今日の一言「できることは書くこと」
しかし、2017年の5月は、もっとたくさんの記事を書いている。
プライベートな生活環境の変化によって、ブログを書く機会があまり取れなくなった、と。
そういうこともあったのだな、ふーん、と。
他人事のように思う。ま、実際、他人事である。自分のことであっても、過去となれば他人事である。――というと、責任の放棄、ということになるが、因果に対する責はあろうが、「感情」における責任はない。その点――いわゆる過去にどのようなことがあろうが、今の自分がどのように感じるかは、どこまでいっても自由、なのだ。
それを考える前に、ひとつ直近のメモ。時系列が必ずしも現実と一致しているかというのは特に重要な点ではない――という意味は、たとえば、上の引用は2018年5月だが、それが4月末だろうが、6月初旬だろうが、記事の内容にとって大きな影響はないということだ。ましてや、その違いが1日、2日程度であれば尚更である。
メモ。
とある友人と思っていた人と話しをしているうちに、それほど友人ではなかったのだなぁということを感じた。
僕はまぁ、10数年前から、こんな変な思考であったわけであるが、できる限りあんまり表には出さないように気を付けてはいた。しかし、割かし、本音気味に話ができていた友人がいなかったわけではなかった。もっと違う観点から書けば、お付き合いしていた女性なども含めてもいい。
回りくどい書き方をせず、シンプルに書けば、まぁ、「人は何故生きるのか」みたいな哲学的テーマを、20代ぐらいから――もっといえば、小学4年生ぐらいから薄っすらともっていたわけであるが、まぁそういう話を時折する、みたいな、そんな相手がいた、ということである。
(ちなみに、今書きながら思い出したが、小学4年生のとき、当時親友と思っていた子に「自殺したいと思ったことある?」と問うて、「え、そんなことあるわけないじゃん(きもっ(=というのは僕の主観))」的な反応をされたこともあったなぁと。そう考えると別に初体験でもないか)
で、関西人ではないので、オチは特にないのだが、その、昔よく話をしていた友人と会って、「お前、変な話しばっかしてたよな~」みたいな感じだったと、そういうことだ。
いやー、今も昔もあんまし変わってないなぁあはは、みたいな流れの中で、別に悪意があったわけじゃないんだろうが、まぁその、割と本気で悩んでいた時期のことが、まぁその人にとって特段大きなことでもないのだと、そういうのがよくよく伝わってきて、その、個人的には哀しくなった。
要は、対面コミュニケーションに対しての信頼度の低さ、である。
要は、みんな、ポジティブなこと(役に立つこと、自分の気持ちを高まらせること)にしか興味がないのである。
――そりゃそうである。
大切な時間を、わけのわからねー話に付き合わされたらつまらない。
人生は有限だ。残された時間を何に使うか。無駄なことに使うか、有益なことに使うか、そりゃ有益なことに使うべきなのだ。
難しい問題である。
表の自分と裏の自分、というのがあるようなイメージでもある。そういうのは、一般的、には、忌避される。気持ち悪い、とされる。「裏がある人間」といわれると、怖い、イメージをもつのは当たり前だろう。
ただし。
誰かを見下さないと自己肯定感を保てない人とか、他者を害することに興奮を覚えるとか、そういうんじゃなければ、別にいいじゃないかと、個人的には思う。
俺はきっと、「いい人」ではないが、極悪人でもない気がする。
と、いうか、だ。
俺が、その、とある友人と話をしていたのは、「人間の利己的な面」という話でもあったはずだ。
人は己の欲求によって生きるのであって云々的な。いやそれが100%ではないにせよ、「そういう面もある」的な曖昧な部分においては、必ずしも外れてはいないと思うのである。そういう面にとらわれてしまって、すべての行動をしなくなったり、他者のすべての行動を打算的と考えるのは、それは確かに間違っているのだろうが、そういった面もあるのではないだろうか、という話は別にしても構わないだろう。
――いや、不要なのだ!
