ニートの履歴書というブログをweb拍手で教えていただき、読んでみた。面白そうだ、と、また微妙な表現。この、面白そうという感覚はなんなんだろう。ただ、これは、ほんの2、3の記事を読めば分かる。
ちなみに拍手の画像を任意で変えられることを知ったので、拍手ではなく、読了ボタンに変えてみた。
拍手というと、なんだか大袈裟な気がする。単に、読みましたよー的な軽い感じで押して頂けるだけで嬉しいとの思い。
しかし、この拍手コメントに対しては、返信した方がよいのだろうか、なれてなくて少し悩んだ。
通常コメントではなく、外部からは見えない拍手コメントにするというのは、何だか極秘のホットライン的な意味なのだろうかと疑問が生じたのだ。
たいてい僕が悩むのは、同時思考として、反対のことが浮かぶ場合である。
そんな極秘とか関係なく、単に通常コメントが画像認証とか面倒だとか、コメントにするまでもないと考えて頂いたのか、そもそも何も理由がないかもしれない。
いやいやそもそも、こうやって悩むこと自体、コメントへの返信を義務になってしまうことへの恐れなのではないかとか、自己感情にまで及んでくると完全に行動ストップとなる。
今回は、結局、自分だったらやっぱり自分のコメントを取り上げてもらったら嬉しいなと思ったので、こうした結論となった。
ブログやめようかな、と記事を書いたときに頂いたコメントも、嬉しく思ったことをこの場で書かせて頂きます。ありがとうございました。
しかし、通常生活においては、この、自分だったらどうか、が判断基準にならないこともある。
そもそも、俺としてはどっちでもいいや、というものだ。
完全自分と関係ないことで、こうした判断が必要な事態自体少いと思われがちだが、そんなこともない。
ん、というのはもしかして、僕の他者への興味の希薄さが原因か、それはおいておく。
で、なんとか、正念場の土日を乗りきって続けられている。
今日も多分大丈夫だろう。と、だんだん、自分に対しての信頼度が上がっていく。
この感覚は悪いことではない。
なんというか、赤ん坊が、できることが少しずつ増えていくようなそんな感じ。
ただ、もう大人になってくると、頑張って日課をこなしても、別に誰から褒められるわけでもない。
せいぜい、未来の自分から誉めてもらえるかどうか。
それでも続けるってのは、脳の自己報酬神経群を活発にしてやらねばならない。
そういう意味で、ブログとは良いものである。もちろん、表面的に、ただ、ルーチンを続けることのみを書き続けるのはよくない。書きたいことがあって、日課のことなど、そのついで、ぐらいでよい。でないと、むしろ、ブログを書くこと自体がルーチンになってしまう。それでは、本来やろうとしたルーチンにさらに負荷をかけただけになってしまう。本末転倒である。
ある、IT関係に勤めて35歳ぐらいの独身の方のブログにおいて、俺は結婚するという努力を避けているのではない、結婚したいとそもそも思っていないのだ、とあった。
高収入でもイケメンでもないから、努力して結婚できたとしても、同年代か、それ以上の、おばさんしか相手にしてもらえないだろう、それに、高齢出産は障害児が生まれる確率が高くなる、低収入で障害児もちで妻も皺が多いとなれば、他の努力をしたほうがましだ、と。
差別的発言だー、とか、そんなくだらない批判はどうでもよいが、この記述は、結局のところ、批判者を退けられるものにはならない。
そもそも、低収入だろうが、イケメンじゃなかろうが、若くてきれいな嫁さんを見つけることを諦めてるだけじゃないか、とか。
ただ、僕は、他のその方の記事を読んでいて、決してその方が努力をしていないわけではないことも十分感じ取れるから、そうした考えと信念をもっていることは、むしろかっこいいと思う。
同時に、さて、年老いて、死ぬその間際において、自分の孤独な人生に何を思うのか、その点が気になる。もちろん、孤独かどうかなんて、それまた相対概念に過ぎず、他者視点においてどうでもいいことである、何度も書いているが、ここでは、実感が唯一のジャイロスコープ、羅針盤だ。
青春時代、異性とラブラブできなかったと、そういう劣等感において、それが払拭できなかったとする。
その代替に、おとなになって誰かと結婚して
セックスできたとして、その劣等感が克服できるのかどうか。
もし、その青春時代の瞬間こそ、自分自身のすべての欲求の根源だとしたとき、大人になってからの結婚が何になるのか、我が子の存在がなんになるのか。
これが問題のひとつ。
逆に、じゃあ結婚も、子供もいたことがないのに、その幸せを、どうせつまらないものだと諦めてよいものか、というのが、反転した問題のひとつ。
この、反転した方の問題は、想像力の欠けた人たちに多いものだが、それゆえ単純な経験の必要性という強力なロジックにより、覆すことが困難である。
ゆえに、……、時間の都合により、だいぶカットして、必要な表現だけ残しているが、これらの、いわゆる生き方とか、幸せとかいうもんだいについて、一切他者と争う必要はないのだ。
むしろ、他者を攻撃しなくては自己を保てないような弱者にかまってる余裕はない。
結婚して子供がいて本当に幸せな人は、独身で子供がいなくて孤独な人に対して、変わってるなと思うかもしれないが、別に自らの価値観を押し付けようとはしないものだ。
某新興宗教などは、こうあるべきだを押し付けがちであり、一概には書けないけれども、それはある意味、宗教がなければ、その組織がなければ自己を保てない弱者、と換言することもできる。
