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当ブログの読者の方へと飲み会
2016/06/23 01:25 | Comments(0) | イライラ対処
もう遅い時間だから、思いつくままにダッシュでメモ。
先日の記事とか、暗いなーっと読むと思ったりするけれども、どうか、読者の方は、心配をするとか、一緒に沈んだ気持ちになるとか、とにかく、負の状況にはならないで欲しいと思う。

決して、書いている本人として、人生絶頂楽しい嬉しい幸せだぜ、と感じているわけはないのだけれども、それ(暗い感情)と、書くということとは、全く別次元、といっていいほどのことだ。

むしろ、書いていた方が、よほど、気持ちが落ち着くし、悪い状況(負の感情というものがダメなものだというのであれば)から抜け出すことができるようなものなのだ。


ある女性たちとの飲み会。最近、B6サイズのメモ帳を持ち歩いているが、できる限り早急にメモしておくことが、精神衛生上にも、実用的にも有用であると思った。
そのメモは、プライベートも仕事も、些末なことも重要なことも、とくに気にしない。自分が知らない、新しいことだと思ったら、メモをする。それは、例えば、ある人が、ネコを好きだとか、服飾関連の仕事をしているとか、そんなこともそうだし、本当に心躍ること、感動してすごいな、と思ったこともそうだし、明日仕事で資料のアノ部分を直そうとか、そのレベルであってもよい。

玉石混交。そして、メモは、見返す、という部分もあるが、これのすごいな、と思ったことは、書いてあることが、記憶されるということだ。

逆に、書いていないことが、もう最近は本当に、猛スピードで消えていく。
この記憶力の低下、特に、瞬間記憶力というのか、それとも、中期記憶への移行力の低下なのかは分からないが、いやそもそも、今までもそうだったけれども、気にしていなかっただけなのか、とにかく、そういった心配事が、メモによってある程度解決されるのである。



このブログが「暗い」ということと、メモが何が関係あるのか、というのは、書くまでもないが、メモ的な意味もあるということだ。
そして、感情を掘り下げることが、やはり、会話の「ネタ」になることは間違いない。ある事象について、どう感じ、どのように対応したのか、どう発言したのか、行動したのか、どう考えたのか、そのこと自体が、その人そのものであり、「他者へ興味を持つ人たち」にとっては、面白いと感じる部分なのである。


すぐに忘れてるということ

タイトル、書こうと思ったことと、書いていることがまた違う気がする、そもそも、またスマホで書いていて、しばらく中断してもう一度起動したら消えていた。
本当にこまめに保存しないとだめだな。ネットワーク通信が一時的にきれるのでもダメなのかもしれない。その点は、FC2はローカル環境での文字が一時保存されていたのか、安全性が高かったなぁ。なんとなく、複数のブログが同じアカウントで作成できる、という点以外は、FC2の方が使いやすかった気がする、ということで、また話がズレ。


とにかく、いつも読んでくれてありがとうございます、と思った瞬間に、何だか、申し訳ないなぁ、とも感じたのである。
もちろん無理に読んでもらう必要はないし、もし読んでいただいたとき、暗い気持ちになってもらう必要もなければ、心配してもらう必要もない。

もちろん、気にかけて頂けることは、間違いなく、嬉しい感情なのだけれども、少なくても、書いている自分自身は、楽しんでいる、と規定して読んでもらいたい、ということだ。

それが、現実ワールドにおいて、じゃあ楽しく嬉しく生活できているか、ということは全くもって違っていて、そうでない場面はありながらも、この、書いていること自体は楽しいのだ、というイメージと思う。

なんだろう、これって、ある事象に対して、斜に構えるとか、一歩引いてみるとか、俯瞰してみるとか、そういう物事を客観視できる俺ってカッコイイ、的な、みたいな(笑)。
なのかもしれない、から、当然ながら、あまり表に出せるようなものではない、のだからこそ、こうして、好き勝手書くことができる時間、場所、そして、その場を通ってくれるか、立ち止まってくれるかは分からないが、そういった人たちがいるということは、とても貴重で嬉しいことなのである。

