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私の生きる意味について
2016/05/08 16:29 | Comments(0) | 生きる意味
私は何故生きるのか、その長年の問いに答えてみる。

お前は何故生きているのか


死にたくないからだ、という理由は、消極的でありながら、人間の本能である、生きたい、知りたい、仲間になりたいという欲求にもとづくものであり、何ら不足するものではない。

一方、人間を精神的な存在、自己をもつ存在として、その他動物と区別するのであれば、その答えは不足である。

ある名前をもった、個人としての存在を規定したとき、人間一般の理由でも不足である。社会のため、会社のため、家族のため、子供のため、それらはすべて尊いものだろうが、今回の問いは、それら一般の理由ではなく、個人としての、一人の自分としての、自己の理由である。

それは、例えば、家族のため、という答えが、誤りであるのではない。問題は、その答えが、心のそこから沸き上がる、実感としての強い欲求なのかどうか、その具体性が重要なのだ。


考えるための方法とは



いま、たまたま、離婚という経験をし、すべてとはいえないが、大きな生活の一部を失い、一方で衣食住の安定はみたされているため、考えるための時間と場所はつくられている。

まず、本当は、この状況自体すばらしく貴重で、様々な人に感謝すべきであることを強く実感するべきだ。

ただ、食べて寝るだけの生活が、決して人としての幸せではないことーー幸せとはなにか、これ自体重要なてーまだ。ただ、この記事ではふれないーーは、人間を精神的な存在として考えているため、明らかである。


さて、では、その沸き上がる強い実感を、その声をきくためには、何が必要か。

インプットが必要である。
経験が必要である。

ただ、それらに、流されるのではなく、その体験ごとに、自分の内面をみつめ、声をきくことに注視するのである。


経験やインプットのもとになる行動の指針は、具体的に紙に書き出してみるとよい。
それは、ブレーンストーミングとして、これは無理そうだとか、批判はいっさいやめにしなければならない。

そして実行し、その結果を振り返ってみるのだ。

そうと決まれば、これ以上この記事に価値はない、実行にうつろう。







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外部刺激によるインプットと思索とのバランス
2016/05/08 16:11 | Comments(0) | 当ブログについて
初めてスマホからの投稿。

タグが反映されるのか



一つメモしておくべきは、タイトルの通り。
例えば、生きる意味という疑問を抱かない人は抱かない、と僕は切り捨てているが、キルケゴールは、絶望を普遍的なもの、としている。

著作を読み進めるうちに納得はしてきた、ただ、それでも、その教化が果たして必要かはわからない。いや、たぶん現代社会にはそぐわないのだろう。

むしろ、怪しげな成長戦略とか、自己実現といった言葉のまやかしによって、資本主義的神を崇め奉るのである。


このメモについて、いわんとすることそれは、決して、その中身だけではなくて、結局やはり、自分一人での思索は限界があるのだ。
ただし、いわゆる自己啓発本、新書的な書物では、もはや足りない次元に到達しているのである。


ところが、残念なことに、頭がよくないのと勉強のたりなさゆえ、あまり専門的になると、とたんによくわからなくなるのである、ただ、それは解説がよくない。

そして、僕が求める分野はあまりにもニッチというか、というより、需要がないのであって、解説が少なく、体系的に不十分なのである。

と、凡人でありつつ、いや逆に、凡人らしく、ひとのせい、にしてみた。

自己肯定感をつくりだそうという試み、例えば、四門出遊の仏陀の心境であるといった、そんな崇高なものに結びつけてみるのである。

ただ、体系としては、キルケゴール、仏陀の思想というのがとても参考になると思う。

まとめ


アウトプットまたは行動ができなくなったときは、インプットの不足である。
そのさい必要なのは、専門的な体系。

当ブログは、その体系の整理のために用いる。
















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一つずつ実感できる答えを創っていく
2016/05/05 06:13 | Comments(0) | 生きる意味
幸せとは何か。
愛とは何か。
生きるとは、人生とは何か。
コミュニケーションとは何か。

様々な事柄に対して、繰り返しでも構わないから、自分が実感してきて、「正しい」「真実」と思える、強く感じられることを、メモしていく。

幸せとは何か

理想自己と現実自己の乖離が無い状態である。
すなわち、なりたい自分になれていること、それが幸せといえる。
中古書店で、ある外科医の新書にあったが、幸せのハードルは可動式であるということ。
がんになってよかった、と、例ではあがっているけれども、そこまでの心境にいたるには、相当の訓練、修業が必要だと思われる。
私のような凡人――この凡人という言葉も、よくよく書いておかなければ、たぶん誤解のもとになるだろう――においては、神や仏のレベルに至ることを目的としてはならない。もちろん、なってもいいのだけれども、それこそ、高すぎる理想は、不幸を呼び寄せることになる。

同時に、本当に望んだことというのは、必ず実現するように、世界はできていることも忘れてはならない。
こんなことを書くと、怪しげな宗教に思われるだろう、だから、この辺りも注意して書いていく必要がある。
そもそも、「本当に望んだこと」という定義が、あやふやでしかない。この辺りも、注意深く書いていく必要があるだろう。

ああ、やるべきことが、書くべきことが、それらはほとんどが「前提」となることなのだけれども、多い。

まず、この記事では、「理想自己」と関係させ、自分の望むことを掘り下げていくことを目標にしよう。

理想自己とは何か?


