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金利の計算:普通預金が如何に金利が低いか
2017/07/18 17:00 | Comments(0) | 学習勉強インプット
今日の一言「実際に計算してみないと実感がわかない」「面倒だけどね」

金利計算

 金利、というと、「率」なのか、「額」なのか、両方含んだ言葉だそうだ。
 ので、「利子率」とか言ったほうが正確だという。
「利回り」という言葉もある。「利子率」が約束(確定)された金利のことを言うのに対し、「利回り」とは、投資をしてみて結果として得られた金利のことを言うという。

――株式投資入門:第二章


 で、単利計算とか、複利計算とか、まぁ計算式がたくさん出てくる。計算式がたくさんでてくると、「うわっ」と拒否反応が発生する場合もあるが、ただ、「計算式」ってのは、言語を簡略化しただけだとも思っている。
 つまり、「記憶力」があれば、計算式もさほど難しくないのだ。例えば、単利計算の式として、2年間運用した場合を例として、

 r ={ C + ( F - P )/ 2 } /100

 といったのが出てくる。「うわっ」と思うのは正常な反応だ。
 どんな頭の良い人でも、「C」とか、「F」とか「P」とかの定義が分かっていないと、この式が何を示しているか、さっぱり分からないのである。

 本の中では、C:「クーポンレート」とか、F:「額面」とか、P:「市場価格」とか表現されているけれども、僕が理解できるレベルで表現してみる。

 単利rは、「売った金額から元本を引いた額」(F-P)を年数で割ったものと、金利C(額)を足したものを%表示にして求めることができる、と。

 言葉にしても分かりづらいな。ま、とにかく、こういうのは、あまり深く考えても仕方がない。ニュートン力学のF=maとかアインシュタインのE=mc(2)とか、何でそうなるのか考えても仕方がない。何せ自然がそうなっているのだから。

複利計算

 複利の計算式も、とりあえず覚えた。
 覚えたけど、この文字媒体で書くのは困難だ。そもそも、累乗を1行で表現するのって、どうしたらいいんだ?

 言葉で表現してみよう。

 複利rは、金利(額)を(1+r)で割った値と、金利(額)を(1+r)の2乗(年数)で割った値と、売った額(額面)を(1+r)の2乗(年数)で割った値の合計が、元本と等しくなる値のことである。

 言葉にすると更にわっかんねーな!

 というわけで、数式の方が分かりやすい、ってことも往々にしてあるのである。


 まぁ、単利と複利の違い、なんて、検索すれば、「年々の運用の際に、利子が付いたあとの額にも利子率を乗じるのか」ということだと分かる。
 とりあえず、その程度覚えておけば、「まぁ、そういうもんなんだな。複利って、年数が少なければ単利とあんまし変わらないけど、長い年数になるとすごい差になるんだな」程度のことは感じられるかもしれない。

 でも、正直なんも面白くない知識である。

実際に計算してみよう

 このままで授業が終わると、クソつまんねえってなる。
 記憶可能性の知識になっても、運用ができなければ役に立たない。

 そこでまず、自分の資産運用を思い出してみよう。
 以前ブログにも書いたと思うが、積み立てタイプの保険も、昨年ぐらいから始めている。

 で、その保険は、最低利率が3%と保証されているタイプである。
 まぁ、保険って何? というのも整理して書いてもいいかもしれないが、取りあえず、100万円預けていたら、翌年には最低103万円にはなるって商品のことだとしよう。

 そうしたとき、株式投資をやろうとしたときに、まぁ、最低限、3%よりは、割のいい利回りの方がいいなぁ、と思うだろう。何故なら3%の運用でよいなら、全額保険にしてしまってもいいわけだ。その方が、口座振替でお金が引き落とされるのを見送るだけで、特に何も考えなくてもいいし、楽だろう。


 としたとき、じゃあ、3%って、どんぐらい頑張れば得られるんだろう、ということを、さっきの複利計算を使って考えていこう。
(こういった導入ならちょっと面白くはなるまいか? しかし、あくまで、さっき学んだことを整理しようとしているだけなので、曖昧だったり、そもそも間違っている可能性というものはご容赦願いたい)



 で、先日、購入した株式のステータスは以下である。(細かい数字は省略)

・購入金額:319,000円
・配当(予測):6000円/年

 んじゃこれを、2年間運用した場合に、株価上がって、売却金額が357,000円になったとしよう。では、

 複利rは、金利(額)を(1+r)で割った値と、金利(額)を(1+r)の2乗(年数)で割った値と、売った額(額面)を(1+r)の2乗(年数)で割った値の合計が、元本と等しくなる値なので、319000=6000/(1+r) + 6000/{(1+r)}2乗 + 357000/{(1+r)}2乗……


 とか面倒なことはしなくても、複利計算は、エクセルの関数の「IRR」を使うと求めることができる。
 まぁ使い方は省略して、上のケースで計算してみると、

 6.73%

 となった。
 おお、いい感じの利回りである。

 しかし、2年で株価が40円プラスになるのは難しいかもしれない。


 では、5年運用ではどうだろうか。
 同じように計算式を当てはめてみると、
 3.74%
 となった。

 試しに、10年運用の場合は、
 2.77%
 となった。

 つまり、売却時の金額が「357000円」で固定であるならば、長期運用になるほど、いくら配当が毎年ついていたとしても、利回りは悪くなっていくのだ。
 ゆえに、僕の師匠が仰っていた、「配当よりも持続的にその企業が成長するのかどうかをみるのが大切だ」というのは、なるほどこういった数字からも感じることができるのだ。

預金との比較

 なるほどねー、3%の運用するってのも、まぁまぁ大変なものなんだなぁ。
 ということを思ったかもしれない。

 でも、僕は逆にふと思った。
 そういえば、この前調べた、銀行の金利って、普通預金で、0.001%だったじゃん、と。定期預金でも、0.01%であった。

 昔、僕の親は、よく定期預金を使っていた、ような記憶がある。けれども、実際僕が働いてお金を稼ぐようになってから、特に定期預金に預けようとは一切思わなかった。だって、どっちに預けても大してお利息でないじゃん。ましてや、働き始めたころなんて、大した額ももっていない。

 そう考えると、3%って、まぁまぁすごいものである。
 では逆に、株価がいくらぐらいまで下がってしまったら、「あーくそ! こんなんだったら、普通に銀行に預けとくんだった!」と後悔するんだろう? と思った。

 エクセルで、いろいろ金額いじってやってみたら、10年運用で、株価が「265,000」になってしまったら、複利が0%であった。
 ただ、株価が「270,000円」まで下がったとしても(つまり、購入金額から50円ぐらいさがったら)、複利は0.17%であった。

 0.17%である。

 ということは、これでも、定期預金よりも断然利率がよいのである。

まとめ

 こう考えてみると、銀行預金がいかに資産運用として適していないか、株式投資が意外に悪くないかが分かるだろう。
 とはいえ、これも、銀行金利が低く、景気の状態が安定しているという現時点では、に過ぎない。

 政治、経済、倫理、と、それらをひっくるめて「社会」という。

 僕らが、社会で生きる以上は、その社会の仕組み(システム)について無関係ではいられない。
 しかし、難しく考えずとも、ただ「生きる」ということであれば、その仕組みに順応することができれば、そこそこ生きることはできる。
 仕組みから外れた人や物や集団や組織を、弾圧し排斥することで、仕組みを維持することはできる。
 その中で、いろんな「正義」がぶつかりあって、諍いがおこって、時に殺し合いになったりする。

 正しいってなんだ?
 幸せってなんだ?


