今日の一言「眠れなかった」「午前二時」
眠れない。
昼夜逆転か。
日中帯の生産性が落ちることだろう。まずいな。栄養ドリンクで何とかバランスを取ろうか。
正義と、死について。
たくさんの答えがあるだろうが、その一つは、人類という種の存続に適切な行為ではないからだ。
社会のルールだからだ、といってもいい。
要するに、人を殺すことが許容される社会は、いつ殺されるか分からないということだ。
「何故だと? 殺し、奪うことが人間の性(さが)だからだ。貴様らこそ何故、人として生まれ、殺さない、奪わない!」
と悪役なら言うだろう。そういう社会において、「生産」が重要視されないことは明白だろう。
作っても、育てても、それを奪われる可能性が高いのならば、暴力、武力を蓄える方がよほど得になるだろう。
そうした社会が、人類の発展に適していないとされているから、人を殺してはいけないのである。――厳密にいえば、人を殺すことにルールがあるのである。
そのルールの源が、正義といわれる。
遅いか、早いかだけだ。
限りある人生の中で何をなすのか。何もなさないのか。
望んで生まれたわけではないかもしれない。
それでも、生得的に、我々は、生きることに執着するようにできている。
僕らは、死という概念を超越するかもしれない。
肉体は時間経過とともに衰えていく。
頭、脳も同じく衰えていく。
アルツハイマーなど、脳の機能が萎縮すれば、いずれ記憶のアクセスができなくなり、自己は消える。
自己とは、記憶による、自我同一性によって立ち現れるものだからだ。
その衰えは、記憶を、電子データとして扱えるようになれば、止めることができる。サンプリング精度によっては、本来保持していた情報の欠落があるかもしれない。
しかし、有意味性を担保できる程度のサンプリングができれば、十分な意思疎通は可能となるだろう。音、は、周波数で表現されるが、人間の耳がとらえられる低周波・高周波の範囲外は、例え取得しなくても、結局聞こえる音は同一になるのだ。
心理学的に、自己啓発的に、スピリチュアル的に、「いやなことは忘れましょう」とか「気にしすぎないようにしましょう」という方針は、正しくあろうとも、しかし、記憶の制御は、精神論でなせるものでもない。
記憶。
記憶があるから、僕は、僕として存在を認識できるのだ。
しかし、その記憶にアクセスする主体は何なのか。
それが思考――ないしは、感情である。
記憶をすべて、脳の海馬を含む大脳辺縁系から取り出せたとして、それだけでは、ただのデータに過ぎない。
思考や、感情といった機能を、どのように移行することができるのか。
桶の中の脳の思考実験。脳だけを取り出して、身体フィードバックがない状態で、そこに思考は生じるのか。
自己とは、かくも不思議な現象なのである。
データは、不死である。
ストレージ、データの保存機構が壊れない限り、永遠に残る。
そして、データの特徴は、バックアップ(データの移行)ができることだ。
技術的に可能であっても、思考が生じる仮定を保存するのに、現在の技術や物資では到底なしえないほど、カオスなデータ容量が必要であれば、それは不可能ということになる。
そのため、データ容量は、現実的に扱える容量であると仮定する。
そうしたとき、同一の思考や記憶をもつ人間を、コピーすることができるということになる。
もちろん、環境因子によって、同一の筐体と同一の中身(脳データ)をもつ人間であっても、その反応は異なることだろう。
自然(大地とか森林とかそういう意味の自然ではなく、すべての起きうること。森羅万象)はカオスなのである。自然を保存することはできない。
コピーが可能であれば、人の多様性は必要だろうか。
ましてや、人は今、不死となった。
リスクがあるとすれば、同一の機構をもつ脳データを破壊するマルウェア(コンピュータウイルス)であろう。
電子データを機能させるには、電力が必要だ。
太陽光、地熱、風力、原子力、しかしそれらは、すべてオートメーション化されている。
人間はすべて、巨大な電子演算機の中に入っている。
クラウド化されネットワークによって繋がったデータベースは、もはやその特定の場所をもたない。必要に応じ、必要な量の思考が巨大なネットワークの中で行きかうのである。
その人類ネットワーク・システムの外的な、物理的な維持管理は、ロボットたちによって行われる。アーティフィシャル・インテリジェンスによって、新人類の制御もほとんど不要だが、イレギュラーが発生したときのために、新人類の思考によって、外部のインタフェースとして作業を行うことも可能になっている。
データ人類は、死ぬことがないため、その技術が発達してから、ますます増加していく。
旧来の土に還る思想をもつものや、既に脳機能に異常をきたしたもの以外は、自らの肉体を捨てて、人類ネットワークシステムの中に入っていった。
エネルギーは、電力だけである。
水も、食料も必要ない。
肉体がないのだから当然である。
インフラストラクチャーの優先度は、電力の確保が最優先となる。
だが、既存の交通、商業、工業などの必要性が低下するにつれて、電力の確保はそれほど難しいものでもなかった。
それでも、子供たちは、肉体を捨てることはできない。
人類ネットワークシステムに、成長はないのだ。
子供たちの世話や教育は、すべてロボットたちが行っている。大人たちはみな、人類ネットワークシステムの中に入っているのだ。
人格の形成が十分になされたとされる20歳程度で、人は人類ネットワークシステムの中に入るようになる。
これまでは、体が限界になったころ、死の直前に人類ネットワークに入ることが多かった。
時代が変わることで、肉体が十分に使える状態であったとしても、人類ネットワークに入ることが増える。何せ、もはや、肉体をもつ人類は不要なのだ。むしろ、資源を大量に消費することから、コストパフォーマンスが悪い。
脳機能マッピングが完全になされた後に、肉体は、目覚めることなく破棄される。
そこは、仮想世界が広がる。これまでの、荒廃しだした世界とは異なる、洗練され美しい世界。
すべては、脳機能に電気信号によって生じさせるバーチャルリアリティであるが、しかし、すでに肉体がない新人類にとっては、その世界こそが真実の世界である。
肉体は、破棄されなければならない。
さもなければ、「死」の恐怖に発狂してしまうだろう。
このネットワークの世界には、死は存在しない。永遠に、自由に、そして幸せに生きることができるのだ。
死もなければ、老いもない。
永遠の世界。理想郷。ユートピア。
新人類は、原人類の数をはるかに超越した。990億人。数年で、1000億を超えるだろう。
ストレージ容量は大丈夫だろうか。しかし、ここ数十年においては、新人類の増加も格段に緩やかになっている。新人類へ移行する原人類が、もはやほとんど存在しなくなったのである。
最後の原人類がいなくなったとき、人類という種の進化は完了するのだ。
スリルを味わいたければ、それを感じられる信号を受け取ればいい。
脳に与えるダイレクトな信号は、現実感を超越する。たいていは、その制御をおこなわなければいけない。強度を高めすぎると、「自己」「精神」は破損してしまう。
だが、破損したところで、その多くはバックアップによって保持されている。
故に、完全な殺人を行うためには、その「自己」に対するすべてのバックアップを破壊するということが必要だ。
しかし、自己のセキュリティ区画は、分散され、さらに厳重な機密として扱われているため、実効性は限りなく低い。
人が殺し、殺されるという、原人類の野蛮な習性は完全についえたのだ。ここに正義が完成した。
(かっこ書きである。あー、なんか、眠れずに、布団の中でもぞもぞしながら考えていたら、余計に眠れなかったが、2時間ぐらいしか布団に入っていないが、もういっそのことと思い、書き出した。物資に恵まれていれば、人は争わないのか、といえば、きっとそんなことはない。刺激も必要なのだ。セックスの快感や、生死をやり取りするスリルなど。だが、そのスリルなどの感覚も、すべて脳に対して、肉体の現実感以上に与えることができれば、人は人と争う理由がなくなる。永遠を与えられた人類は、おそらく、退屈しだすだろう。だが、エンターテイメントは、それこそ、永遠の時間と、無限のリソース(過去の知識や技術に、だれでもダイレクトにアクセスできる)によって、いくらでも生み出されるのだ。「死」という概念も超越した今、誰もが生死を分けた戦いを行うこともできる。たとえ、その刺激によってデータが破損したとしても(死)、バックアップによって意識をよみがえらせることができるのだ。それは、眠りについて、夢の中で死んで、そして冷や汗でびっしょりになりながら目が覚めるのと同じだ。データが破損するぎりぎりの状態を、バックアップとして再起動するのだ。――だが、そこに、記憶の連続性はあるといえるのか。いや記憶は連続しているといえるだろう。だが、そこに生じる、自己は、同一なのだろうか。ここまでは創造上の話だが、僕らも、夜に寝て、目が覚めた時、はたして、それは同一の意識なのだろうか。昨日の自分は死に、そして、まったく同じ記憶データにアクセスできる、まったく新しい自分が生じているのではないか。つまり、眠りとは、「自己の死」なのではないか、と。そんなことを考えていると、わくわくもするし、怖くもなる。そんな感じの物語を描きたいのだけど、設定と、ストーリーとはまた全然違うので難しい。まず、新人類にスポットするのか、旧人類にスポットするのか。既存の人類ネットワークシステムを肯定するのか、否定するのか。とりあえず完璧なシステムなのだとしたら、もはや永遠に問題なく存続していくのだろうから、何の物語にもならない。とか思ったら、物語と設定の違いは、「事件性」なのかとも思った)
前書き
午前二時に踏み切りに望遠鏡を担いでいこうかと思った。眠れない。
昼夜逆転か。
日中帯の生産性が落ちることだろう。まずいな。栄養ドリンクで何とかバランスを取ろうか。
正義と、死について。
正義について
人を殺してはいけない、それは何故なのか。たくさんの答えがあるだろうが、その一つは、人類という種の存続に適切な行為ではないからだ。
社会のルールだからだ、といってもいい。
要するに、人を殺すことが許容される社会は、いつ殺されるか分からないということだ。
「何故だと? 殺し、奪うことが人間の性(さが)だからだ。貴様らこそ何故、人として生まれ、殺さない、奪わない!」
と悪役なら言うだろう。そういう社会において、「生産」が重要視されないことは明白だろう。
作っても、育てても、それを奪われる可能性が高いのならば、暴力、武力を蓄える方がよほど得になるだろう。
そうした社会が、人類の発展に適していないとされているから、人を殺してはいけないのである。――厳密にいえば、人を殺すことにルールがあるのである。
そのルールの源が、正義といわれる。
死について
我々は皆死ぬ。遅いか、早いかだけだ。
限りある人生の中で何をなすのか。何もなさないのか。
望んで生まれたわけではないかもしれない。
それでも、生得的に、我々は、生きることに執着するようにできている。
死がない世界
脳の機能をすべてマッピングできて、思考も感情も、記憶も、すべてが電子データとしてストックすることができるようになったら。僕らは、死という概念を超越するかもしれない。
肉体は時間経過とともに衰えていく。
頭、脳も同じく衰えていく。
アルツハイマーなど、脳の機能が萎縮すれば、いずれ記憶のアクセスができなくなり、自己は消える。
自己とは、記憶による、自我同一性によって立ち現れるものだからだ。
その衰えは、記憶を、電子データとして扱えるようになれば、止めることができる。サンプリング精度によっては、本来保持していた情報の欠落があるかもしれない。
しかし、有意味性を担保できる程度のサンプリングができれば、十分な意思疎通は可能となるだろう。音、は、周波数で表現されるが、人間の耳がとらえられる低周波・高周波の範囲外は、例え取得しなくても、結局聞こえる音は同一になるのだ。
記憶と思考
自我同一性は、記憶によるところだ。心理学的に、自己啓発的に、スピリチュアル的に、「いやなことは忘れましょう」とか「気にしすぎないようにしましょう」という方針は、正しくあろうとも、しかし、記憶の制御は、精神論でなせるものでもない。
記憶。
記憶があるから、僕は、僕として存在を認識できるのだ。
しかし、その記憶にアクセスする主体は何なのか。
それが思考――ないしは、感情である。
記憶をすべて、脳の海馬を含む大脳辺縁系から取り出せたとして、それだけでは、ただのデータに過ぎない。
思考や、感情といった機能を、どのように移行することができるのか。
桶の中の脳の思考実験。脳だけを取り出して、身体フィードバックがない状態で、そこに思考は生じるのか。
自己とは、かくも不思議な現象なのである。
脳機能のすべてを取り出せたとして
故に、仮定は、思考も感情も記憶も、すべて脳から取り出せるようになったとして、それが、人間が死を超越した瞬間になるだろう。データは、不死である。
ストレージ、データの保存機構が壊れない限り、永遠に残る。
そして、データの特徴は、バックアップ(データの移行)ができることだ。
技術的に可能であっても、思考が生じる仮定を保存するのに、現在の技術や物資では到底なしえないほど、カオスなデータ容量が必要であれば、それは不可能ということになる。
そのため、データ容量は、現実的に扱える容量であると仮定する。
そうしたとき、同一の思考や記憶をもつ人間を、コピーすることができるということになる。
もちろん、環境因子によって、同一の筐体と同一の中身(脳データ)をもつ人間であっても、その反応は異なることだろう。
自然(大地とか森林とかそういう意味の自然ではなく、すべての起きうること。森羅万象)はカオスなのである。自然を保存することはできない。
コピーが可能であれば、人の多様性は必要だろうか。
ましてや、人は今、不死となった。
リスクがあるとすれば、同一の機構をもつ脳データを破壊するマルウェア(コンピュータウイルス)であろう。
ディストピアかユートピアか
エネルギーの確保が優先される。電子データを機能させるには、電力が必要だ。
太陽光、地熱、風力、原子力、しかしそれらは、すべてオートメーション化されている。
