今日の一言「無気力である」「劇場版シュタインズ・ゲートは楽しみ」

布団に入っても、体がうずくような感じがして、目をつむっても思考がとまらず、眠気は一向にやってこない。窓の外で打ち付ける雨の音も気になった。
結局、明け方まで眠りにつくことはできなかった。そして気づくと昼過ぎであった。天気は相変わらずよくなかった。
途中。起き上がることもできず、眠ることもできなかった間思ったのは、「そういえば、音楽や写真の整理をしていて、結局ブログを書くことがなかったな」ということであった。
ある程度、思ったことがあったときに、それを整理して書いておくということ、それをしなければ、もはや眠ることもできないというのか。
記憶に残したいと思ったこととは、おおよそ、
・ティッシュペーパーの予備がなくなったから買わなければいけない、クリーニングにいかなければ、などと家事のこと
・友人との会話のこと(投資、政治および仕事について)
・光子(フォトン)、通信技術の発展について
ぐらいであったと思うが、自分の記憶力を最初から信用していないから、トピックスだけでもどこかにメモしておくべきだった。――しかしメモとは、一元管理しなければ、結局どこにメモしたことなのか、いつメモしたものなのかも分からなくなってしまうため、現時点、このブログが一番よいのだが――ただし、リアルタイム性は損なわれる。
(もう一つ後から思い出した。過去の写真など整理していて、自分の愛馬、やっぱりかっこいいなと思う。他者から見たら全部同じなんだろうが、小石で傷ついた身体とか、美しい毛並み(色艶)とか、眺めているだけでもワクワクする。これもとあるブログをみて、「愛馬の選び方」みたいな記事で、いろいろ特徴など書かれていた上で、最後は「自分が最高にかっこいいと思うのを買え」とあった。なんか、わかる。結局、――スペックとか数値にあらわれる部分も大事だけど、最後はフィーリングとかインスピレーションなんだと思う)
他にもトピックはあった気がするが、ほらみたまえ、もう半日以上過ぎてしまうと記憶から抜け落ちてしまっている。
悩むことや苦しむことに対して、一定の価値は認めるのだ。
それは、目的にはならないが、手段ではある。
……その、眠れない夜に思ったのは、思考の結節点というか、始まりというか、セーブポイントを、先般の「実感表」と合わせて作成しておこうということだ。
頭の悪い人は、思考がループする。
その原因は、一つ、記憶力のなさに起因する。その記憶力とは、知識的な「暗記」とは少々異なり、「実感」としての銘記である。
先日つくった実感表は、30いくつに及んだが、この場ですぐに暗唱できるかというと怪しい。読めば、「ああ、そうだ、これは僕の感じ方だ」とは思うだろうが、しかし、すぐにアウトプットできないものは、完全な知識とはいえない。
とはいえ、その30いくつを、丸暗記しても意味がない。必要なのは、連関、つながりである。
もう一つ、実感表で表現されていないことは、「目的」である。あくまで個々の記憶(実感)を表現しているに過ぎず、それがどこに向かうものなのかを示したものではない。
というわけで、アドベンチャーゲームというか、ノベライズゲームの、シナリオ分岐の際にセーブをしておくようなイメージで、思考について「どこでセーブしておいて、どこからロードすべきか」といったことを本記事では表現していく。
自分は不老不死であると信じている人はいないだろう。――ただ、何度も書くが、そのことを意識できている人は少ないと思うが。
だから、キャッチーな始まりとなる。
人生に限りがある……人は有限の存在であり、いずれ訪れる死は避けられない。
このセーブポイントは、いつどんなときも当てはまると思う。
しかしながら、このポイントからは、すぐさま、たくさんの分岐が発生する。
――だから、好き勝手生きるべきだ
――だから、人のために生きるべきだ
――だから、歴史に名を残すように生きるべきだ
――だから、自分の生まれた意義を探求し生きるべきだ
すでに、この次の分岐時点で、それぞれが「正しい」。
僕は、これらをどれか一つ選択できているわけではなく、ときおりブレてしまう。
だから、現時点では、セーブポイントとして、「人生は有限だ」ということを残しておかなければならない。
やんなきゃならない仕事。
みたい映画や漫画やアニメ。
やりたいスポーツ、ゲーム。
など。
ただ、このときの多くは、ブログなど書いていられる場合ではないことが多い。
そもそも、思考があまり発生しない場合が多い。なので、あまり書いておくこともない。
問題は、次だ。
眠いというならまだ良いのである。ちょうど、昨日の夜のような、眠れないけれども起きれもしない状態が続くのである。
大学時代だけれども、あんまり具合がよくないから、思い切って病院にいって睡眠薬を処方してもらったこともある。あれはよいものだ。気絶するような眠気がやってくる。お酒でも同じことができるけれども、それに慣れて量が必要になってくると、今度は二日酔いのような頭痛に悩まされるので一長一短である。
他の方法として、――ある友人と会話していて共通認識であったのだが、運動したらよく眠れるというのは、そもそも、運動できるだけの精神状態が良好である必要があるということだ。
昨日は、眠くなるまで何度も筋トレを繰り返して体を疲れさせようと試みた。ただ、思い切って外に走りに行って汗をかいてお風呂に入って……というぐらいやらないと、完全なる眠気を呼び起こすには足りないのだ。
この無気力な時。
これがあるから、僕はこのブログを書いているようなものだといっても、あながち、過言ではない。
たいていが元気なのであれば、なんか好きな作品の感想など書くようなブログであってよいのである。
多分、健常な人がみれば、「おまえ、こんな、生きる意味とか考えてるから具合が悪くなるんだよ」という感じなのだろうが、――逆なのだ。
逆。運動したらよく眠れるというのと同じ。具合が悪くならなければそもそも書く必要はないのである。
原因については、先日記事に書いた。少し面倒だが探して引用してみる。
うーん。ぴったりの内容がなかった。たくさん書いているはずなのに、いざ、必要なものを探すと完全一致がみつからない。だから、どんどん長くなっていくんだろうな。
補足する。
人は欲望によって生きている。これも、否定する人はいないんじゃなかろうか。「ご飯食べたい」というものもそうだし、「誰かのためになりたい」というのもここでは同じ欲望とする。欲望の低次元高次元はここでは問わないということだ。
それで、人の幸せというのは、「理想」と「現実」の乖離(ギャップ)が小さい場合を指すと僕は定義している。
客観的な幸せという基準は存在しないという立場である。世界の幸福度ランキングといった指標もあるようだが、面白いとは思うけれども、あまり重要な指標とは思っていない。話はずれるが、「僕幸せです!」ということを、日本人は避けようとする傾向がある気がする。ま、日本人だけじゃないのかもしれない。「嫉妬」という感情は、人間の性質の一つだろうと思うので。
ので。
何が言いたいかというと、「適切な欲望」を抱ける人が、「能力」をもつことよりも、よほど幸せな人生を送れるということである。
自己啓発とかスピリチュアルとか、心理学とか哲学とか、偉い人のたくさんの方法言葉などあるだろうが、いろいろ触れてきたけど、僕は、この「理想と現実の乖離」ということ以上の方策を知らない(実感を得られなかった)。
理想というのは、どうやって作り出されるのだろうか。人の欲望である。以上補足終わり。
僕は、今大事だと思っているのは、どうやったら「欲望」をもてるのだろうか、ということである。
たいてい、世の中にあふれるキャッチーな記事ってのは、「〇〇を短期間で達成する方法!」といったものである。
逆に、僕は、どういった欲望をもつのが「正しいのか」ということについて知りたい。
……と書いていて思ったが、確かに、そんなキーワードで探したことはなかったな。一応、調べてみるか。でてこなそうだけど。
――欲望が満たされると楽だが 欲望を抱かなければもっと楽である
こんなのが出てきた。うーん。こんなことを書くから、仏教に対して消極性がスポットされるんだろうなぁ。傲慢な書き方をすれば、正直、この境地はとっくに得ている。はっきりいって、あんまり欲望がないのだ。とても満たされた生活がおくれているのだ。
が、それが「楽か」といわれると、とてもハテナなのである。
――「少欲知足」という言葉が示すように、生きるうえで必要十分なところで満足できるようになることは、とても大切なことに思われます
はぁ? そんなの分かってるよ、と拒否反応がでる。これはよくないことだとは思うのだが……。とにかくつまらない記事である……が、まぁ俺のブログの全体もこの思想に半分つかっているんだから、きっと同族嫌悪なのかもしれない。
他は、赤ちゃんの抱き方、とか出てきた(笑)。
他は、「欲望の持ち方」とキーワードを変えて調べてみると、
――欲望とはエネルギーのことです
こんなのが出てきた。一部引用。
ねーよ!!!(笑) だから、その欲望ってどうやって持つんだか聞いてるんだよ!
