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不快なコンテンツの発信は許されるのか
2019/01/26 21:00 | Comments(4) | 思考及び書くこと
今日の一言「良かった」「いや逆に何があったら『悪かったなのか』」

前書き

 いいぞいいぞ、続けられている。週刊更新。
 実は、「毎日〇〇を続ける!」というのはあるけれども、週に1回とか、月に1回とか、そういった作業はあまりやったことがない(それか、記憶に残っていない)。

 土曜日に更新する、という規定が良かったのかもしれない。基本休日であるという条件と、曜日が決まっていると覚えやすいという条件によって。
 あと、「前書き」から始められるというのは心理的負担が少ない。結構いつも、最初の小見出しをどうしようか悩んでいたのである。

今週の役に立つこと

 何か役に立つことをちりばめたいと書いた。今回は、
「埒外」と「怯懦」である。

「らちがい」と「きょうだ」と読む。

 想像の埒外だ――などと、「枠から外れたこと」を指す。
 怯懦な性格だ――などと、「おくびょうできのよわいこと」を指す。

 正直に書こう。
 どちらも、意味としては分かっていた(あっていた)が、一番目は読めていたが、二番目は、「ほうじゅ」と読んでいた。お恥ずかしい。「きょうだ」と読むのか。自分の無知さに怯懦で強打。

 まぁ、埒外はともかく、「怯懦」は、言葉として知らなくても、日常生活もビジネスでも困ることはないだろう。これらは「教養」部分だと思う。

 何故勉強しなければならないのか?

 この疑問は、日本人なら誰しも抱くものだが、しかしながら途上国・後進国においては、発生しない疑問だろう。いわゆる教育が義務かどうかによるだろう。

 国は教育を受けさせる義務があり、我々は教育を受ける権利がある。
 だから、個人の主義主張感覚思考問わず、みんなが教育を受けるから、「何故?」という疑問が発生するのだ。
 教育が義務でなければ、「勉強しなくてもいいから、さっさと働け」である。

 まぁそれはそうと、何故勉強しなければならないかに対しての答えの一つとして、「教養を身に着けるため」というのがある。ただ、これは、実感に乏しい説明だろう。「何故勉強を……」などと思う人にとっては、「教養なんてなくても生きていける」と思う。

 しかし、現代においては、実用的な知識と、教養上の知識についての境界が、グレーになっているといえる(勝手に思いついただけなので、エビデンスを出せとか言われても分からない)。

 まぁ思い付きでも、理由があるから書いていけば、仕事というのが、「価値をつくる」というものであるからだ。
 経済の対象は、モノとサービスだが、どちらも、付加価値が利益となる。しかし果たして、最低限生きていくのに必要な仕事というものを想定し、それに有する知識やスキルを「実用的な知識・スキル」と定義したときに、「最低限生きていくのに必要な仕事」というのは何だろうか。

 人は水を飲んで、エネルギー源を摂取できたら生きられる。エネルギーだけじゃあ病気のリスクが高いから、じゃあ、ミネラルやビタミンも必須だとしても、「食」があればよいということになる。
 服と建物がないと寒い。衣住も必要だろう。

 んじゃあ、農業と、水道業と、アパレルと、建築業界があればいいのか。それ以外は贅沢品なのか。

 たぶん、半分正解で、半分間違い。

 定義の問題に過ぎない。
 何の?
「生きる」
 ということのだ。

 現代社会で忘れてはいけないのが、「電気」だろう。
 電気がなければ、スマホもパソコンも使えない。
 でも、本来的には、電気がなくても、人という種は生きることができるはずなのだ。

小見出し変える

 役に立たないことが大半を締め出したので小見出しを変える。

 要は、勉強というのは、個の処理能力を高めるための方法の一つである。勉強だけしててもダメだ。体もメンテナンスしとかんといかんだろう。

 んでその個の処理能力を高めるというのに、「競争」という手段が、現状は最適とされているけれども、行き過ぎた競争は破綻する。

 要は、自分との闘いである。

 A氏が100%で成し遂げたことを、B氏は50%でやってのけるかもしれない。
 絶対評価では、B氏は100点で、A氏は50点。
 相対評価では、A氏は100点で、B氏は50点。

 評価の難しいところである。
 しかし、問題はそこだけじゃなくて、評価の「対象」もそうだ。
 カオスな自然に対しての「数値化」は、あくまで人為的なものであることを認識するべきである。
 もちろん、それはとても役立つことで否定されることではないが、それが常に絶対条件ではないことに気付くべきだ。


 という、根本的に評価が非常に難しいという前提があるから、「人と比べても仕方がないよ」という励ましが有用になるのだけれども、その前提が知らない人に、「自分は自分、人は人だよ」と慰めたところで、心には響かない。
「でもだって、自分は周りと比べてあんなことも、こんなこともできないんだ……」


 ここで僕は、日和見的に、「役に立たない人なんていない。みんな、何かしらの役に立っているんだ」なんて風に思えない。

「役立たずは、役立たずだ」


 ――なんだけれども、しかし、最初の方に書いたことを思い出してほしい。
「生きる」定義ってなんなのか。

 食べて、寒くなく寝て、繁殖するだけなら、世の大半の仕事は不要だ。


 もう一つ、慰めを書けば、個人事業主以外で仕事をしていて、職場に馴染めず、自分の意義が感じられない人は、給与明細をみてみればよい。たくさん「控除」されている。税金だ。税金とは何か、国や地方公共団体に収めるお金だ。税金は、公共のサービスのために使われる。そう、あなたがいくら会社で「役立たず!」呼ばわりされていても、給料をもらっている以上は、日本社会に貢献できているのだ!!

