葉の定義をしたいのではない、すなわち、方法論と感覚のメモとなる。
読書に先立つものとして、思考を挙げる、しかしそれもまた順番に意味はない。
問題意識、それは生の欲望というよりも生き方である。経験を絶対視するわけではない、何せ経験こそそれを上回る経験に打ち消される程度のものだ。
すなわち順番ではない。
論理はコミュニケーションにおいては重要だが、生き方としての意味はそれほどではない。
なにせ、この順番のなさこそが、まさに生きるということなのだ。
論理といえる重要なものは諦めしかない。
そして矛盾、矛盾を説明する論理がすなわちその価値を否定する。
読書に先立つものとして、思考を挙げる、しかしそれもまた順番に意味はない。
問題意識、それは生の欲望というよりも生き方である。経験を絶対視するわけではない、何せ経験こそそれを上回る経験に打ち消される程度のものだ。
すなわち順番ではない。
論理はコミュニケーションにおいては重要だが、生き方としての意味はそれほどではない。
なにせ、この順番のなさこそが、まさに生きるということなのだ。
論理といえる重要なものは諦めしかない。
そして矛盾、矛盾を説明する論理がすなわちその価値を否定する。
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思索、というと、筋道をたてて深く考えること、とある。
だから、ある程度、見通しを立てて書かなければ、思索のカテゴリに入れるべきではないと思う。
ただ、「筋道」も「深く」も、主観とすれば、牽強付会にどうとでもできる。といえば詭弁でしかないだろう。
ともかく、朝起きる、というのは重要だ。とにかく、これを重視する。そのために夜寝る。この順番は、一般的な啓蒙書とはズレる。
「目的を持って、それを達成するための朝活用」というわけだ。
しかしこれも、かなり無理やり考えれば、「人生を上手くやるために必要なこと」としてしまえば、何らズレなどなく、その通りである。
この「次元」の問題は、かなり重要である。
そして、気分屋な私としては、次元など、しょっちゅう変わってしまう。
とにかく、この移り気な感覚を残したまま、ただ一つのことを考え続けるという、これはかなり難しいのだ。
問題は山積している。しかしそのどれも、問題を問題として認識しなければ、気付かない種類のものだ。
そして、気付かないというのも一つの努力であるし、方法でもある。という説明ができる以上、もはや、「正しさ」が尺度となることはない。
やるべきことを、やりたいことを、挙げていこう。
だから、ある程度、見通しを立てて書かなければ、思索のカテゴリに入れるべきではないと思う。
ただ、「筋道」も「深く」も、主観とすれば、牽強付会にどうとでもできる。といえば詭弁でしかないだろう。
ともかく、朝起きる、というのは重要だ。とにかく、これを重視する。そのために夜寝る。この順番は、一般的な啓蒙書とはズレる。
「目的を持って、それを達成するための朝活用」というわけだ。
しかしこれも、かなり無理やり考えれば、「人生を上手くやるために必要なこと」としてしまえば、何らズレなどなく、その通りである。
この「次元」の問題は、かなり重要である。
そして、気分屋な私としては、次元など、しょっちゅう変わってしまう。
とにかく、この移り気な感覚を残したまま、ただ一つのことを考え続けるという、これはかなり難しいのだ。
問題は山積している。しかしそのどれも、問題を問題として認識しなければ、気付かない種類のものだ。
そして、気付かないというのも一つの努力であるし、方法でもある。という説明ができる以上、もはや、「正しさ」が尺度となることはない。
やるべきことを、やりたいことを、挙げていこう。
例えば欧米が個人主義といわれるが、それでもなお孤立はしないことに注意しなければいけない。
飲み会の後の寂しさを思う、だけど、欧米ではそうならない、何故なら、常に手を取り一緒にいてくれる神がいるからだ。
冷酷な、時に殉教を厭わない宗教者たちを日本人は理解できない、けれども、自殺者の数を考えれば大した問題ではない。
自己をもつ人間は少ない。むしろ自由意志(意思)を否定する考え方もある。
果たして自分は自己をもっているか?
バリバリ仕事で活躍する自分、妻や子どもを愛し家庭を守る自分、誰もが自分についての認識はもっている。
しかしそれらは自己の証明にはならない、いや、その信仰具合ではもはや自己自身でもありえるが。
ただし、自己は、上記の自分の見出している価値に対して、自分を含めて再度価値を見いだす、いわばメタ価値をもって、初めてようやく朧気な輪郭がみえてくる。
そして重要なのは、その構造が再帰的であることだ。
常に自分を認識し続ける、そのプロセスこそ自己だし、人だといっていい。
この視点をもっている人は少なくはないと信じたいが、意外にもその表現者は少ないように思える。
ただこれは付加価値のようなもので、他者にこれらを求めるわけではない。
統括者なき思考は暴走し溺死するが、統括者に任せるのはともかく、統括者の存在を知らないのはドールである。
ちなみに重要なのは、かといって人に価値を見いだすべきという主張ではないということである。
飲み会の後の寂しさを思う、だけど、欧米ではそうならない、何故なら、常に手を取り一緒にいてくれる神がいるからだ。
冷酷な、時に殉教を厭わない宗教者たちを日本人は理解できない、けれども、自殺者の数を考えれば大した問題ではない。
自己をもつ人間は少ない。むしろ自由意志(意思)を否定する考え方もある。
果たして自分は自己をもっているか?