人間はすべて、巨大な電子演算機の中に入っている。
クラウド化されネットワークによって繋がったデータベースは、もはやその特定の場所をもたない。必要に応じ、必要な量の思考が巨大なネットワークの中で行きかうのである。
その人類ネットワーク・システムの外的な、物理的な維持管理は、ロボットたちによって行われる。アーティフィシャル・インテリジェンスによって、新人類の制御もほとんど不要だが、イレギュラーが発生したときのために、新人類の思考によって、外部のインタフェースとして作業を行うことも可能になっている。
データ人類は、死ぬことがないため、その技術が発達してから、ますます増加していく。
旧来の土に還る思想をもつものや、既に脳機能に異常をきたしたもの以外は、自らの肉体を捨てて、人類ネットワークシステムの中に入っていった。
エネルギーは、電力だけである。
水も、食料も必要ない。
肉体がないのだから当然である。
インフラストラクチャーの優先度は、電力の確保が最優先となる。
だが、既存の交通、商業、工業などの必要性が低下するにつれて、電力の確保はそれほど難しいものでもなかった。
子どもたちは
少子化によって、既に、旧人類の生産人口は、ロボットを大きく下回っている。それでも、子供たちは、肉体を捨てることはできない。
人類ネットワークシステムに、成長はないのだ。
子供たちの世話や教育は、すべてロボットたちが行っている。大人たちはみな、人類ネットワークシステムの中に入っているのだ。
人格の形成が十分になされたとされる20歳程度で、人は人類ネットワークシステムの中に入るようになる。
これまでは、体が限界になったころ、死の直前に人類ネットワークに入ることが多かった。
時代が変わることで、肉体が十分に使える状態であったとしても、人類ネットワークに入ることが増える。何せ、もはや、肉体をもつ人類は不要なのだ。むしろ、資源を大量に消費することから、コストパフォーマンスが悪い。
脳機能マッピングが完全になされた後に、肉体は、目覚めることなく破棄される。
記憶の連続性
目が覚める。そこは、仮想世界が広がる。これまでの、荒廃しだした世界とは異なる、洗練され美しい世界。
すべては、脳機能に電気信号によって生じさせるバーチャルリアリティであるが、しかし、すでに肉体がない新人類にとっては、その世界こそが真実の世界である。
肉体は、破棄されなければならない。
さもなければ、「死」の恐怖に発狂してしまうだろう。
このネットワークの世界には、死は存在しない。永遠に、自由に、そして幸せに生きることができるのだ。
死もなければ、老いもない。
永遠の世界。理想郷。ユートピア。
新人類は、原人類の数をはるかに超越した。990億人。数年で、1000億を超えるだろう。
ストレージ容量は大丈夫だろうか。しかし、ここ数十年においては、新人類の増加も格段に緩やかになっている。新人類へ移行する原人類が、もはやほとんど存在しなくなったのである。
最後の原人類がいなくなったとき、人類という種の進化は完了するのだ。
殺人
すべてが満ち足りて、すべての娯楽が提供される世界において、犯罪など発生しない。スリルを味わいたければ、それを感じられる信号を受け取ればいい。
脳に与えるダイレクトな信号は、現実感を超越する。たいていは、その制御をおこなわなければいけない。強度を高めすぎると、「自己」「精神」は破損してしまう。
だが、破損したところで、その多くはバックアップによって保持されている。
故に、完全な殺人を行うためには、その「自己」に対するすべてのバックアップを破壊するということが必要だ。
しかし、自己のセキュリティ区画は、分散され、さらに厳重な機密として扱われているため、実効性は限りなく低い。
人が殺し、殺されるという、原人類の野蛮な習性は完全についえたのだ。ここに正義が完成した。
(かっこ書きである。あー、なんか、眠れずに、布団の中でもぞもぞしながら考えていたら、余計に眠れなかったが、2時間ぐらいしか布団に入っていないが、もういっそのことと思い、書き出した。物資に恵まれていれば、人は争わないのか、といえば、きっとそんなことはない。刺激も必要なのだ。セックスの快感や、生死をやり取りするスリルなど。だが、そのスリルなどの感覚も、すべて脳に対して、肉体の現実感以上に与えることができれば、人は人と争う理由がなくなる。永遠を与えられた人類は、おそらく、退屈しだすだろう。だが、エンターテイメントは、それこそ、永遠の時間と、無限のリソース(過去の知識や技術に、だれでもダイレクトにアクセスできる)によって、いくらでも生み出されるのだ。「死」という概念も超越した今、誰もが生死を分けた戦いを行うこともできる。たとえ、その刺激によってデータが破損したとしても(死)、バックアップによって意識をよみがえらせることができるのだ。それは、眠りについて、夢の中で死んで、そして冷や汗でびっしょりになりながら目が覚めるのと同じだ。データが破損するぎりぎりの状態を、バックアップとして再起動するのだ。――だが、そこに、記憶の連続性はあるといえるのか。いや記憶は連続しているといえるだろう。だが、そこに生じる、自己は、同一なのだろうか。ここまでは創造上の話だが、僕らも、夜に寝て、目が覚めた時、はたして、それは同一の意識なのだろうか。昨日の自分は死に、そして、まったく同じ記憶データにアクセスできる、まったく新しい自分が生じているのではないか。つまり、眠りとは、「自己の死」なのではないか、と。そんなことを考えていると、わくわくもするし、怖くもなる。そんな感じの物語を描きたいのだけど、設定と、ストーリーとはまた全然違うので難しい。まず、新人類にスポットするのか、旧人類にスポットするのか。既存の人類ネットワークシステムを肯定するのか、否定するのか。とりあえず完璧なシステムなのだとしたら、もはや永遠に問題なく存続していくのだろうから、何の物語にもならない。とか思ったら、物語と設定の違いは、「事件性」なのかとも思った)
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今日の一言「果たして書くことでどこまで冷静になれるか」
これは、鬱と換言してもよいと思う。
憂鬱な気分である。
気分が沈み込んでいる。やる気が起きない。モチベーションがない。動機を持てない。欲求がない。
生理的な、おなかがすいた、眠い、ぐらいは欲求があるかもしれない。しかしそれは、より動物的な、欲動といっていいものだろう。
人は何か、欲求があるから生きている。根源にあるのは、死にたくない、仲間を作りたい、知りたい、というものだろう。生得的な、遺伝情報を残そうとする意志。
まぁそんな次元のことを考えようというのではない。どうでもいい。分からないことは分からないのだ。
そんな曖昧なものではなく、いま、ここに生じている、このイライラをどうにかして対処し、より創造的な活動をするために何ができるのか、それを試みなければならないのだ。
しかし実際、僕が以前から書いているように、プライベートと仕事は、厳密に分けることは危険だし、あまり意味があることではない。
グレーゾーンとして通勤時間というものがある。または、会社に到着してから、始業開始時間までの間というのもある。サービス残業はこれからもっと規制されるだろうが、しかし、厳密に、就業のチャイムが(なる仕事場があるかどうか知らないが)なってから、すぐさま身支度をしている人がどれだけいるかも分からない。
ちなみに、今の職場は、そこのあたりはルーズである。
逆に、まぁ、それほど雰囲気は悪くないが、個人的に、「雑談」的なのがよくわからない自分としては、それ自体がストレスであったりする。
雑談ってのは、非常に面倒なものだ。だいっきらいだ。
その延長で、飲み会も嫌いだが、まぁしゃあない部分もある。
ある意味、仕事のためにメンバーのことを人間性を知るという意味で、飲み会などは重要だという感覚もあるため、そこまで毛嫌いするものとも思っていない。
だが、今の職場でより困るのは、相手にする人数が多いということだ。メンバーが多い、2桁以上である。
これ自体がストレスだ。
数人程度の協調関係を築くなら、「変人」の僕であっても、「マナー」によって関係を維持することはある程度できる。
いやむしろ、別に何人に増えようが、それは変わらない。
だが、それと、内面的なストレス・疲れとは別だ、というか、大いに関係がある。
……とそこまでではない。だが、基本的に、猜疑心が強い、とい言っていいだろう。
彼らはキラークイーンで最後まで殺し合うようです
http://gokumonan.blog87.fc2.com/blog-entry-7026.html
↑の「やらない子」氏、ほどではない……と信じたいが、まぁ似たようなものかもしれない。
いやどちらかというと、「ほむほむ」氏や「はるかちゃん」氏、のように、誰かに取り入らないといけないといったような脅迫観念なのかもしれない。
これはまぁ、過去にいじめられた経験なり失恋が原因だとか、トラウマ要因を挙げると、同情をかえるかもしれないが、正直、そこはどうでもいい――どうでもいいのかどうかはともかく、過去の原因はともかく、「信頼ベース」で人と付き合えないことは大分ハンデ、である。
一方で、「夜神月」氏や、「一条」氏や「やらない男」氏のように、頭がよければそれはそれで世の中を渡っていけるが、そこまでの能力もない変人は、目立った悪役にすらなれずに消えるMOBキャラである。
――という自己認識において、果たして、どうやって生きていけばいいのか。
非常に生きづらい世の中になるのは自明である。
早く死んだほうがいいんじゃないかと思っていた過去の自己認識は、あながちではなかったと、今思っても、同意見になるだろう。
もう、こんな毎日涙が出てくるような夜を過ごすなら、早く死んだほうが楽なんじゃないか……。
この感覚は、嘘、ではなかろうと思う。
ぶっちゃけ、〇もあるし、◎もいるし、●の関係もあるし、過去と比べると、今はパラダイスな条件がそろっていると思う。
しかし、財産があれば人は幸せか、というテーゼと同じように、得たものがあるとしても、その人にとって充足が得られるとは限らないのである。
ぶっちゃけ、組織も、人も、信じられていないのである。
それは、「裏切られた」ということではないのだ。
その「可能性」なのである。
特定の事象……が原因なのはそうだろうが、それだけではない。
人は、意味があれば、大抵の困難を乗り越えられる……といったのはニーチェ氏だったか。
それは確かに、と思う。
仕事の苦難も、その先に待つ出世なり、昇給なり、仕事の達成感なり、周囲の承認なり……なんらかの「意味」があれば、きっと乗り越えられるものなのだ。
それが、俺に、今の俺には何なのか分からない、そこに問題がある。
俺に、昇給なり、「褒め」なり、何かを提示しても、特にモチベーションにならないのだ。
こんなに扱いにくい人間はいないだろう。捨てた方がいい気がする……周囲のせっかく仲間で一丸となって頑張ろうといった雰囲気作りにも悪影響だ。
――ということも分かっている、だから、みんなのやる気をそがないように気を付ける必要もあるのである。
それは、正しいかもしれないが、不適切な対応だ。
そのあたりに、「誰かに頼る」という手段が、僕が選べない理由もある。
治療?
治療とは、異常な状態を、正常な状態へ戻すことだ。
つまり、正常な状態は、「みんな助け合って一丸となって困難へ対処していくこと」――要は仕事頑張って成果を上げましょうという状態である、畢竟するに。
その、いわゆる「正常」に対して、俺は疑念が尽きないのであって、であれば、いったいどこに着地点があるのか。わからない、わからない、わからない……となるのである。
何せ、先日、俺は、「変人である」と定義した。
これは危険な思考であることも重々承知の上でだ。
何せ、変であることを前提としたら、いわゆる一般的に「正しい道」とされているところは、俺にとって正しくもなんともない、ということになるのだから。
孤独な戦いにならざる得ないのである。――ましてや、こういう物言いがそもそも、独善的だとか、特権意識だとか、勘違い野郎だとか、中二病だとか言われるだけである。こじらせちゃんだ。
俺は……幸せになりたいのか。
不幸せになりたいのか。
否、そういった二項対立的な問いは、そもそも生きるベースの思考に一切役に立たないことは、これまでの経験上分かっている。それが問題なのではない。
生きるか死ぬかの問いは、まず、現状追認するしかないのである。
ぐだぐだと、思考が止まらない段階で、まずもって、「生きている」のであるから、「死ぬべきだ」という答えがあったとしても、それは既に選択されていないのである。
だから、「苦痛でありながらも生きるためにはどうするか」という問いになるのである。
早く死ぬべきである、という答えは、役に立たない。
しかし、多くの人間とかかわるほどにストレスは貯まる。
これが新たに分かったことかもしれない。
人間嫌い……という表現を、俺は「エラー」と考えているが、しかし、やっぱり、数年を経て巻き戻った感想になるのだろうが、やはり「人間嫌い」なのであろう。
金があまるほどあっても、デスゲームを主催したり、それに参加しようとは思わないだろう。それは、人命尊重という意思ではなくて、そもそも人との関りを可能な限り避けたいと思う心性がゆえにだろう。
一方で、ブログなどで自己の心情を書くのは何故か。これは、イライラ対処に他ならない。イライラ対処だが、そのうえで、やはり「仲間」は欲しているのだろう。それは、同思考の人を得たいというよりも、「こうした変人であっても居場所はあってもいいのではないか」ということだと思う。
決して剥がれない仮面をかぶった「天海春香」氏のことを、読者的には、「裏がある怖い奴」とみなすだろう。
それを人は「打算」と呼ぶだろう。
だが、仮面をはずすことで、「社会」ないし集団に求められないということが分かっていて、もっといえば、それがゆえにひどい目に合うとして、それでも仮面をはずすという選択肢が正解なのか。
仮面とか、打算とか、裏の顔とか、そういう表現をすれば気持ち悪いことだろう。
だが、社会でいうところの、「マナー」はそうじゃないのか?