定義

 詭弁っぽい。
 しかし、半分正解ではある。

 要は、定義の問題だ。

 いっくら公共サービスに貢献していようが、その会社の中で役立たず呼ばわりされていたら苦痛である。
 もっといえば、消費活動だって、消費税があるんだから、貢献している! と思おうと思えば、思ってもいいのだ。

 ただ、そういった(屁)理屈と、自分との感覚のギャップは問題にすべきである。

 どんなに正論でも、もっともらしい理屈でも、自分に合わないものは「間違い」なのだ。
(ここでいつも、快楽殺人犯を例に挙げたくなる。この問題が、僕は中々しっくりくる「納得感」が得られないところだ。「自分」は大事だと思うが、しかし、多種多様な「自分」を総体的に認めるということは、いったいどういう現象になるのか。――という僕の考えや感覚はともかく、現代社会においては、「切り捨てる」という手段が取られている。死刑や監獄への隔離。それは十分機能しているといえる。じゃあ恒久普遍の正解なのか? それは疑義を呈してもいいと思う)

不快なコンテンツの創造について

 では、関連して、先週書けたら書こうとしていた、
>「人を不快にするコンテンツの発信は許されるのか」

 について、考えてみたいと思う。

 いやぁ、許されるでしょ。


 と、僕は取り敢えず、創作者の端くれとして言いたいと思う。
 ただこうなると、先入観にとらわれて、うまく情報が整理できないかもしれない。しかし、上に書いてきたように、まず、「自分」を基準に考えないと、結局きれいな理屈が構築されても、「納得」できなくなる。だから、取り敢えずこのまま進めよう。

 で、その、何故許されるのか。

 創作だからだ。
 というのが、初めに思いつく理由である。

 グランド・セフト・オートというゲームがあって、オープンワールドのクライム(犯罪)アクションだ。
 現実に、市街地を200km/hで爆走したり、無辜の市民をロケットランチャーで爆殺したりしたらダメ、ゼッタイ。
 しかし、ゲームはゲームである。
 5作目は、リアルな映像と相成って、結構な没入感があるけれども、だからといって、「おーっし、現実でもセブンイレブンで強盗すっか!」とはならない。
 なる人もいる! というのが、否定派の主張だが、しかし果たして本当か。

 残虐拷問の歴史をちょいと見てみたまえ。歴史じゃなくて、今でもそういう国がある。インドのサティーという風習をご存じだろうか。現代ではさすがにないのだろうが、19世紀ぐらいまでは続いていたらしい(WIKI)。

 津山30人殺しは、20世紀の事件だ。テレビも十分に普及してなかったろうし、ましてやコンシューマ型ゲーム機やパソコンなんてない時代だ。


 残虐なゲームの有無はともかく、人間は残虐な心(も)をもっているというのが、僕の人間観である。
 もちろん、それだけじゃなかろうが、逆に、「面白い(残虐な)ゲームによって、現実の事件の抑止力になっている」とかって可能性もあるんじゃなかろうか(これも根拠薄弱だろう)。


現実と二次元

 要するに、現実と二次元は密接に関わりながら、全く異なるものだ、という、当たり前のことである。
「うるせえ!! 人の気持なんか知るか!! 俺は俺のスキを表現する!! その結果どれだけ人が不快になろうが知るか!! いやなら見るなバーカ!!」「人が嫌がることをする」のは疑いなく悪いことだ。では「人が嫌がることをする」のと「人が嫌がるコンテンツを発信する」ことの差はどこにあるのか。――螺旋のモノリス

 氏は、その差を「目的」であると書かれていた。
 前者は、故意に嫌がることをしているのに対し、後者は故意ではない(嫌がらせることを目的としていない)違いであるということだ。

 なるほどそのとおりと思う。
 しかし、氏も触れられているが、「目的(動機)の違いがあっても、人を不快にさせたという事実は事実」でもある。

 僕はこの部分に、改めて、現実と二次元は違う、ということを持ち出したいと思う。
 コンテンツの発信は、あくまでも二次元なのである。実写だろうが、文字媒体だろうが、絵だろうが、二次元という媒体は、そこに、受信者の選択制が介在する。
「いやなら見るなバーカ!」は、正当な主張なのである。

 いやまて、コンテンツ発信という手段を通じて「嫌がること」が発生したのだとしたら、それは手段の違いであって、直接手を下したのと間接的に攻撃したのとの違いで、どっちもどっちではないか。いやそういうことではない。

 例えば、18禁コンテンツを見るときに(さらっと普段から見ているような書き方になったが、そういう意味じゃないんだからね! みてるけど)、「あなたは18歳以上ですか?」とワーニングされるだろう。あれは、法律がどうこういう問題とは関係なく、非常に重要なのだ。フィルタリングなのだ。見たくない人は、みないことができるのだ。


 僕は、「歩きスマホ」と、「歩きたばこ」どっちが重罪かというと、断然、問答無用に後者だと思っている。歩きたばこは、避けようがないのだ。歩きスマホは、ちょっと避ければいいだけだ。その、「自己回避可能性」の概念は、僕は非常に大きいと思うのである。

