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実生活と創作について2
2018/09/12 00:00 | Comments(0) | 目的・目標

雑記

 先日の記事に頂いたコメントの返信において、「ま、自分でこれまで自分の作品をさいっこうに面白いと思ったことは、お恥ずかしながらないんですがね……」と書いた。
 しかし、2004年11月22日の記事……月曜日とのことだが、たまたま読んで、「投稿サイトに挙げたら閲覧数がいくつかあって嬉しかった」「自分の作品も中々面白いと思う」と書いてあった。
 マジか……! マジなのか! いやしかし、マジなのだろう。俺は本気でそう思っていたのだろうと思う。時期的に、たぶん、あの作品なんだろうなぁと思ったりする。読んでみる。正直申し上げて面白くない!(かっこ笑い)

 これはしかし、創作レベルと感性レベルの成長であると、素直に感じてよいことである。そして、感情が抜け落ちた過去の自分の作品において、「面白いはずだ」と思っていたというのは、非常に大事なことである。きっと当時は面白かったのである。ただ、その面白さは、「客観性」に欠けていたのである。自分の感性が、作品への多大な補正を行っていたのである。

 だから、創作で重要なのは、まず、自分が納得できるレベルで面白いか、ということをベースにするべきと思う。他者の評価は辛らつなものになるかもしれない。しかし、それはともかく、自分自身で面白いと思えないで、何の意味があろうか。
 いや、商業的、プロフェッショナルとしては、「こんなの面白いと思えない。でも売れるから書く」というのはあるだろう。仕事なんだから、アウトプットしなきゃ何の意味もない。
 けれども、そうじゃない創作との付き合い方ってのはあると思う。
 僕は、そちらの方向を目指したい。

 ちなみに、プロと、アマチュアと、バイトとか、仕事の形態にはいろいろある。
 基本的に、金銭が生じる場合は、一般的にプロということになる。そういう意味では、バイトもプロである。だから、バイトのことをパートナーとかって言い方をする会社もある。違いは、雇用形態であって、短期か長期か、という点である。臨時職員、契約社員、派遣や請負など様々あるが、基本広い意味で全部プロだ。
 ただし、プロという言葉には、「専門家」という意味もある。スペシャリストである。「その道のプロ」という言い方をするときはそちらの意味が強くなっている。
 上の段落の塊で何をメモして置きたかったかといえば、プロとかアマとか、それは、「実力」とか「面白さ」のレベルを示す指標ではないということだ。アマチュアが集まる音楽の投稿サイトとかもあって、そこで投稿されている曲を聴いたりすると、「すげえ」ってのがいっぱいある。でも、フリーで入手できる場合もあるのだ。……ちなみに、フリーで入手できたからといって、それがアマチュアの作品であるとは限らなくて、プロが企業と契約して報酬を得ている形態もあるだろうし、一概に言えないことは当然メモしておく。ただ、本当に趣味の一環として音楽を作って、投稿している人ってのも大勢いるはずなのである。ニコニコ動画とかユーチューブでもそうだろう。

 だから、いいものってのは、ビジネスモデルと一致しているとは限らないということである。もちろん、対価が支払われる環境の方が、当然サービスがよいものである「可能性」は高いはずである。しかし、当然、可能性でしかないことを銘記しておく必要がある。

雑記2

 関係ないことだから、前回の記事で、詳しくは書かなかったけれども、やっぱり書きたくなってしまった。
 シュタインズゲートゼロのアニメで、演出がいまいちだった、と書いた。
 理由のシーンは、ヒロインの一人が、これまで溜め込んでいた気持ちを吐き出して、ついに行動を起こすシーンである。非常に重要なシーンであり、伏線の回収であり、新しい伏線でもあり、感動的なシーンであるのだ。原作のゲームやったときも感動した場面であった。
 が、アニメの場合で気になったのは、「語りすぎ」と思わせられてしまったことでる。
 セリフが長いのである。
 いやしかし、セリフ自体が問題なのではない。そのセリフ一つ一つが重要であると思うから、カットすべきだ、などとは到底思わない。
 何が問題か、といえば、カメラアングルを、ヒロインに向けすぎていたことである。
 涙ながらに、身振り手振りで感情を表現するヒロインに、心を打たれる視聴者もいるはずだ。
 しかし、その姿が、「おおげさ」に思ってしまったのである。何度も、時間にしたら数分なんだろうが、ずっと見せられて、逆に「感動の押し付け」に感じてしまったのである。
 どうしたらよかったのだろうか。代案なき批判に愛はない。ということで考えてみる。
 そこは、回想シーンのカット(場面)を、挿入すべきだったのではなかろうか。ヒロインの、主人公への思いが、まだ十分に醸成しきっていなかった時の場面や、本心を伝えたくても伝えられなかった場面、逆に、主人公と楽しい時間を過ごしたときの場面など。
 セリフに合わせて、ヒロインにアングル合わせるのではなく、時間軸を過去にもっていくことによって、その少し長いセリフの「重さ」のバランスが取れたんじゃあなかろうか。

 ということは、きっと、演出家さんなども分かっていたんだと思う。ただ、期限とか、予算的な面で、そういった編集ができなかったんじゃあないかと、邪推する。仕事って、期限がある。仕方がないことである。
 でも、やっぱり、好きな作品に対しては、最高の状態で見せて欲しい、という思いもあるわけだ。妥協はしてほしくない。これがベストだと自信をもって送り出してほしい。

 あー関係ないこと書いてしまった。

創作について

 本題である。
 ちなみに、「実生活について」という点については、「保留でよかろう」という結論が前回の記事でついたと思っている。……いいのか? という思いもなくはないが、まぁ、仕方があるまい。中途半端に悩んでも意味はない。決めるべきその日がきたら、世界は、自分はいやがおうなく巻き込まれていくのであるから。

 ということで、今後の創作についてである。

 そもそも、「今年中に何かする」という目標を、先日立てたことによる、返信記事であるといってよい。

サイトのURL変更

 まず、必ずやらなければならないのは、サイトの方の、URL変更である。
 これは、お借りしているサーバーさんの方で告知されていることなので、早急に対応する必要がある。

不具合修正

 データベースの統合を行ったことによる、リンク切れの問題を対応しなければならない。感想や、読んだよボタンを押した後に、一部画面から上手く当該作品へ戻ることができない状況。単純なHTMLのリンク切れならすぐに対応できるが、プログラム部分を直す必要があるため、後回しにしてしまっていた。実際問題これは、自分が使っていて不便なので、できる限り早く直したい。

 もう一つ、これは利用者さんからの指摘であるが、読んだよボタンについて、作者の場合も「読んでるよ」というステータスになってしまうという現象がある。実は、これは機能実装時にそうなるだろうと分かっていた内容であり、俗にいう「仕様通り」という奴なのであるが、確かに不便で分かりづらいところがあるため、直したいと思う。この「仕様不具合」というのが、実際システム系の仕事だと、トラブルの元になるケースが非常に多いのは蛇足の話。
 ただ、ちょっと対応方法は今すぐ思いついていないなぁというのが正直なところ。対応方法検討とプログラミングも含めて対応していきたい。