営業スマイルは?
建前は?
組織としての方針は?
汚い大人たち、と表現されるそのすべての要因は、いわゆる「仮面」であろう。
ぶっちゃけ、誰もお前のことなんてそれほど気にしてはいない。
土曜日・日曜日に、俺の存在を考えていた人なんて、果たして世界に何人いるだろう。
10人はいないと思う。
いて数人だ。
某国大統領は、数十万人は思い浮かべるケースはあるかもしれない。それと比べて、お前の言動など、たいしたことではないのだ。気にしすぎだ。気にしなくていい。適当にやればいい。無理をするな。
仮に、気にしないで、適当に、自分の思うがまま仕事なりプライベートなりを過ごしたとしよう。
――気にしないということは、それは、欲求の否定でもある。
気になっているのだから気になるのである。
何故気になるとかというのは、上に書いてきたが、「いつか裏切られるのではないか」「役立たずと思われるのではないか」「失敗するのではないか」といった不安が原因だろう。
裏を返せば、そうなって欲しくない、という思いがあるのだ。
その思いが欲求なのだ。
その思いを否定する方法を進められたとき、「俺」という存在はどこに行くのか。
そもそも、この記事の冒頭に、「どうしたらモチベーションを回復できるのか」というのがあったのだ。
そのモチベーションを回避するような方法が、どうして採用できようか。矛盾。アンチノミー。
書いて、書いて、書いて、出がらしになるまで、いや出がらしで滓しかでなくなっても、それでも書き続けるしかないのである。
ところで、さらっと、まぁいずれ書いてもいいかなぁとも思っていたが、離婚の原因は、こういった俺の思考なんだろうとは思っていた。
まぁ、こんな変人をパートナーにしたいと思う稀有な人は、70億人の中にいないだろう(かっこ笑い)。
もっとまともな人はたくさんいるのだから、うん、是非そうした方がいいと思う。
思う――が、そういったことも理解できる人だと俺は、相手のことを少し見誤っていたのだろう。
だがそれは、健常な人も、日々の生活で時折訪れる「闇」というか、疲労程度のものだったのだ。俺の抱えるわだかまりレベルの人は、ほとんど存在しないのだ。ゼロ、とは言わない。それはさすがに傲慢だ。だが、たかだか数十年の人生で見つかる程度の確率ではないのだろうと。
そういうことを、先日の友人との一件で思ったのである。
だから、変人であることをまず認め、より今後も注意しようと、そう思ったのである。
いや、保身だ、保身なのだが、しかし、俺のわだかまりを話したところで、いったい誰にメリットがあるというのだ。無い。ふつーに過ごしていた方がいいだろう。当たり前のロジックなのだ。そして、当たり前を自分自身も分かってしまうがゆえに、逆にそれがつらい。
大学時代、たぶん、一番過ごした時間が長かった友人だと思う。
同じ学部で、家も近かったので、通学も一緒にしていた。
生活のことも、勉強のことも、将来のことも、いろいろ話していた。
そういう人に、変なことばっか言ってたよなぁ、と昔の感想を言っていただいた、というそういった件である。
別に、それに対して、その友人を恨んだりとか、そういう気持ちではない。いやむしろ、そういう風に、率直に感想を言ったりしてくれるところは、そういえば昔からありがたかったかもしれない。
だが、あぁ……そうだよなぁ、やっぱり、「日本語との意味としては通じても、感覚としてはちっとも伝わってないんだなぁ」と、そう思った一件ということだ。
話は通じるが、交渉にはならない、とか、言葉は通じるが、話にならない、とかそんな感じ。
俺は、いったい、どうやってこれから生きていけばいいのか。(早く死ね、というのは、上にも書いたが、選択肢として、今回の思考としては除外だ。正解かもしれないが、次元が違うのだ)
パワハラいじめ虐待虐殺事故孤児裏切り貶め……もっと大変な人たちは、いる。
そういう苦しんだ、苦しんできた、そういった人たちの話を聞いたり見たりすることで留飲を下げる――そういう方法もある。
大っ嫌いだ。
他者を羨んだり蔑んだり、他者を基準として生きることを、俺は良しとしない。
そこに正解はない。
たとえ、80歳の寿命で死ぬまでに、その生き方で不自由をしなくても、満足して死んでいった人たちが多いとしても、俺は絶対にそれはしたくない。
これは単に感覚の問題だ。
周りの人間よりも恵まれていたから、幸せな人生だった……なんて、くそくらえだ。
そんな欺瞞の中で死ぬぐらいなら、怨嗟と怨念のままに朽ち果てたほうがましだ。
(まぁ、物理的に痛いのは嫌だ。そのあたりの次元は脳内変換してほしい)
ガン×ソードとか、フルメタルパニックとかの、過去をリセットしてユートピアを創造する、という方法は、俺は認めない。「ばーか、ばーか」だ。
フランクル氏のいうとおり、人生は、唯一性と一回性があるからこそ、人生なのだ。意味があるのだ。
唯一性と一回性をなくして、人生に意味はない。
タイムワープ・タイムリープものの、シュタインズ・ゲートは、唯一性と一回性の否定ではないか? それを何故お前は好きだといったのか?
シュタインズ・ゲートは、時空ものでありながら、その唯一性・一回性を否定していない、むしろそれを特徴づけている。詳しくは、過去の俺のどっかで書いた記事参照だ。リンクを探す気分じゃない! ッ投稿後に思い出したらはるかもしれないっ!
ここまで60分ぐらいだ。ああ、まぁまぁ書いてきたなぁ。目が痛くなってきた。
うむ……、まぁ、その、少し収まったかな。だが完全ではない。むしろ、金曜日深夜に、めちゃくちゃイライラしながら書き綴って、いったん気持ちも落ち着いたと思うが、何もしない土日を過ごして、結局、完全解消はしなかったのである。だから、書き足りなかった……というよりも、問題解決に近づいていない、遊び、とか、逃避は、やはり何の意味もないのである。
風呂に入るか、散歩するか、それとも書くか。
それしかないのだ。
(かっこ書きである。難儀、な性格である。性格……なのか? 分からん。まぁ、思うに、「人に気に入られなくてはならない」というそういう強迫観念が、元凶の一つであるようには思う。それは承認欲求の枯渇なのかもしれない。ほんとは、仕事を辞めてもしばらくは失業手当(1年)で何とか生活できるだろう。それでも困窮したら生活保護が受給できるだろう。いろいろ批判にさらされる社会保障制度だが、使えない奴は今すぐ死ね的には、とりあえず、建前上はなっていない。だから、本当は、みながのびのび、自分の力を遺憾なく発揮していったら、もっと生産性もあがって、残業も少なくなって、幸せな社会になるんじゃないかなぁ……というのは日和見である。人間は、汚い。そう上手くいかないようにできているのだ。さもなければ、原人からの500万年間だか、文明の4000年+2000年からのだか、近代の400年前からだか、いつから数えるかは分からないが、ユートピアが成立していないのは不自然である。いい人もいる。悪い人もいる。変な人もいる。だが、その多くは、揺らぎがある中間人なのである。人は、「信念をもて」とか言いつつも、その信念に殉じれるほど強い人たちだけではないのだ。その信念を抱き、行動し続ける人だけが成功する(運だけでのし上がる人もいるだろうが、そういうのは、物語構造上は失敗したり、かませ犬になる)。そういう意味で、上の記事で書いた、「人間嫌い」という表現が、実はやっぱり、エラーなのだと思っている。エラー(=悪い人ばかりではない)なのだろうが、逆に俺が怖いのは、その揺らぎ、中間さ、なのである。安定などない。不安定の中に、そのリスク事態を楽しむかのように、人は生きているのである。一方で、文明は、そのリスクを軽減しようとシステムを構築している。だが、その安全性への希求と、人間本来の揺らぎとのギャップが、不自然さを醸し出している。――と、僕は思う。思い、そして、それが不安なのだ。なーってことを言っても、分かってくれる人は中々いないのだ、ということを、再認識すべきだ。だが、きっと、今回の記事においても、部分、部分においては、納得してくれる人がいるかもしれない。だが、一通りこうやって、ひとまとまりで「言う」「話す」「しゃべる」ことは、実際は不可能なのであって、そうすると、センセーショナルな表現にどうしても引きずられて、「こいつやべえ」となって、危険視されて……あああ、だから、もう、おとなしくするしかないのだが、それがストレスであって、俺は一体どうすれば……そう、だから書かなきゃなんねーんだ、ということで、ループの中でイライラが増幅されて、はて、どうしたらいいのだろう、風呂でも入ろう、勉強でもしよう、解決できなければ、対処するしかないのだ。感冒(風邪)は治せないが、症状を緩和することはできるのだ)
前書き
得体のしれないイライラというものをご存じだろうか。これは、鬱と換言してもよいと思う。
憂鬱な気分である。
気分が沈み込んでいる。やる気が起きない。モチベーションがない。動機を持てない。欲求がない。
生理的な、おなかがすいた、眠い、ぐらいは欲求があるかもしれない。しかしそれは、より動物的な、欲動といっていいものだろう。
人は何か、欲求があるから生きている。根源にあるのは、死にたくない、仲間を作りたい、知りたい、というものだろう。生得的な、遺伝情報を残そうとする意志。
まぁそんな次元のことを考えようというのではない。どうでもいい。分からないことは分からないのだ。
そんな曖昧なものではなく、いま、ここに生じている、このイライラをどうにかして対処し、より創造的な活動をするために何ができるのか、それを試みなければならないのだ。
イライラの根源
プライベート、仕事、このどちらかにまずは分けられるだろう。しかし実際、僕が以前から書いているように、プライベートと仕事は、厳密に分けることは危険だし、あまり意味があることではない。
グレーゾーンとして通勤時間というものがある。または、会社に到着してから、始業開始時間までの間というのもある。サービス残業はこれからもっと規制されるだろうが、しかし、厳密に、就業のチャイムが(なる仕事場があるかどうか知らないが)なってから、すぐさま身支度をしている人がどれだけいるかも分からない。
ちなみに、今の職場は、そこのあたりはルーズである。
逆に、まぁ、それほど雰囲気は悪くないが、個人的に、「雑談」的なのがよくわからない自分としては、それ自体がストレスであったりする。
雑談ってのは、非常に面倒なものだ。だいっきらいだ。
その延長で、飲み会も嫌いだが、まぁしゃあない部分もある。
ある意味、仕事のためにメンバーのことを人間性を知るという意味で、飲み会などは重要だという感覚もあるため、そこまで毛嫌いするものとも思っていない。
だが、今の職場でより困るのは、相手にする人数が多いということだ。メンバーが多い、2桁以上である。
これ自体がストレスだ。
数人程度の協調関係を築くなら、「変人」の僕であっても、「マナー」によって関係を維持することはある程度できる。
いやむしろ、別に何人に増えようが、それは変わらない。
だが、それと、内面的なストレス・疲れとは別だ、というか、大いに関係がある。
人に好かれなければいけないという強迫観念
裏切られる可能性。……とそこまでではない。だが、基本的に、猜疑心が強い、とい言っていいだろう。
彼らはキラークイーンで最後まで殺し合うようです
http://gokumonan.blog87.fc2.com/blog-entry-7026.html
↑の「やらない子」氏、ほどではない……と信じたいが、まぁ似たようなものかもしれない。
いやどちらかというと、「ほむほむ」氏や「はるかちゃん」氏、のように、誰かに取り入らないといけないといったような脅迫観念なのかもしれない。
これはまぁ、過去にいじめられた経験なり失恋が原因だとか、トラウマ要因を挙げると、同情をかえるかもしれないが、正直、そこはどうでもいい――どうでもいいのかどうかはともかく、過去の原因はともかく、「信頼ベース」で人と付き合えないことは大分ハンデ、である。
一方で、「夜神月」氏や、「一条」氏や「やらない男」氏のように、頭がよければそれはそれで世の中を渡っていけるが、そこまでの能力もない変人は、目立った悪役にすらなれずに消えるMOBキャラである。
――という自己認識において、果たして、どうやって生きていけばいいのか。
非常に生きづらい世の中になるのは自明である。
早く死んだほうがいいんじゃないかと思っていた過去の自己認識は、あながちではなかったと、今思っても、同意見になるだろう。
こんなつらい毎日が続くなら死んだ方がまし
今、僕は、過去を美化しているかもしれない。もう、こんな毎日涙が出てくるような夜を過ごすなら、早く死んだほうが楽なんじゃないか……。
この感覚は、嘘、ではなかろうと思う。
ぶっちゃけ、〇もあるし、◎もいるし、●の関係もあるし、過去と比べると、今はパラダイスな条件がそろっていると思う。
しかし、財産があれば人は幸せか、というテーゼと同じように、得たものがあるとしても、その人にとって充足が得られるとは限らないのである。
ぶっちゃけ、組織も、人も、信じられていないのである。
それは、「裏切られた」ということではないのだ。
その「可能性」なのである。
可能性への不信感
僕のイライラを表現するのは非常に難しい。特定の事象……が原因なのはそうだろうが、それだけではない。
人は、意味があれば、大抵の困難を乗り越えられる……といったのはニーチェ氏だったか。
それは確かに、と思う。
仕事の苦難も、その先に待つ出世なり、昇給なり、仕事の達成感なり、周囲の承認なり……なんらかの「意味」があれば、きっと乗り越えられるものなのだ。
それが、俺に、今の俺には何なのか分からない、そこに問題がある。
俺に、昇給なり、「褒め」なり、何かを提示しても、特にモチベーションにならないのだ。
こんなに扱いにくい人間はいないだろう。捨てた方がいい気がする……周囲のせっかく仲間で一丸となって頑張ろうといった雰囲気作りにも悪影響だ。
――ということも分かっている、だから、みんなのやる気をそがないように気を付ける必要もあるのである。
精神医学・心理学的には否となるかな
そんなこと気にせずに、自分を開示していきましょう――的な方針が、医学的・治療学的には提示されるのか。それは、正しいかもしれないが、不適切な対応だ。
そのあたりに、「誰かに頼る」という手段が、僕が選べない理由もある。
治療?
