また、文脈無視である。シュタインズゲート・ゼロ、結局全然やれてないしな!
電磁気学について、学びたいと思って、本など読んでいたのも、もう何年も前になってしまった。
つまり、魔法、という言葉を使いたくなかったけれども、ファンタジーを書きたかったのである。
その点、無職転生は、ハーレム要素があるから問題とはいえ、その魔法という論理体系が序盤から整理されているなぁと感じて、読み進めることができた作品であった、、、とか上から目線で書けるだけの創作力もなければ、読解力も、知識もないのだけれども、まぁ好きなように書く。
そもそも、電気、天災の雷でもいいが、これは、存在自体魔法といってよい。
何せ、得たいのしれないものなのだから。
それを、科学という名前がついているが、電磁気学として、系統立てて整理して、その発生の機序を操って、インプットとアウトプットを制御できるようになったとしたら、それは魔術といってよいではないか。
科学者は、とんでもない、というだろう。学問と魔法を一緒にするな! と。
しかし、素人にとって、分子の運動が熱なのだといわれたり、光とは光の粒の波の運動だと言われてもやっぱりピンとこない。
電車が何故動くのか。パソコンで文書を作れるのは何故なのか。
突き詰めればそれなりに答えはわかる。パソコンの文字は、文字コードといわれる体系で決められた数字やアルファベットの組み合わせで表現されており、それらはビットと呼ばれる1か0の信号の集合体である。1か0というのは、電気信号のオンオフにより表現される。だから、その1と0の両方を保持できる量子コンピューターってのはものすごい処理能力をもつ、とか。
とはいえ、パソコンを使うのに、そんな知識は必要ない。
アルファベットと、ローマ字の知識と、キーボードの打ち方、パソコンの電源の位置とアプリケーションの起動が分かってれば、まぁ要はすませられる。
昔、ファンタジー世界の魔法も、同様という設定で考えてみた。要するに、術者としては、細かい魔法の体系などはよくわかっていないけれども、身体や思考をどのようにすれば、どういった結果……すなわち、炎や雷を発生させられるということは、分かっている、ということである。
こういった、設定であれば、まぁ細かい体系や知識は不要である……のだけれども、そうするとやっぱり、表現としてつまらなくなるのである。
ので、これも一年も前になりそうだが、イラストで物理法則を描く本を買って、流し読みしてまぁ面白かったけど、しっかり読めていない。
脈絡なく続ける。
雷って、やっぱり、電流であると考えられる。
雷撃となれば、凄まじい電流を生じさせ、敵を貫く魔法だろう。
そうしたとき、電流とは何かを考える。
電流とは、電子の動きである。
伝導体、電子が流れることができる物体を通じた、電子の移動の量が、電流である。
陰極線の実験とか、中学とかであった気がするが、真空でも、電子が流れる。
その、電子を操るのが、雷魔法の使い手である。
んじゃあ、電子ってなんぞ?
電子って、物体を構成する素粒子である。
有機物の、炭素とか酸素とかにも電子は含まれる。ので、僕らの体にも電子が含まれている。
まぁ、脳の体を動かす信号も電気だというから、電子で体か構成されているというのもそれほど不思議ではないのかもしれない。けれども、僕はまぁまぁ違和感があるけれど。
とはいえ、電子という目に見えない存在も、ありふれている物質なのだ。珍しくはない。
けれども。
だからといって、それらを操るってのは、一体どうしたらいいのか?
それが、電磁気学である、と、僕は勝手に思ってる。
電気、電子を考えるにあたって大事なのは、
場
という考え方だといわれる。
僕はどうにも、高校物理のときはよくわからなかったけれども、今のところ、向きと、移動スピード(加速度)が決まる場所、という理解である。
その、場、というのが、日常用語でもあるので分かりづらいが、専門用語として考えた方がよいのかもしれない。
とにかく、場という考え方が必要なのは、目に見えない大量の物質を扱うからだ。
電子なんて、さっき書いた通りありふれているから、一個二個と数えていてはきりがない。
その一個よりも、他の強い大きな一個によって、全く別の運動になるかもしれない。
だから、アンペアとかボルトとか、あんまし実感がわかない単位が登場する。これらは、そういうもの、として覚えないと勉強が進まない、でも、あんまし納得したり、イメージできないまま、数式だけ、公式だけ覚える勉強は苦痛である。
話がそれた。
場の、話。
恐らく、雷魔法の術者は、電子の運動を支配する場、を操ることができるのである。
電子は、マイナスの電荷をもち、プラスの方向に流れる。
雷魔法で敵を貫くのであれば、ブラックホールのように、強力なプラスの電荷を空間に生じさせればよい。そのプラスの電荷が生じる場所に、大量の電子が流れ込み、激しい熱運動をともない、敵の身体を構成する電子をも巻き込み、再生不能なほど損傷を与えるのだ!!
