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1000字で書くということ(4)
2018/02/14 00:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「前回の記事はなんか恥ずかしい」「傲慢さも感じ取れる」

いい加減自分の人生を生きろ

 まぁ、前回書いた便所の落書きはともかく。
 俺は、これも誤解を恐れず書くけれども、人生、楽しくなきゃ失敗だと思う。
 仕事がどうこうではなくて、俺は、楽しいことがしたいのである。
 しかしこの、「楽しまなきゃならぬ」というのが命題になると、これはこれでかたっ苦しくて重たくて、面倒くさくなる。
 ……んじゃー、結局、「何も考えない!」ってのが正しいんじゃねーのか、このめんどくさいやつめ!
 というか、この、自分の過去をもとにして、卑下したり、評価したり、正当化したりするのも、ほんと嫌なんだ。
 過去とかどーでもいい。今である。今後である。
 今後であるんだけど、どうしても、自分という連続性を考えたとき、過去は切り捨てられないとは思う。自分の身体的限界性に、思考も縛られてしまうように。
 単に「頑張ればいい」ということでもない。
 体制順応的(他の誰かがやってることを自分もやる)でもダメだし、全体主義的(周りの人が自分に欲していることをやる)のでもダメだ。
 人は、人であるのならば、みな、自分の欲するところに自分の人生を生きるべきだ。

かっこつけたいわけじゃない

 ひとはみな――的な書き方をすると、「おめーがいうな」的になってしまうが、しかし、俺は世界がそういった方向に向かってくれることを望んでやまない。
 その、人が人として生きるということを否定するような――自由からの逃避によって全体主義に流れていったヨーロッパや、カンボジア、ポル・ポトの共産主義の理想による大虐殺に、ちっとも戻る傾向がないような、そんな人間性を、誰もが持ってほしいと思う。
 え? かっこつけすぎ? いや割とマジで思う。
 でも、そのためには、みんな、「バカ」じゃあ駄目である。
 みんな、自分で考えなければいけない。人のせいにしちゃあいけない。かといって、独善はだめだ。
 そして、環境(政治や企業体制等々)の誤りは誤りであるとはっきりと主張できなければならない。
 自分の感覚と反する人も認めなければいけない。同性愛者だろうが、独身者であろうが、宗教に入れ込む人だろうが何だろうが認めなければいけない。同時に、公共の福祉に反する場合は駄目だとはっきりと修正を求められるようでなければならない。
 俺は全人類、若い人も年寄りも、だれに対してもそれを望む。
 でもそれは、苦痛であってはならない。
 みんなが、それを目指し、生きていることが、楽しくなければならない。失敗もするだろう。その失敗もあたたかく認められるようにならなければならない。
 酒でもはいって、大言壮語になっているのだろうか? いや俺は大まじめにそう思う。

(かっこ書きである。次回、2/21(水)「幸せな社会のために物語を求む」。ついに次回が感動のフィナーレ! ……感動はしないが多分最後)

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共有することの不可能性(と作曲)
2018/02/11 23:27 | Comments(0) | 創作について
今日の一言「諦めではなく可能性」「連載は水曜日、だが形骸化している」

分かりづらさ

「何言ってるかさっぱり分からん」

 といったコメントを頂いた。
 傷ついて、哀しくなった。しかし同時に、大切な感想だなぁと思った。

 僕は、昔から理解可能性というものを信じていない。
 このことは、「1」か「0」と割り切れるものではない。
 信じていないといったところで、結局、日本語という言語を使えばコミュニケーションは可能だ。
 一方で、コミュニケーションを信じている人たちだって、その「気持ちの伝わり具合」に微細な変化が存在することは百も承知なはずである。

 僕はその、理解可能性について、「0」というのではなく、一般の人たちよりも低いと自覚している、ということだ。

 1000字連載は、個人的にはそれほど分かりにくくはない――というよりも、いつもの記事と同じレベル感である。中学生でも分かる表現を使っている。

 問題は、その表現の先に、「何を言いたいか」ということなのであるが、その最終結論なるものが伝わらないと、結局その文章というのは、「さっぱり分からん」という結論に繋がる。

1000字連載(1)~(3)の要点

・努力することは大事だ
・しかしその努力は自らの欲望を果たすことに基づいている必要がある
・何故そう思うかといえば、僕は(自分の身体・精神・環境の限りで)努力をしてきたが、これまでの人生はつまらなかったからである
・もっといえば、今もつまらない
・しかし物質的・欲求的には充足している(強いて言えば時間がない)
・だから自分の欲求・欲望に基づく未来をイメージすることが重要だ

 といったことである。これらを、誰かと議論しようというつもりはない。単なる思考の整理である。――もっといえば、整理する必要すらあまり感じていない。要するに、最後の点、「未来」の具体化が目的であるということである。



 ある方が、「自分の本当に重要視する分野については人と話すことが困難で(出会える可能性も低いし、レア故の馴れ合いが生じる可能性もあるため)メリットも薄い」と仰っていたがこれはその通りと思う。

