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当然やさしいということはよいことではない
2012/02/06 23:45 | Comments(0) | 対人関係
別に鬱などではないが、正直、僕のみている世界というものが、ますます正しいのだという感覚が深まる。
僕の人間観というのは、ひねくれていることは自覚的だ。
そして、そのことが与える影響は自分にとってマイナスだとも思う。

人間を肯定できないのは、理想に溺れる未熟者に思える。


ところが、そうでありながら、お金が絡む調整ごとになると、人は目の色が変わる。
お金はもちろん、時間なりの利害全面でそうだ。


若いうちは不条理に耐えろということかもしれない。
とはいえ、まぁそれは関係ない。




人間というのは本当にどうしようもない。法律は、社会契約は、そのどうしようもなさを調整する役目なのだ。

それはそうだ。僕の考え方がすべてであっていいはずはない。

自己献身的なのを人間に望むのは間違っている。


だから僕も他人に厳しくあることもできるし、平然と責任放棄することも可能だ。


であっても。



fateの主人公のようなお人好しには、僕はなれない。fateというゲームの大ヒットは、主人公のありえないほどの自己犠牲の精神が一因に思うが、そもそもそれが感動を生むのは、「ありえなさ」による。

結局、僕は自分に課すルールによって動いていて、反することは精神的負荷になる。だから、他者のせいにすることはない(原理上)。

変えるなら、一番楽なのは自分だろう。


ラーメン屋に女性三人で「おいしい。1人じゃこゆとここれないですよね~」といっていたが、そういう感覚に嫌気がはしったのは、そういう気持ちと仲間を求める反動にも思える。


でも本当に、今の繋がりが、僕を維持してるように思える。

学生時代は、存在価値などなかったといえる。


ここに、生きづらさの原因が隠れている。「役に立つ」ということが存在意義なのか。働かざる者くうべからずなのか。
100%その通りである。
税金を搾取して生き長らえる老人は唾棄すべきだ。

思うに、「それはしかたがないね」のレベルの問題に思える。

老人だからしかたがないね、障害者だからしかたがないね、在日朝鮮人だからしかたがないね……。


その「しかたがないね」のレベルを、主張をするのが圧力団体である。それは利害対立する集団とは当然あらそうことになる。



じゃあ自分はどっちの集団に所属するの?


結局どこにいても争いに巻き込まれる。日本は平和というが、命が担保になってないだけで、戦の構造は変わってないように思う。

まぁ落ちぶれたら、いまやセーフティーネットも機能してないので、死ぬしかない点において、大差はないのかもしれない。



とまぁ、僕の目にそう映る以上、ますますその傾向は強まるだろう。

それを認めた上で、自分はうまくやっていく方法を模索することはできる。
だがそれが何になるのか。

うまくいって70歳の平均寿命まで生きられてなんの意味があるのか。


というより、何故人々は、こうした疑問なしに生きられるのか、僕は長らく分からなかった、今も分からない、けれどもそれが「個性」なのだと、勝手に納得した。


心配いらない、インターネットで探せば、もっと抑鬱な人も大勢だし、僕程度のレベルで思考する人もたくさんいる。

だからこそ、「中間派はつらいんだよ」じゃないが、精神病とも認定されない人は、表現できないモヤモヤ(=生きづらさ)に苦しむ。
(ふざけんな甘えてんじゃねえという批判、それが「不可避」な点が問題を複雑にしている)



だから僕は表現する。
思考はエリートに任せよう、だから僕のは単なる愚痴だ。
だけれども、きっと、中学生くらいの誰か1人くらいは、救いになるのではと思う。それは確信する、何故ならば、僕は、少し気分が晴れた(笑)。


