表現するということ、それを突き詰めていくしかない気がする。
今日は飲み会であり、女の子と話す機会があった、とかくと、喪男な人たちに嫉妬をあたえるかもしれないが、心配することなく、彼氏持ちだったり、絶対に美味しい場面になることがない状況における異性との会話は、リア充というよりもむしろ、マゾヒストである。
いわゆる、美味しい料理を目の前に、猿ぐつわをされて食べることはできないような拷問である。
まぁそれに進んで参加するのは、自暴自棄なのかもしれない。
ほとんど寝ないで研究に没頭して、しごともして、と、ストイックなその姿勢に憧れる。年下だろうが、魅力的な人間は魅力的である。
俺は、できることが少ない。
なんでもできるけど、と書くと、これまた非難ばかりになるが、その何もかもが突出しないと、何もかもが自己肯定とか、自信につながらない。
なんでもできるとは、なにもできないことの同義かもしれない。
と、いうのは、どこか、他者よりもうえにたちたい、認められたいという思いが強いからかもしれない。
あるコミュニティがあったら、そこで一番にならなければ気がすまない、一番になれなかったらそのコミュニティを離れていく。
結果、どこにも所属できない、孤独がうまれる、こういう構造だろうか。
帰りの電車では、先日ほどの無気力感はない。
むむ、まさか、アルコール中毒ではあるまいな。
酒を飲むといやなこと忘れて楽しくやっほーってなる、そんなことはなくて、この書く内容が変わるかどうかってぐらいではなかったか。
あ、ひとつ分かったが、なんだか、自分の話をするとき、その話がつまらないんじゃないかと、ものすごい不安感におそわれる。
いやはや、こんなにブログでは饒舌なのに、なぜだろう、と考えるまでもなく、なにせ、ブログだって、これ、本当に面白いのか、っという思いが常にある。
それでも書き進められるのは、これが、誰でもない、自分のため、という思いが強いからだ。
結局、誰一人きいていないかもしれない、つまらないと思われているかもしれない、それでありながら、僕は、僕自信は、昨日の赤面するかもといいながら書いていた記事も、ちょっと面白かったのだ。
なんだろ、僕は、自分の話が、自信ないのか。
だったら、話の教室とか通って訓練すればいいのでは?
よくわからん。
でも、今日の飲み会は出てよかった。
女の子分は払うみたいなことになり、お金は2万近くかかったが。
でも、
なぜ、自分のブログが面白くて、思考がとまらずに、表現したいと思うのか。
自分のこと嫌いと思っていたが、もしかして自分大好き人間なのか。
ただ、なんとなく、書いていないと、頭が整理できない、言語化できない混沌とした渦に巻きこまれて、触手に絡まれて、身動きがとれなくなっていく。
そのぐちゃりぐちゃりした、からめとられた身体をひねり、少しずつ触手をはずしていく、その作業が、僕にとって書く、ということなのだ。
書く。
言語化。
言葉だけを信じるのではない、しかし、感覚的に生きたとき、僕は、
途中まで書いて寝落ちしていたようだ。
サンドウィッチマンの動画を見ながら、風呂に入る前に仮眠しようとしたら、そのまま今に至る。
初めて訪れるカフェに足を運ぶ。
とくに二日酔いとかでもないが、なんだかふわふわして、何も言葉が浮かばない。
かといって、何も感じていないかというと、そうではない。
なにか、なにか、感じていて、それは、不快なのか気持ち良いのかもわからないけれども、なにか、何かしたいと思うのか、なにもしたくないかと思うのか、やりたいことはあるのか、ないのか、誰かと話したいのか、そうではないのか、……
軽い頭痛がある、ただ、それほど大きな身体的痛みはない。
そんなこと書いてる間にも時間は過ぎる。
昨日のことを思い出してみるか、きれいな子で、犬を飼っていて、家族旅行の時の写真をみせてくれた。
建築関係の仕事をしているという。数時間しかねれないような日も続くが、自分を追い込んで頑張っているという。
僕の仕事とは違うが、どちらかというと研究する面が強いから、コミュニケーションをする必要がある僕の仕事の方が大変だよ、といってくれた。
おちついていて、かといって暗いとかじゃなく、話しやすくて、他の人には、話してると癒されるといわれた。
楽しかった、んだと思う。
こんなこと、書くと、きっとよむひとにはしんじつてきに思われるだろうが、その楽しさは、もしかして僕に気があるのでは、彼氏がいても、付き合えるのでは、そんな気持ちがあるのだろうか。
この、楽しかった、という表現を、僕はとても、恐れているのだろうか。
なんだか、急スピードで、思考、表現が浮かんできた。
昨日のことを思い出そうとして、褒められた、ということ、そういえば、仕事の時も、仕事早いねさすが、といわれたのも昨日だった。
で、この、褒められたとか楽しかったという表現が、
僕にとって、恐怖なのではないか、と推測する。
なんだか、どちらかというと、いわゆる一般的なネガティブといわれることを書いている方が安心する。
この心性は、とくに珍しいことではなく、つまり、裏切りとか、期待の不達成という結果に対する恐怖、と表現することができる。
書いていて不快だが、思考から、感覚から、逃げてしまえば、これまで書いていたことが、すべて無駄になるだろう、つまり、いっさいがっさい、本気で、言葉をつくる、という宣言がうそになる、ということだ。
自分の心を分析するために、一切に、表現から逃げてはならない。
幸せ恐怖症、新しい病名が発見された。
楽しいことや嬉しいことがあったとき、それが自分のものと信じられず、または偽りのことなのではと信じられず、すぐに朽ち果てるのではと継続性を信じられず、落ち着かなさや恐怖を感じるようになる病気、症候群。
ちなみに、病気と症状との表現の違いは、病気はその原因を指すのにたいし、症状は、原因は不明だが臨床的に発生する状態を指す。
幸せ恐怖症は、症状であり、まだ、原因となる病気は分からない。そういう意味では、無気力症も、症状であり、原因はわからない。
先日の思考の部屋ブログさんでは、うつ病は脳の病気であると紹介されていた。感情などを司る前頭前野の血流が不足することが、原因であるので、電流流したりその部分を治療すると、薬なく回復するという。
俺も電流流してもらおうかな、かっこわらい。
ポイントは、決して、楽しいとか嬉しいとかそういう感情がないわけではない。
落ち着いてるとか、いわれても、怒りの感情だってあるし、悲しくなったりもする。
ただ、それらが、何となく、自分のものと感じられないような、そういう身体的に生じさせるものを、少し離れた位置でみているような、そんな自分の存在を感じるのである。
薬でも、電気でもよいが、この、解離したような感覚は、例えば酒とか、いろんな遊戯、エンターテイメントにふれたとして、自分自信の感覚として、取り戻せるものなのだろうか。
例えば、そういった感覚が、他者との触れ合いの足りなさだ、孤独さがよくない、というアドバイスがあったとして、他者と会話を重ねたとする。そのとき僕は、相手をよく観察し、自分がどうみられているか考え、適切な言動を考える。
それはたいてい意識的でありながらも、自然に行われる。
その相互行為のなかで、僕は楽しかったり嬉しかったりするわけだけれども、でも、そうしたなかでも、思考、というものが必ず介在しているのである。
僕の身体、顔とか、手足、体毛にいたるまで、それは僕であって、僕に他ならないわけだけれども、ところが、それを自由に支配し動かせる思考という存在と、どうにも仲がよろしくないように思える。
自死がばかげたこと、と、ヘルマンヘッセのシッダールタで書かれていたとはいえ、尊敬できるヘッセさんの言葉だとしても、それはまだ、完全に捨て去る必要はないと思う。
とはいえ、まだそれをするには早いように思える、
こんな、暗いことをかいていながら、さっきの、昨日のことを思い出しているときの方が不快だった。
それって、本当は楽しくなかったってだけかもしれないけれども、この、反転した感覚というのは、メモする必要がある。
はっきりいって、そんな暗い感情でいて人生楽しいの? ということであり、楽しい気持ちでいるべきと思いながら、まさにその暗いことを書くのが楽しいのである、それは逃げであり、本当の自分を知ってくれる人を探すことの諦めであり、しかしその自分というものをわからないといい、それは惨めな自分を認められない自己保身でありながらも、それこそが、自分であるというホメオスタシス、自己恒常性であるのだ。
