今日の一言「台風」
いろいろと、書きたいことはあったのだけれども、気づいたらあっという間に過ぎる。
もう10月に入るのだ。
今年も、もう3か月で終わる。いつも、例年を考えると、来年の目標を考えないとなぁと焦り始めて、結局年内に決まらずに、翌年の三月ぐらいまでに方向付けする感じである。
そもそも、今年の目標って何だったのか。
2017年の目標は覚えている。「整理」であった。2018年は、創作にもっと力を入れようと思っていたのだけれども、実生活に大きく変化があって(それはもちろん自分の選択であるのだけれど)、まったく想像と異なることになった。
それは、悪い意味では、まったくなかったと思う。これまで経験したことがなかったこと経験できたし、感情的な面でも、安定的でいられたと思う。
もちろん、それは良いことなのだけれども、僕は、これからも、やっぱり、この時間は大切にしたいと思う。
それは、「書く」ということだ。
僕が、どれだけこのブログの場に甘えているのかが分かった。
コメントなどくださる方々には改めて感謝を思った。
誤字も、表現も非常に分かりづらい面が多々ある。
ただ、なんかその、勢いというか、リアルタイム性というか、熱量は読み返してみると、ブログの方は感じた。編集してしまうと、その泥臭さというか臭気というか気持ちの強さとかそのあたりがなくなってしまう気がしたけれども、あっちの方は分かりやすさを追求しようと思う。といっても、元がこんなんだから、脈絡のなさを如何ともしがたい面はある。
とはいえ、なんとか、複数記事の関連ポイントを探したりと、できる限りはしたつもりである。この、「やったつもり」という、言い訳がましい表現が嫌いである。はっきり言おう。時間ないなか、自分の最大限のパフォーマンスを発揮した、と。
こう言い切ることが、僕は昔からできなかった。それが許されなかった環境だった気もする。
「頑張ること」「努力すること」というのは、子どもたちには、無限の可能性(かっこわらい)を開く大切なツールなのだから。
でもそれって、精神衛生上よくないことだと今は思う。
ただ、「自分」って境界線をよく分からない人が、勝手に線引きして、「俺はこんなもんだ」と思うのとは全く違うってのは書いておかなければならない。
そうじゃなくて、「環境」「時間」「意志」など、全要素を含めて、これが今の限界だという感覚になるまで、力を発揮することが大事であるということだ。
サイトURL更新は、一応形上はやった。ただ、これだけでは完成ではない。
リンク周りして、その報告をしたり、検索サーチの更新したりと、やることは多い。
これは、リンク整理と並行して実施したいと思う。リンク切れのサイトさんや、何か交流がなくなってしまった(更新がもうされなそうな)サイトさんとかは、これを機に外さしてもらおうかと思う。
リンク集ってもう時代じゃないのかもしれない。
でも、僕は何か、サイト開設した当時の、お互いのホームページがあって、それぞれのリンクページに紹介など書きあって更新していった、あの時の感覚がなんか忘れられない。
今は、個人の小説サイトとかあんまし流行ってないだろう。昔から投稿サイトはあったけど、今よりもっと個人のサイトも活発だったのだ。
第一、「ホームページ」って言葉がもう使われないのが象徴していると思う。みんなWEBサイトっていうでしょ。
今はもう、ベタ打ちでHTMLなんて打ったりする人は一般人ではいないんだろうなあ。
内容としてはこんな感じで連載しようかと思う。
・感想と批評・レビューの違い
・感想を書くのは難しくない
・作品を全部読んでからでないと書けないのか
・文章作法・誤字脱字の指摘はするべきか
・主観と客観について
・定型文を考える
・感謝の気持ちは忘れない
・良いところを見つけようとする
・良かった点から書くか、悪かった点から書くか
・評価の8つの軸
・絶対評価と相対評価
・作者の受け取り方は千差万別、ならば読者も然り
・5W1Hは普通に使える
・印象に残った場面を絞る
・感想が書かれやすい作品とは
・感想や批評は人のためならず
逆に言えば、僕はこんな感じで感想などを書いているのだという、自己さらしでもある。ので、恥ずかしい面も多い。それに、そんなの当たり前だと思われるようなことが大半にも思う。
ただ、そうはいっても、自分の言葉で体系的に書いておくというのは悪いことではないと思うし、本記事冒頭のとおり、「今の自分の最大限を発揮せよ」「敵は外ではない内にある」ということである(冒頭に書いてないことも書いてしまった)。
だが、「くっそつまんねええ」と思っても、何らか書いておかないと、ゼロ、である。ゼロからは何も生まれない。だから、何かアクションはすべきだ。
……というのが、まぁ、このブログの、ゼロ秒思考、ゼロ秒アウトプット的なうんたらであるが、先日、カクヨム向けにまとめていたら、その文の多さに眩暈がした。よくまぁ、書いているものである。
あんまり多すぎるのも困りものかとも思った。
ただ……こればかりは、少ない文量では、「感情」がぜんっぜん伝わってこない、ってのはある。
言いたいことは「疲れた」って一言だけなんだろうなぁって記事もある。けれども、ツイッターで「今日は疲れた」ってだけ呟いても、面白くないわけである。それが、現象学のエポケーについて触れられたりしていると、「あれ?」と、少しきっかけになるのである。
だが、僕は一つ、また今回も同じことであるけれど、最近同じようなことばかりいっているけれど、「書く」ということ、「書く」ことができる時間ってのが、ほんとに大切で、大事だなぁと思うのである。
ああ、それで、ふと思ったのは、僕は、中学校ぐらいに、「人は楽しむために生きている」と思った。
最近でも、その「楽しむ」という内実に変化はあれ、その方向性はあっているのかな、と思ったりもした。
ただ、それは、「快楽を得るために人は存在する」というのとは、違うのではないかと。
快楽はあくまでも結果であって、何かを為すということが目指されてこそ発生する付加価値的なものではないかと。
そうすると、人は何のために生きているのだろうか。
何か、目的のためではなかろうか。
僕らは、「神」から、「自分」という制約を与えられた。その制約の中で何を為すのか、何を目指すのか。「意志」が不在であっても構わない。それでも、人は、何からの役割を為している。物語の冒頭に無残に殺されるサラリーマンであっても、物語にとって重要な意味があるように……まぁ殺されるのはまっぴらである。ただ、その殺されるってのも、若きウェルテルのように、愛に殺されるというのは、社会現象にまでなることもあるのである。
我々は何者か。我々はどこからきたのか。我々はどこへ行くのか。
いやそんな、「我々」のことはもうどうでもいい。私や貴方や僕や彼や彼女が、どうするのか。何を目指すのか、何を為すのか。
モブキャラにはモブキャラの矜持をもって生きていかねばなるまい。
(かっこ書きである。なんか、後半、変になった。いやいつもか。ある、たまにこのブログに遊びに来てくれる友人が、「あんまリアルの人には知られない方がいいぞ」と言ってくれた。僕もまさにそう思う。やっぱり、僕は、変なんだろう。いや、それとも、物語を嗜む人はみんな変なのだろうか。ここで、「変ってなんぞ」議論はしても仕方がない気がする。人って、自分と異質なものを「変」って認識しがちだし。でも、なんかなぁ、こう、人と接しているときの、ふと生じる「生きづらさ感」ってのが、垣間見えることが昔からある。あー、そう、今思い出したが、最近だと、樹木希林さんがお亡くなりになった。で、その方の「不思議な」とか「変な」とか「偉大な」とか「すごい」エピソードがまぁ語られたり、記事になったりしたのを読んだりするのだけれど、そんなに「変」とか全然思わないのである。……というようなことを書くと、お前何傲慢チキかましてんだ表出ろコラ、と言われる怖い。けれども、ある程度クローズ的なこの偏狭な辺境なブログの、さらにテキトーなかっこ書きの中だ、許して頂きたい。そう、最近どうしてそんな「生きづらさ」的な奴をまた感じたのかなと思ったけれど、多分それだろう(他もありそうだが)。いやもちろん、すごいなぁとは思うのだけれど、そんな、他にはそんな大人があんまりいないのかもしれないということに、少し愕然するのである。僕の大人に対するイメージって、そんなもんだった。けど、そうじゃない人もたくさんいるってのが、まぁその、何十年も生きていると分かってくるのであって、まぁ逆にそのことが、「変」な僕にとっては、変な安心になったことは確かであるが。……何を書きたいのだろう、俺は、あまり、眠くないが、そろそろキリがないし終わるか。まぁその、変とか、普通とか書いたけれども、何の気なしに、先日の自分のブログを読み返していたら、やっぱり似たようなことは書いてあった。「そもそも普通の人はブログを書かない」「さらに創作しようという奴は輪をかけて変態」(過去改変。そこまでは書いていなかった)と、脈絡なくいつも通り終わる)
いろいろと、書きたいことはあったのだけれども、気づいたらあっという間に過ぎる。
もう10月に入るのだ。
今年も、もう3か月で終わる。いつも、例年を考えると、来年の目標を考えないとなぁと焦り始めて、結局年内に決まらずに、翌年の三月ぐらいまでに方向付けする感じである。
そもそも、今年の目標って何だったのか。
2017年の目標は覚えている。「整理」であった。2018年は、創作にもっと力を入れようと思っていたのだけれども、実生活に大きく変化があって(それはもちろん自分の選択であるのだけれど)、まったく想像と異なることになった。
それは、悪い意味では、まったくなかったと思う。これまで経験したことがなかったこと経験できたし、感情的な面でも、安定的でいられたと思う。
もちろん、それは良いことなのだけれども、僕は、これからも、やっぱり、この時間は大切にしたいと思う。
それは、「書く」ということだ。
先日の目標:カクヨム更新
振り返る。一つは、カクヨムに連載中の作品の更新である。といっても、このブログのリテイク? リメイク? リブート? 言葉はよく分からないが、編集作業であるといえる。あまり新たに書き足すことはない。が、逆に、とても大変であった。僕が、どれだけこのブログの場に甘えているのかが分かった。
コメントなどくださる方々には改めて感謝を思った。
誤字も、表現も非常に分かりづらい面が多々ある。
ただ、なんかその、勢いというか、リアルタイム性というか、熱量は読み返してみると、ブログの方は感じた。編集してしまうと、その泥臭さというか臭気というか気持ちの強さとかそのあたりがなくなってしまう気がしたけれども、あっちの方は分かりやすさを追求しようと思う。といっても、元がこんなんだから、脈絡のなさを如何ともしがたい面はある。
とはいえ、なんとか、複数記事の関連ポイントを探したりと、できる限りはしたつもりである。この、「やったつもり」という、言い訳がましい表現が嫌いである。はっきり言おう。時間ないなか、自分の最大限のパフォーマンスを発揮した、と。
こう言い切ることが、僕は昔からできなかった。それが許されなかった環境だった気もする。
「頑張ること」「努力すること」というのは、子どもたちには、無限の可能性(かっこわらい)を開く大切なツールなのだから。
でもそれって、精神衛生上よくないことだと今は思う。
ただ、「自分」って境界線をよく分からない人が、勝手に線引きして、「俺はこんなもんだ」と思うのとは全く違うってのは書いておかなければならない。
そうじゃなくて、「環境」「時間」「意志」など、全要素を含めて、これが今の限界だという感覚になるまで、力を発揮することが大事であるということだ。
