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真面目さなど役には立たないが捨て去ることはできない
2012/01/31 22:14 | Comments(0) | 対人関係
社会制度や教育など、日本が抱えている問題について、あれこれ思考を巡らせたところで、現実今まさに直面している問題が解決に進むわけではない。

ミクロに拘ればマクロは見えなくなるが、マクロのまま問題解決にあたるのも難しい。


今日本で、社会で、会社で、コミュニティーで求められている理想はよく見える。

ところが、自分の存在が、あまりにもかけ離れている。

それに追いつこうと必死になるが、例えば偏差値30からの東大受験のようである。
もちろん、偏差値50を目指せばいいのだけど、その目標設定が悪いのだ、できないのだ。




問題は、努力不足か目標設定の誤りかに分別できる。

周囲に高い目標を与え、自らもそれを目指している。

しかし、自分一人の力では対応しきれない。しかしグループ内の目標が、そもそも低い。僕はそれをよしとは思えない。

けれども、実現するためには他者の力が必要だ。



そういう点が自分の欠点なのだろう。
コミュニケーション能力不足、というか、他者に嫌われたくない、それは円滑な人間関係を推進するためのテクニックでもあるのだけど、組織における利害対立においてみんな仲良くは通じない。


それでおいて組織において対立の原因はなにかといえば、最近よくよく感じるが、金である。

友好的な関係にみえても、「金の切れ目が縁の切れ目」である。

あとは、壮絶な交渉だ。


時間意識という。


時間?

この人との会話は、有効かどうか、それを常に意識するということだ。

お金にならないことを受注しても、それは「投資」である。

将来のリターンを目的としている。




資本主義というシステムの概念など知っているから、社会科は好きだけど経済分野は嫌いだった。

そうはいっても、笑ってしまうほど明らかなのだが、人間の相互行為の源泉は、自然との闘いのための協力でしかない。


だからこそ、直接利害に関係のない、恋人や友人という存在が、今後の世界で極めて重要性が高まっていくだろう。




という前提をして、翻って、それも「投資」ということになるのは皮肉であり、やはり社会主義は夢想でしかない。

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思考の体系化と心理的変化
2012/01/28 09:20 | Comments(0) | 目的・目標
システム
(1)体系。また、秩序・系統だった組織・制度。
(2)コンピューターで、情報を処理するための一連の方式・仕組み。また、その装置。
明鏡国語辞典より


思考の体系化が今年の目標の一つである。
英語で体系はシステム。コンピューターで情報を処理する一連の仕組みもシステムというが、(1)の意味に包含される。

自分の言葉で表現すると、システムとは、ある目的の実現のため必要なプロセスの集合である、といえる。

プロセスとは何か。
プロセスとは、手順のことで、システムの構成要素である。



ところで、コミュニケーションもまた、プロセスに分解できる。コンピューター用語で、WBSというのがあって、システム設計のときに用いられる。

コミュニケーションは、複雑だけど、適切なスコープを設定すれば、単純なプロセスに分解が可能だ。


何事も、スコープとWBSが重要だ。



……というのが、僕という人間の傾向のようだ、すなわち、分解者、プランクトンか!

何やら、可能な限り抽象的な、いわば真理のようなものに憧れる傾向にあるようだ。それがためなら、他の犠牲は厭わない、睡眠時間とか。


その傾向を、頭がよいとかクールだとか見なされる傾向があるようだが、単なる性格気質である。
……ゆえに、傲慢さや自意識過剰は排除できる、何故この説明が必要かといえば、何事に対しても、自信がもてないからだ。



確信をもって行動できない。不安と焦燥が常につきまとっている。


それに対しての対策は、行動主義であったが、最近(規定日を、2010から2011とする)問題が噴出している。
サステナブル、持続可能性である。


結局、自分のことなど何も変えられないのではないか、予定調和や運命論的な気持ちにもなる。


だが、そうしたことは、ひとこと価値観でしかないのであって、他者にとってはもうかるかもうからないかのちがいしか意味はない。

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体罰の是非と思考の深化
2012/01/21 18:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
「体罰の何が悪いんですか?」

この問いに対して、明確に答えるのは難しいだろう。
ところが、「ダメなものはダメを根付かせる」「人間としての基礎的能力を養う」「自然に立ち向かう力を身につける」というキーワードに対して、暴力という手段を使うことは、奇妙な違和がある。

ばかばかしくも崇高な理想、「人類の平和」を理想としたとき、コミュニケーションに暴力が介在することを、よしとは思えない。しかしながら、戸塚ヨットスクールに入校する生徒たちは、「人としての基礎がなっていない」のだから、体罰は許容されるのかもしれない。


歯切れが悪いが、こうした事実に対して、明確な善悪を、「理論」として打ち立てるのには無理がある。
すなわち、単に「量刑」的問題なのだ。体罰も、「いきすぎ」れば犯罪となる、それだけなのだ。