ということが、いま書いていると、順をおっているけれど、思考として、感覚としては、どばっと、瞬間的に、同時的に頭に浮かぶのであるがゆえに、パニックになる、というのは大袈裟だけれども、なんだかよくわからない不快感に悩まされるのだ。
そうして今日も、彼はこうして、ずっと生きていくのだろう。
それが、彼の幸せかどうかは分からない。人生は有限であり、彼は死の間際でなにを思うのか。それは分からないが、ただ、彼が残した表現、言葉は、確かに残された、少ない人だけだったかもしれない、それでも、彼の言葉は示された。
せめて彼には、そのことだけは、信じて欲しいと、願わないわけにはいかない。
と、無理矢理にこの記事を終わらせてみようとしてみた。
これとか、ちょっと脚色とか加工して小説として投稿してみようかな。
ジャンルはなんだろう、随筆とか純文学かっこわらい、か。
見向きもされなそうだが……、例えば量は質、ということもあって、一週間に一万字ぐらいを毎週、一年ぐらい続ければ四、五人ぐらいの読者は、それがもしかしてアンチかもしれないけれども、このインターネット社会においてはついてくれる気もする。
それもちょっと面白い試みな気がする。冒頭に書いたように、表現をしつくす、というのが、直近すること、もちろん、そろそろ申し込み期日の資格の勉強もあるのだけれども、大事かもしれない。
残念なことに、この作者は、その小説の、エンディングをまだ分からない、知らないのだけれども。
今日は飲み会であり、女の子と話す機会があった、とかくと、喪男な人たちに嫉妬をあたえるかもしれないが、心配することなく、彼氏持ちだったり、絶対に美味しい場面になることがない状況における異性との会話は、リア充というよりもむしろ、マゾヒストである。
いわゆる、美味しい料理を目の前に、猿ぐつわをされて食べることはできないような拷問である。
まぁそれに進んで参加するのは、自暴自棄なのかもしれない。
ストイック
ほとんど寝ないで研究に没頭して、しごともして、と、ストイックなその姿勢に憧れる。年下だろうが、魅力的な人間は魅力的である。
俺は、できることが少ない。
なんでもできるけど、と書くと、これまた非難ばかりになるが、その何もかもが突出しないと、何もかもが自己肯定とか、自信につながらない。
なんでもできるとは、なにもできないことの同義かもしれない。
と、いうのは、どこか、他者よりもうえにたちたい、認められたいという思いが強いからかもしれない。
あるコミュニティがあったら、そこで一番にならなければ気がすまない、一番になれなかったらそのコミュニティを離れていく。
結果、どこにも所属できない、孤独がうまれる、こういう構造だろうか。
飲み会あとの高揚感
帰りの電車では、先日ほどの無気力感はない。
むむ、まさか、アルコール中毒ではあるまいな。
酒を飲むといやなこと忘れて楽しくやっほーってなる、そんなことはなくて、この書く内容が変わるかどうかってぐらいではなかったか。
あ、ひとつ分かったが、なんだか、自分の話をするとき、その話がつまらないんじゃないかと、ものすごい不安感におそわれる。
いやはや、こんなにブログでは饒舌なのに、なぜだろう、と考えるまでもなく、なにせ、ブログだって、これ、本当に面白いのか、っという思いが常にある。
それでも書き進められるのは、これが、誰でもない、自分のため、という思いが強いからだ。
結局、誰一人きいていないかもしれない、つまらないと思われているかもしれない、それでありながら、僕は、僕自信は、昨日の赤面するかもといいながら書いていた記事も、ちょっと面白かったのだ。
なんだろ、僕は、自分の話が、自信ないのか。
だったら、話の教室とか通って訓練すればいいのでは?
よくわからん。
でも、今日の飲み会は出てよかった。
女の子分は払うみたいなことになり、お金は2万近くかかったが。
でも、
思考と言葉
なぜ、自分のブログが面白くて、思考がとまらずに、表現したいと思うのか。
自分のこと嫌いと思っていたが、もしかして自分大好き人間なのか。
ただ、なんとなく、書いていないと、頭が整理できない、言語化できない混沌とした渦に巻きこまれて、触手に絡まれて、身動きがとれなくなっていく。
そのぐちゃりぐちゃりした、からめとられた身体をひねり、少しずつ触手をはずしていく、その作業が、僕にとって書く、ということなのだ。
書く。
言語化。
言葉だけを信じるのではない、しかし、感覚的に生きたとき、僕は、
そして翌日
途中まで書いて寝落ちしていたようだ。
サンドウィッチマンの動画を見ながら、風呂に入る前に仮眠しようとしたら、そのまま今に至る。
初めて訪れるカフェに足を運ぶ。
とくに二日酔いとかでもないが、なんだかふわふわして、何も言葉が浮かばない。
かといって、何も感じていないかというと、そうではない。
なにか、なにか、感じていて、それは、不快なのか気持ち良いのかもわからないけれども、なにか、何かしたいと思うのか、なにもしたくないかと思うのか、やりたいことはあるのか、ないのか、誰かと話したいのか、そうではないのか、……
軽い頭痛がある、ただ、それほど大きな身体的痛みはない。
そんなこと書いてる間にも時間は過ぎる。
昨日のことを思い出してみるか、きれいな子で、犬を飼っていて、家族旅行の時の写真をみせてくれた。
建築関係の仕事をしているという。数時間しかねれないような日も続くが、自分を追い込んで頑張っているという。
僕の仕事とは違うが、どちらかというと研究する面が強いから、コミュニケーションをする必要がある僕の仕事の方が大変だよ、といってくれた。
おちついていて、かといって暗いとかじゃなく、話しやすくて、他の人には、話してると癒されるといわれた。
楽しかった、んだと思う。
こんなこと、書くと、きっとよむひとにはしんじつてきに思われるだろうが、その楽しさは、もしかして僕に気があるのでは、彼氏がいても、付き合えるのでは、そんな気持ちがあるのだろうか。
この、楽しかった、という表現を、僕はとても、恐れているのだろうか。
なんだか、急スピードで、思考、表現が浮かんできた。
昨日のことを思い出そうとして、褒められた、ということ、そういえば、仕事の時も、仕事早いねさすが、といわれたのも昨日だった。
幸せ恐怖症
で、この、褒められたとか楽しかったという表現が、
僕にとって、恐怖なのではないか、と推測する。
なんだか、どちらかというと、いわゆる一般的なネガティブといわれることを書いている方が安心する。
この心性は、とくに珍しいことではなく、つまり、裏切りとか、期待の不達成という結果に対する恐怖、と表現することができる。
書いていて不快だが、思考から、感覚から、逃げてしまえば、これまで書いていたことが、すべて無駄になるだろう、つまり、いっさいがっさい、本気で、言葉をつくる、という宣言がうそになる、ということだ。
自分の心を分析するために、一切に、表現から逃げてはならない。
本当に幸せなのか
幸せ恐怖症、新しい病名が発見された。
楽しいことや嬉しいことがあったとき、それが自分のものと信じられず、または偽りのことなのではと信じられず、すぐに朽ち果てるのではと継続性を信じられず、落ち着かなさや恐怖を感じるようになる病気、症候群。
ちなみに、病気と症状との表現の違いは、病気はその原因を指すのにたいし、症状は、原因は不明だが臨床的に発生する状態を指す。
幸せ恐怖症は、症状であり、まだ、原因となる病気は分からない。そういう意味では、無気力症も、症状であり、原因はわからない。
先日の思考の部屋ブログさんでは、うつ病は脳の病気であると紹介されていた。感情などを司る前頭前野の血流が不足することが、原因であるので、電流流したりその部分を治療すると、薬なく回復するという。
俺も電流流してもらおうかな、かっこわらい。
ポイントは、決して、楽しいとか嬉しいとかそういう感情がないわけではない。
落ち着いてるとか、いわれても、怒りの感情だってあるし、悲しくなったりもする。
ただ、それらが、何となく、自分のものと感じられないような、そういう身体的に生じさせるものを、少し離れた位置でみているような、そんな自分の存在を感じるのである。
