人のことを、好きって言えて、お金がやっぱり大事っていえて、40歳まで生きられたらいいって割りきれて、結婚もしたいし子どもも欲しいって言える。
家族はいなくて、色んな経験ののち、自分を変えるのではなく、自分を貫き、自分のことは自分で守ると断言する。
そんな20代後半の女の子と会話した。
考えることが好きな女の子もいるということだ、そして、共感したところは、考えても、同じことを考えても仕方がなく、何か行動や、成し遂げるために考えることが必要だということだ。
考えるための、それが自己目的化した思考は無意味であるという。
その点は、非常に重要だ、確かに、考えることそれ自体が楽しいというのはある、ただ、気を付けなければいけないところだろう。
最後にその人がいうのは、自分には、何か成し遂げるために、生まれた、使命があるということだ。
うーん、考えた上で、その、他者を好きだといえて、生まれた意味があると強く実感できること、これは、素直に羨ましいと思った。
自己開示したところで、やっぱり、自分ってのは分からないな、理解してくれる人がいるとか、そういう期待とかも、いまはあまりない、
どんな、人間を求めているのだろう。
何か、
何を、
探しているのか
何が、必要なのか。
思い付くことは、すべて、試している。
ここが、問題だ。
なにもせず、引き込もって、社会にうらみつらみをいうのではない。
そこが、逆に、考える生き方の著者のように、リア充のくせに贅沢いいやがって、のようになるのだろうが、でも、それでも、何をしていいかが、分からない。
努力が大事、そうだろう。
だが、何が、何を、何に向けて?
得るものが増えると、体験や経験が増えるごとに、人の優しさや、笑顔や、交流が増えるごとに、自分の世界が色褪せていくようだ、この感覚、たぶん、表現できていない。
からだの表現、顔、表情、身長、体毛、挙動、言動、それら含めた総合を、他者がどうとらえているか、まだまだ分からない。
家族はいなくて、色んな経験ののち、自分を変えるのではなく、自分を貫き、自分のことは自分で守ると断言する。
そんな20代後半の女の子と会話した。
共感点と差異
考えることが好きな女の子もいるということだ、そして、共感したところは、考えても、同じことを考えても仕方がなく、何か行動や、成し遂げるために考えることが必要だということだ。
考えるための、それが自己目的化した思考は無意味であるという。
その点は、非常に重要だ、確かに、考えることそれ自体が楽しいというのはある、ただ、気を付けなければいけないところだろう。
最後にその人がいうのは、自分には、何か成し遂げるために、生まれた、使命があるということだ。
うーん、考えた上で、その、他者を好きだといえて、生まれた意味があると強く実感できること、これは、素直に羨ましいと思った。
そのうえで自分は
自己開示したところで、やっぱり、自分ってのは分からないな、理解してくれる人がいるとか、そういう期待とかも、いまはあまりない、
どんな、人間を求めているのだろう。
何か、
何を、
探しているのか
何が、必要なのか。
思い付くことは、すべて、試している。
ここが、問題だ。
なにもせず、引き込もって、社会にうらみつらみをいうのではない。
そこが、逆に、考える生き方の著者のように、リア充のくせに贅沢いいやがって、のようになるのだろうが、でも、それでも、何をしていいかが、分からない。
努力が大事、そうだろう。
だが、何が、何を、何に向けて?
