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ブラックホールについて
2020/05/20 22:41 | Comments(3) | 思考及び書くこと
今日の一言「特殊相対性理論が先で一般が後」

まえがき

 タイトル的に、物理の話になりそうじゃないか。
 ところが、まず書いておこうと思ったのは、「判断」的なことである。正直、今、それほど熱量を持てていないのだけれども、今日の昼ぐらいに、急激に、「これは書かねば!!!」と思ったので、書く。

データによる判断

 昨今の自粛の件である。
 某著名人の方の一部は、「自粛なんて意味がなかった。経済を破壊しただけだった」という主張をなされている。

 結果的に、経済はかつてないほど冷え込んだ。これは事実に思われる。

 ただし、自粛をすることが誤りだったのかどうか、これは分からないと思うし、僕が仮に判断する立場なら、自粛すべきという判断をしたと思う。

 これは深い思考の下ではない。単純に、経済は取り返しがつくが、死んでしまったら取り返しはつかない、という点だけである。――いやすぐさまに、経済も取り返しがつかないということも言えるし、経済によって死ぬ人もいるだろう。

 ただし、十分な情報がない中、爆発的に広がる可能性があり、死に至る感染症が、どういった影響があるかを考えれば、多くの人の判断は自粛やロックダウンを支持するだろう。
 今の段階だから言えることと、その状況下での制約の中で言えることとでは、まったく違う。



 ここで、逆に言えば、十分な情報を速やかに集められる状態でなかった、ということ自体が、敗北であったともいえる。
 医療現場のキャパシティはどれぐらいなのか。感染者数の増加率はどれぐらいが推測されるのか。そこから導かれる結果として、一日の感染者数がどれぐらいになれば、集中治療室のキャパを超えて医療崩壊が起きるから、この時点で感染者数がこれ以上であれば、ロックダウンをするしかない――、こうしたストーリーがあれば、その状況下でも多くの人は納得せざるえないだろうし、その後に、経済が想像以上に冷え込んだとしても、あの時の判断がああだこうだ、という人も少ないだろう(きっと、ゼロになることはない)。

 戦になる前の準備で、勝敗は決するのである。物語的にはつまらないけれども。ただ逆にその前提がある中での戦局を覆すような英雄的活躍は面白いだろう。

情報収集とストーリーが大事

 上のようなことは、時事的なことなのだが、仕事の上でも、どうにも、後出しじゃんけん的な発想をする人がいると、気力が下がる(なんだかなぁと思う)。

 後になってからああだこうだ言ってもしょうがないだろう。と思う。

 何故このことを、書いておかなければ(使命感)と思ったか、具体的な何かエピソードがあったのか、天啓だったのか、本当にもう全然覚えていないが、書かなければと思ったことは、確かこんなようなことだったと思う。

 書いてみると、なんとまぁ平々凡々である。

 数字は大事。ただ、数字に意味を与えるのは、またストーリーテラーである。

ブラックホールについて

 以上、面白くない話、終わり。
 ブラックホールの話をしよう。

 ブラックホールとは、光も抜け出せないほど強力な重力をもつ、高密度の天体である。

 光は一瞬、と表現されたりするが、光もまた有限の速さをもつ。確かに、比ゆ的に、1秒で地球を7週半する速さなので、地球で暮らす分には一瞬である。
 ただし、光でさえも、秒速30万kmという有限の速さをもつのである。

 そして、光は粒子の性質をもつ。ただし、質量はゼロなので、万物最高速度である。(超光速ニュートリノというのがあったような。検証されたんだっけ?)

