忍者ブログ
   
ネタがない(欲求について)
2019/03/16 09:08 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「ルーチン更新だ」「まったく思いつかない」

前書き

 進退窮まった。――という言葉は、前にも後ろにも進めないという状況を示すようだが、時間的意味であれば、前に進むしかない。
 その「時間」という絶対性に対して、例えば、コールドスリープ技術などは、「待った」をかけるものであって、面白いと思う。

 くそ、やる気が起きないモードである。

 どうしたもんか。

 こういうときは、「頭を白紙にしたいときのBGM」を聴くのもよいだろう。

ネタがないとかないとか言ってなかったか

 おいおい、ネタなんて、「感情」があれば、いくらでも書ける。毎日だって余裕だ、なんて前回とかに書いてなかったか。

 おっし、こういうときはコーヒーでも淹れよう。
 ――ふぅ、旨い。

 やる気は戻らず。

「期待」されるということは、重荷でもある。

 その、ストレスチェック的なので、結婚とか、慶事と呼ばれるものであっても、ストレスは大きいものなのだという。
 要は、ストレスは、外圧である。
 んで、人間には、その外圧に抵抗する能力が備わっている。レジデンスとかいうんだっけ。違った、「レジリエンス」だった。レジデンスは住居のことだ。

ジョルジュ・バタイユ内的体験

 もはや、断片となり、記事の文章は意味をなさない。ゲシュタルト崩壊である。

 ふと、書物を手に取る。ジョルジュ・バタイユの『内的体験』P.381だ。
すべての問題はある意味ではその問題の時間割だ。それは先決すべき問いを含んでいる。――ここで(私がじぶんの人間としての個別者としての本質を示しているこの世界において)、そして今、私はなにをなすべきか(何をしなければならないか、あるいは何をするのが私の利益となるのか、またあるいは、私はどんなことをする欲望をもっているのか)という問いだ。
こうして書きながら私は諸問題の根底に触れるつもりだった。そのくせ、この仕事を自らに課しながら、私は眠り込んでしまった。
こういう答え方には、その日一日の疲れが映っていたようだ、だがそれはまた、私の世界を見る見方の忠実な似姿でもある。
かくも深いところから表現されているのは、認識の操作における私という存在の本質である。すなわち、ある種の性向が認識への欲望を妨げるということは、どうでもいいことではありえないのだ。
哲学は、もしそれが自分の限界点にまで達しようと努力するところのものであるならば、まず、哲学者という生身の人間において、一つの緊急な問題を解かねばなるまい。すなわち、この仕事(自分の限界点にまで達しようと努力する仕事)は火急のものなのか、この私にとって火急のものなのか、人間一般にとって火急のものなのか、という問題を。大多数の人間にとって哲学は火急のものではないという事実は、通常、一面ではマズ生キルコトダ(食うことだ)という点に起因し、他面、哲学をやるだけの時間が実際にあるような人々の無能ぶり(知性の欠如、浮薄な性質)に起因する。
 黙読すると、1分かからない程度だが、これ、600字程度あった。

要約(駄約)すると

 フランスの著名な哲学者さんの文章であるが、これは、いくどか書いてきている、

「身体の痛みをしてなお思考できる人を尊敬する」

 ということに関連している。
 上の引用における太字下線部分は、僕が引いたものだが、原書には、「眠りこけてしまった」ところが傍点であった。

 これが意味するところは(おそらく。すべておそらくだが)、思考、哲学という次元は、身体、生理的な次元とは切り離せないということであろう。

 18世紀のヘーゲル氏などは、弁証法ということで、世界の摂理を哲学で明らかにしようとした偉大な方である。
 しかし、「いや、別に世界とかどうでもいいし」とその少し後にキルケゴール氏は実存哲学を打ち出したのである。

 俺は、どっちかというと、「世界とかどうでもいいし」派である。
 何故そうなったのかは、よく分からない。中学生ぐらいの失恋が原因だったと言ってしまえば簡単だが、勉強や部活など、学生時代に「価値」とされるものでの挫折が原因だったともいえる。
 取り敢えずそういうことだと思っている。だが、過去の原因を、フロイト氏の精神療法のように引きずり出したところで、別に心的外傷ほどでもないので、重要ではないとも思っている。

 しかし、「自分」というものを追求したとしても、仏教的にいえば、縁起であり、諸法無我であり、確固たる自己というものはありえない。


無価値ではない

 逆にそのこと(諸法無我)は、「無価値」を示すのではない。
 確かに、絶対普遍はありえないが、そこには「関係」というのは存在する。
 関係はしている。
 ということは、相互影響は発生しているのだ。

 世界と自分。
 世界は大きいので、自分の影響は、原子における、素粒子(クォーク)を陽子や中性子に閉じ込める強い力と、それと比べると非常に小さい電磁気力との差のようである。
 しかし、原子というシステムは、強い力も、弱い力も、電磁気力も含めて、総エネルギーなのだ。

 世界に対しての自分の影響は小さかろうが、自分がなくなれば、世界はその一部を失うのだ。


 それでいいじゃないか。という考えもある。
 つまり、家族。大事な人の関係において、自分の価値を感じ続ける方法。
 それが充足できれば、趣味のコミュニティでも、会社でも、社会でも、広げていってもいい。

 広げる、という言葉を使ったが、その、認められたいという欲求、承認欲求ともいうが、それが、家族の範囲では収まらない人もいる。社会や、国など、大きなところで発揮しなければ満足できない人もいる。