……、とか書きながら、この弱者という表現、すなわち、ニーチェの、超人になれ、という言葉が、同時に浮かび、それもまた違うよな、っという思いによって、やっぱり思考が停止しがちである。
なんでもかんでも反論が浮かぶ。
とか書いてると、自慢だとか、頭いいだとか、他者を見下してるとかわんさか批判になる。
んなわけないだろ。
むしろこれは、呪いであると、僕はこのことも何度も書いてきてる。
思考なんて、現状を理想に近づけるための方策にすぎないのだ。
現状超人幸せハッピーな人たちに、思考など必要ないのだ。だから、哲学者たちの言葉は、往々にして人々には響かず、思考者は発狂して路傍に倒れるのだ。
ダメブログ界は、すべてそうじゃないと思うけれども、どこか、自分がどれほど惨めか、大変な状況なのか、お金がないのか、コミュ障なのか、年齢=素人童貞歴だとか、自己卑下に真剣に取り組んでいる気がする。
そうじゃなくて、やっぱり、自己に問いかけ続けてる人の記事は面白いし、かっこいいと思う。
冒頭に戻ると、それが、何個か読むと何となく伝わってくるのだ。
そして、僕が他者への興味が希薄というのも、この辺に関係きてそうだ、それはおいておいて。
そして、また反転するが、
思考とはどうでもいいものだ
と書いておきながら、僕は、多くのひとがそのうち必要になるだろうとも思っている。
50歳かもしれない。
60歳かもしれない。
本当に死ぬ直前かもしれない。
メメントモリ、死を思えとか言うのではない、発狂して倒れた哲学者ではないが、偉人が偉人であるのは、それが常人では中々到達しえない領域がゆえに、それゆえに、理解や実感が難しいものである。
じゃあ、やはり死の瞬間の恐怖なんて忘れ、享楽的に生きることを目指すべきだ、と、やはり同時的に浮かびながら、過去の自分の記事や、経験の実感において、それは不可能なのだと、この三十代のタイミングでも感じたことを、未来の自分への遺産としてメモし、この記事を終えることとする。
補足。
問うべきは自分。
言い訳とか、後悔とか、大嫌いである。
もちろん、ここでの言い訳や後悔は、他者比較における相対的なものではない。
例えば、飲み会で時間がとれなくてルーチンができなかった、というのは言い訳に他ならないが、例外対処ルールにより、それは、自分のなかでは一切言い訳でも後悔でもない。
では、例えば、今日、いま、お腹が痛いのだけど、筋トレストレッチは、やめてもいいのだろうか?
今日は、何とか我慢すれば実施できそうだ。では、もっともっと体調が悪かったときは?
実際、音読のルーチンも、以前インフルエンザで咽をやられ、熱が40℃近くなって数字う寝込んだとき、中断し、結局そのままずるずる、体調が回復しても、ルーチンの再開ができなくなった。
この場合、睡眠時間6時間以外の可用時間二時間未満ルールが適用できない。
しかし、体調の悪さ、というのは、数値化しづらく、判断が難しい。治るのも、何日かかるか推測できない。さて困った。
これは課題、だけれとも、今日のところは問題提起まで。
ちなみに拍手の画像を任意で変えられることを知ったので、拍手ではなく、読了ボタンに変えてみた。
拍手というと、なんだか大袈裟な気がする。単に、読みましたよー的な軽い感じで押して頂けるだけで嬉しいとの思い。
しかし、この拍手コメントに対しては、返信した方がよいのだろうか、なれてなくて少し悩んだ。
通常コメントではなく、外部からは見えない拍手コメントにするというのは、何だか極秘のホットライン的な意味なのだろうかと疑問が生じたのだ。
たいてい僕が悩むのは、同時思考として、反対のことが浮かぶ場合である。
そんな極秘とか関係なく、単に通常コメントが画像認証とか面倒だとか、コメントにするまでもないと考えて頂いたのか、そもそも何も理由がないかもしれない。
いやいやそもそも、こうやって悩むこと自体、コメントへの返信を義務になってしまうことへの恐れなのではないかとか、自己感情にまで及んでくると完全に行動ストップとなる。
今回は、結局、自分だったらやっぱり自分のコメントを取り上げてもらったら嬉しいなと思ったので、こうした結論となった。
ブログやめようかな、と記事を書いたときに頂いたコメントも、嬉しく思ったことをこの場で書かせて頂きます。ありがとうございました。
同時思考
しかし、通常生活においては、この、自分だったらどうか、が判断基準にならないこともある。
そもそも、俺としてはどっちでもいいや、というものだ。
完全自分と関係ないことで、こうした判断が必要な事態自体少いと思われがちだが、そんなこともない。
ん、というのはもしかして、僕の他者への興味の希薄さが原因か、それはおいておく。
ルーチン
で、なんとか、正念場の土日を乗りきって続けられている。
今日も多分大丈夫だろう。と、だんだん、自分に対しての信頼度が上がっていく。
この感覚は悪いことではない。
なんというか、赤ん坊が、できることが少しずつ増えていくようなそんな感じ。
ただ、もう大人になってくると、頑張って日課をこなしても、別に誰から褒められるわけでもない。
せいぜい、未来の自分から誉めてもらえるかどうか。
それでも続けるってのは、脳の自己報酬神経群を活発にしてやらねばならない。
そういう意味で、ブログとは良いものである。もちろん、表面的に、ただ、ルーチンを続けることのみを書き続けるのはよくない。書きたいことがあって、日課のことなど、そのついで、ぐらいでよい。でないと、むしろ、ブログを書くこと自体がルーチンになってしまう。それでは、本来やろうとしたルーチンにさらに負荷をかけただけになってしまう。本末転倒である。