ところが、その「いきすぎ」の判断は、「法律」であるのだが、その「法律」の基準も、国によっても、時代によっても異なることに着目しなければいけない(そうした学問を、「基礎法学」というらしい(法学セミナーという雑誌で読んだ))。

だから、石原慎太郎のように、戸塚ヨットスクールの「教育」が正しいという人が日本の9割を占めるなら、それは正しくなるし、ビンタであっても体罰は教育とはいえない、という人が多ければ、何が何でも体罰は許されないのだ。

多少の体罰、とまではいかなくても、あたまを小突くくらいはよいのでは、と考える教師がいてもよい。
しかし、今の教育として、体罰は絶対にいけない、となっているのだから、それに従う必要がある。それは個人の思想や信条の自由だとかには一切関係ない。
「教育」として、「ルールを守る」という大切なことを教えるために、教師自身が模範となって示す必要があるのだ。

その上で、政治家は法律を見直す努力をするべきだし、教師は自分の意見を述べればいいのである。
だからこそ、石原慎太郎の言動を、「ただの老人の小言」としてとらえては、絶対にいけないのだ。



すなわち、戸塚ヨットスクールは現行法で処罰されたのだから、その体制は許されないし、認められない、まずもって、その立場を、日本国民全員がとるべきである。

その意識なしに、単に体罰は絶対いけないだとか、どうしようもない人間には体罰もしかたがないだとか、そうした次元の話をしても、意味がないのである。

問題意識があるなら、今このような判決を下した法律について学び、制度を変えるように働きかけができる政治家を選挙でえらび、自らも論理的に考え、広く一般に主張すべきなのである。


『平成のジレンマ』映画予告




――というタテマエ論を前提として、次のステップで考えよう。

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アウトプットに対する行動について
2012/01/12 00:31 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
説明力や発言力というのは、学校教育で必要ない。若いうちはひたすらに知識をインプットすればよい。


こうした考え方は一つ有効と思うが、私の今年の目標には反する。

今年はアウトプットと整理という2つのキーワードが目標である。ゆえに、24時間すべての行為行動が、その2つに集約されなければいけない。


確認だが、生き方というものは、仕事もプライベートも、体もすべて一体として考える必要がある。

どれか一つでも正三角形を阻害する要素があれば、資源を投入し解決に努めなければならない。



であるから、消費に過ぎない思考や、消費に過ぎない知識のインプットは、忌避すべきものである。

当然ながら、感情の処理というのも、行動にとって重要な要素であり、排除すべきではない。

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がんばることへの一考察
2012/01/06 02:04 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
「無意味さ」
この言葉から始まるブログを、一体だれが読むのだろうと思う。
ただし、今、帰宅したての今、今だからこそ、書くべきだと思う。

「引きこもり」「ニート」において、無意味さについて書くということは、甚だばからしいことである。
しかしこの言説は、見えない「もっと大変な人」におびえ続けることを意味する。

先日から繰り返し述べている、「目的設定の重要さ」についてだが、これは、果てしない理想による重圧を軽くするための手段でもある。
目的を設定することにより、一時的に、「もっと大変な人」を見えなくするという方法なわけだ。これは一種逃避だという批判もアリだろう。


この世からきれいに消えたい。
のS君は、美少年だった。美少年だから、本になる。ところが、不細工で孤独な親父は、本にならない。救済の対象にならない。「大人のくせに」で終わり。

子どもは守るべきもの、大人は馬鹿ばかり、こうした言説は、巷にあふれている。
しかし、子どもの責任かどうかに関係なく、時間は、子どもを「大人」にする。そうして「犠牲」となった子どもは「大人」であり、もはや守られるべき対象ではなく、排除されるのである。

宮台氏の著作に、もっと早く、たとえば高校のときなどに触れられていたら、もっと思考の深化は進んだのかもしれない。
しかしそうしたたとえ話は空虚でしかなく、たとえば当時の自分ごときに、本を理解できたのかは甚だ怪しいことをもって、「たとえ」の意味のなさを知るわけである。


社会学とか、社会システム理論とか、なにそれ食べれるの?

自分の凡人さを、まずもって自覚しなければならない(それはこうしたブログで「俺馬鹿だし~」「そうじゃないよ!」とフォローを求める浅ましさを断固として斥ける、深く絶望に根付いたものであるべきだ)。
その自覚は、何も自己卑下に浸るためのものではない。

己の馬鹿さ加減をしるということが、まずもって、他者を理解する上で、非常に重要なのである。


先入観なしに、その人自身をみること。

これが、コミュニケーションにおいて非常に重要なことである。
それは、上司と部下、友人関係などにとどまらず、長年つれそった夫婦や恋人同士でもそうだし、教育においてもそうだし、自分の子どもに対してもそうだ。
我が子はみなかわいいというが、いくら顔かたちが似ていても、自分のコピーなどではなく、「他人」なのだと、そうした距離感が一番に必要である。



と、ここまでを前提として、次のステップについて記述する。


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