 なので、「人が嫌がるコンテンツ」を、誰の目にも回避しようなく映るような発信の仕方は、僕も認められるべきではないと思う。

あと一つ

 しかし、もう一つの疑義を、僕は書いておきたい。
 つまり、大層な「現実」様であるが、しかし、その現実における「正しい絶対普遍の条件」というものも、また存在しないのである。――というのは、僕が諸行無常・諸法無我という考え方に近しいから、という個人思考的な問題であるのだけれども、ただ、覚えておいて良い観点の一つだとは思う。

 稚拙なたとえになるが、昨今、エスカレータで右側(関西では左側)を空けるのをやめようという方向性になっているようだ。理由、危ないから。
 僕は正直、そんな、危ないんだろうか、注意して歩けばいいんじゃないかと思ってしまうが、まぁ、それがルールになるなら別に従ってもいいかなぐらいに思う。
 つまんない、些末な例えのようだけれども、問題としては似ていて、「エスカレータを歩く」というのが「嫌だ」という人が増えたから、そういうルールになろうとしているのだろう(増えた、というのは、単純な人数ではないことは分かっている。「風潮」というか、「リスク」に対する考え方の変化も関係する)。でも、「急いでいる人のことを慮って、片方を開けておく」というのだって、大切な考え方の一つだったはずなのだ。そのマナーが生きていた頃は、聳え立つ要塞のようにエスカレータの真ん中に立つ人は「嫌な奴」だったはずなのだ。


(かっこ書きである。珍しく……もないけれども、本文が長くなったので、かっこ書きはやめておく。ただ、書いておきたいのは、「不快なコンテンツ」というのは、これは主観概念だ。僕は山椒とかの「しびれ」の味覚が不快だけれども、好きな人もいるのだろう。山椒を世界から排除せよ、という主張は成り立たない。不快なコンテンツといったところで、それが不快どころか感動する人もいるかもしれないのだ。「不快」の基準をだれが決めるのか。決められるのか。決められないなら、ゾーニングした上で認めるしかない、と思うのである。甘ちゃんかなぁ、でも、今のところそれぐらいしか思い浮かばない)

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死刑をまつ夢
2019/01/20 08:54 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「目標を掲げてから二回目」「良かった」

前書き

 土曜日だ。
 毎週更新の日だ。

 しかし、そんな実感は全然ない。
 無いけれども、記憶に残っていたから、やろうと思った。全然習慣化していないが、

平成31年3月30日(土)まで。

 は、続けようと決めたので、モチベーションは維持したい。

 書くこととしては、
・今日の一言で、一週間(ぐらいが)「良かった」or「悪かった」か
・前書き
・何か本文的なの
・一週間の振り返りの理由

 である。
 そうか、今日の一言のところで、良かったか悪かったのか書かないといけなかったのか、と後付けで追記する。良かった、と思う。

正解するカドは序盤はやっぱり面白い

 アマゾンプライムで「Angel Beats!」を見終わって、暇だったので「正解するカド」の0話~2話ぐらいを流しで見ていたら、やっぱりこれ面白かった。すごいワクワクする。キャラクターもいいね。
 やっぱり、ごく後半の展開が自分的には残念だった。バトルはやっぱり人類にとっては正解なんだろうか……。

 と、いうよりも、今週よかった理由に挙げてもいいくらい、「Angel Beats!」が面白かった。
 これ、2010年の古い作品なんだが、――というか、おもった。2010年って、今、自分思ったより、書いている瞬間よりも、もうかなり昔なんだな。

「結構前の作品」
 って意味で書こうとしたけれども、ほぼ10年前か。10年。

「あれから10年――」
 みたいなナレーションって、もう相当経った的に感じるけれども、2010年という数字的には、そんなに前の気がしない。
 それってたぶん、「自分が生きていた時代」だからというのもある気がする。

死刑を待つ夢

 ――といったところまで書いて、どうしようも、本当に頭が痛くなって、力尽きてしまった。
 ので、書こうと思っていたのは間違いないし、実際書いていたのだけれども、投稿に至らなかったことは言い訳しておく。
 今も、体調があまりよくない――なんだ、花粉症か、画面酔いなのか。


 そして、嫌な夢を見た。

 過去に、2、3度、「死んだ夢」をみたことがある。
 あれは、原体験として、全経験としても、最大に怖いだろう。

 死んだ夢は、自分の意識があるかないか分からないその境界のような状態――「ほぼ無」で、永遠に、文字通り永遠にその状態が続くことを感じさせる夢である。

 いつも思うが、文字にすると、その怖さが半減どころか、全然続かない。
 だが、まともに思考することも、体を動かすことも(むしろ体なんてもはやなかろう)、何もできないのに、うっすらと、曖昧で真っ暗な意識の断片がふらふらとし続けるのだ。

 死が、「完全な無」だったらどんなによいことかと、発狂しそうになりながら思うのだ。


 ――という夢の、新しいバージョンが今回あった。

 死刑をまつ夢だ。


 刑務官のような人と、自分が、会話している。談笑。ふだんの、日常のような感じだ。

「今日の労務は、世界史の勉強をしましょう」

 そういって、青い表紙の新品の大学ノートが机に置かれる。
 そして、表紙に自分の名前を書くように促される。

 自分は、ペンをとり、自分の名前を書こうとするが、そこで気づく。
 自分は、これから、死刑になるのだと。

「薬物注射ですか」

 刑務官は、微笑を崩さないまま首を振った。

「薬物注射がいい……そのほうが、眠ったように死ねるから」

 自分の思いは、刑務官に伝わったのだろうか。
 しかし、思いはともかく、その要求が実現することなどないことがすぐに分かった。

「では、絞首刑ですか」

 今度は、刑務官は何も動じなかった。
 それで、答えが分かった。

「さ、名前を書いて」

 促されるまま大学ノートに向かう。
 ああ、しかし、僕は本当に死刑になるのだ。だから、こんなノートに名前を書いたって、好きな世界史の勉強をしたって、全部なくなってしまうんだ。
 苗字まで書いたところで、手が震えて、かけなくなってしまう。