得るものが増えると、体験や経験が増えるごとに、人の優しさや、笑顔や、交流が増えるごとに、自分の世界が色褪せていくようだ、この感覚、たぶん、表現できていない。
からだの表現、顔、表情、身長、体毛、挙動、言動、それら含めた総合を、他者がどうとらえているか、まだまだ分からない。
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あるブロガーが出版した、考える生き方、という書籍の購入を決定した。
どうやら、高学歴で奥さんも子どもにも恵まれ、書籍も出版しブログもフォロワーが多いような人が、人生からっぽだった、とか、なんとかのたまう本らしい。
誰がそんなの読むのか、と、思ったら、やたらとレビューが高い。
もともと、政治に関しての知見が鋭い人だということだ。そんなすごいひとでも、考えることが、必要になってしまうのだ、というのが、共感をよんでいるらしい。
もしくは、自伝って、偉人が書くものだから、ふつうのひとの、ふつうの生き方というのが、共感や安心を生むのかもしれない。
なんだか、いやなかんじだ、でもそれは、もしかすると同族嫌悪的な感情なのか、という疑問と、いわゆるレビューの、こういった思考次元においての役にたたなさを思いだし、思いきって購入を決定したわけだ。
つまり、こう、ログとか、思考といった面でも、上には上がごちゃごちゃしていて、この方面でも、僕は有象無象にすぎないのか。
つらいよねー、ぐちゃぐちゃかいていて、それが生産性があるかどうか別にして、そうした表現ができることが、確かに自分が認めたある人はすごいと心から思ったとしても、その世界には、まだまだたくさん、多くの人がいたなんてのは、まさに井の中の蛙であって、蛙としては、ずっと井戸のなかにいたいだろう。
自己が否定されるのは、誰だってつらい。
けれども、批判や、プライドの傷つきを恐れることは、一切すべきではないのだ。
自己保身したところで、それが、誰にどう評価されるのか。
むしろ、まわりを省みない自己肯定は、哀れにすらみられるだろう。
それとまた、結局のところ、実感でしかない。
フラットな気持ち、というのが、そもそも幻想なのかもしれない。
いわゆる客観せいなど、存在しないのかもしれない。
プライベートを書くことに、意味を見いだせなかったのは、現実の生きていることじたいと、思考とは別と思っていたからだ。しかし、その書籍は、積極的に自分の生活を明らかにしている。
そのうえで、生きづらさ、のようなものを表現している書籍なのだろうか。読んでみないとわからないが、
ただ、やっぱり、感情として、恵まれている生活の人に対して、そのひとが、悩み、諦めているとか、ふざけんなって気持ちになるきがする。
僕もそうみられているなら悲しい、が、ここらへんはやっぱり、よく気を付けるべきだ。
うーん、今回、全然いい表現が頭からでてこない。書いていてあまり楽しくない。
なぜだろう。
どうやら、高学歴で奥さんも子どもにも恵まれ、書籍も出版しブログもフォロワーが多いような人が、人生からっぽだった、とか、なんとかのたまう本らしい。
誰がそんなの読むのか、と、思ったら、やたらとレビューが高い。
もともと、政治に関しての知見が鋭い人だということだ。そんなすごいひとでも、考えることが、必要になってしまうのだ、というのが、共感をよんでいるらしい。
もしくは、自伝って、偉人が書くものだから、ふつうのひとの、ふつうの生き方というのが、共感や安心を生むのかもしれない。
なんだか、いやなかんじだ、でもそれは、もしかすると同族嫌悪的な感情なのか、という疑問と、いわゆるレビューの、こういった思考次元においての役にたたなさを思いだし、思いきって購入を決定したわけだ。
第一線の戦い
あんまり読む気はしていないが、それは、第一線で戦うことの恐れなのかと、僕は思った。つまり、こう、ログとか、思考といった面でも、上には上がごちゃごちゃしていて、この方面でも、僕は有象無象にすぎないのか。
つらいよねー、ぐちゃぐちゃかいていて、それが生産性があるかどうか別にして、そうした表現ができることが、確かに自分が認めたある人はすごいと心から思ったとしても、その世界には、まだまだたくさん、多くの人がいたなんてのは、まさに井の中の蛙であって、蛙としては、ずっと井戸のなかにいたいだろう。
プライドの無意味さ
自己が否定されるのは、誰だってつらい。
けれども、批判や、プライドの傷つきを恐れることは、一切すべきではないのだ。
自己保身したところで、それが、誰にどう評価されるのか。
むしろ、まわりを省みない自己肯定は、哀れにすらみられるだろう。
それとまた、結局のところ、実感でしかない。
フラットな気持ち、というのが、そもそも幻想なのかもしれない。
いわゆる客観せいなど、存在しないのかもしれない。
上流下流の判断
