この問いに対して、明確に答えるのは難しいだろう。
ところが、「ダメなものはダメを根付かせる」「人間としての基礎的能力を養う」「自然に立ち向かう力を身につける」というキーワードに対して、暴力という手段を使うことは、奇妙な違和がある。
ばかばかしくも崇高な理想、「人類の平和」を理想としたとき、コミュニケーションに暴力が介在することを、よしとは思えない。しかしながら、戸塚ヨットスクールに入校する生徒たちは、「人としての基礎がなっていない」のだから、体罰は許容されるのかもしれない。
歯切れが悪いが、こうした事実に対して、明確な善悪を、「理論」として打ち立てるのには無理がある。
すなわち、単に「量刑」的問題なのだ。体罰も、「いきすぎ」れば犯罪となる、それだけなのだ。
ところが、その「いきすぎ」の判断は、「法律」であるのだが、その「法律」の基準も、国によっても、時代によっても異なることに着目しなければいけない(そうした学問を、「基礎法学」というらしい(法学セミナーという雑誌で読んだ))。
だから、石原慎太郎のように、戸塚ヨットスクールの「教育」が正しいという人が日本の9割を占めるなら、それは正しくなるし、ビンタであっても体罰は教育とはいえない、という人が多ければ、何が何でも体罰は許されないのだ。
多少の体罰、とまではいかなくても、あたまを小突くくらいはよいのでは、と考える教師がいてもよい。
しかし、今の教育として、体罰は絶対にいけない、となっているのだから、それに従う必要がある。それは個人の思想や信条の自由だとかには一切関係ない。
「教育」として、「ルールを守る」という大切なことを教えるために、教師自身が模範となって示す必要があるのだ。
その上で、政治家は法律を見直す努力をするべきだし、教師は自分の意見を述べればいいのである。
だからこそ、石原慎太郎の言動を、「ただの老人の小言」としてとらえては、絶対にいけないのだ。
すなわち、戸塚ヨットスクールは現行法で処罰されたのだから、その体制は許されないし、認められない、まずもって、その立場を、日本国民全員がとるべきである。
その意識なしに、単に体罰は絶対いけないだとか、どうしようもない人間には体罰もしかたがないだとか、そうした次元の話をしても、意味がないのである。
問題意識があるなら、今このような判決を下した法律について学び、制度を変えるように働きかけができる政治家を選挙でえらび、自らも論理的に考え、広く一般に主張すべきなのである。
『平成のジレンマ』映画予告
――というタテマエ論を前提として、次のステップで考えよう。
まず、論理的思考というものは、それが深まれば深まるほどに、困難になっていく。
この感覚は、ある程度ものごとを「自分のこと」として引き付けて思考できる人でないと分からないが、詳しく説明しようとすればするほどに、分からないことがでてくるといった経験はあるだろう。
このジレンマというものは、ある意味当然なのだ。
19世紀の哲学者、フリードリヒ・ニーチェは、「永劫回帰」「ニヒリズム」をとなえた。
いってしまえば、「生きている意味なんてなんもない」ということである。
僕が考える論理的思考というのは、下記構造になっている。
感情 < 日常思考 < 法律 < 思想
ふつう、こうした文章というのは、「日常思考」の部類にはいる。当然、感情を完全に切り離すことができないとか、法律について日常的に意識することはほとんどない、というのはもっともだけれども、今回はそこに焦点をあてない。
あいまいな境界にすぎないけれども、思考を深めていくと、まず法律にぶつかり、法律の理念とはなにかを考えたときに「思想」にぶつかるというように、段階があるということだ。
そうしたとき、現代においての「思想」にあたるのが、ニーチェの「ニヒリズム」だとしたら、考えるということがすなわち「無意味」という結論に帰結せざるえない。
その思想が誤っているのか、真理なのかは、正直、僕たち「凡人」には分からない。
そうはいっても、思想がもつ力は、私たちが考えている以上に強大である。ここでいう思想は、イデオロギーという言葉に置き換えた方が分かりやすいかもしれない。思想やイデオロギーは、法律のように強制力はないが、個人の内面を規定している。
そうした規定に対して、ふつうの人たちは抗うすべがない。
いやいや、思想どころではなく、法律自体にも抗えない――というのは、単に法律の強制力ではなく、その法律の正誤が分かりえないということなのだ。
専門家は、ピンポイントで、事態の判断と、裁きを下せるだろう。だがいざ「教育とは?」といった漠然とした問題となると、てんで議論がまとまらないのである。
「議論などまとめる必要がない。法として規定されていることを、正確に解釈し、実行するだけである」