科学的には、電位(ボルト)の差を作り出すといえる。電位差魔法だ。
脇道にそれるが、電気が流れるところに磁場が生じる。というの提唱したのがマクスウェルで、電気学と磁気学があわさって、電磁気学といわれている。
ということは、電子の制御に重きをおいて鍛練を積んできた魔術師に対抗して、磁場を生じさせることでレジスト(打ち消す)したりする展開も面白そうだ。
しかしそもそも、術者は、どうやってその場なるものを、制御できるのか。
自分とは離れた空間に適切に作り出せないと、結局自爆しそうである。
空気のように目に見えないもの、といったところで、真空以外であれば、それは、大気が存在し、大気とは気体、ガスの集まりである。
ファンタジーでは、マナとか、魔素とか、超常物質が存在したりする。
そういった物質を媒介に、魔法という現象を生じさせる……といった説明を読んだりする。
しかし、それでは説明になっていない、と、思う。
超常現象を、超常物質の導入で説明しては、それは同語反復、トートロジーではなかろうか。
考えなければならないのは、その術者と、世界法則の関係性である。
何故その術者は、世界に対してアクセスできるのか。干渉できるのか。
通常は、物理的身体によって干渉する。
しかし今は、魔法という、離れた場所においても、直接触れなくても事象を起こす自体を考察せねばならないのだ。
しかし、ここでそもそも、最初の電気や磁気というのは、直接物質同士が触れなくても、発生している事象ではないか。
例えば、磁石同士を近づけると、触れていないのに反発しあったりする。
文脈無視だが、もっといえば、言語。
空気の振動によって、音という現象を生じさせ、他者の感覚器官である耳にはいることにより、新たな思考や行動を引き起こさせる。
そう、言語、言葉というのも、遠隔作用する魔法の一種なのではないだろうか。
……とかとりとめなく書いていたら時間切れ。
電磁気学について、学びたいと思って、本など読んでいたのも、もう何年も前になってしまった。
つまり、魔法、という言葉を使いたくなかったけれども、ファンタジーを書きたかったのである。
その点、無職転生は、ハーレム要素があるから問題とはいえ、その魔法という論理体系が序盤から整理されているなぁと感じて、読み進めることができた作品であった、、、とか上から目線で書けるだけの創作力もなければ、読解力も、知識もないのだけれども、まぁ好きなように書く。
そもそも、電気、天災の雷でもいいが、これは、存在自体魔法といってよい。
何せ、得たいのしれないものなのだから。
それを、科学という名前がついているが、電磁気学として、系統立てて整理して、その発生の機序を操って、インプットとアウトプットを制御できるようになったとしたら、それは魔術といってよいではないか。
科学者は、とんでもない、というだろう。学問と魔法を一緒にするな! と。
しかし、素人にとって、分子の運動が熱なのだといわれたり、光とは光の粒の波の運動だと言われてもやっぱりピンとこない。
電車が何故動くのか。パソコンで文書を作れるのは何故なのか。
突き詰めればそれなりに答えはわかる。パソコンの文字は、文字コードといわれる体系で決められた数字やアルファベットの組み合わせで表現されており、それらはビットと呼ばれる1か0の信号の集合体である。1か0というのは、電気信号のオンオフにより表現される。だから、その1と0の両方を保持できる量子コンピューターってのはものすごい処理能力をもつ、とか。
とはいえ、パソコンを使うのに、そんな知識は必要ない。
アルファベットと、ローマ字の知識と、キーボードの打ち方、パソコンの電源の位置とアプリケーションの起動が分かってれば、まぁ要はすませられる。
昔、ファンタジー世界の魔法も、同様という設定で考えてみた。要するに、術者としては、細かい魔法の体系などはよくわかっていないけれども、身体や思考をどのようにすれば、どういった結果……すなわち、炎や雷を発生させられるということは、分かっている、ということである。
こういった、設定であれば、まぁ細かい体系や知識は不要である……のだけれども、そうするとやっぱり、表現としてつまらなくなるのである。
ので、これも一年も前になりそうだが、イラストで物理法則を描く本を買って、流し読みしてまぁ面白かったけど、しっかり読めていない。
脈絡なく続ける。
雷って、やっぱり、電流であると考えられる。
雷撃となれば、凄まじい電流を生じさせ、敵を貫く魔法だろう。
そうしたとき、電流とは何かを考える。
電流とは、電子の動きである。
伝導体、電子が流れることができる物体を通じた、電子の移動の量が、電流である。
陰極線の実験とか、中学とかであった気がするが、真空でも、電子が流れる。
その、電子を操るのが、雷魔法の使い手である。
んじゃあ、電子ってなんぞ?
電子って、物体を構成する素粒子である。
有機物の、炭素とか酸素とかにも電子は含まれる。ので、僕らの体にも電子が含まれている。
まぁ、脳の体を動かす信号も電気だというから、電子で体か構成されているというのもそれほど不思議ではないのかもしれない。けれども、僕はまぁまぁ違和感があるけれど。
とはいえ、電子という目に見えない存在も、ありふれている物質なのだ。珍しくはない。
けれども。
だからといって、それらを操るってのは、一体どうしたらいいのか?
