今日の一言「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ」「というよりも、言っても意味がないと思ってしまうところに問題がありそう」
30代後半となって、もはや、「0」に近い状態になった。
私を見て、知って欲しい、という思いがあったから書いていたのだろう、と、すごく単純化して過去を回想してしまうと、過去の自分は、ものすごい形相でくってかかってくる気がする。怖い。
その動機は、「自分を肯定して欲しい」というものもあったことは否定しないけれども、本人としてはそんな「どうでもよい」ことよりも、むしろ、言わなきゃいけない、言わずにはいられないといった「自動的」な動機であったと思う。
ボクが思う価値の多様性というのは、そんなことが起こりえるのが世界であるという見方である。
今思えば当たり前なのだけれども、それが実際の「生活」レベルになると、ままならないことが多くあった。
ゆえに、不満や不快も多くあった。だから、そのうっぷんを文字にしていた。
誰か、直接的に言える物理的存在がいたらよかったのかもしれない。
でも、それをすれば、それはそれで、「多様性の否定」になる気もしてできなかった。というとちょっとかっこつけた言い回しだけど、「友達がいなかった」という表現でも特に問題ないように思われる。
顔の見えない不特定多数の存在。
ネットというものが、唯一ボクの居場所のように思えていた。
0代の記憶が殆どないため比較できないが、10代、20代、30代と考えた時に、一番幸せなのが30代と思われる。
世間的には、結婚生活をしていたのが20代だったと思うので、たぶん世間ステータス的には幸せ絶頂で、離婚した30代の方が不幸せなような気がする。
ところが、メンタル的には、今の方が「幸せ」といってよい。
これは、ひがみとか、嫉妬というか、酸っぱい葡萄理論というか、合理化というか、まぁ色々考えられるけれども、主観的には間違いなく今の方がよいと思う。
社会的には、結婚もしてなくて、子どももいない社会再生産に貢献していないクズ人間なのだろう。哀しい。
ところが、いち人間としては、今が一番よいと思っている。
何故そうなってしまったのか。
一人暮らしに慣れてしまい、共同生活ができなくなってしまったのだろう。
一人でいると、「寂しい」という気持ちが、ボクはあんまりないのだろうと思う。
どっちかというと、寂しいというのは、複数人の友人たちがいて、その輪に入れない時は寂しいと思う。
でも、最初から一人だと、寂しさは感じない。
中途半端だと寂しい。
たとえば、一緒に友人と遊んで、帰り道に一人になると寂しいという感じに近い気がする。
最初から街に遊びにいかなければ、寂しさを感じることもない。
果たして、40代になっても、50代になっても同じことが言えるのか。
「寂しさ」「孤独感」というものが生じるのではないだろうか。
いまの想定としては、「ない」と思う。
「面倒」な人とのかかわりから解放された平日の夜や、休日の一人の時間。最高に幸せである。
あえて、「会いたい」と思う物理的な友人は思い浮かばない……。申し訳ないことに。
逆に言えば、声をかけてもらうことも殆どないので(1年に1回あるかぐらい)誰からも欲せられていない自分でもあるわけだ。
「かわいそう」な人間だと、パリピ(リア充。陽キャなど。何という表現が今風なのだろう。分からない)側からしたら思われるのかもしれない。
でもぜんぜん、個人的には困っていない。
これで、ボクの人生はよかったのだろうか。
仕事で時間が使われ、家族もつくれず、孤独に死んでいくのでよかったのだろうか。
と、思う。思ってしまう。もとから凡人だったが、本当の凡人になったのだろうか。
いままでは、凡人になることに恐怖を覚えていた凡人であったが、ようやく、ただの凡人になれたのか。
人間皆そうなのか。20代、30代となるにつれて、とげがとれていくのだろうか。
仏陀のように、はたまたベンチャー企業の社長のように、30代で覚醒し何か新しいことを始める人もいる。
ボクは逆に悟りの境地になったのか。
まえがき
とにかく、文字を書いてないと精神状態が落ち着かなかった10代、20代の頃に比べて、30代は明らかに文字を書く量が減った。30代後半となって、もはや、「0」に近い状態になった。
私を見て、知って欲しい、という思いがあったから書いていたのだろう、と、すごく単純化して過去を回想してしまうと、過去の自分は、ものすごい形相でくってかかってくる気がする。怖い。
その動機は、「自分を肯定して欲しい」というものもあったことは否定しないけれども、本人としてはそんな「どうでもよい」ことよりも、むしろ、言わなきゃいけない、言わずにはいられないといった「自動的」な動機であったと思う。
色んな人がいるよね以上
今まで僕は、価値の多様性というものを取り上げていた。Aということが正しければ、Bということも正しい。はたまた、複雑に、正しいAという事柄の「否定」があったとしても、そのAの否定自体も正しい。ボクが思う価値の多様性というのは、そんなことが起こりえるのが世界であるという見方である。
今思えば当たり前なのだけれども、それが実際の「生活」レベルになると、ままならないことが多くあった。
ゆえに、不満や不快も多くあった。だから、そのうっぷんを文字にしていた。
誰か、直接的に言える物理的存在がいたらよかったのかもしれない。
でも、それをすれば、それはそれで、「多様性の否定」になる気もしてできなかった。というとちょっとかっこつけた言い回しだけど、「友達がいなかった」という表現でも特に問題ないように思われる。
顔の見えない不特定多数の存在。
ネットというものが、唯一ボクの居場所のように思えていた。
いまの心境の変化
睡眠不足等によって体調は悪いのだけれども、メンタル的には、30代が一番落ち着いていると思われる。0代の記憶が殆どないため比較できないが、10代、20代、30代と考えた時に、一番幸せなのが30代と思われる。
世間的には、結婚生活をしていたのが20代だったと思うので、たぶん世間ステータス的には幸せ絶頂で、離婚した30代の方が不幸せなような気がする。
ところが、メンタル的には、今の方が「幸せ」といってよい。
これは、ひがみとか、嫉妬というか、酸っぱい葡萄理論というか、合理化というか、まぁ色々考えられるけれども、主観的には間違いなく今の方がよいと思う。
社会的には、結婚もしてなくて、子どももいない社会再生産に貢献していないクズ人間なのだろう。哀しい。
ところが、いち人間としては、今が一番よいと思っている。
何故そうなってしまったのか。
一人での生活に慣れてしまった
多感な、いろんな変化できる10代のうちに、色んな経験をして「人が怖くなった」からだと思う。一人暮らしに慣れてしまい、共同生活ができなくなってしまったのだろう。
一人でいると、「寂しい」という気持ちが、ボクはあんまりないのだろうと思う。
どっちかというと、寂しいというのは、複数人の友人たちがいて、その輪に入れない時は寂しいと思う。
でも、最初から一人だと、寂しさは感じない。
中途半端だと寂しい。
たとえば、一緒に友人と遊んで、帰り道に一人になると寂しいという感じに近い気がする。
最初から街に遊びにいかなければ、寂しさを感じることもない。
果たして、40代になっても、50代になっても同じことが言えるのか。
「寂しさ」「孤独感」というものが生じるのではないだろうか。
いまの想定としては、「ない」と思う。
寂しさについて
たぶん、仕事しているうちは、「寂しい」とか感じることはまずないだろう。「面倒」な人とのかかわりから解放された平日の夜や、休日の一人の時間。最高に幸せである。
あえて、「会いたい」と思う物理的な友人は思い浮かばない……。申し訳ないことに。
逆に言えば、声をかけてもらうことも殆どないので(1年に1回あるかぐらい)誰からも欲せられていない自分でもあるわけだ。
「かわいそう」な人間だと、パリピ(リア充。陽キャなど。何という表現が今風なのだろう。分からない)側からしたら思われるのかもしれない。
でもぜんぜん、個人的には困っていない。
これで、ボクの人生はよかったのだろうか。
仕事で時間が使われ、家族もつくれず、孤独に死んでいくのでよかったのだろうか。
人生の意義
いいんじゃない?と、思う。思ってしまう。もとから凡人だったが、本当の凡人になったのだろうか。
いままでは、凡人になることに恐怖を覚えていた凡人であったが、ようやく、ただの凡人になれたのか。
