他者がどう感じるかは全く関係ない、それは、単なる僻みである。
ただ、きれいな側面だけの文章が、どうしても受け付けられない。
ひん曲がった性格なのだろうか、いやこれは恐らく、経験と環境によるものだと思われる、いな、元来の性格なのかもしれない、問題はここではない。
例え、自分の性格が元来のものであろうが、後天的なものであろうが、そもそも、その性格というものは、環境に応じて変化しうるものであって、固定的に、例えば「社交的」だとか「落ち込みがち」だとか、それらの表現で表せる程度の物であれば、そもそも問題になどならないのである。
と、何を書き始めるのか全く分からない文章というものが、果たして価値があるかというと、ないと思う。
だからこそ、こうやって傍若無人というか、気ままに、思いつくままに書き連ねたものが、「面白かった」と、わずかばかりの人ではあっても、言ってもらえたことは、本当に心底うれしいことであったのである。
それらの記事が、では、すべて感動(少しでも感情が発生)させることができたわけではないだろうが、とてもとても、うれしいことなのである。
果たしてそうだろうか。
例えば、宮台真司の「この世からきれいに消えたい。」という、20代前半の若い男性が、自殺したルポルタージュがある。
僕は、その本の序盤の書き出しにおいて、「ああ、そうなんだ、この得体のしれない生きづらさってものが、それこそ小学生ぐらいのときから纏わりついていたんだ」と感動したものだ。
ところが、ショックを受けたのは、その自殺した少年が、実は彼女がいたことである。そして、彼の死を彼女は悼んで哀しんでくれているのである。
「おいおい! まってくれよ、彼女がいて、イケメンのくせに、自殺なんてもったいないことしやがって!」
と、思ったかはあまり覚えていないけれども、当時彼女がいなかった自分としては、どこか違う世界の人間に思えたわけだ。
そこで僕は思った。
所詮、僕が生きづらいとか、人生に生きる意味を見いだせないとか嘆いていたとしたって、所詮、彼女がいなくてひがんでいる童貞野郎じゃあないか、と。
これでは、「絶望」なんて言葉はつかえない。誰かに認められない、彼女ができないという承認欲求が満たされないでウジウジ悩んでいるだけなのだ、と。
上に書いてきたエピソードは、いつものごとく、脚色している気がする、とりあえず、本を購入した時期などから考えても、時系列はてんでバラバラだ。ただ、エッセンスとしては、以下のことである。
ただ、きれいな側面だけの文章が、どうしても受け付けられない。
ひん曲がった性格なのだろうか、いやこれは恐らく、経験と環境によるものだと思われる、いな、元来の性格なのかもしれない、問題はここではない。
例え、自分の性格が元来のものであろうが、後天的なものであろうが、そもそも、その性格というものは、環境に応じて変化しうるものであって、固定的に、例えば「社交的」だとか「落ち込みがち」だとか、それらの表現で表せる程度の物であれば、そもそも問題になどならないのである。
と、何を書き始めるのか全く分からない文章というものが、果たして価値があるかというと、ないと思う。
だからこそ、こうやって傍若無人というか、気ままに、思いつくままに書き連ねたものが、「面白かった」と、わずかばかりの人ではあっても、言ってもらえたことは、本当に心底うれしいことであったのである。
それらの記事が、では、すべて感動(少しでも感情が発生)させることができたわけではないだろうが、とてもとても、うれしいことなのである。
健康でお金があって友人に恵まれてエトセトラ
まず、生きる意味、と検索すると、いままさに落ち込んでいることが前提とされている。果たしてそうだろうか。
例えば、宮台真司の「この世からきれいに消えたい。」という、20代前半の若い男性が、自殺したルポルタージュがある。
僕は、その本の序盤の書き出しにおいて、「ああ、そうなんだ、この得体のしれない生きづらさってものが、それこそ小学生ぐらいのときから纏わりついていたんだ」と感動したものだ。
ところが、ショックを受けたのは、その自殺した少年が、実は彼女がいたことである。そして、彼の死を彼女は悼んで哀しんでくれているのである。