 人、それぞれの欲求範囲がある。

 先日かいつか、分からないが前に書いたのは、人の根源は欲求であるということだ。
 その欲求の多寡で、人の生活が決まる。



(かっこ書きである。引用除けば、1600字程度の記事だ。短いな。やる気の低下が原因だ。しかし、ルーチン更新はよい試みだった。そういえば、3月までという期限があった気がする。だが、更新しよう。ええと、いや、取り敢えず目標達成だ! おめでとう、自分! あ、違った、「3月30日(土)まで」と書いてあった。自分で決めたルールは、守らなければならない。「がちがち過ぎない?」「そんなんで疲れない?」とか周囲から言われることはあるが、違うんだ。そういう問題じゃないんだ。逆に、ルールは、俺に生きる希望を与えてくれるのだ。桎梏ではないのだ。最近、仕事面では、ますます期待されたり、褒められたりすることが多くなった。喜ばしいことだと思うか? 否。いや――「だめなやつ」と言われるのは非常に落ち込むわけであるが、かといって、褒められたところで嬉しいのではなく、「ああ、よかった」程度なのだ。プラスではなく、ようやくゼロになったかのような。人の評価を気にしすぎている? ああ、そうだろう。しかし、「気にしない気にしない」と念じたところで、そんなん無駄である。承認欲求ちゅうのは、どこにでも付きまとうのである。ホリエモン氏とか、高い自己肯定感をもっている人は、自由に生きているようであるが、それは、「他者がなんといおうが、俺は俺だし、認めてくれる人は認めてくれるし、生きてくぶんに資産も十分だし困らないし」という超越状態だからである。凡人から超越者を目指すという方法もあるが、果たして。投資の神様のバフェット氏のルールを自分のルールとして行動すると成功するというが、「自分が先例としてルールとしたい人」って、どこにいるんだろうか。俺が不幸なのは、その、人を尊敬するという能力の欠如かもしれない。だがこれは、学ぼうと思って学べるものでもない。探さなければいけない。探して見つからなければ、自分がなるしかない。そのためのルールでもある。――ってあれだな、いつものごとく、かっこ書きになると筆が進むようになってくる。多分、このカッコ書きと本文とでは、文章量は逆転するかもしれないがかかった時間は半分程度だろう。誰かを、尊敬する、か。この尊敬というのはキーワードかもしれない。メンターとか。まぁそういう人がいた方が逆に絶対楽だよな。楽……か。なんか、楽したい、というのも感覚として合わないんだよな。楽、というよりかは、充足したい。それ、表現として違うのか? 分からない、が、違うとは思う。うーむ……目がかゆい……ってこのやる気のなさは、もしや花粉症のせいなのかもしれない。となると、「生理的な云々」という今回の記事と珍しく関連して、かっこ書きも終わることとなる)

拍手[1回]

PR

トラブルの対処
2019/03/12 06:45 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「臨時の記事だ」「精神を落ち着ける必要がある」

前書き

 一応ルーチン更新はしているとはいえ、PCから更新が滞っていたので、ここいらで記事を書く。
 別に、更新しなくても、誰からも咎められるわけではないが、――そうこれは、メンテナンスである。

 筋トレやストレッチが、身体の調子を整えるものであるとすれば、文章を書くというのは、精神のメンテナンスである。別に行わなくても、すぐさま体調を崩すことはないが、やらないでいる期間が長いと、いずれ蝕まれていく、みたいなそんな感じ。

くそやる気が起きない場合の対処方法

 人間の根源は、欲望だ。
 欲望があるから、皆生きている。生活をよくしようと、科学を生み出し、会社を作って一人でなせないことをなそうとする。

 昨今は、「答えが見つからない」のではなく、「答えがなくなっている」のだ、って表現を、何かのニュースで見かけたが、ソースが見つからなくなった。やはりメモしないとダメだな。まぁ別に記憶したいフレーズを覚えられるならそれでいいが、そこから情報を広げようとしたときに、ソースは重要だ。

 逆に言えば、何でもかんでもソースソースとか言ってるのもつまらないと思う。根拠があるかどうかはともかく、自分が「びびっ」ときたなら、その「びびっ」をベースに根拠を探したっていいのだ。根拠は? 俺だ。

 小見出しに関係ないことを書いた。
 実践的なメモをしよう。
くそ何もやる気が起きないモード時の対処方法

【前提】

・ルーチンを作っておく

【対処】

1.風呂に入ってみる
2.文章を書く(ゼロ秒思考)
3.外の空気を吸う(散歩)
4.ルーチンの最低レベル分だけやる


 何もやる気が起きないときに、僕が実践している方法だ。と書くと、さも上手くやっているようだが、3番の散歩とかは、中々できない。そもそも、「くっそやる気が起きないとき」は、服装もだらーっとしているわけで、近所を歩くほどの服装をするのも億劫であるので、あまり実践的ではない。
 実践的ではないが、とにかく身体の調子は悪くないが、精神的にまいってしまっているときは、割と効果があることはある。「体を動かす」というのは、インドア派も認めざるを得ない効果があるのである。

トラブル対応

 上のことを掘り下げようと思ったのだが、なんか、箇条書きにすると、特に説明も不要なぐらい単純だ。飽きた。
 いや、だが、行動指標なんてものは、たいてい、単純な方がうまくいく。
 複雑だと覚えきれないし、複雑なことを思考できる状態なら、そもそも行動指標も不要な状態だ。