と、突っ込んでしまった。
そうなんだよな……やっぱり、「正しい欲望の抱き方」ってのはあんまり重要視されていない。
というか、ふつう、当たり前にもっているべきもの、とされているんだろうな。
確かに、身の回りの人、特に年上の人を見ていると、欲望に事欠かなそうだなぁと思う。
こんなことを思ったりするから、平成生まれの人たちが「悟り世代」とか言われるのかもしれないが、そういう意味だと、俺は昭和生まれだが最新鋭だったのかもしれないな、えっへん(虚脱した目)。
なんというか、「欲望のコントロール」ってのは色々論じられているが、そもそもその欲望ってどっから湧き出るのか、創り出すのか、そんな方面は薄い気がする。
うつ病になるのは、普段元気な人がなりやすい、と言われるが、それは、バリバリ活動している人が突然行動できなくなる(うつ状態)になるから目立つのはあるんじゃないかなと思う。
そもそもうつ気味の人は、「ああ、そういう人なんだね」って見られているから、「ネガティブ思考の人」とか思われてそれが普通だとされているのかもしれない。
まぁ、今回の記事においては、「無気力」という状態について、「欲望」という言葉で置き換えて考える方法を提示できたので、それだけで価値がある。
「なぜ無気力なのか?」
と考えるよりも、
「なぜ欲求(欲望)が生じないのか?」
と自分に問うた方が、方向性を導きやすい気がする。
(かっこ書きである。無気力である。のだけれども、劇場版シュタインズ・ゲートを入手したので、正直楽しみで早くみたいのである。序盤25分だけみたけれども、なんだ……、なんだこれは! アニメ版の最後の方で感じた「ちょっと物足りない」感だけれども、それが劇場版への布石だったとするならば、再度全体評価が上がるのではなかろうか。すごい楽しみである。――んじゃあ、すぐ見て元気出せばいいじゃないか、ということだが、なにせ、1時間半ぐらいしかないのである。もったいな過ぎる……。俺の寿命があと半日しかなければ、まずMAXプライオリティでみるんだけど……。ああ、もうちょっと、こんなレベルの作品がたくさんあれば、もっと人生楽しく生きていける気がするんだが、いつもの傲岸不遜であるが、プロ・アマ問わずあんまり無いのである。いや、面白い作品はたくさんある。ただ、魂魄揺るがしてくれるレベルのものを言っている。ハイスピードで峠を愛馬で風を切って走るレベルのワクワク感を求めてやまないのである。――そうなってくると、やっぱり、創作しなきゃ! という欲求は生じてくるのである。他者に任せていては、そういった作品に出会えるのは、いつまでたっても偶然性によってしまう。だったら、自ら創り出せるようになれば、その行為自体も、結果として完成する作品も、自分自身をワクワクさせてくれるんじゃないかと思うのだ(しかし、紙面に向かうたびに自分の筆力のなさに頭を抱える→そして無気力へ→いやいやこんなんじゃダメだ(以下ループ)))
眠れない夜
昨夜はとにかく眠れなかった。布団に入っても、体がうずくような感じがして、目をつむっても思考がとまらず、眠気は一向にやってこない。窓の外で打ち付ける雨の音も気になった。
結局、明け方まで眠りにつくことはできなかった。そして気づくと昼過ぎであった。天気は相変わらずよくなかった。
途中。起き上がることもできず、眠ることもできなかった間思ったのは、「そういえば、音楽や写真の整理をしていて、結局ブログを書くことがなかったな」ということであった。
ある程度、思ったことがあったときに、それを整理して書いておくということ、それをしなければ、もはや眠ることもできないというのか。
記憶に残したいと思ったこととは、おおよそ、
・ティッシュペーパーの予備がなくなったから買わなければいけない、クリーニングにいかなければ、などと家事のこと
・友人との会話のこと(投資、政治および仕事について)
・光子(フォトン)、通信技術の発展について
ぐらいであったと思うが、自分の記憶力を最初から信用していないから、トピックスだけでもどこかにメモしておくべきだった。――しかしメモとは、一元管理しなければ、結局どこにメモしたことなのか、いつメモしたものなのかも分からなくなってしまうため、現時点、このブログが一番よいのだが――ただし、リアルタイム性は損なわれる。
(もう一つ後から思い出した。過去の写真など整理していて、自分の愛馬、やっぱりかっこいいなと思う。他者から見たら全部同じなんだろうが、小石で傷ついた身体とか、美しい毛並み(色艶)とか、眺めているだけでもワクワクする。これもとあるブログをみて、「愛馬の選び方」みたいな記事で、いろいろ特徴など書かれていた上で、最後は「自分が最高にかっこいいと思うのを買え」とあった。なんか、わかる。結局、――スペックとか数値にあらわれる部分も大事だけど、最後はフィーリングとかインスピレーションなんだと思う)
他にもトピックはあった気がするが、ほらみたまえ、もう半日以上過ぎてしまうと記憶から抜け落ちてしまっている。
思い煩い
ただ、何時間も、体の不快さと合わせて、思考の不快さに耐えていたことも、今となっては悪いことではないと思う。悩むことや苦しむことに対して、一定の価値は認めるのだ。
それは、目的にはならないが、手段ではある。
……その、眠れない夜に思ったのは、思考の結節点というか、始まりというか、セーブポイントを、先般の「実感表」と合わせて作成しておこうということだ。
頭の悪い人は、思考がループする。
その原因は、一つ、記憶力のなさに起因する。その記憶力とは、知識的な「暗記」とは少々異なり、「実感」としての銘記である。
先日つくった実感表は、30いくつに及んだが、この場ですぐに暗唱できるかというと怪しい。読めば、「ああ、そうだ、これは僕の感じ方だ」とは思うだろうが、しかし、すぐにアウトプットできないものは、完全な知識とはいえない。
とはいえ、その30いくつを、丸暗記しても意味がない。必要なのは、連関、つながりである。
もう一つ、実感表で表現されていないことは、「目的」である。あくまで個々の記憶(実感)を表現しているに過ぎず、それがどこに向かうものなのかを示したものではない。
というわけで、アドベンチャーゲームというか、ノベライズゲームの、シナリオ分岐の際にセーブをしておくようなイメージで、思考について「どこでセーブしておいて、どこからロードすべきか」といったことを本記事では表現していく。
セーブポイントその1:オープニング
はじめに、実感表の1「人生には限りがある」、これがスタートになる。自分は不老不死であると信じている人はいないだろう。――ただ、何度も書くが、そのことを意識できている人は少ないと思うが。
だから、キャッチーな始まりとなる。
人生に限りがある……人は有限の存在であり、いずれ訪れる死は避けられない。
このセーブポイントは、いつどんなときも当てはまると思う。
しかしながら、このポイントからは、すぐさま、たくさんの分岐が発生する。
――だから、好き勝手生きるべきだ
――だから、人のために生きるべきだ
――だから、歴史に名を残すように生きるべきだ
――だから、自分の生まれた意義を探求し生きるべきだ
すでに、この次の分岐時点で、それぞれが「正しい」。
僕は、これらをどれか一つ選択できているわけではなく、ときおりブレてしまう。
だから、現時点では、セーブポイントとして、「人生は有限だ」ということを残しておかなければならない。
セーブポイントその2:やることがある時
次に、ある条件、それは、「やりたいこと」や「やるべきこと」が存在している場合のセーブポイントである。やんなきゃならない仕事。
みたい映画や漫画やアニメ。
やりたいスポーツ、ゲーム。
など。
ただ、このときの多くは、ブログなど書いていられる場合ではないことが多い。
そもそも、思考があまり発生しない場合が多い。なので、あまり書いておくこともない。
問題は、次だ。
セーブポイントその3:無気力な時
もう慣れてしまったけれども、この無気力感は、相当やっかいである。眠いというならまだ良いのである。ちょうど、昨日の夜のような、眠れないけれども起きれもしない状態が続くのである。
大学時代だけれども、あんまり具合がよくないから、思い切って病院にいって睡眠薬を処方してもらったこともある。あれはよいものだ。気絶するような眠気がやってくる。お酒でも同じことができるけれども、それに慣れて量が必要になってくると、今度は二日酔いのような頭痛に悩まされるので一長一短である。
他の方法として、――ある友人と会話していて共通認識であったのだが、運動したらよく眠れるというのは、そもそも、運動できるだけの精神状態が良好である必要があるということだ。
昨日は、眠くなるまで何度も筋トレを繰り返して体を疲れさせようと試みた。ただ、思い切って外に走りに行って汗をかいてお風呂に入って……というぐらいやらないと、完全なる眠気を呼び起こすには足りないのだ。
この無気力な時。
これがあるから、僕はこのブログを書いているようなものだといっても、あながち、過言ではない。
たいていが元気なのであれば、なんか好きな作品の感想など書くようなブログであってよいのである。
多分、健常な人がみれば、「おまえ、こんな、生きる意味とか考えてるから具合が悪くなるんだよ」という感じなのだろうが、――逆なのだ。
逆。運動したらよく眠れるというのと同じ。具合が悪くならなければそもそも書く必要はないのである。
原因については、先日記事に書いた。少し面倒だが探して引用してみる。
――人格について(2017年8月)欲望をそぎ落としていけば、なるほど、きっと「悩み」は消える。大好きだった彼が死んでしまったことに、「どうして自分じゃなかったのか」「もっと一緒にいたかった」「周りの人は愛する人との子供にも恵まれて楽しそうにしているのに、どうして自分はこんな目にあわないといけないのか」……。その人は、「理想の生活」を欲していた。それが、死別という運命によって、引き裂かれた。ここで「物語」は、その人に、「新たな恋人」を描くだろう。ファンタジーなら、霊魂が動植物に宿ったり、霊体となって戻ってきたりするだろう。そうして、その主人公が、「人生に再び前向きになること」を描くのである。僕は、以前から、その構造に疑問をもってしまった。(もってしまったというのは、自分自身それが良いこととも思えていないからである)最初の欲求を「諦めて」、新たな欲求を見つけるということ。抽象化すると、物語のプロットはそういうことになる。それってのは、「人生」ってもんが結局、「諦めの連続」であるという証左でなかろうか?
うーん。ぴったりの内容がなかった。たくさん書いているはずなのに、いざ、必要なものを探すと完全一致がみつからない。だから、どんどん長くなっていくんだろうな。
補足する。
人は欲望によって生きている。これも、否定する人はいないんじゃなかろうか。「ご飯食べたい」というものもそうだし、「誰かのためになりたい」というのもここでは同じ欲望とする。欲望の低次元高次元はここでは問わないということだ。
それで、人の幸せというのは、「理想」と「現実」の乖離(ギャップ)が小さい場合を指すと僕は定義している。
客観的な幸せという基準は存在しないという立場である。世界の幸福度ランキングといった指標もあるようだが、面白いとは思うけれども、あまり重要な指標とは思っていない。話はずれるが、「僕幸せです!」ということを、日本人は避けようとする傾向がある気がする。ま、日本人だけじゃないのかもしれない。「嫉妬」という感情は、人間の性質の一つだろうと思うので。
ので。
何が言いたいかというと、「適切な欲望」を抱ける人が、「能力」をもつことよりも、よほど幸せな人生を送れるということである。
自己啓発とかスピリチュアルとか、心理学とか哲学とか、偉い人のたくさんの方法言葉などあるだろうが、いろいろ触れてきたけど、僕は、この「理想と現実の乖離」ということ以上の方策を知らない(実感を得られなかった)。
理想と現実の乖離
「適切な欲望」というのと、「理想と現実の乖離(ギャップ)」というのに、少し飛躍がある気がしたので補足する。理想というのは、どうやって作り出されるのだろうか。人の欲望である。以上補足終わり。
欲望の抱き方
ので。僕は、今大事だと思っているのは、どうやったら「欲望」をもてるのだろうか、ということである。
たいてい、世の中にあふれるキャッチーな記事ってのは、「〇〇を短期間で達成する方法!」といったものである。
逆に、僕は、どういった欲望をもつのが「正しいのか」ということについて知りたい。
……と書いていて思ったが、確かに、そんなキーワードで探したことはなかったな。一応、調べてみるか。でてこなそうだけど。
――欲望が満たされると楽だが 欲望を抱かなければもっと楽である
こんなのが出てきた。うーん。こんなことを書くから、仏教に対して消極性がスポットされるんだろうなぁ。傲慢な書き方をすれば、正直、この境地はとっくに得ている。はっきりいって、あんまり欲望がないのだ。とても満たされた生活がおくれているのだ。
が、それが「楽か」といわれると、とてもハテナなのである。
――「少欲知足」という言葉が示すように、生きるうえで必要十分なところで満足できるようになることは、とても大切なことに思われます
はぁ? そんなの分かってるよ、と拒否反応がでる。これはよくないことだとは思うのだが……。とにかくつまらない記事である……が、まぁ俺のブログの全体もこの思想に半分つかっているんだから、きっと同族嫌悪なのかもしれない。
他は、赤ちゃんの抱き方、とか出てきた(笑)。
他は、「欲望の持ち方」とキーワードを変えて調べてみると、
――欲望とはエネルギーのことです
こんなのが出てきた。一部引用。
しかし、仕事は「面倒臭い」「自信がない」「やる気が出ない」などというのは、エネルギー不足です。エネルギーとは下記のような欲望のこと。ベンツが欲しい家族をもっと経済的に豊かにしたい有名になりたい社会に貢献したい色々とあるかと思います。
ねーよ!!!(笑) だから、その欲望ってどうやって持つんだか聞いてるんだよ!