 その粒子、フォトンが、人体の網膜という器官で反応すると、「見える」と脳が認識するのである。
 そのフォトンも脱出できなくする、それがブラックホールだ。

 どんぐらいの質量が、どんぐらいの密度になると、ブラックホールになるかというのは、計算式(方程式?)で求められる。シュヴァルツシルト半径と呼ばれる。

森羅万象最小の単位

 さて、細菌も小さいが、ウイルスはもっと小さい。電子顕微鏡がなければ見えない。電子顕微鏡がない時代においては、ウイルスは、「呪い」と同じだ。ウイルスを操作することができれば、その時代において大層権威な呪術師として名をはせるだろう。

 しかし、ウイルスも、万物の最小などではない。
 一昔前は、「原子」が最小と考えられた。
 今、そう思っている人は少ないだろう。
 クォークとか、素粒子が最小構成要素といわれる。

 それよりも小さいものは、あるのか、ないのか。

 一方で、万物の最小単位は決まっているらしい。

 それは、「10ナノ×ナノ×ナノ×ナノ」だという。
 ナノは、10億分の1である。
 10ナノは、1億分の1なので、数字で表すと下になる。

             1
―――――――――――――――――――――――――――
100,000,000×1,000,000,000×1,000,000,000×1,000,000,000

10×マイナス35乗

 まぁ、全然想像がつかない。
 ただ、意外と、絶対にこれ以上は小さいものはない、という単位がこれなのだといわれると、わりと「へー」という気になる。

 では何故これが最小単位なのか。
 これ以上は、原理的に見ることができないからだそうだ。
 これ以上小さいものを見ようとすると、ブラックホールが発生し、原理的に何も観測できないのだ。ブラックホールの先は、イベントホライゾン、事象の地平線の先である。

ものを観測するとは

 電子顕微鏡は、電子を放出し、観測対象にあてて、その反射によって(この表現が正しいかは不明)観測する。
 ウイルスが電子顕微鏡で見えるのは、電子よりもウイルスが大きいからだ。

 ちなみに、電子とクォークでは、クォークの方が小さいのだろうと思う。もっとも、電子も、粒子といいつつ、干渉縞実験が示すように波のような性質ももつ。厳密な大きさという概念はないのかもしれない。

 でまぁ、要するに、小さいものをみる、というのは、小さいものを放出して当ててはねっかえりで観測する、ということである。
 レーダーは光の反射、潜水艦のソナーは音波の反射で観測する(間違ってるかもしれない)。

 より小さなものをみるには、よりエネルギーが高い(波長が短い・高密度な)ものを放出する必要がある。
 小さく小さく、高密度に――としていくと、結果。
 ブラックホールになる、というわけである。

 その、ブラックホールになる大きさというのが、先の、10ナノ×ナノ×ナノ×ナノだということだ。
 だから、それ以上小さい世界は、無いに等しいのだ。

あとがき

(かっこ書きである。宇宙の開闢は138億年前といわれる。しかし、宇宙は膨張しつづけているので、もう、宇宙の果てには絶対に行けないのだ。しかし、超光速の移動手段が得られれば別だ。瞬間移動と、どこでもドアのようなワープは、原理的に違うように思える。瞬間移動は、超光速ないしは光速に近い移動速度のようなイメージである。ワープは、時空の歪みで移動するイメージである。サイエンスフィクションは夢があって面白い。人類はすごい)

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腰が痛い(民主主義とアンタゴニアス)
2020/05/13 05:30 | Comments(3) | 思考及び書くこと
今日の一言「タイトルが入り混じってる」

まえがき

 身体の、痛み、強く痛いとき、それでもなお思考を優先できる人を、僕は無条件に尊敬する。

 なんか、突然、腰が痛くなった。慢性的な肩こりはあるにせよ、腰が痛いということはあまり経験がなかったので少し驚いている。
 腰を、後ろにそらすような動きをするときに、体に電流が走るかのように激震する(大げさ)。そして、何も動かずとも、じわじわと、痛い。

 ぎっくり腰とかヘルニアとか、腰痛に苦しむ人の気持ちが、ようやく分かった気がする。
「痛み」
 これは、等しく平等なものなどではない。
 それぞれの痛みは、個性がある。
 みんな、人それぞれの痛みをもっている。