先日の目標:サイト更新
サイトの不具合更新は行った。自分でも使ってみて、しばらくたったけれども上手く機能していると思う。これは完了。サイトURL更新は、一応形上はやった。ただ、これだけでは完成ではない。
リンク周りして、その報告をしたり、検索サーチの更新したりと、やることは多い。
これは、リンク整理と並行して実施したいと思う。リンク切れのサイトさんや、何か交流がなくなってしまった(更新がもうされなそうな)サイトさんとかは、これを機に外さしてもらおうかと思う。
リンク集ってもう時代じゃないのかもしれない。
でも、僕は何か、サイト開設した当時の、お互いのホームページがあって、それぞれのリンクページに紹介など書きあって更新していった、あの時の感覚がなんか忘れられない。
今は、個人の小説サイトとかあんまし流行ってないだろう。昔から投稿サイトはあったけど、今よりもっと個人のサイトも活発だったのだ。
第一、「ホームページ」って言葉がもう使われないのが象徴していると思う。みんなWEBサイトっていうでしょ。
今はもう、ベタ打ちでHTMLなんて打ったりする人は一般人ではいないんだろうなあ。
今後の思い
それで、まぁ、ツイッターにでも呟くレベルなのかもしれないが、ここにメモしておこうと思う。・サイトの読んだよボタンが自分自身もカウントされてしまう件
これは、自分で投稿した作品と、ボタンを押した人が同じ人だと特定して、その場合はカウントから除外するという機能で実装しようと思う。どういった情報で特定可能かを調べるところから着手する(調べるって大仰だが、自分で作ったPGやDBでも少し経つと他人である)。・感想別の作品ソート
要するに、感想のついた順に作品を検索できる機能。その際に、感想希望のレベルも選択できるようにしたい。ふつーの作品検索の部分で、感想がゼロ件の作品を検索……とかはあるけれど、ちょっと使いづらいし見た目も分かりづらいため、これを機に改良したい。・感想や批評の書き方についての随筆(エッセイ)
前から頭の中では思っていたのだけれども、これを機にアウトプット。内容としてはこんな感じで連載しようかと思う。
・感想と批評・レビューの違い
・感想を書くのは難しくない
・作品を全部読んでからでないと書けないのか
・文章作法・誤字脱字の指摘はするべきか
・主観と客観について
・定型文を考える
・感謝の気持ちは忘れない
・良いところを見つけようとする
・良かった点から書くか、悪かった点から書くか
・評価の8つの軸
・絶対評価と相対評価
・作者の受け取り方は千差万別、ならば読者も然り
・5W1Hは普通に使える
・印象に残った場面を絞る
・感想が書かれやすい作品とは
・感想や批評は人のためならず
逆に言えば、僕はこんな感じで感想などを書いているのだという、自己さらしでもある。ので、恥ずかしい面も多い。それに、そんなの当たり前だと思われるようなことが大半にも思う。
ただ、そうはいっても、自分の言葉で体系的に書いておくというのは悪いことではないと思うし、本記事冒頭のとおり、「今の自分の最大限を発揮せよ」「敵は外ではない内にある」ということである(冒頭に書いてないことも書いてしまった)。
・自作品の進捗
これが、先月中旬くらいのなかで、一番進捗がよくないだろう。だが、「くっそつまんねええ」と思っても、何らか書いておかないと、ゼロ、である。ゼロからは何も生まれない。だから、何かアクションはすべきだ。
……というのが、まぁ、このブログの、ゼロ秒思考、ゼロ秒アウトプット的なうんたらであるが、先日、カクヨム向けにまとめていたら、その文の多さに眩暈がした。よくまぁ、書いているものである。
あんまり多すぎるのも困りものかとも思った。
ただ……こればかりは、少ない文量では、「感情」がぜんっぜん伝わってこない、ってのはある。
言いたいことは「疲れた」って一言だけなんだろうなぁって記事もある。けれども、ツイッターで「今日は疲れた」ってだけ呟いても、面白くないわけである。それが、現象学のエポケーについて触れられたりしていると、「あれ?」と、少しきっかけになるのである。
人は目的的に生きている
変な時間に書いているので、変なことが頭に浮かぶのは仕方がなかろう。だが、僕は一つ、また今回も同じことであるけれど、最近同じようなことばかりいっているけれど、「書く」ということ、「書く」ことができる時間ってのが、ほんとに大切で、大事だなぁと思うのである。
ああ、それで、ふと思ったのは、僕は、中学校ぐらいに、「人は楽しむために生きている」と思った。
最近でも、その「楽しむ」という内実に変化はあれ、その方向性はあっているのかな、と思ったりもした。
ただ、それは、「快楽を得るために人は存在する」というのとは、違うのではないかと。
快楽はあくまでも結果であって、何かを為すということが目指されてこそ発生する付加価値的なものではないかと。
そうすると、人は何のために生きているのだろうか。
何か、目的のためではなかろうか。
僕らは、「神」から、「自分」という制約を与えられた。その制約の中で何を為すのか、何を目指すのか。「意志」が不在であっても構わない。それでも、人は、何からの役割を為している。物語の冒頭に無残に殺されるサラリーマンであっても、物語にとって重要な意味があるように……まぁ殺されるのはまっぴらである。ただ、その殺されるってのも、若きウェルテルのように、愛に殺されるというのは、社会現象にまでなることもあるのである。
我々は何者か。我々はどこからきたのか。我々はどこへ行くのか。
いやそんな、「我々」のことはもうどうでもいい。私や貴方や僕や彼や彼女が、どうするのか。何を目指すのか、何を為すのか。
モブキャラにはモブキャラの矜持をもって生きていかねばなるまい。
(かっこ書きである。なんか、後半、変になった。いやいつもか。ある、たまにこのブログに遊びに来てくれる友人が、「あんまリアルの人には知られない方がいいぞ」と言ってくれた。僕もまさにそう思う。やっぱり、僕は、変なんだろう。いや、それとも、物語を嗜む人はみんな変なのだろうか。ここで、「変ってなんぞ」議論はしても仕方がない気がする。人って、自分と異質なものを「変」って認識しがちだし。でも、なんかなぁ、こう、人と接しているときの、ふと生じる「生きづらさ感」ってのが、垣間見えることが昔からある。あー、そう、今思い出したが、最近だと、樹木希林さんがお亡くなりになった。で、その方の「不思議な」とか「変な」とか「偉大な」とか「すごい」エピソードがまぁ語られたり、記事になったりしたのを読んだりするのだけれど、そんなに「変」とか全然思わないのである。……というようなことを書くと、お前何傲慢チキかましてんだ表出ろコラ、と言われる怖い。けれども、ある程度クローズ的なこの偏狭な辺境なブログの、さらにテキトーなかっこ書きの中だ、許して頂きたい。そう、最近どうしてそんな「生きづらさ」的な奴をまた感じたのかなと思ったけれど、多分それだろう(他もありそうだが)。いやもちろん、すごいなぁとは思うのだけれど、そんな、他にはそんな大人があんまりいないのかもしれないということに、少し愕然するのである。僕の大人に対するイメージって、そんなもんだった。けど、そうじゃない人もたくさんいるってのが、まぁその、何十年も生きていると分かってくるのであって、まぁ逆にそのことが、「変」な僕にとっては、変な安心になったことは確かであるが。……何を書きたいのだろう、俺は、あまり、眠くないが、そろそろキリがないし終わるか。まぁその、変とか、普通とか書いたけれども、何の気なしに、先日の自分のブログを読み返していたら、やっぱり似たようなことは書いてあった。「そもそも普通の人はブログを書かない」「さらに創作しようという奴は輪をかけて変態」(過去改変。そこまでは書いていなかった)と、脈絡なくいつも通り終わる)
PR
今日の一言「そういや冒頭で『今日の一言』っていうのをやってたな」「結局内容と一致しないんですよね」
自分、ミクシィはむかーしかなり使っていたけれども、同時期に登録したツイッターは、あんまし活用しなかった。
よく分からなかった、というのが正直なところである。だって、あれ、140字なんでしょ。でも、それ以上も打てるとか打てないとか。どっちやねん。――調べた。やっぱり140字らしい。英数字だと280字になるとかならないとか。
あと、なんか、商業的な奴がツイート欄にのってきて、読みづらい、ってのも思った。
あと、なんか、これは……正直書くと微妙なんだろうけれど、「断片的な情報だけで、内容が140字で完結しないツイートが多い」というのが気になる。
あと、なんか、連続投稿的なの。あと、「朝起きた、おはよー」的なの。
著名人とかも呟いたりしてて、面白いメディアだとは思う。のだけれども、情報の選別ってのが上手く、僕は使いこなせなくて、あんまり使えていない。
「心理テストやってみました」
的なつぶやきがタイムラインいっぱいになっていたら、なんか、ねぇ……。
とはいえ、よいきっかけでもあるので、もう少し活用する方法を前向きに考えて行動したいと思ったのであった。
と思ったのが、本記事の冒頭の内容の所以である。
しかし、今の時点、ツイッターを活用できている自分が想像できない。
なんか、「わかる人にはわかる」的なのが嫌なのである。
このブログが、いっつも長くなるのは、初めてこの記事を読んだ人でも、僕の言いたいことが分かるかどうかは別として、「何について」書いているかは分かるように書いているつもりである。そういう意味で、中学生が読んでも分かると思う。
ツイッターは、経緯を、前置きをダラダラ書くことは許されない。許されるとしたら、長文になるし、連続投稿になると思う。連続投稿になると、他のつぶやきなども流れてくるから、きっとカオスになって読みづらいと思う。
それは何となく嫌である。
第一、ブログで、明確に伝えたいこと、なんてのは、正直ないのだ!(開き直り)
むしろ、いつも書いているのはプロセスである。結論が書かれていることなんてマレである。(というのか、あるのだろうか)
コミュニケーションとしては大失敗である。文章の書き方講座的にも大失敗である。
だからこそ、前回記事などで、リアルの人に話してもしょーがねーっとか書いているのである。別にそもそも、相談したいってわけでもないのである。え、そうなのかな? コメントもらえるのは嬉しいよね。それは、ある程度全部書ききってからのものに対してだからだ。対面的コミュニケーションは、会話のキャッチボールである。いったりきたりが重要だ。えんえん、話してられないのだ。だから違うのだ。
なんの話だっけ。
創作用に、運営サイトと直結する何かブログを書いてはどうか、ということである。
そういう意味では、別にサイトのお知らせ機能で、情報を流すことも可能である。
先ほど挙げたツイッターも活用する方法がある。
あと、noteってサイトもあるらしい。面白そうである。(ただ、自分の非力なスマホで表示しようとすると、非常に重い。アメブロも重くて好きではない。スマホ変えろって話かもしれない。ただ、PCで表示しても、やや重い気がする)
作業として面倒ではあるが、創作系の記事をこのブログから移行するとか……なんの意味があるのか。
やはり、考えるにあたって目的は大前提である。
前回記事引用。
ツイッターについて
先日、ある方がプロモートにおいてツイッターを活用する、と仰られていた。自分、ミクシィはむかーしかなり使っていたけれども、同時期に登録したツイッターは、あんまし活用しなかった。
よく分からなかった、というのが正直なところである。だって、あれ、140字なんでしょ。でも、それ以上も打てるとか打てないとか。どっちやねん。――調べた。やっぱり140字らしい。英数字だと280字になるとかならないとか。