 上で想定している事態は、「くっそやる気が起きないとき」であり、まぁ、優秀な方々には無縁だろう。

 まぁその、トラブル発生だ。
 プライベートのことであり、仕事や恋愛云々ではない。先日も同じようなことを書いた気がするが、それとは別件だ。具体的に書いてしまうと、だいぶ特定的になってしまうのでやめておくが、困っている。

 が、まぁその、困っているが、人生というながーいもので考えると、大した問題ではない。
 客観的にみても、「へー」ぐらいなものだ。
 だから、共感してもらえないだろうというのもあって、具体的に書かないのもあるけれども、だが、だが、だがしかし、HSPな自分としては(とりあえず、覚えたての言葉を使ってみる症候群。ハイリーセンシティブパーソン、だっけか。横文字というか略字を覚えるのは割と好きだが、激しく間違って覚えている場合がある)非常に気分が落ち着かなくなるのである。

 そのトラブルのせいで、何日か(1週間)ぐらいは不安定な精神状態だったが、まぁ、方向性、というか、「こうしよう」という決断が芽生え始めたあたりから、だんだん落ち着いていった。

「どうしようか」

 という、判断ができる状態が、僕は落ち着かないんだなぁと自己分析する。
「こうしよう」と決めてしまったほうが、明らかに楽なのである。

決まった状態を好む

 前に、コメント欄などで、「君は考えることが好きなのであって、結論を出したいわけじゃないのだね」とアドバイスいただいたが、僕はそれを、なんか感覚的に拒絶した。

 感覚的に、だ。
 それこそ、ソースも、根拠も、論理も、なかった。なんとなく違う、と思った。

 なんでか、という答えの一つが、上のトラブルの結果なんだろうと、少し思ったというのが今回の記事の動機である(動機が後にならないと分からないというのも如何かと思うがいたしかたない)。



 まぁ、その。
 書かないとやっぱり駄目だな。
 具体的には全然書いていないけれども、それでも、自分の頭の中にはそのトラブル事象が想起され、ある程度整理されるのである。具体的に書けば、もっと整理されるのだろうか。

 実名でSNSとかするのって、どうなんだろう。
 きっと、意味はあると思う。

 思うが、リスクが大きすぎると思う。トラブルの具体的な内容について、関係者も目にする可能性があるわけだし、まぁ今回は自分の正当性も多少はある(と控えめに書いているが、要するに「騙された」ぐらいに思っている)ので書いてもいいんだけれども、それでも、名誉棄損とか、まぁその、ねぇ……。

 ただ、ポジティブに捉えなおしている部分もあって、具体的に書いていないから何がなんやらになってしまうが、「トラブル」は、大きく二つのトラブルに分けられて、その一つのトラブルが原因で、もう一つのもっと大きいトラブルに気付いた、という状況であった。
 なので、その二つのトラブルによって困ってしまった(現状も解決していない。いずれ、解決したらさらっと話題は触れることがありそうだ)わけであるが、ただ、早めに気づけた、という点で良かったかなとも思う。

 ええと、そうだ、30分しか時間がないんだった。


(かっこ書きである。慌てて、かっこ書きである。30分だと、これぐらいしか書けない。上までで、2300字ぐらい。3000字いかないと、やっぱり少なく感じる。途中、どうでもいい「ソース」探していた時間がもったいなかったな。結局見つからなかったし。ちなみに、字数は別にどうでもいい。どうでもいいが、拘っている。指標にはなる。どんぐらいの時間でどんぐらいの内容を書けるのか、ということは、把握しておいた方がよい。ちなみに「書くことがない」というのは、嘘だ。多くの人は「ネタが尽きた」というが、それは、ある意味本当だが、ある意味嘘だ。「ある特定のことに関する書きたいことがなくなった」ということである。書くことなんて、絶対にあるのだ。僕はそう思っている。だから、「毎日更新してみろよ?」と煽られても、僕は書けるし、2年間ぐらい毎日書いていた時期もある(むろん、内容はともかくである。おしてしるべし)。仮に、昏睡して1週間ぐらい寝込んでいたとしよう。夢や走馬燈もみなかったとしよう。それでも、書くことはある。いやそのたとえは変か。むしろ、寝込んだ理由とか逆に色々書くことがありそうだ。でもそうしたら、逆にだ、日々、生活、生きていたら、いくらでもネタはあるはずだ。何せ、無感情でなどいられないからだ。――ただし、である。「記憶」は大事である。忘れる。まぁうん、忘れる。一週間前の感情など、まったく覚えていない(が、今回は何とか掘り起こして、「不安」や「イライラ」や「焦燥」を、「トラブル」として表現した)。感情があれば書くことはある。それが面白いかどうかは別問題だが、「書き方」によっては十分面白くなる。何せ人は、自分は安全な場所で人の生活を覗き見たいのだ(と書くと悪意がある書き方であって、これも色々と補足させて頂きたいが、――というかそもそも、その「感情」というのが、自分の場合書いているそばから発生するがゆえに、どんどん脱線したり長くなっていくのであろうなぁあああ時間切れ)

拍手[1回]


