あー、もう23時か。今日も比較的早く家に着いたはずだけれども、あっという間だな。
あー、ジンベースのブルドッグ(グレープフルーツジュース割り)うめぇ。これで、部屋がもう少し片付いて綺麗だったらいうことないのだが。――机を拭く。うん、まぁ少し身の回りを掃除するだけでも少しだけ、気分は違うもんだ。
最近、ダラダラ書きすぎている。5分リミッターの方を見習って、僕も時間を決めて書いてみよう。そうさな、20分ぐらいでいこう。
今日は、センチネル族とか、絶対ドライブしたくない危険な世界の道とか、無為にネットサーフィンしてしまった。ああ、時間無駄にしたぁ、と思うところだが、発見もあった。
一つは、仏教の「ありがたい法話」について問題提起しているニコニコ動画をみたこと。仏教って、お坊さんの仏教、いわゆるお葬式とか儀式的なことする仏教と、仏教学者の仏教徒、ありがたい法話の仏教と、大きく3つあって、一般に知られているのはその程度だと言われていた。
でも、4つめの、修行する仏教ってのが、僕ら一人一人の「生」を考えたとき重要なのだと言われていて、そうそう、そのとおりだよなぁと思った。
その中でさらに、仏教って実は、芸術も否定するんだぜ、と言われていて、それは知らなかったから、勉強になった。何でも、感動するということが、それが良いものでも悪いものでも、よくないということだ。中道、とは、芸術も否定するのだなぁ。
その点は少々、是、とはしにくいな。最近、仏教系の話しとか書物とか読んでると、まさに我が意得たり! 的な感覚が多かったものだけれども、まぁ、納得しづらい部分があるというのは、やはりニュートラルな気持ちで接せられているのだという証左かとも思い、よい発見だと思った。
やっぱり、ちょーっと、仏教がいかに日本人に馴染みがあると言っても、仏教の考え方が割かし好き、というのは、いわゆる、某新興系仏教とかもあるし、何より、「宗教」って考え方が馴染みづらいものだから、表現しづらい面が多い。リアル、現実界においても、こうしたブログにおいても、これはもうどこでもそうだ。
書けば書くほどドツボな部分だけれども、別に僕は、宗教的な考え方が好きなのではない。これは何度も書いているけれども、現世御利益を求める仏教とか、全く興味がない。般若心経は諳んじられるけれども、南無阿弥陀仏を唱えれば浄土にいけるとか信じているわけではない。
キリスト教は、あんまり、よく分からないけれども、グノーシス主義とか、結構面白いと思ったし、日本の神話とかも面白いと思う。
でも、これらについては、いくら説明したとしても、宗教=胡散臭い=気持ち悪いの思考構造が構築されている人にとっては、理解できるものではないため、初めから触れないことが得策である。
そう、この話題になると僕はいつも思うのだけれども、話せば分かるとか、誰とでも理解しあえるとか、そんなわけないだろと、アホかと。
センチネル族に対して、インド政府は、何度も友好関係を結ぼうと接触を試みたらしい。スマトラ島地震のときは、救援物資を供給するためヘリを飛ばしたが、相手から送られたのは、矢の雨だったとか、もう笑い話である。
極端な思考の人が多いから、すぐさま書かなければいけないけれども、だからと言って、対話とか、他者とのコミュニケーションを諦めてよいという意味ではない。限界はある、という、当たり前のことでしかない。
おっと、時間が残り5分。制限時間を考えて、できる限り整理して書こうと思っていたら、思考がとまり、書く量も考える量も減ってしまいそうだ。もう一つだけ、メモすると、ダメブログ界なるものがあるということだ。
俺は思った。おお、まさに、俺の居場所が見つかった! と。
ところが、それらを読んでいくうちに、あれ、これ、多分、俺、相手にされないぞ、と思った。
それこそ、先日書いた、ラーメン食べたら贅沢もの、みたいな、そんな感じだ。
恐ろしいことに、ダメブログ界にも、カーストがあるのだ。
ええと、カーストってのは、ヴァルナとジャーティの二つの総称で、ヴァルナは、バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つで、ジャーテイというさらに細かい身分制度があって、それって3000ぐらいも分かれていて、それというのは、人は下を見て自分より弱い人とか立場の低い人がいると安心するからだって、確か本田透さんが言ってた気がするけれど、なんかそれを思い出した。
で、僕は、何だか、やっぱり、居場所をなくした小動物のように項垂れて、結局この場に帰ってきたのであるわけだが、ああ、もう30分たったか。
何だか時間ほんと早いなぁ……。
とりまず、日課は順調にこなせている。完全にルーチンの波に乗った。繰り返しになるけれども、今後問題は、例外事象への対応策。睡眠時間6時間を除く可用時間が2時間未満の際はルーチン免除であるという規定をもう一度思い出したところで、終わりにしよう。
いやぁ、ちょっと、もう一つだけ書かせてもらおう。
ホント、これ、時間、早いって。
もう2016年終わってしまうよ。
マジかよ。30代だぜ。
よく考えたら、いやぁほんと、よく生きてきたもんだ。20代です、きゃぴっ☆とか言ってられねーんだぜ。本気か。
これが僕が思い描いていた生活か、人生なのか?
いやそんなことはどうでもいい、これから、俺はどう生きていくつもりなんだ?
自サイトの改革だってやりたいし、曲作りも久しぶりにやりたい、書き始めた小説の短編も完結させたい。
仕事のスキルアップもしたい、多分ダメだったろう資格試験のリベンジもしたい。
恋活したい、婚活したい……ん? それはどうだろ。
友達100人つくりたい……ん? それはどうだろ?
おいおい、徹底して考えるんじゃないのかよ。こんな、日々忙殺されて過ぎていっていいのかよ。
もう一回ぐらい、本気で、全力で生きてみなくていいのかよ。
うるせー、黙れ、落ち着け。
超おつちいけ。どうどう、スティスティ。
いいか? 取りあえず、今日は、もう、終わり。歯磨きして、寝なさい。OK?
いえすまいろーど。
あー、ジンベースのブルドッグ(グレープフルーツジュース割り)うめぇ。これで、部屋がもう少し片付いて綺麗だったらいうことないのだが。――机を拭く。うん、まぁ少し身の回りを掃除するだけでも少しだけ、気分は違うもんだ。
最近、ダラダラ書きすぎている。5分リミッターの方を見習って、僕も時間を決めて書いてみよう。そうさな、20分ぐらいでいこう。
今日は、センチネル族とか、絶対ドライブしたくない危険な世界の道とか、無為にネットサーフィンしてしまった。ああ、時間無駄にしたぁ、と思うところだが、発見もあった。
一つは、仏教の「ありがたい法話」について問題提起しているニコニコ動画をみたこと。仏教って、お坊さんの仏教、いわゆるお葬式とか儀式的なことする仏教と、仏教学者の仏教徒、ありがたい法話の仏教と、大きく3つあって、一般に知られているのはその程度だと言われていた。
でも、4つめの、修行する仏教ってのが、僕ら一人一人の「生」を考えたとき重要なのだと言われていて、そうそう、そのとおりだよなぁと思った。
その中でさらに、仏教って実は、芸術も否定するんだぜ、と言われていて、それは知らなかったから、勉強になった。何でも、感動するということが、それが良いものでも悪いものでも、よくないということだ。中道、とは、芸術も否定するのだなぁ。
その点は少々、是、とはしにくいな。最近、仏教系の話しとか書物とか読んでると、まさに我が意得たり! 的な感覚が多かったものだけれども、まぁ、納得しづらい部分があるというのは、やはりニュートラルな気持ちで接せられているのだという証左かとも思い、よい発見だと思った。
やっぱり、ちょーっと、仏教がいかに日本人に馴染みがあると言っても、仏教の考え方が割かし好き、というのは、いわゆる、某新興系仏教とかもあるし、何より、「宗教」って考え方が馴染みづらいものだから、表現しづらい面が多い。リアル、現実界においても、こうしたブログにおいても、これはもうどこでもそうだ。
書けば書くほどドツボな部分だけれども、別に僕は、宗教的な考え方が好きなのではない。これは何度も書いているけれども、現世御利益を求める仏教とか、全く興味がない。般若心経は諳んじられるけれども、南無阿弥陀仏を唱えれば浄土にいけるとか信じているわけではない。
キリスト教は、あんまり、よく分からないけれども、グノーシス主義とか、結構面白いと思ったし、日本の神話とかも面白いと思う。
でも、これらについては、いくら説明したとしても、宗教=胡散臭い=気持ち悪いの思考構造が構築されている人にとっては、理解できるものではないため、初めから触れないことが得策である。
そう、この話題になると僕はいつも思うのだけれども、話せば分かるとか、誰とでも理解しあえるとか、そんなわけないだろと、アホかと。
センチネル族に対して、インド政府は、何度も友好関係を結ぼうと接触を試みたらしい。スマトラ島地震のときは、救援物資を供給するためヘリを飛ばしたが、相手から送られたのは、矢の雨だったとか、もう笑い話である。
極端な思考の人が多いから、すぐさま書かなければいけないけれども、だからと言って、対話とか、他者とのコミュニケーションを諦めてよいという意味ではない。限界はある、という、当たり前のことでしかない。
おっと、時間が残り5分。制限時間を考えて、できる限り整理して書こうと思っていたら、思考がとまり、書く量も考える量も減ってしまいそうだ。もう一つだけ、メモすると、ダメブログ界なるものがあるということだ。
ダメブログ界
ダメブログ界とは、その名の通り、自己卑下とか、何かいわゆる底辺的な思考や生活を送っている人たちの、みじめな生き様をさらすブログの総称、そしてそれらの集まりのことを指す。俺は思った。おお、まさに、俺の居場所が見つかった! と。
ところが、それらを読んでいくうちに、あれ、これ、多分、俺、相手にされないぞ、と思った。
それこそ、先日書いた、ラーメン食べたら贅沢もの、みたいな、そんな感じだ。
恐ろしいことに、ダメブログ界にも、カーストがあるのだ。
ええと、カーストってのは、ヴァルナとジャーティの二つの総称で、ヴァルナは、バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つで、ジャーテイというさらに細かい身分制度があって、それって3000ぐらいも分かれていて、それというのは、人は下を見て自分より弱い人とか立場の低い人がいると安心するからだって、確か本田透さんが言ってた気がするけれど、なんかそれを思い出した。
で、僕は、何だか、やっぱり、居場所をなくした小動物のように項垂れて、結局この場に帰ってきたのであるわけだが、ああ、もう30分たったか。
何だか時間ほんと早いなぁ……。
とりまず、日課は順調にこなせている。完全にルーチンの波に乗った。繰り返しになるけれども、今後問題は、例外事象への対応策。睡眠時間6時間を除く可用時間が2時間未満の際はルーチン免除であるという規定をもう一度思い出したところで、終わりにしよう。
いやぁ、ちょっと、もう一つだけ書かせてもらおう。
ホント、これ、時間、早いって。
もう2016年終わってしまうよ。
マジかよ。30代だぜ。
よく考えたら、いやぁほんと、よく生きてきたもんだ。20代です、きゃぴっ☆とか言ってられねーんだぜ。本気か。
これが僕が思い描いていた生活か、人生なのか?
いやそんなことはどうでもいい、これから、俺はどう生きていくつもりなんだ?
自サイトの改革だってやりたいし、曲作りも久しぶりにやりたい、書き始めた小説の短編も完結させたい。
仕事のスキルアップもしたい、多分ダメだったろう資格試験のリベンジもしたい。
恋活したい、婚活したい……ん? それはどうだろ。
友達100人つくりたい……ん? それはどうだろ?
おいおい、徹底して考えるんじゃないのかよ。こんな、日々忙殺されて過ぎていっていいのかよ。
もう一回ぐらい、本気で、全力で生きてみなくていいのかよ。
うるせー、黙れ、落ち着け。
超おつちいけ。どうどう、スティスティ。
いいか? 取りあえず、今日は、もう、終わり。歯磨きして、寝なさい。OK?
