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肉親の死その後
2016/05/23 20:13 | Comments(0) | イライラ対処
肉親とはどこまでを指すのか。ただ、血が繋がっている親族と考えてよいだろう。

厳密な定義は必要とは思わない。

離婚届を突きつけられ、大好きだった祖父も亡くなった。

不幸が重なる。ここで涙を誘うためには、祖父との楽しかった思い出や、幼い自分のためにしてくれたこと、進学や就職のたびに、本当に喜んでくれたことなど、書き連ねていく必要がある。初の孫ということで、本当に大事にしてもらった。




たくさんないた、それを、言葉にしていくことは、何となく恥ずかしい気がする。どこか、感情に流されない自分を、理想視しているきがする。

にもかかわらず、よくわからない人だとだんじられて離婚届を突きつけられたのは、本当に哀しく、愛想もつきたことであり、それがまた、自分の人生にとってとても幸せなことであったと冴え思える。

本当に大事な祖父が亡くなったことは、自分にとっての大きなダメージだ、しかしそれは、離婚というストレスにぶつかり、ダメージを軽減してくれたことのようにも思えるのである。


葬儀の流れ


宗派や地域によってちがうようだが、病院から斎場に運ばれ、火葬、法要、会食おとき、となる。

その間、訪ねてくるかたもいる。
通夜とは、具体的にはないこともある。
とかく、亡くなった最初の夜になることもある、火葬の前に顔をみにくる、しかし、それは家族に進められたら、で、そのときに香典を包んでくるかとか、難しい。
とかく、香典は、葬式法要の際に、受付で渡されることが多かった。そのほうが、名簿にも記帳してもらうのだから、身内としては楽である。

通夜は、まだ気持ちの整理もされていないとき、お金をもたれたら、その管理も発生するし、親族が多ければ分担もできようが、大変である。
手伝いに行くなら価値はあろうが、あまり親しくないなら、むしろ行くべきではないと思った。




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肉親の死
2016/05/20 00:16 | Comments(0) | 対人関係
祖父が亡くなった。
このきに、リアルタイムな、正確な自分の気持ちを書き残さないといけないと思う。

しかし、感情や、実感がどこかにいってしまっている。

離婚のこともそうだ。

一人真っ暗な部屋に帰っても、片付けして、ごみを分別して捨てて、除菌して掃除して選択して風呂に入って、寝て。

あまり感情がない。


一方、何故生きるのか、という命題が浮かぶ。
大切な人が死んだのに、不謹慎なことだ。


でも、本当に死が僕にとって希望であった時期において、それが死に至る病となって、死ねないこと、死すら希望にならないこと、、それが、僕にとってずっと巣くっていた。

都会に来ると、生きたいという欲求が薄れるという少女兵士の言葉。ジャングルの、強く生存欲求を感じる生活に戻りたいのだと。



生きていることは素晴らしいことだという。


よいことも、悪いこともたくさんある。

で、そのいくらかのいいことにすがるために、いくばくかの、46億年のうちの、わずかな時間をすごすのか。


僕は、自殺を考えた小学校四年生のとき、そう、あれは、下校と中の坂で、親友に、死にたいって思ったことがある? と、拙い言葉でたずねたとき、君は何をいっているんだ、そんなわけないだろうと言われたとき、ああ、僕は、なにか、ちがう、のだと、表現はなかったけれども、思ったのであった。




あのとき、死んでいなくて、僕はよかったのだろうか。


ああ、まさに、自分を大切にしてくれた方が亡くなったというに、こんな思考はエラーなのだろう。


いな、それでも、いやそれだからこそ、ぼくは、いまこそ、考えるべきなのだ。


本当に、守るものも、望むものも、ただ、しばらく生きていくためのお金だけある状態で、僕は真剣に考えるべきなのだ。


お金がない貧困のほうがつらいというのは、甘い考えだ、というと総すかんをくらうが、お金を手に入れたいという欲求がある時点で素晴らしいことだ。



この世界に素晴らしいことはたくさんある。
それを知った上でなお、なにも感じられない、望みがなくなった状態、それが絶望なのである。

哀しみではない


肉親の死、愛する人と離別、それはとても哀しいことだ。

涙がでればいい。でも僕は、ふわふわとした現実感のなさが続くだけである。





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結婚制度と愛について
2016/05/10 22:27 | Comments(0) | 生きる意味
いわゆる、自分のことは、いくら書き込んだとしても、理解されるものではない。