「おいおい! まってくれよ、彼女がいて、イケメンのくせに、自殺なんてもったいないことしやがって!」
と、思ったかはあまり覚えていないけれども、当時彼女がいなかった自分としては、どこか違う世界の人間に思えたわけだ。
そこで僕は思った。
所詮、僕が生きづらいとか、人生に生きる意味を見いだせないとか嘆いていたとしたって、所詮、彼女がいなくてひがんでいる童貞野郎じゃあないか、と。
これでは、「絶望」なんて言葉はつかえない。誰かに認められない、彼女ができないという承認欲求が満たされないでウジウジ悩んでいるだけなのだ、と。
満たされるものを得たのちに考えるべきこと
上に書いてきたエピソードは、いつものごとく、脚色している気がする、とりあえず、本を購入した時期などから考えても、時系列はてんでバラバラだ。ただ、エッセンスとしては、以下のことである。
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もう、24時を過ぎていて、お酒も入っていて、寝るべきなのだけれども、少しだけメモをしておく。
まずは、タイトルを、「生きる意味を考える」と変更した。
生きる意味、で検索すると、非常にたくさんの言葉が溢れていることが分かる。
その中で、僕なんかが、一人、またその海の中に入っていくのは、おぼれ死ぬだけではないだろうか。
否、こればかりは、いくら多くの言葉に溢れようが、70億人が同じことを考えていようが、関係ない。
ただ、唯一、自分自身に必要な思考というものが、あるということだ。
これを、「実存」という。
他者の言葉を参考にするのはいい。ただ、自分自身、自己、実感、とにかく、意識している身体において、積み重ねていく必要があるのだ、それが、生きるということなのだ。
このまま、短い記事のまま、投稿してしまうのは、非常に無駄だ。
人生はゲームである、とか、生きる意味はない、だとか、人それぞれ見付けていくものだとか。
氾濫した言葉に惑わされてはいけなくて、結局、自分自身を納得させるには、学習というインプットが大事なのだ。
スピリチュアルとか自己啓発とか、それらの論理というのはもちろんしっかりしているから、論理的思考ができるひと、読解力があるひとは、
理解ができる。
しかし、それは正しいと思う、けれども、僕はそれができない、というのは、自己疎外を生む。
自己疎外とは、自分自身を認められずに、最も大切な実感が失われていくことである。
これらは、正確な言語表現を要求しない。
生きる意味を考えることは間違いである、それは、それを考えるときは必ず不満を感じ、不愉快な気持ちだからだ、という記述も世界には存在している。
それはそうだと、私も思う、しかしながら、果たして、この思考というものが、不愉快なものなのだろうか、これは、いまいちど、ウェイト、である。
トルストイは、三十代で人生の苦悩を、生きる意味を求め続けたという。
彼自信は、周囲の導師として、名声もあったのだという、ただ、彼には生きる意味が見いだせなかったのだ。
愚者は経験に頼る、知者は歴史に学ぶ、という。
おお、かっこいい言葉だ、と思う。愚者は信仰に頼る、賢者は科学に頼る、とか、他に言い換えて、どんどんかっこいい言葉をつくっていくこともできる。
僕はそういった言葉を信じていた時期もあった。
理想なる自己というものを作り上げようと、書物を読み漁った。この表現も過剰で、僕なんかよりたくさん読んでいる人もいるだろう、この感覚、この感覚こそが非常に危険なものだと、なかなか、誰も教えてくれない、いや、この危険さは、僕一人で気づいたのだと、そう慢心したくなるほどである。
理想自己を追い求める果てに、現実の自分がおきざりになるからだ。
とにかく、自分の中ではたくさん本を読んだ、それが100冊だったとして、その数をおおすごい、といわれるのか、たったそれだけといわれるのか、それは、所属コミュニティーによるだけの話。
それをネット社会は、コミュニティの範囲をひろげ、物理環境的制約をみえにくくするため、この心情が起こりやすいと思う。
現実の友人が大事だよ、といわれる所以である。
問題となるのは、所属コミュニティーが、必ずしもよいものではないことだ。