いえすまいろーど。
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今日は、久々に早く帰ってくることができた、と思ったら、もう21時か。外食して帰ってきてお風呂に入ってストレッチ、音読して、後はボーっとしていた。
時間、あっというまだな。
筋トレ、先にやってしまうか。……よし、今日の日課終わり。
一週間続けられると、軌道に乗る。あとは、特殊事象にどう対応するかが問題だ。目下、今週の土日を乗り切れるか。後は、今年の正月あたりの帰省とかかな。いや、その前の忘年会シーズンも危険だ。とか考えると、一人でいた方がよほど自己研鑽には良いのではないか、と思いますが、いえいえ、人との会話が脳を活性化させるのですよ。別に他者がいなくても、声に出して、自分との対話でもいいと思いますよ、やったことありませんが。でも、こうやって、文章において自分会議はよく試しております。中々、続かないものなのですがね、これもまた。
俺、幸せな人間か?
ああ、そう思う。だから、俺の人生とお前の人生とっかえてくれ。
と、ギャンブルで自己破産された人にもちかけられたら、俺は無碍に断るだろう。相手にもしない。と、いうより、人に「騙される」というのが非常に好きじゃない。その「騙される」というのが嫌なので、逆にもう、人を「信じるしかできない」状態にまでなってきているが、一方で、「何も信じられていない」ともいえる。いわば、「裏切る」行為含めた信用なのであるが、それって、心から信じてないよね、とか批判もある。ただ、そういった、「こころから」とか、そういう表現はもう相手にしないことにしている。いや、口語として「あり」なのは分かるが、言語表現として、文章として、言葉として、所詮露に忽ち消え去る幻想でしかない。
……というのが、僕が、両親を事故でなくした人とか、50歳で天涯孤独で猫と暮らす女性とか、親や弟からお金を無心されてつつ派遣社員として頑張る30代の人とかのブログを読んで思った感想だ。
どこが感想なんだ……と自分でも思うけれども、結局なんだろう、一番僕の実感に近い言葉を選ぶなら、タイトルに挙げた、「きりのなさ」になると思う。
なんだろう。僕の、みじめで非リア充的なくだらない人生の表現を読んで、少しでも元気出たり、楽しんでもらうような、そんな役立て方してもらえたらいいな、ぐらい考えていたけれども、なんてことない。失恋したーとか離婚したーとか会社で上司に使えねぇ奴扱いされたーとか、その程度、なんら珍しくも何ともなくて。
うーん、じゃあ、ポジティブ日記でも書けばいいのだろうか。
「人生を好転させる7つの習慣」とか、「これで大丈夫! 物ぐさな人でも計画倒れを無くす方法」とか、そんなの書けばいいんだろうか。
いや、そもそも、書かんでいいよ、勝手にローカルな記事で自己満ひたってろ、ってことだろうか。
……ああ、こうなると、過去記事、
を参照する。
うーむ、まとめ、で、やっぱり、「役に立ちたい」と書いている。その「役に立つ」というのが、今揺らいできた。
そうすると、「整理しやすい」「後から読みやすい」「カテゴリ分け便利」の、表面的な理由だけが残ってくる。
それだけで、本当に続けてよいのか。
そう、前提として、やっぱり、こうして書いているのは、楽しいのである。結構、優位に楽しいのである。ゲームとかやってるより楽しかったりするのである。
だから、今後も、書くこと自体は多分、死ぬまで続くような気がする。まぁそれはいい、ただ、それを公開して何になるんやねん、と、そういうことだ。
そういう感覚のまま書いてるときって、たいてい、後から読んでも非常に面白くない。ある意味、「黒歴史」的な、後から読んで、「あああああうぁああぁ!!」と赤面し穴を掘って入りたくなるようなものになりがちである。
意外と、恋について云々最近書いている奴は、やべぇかなと思っていたけれども、案外、平気だった。それは多分、完全に傍観者になってしまってるからだというのと、それらを書いていた時、確かに、非常に不快な気持であったからだと思う。
それが、甘美な幻想、懐古的なエクスタシーの中で書いていたら、きっとおぞましいものに仕上がった気がする、恐ろしい。
だから本来、これらの記事は、文章は、言葉は、未来や過去の僕との対話であるべきであって、決して、他者へ向けたものであってはいけないと思う。いや故にそれが、どこかしら引っかかりになって、誰かの思考に幾何かでも影響を与えられたら、それは嬉しいことなのであって、そのことが、まさに、ブログやめようとしてたときにメッセージくれた二人の方への紛れもない、久々に思考の介在しない感謝の気持ちとなったわけだけれども、それは、いわば偶然の、幸運な出来事であったのであり、そこに、私の行為としての影響があったわけではないのだ。
思い出してきた、そう、僕が今日朝に思ったのは、努力信仰の否定、である。
思った、のだけれども、表現がすっ飛んでしまった。何だっけ? 思い出せない、まぁいいや。
結論だけ書くとすれば、「努力」として頑張っても、それは失敗する、ということだ。
努力自体を楽しみながらやらねばならない、と、そういうことだ。すぐさま、批判が飛んでくる、こわぇえ、ええと、そうだよな、人生そんな甘いもんじゃないよな、苦しいこともあるのが人生だよな、シッダールタさんも、一切皆苦って言ってたもんな。
仰る通りだ、認める、俺が間違っている……が、それでも、努力なんてもう知らん、と、言い切る。いや、お前が最近始めた、まぁ一般的には大したことない日課、ルーチンとか、仕事とか、何なの? それは、努力って言わないの?
まず、ルーチンは、「習慣」のためにやってることであり、努力とは違う。いや、今は確かに、努力なのかもしれないが、努力が目的ではない。洗濯や部屋の掃除は努力か? まぁ、汚部屋とかゴミ屋敷においては努力になるだろうが、じゃあ、歯を磨くとか、風呂に入るとか、それは努力か? 今日とか段々寒くなってくると、風呂に入るのも面倒になってくるが、別にそれを努力とは言わない。普通にするのが習慣だ。
習慣にする過程に、わずかばかり、努力があるかもしれない。けれども、努力は、できる限り「無い」方がいい。だから、努力なんてしない方がいい、ということだ。
努力はしない方がいい、と書いた。
でも、じゃあ、やりたくない仕事、面倒な仕事を、お金稼ぐために頑張ってやるのって、それ、努力というんじゃないのか、と。そして、そういうのひっくるめて、人生って奴で、それは必要なことだろう、好きなことばっかり追求するのって、そんなの無茶だろうと、前の記事で書いた。
これは、矛盾じゃなかろうか。
まず、これはくだらないレベルのことになるけれども、この世は、ポジティブとネガティブと、どっちがいいんだっけ? ポジティブだ。徹底して、ポジティブであるのが、この世界の「正解」である。
んじゃあ、面倒な勉強とか、やりたくない仕事を、無理やり嫌々やることは、正解か? 否。ダメなことだ。
であれば、やっぱり、楽しいこと、好きなことをとことんやって生きていくのが、至上である、ということになる。
これが前提だ。そして、これは正しい。正論だ。覆らない。「自分は、自分が不幸なのが幸せです♪」なんて人がいたとしても、何のことは無い、やっぱり、それは「幸せ」なのだ。
苦しい、イヤだ、めんどくさい、心配だ、焦り。
それらネガティブな感情は、何故あるのだろうか? それは、リスクヘッジ、危機回避のために必要な心の働きである。
生きたい、という本能のために、自己保存するために、人は、危険を回避しようと頭を使う。
メンドクサイという感情から、もっと効率的な行動方策を考え出し、焦りからは、スピーディーなアウトプットパフォーマンスを発揮させる。
であれば、常に満々大満足ハッピー超サイコー、な状態など、原理的に不可能である。
と、同時に、最初の前提のとおり、やっぱり、楽しいこと・好きなことが、正解である。矛盾、矛盾。
その矛盾を調整するのが、人間が行うべきすべての行動、思考である。
だから、人間は、どう生きるかというと、その、現実と、発生する感情とを勘案し、可及的速やかに、そしてどこまでもポジティブに、明るく、好きで、楽しく、幸せにしていくのが、正しい生き方なのである。
俺はダメな人間だ。
頑張ったって成果はでない。
ぶさいくだし体格もよくない。
頭も悪い。
一芸に秀でてるわけでない。
流されやすい。
疲れやすい。
などなど、ネガティブなことを書いたり言ったり、やったり考えたりしては、一瞬たりともダメなのだ。
世界は、自分の頭の中で創造した物語などではない。
いくら、発生する負の感情を抑圧しようと、それは収まることを知らない。
その負の感情を利用して、現実的な行動方策(それは時に攻撃的なものであったろう)に昇華してきたが、その方針は、精神力(MP)を大量に消費することになる。
メンタルポイント(MP)は、嬉しいことや楽しいことがあったりすると少し回復するけれども、その均衡が崩れ始めると、ゼロサムゲームどころか、人生のあらゆる場面において、何ら楽しいとか気持ちいとかそんな感情が発生しなくなっていくのである。
無味乾燥。まだ、何も感じなくなるのであればいいが、だんだん、すべてに不満や、怒りをもつようになる。そのもじゃもじゃ、ぐちゃぐちゃ、トゲトゲが、外に向かえば他者を物理的に傷つけるし、自分に向かえば自殺に繋がったりする。
こうなると、もう、単純に救い出すことは困難だ。
人は変われない、とか、大人になると変われなくなるとか、巷では言われるけれども、俺は嫌いな言葉だ。人はいつ、どんなときでも、変わることができる。いや、その言い方すらバカバカしい、人は常に変わっている。
ただ、その、人を人足らしめるもの、それは前々の記事などでも書いてきたが、「記憶」と「感情」、それは、長年蓄積され、構築されたものは、変わりにくい、否むしろこれについては、変わらないと言っていい。積み重なった思いから、感情が抜け落ちたとしても、それは、記憶として残り続ける。無かったことには、リセットされることには、ならないのだ。
だが、その、記憶や感情を用いるのは、ほかならぬ、今、現存している、この瞬間の、僕たちだ。
今、この瞬間にも、考え方を変えることはできるのだ。僕は、それを信じてやまない。
けれども、そうなのだけれども、負の感情に支配されてしまうと、MPの回復は相当困難になってしまう。
それは、ポジティブであるのが至上命題だからだ。
現実と自己をポジティブな方向に調整するのが正しい生き方だ。
しかし、負の感情の発生は避けられない。
負の感情それ自体は、人間の生存方策上必要なものだからだ。
だが、負の感情に支配されてしまうと、人は正しい生き方ができなくなる。
じゃあ、お前の日記は、何故いつもネガティブなことを書くのか。
アンサー、それは、発生する感情を無視しても、それは逆効果だと分かっているからだ。
自分のこと、本気でいい人間だと思っていられる人はいい。
だが、自分の内から発せられる言葉を無視して、周囲から求められる人間像であろうとし続けたとき、発生することは容易に想像できる、というよりも、俺は、もう欲求がなくなっていった。
何に対しても興味をなくしてしまった。
そう、負の感情の無視は、負の感情だけでなく、すべての感情をそぎ落としてしまうのである。
感情感情、と、異なる言葉を使ってきたが、最近の僕の言葉からすれば、「実感」というのと同義である。実感と感情を大事にしようということだ。
スゲー人いっぱいいる。
ポジティブな方面はもちろんだけど、ネガティブな方面も、突き抜けてすごい人がいっぱいいる。
一凡人の俺の考えなんて、何になるってんだ、いや何にもならんじゃないか……。
という思いを、無視しちゃならん、ということだ。
いや、今も、そう思うし、正直不快な状態であるのは間違いないけれども、でも、でもだ。
それを表現し、カタチにしておくのは、非常に重要であるということだ。
なにせ、感情とか実感とか、大事だ大事だいってるわりに、その感情とか実感ってのが、「なんんなのか」さっぱり分からんからだ。
タイトルに表現したように、上見ても下見てもきりがないから、だから、とにかく自分の気持ちを大事にしようぜ、ということ、それが、今この瞬間表現できたから、「ああ、俺、そうか、そういう気持ちだったんだな」となるのであって、これをしないと、「うーん、何だか、よく分からないけど、他の人の記事読んでたら焦りというか不安というか、なんだか不快な気分になってきたなぁ……」となって、強い酒でも飲んで忘却しようと試みるかもしれない。
「忘れることは大事さ」
「酒ってのが、人生には必要なもんだよ」
という、人生の先輩の教訓はあるかもしれない、だが、僕は、それらには反抗する。
徹底して考えてやる、表現してやる、と、そういう宣戦布告である。
そのうえで、ハッピーエンドを迎える、そういうシナリオだ。
だから、俺のこれまでの記事は、そしてこれからの記事も、全部、ハッピーハッピー超ハッピーなものなのだけれども、残念ながらそれが伝わらずに、気持ち悪い、何言ってるか分からない、さようなら、となることもあったわけで、これからもあろうことと思うので、何とも恐怖なのであるけれど。
いやぁ、ハッピーエンドじゃない物語なんて、読みたくないじゃん?