そういうのは、エンターテイメントの悪役などに任せておけばいいのだ。現実の会話において全くもって不要なのだ。
――でもでもしかし、僕という変な人間としては、その変なレベル(次元)の話じゃないと、本当は「会話して充実したぁぁっ!」って気にならない。
そこがストレスでもある。
何もしなくてもストレスといえる。
困ったもんだ。人と同じことを、同じ程度しかしてなくても、ストレス度が高いのは、不利だ。
楽しく会話するのが疲れる。
一人で映画見てアニメ見て読書してたい(ダメ人間)。
そうか、俺はダメ人間なのか。やはりそうだったのか。
(かっこ書きである。つらつら徒然、長くなってきたので強制中断だ! 書きたいこと、表現できているか分からない、分からない、分からないが、書くべきだ、ということだけは事実だ。2018年5月の引用記事、生活、仕事環境は全く違うが、しかし、言いたいこと、分かるぞ。分かるぞ、過去の自分くんよ。なんか、その、「一人じゃない」感、あっていい。過去の自分くんが、じゃあ、友達に欲しいかと問われると、別にいらないんじゃないかと思ったりもするが、しかし、「よき理解者」にはなれる気がする。共感できる人ではなる。うわぁ……気持ち悪さに拍車がかかってんなぁ。まぁ仕方がない。仕方がないと、割と素直に割り切れる点が、人間的成長のようにもとらえられなくもない、気もする。幸せになるにはどうしたらいいか、というのは、理想と現実の差異を極小にすればいいが、現実と自分の内面の表裏が一致していないと、一生幸せにはなれないのかもしれない。しかし、「現実」といったときに、その現実とは、付き合う周りの人や、物理的な環境(位置・所属)など様々な面を含み、そして可変である。そのような不確実な世界に対して、「自分」というのが常に一致し続ける、というのは、俺は無理なことだと思う。いやしかし、それが逆に幸せそのものなのだろうと思うが、だがそこに、「自分」というものは存在するのか、というのは疑義であろう。いやいやそもそも、「自分」というものが社会や組織において必要なのか、というのも、皆さんには一家言あるはずである。たぶん、いらないんじゃないかなぁというのはあると思う。そんな中、俺はきっと、「自分」を失わないようにしたいと思っているのだろう。それが破滅への道だろうとしても、人生の、その多くの時間をそこに費やしたのだから、その状態で何らかのリターンを得ようと感情的になっているだけかもしれない。ギャンブルをやらない僕が書くとリアリティがないが、ギャンブラーが損失分を取り戻そうとする感情のように(そうして大半はより大損する)。まぁその……ほんと、多くの人が、僕のその友人(ら)のように、表裏がない(感情と言動が一致している)のかなぁ、というのは、ほんと疑問なんだがな。疑問なんだが、そういう疑問を持つこと自体が、きっと、異常者なのであろう(彼らにとって。少なくても俺はそうは思わない。10年前の自分くんも、きっとそうは思っていなかったろう。まぁその、思っていなかったことが過去の自分の苦しみの根源だったのかもしれないが))。
前書き
2018年5月の記事など、1つしかない。全文引用。600いくらの文字数だ。改行や空白などを除去すると、上のようにコンパクトにまとまってしまうほどだ。生活環境が変わることによって、これほど文章を書かなくても自分がいられるのだと、これは驚きもある。気付くと、一人の時間が、僅かな電車内でしかないことに気付く。そして、一人の時間じゃなきゃ、ブログは書けない。書けなくはないはずだけど、書けないのだ、これはどうしても。平日は相も変わらず帰りが遅いし、休日も彼女と過ごしていると、書けない。別に、書かなくてもいいじゃないか。しかし、僕は、イライラしようが、楽しかろうが、このブログの、ある重大な問いを考えないことは、自分にとって負債を清算しない行為に感じられるのだ。なにかを失って、人はようやっと気付く。そんなものかもしれない。それが、いまわの際まで知らなければ、別にそれでもいいとも思う。でも、果たして、働くこと、生きることに、何があるのか。僕は、誰だったのか。これが人なのか、こういうのが人間なのか。まぁ、これでいいのか本当か? 俺は、本当に後悔しないのか? 問うているのか? 本当に? ともかく。セインの二巻を読了。面白かった。魔女王と、ダークヒーローのズァグ氏の謁見シーンに震えた。なんつー駆け引きだ。なまじ戦闘シーンなんかより、よっぽど熱い戦いだった。ああ、こう、現在の自分の力では及ばない中で、今あるリソースをギリギリで使い、自分よりも強く体制も磐石なものに向き合っていくってのは、やっぱりかっこいいものだな。が、しかし、今の俺は、そういった戦いに本当に辟易してしまっている。この先のみちしるべを感じられないでいる。どうしたらいいのか分からずに、日々、そして、流されていく。
