今日の一言「連載三つ目」
――生きる意味を徹底して考える(2)
2回の連載で、
前回までのあらすじ
――生きる意味を徹底して考える(1)――生きる意味を徹底して考える(2)
2回の連載で、
・生きる意味はあろうがなかろうが、そこが問題じゃない
・考えなければ生きていけない
・人生の意味には、役割ベース、モチベーションベース、インスピレーションベースの3つがある
・役割ベースの生き方はつまらない
・モチベーションベースの生き方は重要だがそれも万能ではない
・ライフワークをもつのが重要だ
と書いてきた。
今回は、その「インスピレーションベース」とか「ライフワーク」とか、そんな横文字について、もう少し自分に引き付けて考えて整理していきたい。
と入る前に、もう少し復習をしておきたい。
上のあらすじを「よく覚えている」という人は、次の小見出しまでジャンプしていただきたい。
以下、対話形式で、前回までの流れを整理する。
「生きる意味を徹底して考える必要がある」
――何故か?
「生きる意味があろうがなかろうが、考えることから逃れられないからである」
「補足すれば、『生きる意味を考えるのは無駄だ』と主張する人であっても、『その他のもっと重要なことを考えるべきだ』という主張をもっているからだ(※)」
・モチベーションベースの生き方は重要だがそれも万能ではない
・ライフワークをもつのが重要だ
と書いてきた。
今回は、その「インスピレーションベース」とか「ライフワーク」とか、そんな横文字について、もう少し自分に引き付けて考えて整理していきたい。
もう少し詳しく振り返ってみる
「ライフワークとは何か?」と入る前に、もう少し復習をしておきたい。
上のあらすじを「よく覚えている」という人は、次の小見出しまでジャンプしていただきたい。
以下、対話形式で、前回までの流れを整理する。
「生きる意味を徹底して考える必要がある」
――何故か?
「生きる意味があろうがなかろうが、考えることから逃れられないからである」
「補足すれば、『生きる意味を考えるのは無駄だ』と主張する人であっても、『その他のもっと重要なことを考えるべきだ』という主張をもっているからだ(※)」
――では、その他のもっと重要なことを考えるべきであり、生きる意味など考えない方がよいのではないか?
「仮に、生きる意味を考えずに、『今・ここで、目の前にあることに注力する』としたとき、それは本当に人間としての生き方であるのか。人間としての生き方は、3つあるという。(1)役割ベース、(2)動機ベース、(3)インスピレーションベースだ。単に考えることをやめて、ただ目の前のことに一生懸命になるというのは、(1)の役割ベースの生き方ではないか」
――役割ベースの生き方ではダメなのか?
「ダメではない。ただし、役割ベースとは、その役割なるもの――すなわち「使命」が、外部から与えられている。常に新しい「使命」に心身を捧げ、考える余地なく行動し続けることができれば、それは一つの人間としての在り方であろう。しかし、動機無き行動は、長くは続かない。その人はいずれ摩耗し果てるだろう」
――何故か?
「外部から使命が与えられているからだ。人間が本来力を発揮できるのは、内発的な動機が必要である。それに従って生きるのが、動機ベースの生き方だ。動機ベースの生き方とは、「やらなきゃ」というより「やりたい」と思うことを続けていくことだ。それは仕事ではなく遊びかもしれないが、それでもよい。遊び(趣味)のために仕事を頑張れるという人も少なくないだろう。また、仕事が楽しいという人だっていることだろう。とにかく、「面白い」「楽しい」と思えることを続けていくのが動機ベースの生き方だ」
――では動機ベースの生き方を目指せばよいのか?
「仮に、生きる意味を考えずに、『今・ここで、目の前にあることに注力する』としたとき、それは本当に人間としての生き方であるのか。人間としての生き方は、3つあるという。(1)役割ベース、(2)動機ベース、(3)インスピレーションベースだ。単に考えることをやめて、ただ目の前のことに一生懸命になるというのは、(1)の役割ベースの生き方ではないか」
――役割ベースの生き方ではダメなのか?
「ダメではない。ただし、役割ベースとは、その役割なるもの――すなわち「使命」が、外部から与えられている。常に新しい「使命」に心身を捧げ、考える余地なく行動し続けることができれば、それは一つの人間としての在り方であろう。しかし、動機無き行動は、長くは続かない。その人はいずれ摩耗し果てるだろう」
――何故か?
「外部から使命が与えられているからだ。人間が本来力を発揮できるのは、内発的な動機が必要である。それに従って生きるのが、動機ベースの生き方だ。動機ベースの生き方とは、「やらなきゃ」というより「やりたい」と思うことを続けていくことだ。それは仕事ではなく遊びかもしれないが、それでもよい。遊び(趣味)のために仕事を頑張れるという人も少なくないだろう。また、仕事が楽しいという人だっていることだろう。とにかく、「面白い」「楽しい」と思えることを続けていくのが動機ベースの生き方だ」
――では動機ベースの生き方を目指せばよいのか?
「動機ベースの生き方も万能ではない。理由は、以下に、前回の記事の一部引用により示す」
ということで、ようやっと、本記事の、ライフワーク云々の話につながる。
※本当の意味で「考えることを放棄すべきだ」という主張も存在する。ただしそれは、神に一身を捧げることであったり、坐禅により心身脱落することであったり、特殊な生き方の部類である。この考え方・生き方については、一考および選択の余地があると思っているが、本記事の主旨からはずれるため触れない。
それは、いくら自分の人生であっても、誰も、未来のことなど分からないからである。
今手にしているお金も、愛も、健康も、この先どうなるか分からない。いや、物質的なものや、精神的なものであっても、時間とともに減っていくのは確実だ。
……減るのが確実だ、と書いてしまうと、投資家としては「お金」はお金によって増やし続けられるかもしれないし、愛に生きる恋人たちは永遠を信じて疑わないかもしれない。だが、健康はいずれ損なわれていく。老化、そして死は避けられない。
例えば。
・美味しいものを食べるのが幸せだ、生きがいだ、だから私はそれが生きる動機なのだ。
・ゲームするのがとにかく楽しい。これをやっていられたら他に何もいらない。
・人とかかわるのが、おしゃべりするのがワクワクする。ずっとこうやって生きていきたい。
それらはとても大事なことだ。
だが、長期的に人生というものを考えたとき、環境の変化や、趣味嗜好の変化があったとき、それは永続する動機となりえるのか?
つまり、動機ベースの生き方は、それ自体が悪いわけではなく、その継続性、強度が不十分ではないのか、と考えられるのである。だから、ライフワークが必要だ、――となるが、ここは、もう一つ小見出しで補足しておこう。
というにも、前回も書いたが、この「インスピレーションベース」というのが、どうにも落ち着きの良くない言葉だ。
他の言葉で何とか、ピンとくる表現にできないだろうか、と少し考えてみる。
ナチスの強制収容所を生き延びた精神医学者V.E.フランクル氏は、「唯一性・一回性」が人生を価値あるものにしていると述べている(『人間とは何か――実存的精神療法』参照)。唯一性とは、「私が、私以外の何者でもないこと」であり、一回性とは、「人生がリセットボタンでやり直しのきかないものであること」である。
デンマークの哲学者キルケゴールは、絶望の三形態を、
・自己自身があることに気づいていないこと
・本来的な自己自身になろうとしないこと
・非本来的な自己自身になろうとすること
と述べている(『死に至る病』参照)。
僕は、この一連の連載を、「3.個人としての生きる意味――生きる意味を徹底して考える(1)」を前提に書くと決めた。
――ではどうしたらよいか。一つは、上に書いたけれども、「現実と、自分の動機との整合性」をとる必要があることだ。前の記事で書いたが、「現実と理想との乖離を少なくすること」が幸せを感じるためにも必要であるというのと関連する。いっくら熱い情熱を燃やしていても、我々の世界は魔法あふれるファンタジー世界ではないのだから、無理なことは無理なのだ。「すぐ入れますよ、お安くしときますよ」とか言っていい店だったことがないのと同じだ……いやそれは違うか。もう一つは、その動機も、必ずしも長続きするとは限らないということである。前回の記事のカッコ書きあたりで書いた気がするが、「楽しくゲームするために生きるんだ!」という情熱を燃やして、頑張って勉強して良い高校に入ったかもしれないが、そんな動機で長続きするわけないのである。何故かというと、人生の困難・障害ってのは、なっかなか激しいものだからだ。確かに、一時的な快楽を得る方法はたくさんあるだろう。しかし、それらが、今後も続くであろう人生の艱難辛苦とシーソーゲームを繰り返すとしたら、十分に希望を見出すことができるのだろうか?――生きる意味を徹底して考える(2)
ということで、ようやっと、本記事の、ライフワーク云々の話につながる。
※本当の意味で「考えることを放棄すべきだ」という主張も存在する。ただしそれは、神に一身を捧げることであったり、坐禅により心身脱落することであったり、特殊な生き方の部類である。この考え方・生き方については、一考および選択の余地があると思っているが、本記事の主旨からはずれるため触れない。
何故ライフワークが必要か
何故、動機ベースの生き方は不十分だったのか。それは、いくら自分の人生であっても、誰も、未来のことなど分からないからである。
今手にしているお金も、愛も、健康も、この先どうなるか分からない。いや、物質的なものや、精神的なものであっても、時間とともに減っていくのは確実だ。
……減るのが確実だ、と書いてしまうと、投資家としては「お金」はお金によって増やし続けられるかもしれないし、愛に生きる恋人たちは永遠を信じて疑わないかもしれない。だが、健康はいずれ損なわれていく。老化、そして死は避けられない。
例えば。
・美味しいものを食べるのが幸せだ、生きがいだ、だから私はそれが生きる動機なのだ。
・ゲームするのがとにかく楽しい。これをやっていられたら他に何もいらない。
・人とかかわるのが、おしゃべりするのがワクワクする。ずっとこうやって生きていきたい。
それらはとても大事なことだ。
だが、長期的に人生というものを考えたとき、環境の変化や、趣味嗜好の変化があったとき、それは永続する動機となりえるのか?
つまり、動機ベースの生き方は、それ自体が悪いわけではなく、その継続性、強度が不十分ではないのか、と考えられるのである。だから、ライフワークが必要だ、――となるが、ここは、もう一つ小見出しで補足しておこう。
動機ベースとインスピベースの生き方の違い
動機ベース、インスピレーションベースと書いてきたが、実は、それほど大きな違いが無いのではと考えている。というにも、前回も書いたが、この「インスピレーションベース」というのが、どうにも落ち着きの良くない言葉だ。
他の言葉で何とか、ピンとくる表現にできないだろうか、と少し考えてみる。
ナチスの強制収容所を生き延びた精神医学者V.E.フランクル氏は、「唯一性・一回性」が人生を価値あるものにしていると述べている(『人間とは何か――実存的精神療法』参照)。唯一性とは、「私が、私以外の何者でもないこと」であり、一回性とは、「人生がリセットボタンでやり直しのきかないものであること」である。
デンマークの哲学者キルケゴールは、絶望の三形態を、
・自己自身があることに気づいていないこと
・本来的な自己自身になろうとしないこと
・非本来的な自己自身になろうとすること
と述べている(『死に至る病』参照)。
僕は、この一連の連載を、「3.個人としての生きる意味――生きる意味を徹底して考える(1)」を前提に書くと決めた。
だから、このインスピレーションベースの生き方というのを、キルケゴール氏の言葉をかりて、「自己自身ベースの生き方」というのはどうか。あるいは、「実存ベースの生き方」というのはどうか。
ただ、横文字を漢字にしただけでは、結局何を意味するかよく分からない場合がある。
実存ベース……っていっても、実存ってなんだよ、という人もいるだろう。
実存とは、フランクル氏がいうところの、「唯一性・一回性」をもった人間として、人生をまっとうすることである。本来的な自己であるということだ。
――まだ分かりにくいだろう。
ここで、もう一度、役割ベースと、動機ベースと、「実存ベース」の生き方の違いについて、その行動の源泉になるモノ、「やらなきゃ」「やりたい」がどこから与えられるのかを考えてみよう。
役割ベースは、「外部」からであった。親であること、社会人であること、学生であること、とある政治団体の一員であること、宗教団体の一員であること……など。その所属するカテゴリーから、「こうあるべき」という行動指針が与えられる。それに対して邁進するのが、この役割ベースの生き方であった。
動機ベースは、「内部」からであった。自発的に、自分自身で「やりたい!」「楽しい!」「面白い!」と思えるもの。その気持ちに基づいて行為行動するというのが、動機ベースの生き方であった。
実存ベースは、どこから与えられるのか?
