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リーガルマインドをもとに思考のあり方を考える
2012/05/15 22:47 | Comments(0) | イライラ対処
常識と法律とは、矛盾するのだろうか。憲法があるのと同時に、国がある。憲法とは、日本国憲法を指す場合と、実質的意味、すなわち超法規的(法律に優越)な意味をもつ。

裁判官は憲法と法律に規定されながら、良心の自由で判断ができる。


やりがいたっぷりだけど、下手な責任感たっぷりな僕では耐えられそうにない。ゆとりって人種は、失敗を極度に恐れるそうだけど、いやいや、誰だって怖いし、昨今のマスメディアの報道をみていると、専門家がミスをすることは許されないことだと実感する。

医師も、教師も。高度に専門分化した社会において、ミスはその資格を剥奪する。

最も、裁判官も医師も教師も、組織で考えるべきだから、個人にすべての責任を帰するシステムはよくないだろう。
(今、システムという語を使ったが、アーキテクチャとの区別が自分の頭の中でできていないことが分かりかなり落ち込んだ。)
ところが、責任が組織となったとき、結局組織内で「適度な緊張感」が発生することになる。
その緊張感が、いつ適度じゃなくなるか、その基準は存在しない。

あるのは、理念、理想としての法律であり、憲法である。




人間という存在について、人々は各々イメージ(固定観念)を抱いている。
それは「各々」だという理念は、オンリーワンだとか、他者への思いやりとか、そうした教義的な語によって認識はされている。

しかし、その意味を深く考えようとすることはない。
何故ならば、無駄だからだ。
そんなことは、考えることではなく、「自然と身に付けること」である。それを人は「常識」と呼ぶ。

しかし、常識は普遍的ではない。時代と構成員とともに変化する。
法律は変更には手続きを要する。ただし、商法が2005年に会社法に変わったように、変化はする。

どちらも変化するのだから、同じ系統のものだ。


それにしても、社会学という学問は、法学と比べて、綿密な手続きを要しない(ように思われる)。正解を導くのが難しく、その正しさの度合いは、説得力によるところがある。

しかしながら、知の体系にのっかって進化するよりも、インフォメーションのインフラが整備されたことで、新しいものをどんどん生み出していくことの方が重要に思われていそうである。

何せ、ルーチンワークしかこなせなければ、派遣や、外国人労働者に取って代わられる。

そんな時代要請の中で、どのような考え方が、普遍的だろうか。


答えは簡単、普遍的な思考など存在しないとする考え方である。

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成長意欲の有無(多寡)が重要
2012/04/02 21:29 | Comments(0) | イライラ対処
ネガティブを否定しない、しかしながら、生産性ない愚痴は苛立つ。

それは成長意欲があるかどうかによる。問題から逃げようとするだけで、解決のために思考しないのは浪費である。


自分が人の上に立つほど偉い人間とは、一切、心の底から思わない。しかし、職責を果たそうとは思う。
それは、自己満だろうが、重要なのは、過去の自分との比較である。


最近法律について考える。
法学は、決まりの従い方を学ぶものとの認識があり、面白さを感じなかった。しかし基礎法学については、その国々の考え方や価値観に基づいた正当性を論じるものである。


それにしても、何か「根源的なもの」を求める心性というのが、自分の性格の気がする。
これは家庭環境、専ら両親の価値観の刷り込みかもしれない。
しかし、その影響の多寡に関わらず、もはや自分は存在しているのだから、トラウマの解消ではないのだから重要ではない。

「目先のこと」

が嫌いである。取りあえずの対処が嫌いである。


の割にズボラなのは、理想と実行動が乖離しているからだ。
スーパーヒーローに憧れるのではないが、鋭い刃物、よく回る歯車にはなりたい。




兎に角、突き詰めた先に法があるのであれば、トップダウン式にインプットをするのが重要だろう。

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理想自己とブログの意味
2012/03/16 07:59 | Comments(0) | 当ブログについて
早起き日記018 0645
四時半に目が覚めたが、しばらくぼうっとして、風呂に入りコーヒーを飲んだ。

夢をみた。

体育会系の、身体が大きく、高校で硬式野球の四番をつとめていた友人と、大学の研究室で話していた。

他愛もない話しだった。東京ドームに野球を見に行くとか、そんなことを言っていると、彼は、9階の研究室の窓に手をかけ、「そうなんだ」とか相づちを打っていた僕に背を向け、窓から飛び降りたのだった。

