早起き日記018 0645
四時半に目が覚めたが、しばらくぼうっとして、風呂に入りコーヒーを飲んだ。
夢をみた。
体育会系の、身体が大きく、高校で硬式野球の四番をつとめていた友人と、大学の研究室で話していた。
他愛もない話しだった。東京ドームに野球を見に行くとか、そんなことを言っていると、彼は、9階の研究室の窓に手をかけ、「そうなんだ」とか相づちを打っていた僕に背を向け、窓から飛び降りたのだった。
すぐ窓にかけよると、下では大勢の人が集まり、悲鳴と吐捨物で凄惨な状態であった。返り血をあびたのか、血まみれの男が呻いている。
ほんの数秒まで話していた人が、モノになるという経験がなかったので、ただ呆然と、下を見下ろすしかなかった。
ナルシズムに浸りたいわけじゃあない。それがかっこいいとか中学生的思考でもない。
むしろ感覚として、未熟なだけなのだ。
しかし、「理想的」であろうとすればするほどに、自分との乖離を思う。
振る舞いを社会に一致させることはできる。しかし、感覚を社会に一致させるのは難しい。しかし、「理想的」というものから乖離した言動は、内面規定(自己ルール)を破ったとして、自らを傷つけることになる。
それでも、同じ時間の電車に乗れた。金曜日だからか、乗客は少ないようだ。
こうした揺れというのはきっと、若いからなのだろうと思いながら、おそらくそう単純ではないと気付き始めている。
もっと根源的に解決すべき課題があると思う。と同時に、これは再帰的問題であり、自分というより現代においては、避けられず根本的に解決できない問題なのかもしれない。
というのはお坊っちゃん的発想で、あと何年生きるつもりなのか。
自分で考える、いったいそれが何を意味するのか、本当にそれが意味あることなのか、というより、高校生ぐらいから日記を書こうと思ったことがよく分からない、何故文字にするのか、それをブログにするのか。
これは以前から指摘しているが、公開するというのは、「みてほしい」「わかってほしい」という感覚の発露なのか。
その問いに、明確に答えられなければ、また大学時代のように、「ログ」にするべきだろう。
四時半に目が覚めたが、しばらくぼうっとして、風呂に入りコーヒーを飲んだ。
夢をみた。
体育会系の、身体が大きく、高校で硬式野球の四番をつとめていた友人と、大学の研究室で話していた。
他愛もない話しだった。東京ドームに野球を見に行くとか、そんなことを言っていると、彼は、9階の研究室の窓に手をかけ、「そうなんだ」とか相づちを打っていた僕に背を向け、窓から飛び降りたのだった。
すぐ窓にかけよると、下では大勢の人が集まり、悲鳴と吐捨物で凄惨な状態であった。返り血をあびたのか、血まみれの男が呻いている。
ほんの数秒まで話していた人が、モノになるという経験がなかったので、ただ呆然と、下を見下ろすしかなかった。
ナルシズムに浸りたいわけじゃあない。それがかっこいいとか中学生的思考でもない。
むしろ感覚として、未熟なだけなのだ。
しかし、「理想的」であろうとすればするほどに、自分との乖離を思う。
振る舞いを社会に一致させることはできる。しかし、感覚を社会に一致させるのは難しい。しかし、「理想的」というものから乖離した言動は、内面規定(自己ルール)を破ったとして、自らを傷つけることになる。
それでも、同じ時間の電車に乗れた。金曜日だからか、乗客は少ないようだ。
こうした揺れというのはきっと、若いからなのだろうと思いながら、おそらくそう単純ではないと気付き始めている。
もっと根源的に解決すべき課題があると思う。と同時に、これは再帰的問題であり、自分というより現代においては、避けられず根本的に解決できない問題なのかもしれない。
というのはお坊っちゃん的発想で、あと何年生きるつもりなのか。