治療とは、異常な状態を、正常な状態へ戻すことだ。
つまり、正常な状態は、「みんな助け合って一丸となって困難へ対処していくこと」――要は仕事頑張って成果を上げましょうという状態である、畢竟するに。
その、いわゆる「正常」に対して、俺は疑念が尽きないのであって、であれば、いったいどこに着地点があるのか。わからない、わからない、わからない……となるのである。
何せ、先日、俺は、「変人である」と定義した。
これは危険な思考であることも重々承知の上でだ。
何せ、変であることを前提としたら、いわゆる一般的に「正しい道」とされているところは、俺にとって正しくもなんともない、ということになるのだから。
早く死ねや
以上……のようやことを思って、誰かに相談すれば、「変人や異常者は正常な社会において不要だから排除されるべき」ということになる。だから相談はできない。孤独な戦いにならざる得ないのである。――ましてや、こういう物言いがそもそも、独善的だとか、特権意識だとか、勘違い野郎だとか、中二病だとか言われるだけである。こじらせちゃんだ。
俺は……幸せになりたいのか。
不幸せになりたいのか。
否、そういった二項対立的な問いは、そもそも生きるベースの思考に一切役に立たないことは、これまでの経験上分かっている。それが問題なのではない。
生きるか死ぬかの問いは、まず、現状追認するしかないのである。
ぐだぐだと、思考が止まらない段階で、まずもって、「生きている」のであるから、「死ぬべきだ」という答えがあったとしても、それは既に選択されていないのである。
だから、「苦痛でありながらも生きるためにはどうするか」という問いになるのである。
早く死ぬべきである、という答えは、役に立たない。
仮面(ペルソナ)
楽しく生きる必要がある。しかし、多くの人間とかかわるほどにストレスは貯まる。
これが新たに分かったことかもしれない。
人間嫌い……という表現を、俺は「エラー」と考えているが、しかし、やっぱり、数年を経て巻き戻った感想になるのだろうが、やはり「人間嫌い」なのであろう。
金があまるほどあっても、デスゲームを主催したり、それに参加しようとは思わないだろう。それは、人命尊重という意思ではなくて、そもそも人との関りを可能な限り避けたいと思う心性がゆえにだろう。
一方で、ブログなどで自己の心情を書くのは何故か。これは、イライラ対処に他ならない。イライラ対処だが、そのうえで、やはり「仲間」は欲しているのだろう。それは、同思考の人を得たいというよりも、「こうした変人であっても居場所はあってもいいのではないか」ということだと思う。
決して剥がれない仮面をかぶった「天海春香」氏のことを、読者的には、「裏がある怖い奴」とみなすだろう。
それを人は「打算」と呼ぶだろう。
だが、仮面をはずすことで、「社会」ないし集団に求められないということが分かっていて、もっといえば、それがゆえにひどい目に合うとして、それでも仮面をはずすという選択肢が正解なのか。
仮面とか、打算とか、裏の顔とか、そういう表現をすれば気持ち悪いことだろう。
だが、社会でいうところの、「マナー」はそうじゃないのか?
営業スマイルは?
建前は?
組織としての方針は?
汚い大人たち、と表現されるそのすべての要因は、いわゆる「仮面」であろう。
気にしすぎ
とはいえ、俺が、少しばかり、敏感になりすぎているというのはあるだろう。ぶっちゃけ、誰もお前のことなんてそれほど気にしてはいない。
土曜日・日曜日に、俺の存在を考えていた人なんて、果たして世界に何人いるだろう。
10人はいないと思う。
いて数人だ。
某国大統領は、数十万人は思い浮かべるケースはあるかもしれない。それと比べて、お前の言動など、たいしたことではないのだ。気にしすぎだ。気にしなくていい。適当にやればいい。無理をするな。
問題はそれで終わらない
原因論として、俺が、敏感、HSP(ハイリーセンシティブパーソン、だったか)だろうが、それもあまり重要ではないのである。仮に、気にしないで、適当に、自分の思うがまま仕事なりプライベートなりを過ごしたとしよう。
――気にしないということは、それは、欲求の否定でもある。
気になっているのだから気になるのである。
何故気になるとかというのは、上に書いてきたが、「いつか裏切られるのではないか」「役立たずと思われるのではないか」「失敗するのではないか」といった不安が原因だろう。
裏を返せば、そうなって欲しくない、という思いがあるのだ。
その思いが欲求なのだ。
その思いを否定する方法を進められたとき、「俺」という存在はどこに行くのか。
そもそも、この記事の冒頭に、「どうしたらモチベーションを回復できるのか」というのがあったのだ。
そのモチベーションを回避するような方法が、どうして採用できようか。矛盾。アンチノミー。
解決策は書くことである
故に、最後の居場所であるここに、俺はひたすら書くしかないのである。書いて、書いて、書いて、出がらしになるまで、いや出がらしで滓しかでなくなっても、それでも書き続けるしかないのである。
ところで、さらっと、まぁいずれ書いてもいいかなぁとも思っていたが、離婚の原因は、こういった俺の思考なんだろうとは思っていた。
まぁ、こんな変人をパートナーにしたいと思う稀有な人は、70億人の中にいないだろう(かっこ笑い)。
もっとまともな人はたくさんいるのだから、うん、是非そうした方がいいと思う。
思う――が、そういったことも理解できる人だと俺は、相手のことを少し見誤っていたのだろう。
だがそれは、健常な人も、日々の生活で時折訪れる「闇」というか、疲労程度のものだったのだ。俺の抱えるわだかまりレベルの人は、ほとんど存在しないのだ。ゼロ、とは言わない。それはさすがに傲慢だ。だが、たかだか数十年の人生で見つかる程度の確率ではないのだろうと。
そういうことを、先日の友人との一件で思ったのである。
だから、変人であることをまず認め、より今後も注意しようと、そう思ったのである。
いや、保身だ、保身なのだが、しかし、俺のわだかまりを話したところで、いったい誰にメリットがあるというのだ。無い。ふつーに過ごしていた方がいいだろう。当たり前のロジックなのだ。そして、当たり前を自分自身も分かってしまうがゆえに、逆にそれがつらい。
友人との一件
もう少し、具体的に書いておこうか。今は割とセンセーショナルだったので覚えているが、それもしばらくしたら消えていきそうだ。大学時代、たぶん、一番過ごした時間が長かった友人だと思う。
同じ学部で、家も近かったので、通学も一緒にしていた。
生活のことも、勉強のことも、将来のことも、いろいろ話していた。
そういう人に、変なことばっか言ってたよなぁ、と昔の感想を言っていただいた、というそういった件である。
別に、それに対して、その友人を恨んだりとか、そういう気持ちではない。いやむしろ、そういう風に、率直に感想を言ったりしてくれるところは、そういえば昔からありがたかったかもしれない。
だが、あぁ……そうだよなぁ、やっぱり、「日本語との意味としては通じても、感覚としてはちっとも伝わってないんだなぁ」と、そう思った一件ということだ。
話は通じるが、交渉にはならない、とか、言葉は通じるが、話にならない、とかそんな感じ。
俺は、いったい、どうやってこれから生きていけばいいのか。(早く死ね、というのは、上にも書いたが、選択肢として、今回の思考としては除外だ。正解かもしれないが、次元が違うのだ)
嫌な方法だが一つある
あとは、その、イライラ解消の方法としては、俺が嫌いな方法だが、「比較」というのがある。パワハラいじめ虐待虐殺事故孤児裏切り貶め……もっと大変な人たちは、いる。
そういう苦しんだ、苦しんできた、そういった人たちの話を聞いたり見たりすることで留飲を下げる――そういう方法もある。
大っ嫌いだ。
他者を羨んだり蔑んだり、他者を基準として生きることを、俺は良しとしない。
そこに正解はない。
たとえ、80歳の寿命で死ぬまでに、その生き方で不自由をしなくても、満足して死んでいった人たちが多いとしても、俺は絶対にそれはしたくない。
これは単に感覚の問題だ。
周りの人間よりも恵まれていたから、幸せな人生だった……なんて、くそくらえだ。
そんな欺瞞の中で死ぬぐらいなら、怨嗟と怨念のままに朽ち果てたほうがましだ。
(まぁ、物理的に痛いのは嫌だ。そのあたりの次元は脳内変換してほしい)
ガン×ソードとか、フルメタルパニックとかの、過去をリセットしてユートピアを創造する、という方法は、俺は認めない。「ばーか、ばーか」だ。
フランクル氏のいうとおり、人生は、唯一性と一回性があるからこそ、人生なのだ。意味があるのだ。
唯一性と一回性をなくして、人生に意味はない。
タイムワープ・タイムリープものの、シュタインズ・ゲートは、唯一性と一回性の否定ではないか? それを何故お前は好きだといったのか?
シュタインズ・ゲートは、時空ものでありながら、その唯一性・一回性を否定していない、むしろそれを特徴づけている。詳しくは、過去の俺のどっかで書いた記事参照だ。リンクを探す気分じゃない! ッ投稿後に思い出したらはるかもしれないっ!
