頼る人もいない、頼ろうとも思えない、そんな風に書いた先日。
昨日の記事を読んでみたが、書いているときは、なにか面白いことを書こうとか、読者を想定なんてしていなかったが、面白かった。
未来思考における再帰的な現時点性の肯定、というのが、よく表現されていると思った。
基本的に、苦しくても頑張れるのは、この構造がある。
と、書くと、僕はすぐにその反論を想定する。たとえば、厳しい教育をほどこされる、幼い子ども。
または、激しい上司のもとで過ごす部下、などは、未来思考でやりきっているとはいえないのではないか。
恐怖で思考が支配されている状態は、他の解決方法があるだろう。
問題は、ごく一般的な状況における生活において、どう未来思考をはたらかせているのか、ということだ。
思考は、現在、過去、未来のどれかに指向している。
基本的に、思考の状態は、現時点しかない。
ただし、時間の経過に対して、過ぎた方向を向けば過去思考であり、現在の経過時間単位よりも先に方向をむければ、未来思考となる。
厳密には、例えばある課題が発生したとき、類似の問題に対応する型を、過去の経験や記憶から思いだし、現時点目の前にある課題に当てはめることを考える、そして、その結果として問題がどう解決するのかを考える。
これらは、過去から未来に向けた思考をおこなっているわけだ。
ゆえに、厳密な思考分類は意味がないことに注意する必要がある。
そのうえで、未来思考の再帰性を考えるとはどういうことか?
現時点が苦悩であり、未来が希望であったとき、再帰的に現時点性に希望がもたらされる。
一方、現時点が楽しくても、未来が暗ければ、徐々に現時点は苦悩へと変わっていく。
過去に苦悩であり、現在が楽しければ、未来もまた楽しいだろうとの推測がおこる、いやしかし、この場合は、過去の苦悩がまた起こるのではとの恐怖により、未来の暗さから現時点が苦悩となることもある。
しかし、これをいってしまうと、人生一度も苦悩を味わうべきではない、ということになる。そんなことは不可能だ。
落ち込むこともある、でも、希望、楽しいこともある、このバランスが人生であり、生きるということだ。
頭をもう一度、しっかりと、考えを戻してみよう。
実感を大事にしなければいけない、いまぼくはどういった状態なのか。
そして、ぼくは、いま、何をしたら正しいのか、もしくは楽しいのか。
落ち込んだときの対処法として、自分のしたいことをたくさんあげてみる、というのがある。
それをしたいが、いま、したいことが浮かばない。
唯一、書いていたい、汗でべとべとするからお風呂に入りたいとか、そんなレベルだ。
まあそれで人生満足ならよいが、昨日から表現している空虚さや無気力さってのが、どう扱っていいか分からない。
ここで、また誰かに相談すると、離婚して落ち込んでしまっているのだ、大丈夫だよ、時間が解決してくれるよ、とか優しくしてくれるのだ。
そうではない、確かに加速したかもしれないが、そもそも、同じようなことを半年もそのもっと前から書いていたではないか。
逆に、いや、逆でもないかもだが、2008年とかその辺でたてた、人生の五年目標
が達成されて、自分というのが行方不明になっちまったのかもしれない。
例えば、このブログ丁寧にみてくれている方が何人かいるが、これすらなかったとき、いったい、エヴァのLCLの海のように、自己が溶け出してしまうというような、不安定な自己を、どう安定を保てばよいのだろう。
ここ、この場所が精神安定機構としてはたらいているのである。
この構造は、とても、ふつう、的であり、本当は、恋人とか家族とか、友人とか仕事とか趣味とか、なにかそういったものが、もしくはその複合的に自己を支えているのである。
ぼくはどうも、それらどれらにも所属していつつ、自己をコミットできていないような気がする。
マズローの欲求説のように、どこか、所属とか承認とかないと、人の心は不安定になるのだ。
認められたいとしたら、こうやってテキトーにかいていることが、やっぱり、面白いなーって感じてもらえることだ。
でもこの記載たちは、世界とのズレ、を欲求の基礎としているのであり、果たして、幸福論的に正しいのか、ってのは疑問。
もっとも、そうはいっても、
現時点的に、思考がとまらないとしたら、逃げられるものではない。
むしろ、思考がまったくでてこなくなるまで、徹底して書く必要があるだろう。
それは、同じことの繰り返しでも構わない、こんなに同じようなことを毎日のように書いてきてなぉ、まったく同じ表現になることはない。
何かの記事を引用したら、それで僕の心のすべてを表現できた、と、そう実感できるものはない。
であれば、まだ足りない、僕はまだ、自分を偽っている、自分を知っていない、自分を認めていない、自分を好きでない、そういった可能性があるのだ。
そこまで、自分を見つめる必要はないと、誰しもいうだろう、僕もむしろそう思う、けれども、それでも、
頑張る、努力する、賭ける、こうした、未来に向けた思考をストップさせることが重要だという主張である。
これは、みるひとがみれば、よくある、いわゆるスローライフ的な発想であり目新しいものではない。
ただ、先日の記事のごとく、相対表現に実体はない。
つまり、頑張る、という表現も、これにとらわれてしまうと、人生を、生きる意味を見失う原因になる。
つまり、頑張るとか、頑張らないとか、その表現に耳を傾けないようにするということだ。
昨日の記事を読んでみたが、書いているときは、なにか面白いことを書こうとか、読者を想定なんてしていなかったが、面白かった。
未来思考における再帰的な現時点性の肯定、というのが、よく表現されていると思った。
基本的に、苦しくても頑張れるのは、この構造がある。
と、書くと、僕はすぐにその反論を想定する。たとえば、厳しい教育をほどこされる、幼い子ども。
または、激しい上司のもとで過ごす部下、などは、未来思考でやりきっているとはいえないのではないか。
恐怖で思考が支配されている状態は、他の解決方法があるだろう。
問題は、ごく一般的な状況における生活において、どう未来思考をはたらかせているのか、ということだ。
未来思考とは
思考は、現在、過去、未来のどれかに指向している。
基本的に、思考の状態は、現時点しかない。
ただし、時間の経過に対して、過ぎた方向を向けば過去思考であり、現在の経過時間単位よりも先に方向をむければ、未来思考となる。
厳密には、例えばある課題が発生したとき、類似の問題に対応する型を、過去の経験や記憶から思いだし、現時点目の前にある課題に当てはめることを考える、そして、その結果として問題がどう解決するのかを考える。
これらは、過去から未来に向けた思考をおこなっているわけだ。
ゆえに、厳密な思考分類は意味がないことに注意する必要がある。
そのうえで、未来思考の再帰性を考えるとはどういうことか?