男女交際

もうしばらく忘れてしまったが、新しく連絡先を交換して、そっからどうやって関係を深めていくのだろうか。
そういえば、「理系のための恋愛論」とか読んで、ポイントを整理してできることは実践したりと、そんなことやっていたこともあったものだ、今も連載しているのだろうか。

もう読者へではなく独り言


だから、僕は、卑屈になって引きこもったり、自信喪失して哀しんだりとか、社会を恨んだりとか、周囲の環境を批判したりとか、そういうことを推奨するのではないのであって、決して、「暗い」とか「ネガティブ」とか、そういうものではない……というのは、あくまで僕の中の定義であって、それは、一般に「おかしい」と言われることはあるのだろうが、そういうことに気付かない人もいて先日挙げた記事の中の人はやり玉に挙がっていて可哀想だったが、僕はそれを気付いているから少し上なのだとか、まぁ、こういった思考が同時に起こるので、何が何だか、自分って何だか分からなくなった。

話しがズレた、だから、ネガティブとかいう、というのではなく、努力して、成功して、楽しい思いをして、その上で、じゃあだから何? と言われたとき、どうしようか、ということを僕は考えているわけだ。

そういった、自己との対話、成長、見守り、安心、再構築といったこと、それを、「生きる意味を考える」という表現をすることも可能と思う。

ここで、思考の罠に陥ってはならないのは、自己もまた「総体」であるということだ。


いくら考えても、身体のフィードバックがなければ精神は存在しないし、
自分一人であった場合もまた、精神は沈潜し、やがて枯れ果てるのである。

様々なフィードバック、相互作用というものにおいて、自己は成り立っている、なーんて、したり顔でいっていたら、きっと、そんなことわかってるよ、てか、今更? などと嘲笑されることだろう。

ただ、常に気を付けなければいけないのは、「知識」と、身につくこと、腑に落ちること、人に教えられること、実践できること、は全く別物なのである。

今かってな思いつきだが、このブログはまた、「訓練」であるともいっていいだろう。

ただしい思考、というものが、どこにあるのか、どれにあたるのか分からないけれども、正しい思考を統一し、精進することが、重要に思われる。



だって、これが、30代の男が書いているから嘲笑なのであって、中学生ぐらいでここまでかけたら、すごくないか?(かっこわらい)

大体において、現実ワールドのコミュニティでは、ある一定の基準、が存在するから、その基準に到達しないものは、「レベルが低い」「努力が足りない」とか、排斥や叱咤の対象となるのである。
が、しかし、そうはいっても、人それぞれの基準は、決して、ある一つのコミュニティ内で完結するものではない、このことが、イジメの問題を根本解決する唯一とも思える手段、つまり、コミュニティの再構築や、もしくは逃避という手段なのだけれども、現実的には簡単ではないことである。

そういった意味において、WEB、インターネットという部分は、すなわちそこは、もう自分の家ではなくて、例えば、全裸でキーボードを叩いていたとしても、身体は別として、精神は外の世界へと解き放たれているのである。
だからこそ、閉鎖的コミュニティまたは失敗コミュニティからの、脱出となりえるのである。




まぁ、本来的には、こうした記事を読んで、「この人面白いな! 一緒にこれから生きていきたいな!」と思ってくれるような女の子がいりゃあいーんだけど、それを実現するための、潜在意識への語りかけは、相当困難をアラームしている(笑)




まとめ

・読者の方は無理をされないで欲しい
・B6メモは記憶面も精神面からも有効
・飲み会お疲れ様でした(自分へ)





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残業の末に小学生の記憶
2016/06/21 00:23 | Comments(0) | 対人関係
22時近くまで仕事があると、帰って12時を過ぎる。