と、突っ込んでしまった。
そうなんだよな……やっぱり、「正しい欲望の抱き方」ってのはあんまり重要視されていない。
というか、ふつう、当たり前にもっているべきもの、とされているんだろうな。
確かに、身の回りの人、特に年上の人を見ていると、欲望に事欠かなそうだなぁと思う。
こんなことを思ったりするから、平成生まれの人たちが「悟り世代」とか言われるのかもしれないが、そういう意味だと、俺は昭和生まれだが最新鋭だったのかもしれないな、えっへん(虚脱した目)。
なんというか、「欲望のコントロール」ってのは色々論じられているが、そもそもその欲望ってどっから湧き出るのか、創り出すのか、そんな方面は薄い気がする。
うつ状態とネガティブ思考について
専門家じゃないからテキトーなことを書くだけだけれど、薬飲んで、脳の状態が回復したとして、本当に正しく欲求(行動力)が復活するのだろうか。うつ病になるのは、普段元気な人がなりやすい、と言われるが、それは、バリバリ活動している人が突然行動できなくなる(うつ状態)になるから目立つのはあるんじゃないかなと思う。
そもそもうつ気味の人は、「ああ、そういう人なんだね」って見られているから、「ネガティブ思考の人」とか思われてそれが普通だとされているのかもしれない。
まぁ、今回の記事においては、「無気力」という状態について、「欲望」という言葉で置き換えて考える方法を提示できたので、それだけで価値がある。
「なぜ無気力なのか?」
と考えるよりも、
「なぜ欲求(欲望)が生じないのか?」
と自分に問うた方が、方向性を導きやすい気がする。
(かっこ書きである。無気力である。のだけれども、劇場版シュタインズ・ゲートを入手したので、正直楽しみで早くみたいのである。序盤25分だけみたけれども、なんだ……、なんだこれは! アニメ版の最後の方で感じた「ちょっと物足りない」感だけれども、それが劇場版への布石だったとするならば、再度全体評価が上がるのではなかろうか。すごい楽しみである。――んじゃあ、すぐ見て元気出せばいいじゃないか、ということだが、なにせ、1時間半ぐらいしかないのである。もったいな過ぎる……。俺の寿命があと半日しかなければ、まずMAXプライオリティでみるんだけど……。ああ、もうちょっと、こんなレベルの作品がたくさんあれば、もっと人生楽しく生きていける気がするんだが、いつもの傲岸不遜であるが、プロ・アマ問わずあんまり無いのである。いや、面白い作品はたくさんある。ただ、魂魄揺るがしてくれるレベルのものを言っている。ハイスピードで峠を愛馬で風を切って走るレベルのワクワク感を求めてやまないのである。――そうなってくると、やっぱり、創作しなきゃ! という欲求は生じてくるのである。他者に任せていては、そういった作品に出会えるのは、いつまでたっても偶然性によってしまう。だったら、自ら創り出せるようになれば、その行為自体も、結果として完成する作品も、自分自身をワクワクさせてくれるんじゃないかと思うのだ(しかし、紙面に向かうたびに自分の筆力のなさに頭を抱える→そして無気力へ→いやいやこんなんじゃダメだ(以下ループ)))
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今日の一言「ゼロベースで考える・感じることは重要」

女性は、生理痛(PMS)などで機嫌が悪くなるタイミングがあるという。男性はそういうのがなくてよいね、みたいなことを言われたことがあったようななかったような。まぁ、一般的にはそうかもしれないが、自分には気分の浮き沈み、躁鬱の波があるように思う。
これはどちらかというと、喫煙者がタバコを断っている、禁断症状に近いかもしれない。
僕は、「楽しいこと」というよりも、「目的」「意義」みたいなものがないと具合が悪くなるのだろう。
なるほど、煩悩なんて、年を取ればだんだんなくなるものかもしれないし、わざわざ20代30代で無くす必要もないのかもしれない。
仏教を求めなければならなくなる人というのは、「現世な幸福」が続かないことにおいて、それ自体を「苦悩」と感じる人である。
それは言い換えると、「常に幸福でしかいたくない」という、傲慢な望みをもってしまった人ともいえる。
どうして、すべての苦悩から解き放たれなければいけないのか。煩悶、懊悩することがいけないことなのか。
求めるからつらいのだといって、すべてのことを諦めさせようというのは、ルサンチマンに過ぎないのではないか。
――おっしゃることは分かる。やっぱり、人間としての感じ方、生き方としては、つらいことを乗り越えていくというものであるべきに思う。
ただ、少し引用。
確かに、幸福や快といったものを何とかしたい、と思うことはないだろう。ただし、不幸や不快といったものが、明確にあるかというと、別にない。
なんかよくわからん感覚。それをなんと表現していいのかわからない。ただ、無気力とか、厭世観とか、茫然自失とか、どうでもいいや的なそんなもの。そんな愚痴を聞かされる人はたまったもんじゃない。まだ人間関係の悩みで相談されている方が、アドバイスのしようもあるし楽だろう。生きているのもやだ、死ぬのも嫌だとか言われたら、どんな聖人君子でも「イラっ」とするのではなかろうか。
で、上記下線(2)の部分で、「不幸を遠ざけ幸福を招く」ことが仏教はないと書かれているが、それはその通り、仏教ってそういうものじゃないと思っている。御利益仏教……南無阿弥陀仏と唱えたら極楽浄土へいけますよ、というのは幸福追究だと思うが、少なくても原始仏教(ゴウタマ・シッダールタの教え)はそうじゃないと思っている。
シッダールタ氏は、王族という身分ながら生きるということ自体に悩み、3つの門で老病死を見て、北門で修行者を見て出家する。氏の目的は、決して、幸福を求めるものではなかったと僕は思うのだ。
確かに、「何もかも諦めなければならない」というのは、そういう面が強いと思う。
ただ、すべての諦念というよりも、むしろ重要なのは、「執着してはならない」という教えの部分だと思っている。
何もかも諦めることが真理であれば、やっぱり、さっさと生きることも諦めたほうが正解な気がするからだ。でも、自死を推奨する教えだとしたら、三大宗教とかいわれて広まりもしなかったように思う。
ので、仏教ってのは、幸福とか不幸とかそういった次元を超えた、〇〇という生き方をするための方法を説いている考え方の体系なんだと思う。これが僕の仏教に対する考えである。あー、その「〇〇」ってのは何だかよく分からない(笑)。それが分かったらそれはもう悟りの境地であろう。この、目指すべき悟りの境地というのが、実は修行者たちには分かっていないのに、厳しい修行に身をおいていくというその仏教のロジックについて、「悟りゲーム」とかいって、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」にかけて解説していた書物があったような気がするけど、なんだっけか。
ただ、その点、「仏教の目指す境地ってほんとによいものなの? なんか間違ってたりしないの?」という部分について、かのブログの方も触れられていて――「もしも仏教の言うことが何かしら間違っていたとしたら、それに従うことは丸々人生を捨てるようなものである」――さすがだなぁと思った。
その中で、「小屋暮らし」的なことを営んでいる人のブログをいくつか見て、面白そうだなぁと思った。思っただけで、これはちょっと自分ではやらない気がする(笑)。
しかし、ガレージ付きの、こじんまりした1DKぐらいの家を自分で設計して郊外に建てて生活するとか、なんかちょっと面白そうだなぁと思った。意外と、現状の資産でもできそうな気もする。
ぶっちゃけ、昔の人は30代にもなればローンでもくんで、マイカーマイホームなんて持ってたということだろうので、別に珍しくもないはずなのだ。ただ、昨今時代を鑑みると、なんかそういった「物的」な魅力って逓減している気がする。
ただ、そういう「大きな買い物」に着手する前に、例えば、はいている靴下を全部同一のものにそろえるとか、そういう生活品の調整をやってみるのもよい。
靴下は実際やってみた。これは、洗濯のときの手間を考えてのものである。洗濯して干すときに楽になるのだ。――ただ、そろえて買ってみた靴下が、一足400円ぐらいもするからよいものかと思ったら、あんましよくなかったのが残念。なんか、高級な靴下とかあんのかな。「これは素晴らしい靴下だ! もうこれ以外は履けない!」とか思えるのがあるか探してみるか(笑)。
(0時過ぎたので強制かっこ書きである。少し回復した気がするが、ストレスで怒ったり、まぁあんまり落ち着いてはいない。機嫌が一定しない人は嫌われるよなーと思うし、そもそも、冷静じゃない自分自身を嫌にもなる。悪循環。早急に、物語欠乏症を解消する必要がある。――なかなか更新されないので、某異世界の主人公がエルフの国に召喚されて活躍する作品を最初から読み始める。あー、面白い。物語がある程度進んで、その登場人物についての情景が浮かんだ状態で再度、その「生い立ち」にあたる内容に触れるとまた違った感慨が生じてくる。物語の面白さには、先が知りたいという面白さと、過去を知りたいという面白さの二種類があるというが、まさにその後者であるなぁと思った(いや一度読んでるのだが、時間経過もまた一つの面白さに対する重要な要素だろう)。――ああ、面白い作品を書きたい。しっかし、創作ルーチン1000字/1日を超えないなぁ……)
少し落ち着く
土曜日から、これまで、だいぶ精神状態が良くなかった。女性は、生理痛(PMS)などで機嫌が悪くなるタイミングがあるという。男性はそういうのがなくてよいね、みたいなことを言われたことがあったようななかったような。まぁ、一般的にはそうかもしれないが、自分には気分の浮き沈み、躁鬱の波があるように思う。
これはどちらかというと、喫煙者がタバコを断っている、禁断症状に近いかもしれない。
僕は、「楽しいこと」というよりも、「目的」「意義」みたいなものがないと具合が悪くなるのだろう。
仏教なんて全然理解できない
あるブログさんで、「諦念をすすめる仏教ってそんなに良いものなの?」といった記事が書かれている。なるほど、煩悩なんて、年を取ればだんだんなくなるものかもしれないし、わざわざ20代30代で無くす必要もないのかもしれない。
仏教を求めなければならなくなる人というのは、「現世な幸福」が続かないことにおいて、それ自体を「苦悩」と感じる人である。
それは言い換えると、「常に幸福でしかいたくない」という、傲慢な望みをもってしまった人ともいえる。
どうして、すべての苦悩から解き放たれなければいけないのか。煩悶、懊悩することがいけないことなのか。
求めるからつらいのだといって、すべてのことを諦めさせようというのは、ルサンチマンに過ぎないのではないか。
――おっしゃることは分かる。やっぱり、人間としての感じ方、生き方としては、つらいことを乗り越えていくというものであるべきに思う。
ただ、少し引用。