あと、なんか、商業的な奴がツイート欄にのってきて、読みづらい、ってのも思った。
あと、なんか、これは……正直書くと微妙なんだろうけれど、「断片的な情報だけで、内容が140字で完結しないツイートが多い」というのが気になる。
あと、なんか、連続投稿的なの。あと、「朝起きた、おはよー」的なの。
著名人とかも呟いたりしてて、面白いメディアだとは思う。のだけれども、情報の選別ってのが上手く、僕は使いこなせなくて、あんまり使えていない。
「心理テストやってみました」
的なつぶやきがタイムラインいっぱいになっていたら、なんか、ねぇ……。
とはいえ、よいきっかけでもあるので、もう少し活用する方法を前向きに考えて行動したいと思ったのであった。
ブログ開設について
逆に、ブログを開設するんじゃなくて、ツイッターでなんかやればいいんじゃない?と思ったのが、本記事の冒頭の内容の所以である。
しかし、今の時点、ツイッターを活用できている自分が想像できない。
なんか、「わかる人にはわかる」的なのが嫌なのである。
このブログが、いっつも長くなるのは、初めてこの記事を読んだ人でも、僕の言いたいことが分かるかどうかは別として、「何について」書いているかは分かるように書いているつもりである。そういう意味で、中学生が読んでも分かると思う。
ツイッターは、経緯を、前置きをダラダラ書くことは許されない。許されるとしたら、長文になるし、連続投稿になると思う。連続投稿になると、他のつぶやきなども流れてくるから、きっとカオスになって読みづらいと思う。
それは何となく嫌である。
第一、ブログで、明確に伝えたいこと、なんてのは、正直ないのだ!(開き直り)
むしろ、いつも書いているのはプロセスである。結論が書かれていることなんてマレである。(というのか、あるのだろうか)
コミュニケーションとしては大失敗である。文章の書き方講座的にも大失敗である。
だからこそ、前回記事などで、リアルの人に話してもしょーがねーっとか書いているのである。別にそもそも、相談したいってわけでもないのである。え、そうなのかな? コメントもらえるのは嬉しいよね。それは、ある程度全部書ききってからのものに対してだからだ。対面的コミュニケーションは、会話のキャッチボールである。いったりきたりが重要だ。えんえん、話してられないのだ。だから違うのだ。
なんの話だっけ。
ブログ開設について2
ああ、そうだ、ブログ開設についてだ。創作用に、運営サイトと直結する何かブログを書いてはどうか、ということである。
そういう意味では、別にサイトのお知らせ機能で、情報を流すことも可能である。
先ほど挙げたツイッターも活用する方法がある。
あと、noteってサイトもあるらしい。面白そうである。(ただ、自分の非力なスマホで表示しようとすると、非常に重い。アメブロも重くて好きではない。スマホ変えろって話かもしれない。ただ、PCで表示しても、やや重い気がする)
作業として面倒ではあるが、創作系の記事をこのブログから移行するとか……なんの意味があるのか。
やはり、考えるにあたって目的は大前提である。
前回記事引用。
目的は、上に書いたように、サイト利用者に管理人の状況、運営状況などをお知らせするものである。それをしたからの効果は何かあるのか?・利用者が、一応運営されていることは知ることができる・僕が、ああ何かそろそろ更新しなきゃと思う
やっぱり、利用者さんへの告知が目的なのである。とすれば、ツイッター案はアリ、となる。
うーん。
問題は、「継続性」である。続けられることでなければ意味がない、というのが持論である。
ツイッターが悪いものではないのだろうけれど、僕があまり使いこなせたことがないので、できるか不安である。そんなかしこまらなくても、テキトーに呟けばいいのかもしれない。しかし、僕の呟きはこのブログのようにきっと長い。ツイッター文化と相いれない気がする。
んじゃー考え方を変えて、ブログ記事を逆に分割してツイッターに流せばいいんじゃね?
というのもある。あるけれど、ちょっと待ってほしい。ブログは、リアルタイム性があるからかけているのである。ゼロ秒思考のアウトプットだ。別に深く考えて書いているわけじゃない(いや考えろよ! という突込みはもっともである)。
だが、ブログの内容を切り取ってツイッターに(140字に)流すとなると、それは「編集」という作業になる。編集はとても大事な作業であるが、大変である。ゆえに、続けられるとはあまり思えない。
戻って思ったのは、カクヨムに投稿中の作品についてである。あれも、他サイトに投稿したからには完結させなければならない。
誰からにも強制されることではないが、しなければならない。内なる道徳律的なアレである。
ということで、読んでみた。
おーん、まぁ、面白いんじゃないか。
一応、人に読ませる体裁にはなっていると思うし、今読んでみても、当時の感覚から乖離していることを書いているようには思えない。
まぁ元は、このブログの記事を推敲・編集したものである。一からの書下ろしってわけではない。
ただそれがゆえに、表現したいポイントってのはまとまっていると思う。
もちろんそれは、結論が出ているというわけではなくて、前置き、導入、内容、結論または方向性、といった流れができているであろうということである。
ここまで体裁が整っていれば、自分の中では及第点である。これで面白いか面白くないか、必要と感じるか無価値と感じるかは、あとはその人次第である、とまで傲慢に言い切っていいと思う。
まぁ、推敲と編集だけ、と書いたが、それはそれで大変ではあったはずなのだが……。
とにかく、年内中にそっちの更新も行いたいと思う。
どうするか。
正直、時間をある程度取れているからいろいろ考えられるのであるが、またこれからも同様にまとまった時間が取れるのかは疑問である。
と、いうか、問題がそもそもそこじゃないんじゃないかと思う。
肝心の作品作りに、全然着手できてないじゃないか。
無駄なプロセスだな、と思う、……が。
これはモチベーションコントロールである。
ご飯食べたり、家事をしたり、眠ったりというのは、しなきゃならない。
しなきゃならないことはしなきゃならない、トートロジー。
今からやろうとしていることは、「絶対にしなくてもいいこと」である。
だから、モチベーション、動機付けが最重要なのだ。
もちろん、僕は、ここで、「そもそも生きること」というのも、長らく、最重要課題には思えなかった。いやむしろ、先日のアンケートのニュースであったように、実は多くの人は、何ら大きな目的や生きがいも持たずに生きているのではなかろうか。
別にそれでいい人はいい。
俺は違う、……のだ。ただ生きることそれだけを賛美することはできないのだ。
いやまてまてまて。この表現は良くない。ルーチンの、日々の生活を平穏に送っている人たちに対してのディスりなのではなかろうか。そんなつもりはない、と、すぐさま書いておかねばなるまい。
単に俺が異常である、ということでいい。若者なだけなのか。血気盛んなのか、モラトリアムなのか、裕福で幸せボケなのか、平和ボケなのか。
しかし、僕は単に、……時間は、有限であると、人生は終わりが来ると、死んだら何もできなくなるのだと、それを感じているだけなのだ。
生きることそのもの、生き残ることそれだけを目的ないし意味であると、思えないし、思いたくないということなのだ。
――えっとー、これ、創作についての方針に関する記事だよね。どうなってるん?
やっぱり、ブログ分ける案はダメだ。
分けられないわ。
僕は創作で特にお金を得ているわけではない。だから、趣味である。釣りとか、ドライブとか、ゴルフとか、服飾とか、旅行とか、様々ある趣味の中の一つである。道楽である、娯楽である。
しかし、ドライブとか、その他の趣味と違って、創作に関しては、……なんというか、より、自分自身に近い趣味である。表現が浮かばなかった。根源的な趣味である? 仰々しいな。
よく分からない。
とにかく、生きる意味に近いものである、ということだ。
だからこの、「生きる意味を徹底して考える」ブログとは、切り離すことはできない。ゆえに、新しいブログ開設は、何回かの記事に分けて書いてきたけれども、結局やめ、とする。
かといって、連結させる案は、なんかいろいろ嫌なので、それも特に行わない。
サイト運営については、普通に、お知らせ欄とか活用しようと思う。あとは、ツイッターのタイムラインを挿入するとかも、そんなに難しくなくできそうだ。が、どうにも、そういうサイトもあまり好きじゃないんだよな(重いから、というのと、記事の連続性と意味性において)。
要約すれば、
・サイトのURL変更をする
・サイトの不具合修正をする
・カクヨム投稿中作品を更新する
というものだ。
あれ、小説作品の更新はどうしたのだ?!
それも継続して行う。それについては、細切れに断片を紡ぐ以外に、今のところは方法はなさそうだ。時間を投入して達成・完成させられそうなのは、上の挙げた内容であるとの結論である。
小説の方は、プロットというか、ストーリーの骨格作りを進めねばなるまい。
あーしかしそういえば、プロットまでできている作品はあったんだった。ちょっと、自分が今手掛けている作品についても、これを期に整理しておくか。
第二部は、堕骸を打倒するための力を得るため、根源の森の調査と、協力を仰ぎにいく。
第三部では、堕骸の生じる原因と、黒幕が明らかになる。
第四部では、総括となる……ようなことを図式化して考えていたが、見せ所、テーマ、目的がいまいち定まっていない。人間ドラマなのか世界観なのか、異能バトルなのか政治駆け引きなのか何なのか。……ある程度、エピソードとか世界観を書き進めながらストーリー構築を地道に進めていくしかなさそうである。一つ含めたい要素としては、シムシティ的なのを入れたいと思っている。
というか、この話、テーマとしては好きで、面白いんだけど、読み返すとちょっとインパクトに欠けている。エピソード的なインパクトというよりも、「質感」が薄いのである。ペラペラなのだ。イメージがすんなり入ってこない。説明的なのである。もっと描写しろよと言いたい。
この、アンドロイド系の小説って「惜しい」って思うことがあって、その「アンドロイド性」が上手く引き出せていないことが多いのである。というのは、「人間と同じ」ように描いてしまうことである。その、アニメとか、……最近みたやつだと、ええと、プラネタリアンだったか。アニメ面白かったんだけど、あれ、そのまま小説にするってか、「セリフ」だけを抽出すると上手くいかないと思っていて、要するに映像だと「アンドロイド的」であるのが一目でわかるからいいのだ。一方、小説になると文字だけなので、その「アンドロイド性」が上手く描写するのが難しいのだ。だからその点を気を付けようと、できること・できないこと、得意なこと苦手なことを描こうとしたのだけれども、それがどうにも説明的過ぎて、あんまりおもしろくないのである。惜しいというかもったいない。
とはいえ、それはまぁ次のステップであって、とにかくストーリーとして完結させないといかんのであるが……。
こうやって整理というかピックアップしてみると、ああ、なんか全部中途半端だなぁっていうのがよく分かる。だから、紙に書いて目標はっておくとかほんと大事。
その、「自分で面白いと思えるか」という尺度が入ると、これ非常に大変である。学校の課題とかなら、もう締め切りがあるからこれでいいやってなるけど、「面白くしたい」って思いがあると、「そもそもあんまり面白くないからやめたい」ってなったりする。――甘えじゃねえか!!