自分で考える、いったいそれが何を意味するのか、本当にそれが意味あることなのか、というより、高校生ぐらいから日記を書こうと思ったことがよく分からない、何故文字にするのか、それをブログにするのか。
これは以前から指摘しているが、公開するというのは、「みてほしい」「わかってほしい」という感覚の発露なのか。
その問いに、明確に答えられなければ、また大学時代のように、「ログ」にするべきだろう。
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思想や考え方ということで、基準をつくっての書き方に変えようと思う。
サンデルの正義論について述べたとしても、ベンサムの功利主義を説明できなければ、重複した主張や的を射ない説明になる。
では基準とは、と考えたとき、高校の教科書ではないだろうか。教科書は、至極事実中心で単純な筆致となるため、概ね面白くない。
けれども、自分の思考や考え方、社会事象に対しての意見を述べるとき、リファレンスとしては役立つと思う。
教科書批判の読み物は面白いけれども、精緻主義に陥っては自分で考えることなどできない。
果断に、前向きに、構築とモニタリングによる再構築を重要と考える。
サンデルの正義論について述べたとしても、ベンサムの功利主義を説明できなければ、重複した主張や的を射ない説明になる。
では基準とは、と考えたとき、高校の教科書ではないだろうか。教科書は、至極事実中心で単純な筆致となるため、概ね面白くない。
けれども、自分の思考や考え方、社会事象に対しての意見を述べるとき、リファレンスとしては役立つと思う。
教科書批判の読み物は面白いけれども、精緻主義に陥っては自分で考えることなどできない。
果断に、前向きに、構築とモニタリングによる再構築を重要と考える。
東浩紀とか、宮台真司とか、大澤真幸とか、好きな思想家がいる。
彼らの考える世界が、自分にとってよいものなんだろう、そう思えるからだ。
とはいえ、そうしたすごい人であっても人なのだから、完全にその人の思想が実現したとしても、それが普遍的幸福なものとは限らない。
さらに、その人の思想を完全に理解することも不可能である。
最近仕事をしていて思うのだけど、人の理解は本当に曖昧だと思う。
言葉を突き詰めていけば、実は勘違いがあったり、分かってなかったりということが往々にしてある。
だから、ある特定の人を盲信するのは思考停止である。カリスマヒーローなど、複雑化したこの世にもはや存在しないのだと、誰しも銘記すべきである。
橋下氏がなんでも知っている救世主で、すべて正しいことをするわけではないのだ。
だからこそ、対話を、できるだけ多くの人と重ねることが重要である。
そのことを、東氏はルソーを援用して一般意志2.0と呼んでいる。
僕は、それに、「人は所詮分かり合えない」というニヒリズム的な、というより中2病的な感覚に答えてくれるものだという気がした。
けれども、それはやはり、感情レベルのものである。
しかし思うのは、もはや真理が存在しない世界においては、感情の総和こそが代替の意志なのではないかと。
みんながそう思えば、それが正しいことなのだと、それはまさに思考停止のようだがそうではない。
むしろ、だからこそ、自分はこう考えると表現できる者が、それは理系文系かかわらず、重要になるだろうということだ。
詰め込み教育が批判されて久しいが、多くの人間を説得するには膨大な知識が必要という意味で、詰め込みは重要なことになるだろう。
いくらネットの検索性が向上しても、絶妙のタイミングで言葉を紡げる人の方が、説得力がある、すなわち感情を動かす能力があるということだ。
そう考えると世界は少しだけ分かりやすい。
結局人は、論理を用いて感情的な安定を望んでいるのだ。
彼らの考える世界が、自分にとってよいものなんだろう、そう思えるからだ。
とはいえ、そうしたすごい人であっても人なのだから、完全にその人の思想が実現したとしても、それが普遍的幸福なものとは限らない。