「現世的な幸福」「現世的な快」をどうにかしたいと思って仏教に関心を持つ人はいないのであって、あくまで「現世的な不幸」「現世的な不快」をどうにかしたい(1)というのが多くの人の願いである。ところが、仏教の処方箋は「求めるから苦しいのです」としてそもそも快不快というシステムそのものにメスを入れてしまうので、不幸を遠ざけ幸福を招くどころか、何もかも諦めなければならない(2)僕がおかしいのか、病気なのか、それは置いておいて、上記下線(1)の部分についての認識がまず異なる。
――「求めるから苦しいのです」のはてな
確かに、幸福や快といったものを何とかしたい、と思うことはないだろう。ただし、不幸や不快といったものが、明確にあるかというと、別にない。
なんかよくわからん感覚。それをなんと表現していいのかわからない。ただ、無気力とか、厭世観とか、茫然自失とか、どうでもいいや的なそんなもの。そんな愚痴を聞かされる人はたまったもんじゃない。まだ人間関係の悩みで相談されている方が、アドバイスのしようもあるし楽だろう。生きているのもやだ、死ぬのも嫌だとか言われたら、どんな聖人君子でも「イラっ」とするのではなかろうか。
で、上記下線(2)の部分で、「不幸を遠ざけ幸福を招く」ことが仏教はないと書かれているが、それはその通り、仏教ってそういうものじゃないと思っている。御利益仏教……南無阿弥陀仏と唱えたら極楽浄土へいけますよ、というのは幸福追究だと思うが、少なくても原始仏教(ゴウタマ・シッダールタの教え)はそうじゃないと思っている。
シッダールタ氏は、王族という身分ながら生きるということ自体に悩み、3つの門で老病死を見て、北門で修行者を見て出家する。氏の目的は、決して、幸福を求めるものではなかったと僕は思うのだ。
確かに、「何もかも諦めなければならない」というのは、そういう面が強いと思う。
ただ、すべての諦念というよりも、むしろ重要なのは、「執着してはならない」という教えの部分だと思っている。
何もかも諦めることが真理であれば、やっぱり、さっさと生きることも諦めたほうが正解な気がするからだ。でも、自死を推奨する教えだとしたら、三大宗教とかいわれて広まりもしなかったように思う。
ので、仏教ってのは、幸福とか不幸とかそういった次元を超えた、〇〇という生き方をするための方法を説いている考え方の体系なんだと思う。これが僕の仏教に対する考えである。あー、その「〇〇」ってのは何だかよく分からない(笑)。それが分かったらそれはもう悟りの境地であろう。この、目指すべき悟りの境地というのが、実は修行者たちには分かっていないのに、厳しい修行に身をおいていくというその仏教のロジックについて、「悟りゲーム」とかいって、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」にかけて解説していた書物があったような気がするけど、なんだっけか。
ただ、その点、「仏教の目指す境地ってほんとによいものなの? なんか間違ってたりしないの?」という部分について、かのブログの方も触れられていて――「もしも仏教の言うことが何かしら間違っていたとしたら、それに従うことは丸々人生を捨てるようなものである」――さすがだなぁと思った。
現生的な欲求
なんか、家とか、車とか、土地とか、引っ越しとか、別荘とか、大きな買い物でもしようかな、と思っていろいろ調べてたら無駄(?)に時間が過ぎた。その中で、「小屋暮らし」的なことを営んでいる人のブログをいくつか見て、面白そうだなぁと思った。思っただけで、これはちょっと自分ではやらない気がする(笑)。
しかし、ガレージ付きの、こじんまりした1DKぐらいの家を自分で設計して郊外に建てて生活するとか、なんかちょっと面白そうだなぁと思った。意外と、現状の資産でもできそうな気もする。
ぶっちゃけ、昔の人は30代にもなればローンでもくんで、マイカーマイホームなんて持ってたということだろうので、別に珍しくもないはずなのだ。ただ、昨今時代を鑑みると、なんかそういった「物的」な魅力って逓減している気がする。
ただ、そういう「大きな買い物」に着手する前に、例えば、はいている靴下を全部同一のものにそろえるとか、そういう生活品の調整をやってみるのもよい。
靴下は実際やってみた。これは、洗濯のときの手間を考えてのものである。洗濯して干すときに楽になるのだ。――ただ、そろえて買ってみた靴下が、一足400円ぐらいもするからよいものかと思ったら、あんましよくなかったのが残念。なんか、高級な靴下とかあんのかな。「これは素晴らしい靴下だ! もうこれ以外は履けない!」とか思えるのがあるか探してみるか(笑)。
(0時過ぎたので強制かっこ書きである。少し回復した気がするが、ストレスで怒ったり、まぁあんまり落ち着いてはいない。機嫌が一定しない人は嫌われるよなーと思うし、そもそも、冷静じゃない自分自身を嫌にもなる。悪循環。早急に、物語欠乏症を解消する必要がある。――なかなか更新されないので、某異世界の主人公がエルフの国に召喚されて活躍する作品を最初から読み始める。あー、面白い。物語がある程度進んで、その登場人物についての情景が浮かんだ状態で再度、その「生い立ち」にあたる内容に触れるとまた違った感慨が生じてくる。物語の面白さには、先が知りたいという面白さと、過去を知りたいという面白さの二種類があるというが、まさにその後者であるなぁと思った(いや一度読んでるのだが、時間経過もまた一つの面白さに対する重要な要素だろう)。――ああ、面白い作品を書きたい。しっかし、創作ルーチン1000字/1日を超えないなぁ……)
今日の一言「短いですが暗い内容のため部屋を明るくして心が落ち着いているときに読みましょう」

それよりは、暗くはならないと思うけれども、中途半端は好きではないので、ちょっとやそっとで、明るくなれないのならば、むしろ反転、突き進んで暗黒にひた走りたい。
まず、話のネタとして、いくつか箇条書きにする。
・障害のある人の姿を見て強く生きようとするということ
・戦場や紛争地などの凄惨・残酷な場面をみて平和を意識するということ
・動物を解体するということ・と殺するということ、それを見て必ず発生する「かわいそう」という感情をいかに考えるか
・ペットの去勢や避妊は残酷なのか
結論。中世の騎士道とか、近代以前の時代が牧歌的で平和だったとか、暴力的な死を迎えるという確率や婦女暴行・子どもの虐待が発生する確率をみれば、ありえない空想であるということである。
20世紀の世界大戦、核爆弾の恐怖、内線紛争、到底平和な時代などと思えなくても、あらゆる面で暴力は減少しているということだ。
これは、今後も減り続けるという予言ではない。ただ、暴力が減ってきたという条件は、以下のように挙げられるという。(矢印の右側が、僕の超速解釈。読んだことある人で間違っていると思ったら指摘願いたい)
・リヴァイアサン→集権国家によって、当事者間の闘争の調整(第三者の審級・裁判)がされるため、暴力が割に合わなくなる
・穏やかな通商→正当な取引ができる方が儲かるなら、戦争は割に合わなくなる。(これ、『ドリフターズ』のシャイロック?協会の人たちの考え方を思い浮かべるとよいと思う。「軍船作ってた分を商船にしてたらもっと儲かっていたはず……」と)
・女性化→男性は女性の性的アクセスを巡って競争しがち。伝統とか地位や栄誉・名誉とかも重視しがち。女性はあんまりそういうのない。(まぁここはあんまり実感が少なかった。「女性はあまり争わないというのも「?」だけれど、それよりそもそもなんで女性化が進むようになったのかが疑問。ただ確かに事実として、女性の権利拡大はいろんな面で進んでいることだろう)
・輪の拡大→グローバル(コスモポリタン)な社会によって、同情心が芽生えだした。たとえ暴力で勝利しても、相手への同情心で罪悪感で心が痛みやすくなれば、暴力は抑制される可能性が高くなる。(確かにそうかもしれないと思うけれども、とある国などでナショナリズム(自国優先主義)的な政策が支持され始めたという傾向から、「輪の拡大」なるものがちゃんと広まっているのかは疑問。ただ、暴力が抑制されるという理由(条件)としてはアリだと思う。その点、上にあげた話のネタの、平和主義者や動物愛護者や菜食主義者などの「かわいそう」という気持ちは、必ずしも否定されるべきものではないかもしれない。とはいえ、人は肉を食らう)
・理性のエスカレーター→人身供犠、魔女狩り、血の中傷、異端審問、特定民族のスケープゴート、奴隷制、独裁制、拷問、宗教迫害、動物虐待、児童虐待、女性への暴力、浅はかな戦争、同性愛者の迫害……は、理性的に、正義ではないとされるようになっていった。
しかし大事なのは、それが生得的になされるものではなく、「とある条件」によって成り立っていると考えることである。それが、歴史を学ぶ意義であると僕は思う。
誰と誰が敵対して、争って、戦争になって、どっちが勝ったとか、その結果などどうでもよい(いやテストでは点を取れないが)。意味がある歴史学習としては、「何故?」その争いが起こったのかを突き詰めることである。「金」の場合もある。「宗教」の場合もある。「名誉」の場合もあるかもしれない。息子を王にしたかったとか、見栄とか復讐とかいろいろあるかもしれない。
その「理由」を学ぶことで、外交交渉に役立つ……かは分からないが、とりあえず、相手の主張を知らずして、調整ごとなど出来やしないのだ。
まぁ、それはそれで良いとして、僕が歴史を(大したほどではないが)勉強して思ったのは、「人間って……」ということである。
そういう意味において、暴力の人類史は、書いてある内容は結構具体的な記述がされていて、ところどころグロテスクな表現が散見されるけれども、結論的にはとってもポジティブなお話で、僕はとても良い本だと思った(ほとんど流し読みであるが。いやはや、とても長いのである)。
で、まぁそれはよいとしてだ。
仮に世界は良い方向に向かっていっているとして、実存的にはどうなのだ? ということである。
なんでかというと、「自分より悲惨な人をみて悦に浸る」のと同じだと思うからである。
人と比べるのが嫌いだ。競争が嫌いというのではなくて、上を見てもきりがないし、下を見てもきりがないと思っているのである。
にもかかわらず、なんで、「障害のある人」とか、あえて取り上げないといけないというのか。
僕はメガネをかけているが、目がよい人に比べたらハンディキャップである。(喧嘩になって眼鏡を飛ばされたらまず確実にボコられるだろう)
――などというのは、卑近なつまらない例であるが、まぁどこまでを支援が必要なレベルとして、どこからを健常とみなすかなど、介護の要支援・要介護の判定などもそうであるが、一定の基準・解釈なのだ。
あともう一つ、「かわいそう」というのは、どうにも、「自分じゃなくてよかった!」という感情が見え隠れしているような気がする。いや、純粋な「同情心」なるものがあるのかもしれない。
が、そもそも、同情って、なんか嫌な雰囲気ないだろうか? 俺だけか?