現時点が苦悩であり、未来が希望であったとき、再帰的に現時点性に希望がもたらされる。
一方、現時点が楽しくても、未来が暗ければ、徐々に現時点は苦悩へと変わっていく。
過去に苦悩であり、現在が楽しければ、未来もまた楽しいだろうとの推測がおこる、いやしかし、この場合は、過去の苦悩がまた起こるのではとの恐怖により、未来の暗さから現時点が苦悩となることもある。
しかし、これをいってしまうと、人生一度も苦悩を味わうべきではない、ということになる。そんなことは不可能だ。
落ち込むこともある、でも、希望、楽しいこともある、このバランスが人生であり、生きるということだ。
閑話休題の反対
閑話休題とは、本筋の説明に戻るときに使うが、逆に、余談に入りたいときの四字熟語ってあるのだろうか。さて。頭をもう一度、しっかりと、考えを戻してみよう。
実感を大事にしなければいけない、いまぼくはどういった状態なのか。
そして、ぼくは、いま、何をしたら正しいのか、もしくは楽しいのか。
落ち込んだときの対処法として、自分のしたいことをたくさんあげてみる、というのがある。
それをしたいが、いま、したいことが浮かばない。
唯一、書いていたい、汗でべとべとするからお風呂に入りたいとか、そんなレベルだ。
まあそれで人生満足ならよいが、昨日から表現している空虚さや無気力さってのが、どう扱っていいか分からない。
ここで、また誰かに相談すると、離婚して落ち込んでしまっているのだ、大丈夫だよ、時間が解決してくれるよ、とか優しくしてくれるのだ。
そうではない、確かに加速したかもしれないが、そもそも、同じようなことを半年もそのもっと前から書いていたではないか。
逆に、いや、逆でもないかもだが、2008年とかその辺でたてた、人生の五年目標
が達成されて、自分というのが行方不明になっちまったのかもしれない。
落ち込みが足りない
ということで、いま、実感として思ったのは、甘えているな、ってことだ。例えば、このブログ丁寧にみてくれている方が何人かいるが、これすらなかったとき、いったい、エヴァのLCLの海のように、自己が溶け出してしまうというような、不安定な自己を、どう安定を保てばよいのだろう。
ここ、この場所が精神安定機構としてはたらいているのである。
この構造は、とても、ふつう、的であり、本当は、恋人とか家族とか、友人とか仕事とか趣味とか、なにかそういったものが、もしくはその複合的に自己を支えているのである。
ぼくはどうも、それらどれらにも所属していつつ、自己をコミットできていないような気がする。
マズローの欲求説のように、どこか、所属とか承認とかないと、人の心は不安定になるのだ。
認められたいとしたら、こうやってテキトーにかいていることが、やっぱり、面白いなーって感じてもらえることだ。
いつまでもふつうになれない
でもこの記載たちは、世界とのズレ、を欲求の基礎としているのであり、果たして、幸福論的に正しいのか、ってのは疑問。
もっとも、そうはいっても、
現時点的に、思考がとまらないとしたら、逃げられるものではない。
むしろ、思考がまったくでてこなくなるまで、徹底して書く必要があるだろう。
それは、同じことの繰り返しでも構わない、こんなに同じようなことを毎日のように書いてきてなぉ、まったく同じ表現になることはない。
何かの記事を引用したら、それで僕の心のすべてを表現できた、と、そう実感できるものはない。
であれば、まだ足りない、僕はまだ、自分を偽っている、自分を知っていない、自分を認めていない、自分を好きでない、そういった可能性があるのだ。
そこまで、自分を見つめる必要はないと、誰しもいうだろう、僕もむしろそう思う、けれども、それでも、
死なないためには
末恐ろしい見出しタイトルだが、ひとつ、毎日を生きていくためには、頑張らないことだと思ったわけだ。頑張る、努力する、賭ける、こうした、未来に向けた思考をストップさせることが重要だという主張である。
これは、みるひとがみれば、よくある、いわゆるスローライフ的な発想であり目新しいものではない。
ただ、先日の記事のごとく、相対表現に実体はない。
つまり、頑張る、という表現も、これにとらわれてしまうと、人生を、生きる意味を見失う原因になる。
つまり、頑張るとか、頑張らないとか、その表現に耳を傾けないようにするということだ。
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答えがないのは、大変なことだ。
かといって、日々ルーチンだと大変といわれたりする。
つかれた、これからかえりだ。
魅力的な人間になる必要がある。
魅力的なとは、何か特技をもっていることだ。
何か夢中になれるものをもっていることだ。
否。
他愛ない、テレビ番組についてきゃあきゃあと話せるならばそれでもいい。
問題は、僕は、何か、他者に話せることがないことだ。
いや、いま、それが書きたいのではない、もうとにかく、本当に、なにもかもが、やる気というか、力が抜けていくような感覚。
なんと、表現したらいいのだろう、なんだか、底無し沼でもがきながら、徐々に埋まっていくようだ。
先日書いた、無気力病か。やる気は起きないが、頑張れ頑張れと声がする。
先が見えない不安、ああ、でも、いまふと思い出した。
これは、大学四年あたりの、授業の一貫の、インターンのような実習のとき、仕事は夜遅くまで続き、帰っても準備がいろいろとあったり、気持ちがまったく休まらなかった。
もし、仕事をするようになったら、毎日こんなかんじなのか、何がたのしいんだ、全然希望もわかない、逃げ出したい、どこへ? 仕事は多い、プライベートなんてない、誰も頼りになら無い……
そういえば、そんな感じな時代があったきがする。
そのころは、もうこんな書く場所も気力もなかったが、いまこうして書いているのは、まだ余裕があるからか。
子どもは欲しいと思いながら、それに対しての、例えば合コンとか、婚カツサイトへの登録とか、友人の紹介をうけようとか、それらと一切やる気がしない。
というのは、最初の、魅力的な人間にならねば、という要請である。
ありのままの自分、それを愛してくれる人を探せばいいじゃない、そのとおり、ところが、いま、僕は、ありのままの自分というのも分からなくなっている。
俺は、誰だ?
とにかく多くの人たちとふれあい、自分というものを見つめ直していこう!
なんじゃそりゃ、いまさら、何を言うのか、十分人付き合いしてきたではないか。
いや、もっと、ふつう、の人はたくさん触れあっているのだ、君がふつうになるには、まだ足りないのだ。
うるせぇ、ふつうってなんだ、俺はふつうじゃないってのか。
ふつうじゃない、ふつうのひとは、こんなこと書いたりしない、こういう時間を、娯楽や自己研鑽にあてて、どんどん魅力的な人間になっていっている。
じゃあどうしたらいい、平日は最近仕事でいつもこれぐらいの時間だ。休日はほとんど、知人とでかけたり会ったりする予定でうまっている。いまの生活でこれ以上どうしたらいい?