10月16日、日曜日が、基本情報技術者試験の受験日だ。

ちょうど、仕事の忙しい時期と重なるが、一発合格したい。

この時間に帰って、勉強をできるようにならないと、合格できないだろう。
いまのところ、一週間に十五分程度の勉強量だ。

資格の有無が、人間の価値ではない、とか、そういった中学生的な、いわゆる何で勉強しなきゃいけないの? 的なことを、僕は思うのではない。

何で勉強を、ということを思ったのは、確かに中学生くらいだったが、それよりも何よりも、何で生きてるんだ、と、実存の危機は小学校高学年からである。

思えば、学校が終わったあと、クラブというか部活というかが始まるまでの、16時半か、17時までの時間が、ものすごく苦痛だった。

児童館みたいなところで、漫画を読めていたが、ああ、そこで金田一少年の事件簿とかみて、怖かったのを覚えているが、その漫画を読んでいる時間も、迫ってくるクラブの時間が、とてつもなく嫌だった。

ずっと封印していた記憶


高校ぐらいから、ログを書き始め、その内容にふれることはやってきた。

が、小学校高学年、4年生の頃に、親友に、死にたいと思ったことある? と、通学路の帰り道、坂の途中で尋ねたとき、まさか、そんなことあるわけないじゃないか、と言われて、ショックを受けた記憶、ここまでは、書いてきた。


そもそも、何故、小学校四年生、10歳の子どもが、死にたいなんて思ったのか、このことを、僕はいまのいままで、しっかり考えたことがなかった。


いちご同盟という小説の冒頭で自殺した少年は、12歳だったか。それより若いのだ。


その10歳以前の記憶は、いま少し考えたが、思い出せない。であれば、僕という自己が生まれたのは、その頃であったか。


僕のことを忘れてしまった、おばあちゃんが、通学路の途中まで一緒に着いてきてくれて、そのことでからかわれて、嫌な気持ちになったというのも、その頃か、もう少し前か。


いま考えると、そこらにいる小学生たちをみていると、到底そのころの僕の気持ちなんて、そんな感情があるなんてわからないくらい、ばか騒ぎして、笑顔で、はしゃいでいる。

そういうのが、小学生という時代なのか。


これらは、不幸自慢なんてことではなくて、フロイトの精神分析の自分でやってみた、みたいなものだ。

まぁ、こうかいても、自慢に聞こえるだけだろう。寝てない自慢みたいなものだ。
周りの人は、あっそ、自己管理ができてないのね、みたいに思うだけという、よくあるそれと同じことのように思えるだろう、それは分かっているが、逆に、今まで四年生に触れてこなかったことが、今回の記事の新しいところ。

自己の発生が死



僕、という存在を意識したのが、その、死にたいと思ったことであるならば、いまなお、生きる意味を探していることも、何ら疑問はない。

さすがに、それはまずいだろうと、意識に蓋をしていたのか。
 
まぁもう、なにも隠すこともない。考えてみよう、まぁでも、小中高と、思い出せる楽しかったことはないな。

高校生の終わりぐらいから、ホームページをつくって、楽しかったりしたけれども、むしろほとんど大学生に近い時期だ。

10歳から18歳の終わりまで、地元の、実家で暮らしていた時期がつまんねぇ時代だったというのは、感謝もして大事な両親や家族に対して申し訳ない気もするのだけれども、まぁ、年齢があがるにつれ、家にいる時間よりも外にいる時間が多くなるのだから仕方がないかもしれない。

とはいえ、これは親とかには見せられないな(笑)