アラウンドフォーティ
2019/03/09 11:05 | Comments(3) | 思考及び書くこと
今日の一言「定期更新」「ルーチンは大事だ」
◇前書き
 今週はきっと、土日とも書く時間が取れない気がするから、今、30分制限で書く。
 前書き、という書き出しに甘えてしまっている。実際読みたくなる文章は「フック」が必要だ。
 それと、「コンセプト」が明確になっている必要がある。
 様々な投稿サイトなどで作品を読み始めるときに、タイトル、前書き、プロローグと第一話で、読み進めるかどうかが決まるといって過言ではない。
 流麗な文章で始まったらいいのかというと、そうではない、というのは実感としてある。
 最近読んだある作品は、文章力は正直、お前が言うなを脇に置いておいて、十分とはいえなかった。けれども、雪原の中を、仲間たちが、雪玉をぶつけふざけあいながらも、次の集落を目指すという風景は、十分にイメージできた。
 何の難しい言葉など使われていなかったし、語順や表現としても普通、であった。でもそれでも十分なのだ。あ、そろそろ小見出しつけるか。
◇読み続けようと思う作品
 しかし、上の作品は、一話目で閉じてしまった。「コンセプト」が見えなかったからである。
 このアイディアとコンセプトの違いは、もう少し詳しく書いていった方がいいが、今回の記事では見送ろう。
 簡単に書けば、「もし○○だったら?」という投げかけである。
 恋愛至上主義にうんざりして、最終兵器彼女という作品は好きだったが本棚から排除した、というのをかなり昔に書いた気がするが、タイトルから分かるコンセプトの例として分かりやすい。「自分の彼女が、世界を救うための最終兵器だったら?」ということだ。
 この、コンセプトを先に提示しておく、というのが大事だと、最近思った。
 物語の書き始めにおいて、いきなり印象的な戦闘シーンをおく、というのはまぁ重要だが、少し陳腐……と書くと言い過ぎだが、もうちょっと工夫ができないかとも思っていたのである。
 それに対して、その、印象的なシーンをおく、というのもその方向性を求めていいが、同時に、コンセプトを、たとえばタイトルとか前書きにおいて提示しておいて、それが十分魅力的であれば、序盤がやや設定的な記述になったとしても、読者の興味を一応維持できるだろうということだ。
 フェイトステイナイトという作品は(片仮名にすると格好悪いが、スマホからということで許して欲しい)、「もしアーサー王やギルガメッシュなど過去の英雄を現世に召還して万能の願望器の争奪戦が起こったら?」というのがコンセプトだ(たぶん)。めちゃくちゃ中二心をくすぐるだろう。
◇今年の目標として
 せっかく登録した「NOTE」の活用も考えたい。
 しかし、今年は、カクヨム連載中の作品も進めたい。一応裏の目標として、あれは、ブッダが菩提樹の下で悟りを開いた歳までに、30話以上で完結するというのがある。
 その裏の目標、俺は実は結構、まじめに考える度に恐怖なんだ。
「死ぬ」というのは怖いものだ。
 だが、その歳になるまでに、俺は、「方向性」を示そうと思っている。今は大分、絞られてきているが、そこから着実に進んでいこうという覚悟である。
 カウントダウン行動法のことは書いたっけ?
◇カウントダウン行動法
 書いたことないな。書こう。
 行動するときの最終兵器、秘密兵器、裏技、まぁなんでもいいが、そういったものだ。
 朝起きられないとき。
 頭が痛いとき。
 やる気が起きないとき。
 そういうときに、「まぁ、がんばるか」と思って取りかかるだろう。
 それの強化版だ。
 まず、行動するべきことを厳密に定義する。たとえば、朝起きる、というのは未熟だ。布団から起きあがって、二足で立つ、ぐらい具体的にしなければならない。
 次に、30秒なり、10秒なり、それは、その人のやりやすい時間でいいが、俺は、30秒にしている。
 あとは、カウントダウンする。
 それだけだ。単純だ。
 だが、その、0秒になったら、最初に定義した行動を必ずしなければならない。
 必ず、だ。
 このカウントダウン行動法……このネーミングは今考えたが、これをいつからやっているかは分からない。たぶん、高校生ぐらいかな。
 何回使ったか分からないが、これを破ったことは一度もない。
 一度も、だ。
 絶対やる。
 これを破ったら、僕は僕じゃなくなる、ぐらいに思っている。絶対的ルールだ。
 それぐらい強烈なものだ。
 逆に行うと、できる範囲で、精神的な云々で対処できる、物理的に可能な範囲の定義しか行わない、というのもポイントである。
◇35歳
 でだ、その話を戻すと、その絶対ルールレベルで、一歩を進めていこうという掲示、が、その裏の目標である。
 怖い。
 逆に行えば、それまでは、色々試してみる時間と考えている。一種ターニングポイントにしようということだ。
 もちろん、これまでの知見を考えれば、そんな一瞬で変化は起こらないのであって、その瞬間に向けて、徐々に行動法策を絞って鋭角的にしていく必要があるのである。
 と思っている。
(かっこ書きである。カクヨムの記事を、最初から直近まで読み返してみた。面白いと思う。3年ぐらい前から書き始めたが、うん、合格だ。いや、つまらないと思う人にはつまらないと思うだろうし、まぁ読んだところで何か新しい知見は得られないだろうが、だが、文章作品として、俺はおKをだす。まったく知らないどこかで、まったく知らない誰かが、このレベルの作品を書いていれば、とりあえずブックマークはするだろう。そのレベルにはなっている。それを目標にしていたので、合格だ、と思った。もちろん、一部流し読みだったり、後半は疲れて、あんまり読めなかったが(かっこ笑い)。まぁ多くの人もそんな感じだろう。だが、それでいい。多くの書籍だって、斜め読み程度のものだってあるんだ。といったところで三十分、時間切れ)