とにかくまだまだできることがある、できることをしないで、諦めるのは、君の信条に反するのではなかったのか?
大きな誤りがある考えだ。
確かに、未来思考はじゅうようだ、しかしそれは、現時点での苦労や努力が、未来で成果を結ぶ、と信じられることによる、再帰的な現時点性の肯定であり、楽しみである。
いまの自分は、その未来がみえず、かといって現時点性の肯定ができるほどの元気もない。
生きたくもない、死にたくもない、ゾンビのような状況だ
ああ、うるさい、なら、酒だ。酒でものんで、泥酔して余計なことをわすれてしまえばいい。
愚かしい、酒を飲みすぎると気分が悪くなることはよくわかっているはずだし、相当な量も必要だ。
ゲームの時間は人生の無駄とかよくきくけれども、結構、人生につなぎとめてくれる意味で、重要なものだと思うなぁ。
こういったこと書いてると、若いうちに多くの経験をしなかったからだとか、勉強がたりなかった、努力がたりなかった、まぁそんな非難ばかりになるだろう。
これが、十代の少年なら、思春期だねぇと、保護の対象にすらなるかもしれない。
気持ちの悪い、いい大人が、こんなんでは害悪でしかないだろう。
ところが、僕は少なくても、その若いうちからこんなようなことを考えざるえなかったし、経験や努力的なことも、十分にやってきた。この、十分というのは、所詮比較概念になると、どれほどの量かは無意味になるから、十分に、としか表現のしようがない。
たとえば、努力が足りないから、もっと頑張れ、といってみれば、その空虚さがみにしみる。
それに、いわれなくても、むしろ、自分自身に、常に頑張れ頑張れと言われるのだ。
ああ、ほんとうに、もう、疲れる、疲れた。
いま、家にたどり着いたが、それで例えば、おかえり!今日も遅くまでお疲れさま!
といって迎えてくれる彼女でもいたらどうだろう、少しは元気になるだろうか。
なる気がする、でも、そんな可愛い子に対しても相手をする気力がわかない。
明日の打ち合わせとか気がかりだし…
他者に頼らないのが、やっぱりよくないのか。
よく考えたら、まあ、離婚からまだ2か月過ぎていないけれども、未だ、仲の良い友人たちにも、話しをしていない。というのは、まぁ、結婚式とか出てもらっていて、何だか申し訳ない、という気持ちが強いってのもあるんだけれども……。
なんだか、これが、俺の悪いところな気がするが、何か問題が発生したとき、誰かに丸投げしようとは思わないんだよな、相談は当然するんだけれども、最終的には、自分が解決しなければいけない、と思ってしまう。
任せることは任せる、ってのが、仕事でも重要ではあるのだから、これは課題と思う、のだが、そもそも、新規事業の開拓の仕事とか、そもそも後輩がいない部署だとか、あんまり指導されたことも指導したこともないかもしれない、もちろんゼロではないが……。
もちろん、誰か知り合いを紹介してもらうとか、有意義な時間になるだろうと思いつつも、そもそも、今、自分がどうしたいのか、それすら分からないときに、友人など他者と会話して、どうなるというのか。
実際、やってみたこともあって、まぁ数十分話をしていると、「それで、お前はどうしたいんだ?」とか、そういう話に向かっていく。「自分のしたいようにするのが一番だよ!」とか、励ましてくれたり、うんうん、優しい人たちだ。
いやでも、結局、どうしたらいいか、分からなくなるという構造。
だから、こうやって書いているのは、間違いなく、自分のためというのがある。いくら、きれいごとで、誰かの役に立ちたい、なんてブログの目的を書いたところで、いやまぁそれはそれで本気でそう思っているんだけれども、自分を知るためにやってるのが大きなウェイトだと思う。
でもなー、分からないなぁ。
とにかく、帰りの電車の中で、ものすごい疲労感でつぶされそうになるのは、回避したいと思う。
かといって、日々ルーチンだと大変といわれたりする。
つかれた、これからかえりだ。
魅力的な人間になる必要がある。
魅力的なとは、何か特技をもっていることだ。
何か夢中になれるものをもっていることだ。
否。
他愛ない、テレビ番組についてきゃあきゃあと話せるならばそれでもいい。
問題は、僕は、何か、他者に話せることがないことだ。
いや、いま、それが書きたいのではない、もうとにかく、本当に、なにもかもが、やる気というか、力が抜けていくような感覚。
なんと、表現したらいいのだろう、なんだか、底無し沼でもがきながら、徐々に埋まっていくようだ。
先日書いた、無気力病か。やる気は起きないが、頑張れ頑張れと声がする。
先が見えない不安、ああ、でも、いまふと思い出した。
これは、大学四年あたりの、授業の一貫の、インターンのような実習のとき、仕事は夜遅くまで続き、帰っても準備がいろいろとあったり、気持ちがまったく休まらなかった。
もし、仕事をするようになったら、毎日こんなかんじなのか、何がたのしいんだ、全然希望もわかない、逃げ出したい、どこへ? 仕事は多い、プライベートなんてない、誰も頼りになら無い……
そういえば、そんな感じな時代があったきがする。
そのころは、もうこんな書く場所も気力もなかったが、いまこうして書いているのは、まだ余裕があるからか。
子どもと生き甲斐
いやほんと、子どもが欲しいな、身体は健康で思考も健全ながら、やる気が、生きる気が、起きない、といいつつ、積極的に死のうとするわけではなく、なにもしたくないわけでもなくむしろ、頑張れ頑張れと心の声がきこえつつも、何で頑張る必要があるのだと無気力を呼び起こす声も聞こえる。子どもは欲しいと思いながら、それに対しての、例えば合コンとか、婚カツサイトへの登録とか、友人の紹介をうけようとか、それらと一切やる気がしない。
というのは、最初の、魅力的な人間にならねば、という要請である。
ありのままの自分、それを愛してくれる人を探せばいいじゃない、そのとおり、ところが、いま、僕は、ありのままの自分というのも分からなくなっている。
俺は、誰だ?
とにかく多くの人たちとふれあい、自分というものを見つめ直していこう!
なんじゃそりゃ、いまさら、何を言うのか、十分人付き合いしてきたではないか。
いや、もっと、ふつう、の人はたくさん触れあっているのだ、君がふつうになるには、まだ足りないのだ。
うるせぇ、ふつうってなんだ、俺はふつうじゃないってのか。
ふつうじゃない、ふつうのひとは、こんなこと書いたりしない、こういう時間を、娯楽や自己研鑽にあてて、どんどん魅力的な人間になっていっている。
じゃあどうしたらいい、平日は最近仕事でいつもこれぐらいの時間だ。休日はほとんど、知人とでかけたり会ったりする予定でうまっている。いまの生活でこれ以上どうしたらいい?