薬でも、電気でもよいが、この、解離したような感覚は、例えば酒とか、いろんな遊戯、エンターテイメントにふれたとして、自分自信の感覚として、取り戻せるものなのだろうか。
例えば、そういった感覚が、他者との触れ合いの足りなさだ、孤独さがよくない、というアドバイスがあったとして、他者と会話を重ねたとする。そのとき僕は、相手をよく観察し、自分がどうみられているか考え、適切な言動を考える。
それはたいてい意識的でありながらも、自然に行われる。
その相互行為のなかで、僕は楽しかったり嬉しかったりするわけだけれども、でも、そうしたなかでも、思考、というものが必ず介在しているのである。
僕の身体、顔とか、手足、体毛にいたるまで、それは僕であって、僕に他ならないわけだけれども、ところが、それを自由に支配し動かせる思考という存在と、どうにも仲がよろしくないように思える。
他者を求めるということ
自死がばかげたこと、と、ヘルマンヘッセのシッダールタで書かれていたとはいえ、尊敬できるヘッセさんの言葉だとしても、それはまだ、完全に捨て去る必要はないと思う。
とはいえ、まだそれをするには早いように思える、
こんな、暗いことをかいていながら、さっきの、昨日のことを思い出しているときの方が不快だった。
それって、本当は楽しくなかったってだけかもしれないけれども、この、反転した感覚というのは、メモする必要がある。
はっきりいって、そんな暗い感情でいて人生楽しいの? ということであり、楽しい気持ちでいるべきと思いながら、まさにその暗いことを書くのが楽しいのである、それは逃げであり、本当の自分を知ってくれる人を探すことの諦めであり、しかしその自分というものをわからないといい、それは惨めな自分を認められない自己保身でありながらも、それこそが、自分であるというホメオスタシス、自己恒常性であるのだ。
ということが、いま書いていると、順をおっているけれど、思考として、感覚としては、どばっと、瞬間的に、同時的に頭に浮かぶのであるがゆえに、パニックになる、というのは大袈裟だけれども、なんだかよくわからない不快感に悩まされるのだ。
そうして今日も、彼はこうして、ずっと生きていくのだろう。
それが、彼の幸せかどうかは分からない。人生は有限であり、彼は死の間際でなにを思うのか。それは分からないが、ただ、彼が残した表現、言葉は、確かに残された、少ない人だけだったかもしれない、それでも、彼の言葉は示された。
せめて彼には、そのことだけは、信じて欲しいと、願わないわけにはいかない。
と、無理矢理にこの記事を終わらせてみようとしてみた。
これとか、ちょっと脚色とか加工して小説として投稿してみようかな。
ジャンルはなんだろう、随筆とか純文学かっこわらい、か。
見向きもされなそうだが……、例えば量は質、ということもあって、一週間に一万字ぐらいを毎週、一年ぐらい続ければ四、五人ぐらいの読者は、それがもしかしてアンチかもしれないけれども、このインターネット社会においてはついてくれる気もする。
それもちょっと面白い試みな気がする。冒頭に書いたように、表現をしつくす、というのが、直近すること、もちろん、そろそろ申し込み期日の資格の勉強もあるのだけれども、大事かもしれない。
残念なことに、この作者は、その小説の、エンディングをまだ分からない、知らないのだけれども。
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誰も頼ることはできない……これは、傲慢極まりない発言でありながら、その実感を事細かに書き連ねていくことの意味、その意味について考える必要はないのかもしれないが、無意識に任せてもあらぬ方向にいくだろう。
とかく、尊敬できる人は、この世の中に多く(相対概念だ)存在しているのである。
思考の部屋
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon
上のサイト、最近、数日前に見つけて読んでいたが、面白い、「生きる意味を見失ったら身体を休めてみよう」「生きる意味を考えることは意味がないこと」とか、如何にもアクセスを稼ごうとする、ワードプレスのテンプレート的なブログが多い中、上の記事は、ぶっちゃけ「読みにくい」。
意識的か無意識的か、それほど多くの記事を読んではいないが、少し読んですぐわかることは、この方は、実在して、生きていて、真に、正直に言葉をつづっているのだと、そう感じ取れることだ。
恐らく、その表現や、そもそも、自分の倍以上生きているような方なので、同じような感覚でいるとか、そういった「共感」をもつわけではない。
しかし、一般的な、表層的な共感はなくても、非常に興味深く、共感できる、そして、見習いたいと思ったわけだ。
僕の中途半端な宗教哲学や仏教などの知識理解よりも、相当深く、詳細に、正確に理解し、記憶されているだろうことが感じ取られる。
しかしながら、その完璧さが、決して、すべてではないということ、それもまた、僕は実感することができた。
というのは、やはり、僕は僕自身として、その感じ方、感じていることを表現することは、「人類にとって」重要であると思える、思えた、ということである。
もちろんこれは、最近飲んでいる東北の日本酒が2合程度はいっていて、気分が高揚し始めたことに起因するともいえるかもしれない。
しかし、それだけではないだろう。
と、いうよりも、それしか、できないだろうということである。
しかし、その書いたことそのことこそが、僕が何を求めているか、その答えとなってはいなかっただろうか。
表現をすること、それがやっぱり、「楽しい」というより、やりたいことなんだと思う。
で、それが、誰かに認められたいと思うかどうか、それもやはり、「その通り」なのだと思う。
で、そのことらと、子どもが欲しい、彼女が欲しい、嫁が欲しい、友人が欲しい、仕事でうまくやりたい、出世したい、お金が欲しい、楽をしたい、気持ちよくなりたい……
眠りたい、おいしいものを食べたい、旅行したい、もうそれらたくさんのいわゆる、それら「一般的な」欲求と、自分の気持ちの乖離が、
自分とは何か分からない
という感覚につながっているのではないだろうか。
「僕がしたいこと」というのが、一般的に意味があることとは認められていなくて、実際にそれが有意義かどうかわからなくて、そしてまさにそのことを僕自身が知っていて、僕もそれを強く、同時に「実感」するもんだから、僕が最近最重視している「実感」と「実感」が相反する方向を向いているもんだから、そりゃあ、自分ってもんがよく分からなくなるのは当たり前じゃあないか。
おそらく、僕がこのまま、好き勝手書いているのであれば、
思考の部屋
の作者さんのレベルには到底到達しないだろうし、かといって、いわゆる「リア充」的な、物理世界の肯定を前提とした欲求に身を任せるということも、いずれ、徐々に、自分がすり減ってくるであろうことが容易に想像される。
つまり、僕が、ずっと言ってきた、人は変わることができる、望んだことは手に入る、ということ、これは事実でありながら、きっと、現実的な意味において、もはや、「リア充」的な欲求というのは、これからもずっと、僕が自分のものとして実感を得る可能性はないだろうと、その点における実感が、この記事における新しく、記憶すべき点だ。
「言ってはいけない」
とかく、尊敬できる人は、この世の中に多く(相対概念だ)存在しているのである。
思考の部屋
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon
上のサイト、最近、数日前に見つけて読んでいたが、面白い、「生きる意味を見失ったら身体を休めてみよう」「生きる意味を考えることは意味がないこと」とか、如何にもアクセスを稼ごうとする、ワードプレスのテンプレート的なブログが多い中、上の記事は、ぶっちゃけ「読みにくい」。
意識的か無意識的か、それほど多くの記事を読んではいないが、少し読んですぐわかることは、この方は、実在して、生きていて、真に、正直に言葉をつづっているのだと、そう感じ取れることだ。
恐らく、その表現や、そもそも、自分の倍以上生きているような方なので、同じような感覚でいるとか、そういった「共感」をもつわけではない。