しかし、2017年の5月は、もっとたくさんの記事を書いている。
プライベートな生活環境の変化によって、ブログを書く機会があまり取れなくなった、と。
そういうこともあったのだな、ふーん、と。
他人事のように思う。ま、実際、他人事である。自分のことであっても、過去となれば他人事である。――というと、責任の放棄、ということになるが、因果に対する責はあろうが、「感情」における責任はない。その点――いわゆる過去にどのようなことがあろうが、今の自分がどのように感じるかは、どこまでいっても自由、なのだ。
自己礼賛かっこ悪い
前書きが、前書きになっていない。この記事は、いったい何をいわんとする記事なのか。それを考える前に、ひとつ直近のメモ。時系列が必ずしも現実と一致しているかというのは特に重要な点ではない――という意味は、たとえば、上の引用は2018年5月だが、それが4月末だろうが、6月初旬だろうが、記事の内容にとって大きな影響はないということだ。ましてや、その違いが1日、2日程度であれば尚更である。
メモ。
とある友人と思っていた人と話しをしているうちに、それほど友人ではなかったのだなぁということを感じた。
僕はまぁ、10数年前から、こんな変な思考であったわけであるが、できる限りあんまり表には出さないように気を付けてはいた。しかし、割かし、本音気味に話ができていた友人がいなかったわけではなかった。もっと違う観点から書けば、お付き合いしていた女性なども含めてもいい。
回りくどい書き方をせず、シンプルに書けば、まぁ、「人は何故生きるのか」みたいな哲学的テーマを、20代ぐらいから――もっといえば、小学4年生ぐらいから薄っすらともっていたわけであるが、まぁそういう話を時折する、みたいな、そんな相手がいた、ということである。
(ちなみに、今書きながら思い出したが、小学4年生のとき、当時親友と思っていた子に「自殺したいと思ったことある?」と問うて、「え、そんなことあるわけないじゃん(きもっ(=というのは僕の主観))」的な反応をされたこともあったなぁと。そう考えると別に初体験でもないか)
で、関西人ではないので、オチは特にないのだが、その、昔よく話をしていた友人と会って、「お前、変な話しばっかしてたよな~」みたいな感じだったと、そういうことだ。
いやー、今も昔もあんまし変わってないなぁあはは、みたいな流れの中で、別に悪意があったわけじゃないんだろうが、まぁその、割と本気で悩んでいた時期のことが、まぁその人にとって特段大きなことでもないのだと、そういうのがよくよく伝わってきて、その、個人的には哀しくなった。
理解されなくてもいいや
先日いつぞやかの記事で、「ま、別に理解してもらいたいって気持ちも最近は特にないんスけどね」みたいな、痛いこと書いていた(――何故痛いかというと、そもそもそういうことをブログ的に書いているからである。本当に理解されたくないなら、何もそういう行動をしないはずだ、という論点から)が、そういったことを書きたくなる感情の原因って、上のような経験にもとづくのだなぁと思った。要は、対面コミュニケーションに対しての信頼度の低さ、である。
要は、みんな、ポジティブなこと(役に立つこと、自分の気持ちを高まらせること)にしか興味がないのである。
――そりゃそうである。
大切な時間を、わけのわからねー話に付き合わされたらつまらない。
人生は有限だ。残された時間を何に使うか。無駄なことに使うか、有益なことに使うか、そりゃ有益なことに使うべきなのだ。
どうでもいいや
ま、その、なんというか、このブログをリアルの人たちに教えることは、今後一切合切必要ないし、やめたほうがいいなと、――いままでも思っていたが、より強く思いましたとさ、という話でこの記事に目的は達成される。難しい問題である。
表の自分と裏の自分、というのがあるようなイメージでもある。そういうのは、一般的、には、忌避される。気持ち悪い、とされる。「裏がある人間」といわれると、怖い、イメージをもつのは当たり前だろう。
ただし。
誰かを見下さないと自己肯定感を保てない人とか、他者を害することに興奮を覚えるとか、そういうんじゃなければ、別にいいじゃないかと、個人的には思う。
俺はきっと、「いい人」ではないが、極悪人でもない気がする。
と、いうか、だ。
俺が、その、とある友人と話をしていたのは、「人間の利己的な面」という話でもあったはずだ。
人は己の欲求によって生きるのであって云々的な。いやそれが100%ではないにせよ、「そういう面もある」的な曖昧な部分においては、必ずしも外れてはいないと思うのである。そういう面にとらわれてしまって、すべての行動をしなくなったり、他者のすべての行動を打算的と考えるのは、それは確かに間違っているのだろうが、そういった面もあるのではないだろうか、という話は別にしても構わないだろう。
――いや、不要なのだ!