それは、動機ベースと同じく、「内部」である。自分自身の中からであることは、動機ベースと同じなのだ。
しかし、動機ベースと違うのは、その根拠、強度、継続性である。
僕は、その実存ベースの生き方を求めて、今さまよっている。
30代にもなってお恥ずかしい限り。
……が、逆に、問う。
果たして、どこまで多くの人が、本当に、唯一・一回性の人生において、「自分にしかできない」「自分はこれをやるために生まれてきた」といえるような、ライフワークに出会えて、そしてその生き方を選択できているのだろうか。
意識高い系みたいなことを書いている? 否、断じて。
僕は単に必要性に迫られているに過ぎない。深い森の中に迷ったとき、生存本能から恐怖を感じ、そこから抜け出さんと足掻くのと変わらない。
僕はそうしなければならない。
今回は、一つ、ライフワークの例を書いて終わりにしよう。
いきなりアニメーション作品の例で恐縮であるが、最近過日、「Re:CREATORS(リ:クリエーターズ)」という作品を全話視聴した。
シュタインズ・ゲートという作品もそうであったが、この作品も序盤はあまり引き込まれず、1~3話ぐらいみてしばらく放置していたが、途中、「築城院真鍳(ちくじょういん・まがね)」というキャラクターが登場した、6話から面白くなっていった。というより、マガネちゃんがとても好きになったのだ。若干寝不足になった(かっこわらい)。
彼女は、悪役である。
彼女は、無辜の住民を面白半分に殺害する。
主人公陣営と、敵側の陣営に分かれているが、当初、マガネちゃんは敵側陣営に加わるように説得される。ところが彼女はその申し出を断る。かといって、主人公陣営にもくみしない。面白い方につくと。世界がどうだろうが関係ないと。
彼女は完全サイコパスである。「憎しみ」とか「正義」とか、そういった主義主張も存在しなければそういった感情もない。言説弁舌巧みで、人の弱みを握ったり、おとしめたり、絶望させることが得意で、そういうのがとても面白いと思っている。
登場のしょっぱなから、悪い奴だなぁと思ったし、顔つきも邪悪である。まぁ、ずーっと笑顔で楽しそうにお話ししているが、ものすごい胡散臭い。「そうだよ? マガネちゃんは嘘しかつかないので~す」とか、クレタ人もびっくりしちゃうぐらい。
これだけ書けば、単に頭の狂った悪い奴、なのであるが、何故か憎めないのである。
その理由について、マガネちゃんの登場回を重ねるごとに、分かった。彼女は、どこまでもまっすぐなのである。マガネちゃんは、「面白いこと」をただ、ただずっと求めているだけなのだ。そこに善悪の基準はない。ただそれだけで、ただそのためだけに生きている。マガネちゃんは友達いないだろうかもしれないが、彼女にとってそんなことどうでもいいことなのだ。
――それだ。
唐突である。思い出そう、これは何の小見出しだったか? ライフワークの例を挙げようというのが目的だ。つまり、マガネちゃんが、住民惨殺したり、面白半分に主人公陣営にも敵側にもつかずワイルドカード的な立場でふらふらしたりしている時点では、それが、動機ベースの行為なのか、実存ベースの行為なのか分からなかったが、登場する場面ごとにその置かれた立場や条件は違うのに、ただ一つの自己自身の目的……「面白いこと」をどこまでも求めてやまなかったのである。そんな一貫性みたいなものが、実存ベースの生き方……ライフワークの実践だと思う。
(その結果として、最後には物語にとってとても重要で良い方向の働きをする。ただ、マガネちゃんにとってそれが「良いこと」なのか「悪いこと」なのかは、結局どうでもいいことなのである)
インスピレーションベース、実存ベース、ライフワークと、様々な表現で書いてきたけれども、もう一つ、「信念」という言葉を付け加えてもいいかもしれない。
次回は、もうちょっと、このライフワーク的なみたいなものについて、掘り下げたり、広げて例をあげたりしつつ、「じゃあ俺はどうしたいんだ? どうすればいいんだ?」ということに突っ込んでいきたい。
結局今回の記事は、「実存」的じゃなくて、自分の中ではあまり面白くなかった。――のだけれども、書かなければいけない、書いておかなければいけない、そんな気はした。
(かっこ書きである。Re:CREATORS、アマゾンプライムのウォッチリストに登録してから数か月過ぎてたけど、意外に面白かった。上から目線な書き方をすると、「よくまとまっていた」と思った。なんか、アマゾンレビューで、「人物描写が足りず、2クール(22話)では全然短かった。もうちょっと丁寧につくったらよかったのに」とか、「製作者側の自慰」といった意見もあったけど、僕はむしろ、もっとコンパクトにしてもよいと思った。なんというか、今作においてキャラクターは、むしろ「テンプレ的」であることが求められていたと思う(何せ各物語の主人公なのだから)。だから、なんとなくこのキャラはこういうキャラだと、脳内補完できるレベルで描かれていれば十分だと思ったのだ。それと、製作者側の自己満作品だ、というのは、その面もあるかもしれないが、創作物があくまでも消費者側の「承認力」を必要とするという設定は、僕の好きな小説の完全無欠の高校生が何か神の末裔(?)の女の子と合体して悪い奴をやっつける作品の、認識子(グノシオン)みたいで面白かった。というか、そう、小説家とか漫画家とか、その創作者たちが、自身の作品に対してぶつける熱い思いってのが、すごくよかった。この作品を異種能力バトル的なものを期待してみるとちょっと肩透かしかもしれない。いやまぁ映像はとてもきれいだったけれど、もうちょっと戦闘シーンとか全体的にカットしてまとめてもいいんじゃないかな、ってのが僕個人的な感想。ただまぁ、そういうのもあったからか、ブリッツはん【娘をなくしてちょっと虚無になってしまったハードボイルドのおっさん】と駿河はん【女性漫画家。ブリッツ・トーカーが登場する作品を描く】のやりとりとか、めちゃくちゃ痺れた。その二人のシーンと、マガネちゃんをみれただけでこの作品にとても満足だ)
ただ、横文字を漢字にしただけでは、結局何を意味するかよく分からない場合がある。
実存ベース……っていっても、実存ってなんだよ、という人もいるだろう。
実存とは、フランクル氏がいうところの、「唯一性・一回性」をもった人間として、人生をまっとうすることである。本来的な自己であるということだ。
――まだ分かりにくいだろう。
ここで、もう一度、役割ベースと、動機ベースと、「実存ベース」の生き方の違いについて、その行動の源泉になるモノ、「やらなきゃ」「やりたい」がどこから与えられるのかを考えてみよう。
役割ベースは、「外部」からであった。親であること、社会人であること、学生であること、とある政治団体の一員であること、宗教団体の一員であること……など。その所属するカテゴリーから、「こうあるべき」という行動指針が与えられる。それに対して邁進するのが、この役割ベースの生き方であった。
動機ベースは、「内部」からであった。自発的に、自分自身で「やりたい!」「楽しい!」「面白い!」と思えるもの。その気持ちに基づいて行為行動するというのが、動機ベースの生き方であった。
実存ベースは、どこから与えられるのか?
それは、動機ベースと同じく、「内部」である。自分自身の中からであることは、動機ベースと同じなのだ。
しかし、動機ベースと違うのは、その根拠、強度、継続性である。
僕は、その実存ベースの生き方を求めて、今さまよっている。
30代にもなってお恥ずかしい限り。
……が、逆に、問う。
果たして、どこまで多くの人が、本当に、唯一・一回性の人生において、「自分にしかできない」「自分はこれをやるために生まれてきた」といえるような、ライフワークに出会えて、そしてその生き方を選択できているのだろうか。
意識高い系みたいなことを書いている? 否、断じて。
僕は単に必要性に迫られているに過ぎない。深い森の中に迷ったとき、生存本能から恐怖を感じ、そこから抜け出さんと足掻くのと変わらない。
僕はそうしなければならない。
ライフワークに出会えている例
本当は、この記事においては、具体的にライフワークを見つけるためにはといった方法論にまでいきたかったが、おそらくこの調子ではまた5,000字をこえることだろう。今回は、一つ、ライフワークの例を書いて終わりにしよう。
いきなりアニメーション作品の例で恐縮であるが、最近過日、「Re:CREATORS(リ:クリエーターズ)」という作品を全話視聴した。
シュタインズ・ゲートという作品もそうであったが、この作品も序盤はあまり引き込まれず、1~3話ぐらいみてしばらく放置していたが、途中、「築城院真鍳(ちくじょういん・まがね)」というキャラクターが登場した、6話から面白くなっていった。というより、マガネちゃんがとても好きになったのだ。若干寝不足になった(かっこわらい)。
彼女は、悪役である。
彼女は、無辜の住民を面白半分に殺害する。
主人公陣営と、敵側の陣営に分かれているが、当初、マガネちゃんは敵側陣営に加わるように説得される。ところが彼女はその申し出を断る。かといって、主人公陣営にもくみしない。面白い方につくと。世界がどうだろうが関係ないと。
彼女は完全サイコパスである。「憎しみ」とか「正義」とか、そういった主義主張も存在しなければそういった感情もない。言説弁舌巧みで、人の弱みを握ったり、おとしめたり、絶望させることが得意で、そういうのがとても面白いと思っている。
登場のしょっぱなから、悪い奴だなぁと思ったし、顔つきも邪悪である。まぁ、ずーっと笑顔で楽しそうにお話ししているが、ものすごい胡散臭い。「そうだよ? マガネちゃんは嘘しかつかないので~す」とか、クレタ人もびっくりしちゃうぐらい。
これだけ書けば、単に頭の狂った悪い奴、なのであるが、何故か憎めないのである。
その理由について、マガネちゃんの登場回を重ねるごとに、分かった。彼女は、どこまでもまっすぐなのである。マガネちゃんは、「面白いこと」をただ、ただずっと求めているだけなのだ。そこに善悪の基準はない。ただそれだけで、ただそのためだけに生きている。マガネちゃんは友達いないだろうかもしれないが、彼女にとってそんなことどうでもいいことなのだ。
――それだ。
唐突である。思い出そう、これは何の小見出しだったか? ライフワークの例を挙げようというのが目的だ。つまり、マガネちゃんが、住民惨殺したり、面白半分に主人公陣営にも敵側にもつかずワイルドカード的な立場でふらふらしたりしている時点では、それが、動機ベースの行為なのか、実存ベースの行為なのか分からなかったが、登場する場面ごとにその置かれた立場や条件は違うのに、ただ一つの自己自身の目的……「面白いこと」をどこまでも求めてやまなかったのである。そんな一貫性みたいなものが、実存ベースの生き方……ライフワークの実践だと思う。
(その結果として、最後には物語にとってとても重要で良い方向の働きをする。ただ、マガネちゃんにとってそれが「良いこと」なのか「悪いこと」なのかは、結局どうでもいいことなのである)
インスピレーションベース、実存ベース、ライフワークと、様々な表現で書いてきたけれども、もう一つ、「信念」という言葉を付け加えてもいいかもしれない。
次回は、もうちょっと、このライフワーク的なみたいなものについて、掘り下げたり、広げて例をあげたりしつつ、「じゃあ俺はどうしたいんだ? どうすればいいんだ?」ということに突っ込んでいきたい。
結局今回の記事は、「実存」的じゃなくて、自分の中ではあまり面白くなかった。――のだけれども、書かなければいけない、書いておかなければいけない、そんな気はした。
(かっこ書きである。Re:CREATORS、アマゾンプライムのウォッチリストに登録してから数か月過ぎてたけど、意外に面白かった。上から目線な書き方をすると、「よくまとまっていた」と思った。なんか、アマゾンレビューで、「人物描写が足りず、2クール(22話)では全然短かった。もうちょっと丁寧につくったらよかったのに」とか、「製作者側の自慰」といった意見もあったけど、僕はむしろ、もっとコンパクトにしてもよいと思った。なんというか、今作においてキャラクターは、むしろ「テンプレ的」であることが求められていたと思う(何せ各物語の主人公なのだから)。だから、なんとなくこのキャラはこういうキャラだと、脳内補完できるレベルで描かれていれば十分だと思ったのだ。それと、製作者側の自己満作品だ、というのは、その面もあるかもしれないが、創作物があくまでも消費者側の「承認力」を必要とするという設定は、僕の好きな小説の完全無欠の高校生が何か神の末裔(?)の女の子と合体して悪い奴をやっつける作品の、認識子(グノシオン)みたいで面白かった。というか、そう、小説家とか漫画家とか、その創作者たちが、自身の作品に対してぶつける熱い思いってのが、すごくよかった。この作品を異種能力バトル的なものを期待してみるとちょっと肩透かしかもしれない。いやまぁ映像はとてもきれいだったけれど、もうちょっと戦闘シーンとか全体的にカットしてまとめてもいいんじゃないかな、ってのが僕個人的な感想。ただまぁ、そういうのもあったからか、ブリッツはん【娘をなくしてちょっと虚無になってしまったハードボイルドのおっさん】と駿河はん【女性漫画家。ブリッツ・トーカーが登場する作品を描く】のやりとりとか、めちゃくちゃ痺れた。その二人のシーンと、マガネちゃんをみれただけでこの作品にとても満足だ)
