本記事の目的
本記事の目的については、時間短縮のために、前回記事を引用。(かっこ書きである。次回、ある、プロの企業研究家の記事を読んで思ったことと、今回の記事の「信念や目標について」と関係する部分について取り上げ、さらにこの「問題」について表現することを試みたい。
ということで、引用。
企業研究とは仕事とは何かを理解すること
http://college.nikkei.co.jp/article/85045216.html
社会貢献よりも会社貢献ができるのが人材
http://college.nikkei.co.jp/article/85224918.html
株式投資も、就職活動における企業研究も、基本は同じであると理解している。
もちろん、株式投資においては、バランスシート(貸借対照表)や、P/L(損益計算書)といった財務分析も欠かせないことに思われる。しかし、数ある企業のうち、根っこになるのは、その企業の「ビジネスモデル」=どうやってお金を稼いでいるのか、を理解することである。
〇自分の身は自分で守る 〇未来は見通せない
http://college.nikkei.co.jp/article/87242915.html
会社が永遠ではないことはもはやグローバル化した現在の経営では当然すぎることで、長年の歴史のある財閥系大企業が不祥事で消え去ったり、外資や他社に買収されたり、これまでの経営環境では考えられなかったことがいくらでも起きるのが今のビジネスなのです。会社員としての本丸・給与ですらそんな状況ですから、残業、福利厚生、平均年齢、退職金などの派生的情報はいくら調べたところで、今後どんどん変わっていくことでしょう。「平均残業時間」なども気になるでしょうが、その職務も、対応する人間も、締切も、立場も、顧客も違う環境下で出た平均値を比較すること自体、ほぼ意味がありません。~略~どんな会社にも必ずブラックな面やブラックは事象があるのです。自分が健康を損なったりしないように生き抜く力となるのは、本稿が繰り返し訴える、自分の判断力です。人が用意した「答」ではありません。逆に「ブラックは絶対お断り」という考えは、理系的にいえばゼロリスク幻想です。「リスクがない」「ハザードが発生しない」会社自体があり得ないものであり、許容できないリスクかどうかの判断は自分で下すしかありません。もちろん違法行為が許されるものではなく、遅ればせながら国も対策は講じていますが、基本、自分の身は自分で守るのが原則です。
自分の身は自分で守る?
言ってることは結局、自分で考えて答えを出したんだったら、それが失敗でもちゃんと自分で責任取りましょうね、ということだ。で、そもそも、「仕事」とは何かということをしっかりと理解しましょうね、ということだ。
しかし、そうした言説を、まず疑ってかかったほうがいい。二つ、考え方を紹介しよう。
一つは、私の株式投資の師匠が仰っていたことだ。私のつたない記憶から文字に起こす。
「資本主義社会で一番偉いのは投資家だよ。労働者じゃないよ。株を50%保有していたら、その会社はその投資家のものだよ」
もう一つは、ある漫画家の作品だ。
「資本主義の悪魔」
短いし、漫画で読みやすいから説明は特にしない。
上の二つのことが真実かどうか、そんなことは分からない。仕事でやりがいを見つけて頑張って人から認められて生きて死ぬ人だって大勢いるのである。その構造について、敢えて「間違っている」とか「搾取されている」という必要はない。マトリックスの機械が管理している世界だって、そこで機械に搾取され生きている人たちは、幸せかもしれないのだ。真実が必ず人を幸せにするとは限らないのだ。
だが、とりあえず、私は、上の二つの例について、共感すると表明する。
生活するということについて
ので、私は、自分の仕事に対しての「キャリア」(この言葉も空虚であるが)を磨くことも必要だと思うし、投資(お金)に関して学ぶこともとても重要だと思っている。そのための勉強をすることには何の疑問もない。
しかしだ、それらは、やはり僕にとって、「手段」でしかないということだ。
先日の記事をもう一度引用する。
「没入することしか生きる道がないのか」ということについて、結局全然触れられなかった。簡単に答えを書くと、上にかいたような「日々の営み」が人生そのものだ(没入する)ということを、僕は認められない、ということだ。「いいことも、悪いこともあるのが人生だよね!」とかっていう、甘ったれたクソつまらねえ格言じみた、訳知り顔で語り散らかす思想や考えなど、俺は認めない、ということだ。そんなんだったら、さっさと自殺した方がましだ。人生に意味はある、絶対にだ。――そう信じたいだけかもしれない、それでも、こればかりは、信じるしかない
たぶん……、多くの人が疑問なく感じ、考えているのが、上の下線部と思っている。
言葉はよくないが、一般大衆は、そうして生きていくしかない。
それで、少し偉い人になると、歴史に名を残すような業績をあげようとする。
それらの、人としての営みが、無意味無価値とは思わない。「ストレンジトゥエルブ」を読了したが、その尊い神々も、「人間の世界ってのは、生き物を殺して食わねえと成り立たない肥溜めの臭い世界だけどな、まー、そんなに、嫌いでもないぜ」と仰られていた。
まさか、こんな凡人塵芥の自分がだ、神と同じような感覚なはずはないのだけれども、なんというか、似た感覚ではある。
しかたがない、この世界はくるっている、でも愛おしい、みたいな。
ニヒル気取ってかっこ悪い
なんて、ちょっと俺は他のみんなとは違うんだぜ、という感覚……中二病とでも言うのだろうか。ただ、先日書いた記事の中の、「私の問題」とはまさにそれで、「苦しいことも楽しいことも、それに没入できない」ということだ。
これを、「達観」と表現すれば、無執着の体現でもあり、それはゴウタマさん的には正しい道といえる。
精神医学的に言えば、「解離性人格」といえる。
ネット用語的にいえば、「中二病」である。
それを「わかった」上で、さぁどうしようということだ。逆に、それを「問題」というのであるから、解決すべきとは思っているのである。
しかし、「無執着」で「達観」している僕が、なぜそういった「問題」を抱えるのだろうか?