 要するに――「いてええええええ!!!」。


 まぁ、それはいい。今回は、民主主義に関して頂いたコメントと、アンタゴニアスを読んだということを書ければいい。

民主主義について

 コメントを引用する。飲尿と誤変換するところだった。

(引用A)
>・政治家はマニュフェストを守らない
・誰に投票しても変わんないから選挙に皆行かない
ここだけみると間接民主制は無理って思うわな。自分もそう思う。
でも、直接民主制もマジでくそだと思うよ。学生だった時にクラス全員で話し合いをして、まともな議論になったことってあります?会社での会議での意思決定のくそさ加減にうんざりしてないです?
少数での議論よりも多数での議論のほうが死ぬほど面倒くさい。

 確かに。間違いなく、少数で決めた方が早いし楽。
 決める過程が関係者が多いと、とにかく大変。
 そもそも、複雑な議題を、理解してもらうところから始めることになると、非常に労力。ただ、これが流行りの「説明責任」というやつで、無視できない。
 しかも、決めた後にも、不平不満、文句をいう人たちはゼロにはならない。

 だから、間接民主制は次善の策だ、と思う。

(引用B)
>また、多数決の結果が正しいでしょうか。今のコロナ騒ぎについて、国民全員にアンケートして方針を決めるなんてことしたら大変なことになりますよ。
・専門知識の不足(専門家は限られている)
・大半の人は知性も不足している(というよりも、能力が高い人は少ないという意味)
・国民全員で意思決定するための膨大なコスト(システム投資や全員で議論するために国会で議論するよりも時間がかかるため、その時間コストなどなど)
これらを補うのはできないことではない、でも、社会に膨大なコストを強いる。それは現実的ではないから間接民主制なんだと思います。間接民主制は社会的コストが比較して少ない仕組みなんですわ。この労働者数が減っている時代に直接民主制みたいな不効率なことしないほうがいいとおもう。
 確かに。多数決がいついかなるときも正しいというのは、成り立たない。


(引用C)
>もちろん今の間接民主制にもみんな思っているような問題があるからそういう話になるわけで、何が急所なんだろと考えてみた。
多分「政治家に対する監視機能」が圧倒的に欠如している。
既存のものは今の一般大衆(自分含む)にとって優しくないから、それだけだと難しい。
ここを何とかして、投票した政治家や政党が普段どんなことをしているか、きちんとわかって、それが投票結果に反映されるような仕組みを作り上げれば、間接民主制はもっと良くなるんじゃないかな。

 改善の方向性としては、「政治家・官僚・業界団体(圧力団体)に対する監視機能」強化、が考えられる。
 しかし、様々な社会問題に対して、適切に、あるべき論を語れる人はどれだけいるのか。

 引用Bにおける、「・大半の人は知性も不足している(というよりも、能力が高い人は少ないという意味)」というのはまさにそうだと思われ、これは、人はみなバカばっかりというのでは決してなくて、どんな人でも森羅万象に詳しいわけではない。

 引用Aにおける、政治家は誰もマニフェストを守らない、というのも、最初から守る気はなくて耳障りのいいことを選挙活動する人もいるかもしれないけれども、大半はそうではないと信じたい。守らないのではなくて、守れない――いざそれを実行しようとすれば、いろいろ問題があることが判明して、その問題の解決策が思いつかない、と、そんなことなんじゃなかろうか。

 結局、専門家や業界団体の言うことを聞かなければいけない。専門家が黒ということを赤というのは言いづらい。だから、専門家と呼ばれる人のうちで、自分の方向性に近しい人を有識者会議のメンバーに入れたり……とか、そういうこともあるのではないかと思う。何ら根拠はないけれども、逆にいえば普通そうする気がする。

 でもそんなこと我々は分からない。専門家の誰それがどういう人品でどういう主張でどういう権威でとか分からない。現実問題として、「監視」できる人がどれだけいるのか。

 うん、まとまりがないけれども、だからこそ、教育が大事で、国民全体の知性・知識の底上げが必要なんだなとふと思った。

アンタゴニアス

 こう、連載作品を読むのが少し苦手であるので、ある程度まとまってから読み始めようというそういう邪念によってこれまで読んでなかったが、ようやく、アンタゴニアスを、既投稿分まで読んだ。