 ――僕は、一般普遍的なことを考えることを放棄する。
 学問とは、一般普遍の真理を明らかにするものだ。それらは、エリートやプロフェッショナル(学者)に任せることにする。

 僕は、俺としての、正しいことを探っている。それをたまたま、「生きる意味」という表現にしているに過ぎない。それを、哲学的に表現すれば「実存」となる。
 道徳的にかけば、「正しく生きるためには」みたいなブログタイトルになるだろう。しかしその表現は些か、不愉快である。

 実存を考えるなら、政治的なことも、もっと書いたほうがよいのでは、とアドバイスを頂いたこともある。確かに、それはそうだ、と思ったりもした。
 ただ、政治の結果について言及することは大事だが、政治そのものへの言及は、やはり僕の考えるべき部分と外れるだろうと思う。

 政治は確かに、変えることができるものだ。しかし、それを言えば、法律もまたしかり。僕は、政治も法律も、一個人としては、同じように、自然災害的に降りかかるものだと捉えている。確かに、選挙として一票の意思表示は可能であるが、じゃあ非常に個々具体的な日常に影響する事象……例えば、ゴミや騒音や環境問題に、その一票がどう影響するか、というと、実質影響は無い場合が多い。
 だからといって、選挙が無意味であるということではない。ただ、あまりにも、「議案」が多すぎるのだ。大きな枠組みでしか政治も、法律も、対応ができないのである。憲法改正に賛成の人が、じゃあ、戦争肯定派なのかというとそうではないだろう。憲法改正に反対の人が、じゃあ、諸外国に侵略されたときに両手を挙げて降伏するかというと、そうではないだろう。やはり、身近な恋人や家族を守ろうと戦うのではなかろうか。例えが小学生レベルで恥ずかしいが、とにかく、政治も法律も……加えて経済も、個人(人が直感できるレベル)において、感じ取れたり判断できるレベルを、はるかに超えているのが、現代社会であるといえよう。

 科学もまたしかり。飛行機が空を飛ぶのはもちろんだが、日常運転する車が走る仕組みだって、完全に理解できている人などいないだろう。いやそりゃあ、タイヤが地面に設置して回転することで移動するというのはそうだろうが、じゃあエンジンを作れる人がどれだけいるのか。自動車会社だって、その個々人でエンジンが作れるはずもなかろうし、そもそも会社一つであっても、下請けで部品をつくってくれる会社の総合で成り立っているのだろうし、いろいろ複雑に絡み合っているのだろう。

 だから、「合理的」というのがずっと求められてきたのが、17世紀以後の科学革命によるパラダイムシフトだとして、果たして、今後も「人」に、「合理的」が求められ続けるものなのだろうか? と僕は思う。

 効率化、というのもそう。
 以前僕が書いた、「美人」と「ブス」どっちがいいの? という二分法的に考えれば、そりゃあ効率的な方がよかろう。性格の悪い美人と、性格がよいブスなら、そりゃあ考えることも必要だが、単純に比較が「美人」なら、美人の方が良い。

 しかし、その「効率」だとか、「美人」だとかの、その「価値尺度」は、それこそ、「一般普遍」などありえないだろうと、同時に僕は思う。

 ここから導ける答えとしては、「各々の価値尺度(価値観)を磨いていく必要がある」ということである。


 記事の主旨から、いつものごとくだいぶ外れていっているから、そろそろ終わるけれども、どうも、こう「価値観」を突き詰めていくと、僕は「空」「無」という表現に近づいていく気がする。

 これは、気分が高揚しているときは、「ばりばり全開、楽しんでいこうぜぇ!」って気分になるし、少し陰鬱の状態のときは、「生きていることそれ自体に意味はない」って気分になる。

 ポジティブな気分でも、ネガティブな気分でも、どっちにしろ、その「空」って感覚が、普遍的に近しい気がするのである。

 抑鬱か、というとそうでもなくて、「意味がないと考えることも意味がない」ともなっていき、無限に遡っていく思考状態である。


(俺は、この意識の沈潜に負けないスピードで、表現(アウトプット)をしないといけないと思う。その表現の方法は、文章か、音楽か、それとも絵か。しっくりくるのは、文章、というか、このブログのようにゼロ秒思考メモ的な奴である。しかしこれにも限界というか、苦手としている面がある。思考のループだ。ので、過去記事を読み返すというのは必須。その中で「面白い」と思ったものの、要素をインプットする。――俺は、答えを求めていない、ただ考えることのみを求めているのだろう、と指摘された。本能的に、「違う」と思ったが、しかし、それを明確に否定できる根拠が今はない。根拠はなくても、「感覚的に」思ったのなら、その方向で考えていく必要があるだろう。とにかく、今年ももう半年を切っている。どこまで整理できるのか、明確に目標を決めていかないと、またしても忙しさにつぶされてしまうだろう)

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日々是好日:ペルソナ4の精神攻撃
2017/07/16 21:02 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「精神攻撃に耐えられなくなって文章を書く」「ペルソナ4面白い」
※拍手コメント下さった方へ。前記事のPBRの式の誤りに関するご指摘ありがとうございます。修正いたしました。――いやぁ、しっかり細かいところまで読んで頂けているとは、特に学習カテゴリでは思っておりませなんだ……お恥ずかしい。

特に理由もなく離れていく

 最近、僕がペルソナ4のアニメを、アマゾンプライムで見始めたのは、ある方のレビューというか感想が、理由の90%以上である。

(注釈:ラスボス(?)との戦いにおいて)主人公に幻覚? 的な? サムシングを見せて精神攻撃してくるわけですよ。これが、原作ゲームにはない演出だった。そらまぁ、RPGで戦闘中にんなクソ長いイベントシーンなんかできるわけがないから当然なわけだが、
(中略)
で、その幻覚の内容が非常に、非常にエグい。いや残虐描写があるわけではないのだが、そんなものよりもっと心に来る。まぁその、なぜか唐突に時間が飛んで、
(中略)
主人公と仲間たちの絆が特に理由もなく徐々に薄れ、なんだかよそよそしくなってゆく。一人また一人と主人公のそばから姿を消してゆくが、別に失踪したわけでもなく、単につるまなくなってゆくだけだ。
(中略)
何がアレって、「特に理由がない」という点が実にアレである。なんか劇的なイベントによって絆が壊れてしまう、というのなら、まぁそれさえなければうまくいっていたと思うことはできるし、原因があるということはそれを取り除けばまた絆が戻ってくる可能性もありうると思うことができるのだ。だが、理由などない。何も起こらず、自然消滅である。救いがない。
(中略)
(注釈:ゲームでは絆を構築するのも努力が必要なため、プレイ済の人にとって)このアニメのイベントは特に何の理由もなくこれらの努力をすべて無へ帰す所業であり、なんかもう見てて叫びたくなること甚だしかった。恐ろしい。恐ろしいアニメやで……!
――螺旋のモノリス
 僕が見たかったのは、その精神攻撃パートであった(やはり俺はマゾなのか?)。
 ゲームはやったことないけれども、その、上のレビューを読んだだけで、もう何というか、身の毛がよだつというか、恐ろしさが伝わってくるではあるまいか。

特に理由がないことの恐怖

 とまぁ、そのシーンみたさに、ちょくちょく、6月下旬ぐらいから見ていったわけですが、いつ、そのシーンが来るのかも分からなかったので、ついつい、上のレビュー的サムシングも忘れて、普通に作品を楽しんでいた。
 作画的な綺麗さだと、RE:クリエイターとか、正解するカドとかの方が、やっぱり綺麗だなと思うけれども、もちろん及第点ではあって(上から目線的な書き方だけど、よい表現が浮かばなかった)、そもそも単純にストーリーを楽しんでいた。

 そんな中、――もちろん、犯人的サムシングと対峙したので当たり前だが、僕にとっては突然、その精神攻撃が始まった。

 いやぁ、僕の貧弱な表現では、僕の感じたことを上手く表現できないのだけれども、何というか、その「自然さ」が怖かった。

 確かに、なんかよそよそしくなっていくのである。

 でも、そのよそよそしさが、まったくもって、「自然」なのである。

 ――友達なんて、――絆なんて、――結局、空っぽなんだ。無(む)、なんだと。

 状況や環境が変われば、物理的な距離がひらけば、途端にほころびをみせ、瓦解してしまうようなもの。

文章整理

 また上の章の話に戻ってくると思うが、ちょっと話を変える。

 まとまった時間が取れているので、ペルソナ4を見るのと、読書をするのとプラスして、過去記事の整理などを行っている。

 今まで非公開としていた記事も、できるだけこのブログに収れんさせようと思っている。
 さらに、短くて読むに値しない記事は削除するか、まとめて一つの記事にしようと思っている。
 あと、映画カテゴリは削除した。前からやろうと思っていたけれど、思い切って実施。いや、映画とか見て感想を書くのはいいんだ。ただ、その作品に対する批評のみで終わってしまっている記事は、後から読んでも面白くないことが分かった。