それは、「人生は意味があって、とても楽しいものだ」ということを信じているからでもあるのだ。
――これは、矛盾した思想といえる。楽しい、というのもまた、無執着であれば、手放していかなければならないものだからだ。
涅槃(悟り)の境地と、「楽しい」「快楽」の状態とは、相いれないものなのである。つまり、昔の人があこがれて念仏を唱えた、極楽浄土ってのは、決して、酒池肉林の快楽の世界ではないのである。阿弥陀経にも、正しい教えが満ち満ちていて……みたいな表現もある。
没入することを探すのではない
このように、僕の「問題」を解決するために、徹底的に討論していこう、考えていこう、というのが、このブログの目的である。つまり、人類存在の意義を求める果てしない闘いということである(?!)。大げさである。人類がどうこうではない。実存主義だ。まずは、この自分自身が、「我は何者か。我はどこからきたのか。我はどこに行くのか」ということである。
これは、何か、自分が熱中できる何か(没入すること)を求めようとするわけではない。
それすらも、クエスチョンをするということだ。
(かっこ書きである。非常に恥ずかしい記事ではあるが、とりあえず、大上段に自分の感覚を、自分の問題意識について書いておいた。これは、10年前からあった感覚ではあるが、しかし、ここまで、明確に問題として打ち出したことはなかった。10年前は、様々な可能性があった。恋人をつくること。会社に入ること。結婚すること。大切な人の死を経験すること。いろいろ、若造としては、やってみることがたくさんあった。そういった経験もなしに、先日から書いてきたような「問題」を書くなどと、おこがましいと思っていたわけである。しかし、それらの経験は、残念なことに、僕に、全能感・充実感・人生観を与えてくれるには至らなかった。結局、今得ている真理は、「生きてるうちは、楽しいことも苦しいこともある。それが人生だ」的な、クソつまんねぇことだけだ。俺はやっぱり、「生きているから生きているんだ! それだけで素晴らしいんだ」的なのは、納得がいかない……納得がいかないというか、つまらない。快楽を得る方法なんてたくさんある。楽しいことなんてたくさんある。だけど、それがどうしたってんだ? だからなんだってんだ? ……いやこの感覚が馬鹿げているのもわかっている。どうして世界中の幸せ、素晴らしいことが、単に素晴らしいことだと認められないのだ。ニヒル気取ってかっこ悪いと、本当に思う。思うから、口に出さない。心の奥底にしまいこもうとする。けれども、だ。やっぱりそりゃあつまらねえよ。人生楽しまなきゃなんねえべ。そして時間はこうしている今も、着々と過ぎ去っていっているのだから)
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今日の一言「正確な記述を試みる」「分かりやすさへの配慮は無視する」「ここ数日15分記事のまとめ的な試み」
これは、10代前半から後半にかけての出来事に、端を発していると考えられる。
この問題について解決することができれば越したことがないが、せいぜい、1時間程度の記事への取り組みで、解決までこぎつけられる可能性はない。
よってこの記事では、その問題について、表現することを目的とする。
(しかし、それすらも、十分にできない可能性が高い。この問題は、非常に複雑であるのだ。――と書くと、いかにも、高尚な悩みに心身を埋没させているようであるが、他者から見たときに、それは重大にはとても思えないものだろう。それでも、その問題の実態を表現することには、非常に大きな価値を感じているのである)
先般の記事で、「信念をもつことが大事」と書いた。
ここで、果たして、信念をもたない人が存在するのか? という疑問が生じることであるが、「価値観」を持たない人はいないだろうが、それを洗練・昇華させ、「信念」にまでしている人はそう多くはないと思う。言うに及ばず、僕にもそんな信念は存在しない。
存在しないが、僕は、信念をもつべきだと考えている。
さて、以前作成した図であるが、価値観とは、以下のように整理される。

実感は、信仰(信じていること)と、論理的に納得したものの総体である。そして、その実感の総体(まとまり)が、価値観であるということだ。
基本的に、価値観は、イコール自己である。
つまり、ぼくの世界認識というか、他者存在の認識については、
「価値観をもたない人は一人としていないが、信念を持っている人は少ない」
というものである。
さて、価値観は誰にでもあるもの、と書いた。しかし、幼い子供についても、本当に価値観をもっているといえるのか?
これは、上と矛盾するようだが、「否」である。
子供は、価値観を持っていない。しかし、「実感」はある。
痛い悲しいむかつく、楽しい嬉しい、これらの感情や情動については、生まれたての赤ん坊でも持っているものである(――赤ん坊の感情や情動については、専門書があるだろうので、ここでは適当な感覚を書いているに過ぎない)。
子供のころの経験が大切だというのは、そうした実感が、後々、価値観となっていくからである。
いってしまえば、「世界・人間なんてくそったれだ」と思ったわけである(当然、そんな表現が当時に思い付いたかどうかは知らない)。
ここで、いじめられる側にも原因があるとか、そもそも、お前が感じたことやされたことは、一般にいじめとも言えないようなものだ(いやがらせだ)とか、そういったことは取りあえず置いておく。
そして、そういった過去の出来事について、何らか言及して、現在を肯定したり否定したりしようというものでもない。
ここで一つ、他のブログさんを例に書いておきたい。
そのブログさんは、過去に家族から受けた仕打ちについて、大人になった現在も、ずっと忘れられず、苦しんでいる。現在は、すでにその家族からも離れて暮らしているが、過去に受けた仕打ちが、普通に暮らそうとしてもフラッシュバックのように蘇って苦しんでいるのだ。
その苦しみについて、「苦しい!!!」といつもブログに書いている。僕は、ひどいことだとは思うが、正直、いつも同じ表現で苦しいと書かれても、面白くないと思っている。苦しいという感情を否定したいわけではないが、その苦しさというのを、もっと具体的に表現できなければ、他者の感情を引きずりこむようなことはできないのである。
最初はその苦難の人生に同情する人はいるかもしれないが、ずーっと同じことを言い続けているその人を見れば、「いい加減、もう立ち直ったら?」と思っていくのである。そう言ってあげる人はまだ優しいが、その他大勢は、何も言わずにその人から去っていくだろう。
しかし、そんな中で、そういった人の心性について、そのブログさんも言及していた記事があった。
「俺がずっと苦しんでいるのは、それは、今が解放されたから終わりというわけではないのだ。今が良くても、そのされてきた仕打ちは、ずっと何十年も蓄積されきたのだ。今がよくても、蓄積されたその苦しみは、簡単になくならないのだ」
と。
この表現、指摘、感覚については、僕も非常に面白いと思った。
一見、何の不自由なく、恵まれた生活を送っているように見える人でも、過去に受けた傷によって、ずっと苦しんでいることもあるということだ。
これを、トラウマ(心的外傷)といったりするのかもしれない。抑圧された情動が突然噴き出すということもあるだろう。
ここまでで確認したいことは、以下のとおり整理できる。
1.実感とは子供のときから醸成される
2.過去に苦しい・辛いことが発生したとき、それは実感としてインプットされる
3.2.でインプットされたことが、いずれ価値観として確立していく
4.2.で発生したことがたとえいくら苦しくて辛いことでも、他者からみたら分かりづらい(人は、今目の前に存在する人しか見えない)
僕が、自分自身確認しておくべきは、その自分の過去というのが、「世界の否定」であったということである。よい表現が浮かばないが、「人生とは苦しみである」という考えが、10代前半に……というか、10歳のときに思ったわけだ。
人生のスタートが、いわば「ゼロ」になった。いや、「マイナス」かもしれない。そういった表現はどっちでもいいのだが、幼い子供(10歳がそうかは分らんが)だからといって、誰しも人生楽しくワクワクしているわけではないということだ。
で、そこから考えると、いいことあったり、悪いことあったり、いろいろ波に乗って、いまは「プラス」だと思う。
そして、そこから発生したのが、冒頭に書いた、「大きな問題」である。