「どうせ、名前なんて書いても、これも、すぐに捨ててしまうんでしょう」

 悲鳴にも似た声がでる。
 刑務官は動じない。

 しばらく僕は、ただ恐怖を感じていた。

 様々な思いが浮かんできた(ように思った)。
 出会った人。
 楽しかったこと。
 嫌だったこと。
 様々なことが浮かんで、それらが全部消えてしまうんだと、自分がこの世界から、社会から、なくなってしまうんだということが、ただ、ただ、とてつもなく、どうしようもなく、恐怖だった。

かっこ書きに向かう

 といった夢と、あと、事故にあう夢をみた。あう、というか、同乗していた車で、事故をおこした、というか。車線変更してきた人をひいた。最初自分が運転していると思って、路肩にとめようと思っても止め方がわからず焦っていたら、自分は助手席だった。

 とか。
 で、寝ていたけれども、頭の痛さで明け方に何度か目が覚めた。

 正直、「悪かった」。

 しかし、まぁその、夢の話だし、一週間の振り返りとしては、最初の方に書いたかもしれないが、仕事での問題も取りあえず方向性も見えたし、来週は落ち着かせられそうであるから、まぁよかったと思う。


 だが、昨日今日、土日という意味では、「悪かった」評価をしたいところである。


(かっこ書きである。何か、当初考えていた振り返りの記事と全く違うようになった。まったくもって体調の悪さと、夢のせいだ。土曜日に更新すると決めて、2回目でこの体たらくは落ち込んでしまう。が、いつもの免除規定で(ちゃんと書いてなかったが)、体調不良や、その他イベントによって書けないときは除外されるので、早速これを適用しようと思う。来週は多分、日帰りで旅行には行くが、まぁ大丈夫、書けるだろう。というか、本当は、「Angel Beats!」について書こうかと思っていたのである。あらすじは、見終わってからWIKIみたら、ほぼこれ、ストーリーなんじゃないかと思うくらい完全にまとまっていた。完全ネタバレに思う。見てない人は見ちゃいけないと思う。まぁその、僕の言葉で悪意のある表現をすれば、「よくある学園ものにバトルを持ち込みつつギャグパート多めだが感動させにくる作品」である。あまり好みの作品ではない気がしたが、導入は、シュタインズゲートと同様に、OP曲だった。「My Soul,Your Beats!」という曲なんだそうだが、これも今調べた。Angel……以下面倒なのでAB作品――のOP曲ということも知らなかったが、ニコニコ動画のアニソンメドレー的なので聞いたことがあって、「あぁ、いい曲だなぁ」と思っていたのだ。そんな状態で、アマプラでAB作品が「おすすめ」みたいにあがってきたので見てみると、「あ、この曲だ!」っとなって見始めたのだ。そんな動機だった。今回の僕のみた夢の話と関係ないようだが、今思うに、関係している気がしてきた。AB作品のテーマの一つに、「消滅」というのがあって、満足すると、その世界(現実を模して構築され隔絶された異世界)から消えるのである。その消滅とは何か、その世界とは何かということが打ち出されつつ作品は進んでいくのであるが、不思議なことに、「満足したら消える」のである。登場人物たちは、自分のやりたかったことを成し遂げたとき、幸せそうな顔をして消滅していく。そのシーンは、それはそれで感動的なのだけれども、しかし僕は、99%の感動のうち、対1%の部分で、「なんか怖い」と思っていたのではなかったか。「満足した死」って、何なんだろう。本当にそんなものあるのか――いや、その消滅する瞬間の彼彼女らは、そんな疑問なんて思わずに、本当に満たされて消えていったのだろう。でも、――だが、本当に、そうなのか。……なーんてことを、土曜日に書ければいいかなーぐらいに、先週? 今週? は思っていたのである。それがこんなことになるなんて……。また来週、覚えていたらもう少し詳しく書いてみようかな。あと、とある方のブログで、作品公開が順調にスタートされていて、そっちも見に行きたいが、まだ十分に確認できていない。ああ、そうそう、その中で、「人を不快にするコンテンツの発信は許されるのか」といったテーマが書かれていた。僕などより相当深く考えられているようであったが、このテーマについては、自分なりにも考えておいた方がいいだろうな、と思ったので、これも書きたい。関係ないけど、上の死刑の話で、そもそも自分が何か悪いことをしたのかとか全然分からないが、ただ、怖かったことは事実だけれども、でもそれでも、いや逆に、死刑制度はあっても仕方がないんじゃないかなって思った、逆に。いやそりゃ本当に怖かったのだけれども、ただ、それは、殺される被害者だって同じことだと思う。いやその被害者が、通り魔的に一気に首をかっきられて死んだら、「思考的恐怖=死が何かは分からないこと」もなく死ぬから、死刑という制度はおぞましいかもしれない、けれども、監禁して、体の端から徐々に切り刻んで死に至らしむようなことだったら――いや、その、個別具体的な状態を勘案して刑を考えるなんて、そもそも難しいと思うけれども、それでも、「感情的に」死刑というのはあった方がいいような気がした。死刑撲滅派の人たちは高尚な精神をもっているのかもしれないが、今のところ僕は、(夢の)経験的に、そこまでの精神はもてなそうだ)