人間皆そうなのか。20代、30代となるにつれて、とげがとれていくのだろうか。
仏陀のように、はたまたベンチャー企業の社長のように、30代で覚醒し何か新しいことを始める人もいる。
ボクは逆に悟りの境地になったのか。
あとがき
(かっこ書きである。まぁでも、凡人はこんな記事は書かない。まだどこかで、「このままでいいのか?」という、過去からずっと考えていた「生きる意味」ということに執着があるのだろうか。ある意味既に見つけていて、生きる意味などはないし、逆にどこにでも無数にある、というのが答えではある。その答えに自分の感覚が近いかどうかという点が重要であったわけだが、それが満たせてきているのかもしれない。真実はあるのだろうか。真実ということはないということが真実だ、と思う。おぞましい条件がある中で、正しいということはある、というだけだ。あんまり関係ないけど、最近、「モンティ・ホール問題」という、確率の問題を見た。大多数は答えを間違えるというもので、答えをきいても納得がいかない人が多数であるという問題であった。で、ボクは、答えを聞いてもやっぱりピンとこなかった。確率って難しいよね。確かに、統計的に、おびただしい数の試行をすれば、その結果は正しいのだろうけれども、でも、自分の選択といざなったときには、その試行はただの1回しかないのだから。99%の確率で手に入れたとしても、1%の確率で手に入れたとしても、その選択が1回しか起こらないものであれば、それは結果は「等価」だ。手に入れた、という事実しかない)PR
今日の一言「1か月置きには書こうと思えているのだろうか」
たぶん、昨今の若者というか、多くの人がそうだと思うが、年上だからといって無条件に尊敬したり、話したりされることを鵜呑みにできる人は少ないと思う。
あんまり、年齢という差が重要じゃなくなっているとは思う。
時間をどう濃密に使って、それをどうインプットしてきたか……その点が違いだと思う。
自分より若くても、自分なんて比べ物にならないくらいすごいな、って人もいるし、経験も知識も全然違う。
前に、ツーリングとかでうざがられる、バイクの排気量を聞く「何ccおじさん」(ナンシーおじさん)という言葉も聞いたことがあるが、同じように「何歳?」という問い自体がナンセンスなのだろうと思う。
価値観が共有できたり共感出来たりする上で、「すごい」という人がやっぱり尊敬に値する人だと思うわけだ。
そういう意味で、上で取り上げたシロクマさんは、尊敬できるなって思う。シロクマさんなら、こういう問題や問いに対して、どう考えてどう答えを出すのか、そんな風に思考をトレースしてもいいかな、って思う。
これは、素直な人は別に普通のことなのかもしれないけれど、ボクの場合は、基本的に、自己中心的なので、「人は人、他人は他人」という意識が、ずーーーっと、それこそ自我が芽生えた時からあったような気がする。
より若いときは、「人と合わせることが逆にイヤ」というあまのじゃくてきな面倒くさい人間だったような気がする。
最近は、「人と合わせた方が色んな面でとても良い」というケースがあるので、悪いことじゃないんだなーって思っている。これが「大人になった」ということなのだろう。形容詞的に、「みにくい大人」なのか、「ずるがしこい大人」なのか分からないけれども。
あと、「年上」って、逆にバイアスがある気がする。要するに「年上なんだから、もっとできるでしょ」ということ。見る目が厳しいってことだね。
でもこれも当たり前で、同じ能力があったとして、30歳でできる人と、40歳でできる人がいたら、30歳でできる人の方がすごい、って思うじゃないか。時間は平等なのだから、仕方がない。まぁ、光速に近づくと時間も相対的に変わるものなのだということだけれども、人間の人生という面においては不変と言っていいだろう。
そういう意味でも、シロクマさんならどう考えたり思うのかな……っていうのは、自分の中でも珍しい面白い感覚な気がしている。
ということ自体は、もっと前から思っていたけれども、数年たってもその気持ちが変わらなかったから、今回書いておくことにした。
どう考えても、某国は間違ってると思うし、滅びてしまった方が「より良い社会」になる気がするけれども、しかし一方で、某国においてはそこに「正義」があるわけだ。
何も正義がなければ、さすがに現代社会で成り立つとは思えない。
一定の安定した人がいて、「この正義は正しい(守るに値する)」と思うから、社会が維持されているのだと、思う。思いたい。
まぁ、複雑な国際社会のことは分からないから置いておいて。
一般の、例えば、公園で子供の声がうるさいといったクレームに関する話とか。
ぶっちゃけ、戦争レベルの話と比べたら、ものすごくどうでもいい話である。
しかし、それは「比べたら」の話であって、当人たちにとっては由々しき重大な問題だ。
むしろ、(遠い)戦争なんかよりもよっぽど重大だ。
公園問題の詳細は、まぁニュースでも色々やってたし、興味があれば上のシロクマさんの記事から辿っても良いと思う。
公園が、子どもの声がうるさいというクレームから閉鎖された、という話だ。
このタイトルだけ見ると、「クレーマー」な話な気がする。
ネット的にも、行政の判断が間違ってるのでは、みたいな論調が多かったような気もしないでもなかった。
いっぽうで、児童虐待的な場合は、行政の判断が遅い……みたいな論調が多い気がする。
そのどっちが正しいとか、良いとか、ボクは正直どっちでもよい……どっちでもよいというとちょっと違うが、気になるのは、「どちらが主流の意見なのか」ということである。
ルールがあって、法律があって、それによって社会は成り立っているのだから、それは曲げるべきではない。法律も「解釈」があるから、その解釈が誤っていることもあるだろうし、それを正すことは大事だろう、そして、そもそも法律だって人がつくったものだから、誤ってたり時代にそぐわなかったら変えるべきだろう。
ただ、既に発生してしまった問題については、既にあるルールを「適用」することでしか解決すべきではない。
そこを崩すと、力が強いものが支配する、ような世界になると思うからだ。
「個人的に納得できない」
ことがあっても、決められたルールにもとづいて「社会的に判断する」ということが、現代社会という、人類が長い血なまぐさい馬鹿らしい歴史を経て開発した発明品なのだ。
(と思う。関西では、この後に「しらんけど」と加えるのがよいらしい(かっこ笑い))
この「一般的に」というのは、所詮はネット上でのことだし、ニュースや、新聞ほかの情報源にはあたりたいと思いつつも、「普通の人は、こういうことがあったらどう思うのか」ということが気になる。
それは何故かというと、「自分の個人的な意見(感情)」と、「普通の人のそれ」が、どの程度「ズレ」ているのかを知りたい、と思うからだ。
先に書いた通り、ボクは大人になった。
だから、「人に合わせる」こともできるようになったし、しなきゃいけないとも思うようになった。
その際に、「一般的な」感覚というのが大事だと思うのだ。
それは、「合わせる」ことにも大事だし、逆に、主張するときにも大事だと思う。
「こういう意見が大半ですが、こういう点で、自分はこう思うのです」
こんな論調だと、人は耳を傾ける、かもしれない。(結局内容によるだろうが)
さて、せっかくだから、その公園クレーム問題について、「ボクの考えや思ったこと」を試しに書いておけば、シロクマさんは結局どっちの未方なんだろ?笑 わかんないや。
って思った、ということだった。
引用されている記事の、実体験をもとにしたクレーマー側の意見の方が面白かった。
そのおかげで、「あー。確かに「子供たち」という言葉には、いろんな意味が含まれているな」という視点が得られた。良いもの読んだな、と思った。
それに基づいた記事がシロクマさんの記事で、更に、「当時……カミナリおじさんみたいな叱ることができる大人も多かった。行政に言って相談するみたいなこと自体が現代風だ」という意見も、「おーー! 確かに」って思った。面白かった。
だから、それだけで、どちらの記事も読んでよかったなーという感想なのだけれど、「だから、そして、どうなるんだ?」というのが分からなかった。
まぁでも、そんなことを要求するのは、こんないつも、わけのわからないことを量産しているボクが言えたことではないのだ。
でもどうなんだろ。公園クレーム問題としては、確かに、シロクマさんが仰るとおり、現代社会は、より「潔癖に」なっている(ルールやマナーが増えている)のだろうけれども、近所の公園で、夜な夜なヤンキーがたむろして煩くしてたら、それは公園閉鎖してもらいたくなると思う笑