これは運命的でもある。
もちろん、個の努力は影響するが、世界的規模の圧力に抗えるはずはない。
物理的環境制約を意識しつつも、広大な電脳世界に毒されてもいけない。
こうなってくると、凡庸なつまらない言葉しかでてこない。
理想をもちつつ、現実をみつめ、努力を重ねて生きていかなければならない。
ただ、このなんの役にもたたないような教訓は、ひとつの問題提起なのである。
現に、死に希望を感じ、十歳に満たずに自死する現象が起こる。
本能の欠損か、しかし、
先程、失敗をおかした、つまり、自分自身の感情を放置すると、危険が発生するのだ、自分の発言で窮地にたったこともある。
マナーとか様式とか常識とか。
それらは、身を守るものなのだ。話が壊れてきたな、精神変調である、この、こうあったらいいな、とか、他者に嫌われてしまうということ、これが自分にとって危険シグナルなのであって、だからこそ、思考も発言も正確に、落ち着いて、冷静に、安全にならざるをえないのだ。
時間切れ、また夜にでも続けたい。
まずは、タイトルを、「生きる意味を考える」と変更した。
生きる意味、で検索すると、非常にたくさんの言葉が溢れていることが分かる。
その中で、僕なんかが、一人、またその海の中に入っていくのは、おぼれ死ぬだけではないだろうか。
否、こればかりは、いくら多くの言葉に溢れようが、70億人が同じことを考えていようが、関係ない。
ただ、唯一、自分自身に必要な思考というものが、あるということだ。
これを、「実存」という。
他者の言葉を参考にするのはいい。ただ、自分自身、自己、実感、とにかく、意識している身体において、積み重ねていく必要があるのだ、それが、生きるということなのだ。
このまま、短い記事のまま、投稿してしまうのは、非常に無駄だ。
人生は暇潰しである
人生はゲームである、とか、生きる意味はない、だとか、人それぞれ見付けていくものだとか。
氾濫した言葉に惑わされてはいけなくて、結局、自分自身を納得させるには、学習というインプットが大事なのだ。
スピリチュアルとか自己啓発とか、それらの論理というのはもちろんしっかりしているから、論理的思考ができるひと、読解力があるひとは、
理解ができる。
しかし、それは正しいと思う、けれども、僕はそれができない、というのは、自己疎外を生む。
自己疎外とは、自分自身を認められずに、最も大切な実感が失われていくことである。
これらは、正確な言語表現を要求しない。
生きる意味を考えているとき不愉快なはずだ
生きる意味を考えることは間違いである、それは、それを考えるときは必ず不満を感じ、不愉快な気持ちだからだ、という記述も世界には存在している。
それはそうだと、私も思う、しかしながら、果たして、この思考というものが、不愉快なものなのだろうか、これは、いまいちど、ウェイト、である。
トルストイは、三十代で人生の苦悩を、生きる意味を求め続けたという。
彼自信は、周囲の導師として、名声もあったのだという、ただ、彼には生きる意味が見いだせなかったのだ。
愚者は歴史に学ばないというが
愚者は経験に頼る、知者は歴史に学ぶ、という。
おお、かっこいい言葉だ、と思う。愚者は信仰に頼る、賢者は科学に頼る、とか、他に言い換えて、どんどんかっこいい言葉をつくっていくこともできる。
僕はそういった言葉を信じていた時期もあった。
理想なる自己というものを作り上げようと、書物を読み漁った。この表現も過剰で、僕なんかよりたくさん読んでいる人もいるだろう、この感覚、この感覚こそが非常に危険なものだと、なかなか、誰も教えてくれない、いや、この危険さは、僕一人で気づいたのだと、そう慢心したくなるほどである。
危険な比較心情
理想自己を追い求める果てに、現実の自分がおきざりになるからだ。
とにかく、自分の中ではたくさん本を読んだ、それが100冊だったとして、その数をおおすごい、といわれるのか、たったそれだけといわれるのか、それは、所属コミュニティーによるだけの話。
それをネット社会は、コミュニティの範囲をひろげ、物理環境的制約をみえにくくするため、この心情が起こりやすいと思う。