さらに、その人の思想を完全に理解することも不可能である。
最近仕事をしていて思うのだけど、人の理解は本当に曖昧だと思う。
言葉を突き詰めていけば、実は勘違いがあったり、分かってなかったりということが往々にしてある。
だから、ある特定の人を盲信するのは思考停止である。カリスマヒーローなど、複雑化したこの世にもはや存在しないのだと、誰しも銘記すべきである。
橋下氏がなんでも知っている救世主で、すべて正しいことをするわけではないのだ。
だからこそ、対話を、できるだけ多くの人と重ねることが重要である。
そのことを、東氏はルソーを援用して一般意志2.0と呼んでいる。
僕は、それに、「人は所詮分かり合えない」というニヒリズム的な、というより中2病的な感覚に答えてくれるものだという気がした。
けれども、それはやはり、感情レベルのものである。
しかし思うのは、もはや真理が存在しない世界においては、感情の総和こそが代替の意志なのではないかと。
みんながそう思えば、それが正しいことなのだと、それはまさに思考停止のようだがそうではない。
むしろ、だからこそ、自分はこう考えると表現できる者が、それは理系文系かかわらず、重要になるだろうということだ。
詰め込み教育が批判されて久しいが、多くの人間を説得するには膨大な知識が必要という意味で、詰め込みは重要なことになるだろう。
いくらネットの検索性が向上しても、絶妙のタイミングで言葉を紡げる人の方が、説得力がある、すなわち感情を動かす能力があるということだ。
そう考えると世界は少しだけ分かりやすい。
結局人は、論理を用いて感情的な安定を望んでいるのだ。
別に鬱などではないが、正直、僕のみている世界というものが、ますます正しいのだという感覚が深まる。
僕の人間観というのは、ひねくれていることは自覚的だ。
そして、そのことが与える影響は自分にとってマイナスだとも思う。
人間を肯定できないのは、理想に溺れる未熟者に思える。
ところが、そうでありながら、お金が絡む調整ごとになると、人は目の色が変わる。
お金はもちろん、時間なりの利害全面でそうだ。
若いうちは不条理に耐えろということかもしれない。
とはいえ、まぁそれは関係ない。
人間というのは本当にどうしようもない。法律は、社会契約は、そのどうしようもなさを調整する役目なのだ。
それはそうだ。僕の考え方がすべてであっていいはずはない。
自己献身的なのを人間に望むのは間違っている。
だから僕も他人に厳しくあることもできるし、平然と責任放棄することも可能だ。
であっても。
fateの主人公のようなお人好しには、僕はなれない。fateというゲームの大ヒットは、主人公のありえないほどの自己犠牲の精神が一因に思うが、そもそもそれが感動を生むのは、「ありえなさ」による。
結局、僕は自分に課すルールによって動いていて、反することは精神的負荷になる。だから、他者のせいにすることはない(原理上)。
変えるなら、一番楽なのは自分だろう。
ラーメン屋に女性三人で「おいしい。1人じゃこゆとここれないですよね~」といっていたが、そういう感覚に嫌気がはしったのは、そういう気持ちと仲間を求める反動にも思える。
でも本当に、今の繋がりが、僕を維持してるように思える。
学生時代は、存在価値などなかったといえる。
ここに、生きづらさの原因が隠れている。「役に立つ」ということが存在意義なのか。働かざる者くうべからずなのか。
100%その通りである。
税金を搾取して生き長らえる老人は唾棄すべきだ。
思うに、「それはしかたがないね」のレベルの問題に思える。
老人だからしかたがないね、障害者だからしかたがないね、在日朝鮮人だからしかたがないね……。
その「しかたがないね」のレベルを、主張をするのが圧力団体である。それは利害対立する集団とは当然あらそうことになる。
じゃあ自分はどっちの集団に所属するの?