 哀しいことであるけれども、これは大切な感覚だと思う。
 僕は、昔から(10代前半から)ずっとそれ(理解が中々しあえないこと)を感じて、「生きづらいなぁ」と思ってきたけれども、これはこれで、大事な考え方であるし、だからこそ人間は面白いのかもしれない。
 そういった感覚を分からない人が、自分の価値観を押し付けたり、横暴にふるまったりするのだろう。要するに子供である。

だけど冷めてもいけない

 という上のことについては、数年前から書いてきたことである。
 問題は、「そうはいっても、それでも、価値観を共有して尊重して高めあっていくのが本来あるべき人間社会の在り方ではないか」という問いである。

 これは、問いは問いとして正しいと思う。あっていいと思う。存在価値はあるだろう。

 ただ、それを、「実存問題」(要は自分の問題)とすべきか、という点は、選択である。岐路である。



 僕は、30代になって、そろそろ「保留」もできなくなってきたこれらの問題に対して、非常に焦燥している。
 焦っているけれども、答えがでないし、行動は環境に命ぜられるまま、思考を介在させられないままに動き、過ぎていく。

 この焦り、というものが、「鬱屈」としたエネルギーとして、文章を書かせているのだろうと思う。
 僕が動いているのは、行動できているのは、この「鬱屈」したエネルギーなのだろう。

 そういえば、10代前半のころ、僕は「負のエネルギー」という言葉を使っていた。
 エネルギーとはプラスのものなので、本来表現としておかしいけれども、「いらいら」とか「むかついた」とか「くやしい」とか「うらやましい」とかそういった負の感情をもとに行動することをそう名付けていた。

 ああ、それを、何か、社会の役に立つことに使えたらよかったのであるが、まぁ、うまくはいかなかった。

教育について

 手段とかどうでもいい。
 問題は、どういった人間が必要か、ということだ。国が学習指導要領というものを作っていて、それに基づいて公立の学校は授業を行う。
 しかし、その、国が定めた指導要領なるものは、果たして、本当に、あるべき人間像を体現した素晴らしいものなのだろうか?

 僕は、否とも、正しいともいえない。

 というか、現代の日本人――否、世界の人類に、そうした「あるべき人間像」を表現できる能力があるとは思えない。

 単に、「その時代に」「その国にとって」「その条件において」は、正しいものだろう。

 最初の話に戻るけれども、「人はみんな違ってそれでいい」ということであるのだから、それと「教育」という手段は初めから相いれないのである。要するに、「コミュニケーションの土台」を作るに過ぎないのである。

 土台に過ぎないのである。最初の話のように、本当にその個人が話したい事、重要視したいことなんてのは、往々にして、理解可能性レベルを超えているのだ。

創作について

 ふと、むかし、2010年ぐらいに作った曲を聴いた。
 あー。
 音圧とか、調教とか、粗削りだけれども、しかし、歌詞はいいなぁ。
何のために歌うのか ずっと探し続け
時間は平等だけど 無常に過ぎ去る時は
冷たい痛み与える 心がいたみだす
美しく広がる景色 あたたかな人の優しさ
充たされる思いも今は 幻のように
漫然と過ぎ去るとき 忙しさにおわれるとき 僕は
何か大切なものを 僕であるためのものを なくして
本当の自分なんてどこに あるというのだろう
今は白い世界――
何のために生きるのか ずっと意味を求め続け
求める時間さえも失われていくのか
疲れ弱音はくとき 何かいいわけするとき 僕は
あの日に信じていた 確かな思いすら 忘れて
孤独が怖いというだけで 誰かを求めていた
夢の中の自分がいた――
何のために生きるのか ずっと意味を求め続け
求める時間さえも失われていくのか
だから僕は歌い続け 「無意味」の言葉はねのけ
生きる意味は何なのか 今分かる気がした
僕は歌う いつまでも――
 まさに、僕の価値観がよく表現されている。まぁ、当時、どういう気持ちで作っていたのかは正直もう覚えていないが、彼女にもふられて、あまり精神状態はよくなかった状態だった気がする。

 この当時から、初音ミクの作品は作れていないが、やっぱり、歌にのせるってのはいいなぁと思った。今、これ以上の作品をつくる気力も、時間もないなぁ……。

 しかし、言い訳をしていても仕方がない、と、創作中枢が少し刺激されたので2時間ぐらいで一つ作った。
2018/2/11作曲(インスト)DL
(実質30秒ぐらいの曲をリピートして1分ぐらいにしている……)