 先日書いた、「君の名は。」を見たときの記事は、まぁ、それなりに読み返す価値もあると思った。それは、その作品を見た結果としての、自分の「変化」を記載しているからである。「この作品を見た。まぁまぁだった。以上」――こんなんで終わっている記事は、正直、なんも面白くない。いや、先日読んだ、「日記の書き方」的な本では、むしろ、「思ったこと」など書かないで、「ただ事実だけを書きましょう」とか書かれていた。僕は真逆のことを今書いている。

 でも、「短い記事」(100字に満たない程度)も、やっぱり価値を感じなかった。と、いうよりも、ブログという媒体では特にダメだと思った(他のブログさんへの批判ではない。「僕は」、「僕の」ブログではそうだ、ということだ。しかし、100字程度だと、ツイッターでもやってた方がよいのではなかろうか。まぁそもそも、僕はツイッターへの価値をあまり見いだせていない)。

 まぁ、それで、その記事を整理していて、いろいろ、出てきた。

似た経験がある

 精神攻撃の話に戻る。
 その、親しかった人が、特に理由もなく離れていくということ。この経験が僕もあって、それも相まって、このペルソナ4のアニメーションにおける精神攻撃シーンが、僕に多大な揺さぶりを与えたのだろうと思った。

 いやー、今日は、作曲と家計簿のアプリを作ろうと思っていたのだけれども、――今はもうこの精神攻撃のことを記事にするのがMAXプライオリティである!

 でもさーでもさー、俺、思うんだけど、そのラスボス(?)のシャドウを、完全に否定できるんか、って思うんだよな。

 ――すべては無、空っぽなのだ。

「俺は、空っぽなんかじゃない!」

 と、主人公は、仲間に助け出されて、自分のペルソナをフル稼働させてラスボス(?)のシャドウを倒しますよ。
 そして、精神攻撃のときとデジャブりながらも、それとは違う、仲間との新たな絆を彷彿させるシーンでエンディングを迎えますよ。「これからもよろしくな!」的な。


 いやぁ、よかったよかった。
 友達だなんて思っていたのは自分だけ、なんて、そんなことはなかったんだ。一度生じた絆は、尊いものなんだ、固いものなんだ、大切なものなんだ。


 ――なんて、そんな風に思って、仲間との絆の中に生きようとする人は、この三連休に、きっとBBQとか川や海にいってパーティーピーポーしてますよ! きっと!!

根暗なラスボス少年

 完全に擦れた大人になっちまったんだなぁ、俺、と思わざるを得ない。

 仮に、ペルソナ4のゆかいな仲間たちは、いわゆる「リア充」であるとしよう。
 そして、僕は、「リア充」ではないとしよう。

 そうするとだ。ペルソナ4は非常に面白かったのだが、それを「面白かった」と言う場合、現時点性の僕自身を否定することになるのではなかろうか。

 つまりだ。
 僕の本心(ペルソナ・シャドウ)は、「いえーい! ノリノリだっぜぃ! みんな一緒に楽しもうぜぇ!☆」的な奴なのではなかろうか。アマギさんが「逆ナンよッ!」とかいったり、カンジくんが「あっはーん☆」とか言っちゃうアレだ!

 そしてだ、ペルソナ4を面白いと言っちゃうってことは、「リア充」的なノリに憧れているということであり、「そんなことない、俺は、今の生活に満足しているんだ! お前なんて、俺じゃない!!!」とか言っちゃうと、「あはーん? そう。自分を認めないってことね~!(闇覚醒)」的になって、俺はシャドウに喰い殺されてしまうのではなかろうか!! 怖い!



 でもさー。ふつーに考えて、もう高校生には戻れないわけじゃん?
 んで、そんな、新しく絆芽生えさせるとか、そんなん難しいわけじゃん?

 そしたらさ、もう戻れない過去を嘆いて、悔やんで悔やんで人生送るしかなくなるわけじゃん?

 どうなの? それ?

 主人公陣営に憧れたり、感情移入したりするのはいいよ、それはそれで作品を楽しむってことだ。

 でもさ、お前(自分)は、どっちかというと、その根暗なゲームばっかやって、他者を認められず、自分の殻に引きこもって、誰も自分を認めてくれないと妬み、目立ちたいと事件を起こすような、ラスボス(?)側なのでは??

過去の発掘

 で、まぁ、この記事のオチはなさそうだ。とにかく、精神ダメージが与えられて、そのまま落としどころなく彷徨い、果てることとなるだろう。

 先日、古い携帯とか、人間は総合力だ、とか、リア充的なサムシングを書いたりしてたけど、まぁ、俺にはシャドウさんが、たくさんいそうだ。

 過去記事の整理をしていて、これはこれで、精神がえぐられるようなものもあったりする。
 ちょっち、冷静な判断ができなくなるものもありそうだ。が、しかし、今年は整理の年だ。思考も、生活環境も、そして文章も整理していこう。



 ペルソナの面白いところは、敵の「シャドウ」が、自分自身だってことだ。見たくない自分。見せたくない自分。それを「お前なんて、俺じゃない!」と否定してしまうと、シャドウは力を増して、本人を喰い殺そうとする。
 それを乗り越えて、「そうだな、そんな俺も、俺の一部なんだな」と認めることができると、シャドウは、新しく「ペルソナ」(≒スタンド)として、自分の新たな力となるのである。
(この葛藤みたいなものが、後半、かなり「暴力的」になってしまっているのが、少し「あ゙ー」と思ったが。いや、仲間のみんなのペルソナが強くなっちゃったので、取りあえずシャドウをボコって、弱まったところで「自身を認める」プロセスに入るってのは、物語的に仕方がないのだろうが)


 でさ、まぁ、何んだろう。
 とりあえず絆(ベルベットルームで、「新たなアルカナを~」って別嬪さんがいっつもいうんだけど、アルカナって、キズナって意味なんだよね?)って、別に、外でバーベキューやらないとダメなもんじゃないと思うんだよね。

 俺は昔(いや、今もかもしれんが)、なんだか、「溝」というか、「理解のされなさ」というか、そんな人との間に違和感をずっともっていた。

 で、かなり滅入っていたのが、2008年~2010年あたりだと思うけれど、そんなとき、ある人に出会った。出会った、といっても、それはネット上でのことだった。
 でも、その人は、常人を超えた観察眼で、僕の悩みというか、懊悩をすぐさま看破し、コメントくれたり、相談にのってくれたりした。ああ、こんなすごい人もいるんだなと。

 生きづらさに耐えられなくなっていったとき、その方の存在は、まだ世界にあきらめるのは早すぎると、強くそう思わせてくれた。


 離婚って、もう珍しいことではないが、それでも、結構落ち込んでいた時に、ある二人の方がメッセージをくださった。それでどんなに救われたことか。そのメッセージの内容とタイミング性は、かけがえのないものであった。


 だから、だ。

 別に、三連休、友人や恋人と一緒に出掛ける予定が何もなくても、それが、「絆」を否定するものでもないし、ペルソナ4の主人公たちを「ケッ、リア充どもが!」とか思う必要もないのだ。
 いろんな絆の在り方がある。いろんな関係性がある。いろんな生き方がある。

 たまたま、その表現が、イオンモールみたいな大型ショッピング施設のイートインコーナーに複数人で集まって、一緒に事件を解決するためにワイワイがやがややったり、事件の解決の打ち上げに自宅に集まってパーティするとか、そういったものであっただけだ。