 まぁ、今、こうやって書いていて思ったのだけれど、やっぱり、こういった仕事(?)は面白い。「問題解決能力や問題解決学習が大切だ!」とかって、教師や上司から言われると「うげー」ってなるかもしれないが、ただ、自分で解決したいなぁと思う問題を設定して、それを解決するための方法を考えて、実行するってプロセスは、やっぱり普通に面白いことだと思うのである。
 だから、「仕事」っていうと、「つまんねぇ」とか「金だけもらえればいい」って、多くの人は思うわけであるが、……いやまぁそれは一つの方法であり、「工夫」が逆に許されない管理型の仕事もあるわけだから一概に言えないのは承知の上で、全部が全部つまんねぇ仕事だけじゃない、ということはあると思う。思ううえで、そういった仕事は「キリ」がなかったりするし、そもそも評価がしにくい面もあるから、非常にめんどくさいのは事実である。だから、「仕事を面白くした方がいいよ」とは中々言えない。言えないけれど、でも、個人的には、面白く生きていきたいと思うのだ。話がずれたしよく分からなくなった。

創作用ブログの開設

 これは案であるが、運営サイトのブログは、現在閉鎖している状況である。更新もしていない。元々は、こういったサイトの方針だとかは、そっちのブログに書いていた。
 エンタメ作品の感想とかもそっちに書いていた。いろいろあって閉鎖した。

 で、サイト更新は、実際開発環境がないと難しい面があって、中々できないところがある。
 更新がないと、「管理人いなくなったんだな。もうこのサイトオワコンだな」と思われてしまう。
 せめてものために、サイトの運営状況をお知らせするブログを開設してはどうか、という案である。

問題点その1:そもそも意味はあるのか

 目的は、上に書いたように、サイト利用者に管理人の状況、運営状況などをお知らせするものである。
 それをしたからの効果は何かあるのか?

・利用者が、一応運営されていることは知ることができる
・僕が、ああ何かそろそろ更新しなきゃと思う

 ……それぐらいか。あんまり意味はないかもしれない。それよか、もう少しこまめに、「お知らせ」欄とかに何か書くとかでもいいんじゃないか。

問題点その2:このブログとの切り分けはどうするのか

 このブログは、基本的に未公開のような位置づけで思っている。いやもちろん、公開しているし、個人特定情報などは書かないので、SNS的な意味で使ってはいない=リアル(物理環境)の人に見せる予定はない、ということだ。
 そういう意味では、運営サイトの方も、別に見せる気はない。けれども、このブログよりかは、見せても構わないと思っている。

 そうしたとき、ブログの切り分けが上手く機能するのか、という問題が二つ目。
 例えば、実生活的なことや、それに対しての考え方などを、先日の記事で書いたけれども、それって、創作ブログ(仮称)に書くことになるのか、それとも引き続きこっちなのか。

 で、多分、創作の、サイトの更新に関することしか書いていないと、ぶっちゃけ、ブログ面白くないだろうし、俺も書くのがつまんねぇってなると思うのだ。

 いや、まぁ、すでにここまでダラダラと書いてきたことから分かるように、僕は、書くことは基本的に好きなんだと思う。タイピングもまぁまぁ早いし、打つのも嫌いじゃない。スマホ、おめーは別だ!! っというか、スマホが嫌なのは、キーボードのスピードとあまりにも差があるからだと思う。思考とアウトプットの差がストレスになるんだと思う。口頭の方が当然早いのだけれども、それよりはキーボードの方が遅くて、頭の回転が速くない自分にとっては、キーボードアウトプットがちょうどいいのかもしれない。

 というか、「面白いこと」って何か、ということである。
 一般的な情報を載せたところで面白くないのだ。そんなん、ニュースみてたほうが楽しいだろう。
 なぜわざわざブログを読むのか。「その人に興味がある」からである。
 いやまて、「エクセルの関数講座」とか、そういう、お役立ちブログ、はどうなのか? あれは、別にブログという形態をとる必要がない。ただし、それらも、情報発信という面ももちろんあるが、「その人が発信する情報である」という点が重要なのである。
 その人が取材(取材といっても、普段生活して気づいた点やちょっと調べたことでもいい)して、その人の言葉で書くから、ブログってのは価値があるのだ。

 いろんなソーシャルメディアがインターネットの開闢から発生し、消えていったが、ブログという形態は残っている。それは、発信者その人への興味というのがなくならないからではなかろうか。

 だから、故に、「創作のこと」を特化したブログってのは、あんまし、面白くないんじゃないかと思うのである。

 だとすれば、このブログと、運営サイトの直結を検討した方が、更新者である僕の手間を考えても適切に思われる。


 が。
 ちょっとそれは避けたいと思っている。珍しく、気持ちが理性に先立って思っている。
 やっぱり、このブログの場は、特別に思っているのだ。
 クローズドコミュニティにしたいわけではない。ただ、……ええい、率直に書けば、リアルの人には見られたくないのだ。一切合切。

 なんでかってのは、多分、数年前のある事件によるんだろうと思う。ただ今は、単純にこの場を失いたくないという思いである。「俺にも、守るものができた……!」とか、そういうBGMがかかるところである。
 茶化すのはやめておいて、なんというか、ブログを、リアルの人にも公開して運営できている人を、僕は羨ましいと思う。いや、そういう関係が本当は普通なんだろうか。でも僕は、かたくなにやりたくないと思っている。

 なんでかっていうと……。

 また長くなったな! 中断!!


(かっこ書きである。しばらく、ブログ更新できていなかったけれども、最近調子が戻ってきた。いろいろ、思いや意欲が溢れてくる。……ブログは、そういう場なのである。なんかこう、気持ちの結節点になるものなのである。だからといって、書いてあることが、全部100%の自分の気持ち……いや、その時点では、その面もあるのだけれども、十分に表現できているとは言えない部分もあるし、前後記事や、これまでの流れと関係する部分もあるのである。だから、その一つの記事だけ読んで、何かこう、「判断」されることが危険なのである。だから嫌なのだ。大体、「長くなったな」と書きつつ、別に読む分には、大した長さじゃあないと自分は思っている。思っているが、一般的に他者の文章を読む際の適切な長さは完全に超えている。ゆえに、誰も普通は読まない。読まないけれども、節々のキーワードから「判断」をする。文章ってのは、ブログってのはそんなもんである。だから嫌だし、期待していないのだ。だから、リアルに公開しようとは思わないのだ。そして、「理解」してもらいたいともそんなに思わないのだ。だからこそ。今、コメントくださったり、訪問してくださっている方々がとても大切なのである。そしてこれは、物理的な友人たちをないがしろに思っているなどとは、まったく違うのである。まったく違うのだけれども、「この場がとても大切」ということを書けば、そういった表現があれば、「オタクプギャー」とか思われるのである。え、そんなことないって? 僕もそんな風に思っていたことがありました。しかし、「普通の人」というのは、そもそもブログなんか書かないらしいのです。っていうようなことを、ある精神科医さんのブログ記事で読んだことがあったような。しかし、そもそも、創作をしたいとかって思う人は、普通じゃないのかもしれぬ)

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創作と実生活に関する方針
2018/09/11 12:00 | Comments(0) | 目的・目標

物語の必要性

 前回の記事で、「創作」と「実生活」をテーマに書きなさいと御達しがあった。
 しかし、いきなりそんな重いテーマで書くと、面白くなくて筆が止まってしまうので、過去の記事を流し読んでいた。そうしたら、下の記事。