現実の友人が大事だよ、といわれる所以である。
かといって物理環境が万全ではない
問題となるのは、所属コミュニティーが、必ずしもよいものではないことだ。
これは運命的でもある。
もちろん、個の努力は影響するが、世界的規模の圧力に抗えるはずはない。
物理的環境制約を意識しつつも、広大な電脳世界に毒されてもいけない。
こうなってくると、凡庸なつまらない言葉しかでてこない。
理想をもちつつ、現実をみつめ、努力を重ねて生きていかなければならない。
ただ、このなんの役にもたたないような教訓は、ひとつの問題提起なのである。
努力してまで何故生きるのか
現に、死に希望を感じ、十歳に満たずに自死する現象が起こる。
本能の欠損か、しかし、
先程、失敗をおかした、つまり、自分自身の感情を放置すると、危険が発生するのだ、自分の発言で窮地にたったこともある。
マナーとか様式とか常識とか。
それらは、身を守るものなのだ。話が壊れてきたな、精神変調である、この、こうあったらいいな、とか、他者に嫌われてしまうということ、これが自分にとって危険シグナルなのであって、だからこそ、思考も発言も正確に、落ち着いて、冷静に、安全にならざるをえないのだ。
時間切れ、また夜にでも続けたい。
肉親とはどこまでを指すのか。ただ、血が繋がっている親族と考えてよいだろう。
厳密な定義は必要とは思わない。
離婚届を突きつけられ、大好きだった祖父も亡くなった。
不幸が重なる。ここで涙を誘うためには、祖父との楽しかった思い出や、幼い自分のためにしてくれたこと、進学や就職のたびに、本当に喜んでくれたことなど、書き連ねていく必要がある。初の孫ということで、本当に大事にしてもらった。
たくさんないた、それを、言葉にしていくことは、何となく恥ずかしい気がする。どこか、感情に流されない自分を、理想視しているきがする。
にもかかわらず、よくわからない人だとだんじられて離婚届を突きつけられたのは、本当に哀しく、愛想もつきたことであり、それがまた、自分の人生にとってとても幸せなことであったと冴え思える。
本当に大事な祖父が亡くなったことは、自分にとっての大きなダメージだ、しかしそれは、離婚というストレスにぶつかり、ダメージを軽減してくれたことのようにも思えるのである。
宗派や地域によってちがうようだが、病院から斎場に運ばれ、火葬、法要、会食おとき、となる。
その間、訪ねてくるかたもいる。
通夜とは、具体的にはないこともある。
とかく、亡くなった最初の夜になることもある、火葬の前に顔をみにくる、しかし、それは家族に進められたら、で、そのときに香典を包んでくるかとか、難しい。
とかく、香典は、葬式法要の際に、受付で渡されることが多かった。そのほうが、名簿にも記帳してもらうのだから、身内としては楽である。
通夜は、まだ気持ちの整理もされていないとき、お金をもたれたら、その管理も発生するし、親族が多ければ分担もできようが、大変である。
手伝いに行くなら価値はあろうが、あまり親しくないなら、むしろ行くべきではないと思った。
厳密な定義は必要とは思わない。
離婚届を突きつけられ、大好きだった祖父も亡くなった。
不幸が重なる。ここで涙を誘うためには、祖父との楽しかった思い出や、幼い自分のためにしてくれたこと、進学や就職のたびに、本当に喜んでくれたことなど、書き連ねていく必要がある。初の孫ということで、本当に大事にしてもらった。
骨
たくさんないた、それを、言葉にしていくことは、何となく恥ずかしい気がする。どこか、感情に流されない自分を、理想視しているきがする。
にもかかわらず、よくわからない人だとだんじられて離婚届を突きつけられたのは、本当に哀しく、愛想もつきたことであり、それがまた、自分の人生にとってとても幸せなことであったと冴え思える。
本当に大事な祖父が亡くなったことは、自分にとっての大きなダメージだ、しかしそれは、離婚というストレスにぶつかり、ダメージを軽減してくれたことのようにも思えるのである。
葬儀の流れ
宗派や地域によってちがうようだが、病院から斎場に運ばれ、火葬、法要、会食おとき、となる。
その間、訪ねてくるかたもいる。
通夜とは、具体的にはないこともある。