共感はなんかよい。何らかの目的や目標に対して、同じ感情の方向を向いているといった場合に使う気がする。
同情というと、なんだか、「上から目線」な気がする。だから、「同情するなら金をくれ!」と昔のドラマで怒られたのかもしれない(みたことないけど)。
まぁ、なんというか、色々書こうと思った矢先、「危険なくらい暗い日記(暗黒モード)」を読んで、「あー、結局、9か月前ぐらいと大体同じ感情気分状態になってるわけね。やっぱ、これが初めてじゃないとは思ってたけど、つまりそういうことね。はいはいループループ」と思ってしまい、何だか書くべきこと、書きたいことがよく分からなくなってしまった(では書くなという話ではない。何せもう書いてしまった)。
過去の自分、厳しい(かっこわらい)。
うーむ、自分の過去記事を読んで癒されでもしたら、それは完全に自慰であるなぁ。
しかし、かの記事に、確かに今の僕は共感するのである。
先日、「代替不可能性」の部分で書こうとして、あまりに暗くなるから書けなかったが、昔の記事では書かれていた。
僕じゃなきゃいけないって思ってくれるのは、期待をしてくれる仕事じゃあなくて、両親なんだろうなぁと。
そういう意味で、「恋人」って存在を、すっげー希求していた時期もあった。
けど、そんな幼稚な心性じゃあ、恋愛なんてうまくいきはしない。
ある程度「お作法」を身に着けて、恋人をつくって結婚するということもしてきた。しかし、そこには、実は最初のほうから「恋」ってもの、「好き」って感情が、「お作法」とともに抜け落ちていっていたんじゃあなかろうかと、そんな風にも、いまや思う。
先日、美人で若い女性が、婚活市場で男を見定めするブログを読んだと書いたけれども、なんか、僕が求めるのは「シンデレラ的な恋」なのであって(キモッ!)、そういう女性ばっかりだとしたら、全然絶対独身を選ぶなぁと思う。
でも正直、「代替不可能性」を異性に求めるってのが、そもそも、女性の社会進出的なのとともに、なくなって(なくなりはせずとも希少になって)きているのではなかろうか……とか書くと、フェミニストさんたちから石を投げられるか。
まぁその、いってしまえば、「あーなんか面白いことないかなぁ」と嘆く記事である。
そういう奴、嫌いなんだよな! ぐだぐだ言ってないで、自分で楽しいこと見つけろよ! しっかり生きろよ! って、思う。それが、自分の「超自我」(理性)的な奴。
一方で、僕の「イド」(無意識の欲動)とか自我的には――僕の言葉だと「実感」では――
「ああ、もうつまんねーよ! 何でもかんでもどうでもいいよ!」ということになっている。
この相反する感情! アンビバレンス!
ははは、情けなくて愚かしくて笑いがこみあげてくるぜ。
意味とは自ら付与するものだろうよ!
そう、例えば、「暗黒モード」と書いておいて、所詮はこの程度なのである。
もっともっと暗い気持ちに引きずり込めるようなことを書けないのか?
こんなの、10代の少年が時折頭によぎる程度のことじゃあなかろうか。
この程度の「暗さ」なんて、何にも面白くない、深くもない広くもない。
しかしだ。いきなり、そんな「暗い」ものを表現しようとしても、凡人の俺には難しい。
ならば、この記事はひとつ、踏台、たたき台としての意味を与えてやってはいかがであろうか。
(かっこ書きである。えーまぁ、こういう日もある。そういうときは、酒を飲んで風呂に入って寝よう。しかし睡眠とは、確かに体調を回復させる効果はあるかもしれないが、精神を必ず回復させるかというと、そうではないと思う。で思うのだけれども、この症状は、「面白い物語不足症候群」な気がする。こう、魂魄を刺激させられる作品の欠乏である。現実生活を刺激的なものにすればいいじゃない! と、マリーアントワ何ちゃらさんは言うかもしれないが、そういう問題ではない。シュタインズ・ゲートはかなりいい線いっていたが、最後の爆発力に欠けていた気がする。しかしそれでも、最近触れた作品の中ではかなり良かった。サムライチャンプルーを見始めたが、――確かに面白いが、片手間のテレビ的なレベルの面白さである。そういう、お菓子を食べて美味しいといったレベルの作品はとても沢山ある、が、本当に心をぐらつかせてくれる作品は中々見当たらない。――ああ別に、作品じゃなくても、現実生活の中でもいいのだけれども、正直、「事実は小説を中々超えない」。やはりこれはPSvitaを買ってしばらくゲームに身をやつす必要があるのか。いやいや、ちょっと待て。先般、高らかに宣言したのをもう忘れたのか。自分で、自分を揺るがせられるような作品を書きたいと、書くのだと、いったではなかろうか。言った。言った確かに書いた。しかし……どうなんだろうか。僕が小説を書き始めたときは、自分の中にある思いというか物語を外在化させたいという動機だった。それは確かに自分自身が面白いと思ったものであった。残念ながら、それを表現するだけの力が、中学生ぐらいの自分にはなかったわけであるが、逆に言ってしまうと、今の自分に、「面白い!」と手放しで感じられるモノが、自分の中にはない気がする。……なんて、大作家がスランプに陥った時みたいなことを書いてしまい汗顔の至りである。ああ……しかし、ほんと、どうしたもんか)
暗黒モード
以前、2016年の12月に、暗い記事を書いた。危険なくらい暗い日記(暗黒モード)それよりは、暗くはならないと思うけれども、中途半端は好きではないので、ちょっとやそっとで、明るくなれないのならば、むしろ反転、突き進んで暗黒にひた走りたい。
まず、話のネタとして、いくつか箇条書きにする。
・障害のある人の姿を見て強く生きようとするということ
・戦場や紛争地などの凄惨・残酷な場面をみて平和を意識するということ
・動物を解体するということ・と殺するということ、それを見て必ず発生する「かわいそう」という感情をいかに考えるか
・ペットの去勢や避妊は残酷なのか
暴力の人類史
暴力の人類史、下巻を超スピードでまとめの部分のみ読む。結論。中世の騎士道とか、近代以前の時代が牧歌的で平和だったとか、暴力的な死を迎えるという確率や婦女暴行・子どもの虐待が発生する確率をみれば、ありえない空想であるということである。
20世紀の世界大戦、核爆弾の恐怖、内線紛争、到底平和な時代などと思えなくても、あらゆる面で暴力は減少しているということだ。
これは、今後も減り続けるという予言ではない。ただ、暴力が減ってきたという条件は、以下のように挙げられるという。(矢印の右側が、僕の超速解釈。読んだことある人で間違っていると思ったら指摘願いたい)
・リヴァイアサン→集権国家によって、当事者間の闘争の調整(第三者の審級・裁判)がされるため、暴力が割に合わなくなる
・穏やかな通商→正当な取引ができる方が儲かるなら、戦争は割に合わなくなる。(これ、『ドリフターズ』のシャイロック?協会の人たちの考え方を思い浮かべるとよいと思う。「軍船作ってた分を商船にしてたらもっと儲かっていたはず……」と)
・女性化→男性は女性の性的アクセスを巡って競争しがち。伝統とか地位や栄誉・名誉とかも重視しがち。女性はあんまりそういうのない。(まぁここはあんまり実感が少なかった。「女性はあまり争わないというのも「?」だけれど、それよりそもそもなんで女性化が進むようになったのかが疑問。ただ確かに事実として、女性の権利拡大はいろんな面で進んでいることだろう)
・輪の拡大→グローバル(コスモポリタン)な社会によって、同情心が芽生えだした。たとえ暴力で勝利しても、相手への同情心で罪悪感で心が痛みやすくなれば、暴力は抑制される可能性が高くなる。(確かにそうかもしれないと思うけれども、とある国などでナショナリズム(自国優先主義)的な政策が支持され始めたという傾向から、「輪の拡大」なるものがちゃんと広まっているのかは疑問。ただ、暴力が抑制されるという理由(条件)としてはアリだと思う。その点、上にあげた話のネタの、平和主義者や動物愛護者や菜食主義者などの「かわいそう」という気持ちは、必ずしも否定されるべきものではないかもしれない。とはいえ、人は肉を食らう)
・理性のエスカレーター→人身供犠、魔女狩り、血の中傷、異端審問、特定民族のスケープゴート、奴隷制、独裁制、拷問、宗教迫害、動物虐待、児童虐待、女性への暴力、浅はかな戦争、同性愛者の迫害……は、理性的に、正義ではないとされるようになっていった。
学術的な意味と実存的な意味
人類、暴力はよくないという方向に進んでいるということである。よいことだ。しかし大事なのは、それが生得的になされるものではなく、「とある条件」によって成り立っていると考えることである。それが、歴史を学ぶ意義であると僕は思う。
誰と誰が敵対して、争って、戦争になって、どっちが勝ったとか、その結果などどうでもよい(いやテストでは点を取れないが)。意味がある歴史学習としては、「何故?」その争いが起こったのかを突き詰めることである。「金」の場合もある。「宗教」の場合もある。「名誉」の場合もあるかもしれない。息子を王にしたかったとか、見栄とか復讐とかいろいろあるかもしれない。
その「理由」を学ぶことで、外交交渉に役立つ……かは分からないが、とりあえず、相手の主張を知らずして、調整ごとなど出来やしないのだ。
まぁ、それはそれで良いとして、僕が歴史を(大したほどではないが)勉強して思ったのは、「人間って……」ということである。
そういう意味において、暴力の人類史は、書いてある内容は結構具体的な記述がされていて、ところどころグロテスクな表現が散見されるけれども、結論的にはとってもポジティブなお話で、僕はとても良い本だと思った(ほとんど流し読みであるが。いやはや、とても長いのである)。
で、まぁそれはよいとしてだ。
仮に世界は良い方向に向かっていっているとして、実存的にはどうなのだ? ということである。
かわいそうという感情へのいら立ち
最初に挙げた話のネタに戻るが、「かわいそうな人」や「かわいそうな動物」をみて、「何々しよう!」というロジックが嫌いである。なんでかというと、「自分より悲惨な人をみて悦に浸る」のと同じだと思うからである。
人と比べるのが嫌いだ。競争が嫌いというのではなくて、上を見てもきりがないし、下を見てもきりがないと思っているのである。
にもかかわらず、なんで、「障害のある人」とか、あえて取り上げないといけないというのか。
僕はメガネをかけているが、目がよい人に比べたらハンディキャップである。(喧嘩になって眼鏡を飛ばされたらまず確実にボコられるだろう)
――などというのは、卑近なつまらない例であるが、まぁどこまでを支援が必要なレベルとして、どこからを健常とみなすかなど、介護の要支援・要介護の判定などもそうであるが、一定の基準・解釈なのだ。
あともう一つ、「かわいそう」というのは、どうにも、「自分じゃなくてよかった!」という感情が見え隠れしているような気がする。いや、純粋な「同情心」なるものがあるのかもしれない。
が、そもそも、同情って、なんか嫌な雰囲気ないだろうか? 俺だけか?