プライベートを書くことに、意味を見いだせなかったのは、現実の生きていることじたいと、思考とは別と思っていたからだ。しかし、その書籍は、積極的に自分の生活を明らかにしている。
そのうえで、生きづらさ、のようなものを表現している書籍なのだろうか。読んでみないとわからないが、
ただ、やっぱり、感情として、恵まれている生活の人に対して、そのひとが、悩み、諦めているとか、ふざけんなって気持ちになるきがする。
僕もそうみられているなら悲しい、が、ここらへんはやっぱり、よく気を付けるべきだ。
うーん、今回、全然いい表現が頭からでてこない。書いていてあまり楽しくない。
なぜだろう。
もう遅い時間だから、思いつくままにダッシュでメモ。
先日の記事とか、暗いなーっと読むと思ったりするけれども、どうか、読者の方は、心配をするとか、一緒に沈んだ気持ちになるとか、とにかく、負の状況にはならないで欲しいと思う。
決して、書いている本人として、人生絶頂楽しい嬉しい幸せだぜ、と感じているわけはないのだけれども、それ(暗い感情)と、書くということとは、全く別次元、といっていいほどのことだ。
むしろ、書いていた方が、よほど、気持ちが落ち着くし、悪い状況(負の感情というものがダメなものだというのであれば)から抜け出すことができるようなものなのだ。
ある女性たちとの飲み会。最近、B6サイズのメモ帳を持ち歩いているが、できる限り早急にメモしておくことが、精神衛生上にも、実用的にも有用であると思った。
そのメモは、プライベートも仕事も、些末なことも重要なことも、とくに気にしない。自分が知らない、新しいことだと思ったら、メモをする。それは、例えば、ある人が、ネコを好きだとか、服飾関連の仕事をしているとか、そんなこともそうだし、本当に心躍ること、感動してすごいな、と思ったこともそうだし、明日仕事で資料のアノ部分を直そうとか、そのレベルであってもよい。
玉石混交。そして、メモは、見返す、という部分もあるが、これのすごいな、と思ったことは、書いてあることが、記憶されるということだ。
逆に、書いていないことが、もう最近は本当に、猛スピードで消えていく。
この記憶力の低下、特に、瞬間記憶力というのか、それとも、中期記憶への移行力の低下なのかは分からないが、いやそもそも、今までもそうだったけれども、気にしていなかっただけなのか、とにかく、そういった心配事が、メモによってある程度解決されるのである。
このブログが「暗い」ということと、メモが何が関係あるのか、というのは、書くまでもないが、メモ的な意味もあるということだ。
そして、感情を掘り下げることが、やはり、会話の「ネタ」になることは間違いない。ある事象について、どう感じ、どのように対応したのか、どう発言したのか、行動したのか、どう考えたのか、そのこと自体が、その人そのものであり、「他者へ興味を持つ人たち」にとっては、面白いと感じる部分なのである。
本当にこまめに保存しないとだめだな。ネットワーク通信が一時的にきれるのでもダメなのかもしれない。その点は、FC2はローカル環境での文字が一時保存されていたのか、安全性が高かったなぁ。なんとなく、複数のブログが同じアカウントで作成できる、という点以外は、FC2の方が使いやすかった気がする、ということで、また話がズレ。
とにかく、いつも読んでくれてありがとうございます、と思った瞬間に、何だか、申し訳ないなぁ、とも感じたのである。
もちろん無理に読んでもらう必要はないし、もし読んでいただいたとき、暗い気持ちになってもらう必要もなければ、心配してもらう必要もない。
もちろん、気にかけて頂けることは、間違いなく、嬉しい感情なのだけれども、少なくても、書いている自分自身は、楽しんでいる、と規定して読んでもらいたい、ということだ。
それが、現実ワールドにおいて、じゃあ楽しく嬉しく生活できているか、ということは全くもって違っていて、そうでない場面はありながらも、この、書いていること自体は楽しいのだ、というイメージと思う。
なんだろう、これって、ある事象に対して、斜に構えるとか、一歩引いてみるとか、俯瞰してみるとか、そういう物事を客観視できる俺ってカッコイイ、的な、みたいな(笑)。
なのかもしれない、から、当然ながら、あまり表に出せるようなものではない、のだからこそ、こうして、好き勝手書くことができる時間、場所、そして、その場を通ってくれるか、立ち止まってくれるかは分からないが、そういった人たちがいるということは、とても貴重で嬉しいことなのである。
そういえば、「理系のための恋愛論」とか読んで、ポイントを整理してできることは実践したりと、そんなことやっていたこともあったものだ、今も連載しているのだろうか。