拍手[1回]


役に立つ文章とは
2019/03/05 10:27 | Comments(0) | 思考及び書くこと
役に立つ文章は必要か?
今日の一言「臨時の記事だ」「またスマホからだ」
◇前書き
 前回の記事は、小見出しとの間に改行を挟んでいたが、投稿すると消えてしまった。
 編集の観点からいっても、スマホは適切ではないと思う。
 さて、とある方のブログ記事を読んでいて、文章講座サロンに参加されたということである。それについて、ふと思ったことをメモしておこうと思う。
◇必要性
 個人的に、その方の文章力は卓越しているので、単純に、向上心があってすごいなと思った。よく自己啓発的な云々において、自分と異なる分野の人とか、普段付き合わない人と交流することは大事だという。そういった意味において、脳機能の普段使わない部分がワーキングバーストでレバレッジなサムシングを引き起こすことだろう。
 是非どんなことが話し合われて、どういった方向性が目指される集まりで、そこでどんな気づきや学びがあったのか、続報をお待ちしたい。ちょっと一歩離れたところからの興味津々は野次馬的で好きではないが、まぁ、単純に興味があるというのが自分の感覚のメモしておきたいことだ。
◇役に立つこと
 そこで、キーワードが「役に立つ」という言葉だった。「オタクは役に立たないことに熱中する生き物だ、だから異質な環境でやっていけるのか」(曲解・極解)と述べられていた。
 オタクって何だろうか、そもそも最近、オタクという言葉もきかなくなっている気がする、という、どーどーめぐりの疑問が一つ浮かんだが、まずもって、オタクは役に立たないことに興味を持つ、という定義をしておこう。
 一方で、そのサロンでは、「うける」文章とは、役に立つ文章であるとされているということだ。
 役に立つ、という次元は、二つあると思う。
 実用的な面と、精神的な面。または、物質的な面と精神的な面。もしくは、お金がもうかるという面と、心が満たされる面、と表現してもいいと思う。
 おそらく、そのサロンでは、文章を書くことでお金を稼いで生きていこうと、そういう人たちの集まりなのではないか。で、お金を稼ぐという面での役に立つというのは、上の二元論においては、前者である。
◇お金の価値
 ここで少しわき道にそれて、お金を稼ぐというか、お金という存在自体を考えてみる。教科書的な、価値の尺度です、的なことではなくて、もう少し自分に引きつけて考えてみる必要がある。
 現実問題、お金は、物品取得のためのツールである。そして、物品、生活必需品がなければ、僕らは数日と生きていくことができない。だから、お金を稼ぐ。
 反面、実はお金を使うというのも難しいことである。一ヶ月10万円しかなければ、余剰のお金を捻出するのは難しいだろう。その次元においては、お金は、生活必需品レベルの存在だ。
 しかし、一ヶ月20万、30万ならば、どうだろう。まぁ初月は、贅沢なお肉を食べて使い切ってしまうかもしれないが、しばらくしたら余るだろう。
 そこですぐに、高級車や、高級マンションに住みかえれば、使い切ることは当然可能だが、じゃあ、例えを100万ないし200万にするだけだし、そういう意味ではない。とにかく、お金が余ったとしよう。
 投資する、というのが一つお金の使い道で考えられる。しかし、投資にも積極的な投資とそうでないものがあると思っていて、ある意味で、経済循環の中の投票行為である、という考えが僕は好きである。まぁ実際、株式は、上場された時点で企業に入るお金は決まっていて、いくら株価があがったところでその企業にお金が入るわけではない。もちろん、株主のために株価向上をうたうのだろうが、どこまでモチベーションになるのかは、勉強不足で分からない。
 話が少しそれた。要は、余剰で経済は実は回っているのである。本当に、生活必需品レベルでのお金の量は超えている。もちろんその、どのレベルを最低レベルとするか、というのはある。昔は諦めていた病気も、現代医療で治せるという場合もあるだろう。「昔は対処しようがなかった病気なので、死にました」というのはただの医療過誤とされるだろう。
◇投票活動
 話がそれるので、小見出しを変えて方向転換を試みる。つまり、僕らは、極度の貧困でなければ、余剰資金がある、ということだ。そこをまず認める必要がある。
 いやいや、生活が苦しいんだ、かつかつだ、という人もいるだろう。恐らく、現実が見えていないとか、もっと大変な人はいるとか、批判が大きくなると思われる。落ち着いて欲しい。
 そもそも、投資とか、貯金とか、それは余剰なのだ。
 本当にその日ぐらしでなければ、限界ぎりぎりレベルではない。もちろん、全く余剰がなければ、将来の不安で満足な精神状態を保てないだろうが、まぁそんな議論をしたいのではなくて、おまえ等全員恵まれているんだぜ、と、まずは認めてみよう、という試行である。
◇投票
 文章を書いてお金を稼ぎたい、そのためには役立つ文章を書くべきだ、というときの、役立つというのは、投票したくなるような文章を作り出す、ということである。
 この、投票という言葉は、商品の対価とは異なる。商品の対価、まぁ値段というのは、その物品を手に入れるために必要なお金の量である。
 対して、投資、投票というのは、「これから先」も価値に含めている。
 要するに、株式だったら、これから先もっと株価が上がるだろうと、取り引きしたらもっと大きな利益が得られるだろうと言う期待。投票は、たとえば政治なら、この政治家に投票したら、もっとよい行政をしてくれるんだろうという期待。
 期待、があると、人はお金を払いたくなる。そうでなければ、値切りたくなる。豚肉は、もっと安いスーパーがあったら、そっちで買うだろう。だが、そこでしかないもの、それ以上の価値があると感じられる物には、多少高くてもお金を払う。
 文章だったら、この人は、もっと新しい視点や、もっと新しいことや、気づかなかったことを教えてくれると思う、とか。エンターテイメントとしては、この作品は面白かった、だがきっと、この感動を超える何かも、この先うみだしてくれるんだろうという、期待。
◇後書き
 何の話だっけ……。だめだ、スマホからだと、流れがよく分からない。でも、いったん、メモしたかったことは書けたような気もする。
 書けたっけ。なんだ、その、オタクは役に立たないものを求めるのに、役に立つことだけを目指す文章って、無味無臭の、カフェインレスコーヒーみたいな奴何じゃないかって、そんな方向性を書きたかった気がする。
 この記事だと、役に立つことは必要だ、という結論に思われるかもしれない。そうじゃない。
 むしろ、オタクは役に立たない物を求める、というのが、しかし、それは、役に立つの次元の前者の、お金になる、というレベルであって、後者の役に立つというレベルもあるんじゃないか、と。うまく繋がりを書けないが、本文中で書いた、おまえ等みんな余剰的に生きてるんだぜ、ということを考えたときに、前者の役に立つと、後者の役に立つに、優劣はないんじゃないかと、思うわけである。
 だから、そのサロン的なサムシングにおいて、その役に立つが前者だけの方向性だけが追求されるものであれば、当然違和感があるんだろうし、広い意味での役に立つなら、……まぁとはいえ逆に実践的な講座にはならないかもしれないので、難しいところだろう。まぁそういう意味もあって、興味があることは間違いない。
(かっこ書きである。うーむ、論理的ではない文章になった気がする。推敲できる環境にないので、気が向いたら直すかもしれない。とりあえず、字間隔がくっつき過ぎなのはなおしたい。まぁでもその、俺は、その人の書く文章を面白いと思うのである。それは、「役に立たない」(ここではいい意味で用いているのは当然だが、しかし、面白いという自体が役に立っているともいえる)記事だろうと、魂魄揺さぶられる作品だろうが、どちらもだ。だからその、まぁなんだ、これからも、読ませてもらいたい、と思う、なんだそりゃ。とにかく、現状は言葉が出尽くしたのと、時間切れ)