2018年6月6日の記事

「現実が満たされたら二次元は不要なのか」
 というタイトルだが、まさに前回の記事と関連する内容だった。もう3か月も前の記事である。そうか、こんなこと、俺は書いていたんだなぁという、この感覚って非常に大事である。何が大事かは良く表現できないが、これは日記やブログを書く利点の一つであるといえる。

 さて、しかし、その記事の内容よりも気になったのは、その記事の翌日に書かれた記事において、「あー前回(6月6日)の記事、めっちゃつまらんかったな」と書いてあったことである。

 今の僕としては、「え、いや、そんなつまらないというほどではなかったよ?」といった感想である。ただ、その時の僕は、きっと「つまらない」と感じたのだろう。


 ここから言えることは、もはや、自分の記事でさえも、適切な評価ができていないということの証左である。
 ましてや、他者の描く物語に対して、一定した評価など、ありえることなのだろうか。つまり、普遍的な物語など存在しない。

「面白い」
 という感情は、非常に偶発的で、一時的で、奇跡的なものですらあるのだ。
 だから。
 自分でも「創作する」という観点を忘れてはならないと思うのである。

成功体験と無気力について

 とはいえ。
 すべては偶然の産物である、とするのは、あまりにも運命論的に過ぎる。
 自分の行動が何ら自分の環境に影響しないのならば、無気力になるのも時間の問題だ。心理学でいう学習性無気力。
 そのためには、成功体験が必要だ。
 これは、ゼロをイチにすることである。
 これが、最大に難しいことだ。

 卑近な例を挙げてみる。
 ある童貞がいたとする。ある童貞は、彼女が欲しかった。しかし、彼女ができたことは、未だかつてなかった。(例が童貞である必要は全くなかったことに途中で気づくが書き続ける)
 彼は努力をする。彼女を作るために、服飾にも気をつかい、様々な出会いの場にでかけ、コミュニケーション力を培い、失敗を繰り返しながら学んでいく。
 その努力は、それだけで尊いだろう。
 が、その結果、「うまくいった」or「うまくいかなかった」となったとき、その「努力」に対しての自分の感じ方が、大きく異なるのである。

 適切な努力の量で、適切な結果が得られるべきである。
 努力の甲斐なく、彼に彼女ができなかったとする。だが、それは一つの結果に過ぎない。
 ただ、彼の中で、これまで一度も彼女ができたことがなかったとしたら、彼は、「今後も」自分には彼女はできないだろうという諦念が生ずるのである。

 異性を例に挙げたが、ミュージシャンでも、仕事の出世でも、対人関係(友達づくり)でも、なんでも当てはまるケースだ。

 成功体験がなくして、自分の実力や行動を信じられる人はいない。


 とはいえ。
 すべての、限りある人生の中で、すべての体験をするなど不可能である。

 だから、一つの成功体験を、連続した道筋として、自分の思考と納得感の中で紐づけられることが重要なのである。(それが物語だ、と書きたいが、飛躍するので我慢)
 上の例の彼が、たとえ、努力むなしく彼女ができなかったとしよう。しかし、女の子とおしゃべりして、一度だけでもデートに誘うことはできた。おめでとう!! それで十分だ!
 当初の目標からしたら、到底合格点には及ばない。しかし、一つの成果があれば、それを次の成果に結びつくだろうという「希望」を得て、次なる行動につなげることができるのだ。

 しかし、今「希望」という言葉を使ったが、これは当然、「納得感」が重要である。
 デートには誘えた、でも告白したら失敗した……という同じ結果であろうが、それを、「今度は別の子ならうまくいくかも!」と思えるか、もしくは「やっぱり自分はどう頑張っても無理なんだ」と諦めるかは、「納得感」によってしまう。

 ここで、下手な慰めなど、何ら役には立たないことを肝に銘じておく必要がある。
 言葉は時に絶大な影響をもつが、潜在する、内在する「感情」や「信念」は、非常に頑強なのである。

ネガティブな人を立ち直らせるには

 失敗を繰り返した人は、単に運が悪かっただけかもしれない。
 環境があってなかっただけかもしれない。
 その可能性がゼロではないから、「あきらめるな」「死んではいけない」という掛け声は、どんな場合や状況でも「正解」である。

 ただ、諦めというのも、時に「薬」になるし、「死」という概念も、時に救いであることもある。
 ただ、そんなことを、誰彼に言うべきではない。「大丈夫、きっと生きていてよかったって思える日がきっとくるから」とでも言っておけばいい。

 俺は冷酷な人間なのだろうか。
 本心をひた隠して、明るく振る舞うだけのサイコパスなのだろうか。

 どうでもいい。
 他者にどう見られたいかということや、「いい人」であることは、若いころはともかく、興味をもつ必要はない。

 どうしたら、適切に自分の思いを伝えられるか。
 どうしたら、適切に相手の思いを理解できるか。
 インプットとアウトプットの方法を鍛えるだけである。

 相手にどうみられるかは、結果に過ぎない。それも偶発的で、不確定な。
 もちろん結果を受け止めなければ次はない。
 ただ、その結果をどう理解し、繋げるかというのは、結局至極単純、自分のストーリーなのである。

 小見出しのネガティブ云々と関連がなくなってしまった。
 ただ、大事なのは、そのネガ人を、自分が本当に明るくさせたいか、ということだと思う。
 別に、ネガティブだって悪くなかろう。
 そういう個性なんじゃないか、って思ってるのなら、そもそもそんなの問題じゃない。
 だから、「ネガティブな人を立ち直らせるためには」という問題の立て方がそもそも間違っている。

実生活について

 や、ばい。
 パソコンになると、ある程度インプット、アウトプットする時間ができると、本当にどんどん長くなる。実りがないことをどんどん書きたくなってしまう。
 これは、普段生活していて生じた思念が、アウトプットできずに自分の中に渦巻いているからなんだと思う。
 んじゃー、実生活の周りの人にしゃべればいいじゃん、と、普通は誰しも思うだろう。
 それは、やってはならん。

 みんな忙しいんだよ。そんなぐだぐだした話に付き合ってられんのじゃ。
 彼女がいる人は、デートとか、仕事も忙しいだろうし、お子さんがいれば保育園に連れて行ったり、納期が迫った仕事でプライベートの時間も考えなきゃならなかったり、親の介護をどうするとか、ペットが最近具合悪いから心配だとか……。あ、布団干してたけど取り込まなきゃ雨が降ってきちゃうとかとか。

 現実世界は、みんな忙しいのである。
 思考とか、考え方とか、そんなこと言ってる場合じゃないのだ。


 なので、もう、こういう場で書くしかないのだ。
 で、「こういう場」って、非常に大事だけど、難しい。難しいけど、大事。トートロジー。

 あー、えーと、だから、まぁ、アウトプットしておかないと、まともに、目標だとか大層なことできんのである。ブレーンストーミングだよ。批判厳禁だよ。
 あーだけど、この記事、面白くないんだろうなぁとも思う。思うけれど、上の3か月前の記事が、ふと今の感覚で読んだら面白かったりするし、とにかく、書いておくことは正しいことだと、これは、僕の経験が告げている。なんか第六感みたいな感じだ! すげー!(かっこわらい)

実生活について2

 本題だ! きっとこの記事では、創作についてまで書けないと思う。
 創作については、取り急ぎ、サイト運営で気がかりな部分があるから、それを着手したいなと思っているが、今度の記事で触れよう。
 今回は、まず実生活だ。

 というか、前回記事から書いてたが、実生活ってなんだよ!(いまさら、である)

 実生活とは、……実生活のことだよ!
 家を買うとか、そういうことだよ。
 えっ、買うの?