ここまで60分ぐらいだ。ああ、まぁまぁ書いてきたなぁ。目が痛くなってきた。
要はどうしようか
さて、この記事は、イライラ対処であるので、1時間ぐらいかけて、少しは気が収まったのだろうか。うむ……、まぁ、その、少し収まったかな。だが完全ではない。むしろ、金曜日深夜に、めちゃくちゃイライラしながら書き綴って、いったん気持ちも落ち着いたと思うが、何もしない土日を過ごして、結局、完全解消はしなかったのである。だから、書き足りなかった……というよりも、問題解決に近づいていない、遊び、とか、逃避は、やはり何の意味もないのである。
風呂に入るか、散歩するか、それとも書くか。
それしかないのだ。
(かっこ書きである。難儀、な性格である。性格……なのか? 分からん。まぁ、思うに、「人に気に入られなくてはならない」というそういう強迫観念が、元凶の一つであるようには思う。それは承認欲求の枯渇なのかもしれない。ほんとは、仕事を辞めてもしばらくは失業手当(1年)で何とか生活できるだろう。それでも困窮したら生活保護が受給できるだろう。いろいろ批判にさらされる社会保障制度だが、使えない奴は今すぐ死ね的には、とりあえず、建前上はなっていない。だから、本当は、みながのびのび、自分の力を遺憾なく発揮していったら、もっと生産性もあがって、残業も少なくなって、幸せな社会になるんじゃないかなぁ……というのは日和見である。人間は、汚い。そう上手くいかないようにできているのだ。さもなければ、原人からの500万年間だか、文明の4000年+2000年からのだか、近代の400年前からだか、いつから数えるかは分からないが、ユートピアが成立していないのは不自然である。いい人もいる。悪い人もいる。変な人もいる。だが、その多くは、揺らぎがある中間人なのである。人は、「信念をもて」とか言いつつも、その信念に殉じれるほど強い人たちだけではないのだ。その信念を抱き、行動し続ける人だけが成功する(運だけでのし上がる人もいるだろうが、そういうのは、物語構造上は失敗したり、かませ犬になる)。そういう意味で、上の記事で書いた、「人間嫌い」という表現が、実はやっぱり、エラーなのだと思っている。エラー(=悪い人ばかりではない)なのだろうが、逆に俺が怖いのは、その揺らぎ、中間さ、なのである。安定などない。不安定の中に、そのリスク事態を楽しむかのように、人は生きているのである。一方で、文明は、そのリスクを軽減しようとシステムを構築している。だが、その安全性への希求と、人間本来の揺らぎとのギャップが、不自然さを醸し出している。――と、僕は思う。思い、そして、それが不安なのだ。なーってことを言っても、分かってくれる人は中々いないのだ、ということを、再認識すべきだ。だが、きっと、今回の記事においても、部分、部分においては、納得してくれる人がいるかもしれない。だが、一通りこうやって、ひとまとまりで「言う」「話す」「しゃべる」ことは、実際は不可能なのであって、そうすると、センセーショナルな表現にどうしても引きずられて、「こいつやべえ」となって、危険視されて……あああ、だから、もう、おとなしくするしかないのだが、それがストレスであって、俺は一体どうすれば……そう、だから書かなきゃなんねーんだ、ということで、ループの中でイライラが増幅されて、はて、どうしたらいいのだろう、風呂でも入ろう、勉強でもしよう、解決できなければ、対処するしかないのだ。感冒(風邪)は治せないが、症状を緩和することはできるのだ)
今日の一言「仕事のモチベーションをあげたい」「イライラ対処」
長い、長かった。
身体が、だるかった。
今日とか、朝、ほんときつかった。休みたかった。電車に乗ってもずっと具合が悪かった。
会社について仕事を始めると、少し集中すると忘れられるといえばいえるが、しかし、時間の問題だった。
最近ブログリンクに追加した40代の管理職のこの方の記事が面白い。
何にもなれなかったって? お前、本気で何か目指したことあんのかよ。
http://delete-all.hatenablog.com/entry/2019/02/20/180000
ブラック企業で働いた経験もあるかたで、いろいろ壮絶な体験を、独特の文章で描かれていて面白いなと思った。
いや、さぼってないぞ。居眠りもしていない。
だが、楽しくない。
いや、楽しいつらいとかそういうことじゃなくて、気が落ち着かない。
周囲に気を使っている、というのもあるが、何もしていなくても疲れる。
いやほんと、見た目以上につかれているのだ。
疲れた……。しかし、文章でいくら疲れたという言葉を書こうが、意味がない。
コピペしてんのか、と言われてしまうだけだ。
疲れた、疲れた、疲れた、だるい……今僕は、左の内容をちゃんとタイピングしているが、読む場合に、まぁ繰り返しだとして読み飛ばすだろう。そういうもんだ。
なんかその、今日は、自分の確認ミスなのだが、他者の「そんなことしますか……」ということによって注意を受けた。怒られた、と書いてもいいかもしれない。ますます気持ちが沈む。
いや、仕事に気持ちなんて持ち込むな、という人もいるだろうし、俺なんて毎日叱責されてるぜがっはっは、という人もいるかもしれないが、俺は打たれ弱いのである。
いやほんと、なんか、それって意味があるのか……ということを思ってしまうのである。
(今回注意されたことに限らず、だ)
意味。
意味。
意味。
いや、例えば、教師という仕事が、無意味という人はいないだろう。だが、教師の仕事の中にも、それって子供のためになるの? ということはたくさんあると聞く。
会社だってそうだ。その仕事は、いったい誰のためなの、というものがたくさんある。
いやそもそも、その会社の存在自体が本当に必要なのか、というのもある。
俺は、インターネット通販サイト氏は残っていただきたいが、テレビ局氏は別に滅びても構わないと思っている(俺が使ってないからな)。
まぁその、資本主義とは、必要のない会社は淘汰されていくという「原則」がある。
が、実際そのとおりになっているかというと、なっていないというのが、みな、社会人の方々なら薄っすら分かっていると思う。
と、いうか、そこで、結局、僕のこのブログのテーマにたどり着くのだ(やや早急か)。
いやほんと、そういう問題提起からである。僕は最近、それを曖昧にしているのがよくないかもしれない。
某リンクの氏は、自身のブログの説明に、「早く死んでしまったほうがよいのではないか、とも思います」と書かれていた。一発、リンク対象になったことは言うまでもない。
いや、ここでいう「死」を字義どおりにとると、僕の過去の友人のように、「変なことばっかりいっている、人格崩壊者」としか思わなくなり、何ら話に感慨は生じないだろう。
別にすぐさま、人類が滅んでしまえ、と僕は言っているわけではないのである。
ないのだが、きっと、上の表現を経れば、大半の人はそういうイメージをするのだろう。いやするのである。大体、他者の思考というのが、ようやっと分かってきた。
いや、もう、まず、いったん、方向転換しようかな。それぐらい先日の友人との1件は衝撃的であった。
僕は、変わっている。
いや、方向転換というか、元に戻ったというだけでもある。
もともと、他者とのズレ、というのを感じがちだった。それがゆえに、変になったのかもしれないが、卵が先か後かはどうでもよくて、要するに、現状として俺は変なのである。
この、俺は変、ということから思考を始めると、いろいろ、弊害があるのも分かっているので、取り急ぎ、自分は「凡人」であることを前提に、ここ数年は頑張っていた。
ともかく、出発点を変、にしていいのではないか、という提案である。
提案。承認。
一瞬で認められた。自己決定がスピーディなのはいいことである。
まぁ、大きな契機にしたい、ということで、カテゴリを「イライラ対処」から「生きる意味」に変えておいた。
なんか、別に、だれかと仲良くしたいとか、やっぱり本質的に思ってないんだな、というのもある。
これは不思議なのである。
だって、物語とかで、友情とか、信頼とか、そういうテーマは嫌いじゃないのである。
それなのに、僕自身が、他者との付き合いにおいて、どうしてそれを求めないのか。
それは、現実だから求められないのである。
ああ、これから書くことも、別に新しいことじゃない気がした。気がするが、久しぶりに書く気がする。
要は、二次元(創作)だからこそ、そこに真実がある、と思えるのである。
キャラクターは創作物である。
それゆえに、「表裏がない」。
これは、原理的にないのだ。
つまり、腹黒い敵役であっても、主人公を裏切るライバルであっても、そこに「表裏」は無いのだ。
結果として主人公を裏切った奴は、もともと悪い奴、だったのだ。
逆に、現実存在の人間は、カオスなのである。
「裏切る」のではなく、「裏切るかもしれない」のだ。
その存在に真実性が宿るのは、ようやっと、死が訪れた時だけである。
死は、人の存在を固定化するのだ。
人を救ったまま死ねば、英雄になるのだ。
偉大な行いをしても、晩年失敗したら、その人はダメな奴になるのだ。
死によってしか、人は分からないのだ。
やはり、根底として、俺は人を信じていないのだろう。
こんなことを書くことが「エラー」であることは分かっているが、しかし、それでも書かなければならないのだ。
間違ったことを書いているのは、ほんと、わかっているんだ。
なーんのいいこともない。
誰が読んでも、不快になるようなことを書いているのである。自分にとってすらメリットは本来ないはずなのだ。
しかし、それでも、書かなければならない。
俺はゼロ秒にアウトプットしなければならないのだ。
さもなければ、時を経ずして、俺の精神は死ぬ。生きるために必要な叫びなのである。
まずもって、上のような内容は、恋人は愚か、家族にも言うべきではない。これは絶対だ。
いや本来。ふつーの人たちは、上のようなことを思わないのである。だから、「本音で語り合うことは大事だ」「思ったことを伝えるべきだ」「直接話すべきだ」とかいうアドバイスが存在するのである。
ふつーの人向けのアドバイスだ。
俺には一切役に立たない、ことを理解すべきだ。改めて、あらためて実感すべきだ。
(なぜなら、上に書いてきたとおり、俺は「変」だからだ)
つまるところ、世の自己啓発本とか、周囲の人との飲みニケーションとか、そういうのは俺が生きるのに役に立たない。
俺は、やはり、こうやって、俺自身で、俺が必要なことを探し続けていくしかないのである。
孤独な戦いで苦しいけれども、しかし、そうするべきなのだ。
(かっこ書きである。あーひどいことを書いたなぁと思う。だが、だいぶ、本音に近いというか、良かったんじゃあなかろうか。要するに、俺の周りの人たちがダメなのじゃないのだ。俺がいけないのだ。俺に責任があるのだ。――そのことは、逆に俺を少し、今、楽にしてくれた。くそったれ、と、少しモチベーションが生じた。いやそれは、「人に気に入られなければいけない」「気を使っていかなければいじめられる」という気負いを少し軽くしてくれたからだったのかもしれない。それは、やはり、俺は異常者であるのだと、認めてもよいと、自分の中で決断されたからなのだ。ここ数年、僕は、僕を「凡人」であるとしてきた。一般ピーポーだと。その意味に、何かを成し遂げられる能力、という意味を含めるとしたら、相も変わらず凡人なのだろうが、「精神」的な意味においては、僕はやはり変なのである。そうじゃなければ、どうしてこうも世界は生きづらいのか。モチベーションが上がらないのか。おかしい。「あー今日も疲れたなー」「仕事めんどくせーな」「あの上司のやつがよー」とか、凡人たちは、何故そうも言い続けながら生き続けられるのか。苦痛すぎる。なんやかんや、そういった平和をみな楽しんでいるのではないか。俺も、そういいながら、40代、50代になっていって、「いやぁ、若いときは血気盛んだったなぁ」って思うのだろうか。いや、思わない気がする。下手に凡人に合わせる作戦はやめだ。やっぱり俺には向いていない。――もうひとつ書いておこう。大学のころだったか、3年、4年生のときか? これまた別の友人を見習って「特に思考もせずに感覚的に生きていこう」として、ブログも日記も書かず、日々の中での生活に全力的に生きていったことも試したことがある。結局、上手くいかなかった。「感覚的に」といっても、その感覚を生じさせる欲求が欠如していったのだ。それに、現代社会に理性的な生き方は必要不可欠でもある。それを感覚的にやってのけることができる人もいるんだろうが、俺には無理だった。思考によって行動を検討しなければ、「普通」になれないのである。それでも、普通に生きることが大事だと思った。そうすることが一番コスパがいい、ことだと思った。否。否定しよう。俺は、俺独自のやり方を編み出さなければ、この先も未来はない。――っと、最後の文字を、小指でエンターキーで、タッーン、とした時点で、23:57だった。もう数分まって、予定通り、ルーチン土曜日更新ということにしておこう。とにかくここまで読んでくださった皆さん(または未来の自分さん)、一週間お疲れさまでした)
前書き
よし。一週間が終わった。長い、長かった。
身体が、だるかった。
今日とか、朝、ほんときつかった。休みたかった。電車に乗ってもずっと具合が悪かった。
会社について仕事を始めると、少し集中すると忘れられるといえばいえるが、しかし、時間の問題だった。
最近ブログリンクに追加した40代の管理職のこの方の記事が面白い。
何にもなれなかったって? お前、本気で何か目指したことあんのかよ。
http://delete-all.hatenablog.com/entry/2019/02/20/180000
ブラック企業で働いた経験もあるかたで、いろいろ壮絶な体験を、独特の文章で描かれていて面白いなと思った。
ルーチン更新として扱う
多分、24時近くになると思うから、この記事を土曜日のルーチン更新として扱うよ。土曜日に書けるか、ちょっと分からないからな。仕事のモチベーションを高めたい
いやー、やる気が起きない。いや、さぼってないぞ。居眠りもしていない。
だが、楽しくない。
いや、楽しいつらいとかそういうことじゃなくて、気が落ち着かない。
周囲に気を使っている、というのもあるが、何もしていなくても疲れる。
いやほんと、見た目以上につかれているのだ。
疲れた……。しかし、文章でいくら疲れたという言葉を書こうが、意味がない。
コピペしてんのか、と言われてしまうだけだ。
疲れた、疲れた、疲れた、だるい……今僕は、左の内容をちゃんとタイピングしているが、読む場合に、まぁ繰り返しだとして読み飛ばすだろう。そういうもんだ。