とにかくまだまだできることがある、できることをしないで、諦めるのは、君の信条に反するのではなかったのか?
大きな誤りがある考えだ。
確かに、未来思考はじゅうようだ、しかしそれは、現時点での苦労や努力が、未来で成果を結ぶ、と信じられることによる、再帰的な現時点性の肯定であり、楽しみである。
いまの自分は、その未来がみえず、かといって現時点性の肯定ができるほどの元気もない。
生きたくもない、死にたくもない、ゾンビのような状況だ
ああ、うるさい、なら、酒だ。酒でものんで、泥酔して余計なことをわすれてしまえばいい。
愚かしい、酒を飲みすぎると気分が悪くなることはよくわかっているはずだし、相当な量も必要だ。
熱中できるゲーム
思い出した、熱中できるゲームがないときも、こういった状況になりがちであった。ゲームの時間は人生の無駄とかよくきくけれども、結構、人生につなぎとめてくれる意味で、重要なものだと思うなぁ。
こういったこと書いてると、若いうちに多くの経験をしなかったからだとか、勉強がたりなかった、努力がたりなかった、まぁそんな非難ばかりになるだろう。
これが、十代の少年なら、思春期だねぇと、保護の対象にすらなるかもしれない。
気持ちの悪い、いい大人が、こんなんでは害悪でしかないだろう。
ところが、僕は少なくても、その若いうちからこんなようなことを考えざるえなかったし、経験や努力的なことも、十分にやってきた。この、十分というのは、所詮比較概念になると、どれほどの量かは無意味になるから、十分に、としか表現のしようがない。
たとえば、努力が足りないから、もっと頑張れ、といってみれば、その空虚さがみにしみる。
それに、いわれなくても、むしろ、自分自身に、常に頑張れ頑張れと言われるのだ。
ああ、ほんとうに、もう、疲れる、疲れた。
蛇足という追記
いま、家にたどり着いたが、それで例えば、おかえり!今日も遅くまでお疲れさま!
といって迎えてくれる彼女でもいたらどうだろう、少しは元気になるだろうか。
なる気がする、でも、そんな可愛い子に対しても相手をする気力がわかない。
明日の打ち合わせとか気がかりだし…
他者に頼らないのが、やっぱりよくないのか。
よく考えたら、まあ、離婚からまだ2か月過ぎていないけれども、未だ、仲の良い友人たちにも、話しをしていない。というのは、まぁ、結婚式とか出てもらっていて、何だか申し訳ない、という気持ちが強いってのもあるんだけれども……。
なんだか、これが、俺の悪いところな気がするが、何か問題が発生したとき、誰かに丸投げしようとは思わないんだよな、相談は当然するんだけれども、最終的には、自分が解決しなければいけない、と思ってしまう。
任せることは任せる、ってのが、仕事でも重要ではあるのだから、これは課題と思う、のだが、そもそも、新規事業の開拓の仕事とか、そもそも後輩がいない部署だとか、あんまり指導されたことも指導したこともないかもしれない、もちろんゼロではないが……。
でも相談ってどうするのか
と、客観的に自分を見ようとする面は、自分の長所と思いつつも、「離婚しました~」っといったところで、それを友人たちに言って、どうするのか。もちろん、誰か知り合いを紹介してもらうとか、有意義な時間になるだろうと思いつつも、そもそも、今、自分がどうしたいのか、それすら分からないときに、友人など他者と会話して、どうなるというのか。
実際、やってみたこともあって、まぁ数十分話をしていると、「それで、お前はどうしたいんだ?」とか、そういう話に向かっていく。「自分のしたいようにするのが一番だよ!」とか、励ましてくれたり、うんうん、優しい人たちだ。
いやでも、結局、どうしたらいいか、分からなくなるという構造。
だから、こうやって書いているのは、間違いなく、自分のためというのがある。いくら、きれいごとで、誰かの役に立ちたい、なんてブログの目的を書いたところで、いやまぁそれはそれで本気でそう思っているんだけれども、自分を知るためにやってるのが大きなウェイトだと思う。
でもなー、分からないなぁ。
とにかく、帰りの電車の中で、ものすごい疲労感でつぶされそうになるのは、回避したいと思う。
ネガティブ思考については、誰にも負けない自信がある。
こう書き始められるのは、森達也という方の、「まだ絶望していないあなたへ」という、参院選に向けた記事だ。
http://politas.jp/features/10/article/496
よく読んでいけば、その「ネガティブ」という表現が、決してマイナスのものではなく、積極的に人生を構築していく、前向きなものであることが伝わってくる。
ただ、一般向けに書かれた記事であるがゆえに、結論的には、「まぁどうせ無理だろうけど」と、諦念の表現に思えつつも、実は、皮肉的に「選挙に行かない人に対するプロパガンダ」であることが分かる。
何が言いたいかと言えば、僕が常日頃書いている、ネガティブというか、暗いようにしか思われない、毎日にやる気を感じられない、生きる意味が分からないといった表現、それらは、反転してポジティブであることの表現でしかないということの、一つの示唆であるということだ。
ご飯を食べて、食器を洗って、お風呂に入ってと、家事も含めれば思考なんて暇はない。
それゆえに、仕事を終えて、帰りの電車に乗ったとき、椅子に座れたら、眠りにつくこともできようが、電車の中に立っていると、どうにもこうにも、いろんなことのやる気がわいてこない。
Dead by Aprilの曲がウォークマンから流れてきて、大音量で流しながら、うつろな目をしながらつり革を握る。
他者に相談することが無意味であるとあれほど書いておきながら、いや、それはむしろ、「本音」で語り合える友人を欲する心性のあらわれではなかったのだろうか。
とかく、僕のとてつもなくネガティブでありながらポジティブな気持ちを、包み隠さず誰かに話したいと思った……いや、そうではない。誰かに話したいのではない、ゆえに、やはり、相談したいとか、愚痴を吐露してすっきりしたいとか、そういうわけではないのだ。
僕は、誰かと、この気持ちを「共有」したかった、それは、決して、僕の話を聞くことで暗い気持ちに引きずりこまれるのではなくて、普段から、表現のできない「生きづらさ」みたいなものを抱えていて、それがとてつもなく高まってしまい、どうしようもなく自分の存在が矮小に感じ、すべてのやる気が失われていくような感覚、そういった感覚をもった人と、その気持ちが本当に「存在する」のだということを、確かめたいと思ったのだ。
リア充はそれでいい、とてもいいことだ、普段の生活に満足している人もいい、イケメンでもブサメンでもどっちでもいい、お金持ちでも貧乏でもどうでもいい。
そうではなく、現に、今この瞬間に、なぜ自分は存在しているのか、と生きていることそれ自体に実感をえられないような、そんな人たちは、必ずいるわけだし、僕が特殊だなんてそんなはずはないのだけれども、しかし、そうした人たち同士が出会い、ましてやその感覚を共有するというのは、とてつもなく低い確率なのではないだろうか。
しかし確かに、考えてみれば、そうした感覚を共有して、そのあとどうしようというのか、それは分からない。
そもそも、多くの人に囲まれつつも非常に孤独であるという感覚を与える通勤電車というもののなかで、突発的に襲ってくる感覚なのだから、特に意味はないかもしれない。