 切り取られた日常は、特別視されやすい。
 しかし普通は、多くの何もない、退屈な日常が、ただ過ぎていくだけなのだ。

 そうした生活・人生のなかで、何を正解として生きていくのか。
 何を「楽しい」と感じるのか。


 幸せの「モデル」はあったとしても、自分の幸せは、自分で創り上げていくものなのだ。


(くっそぅ……。精神攻撃のせいで、何とかポジティブなまとめにしようと思ったが、空虚な言葉の列挙になった気がするぜ。いや、ただなぁ。全国アイドルの女の子といい感じになったりとか、主人公、ちょっと恵まれ過ぎてやがりますな!(嫉妬血涙) ……いやぁなんだろ、この女の子の取り扱いって、物語的にどうしたらいいんだろう。ちょっとこれは、別の記事でここ何年かで思ってることまとめてみようか。いやつまり、理想の女の子を登場させることってのは、そこに何の意味があるのか、ってことである。いやこれは、AKBとか、綺麗な女子アナとか、可愛い女優にドキドキするってのと同じ問題を抱えている。つまり、かわいい女の子とイチャイチャしたいという男なら誰でも持っているであろう感情……というか本能的な奴。しかし、その欲求は、一握りの恵まれた身体・ステータス・環境を持った人に限られる。だから、二次元(テレビなど実写も含む。2.5次元とかメイドカフェ的なものや、女の子が接待するお店とかも含む)によって満たそうとするのである。逆に女性は男性にどういったものを求めるのか、というのも興味深いが、まぁ僕が男性だからその疑問の優先度は低い。いやはや、3次元も実は物語が重要であって、例えば「優しい彼女(彼)」「かわいい(かっこいい)彼女(彼)」とか、「自分を一番大切に思ってくれている」とか、そういった物語(信仰)。「貴方の人となりが大好きよ」と言ってくれたとしても、実は、目が「¥(円マーク)」になっているかもしれない。けれども、そんなこと考える必要もなく、ただ、「優しく可愛い彼女(妻)」を信じればいいだけだ。そうしたら幸せになれる。あー、こんなこと言ってるからダメなんだろうなぁ(かっこ乾いた笑い)。だからね、このあたりのことを考えるにあたって、最近あるブログで、「愛について」の定義を書いていた方がいたんだけどね、この定義が非常にしっくりきたんだよな。あー、この辺りも整理して記事に書いておきたかったんだけど、忘れてた。あーそれと、……って、なんかおわんねーから強制終了。精神攻撃ほんと怖いな!)

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経常利益と自己資本
2017/07/16 12:46 | Comments(0) | 学習勉強インプット
今日の一言「記憶の定着には繰り返し復習」「普段使わない知識は劣化する」

中学生レベルとは

 今日も今日とて、中学生でも分かるレベルを目指して、記憶の定着を図る。
 ところで、「中学生でも分かるレベル」というのは、中学生を馬鹿にしているわけではない。中学生とは、日本では、義務教育であり、日本国民で中学校を卒業していない人はいない。実際問題、その中学生レベルの技能・知識が、100%身についている人など稀であろう。僕も、中学校の教科書の内容を100%覚えて、理解できているかなど、大いに怪しい。

 知識とは、「記憶可能性」と、「運用可能性」の二つに分けられる(完全に僕オリジナルの今思いついた表現である)。

 記憶可能性とは、字面の通り、覚えることができるかどうか、である。
 運用可能性とは、その覚えられた知識を運用(利用)できるかどうか、である。

 例えば、微分積分というのを、高校生では習う。物理学への応用とか、高度なレベルではなく、あくまで高校生レベルとしたとき、僕は「記憶可能性」と「運用可能性」で、微分積分の知識はいかなる状態か。

 まず、しばらく触れていないので、多分基本的な計算方法も忘れてしまっている気がする。ので、「運用可能性」は今は無い。ただ、一度ある程度の理解はできて、基本的な問題は解けるようになったことがあったので、「記憶可能性」は有る、といえる。


 例えば、中学校の社会の知識として、三権分立というのがある。立法、行政、裁判所と、権力は分かれているというものだ。これは、現在記憶もしていて、この概念を使ってブログなんかも書いたりしているから、「運用可能性」も有る、といえる。


 初めに書いた、「中学生レベルでも分かる」というのは、僕は、「運用可能性」を言っているのではなく、「記憶可能性」のレベルで言っている。つまり、中学校で勉強した知識が現状100%身についている必要などなく、中学校で学んだ内容を「記憶できる」人であれば、理解できるレベルの内容を書こう、ということである。


 で、なかなか本題に入らなくて申し訳ないが、基本、誰でも、面白いと、分かりやすいというブログ・文章など書くとしたら、「中学生レベル」を目指すべきである。
 特に僕は頭が良くないため、難しいことを言われても殆ど理解できない。記憶することは、努力すれば可能だが、それを運用にもっていくのは困難である。学校のテストで点は取れても、実生活やコミュニケーションに役立てられないとか、そういう奴。
 でも、いくら頭の良い人でも、まったく知らない専門外の話を、一瞬で理解することなどできないのである。だから、話の導入ってのはとっても大事だ。逆に、導入を間違えると、そもそも読んでもらえないってことも多いわけだが。

利益の考え方

 本題と関係ないことが長くなったが、タイトルの内容に入ろう。

 まず、利益とは何か、ということ。一般用語でもあるので、ここではまず、経営とか会社とかの概念で用いるものであると定義する。
 つまり、会社(企業)が活動して、生み出した価値(お金)のことである。

・企業は、利益を出す存在である


 さて、ではその利益とは、どのように求められるのか。
 企業は、物とサービスをつくりだす。それに「価格」を決めて、消費者(僕らや、他の会社)が購入する。そうして得られたお金(有形・無形問わず)は「売上」と表現される。

 じゃあ、売り上げ=利益か、というと違う。なぜなら、物・サービスの価格には、「費用」がかかっているからだ。

 費用とは何か。コストと言われたりする。何かつくるのに必要な物やお金のことだ。本当は、「時間」もコストなのだけど、会社のことを考えるとすれば、時間もお金に変換されているとして考えないこととする。

 ので、利益とは、以下の式で表せる。

・利益=売上-費用

 ここまでは良いだろう。

 しかし、会社のことをもう少し分析するには、少し粗すぎる考え方である。

 上に挙げた式は、「営業利益」と呼ばれる。いわゆる、本業であげたお金である。しかし、企業は、本業だけをやっているのではない。そこで新しい考え方が登場する。「経常利益」だ。

経常利益とは

・利益=売上-費用

 上のことを、「営業利益」と呼ぶと書いた。


・営業利益 = 売上 - 費用

 しかし、本業以外の企業の活動もあると書いた。それを加味した考え方が、「経常利益」である。


・経常利益 = 営業利益 + 営業外利益(※) - 営業外費用

※一般に、営業外収益というらしいが、取り敢えず違いがよく分からなかったので利益に用語統一した


 じゃあ、営業外利益・費用ってなんじゃいな、となる。まぁ調べるといろいろ出てくるが、トップダウン知識(抽象)として、「企業が行う投資活動によって得られるもの」としておく。あとは、借入しているお金の手数料とか何とか。

純利益とは

 上の、営業利益で終わっておいてくれれば、まぁそんなもんか、となるが、さらにプラスアルファで、「純利益」という考え方もある。これは以下の式になる。

・純利益(税引前) = 経常利益 + 特別利益 - 特別費用
・純利益 = 経常利益 + 特別利益 - 特別費用 - 法人税


 じゃあ、特別利益・費用ってなんじゃいな、となる。まぁ調べるといろいろ出てくるが、トップダウン知識(抽象)として、「一時的に発生したもの」としておく。土地を売ったとか。勘だけど、クレームがあって裁判になってしまって、その費用とかもこっちなのかも。まぁそれで賠償が必要になって、数年に分けて支払う必要が発生したとかなると、営業外費用(経常利益に含める)のかもしれないが。

 「税引前」というのは、特に書かないけれども、なるほど、法人税とか、国におさめる税金は、経常利益には含まれていないのだなということは、覚えておいてよいかもしれない。