でも、この点も問題だ。
ふつう人は、愚痴を誰か対面コミュニケーションにおいて話すことで、ストレス解消しようとする。

けれども、僕は誰かに話すのが申し訳ないと思う。
さらに傲慢だが、話したって理解してもらえないだろうと思う。


もっと人を頼ることができたらよかったのかもしれない。
ただし、これも所詮程度の問題であり、「ちったぁ自分で考えろ!」に常に怯えて過ごさないといけない。


人間関係なんてフレキシブルなものだし、厳密な付き合いなど不可能で、明確な責任や役割の振り分けなど不可能だ。


そんなこと分かっているが、まぁねぇ。


僕は、だから、僕がその人に何をしてあげられるのか。それを考えてしまう。


子どもってのは、これらの意味で、特殊なのかもしれないな。

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喉の痛みと自己啓発本批判およびアウトプット方針への揺らぎ
2012/02/01 21:29 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
タイトルが混沌としているけれども、喉が痛いのと体の怠さから午前有給を使った。
今年はもちろん、入社して初めてのことだ。

ところで最近、本を読んではいるけれども、レビューがない。
書評、レビューを書かないと、アウトプットという意味において価値がない。

というわけで、書評じみたものを書こうと思ったが、ブックマークにしていた、下記記事が目に入った。
「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら


ニーチェは相対主義者であり、世の中の議論の多くは、信仰vs信仰の構造をとっている。
だから、「人を殺してはいけない」というのも、信仰である。信仰を真理へと押し上げるのは、政治ゲームである。
政治ゲームで勝ち上がった人の信じていることが、真理となる。政治ゲームのルールを知ろうとする意志が、「権力への意志」である。

と、ニーチェの道徳の系譜という書物のレビューの、そのまたレビューを書いてみた。


で、そのコメント欄を読んでいき、トラックバックにあった、

人を殺したければ殺すべきである――永井均『これがニーチェだ』を読む

という記事を読んだ。

そうすると、ニーチェは相対主義なんかじゃない、ポジティブな生というものを肯定し、大切なのは「健康」なのだと述べている、という指摘が書いてあった。


なるほど、そうなのか、と納得。



それでだ、今の二つの記事を、「自己啓発本」や「解説書」とたとえようと思う。
自己啓発本というジャンル、すなわち、「できる人の時間の使い方」といったような種類の書物、それらの需要というのは、何故起こるのか。
また解説書、「ニーチェの言葉」みたいなものの需要は、何故あるのか。


とっかかりがないと、どんな簡単なことでも分からないからだ。



複雑なこと、難しいことが「かっこいい」と思っていたふしが、僕にはあった。
だから、ブログや、まして自分の日記を書くにあたっても、難解な言い回しをすることがよくあった。

でも実際、ビジネスで求められているのは、単純さ、明快さ、スピード感だ。
文学的な言い回しなんてしていたら、「それってつまりこういうことでしょ」と添削される。

それがゆえに、僕は最近、文章を書くのが嫌になっている。


というより、文章を書くことによる「リスク」というのを、過剰に恐れているといっていい。

たった一言、一語の形容詞をつけただけで、「わかりにくい」と言われたり、多数の人たちに誤解を招くことになる。


そういう意味で、プロのブロガーってのは、すごい職業だと思う。
とはいえ、たびたび炎上ってのは起こる。それは交通事故にでもあうような意味合いになるかもしれない。


まぁそれはとにかく、自己啓発本や解説書は、とても役に立つと同時に、「自分で考える」という癖をつけるには、害悪にすらなる。

もっとも、自己啓発本等に書かれていること、鵜呑みにしてそのまま実行しようとする人はいないかもしれない。
けれども、今社会に求められているのは、むしろ、自己啓発本を自分で書ける人なのだ。


自分はこう思ってこのように行動した、その結果こうなった。

その説明が、どれほど他者に分かりやすく伝えられて、影響を与えられるのか。

その観点が、非常に重要であると僕は思う。


正直、これをいってしまえば真面目な人から総攻撃をくらうが、ニーチェは実はこんなことは言ってなかったとか、ニーチェのことを正確に解釈することは、一般人にとってなんら意味がないのである。
もちろん、ニーチェという人の名前を使って、適当な発言をねつ造してもいいといっているのではない。

ただ、一般には、必要としている情報の「質」と「次元」があるということなのだ。


僕は「なんで生きているのだろう」なんて小学校4年生的なことを考えることがあるが、
「意味なんてないんだ。永劫回帰なんだ」
とニーチェがいったということで、納得できる人もいる。