それが、電磁気学である、と、僕は勝手に思ってる。
電気、電子を考えるにあたって大事なのは、
場
という考え方だといわれる。
僕はどうにも、高校物理のときはよくわからなかったけれども、今のところ、向きと、移動スピード(加速度)が決まる場所、という理解である。
その、場、というのが、日常用語でもあるので分かりづらいが、専門用語として考えた方がよいのかもしれない。
とにかく、場という考え方が必要なのは、目に見えない大量の物質を扱うからだ。
電子なんて、さっき書いた通りありふれているから、一個二個と数えていてはきりがない。
その一個よりも、他の強い大きな一個によって、全く別の運動になるかもしれない。
だから、アンペアとかボルトとか、あんまし実感がわかない単位が登場する。これらは、そういうもの、として覚えないと勉強が進まない、でも、あんまし納得したり、イメージできないまま、数式だけ、公式だけ覚える勉強は苦痛である。
話がそれた。
場の、話。
恐らく、雷魔法の術者は、電子の運動を支配する場、を操ることができるのである。
電子は、マイナスの電荷をもち、プラスの方向に流れる。
雷魔法で敵を貫くのであれば、ブラックホールのように、強力なプラスの電荷を空間に生じさせればよい。そのプラスの電荷が生じる場所に、大量の電子が流れ込み、激しい熱運動をともない、敵の身体を構成する電子をも巻き込み、再生不能なほど損傷を与えるのだ!!
科学的には、電位(ボルト)の差を作り出すといえる。電位差魔法だ。
脇道にそれるが、電気が流れるところに磁場が生じる。というの提唱したのがマクスウェルで、電気学と磁気学があわさって、電磁気学といわれている。
ということは、電子の制御に重きをおいて鍛練を積んできた魔術師に対抗して、磁場を生じさせることでレジスト(打ち消す)したりする展開も面白そうだ。
しかしそもそも、術者は、どうやってその場なるものを、制御できるのか。
自分とは離れた空間に適切に作り出せないと、結局自爆しそうである。
空気のように目に見えないもの、といったところで、真空以外であれば、それは、大気が存在し、大気とは気体、ガスの集まりである。
ファンタジーでは、マナとか、魔素とか、超常物質が存在したりする。
そういった物質を媒介に、魔法という現象を生じさせる……といった説明を読んだりする。
しかし、それでは説明になっていない、と、思う。
超常現象を、超常物質の導入で説明しては、それは同語反復、トートロジーではなかろうか。
考えなければならないのは、その術者と、世界法則の関係性である。
何故その術者は、世界に対してアクセスできるのか。干渉できるのか。
通常は、物理的身体によって干渉する。
しかし今は、魔法という、離れた場所においても、直接触れなくても事象を起こす自体を考察せねばならないのだ。
しかし、ここでそもそも、最初の電気や磁気というのは、直接物質同士が触れなくても、発生している事象ではないか。
例えば、磁石同士を近づけると、触れていないのに反発しあったりする。
文脈無視だが、もっといえば、言語。
空気の振動によって、音という現象を生じさせ、他者の感覚器官である耳にはいることにより、新たな思考や行動を引き起こさせる。
そう、言語、言葉というのも、遠隔作用する魔法の一種なのではないだろうか。
……とかとりとめなく書いていたら時間切れ。
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注意:前回までの文脈全く関係ありません。
主張:シュタインズゲート・ゼロが面白い。
要は上のとおりなのだが、もう少し書きたいので、書く。
それで、プレイステーションビータを買って、シュタインズゲートのゲームと、今回話題にしたいシュタインズゲート・ゼロを買ったわけだが、シュタインズゲート(以下無印とする)のゲームは、途中までやるものの、やはりアニメでネタバレしているため、あまり進めるきになれなかった。積みゲーになってしまっていた。
シュタインズゲート・ゼロ(以下ゼロ)は、パッケージの透明袋を開けることすらなく積んでいた。
ゼロについては、今年度、オーバーロードと同じく、アニメになるということで、まぁ、ゲームやらなくても、後々アニメでも見るか、と思っていた。
そんなとき、先日、思いがけず、トラブルが発生し、身動きがとれない状況になった。そんなとき、たまたまビータと、ゼロが手元にあった。
暇潰し、程度にやってみた。
→くっそ面白い。いまここ。
状態になったわけである。
んじゃあ、何がそんな面白いかというと、恐らくこれは、やっぱり無印が好きだからなんだと思う。
ゼロから初めて触れた人は、正直話についていけないのではないか。
無印ヒロインのアーティフィシャル・インテリジェンスが登場したりするが、その郷愁というか、懐かしさというか、切なさというかは、間違いなく無印あってのものである。
無印がなければその感動も、哀愁も味わえないのだ。
ということが、この作品シリーズ全体にいえることなのだ。
この点が非常に重要。
というのは、まさに、シュタインズ・ゲートの作品は、「時間」をテーマにしていて、やり直したい過去などを変えてしまうことが、一旦は、可能である。
しかし、その変革は、タイムパラドクスを起こさないために、世界線の変動(本作品独自ワード)によって、すべての過去、現在、そして未来までが書き換えられるのである。
その世界線の変動については、一般人は分からない。なんの疑問も抱かない。だから過去が変わっているなんて認識はもてない。
一方、主人公オカリンは、その世界線の変動を観測することができる。それゆえ、周りの友人たちとの記憶相違などによって孤独を感じたりもするが、問題はそれだけではない
世界の因果律である。
いくら世界を変革、タイムリープなどで変えたとしても、発生する事象は、世界に決められているのである。運命。
そこに到達する手段は違えど、到達する結果は同じ。
発生した運命、事実は、必ず起こる。
無かったことにはできないのだ。
その上で、主人公は選択を迫られた。
というのが無印の話。
起こり得る可能性を徹底的に体感し、それは頭の中で想像するなんて生易しいものでなく、文字通り体験し、体感した現実。
それにもかかわらず、運命は変えられないという無力感。
これは相当恐ろしいものである。
例えば、恋愛で考えてみよう。
好きな人ができた、その人をデートに誘うことができた、デートにいった、何らかの自分の台詞に腹をたててデートは失敗してしまった。と。
それでは、と。
タイムリープマシンを使用して、過去に戻る。失敗した言葉を発しないように注意する。
今度は、
何だか本心で話してないね。私たち合わなさそうだね。
といわれる。
それでは、と。
タイムリープマシンを使用して、過去に戻って、失敗した言動をとらないようにする。
しかし、やはり同じように、別の理由で、デートは失敗した。
何度も。何度も何度も何度も!!