利益のまとめ

 営業利益
 経常利益
 純利益

 と、三つの利益について、覚えていることをメモしたわけだけれど、じゃあそれをどう「運用」するかというのは、これからのことである。

 まとめてみれば、それぞれの利益が、それぞれ重要だということが分かるだろう。
 特に、投資という観点からすると、経常利益に着目するのも大事だろう。営業利益で、本業の順調具合をみることができるだろうが、その他の資産運用でうまくいっていないと(経常利益がマイナス)、結局本業の首を絞めることにもなるだろうからだ。


 さて、これだけで終わると短すぎるので、「自己資本」についてもまとめてみよう。

総資産とは

 資産とは何か。
 企業の財産である。

 総資産 = 純資産 + 負債

 ということで、負債(借入金なども含む)点に注目。

 で。うまく記憶できていないのだけれど、貸借対照表と、損益計算書の違いが、いまいち分かっていない。
 これから書こうとしている、資産は、貸借対照表に記載されるほうだ。何回か調べて覚えたつもりになっていても、さぁまとめてみようとなると、こんがらがる。ので、ここは何も調べず、とりあえず分かっていることだけ整理してみよう。


 純資産といっても、いろいろ種類があるのだ。
 大きく、株主資本、自己資本というのがある。

 自己資本に、「新株予約権」なるものを足すと、純資産になる。


 ……。
 おお、全然分かっていない(かっこわらい)。

 何が分かっていて、分かっていないかも分からない。

 とにかく、最初に書いた「利益」の話が記載されるのが、損益計算書で、自己資本が記載されるのが貸借対照表である。

 で、「自己資本」とは何か、ってのを理解していないと、次のステージの、「ROE」(自己資本収益率)の理解に進めないのである。

 まぁもちろん、なんとなく、企業が保有している純資産(正確には、自己資本。純資産-新株予約権等)と比較して、どれだけ純利益を出しているか、というものだろうというのは分かっているが、しっかしとして理解にはつながっていない。

 僕の師匠は、流動資産が多い企業で、さらにその流動資産の中で現金・預金(キャッシュ)が多い企業が良い企業と仰っていたような気がするが、このように、ファンダメンタル(企業の業績などを分析する基盤的な)投資をする上では、そもそも資産ってなんだよ、ということを分かっておく必要があるのである。簿記でもやったことがある人ならここら辺、一発なのだろうけど。何が貸方で借方かとか、暗記できれば簿記3級は受かると聞いたことがある。

まとめ

 記憶の定着は、地道な繰り返し・反復練習が必要である。

 完全に記憶の定着ができなければ、知識の運用ができないかといえば、そうではないが、その運用が間違っている可能性もあるだろうし、そもそも、途中で理解が追い付かなくなって、そもそも全体が曖昧になってしまうこともあるだろう。

 しかし、基礎ばっかりやっていても、結局使えない知識になる可能性もある。
 ので、前にも書いたけれども、トップダウン・ボトムアップの両方から攻めていくのが、新しい概念獲得の近道である。

 例えば、PBRという指標がある。
 これは、時価総額を純資産で割ると算出できる。……と書いてから不安になって調べたら、時価総額÷自己資本だった。あはは(笑いごとじゃない)。

 例えば、僕がこの前買った企業の場合、

・時価総額:5800億円
・自己資本:4300億円
・PBR=5800÷4300=約1.3倍

 となる。

 とある銀行の場合、
・時価総額:51,000億円
・自己資本:85,000億円
・PBR=5800÷4300=約0.6倍
・PBR=51,000÷85,000=約0.6倍(
 となる。

※コメントにてご指摘を頂き慌てて訂正。


 自己資本ってのは、仮にその会社が倒産した場合、株主に返るお金である。
 そうすると、前者の企業の場合、1500億円ぐらい損する可能性があるということだ。
 たいてい、PBRは、1倍以上なのが普通だという。

 一方、銀行の場合、0.6倍と、1倍を割っている。ということは、例え倒産しても、まぁ、投資した分ぐらいは戻ってくると考えられる(?)。
 じゃあ、銀行のほうが投資先として優良なんじゃね? と思ったりもする。ただ、PBR1倍切るってことは、「市場価値が全然ありませんよ」ということらしい。

 ふーん……。

 なんか、分かったような、分からないような。

 もっと、「なるほど! そういうことか!」という感動を味わいたいよね。それが勉強の醍醐味っていうか、楽しい部分だと思う。先日載せた本の第一章と、第二章の途中あたりは、うんうんなるほどねーと思いながら読めていたが、やっぱり難しいな!! これが、一切何も分かりませんお手上げです! というのなら逆に潔いが、分かるような分からないようなというのが、なんとも悔しい部分である。


(実践と勉強の繰り返しが大事。で、それにはモチベーションが大事。モチベを維持するには、目的・目標が大事。目的・目標を持つには、感性・欲求が大事。感性・欲求を持つには、……どうしたらいいの?)

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博打と株式投資の違い
2017/07/15 08:08 | Comments(0) | 学習勉強インプット
今日の一言「ギャンブルは好きではない」「乾坤一擲ってギャンブル?」

ギャンブルとは何か

 競馬、宝くじ、パチンコ、博打、賭博、カイジ……。

 僕は、ギャンブルが嫌いである。理由は、三つ。

1.運が弱い
2.例え利益が得られても継続しない
3.ドキドキするのが別に楽しくない

 競馬とか行ったことはある。ビール片手に、お馬さんが走るのを見るのは楽しかった。数千円負けて、数千円勝った。まぁ、ネカフェとかと比べて、時間対費用で考えると、別に悪いものじゃない気もした。

 パチンコも行ったことある。うるさくてイライラした。金属玉がピコピコはじかれて画面のルーレットが回った。あんまり楽しくなかった。どう考えてもゲームとかやってた方が、「ゲーム性」として楽しいと思う。お金がかからずとも、単純にあれを楽しいというのは如何なものか。まぁ、競艇や競馬や宝くじはまぁよいが、パチンコは、収益構造が気に入らないというのもあるだけかもしれないが。

 僕は別に誰がどんな趣味をもっていたとしても否定しない。とあるブログさんで、「ボーイズラブ好きなのが彼氏にばれたらひかれた」とか描かれていたが、そんな全然かまわないじゃないか、と思う。

 けれども、ギャンブルが好きです、趣味です、という人はどうだろう。もちろん、それが、身持ちを崩さない程度の、あくまで趣味である分には構わないと思うけれども、あまりお近づきになりたくはないなというのが正直なところだ。
 どうせだったら、道端で女の子をナンパしてお持ち帰りできるかというギャンブルの方が面白くなかろうか。ベンチャー、新しい会社を興すとかいうギャンブルだったら面白いかもしれない。

 そう考えると、そもそも、僕は「ギャンブル」という用語に、どこまでを含めて考えているのだろうか。そして、どこまでは許せて、どこまでは気に食わないと思っているのだろうか。


 本記事の目的と少しずれるので、簡単にまとめておこう。

1.ギャンブルとは、運の要素が強い行為(趣味・娯楽)である。なお、プロ・ギャンブラーという用語もあるかもしれないが、例外として考えないこととする。

2.事業構造が公共の福祉に利するものであれば嫌悪しない。

3.2.に関わらず、趣味の範囲を超えて生活に困窮するレベルで行為に没頭するものを嫌悪する。

株式投資とギャンブルの違いは?