自分の住んでいるところに面している道路、住宅街なのに車通り多いのだけれども、閉鎖して欲しいって思う笑 たまにうるさい爆音の車やバイク走ってくから。
だから、「静かな」社会とか、喫煙所とかゾーニングされた社会とか、それは悪い社会じゃないって今は思うなぁ。
たぶん、シロクマさん的には、行き過ぎるとそれも危険だよ、という警鐘をしたいのじゃあないかと思うけれども。確かに行き過ぎは危険だろうなぁ。でも、今のところ、そこまで問題意識は、自分の中ではないなぁ。
(以上、どうでもいい感想)
対100なら、厳しい場面があるだろう。力こそがすべてだ、というその「力」というのが、腕っぷしという基準というのは、あまりに非効率だろうな、と人類は気づいたから、ルールというのを発明したのだと思う、たぶん。だから、ルールとして決められているから、人を殺してはいけないのだ)
まえがき
久しぶりに、ブックマークに入っているシロクマさんの記事を読み直した。40代になってからも限界はみえない。それでもできることは減っている。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230511/1683802800ますます静かに・安全になっていく社会は人間を自由にするか
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230608/1686216818たぶん、昨今の若者というか、多くの人がそうだと思うが、年上だからといって無条件に尊敬したり、話したりされることを鵜呑みにできる人は少ないと思う。
あんまり、年齢という差が重要じゃなくなっているとは思う。
時間をどう濃密に使って、それをどうインプットしてきたか……その点が違いだと思う。
自分より若くても、自分なんて比べ物にならないくらいすごいな、って人もいるし、経験も知識も全然違う。
前に、ツーリングとかでうざがられる、バイクの排気量を聞く「何ccおじさん」(ナンシーおじさん)という言葉も聞いたことがあるが、同じように「何歳?」という問い自体がナンセンスなのだろうと思う。
すごいことと尊敬できることも違う
あと、「すごいなぁこの人」と思うことはあっても、自分と違う価値観が中心だと、「へー」で終わってしまう。価値観が共有できたり共感出来たりする上で、「すごい」という人がやっぱり尊敬に値する人だと思うわけだ。
そういう意味で、上で取り上げたシロクマさんは、尊敬できるなって思う。シロクマさんなら、こういう問題や問いに対して、どう考えてどう答えを出すのか、そんな風に思考をトレースしてもいいかな、って思う。
これは、素直な人は別に普通のことなのかもしれないけれど、ボクの場合は、基本的に、自己中心的なので、「人は人、他人は他人」という意識が、ずーーーっと、それこそ自我が芽生えた時からあったような気がする。
より若いときは、「人と合わせることが逆にイヤ」というあまのじゃくてきな面倒くさい人間だったような気がする。
最近は、「人と合わせた方が色んな面でとても良い」というケースがあるので、悪いことじゃないんだなーって思っている。これが「大人になった」ということなのだろう。形容詞的に、「みにくい大人」なのか、「ずるがしこい大人」なのか分からないけれども。
あと、「年上」って、逆にバイアスがある気がする。要するに「年上なんだから、もっとできるでしょ」ということ。見る目が厳しいってことだね。
でもこれも当たり前で、同じ能力があったとして、30歳でできる人と、40歳でできる人がいたら、30歳でできる人の方がすごい、って思うじゃないか。時間は平等なのだから、仕方がない。まぁ、光速に近づくと時間も相対的に変わるものなのだということだけれども、人間の人生という面においては不変と言っていいだろう。
そういう意味でも、シロクマさんならどう考えたり思うのかな……っていうのは、自分の中でも珍しい面白い感覚な気がしている。
ということ自体は、もっと前から思っていたけれども、数年たってもその気持ちが変わらなかったから、今回書いておくことにした。
よりよい社会って何だろう
戦争して人を殺すことも、正義な面がある。どう考えても、某国は間違ってると思うし、滅びてしまった方が「より良い社会」になる気がするけれども、しかし一方で、某国においてはそこに「正義」があるわけだ。
何も正義がなければ、さすがに現代社会で成り立つとは思えない。
一定の安定した人がいて、「この正義は正しい(守るに値する)」と思うから、社会が維持されているのだと、思う。思いたい。
まぁ、複雑な国際社会のことは分からないから置いておいて。
一般の、例えば、公園で子供の声がうるさいといったクレームに関する話とか。
ぶっちゃけ、戦争レベルの話と比べたら、ものすごくどうでもいい話である。
しかし、それは「比べたら」の話であって、当人たちにとっては由々しき重大な問題だ。
むしろ、(遠い)戦争なんかよりもよっぽど重大だ。
公園問題の詳細は、まぁニュースでも色々やってたし、興味があれば上のシロクマさんの記事から辿っても良いと思う。
公園が、子どもの声がうるさいというクレームから閉鎖された、という話だ。
このタイトルだけ見ると、「クレーマー」な話な気がする。
ネット的にも、行政の判断が間違ってるのでは、みたいな論調が多かったような気もしないでもなかった。
いっぽうで、児童虐待的な場合は、行政の判断が遅い……みたいな論調が多い気がする。
そのどっちが正しいとか、良いとか、ボクは正直どっちでもよい……どっちでもよいというとちょっと違うが、気になるのは、「どちらが主流の意見なのか」ということである。
判断のために必要なこと
社会的な問題を考えるにあたって、「個人的な見解」というのは正直どうでもよいことだ。ルールがあって、法律があって、それによって社会は成り立っているのだから、それは曲げるべきではない。法律も「解釈」があるから、その解釈が誤っていることもあるだろうし、それを正すことは大事だろう、そして、そもそも法律だって人がつくったものだから、誤ってたり時代にそぐわなかったら変えるべきだろう。
ただ、既に発生してしまった問題については、既にあるルールを「適用」することでしか解決すべきではない。
そこを崩すと、力が強いものが支配する、ような世界になると思うからだ。
「個人的に納得できない」
ことがあっても、決められたルールにもとづいて「社会的に判断する」ということが、現代社会という、人類が長い血なまぐさい馬鹿らしい歴史を経て開発した発明品なのだ。
(と思う。関西では、この後に「しらんけど」と加えるのがよいらしい(かっこ笑い))
一般的にどういった感情があるのか
なので、結論的にどうなったかとか、法解釈としてどっちが正しかったのか、というのは二の次で、ボクが気になるのは、「一般的にどういった意見が主流なのか」ということである。この「一般的に」というのは、所詮はネット上でのことだし、ニュースや、新聞ほかの情報源にはあたりたいと思いつつも、「普通の人は、こういうことがあったらどう思うのか」ということが気になる。
それは何故かというと、「自分の個人的な意見(感情)」と、「普通の人のそれ」が、どの程度「ズレ」ているのかを知りたい、と思うからだ。
先に書いた通り、ボクは大人になった。
だから、「人に合わせる」こともできるようになったし、しなきゃいけないとも思うようになった。
その際に、「一般的な」感覚というのが大事だと思うのだ。
それは、「合わせる」ことにも大事だし、逆に、主張するときにも大事だと思う。
「こういう意見が大半ですが、こういう点で、自分はこう思うのです」
こんな論調だと、人は耳を傾ける、かもしれない。(結局内容によるだろうが)
自分はどう思うか
と、抽象的なことを書いてきたけれども、割と自分の中では大事だと思っていることだったから、まとめて書けたのは良かった気がする。後で読んで、その主旨が伝わるかどうか、それはいつものごとく、分からない。さて、せっかくだから、その公園クレーム問題について、「ボクの考えや思ったこと」を試しに書いておけば、シロクマさんは結局どっちの未方なんだろ?笑 わかんないや。
って思った、ということだった。
引用されている記事の、実体験をもとにしたクレーマー側の意見の方が面白かった。
そのおかげで、「あー。確かに「子供たち」という言葉には、いろんな意味が含まれているな」という視点が得られた。良いもの読んだな、と思った。