確かに、昔、バッドエンドだってありだ、と思っていた。20代前半くらいだったろうか。いや、ここでいうバッドエンドってのは、「俺の人生失敗ばかりだった。今日も僅かばかりの日当をもらうためバイトに行き、一日の締めくくりはコンビニ弁当だ。こんな孤独な人生、もう嫌だ。俺は一人寂しく、大量の睡眠薬を口に運んだ」という物語があったとして、その事細かな心理描写がしっかりされていたら、それは、単純なバッドエンドとは俺は思わない気がする。
彼、は、そこで死を選んだのだとしても、彼のその悲惨で目も当てられない辛い人生に、ようやく安寧が訪れたとしたら、それはそれで、不謹慎極まりないが、かっこつきの「ハッピーエンド」と解釈できまいか、いや、そう解釈したい、いや、俺はする。そうじゃなきゃ、彼が可哀そう……かわいそう? 同情? くだらん感情だ、いや、まぁそうだとしても、とにかく、上の物語はハッピーエンドだと、俺はしたい。
本当のバッドエンドってのは、ネトラレ、はどうか分からないが、人騙して私服こやすクソ野郎が、結局何のお咎めなく幸せに年取って孫に看取られて死ぬとか、それは本当の意味のバッドエンドだ。そんな物語読みたくない、いや害悪だとすら思うだろう。屑には相応の報いがあって欲しいと思う。(まー、その、屑とかクソ野郎とかいう定義もまた、とくに明確なわけじゃなくて、その時々で変わる感覚的なものに過ぎないわけだけれど)
少し話がずれたが、別に、死そのものがバッドエンドってわけじゃない。
仏教聖典において、ブッダがクシナガラで入滅したのが、弟子たちはみな涙して惜しむだろうけれども、別にバッドエンディングなんかじゃないだろう、
(キリストさんは何か復活しちゃうから、ここでの例えがちょっと違う気がした)
まぁ……その、なんだ。
割かし、なんか、このブログ続けてどうすんだ、と、本気で思ってしまっていたが、取りあえず、ハッピーエンドにするまで、もう少し続けさせて頂きたい。
連載中止、打ち切りとか、嫌だ。
どんなものであれ、完結、完成したものってのは、価値があるものだと思う。
小学校ぐらいに作曲した稚拙な曲であっても、逆に、今それよりはもっと良いのを作れると思うのであれば、それはそれでとても価値があることだ。
何事も、諦めないで最後までやり通すことが大事なのだ……
……と、何だかきれいな感じで終わろうとしたけれども、またすぐさま、「諦めるということの重要性と、その使い方について」とか浮かんでしまった。
うーん……、どうしても、何だか、表現するたびに違和感が残るんだよな。
確かに、「理想と現実のギャップ」とか、「実感の重要性」とか、違和感がなくなってきた表現もあるのだけれども、総体として何か事象を表現しようとしたとき、又は、ある事象から抽象的にして応用できるように試みたとき、どうしても様々な違和感が発生していくのである。
例えば、「真理なんてない」という何度か書いてみた表現も、それはそれでやはり違和感なのである。そんな理由を考えながら殆ど指を止めずに書いていると、気づいたら、おぉ?! 1時間半も過ぎている、というわけか。
――命は光陰に移されて暫くも停め難し。
時間、あっというまだな。
筋トレ、先にやってしまうか。……よし、今日の日課終わり。
一週間続けられると、軌道に乗る。あとは、特殊事象にどう対応するかが問題だ。目下、今週の土日を乗り切れるか。後は、今年の正月あたりの帰省とかかな。いや、その前の忘年会シーズンも危険だ。とか考えると、一人でいた方がよほど自己研鑽には良いのではないか、と思いますが、いえいえ、人との会話が脳を活性化させるのですよ。別に他者がいなくても、声に出して、自分との対話でもいいと思いますよ、やったことありませんが。でも、こうやって、文章において自分会議はよく試しております。中々、続かないものなのですがね、これもまた。
ネガティブ日記を読んで
なんだろう、例えば、お外でラーメン食べてきました、超美味しかったです、と書いたとして、それに対して、「なんだお前、リッチじゃないか。こちとら、カップラーメンだって贅沢で、袋めんしか食えないんだぞ」とかコメントされても、正直複雑な表情しかできん。俺、幸せな人間か?
ああ、そう思う。だから、俺の人生とお前の人生とっかえてくれ。
と、ギャンブルで自己破産された人にもちかけられたら、俺は無碍に断るだろう。相手にもしない。と、いうより、人に「騙される」というのが非常に好きじゃない。その「騙される」というのが嫌なので、逆にもう、人を「信じるしかできない」状態にまでなってきているが、一方で、「何も信じられていない」ともいえる。いわば、「裏切る」行為含めた信用なのであるが、それって、心から信じてないよね、とか批判もある。ただ、そういった、「こころから」とか、そういう表現はもう相手にしないことにしている。いや、口語として「あり」なのは分かるが、言語表現として、文章として、言葉として、所詮露に忽ち消え去る幻想でしかない。
……というのが、僕が、両親を事故でなくした人とか、50歳で天涯孤独で猫と暮らす女性とか、親や弟からお金を無心されてつつ派遣社員として頑張る30代の人とかのブログを読んで思った感想だ。
どこが感想なんだ……と自分でも思うけれども、結局なんだろう、一番僕の実感に近い言葉を選ぶなら、タイトルに挙げた、「きりのなさ」になると思う。
なんだろう。僕の、みじめで非リア充的なくだらない人生の表現を読んで、少しでも元気出たり、楽しんでもらうような、そんな役立て方してもらえたらいいな、ぐらい考えていたけれども、なんてことない。失恋したーとか離婚したーとか会社で上司に使えねぇ奴扱いされたーとか、その程度、なんら珍しくも何ともなくて。
うーん、じゃあ、ポジティブ日記でも書けばいいのだろうか。
「人生を好転させる7つの習慣」とか、「これで大丈夫! 物ぐさな人でも計画倒れを無くす方法」とか、そんなの書けばいいんだろうか。
いや、そもそも、書かんでいいよ、勝手にローカルな記事で自己満ひたってろ、ってことだろうか。
……ああ、こうなると、過去記事、
何故ブログを書くのか
・整理しやすいから・後から読みやすいから・カテゴリ分けが便利これらは表面上の理由。じゃあ非公開でもいいじゃないか、となる。・公開を意識することで、文章が読みやすくなり、結果あとから自分が読んだ時も理解しやすい・少しでも、自分の苦悩などが、誰かの役に立ってほしい(笑いでも、カタルシスでも、参考としてでも)<まとめ>役に立ちたい、その思いから、ブログを書き、公開している。
を参照する。
うーむ、まとめ、で、やっぱり、「役に立ちたい」と書いている。その「役に立つ」というのが、今揺らいできた。
そうすると、「整理しやすい」「後から読みやすい」「カテゴリ分け便利」の、表面的な理由だけが残ってくる。
それだけで、本当に続けてよいのか。
そう、前提として、やっぱり、こうして書いているのは、楽しいのである。結構、優位に楽しいのである。ゲームとかやってるより楽しかったりするのである。
だから、今後も、書くこと自体は多分、死ぬまで続くような気がする。まぁそれはいい、ただ、それを公開して何になるんやねん、と、そういうことだ。
結局単なる自慢になってはいないか
常々、気を付けなければと思うのは、「俺、こんなこと考えられますよ、すごいでしょw」的な感覚になってはいまいか、という心配。そういう感覚のまま書いてるときって、たいてい、後から読んでも非常に面白くない。ある意味、「黒歴史」的な、後から読んで、「あああああうぁああぁ!!」と赤面し穴を掘って入りたくなるようなものになりがちである。
意外と、恋について云々最近書いている奴は、やべぇかなと思っていたけれども、案外、平気だった。それは多分、完全に傍観者になってしまってるからだというのと、それらを書いていた時、確かに、非常に不快な気持であったからだと思う。
それが、甘美な幻想、懐古的なエクスタシーの中で書いていたら、きっとおぞましいものに仕上がった気がする、恐ろしい。
だから本来、これらの記事は、文章は、言葉は、未来や過去の僕との対話であるべきであって、決して、他者へ向けたものであってはいけないと思う。いや故にそれが、どこかしら引っかかりになって、誰かの思考に幾何かでも影響を与えられたら、それは嬉しいことなのであって、そのことが、まさに、ブログやめようとしてたときにメッセージくれた二人の方への紛れもない、久々に思考の介在しない感謝の気持ちとなったわけだけれども、それは、いわば偶然の、幸運な出来事であったのであり、そこに、私の行為としての影響があったわけではないのだ。
思い出してきた、そう、僕が今日朝に思ったのは、努力信仰の否定、である。
努力信仰の否定
今日朝に書いた内容において、お金がなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。彼女ができなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。しかし、現実の存在規定は忘れるな。国家予算レベルの金を手にするのは個人では無理だし、アイドルレベルの美貌の女の子と付き合うのは無理だ。しかし、現実への働きかけと、自らの存在規定の変化によって、理想自己と現実自己のかい離を小さくすることはできる。それを人は努力といい、イキイキしているといい、前向きだといい、頑張ってるといい、かっこいいという。と書いたけれども、その「努力」を、実はすぐさま否定しなければならないと、書き終わって駅の中を歩きながら思っていた。
思った、のだけれども、表現がすっ飛んでしまった。何だっけ? 思い出せない、まぁいいや。
結論だけ書くとすれば、「努力」として頑張っても、それは失敗する、ということだ。
努力自体を楽しみながらやらねばならない、と、そういうことだ。すぐさま、批判が飛んでくる、こわぇえ、ええと、そうだよな、人生そんな甘いもんじゃないよな、苦しいこともあるのが人生だよな、シッダールタさんも、一切皆苦って言ってたもんな。
仰る通りだ、認める、俺が間違っている……が、それでも、努力なんてもう知らん、と、言い切る。いや、お前が最近始めた、まぁ一般的には大したことない日課、ルーチンとか、仕事とか、何なの? それは、努力って言わないの?
