幸せとは何か。
愛とは何か。
生きるとは、人生とは何か。
コミュニケーションとは何か。
様々な事柄に対して、繰り返しでも構わないから、自分が実感してきて、「正しい」「真実」と思える、強く感じられることを、メモしていく。
すなわち、なりたい自分になれていること、それが幸せといえる。
中古書店で、ある外科医の新書にあったが、幸せのハードルは可動式であるということ。
がんになってよかった、と、例ではあがっているけれども、そこまでの心境にいたるには、相当の訓練、修業が必要だと思われる。
私のような凡人――この凡人という言葉も、よくよく書いておかなければ、たぶん誤解のもとになるだろう――においては、神や仏のレベルに至ることを目的としてはならない。もちろん、なってもいいのだけれども、それこそ、高すぎる理想は、不幸を呼び寄せることになる。
同時に、本当に望んだことというのは、必ず実現するように、世界はできていることも忘れてはならない。
こんなことを書くと、怪しげな宗教に思われるだろう、だから、この辺りも注意して書いていく必要がある。
そもそも、「本当に望んだこと」という定義が、あやふやでしかない。この辺りも、注意深く書いていく必要があるだろう。
ああ、やるべきことが、書くべきことが、それらはほとんどが「前提」となることなのだけれども、多い。
まず、この記事では、「理想自己」と関係させ、自分の望むことを掘り下げていくことを目標にしよう。
愛とは何か。
生きるとは、人生とは何か。
コミュニケーションとは何か。
様々な事柄に対して、繰り返しでも構わないから、自分が実感してきて、「正しい」「真実」と思える、強く感じられることを、メモしていく。
幸せとは何か
理想自己と現実自己の乖離が無い状態である。すなわち、なりたい自分になれていること、それが幸せといえる。
中古書店で、ある外科医の新書にあったが、幸せのハードルは可動式であるということ。
がんになってよかった、と、例ではあがっているけれども、そこまでの心境にいたるには、相当の訓練、修業が必要だと思われる。
私のような凡人――この凡人という言葉も、よくよく書いておかなければ、たぶん誤解のもとになるだろう――においては、神や仏のレベルに至ることを目的としてはならない。もちろん、なってもいいのだけれども、それこそ、高すぎる理想は、不幸を呼び寄せることになる。
同時に、本当に望んだことというのは、必ず実現するように、世界はできていることも忘れてはならない。
こんなことを書くと、怪しげな宗教に思われるだろう、だから、この辺りも注意して書いていく必要がある。
そもそも、「本当に望んだこと」という定義が、あやふやでしかない。この辺りも、注意深く書いていく必要があるだろう。
ああ、やるべきことが、書くべきことが、それらはほとんどが「前提」となることなのだけれども、多い。
まず、この記事では、「理想自己」と関係させ、自分の望むことを掘り下げていくことを目標にしよう。
理想自己とは何か?