失敗し続けるのである。
これと同じような場面が、無印でもある。主人公の努力むなしく、悲しい結末に収束する。
世界の因果律。
変えられない運命。
定められた運命。
その運命を、無印では、とある方法で打破するのだ。
……が、今回のゼロは、むしろ、その運命に抗うことを諦めてしまった場合の話なのである。
ちなみに。
この、諦める、ということに、僕は何ら悲観的な意味を感じない。
すぐに諦める、という形容がつけば別だが、しかし、どうしようもないことは、ある。
諦めた方がよいことは、ある。
しかし、その諦めなきゃいけないことが、自分のレーゾンデートルに関わるようなことだったら?
そんなとき、死よりも恐ろしいことが爆誕し、自らを縛っていく。
と同時に、物語に強烈な命が吹き込まれるのだ。ここでいう物語というのは、エンターテイメントだけでなく、我ら人生においても。
話が少しずれた。
スマホにしてはよくここまで書いた。
その、なんだっけ。複数日に分けて書いているので、最初に「書きたい!」と思った強い感情がどこにあったのか、分からなくなってくる。
こういったことを避けたいから、ゼロも、次がいつになるか分からないが、まとまった時間が取れるときにやることとしたい。
その、なんだ、「なかったことにはしてはいけない」という、「Hacking to the Gate」というOP曲の歌詞にあらわれていることが、とても心を打つのである。
無駄な過去なんて無いんだ。
失敗も、苦痛も、怒りも、憎しみも、全部ひっくるめて、なかったことにはできない。全部、つながっている。それは、時間という次元の壁をこえたとしても変えることのできない真理なのだ。
Fate Stay nightをやった後に、Fate Zero という、前日譚という作品を楽しめるのだろうか?
と、かなり昔思ったことがあったが、当然(?)そんなことは全くなかった。どちらも超面白かった。
これと同じことが、シュタインズ・ゲートゼロでも同様だった。
あー、しかし、もう時間切れ。とりあえず、というのは大変失礼なのは承知の上でとりあえず投稿しよう。多分、自分の受けた衝撃を全然表現できていないが、これ以上書いてもダメそうだ。
主張:シュタインズゲート・ゼロが面白い。
要は上のとおりなのだが、もう少し書きたいので、書く。
<前置き>
シュタインズゲートという作品・アニメーションが自分作品ランキング上位に躍り出た、とは前に書いた。もうそれも一年前ぐらいなのだろうか? スマホからだと調べるのが大変だから分からない。それで、プレイステーションビータを買って、シュタインズゲートのゲームと、今回話題にしたいシュタインズゲート・ゼロを買ったわけだが、シュタインズゲート(以下無印とする)のゲームは、途中までやるものの、やはりアニメでネタバレしているため、あまり進めるきになれなかった。積みゲーになってしまっていた。
シュタインズゲート・ゼロ(以下ゼロ)は、パッケージの透明袋を開けることすらなく積んでいた。
ゼロについては、今年度、オーバーロードと同じく、アニメになるということで、まぁ、ゲームやらなくても、後々アニメでも見るか、と思っていた。
そんなとき、先日、思いがけず、トラブルが発生し、身動きがとれない状況になった。そんなとき、たまたまビータと、ゼロが手元にあった。
暇潰し、程度にやってみた。
→くっそ面白い。いまここ。
状態になったわけである。
<はまり込む>
とはいえ、最近はあまり時間をとれず、進められていないのがげんじょう。とはいえ、逆に、これは真面目に、細切れではなく、まとまった時間がとれるときに、本気で取り組みたいと思ってるので、まぁそれはいい。とにかく、あのゲームをやり終えるまではまだ死ねない!っと、いい大人がバカみたいだが、わりかしマジで思うのである。んじゃあ、何がそんな面白いかというと、恐らくこれは、やっぱり無印が好きだからなんだと思う。
ゼロから初めて触れた人は、正直話についていけないのではないか。
無印ヒロインのアーティフィシャル・インテリジェンスが登場したりするが、その郷愁というか、懐かしさというか、切なさというかは、間違いなく無印あってのものである。