前回の「信念が必要だ」という記事や、長期的な目標を立てることが重要だ、というのとも関連するけれども、僕が、人生というゲームに何故没入できないのかという原因が、その「実感」の積み重ねというか、人生の始まりの座標のせいではないか、という確認である。
なかなか、他者に理解してもらえないこと……なのか、他者は理解しているが、僕の方が他者が理解していると思えないだけなのか分からないが、
「たのしいこともくるしいことも、それが自分のものだと感じられないということ」
が、問題である。
解離性人格障害の本とか、EDENという漫画のソフィアという女性の来歴が語られるシーンを読むと、まぁあんな感じである。
もちろん、それが、深刻な状態として僕の中にあるのか、というと、とんでもない、凡人レベルでそんなはずはあるまい。手首を切りつけて血がどばどば流れるのをみても、「自分の感覚じゃないみたい」とか、そんなこと思うはずもない。というか、痛いの嫌だ!(かっこわらい)
なので、どうしても、この「問題」について、語ったり、書いたりすると、大げさにとらえられてしまってよくない。そういうレベルではないのである。むしろ、歯を磨いたりご飯を食べたりするのと同じレベルで、「あー今日、上司に小言を言われて嫌だったよー」とか、そんな日常の愚痴レベルで、僕はこの問題を悩んでいるに過ぎないのだ。
だが、僕の性格上、「問題」は解決したいのである。
その解決の方法が、「目標」だったり、「信念」であるということだ。
これを、数年後の自分が読んで、何らかのヒントにできたらいい。
それでもって、これまた、先日の「仲間」が欲しいという記事と繋がるけれども、この、少々得体のしれない問題について、一緒に取り組んで解決できる人がいたらいいなぁということである。
といっても、すでに、師匠とか仲間(勝手に僕が認定している)がいるから、とても恵まれているのである。
この生きる世界は、生き物を殺してご飯を食べて排泄して、寝て起きて、人を傷つけ助けて、友人や家族と笑ったり憎んだり、そういった尊い営みの繰り返しである。
僕も、普通の人間なので、そういった営みの繰り返しの中に生きているわけであるが、そのすべての行為行動言動の中で、根底にあるのが、その「問題」であるということである。
(かっこ書きである。次回、ある、プロの企業研究家の記事を読んで思ったことと、今回の記事の「信念や目標について」と関係する部分について取り上げ、さらにこの「問題」について表現することを試みたい。ちなみに、メインタイトルの「没入することしか生きる道がないのか」ということについて、結局全然触れられなかった。簡単に答えを書くと、上にかいたような「日々の営み」が人生そのものだ(没入する)ということを、僕は認められない、ということだ。「いいことも、悪いこともあるのが人生だよね!」とかっていう、甘ったれたクソつまらねえ格言じみた、訳知り顔で語り散らかす思想や考えなど、俺は認めない、ということだ。そんなんだったら、さっさと自殺した方がましだ。人生に意味はある、絶対にだ。――そう信じたいだけかもしれない、それでも、こればかりは、信じるしかない)
この記事の目的
私は、大きな問題を抱えている。これは、10代前半から後半にかけての出来事に、端を発していると考えられる。
この問題について解決することができれば越したことがないが、せいぜい、1時間程度の記事への取り組みで、解決までこぎつけられる可能性はない。
よってこの記事では、その問題について、表現することを目的とする。
(しかし、それすらも、十分にできない可能性が高い。この問題は、非常に複雑であるのだ。――と書くと、いかにも、高尚な悩みに心身を埋没させているようであるが、他者から見たときに、それは重大にはとても思えないものだろう。それでも、その問題の実態を表現することには、非常に大きな価値を感じているのである)
信念とは何か
信念とは、価値観の総体である。ここでいう総体とは、たくさんの個々具体的な要素を、一つにまとめたものと考えてよい。そして、さらにその総体(=統合体)を、ブラッシュアップ(洗練)させたものと捉える。先般の記事で、「信念をもつことが大事」と書いた。
ここで、果たして、信念をもたない人が存在するのか? という疑問が生じることであるが、「価値観」を持たない人はいないだろうが、それを洗練・昇華させ、「信念」にまでしている人はそう多くはないと思う。言うに及ばず、僕にもそんな信念は存在しない。
存在しないが、僕は、信念をもつべきだと考えている。
さて、以前作成した図であるが、価値観とは、以下のように整理される。
実感は、信仰(信じていること)と、論理的に納得したものの総体である。そして、その実感の総体(まとまり)が、価値観であるということだ。
基本的に、価値観は、イコール自己である。
つまり、ぼくの世界認識というか、他者存在の認識については、
「価値観をもたない人は一人としていないが、信念を持っている人は少ない」
というものである。
幼い子供は価値観を持つのか?
まだ、話の本題に入るどころか、前提の前提ぐらいの内容だ。この当たりのことは、これまでの記事に断片的に書いているから、目新しくないと思ったら読み飛ばして構わない。さて、価値観は誰にでもあるもの、と書いた。しかし、幼い子供についても、本当に価値観をもっているといえるのか?
これは、上と矛盾するようだが、「否」である。
子供は、価値観を持っていない。しかし、「実感」はある。
痛い悲しいむかつく、楽しい嬉しい、これらの感情や情動については、生まれたての赤ん坊でも持っているものである(――赤ん坊の感情や情動については、専門書があるだろうので、ここでは適当な感覚を書いているに過ぎない)。
子供のころの経験が大切だというのは、そうした実感が、後々、価値観となっていくからである。
過去の苦しみは理由(言い訳)になるのか
記事の最初の方に、10代前半ぐらいから嫌な思いをしてきた、と書いた。いってしまえば、「世界・人間なんてくそったれだ」と思ったわけである(当然、そんな表現が当時に思い付いたかどうかは知らない)。
ここで、いじめられる側にも原因があるとか、そもそも、お前が感じたことやされたことは、一般にいじめとも言えないようなものだ(いやがらせだ)とか、そういったことは取りあえず置いておく。
そして、そういった過去の出来事について、何らか言及して、現在を肯定したり否定したりしようというものでもない。
ここで一つ、他のブログさんを例に書いておきたい。
そのブログさんは、過去に家族から受けた仕打ちについて、大人になった現在も、ずっと忘れられず、苦しんでいる。現在は、すでにその家族からも離れて暮らしているが、過去に受けた仕打ちが、普通に暮らそうとしてもフラッシュバックのように蘇って苦しんでいるのだ。
その苦しみについて、「苦しい!!!」といつもブログに書いている。僕は、ひどいことだとは思うが、正直、いつも同じ表現で苦しいと書かれても、面白くないと思っている。苦しいという感情を否定したいわけではないが、その苦しさというのを、もっと具体的に表現できなければ、他者の感情を引きずりこむようなことはできないのである。
最初はその苦難の人生に同情する人はいるかもしれないが、ずーっと同じことを言い続けているその人を見れば、「いい加減、もう立ち直ったら?」と思っていくのである。そう言ってあげる人はまだ優しいが、その他大勢は、何も言わずにその人から去っていくだろう。
しかし、そんな中で、そういった人の心性について、そのブログさんも言及していた記事があった。
「俺がずっと苦しんでいるのは、それは、今が解放されたから終わりというわけではないのだ。今が良くても、そのされてきた仕打ちは、ずっと何十年も蓄積されきたのだ。今がよくても、蓄積されたその苦しみは、簡単になくならないのだ」
と。
この表現、指摘、感覚については、僕も非常に面白いと思った。
一見、何の不自由なく、恵まれた生活を送っているように見える人でも、過去に受けた傷によって、ずっと苦しんでいることもあるということだ。
これを、トラウマ(心的外傷)といったりするのかもしれない。抑圧された情動が突然噴き出すということもあるだろう。
自分のこと
上の内容から、「僕は、過去に苦しい思いをしたから、今が恵まれていても、実は苦しんでいるのだ、助けてください」と言いたいのではない。ここまでで確認したいことは、以下のとおり整理できる。
1.実感とは子供のときから醸成される
2.過去に苦しい・辛いことが発生したとき、それは実感としてインプットされる
3.2.でインプットされたことが、いずれ価値観として確立していく