結婚観
ある、IT関係に勤めて35歳ぐらいの独身の方のブログにおいて、俺は結婚するという努力を避けているのではない、結婚したいとそもそも思っていないのだ、とあった。
高収入でもイケメンでもないから、努力して結婚できたとしても、同年代か、それ以上の、おばさんしか相手にしてもらえないだろう、それに、高齢出産は障害児が生まれる確率が高くなる、低収入で障害児もちで妻も皺が多いとなれば、他の努力をしたほうがましだ、と。
差別的発言だー、とか、そんなくだらない批判はどうでもよいが、この記述は、結局のところ、批判者を退けられるものにはならない。
そもそも、低収入だろうが、イケメンじゃなかろうが、若くてきれいな嫁さんを見つけることを諦めてるだけじゃないか、とか。
ただ、僕は、他のその方の記事を読んでいて、決してその方が努力をしていないわけではないことも十分感じ取れるから、そうした考えと信念をもっていることは、むしろかっこいいと思う。
同時に、さて、年老いて、死ぬその間際において、自分の孤独な人生に何を思うのか、その点が気になる。もちろん、孤独かどうかなんて、それまた相対概念に過ぎず、他者視点においてどうでもいいことである、何度も書いているが、ここでは、実感が唯一のジャイロスコープ、羅針盤だ。
ステータスとしての結婚
青春時代、異性とラブラブできなかったと、そういう劣等感において、それが払拭できなかったとする。
その代替に、おとなになって誰かと結婚して
セックスできたとして、その劣等感が克服できるのかどうか。
もし、その青春時代の瞬間こそ、自分自身のすべての欲求の根源だとしたとき、大人になってからの結婚が何になるのか、我が子の存在がなんになるのか。
これが問題のひとつ。
逆に、じゃあ結婚も、子供もいたことがないのに、その幸せを、どうせつまらないものだと諦めてよいものか、というのが、反転した問題のひとつ。
この、反転した方の問題は、想像力の欠けた人たちに多いものだが、それゆえ単純な経験の必要性という強力なロジックにより、覆すことが困難である。
戦う必要はない
ゆえに、……、時間の都合により、だいぶカットして、必要な表現だけ残しているが、これらの、いわゆる生き方とか、幸せとかいうもんだいについて、一切他者と争う必要はないのだ。
むしろ、他者を攻撃しなくては自己を保てないような弱者にかまってる余裕はない。
結婚して子供がいて本当に幸せな人は、独身で子供がいなくて孤独な人に対して、変わってるなと思うかもしれないが、別に自らの価値観を押し付けようとはしないものだ。
某新興宗教などは、こうあるべきだを押し付けがちであり、一概には書けないけれども、それはある意味、宗教がなければ、その組織がなければ自己を保てない弱者、と換言することもできる。
……、とか書きながら、この弱者という表現、すなわち、ニーチェの、超人になれ、という言葉が、同時に浮かび、それもまた違うよな、っという思いによって、やっぱり思考が停止しがちである。
なんでもかんでも反論が浮かぶ。
ダメブログ界カースト
とか書いてると、自慢だとか、頭いいだとか、他者を見下してるとかわんさか批判になる。
んなわけないだろ。
むしろこれは、呪いであると、僕はこのことも何度も書いてきてる。
思考なんて、現状を理想に近づけるための方策にすぎないのだ。
現状超人幸せハッピーな人たちに、思考など必要ないのだ。だから、哲学者たちの言葉は、往々にして人々には響かず、思考者は発狂して路傍に倒れるのだ。
ダメブログ界は、すべてそうじゃないと思うけれども、どこか、自分がどれほど惨めか、大変な状況なのか、お金がないのか、コミュ障なのか、年齢=素人童貞歴だとか、自己卑下に真剣に取り組んでいる気がする。
そうじゃなくて、やっぱり、自己に問いかけ続けてる人の記事は面白いし、かっこいいと思う。
冒頭に戻ると、それが、何個か読むと何となく伝わってくるのだ。
そして、僕が他者への興味が希薄というのも、この辺に関係きてそうだ、それはおいておいて。
死ぬ瞬間
そして、また反転するが、
思考とはどうでもいいものだ
と書いておきながら、僕は、多くのひとがそのうち必要になるだろうとも思っている。
50歳かもしれない。
60歳かもしれない。
本当に死ぬ直前かもしれない。
メメントモリ、死を思えとか言うのではない、発狂して倒れた哲学者ではないが、偉人が偉人であるのは、それが常人では中々到達しえない領域がゆえに、それゆえに、理解や実感が難しいものである。
じゃあ、やはり死の瞬間の恐怖なんて忘れ、享楽的に生きることを目指すべきだ、と、やはり同時的に浮かびながら、過去の自分の記事や、経験の実感において、それは不可能なのだと、この三十代のタイミングでも感じたことを、未来の自分への遺産としてメモし、この記事を終えることとする。
真剣になるべきこと
補足。
問うべきは自分。
言い訳とか、後悔とか、大嫌いである。
もちろん、ここでの言い訳や後悔は、他者比較における相対的なものではない。
例えば、飲み会で時間がとれなくてルーチンができなかった、というのは言い訳に他ならないが、例外対処ルールにより、それは、自分のなかでは一切言い訳でも後悔でもない。
では、例えば、今日、いま、お腹が痛いのだけど、筋トレストレッチは、やめてもいいのだろうか?
今日は、何とか我慢すれば実施できそうだ。では、もっともっと体調が悪かったときは?