 先日触れた、「株式投資入門――井出正介」の第一章をさかのぼって読む。
 第一章は、株式投資とはそもそも何なんだ、ということが書かれている。

 未だ、多くの日本人は、株式投資は、ギャンブルのようなものだと考えている(※1)

 実際問題、家計の資産(貯金・預金)は、1500兆円ということで、国内総生産(GDP)(※2)の3倍近くもあるらしい。

 よく比較される、個人金融資産の割合の他国との比較について、日本は、約50%が預金であり、株式投資は10%満たないのに対し、アメリカは預金が10%程度に対し、株式投資が30%である。
     日本    アメリカ
株式投資 10%   30%
預金   50%   10%

 面白かったのは、イギリスが、50%を保険・年金が占めていたということだ。なるほど、ゆりかごから墓場まで、というのは、こういうところで数値に表れているんだなぁ。


 ただし、現金・預金を重視していた人たちを、金融の勉強が足りていないとか、馬鹿にすることなど全くできない。
 なぜなら、実際問題、株式投資より現金・預金のほうが非常に合理的な時代が、日本の場合続いていたからだ。

 定期預金の金利が、6%もあった時代があったことを、いま若い人たちは知らないだろう。
 元本が保証され、年利6%の金利がつくというのは、相当魅力的である。それが、90年代からどんどん下げられ始めて、1996年には、1%を切って、株式の配当利回りをしたまわった。

 金利6%なら、1000万円預けていたら、1年で60万円生み出されるのだ。今はどうだ? 先日調べたのは普通預金だったが、0.001%だった。なんじゃそりゃ。暗算すらできない(わらい)。電卓で計算したら、100円だった。ゴミだ。


 時代が、変わったのである。
 預金なんてしていても、お金は一切増えない。しかし、こんな単純なことに、多くの優秀な日本人が気付かないのだろうか? そんなはずはない。何故そんな大きな問題にならなかったかというと、これは僕の推測だが、デフレ(物価が下がること)が起こっていたからだ。いわゆる不況。

 お金が増えなくても、身の回りの物・サービスの価格が低くなっていけば、まぁそんなに生活水準が下がるということはあるまい。
 だから、国や経済界は、できるだけ預金(ストック)を金融市場にまわしてもらおうといろいろ対策をしていたようだけれども、日本人の意識がすぐさま革命を起こすことはなかったのだろう。
 これは、上から目線でも何でもないが、人は、危機に直面しないと、そうそう自分の考えを改めようとしない。僕も同じ。まぁそりゃそうだ。今までうまくいっていたのなら、これからもうまくいくだろうと考えるのは、それはそれで合理的である。わざわざリスクを冒して、間違うことや失敗する可能性があることをする必要もないだろう。


 不思議だなと僕は思っていた。
 不況だ、景気が悪いとか、巷ではみんな言って、経済対策が必要だとか言うのに、みんなうんうんと言いながら、預金が多くて、金融市場にはお金が回らないという。
 景気が良いということって、どういう意識なんだろうか? それって単純に、自分の給料が増えるってことを想像しているのだろうか? 僕は、そもそも、景気がよくなって給料が増えても、物価が上がったら別に生活水準がよくなるわけじゃないのに、なぜそんな「景気をよくすること」が必要なのか、いまいち実感がなかった。その点は、今もない。――話は少しそれるが、そういう意味で、「成長すること」というのが、何故みんな無批判に大切なことなのかと思っているのかというのも疑問なのである。本当に、人類世界の幸福を考えたとき、「成長し続けること」が絶対必要なのか。「ワム」(無限の電力を供給できる)とか資源があるならそうだろう。でも、地球という全体資源が有限であるのならば(そもそも、恒星(自分で熱を発する星)には寿命がある)、そもそも成長し続けることなど考え方として矛盾ではなかろうか(いやもちろん、有限であろうと、使用できる範囲を桁違いに超えていれば、無限として扱うことも可能だろうが)。


 閑話休題。
 株とギャンブルの違い、だったな。
 確かに、先日書いたように、PER(純利益に対して株価が何倍の値段になっているか)は、バブル(1989年)前から50倍程度と高かったが、バブルをこえて、現在は、10倍~20倍の、国際水準に落ち着いているという。
(逆に言えば、これから株を購入しようとするときに、PERが10倍~20倍であるというのが、目安になるだろう。ただし、当然これだけがポイントではない)

 確かに、株は、ハイリスクの、ギャンブル性が強い状態が続く状態があった。バブル後に一気に株価が下がった瞬間など、まさにギャンブルといった感覚を生じさせたかもしれない。
 けれども、日本の証券市場や、国の政策(新会社法とか、NISAもその一つだろう)も、預貯金から、株や保険や債券といった金融資産にシフトさせようとしていることからも、株とギャンブルは異なるといえるだろう。

 もう一つ、違いとしては、ギャンブルは、固有の商品に過ぎない。他の表現を用いれば、再分配に過ぎないということだ。もっと他の表現にすれば、付加価値を生み出さない、ということだ。
 どういうことか。宝くじを例にすれば、くじを、300円で10,000人が購入したとする。3,000,000円集まる。胴元が、100万円ぐらいもらう。200万円を、一等賞の一人に渡す。一人はハッピー、300円が200万円になった。他の9,999人は残念。でも、「夢が買えた」ということで、とりあえず満足する。

 株とギャンブルの違い、という表題にしてしまったが、株・債権・保険・年金に、預金を含めても、金融資産とギャンブルは構造がまったく違うのである。

 金融資産とは、「市場」(しじょう)に流れるお金である。
 ギャンブルは、胴元(国だったり、某店の経営者だったり)が集めて、購入者に再分配する仕組みである。


※1:ような気がするだけ。というのは、株式投資をやっている方のブログなど拝見していると、周囲の人たちの反応がいまいちだと触れられていることが多いからだ。「へー株やってるんだ。それってもうかるの?」と反応はするものの、いざ真面目にやろうとか、勉強しようとする人はあんまりいないということである。そういったフレーズが、いくつかのブログさんで書かれていたので、やっぱりそういった傾向が強いのかなと思ったわけだ。

※2:GDPとは、日本国内で生産された付加価値の総額である。よく比較されるGNP(国民総生産)との違いは、「場所(ドメスティック)」にこだわるか、「人(ネイション)」にこだわるか、である。GDPは、日本人以外が生産した価値も含めるが、海外で働く日本人の生産した価値は含めない。GNPは、海外で働く日本人の生産した価値も含めるが、国内で日本人以外が生産した価値は含めない。
 ⇒って理解してたら、大きく間違っていた。要は、「海外からの純所得」を含めるかどうか、ということで、日本人かどうかは関係ないらしい。――GDPとGNPの違いって?中学生にも分かるように解説!
 例であがってたのが、イチロー選手。彼は日本国籍をもっているが、海外で働いていて、海外で税金を納めているので、GNPにも含まれないということだ。当然、日本のGDPにも含まれない。ポイントは、日本に住んでいる人の所得かどうか、という点。
・GNP=GDP+海外からの純所得
・GDP=GNP-海外からの純所得
 つまり、日本に住んでいる人に対して(国籍問わず)、海外から純所得(給料など)が支払われた場合、そのお金を含めるかどうか、ということ。含める場合は、GNP。含めない場合はGDPということ。
 じゃあ何故GDPが重視されるように昨今なっているかというと、純粋に各国の生産性を見る指標として役に立つからだ。GNPでも、その国の活性状況がみれるかもしれないが、他国がお金を引き上げたときの影響が大きくなるだろう。
 GDPとGNPの併記を各国で比較してみると面白いかもしれない。


まとめ

 あんまり面白い記事じゃあないなぁ。まぁ、学習カテゴリなので仕方がないか。
 でも、本来、学習ってのは楽しいことなんだと僕は思うのだが。

 その、面白くない理由は、上の章の内容は、別に今初めて思ったことでも、初めて学んだことでもないというのが一つ。なんとなく、思っていた感じていたことではあった。ただ、こうやって文章でまとめたのは初めてな気がする。

 そういう意味で、銀行にお金を預けておくというのが、非常に無駄……とは言わないが、眠っている状態であるというのは感じていた。
 ただ、じゃあそれをどう運用すべきか、ということについては、明確に、具体的行動ができるほど知識も、そもそもやる気が出なかったのである。つまり面倒だったということだ(かっこわらい)。ので、多くの人は、「銀行にお金を預けておくこと」が、これからインフレ(物価が上がること)になっていったら、どんどん損(目減り)するんだろうなぁと感じていながら、なかなか金融市場に参画できないのは、「合理的判断ができない」というよりかは、単に面倒である、というのもあるのかもしれない。

 何せ毎日忙しいのだ、誰しも。

 だから、「忙しい」という言葉自体、僕は価値を思っていない。忙しくない人なんて、どこにいるの?
 ――まぁいる。大富豪は資産家は、アーリーリタイアした人たちは、悠々自適な自分の時間を過ごしているのだろう。でもそういう人たちは、逆に、金融市場の仕組みを理解していたか、もともと自身の環境に恵まれていたのだろう(もともとお金持ちの家庭だった)。
 だから、「貧乏暇なし」という諧謔は、なんとも皮肉にも、正しいように思われる。