とかく、亡くなった最初の夜になることもある、火葬の前に顔をみにくる、しかし、それは家族に進められたら、で、そのときに香典を包んでくるかとか、難しい。
とかく、香典は、葬式法要の際に、受付で渡されることが多かった。そのほうが、名簿にも記帳してもらうのだから、身内としては楽である。
通夜は、まだ気持ちの整理もされていないとき、お金をもたれたら、その管理も発生するし、親族が多ければ分担もできようが、大変である。
手伝いに行くなら価値はあろうが、あまり親しくないなら、むしろ行くべきではないと思った。
祖父が亡くなった。
このきに、リアルタイムな、正確な自分の気持ちを書き残さないといけないと思う。
しかし、感情や、実感がどこかにいってしまっている。
離婚のこともそうだ。
一人真っ暗な部屋に帰っても、片付けして、ごみを分別して捨てて、除菌して掃除して選択して風呂に入って、寝て。
あまり感情がない。
一方、何故生きるのか、という命題が浮かぶ。
大切な人が死んだのに、不謹慎なことだ。
でも、本当に死が僕にとって希望であった時期において、それが死に至る病となって、死ねないこと、死すら希望にならないこと、、それが、僕にとってずっと巣くっていた。
都会に来ると、生きたいという欲求が薄れるという少女兵士の言葉。ジャングルの、強く生存欲求を感じる生活に戻りたいのだと。
生きていることは素晴らしいことだという。
よいことも、悪いこともたくさんある。
で、そのいくらかのいいことにすがるために、いくばくかの、46億年のうちの、わずかな時間をすごすのか。
僕は、自殺を考えた小学校四年生のとき、そう、あれは、下校と中の坂で、親友に、死にたいって思ったことがある? と、拙い言葉でたずねたとき、君は何をいっているんだ、そんなわけないだろうと言われたとき、ああ、僕は、なにか、ちがう、のだと、表現はなかったけれども、思ったのであった。
あのとき、死んでいなくて、僕はよかったのだろうか。
ああ、まさに、自分を大切にしてくれた方が亡くなったというに、こんな思考はエラーなのだろう。
いな、それでも、いやそれだからこそ、ぼくは、いまこそ、考えるべきなのだ。
本当に、守るものも、望むものも、ただ、しばらく生きていくためのお金だけある状態で、僕は真剣に考えるべきなのだ。
お金がない貧困のほうがつらいというのは、甘い考えだ、というと総すかんをくらうが、お金を手に入れたいという欲求がある時点で素晴らしいことだ。
この世界に素晴らしいことはたくさんある。
それを知った上でなお、なにも感じられない、望みがなくなった状態、それが絶望なのである。
肉親の死、愛する人と離別、それはとても哀しいことだ。
涙がでればいい。でも僕は、ふわふわとした現実感のなさが続くだけである。
このきに、リアルタイムな、正確な自分の気持ちを書き残さないといけないと思う。
しかし、感情や、実感がどこかにいってしまっている。
離婚のこともそうだ。
一人真っ暗な部屋に帰っても、片付けして、ごみを分別して捨てて、除菌して掃除して選択して風呂に入って、寝て。
あまり感情がない。
一方、何故生きるのか、という命題が浮かぶ。
大切な人が死んだのに、不謹慎なことだ。
でも、本当に死が僕にとって希望であった時期において、それが死に至る病となって、死ねないこと、死すら希望にならないこと、、それが、僕にとってずっと巣くっていた。
都会に来ると、生きたいという欲求が薄れるという少女兵士の言葉。ジャングルの、強く生存欲求を感じる生活に戻りたいのだと。
生きていることは素晴らしいことだという。
よいことも、悪いこともたくさんある。
で、そのいくらかのいいことにすがるために、いくばくかの、46億年のうちの、わずかな時間をすごすのか。
僕は、自殺を考えた小学校四年生のとき、そう、あれは、下校と中の坂で、親友に、死にたいって思ったことがある? と、拙い言葉でたずねたとき、君は何をいっているんだ、そんなわけないだろうと言われたとき、ああ、僕は、なにか、ちがう、のだと、表現はなかったけれども、思ったのであった。
あのとき、死んでいなくて、僕はよかったのだろうか。
ああ、まさに、自分を大切にしてくれた方が亡くなったというに、こんな思考はエラーなのだろう。