実際、音読のルーチンも、以前インフルエンザで咽をやられ、熱が40℃近くなって数字う寝込んだとき、中断し、結局そのままずるずる、体調が回復しても、ルーチンの再開ができなくなった。
この場合、睡眠時間6時間以外の可用時間二時間未満ルールが適用できない。
しかし、体調の悪さ、というのは、数値化しづらく、判断が難しい。治るのも、何日かかるか推測できない。さて困った。
これは課題、だけれとも、今日のところは問題提起まで。
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人の紡ぐ文章は面白いなぁ。記憶言語学(?)を学び翻訳家をされている人のブログを拝見し、それに寄せられていたコメントと、それに対する返信、やりとりを読んでいて、何だかすげーレベルで会話してるな! かっけぇな! よくわかんねーけど! と思った。
この「理解」というのは、長らく、僕にとっても課題というか、問題であり続けた。
クオリア、というのは、認識や感覚の「質感」のこと、「青を青を感じるそれ自体の感覚」のことであると理解している。そして、そのクオリアというのが、誰しも持っているものだろうか、という懐疑が哲学的ゾンビという考え方である。
僕は、どうしたら、人と人がお互いを理解しあえるのだろうと、割かし真剣に考えていた。
そして、パレートの法則じゃなくて、ええと、何だっけ、人は言葉よりも表情やジェスチャーの方でコミュニケーションの意味を理解しているという、アレだ、ダメだすぐ思い出せない。
あ、今日も20分程度の時間制限付きで書いてます。
とにかく、理解って、何だろなと思う。そして、俺が論理的でなくて、学者にもなれないのは、その理解を突き詰めようとは思わなかった点だ。
結局、感覚的なことも重要なんだろ、と思ってしまうのだ。そして、論理的であることが必ずしも、僕の「目的」に合致しないだろうという思いもある。まぁもちろんこれは、単なる諦念、慢心、逃避とも言えるから、断言はできない。
ただ、先日の記事で、仏教は「感動」も否定する、ということを知ったと書いたが、僕は、「感動」は大事だと思うのだ。その感動とか、欲求というものを求める心性というのは、「ああ、若い人だねぇ」と見られるかもしれないが、それは心外である。
僕はむしろ、逆に今まで、その「感動」とかいったものを、可能な限り排除しようと試みてきた。僕の造語でいえば、感情のコントロールである。理性と論理性で、感情を思い通りに操ろうとしたのだ。
それが、昨今、僕は逆転している。逆に、その感情ってもんを、いわゆる「実感」を大事にしようという方策に変わっている。
とか、そういう表現、これら、実は、8年前ぐらいにかなり詳細に書いていたことが分かって驚いた。
誰かに読んでもらえる、誰かに影響を与えられる可能性があるというその希望、これは、それが事実だろうがどうだろうが、その可能性だけで僕に充足感を与えてくれる。(とかいう表現は、実は恥ずかしいから、今までできる限り抑えようとしていた)
そう考えると、何年も前の僕の記事は、本当に、あれ、何のためやってたんだろうと、意味不明である。
と思って読み進めると、「書いていることそれ自体の楽しさ」に触れた記事もあった。
「理想自己と現実自己の乖離」なんて概念も、2008年ぐらいからあった。
2008年、かなり、僕にとって激動であった。
正直、自分大好き人間みたいで気持ち悪くて、自己陶酔、ナルシスト、うーん兎に角バカみたいだなぁという思いが同時に起こりながら、僕は、過去の記事が面白いと思ってしまった。
面白いなって思うのは、今回が初めてじゃないけれど、特に、何だか、「お疲れ様」って思いがわいてきた。これはきっと初めてだと思う。
自分に対して、お疲れ様って、これ、今まで、うん、やっぱり無いな。
残念ながら、今のこの瞬間の僕に対しては、正直そんな風に思えない。
ただ、過去の、8年前の僕に対しては、お疲れ様って思う。
いや、もっといえば、それよりも前の自分があったわけで。
うーん、何だろ、直接的な自分のことになると、語るべき言葉が浮かんでこない。
ただ、今日、メモしようと、書いておこうと思ったのは、過去の、何年も前の自分からのメッセージで、結構励まされたというか、暇な時間をつぶせたというか、有意義な時間になったという思いを頂いたということから、
僕は、今、この書いていることなどが、10年後の僕に対して、何らか、意味あるものになって欲しいと、そう思ったのだ。
正直、こんなこと書いている、現時点の俺に対しては、何も感慨もない。
何へかは分からないが、もっと頑張れるんじゃないか、なんて思う。もっと効率的な時間の使い方があるんじゃないかなんても思う。
だけれども、8年前の僕に対しては、素直に、お疲れ様、まぁゆっくり休みなよ、と、そんな優しい言葉をかけてあげられそうなのだ。
なんだ、もっと、その、未来の、そんな10年とか後じゃなくても、せめて明日の俺に対してでも、何か声をかけてあげたい。
ええと、なんだ、その、頑張れ……?