ニーチェの翻訳本を読んで、詳細なところはよく分からなくても、何事にも意味を求めるのがいけないんだ、超人になることが重要なんだと理解し行動できる人もいる。


とにかく、今、世界は、日本は、社会は、変わろうとしている。

と、いうよりも、「変わらなくちゃいけない症候群」にかかっている。それを、香山氏のように、「ほどほど論」をすすめても、もはや「怠け者」のレッテルをはられ、唾棄すべきと排除されるだけだろう。



剥き出しの生というものを、最近よく感じる。とはいっても、大学時代に比べたら生易しい。

学生は気楽でいいな、と大人はいう。

僕はそうは思わない。というか、全然気楽じゃなかった、ともいえる。
僕はあるときから、日々において、今日が昨日よりもよくなっていると、確信しているし感じている。

過去に戻れるタイムマシーンがあったとしても、絶対戻りたくない。

僕は、将来の(未来の)不透明性を恐れていた、いや、今も恐れている。


僕はある人に指摘されておののいたことがあるが、僕には、欲求がないのだという。


そんなことはない。おいしいラーメンだって食べたいし、眠たいときは寝たい。

けれども、どこか、発生する欲求を、相対化してしまうところはある。


お金持ちになりたいという欲求が生まれたとして、「じゃあ、お金持ちになったらどうするの?」という問いが必然的に生まれる。

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真面目さなど役には立たないが捨て去ることはできない
2012/01/31 22:14 | Comments(0) | 対人関係
社会制度や教育など、日本が抱えている問題について、あれこれ思考を巡らせたところで、現実今まさに直面している問題が解決に進むわけではない。

ミクロに拘ればマクロは見えなくなるが、マクロのまま問題解決にあたるのも難しい。


今日本で、社会で、会社で、コミュニティーで求められている理想はよく見える。

ところが、自分の存在が、あまりにもかけ離れている。

それに追いつこうと必死になるが、例えば偏差値30からの東大受験のようである。
もちろん、偏差値50を目指せばいいのだけど、その目標設定が悪いのだ、できないのだ。




問題は、努力不足か目標設定の誤りかに分別できる。

周囲に高い目標を与え、自らもそれを目指している。

しかし、自分一人の力では対応しきれない。しかしグループ内の目標が、そもそも低い。僕はそれをよしとは思えない。

けれども、実現するためには他者の力が必要だ。



そういう点が自分の欠点なのだろう。
コミュニケーション能力不足、というか、他者に嫌われたくない、それは円滑な人間関係を推進するためのテクニックでもあるのだけど、組織における利害対立においてみんな仲良くは通じない。


それでおいて組織において対立の原因はなにかといえば、最近よくよく感じるが、金である。

友好的な関係にみえても、「金の切れ目が縁の切れ目」である。

あとは、壮絶な交渉だ。


時間意識という。


時間?

この人との会話は、有効かどうか、それを常に意識するということだ。

お金にならないことを受注しても、それは「投資」である。

将来のリターンを目的としている。




資本主義というシステムの概念など知っているから、社会科は好きだけど経済分野は嫌いだった。

そうはいっても、笑ってしまうほど明らかなのだが、人間の相互行為の源泉は、自然との闘いのための協力でしかない。


だからこそ、直接利害に関係のない、恋人や友人という存在が、今後の世界で極めて重要性が高まっていくだろう。




という前提をして、翻って、それも「投資」ということになるのは皮肉であり、やはり社会主義は夢想でしかない。

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思考の体系化と心理的変化
2012/01/28 09:20 | Comments(0) | 目的・目標
システム
(1)体系。また、秩序・系統だった組織・制度。
(2)コンピューターで、情報を処理するための一連の方式・仕組み。また、その装置。
明鏡国語辞典より


思考の体系化が今年の目標の一つである。
英語で体系はシステム。コンピューターで情報を処理する一連の仕組みもシステムというが、(1)の意味に包含される。

自分の言葉で表現すると、システムとは、ある目的の実現のため必要なプロセスの集合である、といえる。

プロセスとは何か。
プロセスとは、手順のことで、システムの構成要素である。



ところで、コミュニケーションもまた、プロセスに分解できる。コンピューター用語で、WBSというのがあって、システム設計のときに用いられる。

コミュニケーションは、複雑だけど、適切なスコープを設定すれば、単純なプロセスに分解が可能だ。


何事も、スコープとWBSが重要だ。



……というのが、僕という人間の傾向のようだ、すなわち、分解者、プランクトンか!