共感はなんかよい。何らかの目的や目標に対して、同じ感情の方向を向いているといった場合に使う気がする。
同情というと、なんだか、「上から目線」な気がする。だから、「同情するなら金をくれ!」と昔のドラマで怒られたのかもしれない(みたことないけど)。
代替不可能性について
なんだか、暴言を単に書き連ねただけな気がする。まぁ、なんというか、色々書こうと思った矢先、「危険なくらい暗い日記(暗黒モード)」を読んで、「あー、結局、9か月前ぐらいと大体同じ感情気分状態になってるわけね。やっぱ、これが初めてじゃないとは思ってたけど、つまりそういうことね。はいはいループループ」と思ってしまい、何だか書くべきこと、書きたいことがよく分からなくなってしまった(では書くなという話ではない。何せもう書いてしまった)。
昔の記事でも、煽られている。
……。おーい。その程度? 暗い日記だよーとか書いておいて、その程度なの? もっと心底、読んだ人9割ぐらい憂鬱にさせるぐらいのこと書けないの?うわー中途半端だねぇ。ポジティブでもないし、ネガティブなことも中途半端。あっはは、本当に何にもできない半端野郎だな。この記事読んでさ、読んだ人がさ、「ああ、こんなダメな奴がいるんだ……、俺はまだましなほうだな。よし、もうちょっと頑張ってみっか」とか思わせられるぐらいダメ人間アピールしてみろよ。ほら、ほら!
過去の自分、厳しい(かっこわらい)。
うーむ、自分の過去記事を読んで癒されでもしたら、それは完全に自慰であるなぁ。
しかし、かの記事に、確かに今の僕は共感するのである。
先日、「代替不可能性」の部分で書こうとして、あまりに暗くなるから書けなかったが、昔の記事では書かれていた。
僕じゃなきゃいけないって思ってくれるのは、期待をしてくれる仕事じゃあなくて、両親なんだろうなぁと。
そういう意味で、「恋人」って存在を、すっげー希求していた時期もあった。
けど、そんな幼稚な心性じゃあ、恋愛なんてうまくいきはしない。
ある程度「お作法」を身に着けて、恋人をつくって結婚するということもしてきた。しかし、そこには、実は最初のほうから「恋」ってもの、「好き」って感情が、「お作法」とともに抜け落ちていっていたんじゃあなかろうかと、そんな風にも、いまや思う。
先日、美人で若い女性が、婚活市場で男を見定めするブログを読んだと書いたけれども、なんか、僕が求めるのは「シンデレラ的な恋」なのであって(キモッ!)、そういう女性ばっかりだとしたら、全然絶対独身を選ぶなぁと思う。
でも正直、「代替不可能性」を異性に求めるってのが、そもそも、女性の社会進出的なのとともに、なくなって(なくなりはせずとも希少になって)きているのではなかろうか……とか書くと、フェミニストさんたちから石を投げられるか。
とにかくイライラするぜぃという記事
はぁ……。まぁその、いってしまえば、「あーなんか面白いことないかなぁ」と嘆く記事である。
そういう奴、嫌いなんだよな! ぐだぐだ言ってないで、自分で楽しいこと見つけろよ! しっかり生きろよ! って、思う。それが、自分の「超自我」(理性)的な奴。
一方で、僕の「イド」(無意識の欲動)とか自我的には――僕の言葉だと「実感」では――
「ああ、もうつまんねーよ! 何でもかんでもどうでもいいよ!」ということになっている。
この相反する感情! アンビバレンス!
ははは、情けなくて愚かしくて笑いがこみあげてくるぜ。
この記事意味あるの?
意味?意味とは自ら付与するものだろうよ!
そう、例えば、「暗黒モード」と書いておいて、所詮はこの程度なのである。
もっともっと暗い気持ちに引きずり込めるようなことを書けないのか?
こんなの、10代の少年が時折頭によぎる程度のことじゃあなかろうか。
この程度の「暗さ」なんて、何にも面白くない、深くもない広くもない。
しかしだ。いきなり、そんな「暗い」ものを表現しようとしても、凡人の俺には難しい。
ならば、この記事はひとつ、踏台、たたき台としての意味を与えてやってはいかがであろうか。
(かっこ書きである。えーまぁ、こういう日もある。そういうときは、酒を飲んで風呂に入って寝よう。しかし睡眠とは、確かに体調を回復させる効果はあるかもしれないが、精神を必ず回復させるかというと、そうではないと思う。で思うのだけれども、この症状は、「面白い物語不足症候群」な気がする。こう、魂魄を刺激させられる作品の欠乏である。現実生活を刺激的なものにすればいいじゃない! と、マリーアントワ何ちゃらさんは言うかもしれないが、そういう問題ではない。シュタインズ・ゲートはかなりいい線いっていたが、最後の爆発力に欠けていた気がする。しかしそれでも、最近触れた作品の中ではかなり良かった。サムライチャンプルーを見始めたが、――確かに面白いが、片手間のテレビ的なレベルの面白さである。そういう、お菓子を食べて美味しいといったレベルの作品はとても沢山ある、が、本当に心をぐらつかせてくれる作品は中々見当たらない。――ああ別に、作品じゃなくても、現実生活の中でもいいのだけれども、正直、「事実は小説を中々超えない」。やはりこれはPSvitaを買ってしばらくゲームに身をやつす必要があるのか。いやいや、ちょっと待て。先般、高らかに宣言したのをもう忘れたのか。自分で、自分を揺るがせられるような作品を書きたいと、書くのだと、いったではなかろうか。言った。言った確かに書いた。しかし……どうなんだろうか。僕が小説を書き始めたときは、自分の中にある思いというか物語を外在化させたいという動機だった。それは確かに自分自身が面白いと思ったものであった。残念ながら、それを表現するだけの力が、中学生ぐらいの自分にはなかったわけであるが、逆に言ってしまうと、今の自分に、「面白い!」と手放しで感じられるモノが、自分の中にはない気がする。……なんて、大作家がスランプに陥った時みたいなことを書いてしまい汗顔の至りである。ああ……しかし、ほんと、どうしたもんか)
今日の一言「人間怖いけれども優しさもある」「いつも以上にメモ的な記事」
外に買い物に出かけたのも良かったのだろう。家の中にずっといるのは、やはりよくない。朝は平日と同じく起きて、少しでもいいから外出する。目的はどうでもいい。とにかく外出する。これを一つ、習慣にしてみよう。実践できなかった時は、その時はその時で体調の状態を記録することにしよう。
本当は、弱音を吐くべきではないとはいつも思うけれども、この土日は本当に具合が悪かった。ある意味、明確に風邪ならいいなぁと思うぐらい。
>自分の精神状態をよい風に持っていくには感覚を大切――要するに解釈をいったん捨てる
これも、外出の目標と同じく、実践してみたいと思います。本当は、坐禅とか生活習慣に取り入れたいと思っているのですが、これも中々定着しないですね。ただ、自分にとっては喫緊必要な習慣かもしれないと今回改めて思いました。
>PSvita
買い物ついでに見てきました。実物をみると、やはり画面が小さいなぁと感じました。ゲームはやはり大きな画面(PC)でやりたいなぁ。しかし、3DSLLでモンハンやってたころも、やり始めたら全然気にならなくなっていた。要は慣れだろう。ただ、スマホでゲームする気にはなれない。
とかいいつつ、ペルソナ4ゴールデンとかシュタインズ・ゲートのソフトも一緒に売っていたら衝動買いしてしまいそうだった(笑)。改めてアマゾンさんで注文するか要検討。三国志13とか衝動買いしたものの、結局オープニングみただけで一度もやっていないとかなるともったいない。
やっぱり仕事のせいだった。
夢で仕事しているのを見た。
おかげで一つ、問題の解決策が浮かんだのは本当に皮肉。
来週、気が重い案件がたくさん(といっても、問題自体の数的には大きく2つだが、その解決に至るためにすることが多数……)あるので、休日といえ、気持ちが休まらなかったのだろう。
創作も、投資の勉強もまた、生産カテゴリなので、エネルギーが必要なのである。
そういう時は、それこそ、感覚を良い方向にもっていくようにした方がいいわけだけれども、ただ、完全なる消費活動は、結局、問題を後回しにしているに過ぎない。
その点、「書くこと」、ブログは、生産と消費の、ちょうど中間な気がする。文字が残っているからある程度「生産」だし、思うがまま書いているのは(感情の)「消費」でもある。だから具合悪い時にちょうどいい作業なのかもしれない。
くそー、しかし、気が重いのは変わらないぜ。
(かっこ書きである。うーむ、嫌いなんだよなぁ、嫌な思いを引きずるってのが。しっかし、平身低頭謝るしかないとか、怒られるしかないって状況になってしまうと、まぁもう避けられないわけであり。そうならないようにしてきたのに、それが無駄だった(というと大げさだが)というのも、余計に骨身にこたえる。うーむ。どうしたらいいんだろうなぁ。どうにもならんなぁ。……おっと、このループがアレだ、闇に向かう道である。早速、温かいコメントを活かし、解釈を捨て、快感を見つけるために無心を目指そう)
体調の回復
大分体調が良くなった。外に買い物に出かけたのも良かったのだろう。家の中にずっといるのは、やはりよくない。朝は平日と同じく起きて、少しでもいいから外出する。目的はどうでもいい。とにかく外出する。これを一つ、習慣にしてみよう。実践できなかった時は、その時はその時で体調の状態を記録することにしよう。
温かいコメント
たくさん、コメントをもらえて遠藤は果報者であることを認識した。本当は、弱音を吐くべきではないとはいつも思うけれども、この土日は本当に具合が悪かった。ある意味、明確に風邪ならいいなぁと思うぐらい。
>自分の精神状態をよい風に持っていくには感覚を大切――要するに解釈をいったん捨てる
これも、外出の目標と同じく、実践してみたいと思います。本当は、坐禅とか生活習慣に取り入れたいと思っているのですが、これも中々定着しないですね。ただ、自分にとっては喫緊必要な習慣かもしれないと今回改めて思いました。
>PSvita
買い物ついでに見てきました。実物をみると、やはり画面が小さいなぁと感じました。ゲームはやはり大きな画面(PC)でやりたいなぁ。しかし、3DSLLでモンハンやってたころも、やり始めたら全然気にならなくなっていた。要は慣れだろう。ただ、スマホでゲームする気にはなれない。
とかいいつつ、ペルソナ4ゴールデンとかシュタインズ・ゲートのソフトも一緒に売っていたら衝動買いしてしまいそうだった(笑)。改めてアマゾンさんで注文するか要検討。三国志13とか衝動買いしたものの、結局オープニングみただけで一度もやっていないとかなるともったいない。
原因
今日も、まぁ、その、うつらうつら、起きているか寝ているかが大半を占めていたけれども、一つ、憂鬱な原因が判明した。やっぱり仕事のせいだった。
夢で仕事しているのを見た。
おかげで一つ、問題の解決策が浮かんだのは本当に皮肉。
来週、気が重い案件がたくさん(といっても、問題自体の数的には大きく2つだが、その解決に至るためにすることが多数……)あるので、休日といえ、気持ちが休まらなかったのだろう。
創作も、投資の勉強もまた、生産カテゴリなので、エネルギーが必要なのである。
そういう時は、それこそ、感覚を良い方向にもっていくようにした方がいいわけだけれども、ただ、完全なる消費活動は、結局、問題を後回しにしているに過ぎない。
その点、「書くこと」、ブログは、生産と消費の、ちょうど中間な気がする。文字が残っているからある程度「生産」だし、思うがまま書いているのは(感情の)「消費」でもある。だから具合悪い時にちょうどいい作業なのかもしれない。
くそー、しかし、気が重いのは変わらないぜ。
(かっこ書きである。うーむ、嫌いなんだよなぁ、嫌な思いを引きずるってのが。しっかし、平身低頭謝るしかないとか、怒られるしかないって状況になってしまうと、まぁもう避けられないわけであり。そうならないようにしてきたのに、それが無駄だった(というと大げさだが)というのも、余計に骨身にこたえる。うーむ。どうしたらいいんだろうなぁ。どうにもならんなぁ。……おっと、このループがアレだ、闇に向かう道である。早速、温かいコメントを活かし、解釈を捨て、快感を見つけるために無心を目指そう)
今日の一言「体調が良くない頭が痛い」「友人との約束を二つもボツにしてしまった」
土曜日、10時半に目が覚める。頭痛。倦怠感。
何とか起き上がり、パソコンを付ける。投資の勉強・調べものを1時間ぐらいする。体調はなお悪い。布団に入る。
13時目が覚める。買っておいたパンを食べる。体調なお悪し、布団に入る。
16時目が覚める。カップラーメンを食べる。体調なお悪し、布団に入る。
22時目が覚める。つけ麺を作って食べる。体調なお悪し、今ここ。
寝たり起きたりを繰り返すが、一向に体調がよくならない。
熱は測っていないが多分ない。頭の重さ、鈍重な痛みと倦怠感が続く。
これは、身体的な症状もそうだけれども、どちらかというと、精神的な不調も原因であると思われる。
精神的に、とても、具体がよくない。
分かっている、これは、今にはじまったことではない。何年も何年も、昔から続くうつ状態(うつ病とは言っていない)の症状だ。
明確なうつ病というよりかは、「精神因性神経症」である。これは、自分の意思において、生ある状態から意義消失することを意味する。
この状態を防ぐには、もはや、「書く」ということしか残されていない。少なくても、それ以外の方法で、自分自身を回復させられたことは思い浮かばない。
人に話したらどうか?