絶罪殺機アンタゴニアス

 一気読みだった。(これは先日の話)
 僕の身体的な眠気と痛みが途中で襲ってきたが、それでも、止まらなかった。止まらなく面白かった。

 暗い目の男、ギド、ジアド、クロロディス――キャラが、濃い
 どうしたら、このような個性引き立つキャラクターを描けるのか。才と鍛錬の賜物なのだろう。
(僕はクロロディス氏がなんか好き。まだ真の目的とか正体とか分からないけれども。雰囲気好き)

 木曜日と、金曜日が定期更新の日らしい。楽しみである。まだ死ねない。腰が痛い(そう、書いている最中ずっと痛いのである)

あとがき

(かっこ書きである。腰が痛くて、目が覚めてしまった。――のかな? 分からない、仕事で気がかりなことがあるせいな気もする。寝る前にメディアのブルーライトを浴びているせいかもしれない。3時間ぐらいしか寝ていない気がする。今日は早く寝よう……。――と思うじゃん。早く寝ると、今度また、朝3時ぐらいに目覚めるわけだ。悪循環である。一方で、休日は10時間以上寝ている気がする。それでバランスとってるのだろうか。いや、どっかで、寝だめは人間できないのだと聞いたことがあり、それを信じている。鍛錬もそうだが、継続してやる(とる)ことが大事なのだ、たぶん。あ、あと、進撃の巨人の31巻(5月現在最新刊)も読んだ。どこまで面白いんだこの作品は。すごい。ストーリーの作り方がほんとすごいと思う。この展開が、いったいどの時点で想定していたのだろう。ストーリーの創作本的には、プロットを立てましょう、ということだけれども、たぶん、3~4年ぐらい連載しているのではないだろうか。そんな長期になるにあたって、最初からこの展開は想定されていたのだろうか。思ったよりも人気がでなくて、途中で打ち切りになったかもしれない。とにかく、伏線の回収もすごいし(地下室に幽閉されていた敵兵がここでまた登場するのかと感心)、まだまだ勢いがある作品だと思う。アイアムアヒーローもホント、面白かったのだ。最後の最後まで面白くて、ラストが、やっぱり打ち切り感があった。いや分かる。人間の多くは、何者にもなれずに、終わる。英雄になれる人なんて、ほとんどいない。だけれども、やはり、外連味でもいい、物語の主人公が、自ら準備し、行動し、何かを解決し、または何かを失うという結末になるべきだ。物語の傍観者のようになったり、都合よく助かったりするようなことがあると、最後の最後で面白いとは思えなくなる)

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氷は冷たいから痛いんだ
2020/05/10 05:02 | Comments(2) | イライラ対処
今日の一言「コーヒーの話」

まえがき

 午前3時……これは、朝なのか、夜なのか分からないが、取り敢えず、起きている人は少ない時間だろう。
 この時間に、「頭を白紙にしたい時のBGM」をかけながら、ブログを書くということほど、人生の幸せな時はないのかもしれない(大層大仰な表現)。

 僕はコーヒーが好きだ。これはまぁ、前から書いているし、多くの人がそうだろうし、特に身バレするようなこともなければ、珍しいことでもないだろう。
 でまぁ、家でもドリップ――といってもコーヒーメーカーで作るのであるが、アイスコーヒーの作り方について、その機械の説明書に書いてあって知ったのだが、先にポッドに氷をいっぱいにして、通常の方法でドリップするのである。

 へー。っと思ってやってみたら、確かに、上手に作れる。旨い。

 そろそろ、アイスコーヒーの時期になってきた。
 ということで、氷をいっぱいにして、作るのであるが、その氷も少しこだわって、スーパーなどで売っているロック氷を買ってくる。

 でその、ロック氷なんだが、冷たいんだ。

アイスコーヒーの氷の話

 なんかその、コメントを頂いた、そちらに返信せねばと嬉しくなる。
 もともと、何か書こうと思っていた気がするが、思い出せないから、とりあえず、この記事はもうコーヒーの話で終始しようかと思う。