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膨大な過去の整理
2016/05/04 09:21 | Comments(0) | 整理用
新しく記事を書いていく作業、そして、一つずつ行動をし、積み重ねていく作業。

それに入る前に、いま必要なのは、過去のたくさんの記事の、すなわちそれは、自分の思考の整理だと思う。

思考ブログ、この仮のタイトルも、しっかりと定めて、続けていきたいと思う。

カテゴリの構築

思索、のカテゴリにおいても、それは分類できるものだと思う。

ポジティブ思考のもの、目標の大切さを説くもの、日常の嫌なもしくは楽しかった感覚と結び付けたもの。

抽象論と、具体論の場合がある。分けていけばきりがないようにも思える。

目的としては、何か問題が発生したときに、参考にできるような「体系」を作り出すこと。

基本的に、自分が、新しく言葉を紡ぐ必要がある事柄は、既にそれほど多くないと、傲慢にも思えるのである。
ただ、それがよく整理されておらず、自分の頭の中にもインプットされていないがために、結局、同じことを繰り返し書くことになるのだ。

表現としての必要性

確かに、多種多様な表現が、そのまま重要であることはいうまでもない。
何故なら、先日読んだ、社会悪を「復讐」という形で解決するというエンターテイメント、これは、洋画でも「パニッシャー」という映画で表現されている。必要悪とか、悪を裁く悪とか、ダークヒーローとか、表現は数多あるのだ。

それぞれが、違う前提、バックボーンをもっていたりするので、どれもが重要であるといえる。
低俗な例えをすれば、アダルトビデオの多種多様性……それはまた別か。

ただし、エンターテイメントとして、感情処理としては役に立ったとしても、これから、構築をするにあたっては、体系だった処方箋が必要となる。

カテゴリ分けの方法

まず、思いつくカテゴリをあげていく、と同時に、過去の記事を読んでいく。
これは泥臭いやり方だが、仕方がない。
そのうえで、キーワードをあげていく。それをグルーピングする方法。KJ法に似たものかもしれない。

「生きる意味」「肯定感」「潜在意識」「ポジティブ」「ネガティブ」「対人関係」「コミュニケーション」「苦悩」「苛々」「ロジック」「整理」「感情処理」「空(仏教)」「宗教」「科学」「記憶」「アイデンティティ」「ストレス」「小説」「エンターテイメント」「創作」「凡人」「仕事」「価値観」「ルーチン」「学習」「計画」「目標」「目的」「死」「理想自己」「幸せ」「自己実現」「真実」「永続性」「アウトプット」「インプット」

これぐらいで、だいぶ仕訳ができそうだ。問題は、忍者ブログは、カテゴリ変更が、仕様変更(2014年ごろ?)のため、一括でできなくなったようだということ。
外部出力してテキストで直すことも考えたが、そもそもインポート時に500KBしか取り込めないという制約もあり、なんとも使いづらい……。

いい方法がないものか。
ちょっと調べたけれども、やはり、一括変更はできなそうだ。となると、結構大変だな……。

まぁ、自分へのインプットも含めて、作業していくことにするか。


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復讐は何も生まないのは本当か
2016/05/03 18:04 | Comments(0) | イライラ対処
人生を見つめなおすブログにしようと思う、のだけれども、まだ、書き始めるための前提がそろっていない。
『善悪の屑』
という作品を読んだ。のうのうと生きている犯罪者に対して、たとえば少年法で守られたり、どんな凄惨なことをしても、10年程度の刑期で出所して人生を楽しんだりと、そんな「屑」に対して、同様に、いやそれ以上の復讐を代行する二人組みの話。

恨みや本舗、という作品もあったような、そっちは読んだことがないけれども、人の行為と、感情とが、道徳や法律で割り切れない部分があるということの表現であると思われる。

そんな人の、ネガティブな面に目を向ける必要があるのだろうか。果たして、仕事をする上でも必要なければ、就職活動、婚姻活動、その他の社会的な活動において、何ら意味あることには思えない。

そうした作品を読むことは必要なのか。

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