いな、それでも、いやそれだからこそ、ぼくは、いまこそ、考えるべきなのだ。
本当に、守るものも、望むものも、ただ、しばらく生きていくためのお金だけある状態で、僕は真剣に考えるべきなのだ。
お金がない貧困のほうがつらいというのは、甘い考えだ、というと総すかんをくらうが、お金を手に入れたいという欲求がある時点で素晴らしいことだ。
この世界に素晴らしいことはたくさんある。
それを知った上でなお、なにも感じられない、望みがなくなった状態、それが絶望なのである。
哀しみではない
肉親の死、愛する人と離別、それはとても哀しいことだ。
涙がでればいい。でも僕は、ふわふわとした現実感のなさが続くだけである。
いわゆる、自分のことは、いくら書き込んだとしても、理解されるものではない。
自分は特別な人間ではないと、そう感じたのだ、しかし、やはり、ある意味においては、特別な人間でしかありえないのだ。
それは親が子を大事に思う気持ちとか、名前をもった個体であるとか、それら自明なことを別として、人は自分自身の世界において、世界、他者をみているのである。
これは、正しいとか、誤っているとか、決して科学的ではなくて、こうして世界を考えた方がうまくいくのだという、知恵というか、処世術的なものである。
第一そもそも、他者と分かり合えるとか、そんなこと、別に問題にされてはいないのだ。
現に、人間関係がうまくいっているならば、対人関係、コミュニケーションの問題など不要である。いっぽうで、対人関係というのは、常に仕事でも学校でも問題の上位になるのだから、本当は誰しも、絶望をかかえているのだ。
仏教的には、愛は執着から起こる、そして愛は触れることで、感覚器官によっておこる。
人間なら誰しも愛をもっているという前提、まぁそれはそうとして、なにかを自分のものにしたいという思い、その抽象化されたものが愛である。
あるときは、僕は、愛とは性欲のことだ、ととらえた。それも一面であるが、例えば親の子供への愛とか、性愛をこえたものを表現するならば、執着こそ愛であるといっていいだろう。
結婚とは、社会制度であり、別に感情は関係しない。
ゆえに、制度自体のしばりが希薄になった現代において、離婚率がさんぶんのいちなのは、何もめずらしいことではない。
子供をつくらないといけないとかいう周囲の強制もほとんどないことだろう。
財産分与とか、相続とか、それら社会制度としての機能をはたすための便宜手段である。
ところで、愛とはなにか?
遺伝子レベルで一致すると、匂いでひかれあうらしい。
ひとめぼれとか、ロマンスである。
しかし、セックスが気持ちいいのはよいことだろうが、偶発的な感覚において、ひととひととの関係は、どこまで維持できるのだろうか。
家庭とはなんだろうか。役割分担、なんのため?
生きるため。
では、何故その人とともに生きるのだろうか。
結局のところ、自分が何のためにどのように生きるのか、それがポイントにしか、いまの私は思えない。
死にたくないというのが、希望であるわけではなく、むしろ死すら希望になりえない状態が、死に至る病におかされているという、いわゆる絶望である。
絶望は誰しも抱くゆえに、神の信仰こそが救いである、ただ、ここでの神は、大きなゆういつしんではなく、個個人が一対一で向かい合う、心の拠り所となる存在であるという。
それを、恋愛に対して求めて、失敗し絶望したのが、北村透谷である。
僕も女性に審美を求めたこともあったが、やはり人間は人間でしかなく、いやむしろ、それをするということは、自分自身の内にある信仰心そのものの、もはや偶像崇拝である。
といった表現をしていると、離婚して自暴自棄になっている、と感じられることだろうが、そうではないのだが、冒頭の理解可能性という部分で、もはや一切伝わることはありえないのである。
ともかく、自己の内にある真実、永遠なるもの、拠り所になるもの、それがすなわち、キルケゴールのいう神なのである。
こんな表現で本を出したら、宗教コーナーに割り振られるだろう。
いやいや、そうじゃないんだ。
むしろ、哲学、自己啓発、いや、生き方、雑学、そんなものである。
