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申し訳ない忙しかった
2019/04/30 21:43 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「言い訳はいかんとの風潮は如何か」「状況説明と言い換えればよい」
(前回記事へのコメントはまた今度書きますッ!!)

前書き

 久々のブログ更新である。
 ブログ更新など目をつぶってでもできるなどと言っていた時期が僕にもありました。

 忙しいと無理。
 生活環境(職場とか対人関係とか)が変わると、ものすごく忙しい。
 PCの前にゆっくり座るということすら殆どできていなかった気がする(注意:アマゾンプライムで動画はしっかりみていたが、それはゆっくりではないのである)。

 PCで文字を書くことが殆どできなかったので、仕方がない、スマホから投稿するかとも考えたが、結局、忙しい、疲れた、という状況ではそれもできなかった。

言い訳

 新しい環境から1か月が過ぎた。取り急ぎ、うまくやっている。上々といっていいだろう。
 結果は、そうだ。
 だが、その結果に至るまでにどれほど苦労したかということは、たいてい何にも残らない。
 残らない。
 残らない!

 この残らなさが嫌で僕はブログを書いているのかもしれない。
 例えば、飲み会などは、非常に気を使うものであって、「楽しむ」どころでないのは当たり前なのであるが、しかし、第一印象的には「楽しんでいる」と思われることが多い。そのために、どれだけ思考や行動を注意深く行っているか、ということは伝わらない。

 逆に、「伝わってはいけない」のであるが、その「大人な事情」的なのが非常にストレスなのは、常に書いて書いて書き続けていることである。

 まぁその、世間は10連休ということであり、私も少し心を落ち着けようというわけである。

 ああ、しかし、分かっていたはずだが、少しずつでも、更新していないと、「こういった感じ」になる。要するに、何を書いていいか全然分からない。

けものフレンズ

 けものフレンズがアマゾンプライムで掲載されるようになって、1から、2まで、あまり期間を置かずに全部みた。

 結果として、1は面白かった。これは、公開当時(2017年?)1話のみ無料でみれたときから、「これは面白そうだから、アマプラで見れるようにいずれなるだろうから、そのとき見てみよう」と思っていた感覚が当たっていた。面白かった。

 2は、世間で言われているように、面白くなかった。とある友人のバズッたけもフレ2の記事を事前に読んでいたから、なんとなく面白くないのだろうと思っていたが、いやむしろ、その記事を事前に読んでいてよかったと思った。
 違和感。
 違和感の連続、しかし、おそらく自分ひとりではその違和感をうまく表現できずに悶々としていたことだろう。

(引用)
 物語としても、「家を探す」という目標に対して、スケッチブックの絵を頼りに各地を彷徨うという、目的地に対して近付いているのか遠ざかっているのか分からない展開が続き、「ヒトのおうち」に最も関連がありそうなイエイヌに対して「ここは僕の家じゃない」とばっさり切り捨てた挙句、最終回では「パークが僕の家」と結論付ける。
 明確な目的地が提示されないために、話数が進んでも目標に近付いているのかが分からず、各話の物語も薄っぺらく積み重ねとして映らないために「この話必要だった?」と思うものばかりです。パークが家、という結論に至るなら、もはやどこに向かおうと関係がなく、どの話でも結論が出せてしまうことになり、積み重ねを作るそれまでの過程そのものが無意味に映ります。

 色々と共感したところは多いが、その一つが上の引用部分。
 目的がよく分からない――いや、もくてきは分かっているのだけれども、その過程が見えないという状況。オムニバス形式の作品(※)ならまだしも、「家を探す」目的が序盤に提示されつつ、それと関係あるんだかないんだから分からない話が続くのは非常につらい。

※ドラえもんとかひだまりスケッチとかクレヨンしんちゃんをイメージ

法律とか根拠とか

 オムニバスじゃないが、上の話と全く違うことを書く。(これも4月中に思っていたことの断片である)

 法治国家――というと近代的でかっこよくて科学的っぽいが、しかし、「人が大事」と言われる所以は、「解釈」による。

 超常現象的なのはオカルトと呼ばれて蔑まされるのに、「やっぱり最後は人との関係が大事だね」的に言われるのは何故か。矛盾である、と僕は思っている、思ってきた。

 その理由の一つに、完全に機械化できていない現状があることが分かってきた、という話である。

 クレジットカードの広告チラシに、年会費が永久無料、と書かれていた。
 そのクレジットカードの「規約」と読んでみる。
 年会費の条がある。
 さらに読んでみる、「年会費は別途定める金額を請求する」と書かれている。