しかし、一般的な、表層的な共感はなくても、非常に興味深く、共感できる、そして、見習いたいと思ったわけだ。
釈尊が、それら五蘊(ごうん)のありようを通じて、未来のことは取り越し苦労をしないがよろしい、過ぎ去ったことは、いつまでもくよくよしないしないがよろしい、ただ、冷静に、そして力いっぱい、現存するところのものをよくよく観察して、なんの「揺らぐところがなく、動ずることもなく」して、「ただ今日まさに作すべきことを力いっぱい実践すること」がよろしい、「それが人間の最も賢明な生き方である」とといておられるのである。「一大事とは、今日只今のことなり」とは、かの白隠禅師の師正受老人(信州飯山の正受庵主、的翁慧端(1721年80歳寂)の名言である。引用されている言葉も、まぁ僕が書いているようなことと同じである……というのは、またしても傲慢ではあるが、僕の「実感」としてそれは「ある」。
表現をするということ
もう、この方のブログがあれば、僕のブログなんていらないじゃないか、いやはや、まったく事実だと思う。僕の中途半端な宗教哲学や仏教などの知識理解よりも、相当深く、詳細に、正確に理解し、記憶されているだろうことが感じ取られる。
しかしながら、その完璧さが、決して、すべてではないということ、それもまた、僕は実感することができた。
というのは、やはり、僕は僕自身として、その感じ方、感じていることを表現することは、「人類にとって」重要であると思える、思えた、ということである。
もちろんこれは、最近飲んでいる東北の日本酒が2合程度はいっていて、気分が高揚し始めたことに起因するともいえるかもしれない。
しかし、それだけではないだろう。
と、いうよりも、それしか、できないだろうということである。
好きなことをするということ
先の記事で、何をしたいのか分からない、何が好きなのか分からない、自分とは何だろうか、と書いた。しかし、その書いたことそのことこそが、僕が何を求めているか、その答えとなってはいなかっただろうか。
表現をすること、それがやっぱり、「楽しい」というより、やりたいことなんだと思う。
で、それが、誰かに認められたいと思うかどうか、それもやはり、「その通り」なのだと思う。
で、そのことらと、子どもが欲しい、彼女が欲しい、嫁が欲しい、友人が欲しい、仕事でうまくやりたい、出世したい、お金が欲しい、楽をしたい、気持ちよくなりたい……
眠りたい、おいしいものを食べたい、旅行したい、もうそれらたくさんのいわゆる、それら「一般的な」欲求と、自分の気持ちの乖離が、
自分とは何か分からない
という感覚につながっているのではないだろうか。
「僕がしたいこと」というのが、一般的に意味があることとは認められていなくて、実際にそれが有意義かどうかわからなくて、そしてまさにそのことを僕自身が知っていて、僕もそれを強く、同時に「実感」するもんだから、僕が最近最重視している「実感」と「実感」が相反する方向を向いているもんだから、そりゃあ、自分ってもんがよく分からなくなるのは当たり前じゃあないか。
実感を一つにする
であれば、すぐに思いつくのは、それらあらぬ方向を向いている実感を、一つの方向に向かせる、統一させるということ、それが思いつくわけだが、果たしてそれは可能なことだろうか。おそらく、僕がこのまま、好き勝手書いているのであれば、
思考の部屋
の作者さんのレベルには到底到達しないだろうし、かといって、いわゆる「リア充」的な、物理世界の肯定を前提とした欲求に身を任せるということも、いずれ、徐々に、自分がすり減ってくるであろうことが容易に想像される。
つまり、僕が、ずっと言ってきた、人は変わることができる、望んだことは手に入る、ということ、これは事実でありながら、きっと、現実的な意味において、もはや、「リア充」的な欲求というのは、これからもずっと、僕が自分のものとして実感を得る可能性はないだろうと、その点における実感が、この記事における新しく、記憶すべき点だ。
「言ってはいけない」
で言われるまでもなく、人間、ルックスが最重要(とは言い過ぎかもしれないが、そこが問題ではない。「人はルックスが9割」ともいわれるではないか)である。
女性がどうかは分からないが、これは、別にルックスの世界だけでなく、例えば、小説とかその他表現の世界においても、いやもはや仕事でもなんでも、この世界の法則として、確実に、「努力」での調整範囲は決まっている。
がんばりゃなんだってできる、ってのは、人間の限界性を認められない危険思考である。
人は空を飛べると崖から飛び降りるようなものだ。
つまり、すげー人はすげーんだ。って当たり前のことである。
そろそろ目がかすんできて、体力的な限界でありながら、もう少し、もう少しだけ書いていこう。
酒を飲みつつも、これ、書いていて、読んで、面白いのか、という疑念、この疑念との戦いながら、僕は一体何を目指しているのだろうか。
高揚している感覚としては、この唯一の記事、おそらく、すべてこれらの言葉は、僕のオリジナルであるのだから、全く同じ文脈を構築できる人はこの世の中に、日本という小さい範囲ではなく、世界規模的に、唯一性である。
それは、ゴミための落書きかもしれない、ただし、表現、その「表現」という意味において、この価値は、昇華させるネタにはなりえると思う。
途中から書いている記憶がない、これ、明日読んだら、赤面して消したくなるのだろうか……
女性がどうかは分からないが、これは、別にルックスの世界だけでなく、例えば、小説とかその他表現の世界においても、いやもはや仕事でもなんでも、この世界の法則として、確実に、「努力」での調整範囲は決まっている。
がんばりゃなんだってできる、ってのは、人間の限界性を認められない危険思考である。
人は空を飛べると崖から飛び降りるようなものだ。
限界性の呪い
そして、やる気をなくさせるのは、この呪いというか思考である。つまり、すげー人はすげーんだ。って当たり前のことである。
そろそろ目がかすんできて、体力的な限界でありながら、もう少し、もう少しだけ書いていこう。
酒を飲みつつも、これ、書いていて、読んで、面白いのか、という疑念、この疑念との戦いながら、僕は一体何を目指しているのだろうか。
高揚している感覚としては、この唯一の記事、おそらく、すべてこれらの言葉は、僕のオリジナルであるのだから、全く同じ文脈を構築できる人はこの世の中に、日本という小さい範囲ではなく、世界規模的に、唯一性である。
それは、ゴミための落書きかもしれない、ただし、表現、その「表現」という意味において、この価値は、昇華させるネタにはなりえると思う。
途中から書いている記憶がない、これ、明日読んだら、赤面して消したくなるのだろうか……
頼る人もいない、頼ろうとも思えない、そんな風に書いた先日。
昨日の記事を読んでみたが、書いているときは、なにか面白いことを書こうとか、読者を想定なんてしていなかったが、面白かった。
未来思考における再帰的な現時点性の肯定、というのが、よく表現されていると思った。
基本的に、苦しくても頑張れるのは、この構造がある。
と、書くと、僕はすぐにその反論を想定する。たとえば、厳しい教育をほどこされる、幼い子ども。
または、激しい上司のもとで過ごす部下、などは、未来思考でやりきっているとはいえないのではないか。
恐怖で思考が支配されている状態は、他の解決方法があるだろう。
問題は、ごく一般的な状況における生活において、どう未来思考をはたらかせているのか、ということだ。
思考は、現在、過去、未来のどれかに指向している。
基本的に、思考の状態は、現時点しかない。
ただし、時間の経過に対して、過ぎた方向を向けば過去思考であり、現在の経過時間単位よりも先に方向をむければ、未来思考となる。
厳密には、例えばある課題が発生したとき、類似の問題に対応する型を、過去の経験や記憶から思いだし、現時点目の前にある課題に当てはめることを考える、そして、その結果として問題がどう解決するのかを考える。
これらは、過去から未来に向けた思考をおこなっているわけだ。
ゆえに、厳密な思考分類は意味がないことに注意する必要がある。
そのうえで、未来思考の再帰性を考えるとはどういうことか?