無印がなければその感動も、哀愁も味わえないのだ。
ということが、この作品シリーズ全体にいえることなのだ。
この点が非常に重要。
<前作シュタインズ・ゲート>
どういうことかというと、この、郷愁という感情が、非常にうまく引き出せている。というのは、まさに、シュタインズ・ゲートの作品は、「時間」をテーマにしていて、やり直したい過去などを変えてしまうことが、一旦は、可能である。
しかし、その変革は、タイムパラドクスを起こさないために、世界線の変動(本作品独自ワード)によって、すべての過去、現在、そして未来までが書き換えられるのである。
その世界線の変動については、一般人は分からない。なんの疑問も抱かない。だから過去が変わっているなんて認識はもてない。
一方、主人公オカリンは、その世界線の変動を観測することができる。それゆえ、周りの友人たちとの記憶相違などによって孤独を感じたりもするが、問題はそれだけではない
世界の因果律である。
いくら世界を変革、タイムリープなどで変えたとしても、発生する事象は、世界に決められているのである。運命。
そこに到達する手段は違えど、到達する結果は同じ。
発生した運命、事実は、必ず起こる。
無かったことにはできないのだ。
その上で、主人公は選択を迫られた。
というのが無印の話。
起こり得る可能性を徹底的に体感し、それは頭の中で想像するなんて生易しいものでなく、文字通り体験し、体感した現実。
それにもかかわらず、運命は変えられないという無力感。
これは相当恐ろしいものである。
例えば、恋愛で考えてみよう。
好きな人ができた、その人をデートに誘うことができた、デートにいった、何らかの自分の台詞に腹をたててデートは失敗してしまった。と。
それでは、と。
タイムリープマシンを使用して、過去に戻る。失敗した言葉を発しないように注意する。
今度は、
何だか本心で話してないね。私たち合わなさそうだね。
といわれる。
それでは、と。
タイムリープマシンを使用して、過去に戻って、失敗した言動をとらないようにする。
しかし、やはり同じように、別の理由で、デートは失敗した。
何度も。何度も何度も何度も!!
失敗し続けるのである。
これと同じような場面が、無印でもある。主人公の努力むなしく、悲しい結末に収束する。
世界の因果律。
変えられない運命。
定められた運命。
その運命を、無印では、とある方法で打破するのだ。
……が、今回のゼロは、むしろ、その運命に抗うことを諦めてしまった場合の話なのである。
ちなみに。
この、諦める、ということに、僕は何ら悲観的な意味を感じない。
すぐに諦める、という形容がつけば別だが、しかし、どうしようもないことは、ある。
諦めた方がよいことは、ある。
しかし、その諦めなきゃいけないことが、自分のレーゾンデートルに関わるようなことだったら?
そんなとき、死よりも恐ろしいことが爆誕し、自らを縛っていく。
と同時に、物語に強烈な命が吹き込まれるのだ。ここでいう物語というのは、エンターテイメントだけでなく、我ら人生においても。
話が少しずれた。
スマホにしてはよくここまで書いた。
その、なんだっけ。複数日に分けて書いているので、最初に「書きたい!」と思った強い感情がどこにあったのか、分からなくなってくる。
こういったことを避けたいから、ゼロも、次がいつになるか分からないが、まとまった時間が取れるときにやることとしたい。
その、なんだ、「なかったことにはしてはいけない」という、「Hacking to the Gate」というOP曲の歌詞にあらわれていることが、とても心を打つのである。
無駄な過去なんて無いんだ。
失敗も、苦痛も、怒りも、憎しみも、全部ひっくるめて、なかったことにはできない。全部、つながっている。それは、時間という次元の壁をこえたとしても変えることのできない真理なのだ。
Fate Stay nightをやった後に、Fate Zero という、前日譚という作品を楽しめるのだろうか?