 でも、別に、僕はいつも書いている(つもり)だが、その「忙しい」というのが本当に悪いことだとも思っていない。
 仕事を、「いやー大変だよね~」といいながら、実は楽しんでいるという人も大勢いるだろう。仕事をすることで、自身を成長させてくれるのだと、そんな風に信じている人も大勢いるだろう。それらは、「すべて」間違ってなどいない。

 別に、どんな生き方も、人生も、正解も、間違いもないのだ。その人にとって正しければ、それでいいのだ。そんなもんだ。万物普遍の真理などない。


 けれども。
 逆に。
 それら、「すべて」正しい故に、「衝突」(コンフリクト)が起こる。
 無差別テロや暴力は、断じて許されることではないが、しかし、「テロリスト」とレッテルを貼ることは簡単だが、それら行為をなす人々にとって、その暴力的行為は「正義」なのである。これが未だ、人類が解決できていない問題だ。
 平和主義者たち。戦争反対を主張する人たち。大いに賛成だ。人同士で殺しあう世界が正しいはずないだろう。けれども、「テロリスト」が、果たして、必ず間違っているといえるのか。
 もちろん、自己の利益や、欲求のみを追求する存在に、正義などなかろう。そういった存在は、「悪」としてよいかもしれない。しかし、その「幸福の範囲」は、自民族や、同じ宗教を信じる者たちに限定されたとしても、それが「悪」だと唾棄し殺戮して浄化してよいというのか。別に、右の腕を切り落とされたら、左の腕も差し出せと言っているのではない。「テロリスト」や危険な国を容認すべきといっているのではない。ただ、正義を主張する者たちを、別の正義で押しつぶすということを、人類は長い歴史で繰り返してきたわけだが、本当にこれからも、同じ方法でやっていくのが「正解」なのだろうか?
 と、自分にとって、あんまし、どうでもいいことを書いてしまった。ただ、こういった点も、ずっと今まで思って考えていたことでもある(愛とは何か、友人とは何かとかいうのと同じぐらいのレベルで)。

 ――そんなことはない、人類は徐々に平和へと向かっているんだ!




 というのが、上の本で書かれているらしいと、先日ふとアマゾンのおすすめに上がってきたので、レビューなどみてみた。面白そうである。しかし、ちょっと高いな……。
 近くの図書館などにおいてないか探してみるか……。


(取りあえず、「株式投資入門」の第一章、第二章は理解しながら読めた。二章の金利計算はまだちょっと難しそうだが……)

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戦う相手は誰だ? ゴールはどこだ?
2017/07/14 21:20 | Comments(0) | ポジティブ思考
今日の一言「よし三連休だぜ」「何の予定も考えていない」

何かしよう(雑)

 よし、ようやく休みだ!
 いや何も、週休二日制を無視していたわけではない。しかし、何もない休日は久しぶりな気がする。
 思うに、その休日に入る前の「準備」が大切だ。ボロボロつかれた状態で休日に突入すると、十中八九、ボロボロな休日になってしまう。

 だが、僕はふと思った。

 休日そのものが嬉しいのではなく、「何もない時間が続くこと」自体がうれしいのではないかと。
 つまり、とりあえず、まぁ、なんか仕事もプライベートもうまくいかないが、三日間は、無為な時間が得られるということである。
 とりあえず、日々の雑事について、思い煩うことがないのである。

 そりゃあ、もちろん、何か予定があるのは良いことのように思う。けれども、予定があるってのは、その予定に対して「思い煩っている」ということになるまいか。いやなるだろう。


 だから、「あー、何しよっかなー」とか、ぼけーっと考えられるってことそれ自体が、とっても幸せなことのように僕は思うのだ、思ったのだ。

何もない

 まずは、この、現状の気持ちを書き残しておこう。とっても、楽しい。
 何だろう、何かこう活動していて充実しているなぁ、楽しいなぁと思うことはあるけれども、何もしていないこの瞬間が、なんかワクワクしてくる。

 こういった時間を多くしていくことが、人生を楽しむっていうことなんだろうか。

 そうすると、日がらずーっと、テレビをみて、縁側で日向ぼっこしながら過ごすお年寄り(こんなモデルはもはや段々くずれていってるだろう。いや老人ホームとかでは日常茶飯事か)になるのが、目指すべきものだろうか。
 しかし、このことに、一つ懐疑はある。今のこのワクワク感は、いつもの「雑事」(=めんどうなこと)から、一時的に解放されたという、その解放感によるものかもしれないということ。

 つまり、そもそも、「雑事」がなくなってしまえば、もはや、そういったわくわく感も得られなくなるのではないか、ということである。

 確かに、そんなことは、一生懸命働いて、定年を迎えてから感じたり考えてもいいかもしれない。

 ――僕は、断じて、否、という。


 将来のために生きるということを、僕は否定する。
 頑張って、報われるという物語を否定する。

 どん底の状況から這い上がるのは必要だ。しかし、物語はそこで終わっても、人生という長い物語は、一つ状況好転したところで決して終わりではない。

 モテない男(女)が、自分を磨き、彼女をつくることができた。意中の彼(彼女)の心をつかんだ。

 素晴らしい物語だ。
 だが、恋愛物語はそこで終わったとしても、その主人公の旅はまだ続く。


 終わりなき物語。
 しかし、たいていの人は、それを受け入れている。

 生涯学習とか、頑張り続けることが大事だとか、日々チャレンジだとか。


 誤解や、批判を恐れずに書けば、そういった方策は、「終わり」ということから目を背けていることに過ぎないと僕は思う。
 終わることが怖いのだ。だから、終わらないように、次々と目標を掲げ、努力し、ゴールを目指そうとする。
 しかし、本当に、ゴールにたどり着きたいと思っているのだろうか? 僕は、否と思う。

這い上がる物語は別だ

 ある意味、心を打つのは、そういった「打算的なゴール」など、一切感じさせない物語(生き方)である。

 のけものにされていた人が、力をつけて、周囲を黙らせるようになる。
 その主人公が、みじめであればみじめであるほどに、そこに「打算」などない。生きるために、ただ、戦わなければならない。現状維持は、何ら福音にはならない。だから目指す。ゴールというよりも、深い穴から抜け出そうとあがくのだ。

「人生に退屈した老人どもに、世界を救うだなど言われて、信じられるはずなかろう」――メイガス中佐(EDENより)。

 
 戦うことに理由などない。ただ、戦わなければ生きられないのだ。


現状維持の難しさ

 話はスパッと変わる。とあるブログさんを読んで思ったこと。

昨日の自分に比べたら、今日の自分は成長してる。何しろ、1日分の体験・情報があるから。しかし、昔の方が色々なことを記憶していたと、昔の自分にすら劣等感を覚える可能性もある。でも、やっぱり、人生経験という点では、昨日より今日の方が成長してるのだろう…
しかし、僕は過去に考えていたことも忘れてしまっていることが多く、ぐるぐる堂々巡りの思索の日々で、進展と後退を繰り返しながら、本当は成長も何もしてないんだろうなあとも思うことが少なくない…カラ回りしてるというか、無駄な無為な日々を送ってるんではないかと落ち込んでしまう…

 
 僕は先日、周りと比べて「自分はなんてダメなやつなんだ……」などと落ち込む必要など、まったくないと書いた。
 それは、すごい人はいっぱいいるし、ダメな人はたくさんいるからだ。比較してもきりがないからだ。そんなたくさんの人がいるこの世界において、自己卑下したところで、それは単に「自己エクスキューズ」(きっぱり言っちゃえば、「言い訳」)に過ぎなかろう。
 ただし、そんな中でも、負けちゃいけない人がいる。誰か? 自分だ。