(かっこ書きである。あー月曜からまた忙しそうだ。先日、友人たちと会話する機会があって、みんなまぁまぁ仕事に対しての不満はもっているようだった。みんな大変。お前は恵まれているなぁって言われたりもした。――が、ぶっちゃけもう、そういった比較は本当に無意味だと思っている。仕事の内容も全く違うわけだし、時間的拘束が長ければ大変かってのも俺は違うと思う。同じ業種だって、取り巻く環境・取引先とかそういう意味で、異なるだろうし。「じゃあテメーがやってみろ!」という苛立ちや怒りがよく生じる(友人たちに対してではない。そんなことを思っても仕方がない)。まぁ……ただ、できることをするだけだ。とにかく、自分のパフォーマンスを落とさないようにすることが大事だ。ひいては、勤め先の会社にもそれは良いことなのだ。社員が役に立ったほうが会社としては良いはずだから。しかし、6分でわかる金持ち父さん、貧乏父さんを見る。うーん、なんか、図書館で借りられるから読んでみてもいいかと思ったけど、興味はほとんどわかなかった。というか、なんとなくそういった本だろうと思っていて、その確認ができたのはよかったかもしれない。正直、僕は大人になってから(働き始めてから)お金に困ったことが今までない。もちろんこれは、無尽蔵にお金を手にしているということではない。そもそも「欲求」がわかないのである。久兵衛の寿司を食べてみたい気はするけれども、まぁ、一度ぐらいならそれに費やすことは可能である。それを毎日食べるとしたらすぐに破産するだろうが、そうしたい欲求は特にない。上の動画で、「勉強をたくさんしなさい」というのは、金持ち父さんも貧乏父さんも共通していたが、その目的が、「良い会社を買うこと」と「良い会社に入ること」という違いなどは面白いと思った。一方、どちらも価値観レベルの問題に思う。たしかに、金持ち父さんの方が、「あー楽して生活したいなぁ」って友人がいっていたけれども、みんな憧れなんだろうと思う。が、しかし、「コンテンツ」を作る人がいなくなって、「買う」人だけの世界なんてありえんだろう。投資家だけの世界ってのはありえないのである。ま、もっとも、そんな極端な事態になど早々ならないのであって、賢く勉強して、賢くお金を運用できる人のほうが、コツコツ真面目に働くよりもお金持ちになれるってのはその通りだと思う。――が、まちたまえ。「コツコツ真面目」ってのが、本当にいいことだと思っているのだとしたら大間違いである。「コツコツ真面目」という事象を、一体どのように考えているのか? 人から言われたことをしっかり丁寧にこなすだけでは到底、「コツコツ真面目」などではないが、まぁ、一般にそういった表現のうちに含まれることになるのである。僕は、投資家を、決して楽して生活できる人だと思ってはいない。彼らは彼らで、とっても勉強して、リスクある判断をし、苦労をして生きているのである(当然、全員ではない。宝くじに当たった人が、努力をして当たったなどとは思わないだろう。そういうことだ)。あー、なげーなぁ。要するに、努力は否定しない、ってことだ。1000字記事と同じ。大したことなど、常に言っていない。というか、「大した事」なんて、どれほどこの世界にあるというのだ。僕は、「表現」ぐらいしか、差異を表現できないと思っている。あー、この辺の価値観も、きっとあまり伝わらんのだろう。ま、構わない――構わないわけではないが、仕方がない)


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素晴らしい物語に触れること
2018/02/10 15:44 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「とりあえず連載は進めるが、休憩に書く」

仕事が忙しい

 特に、タイトルに意味はない。
 最近のことのメモである。
 忙しい。この一言だけで十分だ。物理的に時間がない。
 具体的には、ここ一、二週間、家に帰ってくるのが、22時~24時か、という日がほとんどな状況で、7時には出発しなければ間に合わない。

 まぁこれも、一時的なものだと思われる。
 が、どうにも、精神的なすり減りがある。

 要するに、未来、である。

 ユングは、意味は殆どすべてのことを耐えられるものにしてくれる、といっている。
 ニーチェは、何故生きるかを知っているものは、すべてのどうやって生きるかに耐えられる、といっている。
 ――精神療法における意味の問題P.36参照


 これまで、僕は仕事上の困難を何度か乗り越えてきた。大きなヤマでいえば2回ぐらいか。
 で、まぁ今のプロジェクトというのも、プラス1回になるだろうと思う。それはそれでよい。

 しかし、それを乗り越えたからといって、「だからなんだ?」という気持ちが高まっている、ということだ。

 そもそも、こうした仕事を選んだという20代の僕の判断なのだから、「仕方がない」とは思う。
 思うし、他の多くの仕事に比べたら、恵まれているだろうとも思う。が。

 がしかし、どうにもモチベーションが上がらない。

未来と意味

「忙しいことを認めよう」と先日書いたので、もう一つ認めておこう。
 僕は、中・高校生ぐらいのときから、ほんと、何で生きているのかさっぱり分からなかった。死にたいって毎晩思って泣いていた時期もあった。泣きつかれて、もう一回だけ頑張ってやるって思って、国公立の大学に入ることはできた。頑張ってその程度かって感じでもあるが、とりあえず、頑張ったってことにしよう。
 先日の記事で、上のようなことを書いた。
 まぁ、こっぱずかしい内容である。その他、多くのお忙しい方々に対して恐れ多い。

