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絶対に必要な人
2017/09/21 23:45 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「睡眠と書くこと、優先順位の判断が難しい」

24時を過ぎても書かなければならない

 22時過ぎ帰宅。もろもろ作業をし、23時45分。こっから書き始めたら、まぁ24時は過ぎてしまうだろう。
 しかし、短くても、書かなければならない。そうしないと、多分眠れなくなる。そうしたら、浮かんだ思考は疲れ果てるまで書き出してしまった方がよい。

新しいルーチンの追加

 運動系のルーチン、日課に、一つ追加してみたいものが生じた。
 あるブログさんで推奨されていたので、前から気になっていたのであるが、試しにやってみたら、確かになんだかよい効果がありそうだった。
 しかし、まだ具体的には書かない。結局続けられなかったら恥ずかしいからだ。
 一週間程度継続できたら、ブログ横のカウントアップカウンターに追加しよう。

 そういや、筋トレは全く休まず、340日近く続けられてきた(免除規定該当の場合は除く)が、音読のルーチンは、最近、結構できていないときもある気がする。PDCAサイクルで、そろそろチェック・アクション(=見直し)が必要だろう。

 音読は、気力的にきつい日が多いけれども、効果がある(具体的明確には書けない。ただ、自分の声を録音して聞くというのは、自分の言動がどのように他者に伝わるのか客観的に感じられるので、面白いと思っている。)のは確かなので、免除既定の見直しを含めて再度検討したい。

人生フローチャートの作成



 こんなの作り始めて挫折中。
 参考になる情報がないか探しても、いまいちぴんとくるのがない。

 ――30代が陥りやすい失敗パターン5

 検索で出てくるのは、上のようなもの。この中で、「4.結婚しないこと・子供を持たないこと」というのが、人生の失敗要因として挙げられている。
 理由は、明確に否定すべきものがない。しかし、絶対にそうかと言い切れるだけの根拠もない。ただ、昔の人たち、えらい人たちの経験則のようなものであろう。

 この経験則というのがやっかいなものである。
 世代間や異種文化間の争いがなくならない要因でもある。「わたしはこう思う」ということについて、「いや違う」とは、原理上いえないのだ。客観的に「それは間違っている」ということはあるかもしれない。ただし、「わたしはこう思う」ということが、嘘だったということにはならない。その人は、「そう思った」のである。

 結婚するしない、という問題。――それだけではないが、これも一切結論が出る見込みがない。「年取ったとき伴侶がいないと寂しいでしょ」というのも可能性としてあるし、一方、「結婚したことによって不幸になる人もいる」というのも一つの可能性としてはありえる。

 どう生きるか。
 この問題は、限りなく、判断の連続なのである。

思考ループの原因

 ので。タイムリープマシンがあるならばともかくとして、基本、過去に戻ることはできないので、前に進むしかないのである。で、あるならばして、その「判断」というのは、基本的に「正しかった」としていく必要がある。

 ――このことが、年を取った人たちが、「頑な」である原因でもある。長く生きた人は、それだけたくさんの判断をしてきたのだ。それがたとえ、若い人たちからみたら、おかしな判断だったとしても、それを認めてしまうこと、自分の判断の誤りを認めるということは、すなわち、自分の人生が誤りだったというようなものなのだ。
 だから、「言い訳」として、「私たちの時代はこうだった」というのである。もしくは、そのときの諸条件・環境を理由として挙げるのである。



 正直なところ、他の誰がどんな生き方をしようが、それに対してどうこういうのではない。願わくば、路上で喫煙をするような人には消えていただきたいと思うわけではあるが、基本、他者に迷惑をかけなければよいと思う――という言い回しも好きではないのだが。「迷惑」は、生きていれば多かれ少なかれ必要である。もっと視野を広げれば、他の生命を奪うことでしか人も、その他の生命(植物は除く、か?)も生きられない。

 ので、このあたりの話しはあまり置いておいて、――僕は、言い訳が好きではない。

 主張、であればよいのであるが、自己保存のためだけの正当化はしたくないと思う。言い訳は、さらなる言い訳を必要とする。言い訳をしている時間はとても愚かでもったいないと思う。



 ので、僕は、「正しい判断」を常にしていきたい。
 やや飛躍した表現に言い換えれば、「自己同一性の担保」をしたいということだ。

 私はこういう人間だ。
 だからこういう判断をする。
 だからこういう感じ方をする。
 だからこういう生き方をする……と。

 生きていることについて、「意味」をもたせたいのである。

人の中で生きること

 こういった表現は、おそらく、10年前もできていた。問題は、ここからだ。
 まず、「実感として」、おそらく、自分一人で、自己を満たすことは、不可能であろうということだ。