 いやちょっとまて、広告には、「永久無料」と書いているじゃないか。そうすると、その条項の記載はおかしいのではないか。そもそも、その「別途定める」というのが、果たしてその「広告」なのか、他のどこに書いているのか? ホームページなど見ても、確かに、「年会費永久無料」とある。矛盾していない。矛盾していないが、しかし、その規約の記載はいったいなんなんだ。


 ――という事例である。
 おそらく、「年会費が永久無料であることを規約に書いていない」と指摘する会員は一人もいないだろう。いたとしても、電話口で丁寧に対応していただき、「規約を変えないと絶対許せない!」という人もいないだろう。
 そして現実問題、永久無料なのは間違いないだろう。

ビートレス

 またアニメの話になるが、ビートレスは、映像とテーマは非常に好みだったけれども、最後まで見れなかった。5話ぐらいで体力が尽きてしまった。面白いと思えなかった。いっぽうで、けものふれんず2は最後まで見てしまった。この違いは何なのか。「ネタ感」だと思う。ガンダムファーストが、ファンには申し訳ないが、30代になって初めて見た感じとしては、正直面白いとは言えなかったが、最後までみたのと同じだと思う。いや、1970年代の作品としては素晴らしいと思う、しかし、古典は古典としての重要性はあっても、それが現代的な面白さがあるというのとは別問題である。

 ビートレス(BEAT LESS)が何故それほど自分の中でヒットしなかったのか、これも分析して書きたかったことだが、そこまでの気力が起きなかった――けれども、そのなかで、「AI」をもちいた裁判の問題が取り上げられていて、それは面白かった。

 裁判官にAIを使うということが議会で紛糾していて、それが原因でテロが起こったりする話であるが、裁判こそ、AIが用いられるべき分野であると僕は思う。
(AIが非常に高度で適切であるという前提において)

 本来、裁判にまで発展しない状態で、双方が納得するのが望ましいことである。
 裁判になるということは、お互いもうゆずれないというか、利害対立が明確になってしまったことが原因である。

 そうしたとき、まったく感情を排して裁決するというのは、まさに、AI、ロボットが適していると思う。
 それに、膨大な判例や、法律を分析し、適切な根拠を探し出すというのも、AIが得意とする分野に思われる。
 レポートを書くAIや、要約するAIというのも、実用レベルかどうかは分からないが既に存在するようである。「〇〇法と〇〇の判例からして、有罪(無罪)」というのは分かりやすいはずだ。不安なら、はじめは人の最終チェックを入れてもいいだろう。それに、「世論度」的な、マスコミなどに取り上げられて厳罰化を望む声をどれほど反映するかなどの変数(係数)を設定するのを人間がやってもいいだろう。大学入試の不正問題みたいに、そこに不正を考える輩が発生するかもしれないが、それはまた別の問題であるし、それを懸念するならやはりAIに全部判定させた方が良いということになる。


 逆に今の裁判が、ゆらぎがある(蓋然性? 同じ内容でも判断が異なる場合がある?)という意味で上のようなことを書いているのではない。ただ、裁判費用が高すぎる、というのは、それに見合う技術(知識)をもった裁判システムを構築するためのインフラが必要だからである。
 裁判官しかり、弁護士しかり、検察しかり、裁判所(場所)しかり。
 それらは、現在も適切に機能しているだろうが、しかし、裁判件数が爆発的に増えたとして、現在のシステムで適切な判決が維持できるかというと、疑問であろう。

結論

 結論、なし。

 いや、今回は、久々なので、ここまでで。
 結論がなさ過ぎて、また投稿を躊躇いそうだが、毅然と、この平成最後の日に投稿する。


(かっこ書きである。けもフレ2は、作品自体はともかく、全部みたことで、「地獄の解釈」というのがあって無茶苦茶面白かった。結論、見てよかった、となった。あと、ついに、『シロガネ⇔ストラグル』が(恐らく期間限定で)公開された。これは大事件である。読む者を混沌と愉悦の境地へ誘うことだろう……)

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東京インザシティ
2019/04/05 22:33 | Comments(3) | 思考及び書くこと
今日の一言「臨時の記事だ」「臨時も何もルーチンはもはや無いのだ」