 いや、あまりその気はない。
 しかし、現状、あまりリアルに書きたくはないが、二重生活のような状況なため、コスパは非常に悪いと思っている。集約化することで、費用は抑制できるし、それこそ、新しい住居を買うというのも、全然非合理的な判断ではないはずだ。

 いやここで、不動産購入というのが、そもそも非合理であって、一生賃貸でも全く問題ないだろうという理屈ももちろん分かる。
 分かるが、ここで、一戸建て派とマンション派の不毛な議論を……いや、その議論自体は価値観がいろいろあって面白いと思うが、どっちが間違いなく正解か、などというのは、結論がでたところで、それと自分との感性が一致するか分からんし、重要なことではないのは明白である。

 だが、ここで、「子ども」という概念がなければ、正直不動産購入をしようとは僕は思っていないと思う。同時に、「結婚」というのも同様に、しようとは思っていない。必要があればしてもいいと思うが、その必要性が、「子ども」以外に浮かばない。(まあ、事実婚というのも法律上あるらしい。どういうケースで認められるのか詳しくは分からないが)


 もう一つ、移動手段であるオートモービルを所有しているが、その扱いなど。最近あまり乗っていないが、経常費用はまぁまぁかかるわけである。それこそ、レンタルだって都心で暮らせば充実しているわけで、「所有」という形態にこだわる必要はあるのか、というのは問題ではある。

 が、今のところ、それも家計としては問題なく維持できる範囲である。逆に言えば、維持できる範囲のものを購入しているだけの話だが。



 と、なると、要するに、実生活を今後変更する決断は必要ない、ということではなかろうか。
 現状維持か。



 しかし、注意せねばならんのは、現状維持というのは、実際存在しないのである。

 現状維持というのは、不可逆の時間の中で、何らかの行動をすることによって成り立つものである。何故ならば、すべてはエントロピーの拡散だからだ!(よく分からないでカタカナ語を使った。一応調べるが、意図としては、物事は経年劣化したり、拡散していくものだ、ということ)

 常連に愛される店とは、いつもと同じ+αのことを探求していかなければ、「いつもおいしいね」とは言ってもらえないという、よくきく、あれだ。

 もう一つ理由は、人は、飽きるようにできているからだ。飽きることで、人は工夫をして、生活を豊かにしてきた。(テクノロジーが幸せにつながるか、というのはまた別の話)


 つまり、変化を恐れてはならない。
 というよりも、変化しないものはない。シッダールタさんも言っている。諸行無常であると。
 あー、そういや、最近仏教に関連することを全然書いてないな。これも、飽きの一つだろう。
 先日、坐禅をお寺にしにいった。とても貴重な体験だった。しかし、身体が固い僕は、痛みに耐えることがメインとなった。柔軟体操もルーチンにしたい……が、これはなかなか長続きしないのだ……。

 なんだっけ。変化。
 変化はするんだ。
 何もしなくても変化するんだ。
 だから、その変化を、いやその変化に、少しでも、自分の意志を反映させたいのである。

 あーもう、具体的な方策が何も決まらない。
 いや、別に、今のままでいいってことじゃないか? んーん?

 長くなったのでひとまず終わり。


(かっこ書きである。まとまらん、全然まとまらない。というか、今までまとまったことってあったのだろうか。いやそれはともかく、シュタインズゲートゼロのアニメ、アマゾンプライムで公開されている最新まで見たけれども、正直いって、最初のクオリティから下がっていると感じた。いや、大好きな作品だから、批判の意図はないんだけど、ちょっと残念だった、というか、物語に入り込めなかった。理由はまぁ、いくつかあげられるけれども、動画の、演出が自分に合わなかったなあというところである。とはいえ、後半は、ゲーム原作の方も、ちょっとばかり強引だなとは思っていたのである。しかしゲームは、ノベライズゲームは、自分の読むスピードなどで調整しながら、補完しながら進めることができるので、何とか自分に納得させながらやっていた。アニメは、基本みることしかできない。そのときに、「間」というのは、非常に大事なのだけれど、その間がいまいちであった。セリフと動画の動きとか、動画のカット(見せ方、見える角度)などが気になったのである。……って全然関係ないこと書いてしまった。だけれども、今回の記事としては、実生活を大きく変える決断は、今しばらく保留としておこう、ということで、いいと思う。やっぱり、創作に関して書くべきである。(たぶん)続く)

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目標を立てるための目標を考える
2018/09/10 12:00 | Comments(4) | 目的・目標

生きる意味についての次元

 久しぶりにパソコンが使えて時間が取れるので、小見出しを復活して書いてみる。

 あー、ええと、生きる意味を考えたことがある人は、20代以上の各年代層で、何と50%以上だということだ。

生きる意味がわからないと訴える匿名投稿が話題 「理由なく生きてる」と共感の声も | ニコニコニュース http://news.nicovideo.jp/watch/nw3851059

 ちょうど、ある友人の一人に、「死んじゃいけない、生きて欲しい」とメッセージを送ったころだったので、何か感傷的になった。


 生きる意味には、次元がある。
 宇宙レベル、人類レベル、社会レベル、個人レベル……あたり。細かい分類が重要なのではない。要するに、大きい次元から個人単位の次元がある、という点を抑えればよい。

 僕がいつも云々書いているのは、当然個人レベルの話だ。
 しかし、これは、マズローの5段階欲求説とは違って、必ずしも個人レベルを満たさなければ、高次の次元が満たされないとか、そういう代物ではない、と思う。

 ただ、個人レベルが満たされていないまま、他の何かに意味を持たせようとする危険ってのは、歴史(軍国イデオロギーとか民族浄化とか)や事件(新興宗教集団の過激化)などを見ていれば分かると思う。ただ、それは一面的なものであって、絶対にダメってわけじゃなかろう。

 と、いうか、そういった集団的な承認が「危険」ってのが分かってきたから、昨今現代は、「個人主義」的な様相を帯びてきているのだろうと、別に学問的な根拠など何もないけど、個人的に思っている。
 陰謀論的に書けば、個人主義ってのは、カウンターパート? ていうんだっけ、抵抗組織、集団的なのが形成されないように、支配者層が考えて推し進めている新たな支配形態である、的な。

 まぁ半分冗談で半分本気だが、仮にそうであってもなかろうと、僕らは、結局個人的に生きるしかないのである。ゆえに、僕は、生きる意味を考える、と書くときに、次元としては、個人的なレベルを無意識・意識的に選択しているのだ。



 そして、個人的な生きる意味、においては、それは「各人が見つけるしかないもの」と思っている。つまらない結論だ。
 普遍的で、物理的だったり、工学的に、または論理的な方法で、その意味に到達する方法があるとは思えない。せいぜい、年長者の、「自分はこうやって生きてきた」的な経験論を参考にするまでである。(もちろん、それが無駄なことなどとは一切思ってないし書いていない。ただ、それらはその構造的に、自分に役に立たない場合が多いことはまぁ事実だ! とはいえ、役に立つときももちろんあるというのが重要な点)