現時点が苦悩であり、未来が希望であったとき、再帰的に現時点性に希望がもたらされる。
一方、現時点が楽しくても、未来が暗ければ、徐々に現時点は苦悩へと変わっていく。
過去に苦悩であり、現在が楽しければ、未来もまた楽しいだろうとの推測がおこる、いやしかし、この場合は、過去の苦悩がまた起こるのではとの恐怖により、未来の暗さから現時点が苦悩となることもある。
しかし、これをいってしまうと、人生一度も苦悩を味わうべきではない、ということになる。そんなことは不可能だ。
落ち込むこともある、でも、希望、楽しいこともある、このバランスが人生であり、生きるということだ。
頭をもう一度、しっかりと、考えを戻してみよう。
実感を大事にしなければいけない、いまぼくはどういった状態なのか。
そして、ぼくは、いま、何をしたら正しいのか、もしくは楽しいのか。
落ち込んだときの対処法として、自分のしたいことをたくさんあげてみる、というのがある。
それをしたいが、いま、したいことが浮かばない。
唯一、書いていたい、汗でべとべとするからお風呂に入りたいとか、そんなレベルだ。
まあそれで人生満足ならよいが、昨日から表現している空虚さや無気力さってのが、どう扱っていいか分からない。
ここで、また誰かに相談すると、離婚して落ち込んでしまっているのだ、大丈夫だよ、時間が解決してくれるよ、とか優しくしてくれるのだ。
そうではない、確かに加速したかもしれないが、そもそも、同じようなことを半年もそのもっと前から書いていたではないか。
逆に、いや、逆でもないかもだが、2008年とかその辺でたてた、人生の五年目標
が達成されて、自分というのが行方不明になっちまったのかもしれない。
例えば、このブログ丁寧にみてくれている方が何人かいるが、これすらなかったとき、いったい、エヴァのLCLの海のように、自己が溶け出してしまうというような、不安定な自己を、どう安定を保てばよいのだろう。
ここ、この場所が精神安定機構としてはたらいているのである。
この構造は、とても、ふつう、的であり、本当は、恋人とか家族とか、友人とか仕事とか趣味とか、なにかそういったものが、もしくはその複合的に自己を支えているのである。
ぼくはどうも、それらどれらにも所属していつつ、自己をコミットできていないような気がする。
マズローの欲求説のように、どこか、所属とか承認とかないと、人の心は不安定になるのだ。
認められたいとしたら、こうやってテキトーにかいていることが、やっぱり、面白いなーって感じてもらえることだ。
でもこの記載たちは、世界とのズレ、を欲求の基礎としているのであり、果たして、幸福論的に正しいのか、ってのは疑問。
もっとも、そうはいっても、
現時点的に、思考がとまらないとしたら、逃げられるものではない。
むしろ、思考がまったくでてこなくなるまで、徹底して書く必要があるだろう。
それは、同じことの繰り返しでも構わない、こんなに同じようなことを毎日のように書いてきてなぉ、まったく同じ表現になることはない。
何かの記事を引用したら、それで僕の心のすべてを表現できた、と、そう実感できるものはない。
であれば、まだ足りない、僕はまだ、自分を偽っている、自分を知っていない、自分を認めていない、自分を好きでない、そういった可能性があるのだ。
そこまで、自分を見つめる必要はないと、誰しもいうだろう、僕もむしろそう思う、けれども、それでも、
頑張る、努力する、賭ける、こうした、未来に向けた思考をストップさせることが重要だという主張である。
これは、みるひとがみれば、よくある、いわゆるスローライフ的な発想であり目新しいものではない。
ただ、先日の記事のごとく、相対表現に実体はない。
つまり、頑張る、という表現も、これにとらわれてしまうと、人生を、生きる意味を見失う原因になる。
つまり、頑張るとか、頑張らないとか、その表現に耳を傾けないようにするということだ。
昨日の記事を読んでみたが、書いているときは、なにか面白いことを書こうとか、読者を想定なんてしていなかったが、面白かった。
未来思考における再帰的な現時点性の肯定、というのが、よく表現されていると思った。
基本的に、苦しくても頑張れるのは、この構造がある。
と、書くと、僕はすぐにその反論を想定する。たとえば、厳しい教育をほどこされる、幼い子ども。
または、激しい上司のもとで過ごす部下、などは、未来思考でやりきっているとはいえないのではないか。
恐怖で思考が支配されている状態は、他の解決方法があるだろう。
問題は、ごく一般的な状況における生活において、どう未来思考をはたらかせているのか、ということだ。
未来思考とは
思考は、現在、過去、未来のどれかに指向している。
基本的に、思考の状態は、現時点しかない。
ただし、時間の経過に対して、過ぎた方向を向けば過去思考であり、現在の経過時間単位よりも先に方向をむければ、未来思考となる。
厳密には、例えばある課題が発生したとき、類似の問題に対応する型を、過去の経験や記憶から思いだし、現時点目の前にある課題に当てはめることを考える、そして、その結果として問題がどう解決するのかを考える。
これらは、過去から未来に向けた思考をおこなっているわけだ。
ゆえに、厳密な思考分類は意味がないことに注意する必要がある。
そのうえで、未来思考の再帰性を考えるとはどういうことか?
現時点が苦悩であり、未来が希望であったとき、再帰的に現時点性に希望がもたらされる。
一方、現時点が楽しくても、未来が暗ければ、徐々に現時点は苦悩へと変わっていく。
過去に苦悩であり、現在が楽しければ、未来もまた楽しいだろうとの推測がおこる、いやしかし、この場合は、過去の苦悩がまた起こるのではとの恐怖により、未来の暗さから現時点が苦悩となることもある。
しかし、これをいってしまうと、人生一度も苦悩を味わうべきではない、ということになる。そんなことは不可能だ。
落ち込むこともある、でも、希望、楽しいこともある、このバランスが人生であり、生きるということだ。
閑話休題の反対
閑話休題とは、本筋の説明に戻るときに使うが、逆に、余談に入りたいときの四字熟語ってあるのだろうか。さて。頭をもう一度、しっかりと、考えを戻してみよう。
実感を大事にしなければいけない、いまぼくはどういった状態なのか。
そして、ぼくは、いま、何をしたら正しいのか、もしくは楽しいのか。
落ち込んだときの対処法として、自分のしたいことをたくさんあげてみる、というのがある。
それをしたいが、いま、したいことが浮かばない。
唯一、書いていたい、汗でべとべとするからお風呂に入りたいとか、そんなレベルだ。
まあそれで人生満足ならよいが、昨日から表現している空虚さや無気力さってのが、どう扱っていいか分からない。
ここで、また誰かに相談すると、離婚して落ち込んでしまっているのだ、大丈夫だよ、時間が解決してくれるよ、とか優しくしてくれるのだ。
そうではない、確かに加速したかもしれないが、そもそも、同じようなことを半年もそのもっと前から書いていたではないか。
逆に、いや、逆でもないかもだが、2008年とかその辺でたてた、人生の五年目標
が達成されて、自分というのが行方不明になっちまったのかもしれない。
落ち込みが足りない
ということで、いま、実感として思ったのは、甘えているな、ってことだ。例えば、このブログ丁寧にみてくれている方が何人かいるが、これすらなかったとき、いったい、エヴァのLCLの海のように、自己が溶け出してしまうというような、不安定な自己を、どう安定を保てばよいのだろう。
ここ、この場所が精神安定機構としてはたらいているのである。
この構造は、とても、ふつう、的であり、本当は、恋人とか家族とか、友人とか仕事とか趣味とか、なにかそういったものが、もしくはその複合的に自己を支えているのである。
ぼくはどうも、それらどれらにも所属していつつ、自己をコミットできていないような気がする。
マズローの欲求説のように、どこか、所属とか承認とかないと、人の心は不安定になるのだ。
認められたいとしたら、こうやってテキトーにかいていることが、やっぱり、面白いなーって感じてもらえることだ。
いつまでもふつうになれない
でもこの記載たちは、世界とのズレ、を欲求の基礎としているのであり、果たして、幸福論的に正しいのか、ってのは疑問。
もっとも、そうはいっても、
現時点的に、思考がとまらないとしたら、逃げられるものではない。
むしろ、思考がまったくでてこなくなるまで、徹底して書く必要があるだろう。
それは、同じことの繰り返しでも構わない、こんなに同じようなことを毎日のように書いてきてなぉ、まったく同じ表現になることはない。
何かの記事を引用したら、それで僕の心のすべてを表現できた、と、そう実感できるものはない。
であれば、まだ足りない、僕はまだ、自分を偽っている、自分を知っていない、自分を認めていない、自分を好きでない、そういった可能性があるのだ。
そこまで、自分を見つめる必要はないと、誰しもいうだろう、僕もむしろそう思う、けれども、それでも、
死なないためには
末恐ろしい見出しタイトルだが、ひとつ、毎日を生きていくためには、頑張らないことだと思ったわけだ。頑張る、努力する、賭ける、こうした、未来に向けた思考をストップさせることが重要だという主張である。
これは、みるひとがみれば、よくある、いわゆるスローライフ的な発想であり目新しいものではない。
ただ、先日の記事のごとく、相対表現に実体はない。
つまり、頑張る、という表現も、これにとらわれてしまうと、人生を、生きる意味を見失う原因になる。
つまり、頑張るとか、頑張らないとか、その表現に耳を傾けないようにするということだ。
答えがないのは、大変なことだ。
かといって、日々ルーチンだと大変といわれたりする。
つかれた、これからかえりだ。
魅力的な人間になる必要がある。
魅力的なとは、何か特技をもっていることだ。
何か夢中になれるものをもっていることだ。
否。
他愛ない、テレビ番組についてきゃあきゃあと話せるならばそれでもいい。
問題は、僕は、何か、他者に話せることがないことだ。
いや、いま、それが書きたいのではない、もうとにかく、本当に、なにもかもが、やる気というか、力が抜けていくような感覚。
なんと、表現したらいいのだろう、なんだか、底無し沼でもがきながら、徐々に埋まっていくようだ。
先日書いた、無気力病か。やる気は起きないが、頑張れ頑張れと声がする。
先が見えない不安、ああ、でも、いまふと思い出した。
これは、大学四年あたりの、授業の一貫の、インターンのような実習のとき、仕事は夜遅くまで続き、帰っても準備がいろいろとあったり、気持ちがまったく休まらなかった。
もし、仕事をするようになったら、毎日こんなかんじなのか、何がたのしいんだ、全然希望もわかない、逃げ出したい、どこへ? 仕事は多い、プライベートなんてない、誰も頼りになら無い……
そういえば、そんな感じな時代があったきがする。
そのころは、もうこんな書く場所も気力もなかったが、いまこうして書いているのは、まだ余裕があるからか。
子どもは欲しいと思いながら、それに対しての、例えば合コンとか、婚カツサイトへの登録とか、友人の紹介をうけようとか、それらと一切やる気がしない。
というのは、最初の、魅力的な人間にならねば、という要請である。
ありのままの自分、それを愛してくれる人を探せばいいじゃない、そのとおり、ところが、いま、僕は、ありのままの自分というのも分からなくなっている。
俺は、誰だ?