バリバリ仕事で活躍する自分、妻や子どもを愛し家庭を守る自分、誰もが自分についての認識はもっている。
しかしそれらは自己の証明にはならない、いや、その信仰具合ではもはや自己自身でもありえるが。
ただし、自己は、上記の自分の見出している価値に対して、自分を含めて再度価値を見いだす、いわばメタ価値をもって、初めてようやく朧気な輪郭がみえてくる。
そして重要なのは、その構造が再帰的であることだ。
常に自分を認識し続ける、そのプロセスこそ自己だし、人だといっていい。
この視点をもっている人は少なくはないと信じたいが、意外にもその表現者は少ないように思える。
ただこれは付加価値のようなもので、他者にこれらを求めるわけではない。
統括者なき思考は暴走し溺死するが、統括者に任せるのはともかく、統括者の存在を知らないのはドールである。
ちなみに重要なのは、かといって人に価値を見いだすべきという主張ではないということである。
書きたいことを書くわけだけれど、そういった呟きレベルでの面白さを感じさせてくれるものが非常に少ない。
呟きレベルで、複数の想定や思考を書いて欲しい、できなくても示唆くらいはして欲しいものだ。
主観的なのも客観的なのも面白くない。
けれどもこれだけでは面白くない。
くだらないカテゴリーだからこそ、その中で面白い人は目立つわけだけれど。
歳をとるほどに発生する安定思考というのが好きではないが、これだけ言えば勘違いされる、私は安定が大好きだ。
つまり自己を確定的に信じていくプロセスに興味がない。
わたしってこういうキャラだから~
あの子ってこういうタイプだよね~
こういうこという人は非常につまらない。
関係ないが、あの頃はよかったな~的なことをいう人にも辟易する。
非常に不愉快なことがあった日も絶対思わない。だって戻ったらまた体験だ(笑)
呟きレベルで、複数の想定や思考を書いて欲しい、できなくても示唆くらいはして欲しいものだ。
主観的なのも客観的なのも面白くない。
けれどもこれだけでは面白くない。
くだらないカテゴリーだからこそ、その中で面白い人は目立つわけだけれど。
歳をとるほどに発生する安定思考というのが好きではないが、これだけ言えば勘違いされる、私は安定が大好きだ。
つまり自己を確定的に信じていくプロセスに興味がない。
わたしってこういうキャラだから~
あの子ってこういうタイプだよね~
こういうこという人は非常につまらない。
関係ないが、あの頃はよかったな~的なことをいう人にも辟易する。
非常に不愉快なことがあった日も絶対思わない。だって戻ったらまた体験だ(笑)
絶対的幸福状態が即ち絶望となる
この心性は理解しがたい。
理想を描くのは自由だし、理想が現実になることはないため、永遠の夢想は続けられる。
苦痛者にも二種いることが分かる。求道的なそれと、冒頭のそれである。
どちらの苦痛が上位かは問題ではなく、ただ指摘しておくべきは、求道的な苦痛者は理想絶望的な苦痛者へと移行する可能性があるということだ。
そして、理想絶望の根本的な解決はないということだ。
ただ忙しいと感じる者は、休みを欲する。だが、では本来的な欲求とはなにか。休息、それを突き止めれば生命活動の停止ではないか。
うつ病患者に、ゆっくり休めというのは、「うつを治すため」だろう。であるならば、うつ病を患った彼彼女は如何にして救われるのだろう?
目的をもてと君はいう
人生はつらいこともあるけれど、楽しいことだってたくさんあると君はいう
そうだろう、きっとそれは正しい。
だが一体、その方策が救うのは一体だれなのだろう。
生き方は人生の先輩たちがそれは豊富に教えてくれる。
だが不思議なことに、生きる理由を誰も答えられないのだ。
そんなこと考えられるなんて幸せだねと君はいう
なら君は、何故そんなことを考えようとしないんだ!(笑)
そう、君は、心の中では、そんな思考がちっとも幸せだなんて考えてはいないのだ。
仲間だよ。僕もそう思う。
さて、では一体、幸せとは何だろう?
これに対してのこたえは既に出している。
それに対しての行動方策も出している。
しかし危うい、まるで確固たるものがないからだ。
つまり唯一の啓典となる。
この心性は理解しがたい。
理想を描くのは自由だし、理想が現実になることはないため、永遠の夢想は続けられる。
苦痛者にも二種いることが分かる。求道的なそれと、冒頭のそれである。
どちらの苦痛が上位かは問題ではなく、ただ指摘しておくべきは、求道的な苦痛者は理想絶望的な苦痛者へと移行する可能性があるということだ。
そして、理想絶望の根本的な解決はないということだ。
ただ忙しいと感じる者は、休みを欲する。だが、では本来的な欲求とはなにか。休息、それを突き止めれば生命活動の停止ではないか。
うつ病患者に、ゆっくり休めというのは、「うつを治すため」だろう。であるならば、うつ病を患った彼彼女は如何にして救われるのだろう?
目的をもてと君はいう
人生はつらいこともあるけれど、楽しいことだってたくさんあると君はいう
そうだろう、きっとそれは正しい。
だが一体、その方策が救うのは一体だれなのだろう。
生き方は人生の先輩たちがそれは豊富に教えてくれる。
だが不思議なことに、生きる理由を誰も答えられないのだ。
そんなこと考えられるなんて幸せだねと君はいう
なら君は、何故そんなことを考えようとしないんだ!(笑)
そう、君は、心の中では、そんな思考がちっとも幸せだなんて考えてはいないのだ。
仲間だよ。僕もそう思う。
さて、では一体、幸せとは何だろう?
これに対してのこたえは既に出している。
それに対しての行動方策も出している。
しかし危うい、まるで確固たるものがないからだ。
つまり唯一の啓典となる。