前書き

 今日は、以下の内容でお送りします(CM風に)。

・とある友人が、ワークショップ的なサムシングで東京に来るとのことである
・ブギーポップは笑わない、が面白い。
・けものフレンズ面白かった。
・とある友人のけもフレ2の批判について。

東京に来る

 関西方面にお住いの友人が、東京で開催されるイベントに当選されたとのことで、いらっしゃるという。
 そこで俺は思ったのだが、一般的に、そういうときは、東京に住んでいる人的カテゴリによって、何らかの「おすすめ」をしなければならない、と。

 まぁその、俺の癖的な奴で、「一般的にこうするのが普通だろう」的な推測――これは当たったり外れたりするが、あまり好きではない。それは、俺自身が、油断していると「一般的」から段々と外れてしまうからだ。

 しかし、今回としては、本心として、何か案内的な何かをしてあげたいと思った。

 この気持ちは、嫌なものじゃなかったし、むしろ主体的な欲求として良いものだと思ったくらいだ。
 しかし――!
 しかしながら、残念なことに、東京について、特に語ることはなかったのであった。

 ちなみに、東京といっても、大きく3つに分類される。
・都心
・郊外
・自然(!?)
 だ。

 要するに、島嶼地方や、奥多摩あたりなんかは、よっぽど他府県の市部の方が発展している。ディスりではない。事実だ。

 一般に、他府県の人がイメージする東京は、「都心」カテゴライズなのだろうが、多くは、郊外カテゴリである。郊外カテゴリは、まぁその、他府県の大き目な市ぐらいをイメージしておいてよい。要は「そんなに変わらない」。

 であれば、観光的なサムシングを紹介するのであれば、必然的に「都心」カテゴライズについて語る必要が発生するのだが、残念ながらこのブログの著者即ち自分は、「都心」的な奴にありがたみを覚えていない。

 結果、特に東京について語ることはない、ということになる。

店は多い

 ブランド的サムシングにも興味がないので、特段メリットにも思わないが、お店は多い。
 たいてい何でもある。ロフトやドンキホーテも最近は地方にも増えてきたが、初めは東京に集中していた(と思う)。

 あと、ラーメンつけめんそば寿司パスタイタリアン中華和食、多くのお店がある。テレビで多く紹介されるだろうグルメ的なところもたくさんある。その多くに行列は避けられないだろうが、発掘するのが好きな人はよいだろう。

 それぐらいしか思いつかない。いやもちろん、東京タワーをはじめとして、スカイツリーやら浅草やら、銀座やら新宿駅の巨大ダンジョンやら、吉祥寺の井之頭公園やら歌舞伎町危険なカホリがする場所やら皇居やら、上野動物園やら美術館やら博物館やら、いわゆる名所的なのはたくさんあるだろう(たくさん、と言いつつ、今ゼロ秒で書き出せたのはこの程度である)。

 それを、僕が「おすすめッ!」って言えるかというと、特に無い。
 いやまぁ、美術館や博物館はいいかもしれない。しかし、興味のない展示の時は面白くないだろう。


 ――まぁ、じゃあ、おまえ、なぜ東京に住んでるんだ、ということになる。
 とりあえず、結局、別にそれほど愛着もないもんだが、「人間関係の希薄さ」的なのは逆にいいかもしれない。ご近所付き合いとかほぼない。いや、別に地方でそんなもんがあるのかは知らないが。

 とにかく、上に書いたようなことも、住んでみなきゃ、来てみなきゃ分からなかったことである。割と東京に出る前の10代のころは、東京というのは暴力や犯罪がはびこる危険な街だと思っていた。実際ニュース的には発生している。しかし、実感的に、「人がクソ多い」ので、そうした割合的な面でみると、生活感覚としては意外にふつーだな、というもんである。

 とかってこの辺は、実際、犯罪発生率や対人口率とか、統計的に数字をみてみたいもんだなぁ。実際どんなもんなんだろ。


(かっこ書きである。次の話題にいくかと思いきや、時間切れ。今日はもう書くのはやめる。そうだな、東京に住むってことを、特に意識もしていなかった。いや、住所を書くのは「東京都~~」って書き始めるわけだが、別に東京に住んでいる実感もなかった。どっちかというと、生まれ育った帰省先の土地の方に愛着が未だにある気がする。不思議なもんだ。0代、10代のころは、とても幸せバラ色とは言えなかった気がするのに関わらず、である。まぁこれは、親の愛情的なサムシングなんかなぁとも思う。やっぱり、家庭という基盤というのは、成長につれて影響が小さくなるとは言われるが、それでも人格形成面として、強い影響があるんだろう。ええと、まぁその、東京ってことを考えるいいきっかけになった気がした。逆に、日本なら、ネットがあればどこに住んでもいいような気持ちがある気がした。いやしかし、逆に、だな、むしろ「関西」というのは、どこかしら「異世界」的な感覚がある。常に話のオチを求められ、笑顔絶やさず空気を読み続けなければいけない風潮が強い世界な気がする。怖い。まぁ、大阪と京都でも全然違うとかも聞いたこともあるし、いろいろ人にもよるんだろうね)