4.2.で発生したことがたとえいくら苦しくて辛いことでも、他者からみたら分かりづらい(人は、今目の前に存在する人しか見えない)
僕が、自分自身確認しておくべきは、その自分の過去というのが、「世界の否定」であったということである。よい表現が浮かばないが、「人生とは苦しみである」という考えが、10代前半に……というか、10歳のときに思ったわけだ。
人生のスタートが、いわば「ゼロ」になった。いや、「マイナス」かもしれない。そういった表現はどっちでもいいのだが、幼い子供(10歳がそうかは分らんが)だからといって、誰しも人生楽しくワクワクしているわけではないということだ。
で、そこから考えると、いいことあったり、悪いことあったり、いろいろ波に乗って、いまは「プラス」だと思う。
そして、そこから発生したのが、冒頭に書いた、「大きな問題」である。
私の問題について
ようやく、ここから話の本題の前提に入っていくことができる。前回の「信念が必要だ」という記事や、長期的な目標を立てることが重要だ、というのとも関連するけれども、僕が、人生というゲームに何故没入できないのかという原因が、その「実感」の積み重ねというか、人生の始まりの座標のせいではないか、という確認である。
なかなか、他者に理解してもらえないこと……なのか、他者は理解しているが、僕の方が他者が理解していると思えないだけなのか分からないが、
「たのしいこともくるしいことも、それが自分のものだと感じられないということ」
が、問題である。
解離性人格障害の本とか、EDENという漫画のソフィアという女性の来歴が語られるシーンを読むと、まぁあんな感じである。
もちろん、それが、深刻な状態として僕の中にあるのか、というと、とんでもない、凡人レベルでそんなはずはあるまい。手首を切りつけて血がどばどば流れるのをみても、「自分の感覚じゃないみたい」とか、そんなこと思うはずもない。というか、痛いの嫌だ!(かっこわらい)
なので、どうしても、この「問題」について、語ったり、書いたりすると、大げさにとらえられてしまってよくない。そういうレベルではないのである。むしろ、歯を磨いたりご飯を食べたりするのと同じレベルで、「あー今日、上司に小言を言われて嫌だったよー」とか、そんな日常の愚痴レベルで、僕はこの問題を悩んでいるに過ぎないのだ。
だが、僕の性格上、「問題」は解決したいのである。
その解決の方法が、「目標」だったり、「信念」であるということだ。
整理
まず、上のような問題について、今書いてきたような内容で、分かりやすいのかどうか、僕はよく分からない。今できる、僕の出力できる最高スペックで書いてみたけれども、これでも分からなければ、とりあえずここ数年としては仕方がないだろう。これを、数年後の自分が読んで、何らかのヒントにできたらいい。
それでもって、これまた、先日の「仲間」が欲しいという記事と繋がるけれども、この、少々得体のしれない問題について、一緒に取り組んで解決できる人がいたらいいなぁということである。
といっても、すでに、師匠とか仲間(勝手に僕が認定している)がいるから、とても恵まれているのである。
この生きる世界は、生き物を殺してご飯を食べて排泄して、寝て起きて、人を傷つけ助けて、友人や家族と笑ったり憎んだり、そういった尊い営みの繰り返しである。
僕も、普通の人間なので、そういった営みの繰り返しの中に生きているわけであるが、そのすべての行為行動言動の中で、根底にあるのが、その「問題」であるということである。
(かっこ書きである。次回、ある、プロの企業研究家の記事を読んで思ったことと、今回の記事の「信念や目標について」と関係する部分について取り上げ、さらにこの「問題」について表現することを試みたい。ちなみに、メインタイトルの「没入することしか生きる道がないのか」ということについて、結局全然触れられなかった。簡単に答えを書くと、上にかいたような「日々の営み」が人生そのものだ(没入する)ということを、僕は認められない、ということだ。「いいことも、悪いこともあるのが人生だよね!」とかっていう、甘ったれたクソつまらねえ格言じみた、訳知り顔で語り散らかす思想や考えなど、俺は認めない、ということだ。そんなんだったら、さっさと自殺した方がましだ。人生に意味はある、絶対にだ。――そう信じたいだけかもしれない、それでも、こればかりは、信じるしかない)
今日の一言「習慣って怖いなぁ」
書かないと、その、落ち着かないというか、変な感じ。このフワフワっとした感じを乗り越えて、自然に何も考えずに行動できるようになってくると、「習慣」と言えるようになる。
自分の行動を制御するというのは、結構面白いことだなと思う。それを是非成果に結び付けたいものだ。
という、その「成果」というのが、たとえ、自己満足だろうが何だろうが、例えば、グラフ化して示すとか、そういうものでも、「目に見える成果」なのであり、行動付け、ルーチン化するには有効であるといえるだろう。
さて、昨日の「目標」の話。
というテーゼ。「目標が大切」ということについて、あまり批判はないのではないか。
ただ、ここでいう目標というのは、できるだけ、長いスパンのものである。
「明日はこうしよう!」
というのも、目標といってよいが、しかし、短期目標は、往々にしてその場限りである。一日一日を乗り切る、という意味では重要ではあるが、それらは、「その場限り」の生活になってしまう。
それでは、人生を本気で楽しむことはできないと思っている。何故ならば、24時間いっときも、どんなときも、必ず「快感情」を生じさせ続けることはできないからである。人生は浮き沈みが激しいものだ、という意見にも、批判はあまりないだろう。つまりそういうものなのだ。いいことあったら悪いこともあったりする、そんなもんである。
そういった人生というものであったとき、「その場限り」の目標だけでとどめてしまうのは、かなりリスキーな生き方だと僕は思う。だから、長期的な、より長い目標が必要だと思うのだ。それを、言い換えれば、「信念」や「自我」といってもよいかもしれないと思う。
「子供の成長」
といったのは、日々人生に新たな刺激を与えるものであり、「目標」なるものが、天啓のように与えられるのである。
恋人との甘い生活でもよいし、スポーツに熱狂するのもよい。
それらは、「目標」を受動的に与えてくれる装置だ。
でも、本来、そういった「装置」に頼らなくても、目標というのは自ら創造し、生み出すことができるものだと私は思っている。
つまりだ、僕は、目標自体を創造したいのである。与えられた目標をこなすのも大事だけれども、自分自身で目標を創りあげて、その中で精一杯生きてみたいのである。
その結果は、失敗だろうが、成功だろうが、きっと充実して、楽しいものに違いないと思うのだ。
だから、なんだか、ずっと、得体のしれない違和感が、つきまとっていたのかもしれない。なんか、「ズレ」を感じるな、というのは、そもそも、解釈が間違っていたのかもしれない。
目標は目指すものではなく、到達するものでもなく、PDCAサイクルでブラッシュアップするものでもなく、ただ――自ずから、創り上げるものだったのか。
そう考えると、これまでの考えや、感情というものの解釈も、変わってくるかもしれない。これは大きな気付きかもしれない。
眠い。終わり。――と13分ぐらい。
(かっこ書きである。眠い。眠いけど、睡眠よりも書くことを優先させた。創作ルーチンも進めた。むっちゃくちゃ豪放磊落な人物を描きたくなって、書いていた。メールとか返せていない。今度の飲み会の場所も探さなきゃ。ストレンジトゥエルブも読まなきゃ、某氏のブログに舞い戻れない。これはつらい。仕事が終わんねー。本読まなきゃ。ああ、もう、眠い。筋トレしなきゃ、お風呂はいんなきゃ。時間が――ない、わけではなくて、つくれていない。それは偏に能力の低さである)
取り敢えず書く
もう、ルーチン、免除規定なのだけど、書く。書かないと、その、落ち着かないというか、変な感じ。このフワフワっとした感じを乗り越えて、自然に何も考えずに行動できるようになってくると、「習慣」と言えるようになる。
自分の行動を制御するというのは、結構面白いことだなと思う。それを是非成果に結び付けたいものだ。
という、その「成果」というのが、たとえ、自己満足だろうが何だろうが、例えば、グラフ化して示すとか、そういうものでも、「目に見える成果」なのであり、行動付け、ルーチン化するには有効であるといえるだろう。
さて、昨日の「目標」の話。
目標を立てるのは何故重要なのか