という構造になるのであれば、誰にも相談できず、一人で抱え込んで、自殺してしまう子どもたち、というのも、よく分かる。

何で相談してくれなかったのかと、両親や、親友たちは嘆くかもしれない。けれども自殺した彼らは、むしろ、君たちを大事に思っていたから、相談できなかったのだ。

しかし、その死が、より深い哀しみを与えるだろうことは、思いやれるだけの力がなかったのか、それを考えるだけの余裕がないほど疲れはてていたのか……。



この次元の話は、殆どの人は必要としないのだろう。
にもかかわらず、人間理解とか、コミュニケーションとか、生きる力だとかのたまうひとたちの多いこと。

もう何年も前に、そういうものだとは思っているので、特になにも期待してはいないけれども、掘り下げて書いていけば、やっぱり、他者への期待のなさがあらわれている、このことが、昨日の記事にある、他者を頼る、ことの希薄さになり、頼らないから頼られないみたいな状態となっているのだとしたら、やはり特段、この辺りは考える必要性を感じない。


もよりの駅に着きそう。時間切れだ。目もまたはんびらき。最近身体が疲れてくると、特に目が疲れて、あかなくなってくる。

とりあえず、五分だけは勉強した。

















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休日のカフェで頼ること頼られること
2016/06/19 17:38 | Comments(0) | イライラ対処

たくさんの人に囲まれて


家族連れ、カップル、子どもたち、中学生、老夫婦、休日の楽しそうなひととき。

なにかを、共有すること、他者の人生を背負うこと、それがコミュニケーションであって、他者に思い通りに意思を伝えるというのは、コミュニケーションの表層なのかもしれない。

もっとも、仕事におけるコミュニケーションは、後者が正しい。あとは、できるだけ、気持ちよくなってもらうだけだ。



誰かに相談されたことはあるか



色々情報検索していて、ぐさっと、はっとなったのは、他者から相談された経験が少ないということだ。

仕事は当然別として、プライベートにおいて、なにか重大な人生のイベントについて、どうしたらよいか、尋ねられたという経験はないかもしれない。
いやいや、小さなことでも、何かあるかと考えても、でてこない。



そういう意味では、僕はとても寂しい人間なのかもしれない。

そして確かに、あまりそういったことを望んだこともなかった。心から欲したことでなければ、現象化することはあまりないのだ。


頼りかた


なるほど、そう考えると、そもそも、他者を頼る、ということが、僕はほとんどない。

これが所謂様々なことの原因かもしれない。
自慢どころか、逆に卑下的だが大抵のことは自分の力でやってきた、と書くと、学校の先生や親、親戚、友人、その他多くの人たちの力がなければ今の自分はいません、と書くことはできても、本当に解決されるべき問題に対して、他者は本当に無力だった。

え、じゃあ、思考における尊敬すべきあの人や、離婚して落ち込んでるときにメッセージをくれた人たちは、どうなのか。

いま唯一の深層欲求に従ってこうして言葉をつくりあげることができているのも、間違いなくその方々のおかげである。感謝、とかくと言葉が軽いぐらい、重要な影響をもたらしてくれた。

いますぐ書くことをやめるべきか



ポイントは、理解不可能性。

書くのをやめたところで、思考はとまらないし、むしろ頭のなかでカオスとして渦巻くことを考えれば、その100%の表現など不可能でありながら、整理され片付けられ、新たに何か構築する際のピースとなる。