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自分にとって貴重な記事を書こう
2019/04/04 21:35 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「臨時の記事だ」「しかしルーチンは完了している」

前書き

 遠藤である。新しい職場である。居場所はまだない。

 いや、実際、思ったよりも周囲の方々が親切で、よいのだが、人間不信の俺としては、少々書くべきことを模索する必要があるだろう。

進捗

 あー無駄なことを書きたい。ものすごい無駄なことを書きたい。
 何って、そりゃあ、借りてきた猫のような状態でいたら、ストレスもたまるってもんである。

 いや、その、気にしなきゃいいじゃない、とか、そういうくだらないアドバイスする奴はどうでもいい。
 気にしてしまうから気にすることを悩んでしまうのだ。気にしない人はそもそも気にしないのである。

 しかも、気にするべきである。
 大いに気にするべきである。気にしたところで、避けられない事態は多々あるとはいえ、気にできる範囲では気にしまくるべきである。

 疲れる。しかし、それもまた仕事のうちである。

 いやいや、成果と関係ないものは仕事じゃないとか、そういう発言もどうでもいい。ああ、本当にどうでもいい。分かってる、「正論」的なのは分かっているからこうやって、無駄なことをとにかく書きたくなるのだ。

即戦力としての異動

 新人的な時代は終わってしまったのだ。そろそろ、若手としては誰も見てくれないのだということが、人数の多い部署に異動すると分かってくるもんである。

 ああ、ええと、貴重なことを書こう。

 ええと、支離滅裂である。
 思考がまとまらないが、要は、上手くやっているが、その上手くやっている状態が非常にストレスであるということである。
 というよりも、「どこまでやるべきか」という点が非常に悩ましい。
 人に任せる、ということも必要ではないか。そうしたとき、自分は、どこまで手を出せばいいのか。なぞだ。

 ええと、そうだな、率直にいって、数日過ごした感覚として、自分の知識・技術的に、何とか対応できそうだなという感覚である。

 すげー傲慢なことを書いている。危険だ。危険ゆえに、ここに書いた。
 何が危険かといえば、そういうおごった勘定というのは、すぐに他者に伝わるのである。そして、その傲慢さが実力よりも上、であれば人は特に何も思わないが、実力程度であったときに、傲慢な奴だ、と思うのである。「より」という点が強調だ。傲慢さは、実力よりも上の結果を出さなければ認められないのである。

 それは逆に疲れる原因になる。
 長期的に、上手くやっていくためには、今の「気にする」ことによる疲れは致し方ないのだ。
 1か月、2か月、半年か。分からないが、とにかくもう少しばかり、謙虚さ全開でいくべきである、ということは書いておこう。

勉強の時期

 とにかく、今は、特段緊急的な案件とか、超重要案件が任されることはないから、十分に時間を有効に使いつつ、勉強にあてるべきだ。
 その勉強というのは、業務知識的な意味よりも、「風土」を学ぶことである。
 その職場がどういったことが求められているのか、どういった仕事の進め方が好まれるのか、どういったコミュニケーションが必要なのか――など。

 俺、一部、社交的というか、礼儀正しいとか、そういったことを言われたりもするが、まったくもって人見知りである。コミュ障である。
 頑張って頑張って人並みレベルの状態を維持しているのである。

 そういう「疲れること」をたくさんしていることは、他者は分からない、し、分かる必要もないと思っている。そういうもんだ。
 だから、せめて、このブログ界においては、愚痴を書かせていただきたい。