面白いってのは至極大事だが、それを免罪符に使っていいもんじゃないでしょうや!!
と、自分を叱咤しつつこの記事は終わる。
(かっこ書きである。――「我々はどこから来たのか、我々は何なのか、我々はどこへ行くのか」――こうした反省的で抽象的な意識が人々の間に広まるような社会は、人々が現実の死や破滅と毎日のように直面していた社会ではありえないのだろう。――『グノーシス 古代キリスト教の異端思想』P.44 ふと、書棚の本を手に取って、ペラペラとめくっていた。上の言葉は、ゴーギャンの有名な絵画のタイトルだけれども、こうした問いは、古代ローマ、1世紀にも遡ることができるのだという。東京で暮らしていると(東京でなくてもだが)、朝の通勤などで本当にたくさんの人がいることに眩暈を覚えることがある。僕が、涼宮ハルヒの憂鬱を最後まで見ようと思ったのは、主人公ハルヒの、幼少期に野球場に行って「こんなに大勢の人がいるなんて」と思った体験が描かれたシーンであった。そうした経験から、彼女は、世界を、自分の人生を面白いものにしようと奇天烈な行動をしていくのであった。と、いったことを思うほどに、いやほんと、毎日、人の波で渋滞ができるのである。自分の速度で進むことも、立ち止まることも許されずただ流されていく。そして、一日はあっという間に終わる。……だが、文章を書いている間は一瞬ではない。波に乗って書いているとあっという間に時間が過ぎることはあるが、ただ、思考はある。自分で考えている感覚がある。自分で歩いている感覚がある。文章は、思考のとっかかり、結節点のようなものである。さらには付加効果として、読み返したり、過去の記事を読めたり、音読できたりもする。素晴らしい。この記事、他の作業したり、ご飯食べたり、シュタインズゲート1期をもう一度見たりしつつ、5時間ぐらいかかっているが、不思議と時間を無駄にしたなぁとか後悔感がない。内容の無さはともかく、時間使えてよかったなぁとすら思う。やっぱり、これと実生活とのバランスを取ることも重要に思う。期間限定的に書ける時間を確保できるのではなく、もう少し定常的に、恒常的に……だな。しかしながら、空間的に……難しいのである。空間的に。時間的にも。どうしたもんか……、ああ、しかしこれは、先日の記事で「とりま、保留ね」としたことだった。先日、書いておいてよかった。だから、このかっこ書きもこのまま終わることが、できる。――しかしだ、この、書き終わろうとするときにいつも感じる、「この記事面白くなさそうだなぁ……」という感覚はどうにかならないのか)
うーん。
問題は、「継続性」である。続けられることでなければ意味がない、というのが持論である。
ツイッターが悪いものではないのだろうけれど、僕があまり使いこなせたことがないので、できるか不安である。そんなかしこまらなくても、テキトーに呟けばいいのかもしれない。しかし、僕の呟きはこのブログのようにきっと長い。ツイッター文化と相いれない気がする。
んじゃー考え方を変えて、ブログ記事を逆に分割してツイッターに流せばいいんじゃね?
というのもある。あるけれど、ちょっと待ってほしい。ブログは、リアルタイム性があるからかけているのである。ゼロ秒思考のアウトプットだ。別に深く考えて書いているわけじゃない(いや考えろよ! という突込みはもっともである)。
だが、ブログの内容を切り取ってツイッターに(140字に)流すとなると、それは「編集」という作業になる。編集はとても大事な作業であるが、大変である。ゆえに、続けられるとはあまり思えない。
カクヨムに投稿中の作品について
別件で作業が中断し、席を外していた。戻って思ったのは、カクヨムに投稿中の作品についてである。あれも、他サイトに投稿したからには完結させなければならない。
誰からにも強制されることではないが、しなければならない。内なる道徳律的なアレである。
ということで、読んでみた。
おーん、まぁ、面白いんじゃないか。
一応、人に読ませる体裁にはなっていると思うし、今読んでみても、当時の感覚から乖離していることを書いているようには思えない。
まぁ元は、このブログの記事を推敲・編集したものである。一からの書下ろしってわけではない。
ただそれがゆえに、表現したいポイントってのはまとまっていると思う。
もちろんそれは、結論が出ているというわけではなくて、前置き、導入、内容、結論または方向性、といった流れができているであろうということである。
ここまで体裁が整っていれば、自分の中では及第点である。これで面白いか面白くないか、必要と感じるか無価値と感じるかは、あとはその人次第である、とまで傲慢に言い切っていいと思う。
まぁ、推敲と編集だけ、と書いたが、それはそれで大変ではあったはずなのだが……。
とにかく、年内中にそっちの更新も行いたいと思う。
ブログの開設はどうするんだ
閑話休題。どうするか。
正直、時間をある程度取れているからいろいろ考えられるのであるが、またこれからも同様にまとまった時間が取れるのかは疑問である。
と、いうか、問題がそもそもそこじゃないんじゃないかと思う。
肝心の作品作りに、全然着手できてないじゃないか。
無駄なプロセスだな、と思う、……が。
これはモチベーションコントロールである。
ご飯食べたり、家事をしたり、眠ったりというのは、しなきゃならない。
しなきゃならないことはしなきゃならない、トートロジー。
今からやろうとしていることは、「絶対にしなくてもいいこと」である。
だから、モチベーション、動機付けが最重要なのだ。
もちろん、僕は、ここで、「そもそも生きること」というのも、長らく、最重要課題には思えなかった。いやむしろ、先日のアンケートのニュースであったように、実は多くの人は、何ら大きな目的や生きがいも持たずに生きているのではなかろうか。
別にそれでいい人はいい。
俺は違う、……のだ。ただ生きることそれだけを賛美することはできないのだ。
いやまてまてまて。この表現は良くない。ルーチンの、日々の生活を平穏に送っている人たちに対してのディスりなのではなかろうか。そんなつもりはない、と、すぐさま書いておかねばなるまい。
単に俺が異常である、ということでいい。若者なだけなのか。血気盛んなのか、モラトリアムなのか、裕福で幸せボケなのか、平和ボケなのか。
しかし、僕は単に、……時間は、有限であると、人生は終わりが来ると、死んだら何もできなくなるのだと、それを感じているだけなのだ。
生きることそのもの、生き残ることそれだけを目的ないし意味であると、思えないし、思いたくないということなのだ。
――えっとー、これ、創作についての方針に関する記事だよね。どうなってるん?
創作と生きる意味は切り離せない
なんというか、思った。やっぱり、ブログ分ける案はダメだ。
分けられないわ。
僕は創作で特にお金を得ているわけではない。だから、趣味である。釣りとか、ドライブとか、ゴルフとか、服飾とか、旅行とか、様々ある趣味の中の一つである。道楽である、娯楽である。
しかし、ドライブとか、その他の趣味と違って、創作に関しては、……なんというか、より、自分自身に近い趣味である。表現が浮かばなかった。根源的な趣味である? 仰々しいな。
よく分からない。
とにかく、生きる意味に近いものである、ということだ。
だからこの、「生きる意味を徹底して考える」ブログとは、切り離すことはできない。ゆえに、新しいブログ開設は、何回かの記事に分けて書いてきたけれども、結局やめ、とする。
かといって、連結させる案は、なんかいろいろ嫌なので、それも特に行わない。
サイト運営については、普通に、お知らせ欄とか活用しようと思う。あとは、ツイッターのタイムラインを挿入するとかも、そんなに難しくなくできそうだ。が、どうにも、そういうサイトもあまり好きじゃないんだよな(重いから、というのと、記事の連続性と意味性において)。
方針
長々と書いてきた。要約すれば、
・サイトのURL変更をする
・サイトの不具合修正をする
・カクヨム投稿中作品を更新する
というものだ。
あれ、小説作品の更新はどうしたのだ?!