それに基づいた記事がシロクマさんの記事で、更に、「当時……カミナリおじさんみたいな叱ることができる大人も多かった。行政に言って相談するみたいなこと自体が現代風だ」という意見も、「おーー! 確かに」って思った。面白かった。
だから、それだけで、どちらの記事も読んでよかったなーという感想なのだけれど、「だから、そして、どうなるんだ?」というのが分からなかった。
まぁでも、そんなことを要求するのは、こんないつも、わけのわからないことを量産しているボクが言えたことではないのだ。
でもどうなんだろ。公園クレーム問題としては、確かに、シロクマさんが仰るとおり、現代社会は、より「潔癖に」なっている(ルールやマナーが増えている)のだろうけれども、近所の公園で、夜な夜なヤンキーがたむろして煩くしてたら、それは公園閉鎖してもらいたくなると思う笑
自分の住んでいるところに面している道路、住宅街なのに車通り多いのだけれども、閉鎖して欲しいって思う笑 たまにうるさい爆音の車やバイク走ってくから。
だから、「静かな」社会とか、喫煙所とかゾーニングされた社会とか、それは悪い社会じゃないって今は思うなぁ。
たぶん、シロクマさん的には、行き過ぎるとそれも危険だよ、という警鐘をしたいのじゃあないかと思うけれども。確かに行き過ぎは危険だろうなぁ。でも、今のところ、そこまで問題意識は、自分の中ではないなぁ。
(以上、どうでもいい感想)
あとがき
(かっこ書きである。FF16買ってみた。PS5とセットになっているやつ。6/30ぐらいに届くらしい。そんなに楽しみ……なわけでもない笑 なんか、今やってるゲームもなんかのめりこめない気持ちも出てきたから、衝動買いした感じ。あと、ブループロトコルというPCゲームもインストールしてみた、けど、これもまだ始めてない。なんか、新しいことするのがほんと億劫なんだよなぁ……。これは、歳をとったから、ではない。もとからそういう性格である。何か一つのことに集中しているのが好き。仕事とか、そんなこと言ってられないのだけれど。でもほんと、時間的にも、身体的にも、いずれ限界はくるのだから、できるだけ、「負の感情状態」というのは廃していきたいと思う。正直無駄だから……。若いころの苦労的なのは、まぁ仕方ない面はあると思う。ある程度苦労しておかないと、年取ってからの方が、軌道修正や、リカバリー(れじりえんす?)能力が低くなってるだろうから、致命的になってしまうかもしれない。でももう中年なのだし、40代になったら初老なのだし、1日でも、1時間でも多く、「良い感情状態」を保てるようにしていった方がよいと思う。もちろん、個人的な快楽を追い求めるということだけではない。自慰行為を1日中継続しても、それはそんなに気持ちいいことではないだろう。何かこう、人の役に立つというか、存在意義的な何かがある行為行動ができた方がよいと思っている。でもこれも難しい。見ず知らずの人に、1万円を寄付したからといって、何か自分の中に心から嬉しいという気持ちが沸き上がることは、まずない。むしろ、1万円以上を、働いて、給料から天引きして社会(国や地方に)払っているのである。会社で役立たず……と罵られている人が、給料泥棒といわれてしまったとしても、いやそんなことないと言ってあげたい。その、あなたに支払われた給料の中には、国税地方税、社会保険料とか含まれているのだ。つまり、その会社では何の役に立ってないかもしれないが、あなたは、日本国民全体を支えているのである! 詭弁かもしれないが、ただこれは事実なのだから、自己尊厳が損なわれたら、お金がどういう流れになっているかという、中学校公民ぐらいの知識は思い出してよいのではと思う。社会に出ておらず、望まれてもいない子供はどうか。年金暮らしになった老人はどうか。そもそも、人の役に立たないひとは価値がない論を誘発しないか。それは正しいかどうか。……色々、あまり普段意識しないことが多い。ただ、「生きる」ことにおいて、「死ぬ」ことが迫ったときに、もしくは、大事にしていた価値観が喪失したときに、色々考えを巡らせておくことは悪いことではないと思う。そもそも今ボクは子供がいないから、社会的に不要な人間な可能性がある。エンタメの世界だけかもしれないが、40歳までに子供を産んでいなかったら、社会的に不要な人間として処分される社会があってもおかしくないかもしれない。男は、精子を提供したかで判断される。で、結婚して子供も育てていた男が、実は妻となっていた女が、実は別の子供を孕んでいて、男は、自分は処分対象じゃないと安穏していたところ、40代間近になってそのことが発覚し、処分されたくないからといって女に子供を産ませようと焦って更に犯罪を犯してしまう……とかそんなストーリー、だめ、か笑 怖い社会だけれど、行き過ぎた「規制」とかはいずれそういったディストピアをうむ可能性もあることは、想像してもよいのではと思う。子どもがいなくても、税金納めてるのだから、社会の役には立っていると思う。ただ、社会の再生産という点においては貢献できていない。いや、教育業界や保育園に勤めていたらそれは貢献しているのか、しかし、個人としてみたときに、子どもを増やすことには貢献できていない、その点を突かれるのだろうか。分からない。しかしこの、役に立つ役に立たないといった二分法で人の生き方を決めるというのは、感覚的には間違っているし誤っていると思う。しかし、何も深く考えず「それはおかしい」としか言えないと、言葉巧みにそれに近い政策がとられて採用されて、いずれそういった方向性に社会が変わってしまう可能性もある。「人を殺してはなぜいけないのか」これについても、「いけないからいけないのだ」というのは一つ答えとして正しいが、ある程度自分の中でも答えがあった方がよいと思っている。武力が強い、腕っぷしが強いものが正義という社会は、危険で発展性に乏しいから、とか、一つすぐ思いつく理由。腕っぷしが強くても、いまや、刃物や「銃火器」があるので、人を殺すのは簡単だ。いくら剣の腕が優れた戦士でも、寝込みを襲われたら、または、1対100なら、厳しい場面があるだろう。力こそがすべてだ、というその「力」というのが、腕っぷしという基準というのは、あまりに非効率だろうな、と人類は気づいたから、ルールというのを発明したのだと思う、たぶん。だから、ルールとして決められているから、人を殺してはいけないのだ)
今日の一言「やっぱり1か月に1回になるのか」
新しいことをし続けないと暇、という人もいるだろうけれども、ボクはもともと、同じことを繰り返しても楽しいと思っていた、むしろそれが安心安全に思っていた。
大勢の前で話したり聞いたりすることが多くあって、疲れた。
しかし、ボクの話し方の、トーンとか表情、態度など、安心して話せるし、よく聞いてもらえていると言ってもらえた。
自分の中では、コミュニケーションにすごく苦手意識があるが、いわゆる「テクニック」と、実践と感情を紐づけるようにすれば、表面的には「ふつう」に振舞えるということなのだろう。
それは、口に出していることと、心とが真逆なことをいっているサイコパスという意味ではない。
基本的に、人混みやら、身体的な安全が脅かされるような状況においては心理的負担がかかっているが、そうではない時は別にそんな負の感情ばかりなわけではないのだ。
会議の前日などは、よく眠れなくて、明け方に目覚めたりした。
心身的に、気にしないようにしていてもやっぱり負担にはなっているのだなと思った。身体は正直である。
オンライン上は、アバターというか、「身体」の制御がいらないので、その点の負担が少ないのがとてもよいのだと思った。
身体を維持するのが難しい。。
例えば、ネットゲームしているとき、フレンドと話をしているとき、もう眠くて話したくない……みたいな状況になったとしても、ある程度交流を続けることができる。身体があるリアルベースの交流の際はそれができない。
さらに、身体ベースの場合は、いくら楽しい飲み会を過ごしたとしても、その後、公共交通機関で帰らなければいけない。これも面倒くさい。
それは確かに、オンライン上では得られないことだったのかもしれない。
それでも、ボクは、やっぱり、オンラインの関係は悪くないと思う。悪くないというよりも、そっちの方がよいと思う。
他者とは、適切な距離というか、付き合い方が必要だ。
コミュニケーション力というのは、幅広い人という存在のパターンに、より多く対応できる技術といってよいだろう。
コミュニケーションとは、情報伝達のことだ。コミュニケーション力というのは、情報伝達する力のことだ。
