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表現するということ思考の部屋
2016/07/08 00:32 | Comments(0) | 思考及び書くこと
誰も頼ることはできない……これは、傲慢極まりない発言でありながら、その実感を事細かに書き連ねていくことの意味、その意味について考える必要はないのかもしれないが、無意識に任せてもあらぬ方向にいくだろう。

とかく、尊敬できる人は、この世の中に多く(相対概念だ)存在しているのである。

思考の部屋
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon

上のサイト、最近、数日前に見つけて読んでいたが、面白い、「生きる意味を見失ったら身体を休めてみよう」「生きる意味を考えることは意味がないこと」とか、如何にもアクセスを稼ごうとする、ワードプレスのテンプレート的なブログが多い中、上の記事は、ぶっちゃけ「読みにくい」。

意識的か無意識的か、それほど多くの記事を読んではいないが、少し読んですぐわかることは、この方は、実在して、生きていて、真に、正直に言葉をつづっているのだと、そう感じ取れることだ。

恐らく、その表現や、そもそも、自分の倍以上生きているような方なので、同じような感覚でいるとか、そういった「共感」をもつわけではない。
しかし、一般的な、表層的な共感はなくても、非常に興味深く、共感できる、そして、見習いたいと思ったわけだ。


釈尊が、それら五蘊(ごうん)のありようを通じて、未来のことは取り越し苦労をしないがよろしい、過ぎ去ったことは、いつまでもくよくよしないしないがよろしい、ただ、冷静に、そして力いっぱい、現存するところのものをよくよく観察して、なんの「揺らぐところがなく、動ずることもなく」して、「ただ今日まさに作すべきことを力いっぱい実践すること」がよろしい、「それが人間の最も賢明な生き方である」とといておられるのである。「一大事とは、今日只今のことなり」とは、かの白隠禅師の師正受老人(信州飯山の正受庵主、的翁慧端(1721年80歳寂)の名言である。

引用されている言葉も、まぁ僕が書いているようなことと同じである……というのは、またしても傲慢ではあるが、僕の「実感」としてそれは「ある」。

表現をするということ

もう、この方のブログがあれば、僕のブログなんていらないじゃないか、いやはや、まったく事実だと思う。

僕の中途半端な宗教哲学や仏教などの知識理解よりも、相当深く、詳細に、正確に理解し、記憶されているだろうことが感じ取られる。


しかしながら、その完璧さが、決して、すべてではないということ、それもまた、僕は実感することができた。
というのは、やはり、僕は僕自身として、その感じ方、感じていることを表現することは、「人類にとって」重要であると思える、思えた、ということである。

もちろんこれは、最近飲んでいる東北の日本酒が2合程度はいっていて、気分が高揚し始めたことに起因するともいえるかもしれない。


しかし、それだけではないだろう。


と、いうよりも、それしか、できないだろうということである。

好きなことをするということ

先の記事で、何をしたいのか分からない、何が好きなのか分からない、自分とは何だろうか、と書いた。

しかし、その書いたことそのことこそが、僕が何を求めているか、その答えとなってはいなかっただろうか。

表現をすること、それがやっぱり、「楽しい」というより、やりたいことなんだと思う。

で、それが、誰かに認められたいと思うかどうか、それもやはり、「その通り」なのだと思う。



で、そのことらと、子どもが欲しい、彼女が欲しい、嫁が欲しい、友人が欲しい、仕事でうまくやりたい、出世したい、お金が欲しい、楽をしたい、気持ちよくなりたい……
眠りたい、おいしいものを食べたい、旅行したい、もうそれらたくさんのいわゆる、それら「一般的な」欲求と、自分の気持ちの乖離が、

自分とは何か分からない

という感覚につながっているのではないだろうか。


「僕がしたいこと」というのが、一般的に意味があることとは認められていなくて、実際にそれが有意義かどうかわからなくて、そしてまさにそのことを僕自身が知っていて、僕もそれを強く、同時に「実感」するもんだから、僕が最近最重視している「実感」と「実感」が相反する方向を向いているもんだから、そりゃあ、自分ってもんがよく分からなくなるのは当たり前じゃあないか。

実感を一つにする

であれば、すぐに思いつくのは、それらあらぬ方向を向いている実感を、一つの方向に向かせる、統一させるということ、それが思いつくわけだが、果たしてそれは可能なことだろうか。

おそらく、僕がこのまま、好き勝手書いているのであれば、

思考の部屋
の作者さんのレベルには到底到達しないだろうし、かといって、いわゆる「リア充」的な、物理世界の肯定を前提とした欲求に身を任せるということも、いずれ、徐々に、自分がすり減ってくるであろうことが容易に想像される。


つまり、僕が、ずっと言ってきた、人は変わることができる、望んだことは手に入る、ということ、これは事実でありながら、きっと、現実的な意味において、もはや、「リア充」的な欲求というのは、これからもずっと、僕が自分のものとして実感を得る可能性はないだろうと、その点における実感が、この記事における新しく、記憶すべき点だ。


「言ってはいけない」
で言われるまでもなく、人間、ルックスが最重要(とは言い過ぎかもしれないが、そこが問題ではない。「人はルックスが9割」ともいわれるではないか)である。

女性がどうかは分からないが、これは、別にルックスの世界だけでなく、例えば、小説とかその他表現の世界においても、いやもはや仕事でもなんでも、この世界の法則として、確実に、「努力」での調整範囲は決まっている。

がんばりゃなんだってできる、ってのは、人間の限界性を認められない危険思考である。

人は空を飛べると崖から飛び降りるようなものだ。

限界性の呪い

そして、やる気をなくさせるのは、この呪いというか思考である。

つまり、すげー人はすげーんだ。って当たり前のことである。

そろそろ目がかすんできて、体力的な限界でありながら、もう少し、もう少しだけ書いていこう。

酒を飲みつつも、これ、書いていて、読んで、面白いのか、という疑念、この疑念との戦いながら、僕は一体何を目指しているのだろうか。

高揚している感覚としては、この唯一の記事、おそらく、すべてこれらの言葉は、僕のオリジナルであるのだから、全く同じ文脈を構築できる人はこの世の中に、日本という小さい範囲ではなく、世界規模的に、唯一性である。

それは、ゴミための落書きかもしれない、ただし、表現、その「表現」という意味において、この価値は、昇華させるネタにはなりえると思う。




途中から書いている記憶がない、これ、明日読んだら、赤面して消したくなるのだろうか……



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