それも継続して行う。それについては、細切れに断片を紡ぐ以外に、今のところは方法はなさそうだ。時間を投入して達成・完成させられそうなのは、上の挙げた内容であるとの結論である。
小説の方は、プロットというか、ストーリーの骨格作りを進めねばなるまい。
あーしかしそういえば、プロットまでできている作品はあったんだった。ちょっと、自分が今手掛けている作品についても、これを期に整理しておくか。
メインで手掛けたい作品
大きくは4部構成で考えている。一部では、繁栄した都市で国の中枢組織の一つに属していた主人公が、突然左遷になって、田舎村に飛ばされる。そこでの文化レベルの低さに衝撃を受けつつも、改革を遂行し村を繁栄させようとするが、村の保守勢力との対立などによって思うようには進まない。その間に、堕骸と呼ばれる幻霊が田舎村にも迫る。第二部は、堕骸を打倒するための力を得るため、根源の森の調査と、協力を仰ぎにいく。
第三部では、堕骸の生じる原因と、黒幕が明らかになる。
第四部では、総括となる……ようなことを図式化して考えていたが、見せ所、テーマ、目的がいまいち定まっていない。人間ドラマなのか世界観なのか、異能バトルなのか政治駆け引きなのか何なのか。……ある程度、エピソードとか世界観を書き進めながらストーリー構築を地道に進めていくしかなさそうである。一つ含めたい要素としては、シムシティ的なのを入れたいと思っている。
少女領主と官吏が国をよくする話
今途中まで連載している奴。確か1話目は、何か降臨して1日、数時間で書いた気がする。1話目は導入としては満足の出来である、が、既存投稿分以後の続きを書いていて、何か面白くなくなってしまった。勢いは大事だが、勢いだけだと行き詰るという悪いパターンの良い例である。これも、投稿したからには完結はさせたい。タイピングで世界を救う話
これは未投稿で書き進めていて、これのプロットはできあがっている。昔、タイピングオブザデッドというゲームがあって、それのオマージュというかインスパイア的なお話。やる気になれば、プロット(道筋)まではできているから、一応年内中とかに完成させられそうな気もする。電脳デバイス的な話
これも未投稿で書き進めている、が、例のごとく途中で面白くなくなった、飽きてしまった。プロットはできているが、プロットが面白いと思えなくなった。挿入エピソードも思いつかない。ので塩漬け状態。アンドロイドを買ってみた話
ブログで連載している話。荒いプロットはできているが、挿入エピソードが思いつかないため中断中。上の電脳デバイスの話はこちらに組み込み統合してもよいかなとも思ったりする。というか、この話、テーマとしては好きで、面白いんだけど、読み返すとちょっとインパクトに欠けている。エピソード的なインパクトというよりも、「質感」が薄いのである。ペラペラなのだ。イメージがすんなり入ってこない。説明的なのである。もっと描写しろよと言いたい。
この、アンドロイド系の小説って「惜しい」って思うことがあって、その「アンドロイド性」が上手く引き出せていないことが多いのである。というのは、「人間と同じ」ように描いてしまうことである。その、アニメとか、……最近みたやつだと、ええと、プラネタリアンだったか。アニメ面白かったんだけど、あれ、そのまま小説にするってか、「セリフ」だけを抽出すると上手くいかないと思っていて、要するに映像だと「アンドロイド的」であるのが一目でわかるからいいのだ。一方、小説になると文字だけなので、その「アンドロイド性」が上手く描写するのが難しいのだ。だからその点を気を付けようと、できること・できないこと、得意なこと苦手なことを描こうとしたのだけれども、それがどうにも説明的過ぎて、あんまりおもしろくないのである。惜しいというかもったいない。
とはいえ、それはまぁ次のステップであって、とにかくストーリーとして完結させないといかんのであるが……。
寿命でイベントを購入できる話
未投稿。プロットは10年前くらいかなぁ。何か月か前にパソコン整理していたら出てきた。主要エピソードもできあがっている状態のプロットであったので、これも頑張れば完結させられそう。ただ、僕の現状の感性がその作品のテーマをあまり求めていなくて、気乗りがしない。方針2
ああ、まぁ、そんなところか。こうやって整理というかピックアップしてみると、ああ、なんか全部中途半端だなぁっていうのがよく分かる。だから、紙に書いて目標はっておくとかほんと大事。
その、「自分で面白いと思えるか」という尺度が入ると、これ非常に大変である。学校の課題とかなら、もう締め切りがあるからこれでいいやってなるけど、「面白くしたい」って思いがあると、「そもそもあんまり面白くないからやめたい」ってなったりする。――甘えじゃねえか!!
面白いってのは至極大事だが、それを免罪符に使っていいもんじゃないでしょうや!!
と、自分を叱咤しつつこの記事は終わる。
(かっこ書きである。――「我々はどこから来たのか、我々は何なのか、我々はどこへ行くのか」――こうした反省的で抽象的な意識が人々の間に広まるような社会は、人々が現実の死や破滅と毎日のように直面していた社会ではありえないのだろう。――『グノーシス 古代キリスト教の異端思想』P.44 ふと、書棚の本を手に取って、ペラペラとめくっていた。上の言葉は、ゴーギャンの有名な絵画のタイトルだけれども、こうした問いは、古代ローマ、1世紀にも遡ることができるのだという。東京で暮らしていると(東京でなくてもだが)、朝の通勤などで本当にたくさんの人がいることに眩暈を覚えることがある。僕が、涼宮ハルヒの憂鬱を最後まで見ようと思ったのは、主人公ハルヒの、幼少期に野球場に行って「こんなに大勢の人がいるなんて」と思った体験が描かれたシーンであった。そうした経験から、彼女は、世界を、自分の人生を面白いものにしようと奇天烈な行動をしていくのであった。と、いったことを思うほどに、いやほんと、毎日、人の波で渋滞ができるのである。自分の速度で進むことも、立ち止まることも許されずただ流されていく。そして、一日はあっという間に終わる。……だが、文章を書いている間は一瞬ではない。波に乗って書いているとあっという間に時間が過ぎることはあるが、ただ、思考はある。自分で考えている感覚がある。自分で歩いている感覚がある。文章は、思考のとっかかり、結節点のようなものである。さらには付加効果として、読み返したり、過去の記事を読めたり、音読できたりもする。素晴らしい。この記事、他の作業したり、ご飯食べたり、シュタインズゲート1期をもう一度見たりしつつ、5時間ぐらいかかっているが、不思議と時間を無駄にしたなぁとか後悔感がない。内容の無さはともかく、時間使えてよかったなぁとすら思う。やっぱり、これと実生活とのバランスを取ることも重要に思う。期間限定的に書ける時間を確保できるのではなく、もう少し定常的に、恒常的に……だな。しかしながら、空間的に……難しいのである。空間的に。時間的にも。どうしたもんか……、ああ、しかしこれは、先日の記事で「とりま、保留ね」としたことだった。先日、書いておいてよかった。だから、このかっこ書きもこのまま終わることが、できる。――しかしだ、この、書き終わろうとするときにいつも感じる、「この記事面白くなさそうだなぁ……」という感覚はどうにかならないのか)
雑記
先日の記事に頂いたコメントの返信において、「ま、自分でこれまで自分の作品をさいっこうに面白いと思ったことは、お恥ずかしながらないんですがね……」と書いた。しかし、2004年11月22日の記事……月曜日とのことだが、たまたま読んで、「投稿サイトに挙げたら閲覧数がいくつかあって嬉しかった」「自分の作品も中々面白いと思う」と書いてあった。
マジか……! マジなのか! いやしかし、マジなのだろう。俺は本気でそう思っていたのだろうと思う。時期的に、たぶん、あの作品なんだろうなぁと思ったりする。読んでみる。正直申し上げて面白くない!(かっこ笑い)
これはしかし、創作レベルと感性レベルの成長であると、素直に感じてよいことである。そして、感情が抜け落ちた過去の自分の作品において、「面白いはずだ」と思っていたというのは、非常に大事なことである。きっと当時は面白かったのである。ただ、その面白さは、「客観性」に欠けていたのである。自分の感性が、作品への多大な補正を行っていたのである。
だから、創作で重要なのは、まず、自分が納得できるレベルで面白いか、ということをベースにするべきと思う。他者の評価は辛らつなものになるかもしれない。しかし、それはともかく、自分自身で面白いと思えないで、何の意味があろうか。
いや、商業的、プロフェッショナルとしては、「こんなの面白いと思えない。でも売れるから書く」というのはあるだろう。仕事なんだから、アウトプットしなきゃ何の意味もない。
けれども、そうじゃない創作との付き合い方ってのはあると思う。
僕は、そちらの方向を目指したい。
ちなみに、プロと、アマチュアと、バイトとか、仕事の形態にはいろいろある。
基本的に、金銭が生じる場合は、一般的にプロということになる。そういう意味では、バイトもプロである。だから、バイトのことをパートナーとかって言い方をする会社もある。違いは、雇用形態であって、短期か長期か、という点である。臨時職員、契約社員、派遣や請負など様々あるが、基本広い意味で全部プロだ。
ただし、プロという言葉には、「専門家」という意味もある。スペシャリストである。「その道のプロ」という言い方をするときはそちらの意味が強くなっている。
上の段落の塊で何をメモして置きたかったかといえば、プロとかアマとか、それは、「実力」とか「面白さ」のレベルを示す指標ではないということだ。アマチュアが集まる音楽の投稿サイトとかもあって、そこで投稿されている曲を聴いたりすると、「すげえ」ってのがいっぱいある。でも、フリーで入手できる場合もあるのだ。……ちなみに、フリーで入手できたからといって、それがアマチュアの作品であるとは限らなくて、プロが企業と契約して報酬を得ている形態もあるだろうし、一概に言えないことは当然メモしておく。ただ、本当に趣味の一環として音楽を作って、投稿している人ってのも大勢いるはずなのである。ニコニコ動画とかユーチューブでもそうだろう。
だから、いいものってのは、ビジネスモデルと一致しているとは限らないということである。もちろん、対価が支払われる環境の方が、当然サービスがよいものである「可能性」は高いはずである。しかし、当然、可能性でしかないことを銘記しておく必要がある。
雑記2
関係ないことだから、前回の記事で、詳しくは書かなかったけれども、やっぱり書きたくなってしまった。シュタインズゲートゼロのアニメで、演出がいまいちだった、と書いた。
理由のシーンは、ヒロインの一人が、これまで溜め込んでいた気持ちを吐き出して、ついに行動を起こすシーンである。非常に重要なシーンであり、伏線の回収であり、新しい伏線でもあり、感動的なシーンであるのだ。原作のゲームやったときも感動した場面であった。
が、アニメの場合で気になったのは、「語りすぎ」と思わせられてしまったことでる。
セリフが長いのである。
いやしかし、セリフ自体が問題なのではない。そのセリフ一つ一つが重要であると思うから、カットすべきだ、などとは到底思わない。
何が問題か、といえば、カメラアングルを、ヒロインに向けすぎていたことである。
涙ながらに、身振り手振りで感情を表現するヒロインに、心を打たれる視聴者もいるはずだ。
しかし、その姿が、「おおげさ」に思ってしまったのである。何度も、時間にしたら数分なんだろうが、ずっと見せられて、逆に「感動の押し付け」に感じてしまったのである。
どうしたらよかったのだろうか。代案なき批判に愛はない。ということで考えてみる。
そこは、回想シーンのカット(場面)を、挿入すべきだったのではなかろうか。ヒロインの、主人公への思いが、まだ十分に醸成しきっていなかった時の場面や、本心を伝えたくても伝えられなかった場面、逆に、主人公と楽しい時間を過ごしたときの場面など。
セリフに合わせて、ヒロインにアングル合わせるのではなく、時間軸を過去にもっていくことによって、その少し長いセリフの「重さ」のバランスが取れたんじゃあなかろうか。
ということは、きっと、演出家さんなども分かっていたんだと思う。ただ、期限とか、予算的な面で、そういった編集ができなかったんじゃあないかと、邪推する。仕事って、期限がある。仕方がないことである。
でも、やっぱり、好きな作品に対しては、最高の状態で見せて欲しい、という思いもあるわけだ。妥協はしてほしくない。これがベストだと自信をもって送り出してほしい。
あー関係ないこと書いてしまった。
創作について
本題である。ちなみに、「実生活について」という点については、「保留でよかろう」という結論が前回の記事でついたと思っている。……いいのか? という思いもなくはないが、まぁ、仕方があるまい。中途半端に悩んでも意味はない。決めるべきその日がきたら、世界は、自分はいやがおうなく巻き込まれていくのであるから。
ということで、今後の創作についてである。
そもそも、「今年中に何かする」という目標を、先日立てたことによる、返信記事であるといってよい。
サイトのURL変更
まず、必ずやらなければならないのは、サイトの方の、URL変更である。これは、お借りしているサーバーさんの方で告知されていることなので、早急に対応する必要がある。
不具合修正
データベースの統合を行ったことによる、リンク切れの問題を対応しなければならない。感想や、読んだよボタンを押した後に、一部画面から上手く当該作品へ戻ることができない状況。単純なHTMLのリンク切れならすぐに対応できるが、プログラム部分を直す必要があるため、後回しにしてしまっていた。実際問題これは、自分が使っていて不便なので、できる限り早く直したい。もう一つ、これは利用者さんからの指摘であるが、読んだよボタンについて、作者の場合も「読んでるよ」というステータスになってしまうという現象がある。実は、これは機能実装時にそうなるだろうと分かっていた内容であり、俗にいう「仕様通り」という奴なのであるが、確かに不便で分かりづらいところがあるため、直したいと思う。この「仕様不具合」というのが、実際システム系の仕事だと、トラブルの元になるケースが非常に多いのは蛇足の話。
ただ、ちょっと対応方法は今すぐ思いついていないなぁというのが正直なところ。対応方法検討とプログラミングも含めて対応していきたい。
まぁ、今、こうやって書いていて思ったのだけれど、やっぱり、こういった仕事(?)は面白い。「問題解決能力や問題解決学習が大切だ!」とかって、教師や上司から言われると「うげー」ってなるかもしれないが、ただ、自分で解決したいなぁと思う問題を設定して、それを解決するための方法を考えて、実行するってプロセスは、やっぱり普通に面白いことだと思うのである。
だから、「仕事」っていうと、「つまんねぇ」とか「金だけもらえればいい」って、多くの人は思うわけであるが、……いやまぁそれは一つの方法であり、「工夫」が逆に許されない管理型の仕事もあるわけだから一概に言えないのは承知の上で、全部が全部つまんねぇ仕事だけじゃない、ということはあると思う。思ううえで、そういった仕事は「キリ」がなかったりするし、そもそも評価がしにくい面もあるから、非常にめんどくさいのは事実である。だから、「仕事を面白くした方がいいよ」とは中々言えない。言えないけれど、でも、個人的には、面白く生きていきたいと思うのだ。話がずれたしよく分からなくなった。
創作用ブログの開設
これは案であるが、運営サイトのブログは、現在閉鎖している状況である。更新もしていない。元々は、こういったサイトの方針だとかは、そっちのブログに書いていた。エンタメ作品の感想とかもそっちに書いていた。いろいろあって閉鎖した。
で、サイト更新は、実際開発環境がないと難しい面があって、中々できないところがある。
更新がないと、「管理人いなくなったんだな。もうこのサイトオワコンだな」と思われてしまう。
せめてものために、サイトの運営状況をお知らせするブログを開設してはどうか、という案である。
問題点その1:そもそも意味はあるのか
目的は、上に書いたように、サイト利用者に管理人の状況、運営状況などをお知らせするものである。それをしたからの効果は何かあるのか?