まず、ルーチンは、「習慣」のためにやってることであり、努力とは違う。いや、今は確かに、努力なのかもしれないが、努力が目的ではない。洗濯や部屋の掃除は努力か? まぁ、汚部屋とかゴミ屋敷においては努力になるだろうが、じゃあ、歯を磨くとか、風呂に入るとか、それは努力か? 今日とか段々寒くなってくると、風呂に入るのも面倒になってくるが、別にそれを努力とは言わない。普通にするのが習慣だ。
習慣にする過程に、わずかばかり、努力があるかもしれない。けれども、努力は、できる限り「無い」方がいい。だから、努力なんてしない方がいい、ということだ。
生き方について
本当は、「生きる意味」を考えたいところだが、多分、「生き方」を書いているうちに時間切れというか、限界になりそうだ(頭と体が)。努力はしない方がいい、と書いた。
でも、じゃあ、やりたくない仕事、面倒な仕事を、お金稼ぐために頑張ってやるのって、それ、努力というんじゃないのか、と。そして、そういうのひっくるめて、人生って奴で、それは必要なことだろう、好きなことばっかり追求するのって、そんなの無茶だろうと、前の記事で書いた。
これは、矛盾じゃなかろうか。
まず、これはくだらないレベルのことになるけれども、この世は、ポジティブとネガティブと、どっちがいいんだっけ? ポジティブだ。徹底して、ポジティブであるのが、この世界の「正解」である。
んじゃあ、面倒な勉強とか、やりたくない仕事を、無理やり嫌々やることは、正解か? 否。ダメなことだ。
であれば、やっぱり、楽しいこと、好きなことをとことんやって生きていくのが、至上である、ということになる。
これが前提だ。そして、これは正しい。正論だ。覆らない。「自分は、自分が不幸なのが幸せです♪」なんて人がいたとしても、何のことは無い、やっぱり、それは「幸せ」なのだ。
現実とのギャップ
次に、何それ、できんの、それ? 現実的なの? という問い。苦しい、イヤだ、めんどくさい、心配だ、焦り。
それらネガティブな感情は、何故あるのだろうか? それは、リスクヘッジ、危機回避のために必要な心の働きである。
生きたい、という本能のために、自己保存するために、人は、危険を回避しようと頭を使う。
メンドクサイという感情から、もっと効率的な行動方策を考え出し、焦りからは、スピーディーなアウトプットパフォーマンスを発揮させる。
であれば、常に満々大満足ハッピー超サイコー、な状態など、原理的に不可能である。
と、同時に、最初の前提のとおり、やっぱり、楽しいこと・好きなことが、正解である。矛盾、矛盾。
その矛盾を調整するのが、人間が行うべきすべての行動、思考である。
だから、人間は、どう生きるかというと、その、現実と、発生する感情とを勘案し、可及的速やかに、そしてどこまでもポジティブに、明るく、好きで、楽しく、幸せにしていくのが、正しい生き方なのである。
俺はダメな人間だ。
頑張ったって成果はでない。
ぶさいくだし体格もよくない。
頭も悪い。
一芸に秀でてるわけでない。
流されやすい。
疲れやすい。
などなど、ネガティブなことを書いたり言ったり、やったり考えたりしては、一瞬たりともダメなのだ。
感情の処遇
と、そんなこと言っても、感情は発生する。世界は、自分の頭の中で創造した物語などではない。
いくら、発生する負の感情を抑圧しようと、それは収まることを知らない。
その負の感情を利用して、現実的な行動方策(それは時に攻撃的なものであったろう)に昇華してきたが、その方針は、精神力(MP)を大量に消費することになる。
メンタルポイント(MP)は、嬉しいことや楽しいことがあったりすると少し回復するけれども、その均衡が崩れ始めると、ゼロサムゲームどころか、人生のあらゆる場面において、何ら楽しいとか気持ちいとかそんな感情が発生しなくなっていくのである。
無味乾燥。まだ、何も感じなくなるのであればいいが、だんだん、すべてに不満や、怒りをもつようになる。そのもじゃもじゃ、ぐちゃぐちゃ、トゲトゲが、外に向かえば他者を物理的に傷つけるし、自分に向かえば自殺に繋がったりする。
こうなると、もう、単純に救い出すことは困難だ。
人は変われない、とか、大人になると変われなくなるとか、巷では言われるけれども、俺は嫌いな言葉だ。人はいつ、どんなときでも、変わることができる。いや、その言い方すらバカバカしい、人は常に変わっている。
ただ、その、人を人足らしめるもの、それは前々の記事などでも書いてきたが、「記憶」と「感情」、それは、長年蓄積され、構築されたものは、変わりにくい、否むしろこれについては、変わらないと言っていい。積み重なった思いから、感情が抜け落ちたとしても、それは、記憶として残り続ける。無かったことには、リセットされることには、ならないのだ。
だが、その、記憶や感情を用いるのは、ほかならぬ、今、現存している、この瞬間の、僕たちだ。
今、この瞬間にも、考え方を変えることはできるのだ。僕は、それを信じてやまない。
けれども、そうなのだけれども、負の感情に支配されてしまうと、MPの回復は相当困難になってしまう。
まとめ
努力なんてしてはいけない。それは、ポジティブであるのが至上命題だからだ。
現実と自己をポジティブな方向に調整するのが正しい生き方だ。
しかし、負の感情の発生は避けられない。
負の感情それ自体は、人間の生存方策上必要なものだからだ。
だが、負の感情に支配されてしまうと、人は正しい生き方ができなくなる。
じゃあ、お前の日記は、何故いつもネガティブなことを書くのか。
アンサー、それは、発生する感情を無視しても、それは逆効果だと分かっているからだ。
自分のこと、本気でいい人間だと思っていられる人はいい。
だが、自分の内から発せられる言葉を無視して、周囲から求められる人間像であろうとし続けたとき、発生することは容易に想像できる、というよりも、俺は、もう欲求がなくなっていった。
何に対しても興味をなくしてしまった。
そう、負の感情の無視は、負の感情だけでなく、すべての感情をそぎ落としてしまうのである。
感情感情、と、異なる言葉を使ってきたが、最近の僕の言葉からすれば、「実感」というのと同義である。実感と感情を大事にしようということだ。
スゲー人いっぱいいる。
ポジティブな方面はもちろんだけど、ネガティブな方面も、突き抜けてすごい人がいっぱいいる。
一凡人の俺の考えなんて、何になるってんだ、いや何にもならんじゃないか……。
という思いを、無視しちゃならん、ということだ。
いや、今も、そう思うし、正直不快な状態であるのは間違いないけれども、でも、でもだ。
それを表現し、カタチにしておくのは、非常に重要であるということだ。
なにせ、感情とか実感とか、大事だ大事だいってるわりに、その感情とか実感ってのが、「なんんなのか」さっぱり分からんからだ。
タイトルに表現したように、上見ても下見てもきりがないから、だから、とにかく自分の気持ちを大事にしようぜ、ということ、それが、今この瞬間表現できたから、「ああ、俺、そうか、そういう気持ちだったんだな」となるのであって、これをしないと、「うーん、何だか、よく分からないけど、他の人の記事読んでたら焦りというか不安というか、なんだか不快な気分になってきたなぁ……」となって、強い酒でも飲んで忘却しようと試みるかもしれない。
「忘れることは大事さ」
「酒ってのが、人生には必要なもんだよ」
という、人生の先輩の教訓はあるかもしれない、だが、僕は、それらには反抗する。
徹底して考えてやる、表現してやる、と、そういう宣戦布告である。
そのうえで、ハッピーエンドを迎える、そういうシナリオだ。
だから、俺のこれまでの記事は、そしてこれからの記事も、全部、ハッピーハッピー超ハッピーなものなのだけれども、残念ながらそれが伝わらずに、気持ち悪い、何言ってるか分からない、さようなら、となることもあったわけで、これからもあろうことと思うので、何とも恐怖なのであるけれど。
ハッピーエンド
大丈夫か、なんか、話しが最初メモしておこうと思ったこととずれてないか? まぁいい、とにかく、思いつくままメモしておこう。いやぁ、ハッピーエンドじゃない物語なんて、読みたくないじゃん?
確かに、昔、バッドエンドだってありだ、と思っていた。20代前半くらいだったろうか。いや、ここでいうバッドエンドってのは、「俺の人生失敗ばかりだった。今日も僅かばかりの日当をもらうためバイトに行き、一日の締めくくりはコンビニ弁当だ。こんな孤独な人生、もう嫌だ。俺は一人寂しく、大量の睡眠薬を口に運んだ」という物語があったとして、その事細かな心理描写がしっかりされていたら、それは、単純なバッドエンドとは俺は思わない気がする。
彼、は、そこで死を選んだのだとしても、彼のその悲惨で目も当てられない辛い人生に、ようやく安寧が訪れたとしたら、それはそれで、不謹慎極まりないが、かっこつきの「ハッピーエンド」と解釈できまいか、いや、そう解釈したい、いや、俺はする。そうじゃなきゃ、彼が可哀そう……かわいそう? 同情? くだらん感情だ、いや、まぁそうだとしても、とにかく、上の物語はハッピーエンドだと、俺はしたい。
本当のバッドエンドってのは、ネトラレ、はどうか分からないが、人騙して私服こやすクソ野郎が、結局何のお咎めなく幸せに年取って孫に看取られて死ぬとか、それは本当の意味のバッドエンドだ。そんな物語読みたくない、いや害悪だとすら思うだろう。屑には相応の報いがあって欲しいと思う。(まー、その、屑とかクソ野郎とかいう定義もまた、とくに明確なわけじゃなくて、その時々で変わる感覚的なものに過ぎないわけだけれど)
少し話がずれたが、別に、死そのものがバッドエンドってわけじゃない。
仏教聖典において、ブッダがクシナガラで入滅したのが、弟子たちはみな涙して惜しむだろうけれども、別にバッドエンディングなんかじゃないだろう、
(キリストさんは何か復活しちゃうから、ここでの例えがちょっと違う気がした)
まぁ……その、なんだ。
割かし、なんか、このブログ続けてどうすんだ、と、本気で思ってしまっていたが、取りあえず、ハッピーエンドにするまで、もう少し続けさせて頂きたい。
連載中止、打ち切りとか、嫌だ。
どんなものであれ、完結、完成したものってのは、価値があるものだと思う。
小学校ぐらいに作曲した稚拙な曲であっても、逆に、今それよりはもっと良いのを作れると思うのであれば、それはそれでとても価値があることだ。
何事も、諦めないで最後までやり通すことが大事なのだ……
……と、何だかきれいな感じで終わろうとしたけれども、またすぐさま、「諦めるということの重要性と、その使い方について」とか浮かんでしまった。
うーん……、どうしても、何だか、表現するたびに違和感が残るんだよな。
確かに、「理想と現実のギャップ」とか、「実感の重要性」とか、違和感がなくなってきた表現もあるのだけれども、総体として何か事象を表現しようとしたとき、又は、ある事象から抽象的にして応用できるように試みたとき、どうしても様々な違和感が発生していくのである。
例えば、「真理なんてない」という何度か書いてみた表現も、それはそれでやはり違和感なのである。そんな理由を考えながら殆ど指を止めずに書いていると、気づいたら、おぉ?! 1時間半も過ぎている、というわけか。
――命は光陰に移されて暫くも停め難し。
やっぱり、昨日の記事は面白くなかったな、では何が面白いかというのは、やはり、その瞬間には分からなくて、後々意味を帯びてくる、そんなのもあるだろうと、残しておく。
駄文は、捨て去らねばならないのか、価値あるものだけが残らなければならないのか、それは、その通りだと思いながら、その価値の判断は不定不常だという思いである。
どこか、思考に甘さがないか。甘さというのは何か。ストイックではないということ。ストア派はもういい。理性追求はまた正しくあり、いま僕が問うべきは、その理性の存在形である。
理性の完成形とか、完全な姿とか、それは俗に、神と呼ばれる。あはは、僕は神にすがろうとしているのか。
しかし、人間の生き方は、実のところ、神を信じるか、自己を信じるかのどちらかしかない。日本人は神の概念を理解しにくいが、菩薩や阿羅漢を目指すあり方に近いからだろう。
そんな中、僕は真実なるもの、神なるものに憧れをもったがゆえに、所謂生きづらさを抱えることになった、とか、そんな遠回しな表現を、昨日や、第四歩の記事は自ら根底から覆そうとするのである。
しかし、恋という心の現象もまた、それが脳の本能にもとづく、生きたい、仲間になりたい、知りたい、自己保存の欲から織り成すものだとしても、その発生自体を否定することに何ら意味はない。
すべて空なりとするのであれば、発生する感情もまた、空でありながら、むしろ、それを捨て去ろうとする感情が不自然というもの、同時にその捨て去ろうとする意思すらも、認めざるを得ないのだ。
ただ、そのありのままの描写。
こうあったとき、その言葉は非常に繊細さをかく。
おそらく、初めて読む人は、なんと適当なことをダラダラ書き続けているだろうと、呆れ返ることである。
ところが、まさに、この思考過程にこそ、この記憶と感情の再起性にこそ、このブログの価値を認めるのだ、いうまでもなく、その価値は自らのためにあり、にもかかわらず、誰かの役に立ちたいというのは傲慢なかんがかたであり、同時にわりかし本気で思ってる。
最近、他の人の記事を探そうとして、読んでいる。
ネガティブ日記と称しながら、単に料理ブログだったりがっかりすることも多いが、また二つ、面白そうなのを見つけた。