噂話の是非

 どこまでの情報をすべきかはよく分からない。
 難しい。

 そもそも、いっつも書いているが、そんなに他者の情報に興味はないのである。
 興味はないが、ある程度情報収集が必要だからやっているのだ。

 そんなとき、どこまでの情報が開示していいのか、非常に判断が難しい。困ったもんである。


(かっこ書きである。おっけえええ! 分けのわからない記事になった。書きたい気分ではなかったが、とにかく、書かねばならないといった強迫観念による記事だ。とにかく、ストレスを感じているんだなぁということが伝われば合格だ。あと、なんか、他者を気にしすぎじゃない? って、多分あとで読んだりしたら思うだろう。思うだろ? が、しかし、思ってしまうんだから仕方がない、ということを抑えておく必要がある。それこそが、この記事の価値である。心理学とか自己啓発とか、役に立たないときは立たないということが分かればいい。それにしても疲れたなー。とりあえず明日いけば一旦休みだ)


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ルーチン更新の最終日
2019/03/30 13:35 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「目標達成は小さなことでも嬉しいことだ」

前書き

 おめでとう。この記事を投稿すれば、2019年1月14日に立てた週間更新という目標は達成される。

おすすめの映画

アマプラでおススメの映画とか!!!!」

 なんと、拍手コメントを久々に頂いた。これは取り上げねばなるまい。
 最近観た作品でいけば、『インターステラー』が面白かった。

 インターステラー(以下「インステ」)は、クリストファー・ノーラン監督の2014年の作品だ――とかって、レビュー記事では書かれるが、すみません、僕は「云々主演」とか「云々監督」と言われてもよく分からない。
 ただ、ノーラン氏は、映画「インセプション」も手掛けたという。ああ――あの作品か、あれは面白かった、と、そういう繋がりでは記憶に残すことができる。

 そして僕はふと思う。
「面白い作品教えて」
 と言われて、その作品を挙げるとき、どういったことを書けば(言えば)よいのだろうか。
 これは、自己紹介や、雑談においても重要な気がする。そういうことを意識して書いていきたい。
(ちなみに、いつものごとく、僕の記事は、「構成」を事前に考えたりしていない。ほぼ、僕の思考の流れがそのままトレースされている。まぁだから僕と話すと、こんな感じなんだということが分かると思う――ただ、これは、この思考の流れは、常に表に出すわけではない。基本的に「空気読む」ことが前提となる。というか、この流れになることは、対面コミュニケーションでは殆どないのではないか、とすら思う。何故ならば、コミュニケーションは、相互情報共有であるのであって、一方的に話すのは授業や講演やプレゼンだ。会話、とは異なる。ただ、本当はこういった素直な思考状態で人と会話したいとは思っている。飲み会とかでも、そういうことができる場面も、僅かかもしれないが、大人になるにつれて増やしてくることができた。しかし、プロスポーツの話とか、興味のない話はとことんつまらない。だが、それは趣味指向性の話であって、小説がつまらないと思う人に本の話題があっても楽しめないのと同じレベルであって、そこが問題なのではない。要するに、「深み」が必要だと思うのだ)

インターステラー

 まず、ネタバレをしない、というのは、僕のポリシーだ。
 ネタバレ気にしないという人もいるが、しかし、物語のワクワク感は、「先の見えなさ」にあると思っている。
(ちなみに、拍手コメ氏が、インステを見たことあるかどうかはもちろん不明だ)

 しかし、ネタバレをせずに、その作品について語るというのは、しかも興味をもってもらえるように語るというのは難しいことだろう。

 だが、試みる。

 序盤、は恐らく退屈だろうと思う。
 ある家族(主人公たち)の生活が描かれる。地球が舞台だ。だが、現代と少し違う。文明が衰退している可能性があることが、時折のエピソードで描かれる。
 自然災害等で、徐々に地球の環境が悪化していることも描かれる。それでも、「普通」の生活を過ごしている。

 物語のプロットポイント1(※)は、主人公の家の中で起きる不思議な出来事から、とある「施設」に導かれることだ。そこで、地球の置かれた状況と、それに抗おうとする人たちの存在が明らかにされる。

 主人公は、家族か、地球を救うというミッションか、どちらかを選ぶことを迫られる。

 もちろん、物語なので、葛藤を経て、主人公は地球を救うことを選択する(これはネタバレではない。家族を選んだら、物語はそのまま平穏に、かつ凋落する地球のもとに滅びゆくだけだろう)。
 僕がここで推したいポイントとしては、実はその葛藤が、終盤での重要な問題解決のキーになっていたということだ。


※転機。日常から問題へと投げ出されるシーン。

どんな話か

 あらすじ、は「推し」において必要なのか。
 そもそも、あらすじには、「オチ」を含むものと含まないものがあるとのことだが、どちらにせよ、物語を初めて楽しもうとする人たちの気概をそぐものであってはならないだろう。