・利用者が、一応運営されていることは知ることができる
・僕が、ああ何かそろそろ更新しなきゃと思う
……それぐらいか。あんまり意味はないかもしれない。それよか、もう少しこまめに、「お知らせ」欄とかに何か書くとかでもいいんじゃないか。
問題点その2:このブログとの切り分けはどうするのか
このブログは、基本的に未公開のような位置づけで思っている。いやもちろん、公開しているし、個人特定情報などは書かないので、SNS的な意味で使ってはいない=リアル(物理環境)の人に見せる予定はない、ということだ。そういう意味では、運営サイトの方も、別に見せる気はない。けれども、このブログよりかは、見せても構わないと思っている。
そうしたとき、ブログの切り分けが上手く機能するのか、という問題が二つ目。
例えば、実生活的なことや、それに対しての考え方などを、先日の記事で書いたけれども、それって、創作ブログ(仮称)に書くことになるのか、それとも引き続きこっちなのか。
で、多分、創作の、サイトの更新に関することしか書いていないと、ぶっちゃけ、ブログ面白くないだろうし、俺も書くのがつまんねぇってなると思うのだ。
いや、まぁ、すでにここまでダラダラと書いてきたことから分かるように、僕は、書くことは基本的に好きなんだと思う。タイピングもまぁまぁ早いし、打つのも嫌いじゃない。スマホ、おめーは別だ!! っというか、スマホが嫌なのは、キーボードのスピードとあまりにも差があるからだと思う。思考とアウトプットの差がストレスになるんだと思う。口頭の方が当然早いのだけれども、それよりはキーボードの方が遅くて、頭の回転が速くない自分にとっては、キーボードアウトプットがちょうどいいのかもしれない。
というか、「面白いこと」って何か、ということである。
一般的な情報を載せたところで面白くないのだ。そんなん、ニュースみてたほうが楽しいだろう。
なぜわざわざブログを読むのか。「その人に興味がある」からである。
いやまて、「エクセルの関数講座」とか、そういう、お役立ちブログ、はどうなのか? あれは、別にブログという形態をとる必要がない。ただし、それらも、情報発信という面ももちろんあるが、「その人が発信する情報である」という点が重要なのである。
その人が取材(取材といっても、普段生活して気づいた点やちょっと調べたことでもいい)して、その人の言葉で書くから、ブログってのは価値があるのだ。
いろんなソーシャルメディアがインターネットの開闢から発生し、消えていったが、ブログという形態は残っている。それは、発信者その人への興味というのがなくならないからではなかろうか。
だから、故に、「創作のこと」を特化したブログってのは、あんまし、面白くないんじゃないかと思うのである。
だとすれば、このブログと、運営サイトの直結を検討した方が、更新者である僕の手間を考えても適切に思われる。
が。
ちょっとそれは避けたいと思っている。珍しく、気持ちが理性に先立って思っている。
やっぱり、このブログの場は、特別に思っているのだ。
クローズドコミュニティにしたいわけではない。ただ、……ええい、率直に書けば、リアルの人には見られたくないのだ。一切合切。
なんでかってのは、多分、数年前のある事件によるんだろうと思う。ただ今は、単純にこの場を失いたくないという思いである。「俺にも、守るものができた……!」とか、そういうBGMがかかるところである。
茶化すのはやめておいて、なんというか、ブログを、リアルの人にも公開して運営できている人を、僕は羨ましいと思う。いや、そういう関係が本当は普通なんだろうか。でも僕は、かたくなにやりたくないと思っている。
なんでかっていうと……。
また長くなったな! 中断!!
(かっこ書きである。しばらく、ブログ更新できていなかったけれども、最近調子が戻ってきた。いろいろ、思いや意欲が溢れてくる。……ブログは、そういう場なのである。なんかこう、気持ちの結節点になるものなのである。だからといって、書いてあることが、全部100%の自分の気持ち……いや、その時点では、その面もあるのだけれども、十分に表現できているとは言えない部分もあるし、前後記事や、これまでの流れと関係する部分もあるのである。だから、その一つの記事だけ読んで、何かこう、「判断」されることが危険なのである。だから嫌なのだ。大体、「長くなったな」と書きつつ、別に読む分には、大した長さじゃあないと自分は思っている。思っているが、一般的に他者の文章を読む際の適切な長さは完全に超えている。ゆえに、誰も普通は読まない。読まないけれども、節々のキーワードから「判断」をする。文章ってのは、ブログってのはそんなもんである。だから嫌だし、期待していないのだ。だから、リアルに公開しようとは思わないのだ。そして、「理解」してもらいたいともそんなに思わないのだ。だからこそ。今、コメントくださったり、訪問してくださっている方々がとても大切なのである。そしてこれは、物理的な友人たちをないがしろに思っているなどとは、まったく違うのである。まったく違うのだけれども、「この場がとても大切」ということを書けば、そういった表現があれば、「オタクプギャー」とか思われるのである。え、そんなことないって? 僕もそんな風に思っていたことがありました。しかし、「普通の人」というのは、そもそもブログなんか書かないらしいのです。っていうようなことを、ある精神科医さんのブログ記事で読んだことがあったような。しかし、そもそも、創作をしたいとかって思う人は、普通じゃないのかもしれぬ)
物語の必要性
前回の記事で、「創作」と「実生活」をテーマに書きなさいと御達しがあった。しかし、いきなりそんな重いテーマで書くと、面白くなくて筆が止まってしまうので、過去の記事を流し読んでいた。そうしたら、下の記事。
2018年6月6日の記事
「現実が満たされたら二次元は不要なのか」
というタイトルだが、まさに前回の記事と関連する内容だった。もう3か月も前の記事である。そうか、こんなこと、俺は書いていたんだなぁという、この感覚って非常に大事である。何が大事かは良く表現できないが、これは日記やブログを書く利点の一つであるといえる。
さて、しかし、その記事の内容よりも気になったのは、その記事の翌日に書かれた記事において、「あー前回(6月6日)の記事、めっちゃつまらんかったな」と書いてあったことである。
今の僕としては、「え、いや、そんなつまらないというほどではなかったよ?」といった感想である。ただ、その時の僕は、きっと「つまらない」と感じたのだろう。
ここから言えることは、もはや、自分の記事でさえも、適切な評価ができていないということの証左である。
ましてや、他者の描く物語に対して、一定した評価など、ありえることなのだろうか。つまり、普遍的な物語など存在しない。
「面白い」
という感情は、非常に偶発的で、一時的で、奇跡的なものですらあるのだ。
だから。
自分でも「創作する」という観点を忘れてはならないと思うのである。
成功体験と無気力について
とはいえ。すべては偶然の産物である、とするのは、あまりにも運命論的に過ぎる。
自分の行動が何ら自分の環境に影響しないのならば、無気力になるのも時間の問題だ。心理学でいう学習性無気力。
そのためには、成功体験が必要だ。
これは、ゼロをイチにすることである。
これが、最大に難しいことだ。
卑近な例を挙げてみる。
ある童貞がいたとする。ある童貞は、彼女が欲しかった。しかし、彼女ができたことは、未だかつてなかった。(例が童貞である必要は全くなかったことに途中で気づくが書き続ける)
彼は努力をする。彼女を作るために、服飾にも気をつかい、様々な出会いの場にでかけ、コミュニケーション力を培い、失敗を繰り返しながら学んでいく。
その努力は、それだけで尊いだろう。
が、その結果、「うまくいった」or「うまくいかなかった」となったとき、その「努力」に対しての自分の感じ方が、大きく異なるのである。
適切な努力の量で、適切な結果が得られるべきである。
努力の甲斐なく、彼に彼女ができなかったとする。だが、それは一つの結果に過ぎない。
ただ、彼の中で、これまで一度も彼女ができたことがなかったとしたら、彼は、「今後も」自分には彼女はできないだろうという諦念が生ずるのである。
異性を例に挙げたが、ミュージシャンでも、仕事の出世でも、対人関係(友達づくり)でも、なんでも当てはまるケースだ。
成功体験がなくして、自分の実力や行動を信じられる人はいない。
とはいえ。
すべての、限りある人生の中で、すべての体験をするなど不可能である。
だから、一つの成功体験を、連続した道筋として、自分の思考と納得感の中で紐づけられることが重要なのである。(それが物語だ、と書きたいが、飛躍するので我慢)
上の例の彼が、たとえ、努力むなしく彼女ができなかったとしよう。しかし、女の子とおしゃべりして、一度だけでもデートに誘うことはできた。おめでとう!! それで十分だ!
