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結婚出産と愛情
2011/12/06 23:03 | Comments(0) | イライラ対処
結婚するときは幸せ

出産後は女性から男性への愛情が下がる傾向にある。


育児に協力的でないからだそうだ。



ふと思い出した。

独身者に仕事の負担がかかる、小さい子がいる女性に残業はさせられない。


なるほど論理的には理解する、何故ならば男女雇用機会は均等だが、育児休暇や生理休暇は権利として認められるからだ。


ふと思い出した、沖縄の米軍の婦女暴行について、知らない、が、論理としては知らざるをえない。

この立場というものに対して給料が支払われる。なるほどね。



疲れたとか苛立つとかいった、ちんけな愚痴などいいたくなどないな。

人間への憎しみなど、今に始まったことではない、僕は温室育ちだが、幸せに育ったわけではない、もちろん自己中心的思考である。


それゆえに、理論はときに苛立ちを与えるに十分である。


根本をみずに、ただ表層で満足する人々……。


思いやりや助け合いという言葉に欺瞞しか感じないながら、それを理論とせざるをえない、それをマネジメントという。



……そして、理論と説明ありきなために、理解できないことは既に表面上存在せず、分からないものは永遠に葬られる。

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何か創造するとは、何かに触れること
2011/12/03 16:04 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
動画というより、曲だけれども。
ドラクエのフィールド曲集。↓




『嫌悪』
http://www5.atpages.jp/~lombardia/contribution.php?goto=detail&id=70

脈絡はないけれども、↑のリンクの小説は、最初に読んだ時のインパクトはもちろんなかったが、面白いと思った。


小説を書くにも
音楽を作るにも

何かを創るには、何か、よい作品、に触れることが大切に思える。


そして、何かを思考するにも、だ。

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情報の真偽
2011/12/01 07:53 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
ツイッターのトレンド機能が面白い

ドコモがクロッシィ(LTE)という技術で高速通信速度が5倍となるiPhoneに参入する

という情報に対して、
ドコモ
高速通信
クロッシィ

といったキーワードがトレンドになっていた。

と同時に、

12月だ

というのもトレンドに。このリアルタイム性というか、同期性は面白いと思った。



単体の情報は記憶に残りにくいが、総体的だったり興味があれば覚えるものだ。


昨日あるネット小説を読んで、まだ連載中だから、全部読む気などなかったのだけど、読みふけった。


別の記事でふれたいが、気付くとネット小説のカテゴリーがない。読書メモあつかいでいいかは悩むところだけど、カテゴリーは可能な限り集約したい。


ブログももっと体系的にしたい。
目的と目標の設定を再構築したい。



僕は思うに、言葉を扱うのが好きというよりも、言葉の体系が好きな気がする。

それは論理性ともいうかもしれないが、感情的なものや数式的なものも言葉で置き換えたい。

それは効率が悪いことだと分かっているので、思考を図示できるようにしたい。

その為のツールがないか探したい。


感覚的に図がかけて、メモして公開できるツール……、iPadになるのかな。

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信頼と信用を利用という観点から考える
2011/11/30 07:39 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
政治は信頼である
電車やパソコンは信用である


現代は、すべてのメカニズムを知らなくても利用ができる。

政治とは何かをいったとき、安全にご飯が食べられることであり、プラスアルファはそれぞれの国で憲法や法律で定められる。
でも、すべての法律の運用までを一般人は知ることができない。
だから、国会議員を選び、その人に政治を任せるのである。
そのとき、判断は、その人の信頼性である。

電車やパソコンは、信頼する必要はなく、信用する、即ちその動きと結果を信じればいいのである。信頼のように、動機を考える必要はない(思考するロボットは、唯一例外になりえる可能性であり、興味深い)。


では問題。仕事はどちらか?



信頼である、と、日本人の20代の若者は判断している。
それは科学的合理的なものではなく、価値観の問題と思う。価値観=考え方や感じ方の総体。




以上の思考を軸に、いわば規範として、行動をあてはめていく。



しかしながら、この規範(ルール)を、常に使おうとするのは愚かである。

ルールと運用は別である。
いかに厳格なルールでも、例外はあるし、なにより、憲法や法律がそもそもある種理念(価値観を抽象化し精査したもの)ということに立ち返れば、ルールの適用は判断(ぶれがある)にならざるをえないからだ。

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久しぶりの文章
2011/10/02 18:48 | Comments(0) | 当ブログについて
公開するという、ブログに書くべきではないのかもしれない。
ただ、思考というよりも、単に感情的なものを、文字として打ち込む。
それは、鉛筆を握って紙に書きなぐるのとは違うだろう。そして、この、キーボードにとめどなく流れる感情というものを打ち込むということを、僕はずっとやってきたことだった。

それが、絶えた。

言葉の意味、責任、そんなものを知ったからではなく、自分の矮小さ……と書けばかっこはいいかもしれないが、単に、自分というものに、少し詳しくなったということなのだった。


忙しさや、イベントをただこなすだけで、時間は感覚をこえて早くなった。
「自分」というものを、振り返るということはなく、ただ、「行動」、それだけを目標とした。

おそらく、大学時代に書いた……、2007年と更新年はなっている、自分の文章を読んだ。

非常に共感できるものだった、しかしながら、もう今の自分は、彼の気持ちをくみとってやることができなくなっていた。
すなわち、「彼」を、彼の言葉であえていうならば、「エンターテイメント」としているのだった。


すなわち、大きな要因は複数あるとしても、いえることは、「自分」というものへの執着が、僕を拘束していたのだった……と、過去形にかくことができるほどに、自分が成長したなどと思っては「いけない」。


僕は、大切な人にこういって、不快に、というより、怒らせたことがある。「すべては環境に起因する」と。


「自分の行動」
というものに強くコミットしている人にとって、「なるようになる」という考えは、容認しがたいものに思える。
すべてのものは因果をもって、「自らの意志」というものも、存在しないのである、唯物的な思考……それが無気力主義だということは、よく分かることなのだ。



僕は、文章を書かなくなった。

これは、書く必要がなくなったということと、同義ではないと思う、思いたい。

これが、「逃避」なのだと、自分からの声に耳をかたむけることも必要だと思うのだ。



おそろしいことに、対人的なコミュニケーションにおいて、自らの言葉を発するごとに、その問題が小さく思えるのは、よくあることだ。
しかしそれは本当にそうなのか、という思い、その思いにさえ、気づかせないようにする「効力」(敢えてポジティブな言葉を用いよう)があることも、僕は生きていく中で気づいた。


ある人が、いや、僕の「メンター」(この言葉を僕はよく知らないが、流行のようなので用いよう)が使っている、「アウトプット派」と「インプット派」という言葉は、僕もまだ理解しきれているとはいえないが、重要な概念と思えるのだ。

ここで、詳細な意味を掘り下げるということではなく、利用してみれば、「アウトプット」と「インプット」が一致している人は、さほど多くないだろうという推測ができる。裏の意図というものを、常にコミュニケーションにおいては、含有しているのだ。

さて……、

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