だから、僕は、卑屈になって引きこもったり、自信喪失して哀しんだりとか、社会を恨んだりとか、周囲の環境を批判したりとか、そういうことを推奨するのではないのであって、決して、「暗い」とか「ネガティブ」とか、そういうものではない……というのは、あくまで僕の中の定義であって、それは、一般に「おかしい」と言われることはあるのだろうが、そういうことに気付かない人もいて先日挙げた記事の中の人はやり玉に挙がっていて可哀想だったが、僕はそれを気付いているから少し上なのだとか、まぁ、こういった思考が同時に起こるので、何が何だか、自分って何だか分からなくなった。
話しがズレた、だから、ネガティブとかいう、というのではなく、努力して、成功して、楽しい思いをして、その上で、じゃあだから何? と言われたとき、どうしようか、ということを僕は考えているわけだ。
そういった、自己との対話、成長、見守り、安心、再構築といったこと、それを、「生きる意味を考える」という表現をすることも可能と思う。
ここで、思考の罠に陥ってはならないのは、自己もまた「総体」であるということだ。
いくら考えても、身体のフィードバックがなければ精神は存在しないし、
自分一人であった場合もまた、精神は沈潜し、やがて枯れ果てるのである。
様々なフィードバック、相互作用というものにおいて、自己は成り立っている、なーんて、したり顔でいっていたら、きっと、そんなことわかってるよ、てか、今更? などと嘲笑されることだろう。
ただ、常に気を付けなければいけないのは、「知識」と、身につくこと、腑に落ちること、人に教えられること、実践できること、は全く別物なのである。
今かってな思いつきだが、このブログはまた、「訓練」であるともいっていいだろう。
ただしい思考、というものが、どこにあるのか、どれにあたるのか分からないけれども、正しい思考を統一し、精進することが、重要に思われる。
だって、これが、30代の男が書いているから嘲笑なのであって、中学生ぐらいでここまでかけたら、すごくないか?(かっこわらい)
大体において、現実ワールドのコミュニティでは、ある一定の基準、が存在するから、その基準に到達しないものは、「レベルが低い」「努力が足りない」とか、排斥や叱咤の対象となるのである。
が、しかし、そうはいっても、人それぞれの基準は、決して、ある一つのコミュニティ内で完結するものではない、このことが、イジメの問題を根本解決する唯一とも思える手段、つまり、コミュニティの再構築や、もしくは逃避という手段なのだけれども、現実的には簡単ではないことである。
そういった意味において、WEB、インターネットという部分は、すなわちそこは、もう自分の家ではなくて、例えば、全裸でキーボードを叩いていたとしても、身体は別として、精神は外の世界へと解き放たれているのである。
だからこそ、閉鎖的コミュニティまたは失敗コミュニティからの、脱出となりえるのである。
まぁ、本来的には、こうした記事を読んで、「この人面白いな! 一緒にこれから生きていきたいな!」と思ってくれるような女の子がいりゃあいーんだけど、それを実現するための、潜在意識への語りかけは、相当困難をアラームしている(笑)
・B6メモは記憶面も精神面からも有効
・飲み会お疲れ様でした(自分へ)
先日の記事とか、暗いなーっと読むと思ったりするけれども、どうか、読者の方は、心配をするとか、一緒に沈んだ気持ちになるとか、とにかく、負の状況にはならないで欲しいと思う。
決して、書いている本人として、人生絶頂楽しい嬉しい幸せだぜ、と感じているわけはないのだけれども、それ(暗い感情)と、書くということとは、全く別次元、といっていいほどのことだ。
むしろ、書いていた方が、よほど、気持ちが落ち着くし、悪い状況(負の感情というものがダメなものだというのであれば)から抜け出すことができるようなものなのだ。
ある女性たちとの飲み会。最近、B6サイズのメモ帳を持ち歩いているが、できる限り早急にメモしておくことが、精神衛生上にも、実用的にも有用であると思った。
そのメモは、プライベートも仕事も、些末なことも重要なことも、とくに気にしない。自分が知らない、新しいことだと思ったら、メモをする。それは、例えば、ある人が、ネコを好きだとか、服飾関連の仕事をしているとか、そんなこともそうだし、本当に心躍ること、感動してすごいな、と思ったこともそうだし、明日仕事で資料のアノ部分を直そうとか、そのレベルであってもよい。
玉石混交。そして、メモは、見返す、という部分もあるが、これのすごいな、と思ったことは、書いてあることが、記憶されるということだ。
逆に、書いていないことが、もう最近は本当に、猛スピードで消えていく。
この記憶力の低下、特に、瞬間記憶力というのか、それとも、中期記憶への移行力の低下なのかは分からないが、いやそもそも、今までもそうだったけれども、気にしていなかっただけなのか、とにかく、そういった心配事が、メモによってある程度解決されるのである。