とにかく多くの人たちとふれあい、自分というものを見つめ直していこう!
なんじゃそりゃ、いまさら、何を言うのか、十分人付き合いしてきたではないか。
いや、もっと、ふつう、の人はたくさん触れあっているのだ、君がふつうになるには、まだ足りないのだ。
うるせぇ、ふつうってなんだ、俺はふつうじゃないってのか。
ふつうじゃない、ふつうのひとは、こんなこと書いたりしない、こういう時間を、娯楽や自己研鑽にあてて、どんどん魅力的な人間になっていっている。
じゃあどうしたらいい、平日は最近仕事でいつもこれぐらいの時間だ。休日はほとんど、知人とでかけたり会ったりする予定でうまっている。いまの生活でこれ以上どうしたらいい?
とにかくまだまだできることがある、できることをしないで、諦めるのは、君の信条に反するのではなかったのか?
大きな誤りがある考えだ。
確かに、未来思考はじゅうようだ、しかしそれは、現時点での苦労や努力が、未来で成果を結ぶ、と信じられることによる、再帰的な現時点性の肯定であり、楽しみである。
いまの自分は、その未来がみえず、かといって現時点性の肯定ができるほどの元気もない。
生きたくもない、死にたくもない、ゾンビのような状況だ
ああ、うるさい、なら、酒だ。酒でものんで、泥酔して余計なことをわすれてしまえばいい。
愚かしい、酒を飲みすぎると気分が悪くなることはよくわかっているはずだし、相当な量も必要だ。
ゲームの時間は人生の無駄とかよくきくけれども、結構、人生につなぎとめてくれる意味で、重要なものだと思うなぁ。
こういったこと書いてると、若いうちに多くの経験をしなかったからだとか、勉強がたりなかった、努力がたりなかった、まぁそんな非難ばかりになるだろう。
これが、十代の少年なら、思春期だねぇと、保護の対象にすらなるかもしれない。
気持ちの悪い、いい大人が、こんなんでは害悪でしかないだろう。
ところが、僕は少なくても、その若いうちからこんなようなことを考えざるえなかったし、経験や努力的なことも、十分にやってきた。この、十分というのは、所詮比較概念になると、どれほどの量かは無意味になるから、十分に、としか表現のしようがない。
たとえば、努力が足りないから、もっと頑張れ、といってみれば、その空虚さがみにしみる。
それに、いわれなくても、むしろ、自分自身に、常に頑張れ頑張れと言われるのだ。
ああ、ほんとうに、もう、疲れる、疲れた。
いま、家にたどり着いたが、それで例えば、おかえり!今日も遅くまでお疲れさま!
といって迎えてくれる彼女でもいたらどうだろう、少しは元気になるだろうか。
なる気がする、でも、そんな可愛い子に対しても相手をする気力がわかない。
明日の打ち合わせとか気がかりだし…
他者に頼らないのが、やっぱりよくないのか。
よく考えたら、まあ、離婚からまだ2か月過ぎていないけれども、未だ、仲の良い友人たちにも、話しをしていない。というのは、まぁ、結婚式とか出てもらっていて、何だか申し訳ない、という気持ちが強いってのもあるんだけれども……。
なんだか、これが、俺の悪いところな気がするが、何か問題が発生したとき、誰かに丸投げしようとは思わないんだよな、相談は当然するんだけれども、最終的には、自分が解決しなければいけない、と思ってしまう。
任せることは任せる、ってのが、仕事でも重要ではあるのだから、これは課題と思う、のだが、そもそも、新規事業の開拓の仕事とか、そもそも後輩がいない部署だとか、あんまり指導されたことも指導したこともないかもしれない、もちろんゼロではないが……。
もちろん、誰か知り合いを紹介してもらうとか、有意義な時間になるだろうと思いつつも、そもそも、今、自分がどうしたいのか、それすら分からないときに、友人など他者と会話して、どうなるというのか。
実際、やってみたこともあって、まぁ数十分話をしていると、「それで、お前はどうしたいんだ?」とか、そういう話に向かっていく。「自分のしたいようにするのが一番だよ!」とか、励ましてくれたり、うんうん、優しい人たちだ。
いやでも、結局、どうしたらいいか、分からなくなるという構造。
だから、こうやって書いているのは、間違いなく、自分のためというのがある。いくら、きれいごとで、誰かの役に立ちたい、なんてブログの目的を書いたところで、いやまぁそれはそれで本気でそう思っているんだけれども、自分を知るためにやってるのが大きなウェイトだと思う。
でもなー、分からないなぁ。
とにかく、帰りの電車の中で、ものすごい疲労感でつぶされそうになるのは、回避したいと思う。
かといって、日々ルーチンだと大変といわれたりする。
つかれた、これからかえりだ。
魅力的な人間になる必要がある。
魅力的なとは、何か特技をもっていることだ。
何か夢中になれるものをもっていることだ。
否。
他愛ない、テレビ番組についてきゃあきゃあと話せるならばそれでもいい。
問題は、僕は、何か、他者に話せることがないことだ。
いや、いま、それが書きたいのではない、もうとにかく、本当に、なにもかもが、やる気というか、力が抜けていくような感覚。
なんと、表現したらいいのだろう、なんだか、底無し沼でもがきながら、徐々に埋まっていくようだ。
先日書いた、無気力病か。やる気は起きないが、頑張れ頑張れと声がする。
先が見えない不安、ああ、でも、いまふと思い出した。
これは、大学四年あたりの、授業の一貫の、インターンのような実習のとき、仕事は夜遅くまで続き、帰っても準備がいろいろとあったり、気持ちがまったく休まらなかった。
もし、仕事をするようになったら、毎日こんなかんじなのか、何がたのしいんだ、全然希望もわかない、逃げ出したい、どこへ? 仕事は多い、プライベートなんてない、誰も頼りになら無い……
そういえば、そんな感じな時代があったきがする。
そのころは、もうこんな書く場所も気力もなかったが、いまこうして書いているのは、まだ余裕があるからか。
子どもと生き甲斐
いやほんと、子どもが欲しいな、身体は健康で思考も健全ながら、やる気が、生きる気が、起きない、といいつつ、積極的に死のうとするわけではなく、なにもしたくないわけでもなくむしろ、頑張れ頑張れと心の声がきこえつつも、何で頑張る必要があるのだと無気力を呼び起こす声も聞こえる。子どもは欲しいと思いながら、それに対しての、例えば合コンとか、婚カツサイトへの登録とか、友人の紹介をうけようとか、それらと一切やる気がしない。
というのは、最初の、魅力的な人間にならねば、という要請である。
ありのままの自分、それを愛してくれる人を探せばいいじゃない、そのとおり、ところが、いま、僕は、ありのままの自分というのも分からなくなっている。
俺は、誰だ?
とにかく多くの人たちとふれあい、自分というものを見つめ直していこう!
なんじゃそりゃ、いまさら、何を言うのか、十分人付き合いしてきたではないか。
いや、もっと、ふつう、の人はたくさん触れあっているのだ、君がふつうになるには、まだ足りないのだ。
うるせぇ、ふつうってなんだ、俺はふつうじゃないってのか。
ふつうじゃない、ふつうのひとは、こんなこと書いたりしない、こういう時間を、娯楽や自己研鑽にあてて、どんどん魅力的な人間になっていっている。
じゃあどうしたらいい、平日は最近仕事でいつもこれぐらいの時間だ。休日はほとんど、知人とでかけたり会ったりする予定でうまっている。いまの生活でこれ以上どうしたらいい?