と、かなり昔思ったことがあったが、当然(?)そんなことは全くなかった。どちらも超面白かった。
これと同じことが、シュタインズ・ゲートゼロでも同様だった。
あー、しかし、もう時間切れ。とりあえず、というのは大変失礼なのは承知の上でとりあえず投稿しよう。多分、自分の受けた衝撃を全然表現できていないが、これ以上書いてもダメそうだ。
信念がないと、人生は楽しめないと書いた。
ところで、お国のために死ぬ、という言葉をもってして、尊敬と蔑視とをあわせもつ感覚は、僕ら、30代ぐらいが転換期なのではないか。
お国のため、
というと、直接的に気持ち悪さは際立つが、しかし、会社のためだったり、家族だったり、組織や集団というものに奉仕するという構図が、
やっぱりどこかかっこいいという思いはあるはずだ。
それでいて、文脈によっては、ブラック企業とかサービス残業といった事象は蔑むことができる。昔はもーれつ社員とか、もてはやされたりしていたのだろう。もちろん、一定数は冷めていたのだろうが。
ただし、まだもってして、我々に、共通の信念というものは存在しない。
むしろ、共通の信念というものが、お国のためテーゼであったのだ。
それは、やはり人生において重要な要素であったのだ。人は、孤独では生きられない。自給自足する人もいるかもしれないが、完全な自給自足は難しいし、自給自足したところで、子をなし、集団形成できなければやがて滅ぶだけだ。
とはいえ、僕らはもう、共通の信念、イデオロギーといってもいいが、そういうものだけでは生きられない。
そんなものは存在しないのだ、というのが、世界の風潮である。
いやはや、愛国主義、ナショナリズムに傾く可能性もあるかもしれないが、そこら辺は専門家の議論にまかせればよい。どうなるかなど、結局わかりようがないし、一個の自分ないきるレベルの時間では、これ以上変化しないかもしれない。
だからこそ、物語をつくらなければいけない。作り続けなければいけない。
それが人生というものだ。
素敵な王子さまと結婚し、いつまでも幸せに暮らしました……。
という若い物語はもう通用しない。
結婚がゴールじゃない。
魔王を倒して、世界は平和になりました。めでたしめでたし……。
というのも通用しない。
共通の敵、魔王がいなくなってからの世界がどうなるとか、どうあるべきか。
それを表現していく必要があるし、たくさんの創作者たちに表現してもらいたいことである。
攻殻機動隊や、アニメのサイコパスなどは、未来の社会のあり方のひとつを描いている。と思う。単純にキャラクターやストーリーが魅力的、というのもあるが、世界観がよい
けれども、答えにはなっていない。問題提起のレベルだ。
いや、それができるだけでも非常に大切で優れた作品だ。
しかしまだ足りない。
そう、余地があるのだ。
完璧。
それは目指すべき素晴らしいものだが、
序盤に書いた、
飽きる
という人間の能力や性質によって、同じことの繰り返しに人は耐えられない。
厳密に同じ日はやってこない。
流れる川の水も、同じように見えてそうではない。
すると。
ワレワレは、ラットレースのごとく、終わりのない目的や目標をめざし、達成感というご褒美をところどころでもらいながら次を目指し続けるしかないのか。
そこに、以前書いた、満足度レベルというか、生活度レベルというか、人生に対しての自己評価がプラスかマイナスか、という、ああええと、波が流れるグラフを書いたええとそんな記事だが、次を目指せるだけの体力があるかどうかが、重要になる。
続け!
(かっこ書きである。こんなに続くと思わなかった。間違いなくコメントや拍手のおかげである。そういう意味でも、思考というのは、自分のものでありながらも、他者の存在が非常に大きい。この辺を、10代のときから実感していればよかったなぁとも思う。わかってはいたのだ、だが認められていなかった)
ところで、お国のために死ぬ、という言葉をもってして、尊敬と蔑視とをあわせもつ感覚は、僕ら、30代ぐらいが転換期なのではないか。
お国のため、
というと、直接的に気持ち悪さは際立つが、しかし、会社のためだったり、家族だったり、組織や集団というものに奉仕するという構図が、
やっぱりどこかかっこいいという思いはあるはずだ。
それでいて、文脈によっては、ブラック企業とかサービス残業といった事象は蔑むことができる。昔はもーれつ社員とか、もてはやされたりしていたのだろう。もちろん、一定数は冷めていたのだろうが。
ただし、まだもってして、我々に、共通の信念というものは存在しない。
むしろ、共通の信念というものが、お国のためテーゼであったのだ。
それは、やはり人生において重要な要素であったのだ。人は、孤独では生きられない。自給自足する人もいるかもしれないが、完全な自給自足は難しいし、自給自足したところで、子をなし、集団形成できなければやがて滅ぶだけだ。
とはいえ、僕らはもう、共通の信念、イデオロギーといってもいいが、そういうものだけでは生きられない。
そんなものは存在しないのだ、というのが、世界の風潮である。
いやはや、愛国主義、ナショナリズムに傾く可能性もあるかもしれないが、そこら辺は専門家の議論にまかせればよい。どうなるかなど、結局わかりようがないし、一個の自分ないきるレベルの時間では、これ以上変化しないかもしれない。
だからこそ、物語をつくらなければいけない。作り続けなければいけない。
それが人生というものだ。
素敵な王子さまと結婚し、いつまでも幸せに暮らしました……。
という若い物語はもう通用しない。
結婚がゴールじゃない。
魔王を倒して、世界は平和になりました。めでたしめでたし……。
というのも通用しない。
共通の敵、魔王がいなくなってからの世界がどうなるとか、どうあるべきか。
それを表現していく必要があるし、たくさんの創作者たちに表現してもらいたいことである。
攻殻機動隊や、アニメのサイコパスなどは、未来の社会のあり方のひとつを描いている。と思う。単純にキャラクターやストーリーが魅力的、というのもあるが、世界観がよい
けれども、答えにはなっていない。問題提起のレベルだ。
いや、それができるだけでも非常に大切で優れた作品だ。
しかしまだ足りない。
そう、余地があるのだ。
完璧。
それは目指すべき素晴らしいものだが、
序盤に書いた、
飽きる
という人間の能力や性質によって、同じことの繰り返しに人は耐えられない。
厳密に同じ日はやってこない。
流れる川の水も、同じように見えてそうではない。
すると。
ワレワレは、ラットレースのごとく、終わりのない目的や目標をめざし、達成感というご褒美をところどころでもらいながら次を目指し続けるしかないのか。
そこに、以前書いた、満足度レベルというか、生活度レベルというか、人生に対しての自己評価がプラスかマイナスか、という、ああええと、波が流れるグラフを書いたええとそんな記事だが、次を目指せるだけの体力があるかどうかが、重要になる。
続け!