そう、いまこうして書いているときは、それほど、苦しめられるものではない。
今日はスマートホンを忘れてしまったから、文章を書くという「逃避」(決して逃避であるとなんて思いたくはないのだが)をすることもできず、ただ、じっと耐えるしかなかった。
貧困から抜け出すには、戦争でも起きるしかないね、とあるモノカキが発言し、非難轟轟となったことがあるが、ハルマゲドン的な感覚、「なんかどえらい事件でも起きないかなぁ」と、日々の生活に退屈する男子高校生的な感性というのは、これまた珍しいものではない、とかいうと、やっぱり気持ち悪いと忌避されるから気を付ける必要があるが、よくあるエンターテイメントですませることはできない。
大抵は、日々の退屈が、本当に大きな事件が起こって、実は、日々の退屈な生活それ自体が幸せだったと気付かされるような構造となっている。エンターテイメントとしては、それはそれで成功するストーリー構成であると思う、が、実際に実存的な人生としてとらえたときに、果たして、世界の終末は起こり得るのだろうか、ということだ。
いや、もっと厳密に書けば、起こるかどうかということは決して推測できるものではない、それがゆえに、自己、自分自身が、「日々の生活が幸せである」と感じられるかどうか、実感の問題に他ならないというわけだ。
ルートは単純、日々の生活が幸せであると結果的に気付けたならばそれでよし、結局それがよく分からなければ、いわゆる「生きる意味」について、広く深く考えていく必要が発生するというわけだ。
ポイントは、相対的な言語表現が可能な事象・モノについては、一切真実たる実体は存在しないのだ、ということである。
ポジティブの反義語はネガティブ、という、反対のことが表現できるものは、それそのものとして存在することはできない、僕はネガティブなんですよねーという人がいたところで、もっともっとネガティブな人がいたら、最初の人は(相対的に)ポジティブになる。
極端でつまらない例えだが、身長がほとんどの人が130cmだとして、150cmの人は、背が高いことになる、でも、平均身長は男性で172cmぐらいだというから、150cmの人は背が低い。
次元として、130cmばかりのホビットの世界じゃあないだろうということで、結果として150cm小さい、ということになるのだけれども、この表現においてポイントはそこではなくて、「絶対的」だと思われてようが、それは、その条件下のものであって、大きい、小さい、多い少ない、長い短い、美しい醜い、相対的に表現が可能なものは、それそのものとして存在するわけではない、ということである。
だから、無理やり結論的なのを書いておけば、「すぐにポジティブ思考になれる7つの習慣」とか、「ネガティブ思考のススメ」とか、そういった記事というものは、もし読む必要があるのだとすれば、一歩も二歩も、後ろに下がった位置で読む方がよい。
真に受けると、結局、自分自身がよく分からなくなったり、現実の場面において、どう行動していいのか、考えていいのか分からなくなることだろう。
こう書き始められるのは、森達也という方の、「まだ絶望していないあなたへ」という、参院選に向けた記事だ。
http://politas.jp/features/10/article/496
よく読んでいけば、その「ネガティブ」という表現が、決してマイナスのものではなく、積極的に人生を構築していく、前向きなものであることが伝わってくる。
ただ、一般向けに書かれた記事であるがゆえに、結論的には、「まぁどうせ無理だろうけど」と、諦念の表現に思えつつも、実は、皮肉的に「選挙に行かない人に対するプロパガンダ」であることが分かる。
何が言いたいかと言えば、僕が常日頃書いている、ネガティブというか、暗いようにしか思われない、毎日にやる気を感じられない、生きる意味が分からないといった表現、それらは、反転してポジティブであることの表現でしかないということの、一つの示唆であるということだ。
帰りの電車の中で叫ぶ
家に帰ってしまえば、酒を飲んで、新しいゲーム(バージョンアップされた)をやって、読書して、ネットサーフィンして、と、時間はあっというまに過ぎる。ご飯を食べて、食器を洗って、お風呂に入ってと、家事も含めれば思考なんて暇はない。
それゆえに、仕事を終えて、帰りの電車に乗ったとき、椅子に座れたら、眠りにつくこともできようが、電車の中に立っていると、どうにもこうにも、いろんなことのやる気がわいてこない。
Dead by Aprilの曲がウォークマンから流れてきて、大音量で流しながら、うつろな目をしながらつり革を握る。
気持ちの共有
無性に、誰かと話したくなった。他者に相談することが無意味であるとあれほど書いておきながら、いや、それはむしろ、「本音」で語り合える友人を欲する心性のあらわれではなかったのだろうか。
とかく、僕のとてつもなくネガティブでありながらポジティブな気持ちを、包み隠さず誰かに話したいと思った……いや、そうではない。誰かに話したいのではない、ゆえに、やはり、相談したいとか、愚痴を吐露してすっきりしたいとか、そういうわけではないのだ。
僕は、誰かと、この気持ちを「共有」したかった、それは、決して、僕の話を聞くことで暗い気持ちに引きずりこまれるのではなくて、普段から、表現のできない「生きづらさ」みたいなものを抱えていて、それがとてつもなく高まってしまい、どうしようもなく自分の存在が矮小に感じ、すべてのやる気が失われていくような感覚、そういった感覚をもった人と、その気持ちが本当に「存在する」のだということを、確かめたいと思ったのだ。
リア充はそれでいい、とてもいいことだ、普段の生活に満足している人もいい、イケメンでもブサメンでもどっちでもいい、お金持ちでも貧乏でもどうでもいい。
そうではなく、現に、今この瞬間に、なぜ自分は存在しているのか、と生きていることそれ自体に実感をえられないような、そんな人たちは、必ずいるわけだし、僕が特殊だなんてそんなはずはないのだけれども、しかし、そうした人たち同士が出会い、ましてやその感覚を共有するというのは、とてつもなく低い確率なのではないだろうか。
共有してどうするのか
すぐに、現実的合理的に問いをかけようとする、この自分の思考というか頭というのは、どうにもコミュニケーションに難ありである、かっこ笑い。しかし確かに、考えてみれば、そうした感覚を共有して、そのあとどうしようというのか、それは分からない。
そもそも、多くの人に囲まれつつも非常に孤独であるという感覚を与える通勤電車というもののなかで、突発的に襲ってくる感覚なのだから、特に意味はないかもしれない。
そう、いまこうして書いているときは、それほど、苦しめられるものではない。
今日はスマートホンを忘れてしまったから、文章を書くという「逃避」(決して逃避であるとなんて思いたくはないのだが)をすることもできず、ただ、じっと耐えるしかなかった。
貧困から抜け出すには、戦争でも起きるしかないね、とあるモノカキが発言し、非難轟轟となったことがあるが、ハルマゲドン的な感覚、「なんかどえらい事件でも起きないかなぁ」と、日々の生活に退屈する男子高校生的な感性というのは、これまた珍しいものではない、とかいうと、やっぱり気持ち悪いと忌避されるから気を付ける必要があるが、よくあるエンターテイメントですませることはできない。