 ええと、その、友人のことはどうか、大丈夫なのか。
 分からない。
 薄情? そうだろう。
 ただ、僕は、未だに、生きる意味という問題について、つまらない、「各々頑張ろうね」程度のことしか知らない。
 だから、僕が言えることは、「死なないでほしい」ということだけである。

(ここまでが生きる意味的な内容)

蛇足

 生きる意味なんて、根源的にないのだろうと、思っている。思っているが、それを大いに、強く否定したい。それがこのブログの一つの目的である。

 上に取りあげた記事において、「親がまだ生きていて、悲しませたくないから生きている」とか意見もあったりして、非常に共感できる。
 だが、だからといって、死んだのか生きたのか分からないように、「思考」もなく、日々に流されるように生きていくということを、僕は否定する。他の人がどうだろうが、僕自身は、嫌だ。

 そうしなきゃ、「死にたい」を始めとして、「人生クソゲーだな」「面白くないつまらない」「なんでこんな苦しいのに生きなきゃいけないんだ」的なネガティブな感情が溢れていた過去の自分に申し訳ない。
 今が普通に幸せ?
 ふざけんな、と言わなければいけない。

 僕は、今や、未来の自分はともかく、過去の自分も救ってやりたいのである。


 ……本当か?
 文章とは面白い。今、勢いに任せてここまで書いてきたが、「過去の自分を救う」など、本当に思っているのだろうか?

 別に救わなくてもよくね?(かっこわらい)

 いやまぁ、そうだな、今がよければいいよな。……とはならないと思う。
 何でかってのは、今回の記事の目的から逸れそうだけど、ある程度書き残しておこう。

 過去が救われないとはどういうことか。それは、「意味が与えられない」ということだ。
 過去が無意味であるということである。連続性が断裂するということだ。

 それが何が問題か?
 未来がなくなるのである。

 人は、根源的に時間的存在だ、というのはハイデガーだったか。しかし、人は根源的に記憶的存在だ、とも言えると思う。
 自分とは何か。それは記憶の総体である。記憶が単にデータとして「ある」状態なだけではなく、それを「引き出す」というのも含めて、人は「自分」になる。

 とかってのを、このブログで連載している作品で一部表現したいと思うのに、アイディアだけで全然ストーリーが進まない、というのは蛇足と言い訳の恥さらしだが、まぁとにかく記憶は大事である。

 その大事な記憶が、ごっそり無意味化するというのが、過去を救わなくてもよい、という判断なのである。
「ま、たまたま、昔は不幸に見舞われましたなぁ。災害とか、そんなレベルですわ、わっはっは」
 ということである。まー大したことないことならいいが、災害で最愛の人を亡くしたとか、全財産失ったとかした人は、その過去へも、ある程度何らかの意味を与えなければ……たとえば、全財産失ったけれども、人とのつながりや優しさを感じられて本当に大切なものを知ることができた……とか。

 それ、単にきれいごとじゃねぇか、と若い人は思うと思う。
 そうかもしれない。単にきれいごとや、自分への誤魔化しかもしれない。他者から見たらそうとしか見えないかもしれない。
 でもいいのだ。それで、それが、本当にその人にとって救いの福音であるのならば、構わないのだ。過去を救うというのはそういうことなのだ。


 蛇足部分が長くなってるな。まぁそれが本当に蛇足なのか、僕が本当に書きたかったことなのか確かめるすべはないのだが、こういう現象は、間違いなくスマホでアウトプットしているときには発生しないのである。キーボード面白いなあ。

目標

 あー、それで、本題にいこう、そろそろ。

 思考のこと。
 実生活のこと。
 創作のこと。
 仕事のこと。

 このあたりの方針を書きたい。
 忙しいことをいいことに、目を背けてきたことだ。真剣になるのが怖くて、逃げていたことだ。でも、もうちょっと向き合おうじゃないか。

 ……目じりに皺が寄る。

 うーむ。とりあえず、思考のこととしては、カクヨムに挙げている随筆的なのを完結させたほうがいいよなぁ。
 30代前半の俺、という存在が考えて、方向付けしたこと。
 という意味で結論を出したいと思う。

 それって、今しかできないことである。くだらない日記的なのを書いている暇があったら、お金を稼ぐ何かを考えたら? というのが、世間一般の考えなのだろうけれども、俺は即座に否定する。

 上に挙げたアンケート的なのが物語ってると思う。まず、「生きること」というのが自明じゃなければ、仕事だって遊びだって、何ら色彩を失うのである。
 生命の危機が毎日迫っているような自然や、紛争や戦争下では、愚かしい感情だったり思考であることは間違いない。そういう、「平和ボケしたこといってんじゃねえ、もっと大変な人は世界中にたくさんいるんだぜ」的なことを言う人たちを、まず無視して構わない。
 そういう問題じゃない。人と比べてる場合じゃないのだ。ひどい環境と比べて現在の環境がマシ、だなんて、敵国のネガティブ教育をして、自国への不満をそらすような卑劣な方法と何が違うというのか。問題ってものは、その環境下で必ず発生するものなのである。それを解決していくことが重要なのであるのに、その問題の本質に目を向けない行為は愚鈍である。

 
 あぁ……そうじゃない。そんな一般論的なこと書いてないで、もっと自分のこと考えろよってことである。上に書いた、問題の本質に目を向けないってのは、まさにブーメランである……。


 長くなってきたので、分けて書いていこう。今回の記事はそのための方針付けまでとしよう。

 先に挙げた、思考、創作、仕事、実生活(順不同)を考える軸とする。
 で、本当は、「身体」ってのも重要な要素だ。健康でなければ何もできない。この点は、若いうちはあまり意識しなくてよい。そういう点で、若さというのは有利な部分だ。だが、若いだけではあんまりそのメリットはない。そこに伴わせられる思考や行動がなければ、あんまり意味はないのだ。
 であるが、今のところ、視力が落ちてきているということ以外に、大きな問題はなさそうである。健康診断の結果もおおむね良好であった。筋トレルーチンは、そろそろ負荷を増やしたほうがいいような気もするが、まぁそのあたりの重要度は下げて構わないだろう。

 また、「思考」というのは、これまでこのブログで書いてきたことをざっくり読み返すと分かるが、たぶん、これからも付き合っていく必要があることだと思う。だから、ことさら、ここで重要性を上げて取り組む必要はない……というか、避けようがなく向き合うことになる気がする。

 そうすると、創作と、仕事と、実生活あたりがポイントになってくる。少し絞られた。
 次に、仕事、を考えてみる。例えば転職するかとか、今の仕事のキャリアアップを目指すとか、上司に気に入られて社内政治をうまくしようとか、そういった漠然とでも方針をどうするか。
 とりあえず、来年度はまた状況が大きく変わりそうな見込みがある。残業がががーっと増えたりするかもしれない。ただ、来年度までにクビになったり倒産したりは、まずなさそうである。そうすると、ある程度、安定した生活基盤は取れそうである。まぁ、残業やストレス等によって混沌とする可能性は否定できないが。
 とすれば、仕事という面も、最重要検討事項ではなさそうである。

 すると、実生活と創作、というのが残る。
 そもそも、創作活動というのは、率直にいってしまえば、「必須」ではないのである。
 このブログもそうだが、別に書かなくても、創作しなくても生活できるのである。この点はまず書いておかなければいけないだろう。
 しかし、多分、これは勝手な推測……いや推測と書くにもおこがましいが、思考や創作がなければ、僕は自壊するだろう。
 いやいや、現実世界の人との付き合いに100%注げば、そんな思考や創作なんて必要ないさ! とも、思うことは思う。
 思うが、多分、それはリスキーであるし、僕はそれができないタイプの人間なんじゃあないかと思うのだ。