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今日の一言「連載の二つ目」
上のとおり、
・生きる意味はあろうがなかろうが、そこが問題じゃない
・考えなければ生きていけない
・人生の意味には、役割ベース、モチベーションベース、インスピレーションベースの3つがある
・役割ベースの生き方はつまらない
ということを書いた。
さて、役割ベースの生き方を取り敢えず否定したわけだが、今度は、「モチベーションベース」の生き方について書いていく。
本来的に、みんなモチベーションベースの生き方をしているとは思う。ただ、忙しさにかまけて、周りが見えなくなっている場合にのみ、「役割ベース」の生き方になっている場合があるのである。
ちなみに、役割ベース……別に絶対だめだといってるわけじゃない。というより、昔……それは、昭和とかそれだけじゃなくて、封建時代とか神権政治時代とか、歴史的にみたら往々にしてそういった時代ばっかりだったわけである。
士農工商なんて小学生並みの例を挙げるのは恥ずかしいが、それぞれ身分があった時代は、「自分らしい生き方」なんて考えられる土台がそもそもなかったのである。
そう考えると、19世紀の実存主義の興りというのは、とても大事なことだったといえる。
脱線するが、それは西洋からしてのことであり、古代インド・紀元前5世紀ぐらいではそもそも、ゴウタマ・シッダールタさんが、「人生ってそもそも苦しみじゃない?」とか言い出していたのである。
話がそれた。動機主義である。
動機とは何か。正しい説明を知りたい方は、「人生の目的は、自分らしく生き、人とつながること」こっちを見てもらうとして、僕的解釈をすれば、「欲望」である。
せっかちに、先回りして書いてしまうと、この後の話の流れとして、「欲望はまた苦しみの源泉である」ということに触れようとは思うのだけれども、まずは、「欲望をもつことが重要だ」という主張をする。
欲望と聞くと、たびたび、よくないものだという認識が生じる。煩悩という言葉に置き換えてもよいかもしれない。
お金が欲しい。
美味しいものを食べたい。
女(男)が欲しい。
車が欲しい。
家が欲しい。
称賛が欲しい。
名誉が欲しい。
楽をしたい。
煩悩まみれの人間なんて、かっこ悪いと思われがちだ。
でもそんなことはない。欲望こそが、人の行動の源泉である。
企業の営利活動とは何だろうか。人の欲求を満たすものである。
もう一方、「面倒なことを解消する」ことである。
CSRとかいって、環境とか社会活動に貢献することも重要視されたりもするのだろうが、結局、第一優先は、資本主義社会・競争社会において、その企業が生き残ることである。生き残って利益を生むことができるから、その利益を社会貢献に使えるのである。そしてその行為が、投資家や消費者に対しての付加価値になるのである、だから社会貢献するのである。
いやいや、人の「倫理観」を根こそぎ否定するのではない。しかしだ、これは僕が勝手に思っているだけなのだが、人は根源的に利己的な存在であると思っている。この「利己的」というのは、「他人のために為すこと」も含めて考えている。他人のために為すために、自分が存在して、その他人が喜ぶ姿を見て「利己的に」喜ぶのである。――といった解釈を書いたり言ったりすると、まずもって友人や恋人はできないから注意するように(誰に言っている)。
書いておかねばならないのは、別にそのことが、悪いことでも、偽善だとして断罪しようというのでもない。それはそれで素敵なことだ。自分の食欲を満たすのではなく、他者にパンを与えるという行為。それが己の倫理観に従ったものであるというのは、人間という存在の崇高さを物語っているではあるまいか。
というわけで、すべての人間の行為は、欲望からなっていると言ってよい。悪いことをしてしまうのもまた欲望のせいだとしても、良いことをなしたいと思うのも、それはまた欲望であるのだ。
んでもって、その欲望に従って生きるということ、「自分がやりたい!」と思うことと、現実とを一致させていくということ。それがモチベーションベースの生き方である。
ところが、この動機ベースの生き方も万能ではない。
一つは、上に書いたけれども、「現実と、自分の動機との整合性」をとる必要があることだ。前の記事で書いたが、「現実と理想との乖離を少なくすること」が幸せを感じるためにも必要であるというのと関連する。
いっくら熱い情熱を燃やしていても、我々の世界は魔法あふれるファンタジー世界ではないのだから、無理なことは無理なのだ。「すぐ入れますよ、お安くしときますよ」とか言っていい店だったことがないのと同じだ……いやそれは違うか。
もう一つは、その動機も、必ずしも長続きするとは限らないということである。
前回の記事のカッコ書きあたりで書いた気がするが、「楽しくゲームするために生きるんだ!」という情熱を燃やして、頑張って勉強して良い高校に入ったかもしれないが、そんな動機で長続きするわけないのである。何故かというと、人生の困難・障害ってのは、なっかなか激しいものだからだ。
確かに、一時的な快楽を得る方法はたくさんあるだろう。しかし、それらが、今後も続くであろう人生の艱難辛苦とシーソーゲームを繰り返すとしたら、十分に希望を見出すことができるのだろうか?
そして、いま僕が立っているのが、ここでもある。
なんだか、いろいろ、実感がわかない。意欲がわかない。
さぁどうするか。そこで颯爽と登場するのが、「インスピレーションベースの生き方」である。
ただ、この三つの生き方を提示している本というか、その記事において言わんとすることは、何となく分かる。それは、「ライフワーク」に関する部分である。以下に少し引用する。
先日僕は、「生きる意味がないなら、結婚して子どもをつくって育てればよいのだ」という意見を聞いた。
「やっぱり……そうなのかなぁ、究極、人間だって生物なのだから、子孫繁栄が第一命題なのかなぁ」と思った。
そうなのかもしれない。
でも、僕の、ワクワクして、それをやってるだけで満足感がえられて、自由な感じがする活動ってのは、本当にそれなのだろうか。
次回、ライフワークを探すために今後していくべきことについて考えるとする。
(かっこ書きである。いつも普段の記事は、ゼロ秒思考で……それって思考っていうの? というほどに、指が自動筆記している。今回の連載記事は、非常に考えている。ものすごい時間を要している。その割に推敲の時間はほとんどないのであるが……。)
前回のあらすじ
――生きる意味を徹底して考える(1)上のとおり、
・生きる意味はあろうがなかろうが、そこが問題じゃない
・考えなければ生きていけない
・人生の意味には、役割ベース、モチベーションベース、インスピレーションベースの3つがある
・役割ベースの生き方はつまらない
ということを書いた。
さて、役割ベースの生き方を取り敢えず否定したわけだが、今度は、「モチベーションベース」の生き方について書いていく。
モチベーションベースの生き方
モチベーションベース。動機に基づいた生き方ってことである。本来的に、みんなモチベーションベースの生き方をしているとは思う。ただ、忙しさにかまけて、周りが見えなくなっている場合にのみ、「役割ベース」の生き方になっている場合があるのである。
ちなみに、役割ベース……別に絶対だめだといってるわけじゃない。というより、昔……それは、昭和とかそれだけじゃなくて、封建時代とか神権政治時代とか、歴史的にみたら往々にしてそういった時代ばっかりだったわけである。
士農工商なんて小学生並みの例を挙げるのは恥ずかしいが、それぞれ身分があった時代は、「自分らしい生き方」なんて考えられる土台がそもそもなかったのである。
そう考えると、19世紀の実存主義の興りというのは、とても大事なことだったといえる。
脱線するが、それは西洋からしてのことであり、古代インド・紀元前5世紀ぐらいではそもそも、ゴウタマ・シッダールタさんが、「人生ってそもそも苦しみじゃない?」とか言い出していたのである。
話がそれた。動機主義である。
動機とは何か。正しい説明を知りたい方は、「人生の目的は、自分らしく生き、人とつながること」こっちを見てもらうとして、僕的解釈をすれば、「欲望」である。
せっかちに、先回りして書いてしまうと、この後の話の流れとして、「欲望はまた苦しみの源泉である」ということに触れようとは思うのだけれども、まずは、「欲望をもつことが重要だ」という主張をする。
欲望と聞くと、たびたび、よくないものだという認識が生じる。煩悩という言葉に置き換えてもよいかもしれない。
お金が欲しい。
美味しいものを食べたい。
女(男)が欲しい。
車が欲しい。
家が欲しい。
称賛が欲しい。
名誉が欲しい。
楽をしたい。
煩悩まみれの人間なんて、かっこ悪いと思われがちだ。
でもそんなことはない。欲望こそが、人の行動の源泉である。
企業の営利活動とは何だろうか。人の欲求を満たすものである。
もう一方、「面倒なことを解消する」ことである。
CSRとかいって、環境とか社会活動に貢献することも重要視されたりもするのだろうが、結局、第一優先は、資本主義社会・競争社会において、その企業が生き残ることである。生き残って利益を生むことができるから、その利益を社会貢献に使えるのである。そしてその行為が、投資家や消費者に対しての付加価値になるのである、だから社会貢献するのである。
いやいや、人の「倫理観」を根こそぎ否定するのではない。しかしだ、これは僕が勝手に思っているだけなのだが、人は根源的に利己的な存在であると思っている。この「利己的」というのは、「他人のために為すこと」も含めて考えている。他人のために為すために、自分が存在して、その他人が喜ぶ姿を見て「利己的に」喜ぶのである。――といった解釈を書いたり言ったりすると、まずもって友人や恋人はできないから注意するように(誰に言っている)。
書いておかねばならないのは、別にそのことが、悪いことでも、偽善だとして断罪しようというのでもない。それはそれで素敵なことだ。自分の食欲を満たすのではなく、他者にパンを与えるという行為。それが己の倫理観に従ったものであるというのは、人間という存在の崇高さを物語っているではあるまいか。
というわけで、すべての人間の行為は、欲望からなっていると言ってよい。悪いことをしてしまうのもまた欲望のせいだとしても、良いことをなしたいと思うのも、それはまた欲望であるのだ。
んでもって、その欲望に従って生きるということ、「自分がやりたい!」と思うことと、現実とを一致させていくということ。それがモチベーションベースの生き方である。
動機ベースの生き方の欠点
確かに、このモチベーションベース(タイプするのが大変だから、以後「動機ベース」と統一する)の生き方には、役割ベースの生き方の焦燥感、強制感に比べたら、人間礼賛・個人賛美の美しさがある。ところが、この動機ベースの生き方も万能ではない。
一つは、上に書いたけれども、「現実と、自分の動機との整合性」をとる必要があることだ。前の記事で書いたが、「現実と理想との乖離を少なくすること」が幸せを感じるためにも必要であるというのと関連する。
いっくら熱い情熱を燃やしていても、我々の世界は魔法あふれるファンタジー世界ではないのだから、無理なことは無理なのだ。「すぐ入れますよ、お安くしときますよ」とか言っていい店だったことがないのと同じだ……いやそれは違うか。
もう一つは、その動機も、必ずしも長続きするとは限らないということである。
前回の記事のカッコ書きあたりで書いた気がするが、「楽しくゲームするために生きるんだ!」という情熱を燃やして、頑張って勉強して良い高校に入ったかもしれないが、そんな動機で長続きするわけないのである。何故かというと、人生の困難・障害ってのは、なっかなか激しいものだからだ。
確かに、一時的な快楽を得る方法はたくさんあるだろう。しかし、それらが、今後も続くであろう人生の艱難辛苦とシーソーゲームを繰り返すとしたら、十分に希望を見出すことができるのだろうか?