当初の目標からしたら、到底合格点には及ばない。しかし、一つの成果があれば、それを次の成果に結びつくだろうという「希望」を得て、次なる行動につなげることができるのだ。
しかし、今「希望」という言葉を使ったが、これは当然、「納得感」が重要である。
デートには誘えた、でも告白したら失敗した……という同じ結果であろうが、それを、「今度は別の子ならうまくいくかも!」と思えるか、もしくは「やっぱり自分はどう頑張っても無理なんだ」と諦めるかは、「納得感」によってしまう。
ここで、下手な慰めなど、何ら役には立たないことを肝に銘じておく必要がある。
言葉は時に絶大な影響をもつが、潜在する、内在する「感情」や「信念」は、非常に頑強なのである。
ネガティブな人を立ち直らせるには
失敗を繰り返した人は、単に運が悪かっただけかもしれない。環境があってなかっただけかもしれない。
その可能性がゼロではないから、「あきらめるな」「死んではいけない」という掛け声は、どんな場合や状況でも「正解」である。
ただ、諦めというのも、時に「薬」になるし、「死」という概念も、時に救いであることもある。
ただ、そんなことを、誰彼に言うべきではない。「大丈夫、きっと生きていてよかったって思える日がきっとくるから」とでも言っておけばいい。
俺は冷酷な人間なのだろうか。
本心をひた隠して、明るく振る舞うだけのサイコパスなのだろうか。
どうでもいい。
他者にどう見られたいかということや、「いい人」であることは、若いころはともかく、興味をもつ必要はない。
どうしたら、適切に自分の思いを伝えられるか。
どうしたら、適切に相手の思いを理解できるか。
インプットとアウトプットの方法を鍛えるだけである。
相手にどうみられるかは、結果に過ぎない。それも偶発的で、不確定な。
もちろん結果を受け止めなければ次はない。
ただ、その結果をどう理解し、繋げるかというのは、結局至極単純、自分のストーリーなのである。
小見出しのネガティブ云々と関連がなくなってしまった。
ただ、大事なのは、そのネガ人を、自分が本当に明るくさせたいか、ということだと思う。
別に、ネガティブだって悪くなかろう。
そういう個性なんじゃないか、って思ってるのなら、そもそもそんなの問題じゃない。
だから、「ネガティブな人を立ち直らせるためには」という問題の立て方がそもそも間違っている。
実生活について
や、ばい。パソコンになると、ある程度インプット、アウトプットする時間ができると、本当にどんどん長くなる。実りがないことをどんどん書きたくなってしまう。
これは、普段生活していて生じた思念が、アウトプットできずに自分の中に渦巻いているからなんだと思う。
んじゃー、実生活の周りの人にしゃべればいいじゃん、と、普通は誰しも思うだろう。
それは、やってはならん。
みんな忙しいんだよ。そんなぐだぐだした話に付き合ってられんのじゃ。
彼女がいる人は、デートとか、仕事も忙しいだろうし、お子さんがいれば保育園に連れて行ったり、納期が迫った仕事でプライベートの時間も考えなきゃならなかったり、親の介護をどうするとか、ペットが最近具合悪いから心配だとか……。あ、布団干してたけど取り込まなきゃ雨が降ってきちゃうとかとか。
現実世界は、みんな忙しいのである。
思考とか、考え方とか、そんなこと言ってる場合じゃないのだ。
なので、もう、こういう場で書くしかないのだ。
で、「こういう場」って、非常に大事だけど、難しい。難しいけど、大事。トートロジー。
あー、えーと、だから、まぁ、アウトプットしておかないと、まともに、目標だとか大層なことできんのである。ブレーンストーミングだよ。批判厳禁だよ。
あーだけど、この記事、面白くないんだろうなぁとも思う。思うけれど、上の3か月前の記事が、ふと今の感覚で読んだら面白かったりするし、とにかく、書いておくことは正しいことだと、これは、僕の経験が告げている。なんか第六感みたいな感じだ! すげー!(かっこわらい)
実生活について2
本題だ! きっとこの記事では、創作についてまで書けないと思う。創作については、取り急ぎ、サイト運営で気がかりな部分があるから、それを着手したいなと思っているが、今度の記事で触れよう。
今回は、まず実生活だ。
というか、前回記事から書いてたが、実生活ってなんだよ!(いまさら、である)
実生活とは、……実生活のことだよ!
家を買うとか、そういうことだよ。
えっ、買うの?
いや、あまりその気はない。
しかし、現状、あまりリアルに書きたくはないが、二重生活のような状況なため、コスパは非常に悪いと思っている。集約化することで、費用は抑制できるし、それこそ、新しい住居を買うというのも、全然非合理的な判断ではないはずだ。
いやここで、不動産購入というのが、そもそも非合理であって、一生賃貸でも全く問題ないだろうという理屈ももちろん分かる。
分かるが、ここで、一戸建て派とマンション派の不毛な議論を……いや、その議論自体は価値観がいろいろあって面白いと思うが、どっちが間違いなく正解か、などというのは、結論がでたところで、それと自分との感性が一致するか分からんし、重要なことではないのは明白である。
だが、ここで、「子ども」という概念がなければ、正直不動産購入をしようとは僕は思っていないと思う。同時に、「結婚」というのも同様に、しようとは思っていない。必要があればしてもいいと思うが、その必要性が、「子ども」以外に浮かばない。(まあ、事実婚というのも法律上あるらしい。どういうケースで認められるのか詳しくは分からないが)
もう一つ、移動手段であるオートモービルを所有しているが、その扱いなど。最近あまり乗っていないが、経常費用はまぁまぁかかるわけである。それこそ、レンタルだって都心で暮らせば充実しているわけで、「所有」という形態にこだわる必要はあるのか、というのは問題ではある。
が、今のところ、それも家計としては問題なく維持できる範囲である。逆に言えば、維持できる範囲のものを購入しているだけの話だが。
と、なると、要するに、実生活を今後変更する決断は必要ない、ということではなかろうか。
現状維持か。
しかし、注意せねばならんのは、現状維持というのは、実際存在しないのである。
現状維持というのは、不可逆の時間の中で、何らかの行動をすることによって成り立つものである。何故ならば、すべてはエントロピーの拡散だからだ!(よく分からないでカタカナ語を使った。一応調べるが、意図としては、物事は経年劣化したり、拡散していくものだ、ということ)
常連に愛される店とは、いつもと同じ+αのことを探求していかなければ、「いつもおいしいね」とは言ってもらえないという、よくきく、あれだ。
もう一つ理由は、人は、飽きるようにできているからだ。飽きることで、人は工夫をして、生活を豊かにしてきた。(テクノロジーが幸せにつながるか、というのはまた別の話)
つまり、変化を恐れてはならない。
というよりも、変化しないものはない。シッダールタさんも言っている。諸行無常であると。
あー、そういや、最近仏教に関連することを全然書いてないな。これも、飽きの一つだろう。
先日、坐禅をお寺にしにいった。とても貴重な体験だった。しかし、身体が固い僕は、痛みに耐えることがメインとなった。柔軟体操もルーチンにしたい……が、これはなかなか長続きしないのだ……。
なんだっけ。変化。
変化はするんだ。
何もしなくても変化するんだ。
だから、その変化を、いやその変化に、少しでも、自分の意志を反映させたいのである。
あーもう、具体的な方策が何も決まらない。
いや、別に、今のままでいいってことじゃないか? んーん?
長くなったのでひとまず終わり。
(かっこ書きである。まとまらん、全然まとまらない。というか、今までまとまったことってあったのだろうか。いやそれはともかく、シュタインズゲートゼロのアニメ、アマゾンプライムで公開されている最新まで見たけれども、正直いって、最初のクオリティから下がっていると感じた。いや、大好きな作品だから、批判の意図はないんだけど、ちょっと残念だった、というか、物語に入り込めなかった。理由はまぁ、いくつかあげられるけれども、動画の、演出が自分に合わなかったなあというところである。とはいえ、後半は、ゲーム原作の方も、ちょっとばかり強引だなとは思っていたのである。しかしゲームは、ノベライズゲームは、自分の読むスピードなどで調整しながら、補完しながら進めることができるので、何とか自分に納得させながらやっていた。アニメは、基本みることしかできない。そのときに、「間」というのは、非常に大事なのだけれど、その間がいまいちであった。セリフと動画の動きとか、動画のカット(見せ方、見える角度)などが気になったのである。……って全然関係ないこと書いてしまった。だけれども、今回の記事としては、実生活を大きく変える決断は、今しばらく保留としておこう、ということで、いいと思う。やっぱり、創作に関して書くべきである。(たぶん)続く)
生きる意味についての次元
久しぶりにパソコンが使えて時間が取れるので、小見出しを復活して書いてみる。あー、ええと、生きる意味を考えたことがある人は、20代以上の各年代層で、何と50%以上だということだ。
生きる意味がわからないと訴える匿名投稿が話題 「理由なく生きてる」と共感の声も | ニコニコニュース http://news.nicovideo.jp/watch/nw3851059
ちょうど、ある友人の一人に、「死んじゃいけない、生きて欲しい」とメッセージを送ったころだったので、何か感傷的になった。
生きる意味には、次元がある。
宇宙レベル、人類レベル、社会レベル、個人レベル……あたり。細かい分類が重要なのではない。要するに、大きい次元から個人単位の次元がある、という点を抑えればよい。
僕がいつも云々書いているのは、当然個人レベルの話だ。
しかし、これは、マズローの5段階欲求説とは違って、必ずしも個人レベルを満たさなければ、高次の次元が満たされないとか、そういう代物ではない、と思う。
ただ、個人レベルが満たされていないまま、他の何かに意味を持たせようとする危険ってのは、歴史(軍国イデオロギーとか民族浄化とか)や事件(新興宗教集団の過激化)などを見ていれば分かると思う。ただ、それは一面的なものであって、絶対にダメってわけじゃなかろう。
と、いうか、そういった集団的な承認が「危険」ってのが分かってきたから、昨今現代は、「個人主義」的な様相を帯びてきているのだろうと、別に学問的な根拠など何もないけど、個人的に思っている。
陰謀論的に書けば、個人主義ってのは、カウンターパート? ていうんだっけ、抵抗組織、集団的なのが形成されないように、支配者層が考えて推し進めている新たな支配形態である、的な。
まぁ半分冗談で半分本気だが、仮にそうであってもなかろうと、僕らは、結局個人的に生きるしかないのである。ゆえに、僕は、生きる意味を考える、と書くときに、次元としては、個人的なレベルを無意識・意識的に選択しているのだ。
そして、個人的な生きる意味、においては、それは「各人が見つけるしかないもの」と思っている。つまらない結論だ。
普遍的で、物理的だったり、工学的に、または論理的な方法で、その意味に到達する方法があるとは思えない。せいぜい、年長者の、「自分はこうやって生きてきた」的な経験論を参考にするまでである。(もちろん、それが無駄なことなどとは一切思ってないし書いていない。ただ、それらはその構造的に、自分に役に立たない場合が多いことはまぁ事実だ! とはいえ、役に立つときももちろんあるというのが重要な点)
ええと、その、友人のことはどうか、大丈夫なのか。
分からない。
薄情? そうだろう。
ただ、僕は、未だに、生きる意味という問題について、つまらない、「各々頑張ろうね」程度のことしか知らない。
だから、僕が言えることは、「死なないでほしい」ということだけである。
(ここまでが生きる意味的な内容)
蛇足
生きる意味なんて、根源的にないのだろうと、思っている。思っているが、それを大いに、強く否定したい。それがこのブログの一つの目的である。上に取りあげた記事において、「親がまだ生きていて、悲しませたくないから生きている」とか意見もあったりして、非常に共感できる。
だが、だからといって、死んだのか生きたのか分からないように、「思考」もなく、日々に流されるように生きていくということを、僕は否定する。他の人がどうだろうが、僕自身は、嫌だ。
そうしなきゃ、「死にたい」を始めとして、「人生クソゲーだな」「面白くないつまらない」「なんでこんな苦しいのに生きなきゃいけないんだ」的なネガティブな感情が溢れていた過去の自分に申し訳ない。
今が普通に幸せ?