 とはいえ、世間の多くの人は、「物語をもたない」と思う。
 ええと、このあたりのことは、もう少し厳密に書くべきだけれども、あまりうまい表現がまだ浮かんでいないし、あまり書いたこともないから難しい。
 経営者とかは、自分の物語を現実に落とし込んでいるような人たちだと思う。
 政治家も、本来的にそういう人であって欲しいと思う。
 僕は、経営者や政治家ではないけれども、物語が必要だ。というよりも、現実と理想との関係に乖離があるからこそ、物語が必要だともいえる。

 いやいやそれは逃げなのではないか。現実と向き合わず物語の空想に耽って自慰する行為ではないか。

 違う、と思う。説得力はもたせられないけれど。
 人生に、物語をもたせられない人は、物理的世界が上手くいっているうちはいいが、想定外の事態に弱いと思う。

 ……うーん、いや、何か違う。別に、物語の必須性を語りたいわけではない。不要であるという人がいても全然かまわない。
 ただ、ここで僕がいいたい、「物語」というのは、ストーリーであって、人を納得させられる事柄や流れのことであって、仕事の上でも、ご近所づきあいにおいても、何にでも必要なことだとは思うのだ。

 まぁいいや、またそれらは一般的な云々を勝手に僕が思ってるだけの話で、大したことじゃない。



 ……ちょっとまて、長い!
 まただらだら書いてしまった。いやまぁ、別にだらだらしたつもりはないのだけれども。
 しかし、僕は頭が弱いので、こんだけアウトプットしないと、思考がちっとも進まないのだ。頭がいい人は、こんなこと書かなくても、いや、そもそも経過を踏まずに結論がすぐでるんだろうが……羨ましいな。
 まぁ仕方がない。環境も、自分の身体も、頭も、今あるデバイスを最大限活用するしか、アウトプットもインプットもする方法はないのだから。外部記憶装置早く開発されるといいね。それで、感情データとかのインプットもできるようになったりして。最高のエクスタシー体験とか、ジェットコースターとかサーキットとかのスピード体験を家にいながら感じられたり。インプラントできるようになれば、仕事のストレス、上司や部下からの叱責や暴言も、脳の感情調整装置が自動的に稼動して、A10神経群のニューロン発生経路を調整することで苛立ちや怒りや哀しみといった感情をパス(迂回)させちゃったりして。ストレスゼロ社会の完成である。

 と考えると、ストレスとか、ネガティブな感情ってのは、やっぱり、人類、人間にとって必要な装置なんじゃないかなぁという想像も働く。ストレスフリーなのはいいことだ、というのに誰もが頷くけれども、人間自体がそれを受容することができなくなるのは、何らかの危険が発生するのではなかろうか。

 ……と、また余計なことを書いた。次。次の記事で、実生活と創作に関しての方針を考える。

(かっこ書きである。長いからやめる。次回に(たぶん)続く!)

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生き方を選択するということ
2018/09/07 20:00 | Comments(2) | 思考及び書くこと
あーその、二つのことをメモしようと思う。

ひとつは、合コンの誘いをして頂いたということ。
ひとつは、とある尊敬する友人が、セミプロとして活動を始めようとしていること。



一つ目は、読んで字のごとく。
だがポイントは、合コンの誘いというよりも、飲み会という雑然としたコミュニケーションの場で、初対面の人に、好印象をもってもらえたということだ。
よりよく考えて会話したというより、これまで以上に、自然な形で会話ができたことがよかったと思う。

そういう意味で、コミュニケーション力、自分にとって苦手な奴を、上手くこなせたと思う。
もちろん、相手がもっとコミュニケーションの達人だったことが原因の一つである。
ただ、自分の行動や発言の方向性も上手くできたと思う。

要は、苦手なことも頑張れたことの達成感についてである。

これは、正直、ブログのおかげでもあると思う。
普段僕が、率直に、飾り気なく、気持ち悪いくらい素直に感じたりかんがえたことを、ゼロ秒にアウトプットできるこの場は、いまも、これまでも、これからと、きっと大切な場であることは変わらないと思う。  




そんな場を維持することに寄与してくれた友人の一人のことが、二つ目の内容だ。

ある方が、自身の作品をプロモートし、販売していくことを決められたと、重大な発表があった。

その方とは、どれくらいのお付き合いになるだろうか。正直よく覚えていない。とある投稿サイトで読んだその方の作品に衝撃をうけ、連絡をとったのが始まりと思っている。

僕が数年行方をくらました期間を含めれば、長い付き合いに思う。


さて、このブログは、僕の思ったことを、できるだけ素直に、率直に、シンプルに、飾らずに表現することが、目的であるし、誠実である。


僕が、その重大なニュースを読んだとき思ったことは何だったのか。

応援したい、頑張ってほしい。
確かに思った、これは嘘じゃない。

しかし、僕の感情の多くを占めたのは、
寂しい、というものでなかったろうか。


何故そんな、器の狭い、みみっちい、女々しい、つまらない感情を抱いてしまったのか。
それを分析する必要がある。

簡単に考えるに、その人が、どこか遠くに行ってしまったように感じられたのだ。
しかし、これは、僕が別に運営しているサイトの理想と矛盾している。そのサイトでは、作品を作るということのきっかけを提供し、いつか大きな舞台で活躍する人の一助となることをうたっているのだ。
そう考えれば、その方の活躍は、僕の理想にも寄与し、とても素晴らしいことであると思う。


が。僕の感情は違ったのだ。
いや、違ったと書いたが、素直に、うれしいなぁ、すごいなぁ、がんばってほしいなあというのが、半分ぐらいは占めていたと思う。一方で、寂しい、という感情も起こったことを記述しているのである。


しかし。悲しいかな、昨日その重大事項に触れて、僕は久方ぶりに感情の渦にのまれ、奔流に押し流されていったわけであるが、昨今の状態として、寝たり、半日以上が過ぎると、感情に断裂が走るのである。

要するに、感情から、記憶へと移ってしまうということだ。
そんなことはもう分かっているので、ある程度可能な限りメモしたり、思考の反芻をしたりと試みたので、まぁここまで記述できるけれども、正直もう、当初の感情をもってして、今この文章は書けていないのだ。
ああ、本当に、文章のリアルタイム性を思う。


しかしだ、この問題は非常に面白くて、要するに、思考と、言語表現とのギャップ、というのは、アウトプットのデバイス……ここでは、口頭といった手段も含めて、どのようにしてアウトプットするのかによって、思考も変遷しているということが、面白い。

スマホという、アウトプットには不便極まりないデバイスを、僕はいつも否定したくなるけれども、スマホだから書けるって内容もあったりする。これが面白い。

頭の中の言葉、思考が、どのようにして日本語となり、文章になるのか。不思議だ。

そういう意味で、やっぱり語彙力がある人は、思考も豊かなんじゃあないかと思ったりする。


……話がそれた。
ええと、何故僕は寂しかったのか、ということだ。

甘えていた、のかもしれない。
何に? というのもよく分からないが、なんか、大切なものを奪われるような、そんな感覚。ええと、こっぱずかしいが、自分だけの宝物を、みんなに知られてしまったかのような。

