使えて、パワーポイントが少し使えて、タイピングが少し速くて、小説を少し書くことができて、ピアノが少し弾けて、作曲が少しできて、初音ミクが少し使えて、10kmぐらいは走ることができて、筋トレを少し続けることができて、友人も少しいて、恋人を作ることも何回かできて、法律の文書を少し読むことができて、仕事で中よりは上の評価をもらえて、自動二輪の運転ができて、般若心経は暗唱できて、――と、まぁ、その一つひとつは大したことがないが、全部「総合」してみると、「唯一性」に少しずつ近づくことができる。
まー。それでも、すべてを超越する人は、たくさんいっぱい、いるんだけどね。哀しいことに。
だけど、その一つ一つを他者と比べて、「あー、やっぱり俺って駄目な奴だなぁ」なんて思っても仕方がない。無意味だ。じゃあ、そのできることの一つが、本当に、どんな環境で、どんな周囲の人との間であっても、絶対に自分が一番ダメか、って考えたら、そんなことあるまいよ。
小学生の中にいってみたまえ。「おぉ! おじちゃん、すごい!」っていってもらえる何かが、きっとあるだろうよ。
小学生の中で褒められても、虚しいだけだって?
違う、そういう意味ではない。そりゃあ、小さな環境の中で、井の中の蛙やってることを自覚しないで、本当に自分はすごいやつなんだって、勘違いしているのは痛いだけである。
でも、そんなんでも、周囲の人に何らか良い影響を与えられたら、それだけで、素晴らしいことじゃあなかろうか。
どんな優れた技術や、思想をもっていたとしても、それが誰にも伝えられなければ、世界にとっては無意味である。
ゴータマ・シッダールタさんも、最初は、「あー悟ったし、もういいや」と思ったそうだが、梵天という神様に、「いやいや、お願いだから、衆生に教えを広めてやってくださいな」と請われてじゃあいっちょやってやっか、と、80歳で亡くなるまで頑張ってくれたのだ。
――ん? はなしそれた! 話を戻す。
ええと、とにかく、自分に負けるな、ってことを、僕は以前から書いていた、ということだ。しかし、あるブログさんの記事を読んで、僕は、ちょっとこの考えも甘い部分が多大だな、と思ったわけだ。
次の章にその内容を書く。
現状維持の難しさ2
つまり、「自分には負けるんじゃないぞ」というのは、ある程度若い人向けの言葉なんじゃないかなぁということだ。確かに、若い人だとしても、身体的なピークというのは、10代後半だか20歳前半だか(曖昧)と聞いたことがある。そしたら、「過去の自分には負けるな!」と言い続けても、絶対いつか……いつかというより、結構早い段階で、過去の自分にも勝てなくなる。スポーツ選手の引退とか、そういうもんだろう。
たまに、現役で、まだまだやれるんじゃあなかろうかと思われていた選手が、現役引退! とかいって、驚かせることがあるけれども、その方にとっての、自分のピークというのはもう過ぎたんだと、類まれな感覚で分かってしまったのだろう。
確かに、すごい能力をもっているから、ある程度はまだまだ現役で活躍できるかもしれない。しかし、その人にとっては、徐々に、衰えていく自分を感じ続けなければならないということなのだ。それはある意味、つらいことだ。特に、向上心を持って、心身を鍛え続ける必要があるトップアスリートにとっては、自身の成長が望めなくなるというのは、何にもましてつらいことだろう。
だから、「自分に負けるな」というのは、いつでもどこでも、だれにでも使える魔法の言葉なんかじゃあないということを、しっかり銘記すべきだろう。
しかしそれでも、いまだ僕は、この言葉は有効だと思っている。
それはやっぱり、最初に書いた、「総合力」という意味においてだ。
僕がさっき挙げた「できること」の羅列は、確かに、自分の要素の一つでもある。しかし何も、「できること」である必要すらない。
例えば、目に見えない、人脈だとか、カリスマ性。カリスマ性って何? って考えるのは面白そうだが、それは置いておいて、他にも、さっきのアスリートの例で行けば、金メダルをとった実績だとか、仕事の営業さんでいけば、大きな契約を取った実績だとか、過去の実績というのも自分を成り立たせる要素の一つだ。
または「経験」。あまり好きな例ではないが、「修羅場」とか「つらい状況」を乗り越えたといった体験・経験というのも、一つの要素である。
そういった目に見えるもの、見えないもの含めて、自分の内部・外部含めた「総合」を考えたとき、いまだ、「過去の自分に負けるな」というのは、有効な言葉だと思うのだ。
確かに、ある分野では、もう過去の自分に勝つことはできなくなってしまったかもしれない。しかし、ピークを過ぎてしまって、挫折や苦しい思いを経験したって、それ自体が一つの自分を成り立たせる要素だとしたとき、自分という総合力は、まだまだ、全体としてマイナスに転じているとは言えないではないか、そう思うのだ。
最後に落とす
とまぁ、ここでブログを終わっておけば、まぁ前向きな記事になった気がする。しかし、僕の思考さんは、残念ながらここで終わらない。というよりも、上のことを書きながら、頭のわきに常にあったのだけれども、「で、その、自分に負けないようにして総合としての成長を感じていって、それで何を目指してるの?」と聞かれている。
上に書いたのは、
>将来のために生きるということを、僕は否定する。
>頑張って、報われるという物語を否定する。
ということであった。
自分に負けずに成長していくということは、僕が上で否定したことと矛盾しまいか。
つまりだ、徹底的な現状肯定こそが、本来あるべき姿じゃあなかろうか。
ここで強引だけど、株の勉強で知った言葉を使ってみると、「現在価値(PV)」ってやつだ。
現金(キャッシュ)ってのは、確かに、それ自体がお金を生む力がないので、ファイナンス理論の中では価値が低いものとされる。しかし、今日得られる100万円は、明日得られる101万円よりも価値が高いのだ。
頑張って、頑張って頑張って到達できる「ゴールA」があるとする。
そのゴールは、確かに、自分にとって「幸せ」であったとする。
一方、目の前に、そのゴールより手近な「ゴールB」があったとする。そのゴールBで得られる幸せは、頑張って到達できる「ゴールA」よりも少なかったとする。
さて、このとき、ゴールAを目指すのが人生の正解か、ゴールBで満足するのが人生の正解か、どちらであろうか?
もう一つ提起して、今回は終わっておこう。
僕はこの記事の最初のほうで、
>物語は終わりがあるが、人生という物語に終わりはない
と書いた。
つまり、ゴールAとゴールB問題は、それ自体で難問でありながら、「そもそも」僕は、その「ゴール」という問題提起の在り方そのものに疑問が生じてもいるのである。
(とにかく、三連休わーい)
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