そして、いま僕が立っているのが、ここでもある。
なんだか、いろいろ、実感がわかない。意欲がわかない。
さぁどうするか。そこで颯爽と登場するのが、「インスピレーションベースの生き方」である。
インスピレーションベースの生き方
ただ、このインスピレーションベースの生き方というのは、横文字がなんだか定着しない感があるのはそのとおり、明確に「これだ!」という定義があるわけではないのだ。そもそも、インスピレーションとは、「突発的に降ってきたアイディア」的な意味である。(アイディアとは、よくよく考えた結果であることが多い)。霊的な……という意味も入ってくると、どうにもうさん臭さを感じたりもする。ただ、この三つの生き方を提示している本というか、その記事において言わんとすることは、何となく分かる。それは、「ライフワーク」に関する部分である。以下に少し引用する。
(ライフワークとは)必ずしもそれは職業で表されるわけではありません。あなたがそれをやっているだけでワクワクできたり、楽しくなったりするような活動です。それが、ライフワークだと考えてください。ライフワークとは、あなたがそれをやっているだけで深い満足感を得たり、自由な感じがしたりする活動です。自由に自分の才能を分かち合えたら、それだけでやめられないような楽しい感覚を持つことになります。――ライフワークを始めようそう。これである。僕が今、一番重要視していること、探さなければいけないと思っているのはこの、ライフワークなるものである。
先日僕は、「生きる意味がないなら、結婚して子どもをつくって育てればよいのだ」という意見を聞いた。
「やっぱり……そうなのかなぁ、究極、人間だって生物なのだから、子孫繁栄が第一命題なのかなぁ」と思った。
そうなのかもしれない。
でも、僕の、ワクワクして、それをやってるだけで満足感がえられて、自由な感じがする活動ってのは、本当にそれなのだろうか。
次回、ライフワークを探すために今後していくべきことについて考えるとする。
(かっこ書きである。いつも普段の記事は、ゼロ秒思考で……それって思考っていうの? というほどに、指が自動筆記している。今回の連載記事は、非常に考えている。ものすごい時間を要している。その割に推敲の時間はほとんどないのであるが……。)
今日の一言「保存版にしたい」「とても長くなりそうなのと、一度で書ききる体力精神力がないため、連載記事とする」
文章は、読む人の対象をはっきりさせる必要がある。導入が重要だ。
まず、生きる意味とは、大きく3つに分けられる。
1.宇宙規模の生きる意味
2.人類規模の生きる意味
3.個人としての生きる意味
生きる意味、生きがいといったキーワードで調べると、「生きる意味がある」だとか「ない」だとか、様々な主張を読むことができる。
しかし、それらを読むときには、その書き手が、上の三つの、どのレベルで書いているのかを把握する必要がある。そうしなければ、分かったような気にはなるが――基本、読めば、それなりに納得感は与えてくれるものが多いのだ――、結局、それをどう自分に生かしていいのかが分からなくなる。
僕のこれまでの記事は、基本的に「3.個人としての生きる意味」である。これは言い換えれば、「実存の問題」である。
そのため、今回の記事としては、「生きる意味」の定義を「3.」に限定した上で書いていく。
さて、僕は、生きる意味があるとか、ないとか、その問題の立て方自体に、意味がないと思っている。
逆に、数ある生きる意味に関する主張において、「ある」立場でも、「ない」立場でも共通していることが見受けられるのだ。
それは、「結局は、自分で考えて見つけましょうね」ということである。
――と書くと、「ない」立場の人たちの主張の中で、「暇があると余計なことを考えるようになるから、暇をつくらないようにして、そんな問題を考えることからさっさと逃げる」ことを推奨する人たちはどうなのだ? と思われるだろう(考えることを否定しているという意味で、「自分で考えましょう」とは言っていないのではないか?)。
その主張の代表的なのを見つけたので、メモしておく。
しかし、それを納得したとしても、次に立ち向かうべきは、「どう生きるべきか」という問題となる。そうしたとき、まわりまわって結局、「考えること」自体からは逃れられなくなる、というのが僕の主張である。
人間は、考える生き物である。
ホワイトカラーだろうがブルーカラーだろうが、主婦だろうが主夫だろうが、考えることからは逃れられない。
それは、資本主義社会になってしまったからかもしれない。民主主義になってしまったからかもしれない。ただ、狩猟採集生活をしていたころの人類だって、太陽の沈む方向から方角を捉えたかもしれないし、よく木の実が生い茂る土地を覚えたかもしれないし、猛獣と戦う・逃げるための方法を考えたかもしれない。疑いえないことは、人類が考える生き物だったから、現代社会のように発展してきたのである。
もちろん、上の「生きる意味には蓋をすべき」という考えの人たちは、別にすべての人間の思考自体を否定しているわけではないだろう。
同じ人のブログで、逆に考えることを奨励する記事も見受けられる。
別にこの方のブログがどうこうではないが、僕が基本的に、「生きる意味を考えても仕方がないから暇を作らず忙しく毎日を生きようぜ!」という主張に共感も実践する気もなれない理由はここにある。
繰り返しになるが、「考えること」からは逃れられないのである。
僕の立場をまとめよう。
・生きる意味があるだとかないだとか、それ自体は問題ではない
・問題は、どちらにせよ、考えることからは逃れられないことである
補足というか蛇足かもしれないが、僕は、10代前半ぐらいのときから「生きる意味」を考え始め、20代前半ぐらいのときから、その、「毎日を積極的に肯定して今が大切だとして忙しく目の前のことに打ち込んでいく」ということを実践していった。
30代となった今。結果として、結局「虚無」との戦いは終わっていない。
ただ、僕はその先、もう一歩を考えたい。
その役に立つ考え方が示すのは、「リア充」になることである。または、「自分の欲望を満たし続ける」ことである。もしくは、「自分の感性や感覚を追求する」ことである。
僕が問題にしているのは、その「あるべき理想の姿」である。
ここでいう理想とは、人類社会における理想像などではなく、あくまで、実存として(個人として)のものだ。
それを求める場合、構築する場合、結局「考える」ことからは逃れられず、そして何より、その「理想」求め構築するためには、立ち戻って、己の「生きる意味」というものと、向き合わなければならないと思うのである。
それは、坐禅や瞑想のように、「思考」を手放すための方法を取る場合においても避けられない。
坐禅とは、道元禅師いわく、「修証一如(しゅしょういちにょ)」――即ち、悟りにいたる手段ではなく、それ自体が悟りなのであるのだが、そこに至る生活を決断するというところに、「考える」ことが必要であるのだ(もっとも、それは最後の「考える」になるかもしれないが)。
この考え方、この感じ方に至っている理由は、僕は「幸せ」という言葉の定義を、「理想と現実の乖離」として捉えているからである(この辺りは何度も書いているので、あとで参考記事のリンクでも貼るか)。
この幸せ追求のモデルが誤りであるのだとすれば、その「理想の姿」を求めること自体を改めなければいけないかもしれない。ただ、ここはかなり強固な部分であるため、変更するのは難しい気がしている(自分の中で)。
(いやそもそも、「幸せ」を追求すること自体が正しいのかどうか、ということは結論に至れていないが)
これについては、なおも納得いかない人も多いだろう。「今が幸せなら、何故わざわざ生きる意味など再び考える必要が発生するのか」と。それはその通りである。――が、これも一般論で言われるところであるが、「幸せばかりの人生など存在しない」ということだ。人生山ありゃ谷もある。楽ありゃ苦もあるさ、と。その人生の波が、正常点(鬱状態。正常でいられないほど苦しい状態。人によって異なる)より高い位置で上下運動する分には問題ないだろう。しかし、その波が突如として、正常点を下回るような状態に陥った時……それでも「生きる」ということを選択することができるかどうか。
話が進まなくなるので、ここで、逆に「生きる意味はある」とする考え方について整理していく。
ここで一つ引用をする。
一つは、役割ベースの生き方。
二つは、モチベーションベースの生き方。
三つは、インスピレーションベースの生き方。
それぞれについて、以下、僕が勝手に解説しよう。ちゃんと知りたい方は上のリンク先をどうぞ。
役割ベースの生き方とは、何かに所属し、そこから与えられる「使命」に対して必死になる生き方のことである。
生きる意味がないとする主張の多くは、この役割ベースの生き方を目指させるものにあるように思う。「今を生きよ」とか「目の前のことに集中するのだ」といった意見を見かけたり、実際に言われたことがある人もいるのではないだろうか。
いきなりだけれども、僕はこの次元の生き方を否定する。
いやもちろん、「生きる意味とは……」などと考えたこともない人は、ぜひ一生考えることもなくそのまま生き切っていただきたい。ただ、一度でも、自分の存在意義に、少しでも疑問を抱いたことがある人なら……実存的問いを立てたことがある人ならば、この役割ベースの生き方は非常に脆く儚いものであると知っておいてもよい。
もちろん、それが脆く儚く潰えてしまわないように、さらなる役割を求めて、必死に生きていくありかたも、それまた人間として美しいだろう。
――ただ、「やりがい搾取」とか、人の善意を食い物にしようとする魑魅魍魎も存在することは触れておく。もう一つ、ぱったり、ぽっきり、「挫折」という問題が生じる可能性にも触れておく。これは何も若い人に限ったことではない。中高年鬱とか、熟年離婚とか、定年退職後に急激に老けてしまうとか、問題が発生する可能性は、そこら中に転がっているのである。
これが、役割ベースの生き方の危険性だ。
つまり、「役割」なるものが、外部から与えられる仕組みになっていることが問題であるといえるのである。
学生時代は、勉強なり、部活なり、恋愛なり、友人関係なり、大変だったかもしれない。しかしそれでも、単位をとって進級するだとか、入試を突破するだとか、就職活動するだとか、一応目安となる「役割」は与えられていた。
さぁいざ「大人」になったら? 会社が仕事という役割を与えてくれる? 愚かしい考えだ。与えられた事をこなすことは仕事ではない、作業だ。仕事とは、利益(物・サービス)を生み出す仕組みを作り上げることである。
マニュアル人間なんていらない、という言葉も聞いたことがあるだろう。主体的に動ける人材が必要だと。
主婦(主夫)になれば、良き夫、良き妻になるという役割が与えられる? 否。何につけても従順であるだけの関係は長続きしないとされている。マグロなセックスは飽きるとか……ちょっと違うか。
まぁ、例証が中途半端だから、上の内容は批判満載だろうが、そもそも役割ベースの生き方にあまり興味がないため、適当で構わないと思っている。
言いたいこととしては、結局、大人になったら、自ら役割を選択していく必要があるということだ。
そして、それこそが次の、「モチベーションベースの生き方」ということになる。
――次回へと続く。