人生を楽しむためには、目標が必要である。というテーゼ。「目標が大切」ということについて、あまり批判はないのではないか。
ただ、ここでいう目標というのは、できるだけ、長いスパンのものである。
「明日はこうしよう!」
というのも、目標といってよいが、しかし、短期目標は、往々にしてその場限りである。一日一日を乗り切る、という意味では重要ではあるが、それらは、「その場限り」の生活になってしまう。
それでは、人生を本気で楽しむことはできないと思っている。何故ならば、24時間いっときも、どんなときも、必ず「快感情」を生じさせ続けることはできないからである。人生は浮き沈みが激しいものだ、という意見にも、批判はあまりないだろう。つまりそういうものなのだ。いいことあったら悪いこともあったりする、そんなもんである。
そういった人生というものであったとき、「その場限り」の目標だけでとどめてしまうのは、かなりリスキーな生き方だと僕は思う。だから、長期的な、より長い目標が必要だと思うのだ。それを、言い換えれば、「信念」や「自我」といってもよいかもしれないと思う。
目標の受動装置
例えば、「子供の成長」
といったのは、日々人生に新たな刺激を与えるものであり、「目標」なるものが、天啓のように与えられるのである。
恋人との甘い生活でもよいし、スポーツに熱狂するのもよい。
それらは、「目標」を受動的に与えてくれる装置だ。
でも、本来、そういった「装置」に頼らなくても、目標というのは自ら創造し、生み出すことができるものだと私は思っている。
つまりだ、僕は、目標自体を創造したいのである。与えられた目標をこなすのも大事だけれども、自分自身で目標を創りあげて、その中で精一杯生きてみたいのである。
その結果は、失敗だろうが、成功だろうが、きっと充実して、楽しいものに違いないと思うのだ。
ゴールではなくクリエイト
そうか目標は到達するものではなく、創り上げるものだったのか。だから、なんだか、ずっと、得体のしれない違和感が、つきまとっていたのかもしれない。なんか、「ズレ」を感じるな、というのは、そもそも、解釈が間違っていたのかもしれない。
目標は目指すものではなく、到達するものでもなく、PDCAサイクルでブラッシュアップするものでもなく、ただ――自ずから、創り上げるものだったのか。
そう考えると、これまでの考えや、感情というものの解釈も、変わってくるかもしれない。これは大きな気付きかもしれない。
眠い。終わり。――と13分ぐらい。
(かっこ書きである。眠い。眠いけど、睡眠よりも書くことを優先させた。創作ルーチンも進めた。むっちゃくちゃ豪放磊落な人物を描きたくなって、書いていた。メールとか返せていない。今度の飲み会の場所も探さなきゃ。ストレンジトゥエルブも読まなきゃ、某氏のブログに舞い戻れない。これはつらい。仕事が終わんねー。本読まなきゃ。ああ、もう、眠い。筋トレしなきゃ、お風呂はいんなきゃ。時間が――ない、わけではなくて、つくれていない。それは偏に能力の低さである)
今日の一言「ストレンジトゥエルブ面白い」「ナイツ&マジックも面白そう」
はい、その、カウントダウンタイマーで厳密に15分はかってみることにしました。
とりあえず、無料で見れたのは1話だけだったので、続き見るかは保留。
とりあえずこれもメモ。
その、なんだ、目標の話だ。
ということで、
ブログは書くのは何故か? →仲間を求める心性だ!
という話から派生したのであった。
どう派生したのか? それは、ブログ=仲間という方程式が成り立つことは間違いないとして、では、私は、その「仲間」というのを、どういった方向性で想定しているのか? ということを考えたわけである。
そしたとき、そもそも、このブログのテーマは、「どう生きるか」ということであって、もっと書けば、「素晴らしい人生を送るためには」「わが人生にいっぺんの悔いなし」的な感じを得るにはどうしたらいいか、という問題提起である。
そこに、僕は、「絶対に目標は必要である」というテーゼを置く。これは、「目標はあったほうがいい」というレベルではなく、あるべきだ、というものである。
何故か?
例えば、「いやいや、どうせ死ぬんですから、人生楽しんだ方がいいッスよ。目標なんて、かたっくるしいこと考えっこなしッス。うぇーぃ」という人もいるだろう。
しかし、そういったものを含めて、僕は、「目標」と呼ぶ。
楽しきゃおっけいーうぇーいの人も、――いやむしろ、そういったひとたちは、すでに人生の目標……ひいては、目的を得ているといえるのだ。
そこに問題があるとしたら、「目標や目的を無しとする目標や目的」という状態が、10年……50年、臨終、といったときに、それで良かったと思えるかどうか、その点のみである。
僕は、死に瀕して、「ああ、俺の人生って何だったんだろう?」なんて思うことが、一番悲劇だと思っているわけである。
そんな可能性があるとしたら、今、一時の快楽を我慢することなど、全然苦にはならないのである。
人の一生……といっても、その言葉が表す状況や、各々がイメージするものは異なる。
例えば、「時間」という概念。これは、「時間は誰にでも平等である」ということが言われたりするけれども、実は、その概念も人が作り上げたものである。もう少し卑近な例で行くと、時間の感じ方は文化によって違うとかいう、そんな話である。
もう一つ、「人生」や、今わの際、とかいったって、急逝する可能性もあるのだから、そんな、死ぬときのことなど考えるのは無意味だ、という考えもある。
それもまた事実である。
それらをひっくるめて、全状況として、「自分……
――時間切れ。
(かっこ書きである。エディタ起動してからいろいろで、15分、いやぁ短いなぁ。まずそもそも、ナイツとストレンジは予定外であった。あと、創作ルーチンで、意外に書き進んでしまったことが今日という日がひっ迫した原因であった。一気に書けるときはあるんだなぁ。しかしこう、自分で書いている最中に他の物語に当たるのは、あんまり良くないかもしれない。オンラインゲーム症候群的な意味合いもあれば、書きたいことが分からなくなったりブレちゃったりする可能性もある。行き詰ったときはいいだろうけれども。ええと、それで、次回。結局、なんで目標立てなきゃいけないの? ということが書き切れていない気がする。というよりも、「目標が大事」なんてことは、誰もが何の疑問ももっていないことで、書く必要性がないのでは? という疑問ももっともである。ただ、そりゃあ、個々具体的な「生き方」において――例えば仕事とか、恋愛とか――目標ないし戦略戦術が大切だなんて、分かりきっていることだろう。ただ、僕が書いておきたいというか、念頭に置きたいのは、そういうレベルなんじゃなくて、金言というか、モットーというか、「信念」的なのをもつべきではないか、という提起である。そういう意味で、「目標」というよりかは、「自分がどんな状況でも貫き通したいという生き方」を、持つべきではないか、といったことを表現したいわけである。それは言い換えれば「自我」といったりするわけであるが……と、とにかく強制終了、次回にする)
15分スタート
えーその、画像はって、タイトル買いて、ここまでで一分経過。はい、その、カウントダウンタイマーで厳密に15分はかってみることにしました。
ナイツ&マジック
1話アマゾンで無料で見れたので、見てみました。映像がきれいでよかった。転生モノで、世界観など、真新しさはあまりなかったけれども、キャラクターが何となく好き。主人公の友達になる子たちはあんましビビッとこないけれども、主人公の屈託のなさ(ロボットにあこがれる純な心とその努力行動力)がよかった。でも、なんか、「生涯の友となることを、まだ知らなかった」とかなんとか、ナレーションがイマイチ。こう、第三者視点で語られるのが、あんまり好みじゃない。かといって、必ずしもダメかというとそうでもなくて、このあたりもう少しちゃんと書きたい。とりあえず、無料で見れたのは1話だけだったので、続き見るかは保留。
ストレンジトゥエルブ
AA小説、みたいなジャンル? なんだか面白かった。まだ2話しか読んでいないけれども、続きが気になる。とりあえずこれもメモ。
残り10分
えー焦る。その、なんだ、目標の話だ。
僕はやはり目標がないとダメなようだ――というのは、そもそも、その行動や生き方自体が、目標がなければ、「よいのかわるいのか」自体が、自分自身判断ができないからである。……と長くなりそうだので、その「目標の必要性」といった内容を次回
ということで、
ブログは書くのは何故か? →仲間を求める心性だ!