何やら、可能な限り抽象的な、いわば真理のようなものに憧れる傾向にあるようだ。それがためなら、他の犠牲は厭わない、睡眠時間とか。


その傾向を、頭がよいとかクールだとか見なされる傾向があるようだが、単なる性格気質である。
……ゆえに、傲慢さや自意識過剰は排除できる、何故この説明が必要かといえば、何事に対しても、自信がもてないからだ。



確信をもって行動できない。不安と焦燥が常につきまとっている。


それに対しての対策は、行動主義であったが、最近(規定日を、2010から2011とする)問題が噴出している。
サステナブル、持続可能性である。


結局、自分のことなど何も変えられないのではないか、予定調和や運命論的な気持ちにもなる。


だが、そうしたことは、ひとこと価値観でしかないのであって、他者にとってはもうかるかもうからないかのちがいしか意味はない。

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体罰の是非と思考の深化
2012/01/21 18:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
「体罰の何が悪いんですか?」

この問いに対して、明確に答えるのは難しいだろう。
ところが、「ダメなものはダメを根付かせる」「人間としての基礎的能力を養う」「自然に立ち向かう力を身につける」というキーワードに対して、暴力という手段を使うことは、奇妙な違和がある。

ばかばかしくも崇高な理想、「人類の平和」を理想としたとき、コミュニケーションに暴力が介在することを、よしとは思えない。しかしながら、戸塚ヨットスクールに入校する生徒たちは、「人としての基礎がなっていない」のだから、体罰は許容されるのかもしれない。


歯切れが悪いが、こうした事実に対して、明確な善悪を、「理論」として打ち立てるのには無理がある。
すなわち、単に「量刑」的問題なのだ。体罰も、「いきすぎ」れば犯罪となる、それだけなのだ。

ところが、その「いきすぎ」の判断は、「法律」であるのだが、その「法律」の基準も、国によっても、時代によっても異なることに着目しなければいけない(そうした学問を、「基礎法学」というらしい(法学セミナーという雑誌で読んだ))。

だから、石原慎太郎のように、戸塚ヨットスクールの「教育」が正しいという人が日本の9割を占めるなら、それは正しくなるし、ビンタであっても体罰は教育とはいえない、という人が多ければ、何が何でも体罰は許されないのだ。

多少の体罰、とまではいかなくても、あたまを小突くくらいはよいのでは、と考える教師がいてもよい。
しかし、今の教育として、体罰は絶対にいけない、となっているのだから、それに従う必要がある。それは個人の思想や信条の自由だとかには一切関係ない。
「教育」として、「ルールを守る」という大切なことを教えるために、教師自身が模範となって示す必要があるのだ。

その上で、政治家は法律を見直す努力をするべきだし、教師は自分の意見を述べればいいのである。
だからこそ、石原慎太郎の言動を、「ただの老人の小言」としてとらえては、絶対にいけないのだ。



すなわち、戸塚ヨットスクールは現行法で処罰されたのだから、その体制は許されないし、認められない、まずもって、その立場を、日本国民全員がとるべきである。

その意識なしに、単に体罰は絶対いけないだとか、どうしようもない人間には体罰もしかたがないだとか、そうした次元の話をしても、意味がないのである。

問題意識があるなら、今このような判決を下した法律について学び、制度を変えるように働きかけができる政治家を選挙でえらび、自らも論理的に考え、広く一般に主張すべきなのである。


『平成のジレンマ』映画予告




――というタテマエ論を前提として、次のステップで考えよう。

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