(かっこ書きである。だいたいここまでで5000字。なんだか、昨今、無気力感・虚無感が強い。ヘルプミーである(軽いな)。具合がよくないのによく書けるなとも思うが、いやむしろ逆なのだ。書くことしかできないのだ。なんとか、部屋と風呂掃除はしたが……。もう思い切って、PSVITA買って、シュタインズ・ゲートのシリーズやろうかとも思い始めてきた。たぶん、新しいとか面白いゲームしてるときは、ある程度気分がまぎれるのである。オンラインゲームとか、シムシティシリーズとか、三国志シリーズとか、GTA5とか、それはもう時間が膨大に必要なので、気を紛らわすにはとても有効なのである。しかし、ゲームはやっぱり、小説書いたり作曲するのとは違って、消費だと思う。もちろん、物語のインスピレーションを得る意味でインプットとして有効な面はあるけれども、アクションやシミュレーションゲームはそれ自体が意味になっていて、……いやそれはそれでストーリーはあるのだろうが、その大半が「作業」であるため、消費の側面が強いと思うのだ。……ま、それはそれで、ありだろうとは思っている。中学生時代もずいぶん人生つまんねーなーと思っており、そんな中、楽しいゲームとかはあったから、「もういっそ楽しくゲームを送ることを人生の第一目標にしよう。そのためにちゃんと勉強もして高校にもいってお金を稼げるようになろう」とも思ったものだった。逆にその目標のため、ゲームを一切段ボールに詰め封印したり。そういう生き方だって悪くないと思う。が、しかし、それはそれで、そうやって生きると、自分自身で決めたいというだけなのである……かっこ書きも長いな。ええと、次の記事は明日の12時から17時に投稿する)
導入・定義
生きる意味を徹底して考えたいと思う。文章は、読む人の対象をはっきりさせる必要がある。導入が重要だ。
まず、生きる意味とは、大きく3つに分けられる。
1.宇宙規模の生きる意味
2.人類規模の生きる意味
3.個人としての生きる意味
生きる意味、生きがいといったキーワードで調べると、「生きる意味がある」だとか「ない」だとか、様々な主張を読むことができる。
しかし、それらを読むときには、その書き手が、上の三つの、どのレベルで書いているのかを把握する必要がある。そうしなければ、分かったような気にはなるが――基本、読めば、それなりに納得感は与えてくれるものが多いのだ――、結局、それをどう自分に生かしていいのかが分からなくなる。
僕のこれまでの記事は、基本的に「3.個人としての生きる意味」である。これは言い換えれば、「実存の問題」である。
そのため、今回の記事としては、「生きる意味」の定義を「3.」に限定した上で書いていく。
実存問題
はじめに、自分の現在の立場を明らかにする。さもないと、この記事の終着点、「結局何がいいたいの? どっちなの?」が分からなくなる。かといって、ここで書く立場が、永劫不変完璧なものであるという根拠も自信もない。むしろ、それを確固たるものにしたいというのが、日々書いてきている理由の一つでもあるのだ。さて、僕は、生きる意味があるとか、ないとか、その問題の立て方自体に、意味がないと思っている。
逆に、数ある生きる意味に関する主張において、「ある」立場でも、「ない」立場でも共通していることが見受けられるのだ。
それは、「結局は、自分で考えて見つけましょうね」ということである。
――と書くと、「ない」立場の人たちの主張の中で、「暇があると余計なことを考えるようになるから、暇をつくらないようにして、そんな問題を考えることからさっさと逃げる」ことを推奨する人たちはどうなのだ? と思われるだろう(考えることを否定しているという意味で、「自分で考えましょう」とは言っていないのではないか?)。
その主張の代表的なのを見つけたので、メモしておく。
――誰も彼も「生きる意味」には「蓋」をすることでしか対処できない否定はしない。むしろ、僕もこうあるべきではないかと、内心思っている。
この問題はそもそも向き合うことが間違っている問題なのです。だって答えが無いんですよ。唯一の生活は「死なないため」だけなんですから。だから、せめて苦しくならない正解としては「そもそも考えない」「そんな問題からはさっさと逃げる」こんなの人類の永遠のテーマですよ。神が罰を下したとか死を迎え転生するための修行だとか。はい、もうとっくにずーっと前の偉い哲学者とかが向き合った命題です。考えるよりそちらの方々の本を読んだほうが早い。
しかし、それを納得したとしても、次に立ち向かうべきは、「どう生きるべきか」という問題となる。そうしたとき、まわりまわって結局、「考えること」自体からは逃れられなくなる、というのが僕の主張である。
人間は、考える生き物である。
ホワイトカラーだろうがブルーカラーだろうが、主婦だろうが主夫だろうが、考えることからは逃れられない。
それは、資本主義社会になってしまったからかもしれない。民主主義になってしまったからかもしれない。ただ、狩猟採集生活をしていたころの人類だって、太陽の沈む方向から方角を捉えたかもしれないし、よく木の実が生い茂る土地を覚えたかもしれないし、猛獣と戦う・逃げるための方法を考えたかもしれない。疑いえないことは、人類が考える生き物だったから、現代社会のように発展してきたのである。
もちろん、上の「生きる意味には蓋をすべき」という考えの人たちは、別にすべての人間の思考自体を否定しているわけではないだろう。
同じ人のブログで、逆に考えることを奨励する記事も見受けられる。
鬱になったときに、どうしたらよいのかという方策を述べているものである。「死ぬ気で怠けることを考え抜く」べきとある。――忙しくなるな忙しさは精神の安定を奪います。死ぬ気で怠ける方法を考え抜くことが何より大切です。生ぬるくのらりくらりショートカットする方法ばかり模索しないで、死ぬ気でショートカットを見つけて下さい。そしてとにかく自分の時間を沢山手に入れる方法を模索してください。とにかく忙しさは人の思考力を縮小させてしまいます。貴方を鬱にしているのは忙しさです。忙しさを美徳とする奴は絶対的な悪です。悪の権化です。死ぬ気で怠ける方法を模索してください。
別にこの方のブログがどうこうではないが、僕が基本的に、「生きる意味を考えても仕方がないから暇を作らず忙しく毎日を生きようぜ!」という主張に共感も実践する気もなれない理由はここにある。
繰り返しになるが、「考えること」からは逃れられないのである。
僕の立場をまとめよう。
・生きる意味があるだとかないだとか、それ自体は問題ではない
・問題は、どちらにせよ、考えることからは逃れられないことである
補足というか蛇足かもしれないが、僕は、10代前半ぐらいのときから「生きる意味」を考え始め、20代前半ぐらいのときから、その、「毎日を積極的に肯定して今が大切だとして忙しく目の前のことに打ち込んでいく」ということを実践していった。
30代となった今。結果として、結局「虚無」との戦いは終わっていない。
日々を忙しく生きることとは
しかし、その「生きる意味など考えてはいけない」という主張には、強烈に惹きつけられるものがある。ある友人がいっていたが、「その考え方はとても役に立つ」のである。だから僕も、決して悪いものではないと思っている。ただ、僕はその先、もう一歩を考えたい。
その役に立つ考え方が示すのは、「リア充」になることである。または、「自分の欲望を満たし続ける」ことである。もしくは、「自分の感性や感覚を追求する」ことである。
僕が問題にしているのは、その「あるべき理想の姿」である。
ここでいう理想とは、人類社会における理想像などではなく、あくまで、実存として(個人として)のものだ。
それを求める場合、構築する場合、結局「考える」ことからは逃れられず、そして何より、その「理想」求め構築するためには、立ち戻って、己の「生きる意味」というものと、向き合わなければならないと思うのである。
それは、坐禅や瞑想のように、「思考」を手放すための方法を取る場合においても避けられない。
坐禅とは、道元禅師いわく、「修証一如(しゅしょういちにょ)」――即ち、悟りにいたる手段ではなく、それ自体が悟りなのであるのだが、そこに至る生活を決断するというところに、「考える」ことが必要であるのだ(もっとも、それは最後の「考える」になるかもしれないが)。
この考え方、この感じ方に至っている理由は、僕は「幸せ」という言葉の定義を、「理想と現実の乖離」として捉えているからである(この辺りは何度も書いているので、あとで参考記事のリンクでも貼るか)。
この幸せ追求のモデルが誤りであるのだとすれば、その「理想の姿」を求めること自体を改めなければいけないかもしれない。ただ、ここはかなり強固な部分であるため、変更するのは難しい気がしている(自分の中で)。
(いやそもそも、「幸せ」を追求すること自体が正しいのかどうか、ということは結論に至れていないが)
生きる意味があるとしたとき
生きる意味がないとしても、結局考えることからは逃れられず、幸せだとか、充実した生き方を目指すときに再度生きる意味を考える必要が発生するということを書いてきた。これについては、なおも納得いかない人も多いだろう。「今が幸せなら、何故わざわざ生きる意味など再び考える必要が発生するのか」と。それはその通りである。――が、これも一般論で言われるところであるが、「幸せばかりの人生など存在しない」ということだ。人生山ありゃ谷もある。楽ありゃ苦もあるさ、と。その人生の波が、正常点(鬱状態。正常でいられないほど苦しい状態。人によって異なる)より高い位置で上下運動する分には問題ないだろう。しかし、その波が突如として、正常点を下回るような状態に陥った時……それでも「生きる」ということを選択することができるかどうか。
話が進まなくなるので、ここで、逆に「生きる意味はある」とする考え方について整理していく。
ここで一つ引用をする。
――人生の目的は、自分らしく生き、人とつながること上の記事で提示されていた人生の意味には、三つあるとされている。豊かな人生とは「自分の大好きな人と、大好きな場所で、自由に時間を過ごすこと」です。これ以上のぜいたくを私は知りません。これは多額の費用もかかりませんし、何か才能がないとダメだということもありません。いまの私にとって、ファーストクラスで世界一周旅行することよりも、家族で河原を散歩することのほうがよほど豊かな体験です。そのためには「自分が誰か」を思い出すことです。自分が何をやりたいのか、何をやると幸せなのかを知ることです。そのためには、目の前の選択肢の中でいちばんワクワクすることを選び、大好きなことを毎日やることです。それがきっと、あなたが生まれてきた目的につながっていきます。
一つは、役割ベースの生き方。
二つは、モチベーションベースの生き方。
三つは、インスピレーションベースの生き方。
それぞれについて、以下、僕が勝手に解説しよう。ちゃんと知りたい方は上のリンク先をどうぞ。
役割ベースの生き方
親として、学生として、部下として、夫として、ボランティア団体の一員として……。役割ベースの生き方とは、何かに所属し、そこから与えられる「使命」に対して必死になる生き方のことである。
生きる意味がないとする主張の多くは、この役割ベースの生き方を目指させるものにあるように思う。「今を生きよ」とか「目の前のことに集中するのだ」といった意見を見かけたり、実際に言われたことがある人もいるのではないだろうか。
いきなりだけれども、僕はこの次元の生き方を否定する。
いやもちろん、「生きる意味とは……」などと考えたこともない人は、ぜひ一生考えることもなくそのまま生き切っていただきたい。ただ、一度でも、自分の存在意義に、少しでも疑問を抱いたことがある人なら……実存的問いを立てたことがある人ならば、この役割ベースの生き方は非常に脆く儚いものであると知っておいてもよい。