というのを、トーベヤンソンのムーミンという作品が、巧みに描いていた。ユーチューブで見れたアニメーションがあったのだけれど、ムーミンには、スナフキンという友人がいた。

ある日、スナフキンのテントに勝手に入ったムーミンは、スナフキンが大事にしているギターに触れる。そこにスナフキン登場。ムーミンは別にギターを壊したりしたわけではないが、いつも優しいスナフキンは、あからさまに不機嫌な態度をとる。ムーミンは理解できない。ムーミンは逆に怒って、スナフキンのテントから飛び出していく。

別の日。スナフキンとの関係がこじれたまま、ムーミンは、とある秘密基地のような場所を不意に見つける。ムーミンは、閉鎖的だけれど、明るくて、居心地のいいその空間をすっかり気に入る。

別の日、ムーミンの友達の、ノンノンやミイ、スニフなどが、そのムーミンの秘密基地を偶然見つける。ムーミンは、ノンノンたちが自分と同じようにその場所を気に入って、遊び始めることにいら立ち始める。
「君たち! 何をしてるんだ!」
ムーミンは大声で怒鳴る。
しかし、その時気づく。

あのとき。
スナフキンが、テントの中でいきなり不機嫌になったのは、もしかして、自分の大切なものや場所にずけずけと入ってきたことに機嫌を悪くしたのではないか。

ムーミンは、スナフキンに謝りにいく。
スナフキンは、そんなムーミンを、これまでのようにやさしく迎えたのであった。



……。
と、ええと、数か月前に見たので、あいまいだが、確かこんな話だった。
要は、親しき中にも礼儀ありとか、プライベート、といったことの表現なんかではないかと思う。

要は、僕が、ある方の発表をみて感じたのも、秘密基地を他の友達に見つけられた、幼いムーミンのような感情だったのではないか、ということだ。




あー、だから、まぁ、なんだ。
寂しいってのはたぶん間違いないけれど、でもそれ以上に、やっぱり、素晴らしい作品は、多くの人が見るべきである。
それに、僕も、末端外縁微小ながら創作に携わる身であるから、自分の作品が多くの人に触れてもらえるってのは、やっぱり、単純にうれしいことであることを知っている。

だから

これからも応援しています。頑張ってください!

である。


さて、珍しくまとまった、というか、結論的なのがある記事である。うんこれは珍しい。

それはそうと、俺は、どうしようか、と思う。


創作って、大変である。
筋トレルーチンの比ではない。
ときに、日々の仕事なんかより大変だ。

面白い作品を創りたいのである。
面白いというのは、魂魄を揺るがすような、価値観の変化、パラダイムシフトが起こるような作品を、僕は面白いと思う。
もしくは、時折、または常に薄く淡くまとわりついている、「生きづらさ」ってのを可視化するような作品も面白いと思う。
もしくは、狂気といわれようとも徹底した人としての生きざま、生きる意味、人の存在意義を問うたり、表現するような作品も面白いと思う。


それって、自分で作らなきゃダメなの?
その友人さんのような、君が「心底面白い!」って思えるような作品や、そういった作品を描く人を探すほうがコスパよくない?

上の疑問はもっともである。
だが、物語は、唯一性と、一回性があることが、重要である。
つまり、どんな物凄く面白かった作品でも、二度目は、同じだけのカタルシスが得られるとは限らないということだ。

物語に触れるってのは、遊びじゃねーんだよ!!!(かっこわらい)

かっこ笑い、を付けたが、わりかし、マジに思っている。が、これは、飲み会とかでは言わないほうがいいレベルの内容だ。僕、分かってる。

でもさ、もうおじさんになってくるとね、物語に触れるのも、結構、精神・体力使うのよ。

そうしたときに、……うーん、理屈が自分でもよく分からないけれど、やっぱり、「自分だったらどんな作品を創るのか」って視点が大事に思うのである。


なんだろ。僕は、代案なく、ただ批判ばっかりする人が嫌いである。
専門分化した社会で、何でもかんでも自分一人で行うってことは不可能だし非効率だ。
けれども、「どうしたらよい」がないまま、ただ不満や愚痴、文句や批判、失敗のリスクだのなんだのばっかり言ってる人が、ほんと多い。いや、多くはないのかもしれない。けれども、少なからずいるし、何故か、そういう人が上の立場だったりする。

いやまぁ、「管理」ってのは、保守的な面があるわけだし、新しいことが必ずよいことなわけでも当然ない。
もっといえば、僕がいま上に書いているようなことも、「くそったれな人ばっかりだと思うなら、そういう人たちを駆逐するための代案を示したらどうだ」ということになる。そういうこと言われたら、悲しいけど、確かにその通り、ブーメランだったなぁって思うわけだが。

でもまぁその、手放しで面白いって言えたり感じられたりする作品って、少ないのだ。
ベニー松山氏の、風よ。竜に届いているか。はめちゃくちゃ面白かった。けれども、もう、今は思い出せないし、もう一度読んだところで感情は復活できないけれども、自分の中での100%ではなかった。

てことはだ。
ということは、まだ、自分を究極に満足させられる方法は、きっと他にあるってことなのだ。
それを、模索していきたい。もちろん、多くの作品に触れてインプットすることも大事だけれども、「自分ならどういった作品を紡ぐか」という視点は、常に持ち続けたいと思うのだ。

で、あるからにして、結局、どうするんだよ、お前は!!!

(かっこ書きである。うん。やはり、よくまとまらなくなった。俺のブログらしいといえばらしいのであるが、こんな甘えたこと書いていられるのも、今のうちなのかなぁ。……。よし、決めた。年内中に何か仕上げる。何かは決めてない。だが、何か、仕上げる! いやお前それ、結局何も決めてないのと同じじゃねえか。何かって、仕事の納品物だって何かに含まれるだろうよ。あーん? いやいや、創作関係で、「何か」する。何かは、何かだ!! ああ、なんか焦ってるな、俺。それにしても、この前8月が終わったと思ったら、もう一週間がたつのだぜ。時間、早いよなぁ。明日も早い。今日はもう寝よう)

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八月の終わりに
2018/08/30 20:00 | Comments(5) | 思考及び書くこと
短くてもよいから、一ヶ月に、1つの記事ぐらいは書きたい。

しかし、ほんと、一人の、空間的に一人の時間がないと、blogは中々書けないなと思う。

筆がのってくると、いくらでも書ける……もちろん、それは中身のない内容がほとんどなのだけれども、エンジンがかかるまでにそもそも数分から十分ほどかかる。
その間に、話しかけられたり、何か他の作業が必要になるとまた最初からエンジンの起動からとなる。

そのため、数時間は、一人が確定する時間が欲しい。けれども、別に毎日はなくてもよいと思う、難しい。



ただ、一般的に、一人の時間を、みんな欲しいと思っているのではなかろうか。家族がいても、恋人がいても、誰しも。
しかし、年がら年中、誰かと一緒にいないと不安だったり、一人になっても、SNSなどで誰かと繋がっていたいと思うひともいる。