頑張れって言葉好きじゃない、頑張れって何だよ、それってつまり、「苦しめ」ってこと? アホちゃう? 苦しむこと、悩むことが目的じゃないだろ? 何か目的のために、そのプロセスとして、過程として苦しんだり悩んだりすることは必要かもしれない。でも、頑張れって何? 思考停止な言葉だよな。具体的に、何をしろ、と、はっきり明確に言ってやれよ。
同じく、「気を付けてね♪」なんても嫌いな言葉だ。何を気を付けりゃええねん。
すぐさま書いておくべきは、別に、口語表現として、単なる挨拶としての言葉として、別に否定するまでもない。おはようございます~。お疲れ様でした~。え、何がおはようなの、おはようって何? お疲れ様って、何が疲れてんの? 疲れてると思ってんのにお前先に帰ろうってんの? ――とか、そんなこと思わない。言葉ってのは、「意味」を伝える言葉と、「感情」を伝える言葉があって、それは別である。
ただ、こうした、ブログとか日記とかログとかいったものにおいて、頑張れとか気を付けてとか、自分を信じてとか、そんな抽象まとった言葉なんて、不要である。書くだけ無駄である。
(すぐさま書いておくべきは……別に、そういったことを書いたところでダメじゃあない。そもそも、こうやって、「あー」とか「ええとー」「そのー」とか、そんなこと書いている時点で無駄ばっかである。ここで書きたいこと、メモしたいことはそうじゃなくて……だが、上手い表現が見つからないからカット)
非常に脱線した。
時間も切れた。
そう、明日の自分への言葉だ。
取りあえず、筋トレ音読ストレッチのルーチンは今日もOK。
明日も多分大丈夫だろう。問題は、4時起きぐらいになりそうな土曜日だ。
そんな土日を乗り切ると、もう11月になるわけだ。
早いなぁ。
今日も一日、後は寝るだけしか残っていない。
いやぁ、そんな風に思って、朝まで起きていようとか思ったことも、一度や二度ではなかった気がする。結局、明け方にものすごい睡魔に苦しむことになるから、もうやらないけれど……。
歳をとって夜更かしができなくなったなぁとかいう人を聞いたことあるけれど、正直、俺は今までずっと徹夜なんてまともにできた試しはない。
睡眠は大事だよ。残業すりゃ偉いなんてそんなのも前近代的だ。とはいえ、「効率」というだけではなくて、結局人の感情ってのが大きな影響を与えるものだってことも、別に敢えて書かずとももう分かってることなんだけど、ただ、ここで、このタイミングで書いておくのが、やっぱり、後で読んだ時の優しさになるわけだが。
そろそろ、来年の目標……できれば、目的を立てなきゃ、間に合わなそうだ。
目標を公言して、実際に行動して、やり遂げようとしている方がいて、僕も見習わなければならない。
目標、大事だよやっぱり、うん、その、何というか、「目標」という言葉にしてしまうと、うわ、なんか面倒だ……と思ってしまうものだけれども、でも、間違いなくこれがあるかどうかで生き方は変わると思う。決して、自己啓発ブログなんてもんじゃなくて、どっちかというとダメブログ系なもんなんだが、そんなこと関係なく、目標は大事だ、どう大事かって、書いてきたっけっか。また今度確認してみるか。
うん、そうだな、まず、今立てるべきは、目標を立てるって目標を立てた方がよいだろう。本当は、目的を見つける、というのが最終目標なんだが、それは、エレファントテクニックで、細かく分解しなければ到底たどり着けないほど遠そうな気がしている。
そう、目標ってのは、何も面倒なものではない。
何せ、目標は、本当に、自分がやりたいこと、好きなこと、楽しいことを目指すものだからだ。
だから、目標が短ければ短いほど、それは直感的な快楽、嬉しさ、気持ちよさ、楽しさに漸近する。
例えば、サツマイモとカボチャの煮つけを作って食べる、という目標を立てたとしよう。1時間もすれば、目標は達成され、美味しい料理を食べれるという快楽が待っている。
だから、逆を言えば、今現時点最高に幸せで満足であれば、全然目標なんて立てる必要はないのである。
いまその瞬間を精一杯楽しんでれば、それで人生大正解だ。
(この、今書いていることは、あくまで、人々の個々、個人的なベースにおいて、現実規定(物理環境)に応じた上でという制約付きなことをメモして置かなければならないだろう。当たり前だが、快楽殺人嗜好者の幸福追求は、認められるものではない。さて、では、快楽殺人嗜好者が、社会規定を前提とした上で幸せに生きるには、いったいどういった方法が考えられるだろうか。残念ながら、早いところ死んでもらった方がいい、となる。これはかなり極端な想定なのだけれども、この点、後々かなり重要性が帯びてくる。即ち、果てしない理想をもって、その理想を諦められず縋るしかない人がいたときに、その人にとっての真の幸せは、恐らく、可及的速やかな自死では無かろうか、という点である。この点、この内容については、今日はとても書ききれない。だが、いずれしっかり思考し書く必要があるだろう、もしくは、過去記事の中で同様のテーマで触れているものがないか探し出す必要があるだろう)
逆に、だ。
目標を必要とするというのは、何らかの「不満」があるということだ。
その不満があるというのは、「欲求」があるということだ。
欲求があるという時は、それを解決する何らかの行動が必要になるということ、そして、むしろ逆に、解決する方法があるだろうということだ。
卵が先か鶏が先かみたいな話になってきたが、兎に角、目標、欲求、感情、の発生する流れを鋭く感じ取り、それを相互関連させながら明確な、確固たる目標やそれに対する行動方策を立てていく必要があるだろう。
この「理解」というのは、長らく、僕にとっても課題というか、問題であり続けた。
クオリア、というのは、認識や感覚の「質感」のこと、「青を青を感じるそれ自体の感覚」のことであると理解している。そして、そのクオリアというのが、誰しも持っているものだろうか、という懐疑が哲学的ゾンビという考え方である。