しかし、ひとつは、ギャンブルでお金をすったとか、またサラ金でお金を借りてしまったとか、そんな、割かしガチにどん底になっている人のようだ。もちろん、僕は多分半年ぐらいは単にエンターテイメントとして読み、そのうちああ、この人は実在する人間だと確信していき、それでもどこか、ある特別な出来事出もない限り、虚構性を内に秘め続けるだろうが、まぁ、字面を信じるならかなり大変そうだ。
ひとつふたつ、共感できないのは、ギャンブルとサラ金である。
僕が裕福な暮らしだから共感できないのだと批判されるだろうが、ギャンブルするくらいなら映画やドラマ、アニメ、ゲームなど、物語に触れていた方がよほど有意義で、お金もかからない。
そもそも、ギャンブルとは不確実性のリスクを楽しむものであって、真実なるものを希求する僕の考えや生き方にまったく反するものである。
その思考が、いわゆる面白くないやつ、と批判されるのと嫌なので、宝くじ買ったり、競馬にいってみたり、パチンコやってみたりと、一回二回ぐらいは試した。が、やはりそれらに時間とコストをかけようとは思わない。
とか書くと、ギャンブル好きの方からの支持をもらえる可能性が消える。
でもそれでいいと思う。何か、自己を表現することで恐れていたのは、いってしまえば誰かに嫌われることである。誰とでもうまくやるという、処世方針を捨てた訳ではない。レベル感の問題だ。
行動レベルでの一致と、思考レベルの一致は、同一ではない。
俺は、今でも、思考が違っても、行動を共にすることは可能と考えている。
それは、信頼はできなかろうが、信用はできるということだ。
共通言語があれば、たとえ、記憶とモチベーションが感情を司るA10神経群で増幅されるものだとしても、それでも、理性的な人間存在のあり方を、俺は信じる、うん、完全に話がずれた。
他者の記事の中で、やっぱり、俺なんかよりよっぽど苦労してる人たくさんいるんやな、と思う。
よほど、俺の記事よりも表現力が豊富で、真に迫る内容だなって、思うのもある。
逆に、俺は矮小だーダメ人間だーとか書いてる俺の記事だが、やっぱり、これ、完全に、全部、あますことなく、いやほとんどが、ポジティブな記事なんだなと、そう思った。
なんだろう、何が違うのか、ただのネガティブと、反転したネガティブと、
ただのポジティブと、反転したポジティブと。
なんか、暗いだけの記事にも、明るいだけの記事にも、非常に違和感だというのがわかった。
それが最近の発見。スピリチュアルとかで、ポジティブ日記のつまらなさはわかっていたのだが、ネガティブ日記もまたそんなに面白くないのだ。
いや、考えれば当たり前で、僕は前々から、比較思考は無意味、といっていた。それは、オンラインゲーム症候群のように、すげええ人をみてやる気を失うだけでなく、自分より下の人をみてもきりがないってことだ。
上も下もない。あるのはただ自我、自己、自分。
なんだろう、偉そうなこと書いてると思うが、現実の問題に対して希望を失ってるのは、失望であって、絶望ではない。
恋して、ダメで、彼女もできず就職も決まらず、やりたいこともなければ目指すべき理想もないという状態で、であれば、彼女をつくる、就職する、趣味をつくる、目標をつくるとやってきた。
で、その果てに、精神力をいろいろ使ってきて、じゃあ結局、なんだったのか、というのが、最近のずっとテーマである。
だから、この記事たちは、僕がいま直面する問題を取り上げているのではないのだ。
とか、書くと、これまた支持をどんどん失っていく。偉そうな記事とか、意識高い系の記事なんて、共感を呼びにくいし、面白くないのである、わかってる、黙れ、そんなことはどうでもいい。
お金がなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。
彼女ができなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。
しかし、現実の存在規定は忘れるな。
国家予算レベルの金を手にするのは個人では無理だし、アイドルレベルの美貌の女の子と付き合うのは無理だ。
しかし、現実への働きかけと、自らの存在規定の変化によって、理想自己と現実自己のかい離を小さくすることはできる。
それを人は努力といい、イキイキしているといい、前向きだといい、頑張ってるといい、かっこいいという。
ああ、それはとてもとても良いことだ。
何ら間違ってない、人としての生き方だ。
ギャンブルに溺れ、サラ金で身を崩し、自らを顧みることなく他者を僻み、周りのせいにだけする人たちを、僕は救う気はない。いや、誰も救ってほしいとは思ってなかろうが、単に例えというか、これも表現でしかないのだけれども。
いやむしろ、努力しようとして、できないんだ、がんばらなきゃ、でもダメなんだ……というのは分かるし、応援したい。
うん、わかった、単に僕はギャンブルってのが好きじゃないだけだな。
しかし、まあ、ただ、ブログってのも、巡り合わせである。
黙っていては、一生知ることがなかった人の情報。
ブログって、一時期はやって、もう廃れたと思ってたけど、逆に、いまも続けてる人はなんというか、それなりに重みがあるというか、その続けてる意味ってのが、その人にとってあるのであって、それが僕の求める意味に近いと、それは非常に参考になると、これまた上から目線なんだけど、でもそう思う。
駄文は、捨て去らねばならないのか、価値あるものだけが残らなければならないのか、それは、その通りだと思いながら、その価値の判断は不定不常だという思いである。
徹底しているか
どこか、思考に甘さがないか。甘さというのは何か。ストイックではないということ。ストア派はもういい。理性追求はまた正しくあり、いま僕が問うべきは、その理性の存在形である。
理性の完成形とか、完全な姿とか、それは俗に、神と呼ばれる。あはは、僕は神にすがろうとしているのか。
しかし、人間の生き方は、実のところ、神を信じるか、自己を信じるかのどちらかしかない。日本人は神の概念を理解しにくいが、菩薩や阿羅漢を目指すあり方に近いからだろう。
そんな中、僕は真実なるもの、神なるものに憧れをもったがゆえに、所謂生きづらさを抱えることになった、とか、そんな遠回しな表現を、昨日や、第四歩の記事は自ら根底から覆そうとするのである。
しかし、恋という心の現象もまた、それが脳の本能にもとづく、生きたい、仲間になりたい、知りたい、自己保存の欲から織り成すものだとしても、その発生自体を否定することに何ら意味はない。
すべて空なりとするのであれば、発生する感情もまた、空でありながら、むしろ、それを捨て去ろうとする感情が不自然というもの、同時にその捨て去ろうとする意思すらも、認めざるを得ないのだ。
ありのまま
ただ、そのありのままの描写。
こうあったとき、その言葉は非常に繊細さをかく。
おそらく、初めて読む人は、なんと適当なことをダラダラ書き続けているだろうと、呆れ返ることである。
ところが、まさに、この思考過程にこそ、この記憶と感情の再起性にこそ、このブログの価値を認めるのだ、いうまでもなく、その価値は自らのためにあり、にもかかわらず、誰かの役に立ちたいというのは傲慢なかんがかたであり、同時にわりかし本気で思ってる。
他者のブログ
最近、他の人の記事を探そうとして、読んでいる。
ネガティブ日記と称しながら、単に料理ブログだったりがっかりすることも多いが、また二つ、面白そうなのを見つけた。
しかし、ひとつは、ギャンブルでお金をすったとか、またサラ金でお金を借りてしまったとか、そんな、割かしガチにどん底になっている人のようだ。もちろん、僕は多分半年ぐらいは単にエンターテイメントとして読み、そのうちああ、この人は実在する人間だと確信していき、それでもどこか、ある特別な出来事出もない限り、虚構性を内に秘め続けるだろうが、まぁ、字面を信じるならかなり大変そうだ。
ひとつふたつ、共感できないのは、ギャンブルとサラ金である。
僕が裕福な暮らしだから共感できないのだと批判されるだろうが、ギャンブルするくらいなら映画やドラマ、アニメ、ゲームなど、物語に触れていた方がよほど有意義で、お金もかからない。
そもそも、ギャンブルとは不確実性のリスクを楽しむものであって、真実なるものを希求する僕の考えや生き方にまったく反するものである。
その思考が、いわゆる面白くないやつ、と批判されるのと嫌なので、宝くじ買ったり、競馬にいってみたり、パチンコやってみたりと、一回二回ぐらいは試した。が、やはりそれらに時間とコストをかけようとは思わない。
とか書くと、ギャンブル好きの方からの支持をもらえる可能性が消える。
でもそれでいいと思う。何か、自己を表現することで恐れていたのは、いってしまえば誰かに嫌われることである。誰とでもうまくやるという、処世方針を捨てた訳ではない。レベル感の問題だ。
行動レベルでの一致と、思考レベルの一致は、同一ではない。
俺は、今でも、思考が違っても、行動を共にすることは可能と考えている。
それは、信頼はできなかろうが、信用はできるということだ。
共通言語があれば、たとえ、記憶とモチベーションが感情を司るA10神経群で増幅されるものだとしても、それでも、理性的な人間存在のあり方を、俺は信じる、うん、完全に話がずれた。
ネガティブ度でも敵わない
他者の記事の中で、やっぱり、俺なんかよりよっぽど苦労してる人たくさんいるんやな、と思う。
よほど、俺の記事よりも表現力が豊富で、真に迫る内容だなって、思うのもある。
逆に、俺は矮小だーダメ人間だーとか書いてる俺の記事だが、やっぱり、これ、完全に、全部、あますことなく、いやほとんどが、ポジティブな記事なんだなと、そう思った。
なんだろう、何が違うのか、ただのネガティブと、反転したネガティブと、
ただのポジティブと、反転したポジティブと。
なんか、暗いだけの記事にも、明るいだけの記事にも、非常に違和感だというのがわかった。
それが最近の発見。スピリチュアルとかで、ポジティブ日記のつまらなさはわかっていたのだが、ネガティブ日記もまたそんなに面白くないのだ。
いや、考えれば当たり前で、僕は前々から、比較思考は無意味、といっていた。それは、オンラインゲーム症候群のように、すげええ人をみてやる気を失うだけでなく、自分より下の人をみてもきりがないってことだ。
上も下もない。あるのはただ自我、自己、自分。
なんだろう、偉そうなこと書いてると思うが、現実の問題に対して希望を失ってるのは、失望であって、絶望ではない。
恋して、ダメで、彼女もできず就職も決まらず、やりたいこともなければ目指すべき理想もないという状態で、であれば、彼女をつくる、就職する、趣味をつくる、目標をつくるとやってきた。
で、その果てに、精神力をいろいろ使ってきて、じゃあ結局、なんだったのか、というのが、最近のずっとテーマである。
だから、この記事たちは、僕がいま直面する問題を取り上げているのではないのだ。
とか、書くと、これまた支持をどんどん失っていく。偉そうな記事とか、意識高い系の記事なんて、共感を呼びにくいし、面白くないのである、わかってる、黙れ、そんなことはどうでもいい。
目標を達成した先にあるもの
お金がなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。
彼女ができなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。
しかし、現実の存在規定は忘れるな。
国家予算レベルの金を手にするのは個人では無理だし、アイドルレベルの美貌の女の子と付き合うのは無理だ。
しかし、現実への働きかけと、自らの存在規定の変化によって、理想自己と現実自己のかい離を小さくすることはできる。
それを人は努力といい、イキイキしているといい、前向きだといい、頑張ってるといい、かっこいいという。
ああ、それはとてもとても良いことだ。
何ら間違ってない、人としての生き方だ。
ギャンブルに溺れ、サラ金で身を崩し、自らを顧みることなく他者を僻み、周りのせいにだけする人たちを、僕は救う気はない。いや、誰も救ってほしいとは思ってなかろうが、単に例えというか、これも表現でしかないのだけれども。
いやむしろ、努力しようとして、できないんだ、がんばらなきゃ、でもダメなんだ……というのは分かるし、応援したい。
うん、わかった、単に僕はギャンブルってのが好きじゃないだけだな。
しかし、まあ、ただ、ブログってのも、巡り合わせである。
黙っていては、一生知ることがなかった人の情報。
ブログって、一時期はやって、もう廃れたと思ってたけど、逆に、いまも続けてる人はなんというか、それなりに重みがあるというか、その続けてる意味ってのが、その人にとってあるのであって、それが僕の求める意味に近いと、それは非常に参考になると、これまた上から目線なんだけど、でもそう思う。
気付いたら、今週の土日は泊まりの旅行だ。
筋トレストレッチは人目を憚らずやったとして、音読は流石に無理だろうな……。
朝も早いから、かなり厳しい。こういうときどう乗り越えるか。日曜日は帰ってからするとしても、土曜日はどうしようもなさそうだ。
前倒しで多くやる? いや、毎日することが目標であって、前倒しとか後ろ倒しとか、そういう問題じゃない。
では、事前に無理だと申請したから、許してやるか……。
せっかく、あまり記事にしなくても、自然に続けられ始めたのに、やはり最初から魔王軍の精鋭を差し向けられている。
いや、まだ、朝5時出発としても、5分くらい早く起きればできるだろう。諦めるには早い。むしろ、二日間以上の泊りのときはどうするか。中日はどうしようもない。
さて困った。
気合いだ!