 が、とりあえず、自分という低スペックにおいては十分忙しいということは、頑張ったということは認めておこうということである。つまり、気持ち的にはだいぶ限界であるということだ。

人間存在の理解

 僕のよくないところを書いておこう。
 これは、僕の「感覚」なのであって、単なる言葉ではない。つまり、いかに取り繕った説明をなそうとしても、その「感覚」はなかなか取り払えないものである。

 その、悪い感覚の一つは、人間とは利己的な存在である、というものである。

 これは、事例は事欠かない。他者を犠牲にして、部下を駒のように使ったり、気に食わない者をいじめたりと、苛立たせる事象や事件はよくあることだ。

 しかしもちろん、これらは人間の全面なのではなくて、もちろん素晴らしい人間性なるものをもっている人もいるわけである。サイコパスのような存在は例外だ、切り捨ててよい、ということだ。
 という、「知識」的なことはあったとしても、どうしても、人間の利己的な面が気になってしまうお子様な自分なのである。


 もう一つは、人間の生物学的・心理学的なとらえ方である。つまり、欲望に準じた存在であるということだ。一つ目の「利己的な」という面とも関連するが、要は、人間を機械のように捉えていることである。
 人間は刺激に反応し、衝動を発散するだけの存在だ、という考え方である。


 上の二つの感覚については、僕は、手放した方がよいと思っている。というよりも、そうあって欲しくない、と思っている。
 でも、僕の感覚は、僕の生活は、市井や社会からの情報は、ますます僕をがっかりさせるものである。




 大人という存在は、もっとかっこよく、憧れられるようなものであるべきだ、そうあるべきだった。
 ところが、僕の崇高な(かっこ笑い)価値観は、人間たちへの失望へと繋がったのである。

意識高い系なのか

 僕は、意識高い系、と言われるタイプの人間なのか?
 意識高い系とは、揶揄されるニュアンスであるが、しかし単純に考えれば、よいことである。
 その「意識高い」というのが、他者を見下したり、自己実現(かっこ笑い)のみ追求するような方向性になるから、よくないのである。

 僕は、「より良い方向に協調し協働し向かっていく」という精神を求めているのだ。
 ざっくり言えば、WIN-WINを目指せということだ。

 誰かが得したら、誰かが損をするような考え方をするような人間は、滅びてしまえ、と思う。


 ――じゃあ、おまえが、その崇高な(かっこ笑い)人間になればいいじゃないか。

 もちろん、目指すつもりである。が、あまりにも、がっかり感が強すぎて、モチベーションが上がらない。

仕事から離れて

 つかの間の休息。別途友人と会う予定もあるため、あまり一人でいる時間はない。

 しかし、やはり、休息は大事だなぁと思った。ふと思い出して、今敏(コン・サトシ)さんのブログ記事を読んだ。
 母親の、「丈夫にうんであげられなくてごめん」という言葉が突き刺さった。哀しいね。
 ぎりぎりまで、両親に会いたくないという気持ち、最初は不思議にも思ったけど、なんとなく分かった気がした。大事な人だからこそ、自分の弱った姿を見られたくない、ってのはあると思った。

 しかしほんと、仕事が好きな人だったんだなぁ。大変だったろうけど、しかし、世の中に作品をうみだすって仕事は、きっとやりがいもあったんだろうと思う。

 ――しかしだ、僕の今やってる仕事だって、やりがいはあるのだ。あるのだけれども、しかし、もうなんか、疲れる。非常に疲れる。
 やりがい――、こんな一言で片づけられる言葉じゃないと思う。どんな仕事だって、やりがいはあるはずだ。問題は、その「やりがい」ってのと、自分の価値観が一致しているかどうかである。

 飲食店のホールの仕事で、お客さんの笑顔が見れて幸せ、――なんていうのは、確かに「やりがい」だろうが、僕は絶対そんなんにやりがいは覚えないと思う。料理人は、自分の作った作品(料理)を喜んでもらうのが幸せなのだろうが、僕はそれも無理だと思う。

 その、「無理」というのは、努力のあきらめ、ではない。
 前の記事に書いた通り、
 ストイックであることを否定しない。
 努力することを否定しない。
 継続することを否定しない。
 平坦な人生などない。
 苦労のない人生などない。
 楽な人生などない。
 と思う。

 ただ、自分の価値観というか、「本能」的なものに反したものは、「無理」である。

俺は何に楽しみを見出すのか

 とりあえず、これだろう。目下、課題だ。
 何か、楽しいことを探そう。
 面白いことを探そう。
 何か集中できることを探そう。
 何か、一生懸命になれることを探そう。
 何か、奉仕できることを探そう。