ポイントは、他者との付き合いにおいて、今回のテーマの、頼るということを、意識的に取り入れた方がよいかどうか。


何で頼れないかというと、頼ると頼られるから、頼られたときに自分が力になれないと、申し訳なくて自分を責めるからだと思われる。

相手の人生を背負うことが怖いのだ。

自分ひとりであれば、最悪のことは死ねばよいだけである。

ところが、他者に対して、取り返しのつかないことをしてしまったら、自分が死んでも取り返しがつかないとしたら。

やっぱり、他者を頼ることは怖いことだ。


極端に考えすぎである



きっと、頼り頼られ、というのは、そんな考えることではなく、きっと、自然にやるものなのだろう。

僕も、最近までそんなこと考えてもいなかったから、きっと、自然に頼らないようにしてきたのだろう。


ただ、やっぱり、不思議なことは、子どもの頃からよくきくこととして、早く大人になりなさいとか、分別をつけなさいとか、自立しなさい、社会人になって一人前だとか。

独立した個として、生きていくことが奨励されている。


他人へ任せてもいいとか、仕事の管理職向けの本を読んで、なるほどなーっと思ったぐらいである。

もっとあげれば、お兄ちゃんだからしっかりしなさいとか、一人前とか、何か一人で成し遂げることではなかったのか。



このブログ自体が頼り


やっぱり、このテーマ、誰かを頼った方がいい、というのは、思慮に値しない。

まず、確認として、例えば存在価値とか、そういったことを話すことは、まずもって必要なくて、むしろ他者を不愉快にさせる可能性がある危険なことだ。

そんな危険なことを、こうして書ける場所があることが、まず、間違いなく、頼りきっている。

そして、僕の表現力と理解可能性による二重の意味において、物理世界に対して頼ることはできない。

















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何かに追われているときは書くこと
2016/06/19 08:00 | Comments(0) | 生きる意味
途中まで書いていてまた消えてしまった。忍者ブログの下書きは自動保存してくれないから、こまめな保存が必要そうだが……

日曜日に仕事へ。
プライベートでも予定が多いため、何だか落ち着かない。といっても、たかだか、8月までの予定が主である。それを過ぎたら分からない。

仕事は、やることが多いが、明確に締め切りがないものが多く、考える、というか、関係部署、機関との調整ごとが多いため、落ち着かない。

明確に答えがある仕事がよいとは思うが、Aが直前でZになることもしばしば。



夢をみた、また、過去の夢だ、それは中学、高校のころ。

やっぱり、昔は、小学校高学年以降含めてよいだろうが、ある組織、コミュニティが、生活、人生の枠組みだった。
そこは不快なことが多かったため、そこからの離脱は、誰にきいたこともなく死が浮かぶのは、自然なことだ。

だから、子どもたちに対して、例えばいじめとか、陰惨な状況において、それが決して絶対的な場所、コミュニティではないのだと、教えてあげることは重要だ。

代替の場所はあるが見つけられるか



死んだらいけない、生きてるとよいことがあるよ。

ここまでは、誰だって言える励まし。無責任な、という形容詞をつけてもいいかもしれない。


問題は、では、果たして、その代替の場は、どこにあるのか、そして、その場でも本当に、他でもない、この自分が、やっていけるのか、このことを、どこまで信じさせられるのか、そこに、尽きる。

誰とでも仲良くする



人間嫌い、とはダメなことなのだろうか。
休日は必ず誰か他者と共にいなければならないのか。

一人の時間が大事、とかいわれるが、矛盾したことが推奨される。

それはまぁよいが、その一人の時間とは、すなわち、他者と共に歩むための準備時間としての、従属した関係に過ぎないのか。


ところで、先日、ヘルマンヘッセさんすごい! と書いたけれども、実はヘッセさんが、超絶にリア充で、自己に疑問など感じていない人だったらどうだろう。

なんだか、騙された、という気になるのだろうか。

そうはならない構造である。何故ならば、問題の所在は、あくまで自己であり、実存であるからだ。



こんなこと、十代のうちに完結させておけよ、と、たいていの大人たちはいうだろう。

それはしかし、今後、如何なる壁や問題が僕の前に立ちはだかったとしても、なんのことはないだろう。

今までの不安がある意味解消されている。それは、その他現象化する問題は、決して、自己に関する問題以上にはならないからだ。


例えば、死病に憑かれたとしても、それはきっと、現象化する痛みに対して苦しむことだろうが、自分の存在がなんだったのかと、生きてきた意味があったのか、なにか成し遂げることができたのか……と、実存による悩みにしかならないのである。