として、精神論だけで乗り越えようとするのは、昔の悪い癖だ。
過去のまたノートを読んでいて思った。
ひとつ思ったのは、こいしてたんだな、と。
思い出してきた、やっぱり、好きな人がいたんだ、その、好きというのが、全く、表現なしに、ただその瞬間それ自体が、
ううむ、こうやって書くと、何だか、いままで、気合いだ、とか、偉そうな人生論書いてきて、全部反転して陳腐なものに思えてしまうな。この記事は投稿前に検討しよう。
勉強だろうが、自己啓発だろうが、何かへの挑戦だろうが、そのすべてが、恋に対する代償行為だとすれば、何ともありふれた平々凡々の人生だろうか。
しかし、
あ、そうそう、例外規定、睡眠時間を6時間として、可用時間が二時間以上捻出できない日は、日課も免除という規定にしよう。
例えば、飲み会で終電となり、帰宅が26時となった場合、遅くても7時には出発しなければだから、睡眠時間6時間とすると、可用時間は二時間未満だから、免除と。
このルールの徹底も、また、明確に時間かけて刷り込まないと、失敗が目に見えてる。
先日正念場を乗りきったが、今週がまた勝負だな。
こっぱずかしいが、この話題がふってきたのも、偶然の夢が原因だから、なんか、自分で欲してたのだろう。行動の第四歩で触れたとき、書いていて何とも不快な感覚だったが、後で読んでみると、ああ、この記述もまた必要だったと、そんな気になった。
様々、成し遂げることはできても、このコントロール不可能な、恋という概念。
正直、再婚するとか、不細工ではあるが、できるとその点は信じている、が、果たして、恋ができるかというと、それはよぅ分からん。
だから、敢えて、考えないようにしてきたのか。あのブドウはすっぱいと、諦めてしまっているのか。
理想自己と現実自己の一致?
笑わせる。単に、挑戦を恐れて、自己を慰めるだけの行為ではなかろうか。
自分でできそうな目標をさも大変そうに立てて、さも大変そうに実行して、成功して、それで頑張りました?
アホか。
合理化の果ては緩やかな衰退。希望の大きさがどんどん小さくなり、やがて、何も望まなくなるのだ。
どうして、そう、自己卑下に努めようとするのか。
よし、
また、極端な話をしよう。
僕はいま、誰かに分かって欲しいと思っている。
この不快感、苛立ち、苦しみを理解してほしい、助けてほしいと思っている、そうだろ?
だが、その分かって欲しいという思いが、
憎い相手を殺したい、というものだったらどうだろうか?
誰も、理解ではなく、やめた方がいいと、そう止めようとするだろう。
なかには、面白がって、やれやれと、煽り立てる腐った野郎が混じるが、そいつも、いざ本当に、秋葉原通り魔事件のような大事件になったら、自分も荷担したのだと自責に苛まれるはずだ。それでも苛まれない奴は、俺はむしろ苦悩に潰されておろかな行為をした実行犯よりも、人間として死んで欲しいと思うだろう、ただこのことは、一切外部からはかれないから、それが誰かは分からない。
賢いサイコパス。これもまた、人間の一つのあり方だろう。
で、だ、まぁ話がそれたけど、理解とは、残念ながら完全ではない。
いわゆる、世間一般に合致することのみが、所謂理解という表現がされるものだ。
だから、昨今の若者が、酒も、女も、車も興味がないというのは、前の世代の方々は理解できない。想像力がある日とは、賢いサイコパスも存在するのだと、その程度のことは浮かべられても、理解には遠い。
ゆえに、これらの表現が、気持ち悪いのはむしろ自然のことですらある。
世界は、ポジティブ思考でできている。それ以外の、生存を脅かす、成長を止めようとする、マイナスの思考も事象も、緩やかに、時に速やかに排除しようとするのだ。
朝から書いていて、時間切れでやめたときは、本当に、夜には削除しようと思っていた。
ところが、ずるりと、自分の中から感情が抜け落ちて、他人、として自分の文章を読むと、不思議と、書いていた瞬間に感じていた不快感や、気持ち悪さ、危険性といったものが感じられなくなるのである。
これが他者にどう伝わるのか、分からない。ただ、自分として、例え感情がなくても、その言葉の意味を感じとれば、よく分かるのである。
何ら特殊なことは言っていないと思いつつも、表現を重ねるにつれてそれは論理性の端を生じさせ、それゆえに反転を繰り返さなければならなくなる。なぜならば、この表現は、まさに二項対立を意味しないからである。
というのは、般若心経の真似ともいえる。般若心経は、とにかく無という言葉がたくさん出てくる。
アラヤシキの本で触れたが、唯識派という論理を追究した派閥が、様々世界を分割して、論理的に理解しようとした。
例えば、むげんにびぜっしんに、無限界無意識界……
無を繰り返して、そこから見えてくる何かを示そうとするのが、般若心経で書いてることだ。
え、恋の話と何が関係するのか?
いや、そこは多分まったく関係ない。
とにかく、朝と夜とで、感情がまったく異なるのだ。
言葉が足りない。表現が足りない。
いや、そうじゃない、朝の記事の続きを書こうとすると、まったくそんな気分ではなくなっているのだ。
まるで別人のように。
この別人感もまた、一般的に気持ち悪いぃぃと言われることなので、感じたことがある人は注意だ。
解離性人格とか、そこまでじゃなくても、異常者扱いされる。
というのも、不思議なことではない。
信頼とは、相手の動機を信じることである。
信用とは、相手の行動を信じることである。
しかし、人格が場合に依り一致していない人に対しては、信頼も信用もできないだろう。
自分に害を与える人を、人は無意識に遠ざける。統一性と一貫性、さらに、自己保存の脳の働きである。
生存方策において、何ら疑問をもつものではない。
しかしだ、思考とか、創作とかやってると、もしくは、物語に感情移入してるとか、そんな場合には、果たして、自己、は、どこにいってしまったのか。
朝の自分は、死んだ。
もう二度とよみがえらない。
人とは、記憶の総合だ。
しかし、記憶だけではない、感情も含んで人だというのなら、僕の朝は死んだのだ。
もっといえば、昨日の自分も死んだのだ。
筋トレストレッチ、音読頑張れよ、といってくれた
一週間前の自分も死んだのだ。
ああ、なんと、僕は、たくさんの屍の上に、骸を積み上げて立っているのか。
ええと、じゃあ、いまの僕も死んでしまうってことになる。ええ、……怖いなぁ、あ、いつ、いつ死んじゃうの?
寝ると死ぬのかもしれない。
でも、朝と今とで、昼寝はしたけど、朝と昼とで意識は連続していた。むしろ、それいこうか、もしくは、仕事を開始した瞬間からか……
むしろ、だ。
この瞬間も、死に続けているのかもしれない。
いま、こうして、ゼロ秒で記述している瞬間でさえも、否、そもそもスマホからの入力スピードでは、思考との差がありすぎる。
この瞬間の、僕の思考、表現、内面、感情、これが、時間的制約として、限りなく難しいことが分かる。
もっといえば、思考を言語化した段階で、感情を言語化した段階で、たくさんのものが抜け落ちてしまっているのだ。
ブログは、そんな、むなしい中、せめて、死にたくない、死にたくないと泣きながら、自己が最後の叫び、断末魔なのかもしれない。
誰かに理解してほしいとは、その、死ぬ前に誰かの記憶に残りたいと、その記憶だけでも残れば、自分の存在意義はあったと。自分はその意味を見つけられなかったけれども、自分はここで果ててしまうけれども、誰か、後身に、この悔しく切なくもどかしく、虚しい思いを晴らして欲しいと、最後の願いなのかもしれない。
ああ、そして、時間が迫っている。
では、いまの俺は、最後に、家についたら音読筋トレストレッチ頑張れよと。
そして、可用時間が二時間未満の時はルーチン免除のルールについて、しっかり引き継いでインプットしろよ、と、書き残し、果てる。
筋トレストレッチは人目を憚らずやったとして、音読は流石に無理だろうな……。
朝も早いから、かなり厳しい。こういうときどう乗り越えるか。日曜日は帰ってからするとしても、土曜日はどうしようもなさそうだ。
前倒しで多くやる? いや、毎日することが目標であって、前倒しとか後ろ倒しとか、そういう問題じゃない。
では、事前に無理だと申請したから、許してやるか……。
せっかく、あまり記事にしなくても、自然に続けられ始めたのに、やはり最初から魔王軍の精鋭を差し向けられている。
いや、まだ、朝5時出発としても、5分くらい早く起きればできるだろう。諦めるには早い。むしろ、二日間以上の泊りのときはどうするか。中日はどうしようもない。
さて困った。
例外規定
気合いだ!
として、精神論だけで乗り越えようとするのは、昔の悪い癖だ。
過去のまたノートを読んでいて思った。
ひとつ思ったのは、こいしてたんだな、と。
思い出してきた、やっぱり、好きな人がいたんだ、その、好きというのが、全く、表現なしに、ただその瞬間それ自体が、
ううむ、こうやって書くと、何だか、いままで、気合いだ、とか、偉そうな人生論書いてきて、全部反転して陳腐なものに思えてしまうな。この記事は投稿前に検討しよう。
勉強だろうが、自己啓発だろうが、何かへの挑戦だろうが、そのすべてが、恋に対する代償行為だとすれば、何ともありふれた平々凡々の人生だろうか。
しかし、
あ、そうそう、例外規定、睡眠時間を6時間として、可用時間が二時間以上捻出できない日は、日課も免除という規定にしよう。
例えば、飲み会で終電となり、帰宅が26時となった場合、遅くても7時には出発しなければだから、睡眠時間6時間とすると、可用時間は二時間未満だから、免除と。
このルールの徹底も、また、明確に時間かけて刷り込まないと、失敗が目に見えてる。
先日正念場を乗りきったが、今週がまた勝負だな。
恋
こっぱずかしいが、この話題がふってきたのも、偶然の夢が原因だから、なんか、自分で欲してたのだろう。行動の第四歩で触れたとき、書いていて何とも不快な感覚だったが、後で読んでみると、ああ、この記述もまた必要だったと、そんな気になった。
様々、成し遂げることはできても、このコントロール不可能な、恋という概念。
正直、再婚するとか、不細工ではあるが、できるとその点は信じている、が、果たして、恋ができるかというと、それはよぅ分からん。
だから、敢えて、考えないようにしてきたのか。あのブドウはすっぱいと、諦めてしまっているのか。
理想自己と現実自己の一致?
笑わせる。単に、挑戦を恐れて、自己を慰めるだけの行為ではなかろうか。
自分でできそうな目標をさも大変そうに立てて、さも大変そうに実行して、成功して、それで頑張りました?
アホか。
合理化の果ては緩やかな衰退。希望の大きさがどんどん小さくなり、やがて、何も望まなくなるのだ。
まてまて
どうして、そう、自己卑下に努めようとするのか。
よし、
また、極端な話をしよう。
僕はいま、誰かに分かって欲しいと思っている。
この不快感、苛立ち、苦しみを理解してほしい、助けてほしいと思っている、そうだろ?
だが、その分かって欲しいという思いが、
憎い相手を殺したい、というものだったらどうだろうか?
誰も、理解ではなく、やめた方がいいと、そう止めようとするだろう。
なかには、面白がって、やれやれと、煽り立てる腐った野郎が混じるが、そいつも、いざ本当に、秋葉原通り魔事件のような大事件になったら、自分も荷担したのだと自責に苛まれるはずだ。それでも苛まれない奴は、俺はむしろ苦悩に潰されておろかな行為をした実行犯よりも、人間として死んで欲しいと思うだろう、ただこのことは、一切外部からはかれないから、それが誰かは分からない。
賢いサイコパス。これもまた、人間の一つのあり方だろう。
で、だ、まぁ話がそれたけど、理解とは、残念ながら完全ではない。
いわゆる、世間一般に合致することのみが、所謂理解という表現がされるものだ。
だから、昨今の若者が、酒も、女も、車も興味がないというのは、前の世代の方々は理解できない。想像力がある日とは、賢いサイコパスも存在するのだと、その程度のことは浮かべられても、理解には遠い。
ゆえに、これらの表現が、気持ち悪いのはむしろ自然のことですらある。
世界は、ポジティブ思考でできている。それ以外の、生存を脅かす、成長を止めようとする、マイナスの思考も事象も、緩やかに、時に速やかに排除しようとするのだ。
そして夜に
朝から書いていて、時間切れでやめたときは、本当に、夜には削除しようと思っていた。
ところが、ずるりと、自分の中から感情が抜け落ちて、他人、として自分の文章を読むと、不思議と、書いていた瞬間に感じていた不快感や、気持ち悪さ、危険性といったものが感じられなくなるのである。
これが他者にどう伝わるのか、分からない。ただ、自分として、例え感情がなくても、その言葉の意味を感じとれば、よく分かるのである。
何ら特殊なことは言っていないと思いつつも、表現を重ねるにつれてそれは論理性の端を生じさせ、それゆえに反転を繰り返さなければならなくなる。なぜならば、この表現は、まさに二項対立を意味しないからである。
というのは、般若心経の真似ともいえる。般若心経は、とにかく無という言葉がたくさん出てくる。
アラヤシキの本で触れたが、唯識派という論理を追究した派閥が、様々世界を分割して、論理的に理解しようとした。
例えば、むげんにびぜっしんに、無限界無意識界……
無を繰り返して、そこから見えてくる何かを示そうとするのが、般若心経で書いてることだ。
え、恋の話と何が関係するのか?