 目は、世界を見るという機能を、自分自身を見ないことによって果たす――前掲書。

「俺は」

 という自己にとらわれているうちは、決して、反転して自己を知ることはできないのだ。

 それは、何か行動することによって得られる。

 ――が、その行動は、意識しなければ、流されるままとなる。

 この整合性をどのようにとるのか。まだ僕はよく分かっていない。――ええと、つまり、自分を意識しすぎると、結局自分ってものが分からなくなるということだが、しかし、環境や状況に流されるままであっても、結局「忙しさ」に精神をすり減らされることになる。

 忙しさは、別に悪いことではない。
 以前ある方が、「充足は、必ずしも必要ではない」と仰っていたが、僕はやっぱり、それは違うと思う。忙しくても満たされていることはあると思う。苦悩にも意味は見いだせるものだと思う。だが、それらの根底に、やはり「満たされている」ということは必要ではなかろうか。
 その満たされている、そのモノ、が何かというのは不明だ。いやむしろ、それが不明だからこそ、それを見つけなければならないのだ。


(かっこ書きである。司星者セイン2巻届く、少し読む。ズァグ氏の魔女王との謁見シーンで震える。くっそかっけぇぇってか、魔女王怖ぇぇ。下賜された魔女王の血の盃の真意を知って、全身の血が凍りつくようだった。すべて見透かしたうえで、そして許す、とは。戦闘シーンもよいけど、こういったシーンを巧く描けるのはさすがだなぁ)

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1000字で書くということ(3)
2018/02/07 00:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「あと2回ぐらいかな」

仕事が楽しくないからいけないのか

 前回は、「なるべき存在」になるために、その概念の中身について考えてみたいと書いた。

 うーん。
 良いものを生み出したい。
 単純にそういうことなのだ。
 でもどっか冷めていて。フリーターを続けながら、「いつかビックなミュージシャンになってやる」って40歳50歳過ぎてもいってたり、小さな閑古鳥のなくラーメン屋で働く人が「生きる意味とは……」なんて考えてるのは滑稽だとも思う。
 いや、さっき書いたように、他者がどうであるかは関係ないのだけれども、僕自身はそれはなんか違うと思っている。
 金がない金がない言いながらパチンコに多額をつぎ込む人とか、信じられない。
 デブってバカにされるのが嫌だって言いながら、間食ケーキを頬張る人とか信じられない。
 ストイックであることを否定しない。
 努力することを否定しない。
 継続することを否定しない。
 平坦な人生などない。
 苦労のない人生などない。
 楽な人生などない。
 といった前提で、俺は一体全体、何をやればいいんだ? ということを常に考えているのである。
 仕事も頑張る。自分のパフォーマンスを超えたこともやらなきゃと思う。成長しようとも思う。
 けれども、じゃあ、仕事以外のことを考えるのは「余計なこと」かというと、そうではないし。
 ゆとりがなければ、業務の改善なども行えない。

愚痴言って酒飲んで

 考えない、という手もある。
 上司や客の愚痴を言って、飲み屋に行ってうまい酒を飲んで、飯を食って、寝て。
 朝起きて、あーめんどくせえなぁといいながら会社にいて働いて、帰って酒飲んで、寝る。
 もしくは、死んだように、早く時間が過ぎることだけを考えて、テキトーに仕事して、給料もらって、副業しつつ老後の生活資金を計算しながら生きていく。
 それらもありだろう、し、多くはそんな感じじゃなかろうか。
 が。そんな「大人」に僕は憧れない。
「忙しいことを認めよう」と先日書いたので、もう一つ認めておこう。
 僕は、中・高校生ぐらいのときから、ほんと、何で生きているのかさっぱり分からなかった。死にたいって毎晩思って泣いていた時期もあった。泣きつかれて、もう一回だけ頑張ってやるって思って、国公立の大学に入ることはできた。頑張ってその程度かって感じでもあるが、とりあえず、頑張ったってことにしよう。
 なんつーか。
 基本、人生つまんなかったのである。
 こんなこと書くと、せっかく育ててくれた親に大変申し訳なくなるので、言わないし(ああ、この前の正月は少し言っちゃったかなぁ)、考えないようにもしているが、とりあえず、「くっそつまんねー人生だった」ってことを認めておこう。
 そういう蓄積があるから、僕は、上に前提として「頑張ることは否定しない」と書きつつも、頑張ることはさっぱり無意味であるとも同時に思っている。
 いやまぁ、そこですら頑張らなかったら、ダメブロ界の人たちのように、ずーっと人生呪いながら、愚痴を言いながら生きていたかもしれない。紙一重である。


(かっこ書きである。次回2/14(水)「いい加減自分の人生を生きろ」。今回は、自分の価値観を振り返り、過去の体験(というか、その自己評価)を書いた。これだけで終わったら何にもならん。愚痴にすらなっていない。次回は、今回の内容を前提として、「やっぱり人生楽しまなきゃダメだろ」って方向にもっていく、たぶん)

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幕間:面白い文章について考える
2018/02/04 01:00 | Comments(2) | イライラ対処
今日の一言「1000字投稿連載は水曜更新するとして、ちょっと休憩」「休憩でブログ書くって……」