(かっこ書きである。こんなに続くと思わなかった。間違いなくコメントや拍手のおかげである。そういう意味でも、思考というのは、自分のものでありながらも、他者の存在が非常に大きい。この辺を、10代のときから実感していればよかったなぁとも思う。わかってはいたのだ、だが認められていなかった)
自分をつらぬけ。
何をいってるかわからないと思うが、信念がないと、人生面白くできない。
で、その信念を作るのに必要なのが、物語能力なのであるが、まぁそれはおいておく。
進撃の巨人面白かった。
いろいろ、仕方がなかったな、俺ら。
みたいに、ライナーとエレンが語り合って、英雄タイバー家によって巨人の世界の歴史がひもとかれた。
いろいろ理由はあった。
仕方がなかった。
だからこそぶつかるしかない。
戦争を肯定する気はないけれども、争いってのは、避けられないこともあるのだ。
その中で何を選択するのか。
自分は何をするのか。
というのと対照に、
90歳代の戦争を生き残った語り部さんは、ほんと奇跡で生き残ったのだろう。
偶然。
自分の意思とは別のところで起こり、進むこと。
環境。仕方がないこと。
その環境制約の中で、最大限の、ないしは奇跡もあわせて壁を乗り越えるということ、それが物語になるのだ。
困難ってのは、戦いだったり、ころしあいだったり、恋愛であったり、事件サスペンスだったりする。
分かりやすい困難で、発生してしまえば避けがたいから、物語になりやすい。
理解しやすいから、受け入れられやすい。
理解しやすいというのは、バトルの能力や、理屈や、世界観といった意味ではない。
そういった趣向によって、物語は飛躍して面白くなる。
しかし、テーマとしては、勝つか、負けるか、なのである。
単純な構図ながら、面白い! を生じさせるために必要なのは、
読者に、問題意識を共有させる能力。それが、物語能力である。
リクリエーターズは、認識力的なのを、ひとつテーマにしていて、最近の作品の中では印象に残っている。
刻刻もそういえばみた。
アニメ。面白かった。時間、という概念を扱う作品は多くあれど、止まった時間、というのを表現するというのは印象的だった。登場人物たちも、男は敵方のほうが軒並みかっこいいというアンバランス感がよかった。
ラスボス的な男の目的が、世界の根源を、根源というより行き着く先を知りたい、ってのも、壮大さがあって、
それへの執着度合いも狂気じみててよかった。
続け
何をいってるかわからないと思うが、信念がないと、人生面白くできない。
で、その信念を作るのに必要なのが、物語能力なのであるが、まぁそれはおいておく。
進撃の巨人面白かった。
いろいろ、仕方がなかったな、俺ら。
みたいに、ライナーとエレンが語り合って、英雄タイバー家によって巨人の世界の歴史がひもとかれた。
いろいろ理由はあった。
仕方がなかった。
だからこそぶつかるしかない。
戦争を肯定する気はないけれども、争いってのは、避けられないこともあるのだ。
その中で何を選択するのか。
自分は何をするのか。
というのと対照に、
90歳代の戦争を生き残った語り部さんは、ほんと奇跡で生き残ったのだろう。
偶然。
自分の意思とは別のところで起こり、進むこと。
環境。仕方がないこと。
その環境制約の中で、最大限の、ないしは奇跡もあわせて壁を乗り越えるということ、それが物語になるのだ。
困難ってのは、戦いだったり、ころしあいだったり、恋愛であったり、事件サスペンスだったりする。
分かりやすい困難で、発生してしまえば避けがたいから、物語になりやすい。
理解しやすいから、受け入れられやすい。
理解しやすいというのは、バトルの能力や、理屈や、世界観といった意味ではない。
そういった趣向によって、物語は飛躍して面白くなる。
しかし、テーマとしては、勝つか、負けるか、なのである。
単純な構図ながら、面白い! を生じさせるために必要なのは、
読者に、問題意識を共有させる能力。それが、物語能力である。
リクリエーターズは、認識力的なのを、ひとつテーマにしていて、最近の作品の中では印象に残っている。
刻刻もそういえばみた。
アニメ。面白かった。時間、という概念を扱う作品は多くあれど、止まった時間、というのを表現するというのは印象的だった。登場人物たちも、男は敵方のほうが軒並みかっこいいというアンバランス感がよかった。
ラスボス的な男の目的が、世界の根源を、根源というより行き着く先を知りたい、ってのも、壮大さがあって、
それへの執着度合いも狂気じみててよかった。
続け
まぁ、イージーモードといっても、いろいろはある。
嫌なこと、むかつくこと、悲しいこと、ある。
ただ、世界ってこんなものだ、という、諦念なのか、納得なのか、そんなもんがある。
ドリフターズで織田信長が、なーに、心配するな、失敗しても死ぬだけだ、って言ってたけど、そうだよな、って感じ。
人生なめてる?