いや、そこは多分まったく関係ない。
とにかく、朝と夜とで、感情がまったく異なるのだ。
時間経過が与えるもの
言葉が足りない。表現が足りない。
いや、そうじゃない、朝の記事の続きを書こうとすると、まったくそんな気分ではなくなっているのだ。
まるで別人のように。
この別人感もまた、一般的に気持ち悪いぃぃと言われることなので、感じたことがある人は注意だ。
解離性人格とか、そこまでじゃなくても、異常者扱いされる。
というのも、不思議なことではない。
信頼とは、相手の動機を信じることである。
信用とは、相手の行動を信じることである。
しかし、人格が場合に依り一致していない人に対しては、信頼も信用もできないだろう。
自分に害を与える人を、人は無意識に遠ざける。統一性と一貫性、さらに、自己保存の脳の働きである。
生存方策において、何ら疑問をもつものではない。
しかしだ、思考とか、創作とかやってると、もしくは、物語に感情移入してるとか、そんな場合には、果たして、自己、は、どこにいってしまったのか。
朝の自分といまの自分
朝の自分は、死んだ。
もう二度とよみがえらない。
人とは、記憶の総合だ。
しかし、記憶だけではない、感情も含んで人だというのなら、僕の朝は死んだのだ。
もっといえば、昨日の自分も死んだのだ。
筋トレストレッチ、音読頑張れよ、といってくれた
一週間前の自分も死んだのだ。
ああ、なんと、僕は、たくさんの屍の上に、骸を積み上げて立っているのか。
どのタイミングで死ぬのか
ええと、じゃあ、いまの僕も死んでしまうってことになる。ええ、……怖いなぁ、あ、いつ、いつ死んじゃうの?
寝ると死ぬのかもしれない。
でも、朝と今とで、昼寝はしたけど、朝と昼とで意識は連続していた。むしろ、それいこうか、もしくは、仕事を開始した瞬間からか……
むしろ、だ。
この瞬間も、死に続けているのかもしれない。
いま、こうして、ゼロ秒で記述している瞬間でさえも、否、そもそもスマホからの入力スピードでは、思考との差がありすぎる。
この瞬間の、僕の思考、表現、内面、感情、これが、時間的制約として、限りなく難しいことが分かる。
もっといえば、思考を言語化した段階で、感情を言語化した段階で、たくさんのものが抜け落ちてしまっているのだ。
ブログは、そんな、むなしい中、せめて、死にたくない、死にたくないと泣きながら、自己が最後の叫び、断末魔なのかもしれない。
誰かに理解してほしいとは、その、死ぬ前に誰かの記憶に残りたいと、その記憶だけでも残れば、自分の存在意義はあったと。自分はその意味を見つけられなかったけれども、自分はここで果ててしまうけれども、誰か、後身に、この悔しく切なくもどかしく、虚しい思いを晴らして欲しいと、最後の願いなのかもしれない。
ああ、そして、時間が迫っている。
では、いまの俺は、最後に、家についたら音読筋トレストレッチ頑張れよと。
そして、可用時間が二時間未満の時はルーチン免除のルールについて、しっかり引き継いでインプットしろよ、と、書き残し、果てる。
ある10億円以上を稼ぐ野球選手のインタビュー動画を見てその中で、
「死んだら終わりだから、自分のもてるものを、後輩たちに伝えられるものは伝えていきたい」
と言っていて、なるほど、野球がすごくて顔がイイだけじゃなくて、考え方もしっかりしているのだな、と思った。歳を調べると、同い年じゃないか、マジか。
ここで、「よし、俺も頑張らなきゃ!」「精一杯生を満喫するぞ!」「後輩たちに持てるものを伝えていこう!」とか、思うのは、いつもの通り、危険でしかない。
今日が、日課に対する正念場だと、昨日、短い記事の中で書いた。そんなことしか書いてない記事を果たして投稿すべきか悩んだところだが、結果的に、正解だったと思った。今日、その記事を、眠気と頭の痛さと身体のだるさの中で読んで、18時過ぎまで寝ていたにも関わらず、何とか、日課をこなすことができた。
さも、頑張った風に書いているが、残念なことに、世間一般的な基準からすると、全く大したことのないものである。音読は1分程度。筋トレと言っても、腕立て腹筋背筋を12回、ストレッチを適当に何十秒か、そんな程である。
その程度を、「頑張るぞ!」「正念場だ!」「勝負時だ!」と、1時間程度かけてブログを書かなければ続けられなかったのである。
第一線で活躍する同年代の、いやもっと若い野球選手たちと比べて、なんと矮小なダメな大人だろうか。
昨日、友人(この、友人とか知人とか知己とか、そういう他者との親密さのレベルを表す表現にも実は違和感である。この点は書いたことあったろうか、あまり無さそうか、でもまぁ今書く気はあまりない)たちに、人生の失敗を一つあげれば、他者の目線を気にしすぎてたこと、嫌われることを恐れていたことだと話をした。それに対して、みんなそれはあることだと返事を頂いた。
そう、きっとみんな、誰かに嫌われたくないとか、そういった感情は抱くことだろう。ただ、僕の場合、それが少しばかり、高かった気がする。「自分を表現する」ということに、ひどく臆病になっていたのだ。
というのは、前半で書いた、野球選手のことではないが、「どう考えても、表現できる自分というのは、一般的にみて矮小である」という事実性である。
いや、世界は広いから、絶対、自分と同じような感覚を抱く人はいるだろう。ただ、それが、そのローカルコミュニティにおいて、価値あるものとして認められるかどうか、というのは別問題である。
いやすぐさま、腐女子趣味とかを、公言して周りを顧みないということがイイことか、というと、それは違うと思う。ひっそりと、自分の中で妄想を広げているべきこともあるだろう。
そこは、「度合」という、また不確定な不透明なもやもやしたことでしかなくなってしまうから、上手く説明できない。
表現したいことは、そうだな、とにかく、僕自身に、「人間嫌い」という表現を発生させた原因となる環境や、そして何より、自分自身の考え方について、ということなのだけれども、この辺も今書こうと思ったことと違う気がする。
とにかく、取るに足らない日課であろうと、世界中に自分より優れた人がどれほどたくさんいようと、ローカルなコミュニティにおいて自分を表現できる相手がいなかろうと、決して、他者と比較して無気力になるなんてことは、誤りであると、そういうことだ。
僕が唯一、誰かに生き方として伝えられるとしたら、そのあたりのことな気がするけれども、残念ながら、ここまで書いてきたことでは、正直、僕がいつも目にして苛々する、いわゆる「リア充」たちの記事と何ら変わらない気がして、失敗作としか思えない。
上手く表現できていないと思うから、せめて、未来の僕に託すために、こんな、とくに何も表現していないような、不十分な、ダラダラとしたことを書かざるを得ない。
そうだな、ある40代の現役バリバリ働かれている方のブログを読んでいて、その中で、「引き寄せの法則なんて嘘っぱちだ」と書かれていた。
ほうほうと思って読んで見ると、強くイメージして思い描いただけで望んだことが手に入るなんて、そんなわけないだろう。具体的に行動することが大事なのだ、というメッセージだった。
その通りだ。「行動」がなければ、現実は変わらない。しかし、思うに、スピリチュアルの人たちも、その点はさすがに理解していると思うのだけれど、違うのだろうか。まぁ、それは興味がないからどちらでもよい。
とにかく、そういう意味で、その40代の方の記事を読んでも、やはり、引き寄せの法則自体は信じている。その「法則」という表現が違うとも書かれていた。法則というのは、同じやり方を実践すれば、同じような結果が得られること、という辞書的な定義だということだ。そういった意味でも、思い描いたことが実現するというのが「法則」というのは誤っているというのだ。うん、それも納得である。じゃあ、これから僕は、「引き寄せの思考」とでも表現しようかな。
この辺りが、「表現問題」と僕が表現している点である。つまり、「概念」的な事象はあるのだけれども、それだけでは、明確に他者に伝えられないから、それの表現が重要になってくるということで、結局、「概念思考」としては、同じことを言ってるだけに過ぎない、ということが往々にしてあるのだけれども、その点が「論点」となってひとがいいあらそうという場面が多い、ということだ。くだらないことである。
ユダヤの神も、イスラムの神も、キリストの神も、同じ一神教というのであるから、「神」という概念は同一だ。しかし、相容れず、殺し合いすら発生するというのは、全くくだらないと思うのだけれども、それは、多神教というアニミズム、未開人に多い特性を持つ日本人だから、なのかもしれない、とか、こんな中途半端な宗教知識で記事を書いていると、専門家たちから強烈な批判を受けやすい。これまた、何とも生きづらい原因の一つだ。
「正しい思考」なんてものがあるのかどうか分からないが、あったとしても、そんなものに縛られる必要はない。
と、すぐさま書くべきは、まっとうな社会生活を送るうえで、正しい思考、例えばそれは、社会常識だとか、社内マナーだとか、冠婚葬祭のマナーだとか、それは当然身に着けるべきである。もっと言えば、「言語」だって、共通様式である。言語がなければ思考すらできない。その点において、「正しい思考」が有効であることは疑いようがない。
ので、僕が表現したいこととしては、やはり、「実感」の問題である。
ん、なんだ、小見出しを書いた時と、書きたいこと、書いておこうと思ったことがズレ始めている、なんだっけ、思い出せない、まぁいいや(575)。
とか書いていると、友人がいなくて苦しんでいるような人たちに対して、「感情のレッテル」レベルで、上手く僕の表現したいことが伝わらなくなる。
だから、僕は不細工で非リア充で、非モテ思考で……とか書いたりするけれども、むしろそれが逆効果になることもよく分かるから、もう何も表現できないし、したくなくなってしまう。
けれども、やっぱり、何だか頑張ってる人とか見たり知ったりすると、俺ってやっぱダメなやつだなぁと思ったり、友人と遊びに行って趣味を満喫しましたととか、恋人と甘い時間を過ごしましたとかそんなのみると、「あああああ」という気持ちになるということは、よく表現しておきたい。
例えば、これも、ほんと書いてどうするんだ、というのであるが、自分に声かけてくれたり、例えばブログでコメントくれたりしてくれる人がいて、わーい嬉しいなーと思って、実はその人が、恋人もいて、友達もたくさんいて、リアルな生活満喫してたりすると、おぉぉぉい、俺に気をかけてくれたのって、単なる気まぐれ、暇つぶしレベルッスか、なんだそりゃ、つまんねぇ……とか思ったりするということ。
うわぁ、心が狭い、哀しい、さみしい人だなぁと、自分で書いていて思うのだけれども、それってやはり、自分だけを見てほしい、自分を知ってほしい、自分を愛して欲しい、という思いが、何やかんやあるんだなぁって、そんな気付きになる。
上の「例えば、」は、とても恥ずべき思考・感情とは思うけれども、この表現から逃げていては、結局今までと何ら変わらないだろうと。「徹底して」というタイトルに反してしまうだろうと。誠実でないだろうと、そう思うのだ。逆に言えば、そう言い聞かせて、愚痴を「正当に」書いているということなのだろうが。
でもまぁ、その、何というか、うん、とにかく、筋トレストレッチ、音読が続けられたのはよかった。
明日も、ここで、気を抜いてしまうと、失敗してしまう。何とか継続していこう。(おいおい、そういえば、それ以外にやるべきことあったんじゃないっけ? いや、それはこの際些末ごとである。とにかく、「自分で決めて」「自分で実行する」ということに価値を置いているのだ)
そういえば、「ストレッチ」って、あんまりやったこと無いんだよな。筋トレ自体は、それこそ3か月ぐらい続けた実績はあるから、それの踏襲なのだけど、ストレッチって、どうやりゃいいのかよく分からないから、適当にやっている。
それも、小学校ぐらいでクラブ活動(部活動?)でやっていた内容を思い出しているぐらいだ。
そういやぁ、小学校のクラブ活動はイヤだったなぁ。学校の授業が終わって、児童館で時間潰して、16:30ぐらいから始まる部活の始まる時間までが、非常に緊張し、苦痛で、気分が悪かった。