結局どこにいても争いに巻き込まれる。日本は平和というが、命が担保になってないだけで、戦の構造は変わってないように思う。
まぁ落ちぶれたら、いまやセーフティーネットも機能してないので、死ぬしかない点において、大差はないのかもしれない。
とまぁ、僕の目にそう映る以上、ますますその傾向は強まるだろう。
それを認めた上で、自分はうまくやっていく方法を模索することはできる。
だがそれが何になるのか。
うまくいって70歳の平均寿命まで生きられてなんの意味があるのか。
というより、何故人々は、こうした疑問なしに生きられるのか、僕は長らく分からなかった、今も分からない、けれどもそれが「個性」なのだと、勝手に納得した。
心配いらない、インターネットで探せば、もっと抑鬱な人も大勢だし、僕程度のレベルで思考する人もたくさんいる。
だからこそ、「中間派はつらいんだよ」じゃないが、精神病とも認定されない人は、表現できないモヤモヤ(=生きづらさ)に苦しむ。
(ふざけんな甘えてんじゃねえという批判、それが「不可避」な点が問題を複雑にしている)
だから僕は表現する。
思考はエリートに任せよう、だから僕のは単なる愚痴だ。
だけれども、きっと、中学生くらいの誰か1人くらいは、救いになるのではと思う。それは確信する、何故ならば、僕は、少し気分が晴れた(笑)。
でも、この点も問題だ。
ふつう人は、愚痴を誰か対面コミュニケーションにおいて話すことで、ストレス解消しようとする。
けれども、僕は誰かに話すのが申し訳ないと思う。
さらに傲慢だが、話したって理解してもらえないだろうと思う。
もっと人を頼ることができたらよかったのかもしれない。
ただし、これも所詮程度の問題であり、「ちったぁ自分で考えろ!」に常に怯えて過ごさないといけない。
人間関係なんてフレキシブルなものだし、厳密な付き合いなど不可能で、明確な責任や役割の振り分けなど不可能だ。
そんなこと分かっているが、まぁねぇ。
僕は、だから、僕がその人に何をしてあげられるのか。それを考えてしまう。
子どもってのは、これらの意味で、特殊なのかもしれないな。
僕の人間観というのは、ひねくれていることは自覚的だ。
そして、そのことが与える影響は自分にとってマイナスだとも思う。
人間を肯定できないのは、理想に溺れる未熟者に思える。
ところが、そうでありながら、お金が絡む調整ごとになると、人は目の色が変わる。
お金はもちろん、時間なりの利害全面でそうだ。
若いうちは不条理に耐えろということかもしれない。
とはいえ、まぁそれは関係ない。
人間というのは本当にどうしようもない。法律は、社会契約は、そのどうしようもなさを調整する役目なのだ。
それはそうだ。僕の考え方がすべてであっていいはずはない。
自己献身的なのを人間に望むのは間違っている。
だから僕も他人に厳しくあることもできるし、平然と責任放棄することも可能だ。
であっても。
fateの主人公のようなお人好しには、僕はなれない。fateというゲームの大ヒットは、主人公のありえないほどの自己犠牲の精神が一因に思うが、そもそもそれが感動を生むのは、「ありえなさ」による。
結局、僕は自分に課すルールによって動いていて、反することは精神的負荷になる。だから、他者のせいにすることはない(原理上)。
変えるなら、一番楽なのは自分だろう。
ラーメン屋に女性三人で「おいしい。1人じゃこゆとここれないですよね~」といっていたが、そういう感覚に嫌気がはしったのは、そういう気持ちと仲間を求める反動にも思える。
でも本当に、今の繋がりが、僕を維持してるように思える。
学生時代は、存在価値などなかったといえる。
ここに、生きづらさの原因が隠れている。「役に立つ」ということが存在意義なのか。働かざる者くうべからずなのか。
100%その通りである。
税金を搾取して生き長らえる老人は唾棄すべきだ。
思うに、「それはしかたがないね」のレベルの問題に思える。
老人だからしかたがないね、障害者だからしかたがないね、在日朝鮮人だからしかたがないね……。
その「しかたがないね」のレベルを、主張をするのが圧力団体である。それは利害対立する集団とは当然あらそうことになる。
じゃあ自分はどっちの集団に所属するの?