拍手[1回]


通奏低音を求めて
2019/03/04 01:06 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「定期更新だ」「最近土曜日から日曜日になっている」
◇前書き
 目が、かゆい。
 花粉症だろう。先日は風邪をひいていたから、鼻水はどちらが原因か分からない。
 とあるプライベートの問題が起きている。具体的には書かないが、恋人的な云々とは全く関係ない問題だ。自分の身体の問題でもない。まぁそれは、目がかゆいという問題があるけれども、そういう次元ではない。
 そういったバタバタ中であり、土曜日更新ができなかったのであり、これは特に問題ない。免除規定である。ただ、今は、スマホからなんとか書いて投稿できそうであるが、土日どちらも使えなかった場合は、いくら免除規定とはいえ、いかがなものか。月に4回は最低投稿するという、それを、3月中までは続けるという目標を立てているのであれば、平日だろうがくらいついていかねばなるまい。
◇特に書きたいことはない
 今回の記事は、目的先行ではなく、ルーチン先行である。要するに、特に書きたいことはないけれども、「書く」という目標ゆえに書いているのである。
 こういうときはわりかし、珍しく苦痛である。
 だから、文章を書くのが嫌いだとか、面倒だとか、苦痛だという人の気持ちも分からなくもない。
 逆に、だからこそ分かるのだけれども、書くのが面倒だというのは、「タイピングが下手」という次元を超えれば、それは、「書きたいことがないから」なのである。
 ではその、書きたいこととは何かといえば、それは、「思ったこと」「伝えたいこと」なのである。
 しかし、それらが、他の誰かに、対面的なコミュニケーションにおいて伝えることができていれば、あえて、パソコンを立ち上げて、文字を書こうなどとは思わないのである。
◇書きたくないときに書くことは逆にレア
 なので、「書きたくない」でも書く、というのは、レアである。
 たいていのブログなんかは、「これを主張したい」もしくは、「この商品をクリックしてほしい」というわけであるから、「目的」が見えている。
 逆に、目的、が見えている記事は、わかりやすいのだろうけれども、面白くない。
 ストーリーの基本的な構成は、以下のような流れだという。
(パート1導入)
・つかみを入れる
・ストーリーの設定を伝える
・立ち向かうべき問題が発生する
(パート2反応)
・発生した問題に反応する
・問題解決の糸口を見つける
・問題への対処・攻撃を開始する
(パート3攻撃)
・問題と向き合い戦う
・途中ピンチになる
・最後となる新しい情報が示される
(パート4解決)
・問題に主体的に立ち向かう
・問題を解決する
 創作者は、こうした構成に物語をあてはめることを生理的に嫌うという。わからんでもない。僕も上で書いたように、「目的」が見えている記事は面白くないと書いた。
 しかし、実際に物語を書いたことがある人は、一回でも書いたことがある人は分かるだろうが、いくら最初にすばらしいアイディアだと思った内容でも、いざ実際に書き始めていくと、書き進める困難にぶつかる。
 自分で自分の物語を面白いと思わなくなっていくこともある。
 なんども推敲しているうちに、飽きてしまうこともある。
 であれば、ある程度の形を、ストーリーの構成として、それを多くの人はプロットと呼ぶのだろうが、プロットを立ててから書き始めていった方が効率がよいだろうことは想像できる。
 だが、日記はどうか。あえて、ブログという言葉は使わなかった。
 日記は、思考のプロセスの記録である。
 パソコンではないので、マルチウインドウを使えない、辞書をひいて日記という語を調べられない。上の定義は、僕の勝手なものだ。だが、はずれてはいないと思う。
◇日記
 答えや、目的がある場合に、日記など書く必要があるだろうか。
 僕は、その点が明確になるように、昔、「ログ」という言葉を使っていた。
 ログとは、プログラムの処理を可視化できるように、処理時間と処理を行う内容とその結果をテキストファイルなどに書き出したものだ。
 これを、僕は、自分の頭の中の思考や言葉を、そのまま書き出すようなイメージとして、ログと呼んでいたのだ。ゼロ秒思考ともいう。瞬間アウトプットと呼んでもいいかもしれない。呼び方はどうでもいい。
 何故これをしていたかというと、とにかく、不快な状況だったからだ、と一言でいうなら済んでしまう。
 人生、いろいろある。
 そのいろいろは、その人たちそれぞれにおいて違っていて、そしてその感じ方も違う。
 無限大に問題はあふれているのだ。