という話から派生したのであった。
どう派生したのか? それは、ブログ=仲間という方程式が成り立つことは間違いないとして、では、私は、その「仲間」というのを、どういった方向性で想定しているのか? ということを考えたわけである。
そしたとき、そもそも、このブログのテーマは、「どう生きるか」ということであって、もっと書けば、「素晴らしい人生を送るためには」「わが人生にいっぺんの悔いなし」的な感じを得るにはどうしたらいいか、という問題提起である。
そこに、僕は、「絶対に目標は必要である」というテーゼを置く。これは、「目標はあったほうがいい」というレベルではなく、あるべきだ、というものである。
何故か?
例えば、「いやいや、どうせ死ぬんですから、人生楽しんだ方がいいッスよ。目標なんて、かたっくるしいこと考えっこなしッス。うぇーぃ」という人もいるだろう。
しかし、そういったものを含めて、僕は、「目標」と呼ぶ。
楽しきゃおっけいーうぇーいの人も、――いやむしろ、そういったひとたちは、すでに人生の目標……ひいては、目的を得ているといえるのだ。
そこに問題があるとしたら、「目標や目的を無しとする目標や目的」という状態が、10年……50年、臨終、といったときに、それで良かったと思えるかどうか、その点のみである。
僕は、死に瀕して、「ああ、俺の人生って何だったんだろう?」なんて思うことが、一番悲劇だと思っているわけである。
そんな可能性があるとしたら、今、一時の快楽を我慢することなど、全然苦にはならないのである。
人生とは
とはいえ、僕が上に書いているのは、あくまで、概念上の「人生」というキーワードに過ぎない。人の一生……といっても、その言葉が表す状況や、各々がイメージするものは異なる。
例えば、「時間」という概念。これは、「時間は誰にでも平等である」ということが言われたりするけれども、実は、その概念も人が作り上げたものである。もう少し卑近な例で行くと、時間の感じ方は文化によって違うとかいう、そんな話である。
もう一つ、「人生」や、今わの際、とかいったって、急逝する可能性もあるのだから、そんな、死ぬときのことなど考えるのは無意味だ、という考えもある。
それもまた事実である。
それらをひっくるめて、全状況として、「自分……
――時間切れ。
(かっこ書きである。エディタ起動してからいろいろで、15分、いやぁ短いなぁ。まずそもそも、ナイツとストレンジは予定外であった。あと、創作ルーチンで、意外に書き進んでしまったことが今日という日がひっ迫した原因であった。一気に書けるときはあるんだなぁ。しかしこう、自分で書いている最中に他の物語に当たるのは、あんまり良くないかもしれない。オンラインゲーム症候群的な意味合いもあれば、書きたいことが分からなくなったりブレちゃったりする可能性もある。行き詰ったときはいいだろうけれども。ええと、それで、次回。結局、なんで目標立てなきゃいけないの? ということが書き切れていない気がする。というよりも、「目標が大事」なんてことは、誰もが何の疑問ももっていないことで、書く必要性がないのでは? という疑問ももっともである。ただ、そりゃあ、個々具体的な「生き方」において――例えば仕事とか、恋愛とか――目標ないし戦略戦術が大切だなんて、分かりきっていることだろう。ただ、僕が書いておきたいというか、念頭に置きたいのは、そういうレベルなんじゃなくて、金言というか、モットーというか、「信念」的なのをもつべきではないか、という提起である。そういう意味で、「目標」というよりかは、「自分がどんな状況でも貫き通したいという生き方」を、持つべきではないか、といったことを表現したいわけである。それは言い換えれば「自我」といったりするわけであるが……と、とにかく強制終了、次回にする)
今日の一言「アイディアのメモがしたいけれども」「いざ書き出すと陳腐に思えたり」
今日は、書きたくなったわけではなくて、昨日やろうと思っていたから、帰宅早々に書き始めるのである。創作ルーチンは免除規定に該当する時間帯であるが、なんか、毎回書くごとにグラフを上げるのが日課・癖みたいになっていて、取り敢えず書く。しょ……しょぼい、が、まぁその、ええと、続けるってことが大事だよね……(自己弁護)。
さて、何故ブログを書くのか? という問いについて答えてみよう。
まず、多くの人がそうであるだろう、お小遣い稼ぎ、という意味は全くない。アマゾンリンクを貼ることはあるけれども、主に単に本当に紹介したいから貼っているのである。別に買ってもらおうと思ってるわけではない。というか、いまだかつてそれで収入が発生したことはない。ほんとに、ブログで儲けるなんてできるのか? なんか、よく見かけるのは、「簡単に設けられました!」「アクセス数少ないけど、月に数百円ぐらいはもうかりまっせ」とかそんなのだけど、信じられんなぁ。
というか、広告収入というのが、正直あまり好きではなかったりする……というか、「広告」というのがあんまり好きじゃなかったりする。いや、純粋に「良いものを紹介しよう」という動機の果てのビジネス化が広告産業なのだとは理解できるけれども、結局、お金を積めば良いか悪いか別にして、人の目につくように「広告する」というのが、広告という言葉に含まれるイメージである(僕が勝手に思ってるだけ)。
確かに、複雑化した社会において、広告という行為・仕事がなければ、適切な情報や商品を手にすることができない場合もあるだろう。それは、足りないところに、余っているところから商品を持って行って取引するという、古代からの商業と異なるものではない。その取り扱うのが「情報」であるという点のみが異なる。
しかしながら……って、あ……。そうだ15分制限時間付きだった。こんなこと書いている場合じゃない。そう、こんな余計なことを書き始めてしまうから、いっつも無駄に長くなってしまうのだ。
それで、ええと、動機、ね。
やっぱり、自分の思考の整理、ってのはあると思う。ただ、最近、「イライラ対処」のカテゴリは使っていない。あれは単に、いらいら・むかむかするから、取りあえずタイピングに時間を任せるという感情制御手法の一種である。それ以上の動機などありゃしない。
しかしそれ以外のカテゴリは、そんなに感情が高ぶっているわけではない時に書いている。
では、その時に書こうと思った動機とは何か? 日々生活している中で、思ったことや、触れた作品などについて、書き残しておこうという意味である。
その動機は大きいだろう。この、「書き残さなければ、どんどん記憶から消えて行ってしまう」というある種の強迫観念的なのが、かなり前から僕には存在していた。これは、リアルが充実(この表現があまり好きではないが)していた時期かどうか、という点に依存していないといってよい。むしろ、日々の生活が忙しい(≒充実している)ときほどに、「書かなければ……」という得体のしれない思いに悩まされることすらあったといえる。
しかし、本当に、それだけが原因なのか?