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センシティブな人について
2019/01/16 21:14 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「臨時の記事だ」

前書き

 土曜日毎週更新と決定している。しかし、別にそれ以外に書いてもいい。書く。

 HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)という言葉があるのを最近知った。
 病気ではないけれども、外界の刺激に敏感な傾向がある人のことを言うそうだ。
 
参考リンク

 でまぁ、診断基準的なのもあって、5人に1人の割合でHSPはいるということだ。
 ――という言葉で、「結構多いな」と思えるかというと、その1/5というのが、国や社会や集団によるのかとか、諸条件が気になるし、個別具体的にどう当てはまるのかというのは納得感をもてない(男女の差に優位はないらしい)。

 ただ、「鬱」とか「LGBT」じゃあないけれども、そういった概念があるということは、覚えておいて損はないと思う。

 HSPの人は、車の走るスピードが(ふつーの人より)速く感じたり、電話の音とか(ふつーの人より)うるさく感じたりするということだ。
 ただ、HSPという言葉は、「個性」というか、才能だという肯定的な意味で用いられているということである。細かいことによく気づいたり、抽象的思考に優れていたりするということだ。

役立つことを一つぐらい散りばめたい

 ぐだぐだ書くのもいいが、一つぐらい、常に役立つことを含めたいと思った。
 例えば、「内奥(ないおう)」という言葉は、「心の内奥」などと用いて、内部の奥深いところを示すという、まぁ読んで字の通りのものだけれども、実際用法として自分が使えるか、というと使えない。

 読んで理解できるものと、自分が思考言語、ないしは口頭言語として使えるものは別だ。(対義を「理解可能言語」と表現したところであまり意味はない)

 ということで、何かこう外部から、言葉をメモして、思考言語をもっと豊かにできたらどうかと思いついたことを、まず今回の記事としてメモしたい。
「通奏低音」――これも読んで字のごとく、音楽で流れる低音パートのことや、物事や考えの底部に流れていることを示すわけだが、意識的に使おうと思わなければ、理解可能言語のまま終わる。


 しかし果たして――言葉の豊かさは、思考の豊かさになるのか。
 むしろ、物理などは、自然のカオスを、より単純な一つの法則によって描こうと試みるのである。冗長な表現をしたところで、理解が深まったとは言えないのではないか。

 両方必要である。(つまらない回答だ)
 僕は、理系とか文系とか、そういった考えもつまらないと思う。両方大切だ。
 自然に対してのアプローチが違うだけなのだ。専門家になるのでなければ、両方のアプローチを知っておいて損はない。

雑記的部分

 といったことを思ったのと、「毎週土曜日更新」という目標のインプットのために、今日ぐらいは、書いておかねばなるまいと思ったのだ。
 目標、立てた瞬間は、「やれる(実行できる)」と思うものだ。
 それを、いろいろな「障害」があった後、数日後に同じモチベーションを保ってられるのか、その確認作業をできるだけ、最初は頻繁に行う。そのうち、感覚を広げていって、定着感を確かめる、そんな風な作業が必要なのだ。


 ということと、休日について、だ。
生きてるだけでしんどい
 という記事というか、タイトルを読んで、「ああ、なるほど」と思った。

「休日誘われると嬉しいちゃ嬉しいけど、生きているだけで負債がたまっていくから、休日はそれを回復するのに使わないといけないのだ」
 という。

 先日、かっこ書きで、「知人等に誘われて、実際行ってみると楽しかったりするけれどもリソース消費が激しい」ということを書いたが、その、「何もしないこと」に忙しいのである。

 予定が特にないと、「暇でしょ」と言われるけれども、そうじゃないんだ、ということだ。
 なんかどっかにでかけないと「休日がもったいない」とか、そんなん、全然違うんだ、ということだ。



 で、まぁ、そういう感覚と、HSP(ハイリーセンシティブパーソン)とが密接に結びつくのかとか、まぁ疑問は多く発生するけれども、そんなことはどうでもいいのである。
 大事なのは、そうした「思考表現」によって自己理解が可能になる、ということだ。