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新しく記事を書いていく作業、そして、一つずつ行動をし、積み重ねていく作業。
それに入る前に、いま必要なのは、過去のたくさんの記事の、すなわちそれは、自分の思考の整理だと思う。
思考ブログ、この仮のタイトルも、しっかりと定めて、続けていきたいと思う。
ポジティブ思考のもの、目標の大切さを説くもの、日常の嫌なもしくは楽しかった感覚と結び付けたもの。
抽象論と、具体論の場合がある。分けていけばきりがないようにも思える。
目的としては、何か問題が発生したときに、参考にできるような「体系」を作り出すこと。
基本的に、自分が、新しく言葉を紡ぐ必要がある事柄は、既にそれほど多くないと、傲慢にも思えるのである。
ただ、それがよく整理されておらず、自分の頭の中にもインプットされていないがために、結局、同じことを繰り返し書くことになるのだ。
何故なら、先日読んだ、社会悪を「復讐」という形で解決するというエンターテイメント、これは、洋画でも「パニッシャー」という映画で表現されている。必要悪とか、悪を裁く悪とか、ダークヒーローとか、表現は数多あるのだ。
それぞれが、違う前提、バックボーンをもっていたりするので、どれもが重要であるといえる。
低俗な例えをすれば、アダルトビデオの多種多様性……それはまた別か。
ただし、エンターテイメントとして、感情処理としては役に立ったとしても、これから、構築をするにあたっては、体系だった処方箋が必要となる。
これは泥臭いやり方だが、仕方がない。
そのうえで、キーワードをあげていく。それをグルーピングする方法。KJ法に似たものかもしれない。
「生きる意味」「肯定感」「潜在意識」「ポジティブ」「ネガティブ」「対人関係」「コミュニケーション」「苦悩」「苛々」「ロジック」「整理」「感情処理」「空(仏教)」「宗教」「科学」「記憶」「アイデンティティ」「ストレス」「小説」「エンターテイメント」「創作」「凡人」「仕事」「価値観」「ルーチン」「学習」「計画」「目標」「目的」「死」「理想自己」「幸せ」「自己実現」「真実」「永続性」「アウトプット」「インプット」
これぐらいで、だいぶ仕訳ができそうだ。問題は、忍者ブログは、カテゴリ変更が、仕様変更(2014年ごろ?)のため、一括でできなくなったようだということ。
外部出力してテキストで直すことも考えたが、そもそもインポート時に500KBしか取り込めないという制約もあり、なんとも使いづらい……。
いい方法がないものか。
ちょっと調べたけれども、やはり、一括変更はできなそうだ。となると、結構大変だな……。
まぁ、自分へのインプットも含めて、作業していくことにするか。
それに入る前に、いま必要なのは、過去のたくさんの記事の、すなわちそれは、自分の思考の整理だと思う。
思考ブログ、この仮のタイトルも、しっかりと定めて、続けていきたいと思う。
カテゴリの構築
思索、のカテゴリにおいても、それは分類できるものだと思う。ポジティブ思考のもの、目標の大切さを説くもの、日常の嫌なもしくは楽しかった感覚と結び付けたもの。
抽象論と、具体論の場合がある。分けていけばきりがないようにも思える。
目的としては、何か問題が発生したときに、参考にできるような「体系」を作り出すこと。
基本的に、自分が、新しく言葉を紡ぐ必要がある事柄は、既にそれほど多くないと、傲慢にも思えるのである。
ただ、それがよく整理されておらず、自分の頭の中にもインプットされていないがために、結局、同じことを繰り返し書くことになるのだ。
表現としての必要性
確かに、多種多様な表現が、そのまま重要であることはいうまでもない。何故なら、先日読んだ、社会悪を「復讐」という形で解決するというエンターテイメント、これは、洋画でも「パニッシャー」という映画で表現されている。必要悪とか、悪を裁く悪とか、ダークヒーローとか、表現は数多あるのだ。
それぞれが、違う前提、バックボーンをもっていたりするので、どれもが重要であるといえる。
低俗な例えをすれば、アダルトビデオの多種多様性……それはまた別か。
ただし、エンターテイメントとして、感情処理としては役に立ったとしても、これから、構築をするにあたっては、体系だった処方箋が必要となる。
カテゴリ分けの方法
まず、思いつくカテゴリをあげていく、と同時に、過去の記事を読んでいく。これは泥臭いやり方だが、仕方がない。