そこで、疑問としては、「何故、ブログという媒体を選択するのか?」ということである。
カテゴリ分けしやすいとか、モバイル端末でも読めるとか、そういったアーキテクチャ・インフラ的な意味をいくつか挙げることも可能だと思うが、僕はやはり、次の理由を強調したいと思う。
「公開」
公開しているということ。
確かに、独自ドメインの取得や、積極的にブックマークを増やしたり、SEO対策をしたりとか、アクセス数を稼ぐための努力はしていないし、しようとも思わない。
けれども、この、開かれた、大げさに言ってしまえば世界につながっているこの「公開」という状態。これが、紙やローカルには無い重要な点に思う。
つまり、僕は、「駄文だ――面白くない――」とか自分で書いておきながら、誰かに読んでもらいたいのだ! なんと矛盾、相反した感情! アンビバレンス!!


上記の本は、応援のつもりもあって即座に購入したけれども、しっかり読めていない(あちゃあ……)。ただ、その「承認欲求」だけでなく、「所属欲求」も重要なのだよ、という点が新しいというか、重要な本のポイントな気がする……しかし、暴力の人類史を読み進めねば、返却期限が迫る……。
ええと、なんだ、その、あと時間が何分? 5分?
15分短いなぁ。厳密にはかってないから、今度はストップウォッチしてやろうか。いや、でも、中途半端になるのはなんかいやだなぁ。
ええと、でも、まとめに入ろうこの記事の。
つまり……ああもう! 時間を意識すると書けねえよ! でも書くよ! そうだな、あの、誰かに読まれたいってことは、認められたいという思いが、僕にもあるってことの証左だろうということだ。
その認められたい思いというのは、まぁ、いろんなところで満たすことができる世の中だ。ローカル閉鎖コミュニティしかなかった時代とは違う。その点、現代は非常に生きやすい世の中だ。
これも前に書いたかも分からないけれども、「仲間」が欲しいのである。某方が、鋼鉄城カバネリの感想というかレビューの中で、「ラスボスはずっと仲間を欲していた」という主旨のことを書かれていて、えらく感動した記憶がある。
なんというか、そう、部下でも、友達でも、恋人でもなくて、「仲間」って表現が、その中で非常にしっくりきたのである。
確かに、ゴウタマさんとか、尊敬できる人はいるし、彼の方はすでに現代に生きてはいないが、それに近い思想や生き方を持っている人は大勢いる気がする。
ただ、なんというか、「すでに到達した人」は、師匠とか、メンターとか、指導者だったりして、それもまた、なんか違うんだ。
そう考えると、「仲間」というのは、非常に難しい概念な気がする。
――よしじかんぎれだ!
(かっこ書きである。いやぁ、とても、時間は有意義な気がした! 濃密な15分だった。終わってみると、やっぱり大したこと書いていない気がするが、脳みその活動はいつもよりも濃縮還元だった気がする(いや濃縮還元したら結局薄まってないか?)。しかし、毎回これやってたらブログ書くこと自体が嫌になる気もする。いやでも、そんなんで嫌になるぐらいだったら、長々と今回書いた「動機」ってやつも、しょせんその程度のものだというのか。その、「イライラ対処」的な、「書いてると気持ちが落ち着くぜ」という意味でも、僕は十分に思う。でもそれは同時に、それを公開するというのは、「はいはい、慰めてもらいたいんですね」的な意味が「論理的に」強くなる気がするので、なんか好きじゃないのである。感情を軽視するわけではないけれども、とあるブログさんとかで、いつもいつも、「あいつは許せない!!!1111」的なことを書いている方もいらっしゃるが、……ある意味すごいとは思う。ただ、その「許せなさ」が、様々な表現でなされるのであれば、それはそれで面白いのだけれども、いつも同じ表現で「許せない!!!!1111」しか書かれないと、残念ながら面白くはない。その「面白いと思われる」こと自体不本意なのだろうけれども、しかし、やはりそこは、「公開している」のであれば、その怒りを、苛立ちを、むかつきを、それを誰にでも分かるような表現に落とし込まなければならないと思う。――といった、偉そうなことを書くためにも、僕自身のブログは何なのか、ということを、今一度、整理したかったというのが、先日・本日の記事の目的であったが……十分なのだろうか。何か足りない気がするな。しかしまぁ、「仲間が欲しい」というのを目的に掲げておくのは、一般的・抽象的で、今後も使いやすいかもしれない。――使いやすいとは何だ? ……と、かっこ書きがどんどん長くなるのも、時間制限の結果というか、反作用な気がする。だいたい、時間を意識しないと、1時間以上はずっと書き続けていることが多い。さすがに、どんなに時間があって、体調がよくても、1時間以上書いていると、段々飽きてくるのである。この1時間ぐらいというのが、自分の「リズム」だということか。とか書いていて、だんだん30分に近づいている気がする。とりあえずやめよう、強制終了……の前に、明日以降の書く内容について予告しよう。もう少し、一つのテーマというか話題を、複数日に分けて突き詰めていくということもやった方がいいと思いながら、これまでいろいろ理由をつけてやってこなかった。書くべきは……やはり、近々の目標といったところだろう。目標がなくても生きられる人はいるのかもしれない。ただ、僕はやはり目標がないとダメなようだ――というのは、そもそも、その行動や生き方自体が、目標がなければ、「よいのかわるいのか」自体が、自分自身判断ができないからである。……と長くなりそうだので、その「目標の必要性」といった内容を次回。これも何回か書いているような気がするけれども……)
ブログを書く動機
ブログの更新って、特に何も決めてないけれども、ふと書きたくなるから書いているんだよな……ってそうだ、「それは何故だろう?」という思いが生じたから今回の記事を書き始めたわけだったが、なんだかテーマがそれこそブレブレになったなぁ。明日はそのあたりを書いてみよう
今日は、書きたくなったわけではなくて、昨日やろうと思っていたから、帰宅早々に書き始めるのである。創作ルーチンは免除規定に該当する時間帯であるが、なんか、毎回書くごとにグラフを上げるのが日課・癖みたいになっていて、取り敢えず書く。しょ……しょぼい、が、まぁその、ええと、続けるってことが大事だよね……(自己弁護)。
さて、何故ブログを書くのか? という問いについて答えてみよう。
まず、多くの人がそうであるだろう、お小遣い稼ぎ、という意味は全くない。アマゾンリンクを貼ることはあるけれども、主に単に本当に紹介したいから貼っているのである。別に買ってもらおうと思ってるわけではない。というか、いまだかつてそれで収入が発生したことはない。ほんとに、ブログで儲けるなんてできるのか? なんか、よく見かけるのは、「簡単に設けられました!」「アクセス数少ないけど、月に数百円ぐらいはもうかりまっせ」とかそんなのだけど、信じられんなぁ。
というか、広告収入というのが、正直あまり好きではなかったりする……というか、「広告」というのがあんまり好きじゃなかったりする。いや、純粋に「良いものを紹介しよう」という動機の果てのビジネス化が広告産業なのだとは理解できるけれども、結局、お金を積めば良いか悪いか別にして、人の目につくように「広告する」というのが、広告という言葉に含まれるイメージである(僕が勝手に思ってるだけ)。
確かに、複雑化した社会において、広告という行為・仕事がなければ、適切な情報や商品を手にすることができない場合もあるだろう。それは、足りないところに、余っているところから商品を持って行って取引するという、古代からの商業と異なるものではない。その取り扱うのが「情報」であるという点のみが異なる。
しかしながら……って、あ……。そうだ15分制限時間付きだった。こんなこと書いている場合じゃない。そう、こんな余計なことを書き始めてしまうから、いっつも無駄に長くなってしまうのだ。
動機その2
上の小見出しでは、「お金を儲けるためにブログを書くのではない」という一言を書けばよかったのに、また余計な話に入ってしまうところだった。危ない危ない。やっぱり、時間制限を意識するのはいいことかも。それで、ええと、動機、ね。
やっぱり、自分の思考の整理、ってのはあると思う。ただ、最近、「イライラ対処」のカテゴリは使っていない。あれは単に、いらいら・むかむかするから、取りあえずタイピングに時間を任せるという感情制御手法の一種である。それ以上の動機などありゃしない。
しかしそれ以外のカテゴリは、そんなに感情が高ぶっているわけではない時に書いている。
では、その時に書こうと思った動機とは何か? 日々生活している中で、思ったことや、触れた作品などについて、書き残しておこうという意味である。
その動機は大きいだろう。この、「書き残さなければ、どんどん記憶から消えて行ってしまう」というある種の強迫観念的なのが、かなり前から僕には存在していた。これは、リアルが充実(この表現があまり好きではないが)していた時期かどうか、という点に依存していないといってよい。むしろ、日々の生活が忙しい(≒充実している)ときほどに、「書かなければ……」という得体のしれない思いに悩まされることすらあったといえる。
しかし、本当に、それだけが原因なのか?