 コーヒーの話ですらないんだ、氷なんだ。

 いやあの、ロック氷を、スーパーで買ってくるわけ。
 ロック氷って、何かというと、まぁ割と大きめの氷なわけですよ。ごつごつとしたやつ。
 なんでわざわざ氷を買うかというと、大きめの氷の方が、アイスコーヒーが美味しくできるから(理由は、温度というか、大きい氷の方が溶けにくいから、コーヒーが薄まらないだろうと思われるから)。

 スーパーから帰るのに時間があるわけ。
 そうすると溶けるの、わずかながらに(大きい氷の方が溶けにくいと書いたことと矛盾するようだが、まぁ、わずかながら、という意味)。

 そうすると、氷同士がくっつくわけ


 くっついた氷を、引きはがしながら、コーヒーポッドに入れていくわけ。

 これが、冷たいんだよ、手が。

手が冷たいという話

 ここまで書いて、カテゴリを、「イライラ対処」にした。
 いや、まぁ、その、そんなにイライラしていないんだけど、「思考」カテゴリとは程遠い内容だと自負したのである。

 いやでも、手が冷たいのは本当である。本当に「痛い」。

 であれば、もう冷凍庫で作れる小さい氷でいいんじゃないか、ということにもなるが、まぁそもそも冷凍庫で氷を作るのが若干面倒というのもある。


 それで、何故「痛い」のかと思いを巡らせた。

 それは、温度変化である。

 体温は、37.5℃を以上だと通常平熱ではないというらしいが、それと、0℃の氷とでは、温度が大きく異なる。

 熱は、中間を目指す。高い温度は低い温度に。低い温度は高い温度に。

 というわけで、僕の「痛い」手は、氷のほうに熱を奪われてしまうのだ。

 だから痛いのだ。
 だが、そこからもう一歩考えたい。

 温度が奪われるのは何故痛いのか。
 それは、僕らの細胞が壊れるからだ。

 分子活動。細胞の活動。
 それには適切な温度がある。0℃は、到底細胞が活動できない温度。

 急速に活動ができない温度に変化していくことによって、人間の痛みセンサーが「危険」判定し、脳に「痛い」という状況を伝達するのだ。

あとがき

(かっこ書きである。くっついたロック氷を上手く剥がす方法はないものだろうか、という記事であった。割とよくまとまった記事だと思う。言いたいことは分かりやすいだろう――それが面白いかは別として。固い部分に袋のまま叩きつければいいのでは? と思うだろう。実際それもやってはいるのだが、割と固く引っ付いてしまっていると、がんがん叩きつけても中々剥がれてくれないのである。朝4時にがんがんするのもどうかと思うし(近所迷惑)。精巧なアンドロイドを作ったとして、冷たいことに対しての痛みというのをインプットする必要はないだろう。0℃という温度でも活動できるとしたら、わざわざ痛いと思う必要はないのだ。痛みは、危険を知るためのシグナルだ。危険でなければ痛くなくてよい。――ただし、「精巧な」アンドロイドの場合であれば、その振る舞いが、それを見る側にとって人間的であればあるほど、日常的にアンドロイドと人間との違いを気にする場面が減るはずだ。となると、平然と作業しているアンドロイドを見て人間が不意にその、冷たい氷を触ってしまうかもしれない。氷ならば「冷たい!」となってすぐ手を放すが、逆に熱いものだったりすると一瞬で細胞構造が壊れてしまうかもしれない。――そんな当たり前のこと、と思うが、アンドロイド製造メーカーは、それによってやけどをしてしまった人に訴えられるかもしれない。社会問題になり、製造物責任法(PL法)に抵触し、今後アンドロイドを製造する際は、「痛み」に敏感にする機能を取り付ける必要が発生するかもしれない。ただ、それはコスト的にどうなのか。人間側が気を付ければいいのではないか。なんでもメーカー側に責任があるのか。法律で規制する必要があるのか。安全を求めることは重要だろうが、過剰な安全は、身動きを取りづらくし、正常な発展の阻害となる場合があるのではないか。テンキーの配置(1234……の並び)が逆のキーボードがあって、それによって数値の誤入力をし損害が発生した場合、キーボードメーカーが悪いのか。そんなキーボードがあったら確かに悪意があるような気はする(わざわざ表記された数字は見ないだろうから。でも画面は見るか))

