公開するという、ブログに書くべきではないのかもしれない。
ただ、思考というよりも、単に感情的なものを、文字として打ち込む。
それは、鉛筆を握って紙に書きなぐるのとは違うだろう。そして、この、キーボードにとめどなく流れる感情というものを打ち込むということを、僕はずっとやってきたことだった。
それが、絶えた。
言葉の意味、責任、そんなものを知ったからではなく、自分の矮小さ……と書けばかっこはいいかもしれないが、単に、自分というものに、少し詳しくなったということなのだった。
忙しさや、イベントをただこなすだけで、時間は感覚をこえて早くなった。
「自分」というものを、振り返るということはなく、ただ、「行動」、それだけを目標とした。
おそらく、大学時代に書いた……、2007年と更新年はなっている、自分の文章を読んだ。
非常に共感できるものだった、しかしながら、もう今の自分は、彼の気持ちをくみとってやることができなくなっていた。
すなわち、「彼」を、彼の言葉であえていうならば、「エンターテイメント」としているのだった。
すなわち、大きな要因は複数あるとしても、いえることは、「自分」というものへの執着が、僕を拘束していたのだった……と、過去形にかくことができるほどに、自分が成長したなどと思っては「いけない」。
僕は、大切な人にこういって、不快に、というより、怒らせたことがある。「すべては環境に起因する」と。
「自分の行動」
というものに強くコミットしている人にとって、「なるようになる」という考えは、容認しがたいものに思える。
すべてのものは因果をもって、「自らの意志」というものも、存在しないのである、唯物的な思考……それが無気力主義だということは、よく分かることなのだ。
僕は、文章を書かなくなった。
これは、書く必要がなくなったということと、同義ではないと思う、思いたい。
これが、「逃避」なのだと、自分からの声に耳をかたむけることも必要だと思うのだ。
おそろしいことに、対人的なコミュニケーションにおいて、自らの言葉を発するごとに、その問題が小さく思えるのは、よくあることだ。
しかしそれは本当にそうなのか、という思い、その思いにさえ、気づかせないようにする「効力」(敢えてポジティブな言葉を用いよう)があることも、僕は生きていく中で気づいた。
ある人が、いや、僕の「メンター」(この言葉を僕はよく知らないが、流行のようなので用いよう)が使っている、「アウトプット派」と「インプット派」という言葉は、僕もまだ理解しきれているとはいえないが、重要な概念と思えるのだ。
ここで、詳細な意味を掘り下げるということではなく、利用してみれば、「アウトプット」と「インプット」が一致している人は、さほど多くないだろうという推測ができる。裏の意図というものを、常にコミュニケーションにおいては、含有しているのだ。
さて……、
ただ、思考というよりも、単に感情的なものを、文字として打ち込む。
それは、鉛筆を握って紙に書きなぐるのとは違うだろう。そして、この、キーボードにとめどなく流れる感情というものを打ち込むということを、僕はずっとやってきたことだった。
それが、絶えた。
言葉の意味、責任、そんなものを知ったからではなく、自分の矮小さ……と書けばかっこはいいかもしれないが、単に、自分というものに、少し詳しくなったということなのだった。
忙しさや、イベントをただこなすだけで、時間は感覚をこえて早くなった。
「自分」というものを、振り返るということはなく、ただ、「行動」、それだけを目標とした。
おそらく、大学時代に書いた……、2007年と更新年はなっている、自分の文章を読んだ。
非常に共感できるものだった、しかしながら、もう今の自分は、彼の気持ちをくみとってやることができなくなっていた。
すなわち、「彼」を、彼の言葉であえていうならば、「エンターテイメント」としているのだった。
すなわち、大きな要因は複数あるとしても、いえることは、「自分」というものへの執着が、僕を拘束していたのだった……と、過去形にかくことができるほどに、自分が成長したなどと思っては「いけない」。
僕は、大切な人にこういって、不快に、というより、怒らせたことがある。「すべては環境に起因する」と。
「自分の行動」
というものに強くコミットしている人にとって、「なるようになる」という考えは、容認しがたいものに思える。
すべてのものは因果をもって、「自らの意志」というものも、存在しないのである、唯物的な思考……それが無気力主義だということは、よく分かることなのだ。
僕は、文章を書かなくなった。
これは、書く必要がなくなったということと、同義ではないと思う、思いたい。
これが、「逃避」なのだと、自分からの声に耳をかたむけることも必要だと思うのだ。
おそろしいことに、対人的なコミュニケーションにおいて、自らの言葉を発するごとに、その問題が小さく思えるのは、よくあることだ。
しかしそれは本当にそうなのか、という思い、その思いにさえ、気づかせないようにする「効力」(敢えてポジティブな言葉を用いよう)があることも、僕は生きていく中で気づいた。
ある人が、いや、僕の「メンター」(この言葉を僕はよく知らないが、流行のようなので用いよう)が使っている、「アウトプット派」と「インプット派」という言葉は、僕もまだ理解しきれているとはいえないが、重要な概念と思えるのだ。
ここで、詳細な意味を掘り下げるということではなく、利用してみれば、「アウトプット」と「インプット」が一致している人は、さほど多くないだろうという推測ができる。裏の意図というものを、常にコミュニケーションにおいては、含有しているのだ。
さて……、
さて。
こうした問いかけというものを、僕はずっとやってきたといえる。
この断定は、ただの思い込みではなく、今の自分と過去の自分を比べて、間違いなくそう言い切れるものなのだ。(というのは、誇りでもなんでもなく、単に今の腑抜け具合を嘲笑するのである)