しかし、それはどういったものか、それを数値化するにはどうしたらよいのか? という課題を出されたら、それは、より多くの人に好ましいと思われるということだろうと思う。
共通のプロトコルというのが、ビジネスマナーである。プロトコルというのは規格のことだ。
いろんな考えがあっていい。色んな人の感じ方があっていい。それでも、この部分は共通化をはかりましょう……というのが、マナーというものだ。だから、それすら、別に絶対的なものではない。
法律という体系はとても優れているとは思うが、それも、人間が開発したツールである。絶対普遍に正しいものではない。多くの人間が「よいと思う」という価値の共有がはかれて、そして、共感できるから今の法律が優れているということになる。そして、問題発生が少ないというのが維持すべきという条件だ。
100人に、100%「いいね」って思ってもらいたい。そうある方が望ましい。
極端な数値化に意味はない。前者も後者も、どちらも不可能で、そのバランスでしかない。
基準は、今、であるだろうと思う。今、30人に25%いいねって思ってもらえるのなら、それが、60人に30%いいねって思ってもらえるようになったら「幸せ」かもしれない。
どうやって、一人でも、……いや厳密に一人はきっと耐えられないが、少数でも、共感してくれたり、反応してくれる友人をつくって、最高に満足に人生を過ごすか、それがテーマであった。
しかし、いくら「表面的」な関係であったとしても、他者と付き合って行動するというのは、悪いことではないというよりも、むしろ今までにないようなとても素晴らしい経験だと思えるようになったこと、それはここ数年2~3年ぐらいのことだったと思う。
いまでも、喪男な独り身であることはかわりないのである。そのことについての、肯定感を得たということではなくて、それはむしろ、6年~7年前に、そういった方向性になってきていたと思う。いわゆる離婚した後ぐらいだと思う。
色んな意味で、「離婚してよかった」と思っている。離婚は切り出されたのであるから、とても哀しいできごとだったが、それ自体は、とてもむしろ相手に感謝すべきに思う。
このブログとして価値があるとすれば、離婚して、もしくはしそうでとても困っている諸氏がいたときに、思った以上に「大したことがない」ということであるということを伝えられることである。
引っ越しとか財産分与とか、役所の諸手続きとか、双方家庭の云々とか色々あるとはいえ、一つずつこなせば大したことない。時間はかかるかもしれないが。
むしろ心配懸念すべきは、心理的な面だが、それは、繰り返すと、今はそれでよかったと思っている。
完全に中年。初老も近い。
それでも、FF14やったことで、色んな世界や価値観が変わったのはすごいと思った。FF14というよりも、オンラインゲームというものをやったということだろうか。オンラインゲームはやったことがあるから、MMORPGをやったということが大きかったのか。
これが、「モテ」を目指して、テニスサークルとか入っても、絶対つまらなかったと思う。
ボルダリング(壁上る奴?)は楽しそうだと思ったけれども。
もっと周りに、ゲーム好きな友人が(これはリアルの中で)いたら、もっと早くから楽しい人生おくれてたのだろうか。
ある意味、「優秀」な友人ばっかりで、あんまし心を開けなかったのかもしれないな。
数人は、ネットカフェとか行って、一緒に遊んでくれた。一時期はすごくたくさん行ってた。それは楽しかったし、その友人とはたまに会いたいとも思う。
でも、「会う」労力を考えると、自分で企画したり、会いに行ったりとか行動を起こすまでにはならない(ごめんね……かっこわらい)。だから、誘われたら嬉しいのだけれども(かっこわらい)。
基本、自分から誘ったり相互の関係がないと、ゆるやかに、もしくは急速に関係は離れている。
人間関係にもメンテナンスが必要だ。
人間関係の維持って、すごく難しいことだ。時間が必要だ。考える力(相手が望むこと、ものを思い描くこと)も必要だ。
一方で、お金があると、スーパーにいって、食料を買うことができる。
「お前は、気に食わない奴だから、売ってやらない」
とはならない。人間関係は不要だ。最低限は必要だった……しかし、無人レジの普及でそれすらもいらなくなってきている。
人間って、ほんとに、人間とかかわることをストレスとして感じているのだ。
知らない人と話すと、ストレスになるのだ(と、まわりまわって、最初の方に書いていたことに戻っていく)。
だから、これからも、人間関係は、ある方面ではどこまでも希薄化して、ある方面では濃厚に……それは、寂しいから、どこか反動的に他者を求める面もでていくのではないかと思う。
オンラインも、仮想空間もメタバースも、それは人が作った世界である。
社会といわれる、法律や資本主義でなりたつ世界も、それもまた人が作った世界だ。
ボクは、人がやっぱり苦手だ。怖い。コミュニケーション障害だ。
それは、ボクが僕を見る目。でも、ある一定な基準においては、他者から見たボクはコミュニケーション能力は高いように見えるという。
こういったらこう思われるのではないか、こうしたらこういった反応になるのではないか、ということをシミュレーションしているからである(意識的、無意識的に)。
だから、絶対的に疲れる。。。
人と話をすることで満たされて元気になる……という人のことはやはり、自分は良く分からない。
今までもそうだけれども、やっぱり、こうして、もしくは誰にも見られない紙のノートに自分の言葉を延々と書き綴っていった……それによって気持ちは整理されていくのだ。
もちろん、それは、他者に話すことで同じ効果があるとボクも思う。誰かに相談して、心が軽くなったというのは、まさにそういう仕組みだと思う。
ところが、僕らのような(仲間が欲しいから「ら」という言葉を付け加えた)コミュ障は、他者がいると、その他者が、ボクの相談を聞いたことで「こんな風に思うのではないか」「こんな風に感じられているのではないか」というのも同時に想定が走るのである。自動的に、だ。
そうしてさらに、「ちゃんと聞いてくれているようでも、実は裏では違うことを感じているのではないか」という疑念も生じるのである(信じたいという気持ちも同時にあったとしても、だ)。
だから、もう誰もいらない、と。ひとり、孤独に書いていくことで、それが誰の目に留まることもないとしても、ボクは確かにここに生きていたんだ、という気になって……なのかどうかはわからないが、気持ちは落ち着くのである。
ボクはたぶん、中学? 少なくても、高校1年生から、そうしてやってきた。
その、書くということについて、いつかは卒業できるのかと思ったこともあったが、まぁ、きっとこれは、これからも続くのかもしれない。
しかし、どうだろう。このブログの場所が、リアルの人にばれて晒されてしまったら、それはとても嫌な気持ちになる。きっと素早く閉鎖することだろう。
そもそも、誰も、そんな、ボクのことなど知りたくないはずなのである。そんな暇ないのだ絶対に。帰ってかわいい子供の顔をみて和んだり、日々家事に追われたり介護したり、そもそも激務で残業だったり……。
みんな忙しいのに、こんなブログだれも本当はみたくないはず。
それに、特定の何かを批判したりしているわけではなく、ただ、自己の内面を書いているだけだから、「うわ……気持ち悪い中年……」とは思われることだろうが、別に炎上はしないと思うのだ、多分。
「痛い大人wwwww」みたいに煽られるだろうとは思う。最近耳にするようになったのは「お気持ち表明」みたいな。
そこらへんは分かっているのである。
でも、別にお気持ち表明してもいいじゃん? とも開き直っている部分もある。
ただそれは、やっぱり、リアルとは別だからである。利害関係ある人が知ったら、「なめられる」もしくは「気持ち悪がられる」から、今後のコミュニケーションがうまくいかなくなるだろうことが考えられる。
それは単にデメリットしかない(たぶんお互いに)なので、バレたくない、というわけなのだ、と、初めて分析してみた。
何となく思っていたことだが、書いてみるとそういうことだな。
いやそもそも、実名でブログ書くメリットが何もない、というのが前提なのであるが。
別にボクは、リアルにおける○○(氏名)を癒したいとかそういう思いはないのだ。
ボク自身(氏名とかに関係ない、「魂」みたいなもの。レーゾンデートル? なんといえばいいんだっけそういうの。アイデンティティ……とも違う。なんだ、キルケゴール氏風にいえば、本来的自己……?)について整理したいという思いが一番なのだ。