人は何故生きるのか



そんなことを一秒でも考えている時間があったら、英単語のひとつでも覚えろ、と言われてきた。

でも、英単語を覚えることに使った時間と、実存に悩み苦しんだ時間、それはどちらが優位とか、関係ないのではないか。

もちろん、英単語を覚えて、県内トップの高校に進学できたかもしれない、しかしそれは、ますます自己とはなにかを分からなくした原因の一つであったのではないだろうか。


いやいや、勉強することを否定するわけではない、勉強したことを後悔するわけでもない。

ましてや、勉強より大切なものがあるとか、人間関係を大切にとか、そんなことをいうわけでもない。



ここで、死生観が異なる時代や地域を挙げても、意味がない。

むしろ、過激なテロリズムは、自爆もいとわないことは、その教義が、個においても存在規定に他ならないのである。

いわゆるリア充、という、現実世界がすべて正しいとする人々にとって、テロリズム理解することができない。

そんな、死ぬよりも今を楽しんだ方がいいじゃん!

一見正しいように思えるこの言説は
すでに人間存在としての前提を違えているため、一切かみあうことはない。

根底となる前提世界がうつろいでいく不確かなものであれば、一時の快楽など何ら救いにはならないのである。


お金目当てで兵士として参加しようとする人々はまた異なる、それらは、現実の豊かさを前提としているだけで、リア充たちと変わらない。
現時点における満たされている度合いの違いた対して関係ない、というわけで、リア充、という表現は正しくないのだが、ちゃんと書くと、物理世界肯定派と、精神世界肯定派、とかなり、それはそれでどうか。

物理世界の懐疑と精神世界の肯定


僕はべつに、精神世界オンリーを信じているわけではない。

ただ、いずれ誰にも訪れるだろう、終わりから考えていけば、果たして何が正しく、何をしていけばいいのか、よく分からなくなる、ということだ。

初恋と幸せ


初めて好きになった人と結婚し、子どもに恵まれ幸せな人生を過ごす。

多くの人がこんなこと得られはしない。代替の欲求により生きる。

でも、その欲求とはどこからやってくるのか。


僕が唯一今、主体的などではなく、自然に沸き上がる欲求は、こうして書くことである。

ゲームでさえも、たまにするが、やろう、と思ってやっている感じがする。


昔、それこそ夢に見た時代は、好きになった人と結ばれることはない、一緒に生活し生きていくことはできない、触れることもできない、抱き合うこともできないのだと、失望していた。

そんなことはない、恋愛の作法を学び、自信をもって、ポジティブな考え方をして、行動的になって、明るい話をするようにすれば、彼女だってできるし、結婚だってできるのだ。

この実感は、どんなにたくさんの人から聞こうが、自分自身の容姿や性格に自信がないひとは、一切信じられるものではない。

一度信じて、頑張っても、裏切られることが続けば、自分はもうダメなんだと、立ち上がることができなくなる。

この構造は、恋愛でも仕事でも、何でも同じ。

難しいのは、ヘッセさんが看破していて僕が感動したのは、上のような自信をもって頑張りましょう、というのは、決して、教えられてできるものではないのだ。

自信を得た先の話



と、ここまでは、いつも書いていることの表現の形態の一種。

問題となるのは、その、自信があったとして、自分はできる、と思ったとしても、新たな問題が生じた、ということだ。

それは、欲求についてである。

頑張れば成し遂げられる。

彼女だって作れるし、友達だって作れる、仕事だってできて頼られてお金ももらえる。


で、だからどうした?

という、傲慢限りない疑問。

大抵の現象世界においては、あれがない、これが足りない、となるので、その無いものを求め続けることが人生の主軸になる。

あるときは諦めて、あるときは手に入って、あるときは失って、喜んだり哀しんだり怒ったりしているうちに、脳は劣化していき、自分のことも周りのことも分からなくなって、死に至るのである。


こういった表現が、なんか他の本とか、誰か他の人の言葉だったらいいのだけれども、完全僕のオリジナル、というところが、なんとも、唯一価値があることかもしれない。  つまり、困難である実感の表現化という点では、成功してるわけだ。