大抵は、日々の退屈が、本当に大きな事件が起こって、実は、日々の退屈な生活それ自体が幸せだったと気付かされるような構造となっている。エンターテイメントとしては、それはそれで成功するストーリー構成であると思う、が、実際に実存的な人生としてとらえたときに、果たして、世界の終末は起こり得るのだろうか、ということだ。
いや、もっと厳密に書けば、起こるかどうかということは決して推測できるものではない、それがゆえに、自己、自分自身が、「日々の生活が幸せである」と感じられるかどうか、実感の問題に他ならないというわけだ。
ルートは単純、日々の生活が幸せであると結果的に気付けたならばそれでよし、結局それがよく分からなければ、いわゆる「生きる意味」について、広く深く考えていく必要が発生するというわけだ。
ネガティブ思考について
無理やりタイトルに戻ってみれば、ネガティブとかポジティブとか、自分の性格とか他者にどうみられているとか、そんなこと気にしている暇などないのだ。ポイントは、相対的な言語表現が可能な事象・モノについては、一切真実たる実体は存在しないのだ、ということである。
ポジティブの反義語はネガティブ、という、反対のことが表現できるものは、それそのものとして存在することはできない、僕はネガティブなんですよねーという人がいたところで、もっともっとネガティブな人がいたら、最初の人は(相対的に)ポジティブになる。
極端でつまらない例えだが、身長がほとんどの人が130cmだとして、150cmの人は、背が高いことになる、でも、平均身長は男性で172cmぐらいだというから、150cmの人は背が低い。
次元として、130cmばかりのホビットの世界じゃあないだろうということで、結果として150cm小さい、ということになるのだけれども、この表現においてポイントはそこではなくて、「絶対的」だと思われてようが、それは、その条件下のものであって、大きい、小さい、多い少ない、長い短い、美しい醜い、相対的に表現が可能なものは、それそのものとして存在するわけではない、ということである。
だから、無理やり結論的なのを書いておけば、「すぐにポジティブ思考になれる7つの習慣」とか、「ネガティブ思考のススメ」とか、そういった記事というものは、もし読む必要があるのだとすれば、一歩も二歩も、後ろに下がった位置で読む方がよい。
真に受けると、結局、自分自身がよく分からなくなったり、現実の場面において、どう行動していいのか、考えていいのか分からなくなることだろう。
誰か人に見せるために書いているわけではないけれども、アクセスがないというのは、何となく寂しいものだ。
泊りの旅行に出かけて、ワイワイ楽しんで帰ってきた、メモするポイントは何か、何から書き始めればいいのか……。
他者を意識すると、途端に書きたいことが、書くべきことが、書くことそれ自体が分からなくなる。
であれば、やっぱり、アクセスがあるとかないとか、そういった点を考える必要はない、というよりも、やめた方がいいと思う。
と同時に、やっぱり、「自己顕示」的な欲求が強いのだろうな、と思わざるをえない。
好きなように、楽しんで書いているからいいのだ、といいつつも、どこか、「考えている俺ってかっこいいでしょ」「みんな、俺を知ってくれ!」的な感じがあるのかもしれない。ということ自体が、僕自身、何だか非常にかっこわるくて気持ち悪いように思ってしまう、ゆえに、その点を感じさせてしまう可能性があるならば、やっぱり、話すべきでもなければ、そもそも書くべきではなく、こういった「自己顕示」を感じないような、そんな生活、思考、感情発生するような生き方をするべきではなかろうか。
趣味について、他者と共有し、話をするときに、知識がないと、話が盛り上がらない。そして、僕はある程度「問題を避ける」方向で何事も考えてきたから、「失敗した」「ミスをした」「ひどいめにあった」「バカをした」という経験があまりない。
この点が、あんまし面白くないのだろうと、思う。
特に、「バカをした」というのが、結構、その人となりをみるのに役立ったり。それが、異性との会話の中では、「ひいた」「どんびき」という、ちょっと共感できそうもないわぁという、そういった感情を引き起こす可能性がありながらも、ああ、この人と一緒にいるとなんだか楽しそうだなぁと、そういった感覚を引き起こす可能性も秘めているのである。もっとも、それが、パートナーとして求められる部分かどうかは別であるが。いわゆる、「いいひと」で終わってしまうとかなんとか。
先述の、バカをやった、ような経験……、お金を浪費してしまったとか、欲しいものを手に入れるためにいろんな店をかけずりまわったとか、トラブルあって焦って他者を頼ったりとか、そうした経験がたくさんある人が、きっと「面白い人」なのだろうなぁ、と思う。
ここで、ふと冷静に、一人になってから考えてみたときに、じゃあ、そういった「面白い人」に、僕はなるべきなのか、ということはもちろんのこと、「なれるのか」ということもよく考えてみようではないか。
下手に、会話にあわせて、笑顔をつくって、楽しく笑っていたとしても……ああ、これは決して、無理をしているとか、楽しくないとかそういう意味ではなくて、その、他者に合わせようとする次元においてのものであるけれども、いわゆる「楽しい人」になろうと試みること、このことが、果たして今後も成功するのかどうか、ということだ。
よく言われるのが、外見上、「真面目そう」とみられるということである。
この「真面目そう」というのが、いいのか悪いのか、そこは全く問題ではなく、ここに、「いや実は自分は楽しい人間なんですよ」というアピールをしていくことが有効なのか、むしろその「真面目そう」というイメージを熟成させることに尽力するべきなのか、そのことを考えるべきということである。
自分のイメージを、無理やり変える必要はない。
というよりも、イメージは、結局、他者がどうとらえるか、という点に過ぎないのである。
もっといえば、自分のイメージどおりに、他者が動かないとき、その他者を、「よくわかんない人」とか、排除する感情の動きが発生する。
この、理解不能性、という点をよくおさえておけば、人間関係の悩みなんて、存在しなくなる。
コミュニケーションとは、自分のスキルを高めることだけが重要なのではなく、必要なのは、「自己理解」である。
コミュニケーションに関する研修を受けたことがある人は多いだろうが、それにおいて学んだことは、きっと事実であるのだけれども、それを「実践」するのは、あくまで、自分自身であり、その自分自身とは何かといえば、「自己」であり、その「経験」のインプットであるということだ。
自分が、他者に、もっといえば「世界」(社会とかコミュニティとか森羅万象)に、どのようにみられているのか、あつかわれているのか、そのことが、「自分を知る」ということである。
僕が若いころに受け入れられなかった思想は、「人は一人では生きていけない」というものである。
え、そんなことも分からなかったの、という感情が起こるだろうが、これは、単純な意味ではなく、自己中心主義の思考から逃れられなかったことにある、というよりも、そこを突き詰めれば、今であっても、それから逃れられてはいない、この「生きる意味」という難題、これこそが「自己中心主義」の支配を示している一つの証左である。
自己中心主義とは、この世界って、結局僕一人しかいないんじゃね?