否。先日の飲み会においても、友人との会話においても、このブログで書いているような、「実感」としてあるものについては、本質的な表現で語ることができるようになった。つまり、できるだけ多くの人に受け入れられやすいような表現で語ることができるようになったという意味である。例えば、明るく元気に生きることは大切だ、とか。
しかし、そういった人との関わり交流においては、気分の悪さがより明確になっていく気がするのである。理由は、「結局合わない人はいる」「さらに深い部分での共有はできない」「会話は泡のように消えていき信念化が難しい」などが思いつく。だがまずは、そういった理由を挙げるより、実際に気分が改善されないという事実に目を向けるべきである。
本来的に、人は、人の中で生きていかざるを得ないし、その中で幸せや快感や喜びを得ていくべきものであるのだから、以上の症状は、「病気」として考えるべきだろう。
一つは、LGBTで発達障害の方の過去に体験したエッセイ。とても読みやすい語り口調で、いわゆる「健常者」には分からない世界の見え方が、分かりやすい比喩を交えて書かれていた。
一つは、美人で若い女性が、出会った男性たちにダメ出しをしていくブログ。これも、「それはひどいなぁ」と思わせられたり、ああ、やっぱり美人はそういう思考なのだろうなぁと思ったり面白かった。
これらのブログが、具合の悪さを助長したのかどうかは分からないが、僕に生じたのは、一つ目は、「あなたの苦しみは良く分かる。自分を理解されないという苦しみや、いじめられたりいじられたりする苦痛は忘れようとも中々忘れられないというのはよく分かる」といったことを、何とか伝えたいなぁということ。
もう一つのブログの方では、人間ってめんどくせぇなぁという気持ち。
まぁ、二つ目のほうは、もう少し後でもっと掘り下げて書いてみよう。
一つ目のほうは、確かに、「共感」という感情が浮かび上がったものの、しかし、その僕の中に生じた「よく分かる」という気持ちが、なんと傲慢で醜いものか……と自分自身が嫌になった。
ああ……この感覚の変化が何故起こるのか、僕もよくわからない。わからないけれども、きっと「純粋性」への希求なのだろう。
つまり、菩薩の心、神の心を持ちたいという憧れなのである。――飛躍したか? もう少し書けば、つまり、「その人を救いたい」という気持ちに根差さなければ、いくら「つらかったね。苦しかったね。よくわかるよ。頑張って」と思ったところで、それは浅ましい自己保身なのではなかろうか、という思いが僕の中に生じるということである。
もっと書くと、偽善と善との話になっていく。僕が依然ある友人へ、偽善と善も本質的には変わらないのだ、その行為が尊いのだ、と必死に語ったのは、僕自身、「偽善」の塊のようなやつなんじゃないかと、薄々自分のことを思っているからである。
この点、つらいから、あまり書きたくないけれども、これもある友人から言われた、「結局お前は自分のことが一番なんだろ?」というのは、言いえて妙である。
やっぱり……そうなのか、と、どん底に陥った(かっこわらい)。
俺が、他人の幸せを願うのは、全部偽善で、全部自分に利するところがあるからなのか。
真に、他者の幸せを願っているわけではないのか、と。
だが、俺はやっぱり分からない。菩薩の心つーのが分からない。
菩薩は、確かに、衆生を救うために一生を使うのだろう。小乗(上座部)仏教で目指される阿羅漢(己の悟りを目指す)とは違う。
しかしそれは、他者を救うという行為が、自己の存在規定(レーゾンデートル)と一致したという状態に過ぎないのではないか。
過ぎない? 愚かしい記述だ。そんなことを言い出したら、人間は食らって糞出して死ぬに過ぎない存在ってことになるが、そんなことはあるまい。人間の生はそれだけで素晴らしいものだ、美しいものだ。生きてるってそれだけで良いことなのだ。
――っていうことを、俺は思えない。
これが病気だと思う。
生きていることに何の価値があるのだ。
おいしいものを食べることになんの意味があるのだ。
美人とセックスして、快楽を得てだからなんだというのだ。
子供をつくって育てて、それがなんだというのだ。
全部、いずれ必ずおとずれる死、に向かう過程の一つに過ぎない。
……。んなはずねーよ。そんなことはない、生きていることは素晴らしいことなんだ、って、そう思うこともあるのだけれども。おいしいもの食べたらそれだけで幸せになるのは間違いないのだけれども。人と会話して、ぶつかったり、その中で共感する部分があったりしたときの心地よさは決して無意味ではないと思うのだけれども。
ただ、具合が悪いと、どうしても、そっち方面、暗い感情の方へ引きずり込まれていく。
で、その偉人たちが異世界におくられる際に、「廃棄物」か「漂流物」か選ばれるのだ。
廃棄物になると、その異世界における人類を根こそぎ滅ぼそうとする勢力に加わる。
漂流物になると、まぁ、世界を救おうという気があるのかはわからないが、廃棄物と対抗する勢力に加わる。
俺は偉人じゃないから、死に際に異世界に送られることはないけれども、もし送られるとしたら、廃棄物と漂流物の、どっちになるのだろうか。
漂流物となった薩摩藩士の島津豊久とか、織田信長とかは、まぁそりゃあもう残虐なことをしたりする。「死生観が違うのだ」と語られる場面もあるが、「人を裏切る」「殺す」という行為自体で、漂流物と廃棄物に分かれるというわけではないのだろう。
僕は、「人を好きか」というところが、ポイントだと思う。
廃棄物の方は、人類(国や部族など)を救おうとして、結果的に敗れたり裏切られたりして死に直面した方々だ。「人」という存在に対して、根源的な恨みを抱いたのだとしても不思議ではない。
人は……というか、生命は、自分以外の生命を奪いながら生きている。それが自然の摂理なのだと言ってしまえばそのままなのだが、その行為過程自体が、どうしてそれだけで「素晴らしいもの」といえるのだろうか?
つーか、菜食主義者でも、植物、生きているでしょ? どうしても、命を奪って生きていくしかないのである。
そういう意味では、僧侶になっても、この連関からは逃れられない。
唯一、終わりがあるとしたら、輪廻転生を信じないのであれば、明白だろう。だが、それしかないわけだ。
と、いうような思考が、布団の中で延々と流れるわけですよ。
もう起き上がる気力もありませんな(かっこわらい)。
こんなこと、表現できやしない。
こんなこと誰かに相談しても、よくて「ま、まぁがんばれや」と引きつった笑いでいわれるか、「きもっ」と避けられるか、「じゃあさっさと死ねばいいだろ!」と怒鳴られるかである。
なので言わない、言えない。
せいぜい、「人の一生は限りがあるんだから、死に際に『ああ、素晴らしい人生だったなぁ』と思えるように、できれば日々の生活の中で、『生きているって素晴らしいなぁ』と思えるようにやって行こうぜ!」と言うぐらいである。これは全くその通りに思っているが、実際、この表現の内に潜む、というか、根本命題的なものは、「生きているって、本当に意味があることなのか?」ということである。
これもとあるブログさんからである。
「得か」という表現の部分は、やや違和感がある(損得というよりも、むしろ命題として「すべき」といった感覚が僕は強いかもしれない)けれども、ほぼ僕が暗い感情に引きずり込まれている際の感覚を表現されていると思う。
ある精神科医さんの著書によれば、「精神因性神経症」といって、現代人に増えてきている症状だという。これはうつ病とかよりも、むしろ精神医学的に「健常」の状態のほうが、顕著に表れるという(深刻なうつ病の場合はむしろこんな「生きる意味」とか考えられるほどの元気がない)。
まぁ、別に病気だろうが何だろうが、いいんだけどさ。
何が困るかというと、もうほんと、「どうでもいい」と思ってしまうことが問題である。
すぐさま死にたいとか、生きたいとかそういうのではなくて、何もしたくないし、何もできなくなるのである。
(かっこ書きである。あーもう、これ仕事のせいもあるな。正義だけじゃあやってけないし。効率とかずるがしこさとかもねぇとやってらんないとかストレスだな。シュタインズ・ゲートも見終わってしまったせいもあるかもな。でも、劇場版とか、シュタインズ・ゲート0(zero)というのもあるらしい。ゲームも買ってみたいが、win版はwin7までしか対応してなかったこの野郎。PSvita買うかな、しかしソフトも含めて結構高いのな。不人気と聞いていたからもっと値下がりしてるかと思ったが。そういえば、シン・ゴジラも観てみたいな。エクゾスカル零と覚悟のススメもみたいな。ナイツ&マジックもみたいな。ペルソナ4ゴールデンもみたいな。……って全部消費系じゃないか! 生産的なことしろや! ……しかし、その、生産への欲求というよりも、強迫観念が逆にうつ状況をつくりだしているのかもしれない。うむ、つまり精神力が低い人間だということじゃ。とりあえずルーチンは無理やりでもする)
退廃した体と心
金曜日飲み会、24時半に就寝。土曜日、10時半に目が覚める。頭痛。倦怠感。
何とか起き上がり、パソコンを付ける。投資の勉強・調べものを1時間ぐらいする。体調はなお悪い。布団に入る。
13時目が覚める。買っておいたパンを食べる。体調なお悪し、布団に入る。
16時目が覚める。カップラーメンを食べる。体調なお悪し、布団に入る。
22時目が覚める。つけ麺を作って食べる。体調なお悪し、今ここ。
寝たり起きたりを繰り返すが、一向に体調がよくならない。
熱は測っていないが多分ない。頭の重さ、鈍重な痛みと倦怠感が続く。
これは、身体的な症状もそうだけれども、どちらかというと、精神的な不調も原因であると思われる。
精神的に、とても、具体がよくない。
分かっている、これは、今にはじまったことではない。何年も何年も、昔から続くうつ状態(うつ病とは言っていない)の症状だ。
明確なうつ病というよりかは、「精神因性神経症」である。これは、自分の意思において、生ある状態から意義消失することを意味する。
この状態を防ぐには、もはや、「書く」ということしか残されていない。少なくても、それ以外の方法で、自分自身を回復させられたことは思い浮かばない。
人に話したらどうか?