自分は特別な人間ではないと、そう感じたのだ、しかし、やはり、ある意味においては、特別な人間でしかありえないのだ。
それは親が子を大事に思う気持ちとか、名前をもった個体であるとか、それら自明なことを別として、人は自分自身の世界において、世界、他者をみているのである。

哲学的ゾンビ


これは、正しいとか、誤っているとか、決して科学的ではなくて、こうして世界を考えた方がうまくいくのだという、知恵というか、処世術的なものである。

第一そもそも、他者と分かり合えるとか、そんなこと、別に問題にされてはいないのだ。
現に、人間関係がうまくいっているならば、対人関係、コミュニケーションの問題など不要である。いっぽうで、対人関係というのは、常に仕事でも学校でも問題の上位になるのだから、本当は誰しも、絶望をかかえているのだ。


愛とはなにか


仏教的には、愛は執着から起こる、そして愛は触れることで、感覚器官によっておこる。
人間なら誰しも愛をもっているという前提、まぁそれはそうとして、なにかを自分のものにしたいという思い、その抽象化されたものが愛である。

あるときは、僕は、愛とは性欲のことだ、ととらえた。それも一面であるが、例えば親の子供への愛とか、性愛をこえたものを表現するならば、執着こそ愛であるといっていいだろう。

結婚制度と愛


結婚とは、社会制度であり、別に感情は関係しない。
ゆえに、制度自体のしばりが希薄になった現代において、離婚率がさんぶんのいちなのは、何もめずらしいことではない。

子供をつくらないといけないとかいう周囲の強制もほとんどないことだろう。
財産分与とか、相続とか、それら社会制度としての機能をはたすための便宜手段である。

ところで、愛とはなにか?


ホルモンバランスとか生物学的な要素


遺伝子レベルで一致すると、匂いでひかれあうらしい。
ひとめぼれとか、ロマンスである。

しかし、セックスが気持ちいいのはよいことだろうが、偶発的な感覚において、ひととひととの関係は、どこまで維持できるのだろうか。

家庭とはなんだろうか。役割分担、なんのため?

生きるため。


では、何故その人とともに生きるのだろうか。

結局人生プラン


結局のところ、自分が何のためにどのように生きるのか、それがポイントにしか、いまの私は思えない。


死にたくないというのが、希望であるわけではなく、むしろ死すら希望になりえない状態が、死に至る病におかされているという、いわゆる絶望である。

絶望は誰しも抱くゆえに、神の信仰こそが救いである、ただ、ここでの神は、大きなゆういつしんではなく、個個人が一対一で向かい合う、心の拠り所となる存在であるという。


それを、恋愛に対して求めて、失敗し絶望したのが、北村透谷である。

僕も女性に審美を求めたこともあったが、やはり人間は人間でしかなく、いやむしろ、それをするということは、自分自身の内にある信仰心そのものの、もはや偶像崇拝である。

といった表現をしていると、離婚して自暴自棄になっている、と感じられることだろうが、そうではないのだが、冒頭の理解可能性という部分で、もはや一切伝わることはありえないのである。

ともかく、自己の内にある真実、永遠なるもの、拠り所になるもの、それがすなわち、キルケゴールのいう神なのである。


神さまの探し方


こんな表現で本を出したら、宗教コーナーに割り振られるだろう。
いやいや、そうじゃないんだ。

むしろ、哲学、自己啓発、いや、生き方、雑学、そんなものである。

ただ、あながち、宗教じゃないかといえば、単に宗教という言葉が日本人にうけが悪いので、わざと否定しているだけで、ある意味宗教といってもいい。それは、資本主義が宗教だという表現レベルのものである。