僕は、どうしたら、人と人がお互いを理解しあえるのだろうと、割かし真剣に考えていた。
そして、パレートの法則じゃなくて、ええと、何だっけ、人は言葉よりも表情やジェスチャーの方でコミュニケーションの意味を理解しているという、アレだ、ダメだすぐ思い出せない。
あ、今日も20分程度の時間制限付きで書いてます。
とにかく、理解って、何だろなと思う。そして、俺が論理的でなくて、学者にもなれないのは、その理解を突き詰めようとは思わなかった点だ。
結局、感覚的なことも重要なんだろ、と思ってしまうのだ。そして、論理的であることが必ずしも、僕の「目的」に合致しないだろうという思いもある。まぁもちろんこれは、単なる諦念、慢心、逃避とも言えるから、断言はできない。
ただ、先日の記事で、仏教は「感動」も否定する、ということを知ったと書いたが、僕は、「感動」は大事だと思うのだ。その感動とか、欲求というものを求める心性というのは、「ああ、若い人だねぇ」と見られるかもしれないが、それは心外である。
僕はむしろ、逆に今まで、その「感動」とかいったものを、可能な限り排除しようと試みてきた。僕の造語でいえば、感情のコントロールである。理性と論理性で、感情を思い通りに操ろうとしたのだ。
それが、昨今、僕は逆転している。逆に、その感情ってもんを、いわゆる「実感」を大事にしようという方策に変わっている。
とか、そういう表現、これら、実は、8年前ぐらいにかなり詳細に書いていたことが分かって驚いた。
ブログの意味
思うに、――最近、拍手押して頂ける場合が増えてとっても嬉しいけれども――ブログの意味とは、やっぱり、未来の自分への遺産みたいなもんだと思った。誰かに読んでもらえる、誰かに影響を与えられる可能性があるというその希望、これは、それが事実だろうがどうだろうが、その可能性だけで僕に充足感を与えてくれる。(とかいう表現は、実は恥ずかしいから、今までできる限り抑えようとしていた)
そう考えると、何年も前の僕の記事は、本当に、あれ、何のためやってたんだろうと、意味不明である。
と思って読み進めると、「書いていることそれ自体の楽しさ」に触れた記事もあった。
「理想自己と現実自己の乖離」なんて概念も、2008年ぐらいからあった。
2008年、かなり、僕にとって激動であった。
正直、自分大好き人間みたいで気持ち悪くて、自己陶酔、ナルシスト、うーん兎に角バカみたいだなぁという思いが同時に起こりながら、僕は、過去の記事が面白いと思ってしまった。
面白いなって思うのは、今回が初めてじゃないけれど、特に、何だか、「お疲れ様」って思いがわいてきた。これはきっと初めてだと思う。
自分に対して、お疲れ様って、これ、今まで、うん、やっぱり無いな。
残念ながら、今のこの瞬間の僕に対しては、正直そんな風に思えない。
ただ、過去の、8年前の僕に対しては、お疲れ様って思う。
いや、もっといえば、それよりも前の自分があったわけで。
うーん、何だろ、直接的な自分のことになると、語るべき言葉が浮かんでこない。
ただ、今日、メモしようと、書いておこうと思ったのは、過去の、何年も前の自分からのメッセージで、結構励まされたというか、暇な時間をつぶせたというか、有意義な時間になったという思いを頂いたということから、
僕は、今、この書いていることなどが、10年後の僕に対して、何らか、意味あるものになって欲しいと、そう思ったのだ。
正直、こんなこと書いている、現時点の俺に対しては、何も感慨もない。
何へかは分からないが、もっと頑張れるんじゃないか、なんて思う。もっと効率的な時間の使い方があるんじゃないかなんても思う。
だけれども、8年前の僕に対しては、素直に、お疲れ様、まぁゆっくり休みなよ、と、そんな優しい言葉をかけてあげられそうなのだ。
明日への言葉
ああ、もう、時間切れか。なんだ、もっと、その、未来の、そんな10年とか後じゃなくても、せめて明日の俺に対してでも、何か声をかけてあげたい。
ええと、なんだ、その、頑張れ……?
頑張れって言葉好きじゃない、頑張れって何だよ、それってつまり、「苦しめ」ってこと? アホちゃう? 苦しむこと、悩むことが目的じゃないだろ? 何か目的のために、そのプロセスとして、過程として苦しんだり悩んだりすることは必要かもしれない。でも、頑張れって何? 思考停止な言葉だよな。具体的に、何をしろ、と、はっきり明確に言ってやれよ。
同じく、「気を付けてね♪」なんても嫌いな言葉だ。何を気を付けりゃええねん。
すぐさま書いておくべきは、別に、口語表現として、単なる挨拶としての言葉として、別に否定するまでもない。おはようございます~。お疲れ様でした~。え、何がおはようなの、おはようって何? お疲れ様って、何が疲れてんの? 疲れてると思ってんのにお前先に帰ろうってんの? ――とか、そんなこと思わない。言葉ってのは、「意味」を伝える言葉と、「感情」を伝える言葉があって、それは別である。
ただ、こうした、ブログとか日記とかログとかいったものにおいて、頑張れとか気を付けてとか、自分を信じてとか、そんな抽象まとった言葉なんて、不要である。書くだけ無駄である。
(すぐさま書いておくべきは……別に、そういったことを書いたところでダメじゃあない。そもそも、こうやって、「あー」とか「ええとー」「そのー」とか、そんなこと書いている時点で無駄ばっかである。ここで書きたいこと、メモしたいことはそうじゃなくて……だが、上手い表現が見つからないからカット)
非常に脱線した。
時間も切れた。
そう、明日の自分への言葉だ。
取りあえず、筋トレ音読ストレッチのルーチンは今日もOK。
明日も多分大丈夫だろう。問題は、4時起きぐらいになりそうな土曜日だ。
そんな土日を乗り切ると、もう11月になるわけだ。
早いなぁ。
今日も一日、後は寝るだけしか残っていない。