そういうのは、エンターテイメントの悪役などに任せておけばいいのだ。現実の会話において全くもって不要なのだ。
――でもでもしかし、僕という変な人間としては、その変なレベル(次元)の話じゃないと、本当は「会話して充実したぁぁっ!」って気にならない。
人といると疲れる
だから、なのか分からないが、やっぱり、他者との会話を綱渡り的に感じている面があるんだなとも思う。そこがストレスでもある。
何もしなくてもストレスといえる。
困ったもんだ。人と同じことを、同じ程度しかしてなくても、ストレス度が高いのは、不利だ。
楽しく会話するのが疲れる。
一人で映画見てアニメ見て読書してたい(ダメ人間)。
そうか、俺はダメ人間なのか。やはりそうだったのか。
(かっこ書きである。つらつら徒然、長くなってきたので強制中断だ! 書きたいこと、表現できているか分からない、分からない、分からないが、書くべきだ、ということだけは事実だ。2018年5月の引用記事、生活、仕事環境は全く違うが、しかし、言いたいこと、分かるぞ。分かるぞ、過去の自分くんよ。なんか、その、「一人じゃない」感、あっていい。過去の自分くんが、じゃあ、友達に欲しいかと問われると、別にいらないんじゃないかと思ったりもするが、しかし、「よき理解者」にはなれる気がする。共感できる人ではなる。うわぁ……気持ち悪さに拍車がかかってんなぁ。まぁ仕方がない。仕方がないと、割と素直に割り切れる点が、人間的成長のようにもとらえられなくもない、気もする。幸せになるにはどうしたらいいか、というのは、理想と現実の差異を極小にすればいいが、現実と自分の内面の表裏が一致していないと、一生幸せにはなれないのかもしれない。しかし、「現実」といったときに、その現実とは、付き合う周りの人や、物理的な環境(位置・所属)など様々な面を含み、そして可変である。そのような不確実な世界に対して、「自分」というのが常に一致し続ける、というのは、俺は無理なことだと思う。いやしかし、それが逆に幸せそのものなのだろうと思うが、だがそこに、「自分」というものは存在するのか、というのは疑義であろう。いやいやそもそも、「自分」というものが社会や組織において必要なのか、というのも、皆さんには一家言あるはずである。たぶん、いらないんじゃないかなぁというのはあると思う。そんな中、俺はきっと、「自分」を失わないようにしたいと思っているのだろう。それが破滅への道だろうとしても、人生の、その多くの時間をそこに費やしたのだから、その状態で何らかのリターンを得ようと感情的になっているだけかもしれない。ギャンブルをやらない僕が書くとリアリティがないが、ギャンブラーが損失分を取り戻そうとする感情のように(そうして大半はより大損する)。まぁその……ほんと、多くの人が、僕のその友人(ら)のように、表裏がない(感情と言動が一致している)のかなぁ、というのは、ほんと疑問なんだがな。疑問なんだが、そういう疑問を持つこと自体が、きっと、異常者なのであろう(彼らにとって。少なくても俺はそうは思わない。10年前の自分くんも、きっとそうは思っていなかったろう。まぁその、思っていなかったことが過去の自分の苦しみの根源だったのかもしれないが))。
PR