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日々変化する
2020/05/08 06:12 | Comments(5) | 思考及び書くこと
今日の一言「フラットな状態とは」

まえがき

 身体的・精神的に落ち着いてきた、と先日書いた気がしたが、また落ち着かなくなった。
 思うに、おそらく、「フラット」という状態が、もはや幻想なのではないかと思った。

 つまり、僕が「落ち着いた状態」と望む状態というのは、現実的には存在しないものなのではないか、ということだ。
 よくよく思い出してみると、学生時代は、ほぼ毎日のように新しいことに出会っていた。
 そもそも学校の授業、という意味であれば、単元は毎日進む。かつ、家での勉強というのも前提とされていた。予習復習大事、よく聞いた言葉だろう。

 そう思えば、勉強は「きりがない」ことの筆頭選手だったはずだ。
 何せ、たとえクラスで一番点数が良いとしても、学年ではまだまだかもしれないし、他の学校も含めるとまだまだ、まだまだかもしれないし、全国と比べたらエトセトラ、である。

 世の中、そもそも、「ゴール」というものがなかったのだ。

 にも関わらず、人生のゴールというものを定めようという僕のこのブログの目的は(そうだったのか)、あまりにもナンセンスではなかろうか。

ゴール

 ただし、まぁ20代ぐらいであればいざ知らず、最近ここ数年の感覚として、「完璧なゴール」というものを、本当に想定しているわけではないだろう。
 日々の生活の中で、少しずつ成長と貢献をしていく、漸近的なモデルの提唱を、どこかで書いた気がする。

 しかし、例えば創作活動においたとしても、僕は、絵が描きたい。もっといえば、オープンワールドゲームのような、3Dモデリングとかしたい。もっと世界を創造したい。

 が、それは間違いなく、アウトソーシング(外部委託)したほうがよいだろう。
(いや、言い切らないほうがいいかもしれない、ただ、ここで言いたいこととしては適切)

 土台になる知識・技術は必要だが、人はみな、得意なことを伸ばすべきである。
 であるからにして、人は協力したほうが、すばらしい作品を生み出せるのだ。


 ということから考えると、やはり、「ゴール」というのは明確に定めるべきだと思われる。
「何を伸ばすべきか」を見据えなければ、自分に足りないこともわからず、アウトソーシングもできないからだ。


エレファント・テクニック

 ゴールは大事だ。
 だが、それを定めること自体が難しいことは往々にしてある。

 ゴールが決まっていれば、次は、それを実現する手段を選定する。
 手段が分かれば実行する。

 ゴール(目的)→手段選定→実行

 この流れで我々の活動は決まる。家族内行為でも、創作活動でも、仕事でも、何でもそうだ。

(例)
 部屋を綺麗な状態に保つ(目的)→掃除機をかける・食器を洗う→実行



 だが、ゴール自体がはっきりしないことは多い。
「利益を上げる」
 これは、目的といえば目的だが、こっから、手段を選び取るというのは、それ自体が困難だ。

 そういったときは、目的自体を、小さな目的に分割していく必要がある(エレファント・テクニックというらしい)。まず、利益とは、どのステークホルダのものなのか定義していった方がいいかもしれない。たいてい「自社」なのだろうが、顧客側の利益を上げるのか。

分割自体が目的でもよい

 と、いった、全体的な視点というのは大事かもしれないが、そもそも、僕らは歯車でもある。

 日本国憲法の第13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。この憲法が保障する生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とされている。