結局どこにいても争いに巻き込まれる。日本は平和というが、命が担保になってないだけで、戦の構造は変わってないように思う。
まぁ落ちぶれたら、いまやセーフティーネットも機能してないので、死ぬしかない点において、大差はないのかもしれない。
とまぁ、僕の目にそう映る以上、ますますその傾向は強まるだろう。
それを認めた上で、自分はうまくやっていく方法を模索することはできる。
だがそれが何になるのか。
うまくいって70歳の平均寿命まで生きられてなんの意味があるのか。
というより、何故人々は、こうした疑問なしに生きられるのか、僕は長らく分からなかった、今も分からない、けれどもそれが「個性」なのだと、勝手に納得した。
心配いらない、インターネットで探せば、もっと抑鬱な人も大勢だし、僕程度のレベルで思考する人もたくさんいる。
だからこそ、「中間派はつらいんだよ」じゃないが、精神病とも認定されない人は、表現できないモヤモヤ(=生きづらさ)に苦しむ。
(ふざけんな甘えてんじゃねえという批判、それが「不可避」な点が問題を複雑にしている)
だから僕は表現する。
思考はエリートに任せよう、だから僕のは単なる愚痴だ。
だけれども、きっと、中学生くらいの誰か1人くらいは、救いになるのではと思う。それは確信する、何故ならば、僕は、少し気分が晴れた(笑)。
でも、この点も問題だ。
ふつう人は、愚痴を誰か対面コミュニケーションにおいて話すことで、ストレス解消しようとする。
けれども、僕は誰かに話すのが申し訳ないと思う。
さらに傲慢だが、話したって理解してもらえないだろうと思う。
もっと人を頼ることができたらよかったのかもしれない。
ただし、これも所詮程度の問題であり、「ちったぁ自分で考えろ!」に常に怯えて過ごさないといけない。
人間関係なんてフレキシブルなものだし、厳密な付き合いなど不可能で、明確な責任や役割の振り分けなど不可能だ。
そんなこと分かっているが、まぁねぇ。
僕は、だから、僕がその人に何をしてあげられるのか。それを考えてしまう。
子どもってのは、これらの意味で、特殊なのかもしれないな。
タイトルが混沌としているけれども、喉が痛いのと体の怠さから午前有給を使った。
今年はもちろん、入社して初めてのことだ。
ところで最近、本を読んではいるけれども、レビューがない。
書評、レビューを書かないと、アウトプットという意味において価値がない。
というわけで、書評じみたものを書こうと思ったが、ブックマークにしていた、下記記事が目に入った。
「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら
ニーチェは相対主義者であり、世の中の議論の多くは、信仰vs信仰の構造をとっている。
だから、「人を殺してはいけない」というのも、信仰である。信仰を真理へと押し上げるのは、政治ゲームである。
政治ゲームで勝ち上がった人の信じていることが、真理となる。政治ゲームのルールを知ろうとする意志が、「権力への意志」である。
と、ニーチェの道徳の系譜という書物のレビューの、そのまたレビューを書いてみた。
で、そのコメント欄を読んでいき、トラックバックにあった、
人を殺したければ殺すべきである――永井均『これがニーチェだ』を読む
という記事を読んだ。
そうすると、ニーチェは相対主義なんかじゃない、ポジティブな生というものを肯定し、大切なのは「健康」なのだと述べている、という指摘が書いてあった。
なるほど、そうなのか、と納得。
それでだ、今の二つの記事を、「自己啓発本」や「解説書」とたとえようと思う。
自己啓発本というジャンル、すなわち、「できる人の時間の使い方」といったような種類の書物、それらの需要というのは、何故起こるのか。
また解説書、「ニーチェの言葉」みたいなものの需要は、何故あるのか。
とっかかりがないと、どんな簡単なことでも分からないからだ。
複雑なこと、難しいことが「かっこいい」と思っていたふしが、僕にはあった。
だから、ブログや、まして自分の日記を書くにあたっても、難解な言い回しをすることがよくあった。
でも実際、ビジネスで求められているのは、単純さ、明快さ、スピード感だ。