でまぁ、そこらへんは今は重要ではなく、その神様ってどこにおるんや、ということだ。

時間切れなので、それはまた次にしよう。




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私の生きる意味について
2016/05/08 16:29 | Comments(0) | 生きる意味
私は何故生きるのか、その長年の問いに答えてみる。

お前は何故生きているのか


死にたくないからだ、という理由は、消極的でありながら、人間の本能である、生きたい、知りたい、仲間になりたいという欲求にもとづくものであり、何ら不足するものではない。

一方、人間を精神的な存在、自己をもつ存在として、その他動物と区別するのであれば、その答えは不足である。

ある名前をもった、個人としての存在を規定したとき、人間一般の理由でも不足である。社会のため、会社のため、家族のため、子供のため、それらはすべて尊いものだろうが、今回の問いは、それら一般の理由ではなく、個人としての、一人の自分としての、自己の理由である。

それは、例えば、家族のため、という答えが、誤りであるのではない。問題は、その答えが、心のそこから沸き上がる、実感としての強い欲求なのかどうか、その具体性が重要なのだ。


考えるための方法とは



いま、たまたま、離婚という経験をし、すべてとはいえないが、大きな生活の一部を失い、一方で衣食住の安定はみたされているため、考えるための時間と場所はつくられている。

まず、本当は、この状況自体すばらしく貴重で、様々な人に感謝すべきであることを強く実感するべきだ。

ただ、食べて寝るだけの生活が、決して人としての幸せではないことーー幸せとはなにか、これ自体重要なてーまだ。ただ、この記事ではふれないーーは、人間を精神的な存在として考えているため、明らかである。


さて、では、その沸き上がる強い実感を、その声をきくためには、何が必要か。

インプットが必要である。
経験が必要である。

ただ、それらに、流されるのではなく、その体験ごとに、自分の内面をみつめ、声をきくことに注視するのである。


経験やインプットのもとになる行動の指針は、具体的に紙に書き出してみるとよい。
それは、ブレーンストーミングとして、これは無理そうだとか、批判はいっさいやめにしなければならない。

そして実行し、その結果を振り返ってみるのだ。

そうと決まれば、これ以上この記事に価値はない、実行にうつろう。







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外部刺激によるインプットと思索とのバランス
2016/05/08 16:11 | Comments(0) | 当ブログについて
初めてスマホからの投稿。

タグが反映されるのか



一つメモしておくべきは、タイトルの通り。
例えば、生きる意味という疑問を抱かない人は抱かない、と僕は切り捨てているが、キルケゴールは、絶望を普遍的なもの、としている。

著作を読み進めるうちに納得はしてきた、ただ、それでも、その教化が果たして必要かはわからない。いや、たぶん現代社会にはそぐわないのだろう。

むしろ、怪しげな成長戦略とか、自己実現といった言葉のまやかしによって、資本主義的神を崇め奉るのである。


このメモについて、いわんとすることそれは、決して、その中身だけではなくて、結局やはり、自分一人での思索は限界があるのだ。
ただし、いわゆる自己啓発本、新書的な書物では、もはや足りない次元に到達しているのである。


ところが、残念なことに、頭がよくないのと勉強のたりなさゆえ、あまり専門的になると、とたんによくわからなくなるのである、ただ、それは解説がよくない。

そして、僕が求める分野はあまりにもニッチというか、というより、需要がないのであって、解説が少なく、体系的に不十分なのである。

と、凡人でありつつ、いや逆に、凡人らしく、ひとのせい、にしてみた。

自己肯定感をつくりだそうという試み、例えば、四門出遊の仏陀の心境であるといった、そんな崇高なものに結びつけてみるのである。

ただ、体系としては、キルケゴール、仏陀の思想というのがとても参考になると思う。

まとめ


アウトプットまたは行動ができなくなったときは、インプットの不足である。
そのさい必要なのは、専門的な体系。

当ブログは、その体系の整理のために用いる。
















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