すぐ窓にかけよると、下では大勢の人が集まり、悲鳴と吐捨物で凄惨な状態であった。返り血をあびたのか、血まみれの男が呻いている。


ほんの数秒まで話していた人が、モノになるという経験がなかったので、ただ呆然と、下を見下ろすしかなかった。




ナルシズムに浸りたいわけじゃあない。それがかっこいいとか中学生的思考でもない。
むしろ感覚として、未熟なだけなのだ。

しかし、「理想的」であろうとすればするほどに、自分との乖離を思う。

振る舞いを社会に一致させることはできる。しかし、感覚を社会に一致させるのは難しい。しかし、「理想的」というものから乖離した言動は、内面規定(自己ルール)を破ったとして、自らを傷つけることになる。

それでも、同じ時間の電車に乗れた。金曜日だからか、乗客は少ないようだ。


こうした揺れというのはきっと、若いからなのだろうと思いながら、おそらくそう単純ではないと気付き始めている。


もっと根源的に解決すべき課題があると思う。と同時に、これは再帰的問題であり、自分というより現代においては、避けられず根本的に解決できない問題なのかもしれない。

というのはお坊っちゃん的発想で、あと何年生きるつもりなのか。




自分で考える、いったいそれが何を意味するのか、本当にそれが意味あることなのか、というより、高校生ぐらいから日記を書こうと思ったことがよく分からない、何故文字にするのか、それをブログにするのか。

これは以前から指摘しているが、公開するというのは、「みてほしい」「わかってほしい」という感覚の発露なのか。

その問いに、明確に答えられなければ、また大学時代のように、「ログ」にするべきだろう。

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早起き日記016 0705
2012/03/14 07:58 | Comments(0) | イライラ対処
思想や考え方ということで、基準をつくっての書き方に変えようと思う。

サンデルの正義論について述べたとしても、ベンサムの功利主義を説明できなければ、重複した主張や的を射ない説明になる。

では基準とは、と考えたとき、高校の教科書ではないだろうか。教科書は、至極事実中心で単純な筆致となるため、概ね面白くない。

けれども、自分の思考や考え方、社会事象に対しての意見を述べるとき、リファレンスとしては役立つと思う。


教科書批判の読み物は面白いけれども、精緻主義に陥っては自分で考えることなどできない。


果断に、前向きに、構築とモニタリングによる再構築を重要と考える。

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思想(生き方)について
2012/02/23 23:00 | Comments(0) | 生きる意味
東浩紀とか、宮台真司とか、大澤真幸とか、好きな思想家がいる。

彼らの考える世界が、自分にとってよいものなんだろう、そう思えるからだ。

とはいえ、そうしたすごい人であっても人なのだから、完全にその人の思想が実現したとしても、それが普遍的幸福なものとは限らない。

さらに、その人の思想を完全に理解することも不可能である。

最近仕事をしていて思うのだけど、人の理解は本当に曖昧だと思う。
言葉を突き詰めていけば、実は勘違いがあったり、分かってなかったりということが往々にしてある。


だから、ある特定の人を盲信するのは思考停止である。カリスマヒーローなど、複雑化したこの世にもはや存在しないのだと、誰しも銘記すべきである。

橋下氏がなんでも知っている救世主で、すべて正しいことをするわけではないのだ。


だからこそ、対話を、できるだけ多くの人と重ねることが重要である。

そのことを、東氏はルソーを援用して一般意志2.0と呼んでいる。



僕は、それに、「人は所詮分かり合えない」というニヒリズム的な、というより中2病的な感覚に答えてくれるものだという気がした。

けれども、それはやはり、感情レベルのものである。


しかし思うのは、もはや真理が存在しない世界においては、感情の総和こそが代替の意志なのではないかと。

みんながそう思えば、それが正しいことなのだと、それはまさに思考停止のようだがそうではない。

むしろ、だからこそ、自分はこう考えると表現できる者が、それは理系文系かかわらず、重要になるだろうということだ。




詰め込み教育が批判されて久しいが、多くの人間を説得するには膨大な知識が必要という意味で、詰め込みは重要なことになるだろう。

いくらネットの検索性が向上しても、絶妙のタイミングで言葉を紡げる人の方が、説得力がある、すなわち感情を動かす能力があるということだ。


そう考えると世界は少しだけ分かりやすい。
結局人は、論理を用いて感情的な安定を望んでいるのだ。

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