 個人として尊重されるのが、基本的人権のうんたらというやつだ。

 だが、見方をかえれば、歯車に過ぎない場面は多い。素晴らしいアニメ作品があったとして、しかし、その下支えする人たちは、歯車かもしれない。もちろん、蟲師のDVD特典のメイキングであったように、作画、撮影、音響それぞれの人たちが、それぞれの個性や能力をいかんなく発揮して素晴らしい作品ができあがっている。それでも、あえて厳しい、マイナスな言葉を使うとすれば、「歯車」である。交換可能だ、代替可能な部品だ。

 ――言い過ぎである、おそらく、「その人」でなければ、素晴らしい作品(-10ポイント)ぐらいになってしまったかもしれない。そのマイナスポイントのせいで、素晴らしいけど、ちょっと惜しいかなという作品になったかもしれない。



 だから、「歯車」という言葉は適切ではない。
 ゆえに、自分の持ち場を責任もって守る、最大限能力を発揮する、というのも十分有意義である。

言いたいことに辿り着かない

 時間切れが近づく。
 いやだからなので、上の小見出しでの主旨は、目的を定めて、手段を選んで、実行するという一連の流れを常に意識する必要はなくて、ただ、「実行する」というだけでもいいはずだ、ということだ。(たぶん、そういった思いで書き始めた気がする)


 ただし、そうはいっても、こと、自分の人生、ということにおいては、決して、ただ実行だけではなく、手段を選ぶだけではなく、その目的を、しっかりと見据えたほうがいいのではないか、と、僕はもうかれこれ10年ぐらい思っている気がする。

 もしかすると、20年ぐらい思っているのかもしれない。

あとがき

(かっこ書きである。ニュースで、パチンコ店の休業要請云々が昨今流れる。僕は(政治的なことは書かないが)パチンコは賭博だし、賭博は法律でダメってなってたはずだし、全部廃止でよいと思っている。タバコについても同様だ。ただ、これは僕は単なる僕の価値観に過ぎないと思っているし、パチンコが人生の目的という人でも、何ら構わないと思う(そういう人と付き合いたいかというのは別の話)。ただそれは、確か香川県だった気がするが、ゲーム禁止条例とか、そういったバカげた方向に世論が傾くことがないようにしないといけないから、パチンコも仕方がないね、という立場をとらざる得ない、ということである。大事なことは、ゾーニングだと思う。触れなくて済む権利、というのはあると思う。ただし、ゾーニングの土台にあるのは、自分の興味のないことに対する「理解」である。知らない人、知らないことに対する共感や理解の立場というか、スタンスがないと、ゾーニングは心理的な分離となり、敵味方に分かれていき、争い(他の排除)に発展していくだろう。ちなみに、上の禁止条例を「馬鹿げた」と表現したのは言い過ぎなのかもしれない。1日のうち24時間すべてをゲームに当てていては死んでしまうから、ほどほどに、熱中してもいいけれども、分別をもつようにしましょうね、と。特に子供たちは、その分別(どこまでが適切かの判断)が難しいから、親や地域社会が補助してあげましょうね、と、そういった心構えを定める条例なのかもしれない。そういうんならまだいいかもしれないけれども、ただ、そもそも僕らの行動を制限するようなルール(法・条例)なんかを設けることは基本反対である。いやもちろん、海外から帰国者で、検査すら拒否して、結局後からウイルス陽性だったとか馬鹿げた人がいるような国だから、規制というのは必要なのかもしれない。ただ、その規制というのは、生命に危険が及ぶ場合など、物理的――といえばいいかよい表現が浮かばないが、安全が脅かされるような場合のみに限るべきだと僕は思う)

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継続することは力になる
2020/05/05 23:45 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「人生逆算すると残り40年ぐらい」

まえがき

 RPG(ロールプレイングゲーム)のこと、対戦車砲ではない。RPGで、ヒットポイントが減って、0になったら、戦闘不能になったり、死亡する。

 しかし、実際、瀕死の状態、コンソールが赤く表示されている状態は、おそらく、まともに動ける状態ではないと思われる。
 そうすると、寿命のぎりぎりまで、まともに活動できるとは思わないほうがよいだろう。

