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2013年以降何も考えていないなど嘘である
2015/06/15 18:43 | Comments(0) | 目的・目標
やはり過去の記事を読んでいて、分かった。決して、自分は、何も考えていなかったわけではないと。

ただ、書くのをさぼっていたのである。

そして、書いて言語化しないと、自分の中で、潜在意識に到達しないのである。


今日から、音読と計算のルーチンを再開しよう。そして、ブログも、今日から毎日つけよう。いや、今月は毎日にして、7月は週一にして、8月は月二にして、9月は月一にして、9月末時点で今後の方針を再度話し合おう。

話し合う内容としては、音読と計算の継続性を確認する。
何故段々と確認を少なくするかというと、継続性が担保されるだろうという予測だ。

まず今月、残り半分を何とかしないといけない。もちろん、いつぞやの正月目標のとおり、時差更新は可とする。


まずは、そうだな。やはり、自分の起点とは、「ログ」であるのだ。迷ったら、はじめに戻りたいと思ったら、ここに戻ればいいのだ。


ログだけは、目標を立てて、完遂した実績がある。自信もあるし、誇りもある。


そして、いまは余裕があるなら、明日書くことを考えてもいい。攻殻機動隊が6月20日に動き出す。とかね。

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過去の記事を読んですごいと思った
2015/06/04 08:42 | Comments(0) | 目的・目標
2009年ごろの記事を読んで、よくこんなに考えていたなと思った。
間違いなく、書いていた当時は、くだらないことを書いていると自覚があった。

ただ、SNSをやっていて、友人がコメントをくれるから、書いていていいのだと思って続けていたのだろう。

そのうちの一人は、強烈に自分の他者存在に対する印象をかえた。
しかし、その他の人たちがどんな印象をもっていたかは、わからない。

今未来の自分が読んでいると、すごく面白いと思った。小説のプロットとか、面白いじゃあないか。三日坊主で完結しないけど、続きが気になる。しかし、いまの私が続きを書いても、二次創作にしかならない。もったいない。
最初の記事にあるこのブログの目標はずれているから直さないといけないと思うけれども、確かに、そうしたことから始まったのだと思う。まぁ、別のブログから統合させたのだから違っていて当たり前だが、そんな当たり前のことすら忘れてしまう。何せ五年前だ。

そのころ立てた目標、達成しているんだよな、ほとんど。だから、ここ2~3年、書くことがなくなった。

当初のブログ目標からすると、完結なんだよな。
ただ、明確に終わりを引いていないから、なんとなく自然消滅になっている。世の中の卒業式が重要だということがよくわかる。

社会人は、卒業が長い。だから見失う。それなりに目の前の仕事は忙しい。
生活面は、2010年の9月12日で満たされたのだ。だから、そこから、2013年1月17日まで、エピローグだとして、そこから新しいステージが始まっていたのだ。


にもかかわらず、止まってしまっている。そう、今の私は何者でもない。過去の自分とすらたちきれてしまっているのだ。
そういう危惧から、半年前だかいつだか忘れたが、毎週土曜日夜を自分会議の時間にしようと提案した。が、計画倒れだった。

いまのままじゃだめだ、とか、そういった焦燥感ではない。そうではなく、自分が本当にやりたいことというのを、もっとそれに向けて進まないといけないと、そう思うのだ。

是非もう一度、この感覚を維持するため、仕事終わりにこの記事をみてほしい。
きっと疲れていて頭は働かないし、心も動かないだろうが、それでも、この感覚を少しでも呼び起こせたのなら、ようやく一歩進める気がする。

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「the last of us」の動画をみて徒然書く。書くことの重要性について
2015/05/23 20:50 | Comments(0) | 目的・目標
何の気なしに「the last of us」の動画をみたら、面白そうだった。プレイ動画、全部みたい、けど、長い。しかもこれもしかして、続編もあるのだろうか。



バイオハザードみたいなストーリーのようだ。バイオハザードも、怖いの嫌だから敬遠していたけど、映画みてみると面白かったし、ゲームのプレイ動画もみてみると面白そうだった。
けれども、長い。長いのは、もう年を取ると疲れる。いやというよりも、長くてもいいんだが、続編がでるのを待たないといけない。
今、待てているのは、無職転生と、ゲームオブスローンズと、アイアムアヒーローと、進撃の巨人ぐらいだろうか。キングダムも、テラフォーマーズも、ドリフターズも、攻殻機動隊ARISEも、面白いし好きなのだが、如何せん更新をチェックして待つことができない。気付いた読むのだけれど。

そういう、熱い思いがないから、一般人なのだ。だから、それを話題にして人と話ができないのだ。ある先輩は、ものすごくバイクに詳しい。僕も好きなことだから、話しを聞いていて面白いし、だからこそ、それがどれだけ深いことなのかもわかる。いや、たぶん、深くはないのだろうその業界の人たちの間では。でも、一般人、興味がない人からしたら、かなり深いと思う。
ある先輩は、ものすごく映画に詳しい。そして、それを一般人にも分かりやすいように話せる能力もある。

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3年前の思考と比較して
2014/07/04 18:48 | Comments(0) | ポジティブ思考
しきりに、人の利己的な面を主張していた。それは間違いではないが、何故そうまで、日記にかくまでして言わなければいけなかったのか。

未熟さ故の誤り、と、経緯を知らなければ思う。今の僕も同じ。
しかし、それは、論理ではなく、苛立ちの感情表現だった。日記にたいしてのコメントは、とても正しいのが多い。
今の自分であれば、むしろ他者のコメントに同調する。
 
しかし、そういった正しいコメントに、興味がないと返信している自分というのは、とても恥ずかしいながら、よく分かる。論理にみえて、感情をぶつけているだけ。それに気付いた人はとても少なかった。

そうとはいえ、3年前の記述で、それを気付いてほしいとは、幼稚すぎる。

世の中の不条理なところ、それはもはや問題ではなく、いったいどうしたら、自分を表現できるのか、それを考えるべきなのだ。

そして、この気付きは、きっと誰もが当たり前に分かっていることなのだが、それを、分かっていない3年前の自分に分からせるのは、困難だ。

言葉では、絶対に解決しない。
哲学や思想は、なにも救ってくれない!