そういう意味では、blogと言うのも、誰かと繋がる手段であって、SNSと同じかもしれない。

でも、僕は、自分と向き合う時間と思っている。



最近、言葉遣いがよくないというか、人に気を使わなすぎて良くないと思ったりする。
ただ、この感覚は、今までが異常で、普通の人たちは、それほど他者と向き合うときに気を使っていないのかもしれない、分からない。
ただ、僕は、むかーしと比べると、ほんとに人付き合いが適当になったと思う。適切、なのかは分からない。
でも、人を怖いとは思わなくなった。

もちろん、怖いひともいれば、ムカつくひとも大勢いるのが事実だ。

ゆえに、この気のつかわなさは、気を付けるべきと思っている。



思っているけれども、こうやってblogでも書いていないと、ほんとにあっという間に時間が過ぎるのである。

もう、八月が終わるのであるが、へーっという、何かこう、タイムワープしたかの感覚だ。

記憶として、八月に何があったかは思い出せる面もあるけれども、そこに感情はない。
記憶として残っているだけ。

そんな風に考えたり感じたら、死ぬってことすら大したことないようにも思う。


自虐でも、不幸自慢でも、本当にそうは思っていないけれども、自殺しようと思ったり、毎日苦しくて嫌で一人夜泣いていたことが、記憶として残っている。
感情は今はないので、たいした問題じゃない。

ただ、そんな感情の奔流があった足しても、今こうしてのほほんとしているのである。

これは、他意はないけれども、そういった苦しかった経験も、今だからすれば、悪くない、のではないかと。

これは、今だからすれば。

今だから言える、他人事である。自分のことだけど、他人事である。
知らない人のことと同義だ。



苦しい経験だって、いい思い出になるさ、なんてこと、絶対の言われたくなどなかったのである。
あの頃は、どんな言葉も、慰めも、何の意味もなかったのである。



とすれば。時間が解決するというだけの話。
そして、それは、結果として解決しただけ。
何の主体的な意思はなく。
天からのお恵みのようなものだ。

そうだとすれば、主体性や、意思や、生きようとする心や、強くなろうとする努力や、頑張りや、壁を乗り越えることや、鍛練や、その他のたくさんの行動は、いったいなんのためにあるのか、と問わざるをえない。



僕らは、運命に惑わされ、流されるだけの、そんな惨めで、偶発的で、気まぐれな存在なのか?





といった、上に書いたような心性が、お恥ずかしながら僕にはあると思う。

簡単に書き直せば、苦しかった過去があるけど、今はまぁまぁ幸せ、ということだ。ただ、その流れに、自分自身というものを介在させられていない、またはその没入度が低いということだろう。


ただ、運命論的なのや、神はすべてを知っている的な思考や思想ってのは、それに近い。
違いは、その超越的なものへの信仰心により、翻って救われることであるが、まぁそれはよい。



とにかく、そういった、生きることのモチベーションをさげるような心性が僕にはあって、しかし、僕自身それは忌避して、捨て去りたいとも思っているのである。


誰しも、自分の人生は、自分が主人公じゃん?



もちろん、世界の、主人公ではない。そういった世界観は幼児期に捨て去られる。

しかし、僕らは、自分の意思で、努力で、主体的に選択をして生きるのがよいことだとされる。

なんか、矛盾していて、頭が良くない自分は理解できなかった。

世界の主人公は自分ではないのに、それでも、主体的に自分の人生は生きなければいけないのだ。


なぜだ?

この世界から求められる、自分、僕のロールプレイはなんなんだ?





話が少し変わるが、シュタインズゲートゼロのゲーム、全エンディングクリアしたって書いたっけ。
書いたような気もする。とにかく面白かった。
で、何で面白いのかって思ったときに、さっきかいた運命論的なのが大きいと思った。

シュタインズゲートは、運命と戦う物語なのである。


アトラクタフィールドにより収束する世界線を超えて、新しい世界線に辿り着くための物語なのである。

ゼロのエンディングの主人公オカリンは、エンディングの種類によっては、ボロ雑巾になる。心がおれる。身体も壊される。
取り巻く仲間たちも、無念と苦痛のまま倒れたりする。

それでも、そのすべての世界線の主人公(たち)は、欠かせない、必要な存在なのだ。
トゥルーエンディングにとっては失敗だったり、無駄だったことでさえ、それは無くてはならないもの、必要な経験だったのだ。

なかったことにはしてはいけない。


今ここで無念に朽ち果てようとも、大切な、必要なことなんだと、そう思わせてくれる。

これがシュタインズゲートのすごいところ、特徴だと、僕は勝手に思ってる。



そんな思い入れがあるゆえ、他の人にみてもらって、「あんまり面白くないね。てか主人公ってバカなの」みたいな感想をきいて、割かしマジでイラっとしたのも今はよき思い出である(笑)

いやぁ、人の感性というか、好みっていろいろだよなぁ。
まぁその人がそもそもアニメーションをあまり見ない人だったりすれば、また違うんだろうな。
うーむ、是非シュタインズゲートは実写化とかしてくれないかな、と今ふと思ったりする。


なんの話だっけ。

文脈はよく分からなくなったが、小説を、通勤時間にとか、細切れに書くようにしている。

といっても、表現レベルで書くには、スマホはあまりに非力なデバイスなので、プロットや、キーワード的な、言葉の羅列を思い付くまま打ち込む程度である。

でも、自分の中では、それだけでも脳内映像再生できたりするし、まずは、ストーリーを組み立てる必要がある。

書きたいシーンは浮かぶのだけれども、どう決着するか、どう流れるか、ストーリーがうかばない。

これを何故か考えると、僕は何を描きたいのか、具体的なテーマが分かっていないのが原因に思った。

前回、割かし長めにつづった作品は、とりあえず、完結させることが目的だった。それは達成できた。

今回は、本当に面白い、とりあえず自分にとっては最高に面白い、と思えるものを書きたいのである。
それが目的だ。
僕自身、面白い! って感じられる作品を書きたいのだ。

もっといえば、僕の感性レベルと、創作レベルを近づかせたいのである。


とある、毎日小説を書くという鬼ルーチンを化してる人は、感性レベルと創作レベルが一致していると思う。
もちろんそれは、苦難なくアウトプットできるという意味ではなく、技術的に、物理的に、自分が面白いと思えるものを描く能力がある、という意味だ。……伝わりづらいな。
伝わりづらい表現をしていると思うけれども、僕自身は、いま上に書いた表現で、あとで読んでも何を言いたかったのか理解可能である。
この、理解可能性を持てるアウトプットができる、という意味で、感性レベルと創作レベルが一致している、と書いた。

まぁしかし、その方は、感性レベルも、異次元空間に大量に所蔵する物語によって高次元に高められているがゆえに、自身のアウトプットにも中々納得できないのである。
そのストイックさ、葛藤は想像を絶するものであると僕は思う。



長くなった。気がする、が、所詮スマホでの記載なら、思ったより長くはないだろう。

要すれば、シュタインズゲートゼロ面白かった、アニメも続きを見たいということと、やっぱり面白い小説を書きたいなぁ、ということだ。

あ、あと、ブログも、月1ぐらいは最低限書きたい。いやもっと書きたいのだけれども、中々かけないなあ、ということか。



しかし、
1つ言えるのは、
何をするにも、時間は有限であるということだ。

いまの生活についても、家賃、インフラなどの費用的な面も含めて、いろいろ考えねば……いや、考えるというより、決めていかなければならないだろう。が、なかなか難しいなぁ。

(かっこ書きである。が、この記事そのものがかっこ書きみたいなものなので特に無し)










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