 しかし、混乱さなかにいると、その問題を問題として認識することも困難になる。
 だから、その問題を可視化するために、ログ等作業が必要になるのだ。
 だから、幸せまっただなかで、不満も何もないような人は、こういった作業は必要ないだろう。
◇生きる意味というのは普遍である
 僕は、個々個別の問題を取り上げて、その対処を考えるということを、このブログにおいて託していない。だから、抽象的な表現になり、読む人は面白くないだろうと思う。
 一般論的なことを読んでも、人は面白いと思わない。
 しかしあえて、僕はそのつまらないことをする。
 恐らく、僕の問題自体も、10代のころとは、変わってきていることが分かる。
 要するに、異性の、女の子から好きになってもらえるのかという、恋愛の問題。感情的な次元では、その頃の方が、よほど精神的には堪えていたのだろうけれども、今思うに、それほど重大な問題には思えない。
 しかしその頃も、生殖によって生物は子孫を残していくのに、自分は異性に認められることがなく、そんな自分は生きている価値はあるのだろうか、といった、現状でも考えていそうなことも思っていたのだ。
 うん? どうなんだ? いま、すごく違和感があった。そんなこと思っているのだろうか? 当時も思っていたのだろうか?
 むしろ、当時は、好きになった女の子がいて、でもその子は他の人のことを好きで、諦めなければいけない、と。しかし、自分の中に生じるその人を好きになったと、大事にしたいという思いが満たされないならば、自分という存在は何か価値があるのかと、そういった感じだったような。子孫がどうこうということではなかった気がする。
 ……というように、もはや、よく分からないのである。
 昔のログでも引き出してくれば、その片鱗は感じられるかもしれない。しかし、それは実際問題、単なる記録に過ぎない。あれだ、物語と同じなのだ。自分のことであるのに、小説やアニメをみるのと同じ程度の感覚なのだ。しかも、自分のつたない文章力によるものだから、もっというなれば、小説やアニメにすら劣る感情再現率かもしれない。
◇物語の重要性
 物語と現実は別だ。
 だが、現実をつくっているのは物語だ、というトートロジー的なことを、上手に表現したい。分かってくれる人はいるだろうか。
 物、というのは、もう疑う余地もなく、現実に存在している。それがないとか、そういうことではない。しかし、物に意志はない。何か行動するのは、人間に固有の性質だ。
 筋肉を躍動させることだけが行動ではない。
 何か頭の中で考えることだって、行動の一つだ。
 行動するための源泉となるのが、物語なのだ。
 イヤ違うよ、労働契約だよ。就業規則に従って会社に行くのだよ、というのは、それはそれで事実だが、しかし、会社に所属しているのは、それは、自ら選び取った(もしくは与えられた)自分の物語なのだ。
 僕は、あまりにもつらいときに、ゲーム的人生という考えを試みていた。
 つまり、「自分」というのに拘るからつらいのであって、そうじゃなくて、「自分」という名前の存在は、ゲームのプレイヤーなのだと。
 人生というのは、壮大なゲームであって、それを演じているのだと。つらいとか苦しいとか言うのも、そういった仕様、というか、演出なのだと。
 この試みは、成功したのか、失敗だったのか。
 分からないが、まぁ、こんな感覚も悪くないと思う。
 人生の意味、といったときに、「人生なんてのは、壮大な暇つぶしなのだ」という言説も、一定数支持があるようだ。
◇後書き
 何やら、取りとめがなくなった、いつもか。
 まぁその、3000字は超えたから、とにかく投稿はしよう。
 ああ、ばたばたとしていて、結局12時を超えてしまったか。
 そうだな。
 しかし、人はいずれ死ぬ。
 何度も書いてきたフレーズだが、しかしやはり、死ぬよなぁと思う。
 そうした中、自分が生きているというのは、なんとも奇跡的なことだよなとも思うし、長く生きている人たちは、それだけで、まぁまぁ、よくやってきたもんだなぁとも思う。
 歩きたばこをするような奴は死んでしまえと思うわけだが、まぁそれでも、
生きてるってすごい、ああ、表現が小学生並みだが、仕方がない。
 ああ、違う、そうじゃない、最後になって思い出した。
 ニーチェという人がだな、「何故」を知る人は、その殆どの「どうやって」に耐えられる、というようなことを述べていたということだそうな。
 今僕は、生きているだけですごいんだから、別に生きる意味なんて考える必要はないんだよな、って方向で締めくくろうとしたけれども、そもそも、この記事のどこかに書こうと思っていたのは、そうはいっても、「何故」はやはり重要なのだ、ということであった。