 僕は、インステを、「宇宙」「時間」「滅び」のキーワードを挙げたいと思う。
 もうちょっと深めに表現すると、「重力」とか「事象の地平線の先」ということになるかもしれない。

 僕らの目は、光をとらえて、物質の存在を認識する。
 じゃあ光って何なんだ、といったときに、「光子」(フォトン)という、波の性質ももつ粒子である、と物理学はいう。
 一方で、「重力」という概念もある。質量をもつ物体が引き合う力だ。質量が大きければ大きいほど、重力は強い。そしてこの重力は、光子にも影響をおよぼず。

 すなわち、超質量をもつ存在、ブラックホールでは、光の源である光子すらも、その重力によって飛び出すことができなくなるのだ。だからブラックホールは「真っ暗」なのだ。
 そして、相対性理論によると、重力が強いところは、弱いところに比べて時間の進みが遅くなる。(例えとして表現すれば、重力が強い惑星から、重力が弱い惑星をみると、弱い惑星の人たちは物凄いスピードで動いているように見えるということだ)


 インステは、表現する。
 引き離された主人公と家族の、時間の隔たり。
 そして、ブラックホールに飛び込んだ時の、二度と戻れないであろう事象の地平線の先を。


あらすじ終わり

 面白さ、表現できただろうか。分からない、ワカラナイ。

 まぁその、万人に興味をもってもらえるであろうレビューって難しいだろう。
 人の興味は様々だからだ。例えば、主人公の娘も、キーパーソンであるが、子供のころの演技がうまいとかいうので興味が惹かれる人もいるだろう。
 もしくは、荒廃を予感させる地球の映像や遠大な宇宙の映像に感銘を受ける人もいるだろう。

 様々だ。
 僕の場合は、映像が奇麗なのも勿論重要であると思うが、やっぱりストーリーが気になるところである。次はどうなるんだろうという期待。それが視聴モチベーションとなる。

最近、努力について

 もともと、何を書こうと思っていたか忘れてしまった。
 なんだっけ。ああ、そうそう、目標達成である。
 それだけだっけ? 何か、頭の中に何も浮かばなくなった。

 こういうときは、美味しいドリンクに限る。

 あーそれには、片付いた部屋が必要だ。――ある程度片付く。よし。


 ああ、だが、余計に、何も浮かばなくなった。

 まぁ、いいことなのかもしれない。何も考えないというのも、大事なことだ。

 あ、思い出した。
「努力が認められた」
 という言葉は、成り立たないと思う。
 その、認めることが可能なのは、「成果」だ。

 僕は、こういった、「効率すべて」的な考え方が嫌いである。
 例えば、「雑談」は無駄の典型、とされる。でも、雑談ぐらいあってもいいと思う。
 ただし、僕は雑談は嫌いだ。それは、雑談だから嫌いなのではない、上に書いてきたように、「興味がない話題」の場合が多いからだ。

 好きな人と、何も考えずに、ただマリオカートをやる時間は、無駄だろう。
 無駄なんだが、僕は好きだ。楽しい。充実している。

 充実? なんの生産もしていない行為が?

生産性と人生

 人生で最も大切なことは、「欲望」だ。
 人は、誰かのために成長するのでもなければ、誰かのために生きているのでもない。

 人は、「やりたい」「したい」という欲望があるから、生きているのだ。

 その結果、その「やりたい」「したい」が、人のためになることが、最も充実感を得られるように生得的にインプットされているのだ。これを否定しても、例外的な反証にしかならない。

 だから、「必ず人は〇〇だ」という表現をしたところで意味はない。例外はいる。人を害するのが好きな人もいる。だが、一般的(大多数……これは、半数程度なのかもしれないが)には、人は、人のためになることをして、嫌な気持になるようにはできていないのだ。

 だから、取引先の人に、「あなたと仕事ができて良かったです。あなたのおかげで上手くいきました」ということは、大事なことなのだ。
 それを言うことは、メールなど文章を起こすことは、直接的に金銭的なサムシングを生むことはない。それよりかは、時給換算時間対効果としてマイナスだろう。

 効率、という言葉には、そうした生産性の面の腐臭がする。
 だから嫌いだ。

 無駄があってもいいじゃないか。それは換言すれば「ゆとり」だ。

 前にも書いたが、「ゆとり教育」は、批判されまくったわけだが、だが、その理念は間違ってなかったと思う。「教え込まれること」ではなく、「自主的に学ぶこと」が重要なのは明らかなのだ。仕事だってそうだろう? 「自分で考えてみろ」とか言われたことはないだろうか。