だから、リアルのことはあまり関係ないと思っている。難しいな、関係なくはない。身体はまさにボクなのだから。ボクにまつわる全ても、リアルは関係している。ただ、表現したいのは、リアルのボクと他者存在との関係ではなく、「本来的自己の在り方」なのである。
まえがき
普段と違うことをするとやっぱり疲れる。新しいことをし続けないと暇、という人もいるだろうけれども、ボクはもともと、同じことを繰り返しても楽しいと思っていた、むしろそれが安心安全に思っていた。
自己分析
「傾聴」の訓練みたいな場だった。大勢の前で話したり聞いたりすることが多くあって、疲れた。
しかし、ボクの話し方の、トーンとか表情、態度など、安心して話せるし、よく聞いてもらえていると言ってもらえた。
自分の中では、コミュニケーションにすごく苦手意識があるが、いわゆる「テクニック」と、実践と感情を紐づけるようにすれば、表面的には「ふつう」に振舞えるということなのだろう。
それは、口に出していることと、心とが真逆なことをいっているサイコパスという意味ではない。
基本的に、人混みやら、身体的な安全が脅かされるような状況においては心理的負担がかかっているが、そうではない時は別にそんな負の感情ばかりなわけではないのだ。
知らない人との交流
それでも、知らない人と話すのは疲れる……。会議の前日などは、よく眠れなくて、明け方に目覚めたりした。
心身的に、気にしないようにしていてもやっぱり負担にはなっているのだなと思った。身体は正直である。
オンライン上は、アバターというか、「身体」の制御がいらないので、その点の負担が少ないのがとてもよいのだと思った。
身体を維持するのが難しい。。
例えば、ネットゲームしているとき、フレンドと話をしているとき、もう眠くて話したくない……みたいな状況になったとしても、ある程度交流を続けることができる。身体があるリアルベースの交流の際はそれができない。
さらに、身体ベースの場合は、いくら楽しい飲み会を過ごしたとしても、その後、公共交通機関で帰らなければいけない。これも面倒くさい。
褒められて嬉しかったことは確か
自分の振る舞いが褒めてもらえて、嬉しかったことは事実である。それは確かに、オンライン上では得られないことだったのかもしれない。
それでも、ボクは、やっぱり、オンラインの関係は悪くないと思う。悪くないというよりも、そっちの方がよいと思う。
こう見せたいという自分
自分の全部を認めて、そして、愛して欲しい……そんなことは、赤ん坊や幼児期以外不可能だ。他者とは、適切な距離というか、付き合い方が必要だ。
コミュニケーション力というのは、幅広い人という存在のパターンに、より多く対応できる技術といってよいだろう。
コミュニケーションとは、情報伝達のことだ。コミュニケーション力というのは、情報伝達する力のことだ。
しかし、それはどういったものか、それを数値化するにはどうしたらよいのか? という課題を出されたら、それは、より多くの人に好ましいと思われるということだろうと思う。
共通のプロトコルというのが、ビジネスマナーである。プロトコルというのは規格のことだ。
いろんな考えがあっていい。色んな人の感じ方があっていい。それでも、この部分は共通化をはかりましょう……というのが、マナーというものだ。だから、それすら、別に絶対的なものではない。
法律という体系はとても優れているとは思うが、それも、人間が開発したツールである。絶対普遍に正しいものではない。多くの人間が「よいと思う」という価値の共有がはかれて、そして、共感できるから今の法律が優れているということになる。そして、問題発生が少ないというのが維持すべきという条件だ。
色んな人に好かれても
100人に、1%「いいね」と思ってもらえるよりも、1人に100%いいねって思ってもらった方が良いのか。100人に、100%「いいね」って思ってもらいたい。そうある方が望ましい。
極端な数値化に意味はない。前者も後者も、どちらも不可能で、そのバランスでしかない。
基準は、今、であるだろうと思う。今、30人に25%いいねって思ってもらえるのなら、それが、60人に30%いいねって思ってもらえるようになったら「幸せ」かもしれない。
そもそも他者が必要なのか
FF14でフレンドと遊んで楽しいと思う経験をする前までは、「他者不要説」を唱えていた。どうやって、一人でも、……いや厳密に一人はきっと耐えられないが、少数でも、共感してくれたり、反応してくれる友人をつくって、最高に満足に人生を過ごすか、それがテーマであった。
しかし、いくら「表面的」な関係であったとしても、他者と付き合って行動するというのは、悪いことではないというよりも、むしろ今までにないようなとても素晴らしい経験だと思えるようになったこと、それはここ数年2~3年ぐらいのことだったと思う。
いまでも、喪男な独り身であることはかわりないのである。そのことについての、肯定感を得たということではなくて、それはむしろ、6年~7年前に、そういった方向性になってきていたと思う。いわゆる離婚した後ぐらいだと思う。
色んな意味で、「離婚してよかった」と思っている。離婚は切り出されたのであるから、とても哀しいできごとだったが、それ自体は、とてもむしろ相手に感謝すべきに思う。
このブログとして価値があるとすれば、離婚して、もしくはしそうでとても困っている諸氏がいたときに、思った以上に「大したことがない」ということであるということを伝えられることである。
引っ越しとか財産分与とか、役所の諸手続きとか、双方家庭の云々とか色々あるとはいえ、一つずつこなせば大したことない。時間はかかるかもしれないが。
むしろ心配懸念すべきは、心理的な面だが、それは、繰り返すと、今はそれでよかったと思っている。
歳をとっても色んな経験ができるし感動できる
もう30代後半である。恐ろしい。完全に中年。初老も近い。
それでも、FF14やったことで、色んな世界や価値観が変わったのはすごいと思った。FF14というよりも、オンラインゲームというものをやったということだろうか。オンラインゲームはやったことがあるから、MMORPGをやったということが大きかったのか。
これが、「モテ」を目指して、テニスサークルとか入っても、絶対つまらなかったと思う。
ボルダリング(壁上る奴?)は楽しそうだと思ったけれども。
もっと周りに、ゲーム好きな友人が(これはリアルの中で)いたら、もっと早くから楽しい人生おくれてたのだろうか。
ある意味、「優秀」な友人ばっかりで、あんまし心を開けなかったのかもしれないな。
数人は、ネットカフェとか行って、一緒に遊んでくれた。一時期はすごくたくさん行ってた。それは楽しかったし、その友人とはたまに会いたいとも思う。
でも、「会う」労力を考えると、自分で企画したり、会いに行ったりとか行動を起こすまでにはならない(ごめんね……かっこわらい)。だから、誘われたら嬉しいのだけれども(かっこわらい)。
基本、自分から誘ったり相互の関係がないと、ゆるやかに、もしくは急速に関係は離れている。
人間関係にもメンテナンスが必要だ。
人間関係の維持
お金ってやっぱり便利だと思う。人間関係の維持って、すごく難しいことだ。時間が必要だ。考える力(相手が望むこと、ものを思い描くこと)も必要だ。
一方で、お金があると、スーパーにいって、食料を買うことができる。
「お前は、気に食わない奴だから、売ってやらない」
とはならない。人間関係は不要だ。最低限は必要だった……しかし、無人レジの普及でそれすらもいらなくなってきている。
人間って、ほんとに、人間とかかわることをストレスとして感じているのだ。
知らない人と話すと、ストレスになるのだ(と、まわりまわって、最初の方に書いていたことに戻っていく)。
だから、これからも、人間関係は、ある方面ではどこまでも希薄化して、ある方面では濃厚に……それは、寂しいから、どこか反動的に他者を求める面もでていくのではないかと思う。
人は
人は、人の世界でしか生きられない。オンラインも、仮想空間もメタバースも、それは人が作った世界である。
社会といわれる、法律や資本主義でなりたつ世界も、それもまた人が作った世界だ。
ボクは、人がやっぱり苦手だ。怖い。コミュニケーション障害だ。
それは、ボクが僕を見る目。でも、ある一定な基準においては、他者から見たボクはコミュニケーション能力は高いように見えるという。
こういったらこう思われるのではないか、こうしたらこういった反応になるのではないか、ということをシミュレーションしているからである(意識的、無意識的に)。