このブログが「暗い」ということと、メモが何が関係あるのか、というのは、書くまでもないが、メモ的な意味もあるということだ。
そして、感情を掘り下げることが、やはり、会話の「ネタ」になることは間違いない。ある事象について、どう感じ、どのように対応したのか、どう発言したのか、行動したのか、どう考えたのか、そのこと自体が、その人そのものであり、「他者へ興味を持つ人たち」にとっては、面白いと感じる部分なのである。
すぐに忘れてるということ
タイトル、書こうと思ったことと、書いていることがまた違う気がする、そもそも、またスマホで書いていて、しばらく中断してもう一度起動したら消えていた。本当にこまめに保存しないとだめだな。ネットワーク通信が一時的にきれるのでもダメなのかもしれない。その点は、FC2はローカル環境での文字が一時保存されていたのか、安全性が高かったなぁ。なんとなく、複数のブログが同じアカウントで作成できる、という点以外は、FC2の方が使いやすかった気がする、ということで、また話がズレ。
とにかく、いつも読んでくれてありがとうございます、と思った瞬間に、何だか、申し訳ないなぁ、とも感じたのである。
もちろん無理に読んでもらう必要はないし、もし読んでいただいたとき、暗い気持ちになってもらう必要もなければ、心配してもらう必要もない。
もちろん、気にかけて頂けることは、間違いなく、嬉しい感情なのだけれども、少なくても、書いている自分自身は、楽しんでいる、と規定して読んでもらいたい、ということだ。
それが、現実ワールドにおいて、じゃあ楽しく嬉しく生活できているか、ということは全くもって違っていて、そうでない場面はありながらも、この、書いていること自体は楽しいのだ、というイメージと思う。
なんだろう、これって、ある事象に対して、斜に構えるとか、一歩引いてみるとか、俯瞰してみるとか、そういう物事を客観視できる俺ってカッコイイ、的な、みたいな(笑)。
なのかもしれない、から、当然ながら、あまり表に出せるようなものではない、のだからこそ、こうして、好き勝手書くことができる時間、場所、そして、その場を通ってくれるか、立ち止まってくれるかは分からないが、そういった人たちがいるということは、とても貴重で嬉しいことなのである。
男女交際
もうしばらく忘れてしまったが、新しく連絡先を交換して、そっからどうやって関係を深めていくのだろうか。そういえば、「理系のための恋愛論」とか読んで、ポイントを整理してできることは実践したりと、そんなことやっていたこともあったものだ、今も連載しているのだろうか。
もう読者へではなく独り言
だから、僕は、卑屈になって引きこもったり、自信喪失して哀しんだりとか、社会を恨んだりとか、周囲の環境を批判したりとか、そういうことを推奨するのではないのであって、決して、「暗い」とか「ネガティブ」とか、そういうものではない……というのは、あくまで僕の中の定義であって、それは、一般に「おかしい」と言われることはあるのだろうが、そういうことに気付かない人もいて先日挙げた記事の中の人はやり玉に挙がっていて可哀想だったが、僕はそれを気付いているから少し上なのだとか、まぁ、こういった思考が同時に起こるので、何が何だか、自分って何だか分からなくなった。
話しがズレた、だから、ネガティブとかいう、というのではなく、努力して、成功して、楽しい思いをして、その上で、じゃあだから何? と言われたとき、どうしようか、ということを僕は考えているわけだ。
そういった、自己との対話、成長、見守り、安心、再構築といったこと、それを、「生きる意味を考える」という表現をすることも可能と思う。
ここで、思考の罠に陥ってはならないのは、自己もまた「総体」であるということだ。
いくら考えても、身体のフィードバックがなければ精神は存在しないし、
自分一人であった場合もまた、精神は沈潜し、やがて枯れ果てるのである。
様々なフィードバック、相互作用というものにおいて、自己は成り立っている、なーんて、したり顔でいっていたら、きっと、そんなことわかってるよ、てか、今更? などと嘲笑されることだろう。
ただ、常に気を付けなければいけないのは、「知識」と、身につくこと、腑に落ちること、人に教えられること、実践できること、は全く別物なのである。
今かってな思いつきだが、このブログはまた、「訓練」であるともいっていいだろう。
ただしい思考、というものが、どこにあるのか、どれにあたるのか分からないけれども、正しい思考を統一し、精進することが、重要に思われる。
だって、これが、30代の男が書いているから嘲笑なのであって、中学生ぐらいでここまでかけたら、すごくないか?(かっこわらい)