そうかもしれない。もっと大変な人や、社会や、家族や、世界はあるだろう。
だけれども、俺も大変だったし、俺も大変ののだ。
認めてもいい、と思う。まぁ、あんまり、認められないんだけど。それでも、最近は、認められるようになってきた気もする。
大変なこともある。それでも、生きてりゃ、いいこともあるさ。
って、本心で言ってもいいかな、と思う。
10代のころは、そんなこと思えなかった。
何のために生きてるのか。この苦しいことが繰り返される人生に何の価値があるのか。そう思ってきた。
いまは別に、時間と金をかければ、落ち着いた感覚を得られる状況を作れる。
それをどこまで長く続けられるのか、ってのは別問題。
ただ、一週間ぐらいは、余裕で作れる。
が、ここからが、前回の休暇のはなしとつながる。
休暇があって、何をするというのか。
美味しいご飯を食べるだけなら、平日でもできるのだ。
寝る?
寝るのは気持ちいい。
けど、寝ることがメイン作業なら、たぶん死んだらずっと寝てることと同じだ。
活動。
動き、行動で何をするのか。
そう考えると、やっぱり、社会や世界のために、なんかするぐらいしかやることがないのである。
じゃー仕事でもすっかぁ、って感じ。
もしくは、彼女や身近な人のためになにかしてあげようかねぇ。
って感じになるだろう。
このあたりから飛躍するが、社会や世界のためになることって、なんなのか。
寄付?
子供を生み育て持続可能な社会をつくる?
芸人さんなら、笑いで人を救っている。
職人はものをつくって生活を成り立たせている。
自分の仕事は、製作と事務とに大きくわけて言えば事務になるが、それは、システムだったり、仕組みだったりを円滑にして、生活や作業を効率化することに役立っている。
だからまぁ、顧客のニーズを考えて誠実に仕事をこなすことは、貢献といえるわけだが、しかしまあまぁ、これが何の役にたつのかってのがワケわからない業務も多々ある。
仕事の話を書いたが、
そもそも、社会維持が、何にもって、何に対して有意義なのだろうか。
政治家が保身になって、国民のことを考えてない、ってのは、まぁそうかもしれないが、しかし、その保身ってなかに含まれる集団がいたら、その集団は便益はかられてるのだ。
最終兵器彼女じゃないが、身近な彼女と、世界とがどっちが大事なのかってのは、結構究極的な選択である。
そういう意味で、
90歳代の三回の奇跡をこえて最前線を生き残った戦争の語り部さんや
進撃の巨人の最新刊、確か25巻は面白かった。
続く
嫌なこと、むかつくこと、悲しいこと、ある。
ただ、世界ってこんなものだ、という、諦念なのか、納得なのか、そんなもんがある。
ドリフターズで織田信長が、なーに、心配するな、失敗しても死ぬだけだ、って言ってたけど、そうだよな、って感じ。
人生なめてる?
そうかもしれない。もっと大変な人や、社会や、家族や、世界はあるだろう。
だけれども、俺も大変だったし、俺も大変ののだ。
認めてもいい、と思う。まぁ、あんまり、認められないんだけど。それでも、最近は、認められるようになってきた気もする。
大変なこともある。それでも、生きてりゃ、いいこともあるさ。
って、本心で言ってもいいかな、と思う。
10代のころは、そんなこと思えなかった。
何のために生きてるのか。この苦しいことが繰り返される人生に何の価値があるのか。そう思ってきた。
いまは別に、時間と金をかければ、落ち着いた感覚を得られる状況を作れる。
それをどこまで長く続けられるのか、ってのは別問題。
ただ、一週間ぐらいは、余裕で作れる。
が、ここからが、前回の休暇のはなしとつながる。
休暇があって、何をするというのか。
美味しいご飯を食べるだけなら、平日でもできるのだ。
寝る?
寝るのは気持ちいい。
けど、寝ることがメイン作業なら、たぶん死んだらずっと寝てることと同じだ。
活動。
動き、行動で何をするのか。
そう考えると、やっぱり、社会や世界のために、なんかするぐらいしかやることがないのである。
じゃー仕事でもすっかぁ、って感じ。
もしくは、彼女や身近な人のためになにかしてあげようかねぇ。
って感じになるだろう。
このあたりから飛躍するが、社会や世界のためになることって、なんなのか。
寄付?
子供を生み育て持続可能な社会をつくる?
芸人さんなら、笑いで人を救っている。
職人はものをつくって生活を成り立たせている。
自分の仕事は、製作と事務とに大きくわけて言えば事務になるが、それは、システムだったり、仕組みだったりを円滑にして、生活や作業を効率化することに役立っている。
だからまぁ、顧客のニーズを考えて誠実に仕事をこなすことは、貢献といえるわけだが、しかしまあまぁ、これが何の役にたつのかってのがワケわからない業務も多々ある。
仕事の話を書いたが、
そもそも、社会維持が、何にもって、何に対して有意義なのだろうか。
政治家が保身になって、国民のことを考えてない、ってのは、まぁそうかもしれないが、しかし、その保身ってなかに含まれる集団がいたら、その集団は便益はかられてるのだ。
最終兵器彼女じゃないが、身近な彼女と、世界とがどっちが大事なのかってのは、結構究極的な選択である。
そういう意味で、
90歳代の三回の奇跡をこえて最前線を生き残った戦争の語り部さんや
進撃の巨人の最新刊、確か25巻は面白かった。
続く