だから、絶対的に疲れる。。。
人と話をすることで満たされて元気になる……という人のことはやはり、自分は良く分からない。
今までもそうだけれども、やっぱり、こうして、もしくは誰にも見られない紙のノートに自分の言葉を延々と書き綴っていった……それによって気持ちは整理されていくのだ。
もちろん、それは、他者に話すことで同じ効果があるとボクも思う。誰かに相談して、心が軽くなったというのは、まさにそういう仕組みだと思う。
ところが、僕らのような(仲間が欲しいから「ら」という言葉を付け加えた)コミュ障は、他者がいると、その他者が、ボクの相談を聞いたことで「こんな風に思うのではないか」「こんな風に感じられているのではないか」というのも同時に想定が走るのである。自動的に、だ。
そうしてさらに、「ちゃんと聞いてくれているようでも、実は裏では違うことを感じているのではないか」という疑念も生じるのである(信じたいという気持ちも同時にあったとしても、だ)。
だから、もう誰もいらない、と。ひとり、孤独に書いていくことで、それが誰の目に留まることもないとしても、ボクは確かにここに生きていたんだ、という気になって……なのかどうかはわからないが、気持ちは落ち着くのである。
ボクはたぶん、中学? 少なくても、高校1年生から、そうしてやってきた。
その、書くということについて、いつかは卒業できるのかと思ったこともあったが、まぁ、きっとこれは、これからも続くのかもしれない。
しかし、どうだろう。このブログの場所が、リアルの人にばれて晒されてしまったら、それはとても嫌な気持ちになる。きっと素早く閉鎖することだろう。
何故リアルでは嫌なのか
オンラインと、リアルは、どうしても分けたい……。そもそも、誰も、そんな、ボクのことなど知りたくないはずなのである。そんな暇ないのだ絶対に。帰ってかわいい子供の顔をみて和んだり、日々家事に追われたり介護したり、そもそも激務で残業だったり……。
みんな忙しいのに、こんなブログだれも本当はみたくないはず。
それに、特定の何かを批判したりしているわけではなく、ただ、自己の内面を書いているだけだから、「うわ……気持ち悪い中年……」とは思われることだろうが、別に炎上はしないと思うのだ、多分。
「痛い大人wwwww」みたいに煽られるだろうとは思う。最近耳にするようになったのは「お気持ち表明」みたいな。
そこらへんは分かっているのである。
でも、別にお気持ち表明してもいいじゃん? とも開き直っている部分もある。
ただそれは、やっぱり、リアルとは別だからである。利害関係ある人が知ったら、「なめられる」もしくは「気持ち悪がられる」から、今後のコミュニケーションがうまくいかなくなるだろうことが考えられる。
それは単にデメリットしかない(たぶんお互いに)なので、バレたくない、というわけなのだ、と、初めて分析してみた。
何となく思っていたことだが、書いてみるとそういうことだな。
いやそもそも、実名でブログ書くメリットが何もない、というのが前提なのであるが。
別にボクは、リアルにおける○○(氏名)を癒したいとかそういう思いはないのだ。
ボク自身(氏名とかに関係ない、「魂」みたいなもの。レーゾンデートル? なんといえばいいんだっけそういうの。アイデンティティ……とも違う。なんだ、キルケゴール氏風にいえば、本来的自己……?)について整理したいという思いが一番なのだ。
だから、リアルのことはあまり関係ないと思っている。難しいな、関係なくはない。身体はまさにボクなのだから。ボクにまつわる全ても、リアルは関係している。ただ、表現したいのは、リアルのボクと他者存在との関係ではなく、「本来的自己の在り方」なのである。
今日の一言「初日が終わった」
自分の持てる力を使って、何とかしていくしかない。
と書くと、マイナスのイメージがある。
しかし、100%というのは、100%なのだ。120%を出せるのなら、それは100%の基準が間違っていたということではなかろうか。
さらに、プロ野球選手たちでも、自分のもてる力を必ずしも100%出せるわけではないだろう。最高のコンディションにするということも、またプロとしての大事な技術なのだろうけれども、「全力を出すだけです」というコメントというのはそういうことだと思う。
その試合に臨む前に、どれだけ練習して、力を蓄えてきたのか。その力を存分に発揮するのが試合なわけで、試合中に成長するとかは、エンタメの世界なのだ。
逆にだから、バトル中に覚醒する少年漫画的な奴は面白かったりするのだろうけれども。
ただ、帰りながら、ラーメンを食べながら思ったのは、帰ってきたら、昨日の音読(ボイチェン)用の記事をかいてみよっかな、ということだった。
昨日の奴、……その、なんというか、個人的には、そんなに「気持ち悪くはない」と思った(かっこ笑)。
自分の声の音読よりも、ずいぶんか楽しい気がする。
美少女じゃなくても、いち女性として自分の書いた文章を読んでくれるってのは中々面白い体験だなと思ったのだ。
なんだろ、女性だから、というのもあるのだろうけど、「他人感」があっていいよな、と思った。
なんというか、イマジナリーフレンド、みたいな。想像上の友達。
だけど、現実は現実として、仮想現実は仮想現実として、どちらも現実という枠組みの中で存在しているのである、という感覚だ。
ラニアケア超銀河団みたいな……ちょっと違うかな。天の川銀河すら、無数の銀河の一部でしかない、という。
体温を感じるリアルな他者というのも、間違いなくリアリティーであるが、バーチャルの中に存在する他者というのも、「次元」が異なるだけで、同じリアリティーといっていいのではないか、ということだ。
とと。あんまり書くと、音読が大変になるだろうから、ここまでにしておく……。
まえがき
新しい年度、新しい職場、新しいメンバー、ということで、やや緊張していたが、まずは1日を終えることができた。自分の持てる力を使って、何とかしていくしかない。
と書くと、マイナスのイメージがある。
しかし、100%というのは、100%なのだ。120%を出せるのなら、それは100%の基準が間違っていたということではなかろうか。
さらに、プロ野球選手たちでも、自分のもてる力を必ずしも100%出せるわけではないだろう。最高のコンディションにするということも、またプロとしての大事な技術なのだろうけれども、「全力を出すだけです」というコメントというのはそういうことだと思う。
その試合に臨む前に、どれだけ練習して、力を蓄えてきたのか。その力を存分に発揮するのが試合なわけで、試合中に成長するとかは、エンタメの世界なのだ。
逆にだから、バトル中に覚醒する少年漫画的な奴は面白かったりするのだろうけれども。
本文などない
かくことがそもそもないから、本文も、まえがきも、あったものじゃない。ただ、帰りながら、ラーメンを食べながら思ったのは、帰ってきたら、昨日の音読(ボイチェン)用の記事をかいてみよっかな、ということだった。
昨日の奴、……その、なんというか、個人的には、そんなに「気持ち悪くはない」と思った(かっこ笑)。
自分の声の音読よりも、ずいぶんか楽しい気がする。
美少女じゃなくても、いち女性として自分の書いた文章を読んでくれるってのは中々面白い体験だなと思ったのだ。
なんだろ、女性だから、というのもあるのだろうけど、「他人感」があっていいよな、と思った。
なんというか、イマジナリーフレンド、みたいな。想像上の友達。
寂しい奴だな
いやいや、気持ち悪いのは分かっている。だけど、現実は現実として、仮想現実は仮想現実として、どちらも現実という枠組みの中で存在しているのである、という感覚だ。
ラニアケア超銀河団みたいな……ちょっと違うかな。天の川銀河すら、無数の銀河の一部でしかない、という。
体温を感じるリアルな他者というのも、間違いなくリアリティーであるが、バーチャルの中に存在する他者というのも、「次元」が異なるだけで、同じリアリティーといっていいのではないか、ということだ。
とと。あんまり書くと、音読が大変になるだろうから、ここまでにしておく……。
あとがき
(かっこ書きである。サンプル音声。うーん、あれだ、マイクに録音するときの音量が大事だな。夜だからということで、小声でしゃべってると、Wav編集しても、雑音の処理が非常に難しくなる。声の録音の際の雑音処理のテンプレート(ノイズゲートのかけかた、とか)とかありそうだけど、なかなか見つからない。そしてこのブログ、ファイルアップサイズが2MBまでなのか……。ほんと少ないな。2分未満ぐらいにしないと2MB超えてしまう。)