とか、自分というものが世界の中心にあるような、そういう意識・感情の総体である。
この意識というのは、幼児期には当然あるものということで、自分の感情と他者の感情の区別がつかなかったりするのが、成長するとともに、他者の痛みみたいなものが分かるようになるということだ。
それで僕は、では他者の痛みが分からなかったかというと、そうではない。世界に自分一人しかいないんじゃないか、と思っていたわけでもなければ、自分一人で生きていくことができると思っていたわけでもない。
問題は、生きることそれ自身のために、他者を尊重する必要があるということが、信じられなかったということだ。
……この表現は難しいな。
どちらかというと、人はみな利己的な生き物である、ということの気持ち悪さが受け入れられなかった、のかもしれない。
世界における自己の位置づけが信じられなかったというか、よく分からなかったというか。
結局のところ、表現を精査していけば、きっと、誰しも同じように感じていたことにしかならないと思う。それが、自分の能力のなさゆえに表現が難しくなって、それが他者との乖離を生んでいる可能性だってある。
そのことが、「自己顕示」的に、俺は特別な人間なのだ、ということを示したいがために思考から逃れられないのだとしたら、それはとても虚しいものだ、と思う。
でも、一ついえるのは、このブログを書き始める際に感じていた、不愉快な気持ち、悶々としたもの、ぐちゃぐちゃとした頭の中、明日へ向かうやる気のなさといった諸々のモノ。
それは、書いて表現するしか、整理する手段はない、ということだ。
そしてもっといえば、やはり、誰かに読んでもらえる可能性がある、という事実、これが重要である、ということだ。
泊りの旅行に出かけて、ワイワイ楽しんで帰ってきた、メモするポイントは何か、何から書き始めればいいのか……。
他者を意識すると、途端に書きたいことが、書くべきことが、書くことそれ自体が分からなくなる。
であれば、やっぱり、アクセスがあるとかないとか、そういった点を考える必要はない、というよりも、やめた方がいいと思う。
と同時に、やっぱり、「自己顕示」的な欲求が強いのだろうな、と思わざるをえない。
好きなように、楽しんで書いているからいいのだ、といいつつも、どこか、「考えている俺ってかっこいいでしょ」「みんな、俺を知ってくれ!」的な感じがあるのかもしれない。ということ自体が、僕自身、何だか非常にかっこわるくて気持ち悪いように思ってしまう、ゆえに、その点を感じさせてしまう可能性があるならば、やっぱり、話すべきでもなければ、そもそも書くべきではなく、こういった「自己顕示」を感じないような、そんな生活、思考、感情発生するような生き方をするべきではなかろうか。
話題とはインプットである
少し、話を変えてみる。会話の中で、やっぱり、インプット、事実、という点があると面白い。あとは、「経験」である。趣味について、他者と共有し、話をするときに、知識がないと、話が盛り上がらない。そして、僕はある程度「問題を避ける」方向で何事も考えてきたから、「失敗した」「ミスをした」「ひどいめにあった」「バカをした」という経験があまりない。
この点が、あんまし面白くないのだろうと、思う。
特に、「バカをした」というのが、結構、その人となりをみるのに役立ったり。それが、異性との会話の中では、「ひいた」「どんびき」という、ちょっと共感できそうもないわぁという、そういった感情を引き起こす可能性がありながらも、ああ、この人と一緒にいるとなんだか楽しそうだなぁと、そういった感覚を引き起こす可能性も秘めているのである。もっとも、それが、パートナーとして求められる部分かどうかは別であるが。いわゆる、「いいひと」で終わってしまうとかなんとか。
他者との共有次元におけるインプット
いやはや、全く頭が整理されていなくても、こうやって書いてこれるわけであって、これはいわゆる、饒舌、というやつなのかもしれないが、ところが、何か他者と共有しながら会話をするという点においては、一切役に立たない、というと言い過ぎだけれども、「思考」というのは、あまり面白いものではない。先述の、バカをやった、ような経験……、お金を浪費してしまったとか、欲しいものを手に入れるためにいろんな店をかけずりまわったとか、トラブルあって焦って他者を頼ったりとか、そうした経験がたくさんある人が、きっと「面白い人」なのだろうなぁ、と思う。
ここで、ふと冷静に、一人になってから考えてみたときに、じゃあ、そういった「面白い人」に、僕はなるべきなのか、ということはもちろんのこと、「なれるのか」ということもよく考えてみようではないか。
下手に、会話にあわせて、笑顔をつくって、楽しく笑っていたとしても……ああ、これは決して、無理をしているとか、楽しくないとかそういう意味ではなくて、その、他者に合わせようとする次元においてのものであるけれども、いわゆる「楽しい人」になろうと試みること、このことが、果たして今後も成功するのかどうか、ということだ。
よく言われるのが、外見上、「真面目そう」とみられるということである。
この「真面目そう」というのが、いいのか悪いのか、そこは全く問題ではなく、ここに、「いや実は自分は楽しい人間なんですよ」というアピールをしていくことが有効なのか、むしろその「真面目そう」というイメージを熟成させることに尽力するべきなのか、そのことを考えるべきということである。
自分のイメージを、無理やり変える必要はない。
というよりも、イメージは、結局、他者がどうとらえるか、という点に過ぎないのである。
もっといえば、自分のイメージどおりに、他者が動かないとき、その他者を、「よくわかんない人」とか、排除する感情の動きが発生する。
この、理解不能性、という点をよくおさえておけば、人間関係の悩みなんて、存在しなくなる。
コミュニケーションとは、自分のスキルを高めることだけが重要なのではなく、必要なのは、「自己理解」である。
コミュニケーションに関する研修を受けたことがある人は多いだろうが、それにおいて学んだことは、きっと事実であるのだけれども、それを「実践」するのは、あくまで、自分自身であり、その自分自身とは何かといえば、「自己」であり、その「経験」のインプットであるということだ。
自分はどうみられているのか
自分を知るということは、自分自身の、思考を深めるということだけを示すのではない。自分が、他者に、もっといえば「世界」(社会とかコミュニティとか森羅万象)に、どのようにみられているのか、あつかわれているのか、そのことが、「自分を知る」ということである。
僕が若いころに受け入れられなかった思想は、「人は一人では生きていけない」というものである。
え、そんなことも分からなかったの、という感情が起こるだろうが、これは、単純な意味ではなく、自己中心主義の思考から逃れられなかったことにある、というよりも、そこを突き詰めれば、今であっても、それから逃れられてはいない、この「生きる意味」という難題、これこそが「自己中心主義」の支配を示している一つの証左である。
自己中心主義とは、この世界って、結局僕一人しかいないんじゃね?