司星者セイン読了

 ベニー松山さんという方の小説を読み終える。ううむ、巧い。この方の、「風よ。竜に届いているか」も読んで、表現の上手さに舌を巻いたのであった。
 んで、司星者セインは、2000年刊行である。そして、あとがきを読んで知ったけど、2000年の時に作者は33歳ぐらいだったようだ。

 ほぼ、20年前である。
 今の僕と同年代である。

 プロと比べてもしゃーないが、あと数年研鑽を積んでも、とても追いつけそうになさそうである。
 この作品に、「貌狩りのアルゴー」という敵が登場するのであるが、とっても敵である。やることなすこと非道である。残虐だ。むかつく奴である。「倒さねばならない敵」感がひしひし伝わってくる。

 ある方が、物語には「困難」が必要だと書かれていたが、これは真に思う。
 ひだまりスケッチ的な日常ほのぼの系の作品であっても、「困難」はある。主人公のゆのっちは、文化祭の出展物を仕上げようと努力を重ね、そして一つの作品を完成させる。見物人たちからは一定の評価を得た。だが、それはまだ彼女の納得いく作品ではなかった。彼女は作品を満足いくものにできなかった悔しさから、あることを計画する……。
 と、その困難が客観的に大きかろうがどうだろうが、当人にとっての困難性がより感情移入できるものであれば、それは物語として感動を与えるのである。

 それはそうと、司星者セインは二巻買うか。でもこれ、ある方いわく、完結しなさそうらしいんだよなぁ。

困難とは

 さて、僕にとって困難って何だろうか?
 いっつも、このブログは、自分のことを書き始める。主観的である。

 けれども、今回のタイトル「面白い文章について考える」であるけれども、「主観的」な文章を最近欲している。

 ある方が、「何を見るか、するかじゃなくて、最終的には【誰とするか】だよ」と言っていた。
 そのときは、僕は本能的に「否」と思った。しかし、冷静に考えてみると、それはそれで適切な表現に思った。
 もちろん、その根本的にすべき対象は重要である。
 でも、自分で感じられることには限界がある。
 だから、他者のレビューなるものが重要になる。

 といったことを書きたいと思ったのだけれども、なんか違うな。筆がのらない。

文章に求めること

 要するに、一般論を書いている文章は面白くないのである。
「こうするのが大切だよー!」
 というのはいいが、それを、お前はどう思ってるんだ、ということを問いたい。

 朝早く起きて活動した方が効率がよいといわれる。
 まぁそれはそうなのかもしれない。でもそれに対して、お前はどう思っているんだ? どう行動しているんだ? それを書いてほしい。

 なんかのセミナーに参加した。こういう業績をあげた偉い人がこんなことを言っていた。ほうなるほど、で? お前はそれをどう感じて、どう思って、どうしようとして、実際に1週間後、1か月後、1年後に何をしたのか?
 そういうのを書いてほしい。

世の中をシンプルに生きる

 世の中なめちゃあいかんと思う。

 複雑な自然体系に、科学・技術、法律、金融、思想……まぁすごい。

 すごいけど、真理の探究なんてしちゃあいけない気がする。

 神がいるか、いないか、そんな単純なことすら、長い歴史の中で決着がつかないことである。

 結局、言葉では幸せは導けなかったのである。そして、これからもそうだろう。



 そうした、「評価」が曖昧な世界において、いかに生きるべきだろうか。

 こういった不透明な時代において、「お金」という価値観が信奉されるのは無理もない。わかりやすいのだ。会社のために献身しても、ふと上司が変わったとたんにこれまでの業績がなかったことにされるかもしれない。お客様のためにサービスしてきても、商品が売れなきゃ倒産する。

 やっぱりお金だ。

 お金があるから取引ができる。お金があるから信用できる。お金があるから生きていける。

理不尽さを憎む

 バカバカしいほどシンプルだが、これらは、「生きる」ことが前提とされている。

 いやまぁ当たり前だ。人間は、欲望と身体に規定された存在である。そしてその欲望は、生きたい・知りたい・仲間になりたいという本能を有している。

 

 ……ちょっとリセットしよう。なんか、久しぶりだと文章に詰まる。とりあえず、二本目のビールをあける。

 あーこの、プシュッという音がいいよなぁ。きっとこの感覚は、10年前の俺にはとても分からなかったろう。

 なんだっけ? そう、困難だ。

 俺、なんか困難あるんだろうか?
 いや、そりゃ、人並みにはある。当たり前だ、凡人だもの。

 しかしだ、それらの困難が、じゃあ、絶対解決しなきゃいけないかっていうとそうじゃないし、死ぬわけでもない。
 生と死が隣り合わせの時代や、身分制度が強固な時代では、理不尽な死を命じられることもあったろう。
 司星者セインを読んでよくわかったのは、俺は、理不尽な死ってのを、ものすごく悪だと、嫌悪するのだと、憎しみを抱くのだと分かった。残虐な部下たちのトップに君臨する魔女王アグナスの非道は客観的にはMAXなのだろうが、取り急ぎ苛立たせられたのはアルゴー氏の、老梟の化け物に部下に突撃を命じ、無意味な死を強要したところである。
 その前に、アルゴー氏の軍団は、罪もない人々の田舎の村を壊滅に追いやっている。女子供も容赦なく皆殺しである。それはそれでなんて酷いんだ……と思ったものだが、それ以上に、部下を駒のように扱い殺したところに苛立った。