動機のその3
ただ書けばいいのであれば、そりゃ、昔ながらにやっていた、紙の日記だとか、ローカルなログとか、そんなんで良いはずだ。そこで、疑問としては、「何故、ブログという媒体を選択するのか?」ということである。
カテゴリ分けしやすいとか、モバイル端末でも読めるとか、そういったアーキテクチャ・インフラ的な意味をいくつか挙げることも可能だと思うが、僕はやはり、次の理由を強調したいと思う。
「公開」
公開しているということ。
確かに、独自ドメインの取得や、積極的にブックマークを増やしたり、SEO対策をしたりとか、アクセス数を稼ぐための努力はしていないし、しようとも思わない。
けれども、この、開かれた、大げさに言ってしまえば世界につながっているこの「公開」という状態。これが、紙やローカルには無い重要な点に思う。
つまり、僕は、「駄文だ――面白くない――」とか自分で書いておきながら、誰かに読んでもらいたいのだ! なんと矛盾、相反した感情! アンビバレンス!!
それはつまり承認欲求
ある精神科医さんに言わせたら、それはきっと、「承認欲求」なるものだろう。上記の本は、応援のつもりもあって即座に購入したけれども、しっかり読めていない(あちゃあ……)。ただ、その「承認欲求」だけでなく、「所属欲求」も重要なのだよ、という点が新しいというか、重要な本のポイントな気がする……しかし、暴力の人類史を読み進めねば、返却期限が迫る……。
ええと、なんだ、その、あと時間が何分? 5分?
15分短いなぁ。厳密にはかってないから、今度はストップウォッチしてやろうか。いや、でも、中途半端になるのはなんかいやだなぁ。
ええと、でも、まとめに入ろうこの記事の。
つまり……ああもう! 時間を意識すると書けねえよ! でも書くよ! そうだな、あの、誰かに読まれたいってことは、認められたいという思いが、僕にもあるってことの証左だろうということだ。
その認められたい思いというのは、まぁ、いろんなところで満たすことができる世の中だ。ローカル閉鎖コミュニティしかなかった時代とは違う。その点、現代は非常に生きやすい世の中だ。
動機4
しかし、その、認められたいという動機だけでもないと思う。これも前に書いたかも分からないけれども、「仲間」が欲しいのである。某方が、鋼鉄城カバネリの感想というかレビューの中で、「ラスボスはずっと仲間を欲していた」という主旨のことを書かれていて、えらく感動した記憶がある。
なんというか、そう、部下でも、友達でも、恋人でもなくて、「仲間」って表現が、その中で非常にしっくりきたのである。
確かに、ゴウタマさんとか、尊敬できる人はいるし、彼の方はすでに現代に生きてはいないが、それに近い思想や生き方を持っている人は大勢いる気がする。
ただ、なんというか、「すでに到達した人」は、師匠とか、メンターとか、指導者だったりして、それもまた、なんか違うんだ。
そう考えると、「仲間」というのは、非常に難しい概念な気がする。
――よしじかんぎれだ!
(かっこ書きである。いやぁ、とても、時間は有意義な気がした! 濃密な15分だった。終わってみると、やっぱり大したこと書いていない気がするが、脳みその活動はいつもよりも濃縮還元だった気がする(いや濃縮還元したら結局薄まってないか?)。しかし、毎回これやってたらブログ書くこと自体が嫌になる気もする。いやでも、そんなんで嫌になるぐらいだったら、長々と今回書いた「動機」ってやつも、しょせんその程度のものだというのか。その、「イライラ対処」的な、「書いてると気持ちが落ち着くぜ」という意味でも、僕は十分に思う。でもそれは同時に、それを公開するというのは、「はいはい、慰めてもらいたいんですね」的な意味が「論理的に」強くなる気がするので、なんか好きじゃないのである。感情を軽視するわけではないけれども、とあるブログさんとかで、いつもいつも、「あいつは許せない!!!1111」的なことを書いている方もいらっしゃるが、……ある意味すごいとは思う。ただ、その「許せなさ」が、様々な表現でなされるのであれば、それはそれで面白いのだけれども、いつも同じ表現で「許せない!!!!1111」しか書かれないと、残念ながら面白くはない。その「面白いと思われる」こと自体不本意なのだろうけれども、しかし、やはりそこは、「公開している」のであれば、その怒りを、苛立ちを、むかつきを、それを誰にでも分かるような表現に落とし込まなければならないと思う。――といった、偉そうなことを書くためにも、僕自身のブログは何なのか、ということを、今一度、整理したかったというのが、先日・本日の記事の目的であったが……十分なのだろうか。何か足りない気がするな。しかしまぁ、「仲間が欲しい」というのを目的に掲げておくのは、一般的・抽象的で、今後も使いやすいかもしれない。――使いやすいとは何だ? ……と、かっこ書きがどんどん長くなるのも、時間制限の結果というか、反作用な気がする。だいたい、時間を意識しないと、1時間以上はずっと書き続けていることが多い。さすがに、どんなに時間があって、体調がよくても、1時間以上書いていると、段々飽きてくるのである。この1時間ぐらいというのが、自分の「リズム」だということか。とか書いていて、だんだん30分に近づいている気がする。とりあえずやめよう、強制終了……の前に、明日以降の書く内容について予告しよう。もう少し、一つのテーマというか話題を、複数日に分けて突き詰めていくということもやった方がいいと思いながら、これまでいろいろ理由をつけてやってこなかった。書くべきは……やはり、近々の目標といったところだろう。目標がなくても生きられる人はいるのかもしれない。ただ、僕はやはり目標がないとダメなようだ――というのは、そもそも、その行動や生き方自体が、目標がなければ、「よいのかわるいのか」自体が、自分自身判断ができないからである。……と長くなりそうだので、その「目標の必要性」といった内容を次回。これも何回か書いているような気がするけれども……)