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反転した愚痴の積極肯定とポジティブのロジック
2016/04/05 20:03 | Comments(0) | ポジティブ思考
最近、仏教のことを多く書いているので、宗教に抵抗がある人を遠ざけてしまっていると思う。

数年も前であるが、土日なにしたの、的な雑談になり、写経をしてみた、といったら、マジビキという状況になったことが懐かしい。

宗教とは切り離した仏教


学問としての仏教、と、言葉をかえても、イメージでしか物事を考えられない人にとっては、無意味だろう。

ただ僕は、神に祈りを捧げたり、念仏を唱え続けることで、神や仏が救ってくれる、などとは全く思っていない。

考え方とその実践が素晴らしいと思うのであって、例えば、葬式とか、お墓とか、高貴な戒名だとか、そういった仏教様式に拘るものではない。

釈迦は、別に自分をお墓に埋葬してくれといったわけではないが、心酔する弟子たちは分骨して塔をたてたのである。


一方で、ご利益があるということを、より深く解釈してみる。

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人の本質は光であるか我執であるか
2016/03/07 01:31 | Comments(0) | 生きる意味
時間がないため、できるだけ簡潔に。

キングダムを40巻まで読む機会があった。その際に、後の始皇帝と実権を握る大臣との対話。

大臣は、人の本質は我執であり、天下とは金(貨幣制度)であるという。そして、戦争はなくならず、国を豊かにすることが大事だという。自国が豊かになれば、周りの国からも人が流れてきて、富を循環させる仕組みを作るという。

一方、始皇帝は、人の本質は「光」であり、戦争はなくならないというのは人間への諦めだ。人は光をもっているから、よりよい世界に変えていく力がある。だから俺の時代で戦争は終わらせる。その方法は武力でだ。

結局、二人の弁舌は、お互いのもつ「前提(人に対しての理解、考え方)」があまりにも違うため、これ以上対話をしてもお互いが納得することはないだろうと、終わりになる。

戦争はなくならないというのと、戦争は終わらせることができるという考えと、そういった面の違いもあるけれども、僕が思ったのは、その、「終わらなさ」であった。

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生きる意味を考える上で重要なこと
2016/02/06 22:46 | Comments(0) | 生きる意味

あるべき姿

十二縁起ぐらい諳んじて言えない状態で、「僕って何」とか「生きる意味とは」とか「正義とは」とか、片腹痛い。
仏教でなくても、キリスト教でも、何だっていいが、インプット(知識)がなくては、考えることなどできはしない。

インプットとは、暗記だ。そして暗記とは、自分の「実感できること」をベースに、言葉を作り出せることである。
一字一句覚えることではない。学校のテストでも、イイハコつくろう鎌倉幕府、との知識、記憶が必要なものは少なくなっているに違いない。かといって、年号を覚えることを軽視するわけではない。ただ、人生どうあるべきか、を考えるときに、それほど重要ではないというわけだ。

またくだらなく長くなるかもしれない、タイトルからして、結論は、「重要なのは、記憶である」ということだ。
つまり、勉強しなければ、苦悩がなくなることは無い、といってよい。もっとも、人生とはすなわち苦悩なのであって、四諦と八正道をもってして、悟りを得るしか道はないのだ、という考え方もある。
四諦とは何か。四諦、という言葉の記憶、それだけでは役に立たない。それは、「実感できる言葉」になっていないからだ。

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書類整理より頭の整理をしたい
2016/01/09 17:02 | Comments(0) | 整理用

部屋の整理を実施

部屋が混沌としているため、整理を実施、10%ぐらいは片付いた。
もっとがばがばと、捨てていきたいけれども、必要な物が多い。探していた仕事の資料などがでてきて、ファイリングしたり、と。
時間がいくらあってもたりないんだよな、こういう作業。
十年ほど前に、思い切って、すべて捨てたことがある。すべてといっても、生活雑貨まで捨てたというわけではないが、思い出の品とか、教科書とか、懐古系のものをすべて処分した。
なので、幼いころにもらった賞状とか、メダル、写真といった類は、何もない。

捨てた結果困ったのか?

幼いころの思い出の品をすべて捨て去った、それによって、何か困ったのかというと、正直、何も困っていない、ということになる。
それで良かったのか、という問いに対し、何と答えるかは、感情的にその都度変わる気がする。
記憶とは面白いもので、やはり、「モノ」を手に取ると、浮かび上がってくることがある。
きっと、そのモノがなければ、永遠に思い出すことがないのではないか、と思う。
では、その思い出が、生きていくために必要か、その点をドライに問うならば、きっと必要ない、ということになって、問題ないということだ。

人は記憶によって成っている

アイデンティティというものを考えたとき、それは、ある場面における行動で示される場合もあるけれど、結局それというのは、経験とか感情とかそういったことをひっくるめて、「記憶」といって理解しても差し支えない。
例えば、記憶喪失の人が発生したとして、その人を「○○さん!」と呼び悲しむ行為において、それは、その周りの人の「記憶」によって記憶喪失の人は「生かされている」のである。
その記憶喪失の当人としては、もはや、「○○さん」としてのアイデンティティは失われている。それは、人格としての死といえる。

思い出を捨てるという事は人格を捨てることになる

すなわち、過去の記憶を思い出すきっかけを捨てるという事は、自分自身の人格を捨てていくという、ある種の自傷行為ともいえる。
だから、恒常的にモノが捨てられない人が発生する(片づけスペシャリストさんたちに何と言われるかは分からない、私が今思いついただけのこと)。

仕事の資料はまた別の話し

ただ、仕事に使う資料を捨てるというのは、また別の話しではないかということになる。いやいや、そもそも「仕事の資料」を捨てていいというわけはない。ここでの資料とは、いわゆる、自分で作ったり集めた、「マニュアル」というとちょっと大げさだけれども、まとめみたいなものだ。
それが今の、今後の業務に対して役に立つかどうかという点、その点が重要な捨てるポイントなわけだ。

仕事論になりそう、追記に書きます。

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答えの無い毎日が
2015/11/21 01:15 | Comments(0) | ポジティブ思考
ただ過ぎていく時間が……

苛々は消えることなく

自信の喪失が問題だったのだ、とか悟ったようなことを書いてカタルシスを得たものの、まぁ当然それだけで解決するはずがない。

苛々の根元はやはりどうしようも解決できないのだ。しかも、その責任は私にはない、と思う。まぁ生きてることが悪いならそうだろう。ただ、立場上は悪くないのは明白。とはいえ、そうはいっても、人間は感情で生きるものだ。その感情をぶつけられるとしても、それはコミュニケーション能力の低さからくるだけに過ぎない、ゆえに私が悪い。

くだらない思考だ。とはいえ、理不尽さから抜け出る方法は何ともありえない。

というのは視野狭窄である。

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