 自分にゃあ負けるなと。

 他者に負けたっていい。そりゃ、勝ち続けられたらいいが、暴力の世界でも、知識の世界でも、政治の世界でも、技術の世界でも、コミュ力の世界でも、どこでもかしこでも、上がいれば下がいる。

 僕はもう一つ、これも昔に書いたことがあるが、「総合力」で勝負しろと。

「人間とは総合である」(※)とは、実存主義の哲学者キルケゴールさんの言葉だが、様々な要素……それは、体を構成するたんぱく質にとどまらず、自分を取り巻く人、環境も含めて、自分という存在であると、私は思う。
(だから、どこまでが「自分」という境界であるのか、実は、甚だ曖昧なのだと思うが、それはともかく)

 例えば、絵をかくのが得意な人でも、アマチュア・プロ含めて数多の中では、かすんでしまうだろう。しかし、絵の能力と、WEBプログラミングの能力があったらどうだろう。なんだか、人を驚かせる面白いことが少しできる可能性が増えはしまいか。
 仕事で営業トークがうまいとしても、それだけでは大して重宝されないかもしれない。しかし、営業トークにプラスで、権力者に気に入られる能力も高ければ、いい思いができる可能性が増えはしまいか。

 先日暗く感傷的なの書いてしまったので、たまにはポジティブなことも書いてみれば、PHPのプログラミングが少しできるだけでは大したことはないが、エクセルのマクロも少し使えて、パワーポイントが少し使えて、タイピングが少し速くて、小説を少し書くことができて、ピアノが少し弾けて、作曲が少しできて、初音ミクが少し使えて、10kmぐらいは走ることができて、筋トレを少し続けることができて、友人も少しいて、恋人を作ることも何回かできて、法律の文書を少し読むことができて、仕事で中よりは上の評価をもらえて、自動二輪の運転ができて、般若心経は暗唱できて、――と、まぁ、その一つひとつは大したことがないが、全部「総合」してみると、「唯一性」に少しずつ近づくことができる。

 まー。それでも、すべてを超越する人は、たくさんいっぱい、いるんだけどね。哀しいことに。

 だけど、その一つ一つを他者と比べて、「あー、やっぱり俺って駄目な奴だなぁ」なんて思っても仕方がない。無意味だ。じゃあ、そのできることの一つが、本当に、どんな環境で、どんな周囲の人との間であっても、絶対に自分が一番ダメか、って考えたら、そんなことあるまいよ。
 小学生の中にいってみたまえ。「おぉ! おじちゃん、すごい!」っていってもらえる何かが、きっとあるだろうよ。

 小学生の中で褒められても、虚しいだけだって?

 違う、そういう意味ではない。そりゃあ、小さな環境の中で、井の中の蛙やってることを自覚しないで、本当に自分はすごいやつなんだって、勘違いしているのは痛いだけである。
 でも、そんなんでも、周囲の人に何らか良い影響を与えられたら、それだけで、素晴らしいことじゃあなかろうか。
 どんな優れた技術や、思想をもっていたとしても、それが誰にも伝えられなければ、世界にとっては無意味である。
 ゴータマ・シッダールタさんも、最初は、「あー悟ったし、もういいや」と思ったそうだが、梵天という神様に、「いやいや、お願いだから、衆生に教えを広めてやってくださいな」と請われてじゃあいっちょやってやっか、と、80歳で亡くなるまで頑張ってくれたのだ。


 ――ん? はなしそれた! 話を戻す。
 ええと、とにかく、自分に負けるな、ってことを、僕は以前から書いていた、ということだ。しかし、あるブログさんの記事を読んで、僕は、ちょっとこの考えも甘い部分が多大だな、と思ったわけだ。
 次の章にその内容を書く。

現状維持の難しさ2

 つまり、「自分には負けるんじゃないぞ」というのは、ある程度若い人向けの言葉なんじゃないかなぁということだ。

 確かに、若い人だとしても、身体的なピークというのは、10代後半だか20歳前半だか(曖昧)と聞いたことがある。そしたら、「過去の自分には負けるな!」と言い続けても、絶対いつか……いつかというより、結構早い段階で、過去の自分にも勝てなくなる。スポーツ選手の引退とか、そういうもんだろう。
 たまに、現役で、まだまだやれるんじゃあなかろうかと思われていた選手が、現役引退! とかいって、驚かせることがあるけれども、その方にとっての、自分のピークというのはもう過ぎたんだと、類まれな感覚で分かってしまったのだろう。

 確かに、すごい能力をもっているから、ある程度はまだまだ現役で活躍できるかもしれない。しかし、その人にとっては、徐々に、衰えていく自分を感じ続けなければならないということなのだ。それはある意味、つらいことだ。特に、向上心を持って、心身を鍛え続ける必要があるトップアスリートにとっては、自身の成長が望めなくなるというのは、何にもましてつらいことだろう。


 だから、「自分に負けるな」というのは、いつでもどこでも、だれにでも使える魔法の言葉なんかじゃあないということを、しっかり銘記すべきだろう。


 しかしそれでも、いまだ僕は、この言葉は有効だと思っている。

 それはやっぱり、最初に書いた、「総合力」という意味においてだ。


 僕がさっき挙げた「できること」の羅列は、確かに、自分の要素の一つでもある。しかし何も、「できること」である必要すらない。
 例えば、目に見えない、人脈だとか、カリスマ性。カリスマ性って何? って考えるのは面白そうだが、それは置いておいて、他にも、さっきのアスリートの例で行けば、金メダルをとった実績だとか、仕事の営業さんでいけば、大きな契約を取った実績だとか、過去の実績というのも自分を成り立たせる要素の一つだ。
 または「経験」。あまり好きな例ではないが、「修羅場」とか「つらい状況」を乗り越えたといった体験・経験というのも、一つの要素である。


 そういった目に見えるもの、見えないもの含めて、自分の内部・外部含めた「総合」を考えたとき、いまだ、「過去の自分に負けるな」というのは、有効な言葉だと思うのだ。
 確かに、ある分野では、もう過去の自分に勝つことはできなくなってしまったかもしれない。しかし、ピークを過ぎてしまって、挫折や苦しい思いを経験したって、それ自体が一つの自分を成り立たせる要素だとしたとき、自分という総合力は、まだまだ、全体としてマイナスに転じているとは言えないではないか、そう思うのだ。

最後に落とす

 とまぁ、ここでブログを終わっておけば、まぁ前向きな記事になった気がする。

 しかし、僕の思考さんは、残念ながらここで終わらない。というよりも、上のことを書きながら、頭のわきに常にあったのだけれども、「で、その、自分に負けないようにして総合としての成長を感じていって、それで何を目指してるの?」と聞かれている。

 上に書いたのは、
>将来のために生きるということを、僕は否定する。
>頑張って、報われるという物語を否定する。

 ということであった。

 自分に負けずに成長していくということは、僕が上で否定したことと矛盾しまいか。

 つまりだ、徹底的な現状肯定こそが、本来あるべき姿じゃあなかろうか。

 ここで強引だけど、株の勉強で知った言葉を使ってみると、「現在価値(PV)」ってやつだ。
 現金(キャッシュ)ってのは、確かに、それ自体がお金を生む力がないので、ファイナンス理論の中では価値が低いものとされる。しかし、今日得られる100万円は、明日得られる101万円よりも価値が高いのだ。

 頑張って、頑張って頑張って到達できる「ゴールA」があるとする。
 そのゴールは、確かに、自分にとって「幸せ」であったとする。

 一方、目の前に、そのゴールより手近な「ゴールB」があったとする。そのゴールBで得られる幸せは、頑張って到達できる「ゴールA」よりも少なかったとする。

 さて、このとき、ゴールAを目指すのが人生の正解か、ゴールBで満足するのが人生の正解か、どちらであろうか?


 もう一つ提起して、今回は終わっておこう。
 僕はこの記事の最初のほうで、
>物語は終わりがあるが、人生という物語に終わりはない

 と書いた。

 つまり、ゴールAとゴールB問題は、それ自体で難問でありながら、「そもそも」僕は、その「ゴール」という問題提起の在り方そのものに疑問が生じてもいるのである。


(とにかく、三連休わーい)

拍手[3回]



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