もちろん、それが脆く儚く潰えてしまわないように、さらなる役割を求めて、必死に生きていくありかたも、それまた人間として美しいだろう。
――ただ、「やりがい搾取」とか、人の善意を食い物にしようとする魑魅魍魎も存在することは触れておく。もう一つ、ぱったり、ぽっきり、「挫折」という問題が生じる可能性にも触れておく。これは何も若い人に限ったことではない。中高年鬱とか、熟年離婚とか、定年退職後に急激に老けてしまうとか、問題が発生する可能性は、そこら中に転がっているのである。
これが、役割ベースの生き方の危険性だ。
つまり、「役割」なるものが、外部から与えられる仕組みになっていることが問題であるといえるのである。
学生時代は、勉強なり、部活なり、恋愛なり、友人関係なり、大変だったかもしれない。しかしそれでも、単位をとって進級するだとか、入試を突破するだとか、就職活動するだとか、一応目安となる「役割」は与えられていた。
さぁいざ「大人」になったら? 会社が仕事という役割を与えてくれる? 愚かしい考えだ。与えられた事をこなすことは仕事ではない、作業だ。仕事とは、利益(物・サービス)を生み出す仕組みを作り上げることである。
マニュアル人間なんていらない、という言葉も聞いたことがあるだろう。主体的に動ける人材が必要だと。
主婦(主夫)になれば、良き夫、良き妻になるという役割が与えられる? 否。何につけても従順であるだけの関係は長続きしないとされている。マグロなセックスは飽きるとか……ちょっと違うか。
まぁ、例証が中途半端だから、上の内容は批判満載だろうが、そもそも役割ベースの生き方にあまり興味がないため、適当で構わないと思っている。
言いたいこととしては、結局、大人になったら、自ら役割を選択していく必要があるということだ。
そして、それこそが次の、「モチベーションベースの生き方」ということになる。
――次回へと続く。
(かっこ書きである。だいたいここまでで5000字。なんだか、昨今、無気力感・虚無感が強い。ヘルプミーである(軽いな)。具合がよくないのによく書けるなとも思うが、いやむしろ逆なのだ。書くことしかできないのだ。なんとか、部屋と風呂掃除はしたが……。もう思い切って、PSVITA買って、シュタインズ・ゲートのシリーズやろうかとも思い始めてきた。たぶん、新しいとか面白いゲームしてるときは、ある程度気分がまぎれるのである。オンラインゲームとか、シムシティシリーズとか、三国志シリーズとか、GTA5とか、それはもう時間が膨大に必要なので、気を紛らわすにはとても有効なのである。しかし、ゲームはやっぱり、小説書いたり作曲するのとは違って、消費だと思う。もちろん、物語のインスピレーションを得る意味でインプットとして有効な面はあるけれども、アクションやシミュレーションゲームはそれ自体が意味になっていて、……いやそれはそれでストーリーはあるのだろうが、その大半が「作業」であるため、消費の側面が強いと思うのだ。……ま、それはそれで、ありだろうとは思っている。中学生時代もずいぶん人生つまんねーなーと思っており、そんな中、楽しいゲームとかはあったから、「もういっそ楽しくゲームを送ることを人生の第一目標にしよう。そのためにちゃんと勉強もして高校にもいってお金を稼げるようになろう」とも思ったものだった。逆にその目標のため、ゲームを一切段ボールに詰め封印したり。そういう生き方だって悪くないと思う。が、しかし、それはそれで、そうやって生きると、自分自身で決めたいというだけなのである……かっこ書きも長いな。ええと、次の記事は明日の12時から17時に投稿する)
今日の一言「睡眠と書くこと、優先順位の判断が難しい」

しかし、短くても、書かなければならない。そうしないと、多分眠れなくなる。そうしたら、浮かんだ思考は疲れ果てるまで書き出してしまった方がよい。
あるブログさんで推奨されていたので、前から気になっていたのであるが、試しにやってみたら、確かになんだかよい効果がありそうだった。
しかし、まだ具体的には書かない。結局続けられなかったら恥ずかしいからだ。
一週間程度継続できたら、ブログ横のカウントアップカウンターに追加しよう。
そういや、筋トレは全く休まず、340日近く続けられてきた(免除規定該当の場合は除く)が、音読のルーチンは、最近、結構できていないときもある気がする。PDCAサイクルで、そろそろチェック・アクション(=見直し)が必要だろう。
音読は、気力的にきつい日が多いけれども、効果がある(具体的明確には書けない。ただ、自分の声を録音して聞くというのは、自分の言動がどのように他者に伝わるのか客観的に感じられるので、面白いと思っている。)のは確かなので、免除既定の見直しを含めて再度検討したい。
こんなの作り始めて挫折中。
参考になる情報がないか探しても、いまいちぴんとくるのがない。
――30代が陥りやすい失敗パターン5
検索で出てくるのは、上のようなもの。この中で、「4.結婚しないこと・子供を持たないこと」というのが、人生の失敗要因として挙げられている。
理由は、明確に否定すべきものがない。しかし、絶対にそうかと言い切れるだけの根拠もない。ただ、昔の人たち、えらい人たちの経験則のようなものであろう。
この経験則というのがやっかいなものである。
世代間や異種文化間の争いがなくならない要因でもある。「わたしはこう思う」ということについて、「いや違う」とは、原理上いえないのだ。客観的に「それは間違っている」ということはあるかもしれない。ただし、「わたしはこう思う」ということが、嘘だったということにはならない。その人は、「そう思った」のである。
結婚するしない、という問題。――それだけではないが、これも一切結論が出る見込みがない。「年取ったとき伴侶がいないと寂しいでしょ」というのも可能性としてあるし、一方、「結婚したことによって不幸になる人もいる」というのも一つの可能性としてはありえる。
どう生きるか。
この問題は、限りなく、判断の連続なのである。
――このことが、年を取った人たちが、「頑な」である原因でもある。長く生きた人は、それだけたくさんの判断をしてきたのだ。それがたとえ、若い人たちからみたら、おかしな判断だったとしても、それを認めてしまうこと、自分の判断の誤りを認めるということは、すなわち、自分の人生が誤りだったというようなものなのだ。
だから、「言い訳」として、「私たちの時代はこうだった」というのである。もしくは、そのときの諸条件・環境を理由として挙げるのである。
正直なところ、他の誰がどんな生き方をしようが、それに対してどうこういうのではない。願わくば、路上で喫煙をするような人には消えていただきたいと思うわけではあるが、基本、他者に迷惑をかけなければよいと思う――という言い回しも好きではないのだが。「迷惑」は、生きていれば多かれ少なかれ必要である。もっと視野を広げれば、他の生命を奪うことでしか人も、その他の生命(植物は除く、か?)も生きられない。
ので、このあたりの話しはあまり置いておいて、――僕は、言い訳が好きではない。
主張、であればよいのであるが、自己保存のためだけの正当化はしたくないと思う。言い訳は、さらなる言い訳を必要とする。言い訳をしている時間はとても愚かでもったいないと思う。
ので、僕は、「正しい判断」を常にしていきたい。
やや飛躍した表現に言い換えれば、「自己同一性の担保」をしたいということだ。
私はこういう人間だ。
だからこういう判断をする。
だからこういう感じ方をする。
だからこういう生き方をする……と。
生きていることについて、「意味」をもたせたいのである。
まず、「実感として」、おそらく、自分一人で、自己を満たすことは、不可能であろうということだ。
これも、10年前に「おそらくそうだろう」とは思っていたが、より実感に近いものになったという点で違いがある。
これについては、一般に、「人は一人では生きていけない」ということで表現されるもの。ただ、これは単に、専門家・分業化した社会として・消費と生産の経済活動により成り立つ社会として、という意味だけではなく、心理的側面も強調したい。
つまり、これもやや飛躍した表現をすれば、アカシックレコードや、瑜伽行唯識派の阿頼耶識のように、自己というものは本来的に、「遠藤」といった単一の個体で成り立つものではないという認識・実感故であるということだ。
何をそんな当たりまえ、と言われてしまいそうだが、僕の世界認識は、「関係」で成り立っていると思っている。関係とは、二つ以上の要素が相互に影響を与え合っている状態、またその条件である。
自己の中にどこまでもどこまでも沈潜していっても、結局、「自己」なるものは存在しないであろうということだ。
その自己とは、他者であったり、世界であったりと、そのつながりの中で表層している一側面でしかなかろう、ということである。
しかし、ある精神科医さんの「認められたい」(amazon-link)という本を読んだが、おそらく、多くの人には当てはまるような気もしたが、――僕も、ああそうなのかなぁと思ったが、でも、半年ぐらいして、やっぱりなんか違う気もしてきたのである。
マズローの5段階欲求は有名だけれども、所属欲求・承認欲求を、僕は本当に求めているのだろうか、ということだ。
なぜなら、ときおり、人から感謝されたり、頼りにされたり、友人と一緒に遊んだり、上司などと飲みに行ったりして、楽しかったり嬉しかったりする中で、どうにも孤独感というか、寂しさが強まっていく感じがあるからだ。
それを考えたときに、僕の場合のその「認められたい」というのは、「どれだけ人に根源的に必要とされるか」という強度が問題になっているのではないか、ということだ。
端的に言い換えると、「生きていて欲しい」と思ってくれる人がどんだけいるかということだ。
きっと、親はそう思ってくれているという実感がある。――が。
幼いころ自分をとてもかわいがってくれた祖父は亡くなり、祖母は認知症を患い僕のことを忘れてしまった。
友人は、きっと僕が死んだら哀しんでくれる人が何人かはいるだろうが、しかし、僕がいなければ生きていけない人がいるかというと、いない。
仕事でもそうだ。確かに、今、とても重要な仕事を任せてもらい、現場の責任者的な立ち位置で仕事を割り振ったりもしている。僕がいなくなったら、困る人はいるだろう。
が、じゃあ、絶対僕じゃなきゃいけないのかというと、違う。一時的には混乱するかもしれないし、納期が遅くなったり品質が低くなったりするかもしれないけれども、まぁしばらくしたら何とかなるだろう。
そんなこと言ったら、絶対必要な人なんて、何人いるのだろうか? いや、僕はいないと思っている。
いやむしろ、いなくていいと思っている。昔、偉い人がなくなったら、一緒に奴隷が埋められた時代もあった。殉死という言葉もあった。でもそれは、もう時代に合わないものだと思う。逆に、認めていいものではないと思う。個人主義の弊害などいくら言われようが、それは過去――やや極端だが全体主義などに比べて、悪いことではないと思う。
それでも。
だからといって、人の一人一人の価値が損なわれているとかそんなことではない。
あいもかわらず、愛というのは美しいし、親は子どもを愛するし、子どもは親を愛する。
恋人同士は永遠の愛を信じ、身体を重ねて一つになる。
それらの行為を、人間の営みを、どうして否定できるというのか。
できるはずがない。そう、人は、生きているだけでとても素晴らしいものなのだ!