 流行りの言葉を使えば、「自己肯定感」でも「承認欲求」でもいい。
 ま、とにかく、普遍的に大切なのは、誰しも、「いい感じの状態」でいることだろう。


(かっこ書きである。飲み会と仕事が上手くいかないのとで、非常に疲れている。仕事の方は、自分が悪いというわけではないけれども、まぁその、問題が発生したという結果に対しては、責任がないとは言えないだろう。堤防を越える津波が来ることを予見できなかったら犯罪なのだ。しかし、責任というのは曖昧なものだなと思う。いやまぁ実際、上司の裁量とか、会社の規約とか、日本国法とか、ちゃんとした基準はあるんだろう。しかし、科学でさえも自然のすべてを解明できていないのに、所詮人間の作ったルールが完ぺきなものであるはずはないのだ。そして、ルールを運用するのもまた人間に過ぎないのだ。科学的思考や資本主義的思考は、普遍的なものが絶対的にあるかのように振舞ってきた。――的な書き出しすると、神やスピリチュアル的なものがあって、それらを信じてるのか、とか疑われそうだけれども、結局、そういったものの信仰もまた、絶対性の誤謬である。かといって、相対主義論に拠ってしまうのも間違っている――何故なら、実際に運動量保存則が成り立つケースは存在するのだ。窃盗罪は「10年以下の懲役または50万円以下の罰金」であって、ちゃんと基準をもって量刑が言い渡されるのである。事実は、事実として存在する。しかし、毎日ふつーに生きていくにしたって、その判断は、いつも流動的であり、不確定要素があり、時間的制約もあり、大変だ。お昼に今日何を食べようかという思考も面倒だ、大変なリソース消費だ(大げさ)。ちなみに、量刑の懲役か罰金かというのは、数か月前ぐらいに何かで調べるまで、被告人が選べるのかと思っていたら、そうじゃなかった。大の大人がお恥ずかしい。しかし、「知らないこと」というのは、もうそりゃ沢山ある。きりがない。だから、無知の知的態度が大事なのは言うまでもなくて、逆にそうだからこそ、そのきりのない中で「ストーリー」を構築できる人が、作家としてだけじゃあなくて、どんな分野でも成功できる。何故ならば、一般ピーポーは、ストーリーを構築できない。誰かのストーリーに寄り添って生きるしかない。さらに悲劇的には、自分自身のストーリーさえ構築できない。「自分の人生は自分のものだ!」とか掛け声は立派だが、その実は惨憺たるものだ――と書くと言い過ぎなのは承知の上だが、まぁその、思ったほど簡単なことじゃあない。まだ学校の勉強していた方が楽なもんである。にもかかわらず、子供たちに、「将来の夢は」なんてのは、酷な話である。いやまぁ大事なことで、やめるべきだという主張ではない。でも、「お父さんのようなお医者さんになりたいです!」とかいうのが、本当に「自分のストーリー」なのか、ということの疑義だ。ということを書くとスグサマ逆に、「別に自分のストーリーいらないんじゃない?」というのも思い浮かぶけれども、まぁその、あった方がいいと思う――というかかっこ書き長い。本文とどっちが長いのかと思うくらいだ。やめよう)

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一週間の振り返りを試みる
2019/01/14 23:00 | Comments(0) | 目的・目標
今日の一言「良かった」

前書き

 小見出しが「前書き」固定だと、書き始めは至極スムーズだということが分かった。
 しかし、さぁ、何をかこう。

 小説を、読もうかと思う。
 インプットなくして、アウトプットなし。
 インプットとアウトプットは、等価交換、エネルギー保存則は適用されないが、無関係ではない。

 インプット + 自己思考 < アウトプット

 という図式が成り立つ。
 等号(=)ではなく、不等号(<)であることがポイントだ。
 要は、インプットに対して、自己思考(単に何か思うこと)が発生することによって、インプット以上のアウトプットが生じるのである。

 何かの記事で、「自己啓発本を読んだとき、「へー」って反応をしている奴はダメだ。「そうそう」って反応ができるようにならないと、本を読んだって何の意味もない」といったのを見かけた気がする。
 要は、「へー」は、「すごいな、そんなことあるんだ」といった感動しているようだが、「他人事」なのである。自分で活かそうという気概がない。
 一方、「そうそう」というのは、自分も似たようなことを考えつつ、それを「確認する」という作業をしているから、より自分に引き付けて思考できているからだ、ということだそうだ。

 ま、それの真偽はともかく、

 インプット = アウトプット

 になっているようでは、パーソナルコンピュータに適うわけはない。外部ストレージに情報を保存するだけだ。
 文字や、静止画だけではない。ビデオカメラの情報は大量だ。
 いやもちろん、カメラの視点のあわせとか、どの被写体をとるのかといったことは重要だろうが、そういう意味ではない。単に、インプット情報を保存するだけならば、ビデオカメラで撮って保存したほうが正確で速いというだけだ。
 人間がやろうとすれば、上の「等号(=)」すら成り立たない。

 インプット > アウトプット

 程度だ。僕が上で見た自己啓発本を役立てようというような記事も、僕のつたない記憶力にかかれば、上に書いた程度しか再生できないのだ。
 しかし、これは僕の能力の多寡はともかくとして、誰しもそうだ。
 インプットに対して、単純に情報を「丸暗記」しようとすれば、絶対に「インプット>アウトプット」になる。情報量によっては、せいぜい、等号になるかどうかだ。


 んあー、長い前書きになったな。
 上のことはどうでもいいんだ、要は、「自分の思考」部分が大事だということをメモしたかっただけに過ぎない。
 

自分の思考

 まぁ、上のようなことを見かけたとして、「え、当たり前じゃね?」と思う人が大半だろう。
 ただ、それを文字起こし(ブログに書く)ということの意味は、ただの記録、という意味にとどまらない。

 何故ならば――。 

 てなことを書いていたら、やっぱり、投稿するのを躊躇ってしまった。
 躊躇って、しばらくして読み返したら、うーん、やっぱり、どうなん、これ、別にいっか……とか思い出す。

 まてまて、落ち着け、年初の方針はどうなったのだ。
 ここで怠けてしまうと、一年結局似たような感じで、「ま、いっか」とかいいつつ全然書かないことが始まる。
 そうすると、10年後ぐらいに、「2019年ってどんな感じだったんだろ」と思って読み返したときに、「え、記事、たったの4つ……」とかなりかねん。


 ――という思考自体がすでに「興味深い」なのである。
 何故ならば、おそらく、逆に10年前の自分に問うたら、「10年後の自分――」なんて、まちがっても書かなかったろうし、書いたとしたら非常に皮肉的な意味合いで書いたであろう。未来に対しての悲観的観測。