文学的な言い回しなんてしていたら、「それってつまりこういうことでしょ」と添削される。
それがゆえに、僕は最近、文章を書くのが嫌になっている。
というより、文章を書くことによる「リスク」というのを、過剰に恐れているといっていい。
たった一言、一語の形容詞をつけただけで、「わかりにくい」と言われたり、多数の人たちに誤解を招くことになる。
そういう意味で、プロのブロガーってのは、すごい職業だと思う。
とはいえ、たびたび炎上ってのは起こる。それは交通事故にでもあうような意味合いになるかもしれない。
まぁそれはとにかく、自己啓発本や解説書は、とても役に立つと同時に、「自分で考える」という癖をつけるには、害悪にすらなる。
もっとも、自己啓発本等に書かれていること、鵜呑みにしてそのまま実行しようとする人はいないかもしれない。
けれども、今社会に求められているのは、むしろ、自己啓発本を自分で書ける人なのだ。
自分はこう思ってこのように行動した、その結果こうなった。
その説明が、どれほど他者に分かりやすく伝えられて、影響を与えられるのか。
その観点が、非常に重要であると僕は思う。
正直、これをいってしまえば真面目な人から総攻撃をくらうが、ニーチェは実はこんなことは言ってなかったとか、ニーチェのことを正確に解釈することは、一般人にとってなんら意味がないのである。
もちろん、ニーチェという人の名前を使って、適当な発言をねつ造してもいいといっているのではない。
ただ、一般には、必要としている情報の「質」と「次元」があるということなのだ。
僕は「なんで生きているのだろう」なんて小学校4年生的なことを考えることがあるが、
「意味なんてないんだ。永劫回帰なんだ」
とニーチェがいったということで、納得できる人もいる。
ニーチェの翻訳本を読んで、詳細なところはよく分からなくても、何事にも意味を求めるのがいけないんだ、超人になることが重要なんだと理解し行動できる人もいる。
とにかく、今、世界は、日本は、社会は、変わろうとしている。
と、いうよりも、「変わらなくちゃいけない症候群」にかかっている。それを、香山氏のように、「ほどほど論」をすすめても、もはや「怠け者」のレッテルをはられ、唾棄すべきと排除されるだけだろう。
剥き出しの生というものを、最近よく感じる。とはいっても、大学時代に比べたら生易しい。
学生は気楽でいいな、と大人はいう。
僕はそうは思わない。というか、全然気楽じゃなかった、ともいえる。
僕はあるときから、日々において、今日が昨日よりもよくなっていると、確信しているし感じている。
過去に戻れるタイムマシーンがあったとしても、絶対戻りたくない。
僕は、将来の(未来の)不透明性を恐れていた、いや、今も恐れている。
僕はある人に指摘されておののいたことがあるが、僕には、欲求がないのだという。
そんなことはない。おいしいラーメンだって食べたいし、眠たいときは寝たい。
けれども、どこか、発生する欲求を、相対化してしまうところはある。
お金持ちになりたいという欲求が生まれたとして、「じゃあ、お金持ちになったらどうするの?」という問いが必然的に生まれる。
今年はもちろん、入社して初めてのことだ。
ところで最近、本を読んではいるけれども、レビューがない。
書評、レビューを書かないと、アウトプットという意味において価値がない。
というわけで、書評じみたものを書こうと思ったが、ブックマークにしていた、下記記事が目に入った。
「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら
ニーチェは相対主義者であり、世の中の議論の多くは、信仰vs信仰の構造をとっている。
だから、「人を殺してはいけない」というのも、信仰である。信仰を真理へと押し上げるのは、政治ゲームである。
政治ゲームで勝ち上がった人の信じていることが、真理となる。政治ゲームのルールを知ろうとする意志が、「権力への意志」である。
と、ニーチェの道徳の系譜という書物のレビューの、そのまたレビューを書いてみた。
で、そのコメント欄を読んでいき、トラックバックにあった、