そんな僕というものに、一つの価値を与えてくれたのが、上記のある人(……やはりメンターという言葉はなんだか胡散臭い、というか、使いたくない)なのだけれども、その与えてくれた価値によって、僕は自分に満足してしまったようにすら思える。
おそろしいはずなのだ、本来、自己というものは。というよりも、人生というもの、そのものが。
「不安」「焦燥」
そういったことに身を任せたい……というのは、マゾシズムではない。何せ、笑顔のコミュニケーションというものが、実は、何の救いにもなっていないということに、何より僕が、よく分かっているからなのだ。
こうした、一種の「悩み」というやつは、嘲笑の対象である。
誰に話したところで、誰も分かりはしない。
「悩んでないで、外に出て、一緒に遊ぼうぜ!」
明るい仲間たちは、きっとそういうのだ。
なるほど、そうだ、間違いない、その方策は正しい。このことに、僕は何の疑問も、疑いももってはいないのだ。
それにもかかわらず、僕がそうした行為行動が、何ら救いになっていないというのは……。
交通事故の死者は6000人。そして、自殺者は3万人超。
キレる若者による犯罪、動機が不在の子どもの犯罪。
そうしたものよりも、3万人もの自殺者が、僕は気になる、とはいえ、大半は、経済苦なのだそうだ。
そして、生活保護者は、200万人を超えそうな状況だ。
ネガティブなことを書き連ね、同情をひくものではないし、こうした「悩み」というものに対し、「他者」が有効に機能するという「こころ」というシステムを、人はもっていないのではないか、と思える。
安心できる「場」を提供するということ……、それこそが、唯一の救いに思えるのだけれども、残酷な数字と「功利主義」レベルにまでしか想像が働かない民度であるならば、おそらく、これから先も何も変わらないだろうと思う。
そして、ここまでは、単に「前提」なのだ。
こうしたこと、思考、考えが、むしろ、「当たり前」であるべきだと思っている。
しかしながら、生きる意味というものを、「無意味」ということに気づくまでに時間がかかる人と、幼いころから、言葉などよく分からないうちに、すっと理解してしまう人もいるのである。
こうした価値観というより、性質、ともいうべき、人の内面というものがある以上、僕のこうした「前提」は、何度も何度も繰り返されるのであろう。
死にたいと思ったことも無い人間に……、と、「自分が一番苦しいのだ」と真剣に思っている人は、思うのである。
何の解決にもならない、たんなるつぶやき。こうした文章がいくらつむがれようとも、誰も救われはしない。
あろうことか、自分自身でさえも救われはしない。
それでも僕は、どうしても、「ポジティブ」ということが、胡散臭くて、「ネガティブ」こそが、逆転して「ポジティブ」になるということの方が、よほど信じられるのだ。
こうした問いかけというものを、僕はずっとやってきたといえる。
この断定は、ただの思い込みではなく、今の自分と過去の自分を比べて、間違いなくそう言い切れるものなのだ。(というのは、誇りでもなんでもなく、単に今の腑抜け具合を嘲笑するのである)
そんな僕というものに、一つの価値を与えてくれたのが、上記のある人(……やはりメンターという言葉はなんだか胡散臭い、というか、使いたくない)なのだけれども、その与えてくれた価値によって、僕は自分に満足してしまったようにすら思える。
おそろしいはずなのだ、本来、自己というものは。というよりも、人生というもの、そのものが。
「不安」「焦燥」
そういったことに身を任せたい……というのは、マゾシズムではない。何せ、笑顔のコミュニケーションというものが、実は、何の救いにもなっていないということに、何より僕が、よく分かっているからなのだ。
こうした、一種の「悩み」というやつは、嘲笑の対象である。
誰に話したところで、誰も分かりはしない。
「悩んでないで、外に出て、一緒に遊ぼうぜ!」
明るい仲間たちは、きっとそういうのだ。
なるほど、そうだ、間違いない、その方策は正しい。このことに、僕は何の疑問も、疑いももってはいないのだ。
それにもかかわらず、僕がそうした行為行動が、何ら救いになっていないというのは……。
交通事故の死者は6000人。そして、自殺者は3万人超。
キレる若者による犯罪、動機が不在の子どもの犯罪。
そうしたものよりも、3万人もの自殺者が、僕は気になる、とはいえ、大半は、経済苦なのだそうだ。
そして、生活保護者は、200万人を超えそうな状況だ。
ネガティブなことを書き連ね、同情をひくものではないし、こうした「悩み」というものに対し、「他者」が有効に機能するという「こころ」というシステムを、人はもっていないのではないか、と思える。
安心できる「場」を提供するということ……、それこそが、唯一の救いに思えるのだけれども、残酷な数字と「功利主義」レベルにまでしか想像が働かない民度であるならば、おそらく、これから先も何も変わらないだろうと思う。
そして、ここまでは、単に「前提」なのだ。
こうしたこと、思考、考えが、むしろ、「当たり前」であるべきだと思っている。
しかしながら、生きる意味というものを、「無意味」ということに気づくまでに時間がかかる人と、幼いころから、言葉などよく分からないうちに、すっと理解してしまう人もいるのである。
こうした価値観というより、性質、ともいうべき、人の内面というものがある以上、僕のこうした「前提」は、何度も何度も繰り返されるのであろう。
死にたいと思ったことも無い人間に……、と、「自分が一番苦しいのだ」と真剣に思っている人は、思うのである。
何の解決にもならない、たんなるつぶやき。こうした文章がいくらつむがれようとも、誰も救われはしない。
あろうことか、自分自身でさえも救われはしない。
それでも僕は、どうしても、「ポジティブ」ということが、胡散臭くて、「ネガティブ」こそが、逆転して「ポジティブ」になるということの方が、よほど信じられるのだ。
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