うーん、小学校の頃の自分、お疲れ様……。今思うと、あの当時の苦痛(悩み、というのではなかった。悩むという行為が分かっていなかったろう。それが分かってきたのは中学生以降な気がする)は、正直、今、「無い」。
そう考えると、いま、すげー幸せだ。
……というのが比較思考なんだよな。活躍する野球選手や、株で沢山お金稼いでいる人とか、第一線の研究分野で活躍する人とか、上を見たらきりがない。一方で、凄惨ないじめにあっている人とか、ブラック企業に勤める人とか、天涯孤独で貧困の人とか、下を見てもきりがない。(「下」とかいう表現も、気を付けないといけない。何とも生きづらい、書きづらい世の中だ)
そして、過去の自分と比較しても、それもまた比較思考で、意味のないことだ。
あれ、また話がズレているか。ストレッチ、そうストレッチのやり方だ。いや、違う、すごく嫌だった部活動においても、身体が覚えていることはあって、それがストレッチで、まぁ、使える知識とか経験というものは、どんな状況でも身に着けられるものなんだよ、という教訓めいたこと? うーん、そうだっけっか。よく分からなくなってきた。けれども、過去のことを真剣に想起して考え始めると、気持ちは正直よい気分じゃなくなるな。
もういいや、今日は終わり。明日、何が何でも日課だけは頑張ろう、以上。
「死んだら終わりだから、自分のもてるものを、後輩たちに伝えられるものは伝えていきたい」
と言っていて、なるほど、野球がすごくて顔がイイだけじゃなくて、考え方もしっかりしているのだな、と思った。歳を調べると、同い年じゃないか、マジか。
ここで、「よし、俺も頑張らなきゃ!」「精一杯生を満喫するぞ!」「後輩たちに持てるものを伝えていこう!」とか、思うのは、いつもの通り、危険でしかない。
今日が、日課に対する正念場だと、昨日、短い記事の中で書いた。そんなことしか書いてない記事を果たして投稿すべきか悩んだところだが、結果的に、正解だったと思った。今日、その記事を、眠気と頭の痛さと身体のだるさの中で読んで、18時過ぎまで寝ていたにも関わらず、何とか、日課をこなすことができた。
さも、頑張った風に書いているが、残念なことに、世間一般的な基準からすると、全く大したことのないものである。音読は1分程度。筋トレと言っても、腕立て腹筋背筋を12回、ストレッチを適当に何十秒か、そんな程である。
その程度を、「頑張るぞ!」「正念場だ!」「勝負時だ!」と、1時間程度かけてブログを書かなければ続けられなかったのである。
第一線で活躍する同年代の、いやもっと若い野球選手たちと比べて、なんと矮小なダメな大人だろうか。
ダメだろうが何だろうが敵は
比較思考の無意味性。昨日、友人(この、友人とか知人とか知己とか、そういう他者との親密さのレベルを表す表現にも実は違和感である。この点は書いたことあったろうか、あまり無さそうか、でもまぁ今書く気はあまりない)たちに、人生の失敗を一つあげれば、他者の目線を気にしすぎてたこと、嫌われることを恐れていたことだと話をした。それに対して、みんなそれはあることだと返事を頂いた。
そう、きっとみんな、誰かに嫌われたくないとか、そういった感情は抱くことだろう。ただ、僕の場合、それが少しばかり、高かった気がする。「自分を表現する」ということに、ひどく臆病になっていたのだ。
というのは、前半で書いた、野球選手のことではないが、「どう考えても、表現できる自分というのは、一般的にみて矮小である」という事実性である。
いや、世界は広いから、絶対、自分と同じような感覚を抱く人はいるだろう。ただ、それが、そのローカルコミュニティにおいて、価値あるものとして認められるかどうか、というのは別問題である。
いやすぐさま、腐女子趣味とかを、公言して周りを顧みないということがイイことか、というと、それは違うと思う。ひっそりと、自分の中で妄想を広げているべきこともあるだろう。
そこは、「度合」という、また不確定な不透明なもやもやしたことでしかなくなってしまうから、上手く説明できない。
表現したいことは、そうだな、とにかく、僕自身に、「人間嫌い」という表現を発生させた原因となる環境や、そして何より、自分自身の考え方について、ということなのだけれども、この辺も今書こうと思ったことと違う気がする。
とにかく、取るに足らない日課であろうと、世界中に自分より優れた人がどれほどたくさんいようと、ローカルなコミュニティにおいて自分を表現できる相手がいなかろうと、決して、他者と比較して無気力になるなんてことは、誤りであると、そういうことだ。
僕が唯一、誰かに生き方として伝えられるとしたら、そのあたりのことな気がするけれども、残念ながら、ここまで書いてきたことでは、正直、僕がいつも目にして苛々する、いわゆる「リア充」たちの記事と何ら変わらない気がして、失敗作としか思えない。
上手く表現できていないと思うから、せめて、未来の僕に託すために、こんな、とくに何も表現していないような、不十分な、ダラダラとしたことを書かざるを得ない。
本当に望んだこと
でも、思うに、そうだな、ある40代の現役バリバリ働かれている方のブログを読んでいて、その中で、「引き寄せの法則なんて嘘っぱちだ」と書かれていた。
ほうほうと思って読んで見ると、強くイメージして思い描いただけで望んだことが手に入るなんて、そんなわけないだろう。具体的に行動することが大事なのだ、というメッセージだった。
その通りだ。「行動」がなければ、現実は変わらない。しかし、思うに、スピリチュアルの人たちも、その点はさすがに理解していると思うのだけれど、違うのだろうか。まぁ、それは興味がないからどちらでもよい。
とにかく、そういう意味で、その40代の方の記事を読んでも、やはり、引き寄せの法則自体は信じている。その「法則」という表現が違うとも書かれていた。法則というのは、同じやり方を実践すれば、同じような結果が得られること、という辞書的な定義だということだ。そういった意味でも、思い描いたことが実現するというのが「法則」というのは誤っているというのだ。うん、それも納得である。じゃあ、これから僕は、「引き寄せの思考」とでも表現しようかな。
この辺りが、「表現問題」と僕が表現している点である。つまり、「概念」的な事象はあるのだけれども、それだけでは、明確に他者に伝えられないから、それの表現が重要になってくるということで、結局、「概念思考」としては、同じことを言ってるだけに過ぎない、ということが往々にしてあるのだけれども、その点が「論点」となってひとがいいあらそうという場面が多い、ということだ。くだらないことである。
ユダヤの神も、イスラムの神も、キリストの神も、同じ一神教というのであるから、「神」という概念は同一だ。しかし、相容れず、殺し合いすら発生するというのは、全くくだらないと思うのだけれども、それは、多神教というアニミズム、未開人に多い特性を持つ日本人だから、なのかもしれない、とか、こんな中途半端な宗教知識で記事を書いていると、専門家たちから強烈な批判を受けやすい。これまた、何とも生きづらい原因の一つだ。
「正しい思考」なんてものがあるのかどうか分からないが、あったとしても、そんなものに縛られる必要はない。
と、すぐさま書くべきは、まっとうな社会生活を送るうえで、正しい思考、例えばそれは、社会常識だとか、社内マナーだとか、冠婚葬祭のマナーだとか、それは当然身に着けるべきである。もっと言えば、「言語」だって、共通様式である。言語がなければ思考すらできない。その点において、「正しい思考」が有効であることは疑いようがない。
ので、僕が表現したいこととしては、やはり、「実感」の問題である。
ん、なんだ、小見出しを書いた時と、書きたいこと、書いておこうと思ったことがズレ始めている、なんだっけ、思い出せない、まぁいいや(575)。
行動のための第六歩
そうだな、だから、取りあえず、就寝時間が大幅に狂って、起床時間がくるって、睡眠時間が狂ったとしても、友人たちとの会話は有意義であったし、あはは、昨日の記事で、行く前に何だか面倒だなぁ……という思いがあったにせよ、最終的には、言ってよかったなと、そう思ったということは書いておこう。とか書いていると、友人がいなくて苦しんでいるような人たちに対して、「感情のレッテル」レベルで、上手く僕の表現したいことが伝わらなくなる。
だから、僕は不細工で非リア充で、非モテ思考で……とか書いたりするけれども、むしろそれが逆効果になることもよく分かるから、もう何も表現できないし、したくなくなってしまう。
けれども、やっぱり、何だか頑張ってる人とか見たり知ったりすると、俺ってやっぱダメなやつだなぁと思ったり、友人と遊びに行って趣味を満喫しましたととか、恋人と甘い時間を過ごしましたとかそんなのみると、「あああああ」という気持ちになるということは、よく表現しておきたい。
例えば、これも、ほんと書いてどうするんだ、というのであるが、自分に声かけてくれたり、例えばブログでコメントくれたりしてくれる人がいて、わーい嬉しいなーと思って、実はその人が、恋人もいて、友達もたくさんいて、リアルな生活満喫してたりすると、おぉぉぉい、俺に気をかけてくれたのって、単なる気まぐれ、暇つぶしレベルッスか、なんだそりゃ、つまんねぇ……とか思ったりするということ。
うわぁ、心が狭い、哀しい、さみしい人だなぁと、自分で書いていて思うのだけれども、それってやはり、自分だけを見てほしい、自分を知ってほしい、自分を愛して欲しい、という思いが、何やかんやあるんだなぁって、そんな気付きになる。
上の「例えば、」は、とても恥ずべき思考・感情とは思うけれども、この表現から逃げていては、結局今までと何ら変わらないだろうと。「徹底して」というタイトルに反してしまうだろうと。誠実でないだろうと、そう思うのだ。逆に言えば、そう言い聞かせて、愚痴を「正当に」書いているということなのだろうが。
でもまぁ、その、何というか、うん、とにかく、筋トレストレッチ、音読が続けられたのはよかった。
明日も、ここで、気を抜いてしまうと、失敗してしまう。何とか継続していこう。(おいおい、そういえば、それ以外にやるべきことあったんじゃないっけ? いや、それはこの際些末ごとである。とにかく、「自分で決めて」「自分で実行する」ということに価値を置いているのだ)
そういえば、「ストレッチ」って、あんまりやったこと無いんだよな。筋トレ自体は、それこそ3か月ぐらい続けた実績はあるから、それの踏襲なのだけど、ストレッチって、どうやりゃいいのかよく分からないから、適当にやっている。
それも、小学校ぐらいでクラブ活動(部活動?)でやっていた内容を思い出しているぐらいだ。
そういやぁ、小学校のクラブ活動はイヤだったなぁ。学校の授業が終わって、児童館で時間潰して、16:30ぐらいから始まる部活の始まる時間までが、非常に緊張し、苦痛で、気分が悪かった。
うーん、小学校の頃の自分、お疲れ様……。今思うと、あの当時の苦痛(悩み、というのではなかった。悩むという行為が分かっていなかったろう。それが分かってきたのは中学生以降な気がする)は、正直、今、「無い」。
そう考えると、いま、すげー幸せだ。
……というのが比較思考なんだよな。活躍する野球選手や、株で沢山お金稼いでいる人とか、第一線の研究分野で活躍する人とか、上を見たらきりがない。一方で、凄惨ないじめにあっている人とか、ブラック企業に勤める人とか、天涯孤独で貧困の人とか、下を見てもきりがない。(「下」とかいう表現も、気を付けないといけない。何とも生きづらい、書きづらい世の中だ)
そして、過去の自分と比較しても、それもまた比較思考で、意味のないことだ。
あれ、また話がズレているか。ストレッチ、そうストレッチのやり方だ。いや、違う、すごく嫌だった部活動においても、身体が覚えていることはあって、それがストレッチで、まぁ、使える知識とか経験というものは、どんな状況でも身に着けられるものなんだよ、という教訓めいたこと? うーん、そうだっけっか。よく分からなくなってきた。けれども、過去のことを真剣に想起して考え始めると、気持ちは正直よい気分じゃなくなるな。
もういいや、今日は終わり。明日、何が何でも日課だけは頑張ろう、以上。