 これも、10年前に「おそらくそうだろう」とは思っていたが、より実感に近いものになったという点で違いがある。
 これについては、一般に、「人は一人では生きていけない」ということで表現されるもの。ただ、これは単に、専門家・分業化した社会として・消費と生産の経済活動により成り立つ社会として、という意味だけではなく、心理的側面も強調したい。

 つまり、これもやや飛躍した表現をすれば、アカシックレコードや、瑜伽行唯識派の阿頼耶識のように、自己というものは本来的に、「遠藤」といった単一の個体で成り立つものではないという認識・実感故であるということだ。

 何をそんな当たりまえ、と言われてしまいそうだが、僕の世界認識は、「関係」で成り立っていると思っている。関係とは、二つ以上の要素が相互に影響を与え合っている状態、またその条件である。

 自己の中にどこまでもどこまでも沈潜していっても、結局、「自己」なるものは存在しないであろうということだ。
 その自己とは、他者であったり、世界であったりと、そのつながりの中で表層している一側面でしかなかろう、ということである。

承認欲求

 という認識のうえで、であれば、やはり「認められたい」という思いを満たす必要があるのだろうということである。

 しかし、ある精神科医さんの「認められたい」(amazon-link)という本を読んだが、おそらく、多くの人には当てはまるような気もしたが、――僕も、ああそうなのかなぁと思ったが、でも、半年ぐらいして、やっぱりなんか違う気もしてきたのである。

 マズローの5段階欲求は有名だけれども、所属欲求・承認欲求を、僕は本当に求めているのだろうか、ということだ。
 なぜなら、ときおり、人から感謝されたり、頼りにされたり、友人と一緒に遊んだり、上司などと飲みに行ったりして、楽しかったり嬉しかったりする中で、どうにも孤独感というか、寂しさが強まっていく感じがあるからだ。

 それを考えたときに、僕の場合のその「認められたい」というのは、「どれだけ人に根源的に必要とされるか」という強度が問題になっているのではないか、ということだ。

 端的に言い換えると、「生きていて欲しい」と思ってくれる人がどんだけいるかということだ。
 きっと、親はそう思ってくれているという実感がある。――が。

 幼いころ自分をとてもかわいがってくれた祖父は亡くなり、祖母は認知症を患い僕のことを忘れてしまった。

 友人は、きっと僕が死んだら哀しんでくれる人が何人かはいるだろうが、しかし、僕がいなければ生きていけない人がいるかというと、いない。

 仕事でもそうだ。確かに、今、とても重要な仕事を任せてもらい、現場の責任者的な立ち位置で仕事を割り振ったりもしている。僕がいなくなったら、困る人はいるだろう。
 が、じゃあ、絶対僕じゃなきゃいけないのかというと、違う。一時的には混乱するかもしれないし、納期が遅くなったり品質が低くなったりするかもしれないけれども、まぁしばらくしたら何とかなるだろう。

絶対必要な人

 そんなん。
 そんなこと言ったら、絶対必要な人なんて、何人いるのだろうか? いや、僕はいないと思っている。
 いやむしろ、いなくていいと思っている。昔、偉い人がなくなったら、一緒に奴隷が埋められた時代もあった。殉死という言葉もあった。でもそれは、もう時代に合わないものだと思う。逆に、認めていいものではないと思う。個人主義の弊害などいくら言われようが、それは過去――やや極端だが全体主義などに比べて、悪いことではないと思う。

 それでも。
 だからといって、人の一人一人の価値が損なわれているとかそんなことではない。
 あいもかわらず、愛というのは美しいし、親は子どもを愛するし、子どもは親を愛する。
 恋人同士は永遠の愛を信じ、身体を重ねて一つになる。


 それらの行為を、人間の営みを、どうして否定できるというのか。

 できるはずがない。そう、人は、生きているだけでとても素晴らしいものなのだ!


 ――と、なかなか思えない、という苦悩である。

 そして、ここから先が重要なのだが……もう寝よう。


(かっこ書きである。というわけで、子どもをつくろうかと思う――となると唐突過ぎる。そして、そんな自分の何だか欲求を満たすために子どもを育ててみようとか、そんなん理由としてありなの? とも思う。いやというよりも、そもそも、僕自身が心底それに憧れているかもよく分からないし、納得できていない。――そもそも、贅沢な悩みである。昔は、男子たるもの、元気な子を生み育てて、お家を守ることが大事なことだった。いまは、結婚しなくてもいいんじゃん? 子どもがいなくてもいいんじゃん? みたいな価値観も「あり」だといわれる。本当にみんなそう思っているかは別として。まぁとにかく、それはそれとして、先日、いつの日か書いたように、まずは、今の自分として納得できる最大の作品を仕上げたいとは思う。子どもの話と何がどう繋がるのか! 大いに繋がるのである。けれども、もう今日は終わりにしよう――ただ、つまり、言い訳などしたくなくて、最大全力を出し切りたいということだ。中途半端に、ライフワークにしようとか、そんなん寝言は寝ていえ、である)

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