――と、なかなか思えない、という苦悩である。
そして、ここから先が重要なのだが……もう寝よう。
(かっこ書きである。というわけで、子どもをつくろうかと思う――となると唐突過ぎる。そして、そんな自分の何だか欲求を満たすために子どもを育ててみようとか、そんなん理由としてありなの? とも思う。いやというよりも、そもそも、僕自身が心底それに憧れているかもよく分からないし、納得できていない。――そもそも、贅沢な悩みである。昔は、男子たるもの、元気な子を生み育てて、お家を守ることが大事なことだった。いまは、結婚しなくてもいいんじゃん? 子どもがいなくてもいいんじゃん? みたいな価値観も「あり」だといわれる。本当にみんなそう思っているかは別として。まぁとにかく、それはそれとして、先日、いつの日か書いたように、まずは、今の自分として納得できる最大の作品を仕上げたいとは思う。子どもの話と何がどう繋がるのか! 大いに繋がるのである。けれども、もう今日は終わりにしよう――ただ、つまり、言い訳などしたくなくて、最大全力を出し切りたいということだ。中途半端に、ライフワークにしようとか、そんなん寝言は寝ていえ、である)
24時を過ぎても書かなければならない
22時過ぎ帰宅。もろもろ作業をし、23時45分。こっから書き始めたら、まぁ24時は過ぎてしまうだろう。しかし、短くても、書かなければならない。そうしないと、多分眠れなくなる。そうしたら、浮かんだ思考は疲れ果てるまで書き出してしまった方がよい。
新しいルーチンの追加
運動系のルーチン、日課に、一つ追加してみたいものが生じた。あるブログさんで推奨されていたので、前から気になっていたのであるが、試しにやってみたら、確かになんだかよい効果がありそうだった。
しかし、まだ具体的には書かない。結局続けられなかったら恥ずかしいからだ。
一週間程度継続できたら、ブログ横のカウントアップカウンターに追加しよう。
そういや、筋トレは全く休まず、340日近く続けられてきた(免除規定該当の場合は除く)が、音読のルーチンは、最近、結構できていないときもある気がする。PDCAサイクルで、そろそろチェック・アクション(=見直し)が必要だろう。
音読は、気力的にきつい日が多いけれども、効果がある(具体的明確には書けない。ただ、自分の声を録音して聞くというのは、自分の言動がどのように他者に伝わるのか客観的に感じられるので、面白いと思っている。)のは確かなので、免除既定の見直しを含めて再度検討したい。
人生フローチャートの作成
こんなの作り始めて挫折中。
参考になる情報がないか探しても、いまいちぴんとくるのがない。
――30代が陥りやすい失敗パターン5
検索で出てくるのは、上のようなもの。この中で、「4.結婚しないこと・子供を持たないこと」というのが、人生の失敗要因として挙げられている。
理由は、明確に否定すべきものがない。しかし、絶対にそうかと言い切れるだけの根拠もない。ただ、昔の人たち、えらい人たちの経験則のようなものであろう。
この経験則というのがやっかいなものである。
世代間や異種文化間の争いがなくならない要因でもある。「わたしはこう思う」ということについて、「いや違う」とは、原理上いえないのだ。客観的に「それは間違っている」ということはあるかもしれない。ただし、「わたしはこう思う」ということが、嘘だったということにはならない。その人は、「そう思った」のである。
結婚するしない、という問題。――それだけではないが、これも一切結論が出る見込みがない。「年取ったとき伴侶がいないと寂しいでしょ」というのも可能性としてあるし、一方、「結婚したことによって不幸になる人もいる」というのも一つの可能性としてはありえる。
どう生きるか。
この問題は、限りなく、判断の連続なのである。
思考ループの原因
ので。タイムリープマシンがあるならばともかくとして、基本、過去に戻ることはできないので、前に進むしかないのである。で、あるならばして、その「判断」というのは、基本的に「正しかった」としていく必要がある。――このことが、年を取った人たちが、「頑な」である原因でもある。長く生きた人は、それだけたくさんの判断をしてきたのだ。それがたとえ、若い人たちからみたら、おかしな判断だったとしても、それを認めてしまうこと、自分の判断の誤りを認めるということは、すなわち、自分の人生が誤りだったというようなものなのだ。
だから、「言い訳」として、「私たちの時代はこうだった」というのである。もしくは、そのときの諸条件・環境を理由として挙げるのである。
正直なところ、他の誰がどんな生き方をしようが、それに対してどうこういうのではない。願わくば、路上で喫煙をするような人には消えていただきたいと思うわけではあるが、基本、他者に迷惑をかけなければよいと思う――という言い回しも好きではないのだが。「迷惑」は、生きていれば多かれ少なかれ必要である。もっと視野を広げれば、他の生命を奪うことでしか人も、その他の生命(植物は除く、か?)も生きられない。
ので、このあたりの話しはあまり置いておいて、――僕は、言い訳が好きではない。
主張、であればよいのであるが、自己保存のためだけの正当化はしたくないと思う。言い訳は、さらなる言い訳を必要とする。言い訳をしている時間はとても愚かでもったいないと思う。
ので、僕は、「正しい判断」を常にしていきたい。
やや飛躍した表現に言い換えれば、「自己同一性の担保」をしたいということだ。
私はこういう人間だ。
だからこういう判断をする。
だからこういう感じ方をする。
だからこういう生き方をする……と。
生きていることについて、「意味」をもたせたいのである。
人の中で生きること
こういった表現は、おそらく、10年前もできていた。問題は、ここからだ。まず、「実感として」、おそらく、自分一人で、自己を満たすことは、不可能であろうということだ。
これも、10年前に「おそらくそうだろう」とは思っていたが、より実感に近いものになったという点で違いがある。
これについては、一般に、「人は一人では生きていけない」ということで表現されるもの。ただ、これは単に、専門家・分業化した社会として・消費と生産の経済活動により成り立つ社会として、という意味だけではなく、心理的側面も強調したい。
つまり、これもやや飛躍した表現をすれば、アカシックレコードや、瑜伽行唯識派の阿頼耶識のように、自己というものは本来的に、「遠藤」といった単一の個体で成り立つものではないという認識・実感故であるということだ。
何をそんな当たりまえ、と言われてしまいそうだが、僕の世界認識は、「関係」で成り立っていると思っている。関係とは、二つ以上の要素が相互に影響を与え合っている状態、またその条件である。
自己の中にどこまでもどこまでも沈潜していっても、結局、「自己」なるものは存在しないであろうということだ。
その自己とは、他者であったり、世界であったりと、そのつながりの中で表層している一側面でしかなかろう、ということである。
承認欲求
という認識のうえで、であれば、やはり「認められたい」という思いを満たす必要があるのだろうということである。しかし、ある精神科医さんの「認められたい」(amazon-link)という本を読んだが、おそらく、多くの人には当てはまるような気もしたが、――僕も、ああそうなのかなぁと思ったが、でも、半年ぐらいして、やっぱりなんか違う気もしてきたのである。
マズローの5段階欲求は有名だけれども、所属欲求・承認欲求を、僕は本当に求めているのだろうか、ということだ。
なぜなら、ときおり、人から感謝されたり、頼りにされたり、友人と一緒に遊んだり、上司などと飲みに行ったりして、楽しかったり嬉しかったりする中で、どうにも孤独感というか、寂しさが強まっていく感じがあるからだ。
それを考えたときに、僕の場合のその「認められたい」というのは、「どれだけ人に根源的に必要とされるか」という強度が問題になっているのではないか、ということだ。
端的に言い換えると、「生きていて欲しい」と思ってくれる人がどんだけいるかということだ。
きっと、親はそう思ってくれているという実感がある。――が。
幼いころ自分をとてもかわいがってくれた祖父は亡くなり、祖母は認知症を患い僕のことを忘れてしまった。
友人は、きっと僕が死んだら哀しんでくれる人が何人かはいるだろうが、しかし、僕がいなければ生きていけない人がいるかというと、いない。
仕事でもそうだ。確かに、今、とても重要な仕事を任せてもらい、現場の責任者的な立ち位置で仕事を割り振ったりもしている。僕がいなくなったら、困る人はいるだろう。
が、じゃあ、絶対僕じゃなきゃいけないのかというと、違う。一時的には混乱するかもしれないし、納期が遅くなったり品質が低くなったりするかもしれないけれども、まぁしばらくしたら何とかなるだろう。
絶対必要な人
そんなん。そんなこと言ったら、絶対必要な人なんて、何人いるのだろうか? いや、僕はいないと思っている。
いやむしろ、いなくていいと思っている。昔、偉い人がなくなったら、一緒に奴隷が埋められた時代もあった。殉死という言葉もあった。でもそれは、もう時代に合わないものだと思う。逆に、認めていいものではないと思う。個人主義の弊害などいくら言われようが、それは過去――やや極端だが全体主義などに比べて、悪いことではないと思う。
それでも。
だからといって、人の一人一人の価値が損なわれているとかそんなことではない。
あいもかわらず、愛というのは美しいし、親は子どもを愛するし、子どもは親を愛する。
恋人同士は永遠の愛を信じ、身体を重ねて一つになる。
それらの行為を、人間の営みを、どうして否定できるというのか。
できるはずがない。そう、人は、生きているだけでとても素晴らしいものなのだ!
――と、なかなか思えない、という苦悩である。
そして、ここから先が重要なのだが……もう寝よう。
(かっこ書きである。というわけで、子どもをつくろうかと思う――となると唐突過ぎる。そして、そんな自分の何だか欲求を満たすために子どもを育ててみようとか、そんなん理由としてありなの? とも思う。いやというよりも、そもそも、僕自身が心底それに憧れているかもよく分からないし、納得できていない。――そもそも、贅沢な悩みである。昔は、男子たるもの、元気な子を生み育てて、お家を守ることが大事なことだった。いまは、結婚しなくてもいいんじゃん? 子どもがいなくてもいいんじゃん? みたいな価値観も「あり」だといわれる。本当にみんなそう思っているかは別として。まぁとにかく、それはそれとして、先日、いつの日か書いたように、まずは、今の自分として納得できる最大の作品を仕上げたいとは思う。子どもの話と何がどう繋がるのか! 大いに繋がるのである。けれども、もう今日は終わりにしよう――ただ、つまり、言い訳などしたくなくて、最大全力を出し切りたいということだ。中途半端に、ライフワークにしようとか、そんなん寝言は寝ていえ、である)
今日の一言「結局耐えられずに見る」
※グラフの文字数は多いけれども、全然「表現」になっていないから、今後減っていくだろう。
これはアマプラで見れなかったので、レンタル屋さんで借りたものである。
感想。面白かった(小学生並み感想)。
なんか、『涼宮ハルヒの消失』(映画)がなんとなく思い浮かんだ。あれも面白かった。
(なんか、微妙に伏線? というか描写の説明が結局なされない点がいくつかあったけれども、まぁ些末事である)(1.空港および公園にいたのは誰なのか? 2.BBQ後に助手を介抱した後の時間経過はどうなっていたのか? 3.サイクリングの描写は何の意味が? 4.助手はなぜ2005年が結節点となる時代だと知っていたのか? 5.シュタインズ・ゲート世界線において、鈴羽は何故そもそもオカリンの存在を観測できていたのか?→あ、これは書いていて気付いた。助手が観測したからだ)
いや、もっと率直に書けば、短かった……。
足りないよ、全然足りないよ! もっと長く、もっと深く見たかった。時折、巻き戻しながらみるなんて、いったい俺はどうしてしまったんだ。涙が込み上げてきて一時停止とか俺は何をやっているんだ。
ただ、見終わった後に、虚脱感はなかった。むしろ、元気になった。
そう、こういう作品を求めていたんだ。見終わった後に、がんばろうって、あんまり好きじゃないことばだけど、俺もやってやる、生きてやるぞって、そんな風に思えるような。
そういう意味では、間違いなく、ここ数年、5年~10年? ぐらいの間でトップクラスの作品であった。
何度か触れているが、『夜天を引き裂く』という作品も、僕に力を与えてくれた。
何が面白いんだろう? 何が僕にここまでうったえかけてくるんだろう。
一つ今の自分に書けるとしたら、選べる無数の選択の中で、それが悲劇的な結末になろうとも、自らの意志で選択していくという点ではなかろうか。
初めての優待券が届いた。また、配当金の受け取りの権利書が入っていた(配当金って、証券会社の口座に振り込まれるものだと思ったのだけれども、郵便局で受け取る方式なのか。この会社がそうなだけなのか)。
ほぼ同時に、先日切り替えたUQmobileからJCB商品券5000円分が届いた。そして、当月の請求額は、MNP(番号そのまま使える契約)切り替え料金3000円が除かれた純粋な、当月の請求額になっており、2300円ぐらいであった。安いねやっぱり。(あれ、でも、資産予測だと約2000円になるんじゃなかったっけ? 消費税分? あとで調べてみるか)
使用感としては、一か月に一回ぐらい、ネットワークがつながらなくなったりすることがある。その際は再起動すると直る。格安SIMじゃない人もそういった現象はあるとのことなので、原因はわからない。