なんかその、今日は、自分の確認ミスなのだが、他者の「そんなことしますか……」ということによって注意を受けた。怒られた、と書いてもいいかもしれない。ますます気持ちが沈む。
いや、仕事に気持ちなんて持ち込むな、という人もいるだろうし、俺なんて毎日叱責されてるぜがっはっは、という人もいるかもしれないが、俺は打たれ弱いのである。
問題の本質はそこではない
まぁ、怒られることも、別に構わないのだ、それが大事なことだったりしたら、逆に「ありがとうございます!」って感じかもしれない。いやほんと、なんか、それって意味があるのか……ということを思ってしまうのである。
(今回注意されたことに限らず、だ)
意味。
意味。
意味。
いや、例えば、教師という仕事が、無意味という人はいないだろう。だが、教師の仕事の中にも、それって子供のためになるの? ということはたくさんあると聞く。
会社だってそうだ。その仕事は、いったい誰のためなの、というものがたくさんある。
いやそもそも、その会社の存在自体が本当に必要なのか、というのもある。
俺は、インターネット通販サイト氏は残っていただきたいが、テレビ局氏は別に滅びても構わないと思っている(俺が使ってないからな)。
まぁその、資本主義とは、必要のない会社は淘汰されていくという「原則」がある。
が、実際そのとおりになっているかというと、なっていないというのが、みな、社会人の方々なら薄っすら分かっていると思う。
と、いうか、そこで、結局、僕のこのブログのテーマにたどり着くのだ(やや早急か)。
価値
人間存在に価値があるのか。いやほんと、そういう問題提起からである。僕は最近、それを曖昧にしているのがよくないかもしれない。
某リンクの氏は、自身のブログの説明に、「早く死んでしまったほうがよいのではないか、とも思います」と書かれていた。一発、リンク対象になったことは言うまでもない。
いや、ここでいう「死」を字義どおりにとると、僕の過去の友人のように、「変なことばっかりいっている、人格崩壊者」としか思わなくなり、何ら話に感慨は生じないだろう。
別にすぐさま、人類が滅んでしまえ、と僕は言っているわけではないのである。
ないのだが、きっと、上の表現を経れば、大半の人はそういうイメージをするのだろう。いやするのである。大体、他者の思考というのが、ようやっと分かってきた。
いや、もう、まず、いったん、方向転換しようかな。それぐらい先日の友人との1件は衝撃的であった。
僕は、変わっている。
いや、方向転換というか、元に戻ったというだけでもある。
もともと、他者とのズレ、というのを感じがちだった。それがゆえに、変になったのかもしれないが、卵が先か後かはどうでもよくて、要するに、現状として俺は変なのである。
この、俺は変、ということから思考を始めると、いろいろ、弊害があるのも分かっているので、取り急ぎ、自分は「凡人」であることを前提に、ここ数年は頑張っていた。
変人としての生き方
変だから、正常になるのか、変を貫くのか、まぁ、それは課題である。ともかく、出発点を変、にしていいのではないか、という提案である。
提案。承認。
一瞬で認められた。自己決定がスピーディなのはいいことである。
まぁ、大きな契機にしたい、ということで、カテゴリを「イライラ対処」から「生きる意味」に変えておいた。
仕事の話じゃなかったか
ああ、そうそう。仕事のモチベーションの話である。なんか、別に、だれかと仲良くしたいとか、やっぱり本質的に思ってないんだな、というのもある。
これは不思議なのである。
だって、物語とかで、友情とか、信頼とか、そういうテーマは嫌いじゃないのである。
それなのに、僕自身が、他者との付き合いにおいて、どうしてそれを求めないのか。
それは、現実だから求められないのである。
ああ、これから書くことも、別に新しいことじゃない気がした。気がするが、久しぶりに書く気がする。
要は、二次元(創作)だからこそ、そこに真実がある、と思えるのである。
キャラクターは創作物である。
それゆえに、「表裏がない」。
これは、原理的にないのだ。
つまり、腹黒い敵役であっても、主人公を裏切るライバルであっても、そこに「表裏」は無いのだ。
結果として主人公を裏切った奴は、もともと悪い奴、だったのだ。
逆に、現実存在の人間は、カオスなのである。
「裏切る」のではなく、「裏切るかもしれない」のだ。
その存在に真実性が宿るのは、ようやっと、死が訪れた時だけである。
死は、人の存在を固定化するのだ。
人を救ったまま死ねば、英雄になるのだ。
偉大な行いをしても、晩年失敗したら、その人はダメな奴になるのだ。
死によってしか、人は分からないのだ。
だから人付き合いは面倒
そうなんだなぁ……。やはり、根底として、俺は人を信じていないのだろう。
こんなことを書くことが「エラー」であることは分かっているが、しかし、それでも書かなければならないのだ。
間違ったことを書いているのは、ほんと、わかっているんだ。
なーんのいいこともない。
誰が読んでも、不快になるようなことを書いているのである。自分にとってすらメリットは本来ないはずなのだ。
しかし、それでも、書かなければならない。
俺はゼロ秒にアウトプットしなければならないのだ。
さもなければ、時を経ずして、俺の精神は死ぬ。生きるために必要な叫びなのである。
恋人の必要性
恋人はいたほうがいい……ということを、帰りながら考えていたのだが、だんだん、違う方向であることが分かってきた。まずもって、上のような内容は、恋人は愚か、家族にも言うべきではない。これは絶対だ。
いや本来。ふつーの人たちは、上のようなことを思わないのである。だから、「本音で語り合うことは大事だ」「思ったことを伝えるべきだ」「直接話すべきだ」とかいうアドバイスが存在するのである。
ふつーの人向けのアドバイスだ。
俺には一切役に立たない、ことを理解すべきだ。改めて、あらためて実感すべきだ。
(なぜなら、上に書いてきたとおり、俺は「変」だからだ)
つまるところ、世の自己啓発本とか、周囲の人との飲みニケーションとか、そういうのは俺が生きるのに役に立たない。
俺は、やはり、こうやって、俺自身で、俺が必要なことを探し続けていくしかないのである。
孤独な戦いで苦しいけれども、しかし、そうするべきなのだ。
(かっこ書きである。あーひどいことを書いたなぁと思う。だが、だいぶ、本音に近いというか、良かったんじゃあなかろうか。要するに、俺の周りの人たちがダメなのじゃないのだ。俺がいけないのだ。俺に責任があるのだ。――そのことは、逆に俺を少し、今、楽にしてくれた。くそったれ、と、少しモチベーションが生じた。いやそれは、「人に気に入られなければいけない」「気を使っていかなければいじめられる」という気負いを少し軽くしてくれたからだったのかもしれない。それは、やはり、俺は異常者であるのだと、認めてもよいと、自分の中で決断されたからなのだ。ここ数年、僕は、僕を「凡人」であるとしてきた。一般ピーポーだと。その意味に、何かを成し遂げられる能力、という意味を含めるとしたら、相も変わらず凡人なのだろうが、「精神」的な意味においては、僕はやはり変なのである。そうじゃなければ、どうしてこうも世界は生きづらいのか。モチベーションが上がらないのか。おかしい。「あー今日も疲れたなー」「仕事めんどくせーな」「あの上司のやつがよー」とか、凡人たちは、何故そうも言い続けながら生き続けられるのか。苦痛すぎる。なんやかんや、そういった平和をみな楽しんでいるのではないか。俺も、そういいながら、40代、50代になっていって、「いやぁ、若いときは血気盛んだったなぁ」って思うのだろうか。いや、思わない気がする。下手に凡人に合わせる作戦はやめだ。やっぱり俺には向いていない。――もうひとつ書いておこう。大学のころだったか、3年、4年生のときか? これまた別の友人を見習って「特に思考もせずに感覚的に生きていこう」として、ブログも日記も書かず、日々の中での生活に全力的に生きていったことも試したことがある。結局、上手くいかなかった。「感覚的に」といっても、その感覚を生じさせる欲求が欠如していったのだ。それに、現代社会に理性的な生き方は必要不可欠でもある。それを感覚的にやってのけることができる人もいるんだろうが、俺には無理だった。思考によって行動を検討しなければ、「普通」になれないのである。それでも、普通に生きることが大事だと思った。そうすることが一番コスパがいい、ことだと思った。否。否定しよう。俺は、俺独自のやり方を編み出さなければ、この先も未来はない。――っと、最後の文字を、小指でエンターキーで、タッーン、とした時点で、23:57だった。もう数分まって、予定通り、ルーチン土曜日更新ということにしておこう。とにかくここまで読んでくださった皆さん(または未来の自分さん)、一週間お疲れさまでした)
今日の一言「ようやく身体の具合がよくなってきた」「油断すると悪化するかも」
最近身体がだるい。
これは、風邪のせいもあるんだろうけれども、疲れやすくなっている気がする。
土日とかでかけると、ものすげー疲れる。出かけるっていっても、買い物に行くレベルでもだ。
せいぜい、4時間ぐらいがちょうど楽しめるぐらいな気がする。
それ以上になってくると、だるい。倦怠感。疲れる。
おじいさまになってしまったのか。
いろいろと悩んで決断して行動したことがあったとして、その結果に対してどんだけ時間を割いたかはあまり重要ではない。
仕事のことでいくと、問い合わせの内容について、先週ぐらいから聞かれていることがあって、他の仕事をしつつも考えて、調べて、家に帰ってからも調べたり、休日も悩んだりしていたことがあった。
今日、それについて説明を行い、予想通り15分以上議論になったが、それでも最後は納得してもらえた。色々とありがとうございました、とお礼もいっていただけた。
が。
そういったことも、ぶっちゃけ、1年後には、今日ここで書かなければ、もう忘れ去っていたことだろうと思う。
どんだけ悩んだかとか、そんなことさっぱり、全然、僕自身も分からないのである。
もっといえば、それを、周りの人とか、上司とか、分かるはずがない。
そういうもんを評価してほしいというのは、エスパーかって話である。
でも、俺は、ないリソース(知識とか頭の悪さ)の中で、「がんばった」のである。
大変だったのである。
でも、そんな大変さなんて、誰もわかっちゃあくれないのである。
まぁ、月並みにはそういうアドバイスになるだろう。
いや実際見てくれている人はいるかもしれない。まさに、その問い合わせをした方は、感謝してくれたのだろう。
でも、その人は来年退職するかもしれない。異動になるかもしれない。
とかって、打算的だが、考えていったとき、いったい何になるんかという気持ちになる。
打算的な人間なのだ。
見返りを要求する人間なのだ。
器の小さい人間なのだ。
――と、自己卑下したところで、なんの意味もない。
解決すべきは、「がんばらない」ことである。
楽しく調べて、楽しく悩んで、楽しく対応すれば、それでいいのである。
そうしないと逆に、人は、「やってやったぜ」感がある人を倦厭するのである。
恩着せがましい人は嫌われる。
イライラ対処として、ブログに書きなぐる、という方法もあるけれども、最近、聞く、という方法でもある程度おさまるなぁとも思った。
むしろ、そうなってくると余計に、身体の疲れというか、だるさが気になってくるわけであるが……。
役に立つコーナーじゃあないが、ある程度、思考プロセスだったり、新しい情報がある記事のほうが、間違いなく後から読んでも面白い。まぁ当たり前か。
当たり前だが、意識的にそういうのを盛り込もうとしたほうがいい気がする(まぁ、意識しないで、本当に自分が興味をもったことを書いているから面白い、というのはあるかもしれないが)。
――という、上の、「かっこがき」的なのも、絶対あったほうがいい。
かっこ書きは、自分の中ではもう当たり前的な感じなんだが、補足しておこーかな、というレベルのことだったりするが、それでも、数年たつともう分からなくなる。ので必要だ。
面白かった。3話で終わりなのか。道理で展開が早いと思った。展開が早い、というか、映画的なシナリオ展開だなぁと思ったら、やっぱりそうだった。
あと、映像がやたらきれいだな、と思ったら、それもまぁ劇場版だからか。
最近みた作品が、けもふれ2なため、ああ、やっぱり最近のアニメーションはクオリティ高いんだなぁと思いなおした(かっこ笑い)。
いや、けもフレ2に関しては、いい経験をしたと思った。というのは、以下の検証ニコ動がめちゃくちゃ面白かったからだ。これを体験するためには、まぁまず、けもフレ2をいったん見る必要があるだろう。
地獄編
https://www.nicovideo.jp/watch/sm34923907
外典
https://www.nicovideo.jp/watch/sm35010809
聖典
https://www.nicovideo.jp/watch/sm35119274
まぁまぁ長い、20分ぐらい、だが、全部みてしまった。いやー面白い。相当神話とか聖書とか天使とか悪魔とかに詳しい人が作ったんだなぁと思った。複数人で作ったとしてもクオリティ高いと思うし、一人で作り上げたとしたら、その才能に嫉妬である。
ああ、そうだ、カバネリの話だ。
うーむ、しかし、きれいだった、面白かったと、小学生なみ感想しかないな。
きれいにまとまり過ぎていて、やや物足りなさはあるものの、お茶の間にみるにはちょうどよかった気がする。
ああ……と思って、気づいたが、やはり、最近、物語成分が足りてないのも、だるさが関係するんじゃなかろうか。
ほんと、人格変わるぐらいに感動する物語に触れたい。
とか言うやつはつまんねぇ。
いやぁ、そうかもしんねぇけどさぁ。
最近の体験から書かせてもらえば、真剣に話をしていた相手に、その自分の考えや感情などが、ちっとも伝わりもしていなかったと(いや実際ある程度理解はしてもらっていたのかもしれない、が、それは結局道を通り過ぎる人に話しかけられた程度なのだ)思ったときの落胆度。
部活等でくそむかつくやつにイジメられて不愉快な思いをし続けた苛々。
一生一緒にいてくれやとかいいつつ離婚。
仕事での濡れ衣。
とか、まぁ、70億人中たいしたことはないが、それなりにドラマチックといってもいいと思う(自分の中では)。
そういったクソつまんねぇことを乗り越えて、今こうしてブログを書けているというのは、まぁもうそりゃあもう、ねぇ、あなた、奇跡的なことで、物語でいうハッピーエンドじゃあないんでしょうかねぇ。
なんて思うか!! ボケ! 〇ね!!
