まず、何から書いていけばよいのか。と書くと、まるで徒然草の書き出しのようだ。
まずは、自分のことを書くべきなのか。
それとも、このブログの意味と目標、目的といったものを書けばいいのか。

(c) .foto project
ブログとして、公開するべきなのか、非公開とするべきなのか。
何事も、はじめが肝心、とはいえ、あまり厳密な定義にこだわっていて、先に進めないのもナンセンスである。
こういったときは、まず、事実を明らかにするべきなのと、心の底からあふれる言葉を、なんら飾らないで、書き出してみるべきである。
まずは、自分のことを書くべきなのか。
それとも、このブログの意味と目標、目的といったものを書けばいいのか。

(c) .foto project
ブログとして、公開するべきなのか、非公開とするべきなのか。
何事も、はじめが肝心、とはいえ、あまり厳密な定義にこだわっていて、先に進めないのもナンセンスである。
こういったときは、まず、事実を明らかにするべきなのと、心の底からあふれる言葉を、なんら飾らないで、書き出してみるべきである。
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何故ブログを書くのか
・整理しやすいから・後から読みやすいから
・カテゴリ分けが便利
これらは表面上の理由。じゃあ非公開でもいいじゃないか、となる。
・公開を意識することで、文章が読みやすくなり、結果あとから自分が読んだ時も理解しやすい
・少しでも、自分の苦悩などが、誰かの役に立ってほしい(笑いでも、カタルシスでも、参考としてでも)
<まとめ>
役に立ちたい、その思いから、ブログを書き、公開している。
何故ポジティブでしかいられないのか
哀しいことがあった、苦しいことがあった、誰かに相談するとする。「泣いたっていいんだよ」と、慰めてくれることがあるだろう。
この台詞は、「今は~」「元気になるために~」と、前提条件が隠れている。
必ず、元気な状態、楽しい状態、問題が解決した状態が、前提とされているのであり、哀しいこと、苦しいこと、悩みといったものは、それ自体が肯定されているわけではないのだ。
何故他者を頼ってはならないのか
問題を抱えた人へのアプローチとして、「共感」が重要だとされる。ここでは、解決のためのアドバイスは必要とされていない。「共感」することで、相手の気持ちが和らいで良い方向に向かっていくのである。しかし僕は、そういった共感という手法を知った人は、先のポジティブでしかいられない理由のように、結局は問題解決の方針を前提とおいているのであり、如何にその言動が真に迫ったものだとしても、演技性を感じずにはいられない。
一方で、本当に心から、自分の気持ちを分かって、共感してくれる人がいた場合、そんな人はとても貴重で大切な人なのだから、逆にそんな人に、自分の苛立ちや哀しみを、自分と同じレベルで(ここで、自分は相当苦しいと自分自身強く思っているはずなのだから)与えてしまうことは、僕は本当に望むところではない。
相談者が共依存で共倒れになるという事象と同じことが考えられる。
だから、感情処理として、他者を頼っては絶対にいけないのだ。(赤ちゃんは別)
では自分の感情はどう解決するのか
ブログに書く。書いておくと、後から読んで、それが非常に面白かったりする。参考になったりする。
例えば、もう6年も前の記事だけれど、
これなど、非常に面白いと思った。おそらく、言葉として表現することは不可能な領域、しかし、記憶の可能性にかけて、メモしてみようと思うのです。
身体という不可能性、有限性、限界性に気付くことができない頭の良い人間は、確かに価値を構築する天才である。
上記に気付いた者は、自己を客観視することができるようになる。これが俗に言う大人になるということである。
大人は物凄く狭視野の努力家であるけれども、思春期の青年の狭い視野とは次元が異なる。
大人の狭視野は、限界性に裏付けられているために、より純粋で、気持ちの悪いものである。
気持ちの悪い世界に身を入れることができなければ、自らが穢れていくことに耐え切れず苦悩となる。
今これと同じ表現をすることは不可能に近い。
それに、先ほどの記事で気付いたことであるが、苛々したり、哀しかったりしながらも、書いているのは、どこか楽しい気持ちが微かにあることが分かった。
思い通りにならないことは必ずある。後輩を飲みに誘って、「すんません、今日彼女とデートなんで無理っす」この野郎! となったとして(別に今日そんなことがあったわけではない、という注釈をいちいちつけていたら、大抵の記事は注釈だらけになるが、一回書いた記事のまとめという新しい試みでもあるので、注釈する)、その事象を、直接書いたのでは、僕はきっと満足せずに、それに対して何故僕は不愉快な気持ちになったのかということを、思いつくまま絞り出していくことだろう。
そうこうしているうちに、本来の負の感情がなくなることもあれば、増幅されることもあれど、ただ、その行為自体を、実は僕は楽しんでいるのではないだろうか、というのが、先の記事の主旨である。
例えば、うきうきとこうやって書いていて(というよりも、新しいことだと思われるので、忘れないようにしたいという焦燥感が強いが)、翌日以降に読んで、非常につまらなく、恥ずかしく、消したい気持ちになることだってあるだろう。
それはそれで、何故面白くなくなってしまったのか(現に、書いているときはそれなりに楽しかったはずなのだ)、それを考えたり突き詰めるのも、書いて残ってあればこそである。