別に、全能感を得ているわけではないけれども、思い付く欲求の実現可能性の肯定、という面では、完全に潜在意識レベルで正、となっているのだろう。


とか書いていると、僕を含むルックスがあまりよくない人たちからも批判されるし、当然物理世界を肯定する人たちからは排除されるし、孤立無援となるので、こういったことは思っても書いてはいけないよ、という教訓的な意味で、甚だ皮肉的に役に立つ記事になった気がする。



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ヘルマンヘッセ「シッダールタ」
2016/06/17 23:14 | Comments(0) | 生きる意味
明日は、4時起きなのだけれども、この感動は、メモしておかなければならない。

ヘルマン・ヘッセのシッダールタという小説を読んで、心が震えた。
これも、かなり前に購入したものだ。アマゾンで買ったから購入した日も確認できるだろう。ただ、そのときも、かなり感動したのだけれども、心が濁っていたからなのか、今回ほどの感情の動きはなかったのではないだろうか。

シッダールタという青年(釈迦牟尼とは別人。ヘルマンヘッセの創作)と、仏陀(こちらは所謂お釈迦さま)との対話のシーン。
頂上決戦のようだ。もちろん、論破するとか、論争をするとか、そういうことではない。むしろ、そうした喜怒哀楽といった感情的な部分とは一切かけはなれた、崇高な次元での対話。

そして、僕は、その二人の言っていることが、ひどく、回りくどいような、僕がこうやって書いているような、遠回しな表現によって表されているのだけれども、僕はそれが、その真意が、明瞭に明白に透き通るように心に沁みわたってきたのである。

結果として、シッダールタは、仏陀に帰依せず、祇園精舎を後にするのである。しかしそれは、仏陀の教えに、反旗を翻したのではない。仏陀の教えに心から心服し、仏陀という人を無上の聖者として心酔したのである。

それがゆえに、彼、シッダールタは、仏陀のもとを去ったのである。


シッダールタの最愛の友、ゴーヴィンダは、仏陀に帰依した。シッダールタは、仏陀のことを認めてなお、帰依することができなかった。それは、一つの、誤りを、仏陀の教えの中に見出したからだ。



それは、その誤りとは、決して、仏陀の教えの、仏陀その人の誤りではない。
その誤りとは、畢竟、「悟りに到達するというそのこと」自体である。

宗教を研究する社会学者の橋爪氏は、それを、仏教の言語ゲームといったのではなかったか。
つまり、誰もが、悟りとは何かを知らないが、修業により悟りをえられると、「信じている」のである。

これが、仏教が、神という概念もなしに、「信じる」という宗教としての要素を備えている部分である。


話しがそれた。
そろそろ、僕自身の言葉で書いていこう。

結局、仏陀その人はすごい人だけれども、「他者からの教え」によって、自分自身を変えることなんて、できないんじゃないか、ということだ。

自我。

仏陀は、様々な修行によって悟りに至った。けれども、私自身、自我をもった、自己をもった、「私」という存在、それが、果たして涅槃に至ることができるのか、それは、聖者の教えにおいても示されていない、そして、決して示されることはないだろう、シッダールタは、そう感じたのだ。



強引で、傲慢な結論を書いて、そろそろ寝よう。

つまり、僕が最近から強く意識している、「実感」ということ。

この実感こそが、やはり、重要なのだと、思う。



僕は、仏陀や、シッダールタのように賢くないから、まだまだインプットが足りないと思う。

いやはや、彼らのような素晴らしい人でも、相当の苦悩を経るのである。僕が、中途半端に生活を送りながら生きている人間が、一体、「真理」(ここでいう真理とは、万物の普遍かつ根源という意味ではなく、主体的な意味においてのモノ)にたどり着くことができるのだろうか。

この、時間的制約、限界性について、僕は恐れている。

けれども、シッダールタが、仏陀のもとを去ったということ、そのことが、僕に、やはり逃げてはならないのだと、そう教えてくれた気がする。
いやいや、教える、なんてことは、この世の中に存在しないのだ。主体的につかみ取った、「実感」が、唯一存在するのである。


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