大体において、現実ワールドのコミュニティでは、ある一定の基準、が存在するから、その基準に到達しないものは、「レベルが低い」「努力が足りない」とか、排斥や叱咤の対象となるのである。
が、しかし、そうはいっても、人それぞれの基準は、決して、ある一つのコミュニティ内で完結するものではない、このことが、イジメの問題を根本解決する唯一とも思える手段、つまり、コミュニティの再構築や、もしくは逃避という手段なのだけれども、現実的には簡単ではないことである。
そういった意味において、WEB、インターネットという部分は、すなわちそこは、もう自分の家ではなくて、例えば、全裸でキーボードを叩いていたとしても、身体は別として、精神は外の世界へと解き放たれているのである。
だからこそ、閉鎖的コミュニティまたは失敗コミュニティからの、脱出となりえるのである。
まぁ、本来的には、こうした記事を読んで、「この人面白いな! 一緒にこれから生きていきたいな!」と思ってくれるような女の子がいりゃあいーんだけど、それを実現するための、潜在意識への語りかけは、相当困難をアラームしている(笑)
まとめ
・読者の方は無理をされないで欲しい・B6メモは記憶面も精神面からも有効
・飲み会お疲れ様でした(自分へ)
22時近くまで仕事があると、帰って12時を過ぎる。
10月16日、日曜日が、基本情報技術者試験の受験日だ。
ちょうど、仕事の忙しい時期と重なるが、一発合格したい。
この時間に帰って、勉強をできるようにならないと、合格できないだろう。
いまのところ、一週間に十五分程度の勉強量だ。
資格の有無が、人間の価値ではない、とか、そういった中学生的な、いわゆる何で勉強しなきゃいけないの? 的なことを、僕は思うのではない。
何で勉強を、ということを思ったのは、確かに中学生くらいだったが、それよりも何よりも、何で生きてるんだ、と、実存の危機は小学校高学年からである。
思えば、学校が終わったあと、クラブというか部活というかが始まるまでの、16時半か、17時までの時間が、ものすごく苦痛だった。
児童館みたいなところで、漫画を読めていたが、ああ、そこで金田一少年の事件簿とかみて、怖かったのを覚えているが、その漫画を読んでいる時間も、迫ってくるクラブの時間が、とてつもなく嫌だった。
高校ぐらいから、ログを書き始め、その内容にふれることはやってきた。
が、小学校高学年、4年生の頃に、親友に、死にたいと思ったことある? と、通学路の帰り道、坂の途中で尋ねたとき、まさか、そんなことあるわけないじゃないか、と言われて、ショックを受けた記憶、ここまでは、書いてきた。
そもそも、何故、小学校四年生、10歳の子どもが、死にたいなんて思ったのか、このことを、僕はいまのいままで、しっかり考えたことがなかった。
いちご同盟という小説の冒頭で自殺した少年は、12歳だったか。それより若いのだ。
その10歳以前の記憶は、いま少し考えたが、思い出せない。であれば、僕という自己が生まれたのは、その頃であったか。
僕のことを忘れてしまった、おばあちゃんが、通学路の途中まで一緒に着いてきてくれて、そのことでからかわれて、嫌な気持ちになったというのも、その頃か、もう少し前か。
いま考えると、そこらにいる小学生たちをみていると、到底そのころの僕の気持ちなんて、そんな感情があるなんてわからないくらい、ばか騒ぎして、笑顔で、はしゃいでいる。
そういうのが、小学生という時代なのか。
これらは、不幸自慢なんてことではなくて、フロイトの精神分析の自分でやってみた、みたいなものだ。
まぁ、こうかいても、自慢に聞こえるだけだろう。寝てない自慢みたいなものだ。
周りの人は、あっそ、自己管理ができてないのね、みたいに思うだけという、よくあるそれと同じことのように思えるだろう、それは分かっているが、逆に、今まで四年生に触れてこなかったことが、今回の記事の新しいところ。
僕、という存在を意識したのが、その、死にたいと思ったことであるならば、いまなお、生きる意味を探していることも、何ら疑問はない。
さすがに、それはまずいだろうと、意識に蓋をしていたのか。
まぁもう、なにも隠すこともない。考えてみよう、まぁでも、小中高と、思い出せる楽しかったことはないな。
高校生の終わりぐらいから、ホームページをつくって、楽しかったりしたけれども、むしろほとんど大学生に近い時期だ。
10歳から18歳の終わりまで、地元の、実家で暮らしていた時期がつまんねぇ時代だったというのは、感謝もして大事な両親や家族に対して申し訳ない気もするのだけれども、まぁ、年齢があがるにつれ、家にいる時間よりも外にいる時間が多くなるのだから仕方がないかもしれない。
とはいえ、これは親とかには見せられないな(笑)
という構造になるのであれば、誰にも相談できず、一人で抱え込んで、自殺してしまう子どもたち、というのも、よく分かる。