ふざけんな、と言わなければいけない。
僕は、今や、未来の自分はともかく、過去の自分も救ってやりたいのである。
……本当か?
文章とは面白い。今、勢いに任せてここまで書いてきたが、「過去の自分を救う」など、本当に思っているのだろうか?
別に救わなくてもよくね?(かっこわらい)
いやまぁ、そうだな、今がよければいいよな。……とはならないと思う。
何でかってのは、今回の記事の目的から逸れそうだけど、ある程度書き残しておこう。
過去が救われないとはどういうことか。それは、「意味が与えられない」ということだ。
過去が無意味であるということである。連続性が断裂するということだ。
それが何が問題か?
未来がなくなるのである。
人は、根源的に時間的存在だ、というのはハイデガーだったか。しかし、人は根源的に記憶的存在だ、とも言えると思う。
自分とは何か。それは記憶の総体である。記憶が単にデータとして「ある」状態なだけではなく、それを「引き出す」というのも含めて、人は「自分」になる。
とかってのを、このブログで連載している作品で一部表現したいと思うのに、アイディアだけで全然ストーリーが進まない、というのは蛇足と言い訳の恥さらしだが、まぁとにかく記憶は大事である。
その大事な記憶が、ごっそり無意味化するというのが、過去を救わなくてもよい、という判断なのである。
「ま、たまたま、昔は不幸に見舞われましたなぁ。災害とか、そんなレベルですわ、わっはっは」
ということである。まー大したことないことならいいが、災害で最愛の人を亡くしたとか、全財産失ったとかした人は、その過去へも、ある程度何らかの意味を与えなければ……たとえば、全財産失ったけれども、人とのつながりや優しさを感じられて本当に大切なものを知ることができた……とか。
それ、単にきれいごとじゃねぇか、と若い人は思うと思う。
そうかもしれない。単にきれいごとや、自分への誤魔化しかもしれない。他者から見たらそうとしか見えないかもしれない。
でもいいのだ。それで、それが、本当にその人にとって救いの福音であるのならば、構わないのだ。過去を救うというのはそういうことなのだ。
蛇足部分が長くなってるな。まぁそれが本当に蛇足なのか、僕が本当に書きたかったことなのか確かめるすべはないのだが、こういう現象は、間違いなくスマホでアウトプットしているときには発生しないのである。キーボード面白いなあ。
目標
あー、それで、本題にいこう、そろそろ。思考のこと。
実生活のこと。
創作のこと。
仕事のこと。
このあたりの方針を書きたい。
忙しいことをいいことに、目を背けてきたことだ。真剣になるのが怖くて、逃げていたことだ。でも、もうちょっと向き合おうじゃないか。
……目じりに皺が寄る。
うーむ。とりあえず、思考のこととしては、カクヨムに挙げている随筆的なのを完結させたほうがいいよなぁ。
30代前半の俺、という存在が考えて、方向付けしたこと。
という意味で結論を出したいと思う。
それって、今しかできないことである。くだらない日記的なのを書いている暇があったら、お金を稼ぐ何かを考えたら? というのが、世間一般の考えなのだろうけれども、俺は即座に否定する。
上に挙げたアンケート的なのが物語ってると思う。まず、「生きること」というのが自明じゃなければ、仕事だって遊びだって、何ら色彩を失うのである。
生命の危機が毎日迫っているような自然や、紛争や戦争下では、愚かしい感情だったり思考であることは間違いない。そういう、「平和ボケしたこといってんじゃねえ、もっと大変な人は世界中にたくさんいるんだぜ」的なことを言う人たちを、まず無視して構わない。
そういう問題じゃない。人と比べてる場合じゃないのだ。ひどい環境と比べて現在の環境がマシ、だなんて、敵国のネガティブ教育をして、自国への不満をそらすような卑劣な方法と何が違うというのか。問題ってものは、その環境下で必ず発生するものなのである。それを解決していくことが重要なのであるのに、その問題の本質に目を向けない行為は愚鈍である。
あぁ……そうじゃない。そんな一般論的なこと書いてないで、もっと自分のこと考えろよってことである。上に書いた、問題の本質に目を向けないってのは、まさにブーメランである……。
長くなってきたので、分けて書いていこう。今回の記事はそのための方針付けまでとしよう。
先に挙げた、思考、創作、仕事、実生活(順不同)を考える軸とする。
で、本当は、「身体」ってのも重要な要素だ。健康でなければ何もできない。この点は、若いうちはあまり意識しなくてよい。そういう点で、若さというのは有利な部分だ。だが、若いだけではあんまりそのメリットはない。そこに伴わせられる思考や行動がなければ、あんまり意味はないのだ。
であるが、今のところ、視力が落ちてきているということ以外に、大きな問題はなさそうである。健康診断の結果もおおむね良好であった。筋トレルーチンは、そろそろ負荷を増やしたほうがいいような気もするが、まぁそのあたりの重要度は下げて構わないだろう。
また、「思考」というのは、これまでこのブログで書いてきたことをざっくり読み返すと分かるが、たぶん、これからも付き合っていく必要があることだと思う。だから、ことさら、ここで重要性を上げて取り組む必要はない……というか、避けようがなく向き合うことになる気がする。
そうすると、創作と、仕事と、実生活あたりがポイントになってくる。少し絞られた。
次に、仕事、を考えてみる。例えば転職するかとか、今の仕事のキャリアアップを目指すとか、上司に気に入られて社内政治をうまくしようとか、そういった漠然とでも方針をどうするか。
とりあえず、来年度はまた状況が大きく変わりそうな見込みがある。残業がががーっと増えたりするかもしれない。ただ、来年度までにクビになったり倒産したりは、まずなさそうである。そうすると、ある程度、安定した生活基盤は取れそうである。まぁ、残業やストレス等によって混沌とする可能性は否定できないが。
とすれば、仕事という面も、最重要検討事項ではなさそうである。
すると、実生活と創作、というのが残る。
そもそも、創作活動というのは、率直にいってしまえば、「必須」ではないのである。
このブログもそうだが、別に書かなくても、創作しなくても生活できるのである。この点はまず書いておかなければいけないだろう。
しかし、多分、これは勝手な推測……いや推測と書くにもおこがましいが、思考や創作がなければ、僕は自壊するだろう。
いやいや、現実世界の人との付き合いに100%注げば、そんな思考や創作なんて必要ないさ! とも、思うことは思う。
思うが、多分、それはリスキーであるし、僕はそれができないタイプの人間なんじゃあないかと思うのだ。
とはいえ、世間の多くの人は、「物語をもたない」と思う。
ええと、このあたりのことは、もう少し厳密に書くべきだけれども、あまりうまい表現がまだ浮かんでいないし、あまり書いたこともないから難しい。
経営者とかは、自分の物語を現実に落とし込んでいるような人たちだと思う。
政治家も、本来的にそういう人であって欲しいと思う。
僕は、経営者や政治家ではないけれども、物語が必要だ。というよりも、現実と理想との関係に乖離があるからこそ、物語が必要だともいえる。
いやいやそれは逃げなのではないか。現実と向き合わず物語の空想に耽って自慰する行為ではないか。
違う、と思う。説得力はもたせられないけれど。
人生に、物語をもたせられない人は、物理的世界が上手くいっているうちはいいが、想定外の事態に弱いと思う。
……うーん、いや、何か違う。別に、物語の必須性を語りたいわけではない。不要であるという人がいても全然かまわない。
ただ、ここで僕がいいたい、「物語」というのは、ストーリーであって、人を納得させられる事柄や流れのことであって、仕事の上でも、ご近所づきあいにおいても、何にでも必要なことだとは思うのだ。
まぁいいや、またそれらは一般的な云々を勝手に僕が思ってるだけの話で、大したことじゃない。
……ちょっとまて、長い!
まただらだら書いてしまった。いやまぁ、別にだらだらしたつもりはないのだけれども。
しかし、僕は頭が弱いので、こんだけアウトプットしないと、思考がちっとも進まないのだ。頭がいい人は、こんなこと書かなくても、いや、そもそも経過を踏まずに結論がすぐでるんだろうが……羨ましいな。
まぁ仕方がない。環境も、自分の身体も、頭も、今あるデバイスを最大限活用するしか、アウトプットもインプットもする方法はないのだから。外部記憶装置早く開発されるといいね。それで、感情データとかのインプットもできるようになったりして。最高のエクスタシー体験とか、ジェットコースターとかサーキットとかのスピード体験を家にいながら感じられたり。インプラントできるようになれば、仕事のストレス、上司や部下からの叱責や暴言も、脳の感情調整装置が自動的に稼動して、A10神経群のニューロン発生経路を調整することで苛立ちや怒りや哀しみといった感情をパス(迂回)させちゃったりして。ストレスゼロ社会の完成である。
と考えると、ストレスとか、ネガティブな感情ってのは、やっぱり、人類、人間にとって必要な装置なんじゃないかなぁという想像も働く。ストレスフリーなのはいいことだ、というのに誰もが頷くけれども、人間自体がそれを受容することができなくなるのは、何らかの危険が発生するのではなかろうか。
……と、また余計なことを書いた。次。次の記事で、実生活と創作に関しての方針を考える。
(かっこ書きである。長いからやめる。次回に(たぶん)続く!)