とにかくまだまだできることがある、できることをしないで、諦めるのは、君の信条に反するのではなかったのか?
大きな誤りがある考えだ。
確かに、未来思考はじゅうようだ、しかしそれは、現時点での苦労や努力が、未来で成果を結ぶ、と信じられることによる、再帰的な現時点性の肯定であり、楽しみである。
いまの自分は、その未来がみえず、かといって現時点性の肯定ができるほどの元気もない。
生きたくもない、死にたくもない、ゾンビのような状況だ
ああ、うるさい、なら、酒だ。酒でものんで、泥酔して余計なことをわすれてしまえばいい。
愚かしい、酒を飲みすぎると気分が悪くなることはよくわかっているはずだし、相当な量も必要だ。
熱中できるゲーム
思い出した、熱中できるゲームがないときも、こういった状況になりがちであった。ゲームの時間は人生の無駄とかよくきくけれども、結構、人生につなぎとめてくれる意味で、重要なものだと思うなぁ。
こういったこと書いてると、若いうちに多くの経験をしなかったからだとか、勉強がたりなかった、努力がたりなかった、まぁそんな非難ばかりになるだろう。
これが、十代の少年なら、思春期だねぇと、保護の対象にすらなるかもしれない。
気持ちの悪い、いい大人が、こんなんでは害悪でしかないだろう。
ところが、僕は少なくても、その若いうちからこんなようなことを考えざるえなかったし、経験や努力的なことも、十分にやってきた。この、十分というのは、所詮比較概念になると、どれほどの量かは無意味になるから、十分に、としか表現のしようがない。
たとえば、努力が足りないから、もっと頑張れ、といってみれば、その空虚さがみにしみる。
それに、いわれなくても、むしろ、自分自身に、常に頑張れ頑張れと言われるのだ。
ああ、ほんとうに、もう、疲れる、疲れた。
蛇足という追記
いま、家にたどり着いたが、それで例えば、おかえり!今日も遅くまでお疲れさま!
といって迎えてくれる彼女でもいたらどうだろう、少しは元気になるだろうか。
なる気がする、でも、そんな可愛い子に対しても相手をする気力がわかない。
明日の打ち合わせとか気がかりだし…
他者に頼らないのが、やっぱりよくないのか。
よく考えたら、まあ、離婚からまだ2か月過ぎていないけれども、未だ、仲の良い友人たちにも、話しをしていない。というのは、まぁ、結婚式とか出てもらっていて、何だか申し訳ない、という気持ちが強いってのもあるんだけれども……。
なんだか、これが、俺の悪いところな気がするが、何か問題が発生したとき、誰かに丸投げしようとは思わないんだよな、相談は当然するんだけれども、最終的には、自分が解決しなければいけない、と思ってしまう。
任せることは任せる、ってのが、仕事でも重要ではあるのだから、これは課題と思う、のだが、そもそも、新規事業の開拓の仕事とか、そもそも後輩がいない部署だとか、あんまり指導されたことも指導したこともないかもしれない、もちろんゼロではないが……。
でも相談ってどうするのか
と、客観的に自分を見ようとする面は、自分の長所と思いつつも、「離婚しました~」っといったところで、それを友人たちに言って、どうするのか。もちろん、誰か知り合いを紹介してもらうとか、有意義な時間になるだろうと思いつつも、そもそも、今、自分がどうしたいのか、それすら分からないときに、友人など他者と会話して、どうなるというのか。
実際、やってみたこともあって、まぁ数十分話をしていると、「それで、お前はどうしたいんだ?」とか、そういう話に向かっていく。「自分のしたいようにするのが一番だよ!」とか、励ましてくれたり、うんうん、優しい人たちだ。
いやでも、結局、どうしたらいいか、分からなくなるという構造。
だから、こうやって書いているのは、間違いなく、自分のためというのがある。いくら、きれいごとで、誰かの役に立ちたい、なんてブログの目的を書いたところで、いやまぁそれはそれで本気でそう思っているんだけれども、自分を知るためにやってるのが大きなウェイトだと思う。
でもなー、分からないなぁ。
とにかく、帰りの電車の中で、ものすごい疲労感でつぶされそうになるのは、回避したいと思う。
ネガティブ思考については、誰にも負けない自信がある。
こう書き始められるのは、森達也という方の、「まだ絶望していないあなたへ」という、参院選に向けた記事だ。
http://politas.jp/features/10/article/496
よく読んでいけば、その「ネガティブ」という表現が、決してマイナスのものではなく、積極的に人生を構築していく、前向きなものであることが伝わってくる。
ただ、一般向けに書かれた記事であるがゆえに、結論的には、「まぁどうせ無理だろうけど」と、諦念の表現に思えつつも、実は、皮肉的に「選挙に行かない人に対するプロパガンダ」であることが分かる。
何が言いたいかと言えば、僕が常日頃書いている、ネガティブというか、暗いようにしか思われない、毎日にやる気を感じられない、生きる意味が分からないといった表現、それらは、反転してポジティブであることの表現でしかないということの、一つの示唆であるということだ。
ご飯を食べて、食器を洗って、お風呂に入ってと、家事も含めれば思考なんて暇はない。
それゆえに、仕事を終えて、帰りの電車に乗ったとき、椅子に座れたら、眠りにつくこともできようが、電車の中に立っていると、どうにもこうにも、いろんなことのやる気がわいてこない。
Dead by Aprilの曲がウォークマンから流れてきて、大音量で流しながら、うつろな目をしながらつり革を握る。
他者に相談することが無意味であるとあれほど書いておきながら、いや、それはむしろ、「本音」で語り合える友人を欲する心性のあらわれではなかったのだろうか。
とかく、僕のとてつもなくネガティブでありながらポジティブな気持ちを、包み隠さず誰かに話したいと思った……いや、そうではない。誰かに話したいのではない、ゆえに、やはり、相談したいとか、愚痴を吐露してすっきりしたいとか、そういうわけではないのだ。
僕は、誰かと、この気持ちを「共有」したかった、それは、決して、僕の話を聞くことで暗い気持ちに引きずりこまれるのではなくて、普段から、表現のできない「生きづらさ」みたいなものを抱えていて、それがとてつもなく高まってしまい、どうしようもなく自分の存在が矮小に感じ、すべてのやる気が失われていくような感覚、そういった感覚をもった人と、その気持ちが本当に「存在する」のだということを、確かめたいと思ったのだ。
リア充はそれでいい、とてもいいことだ、普段の生活に満足している人もいい、イケメンでもブサメンでもどっちでもいい、お金持ちでも貧乏でもどうでもいい。
そうではなく、現に、今この瞬間に、なぜ自分は存在しているのか、と生きていることそれ自体に実感をえられないような、そんな人たちは、必ずいるわけだし、僕が特殊だなんてそんなはずはないのだけれども、しかし、そうした人たち同士が出会い、ましてやその感覚を共有するというのは、とてつもなく低い確率なのではないだろうか。
しかし確かに、考えてみれば、そうした感覚を共有して、そのあとどうしようというのか、それは分からない。
そもそも、多くの人に囲まれつつも非常に孤独であるという感覚を与える通勤電車というもののなかで、突発的に襲ってくる感覚なのだから、特に意味はないかもしれない。
そう、いまこうして書いているときは、それほど、苦しめられるものではない。
今日はスマートホンを忘れてしまったから、文章を書くという「逃避」(決して逃避であるとなんて思いたくはないのだが)をすることもできず、ただ、じっと耐えるしかなかった。
貧困から抜け出すには、戦争でも起きるしかないね、とあるモノカキが発言し、非難轟轟となったことがあるが、ハルマゲドン的な感覚、「なんかどえらい事件でも起きないかなぁ」と、日々の生活に退屈する男子高校生的な感性というのは、これまた珍しいものではない、とかいうと、やっぱり気持ち悪いと忌避されるから気を付ける必要があるが、よくあるエンターテイメントですませることはできない。
大抵は、日々の退屈が、本当に大きな事件が起こって、実は、日々の退屈な生活それ自体が幸せだったと気付かされるような構造となっている。エンターテイメントとしては、それはそれで成功するストーリー構成であると思う、が、実際に実存的な人生としてとらえたときに、果たして、世界の終末は起こり得るのだろうか、ということだ。
いや、もっと厳密に書けば、起こるかどうかということは決して推測できるものではない、それがゆえに、自己、自分自身が、「日々の生活が幸せである」と感じられるかどうか、実感の問題に他ならないというわけだ。