いやぁ、そんな風に思って、朝まで起きていようとか思ったことも、一度や二度ではなかった気がする。結局、明け方にものすごい睡魔に苦しむことになるから、もうやらないけれど……。
歳をとって夜更かしができなくなったなぁとかいう人を聞いたことあるけれど、正直、俺は今までずっと徹夜なんてまともにできた試しはない。
睡眠は大事だよ。残業すりゃ偉いなんてそんなのも前近代的だ。とはいえ、「効率」というだけではなくて、結局人の感情ってのが大きな影響を与えるものだってことも、別に敢えて書かずとももう分かってることなんだけど、ただ、ここで、このタイミングで書いておくのが、やっぱり、後で読んだ時の優しさになるわけだが。
目標について
いやそうじゃなくて、何だ、その、早いなぁ。そろそろ、来年の目標……できれば、目的を立てなきゃ、間に合わなそうだ。
目標を公言して、実際に行動して、やり遂げようとしている方がいて、僕も見習わなければならない。
目標、大事だよやっぱり、うん、その、何というか、「目標」という言葉にしてしまうと、うわ、なんか面倒だ……と思ってしまうものだけれども、でも、間違いなくこれがあるかどうかで生き方は変わると思う。決して、自己啓発ブログなんてもんじゃなくて、どっちかというとダメブログ系なもんなんだが、そんなこと関係なく、目標は大事だ、どう大事かって、書いてきたっけっか。また今度確認してみるか。
うん、そうだな、まず、今立てるべきは、目標を立てるって目標を立てた方がよいだろう。本当は、目的を見つける、というのが最終目標なんだが、それは、エレファントテクニックで、細かく分解しなければ到底たどり着けないほど遠そうな気がしている。
そう、目標ってのは、何も面倒なものではない。
何せ、目標は、本当に、自分がやりたいこと、好きなこと、楽しいことを目指すものだからだ。
だから、目標が短ければ短いほど、それは直感的な快楽、嬉しさ、気持ちよさ、楽しさに漸近する。
例えば、サツマイモとカボチャの煮つけを作って食べる、という目標を立てたとしよう。1時間もすれば、目標は達成され、美味しい料理を食べれるという快楽が待っている。
だから、逆を言えば、今現時点最高に幸せで満足であれば、全然目標なんて立てる必要はないのである。
いまその瞬間を精一杯楽しんでれば、それで人生大正解だ。
(この、今書いていることは、あくまで、人々の個々、個人的なベースにおいて、現実規定(物理環境)に応じた上でという制約付きなことをメモして置かなければならないだろう。当たり前だが、快楽殺人嗜好者の幸福追求は、認められるものではない。さて、では、快楽殺人嗜好者が、社会規定を前提とした上で幸せに生きるには、いったいどういった方法が考えられるだろうか。残念ながら、早いところ死んでもらった方がいい、となる。これはかなり極端な想定なのだけれども、この点、後々かなり重要性が帯びてくる。即ち、果てしない理想をもって、その理想を諦められず縋るしかない人がいたときに、その人にとっての真の幸せは、恐らく、可及的速やかな自死では無かろうか、という点である。この点、この内容については、今日はとても書ききれない。だが、いずれしっかり思考し書く必要があるだろう、もしくは、過去記事の中で同様のテーマで触れているものがないか探し出す必要があるだろう)
逆に、だ。
目標を必要とするというのは、何らかの「不満」があるということだ。
その不満があるというのは、「欲求」があるということだ。
欲求があるという時は、それを解決する何らかの行動が必要になるということ、そして、むしろ逆に、解決する方法があるだろうということだ。
卵が先か鶏が先かみたいな話になってきたが、兎に角、目標、欲求、感情、の発生する流れを鋭く感じ取り、それを相互関連させながら明確な、確固たる目標やそれに対する行動方策を立てていく必要があるだろう。
あー、もう23時か。今日も比較的早く家に着いたはずだけれども、あっという間だな。
あー、ジンベースのブルドッグ(グレープフルーツジュース割り)うめぇ。これで、部屋がもう少し片付いて綺麗だったらいうことないのだが。――机を拭く。うん、まぁ少し身の回りを掃除するだけでも少しだけ、気分は違うもんだ。
最近、ダラダラ書きすぎている。5分リミッターの方を見習って、僕も時間を決めて書いてみよう。そうさな、20分ぐらいでいこう。
今日は、センチネル族とか、絶対ドライブしたくない危険な世界の道とか、無為にネットサーフィンしてしまった。ああ、時間無駄にしたぁ、と思うところだが、発見もあった。
一つは、仏教の「ありがたい法話」について問題提起しているニコニコ動画をみたこと。仏教って、お坊さんの仏教、いわゆるお葬式とか儀式的なことする仏教と、仏教学者の仏教徒、ありがたい法話の仏教と、大きく3つあって、一般に知られているのはその程度だと言われていた。
でも、4つめの、修行する仏教ってのが、僕ら一人一人の「生」を考えたとき重要なのだと言われていて、そうそう、そのとおりだよなぁと思った。
その中でさらに、仏教って実は、芸術も否定するんだぜ、と言われていて、それは知らなかったから、勉強になった。何でも、感動するということが、それが良いものでも悪いものでも、よくないということだ。中道、とは、芸術も否定するのだなぁ。
その点は少々、是、とはしにくいな。最近、仏教系の話しとか書物とか読んでると、まさに我が意得たり! 的な感覚が多かったものだけれども、まぁ、納得しづらい部分があるというのは、やはりニュートラルな気持ちで接せられているのだという証左かとも思い、よい発見だと思った。
やっぱり、ちょーっと、仏教がいかに日本人に馴染みがあると言っても、仏教の考え方が割かし好き、というのは、いわゆる、某新興系仏教とかもあるし、何より、「宗教」って考え方が馴染みづらいものだから、表現しづらい面が多い。リアル、現実界においても、こうしたブログにおいても、これはもうどこでもそうだ。