とか、自分というものが世界の中心にあるような、そういう意識・感情の総体である。
この意識というのは、幼児期には当然あるものということで、自分の感情と他者の感情の区別がつかなかったりするのが、成長するとともに、他者の痛みみたいなものが分かるようになるということだ。
それで僕は、では他者の痛みが分からなかったかというと、そうではない。世界に自分一人しかいないんじゃないか、と思っていたわけでもなければ、自分一人で生きていくことができると思っていたわけでもない。
問題は、生きることそれ自身のために、他者を尊重する必要があるということが、信じられなかったということだ。
……この表現は難しいな。
どちらかというと、人はみな利己的な生き物である、ということの気持ち悪さが受け入れられなかった、のかもしれない。
世界における自己の位置づけが信じられなかったというか、よく分からなかったというか。
結局のところ、表現を精査していけば、きっと、誰しも同じように感じていたことにしかならないと思う。それが、自分の能力のなさゆえに表現が難しくなって、それが他者との乖離を生んでいる可能性だってある。
そのことが、「自己顕示」的に、俺は特別な人間なのだ、ということを示したいがために思考から逃れられないのだとしたら、それはとても虚しいものだ、と思う。
でも、一ついえるのは、このブログを書き始める際に感じていた、不愉快な気持ち、悶々としたもの、ぐちゃぐちゃとした頭の中、明日へ向かうやる気のなさといった諸々のモノ。
それは、書いて表現するしか、整理する手段はない、ということだ。
そしてもっといえば、やはり、誰かに読んでもらえる可能性がある、という事実、これが重要である、ということだ。
いやはや、知識ゼロの事象について、口だけで説明されて、それを覚えて対応しろ、と、これは難しい。
頭がいい人はできるのだろうか?
メモをとるのも一苦労、話の流れが分からないと、インプットもできない。
一字一句メモなんてできないよね、知らない単語が並ぶとき、そして表現上の問題が絡むとき、よくわからなくなる。
やっぱり、人との調整ごとは怖いなぁ。
感じるのは、他者とのコミュニケーションギャップ、それは、口頭でも、文字でも同じ。
全然伝わっていないことが多々ある。
人を納得させる根拠ってのも難しい。
行動や対応……ああもう、ほんと、何もかも難しい、と思考停止だ。
プログラムはいい、命令したとおり動く……とはいえ、複雑化したプログラムは意図せざる動きをするし、そもそも、要求仕様の解釈が誤っていたりするし、めも当てられない。
この世の中、本当に情報伝達がよくわからなくなってきている。全人類宇宙人化だ。
と、他者への愚痴もさることながら、そもそも、僕が他者を理解できているかも、さっぱり分からなくなってきた。
こーれは、つらいね、そもそも、生きる意味はーとか、自分のことすら分かってないのに、周りのひとのことも考え出したら完全にオーバーロード、オーバーヒートだ。
先日からの、子どもが必要だ、という考えは変わっていないが、この必要性が、そもそも、子どもとすら分かりあえないという、あの小説の衝撃、その衝撃をえようというなら、完全に僕はマゾじゃあないか。
ほんともう、世界に取り残された気分になるだろう。
ああ、先日の女の子が言っていた、私には生まれてきた意味がある、私にしかできない使命があるっていう、あの強い確固たる思い、信念は、年下だろうが何だろうが憧れるものだ。
特殊な生まれ育った環境がそうさせるのか、んなことどうでもええねん。
何度もいうように、これは実存の問題であって、他者がどうこうは、全く参考にならない。
つまり、現在性がすべてであり、時間という概念の払拭こそが、悟りといえるのではなちか。
結局、思考を休ませるための行動も、昨日できなかった。
そもそも、疲れると眠いのだ、身体が悲鳴をあげるのだ。
明日は3時おきだが、まだ家にはかえれない。
せめて、たどり着くまでの数分は、思考を休ませる試みをするか。
寝てはいけない。
頭がいい人はできるのだろうか?
メモをとるのも一苦労、話の流れが分からないと、インプットもできない。
一字一句メモなんてできないよね、知らない単語が並ぶとき、そして表現上の問題が絡むとき、よくわからなくなる。
やっぱり、人との調整ごとは怖いなぁ。
感じるのは、他者とのコミュニケーションギャップ、それは、口頭でも、文字でも同じ。
全然伝わっていないことが多々ある。
人を納得させる根拠ってのも難しい。
行動や対応……ああもう、ほんと、何もかも難しい、と思考停止だ。
プログラムはいい、命令したとおり動く……とはいえ、複雑化したプログラムは意図せざる動きをするし、そもそも、要求仕様の解釈が誤っていたりするし、めも当てられない。
この世の中、本当に情報伝達がよくわからなくなってきている。全人類宇宙人化だ。
と、他者への愚痴もさることながら、そもそも、僕が他者を理解できているかも、さっぱり分からなくなってきた。
こーれは、つらいね、そもそも、生きる意味はーとか、自分のことすら分かってないのに、周りのひとのことも考え出したら完全にオーバーロード、オーバーヒートだ。
かわいい子ども
先日からの、子どもが必要だ、という考えは変わっていないが、この必要性が、そもそも、子どもとすら分かりあえないという、あの小説の衝撃、その衝撃をえようというなら、完全に僕はマゾじゃあないか。
ほんともう、世界に取り残された気分になるだろう。
ああ、先日の女の子が言っていた、私には生まれてきた意味がある、私にしかできない使命があるっていう、あの強い確固たる思い、信念は、年下だろうが何だろうが憧れるものだ。
特殊な生まれ育った環境がそうさせるのか、んなことどうでもええねん。
何度もいうように、これは実存の問題であって、他者がどうこうは、全く参考にならない。
できることは現状描写
つまり、現在性がすべてであり、時間という概念の払拭こそが、悟りといえるのではなちか。
結局、思考を休ませるための行動も、昨日できなかった。
そもそも、疲れると眠いのだ、身体が悲鳴をあげるのだ。
明日は3時おきだが、まだ家にはかえれない。
せめて、たどり着くまでの数分は、思考を休ませる試みをするか。
寝てはいけない。