人を殺したければ殺すべきである――永井均『これがニーチェだ』を読む
という記事を読んだ。
そうすると、ニーチェは相対主義なんかじゃない、ポジティブな生というものを肯定し、大切なのは「健康」なのだと述べている、という指摘が書いてあった。
なるほど、そうなのか、と納得。
それでだ、今の二つの記事を、「自己啓発本」や「解説書」とたとえようと思う。
自己啓発本というジャンル、すなわち、「できる人の時間の使い方」といったような種類の書物、それらの需要というのは、何故起こるのか。
また解説書、「ニーチェの言葉」みたいなものの需要は、何故あるのか。
とっかかりがないと、どんな簡単なことでも分からないからだ。
複雑なこと、難しいことが「かっこいい」と思っていたふしが、僕にはあった。
だから、ブログや、まして自分の日記を書くにあたっても、難解な言い回しをすることがよくあった。
でも実際、ビジネスで求められているのは、単純さ、明快さ、スピード感だ。
文学的な言い回しなんてしていたら、「それってつまりこういうことでしょ」と添削される。
それがゆえに、僕は最近、文章を書くのが嫌になっている。
というより、文章を書くことによる「リスク」というのを、過剰に恐れているといっていい。
たった一言、一語の形容詞をつけただけで、「わかりにくい」と言われたり、多数の人たちに誤解を招くことになる。
そういう意味で、プロのブロガーってのは、すごい職業だと思う。
とはいえ、たびたび炎上ってのは起こる。それは交通事故にでもあうような意味合いになるかもしれない。
まぁそれはとにかく、自己啓発本や解説書は、とても役に立つと同時に、「自分で考える」という癖をつけるには、害悪にすらなる。
もっとも、自己啓発本等に書かれていること、鵜呑みにしてそのまま実行しようとする人はいないかもしれない。
けれども、今社会に求められているのは、むしろ、自己啓発本を自分で書ける人なのだ。
自分はこう思ってこのように行動した、その結果こうなった。
その説明が、どれほど他者に分かりやすく伝えられて、影響を与えられるのか。
その観点が、非常に重要であると僕は思う。
正直、これをいってしまえば真面目な人から総攻撃をくらうが、ニーチェは実はこんなことは言ってなかったとか、ニーチェのことを正確に解釈することは、一般人にとってなんら意味がないのである。
もちろん、ニーチェという人の名前を使って、適当な発言をねつ造してもいいといっているのではない。
ただ、一般には、必要としている情報の「質」と「次元」があるということなのだ。
僕は「なんで生きているのだろう」なんて小学校4年生的なことを考えることがあるが、
「意味なんてないんだ。永劫回帰なんだ」
とニーチェがいったということで、納得できる人もいる。
ニーチェの翻訳本を読んで、詳細なところはよく分からなくても、何事にも意味を求めるのがいけないんだ、超人になることが重要なんだと理解し行動できる人もいる。
とにかく、今、世界は、日本は、社会は、変わろうとしている。
と、いうよりも、「変わらなくちゃいけない症候群」にかかっている。それを、香山氏のように、「ほどほど論」をすすめても、もはや「怠け者」のレッテルをはられ、唾棄すべきと排除されるだけだろう。
剥き出しの生というものを、最近よく感じる。とはいっても、大学時代に比べたら生易しい。
学生は気楽でいいな、と大人はいう。
僕はそうは思わない。というか、全然気楽じゃなかった、ともいえる。
僕はあるときから、日々において、今日が昨日よりもよくなっていると、確信しているし感じている。
過去に戻れるタイムマシーンがあったとしても、絶対戻りたくない。
僕は、将来の(未来の)不透明性を恐れていた、いや、今も恐れている。
僕はある人に指摘されておののいたことがあるが、僕には、欲求がないのだという。
そんなことはない。おいしいラーメンだって食べたいし、眠たいときは寝たい。
けれども、どこか、発生する欲求を、相対化してしまうところはある。
お金持ちになりたいという欲求が生まれたとして、「じゃあ、お金持ちになったらどうするの?」という問いが必然的に生まれる。