 いや、結局、化け物には勝利したのだから、戦術的には、アルゴー氏の采配は正しかった。その意味では部下たちも決して無駄死になどではなかった。しかしそれでも、その非情な選択には憤りを思った。


 という、僕は、「理不尽さ」というのを強く憎んでいることが分かった。
 たいてい僕がイライラしているのは、その理不尽さである。その大きい小さいはあれど。小さいのはむしろ、「不公平感」といったものであったりするが。

なぜ生きることが必要か

 その、殺された人たち。
 無意味に死んでいった人たちに追悼の意を表す。

 あーしかし、「意味」なんて、とても主観的なものである。

 ガンに侵され、余命3か月と言われた人は、まだ幸せかもしれない。交通事故で一瞬にして命を落としたら、その人の生きてきた意味はいったいなんだったのだろうか。


 僕はまだ幸せである。こうやってブログを書いてから死ぬことができる。

 僕は、生きる意味を考え、道半ばで死んだ。――そういった意味は与えられる。誰から? 自分だ。だが、その自分はもうすでにこの世にはいない。それでも、僕は意味を求める、何故だろうか? なんてことを常に考えているから碌なことができないのである。



 ただ、道筋は、朧げな光を放って見えている。
 このように問い続けることで、僕はまだ、一歩か、半歩か、むしろ後退しているのかはわからないが、「動く」ことはできるのである。

  

面白いものに触れたい

 あー、なんか面白いもんないかなー。

 と、思う。

 それは、刹那的ではなくて、ずっと、永続的に光を放つようなもの。

 遊びでも仕事でもスポーツでも読書でもなんでもいいから、なんかないかなぁって思う。そして、たいていの人にとって、それは家族――特に子どもなんだろうなぁって思う。

 いやまぁ、自己愛が強い人は、自分を愛することでやってけるかもしれない。たぐいまれな才能があれば、その才能が活かせる場が、面白いものなんだろうって思う。

 自分の子供ってのは、それだけで特別だから価値があるのだ。
 特別な何かって、あんまし、人には、ない。

 いやまぁ、ふつーに生きることはそれだけでとても大事なことで、素晴らしいことで、感謝すべきことで、大切なことで、運が良いことで、ありがたいことである。

 俺はしかし、なんか、……。
 いや、じゃあ、家族をつくるためにがんばれって思うのだが、そもそも、「がんばれ」ない。気力が起きない。何もしたくない。何もしないのが、何もしていない時がむしろ幸せである。

 んじゃー、生きたくないんじゃない? ってすら思う。うむ。

 ってところでビールを三本目。



 プシュッ。カッ。

 うーんいい音だ。そして、キンキンに冷えてやがる。――うめぇ。

 そう。これもまた人生のよくある形態である。酒におぼれる図。
 仕事にも、家族にも、趣味にも恵まれなかったら、だいたい陥るのが、酒かギャンブルかである。

 まぁ、それはそれでありなんだろうと思う。アルコールが体に、頭にまわることで、思考がゆるやかになる。いやなことも、理不尽なことも、少しだけやわらぐ。
 いーんじゃね? それもまた。

 あったかい部屋と、好きな音楽とをながせたらもう最高のひとときじゃあないか。


 しかしこれは、アイドルや、ミュージシャンに熱狂するのとだいたい同じ構図である。

 
 対して。
 美しいものとは、やはり、愛情や、友情といったものなのではなかろうか。

 上には、理不尽な死を憎むと書いた。
 しかし、理不尽ではない、自ら望んだ、誰か自分以外のために命を投げ出すというのが、本当に大事なことなのではなかろうか?

 うしおととら、とか、からくりサーカスとか、その辺の自己犠牲感をうまく描いている気がする。

救ったものもまた死ぬ

 でも、そうはいっても、自分の命を投げ出してでも助けたいような何かって、本当にあるんだろうか?