 まぁすぐさま書きたくなるのは、一方で効率は重要だと思っているし、「自分で考えろ」という無責任な指示が嫌いだったりもするし、要は僕は面倒くさい人間である。

話題提供されると指の動きが加速する

 上のようなことを書くと、途端にいろいろ思考が生じてくる。これは面白い。
「無駄とは何か」
「効率とは何か」
「ゆとりとは何か」
「自分で考えるとは何か」
「自主性とは何か」
 いろいろ生じる。書きたい。でも、別に誰かに理解してもらおうとは思わない――いや、理解してもらえたら嬉しいが、されなくても構わないと思う。なんとなく、理解してくれる人もいるということは、なんとなく、信じられるようになった、なってきた。だから、いい。

 まぁいいや、長くなってきたから、やめる。この記事はインステの紹介記事ってことでよいだろう。

(かっこ書きである。いやその、努力ってのは、主観である。というかそもそも、努力ってなんだ? がんばる、ってことだ。頑張るってなんだ? 辞書をひく。「忍耐して努力し通す」とある。忍耐? また難しい言葉が出てきた。つまり、耐えろということだ。苦痛を感じろということだ。嫌な思いをしろ、ということだ。それが努力だ。――いやじゃッ!(かっこ笑い) 同時にいつも書いておくが、努力自体を否定することはない。ストイックというのもいい。成長だって大事だ。だが、「嫌な思いをする」ということが、何故大事なのか? 構造上欠陥じゃないか? 人は苦しむために生まれたのか? ――そうだ、と仏陀は言っている? 俺は違うと思う。人生はふつーに過ごしていれば四苦八苦で「苦」だ、だけど、正しい実践(八正道)すれば涅槃寂静だぜ、というプロットだと思う。曹洞宗を広めた道元氏は、修証一如といって、悟りと修業は一体なんだぜ、といった。修業は苦しいが、悟りを得るための手段ではなく、修行自体が悟りなのだということだ。だから、修業が苦しいと思っているうちは、そもそも悟りにまだ遠いのだ。努力、をはき違えてはいけない。新しいことに出くわしたとき、俺らは恐怖する。そりゃそうだ、今までの方法が通じない。戦えば負けるかもしれない。だがそれは、「生き残りたい」という欲求に基づくものだ。そのために、苦しいが、頑張るのである。それは「主体的」だ。自分がやりたいからやるのだ。やりたくないことをやることが努力なんかじゃない。え? 理不尽な仕事を振られたときは、やりたくなくてもやらなきゃいけないって? そうだ。やりたくないがやらなければいけない。だが、次元をあげて考えてみたまえ、「やりたくない」のはその仕事自体だが、その仕事を達成しなければその会社で給料をもらえないから、やるのだ。その会社で働き続けたいからやる、のだ。その次元では、「やりたい」のだ。いやいや、現実感情とかけ離れすぎて、納得いかない人ばかりだろう。だが、何かをなすためには、時に感情に反することもする必要がある。だが、その「なすこと」自体は、自分の「やりたい」ことなのではなかろうか。その「なしたいこと」すらもやりたくない、と思うのであれば、残念だがその会社は辞めるべきだろう。――いやいや遠藤よ、俺は、働くことすら嫌でいやで仕方がないのだ、その場合はどうしたらいいのだ。働かなくても生きていける努力をすればよい。それすら嫌なら死ねばよい。だが、そこで、「死にたくない」と思うのであれば、いやいや仕事をするのも、「やりたいこと」なのだということをよく考えるといい。俺は、生きること自体がもう嫌だと思っていた。こんな苦しい毎日なのに、何故就職して、働かなければいけないのかと思っていた。その次元においては、「死ぬ」ということが「やりたいこと」になる。俺は、その次元においては、「自殺」ということを否定しない。――だが、すぐさま書いておきたいのは、逆に言えば、「新しいこと」というのは、避けられないのである。要するに、これから先、ずっと苦しみだけかもしれないが、逆に、一筋の希望が見つかる可能性があるのだ。その、よくわからねぇ可能性、その可能性が「無い」と、人間風情がどうして言い切れる? だから、自殺はよくないのだ)


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寝そべりながらタブレット更新
2019/03/25 23:45 | Comments(0) | 整理用
今日の一言「カテゴリ的に「生活」的な記事」「臨時の記事だ」