そのうえで、キーワードをあげていく。それをグルーピングする方法。KJ法に似たものかもしれない。
「生きる意味」「肯定感」「潜在意識」「ポジティブ」「ネガティブ」「対人関係」「コミュニケーション」「苦悩」「苛々」「ロジック」「整理」「感情処理」「空(仏教)」「宗教」「科学」「記憶」「アイデンティティ」「ストレス」「小説」「エンターテイメント」「創作」「凡人」「仕事」「価値観」「ルーチン」「学習」「計画」「目標」「目的」「死」「理想自己」「幸せ」「自己実現」「真実」「永続性」「アウトプット」「インプット」
これぐらいで、だいぶ仕訳ができそうだ。問題は、忍者ブログは、カテゴリ変更が、仕様変更(2014年ごろ?)のため、一括でできなくなったようだということ。
外部出力してテキストで直すことも考えたが、そもそもインポート時に500KBしか取り込めないという制約もあり、なんとも使いづらい……。
いい方法がないものか。
ちょっと調べたけれども、やはり、一括変更はできなそうだ。となると、結構大変だな……。
まぁ、自分へのインプットも含めて、作業していくことにするか。
人生を見つめなおすブログにしようと思う、のだけれども、まだ、書き始めるための前提がそろっていない。
『善悪の屑』
という作品を読んだ。のうのうと生きている犯罪者に対して、たとえば少年法で守られたり、どんな凄惨なことをしても、10年程度の刑期で出所して人生を楽しんだりと、そんな「屑」に対して、同様に、いやそれ以上の復讐を代行する二人組みの話。
恨みや本舗、という作品もあったような、そっちは読んだことがないけれども、人の行為と、感情とが、道徳や法律で割り切れない部分があるということの表現であると思われる。
そんな人の、ネガティブな面に目を向ける必要があるのだろうか。果たして、仕事をする上でも必要なければ、就職活動、婚姻活動、その他の社会的な活動において、何ら意味あることには思えない。
そうした作品を読むことは必要なのか。
『善悪の屑』
という作品を読んだ。のうのうと生きている犯罪者に対して、たとえば少年法で守られたり、どんな凄惨なことをしても、10年程度の刑期で出所して人生を楽しんだりと、そんな「屑」に対して、同様に、いやそれ以上の復讐を代行する二人組みの話。
恨みや本舗、という作品もあったような、そっちは読んだことがないけれども、人の行為と、感情とが、道徳や法律で割り切れない部分があるということの表現であると思われる。
そんな人の、ネガティブな面に目を向ける必要があるのだろうか。果たして、仕事をする上でも必要なければ、就職活動、婚姻活動、その他の社会的な活動において、何ら意味あることには思えない。
そうした作品を読むことは必要なのか。
まず、何から書いていけばよいのか。と書くと、まるで徒然草の書き出しのようだ。
まずは、自分のことを書くべきなのか。
それとも、このブログの意味と目標、目的といったものを書けばいいのか。

(c) .foto project
ブログとして、公開するべきなのか、非公開とするべきなのか。
何事も、はじめが肝心、とはいえ、あまり厳密な定義にこだわっていて、先に進めないのもナンセンスである。
こういったときは、まず、事実を明らかにするべきなのと、心の底からあふれる言葉を、なんら飾らないで、書き出してみるべきである。
まずは、自分のことを書くべきなのか。
それとも、このブログの意味と目標、目的といったものを書けばいいのか。

(c) .foto project
ブログとして、公開するべきなのか、非公開とするべきなのか。
何事も、はじめが肝心、とはいえ、あまり厳密な定義にこだわっていて、先に進めないのもナンセンスである。
こういったときは、まず、事実を明らかにするべきなのと、心の底からあふれる言葉を、なんら飾らないで、書き出してみるべきである。
何故ブログを書くのか
・整理しやすいから・後から読みやすいから
・カテゴリ分けが便利
これらは表面上の理由。じゃあ非公開でもいいじゃないか、となる。
・公開を意識することで、文章が読みやすくなり、結果あとから自分が読んだ時も理解しやすい
・少しでも、自分の苦悩などが、誰かの役に立ってほしい(笑いでも、カタルシスでも、参考としてでも)
<まとめ>
役に立ちたい、その思いから、ブログを書き、公開している。
何故ポジティブでしかいられないのか