というのはもっともなのだけれども、先ほど思考の階層構造について述べたように、法律だって、「国ありき」のものであるし、思想あってのものなのだ。
だからこそ、直接民主制など不可能でも、全員の意見の調和が大切なのだ。
でも1億人の人の意見を調整するなんて、無理だ。数人の意見の調整だって苦労するのに。
ここで、東浩紀の近著『一般意志2.0』が参考となる。
ちょー簡単にまとめれば、『グーグルとツイッターがルソーのいう「一般意志」を体現する』、ということだ。
一般意志ってなんぞや、といえば、人々の「特殊意志」(意見)のプラスマイナスの差、であって、単にみんなの意見を合わせていったもの(全体意志)ではなく、常に正しく公共の利益に向かう思想(意見)だ。
だから凡人たちは、ツイッターやらブログやらにめいめい書き込みをして、それぞれの意見を主張することで、政治にも圧力をかけられ、正しい「一般意志」が制作として実現されていくのだ。
ほんとにそうなのか? はおいておいて。
結局、僕がこの記事でなにをいいたかったのかということは、このように、考えていけばいくほどに、疑問や悩みが噴出し、収拾がつかなくなるという、……いいたかったというより、実例のようなものだ。
けれども、これは、実は誰しもそうなのだ。
自分の分からないことについて考えるということをすれば、誰しも、迷い、悩む。
それでも、何かしら決定をする必要があるときは、今与えられている情報の中で「判断する」。
生きるというのは、いわばこの繰り返しなのであって、「大人」がすぐれているのは「判断」が早いからなのだが、それは実は、別のことも示唆している。
いうまでもないが、可能性の幅である。
「日本No.1の頭脳王!大決定戦!!」で優勝した、東大医学部・亀谷航平さんは、確かにものすごい知識と判断力があることだろう。
「そうはいっても」限界はある。
亀谷さんだって、ライバルが回答したことが分からなくて、ポーカーフェイスながらも「悔しさ」を吐露したではないか。
・分からないことは、誰だってある。
・だから、学んでいく姿勢が大切だ。
・ところが、人間が吸収できる情報は、個々人の限界がある。
⇒だから、アウトプットが大切である。
表現できない思考など、無意味だ、という立場を、2012年はずっと取りつづける。
何故ならば、それが今年の目標(自分のルール)だからだ。
そこに、意味を考察する余地はない。
結局、戸塚ヨットスクールへの判断ができないのと同じく。
訓練中に発生した死亡・行方不明事件 [編集]
1979年 少年(当時13歳)が死亡
戸塚側は「低体温症によるもので体罰との因果関係は無い」と主張。病死として不起訴扱いにされた。
1980年 入校4日目に暴行により青年(当時21歳)が死亡
コーチによって暴行を加えられた事によるものとして傷害致死で起訴
1982年 少年2名(当時15歳)が船から海に飛び込んだとして行方不明
体罰から逃れるために飛び込んだとして監禁致死で起訴
1982年12月 少年(当時13歳)が死亡。入校一週間で暴行を受け、戸塚宏とコーチらはヨットから何度も海に落とし、死亡。この間、一切治療は行われなかった。
傷害致死で起訴された。
当時13歳だった少年の母親は週刊現代(2006年11月18日号)の実名インタビューで「出所後も焼香や謝罪は無かった。再犯が懸念される」という旨のコメントをしている。また、1982年にフェリーから海に飛び込んだとされて行方不明となっている少年の父親は同じく実名で「息子が本当に船から海に飛び込んだのかどうか未だにわかっていない。本当は突き落とされたのではないか」とコメントしている。
一連の事件は、日本において体罰の是非を問う討論等でたびたび参考として出され、また個人の教育論の展開(講演会や商業書籍の執筆など)のために、引き合いに出されている。
事件後
2006年10月 - スクールからいなくなった訓練生の25歳男性が、知多湾で水死体となって発見される。
警察は自殺と事故の両面で捜査を行っていると報道された。男性はうつ病で通院中であり、父親もスクールで共に寝起きしていたが、目を離した隙にいなくなり、スクールから3キロ離れた地点で水死体になって発見されている。同男性の遺体に目立った外傷はなかった(2006年11月7日現在、新聞報道による)。
2009年10月19日、戸塚ヨットスクールの寮内にて、訓練生の女性が寮の3階より飛び降りて死亡した。愛知県警半田署は自殺とみて捜査している。
2011年12月10日、戸塚ヨットスクールの寮内にて、訓練生の男性が寮の3階より飛び降りて重傷を負った。愛知県警半田署は自殺未遂とみて捜査している。
2012年1月9日、戸塚ヨットスクールの寮内にて、訓練生の男性が寮の3階より飛び降りて死亡した。愛知県警半田署は自殺とみて捜査している。
wiki
なんか書いていたら長くなったので、カテゴリを「動画」⇒「思索」にした。