 家族のように大事にしていた飼い犬を、トラックに轢かれそうになった瞬間体を張って守った。犬は助かった。守った飼い主は死んだ。

 こんなニュースが流れたら、きっと美談だとみんな思うだろう。
 一方で、アングラな口コミサイトなどでは、「飼い主バカだろ」といった書き込みも多くみられると思われる。

 まぁしかし、命とは等価交換みたいなもので、その飼い主が、妻も子供もいる状態なら、きっと「バカだろう」派が多いだろうが、一方、90歳の天涯孤独のおじいちゃんなら、「美談」派が多い気がする。

 でも、命って、そんなもんなんだろうか? 俺はなんか、そういった「自己犠牲」的な云々にも、なんか違和感がある。――というひょうげんをすると、おめーは、そういった「じぶんのいのち」より大切な何かをもってねーからそういうことを思うんだ。矮小なやっちゃな。と言われる。反論は、ない。


 でも俺は、そんなに、自分の命も大切と思うわけでもない。才能あるたくさんの人たちと比べたら、価値のない人間だ。でもだからといって、価値ある人に臓器提供する気もさらさらない。

具合が悪くなってくる

 うーむ、このあたりのことを書いていると、気分が悪くなるな。たんに酒のせいかもしれない。

 要するに、このあたりの、倫理観的なことは、書いたり、考えたりしないほうがよいのである。
 たいてい、小難しいことを考える奴は、モテない。

 そんな、金にもならないことを考えるぐらいなら、お金稼いで女の子にプレゼントしたほうがましである。――とかいておいて、おれは全くそう思っていない。

 袋小路だ。
 これ以上、新しいことを考えられそうもない。
 ああ、酒なんて飲まなければよかったか。

だからこそ物語が必要なんだこんちくしょうが!

 そしていきなりテンションが上がる。というか、狂ってくる。

 いやだからさ、グダグダいってねーで、行動し、積み上げて、研鑽しろってことだ。

 こう、グダグダ文章が物語として光るのは、ものすごくカッコよくて強い主人公が、時折見せる挫折の瞬間ぐらいである。
 年がら年中、ぐだぐだ、「僕って何」的に言ってるやつが、何言ってんだボケが、って話である。

 あー、なんやかんや、先週は、1,000字ぐらいは創作で書いた。なんとか、もっとちゃんと書く時間を取りたい。
 今年の目標は、なんといっても、「創作」なのである。にもかかわらず、俺は、些末事に(といっても仕事とかその他はずせないことではある。要するに、今年の目標以外のこと)時間を使っているのだろうか。


 ただ、一つ、物語は、今連載している奴ではないが、完成しそうな見込みがついた。プロットが、一応、自分で納得できたのである。――これなら、まぁ、書いていってもいいかなぁ、と思わせられた。

 なんつーか。

 自分で後から読んで、「面白いな」と思えるレベルのものじゃないと、正直書けないことが分かった。
 いやこれは、昔からそうだったのかもしれない。

 しかし、むかーしよりは、物語に触れる量が少しだけ増えたので――それと、人生に求めるものが増えたので――、物語に求めるものが格段に多くなっていっている。


 表現が稚拙だが、面白い物語しか書けないのである。

 え? 俺は、面白い物語を書けるのか? 否。そうではない。かけないから、書けていないのであるこれは、詰みではなかろうか。面白い物語しか書けない。しかし、自分では面白い物語を書けない。以上終了。


 ……。うわー! ちくしょう、どうしたらいいんだ。
 書くしかねえ。
 面白くなくても、書くしかねえ。
 書かないと、面白い物語は書けねえ。



 俺は別に、物語を書いて、それで生計を立てようと思ってるわけじゃあない。
 単に、俺自身が面白いと思える物語をかけるようになりたいのだ。人生で例えるなら、自給自足である。

 自分で野菜作って、畜産して、発電して生きていきたいのである。
 しかし、そのためには、自分の力不足がはんぱねええ。

 努力するしかなかろう。


(かっこ書きである。うーむ。だめだ。面白い文章が書けない。――だが、まぁ、仮にだ、この感覚で書いた文章が何かの役に立つのであれば、うれしいことである。まぁそういった感覚は傲慢なのであるけれども、8年前、2010年の記事など読めば、まぁ、書いておいてよかったのではなかろうかと思う。8年、か。長いようで短い。過去の自分は、まだ、自分がその先どういったイベントに出会うかを知らなかった。その先のイベントを知った今の自分が見れば、――その描いている文章に、字面以上の感慨を覚えるのである。この感覚は、「日記」という媒体の、その著者しか味わうことのできないものである。僕は、若い人に何ら人生訓なるものを授けるほど、できた人間ではないけれども、「日記」を書くということは勧めてもよいと思っている。もちろん、この日記とは、ブログのように公開を前提としなくてもよい。そして、巷にいわれるような「事象」を淡々と書くものではない。そうしたイベントの記述は、手帳にでも書いておけばよい。要するに、思考のプロセスの記述である。これ、大事。何に対して、何を、どのような順序で考え、感じるのか。それをメモしておくことが、重要に思う。少なくても、僕のように人生の迷子になってしまった人にとっては。――人生の迷子! これまた、20代で書くのと、30代で書くのは全く意味が違うだろう。いや良い意味では当然なくて、悪い意味で。深刻な意味で。いや、それはダメでしょう、といった意味で。ふむ、しかし、酔いがまわってくれば、それすらも呑み込んでやろう、という気にもなってくる。うぬぼれもさえもそれは才能、である)




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