 そうした転換期、転機ってのがあるはずなのだ。
 どこかで、自分は変わっている。その変わっている「瞬間」なんてものはない。
 1秒で変わることはない。

 しかし、その、ある程度長い期間を範囲指定(スコープ)してみると、その「変化」的な奴が少し見えたりするのである。

良かった理由

 ああ、ええと、だから、今回はとにかく投稿する。支離滅裂で恥ずかしいけれども、まぁこれはいつものことだ――しかし、いつもはそれほど恥ずかしくない、何故なら、「勢い任せ」だからだ。勢いがないと、つらいなぁ……。

 とか言っても仕方がない。ノルマ的に課す。

 構造的にだな、
・今日の一言で、一週間(ぐらいが)「良かった」or「悪かった」か
・前書き
・何か本文的なの
・一週間の振り返りの理由
 といった感じで、週1を目指していこう。曜日も決めよう。基本土曜日の夜――ダメなら日曜日の夜。
 それ以外の単発で何か書くのは含めない。

 こんな感じでいこう。
 そうだな、期限も決めないとよくない。取り敢えず3月までやる。絶対。

 何だかんだ、ブログ(か日記か、ログか)書いていないと、俺はやはり、自己コントロール感が抱けないようであるのだ。
 だから、やる。
 ただ、効果のほどはどうか分からないし、「続ける」ためにも、期限がないとよくない。3月まで。もっと具体的に書いた方がいい。

 3月30日(土)まで。

 よし。気持ちは少し前向きになった、気がする。(こうやってちゃんとカレンダー見ると、2月3週目と、3月の2週目は土曜日使えなそうだな……とか未来の休日の予定とかも考えないといけなかったりする。これはいいことだ)

 え、あえ、……ああん、「良かった理由」書いてないじゃん。

 あーそうだな、なんだろう、取りあえずそんな悪いことはなかった。仕事とかプライベートの予定とかが不確定的な状況でヤキモキしたりして気分悪くなったりしたりしたが、結果的には上手くいったし、出かけたのも楽しかったりしたから、よかったと、思いまーす(小学生並み感)。



(かっこ書きである。かっこ書きが一番落ち着く気がする気がするが、気のせいかな。自分、友人少ない自負がある。俺が友人と思っていて、相手がどう思っているか知らない人も更に多いから、双方友人認識のは本当に少ない気がするのだ。ただ、別に困ったって思ったことは特にない。友人や知り合いが多くて、週末いつも誰かと出かけたりしている人もいるし、いたけれども、特に羨ましいとも思わない(ただ、「彼女」という存在は、きっととても素晴らしいものなんだろうなぁと、二次元的エフェクトによって、法界悋気だった)。なのである故、その、友人というか知り合いから、お出かけ的なお誘いを受けたとき、取り敢えず躊躇するのが分かった。いやその、行けば楽しかったりするのであるが、何か、休日はゆっくりしたかったりするのである。そりゃあさおめー、毎週一週間が4日仕事で3日休日だったりしたら、じゃあ一日くらいはお出かけしよーって気にもなるが。たまの三連休とかそういうんじゃない。毎週がそうだったら、少しは考える。映画見たり動画見たり漫画見たり小説読んだりサイト更新したり、寝たり、寝たり、寝たり――俺も色々忙しいんじゃい!(先週は外食に出かけた――おいしかった――が、今週は寝てばっかだったなぁ)――というプライベート的な誘いで、今週は「あーどっすっかなー」と、脳内リソースが結構消費された。平日の飲み会とかも、まぁその、他部署の人とか、上司とか先輩とのコミュニケーションも大事だし、そもそも「マジめんどくせぇ」人とは行かないから、行けば、知らないことも聞けたり、仕事の愚痴的なのも言えたりするから、まぁ楽しかったりするのである。が、早く帰れるなら、さっさと家に帰りたいのである。帰って、ぼーっとニュースやらアニメやら見て、好き勝手過ごす時間が楽しいのである。でもそれって、「現実的に」よくないことである。だから、倫理的思考(自己理想というか、理性)によって、「えーほら、そんな一人で家でこもってないで、友人やら先輩やらとちゃんと会って話したりしなさいよ」と言われ、一方で「えーでも、今日はゲームしたいんだけどなぁ……」とか思ったりするのである――ダメ人間だッ!! ……という人は、別に僕だけじゃなくて、少なからずいると思うから、それはまぁどうでもいいのだけれども、要するに、その「リソース消費」を減らしたいのである――あああ、全然書き足りないぞ! 全然説明足りてないぞ! もっと書かせろ! しかし、時間切れだ。あーこの、本文書いているときの「やる気のなさ」と、このテキトーかっこ書きのモチベーション(勢い)とのギャップは、どうにも、文字には表現しきれない。仕切れないけれども、もったいないから、何とか表現したい。こういう、「カオス的」なものを、記号化するのが言語であり、数学や物理はそれを「数値」や「数式」で表そうとする。数学や物理は、公式を暗記すれば解けるかもしれないが、しかし、「自然ってカオス!」という感覚がないと、絶対面白くないと思う。自由落下の法則も、中学生? 高校生で習って、速度を「v=gt」で表せるって、「へー」となるかもしれないが、そんな簡単なことでも、カオスな自然に法則があるって知るってのは、面白いことだと思うのである――って何の話だ)


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真理がないことが真理だ
2019/01/11 18:00 | Comments(2) | 生きる意味
今日の一言「今日も20分だ」