ただ、あながち、宗教じゃないかといえば、単に宗教という言葉が日本人にうけが悪いので、わざと否定しているだけで、ある意味宗教といってもいい。それは、資本主義が宗教だという表現レベルのものである。
でまぁ、そこらへんは今は重要ではなく、その神様ってどこにおるんや、ということだ。
時間切れなので、それはまた次にしよう。
自分は特別な人間ではないと、そう感じたのだ、しかし、やはり、ある意味においては、特別な人間でしかありえないのだ。
それは親が子を大事に思う気持ちとか、名前をもった個体であるとか、それら自明なことを別として、人は自分自身の世界において、世界、他者をみているのである。
哲学的ゾンビ
これは、正しいとか、誤っているとか、決して科学的ではなくて、こうして世界を考えた方がうまくいくのだという、知恵というか、処世術的なものである。
第一そもそも、他者と分かり合えるとか、そんなこと、別に問題にされてはいないのだ。
現に、人間関係がうまくいっているならば、対人関係、コミュニケーションの問題など不要である。いっぽうで、対人関係というのは、常に仕事でも学校でも問題の上位になるのだから、本当は誰しも、絶望をかかえているのだ。
愛とはなにか
仏教的には、愛は執着から起こる、そして愛は触れることで、感覚器官によっておこる。
人間なら誰しも愛をもっているという前提、まぁそれはそうとして、なにかを自分のものにしたいという思い、その抽象化されたものが愛である。
あるときは、僕は、愛とは性欲のことだ、ととらえた。それも一面であるが、例えば親の子供への愛とか、性愛をこえたものを表現するならば、執着こそ愛であるといっていいだろう。
結婚制度と愛
結婚とは、社会制度であり、別に感情は関係しない。
ゆえに、制度自体のしばりが希薄になった現代において、離婚率がさんぶんのいちなのは、何もめずらしいことではない。
子供をつくらないといけないとかいう周囲の強制もほとんどないことだろう。
財産分与とか、相続とか、それら社会制度としての機能をはたすための便宜手段である。
ところで、愛とはなにか?
ホルモンバランスとか生物学的な要素
遺伝子レベルで一致すると、匂いでひかれあうらしい。
ひとめぼれとか、ロマンスである。
しかし、セックスが気持ちいいのはよいことだろうが、偶発的な感覚において、ひととひととの関係は、どこまで維持できるのだろうか。
家庭とはなんだろうか。役割分担、なんのため?
生きるため。
では、何故その人とともに生きるのだろうか。
結局人生プラン
結局のところ、自分が何のためにどのように生きるのか、それがポイントにしか、いまの私は思えない。
死にたくないというのが、希望であるわけではなく、むしろ死すら希望になりえない状態が、死に至る病におかされているという、いわゆる絶望である。
絶望は誰しも抱くゆえに、神の信仰こそが救いである、ただ、ここでの神は、大きなゆういつしんではなく、個個人が一対一で向かい合う、心の拠り所となる存在であるという。
それを、恋愛に対して求めて、失敗し絶望したのが、北村透谷である。
僕も女性に審美を求めたこともあったが、やはり人間は人間でしかなく、いやむしろ、それをするということは、自分自身の内にある信仰心そのものの、もはや偶像崇拝である。
といった表現をしていると、離婚して自暴自棄になっている、と感じられることだろうが、そうではないのだが、冒頭の理解可能性という部分で、もはや一切伝わることはありえないのである。
ともかく、自己の内にある真実、永遠なるもの、拠り所になるもの、それがすなわち、キルケゴールのいう神なのである。
神さまの探し方
こんな表現で本を出したら、宗教コーナーに割り振られるだろう。
いやいや、そうじゃないんだ。
むしろ、哲学、自己啓発、いや、生き方、雑学、そんなものである。
ただ、あながち、宗教じゃないかといえば、単に宗教という言葉が日本人にうけが悪いので、わざと否定しているだけで、ある意味宗教といってもいい。それは、資本主義が宗教だという表現レベルのものである。
でまぁ、そこらへんは今は重要ではなく、その神様ってどこにおるんや、ということだ。
時間切れなので、それはまた次にしよう。