前書き

 残念だ。タブレットからだと、このブログエディタのショートカットキーが使えないようだ。要するに、小見出し-ー「前書き」とかーーが、CTRL+2で、H2タグが挿入されない。

 小さいことだが、若干ストレスであることに違いはない。

  あと、ワイヤレスのBluetoothキーボードの「記号」の配置が若干違っていて、プラスとか、かっことか、それが地味にストレスになる。

Pocket Wi-Fiについて


 そして、先日、固定回線をやめて、ポケットワイファイを導入したと書いた。
 追記したい。
 アマゾンプライムの超高画質をみていると、3日間で10GBなんて、あっという間に到達することが分かった。調べておけよ、という話だが、要するに、1時間で6GBぐらい使っているということなのだ。すごいな!!

 標準画質に落とすと、1時間に300MBぐらいになる。

 まぁそれは、さほど参考にならない数字だ。スペック的なことと、生活的なことは関係しない。

 問題は、僕は、なんやかんや、動画を見ているということだ。休日だと、4時間以上みている場合などざらにある。
 まあそりゃそうだ。20分のアニメを12話1クールみたとすれば、4時間である。土日かけて全部みるなんて、普通にある。ということは、超高画質でみていれば、2日間で、24GBも使うことになるのだ。

50MBPSで動画が見れるは本当か

 回線速度は、60MBPSから80MBPSぐらい速度が出ている。
 しかしながら、けものフレンズの1話から5話ぐらいまでみたところで、ストリーミングがしょっちゅう切断されるようになった。満足に動画が楽しめない程度までひどい。
 標準画質に落としてみても、ダメだった。セッションを一度切ってみてもダメだった。
 休日のお昼辺りは混み合っているのだろうか。

 こうした状態がずっと続くのであれば、正直、非常に不満足で、後悔である。

総じて後悔はしていない

 後悔だ、と書いておいて、すぐさま後悔していないとか、精神異常なのか。
 確かに、通信料を気にせず、一日中パケットを垂れ流しにしているという楽しみは確かにあった。
 それは、札束でいっぱいになった浴槽に浸かるような幸せだ。

 だが、実際問題、こうして、ブログを書いて、投稿するという作業においては、さほどの通信量など必要ないのである。

 これまで、何の気なしに、次のおすすめ動画、的なのをようつべで見続けたりしてしまったこともあったが、今後は、動画の視聴も「コスト」を意識せざるえなくなるだろう。

 これは、不自由か?
 考え方次第と思える。本当に僕がやりたいことは、何か。一日中動画を見続けることなのか。

 というような、問い、を発せられるきっかけになったことがよかったと思っている。
 そして、ポケットワイファイなるものも使ってみた実体験にもとづく感想をかけるというのも、メリットだったと思う。

結果はともあれ

 まぁ、実際問題、毎回、通信速度制限に当たらなくても、動画視聴がカクカクしてしまうようであれば、これは再度要検討になるだろう。やっぱり、映画もアニメもみたい。

 ただ、経験しなければ分からないこともある。
 余剰資金で解決する程度の問題であれば、どんどん経験すべきだ。ただ、同じ失敗を繰り返すようならば、何らかの対策が必要だろう。

 固定回線に比するメリットを挙げようと思えば他にもある。引っ越しをする際にも、手続きが簡便だ。何せ設置機器がない。

 居住空間における、動かしがたい物があるというのも、負債であると思う。いらないものは本当になくしたいと思う。
 
 予備をなくすというのではない。同じ消ゴムが複数あってもいい。だが、予備があることを忘れてしまって、さらに買たしてしまうのは避けねばならない。


 ねそべってうーむ、


(かっこ書きである。寝そべって打つのはやはり、難しいな。そして、3日で10GBの通信制限にひっかかる。規約通り、500kbps程度まで速度が下がった。やはりこの速度までなると、動画視聴は日常のネットサーフィンでも支障があるな。ただ、原因がアマゾンプライムの「超高画質」(1時間につき6.84GB)であると分かっているので、もう少し使い方を検討すればなんとか使えないことはないと思う。が、これは少々今後も検討する余地がありそうだ。「いまどき固定回線なんかよりポケットWIFIの方がお得だよ~」というのは、まぁ大多数の人にとってはそうなのだろうが、アマプラなど動画視聴やオンラインゲームをメインで使用する人たちは要用検討が必要だろう)

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