前書き

 最初の書き出しが、「前書き」と決まっていると、導入は簡単でよい。
 そうだな、しかし、何を書こうかというのは逡巡する。

 先日の、メインストリームと本音思考について書こうか。

 あれは、たまたまLGBTのニュース記事を読んだから関連付けて書いたのであるが、それと実際自分の興味は全く別の方向だった。

 要するに、「生きづらさ」とは何故生じるのか、ということを分析したいのであった。

 もっと書けば、メインストリーム――横文字の意味は特にない。主流という意味で使っている――と「本音」が近ければ、とても生きやすい世の中なのに、ということである。
 これは、以前から、相当以前から書いている、幸せとは、「理想と現実の差異の少なさ」であるということと同類である。

メインストリーム思考

 モラルとか、道徳とか、ルールとか、「正しい」と思われていることが多数ある。

 それがメインストリーム、主流の思考だ。風潮とか、イデオロギーとか、慣習とか、「空気」とか、そういったものの中に存在するもの全般を指している。

 一方で、「いま・この場」で生じる、代替がきかない思考がある。それが本音だ。
 感情、と書いてもいいかもしれない。リアルタイム、ゼロ秒思考だ。

 つまり、「己自身」と書いてもいいかもしれない。アイデンティティ。自我同一性。


 自分と、主流となる思考が一致しているというのは、概念的に、とても住みやすく、暮らしやすく、生きやすいだろうと思われる。

 そうしたものを目指すのがよいのではないか、というのが一つ提案となる。

主流が発生する場

 で、とはいえ、その主流って概念的には分かったけれども、具体的にどんなものなのだろうか、ということをすぐさま考える必要がある。

 人類の。世界の。日本の。企業の。地域の。家庭の。趣味の。

 様々な集団(2人以上の人間の集まり)において、主流は必ず発生するものだ。


 これが意味するのは、主流と自分との一致というのは、その所属する集団によって変化するものであり、万理普遍ではないということだ。

 よく耳にするのは、所属集団は、3つ以上もったほうがいいというもの。
 仕事だけでも、家庭だけでも、趣味だけでも、人生は安定的には送れないということだ。

自分の開示は最小限であるべきか

 まぁ、いろんな、セーフティネットを持っておいた方が安全というのは当たり前の話である。
 投資の世界でも、基本は分散投資だと言われるようだ。
 生命保険や介護保険や自動車保険、保険というのは、同一のリスク、保険事故を有するだろうと考えられる集団において、共同でそのリスク軽減を図る仕組みである。

 ――上の話と思考の話に関係はあるのか?
 あまりない。言いたいことがズレそうなのでもう一度考え直すと、ええと、「本音」のズレは、かなり慎重に認識しておく必要があるということだ。

 主流と本音に差異があることを認識していれば、それは、安全な運用が可能となる。
 しかし、主流と本音のズレが分からない人は、「失言」を発生させてしまうのである。

 ――というわけで、前回の記事で、「失言」が発生するメカニズムを書いてみよう、というのが、このことである。



 さて、これを防ぐには、どうしたらよいか。……仕方がなかろう、「主流」を知るしかない。知るための努力は必要だ。

 じゃあ具体的にどうやって知っていけばいいのか。インターネットの意見が主流なのか? テレビなのか? 新聞なのかラジオなのか。友人なのか、上司なのか、家族なのか。


 答えとしては、すでに書いてあるが、「集団に拠る」ということになる。つまり、つまらない答えだ。

 しかし大体20分に近づいている。そろそろかっこ書きに入ろう。



(かっこ書きである。どちらかというと、今日は、「真理なんてないのが真理なんだ」と、ふとトイレに向かいながら思ったことをメモしたかった。真理なんてない、というのは、これまでも自分でも書いたし、まぁよく目にする言葉だろう。「大きな物語の終わり」とかそんなんもある。しかし、真理なんてない――というのが逆に真理だ、という、「クレタ人はうそつきだ」的なことを書きたかったのである。先日の記事において、「LGBTだって認めるべきだ!」と書いたわけだが(そうは書いてない)、さらにそれに加えて、「そういった多様性を認められない大人は滅びてしまえ」と書いたわけだが(そうは書いてない)、逆転的に、コペルニクス的転回(単に思いついただけ)的に、そうした(多様性が認められない)大人が存在するということ自体も、多様性の中に含まれるのではないか、と思ったということである。つまり、多様性というのは、快楽殺人犯も認める概念ではないのか、という誤謬。そんなことを思ったりしていたときに「NOTE」というサイトに投稿されているある方の作品において、「社会に管理され許容された虐殺は罪という概念にはならなかったのだ」といった表現がびびっと面白かったのであった。そのこととはあまり関係ないのだが、「本当に正しいことなんて、何もないんだ」というのは、ある意味正解で納得感はあるが、一方で非常に無責任で投げやりにも見えるわけである。「何もない」という悉皆全否定は嘘っぽい。現象学を少し参照してみよう。あれは、(僕の拙い理解力によれば)絶対に正しい事柄や普遍の意味・条件なんてのは存在しないが、しかし、現に目の前に生じている事象・事柄というのは、ないとは言えない。現象している。あるもんはある。だからそのメカニズムに視点を向けよ、というものである。デカルト氏の「我思う我あり」と似ているようだけれども、デカルト氏は、「思ったって自分があるんだから、自分ってのは絶対あるんやで」という認識だったんだろうという点で、ちょっと違うんだろうなと思う(勘)。フッサール氏は、「自分ってのもあるか分らんけど、取りあえず「思った」って事象はあるんだろうから、それが発生したのは何故かは考えていいんじゃん?」という点なんだろうと思う。哲学者さんたち、違ったらごめんなさい)

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