ここで、「くだらない記事でもゼロよりましだ」と書いた記事がいきてくる。
まとめ
嫌なことがあったら、最大限ブログを利用する。それは、楽しく幸せでしかいられないという強烈な前提に反することなく、また、他者との関係を悪化させることなく、自分の感情の処理が可能である。
このブログを読んだ人は不愉快な気持ちになるのではないか? 否、それは、文章である以上読むのをやめることが自己判断で可能であるし、文章は自己解釈(フィルター)を介することになるし、そもそも、他者の不幸を望む心性が蔓延する土壌があって……と、話が関係なくなったため、ここまで。
最近、仏教のことを多く書いているので、宗教に抵抗がある人を遠ざけてしまっていると思う。
数年も前であるが、土日なにしたの、的な雑談になり、写経をしてみた、といったら、マジビキという状況になったことが懐かしい。
学問としての仏教、と、言葉をかえても、イメージでしか物事を考えられない人にとっては、無意味だろう。
ただ僕は、神に祈りを捧げたり、念仏を唱え続けることで、神や仏が救ってくれる、などとは全く思っていない。
考え方とその実践が素晴らしいと思うのであって、例えば、葬式とか、お墓とか、高貴な戒名だとか、そういった仏教様式に拘るものではない。
釈迦は、別に自分をお墓に埋葬してくれといったわけではないが、心酔する弟子たちは分骨して塔をたてたのである。
一方で、ご利益があるということを、より深く解釈してみる。
数年も前であるが、土日なにしたの、的な雑談になり、写経をしてみた、といったら、マジビキという状況になったことが懐かしい。
宗教とは切り離した仏教
学問としての仏教、と、言葉をかえても、イメージでしか物事を考えられない人にとっては、無意味だろう。
ただ僕は、神に祈りを捧げたり、念仏を唱え続けることで、神や仏が救ってくれる、などとは全く思っていない。
考え方とその実践が素晴らしいと思うのであって、例えば、葬式とか、お墓とか、高貴な戒名だとか、そういった仏教様式に拘るものではない。
釈迦は、別に自分をお墓に埋葬してくれといったわけではないが、心酔する弟子たちは分骨して塔をたてたのである。
一方で、ご利益があるということを、より深く解釈してみる。
時間がないため、できるだけ簡潔に。
キングダムを40巻まで読む機会があった。その際に、後の始皇帝と実権を握る大臣との対話。
大臣は、人の本質は我執であり、天下とは金(貨幣制度)であるという。そして、戦争はなくならず、国を豊かにすることが大事だという。自国が豊かになれば、周りの国からも人が流れてきて、富を循環させる仕組みを作るという。
一方、始皇帝は、人の本質は「光」であり、戦争はなくならないというのは人間への諦めだ。人は光をもっているから、よりよい世界に変えていく力がある。だから俺の時代で戦争は終わらせる。その方法は武力でだ。
結局、二人の弁舌は、お互いのもつ「前提(人に対しての理解、考え方)」があまりにも違うため、これ以上対話をしてもお互いが納得することはないだろうと、終わりになる。
戦争はなくならないというのと、戦争は終わらせることができるという考えと、そういった面の違いもあるけれども、僕が思ったのは、その、「終わらなさ」であった。
キングダムを40巻まで読む機会があった。その際に、後の始皇帝と実権を握る大臣との対話。
大臣は、人の本質は我執であり、天下とは金(貨幣制度)であるという。そして、戦争はなくならず、国を豊かにすることが大事だという。自国が豊かになれば、周りの国からも人が流れてきて、富を循環させる仕組みを作るという。
一方、始皇帝は、人の本質は「光」であり、戦争はなくならないというのは人間への諦めだ。人は光をもっているから、よりよい世界に変えていく力がある。だから俺の時代で戦争は終わらせる。その方法は武力でだ。
結局、二人の弁舌は、お互いのもつ「前提(人に対しての理解、考え方)」があまりにも違うため、これ以上対話をしてもお互いが納得することはないだろうと、終わりになる。
戦争はなくならないというのと、戦争は終わらせることができるという考えと、そういった面の違いもあるけれども、僕が思ったのは、その、「終わらなさ」であった。
あるべき姿
十二縁起ぐらい諳んじて言えない状態で、「僕って何」とか「生きる意味とは」とか「正義とは」とか、片腹痛い。仏教でなくても、キリスト教でも、何だっていいが、インプット(知識)がなくては、考えることなどできはしない。
インプットとは、暗記だ。そして暗記とは、自分の「実感できること」をベースに、言葉を作り出せることである。
一字一句覚えることではない。学校のテストでも、イイハコつくろう鎌倉幕府、との知識、記憶が必要なものは少なくなっているに違いない。かといって、年号を覚えることを軽視するわけではない。ただ、人生どうあるべきか、を考えるときに、それほど重要ではないというわけだ。
またくだらなく長くなるかもしれない、タイトルからして、結論は、「重要なのは、記憶である」ということだ。
つまり、勉強しなければ、苦悩がなくなることは無い、といってよい。もっとも、人生とはすなわち苦悩なのであって、四諦と八正道をもってして、悟りを得るしか道はないのだ、という考え方もある。
四諦とは何か。四諦、という言葉の記憶、それだけでは役に立たない。それは、「実感できる言葉」になっていないからだ。