何で相談してくれなかったのかと、両親や、親友たちは嘆くかもしれない。けれども自殺した彼らは、むしろ、君たちを大事に思っていたから、相談できなかったのだ。
しかし、その死が、より深い哀しみを与えるだろうことは、思いやれるだけの力がなかったのか、それを考えるだけの余裕がないほど疲れはてていたのか……。
この次元の話は、殆どの人は必要としないのだろう。
にもかかわらず、人間理解とか、コミュニケーションとか、生きる力だとかのたまうひとたちの多いこと。
もう何年も前に、そういうものだとは思っているので、特になにも期待してはいないけれども、掘り下げて書いていけば、やっぱり、他者への期待のなさがあらわれている、このことが、昨日の記事にある、他者を頼る、ことの希薄さになり、頼らないから頼られないみたいな状態となっているのだとしたら、やはり特段、この辺りは考える必要性を感じない。
もよりの駅に着きそう。時間切れだ。目もまたはんびらき。最近身体が疲れてくると、特に目が疲れて、あかなくなってくる。
とりあえず、五分だけは勉強した。
10月16日、日曜日が、基本情報技術者試験の受験日だ。
ちょうど、仕事の忙しい時期と重なるが、一発合格したい。
この時間に帰って、勉強をできるようにならないと、合格できないだろう。
いまのところ、一週間に十五分程度の勉強量だ。
資格の有無が、人間の価値ではない、とか、そういった中学生的な、いわゆる何で勉強しなきゃいけないの? 的なことを、僕は思うのではない。
何で勉強を、ということを思ったのは、確かに中学生くらいだったが、それよりも何よりも、何で生きてるんだ、と、実存の危機は小学校高学年からである。
思えば、学校が終わったあと、クラブというか部活というかが始まるまでの、16時半か、17時までの時間が、ものすごく苦痛だった。
児童館みたいなところで、漫画を読めていたが、ああ、そこで金田一少年の事件簿とかみて、怖かったのを覚えているが、その漫画を読んでいる時間も、迫ってくるクラブの時間が、とてつもなく嫌だった。
ずっと封印していた記憶
高校ぐらいから、ログを書き始め、その内容にふれることはやってきた。
が、小学校高学年、4年生の頃に、親友に、死にたいと思ったことある? と、通学路の帰り道、坂の途中で尋ねたとき、まさか、そんなことあるわけないじゃないか、と言われて、ショックを受けた記憶、ここまでは、書いてきた。
そもそも、何故、小学校四年生、10歳の子どもが、死にたいなんて思ったのか、このことを、僕はいまのいままで、しっかり考えたことがなかった。
いちご同盟という小説の冒頭で自殺した少年は、12歳だったか。それより若いのだ。
その10歳以前の記憶は、いま少し考えたが、思い出せない。であれば、僕という自己が生まれたのは、その頃であったか。
僕のことを忘れてしまった、おばあちゃんが、通学路の途中まで一緒に着いてきてくれて、そのことでからかわれて、嫌な気持ちになったというのも、その頃か、もう少し前か。
いま考えると、そこらにいる小学生たちをみていると、到底そのころの僕の気持ちなんて、そんな感情があるなんてわからないくらい、ばか騒ぎして、笑顔で、はしゃいでいる。
そういうのが、小学生という時代なのか。
これらは、不幸自慢なんてことではなくて、フロイトの精神分析の自分でやってみた、みたいなものだ。
まぁ、こうかいても、自慢に聞こえるだけだろう。寝てない自慢みたいなものだ。
周りの人は、あっそ、自己管理ができてないのね、みたいに思うだけという、よくあるそれと同じことのように思えるだろう、それは分かっているが、逆に、今まで四年生に触れてこなかったことが、今回の記事の新しいところ。
自己の発生が死
僕、という存在を意識したのが、その、死にたいと思ったことであるならば、いまなお、生きる意味を探していることも、何ら疑問はない。
さすがに、それはまずいだろうと、意識に蓋をしていたのか。
まぁもう、なにも隠すこともない。考えてみよう、まぁでも、小中高と、思い出せる楽しかったことはないな。
高校生の終わりぐらいから、ホームページをつくって、楽しかったりしたけれども、むしろほとんど大学生に近い時期だ。
10歳から18歳の終わりまで、地元の、実家で暮らしていた時期がつまんねぇ時代だったというのは、感謝もして大事な両親や家族に対して申し訳ない気もするのだけれども、まぁ、年齢があがるにつれ、家にいる時間よりも外にいる時間が多くなるのだから仕方がないかもしれない。
とはいえ、これは親とかには見せられないな(笑)
という構造になるのであれば、誰にも相談できず、一人で抱え込んで、自殺してしまう子どもたち、というのも、よく分かる。
何で相談してくれなかったのかと、両親や、親友たちは嘆くかもしれない。けれども自殺した彼らは、むしろ、君たちを大事に思っていたから、相談できなかったのだ。