特に目的はないのである

 特に、この記事に、到達点はない。

 ただ、こう、最近、ビールを飲まないと、記事を書けないのは、よくない気がする。
 ただ、今日で、ようやく、精神的、体力的には、フラットに戻った。

 フラット。平衡点。
 まともに、思考ができる。平和。落ち着いている。安心。意識的。

 とにかく、色々に意識を向けられる余裕が今はある。といっても、もう、23時なのだが。


 明日当たり、
 絶罪殺機アンタゴニアス

 を読もうか、

 魔導戦騎救国のアルザード

 を読もうか。

 そんな気持ちである。

鬼滅の刃

 俺は、「きめつのやいば」と打って、変換して、『鬼滅の刃』と変換されたことがやや不思議なのだが、鬼滅の刃を数話みた。

 面白い、気がする。
 ただ、全然系統が違うので比較できないが、イド > PET > 虚構推理 > 鬼滅の刃 的な順位ではないかと思う。やっぱり、イドは、最近見た中ではかなり面白い部類だったと思う。
 ――そう、文脈全く関係ないが、イドのOP、PETのOP、EDはかっこよかった。アマゾンMUSICとかで売ってたら買おうかな。


 で、鬼滅の刃だが、十分面白いと思うのだが、ストーリーとして、アマゾンの批判的レビュー氏の言ってることがよく分かるのである。
 その一つとしては、鬼滅隊に所属するための最終選別試験についてである。管理体制ががばがば過ぎる……というレビューであったが、僕もそう思う。
 もう一つは、これはネタバレだが、1話目のシーンだからまぁ書いてしまうが、主人公は、まだ一般人で、鬼に家族を殺されてしまったのであるが、家族の一人が鬼になってしまって、かけつけた鬼滅隊の男に、妹が殺されそうになるのである。主人公は立ち向かって、戦うのであるが、そのとき、鬼滅隊の男を殺そうとするのである。主人公はとても優しい少年であるという設定であって、その設定とちょっと合っていないように感じられた。
 そういった、場面ごとの、分人的な行動様式というのは、昨今珍しくないのかもしれないが、しかし、物語としてであって、しかも序盤であれば、その整合性というか、キャラクターの強調すべき部分は、可能な限り矛盾を抱かせないようなシーンにして頂いたほうがいいなぁと思ったのであった。


あとがき

(かっこ書きである。早いか、あとがきに入るのはあまりにも早すぎるか。しかし、まずは、毎日、ブログを、書く、ということと、筋トレと、そういえば、音読なんて最近全くしていなかったが音読とか、ちゃんとしたい。「元気」になってくると、ちゃんとしたいと思う。しかし、元気じゃなくなるのである。元気じゃないときは、ほんと、なんもできない。かろうじて、筋トレはしていた。しかし、かなりおざなりだった。そう、だから、「元気」なときに何ができるかは、もはやどうでもいいのだ。元気じゃないときに何ができるか。もっといえば、元気じゃなくなることをどう防ぐか。思うに、「読書」ではないかと思う。映画やアニメ――思い出した、ワイルドスピードの最新作も見たんだった――も悪くないが、それらは、どうでもいいテンションの時も見れてしまう。こう、ニュースを流しているレベルで。感情的な起伏も、思考の没入も必要なかったりする。やっぱり、読書は、何か違う、そんな気がする。いや逆なのか、読書は、「ちゃんと」していないとできないから、ある程度準備ができている状況だから、IN/OUTともに刺激が大きくて、それがゆえに「読書が必要だ」と思ってしまうのか。まず状況を分けなければいけない。完全に元気でなくなったときは、たぶん、読書はもうできる余裕はない。せいぜい、それまで積み重ねてきたルーティンを維持することで精いっぱいになるはずだ。だから、そうではない、元気が落ち込んでいくときに、どういう手段がとれるのか、そこをもう少し考えるべきだろう)

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