今日の一言「いろんな技術があるのだなぁ」
そもそも、直接声を変換する技術……すなわち「ボイスチェンジャー」というのは、どんな感じになっているのだろう、いまどきは、と思った。
色々調べてみると、DAWソフトを使用するものだったり、単体で動くものだったり、これまたたくさんあることが分かった。
というわけで、とりあえず、無料で単体で動作する「恋声」というものを使ってみた。
↑という上の文章を読んでみようと思う。
雑音が、、ひどいが、簡単に音声ファイルを作成することができた。
設定は、
・ピッチ 13~14
・フォルマント 3~4
ぐらいにすると、男声から女声に変換できる。
・参考動画(がそりんチャンネルさん)
・参考動画(ゆあさん。恋声とエフェクトの設定公開! )
ボイチェンはあくまで補助ツールであり、大事なのは最初から通す自分の声自体ということだ。ボイトレ大事ということか。
ちょっと声の出し方を変えてやってみた。
サンプル音声2
雑音については、「SoundEngine」というフリーソフトで、「ノイズサプレッサー(雑音帯域低減)」というエフェクト?を使用したら少し抑えられた。
追記:前の記事にコメント頂けてたので試しに、返信を音声にしてみました。
サンプル音声3
動画作りはほんと大変だ思った以上に。時間もかかる。
そのかかった時間に対しての、自分の体感時間は全然少ないのだけれども、「えっ、もうこんなに経ったの?!」と驚く。
たかだか、30秒~40秒の上のサンプル作るのに、1時間半かかっている。もちろん、色々と、設定を変えてみたり、発声のしかた変えてみたり、サウンドエンジンのエフェクトで雑音を減らすにはどうしたらいいか試したり……いろいろやっていたからだが。
そういうことを、効率化していけたら、もっと素早く作れるようにはなるのだろうとは思う。
しかし、そもそも、そこまでして「発信したいこと」というのは特にない。
過去記事の音読を聞くというのはいいけど、それだと、VOICEVOXで読んでもらった方がいい気がする。
Seiren Voice
こっちは、ニコニコ動画の会社?ドワンゴ? が開発したようだが、サンプリング(録音)した音声を、文節(単語?)に区切った上で、VOICEVOXのようなキャラクターが改めて呼んでくれるという方法のようだ。
ヤマハが持田さん(ドリカム?)のなりきりマイクというのを作ったというのをニュースで見たことがあって、それと近い方法なのかな、と思った。
なりきりマイク
SeirenVoiceの方は、変換に時間がかかっているため、リアルタイム出力ができない。その点で、なりきりマイクはリアルタイム変換している(とはいえ、若干の誤差があるのだろうが)のがすごいと思う。
どちらの技術も、「自分の声」自体というのは、全くなくなっているのだと思う。「歌い方」「しゃべりかた」という情報をもとに、声を再変換している、というイメージである。
一方で、最初にあげた恋声などは、ピッチやフォルマントといった設定値を元に戻すと、自分の元の声に戻すことができるのでは、と思った。違うかな? でも合ってる気がする。
逆に言うと、十人十色の声、ということなのだろうな。たぶん。
後者の技術は、キャラクターボイスということで統一されるのであろうと思う。
というか、そもそも、人間の声って、80億人とかみんな違うのだろうか?
そういえば、リアルの人と話している時も、確かに、この人はこの人の声だな、と識別できている気がする。それってよく考えたらすごい……のか?
でも、「おばさん声」とか、若い人の声、とかあったりするよな。声も歳とともに変わるものなのか。
うーん。世の中知らないこと多いな。声のこととか、いままで一切考えたこともなかった。小説とかでも、声についての表現がされている作品はあったのだろうが、あんまり読んだ記憶がないなぁ。「若い男の声が聞こえた……」みたいな描写で、ふむふむ、と納得してた気がする。でもその瞬間に、「若い男の声」というのは、自分の頭の中には再生は「されていない」のである。
まえがき
VOICEVOXという、テキスト読み上げソフトの技術力に感嘆したと先日書いた。そもそも、直接声を変換する技術……すなわち「ボイスチェンジャー」というのは、どんな感じになっているのだろう、いまどきは、と思った。
色々調べてみると、DAWソフトを使用するものだったり、単体で動くものだったり、これまたたくさんあることが分かった。
というわけで、とりあえず、無料で単体で動作する「恋声」というものを使ってみた。
↑という上の文章を読んでみようと思う。
実践
サンプル音声雑音が、、ひどいが、簡単に音声ファイルを作成することができた。
設定は、
・ピッチ 13~14
・フォルマント 3~4
ぐらいにすると、男声から女声に変換できる。
・参考動画(がそりんチャンネルさん)
・参考動画(ゆあさん。恋声とエフェクトの設定公開! )
ボイチェンはあくまで補助ツールであり、大事なのは最初から通す自分の声自体ということだ。ボイトレ大事ということか。
ちょっと声の出し方を変えてやってみた。
サンプル音声2
雑音については、「SoundEngine」というフリーソフトで、「ノイズサプレッサー(雑音帯域低減)」というエフェクト?を使用したら少し抑えられた。
追記:前の記事にコメント頂けてたので試しに、返信を音声にしてみました。
サンプル音声3
結果どうなんだろ
作業自体は、「簡単」とは思うけれども、一般的に世のYoutubeで出回っているクオリティに近づけようとすると大変だなぁとは思う。動画作りはほんと大変だ思った以上に。時間もかかる。
そのかかった時間に対しての、自分の体感時間は全然少ないのだけれども、「えっ、もうこんなに経ったの?!」と驚く。
たかだか、30秒~40秒の上のサンプル作るのに、1時間半かかっている。もちろん、色々と、設定を変えてみたり、発声のしかた変えてみたり、サウンドエンジンのエフェクトで雑音を減らすにはどうしたらいいか試したり……いろいろやっていたからだが。
そういうことを、効率化していけたら、もっと素早く作れるようにはなるのだろうとは思う。
しかし、そもそも、そこまでして「発信したいこと」というのは特にない。
過去記事の音読を聞くというのはいいけど、それだと、VOICEVOXで読んでもらった方がいい気がする。
異なる技術
上のボイスチェンジャーは、音を直接変換するタイプだが、新しくAIを活用した技術もあるということだ。Seiren Voice
こっちは、ニコニコ動画の会社?ドワンゴ? が開発したようだが、サンプリング(録音)した音声を、文節(単語?)に区切った上で、VOICEVOXのようなキャラクターが改めて呼んでくれるという方法のようだ。
ヤマハが持田さん(ドリカム?)のなりきりマイクというのを作ったというのをニュースで見たことがあって、それと近い方法なのかな、と思った。
なりきりマイク
SeirenVoiceの方は、変換に時間がかかっているため、リアルタイム出力ができない。その点で、なりきりマイクはリアルタイム変換している(とはいえ、若干の誤差があるのだろうが)のがすごいと思う。
どちらの技術も、「自分の声」自体というのは、全くなくなっているのだと思う。「歌い方」「しゃべりかた」という情報をもとに、声を再変換している、というイメージである。
一方で、最初にあげた恋声などは、ピッチやフォルマントといった設定値を元に戻すと、自分の元の声に戻すことができるのでは、と思った。違うかな? でも合ってる気がする。
逆に言うと、十人十色の声、ということなのだろうな。たぶん。
後者の技術は、キャラクターボイスということで統一されるのであろうと思う。
というか、そもそも、人間の声って、80億人とかみんな違うのだろうか?
そういえば、リアルの人と話している時も、確かに、この人はこの人の声だな、と識別できている気がする。それってよく考えたらすごい……のか?
でも、「おばさん声」とか、若い人の声、とかあったりするよな。声も歳とともに変わるものなのか。
うーん。世の中知らないこと多いな。声のこととか、いままで一切考えたこともなかった。小説とかでも、声についての表現がされている作品はあったのだろうが、あんまり読んだ記憶がないなぁ。「若い男の声が聞こえた……」みたいな描写で、ふむふむ、と納得してた気がする。でもその瞬間に、「若い男の声」というのは、自分の頭の中には再生は「されていない」のである。