ただ、それ以外の不便さは一切感じない。むしろ、AUのとき1GBまでだったのが、3GBまでLTE(高速通信)使えるようになったので、ニュース見るとか、好き放題使えている。
面白い作品について、ちょっと振り返ってみよう。(死に至る病とかウェルテルの悩みとかその辺の(哲学的? 文学的? なのは除く。エンタメ方向で)
攻殻機動隊、Fate、シュタインズ・ゲート、無職転生、夜天を引き裂く、EDEN……このあたりがトップクラスな気がする。
あとは、
・ガンスリンガーガール
・サイコパス
・まどかマギカ
・オルフェンズ
・フルメタルパニック
・進撃の巨人
・ドリフターズ
・空の境界
・君が望む永遠
・涼宮ハルヒの憂鬱
・イブの時間
挙げるのが難しいのは、ガンツとか、ひだまりスケッチとか。最後まで見ていないというのも一つあるけれども、なんかその、「一時的感」がある。言い換えれば、完全消費的なイメージ(「いやエンタメ全部消費だろう?」という人もいるだろうが、僕はそうは思っていない)。
けものフレンドは機会があったら全部みてみたい。ワンピースとかも読んではいるんだ、が、どうなんだ、面白いことは面白いが、あえてこう書き残しておこうという気になれない。
うーむ、クレヨンしんちゃんの映画とか、基本面白い。シリアスな場面と、おバカな場面とのマッチングが非常に参考になる気がする。ドラえもんの映画も面白いのはある。雲の上に都市をつくるはなしとかよかった。
秒速5cmとか、ストレンヂアとか、思い返せばいろいろ面白かったものはある。ディズニー映画、ピクサー映画もほとんど見ているんじゃなかろうか。トイストーリーとかウォーリーとか、ベイマックスとか好み。あ、ペルソナ4書き忘れてた。
あー、WEB漫画だと、十字道とか、ワンパンマン、妄想テレパシー、外見至上主義なんかも面白かった。ああ、書いていて思い出したが、十字道か、これは面白かったなぁ。
ジョジョ、ヘルシング、からくりサーカス、うしおととら、ジパング、ガンパレードマーチ、キノの旅、ちょびっツ、マスターキートン、…………いやこれ書ききれん。(アイアムアヒーローも、惜しかったなぁ……最後がなぁという意味で記憶には残っている)
実写映画系もまだ書いてないのが多そう。ワイルドスピードは大好き。他にも、アバター、インセプション、ダヴィンチコード、トランスフォーマーとか、ジュラシックパーク、ショーシャンクの空に、リアルスティール、ゲーム(←はアマゾンリンク。古い映画)……ネバーエンディングストーリーもいれてもいいか、悩む。
小説系、シッダールタ(ヘルマンヘッセ)はここ数年で読んでも面白かった。キャッチャーインザライ、風の歌を聴け(村上春樹)、僕は勉強ができない、あたりは高校生・大学生ぐらいに読んで面白かったが、今はどうなのか。
海を見る人(小林泰三)、「風よ。竜に届いているか」も面白かった。夢枕獏の魔獣狩りも読み始めたらこれは面白い。
やっぱり、きりがないし、方向性がバラバラな気がする。
ただ、サスペンスとかホラー系はあんまし含まれない気がする。
よくもまぁ、この現代世界は多くの作品があるのだなぁと感心する、素直に。
現代社会の、100年前、200年前と異なる点は、この創作物の多さにあるのではなかろうか。
確かに、技術革新といった面では、携帯電話、インターネットなど大きな変化があった。その結果ともいえるが、多くの作品が生み出され、そしてそれを多くの人が享受できるようになったということは、特筆に値する点に思う。
昔は、オペラにいったり、歌舞伎をみにいくぐらいしかエンタメはなかった。その題目も、新しいものが次々と生み出されるというよりも、伝統的に大切に継がれてきたのである。
今や、星の数ほど作品があふれている。
多くの作品があることを知るにつれて、僕は、「面白い作品を創りたい」という動機が、徐々に失われてきたような気がする。
ただ、「面白かった」作品は多いけれども、何が、何故、面白いのか、というのが、うまく語れない。
いやもちろん、その面白かったという感覚自体が大事なのだけれども、それを抽象化することができなければ、自分で創作することはできないだろう。
(強制かっこ書きである。長くなりそうだし、話が分断されているので一回切ろう。なんだろ、言いたかったことは、「いろいろ見てきたけど、その中でもシュタインズ・ゲートは面白かった」ということと、「いろいろ見てきた割に、何が面白いのかを語れない」のがもったいないなぁという点である。ある方は、面白さを自分の言葉で解釈し、そのエピソードを具体的に挙げ、見たことがない人にも分かりやすく伝える能力をもっている。見直して、時間をかけて書いていけばできるとは思う(「君の名は。」は、見終わった直後になんか話題性がある作品だし、喋れるようにしておこうと最初から思っていた)が、特に意識せず見終わってしまうと、「あー面白かったなぁ」という感想だけで終わってしまうのである。というか、それでもいいんじゃないかとも思う。「所詮エンタメはエンタメなんだ。日々生きている中で一瞬のカタルシス(快感・満足・癒し)を与えられたらいいんだ」って考えもあるだろう。そういう意味で、エンタメは、悉く面白くあるべきだ、ということだ。しかし、その「面白さ」とは……強制終了)
※グラフの文字数は多いけれども、全然「表現」になっていないから、今後減っていくだろう。
我慢は半日も持たなかった
欲望など自由にコントロール可能である(キリッ)とかいっておいて、これである。んじゃあ、すぐ見て元気出せばいいじゃないか、ということだが、なにせ、1時間半ぐらいしかないのである。もったいな過ぎる……。俺の寿命があと半日しかなければ、まずMAXプライオリティでみるんだけど……。シュタインズ・ゲート劇場版――負荷領域のデジャヴを視聴する。
これはアマプラで見れなかったので、レンタル屋さんで借りたものである。
感想。面白かった(小学生並み感想)。
なんか、『涼宮ハルヒの消失』(映画)がなんとなく思い浮かんだ。あれも面白かった。
(なんか、微妙に伏線? というか描写の説明が結局なされない点がいくつかあったけれども、まぁ些末事である)(1.空港および公園にいたのは誰なのか? 2.BBQ後に助手を介抱した後の時間経過はどうなっていたのか? 3.サイクリングの描写は何の意味が? 4.助手はなぜ2005年が結節点となる時代だと知っていたのか? 5.シュタインズ・ゲート世界線において、鈴羽は何故そもそもオカリンの存在を観測できていたのか?→あ、これは書いていて気付いた。助手が観測したからだ)
いや、もっと率直に書けば、短かった……。
足りないよ、全然足りないよ! もっと長く、もっと深く見たかった。時折、巻き戻しながらみるなんて、いったい俺はどうしてしまったんだ。涙が込み上げてきて一時停止とか俺は何をやっているんだ。
ただ、見終わった後に、虚脱感はなかった。むしろ、元気になった。
そう、こういう作品を求めていたんだ。見終わった後に、がんばろうって、あんまり好きじゃないことばだけど、俺もやってやる、生きてやるぞって、そんな風に思えるような。
そういう意味では、間違いなく、ここ数年、5年~10年? ぐらいの間でトップクラスの作品であった。
何度か触れているが、『夜天を引き裂く』という作品も、僕に力を与えてくれた。
何が面白いんだろう? 何が僕にここまでうったえかけてくるんだろう。
一つ今の自分に書けるとしたら、選べる無数の選択の中で、それが悲劇的な結末になろうとも、自らの意志で選択していくという点ではなかろうか。
株主優待券と格安SIM新規加入特典が届く
初めての優待券が届いた。また、配当金の受け取りの権利書が入っていた(配当金って、証券会社の口座に振り込まれるものだと思ったのだけれども、郵便局で受け取る方式なのか。この会社がそうなだけなのか)。
ほぼ同時に、先日切り替えたUQmobileからJCB商品券5000円分が届いた。そして、当月の請求額は、MNP(番号そのまま使える契約)切り替え料金3000円が除かれた純粋な、当月の請求額になっており、2300円ぐらいであった。安いねやっぱり。(あれ、でも、資産予測だと約2000円になるんじゃなかったっけ? 消費税分? あとで調べてみるか)
使用感としては、一か月に一回ぐらい、ネットワークがつながらなくなったりすることがある。その際は再起動すると直る。格安SIMじゃない人もそういった現象はあるとのことなので、原因はわからない。
ただ、それ以外の不便さは一切感じない。むしろ、AUのとき1GBまでだったのが、3GBまでLTE(高速通信)使えるようになったので、ニュース見るとか、好き放題使えている。
面白い作品について
話しは変わる。面白い作品について、ちょっと振り返ってみよう。(死に至る病とかウェルテルの悩みとかその辺の(哲学的? 文学的? なのは除く。エンタメ方向で)
攻殻機動隊、Fate、シュタインズ・ゲート、無職転生、夜天を引き裂く、EDEN……このあたりがトップクラスな気がする。
あとは、
・ガンスリンガーガール
・サイコパス
・まどかマギカ
・オルフェンズ
・フルメタルパニック
・進撃の巨人
・ドリフターズ
・空の境界
・君が望む永遠
・涼宮ハルヒの憂鬱
・イブの時間
挙げるのが難しいのは、ガンツとか、ひだまりスケッチとか。最後まで見ていないというのも一つあるけれども、なんかその、「一時的感」がある。言い換えれば、完全消費的なイメージ(「いやエンタメ全部消費だろう?」という人もいるだろうが、僕はそうは思っていない)。
けものフレンドは機会があったら全部みてみたい。ワンピースとかも読んではいるんだ、が、どうなんだ、面白いことは面白いが、あえてこう書き残しておこうという気になれない。
うーむ、クレヨンしんちゃんの映画とか、基本面白い。シリアスな場面と、おバカな場面とのマッチングが非常に参考になる気がする。ドラえもんの映画も面白いのはある。雲の上に都市をつくるはなしとかよかった。
秒速5cmとか、ストレンヂアとか、思い返せばいろいろ面白かったものはある。ディズニー映画、ピクサー映画もほとんど見ているんじゃなかろうか。トイストーリーとかウォーリーとか、ベイマックスとか好み。あ、ペルソナ4書き忘れてた。
あー、WEB漫画だと、十字道とか、ワンパンマン、妄想テレパシー、外見至上主義なんかも面白かった。ああ、書いていて思い出したが、十字道か、これは面白かったなぁ。
ジョジョ、ヘルシング、からくりサーカス、うしおととら、ジパング、ガンパレードマーチ、キノの旅、ちょびっツ、マスターキートン、…………いやこれ書ききれん。(アイアムアヒーローも、惜しかったなぁ……最後がなぁという意味で記憶には残っている)
実写映画系もまだ書いてないのが多そう。ワイルドスピードは大好き。他にも、アバター、インセプション、ダヴィンチコード、トランスフォーマーとか、ジュラシックパーク、ショーシャンクの空に、リアルスティール、ゲーム(←はアマゾンリンク。古い映画)……ネバーエンディングストーリーもいれてもいいか、悩む。
小説系、シッダールタ(ヘルマンヘッセ)はここ数年で読んでも面白かった。キャッチャーインザライ、風の歌を聴け(村上春樹)、僕は勉強ができない、あたりは高校生・大学生ぐらいに読んで面白かったが、今はどうなのか。
海を見る人(小林泰三)、「風よ。竜に届いているか」も面白かった。夢枕獏の魔獣狩りも読み始めたらこれは面白い。
やっぱり、きりがないし、方向性がバラバラな気がする。
ただ、サスペンスとかホラー系はあんまし含まれない気がする。
何が面白かったのかよく覚えていない
書き出してみたが、分かった、もう、全部記憶しておくのは不可能なぐらいである。よくもまぁ、この現代世界は多くの作品があるのだなぁと感心する、素直に。
現代社会の、100年前、200年前と異なる点は、この創作物の多さにあるのではなかろうか。
確かに、技術革新といった面では、携帯電話、インターネットなど大きな変化があった。その結果ともいえるが、多くの作品が生み出され、そしてそれを多くの人が享受できるようになったということは、特筆に値する点に思う。
昔は、オペラにいったり、歌舞伎をみにいくぐらいしかエンタメはなかった。その題目も、新しいものが次々と生み出されるというよりも、伝統的に大切に継がれてきたのである。
今や、星の数ほど作品があふれている。
多くの作品があることを知るにつれて、僕は、「面白い作品を創りたい」という動機が、徐々に失われてきたような気がする。
ただ、「面白かった」作品は多いけれども、何が、何故、面白いのか、というのが、うまく語れない。
いやもちろん、その面白かったという感覚自体が大事なのだけれども、それを抽象化することができなければ、自分で創作することはできないだろう。
(強制かっこ書きである。長くなりそうだし、話が分断されているので一回切ろう。なんだろ、言いたかったことは、「いろいろ見てきたけど、その中でもシュタインズ・ゲートは面白かった」ということと、「いろいろ見てきた割に、何が面白いのかを語れない」のがもったいないなぁという点である。ある方は、面白さを自分の言葉で解釈し、そのエピソードを具体的に挙げ、見たことがない人にも分かりやすく伝える能力をもっている。見直して、時間をかけて書いていけばできるとは思う(「君の名は。」は、見終わった直後になんか話題性がある作品だし、喋れるようにしておこうと最初から思っていた)が、特に意識せず見終わってしまうと、「あー面白かったなぁ」という感想だけで終わってしまうのである。というか、それでもいいんじゃないかとも思う。「所詮エンタメはエンタメなんだ。日々生きている中で一瞬のカタルシス(快感・満足・癒し)を与えられたらいいんだ」って考えもあるだろう。そういう意味で、エンタメは、悉く面白くあるべきだ、ということだ。しかし、その「面白さ」とは……強制終了)