 この、書いている瞬間の感情。思考。これは本当に移ろいやすいのである。
「自分」なんて、固定的に書いてしまうが、さも、首尾一貫同じことを考えたり書いていますよと、そういった風体で書いているけれども、全然そんなことないのである。
 この曖昧性を、人の脳の性質は許容しがたいのであるが、いやそれは、自然に対する生存戦略として正しいのであるが、複雑化した社会、高度専門化した社会とか言われるけれども、その曖昧のままに認めるというか、受容することが重要だと思う。
 しかし、それはあまりにもカオスすぎて、人間としては耐え難い苦痛を与えるものなのであるが、だからこそ、生きる意味を徹底して考えることによって、そのカオスの中にも、通底する思想というものを見いだすことはできないのかと、そう思うわけである。
 もっと具体的に書けば、今僕は、30代であるが、これが、過去の10代や、20代、そしてその先の40代や50代といった先にも当てはまるような、根源的な思想というのを、見いだしたいということなのだ。
 更に、これから何が起こるか全く予想もつかないわけである。
 だから、個別具体的に何か対処を考えたところで、それがその先も使えるようなものとは分からないのだ。
 そうしたこともふまえた、何が起ころうとも、いついかなる時代も、自分の身体状態や思考状態がどうあっても、通底するような思想。それを探すことを、生きる意味を徹底して考えると、今は呼びたい。
 遠大、曖昧模糊で、砂上の楼閣のようである。
 だが、役に立つことだとは思わなかろうか。
 そんなことは無理だし、無駄だと、誰しも思うことだろう。
 しかし、もし実現できたら? それが例え自己満足だったとしても、その思想によって、客観的に幻想だとしても、自己が充足されたら?
 悪いことではないと思う。
(かっこ書きである。スマホ投稿で、5000字を超えようとしているのは、きっと初めてだろう。まぁ、エレコム製のBluetoothキーボードを使っているから、厳密にスマホ投稿ではないのだが、やはりデスクトップとは全然感覚が違った。まぁ、キーボードの打ちやすさは、まぁまぁよかったと思う。何が大きく違うかというと、コピペのしやすさと、前に書いた文書の読み返しやすさである。推敲という作業は全く持ってむいていない。メモ、には十分な気はする。なんだっけ、名前が出てこないが、キングジムの、メモだけできる電子機器。あれ使ってみようかと思ったが、たぶん、スマホとほぼ同じ使い勝手になる気がする。ディスプレイの大きさと、持ち運びやすさのちょうどいい感じが難しい。そういう意味で、大画面でゲームしてみたいというのはあったけれど、いざ大画面、40型とかでやってみると、すげー疲れることが分かった。やはり、21型ぐらいがちょうどいいきがする。なんの話だ。とにかくだ、最近ここ数年のことで書いておいた方がいいのは、積極的に死にたいということは思わなくなったということだ。0代や10代のころは、割と死にたいと思っていた。今生きているから、死にたい詐欺になってしまったが、結構本気であった。本気で試みて、いやでも、死んだ後もそれはそれで苦しいかもしれないという思考が働き、恐怖と、しかし現実もつらいし、とで、非常に困っていた。それを「生きづらい」と表現していた。今は、まぁ、この先の異動でどうなるか全然分からないが、まぁまぁ、なんとかはなるだろうと思っている。こんな俺でも、できることはいくつかはあるのだなという自負が芽生えたのと、まぁ仮に職を失うことになったとしても、5年くらいは最低限の生活を維持できそうな資産があるというのもある。まぁこれは物価など経済状態でどうにでもなってしまうが、それでも、しばらくは大丈夫な気がする。それと、これまで、くっそ苛つくことだとか、死にたいくらいイヤなことなどもあったし、それに比べたら、今後起こることって、それ以上なんだろうか、という楽観的な考え。こういうことを書くと、マジでそういう目にあったりするという、マーフィーの法則的なのがあるので、あえて書かないようにしていたけれども、今の精神状態というか、問題の渦中というか、まぁもう書いてしまえという気がしている。まぁ、何とかなる。この何とかというのは、くっそダメな状況も含めて、何とかなるのである。そう、たとえばこういうこと、「何とかなる」というのは、通底して使えそうな思想の一つだ。こういったのを、なんか、もっと、固めていきたいなと、そんなことを深夜に思う)

拍手[1回]



<<前のページ | HOME | 次のページ>>
忍者ブログ[PR]
アクセスランキング