否。先日の飲み会においても、友人との会話においても、このブログで書いているような、「実感」としてあるものについては、本質的な表現で語ることができるようになった。つまり、できるだけ多くの人に受け入れられやすいような表現で語ることができるようになったという意味である。例えば、明るく元気に生きることは大切だ、とか。
しかし、そういった人との関わり交流においては、気分の悪さがより明確になっていく気がするのである。理由は、「結局合わない人はいる」「さらに深い部分での共有はできない」「会話は泡のように消えていき信念化が難しい」などが思いつく。だがまずは、そういった理由を挙げるより、実際に気分が改善されないという事実に目を向けるべきである。
本来的に、人は、人の中で生きていかざるを得ないし、その中で幸せや快感や喜びを得ていくべきものであるのだから、以上の症状は、「病気」として考えるべきだろう。
二つのブログ
布団の中から、新しく、二つのブログを読んだ。一つは、LGBTで発達障害の方の過去に体験したエッセイ。とても読みやすい語り口調で、いわゆる「健常者」には分からない世界の見え方が、分かりやすい比喩を交えて書かれていた。
一つは、美人で若い女性が、出会った男性たちにダメ出しをしていくブログ。これも、「それはひどいなぁ」と思わせられたり、ああ、やっぱり美人はそういう思考なのだろうなぁと思ったり面白かった。
これらのブログが、具合の悪さを助長したのかどうかは分からないが、僕に生じたのは、一つ目は、「あなたの苦しみは良く分かる。自分を理解されないという苦しみや、いじめられたりいじられたりする苦痛は忘れようとも中々忘れられないというのはよく分かる」といったことを、何とか伝えたいなぁということ。
もう一つのブログの方では、人間ってめんどくせぇなぁという気持ち。
まぁ、二つ目のほうは、もう少し後でもっと掘り下げて書いてみよう。
一つ目のほうは、確かに、「共感」という感情が浮かび上がったものの、しかし、その僕の中に生じた「よく分かる」という気持ちが、なんと傲慢で醜いものか……と自分自身が嫌になった。
ああ……この感覚の変化が何故起こるのか、僕もよくわからない。わからないけれども、きっと「純粋性」への希求なのだろう。
つまり、菩薩の心、神の心を持ちたいという憧れなのである。――飛躍したか? もう少し書けば、つまり、「その人を救いたい」という気持ちに根差さなければ、いくら「つらかったね。苦しかったね。よくわかるよ。頑張って」と思ったところで、それは浅ましい自己保身なのではなかろうか、という思いが僕の中に生じるということである。
偽善でもいいと思うが
分かりにくいだろうか?もっと書くと、偽善と善との話になっていく。僕が依然ある友人へ、偽善と善も本質的には変わらないのだ、その行為が尊いのだ、と必死に語ったのは、僕自身、「偽善」の塊のようなやつなんじゃないかと、薄々自分のことを思っているからである。
この点、つらいから、あまり書きたくないけれども、これもある友人から言われた、「結局お前は自分のことが一番なんだろ?」というのは、言いえて妙である。
やっぱり……そうなのか、と、どん底に陥った(かっこわらい)。
俺が、他人の幸せを願うのは、全部偽善で、全部自分に利するところがあるからなのか。
真に、他者の幸せを願っているわけではないのか、と。
だが、俺はやっぱり分からない。菩薩の心つーのが分からない。
菩薩は、確かに、衆生を救うために一生を使うのだろう。小乗(上座部)仏教で目指される阿羅漢(己の悟りを目指す)とは違う。
しかしそれは、他者を救うという行為が、自己の存在規定(レーゾンデートル)と一致したという状態に過ぎないのではないか。
過ぎない? 愚かしい記述だ。そんなことを言い出したら、人間は食らって糞出して死ぬに過ぎない存在ってことになるが、そんなことはあるまい。人間の生はそれだけで素晴らしいものだ、美しいものだ。生きてるってそれだけで良いことなのだ。
――っていうことを、俺は思えない。
これが病気だと思う。
生きていることに何の価値があるのだ。
おいしいものを食べることになんの意味があるのだ。
美人とセックスして、快楽を得てだからなんだというのだ。
子供をつくって育てて、それがなんだというのだ。
全部、いずれ必ずおとずれる死、に向かう過程の一つに過ぎない。
……。んなはずねーよ。そんなことはない、生きていることは素晴らしいことなんだ、って、そう思うこともあるのだけれども。おいしいもの食べたらそれだけで幸せになるのは間違いないのだけれども。人と会話して、ぶつかったり、その中で共感する部分があったりしたときの心地よさは決して無意味ではないと思うのだけれども。
ただ、具合が悪いと、どうしても、そっち方面、暗い感情の方へ引きずり込まれていく。
廃棄物と漂流物
ドリフターズという漫画があって、歴史上の偉人たちが、現実世界における死に際に異世界に送られて、どったんばったん活躍するという作品である。で、その偉人たちが異世界におくられる際に、「廃棄物」か「漂流物」か選ばれるのだ。
廃棄物になると、その異世界における人類を根こそぎ滅ぼそうとする勢力に加わる。
漂流物になると、まぁ、世界を救おうという気があるのかはわからないが、廃棄物と対抗する勢力に加わる。
俺は偉人じゃないから、死に際に異世界に送られることはないけれども、もし送られるとしたら、廃棄物と漂流物の、どっちになるのだろうか。
漂流物となった薩摩藩士の島津豊久とか、織田信長とかは、まぁそりゃあもう残虐なことをしたりする。「死生観が違うのだ」と語られる場面もあるが、「人を裏切る」「殺す」という行為自体で、漂流物と廃棄物に分かれるというわけではないのだろう。
僕は、「人を好きか」というところが、ポイントだと思う。
廃棄物の方は、人類(国や部族など)を救おうとして、結果的に敗れたり裏切られたりして死に直面した方々だ。「人」という存在に対して、根源的な恨みを抱いたのだとしても不思議ではない。
人は……というか、生命は、自分以外の生命を奪いながら生きている。それが自然の摂理なのだと言ってしまえばそのままなのだが、その行為過程自体が、どうしてそれだけで「素晴らしいもの」といえるのだろうか?
仏門に入っても同じこと
ベジタリアンになれということではない。肉、旨いし。つーか、菜食主義者でも、植物、生きているでしょ? どうしても、命を奪って生きていくしかないのである。
そういう意味では、僧侶になっても、この連関からは逃れられない。
唯一、終わりがあるとしたら、輪廻転生を信じないのであれば、明白だろう。だが、それしかないわけだ。
と、いうような思考が、布団の中で延々と流れるわけですよ。
もう起き上がる気力もありませんな(かっこわらい)。
こんなこと、表現できやしない。
こんなこと誰かに相談しても、よくて「ま、まぁがんばれや」と引きつった笑いでいわれるか、「きもっ」と避けられるか、「じゃあさっさと死ねばいいだろ!」と怒鳴られるかである。
なので言わない、言えない。
せいぜい、「人の一生は限りがあるんだから、死に際に『ああ、素晴らしい人生だったなぁ』と思えるように、できれば日々の生活の中で、『生きているって素晴らしいなぁ』と思えるようにやって行こうぜ!」と言うぐらいである。これは全くその通りに思っているが、実際、この表現の内に潜む、というか、根本命題的なものは、「生きているって、本当に意味があることなのか?」ということである。
生きていることに意味があるのか
何のために生きるのか、人生の意味を探し続けています。最近はやっぱり人生に意味はないのではないか、生きることに意味がないなら早く死んでしまった方が得なのではないかと思ってしまっています・・・
これもとあるブログさんからである。
「得か」という表現の部分は、やや違和感がある(損得というよりも、むしろ命題として「すべき」といった感覚が僕は強いかもしれない)けれども、ほぼ僕が暗い感情に引きずり込まれている際の感覚を表現されていると思う。
ある精神科医さんの著書によれば、「精神因性神経症」といって、現代人に増えてきている症状だという。これはうつ病とかよりも、むしろ精神医学的に「健常」の状態のほうが、顕著に表れるという(深刻なうつ病の場合はむしろこんな「生きる意味」とか考えられるほどの元気がない)。
まぁ、別に病気だろうが何だろうが、いいんだけどさ。
何が困るかというと、もうほんと、「どうでもいい」と思ってしまうことが問題である。
すぐさま死にたいとか、生きたいとかそういうのではなくて、何もしたくないし、何もできなくなるのである。
(かっこ書きである。あーもう、これ仕事のせいもあるな。正義だけじゃあやってけないし。効率とかずるがしこさとかもねぇとやってらんないとかストレスだな。シュタインズ・ゲートも見終わってしまったせいもあるかもな。でも、劇場版とか、シュタインズ・ゲート0(zero)というのもあるらしい。ゲームも買ってみたいが、win版はwin7までしか対応してなかったこの野郎。PSvita買うかな、しかしソフトも含めて結構高いのな。不人気と聞いていたからもっと値下がりしてるかと思ったが。そういえば、シン・ゴジラも観てみたいな。エクゾスカル零と覚悟のススメもみたいな。ナイツ&マジックもみたいな。ペルソナ4ゴールデンもみたいな。……って全部消費系じゃないか! 生産的なことしろや! ……しかし、その、生産への欲求というよりも、強迫観念が逆にうつ状況をつくりだしているのかもしれない。うむ、つまり精神力が低い人間だということじゃ。とりあえずルーチンは無理やりでもする)