運がよかったのだ。
しかし、そういう結論にはなりたくないし、それは、これからの糧にはなりそうもない。
けれども、絶対の真理がなくなってしまった以上、なるようになる、こと以上に何もない。


ポジティブ思想とは、失敗したのはたまたまで、成功したのは自分のおかげと考えるものだが、そうじゃない。失敗も成功も、どちらもたまたまだ。


僕がいままで触れてきた思想や考え方で、一貫して矛盾がないのは、空の考え方以外ない。

中学生のときの思想は、人は楽しむために生きるというものだ。これは絶対に正しいと思った。すごい発見だと思った。しかしこの考え方は、自分の生き方にちっともプラスにならなかった。それどころか、それ以降のどつぼへの道を加速させたのかもしれない。

空は、あるがままのこと。それは、現状追認か。現状を認めるのはその通りだが、すべてを自分の責任と受け止めて、主体的に世の中を渡っていく。それは、単なる現状追認ではないと思う。


虐殺とか、極端な例をもちだすまでなく、まずは、自分のまわりの環境から考えるしかないのだ。

実存主義で、世界の真理なんかより、俺自身の問題が重要だ! と言い切った哲学者がいたではないか。


そうなったとき、自分の問題は、自分にしか解決できない。空の思想がいくら正しくても、それを実践するしか、救いの道はない。


正しい考えと、正しい行動こそが、結局のところ、中学生のときの思想を実現する唯一の方法というわけだ。

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もやもや(考えるということ、死ぬということ)
2014/01/27 20:25 | Comments(0) | ポジティブ思考
言葉は弾丸やミサイルのように、どこかに飛んでいく。
その先で誰かを傷付けたとしても、それは手遅れ。
だから僕は、口をつぐんで、耳の聞こえない人のふりをしよう。


ライ麦畑でつかまえて、のホールデン君は、どうにも思春期をこじらせた大学生だが、人間関係の難しさを感じ、劣等感があるひとは、その気持ちが少し分かるんじゃないかと思う。


結局、妹に救われて終るのだっけ。もう忘れてしまったが、大層感銘を受けたのは覚えている。

じゃあ、それを誰かと共有しようとしたとき、言葉で説明なんかできない、するもんじゃないと思っていた。


ところが、人間なんて、社会でしか生きられない。だから、一人閉じこもって本を読んだところで、何ら解決にもならない。いやもちろん、内面に抱えた極個人的な悩みや劣等感というものを、取り扱う指針はみつかるかもしれない。けれども、それがなにか、お金につながるかといったら糞の役にも立たない。


いやもちろん、生きることを選ぶのであれば、自分自身でそれを選ぶ必要がある。それができないピンチなのであれば、すぐさま治療が必要だ。

そんなとき、本を読んでいれば、少しばかり耐性がついているかもしれない。でもそんなのより、精神科に行って睡眠薬をもらった方が早いのでは?


よく考えろ。

考えることが意味のないことだと僕は結論付けたわけだが、同時にそれを決めたのも考えた上でのことである。

そろそろ、五年前の考えで行くのは厳しくなってきたはずだ。
この先、どう生きるかは、お金を稼ぐ手段を考えることでは、決してない。

しかし、自分には覚悟ができるか。決断とは、何かを捨て去ることである。大事なことのため、何かを犠牲にすることである。

そのとき、自分にとって大事なものが決まってないと、今のように悩み続けることになる。



どうしても分からない。
時折消えてしまいたくなるこの感覚は、死にたいという言葉で代替できないことは既に試している。

例えば、ご恩と奉公の時代、命を賭けて主君に尽くすことが、武士にとってすべてであるとされ、責任をとるために自ら腹を切った。

その感覚、生きざま、それは、相当の覚悟が、日頃からなければなるまい。

ここが自分の死に場所だと、すぐさま決断できる覚悟。ここまでくると、僕だけでなく、現代人のほとんどが持ち合わせていないだろう。

全国で一千万人もいなかった時代で、おそらくそのほとんどが農民であったなか、そうした覚悟をもっていたのは、極わずかだったのかもしれない。

だから、そんな覚悟を、凡人がもつこと自体、総理大臣になりたいといった夢想の戯言なのかもしれない。


では、何故僕がそんな覚悟を求めるかというと、これは今の思いつきだが、死ぬのが怖いのではないかと思う。

ある意味逆転の発想。死をいとわない覚悟をしようとする理由が、死ぬのが怖いからという。これは矛盾ではないか。

終末期ケアで、重い病気を患った患者が、死を受け入れていく段階で、無気力を通して、受容の段階がある。
死を受け入れたところで、死の恐怖から逃れられるものではない。ただし、恐怖で狂ってしまうか、突然死する以外は、必ず、受容の段階に至るはずだ。


それをいち早くしようと、僕は、覚悟を決めようとしていたのか。そうだとしたら、気が早すぎないか。
どうせ死ぬなら、いまを楽しもうというのと、だからこそ死に備えようというのと、ここも価値観で分かれることになる。


結局、この手の話しに答えはない。だから結局、自分で考えて、決めるしかない。

そう、だから結論として、考えなくてもよい方法を含めて、考えるべきということだ。

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