ルートは単純、日々の生活が幸せであると結果的に気付けたならばそれでよし、結局それがよく分からなければ、いわゆる「生きる意味」について、広く深く考えていく必要が発生するというわけだ。
ポイントは、相対的な言語表現が可能な事象・モノについては、一切真実たる実体は存在しないのだ、ということである。
ポジティブの反義語はネガティブ、という、反対のことが表現できるものは、それそのものとして存在することはできない、僕はネガティブなんですよねーという人がいたところで、もっともっとネガティブな人がいたら、最初の人は(相対的に)ポジティブになる。
極端でつまらない例えだが、身長がほとんどの人が130cmだとして、150cmの人は、背が高いことになる、でも、平均身長は男性で172cmぐらいだというから、150cmの人は背が低い。
次元として、130cmばかりのホビットの世界じゃあないだろうということで、結果として150cm小さい、ということになるのだけれども、この表現においてポイントはそこではなくて、「絶対的」だと思われてようが、それは、その条件下のものであって、大きい、小さい、多い少ない、長い短い、美しい醜い、相対的に表現が可能なものは、それそのものとして存在するわけではない、ということである。
だから、無理やり結論的なのを書いておけば、「すぐにポジティブ思考になれる7つの習慣」とか、「ネガティブ思考のススメ」とか、そういった記事というものは、もし読む必要があるのだとすれば、一歩も二歩も、後ろに下がった位置で読む方がよい。
真に受けると、結局、自分自身がよく分からなくなったり、現実の場面において、どう行動していいのか、考えていいのか分からなくなることだろう。
こう書き始められるのは、森達也という方の、「まだ絶望していないあなたへ」という、参院選に向けた記事だ。
http://politas.jp/features/10/article/496
よく読んでいけば、その「ネガティブ」という表現が、決してマイナスのものではなく、積極的に人生を構築していく、前向きなものであることが伝わってくる。
ただ、一般向けに書かれた記事であるがゆえに、結論的には、「まぁどうせ無理だろうけど」と、諦念の表現に思えつつも、実は、皮肉的に「選挙に行かない人に対するプロパガンダ」であることが分かる。
何が言いたいかと言えば、僕が常日頃書いている、ネガティブというか、暗いようにしか思われない、毎日にやる気を感じられない、生きる意味が分からないといった表現、それらは、反転してポジティブであることの表現でしかないということの、一つの示唆であるということだ。
帰りの電車の中で叫ぶ
家に帰ってしまえば、酒を飲んで、新しいゲーム(バージョンアップされた)をやって、読書して、ネットサーフィンして、と、時間はあっというまに過ぎる。ご飯を食べて、食器を洗って、お風呂に入ってと、家事も含めれば思考なんて暇はない。
それゆえに、仕事を終えて、帰りの電車に乗ったとき、椅子に座れたら、眠りにつくこともできようが、電車の中に立っていると、どうにもこうにも、いろんなことのやる気がわいてこない。
Dead by Aprilの曲がウォークマンから流れてきて、大音量で流しながら、うつろな目をしながらつり革を握る。
気持ちの共有
無性に、誰かと話したくなった。他者に相談することが無意味であるとあれほど書いておきながら、いや、それはむしろ、「本音」で語り合える友人を欲する心性のあらわれではなかったのだろうか。
とかく、僕のとてつもなくネガティブでありながらポジティブな気持ちを、包み隠さず誰かに話したいと思った……いや、そうではない。誰かに話したいのではない、ゆえに、やはり、相談したいとか、愚痴を吐露してすっきりしたいとか、そういうわけではないのだ。
僕は、誰かと、この気持ちを「共有」したかった、それは、決して、僕の話を聞くことで暗い気持ちに引きずりこまれるのではなくて、普段から、表現のできない「生きづらさ」みたいなものを抱えていて、それがとてつもなく高まってしまい、どうしようもなく自分の存在が矮小に感じ、すべてのやる気が失われていくような感覚、そういった感覚をもった人と、その気持ちが本当に「存在する」のだということを、確かめたいと思ったのだ。
リア充はそれでいい、とてもいいことだ、普段の生活に満足している人もいい、イケメンでもブサメンでもどっちでもいい、お金持ちでも貧乏でもどうでもいい。
そうではなく、現に、今この瞬間に、なぜ自分は存在しているのか、と生きていることそれ自体に実感をえられないような、そんな人たちは、必ずいるわけだし、僕が特殊だなんてそんなはずはないのだけれども、しかし、そうした人たち同士が出会い、ましてやその感覚を共有するというのは、とてつもなく低い確率なのではないだろうか。
共有してどうするのか
すぐに、現実的合理的に問いをかけようとする、この自分の思考というか頭というのは、どうにもコミュニケーションに難ありである、かっこ笑い。しかし確かに、考えてみれば、そうした感覚を共有して、そのあとどうしようというのか、それは分からない。
そもそも、多くの人に囲まれつつも非常に孤独であるという感覚を与える通勤電車というもののなかで、突発的に襲ってくる感覚なのだから、特に意味はないかもしれない。
そう、いまこうして書いているときは、それほど、苦しめられるものではない。
今日はスマートホンを忘れてしまったから、文章を書くという「逃避」(決して逃避であるとなんて思いたくはないのだが)をすることもできず、ただ、じっと耐えるしかなかった。
貧困から抜け出すには、戦争でも起きるしかないね、とあるモノカキが発言し、非難轟轟となったことがあるが、ハルマゲドン的な感覚、「なんかどえらい事件でも起きないかなぁ」と、日々の生活に退屈する男子高校生的な感性というのは、これまた珍しいものではない、とかいうと、やっぱり気持ち悪いと忌避されるから気を付ける必要があるが、よくあるエンターテイメントですませることはできない。
大抵は、日々の退屈が、本当に大きな事件が起こって、実は、日々の退屈な生活それ自体が幸せだったと気付かされるような構造となっている。エンターテイメントとしては、それはそれで成功するストーリー構成であると思う、が、実際に実存的な人生としてとらえたときに、果たして、世界の終末は起こり得るのだろうか、ということだ。
いや、もっと厳密に書けば、起こるかどうかということは決して推測できるものではない、それがゆえに、自己、自分自身が、「日々の生活が幸せである」と感じられるかどうか、実感の問題に他ならないというわけだ。
ルートは単純、日々の生活が幸せであると結果的に気付けたならばそれでよし、結局それがよく分からなければ、いわゆる「生きる意味」について、広く深く考えていく必要が発生するというわけだ。
ネガティブ思考について
無理やりタイトルに戻ってみれば、ネガティブとかポジティブとか、自分の性格とか他者にどうみられているとか、そんなこと気にしている暇などないのだ。ポイントは、相対的な言語表現が可能な事象・モノについては、一切真実たる実体は存在しないのだ、ということである。
ポジティブの反義語はネガティブ、という、反対のことが表現できるものは、それそのものとして存在することはできない、僕はネガティブなんですよねーという人がいたところで、もっともっとネガティブな人がいたら、最初の人は(相対的に)ポジティブになる。
極端でつまらない例えだが、身長がほとんどの人が130cmだとして、150cmの人は、背が高いことになる、でも、平均身長は男性で172cmぐらいだというから、150cmの人は背が低い。
次元として、130cmばかりのホビットの世界じゃあないだろうということで、結果として150cm小さい、ということになるのだけれども、この表現においてポイントはそこではなくて、「絶対的」だと思われてようが、それは、その条件下のものであって、大きい、小さい、多い少ない、長い短い、美しい醜い、相対的に表現が可能なものは、それそのものとして存在するわけではない、ということである。
だから、無理やり結論的なのを書いておけば、「すぐにポジティブ思考になれる7つの習慣」とか、「ネガティブ思考のススメ」とか、そういった記事というものは、もし読む必要があるのだとすれば、一歩も二歩も、後ろに下がった位置で読む方がよい。
真に受けると、結局、自分自身がよく分からなくなったり、現実の場面において、どう行動していいのか、考えていいのか分からなくなることだろう。