――って、2017年も、文脈は違えど同じようなことを言っていた(かっこ笑い)。成長してないなぁ。
(かっこ書きである。まともに思考はできないが、とにかく、記事は30分以上の時間を確保しつつ、書いていこう、そして音読もセットで行う。書かないとダメだ。書かないと、身体はともかく、思考が……というか、精神が、死ぬ。とはいえ、身体の状態も当然ながらセットで考えないといかんがな。いやほんと、過去ログには負けねえぜ、というのは、珍しくモチベーションになる事象である。いやもちろん、欲動、欲求、欲望レベルの、「〇〇したい」というのはあるが、本当に内発的に爆発的に拡大再生産的に生じる欲求は、これなのである。そういうことを書くと、「またご飯一緒に行きましょうね!」とか言ってくれたり、言ったりしたことが「嘘だゥッ!」になるかというと、そんなことないのである。欲求の段階性(次元・レベル)という感覚を、みな知らなさすぎるのである。いやそんなもん、他者のことで知りたかないだろう。そりゃそうだ、だから、対面コミュニケーションで全然重要視しようとは思わん。だからとりあえず、ラーメン食べたいというのも、書きたいというのも、同じレベルの欲求としてしか表現しないのである。だが、隔絶たる違いがあるのは、一度書いておく必要がある)
前書き
30分制限で書く!最近身体がだるい。
これは、風邪のせいもあるんだろうけれども、疲れやすくなっている気がする。
土日とかでかけると、ものすげー疲れる。出かけるっていっても、買い物に行くレベルでもだ。
せいぜい、4時間ぐらいがちょうど楽しめるぐらいな気がする。
それ以上になってくると、だるい。倦怠感。疲れる。
おじいさまになってしまったのか。
過去ログは大事
疲れている中でも、音読したこのブログ記事(以降「ログ」)を聞いていると、いろいろと思うところがある。いろいろと悩んで決断して行動したことがあったとして、その結果に対してどんだけ時間を割いたかはあまり重要ではない。
仕事のことでいくと、問い合わせの内容について、先週ぐらいから聞かれていることがあって、他の仕事をしつつも考えて、調べて、家に帰ってからも調べたり、休日も悩んだりしていたことがあった。
今日、それについて説明を行い、予想通り15分以上議論になったが、それでも最後は納得してもらえた。色々とありがとうございました、とお礼もいっていただけた。
が。
そういったことも、ぶっちゃけ、1年後には、今日ここで書かなければ、もう忘れ去っていたことだろうと思う。
どんだけ悩んだかとか、そんなことさっぱり、全然、僕自身も分からないのである。
もっといえば、それを、周りの人とか、上司とか、分かるはずがない。
そういうもんを評価してほしいというのは、エスパーかって話である。
でも、俺は、ないリソース(知識とか頭の悪さ)の中で、「がんばった」のである。
大変だったのである。
でも、そんな大変さなんて、誰もわかっちゃあくれないのである。
そういうことの繰り返し
いやいやでも、誰かはきっとみてくれているよ、と。まぁ、月並みにはそういうアドバイスになるだろう。
いや実際見てくれている人はいるかもしれない。まさに、その問い合わせをした方は、感謝してくれたのだろう。
でも、その人は来年退職するかもしれない。異動になるかもしれない。
とかって、打算的だが、考えていったとき、いったい何になるんかという気持ちになる。
打算的な人間なのだ。
見返りを要求する人間なのだ。
器の小さい人間なのだ。
――と、自己卑下したところで、なんの意味もない。
解決すべきは、「がんばらない」ことである。
楽しく調べて、楽しく悩んで、楽しく対応すれば、それでいいのである。
そうしないと逆に、人は、「やってやったぜ」感がある人を倦厭するのである。
恩着せがましい人は嫌われる。
悩め若人よ
まぁ、そんなむしゃくしゃした気分のときに(仕事を解決してもむしゃくしゃし、解決しなくてもむしゃくしゃし、常にむしゃくしゃしているではないか……ということには気づかないほうが良い)、過去ログを聞いていると、ああ、まぁ、そうだなぁ――しゃぁねえかなぁ、って、思ってくるのだ。落ち着くのだ。イライラ対処として、ブログに書きなぐる、という方法もあるけれども、最近、聞く、という方法でもある程度おさまるなぁとも思った。
むしろ、そうなってくると余計に、身体の疲れというか、だるさが気になってくるわけであるが……。
新しい情報がある記事は面白い
カラヴィンカ、という極楽に住む半人半鳥の美しい声で鳴く鳥のことが、2017年の記事で書いてあったが、もうすっかり忘れていたわ(かっこ笑い)。役に立つコーナーじゃあないが、ある程度、思考プロセスだったり、新しい情報がある記事のほうが、間違いなく後から読んでも面白い。まぁ当たり前か。
当たり前だが、意識的にそういうのを盛り込もうとしたほうがいい気がする(まぁ、意識しないで、本当に自分が興味をもったことを書いているから面白い、というのはあるかもしれないが)。
――という、上の、「かっこがき」的なのも、絶対あったほうがいい。
かっこ書きは、自分の中ではもう当たり前的な感じなんだが、補足しておこーかな、というレベルのことだったりするが、それでも、数年たつともう分からなくなる。ので必要だ。
カバネリ劇場版
おー。面白かった。3話で終わりなのか。道理で展開が早いと思った。展開が早い、というか、映画的なシナリオ展開だなぁと思ったら、やっぱりそうだった。
あと、映像がやたらきれいだな、と思ったら、それもまぁ劇場版だからか。
最近みた作品が、けもふれ2なため、ああ、やっぱり最近のアニメーションはクオリティ高いんだなぁと思いなおした(かっこ笑い)。
いや、けもフレ2に関しては、いい経験をしたと思った。というのは、以下の検証ニコ動がめちゃくちゃ面白かったからだ。これを体験するためには、まぁまず、けもフレ2をいったん見る必要があるだろう。
地獄編
https://www.nicovideo.jp/watch/sm34923907
外典
https://www.nicovideo.jp/watch/sm35010809
聖典
https://www.nicovideo.jp/watch/sm35119274
まぁまぁ長い、20分ぐらい、だが、全部みてしまった。いやー面白い。相当神話とか聖書とか天使とか悪魔とかに詳しい人が作ったんだなぁと思った。複数人で作ったとしてもクオリティ高いと思うし、一人で作り上げたとしたら、その才能に嫉妬である。
ああ、そうだ、カバネリの話だ。
うーむ、しかし、きれいだった、面白かったと、小学生なみ感想しかないな。
きれいにまとまり過ぎていて、やや物足りなさはあるものの、お茶の間にみるにはちょうどよかった気がする。
ああ……と思って、気づいたが、やはり、最近、物語成分が足りてないのも、だるさが関係するんじゃなかろうか。
ほんと、人格変わるぐらいに感動する物語に触れたい。
リアルで触れれば
人生という物語が最大の物語じゃ。とか言うやつはつまんねぇ。
いやぁ、そうかもしんねぇけどさぁ。
最近の体験から書かせてもらえば、真剣に話をしていた相手に、その自分の考えや感情などが、ちっとも伝わりもしていなかったと(いや実際ある程度理解はしてもらっていたのかもしれない、が、それは結局道を通り過ぎる人に話しかけられた程度なのだ)思ったときの落胆度。
部活等でくそむかつくやつにイジメられて不愉快な思いをし続けた苛々。
一生一緒にいてくれやとかいいつつ離婚。
仕事での濡れ衣。
とか、まぁ、70億人中たいしたことはないが、それなりにドラマチックといってもいいと思う(自分の中では)。
そういったクソつまんねぇことを乗り越えて、今こうしてブログを書けているというのは、まぁもうそりゃあもう、ねぇ、あなた、奇跡的なことで、物語でいうハッピーエンドじゃあないんでしょうかねぇ。
なんて思うか!! ボケ! 〇ね!!
――って、2017年も、文脈は違えど同じようなことを言っていた(かっこ笑い)。成長してないなぁ。
(かっこ書きである。まともに思考はできないが、とにかく、記事は30分以上の時間を確保しつつ、書いていこう、そして音読もセットで行う。書かないとダメだ。書かないと、身体はともかく、思考が……というか、精神が、死ぬ。とはいえ、身体の状態も当然ながらセットで考えないといかんがな。いやほんと、過去ログには負けねえぜ、というのは、珍しくモチベーションになる事象である。いやもちろん、欲動、欲求、欲望レベルの、「〇〇したい」というのはあるが、本当に内発的に爆発的に拡大再生産的に生じる欲求は、これなのである。そういうことを書くと、「またご飯一緒に行きましょうね!」とか言ってくれたり、言ったりしたことが「嘘だゥッ!」になるかというと、そんなことないのである。欲求の段階性(次元・レベル)という感覚を、みな知らなさすぎるのである。いやそんなもん、他者のことで知りたかないだろう。そりゃそうだ、だから、対面コミュニケーションで全然重要視しようとは思わん。だからとりあえず、ラーメン食べたいというのも、書きたいというのも、同じレベルの欲求としてしか表現しないのである。だが、隔絶たる違いがあるのは、一度書いておく必要がある)
今日の一言「できることは書くこと」
しかし、2017年の5月は、もっとたくさんの記事を書いている。
プライベートな生活環境の変化によって、ブログを書く機会があまり取れなくなった、と。
そういうこともあったのだな、ふーん、と。
他人事のように思う。ま、実際、他人事である。自分のことであっても、過去となれば他人事である。――というと、責任の放棄、ということになるが、因果に対する責はあろうが、「感情」における責任はない。その点――いわゆる過去にどのようなことがあろうが、今の自分がどのように感じるかは、どこまでいっても自由、なのだ。
それを考える前に、ひとつ直近のメモ。時系列が必ずしも現実と一致しているかというのは特に重要な点ではない――という意味は、たとえば、上の引用は2018年5月だが、それが4月末だろうが、6月初旬だろうが、記事の内容にとって大きな影響はないということだ。ましてや、その違いが1日、2日程度であれば尚更である。
メモ。
とある友人と思っていた人と話しをしているうちに、それほど友人ではなかったのだなぁということを感じた。
僕はまぁ、10数年前から、こんな変な思考であったわけであるが、できる限りあんまり表には出さないように気を付けてはいた。しかし、割かし、本音気味に話ができていた友人がいなかったわけではなかった。もっと違う観点から書けば、お付き合いしていた女性なども含めてもいい。
回りくどい書き方をせず、シンプルに書けば、まぁ、「人は何故生きるのか」みたいな哲学的テーマを、20代ぐらいから――もっといえば、小学4年生ぐらいから薄っすらともっていたわけであるが、まぁそういう話を時折する、みたいな、そんな相手がいた、ということである。
(ちなみに、今書きながら思い出したが、小学4年生のとき、当時親友と思っていた子に「自殺したいと思ったことある?」と問うて、「え、そんなことあるわけないじゃん(きもっ(=というのは僕の主観))」的な反応をされたこともあったなぁと。そう考えると別に初体験でもないか)
で、関西人ではないので、オチは特にないのだが、その、昔よく話をしていた友人と会って、「お前、変な話しばっかしてたよな~」みたいな感じだったと、そういうことだ。
いやー、今も昔もあんまし変わってないなぁあはは、みたいな流れの中で、別に悪意があったわけじゃないんだろうが、まぁその、割と本気で悩んでいた時期のことが、まぁその人にとって特段大きなことでもないのだと、そういうのがよくよく伝わってきて、その、個人的には哀しくなった。
要は、対面コミュニケーションに対しての信頼度の低さ、である。
要は、みんな、ポジティブなこと(役に立つこと、自分の気持ちを高まらせること)にしか興味がないのである。
――そりゃそうである。
大切な時間を、わけのわからねー話に付き合わされたらつまらない。
人生は有限だ。残された時間を何に使うか。無駄なことに使うか、有益なことに使うか、そりゃ有益なことに使うべきなのだ。
難しい問題である。
表の自分と裏の自分、というのがあるようなイメージでもある。そういうのは、一般的、には、忌避される。気持ち悪い、とされる。「裏がある人間」といわれると、怖い、イメージをもつのは当たり前だろう。
ただし。
誰かを見下さないと自己肯定感を保てない人とか、他者を害することに興奮を覚えるとか、そういうんじゃなければ、別にいいじゃないかと、個人的には思う。
俺はきっと、「いい人」ではないが、極悪人でもない気がする。
と、いうか、だ。
俺が、その、とある友人と話をしていたのは、「人間の利己的な面」という話でもあったはずだ。
人は己の欲求によって生きるのであって云々的な。いやそれが100%ではないにせよ、「そういう面もある」的な曖昧な部分においては、必ずしも外れてはいないと思うのである。そういう面にとらわれてしまって、すべての行動をしなくなったり、他者のすべての行動を打算的と考えるのは、それは確かに間違っているのだろうが、そういった面もあるのではないだろうか、という話は別にしても構わないだろう。
――いや、不要なのだ!