しかし、その死が、より深い哀しみを与えるだろうことは、思いやれるだけの力がなかったのか、それを考えるだけの余裕がないほど疲れはてていたのか……。
この次元の話は、殆どの人は必要としないのだろう。
にもかかわらず、人間理解とか、コミュニケーションとか、生きる力だとかのたまうひとたちの多いこと。
もう何年も前に、そういうものだとは思っているので、特になにも期待してはいないけれども、掘り下げて書いていけば、やっぱり、他者への期待のなさがあらわれている、このことが、昨日の記事にある、他者を頼る、ことの希薄さになり、頼らないから頼られないみたいな状態となっているのだとしたら、やはり特段、この辺りは考える必要性を感じない。
もよりの駅に着きそう。時間切れだ。目もまたはんびらき。最近身体が疲れてくると、特に目が疲れて、あかなくなってくる。
とりあえず、五分だけは勉強した。
たくさんの人に囲まれて
家族連れ、カップル、子どもたち、中学生、老夫婦、休日の楽しそうなひととき。
なにかを、共有すること、他者の人生を背負うこと、それがコミュニケーションであって、他者に思い通りに意思を伝えるというのは、コミュニケーションの表層なのかもしれない。
もっとも、仕事におけるコミュニケーションは、後者が正しい。あとは、できるだけ、気持ちよくなってもらうだけだ。
誰かに相談されたことはあるか
色々情報検索していて、ぐさっと、はっとなったのは、他者から相談された経験が少ないということだ。
仕事は当然別として、プライベートにおいて、なにか重大な人生のイベントについて、どうしたらよいか、尋ねられたという経験はないかもしれない。
いやいや、小さなことでも、何かあるかと考えても、でてこない。
そういう意味では、僕はとても寂しい人間なのかもしれない。
そして確かに、あまりそういったことを望んだこともなかった。心から欲したことでなければ、現象化することはあまりないのだ。
頼りかた
なるほど、そう考えると、そもそも、他者を頼る、ということが、僕はほとんどない。
これが所謂様々なことの原因かもしれない。
自慢どころか、逆に卑下的だが大抵のことは自分の力でやってきた、と書くと、学校の先生や親、親戚、友人、その他多くの人たちの力がなければ今の自分はいません、と書くことはできても、本当に解決されるべき問題に対して、他者は本当に無力だった。
え、じゃあ、思考における尊敬すべきあの人や、離婚して落ち込んでるときにメッセージをくれた人たちは、どうなのか。
いま唯一の深層欲求に従ってこうして言葉をつくりあげることができているのも、間違いなくその方々のおかげである。感謝、とかくと言葉が軽いぐらい、重要な影響をもたらしてくれた。
いますぐ書くことをやめるべきか
ポイントは、理解不可能性。
書くのをやめたところで、思考はとまらないし、むしろ頭のなかでカオスとして渦巻くことを考えれば、その100%の表現など不可能でありながら、整理され片付けられ、新たに何か構築する際のピースとなる。
ポイントは、他者との付き合いにおいて、今回のテーマの、頼るということを、意識的に取り入れた方がよいかどうか。
何で頼れないかというと、頼ると頼られるから、頼られたときに自分が力になれないと、申し訳なくて自分を責めるからだと思われる。
相手の人生を背負うことが怖いのだ。
自分ひとりであれば、最悪のことは死ねばよいだけである。
ところが、他者に対して、取り返しのつかないことをしてしまったら、自分が死んでも取り返しがつかないとしたら。
やっぱり、他者を頼ることは怖いことだ。
極端に考えすぎである
きっと、頼り頼られ、というのは、そんな考えることではなく、きっと、自然にやるものなのだろう。
僕も、最近までそんなこと考えてもいなかったから、きっと、自然に頼らないようにしてきたのだろう。
ただ、やっぱり、不思議なことは、子どもの頃からよくきくこととして、早く大人になりなさいとか、分別をつけなさいとか、自立しなさい、社会人になって一人前だとか。
独立した個として、生きていくことが奨励されている。
他人へ任せてもいいとか、仕事の管理職向けの本を読んで、なるほどなーっと思ったぐらいである。
もっとあげれば、お兄ちゃんだからしっかりしなさいとか、一人前とか、何か一人で成し遂げることではなかったのか。
このブログ自体が頼り
やっぱり、このテーマ、誰かを頼った方がいい、というのは、思慮に値しない。
まず、確認として、例えば存在価値とか、そういったことを話すことは、まずもって必要なくて、むしろ他者を不愉快にさせる可能性がある危険なことだ。
そんな危険なことを、こうして書ける場所があることが、まず、間違いなく、頼りきっている。
そして、僕の表現力と理解可能性による二重の意味において、物理世界に対して頼ることはできない。