哀しいことがあった、苦しいことがあった、誰かに相談するとする。「泣いたっていいんだよ」と、慰めてくれることがあるだろう。
この台詞は、「今は~」「元気になるために~」と、前提条件が隠れている。
必ず、元気な状態、楽しい状態、問題が解決した状態が、前提とされているのであり、哀しいこと、苦しいこと、悩みといったものは、それ自体が肯定されているわけではないのだ。
何故他者を頼ってはならないのか
問題を抱えた人へのアプローチとして、「共感」が重要だとされる。ここでは、解決のためのアドバイスは必要とされていない。「共感」することで、相手の気持ちが和らいで良い方向に向かっていくのである。しかし僕は、そういった共感という手法を知った人は、先のポジティブでしかいられない理由のように、結局は問題解決の方針を前提とおいているのであり、如何にその言動が真に迫ったものだとしても、演技性を感じずにはいられない。
一方で、本当に心から、自分の気持ちを分かって、共感してくれる人がいた場合、そんな人はとても貴重で大切な人なのだから、逆にそんな人に、自分の苛立ちや哀しみを、自分と同じレベルで(ここで、自分は相当苦しいと自分自身強く思っているはずなのだから)与えてしまうことは、僕は本当に望むところではない。
相談者が共依存で共倒れになるという事象と同じことが考えられる。
だから、感情処理として、他者を頼っては絶対にいけないのだ。(赤ちゃんは別)
では自分の感情はどう解決するのか
ブログに書く。書いておくと、後から読んで、それが非常に面白かったりする。参考になったりする。
例えば、もう6年も前の記事だけれど、
これなど、非常に面白いと思った。おそらく、言葉として表現することは不可能な領域、しかし、記憶の可能性にかけて、メモしてみようと思うのです。
身体という不可能性、有限性、限界性に気付くことができない頭の良い人間は、確かに価値を構築する天才である。
上記に気付いた者は、自己を客観視することができるようになる。これが俗に言う大人になるということである。
大人は物凄く狭視野の努力家であるけれども、思春期の青年の狭い視野とは次元が異なる。
大人の狭視野は、限界性に裏付けられているために、より純粋で、気持ちの悪いものである。
気持ちの悪い世界に身を入れることができなければ、自らが穢れていくことに耐え切れず苦悩となる。
今これと同じ表現をすることは不可能に近い。
それに、先ほどの記事で気付いたことであるが、苛々したり、哀しかったりしながらも、書いているのは、どこか楽しい気持ちが微かにあることが分かった。
思い通りにならないことは必ずある。後輩を飲みに誘って、「すんません、今日彼女とデートなんで無理っす」この野郎! となったとして(別に今日そんなことがあったわけではない、という注釈をいちいちつけていたら、大抵の記事は注釈だらけになるが、一回書いた記事のまとめという新しい試みでもあるので、注釈する)、その事象を、直接書いたのでは、僕はきっと満足せずに、それに対して何故僕は不愉快な気持ちになったのかということを、思いつくまま絞り出していくことだろう。
そうこうしているうちに、本来の負の感情がなくなることもあれば、増幅されることもあれど、ただ、その行為自体を、実は僕は楽しんでいるのではないだろうか、というのが、先の記事の主旨である。
例えば、うきうきとこうやって書いていて(というよりも、新しいことだと思われるので、忘れないようにしたいという焦燥感が強いが)、翌日以降に読んで、非常につまらなく、恥ずかしく、消したい気持ちになることだってあるだろう。
それはそれで、何故面白くなくなってしまったのか(現に、書いているときはそれなりに楽しかったはずなのだ)、それを考えたり突き詰めるのも、書いて残ってあればこそである。
ここで、「くだらない記事でもゼロよりましだ」と書いた記事がいきてくる。
まとめ
嫌なことがあったら、最大限ブログを利用する。それは、楽しく幸せでしかいられないという強烈な前提に反することなく、また、他者との関係を悪化させることなく、自分の感情の処理が可能である。
このブログを読んだ人は不愉快な気持ちになるのではないか? 否、それは、文章である以上読むのをやめることが自己判断で可能であるし、文章は自己解釈(フィルター)を介することになるし、そもそも、他者の不幸を望む心性が蔓延する土壌があって……と、話が関係なくなったため、ここまで。