そういうのは、エンターテイメントの悪役などに任せておけばいいのだ。現実の会話において全くもって不要なのだ。
――でもでもしかし、僕という変な人間としては、その変なレベル(次元)の話じゃないと、本当は「会話して充実したぁぁっ!」って気にならない。
そこがストレスでもある。
何もしなくてもストレスといえる。
困ったもんだ。人と同じことを、同じ程度しかしてなくても、ストレス度が高いのは、不利だ。
楽しく会話するのが疲れる。
一人で映画見てアニメ見て読書してたい(ダメ人間)。
そうか、俺はダメ人間なのか。やはりそうだったのか。
(かっこ書きである。つらつら徒然、長くなってきたので強制中断だ! 書きたいこと、表現できているか分からない、分からない、分からないが、書くべきだ、ということだけは事実だ。2018年5月の引用記事、生活、仕事環境は全く違うが、しかし、言いたいこと、分かるぞ。分かるぞ、過去の自分くんよ。なんか、その、「一人じゃない」感、あっていい。過去の自分くんが、じゃあ、友達に欲しいかと問われると、別にいらないんじゃないかと思ったりもするが、しかし、「よき理解者」にはなれる気がする。共感できる人ではなる。うわぁ……気持ち悪さに拍車がかかってんなぁ。まぁ仕方がない。仕方がないと、割と素直に割り切れる点が、人間的成長のようにもとらえられなくもない、気もする。幸せになるにはどうしたらいいか、というのは、理想と現実の差異を極小にすればいいが、現実と自分の内面の表裏が一致していないと、一生幸せにはなれないのかもしれない。しかし、「現実」といったときに、その現実とは、付き合う周りの人や、物理的な環境(位置・所属)など様々な面を含み、そして可変である。そのような不確実な世界に対して、「自分」というのが常に一致し続ける、というのは、俺は無理なことだと思う。いやしかし、それが逆に幸せそのものなのだろうと思うが、だがそこに、「自分」というものは存在するのか、というのは疑義であろう。いやいやそもそも、「自分」というものが社会や組織において必要なのか、というのも、皆さんには一家言あるはずである。たぶん、いらないんじゃないかなぁというのはあると思う。そんな中、俺はきっと、「自分」を失わないようにしたいと思っているのだろう。それが破滅への道だろうとしても、人生の、その多くの時間をそこに費やしたのだから、その状態で何らかのリターンを得ようと感情的になっているだけかもしれない。ギャンブルをやらない僕が書くとリアリティがないが、ギャンブラーが損失分を取り戻そうとする感情のように(そうして大半はより大損する)。まぁその……ほんと、多くの人が、僕のその友人(ら)のように、表裏がない(感情と言動が一致している)のかなぁ、というのは、ほんと疑問なんだがな。疑問なんだが、そういう疑問を持つこと自体が、きっと、異常者なのであろう(彼らにとって。少なくても俺はそうは思わない。10年前の自分くんも、きっとそうは思っていなかったろう。まぁその、思っていなかったことが過去の自分の苦しみの根源だったのかもしれないが))。
前書き
2018年5月の記事など、1つしかない。全文引用。600いくらの文字数だ。改行や空白などを除去すると、上のようにコンパクトにまとまってしまうほどだ。生活環境が変わることによって、これほど文章を書かなくても自分がいられるのだと、これは驚きもある。気付くと、一人の時間が、僅かな電車内でしかないことに気付く。そして、一人の時間じゃなきゃ、ブログは書けない。書けなくはないはずだけど、書けないのだ、これはどうしても。平日は相も変わらず帰りが遅いし、休日も彼女と過ごしていると、書けない。別に、書かなくてもいいじゃないか。しかし、僕は、イライラしようが、楽しかろうが、このブログの、ある重大な問いを考えないことは、自分にとって負債を清算しない行為に感じられるのだ。なにかを失って、人はようやっと気付く。そんなものかもしれない。それが、いまわの際まで知らなければ、別にそれでもいいとも思う。でも、果たして、働くこと、生きることに、何があるのか。僕は、誰だったのか。これが人なのか、こういうのが人間なのか。まぁ、これでいいのか本当か? 俺は、本当に後悔しないのか? 問うているのか? 本当に? ともかく。セインの二巻を読了。面白かった。魔女王と、ダークヒーローのズァグ氏の謁見シーンに震えた。なんつー駆け引きだ。なまじ戦闘シーンなんかより、よっぽど熱い戦いだった。ああ、こう、現在の自分の力では及ばない中で、今あるリソースをギリギリで使い、自分よりも強く体制も磐石なものに向き合っていくってのは、やっぱりかっこいいものだな。が、しかし、今の俺は、そういった戦いに本当に辟易してしまっている。この先のみちしるべを感じられないでいる。どうしたらいいのか分からずに、日々、そして、流されていく。
しかし、2017年の5月は、もっとたくさんの記事を書いている。
プライベートな生活環境の変化によって、ブログを書く機会があまり取れなくなった、と。
そういうこともあったのだな、ふーん、と。
他人事のように思う。ま、実際、他人事である。自分のことであっても、過去となれば他人事である。――というと、責任の放棄、ということになるが、因果に対する責はあろうが、「感情」における責任はない。その点――いわゆる過去にどのようなことがあろうが、今の自分がどのように感じるかは、どこまでいっても自由、なのだ。
自己礼賛かっこ悪い
前書きが、前書きになっていない。この記事は、いったい何をいわんとする記事なのか。それを考える前に、ひとつ直近のメモ。時系列が必ずしも現実と一致しているかというのは特に重要な点ではない――という意味は、たとえば、上の引用は2018年5月だが、それが4月末だろうが、6月初旬だろうが、記事の内容にとって大きな影響はないということだ。ましてや、その違いが1日、2日程度であれば尚更である。
メモ。
とある友人と思っていた人と話しをしているうちに、それほど友人ではなかったのだなぁということを感じた。
僕はまぁ、10数年前から、こんな変な思考であったわけであるが、できる限りあんまり表には出さないように気を付けてはいた。しかし、割かし、本音気味に話ができていた友人がいなかったわけではなかった。もっと違う観点から書けば、お付き合いしていた女性なども含めてもいい。
回りくどい書き方をせず、シンプルに書けば、まぁ、「人は何故生きるのか」みたいな哲学的テーマを、20代ぐらいから――もっといえば、小学4年生ぐらいから薄っすらともっていたわけであるが、まぁそういう話を時折する、みたいな、そんな相手がいた、ということである。
(ちなみに、今書きながら思い出したが、小学4年生のとき、当時親友と思っていた子に「自殺したいと思ったことある?」と問うて、「え、そんなことあるわけないじゃん(きもっ(=というのは僕の主観))」的な反応をされたこともあったなぁと。そう考えると別に初体験でもないか)
で、関西人ではないので、オチは特にないのだが、その、昔よく話をしていた友人と会って、「お前、変な話しばっかしてたよな~」みたいな感じだったと、そういうことだ。
いやー、今も昔もあんまし変わってないなぁあはは、みたいな流れの中で、別に悪意があったわけじゃないんだろうが、まぁその、割と本気で悩んでいた時期のことが、まぁその人にとって特段大きなことでもないのだと、そういうのがよくよく伝わってきて、その、個人的には哀しくなった。
理解されなくてもいいや
先日いつぞやかの記事で、「ま、別に理解してもらいたいって気持ちも最近は特にないんスけどね」みたいな、痛いこと書いていた(――何故痛いかというと、そもそもそういうことをブログ的に書いているからである。本当に理解されたくないなら、何もそういう行動をしないはずだ、という論点から)が、そういったことを書きたくなる感情の原因って、上のような経験にもとづくのだなぁと思った。要は、対面コミュニケーションに対しての信頼度の低さ、である。
要は、みんな、ポジティブなこと(役に立つこと、自分の気持ちを高まらせること)にしか興味がないのである。
――そりゃそうである。
大切な時間を、わけのわからねー話に付き合わされたらつまらない。
人生は有限だ。残された時間を何に使うか。無駄なことに使うか、有益なことに使うか、そりゃ有益なことに使うべきなのだ。
どうでもいいや
ま、その、なんというか、このブログをリアルの人たちに教えることは、今後一切合切必要ないし、やめたほうがいいなと、――いままでも思っていたが、より強く思いましたとさ、という話でこの記事に目的は達成される。難しい問題である。
表の自分と裏の自分、というのがあるようなイメージでもある。そういうのは、一般的、には、忌避される。気持ち悪い、とされる。「裏がある人間」といわれると、怖い、イメージをもつのは当たり前だろう。
ただし。
誰かを見下さないと自己肯定感を保てない人とか、他者を害することに興奮を覚えるとか、そういうんじゃなければ、別にいいじゃないかと、個人的には思う。
俺はきっと、「いい人」ではないが、極悪人でもない気がする。
と、いうか、だ。
俺が、その、とある友人と話をしていたのは、「人間の利己的な面」という話でもあったはずだ。
人は己の欲求によって生きるのであって云々的な。いやそれが100%ではないにせよ、「そういう面もある」的な曖昧な部分においては、必ずしも外れてはいないと思うのである。そういう面にとらわれてしまって、すべての行動をしなくなったり、他者のすべての行動を打算的と考えるのは、それは確かに間違っているのだろうが、そういった面もあるのではないだろうか、という話は別にしても構わないだろう。
――いや、不要なのだ!
そういうのは、エンターテイメントの悪役などに任せておけばいいのだ。現実の会話において全くもって不要なのだ。
――でもでもしかし、僕という変な人間としては、その変なレベル(次元)の話じゃないと、本当は「会話して充実したぁぁっ!」って気にならない。
人といると疲れる
だから、なのか分からないが、やっぱり、他者との会話を綱渡り的に感じている面があるんだなとも思う。そこがストレスでもある。
何もしなくてもストレスといえる。
困ったもんだ。人と同じことを、同じ程度しかしてなくても、ストレス度が高いのは、不利だ。
楽しく会話するのが疲れる。
一人で映画見てアニメ見て読書してたい(ダメ人間)。
そうか、俺はダメ人間なのか。やはりそうだったのか。
(かっこ書きである。つらつら徒然、長くなってきたので強制中断だ! 書きたいこと、表現できているか分からない、分からない、分からないが、書くべきだ、ということだけは事実だ。2018年5月の引用記事、生活、仕事環境は全く違うが、しかし、言いたいこと、分かるぞ。分かるぞ、過去の自分くんよ。なんか、その、「一人じゃない」感、あっていい。過去の自分くんが、じゃあ、友達に欲しいかと問われると、別にいらないんじゃないかと思ったりもするが、しかし、「よき理解者」にはなれる気がする。共感できる人ではなる。うわぁ……気持ち悪さに拍車がかかってんなぁ。まぁ仕方がない。仕方がないと、割と素直に割り切れる点が、人間的成長のようにもとらえられなくもない、気もする。幸せになるにはどうしたらいいか、というのは、理想と現実の差異を極小にすればいいが、現実と自分の内面の表裏が一致していないと、一生幸せにはなれないのかもしれない。しかし、「現実」といったときに、その現実とは、付き合う周りの人や、物理的な環境(位置・所属)など様々な面を含み、そして可変である。そのような不確実な世界に対して、「自分」というのが常に一致し続ける、というのは、俺は無理なことだと思う。いやしかし、それが逆に幸せそのものなのだろうと思うが、だがそこに、「自分」というものは存在するのか、というのは疑義であろう。いやいやそもそも、「自分」というものが社会や組織において必要なのか、というのも、皆さんには一家言あるはずである。たぶん、いらないんじゃないかなぁというのはあると思う。そんな中、俺はきっと、「自分」を失わないようにしたいと思っているのだろう。それが破滅への道だろうとしても、人生の、その多くの時間をそこに費やしたのだから、その状態で何らかのリターンを得ようと感情的になっているだけかもしれない。ギャンブルをやらない僕が書くとリアリティがないが、ギャンブラーが損失分を取り戻そうとする感情のように(そうして大半はより大損する)。まぁその……ほんと、多くの人が、僕のその友人(ら)のように、表裏がない(感情と言動が一致している)のかなぁ、というのは、ほんと疑問なんだがな。疑問なんだが、そういう疑問を持つこと自体が、きっと、異常者なのであろう(彼らにとって。少なくても俺はそうは思わない。10年前の自分くんも、きっとそうは思っていなかったろう。まぁその、思っていなかったことが過去の自分の苦しみの根源だったのかもしれないが))。