書けば書くほどドツボな部分だけれども、別に僕は、宗教的な考え方が好きなのではない。これは何度も書いているけれども、現世御利益を求める仏教とか、全く興味がない。般若心経は諳んじられるけれども、南無阿弥陀仏を唱えれば浄土にいけるとか信じているわけではない。
キリスト教は、あんまり、よく分からないけれども、グノーシス主義とか、結構面白いと思ったし、日本の神話とかも面白いと思う。
でも、これらについては、いくら説明したとしても、宗教=胡散臭い=気持ち悪いの思考構造が構築されている人にとっては、理解できるものではないため、初めから触れないことが得策である。
そう、この話題になると僕はいつも思うのだけれども、話せば分かるとか、誰とでも理解しあえるとか、そんなわけないだろと、アホかと。
センチネル族に対して、インド政府は、何度も友好関係を結ぼうと接触を試みたらしい。スマトラ島地震のときは、救援物資を供給するためヘリを飛ばしたが、相手から送られたのは、矢の雨だったとか、もう笑い話である。
極端な思考の人が多いから、すぐさま書かなければいけないけれども、だからと言って、対話とか、他者とのコミュニケーションを諦めてよいという意味ではない。限界はある、という、当たり前のことでしかない。
おっと、時間が残り5分。制限時間を考えて、できる限り整理して書こうと思っていたら、思考がとまり、書く量も考える量も減ってしまいそうだ。もう一つだけ、メモすると、ダメブログ界なるものがあるということだ。
俺は思った。おお、まさに、俺の居場所が見つかった! と。
ところが、それらを読んでいくうちに、あれ、これ、多分、俺、相手にされないぞ、と思った。
それこそ、先日書いた、ラーメン食べたら贅沢もの、みたいな、そんな感じだ。
恐ろしいことに、ダメブログ界にも、カーストがあるのだ。
ええと、カーストってのは、ヴァルナとジャーティの二つの総称で、ヴァルナは、バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つで、ジャーテイというさらに細かい身分制度があって、それって3000ぐらいも分かれていて、それというのは、人は下を見て自分より弱い人とか立場の低い人がいると安心するからだって、確か本田透さんが言ってた気がするけれど、なんかそれを思い出した。
で、僕は、何だか、やっぱり、居場所をなくした小動物のように項垂れて、結局この場に帰ってきたのであるわけだが、ああ、もう30分たったか。
何だか時間ほんと早いなぁ……。
とりまず、日課は順調にこなせている。完全にルーチンの波に乗った。繰り返しになるけれども、今後問題は、例外事象への対応策。睡眠時間6時間を除く可用時間が2時間未満の際はルーチン免除であるという規定をもう一度思い出したところで、終わりにしよう。
いやぁ、ちょっと、もう一つだけ書かせてもらおう。
ホント、これ、時間、早いって。
もう2016年終わってしまうよ。
マジかよ。30代だぜ。
よく考えたら、いやぁほんと、よく生きてきたもんだ。20代です、きゃぴっ☆とか言ってられねーんだぜ。本気か。
これが僕が思い描いていた生活か、人生なのか?
いやそんなことはどうでもいい、これから、俺はどう生きていくつもりなんだ?
自サイトの改革だってやりたいし、曲作りも久しぶりにやりたい、書き始めた小説の短編も完結させたい。
仕事のスキルアップもしたい、多分ダメだったろう資格試験のリベンジもしたい。
恋活したい、婚活したい……ん? それはどうだろ。
友達100人つくりたい……ん? それはどうだろ?
おいおい、徹底して考えるんじゃないのかよ。こんな、日々忙殺されて過ぎていっていいのかよ。
もう一回ぐらい、本気で、全力で生きてみなくていいのかよ。
うるせー、黙れ、落ち着け。
超おつちいけ。どうどう、スティスティ。
いいか? 取りあえず、今日は、もう、終わり。歯磨きして、寝なさい。OK?
いえすまいろーど。
あー、ジンベースのブルドッグ(グレープフルーツジュース割り)うめぇ。これで、部屋がもう少し片付いて綺麗だったらいうことないのだが。――机を拭く。うん、まぁ少し身の回りを掃除するだけでも少しだけ、気分は違うもんだ。
最近、ダラダラ書きすぎている。5分リミッターの方を見習って、僕も時間を決めて書いてみよう。そうさな、20分ぐらいでいこう。
今日は、センチネル族とか、絶対ドライブしたくない危険な世界の道とか、無為にネットサーフィンしてしまった。ああ、時間無駄にしたぁ、と思うところだが、発見もあった。
一つは、仏教の「ありがたい法話」について問題提起しているニコニコ動画をみたこと。仏教って、お坊さんの仏教、いわゆるお葬式とか儀式的なことする仏教と、仏教学者の仏教徒、ありがたい法話の仏教と、大きく3つあって、一般に知られているのはその程度だと言われていた。
でも、4つめの、修行する仏教ってのが、僕ら一人一人の「生」を考えたとき重要なのだと言われていて、そうそう、そのとおりだよなぁと思った。
その中でさらに、仏教って実は、芸術も否定するんだぜ、と言われていて、それは知らなかったから、勉強になった。何でも、感動するということが、それが良いものでも悪いものでも、よくないということだ。中道、とは、芸術も否定するのだなぁ。
その点は少々、是、とはしにくいな。最近、仏教系の話しとか書物とか読んでると、まさに我が意得たり! 的な感覚が多かったものだけれども、まぁ、納得しづらい部分があるというのは、やはりニュートラルな気持ちで接せられているのだという証左かとも思い、よい発見だと思った。
やっぱり、ちょーっと、仏教がいかに日本人に馴染みがあると言っても、仏教の考え方が割かし好き、というのは、いわゆる、某新興系仏教とかもあるし、何より、「宗教」って考え方が馴染みづらいものだから、表現しづらい面が多い。リアル、現実界においても、こうしたブログにおいても、これはもうどこでもそうだ。
書けば書くほどドツボな部分だけれども、別に僕は、宗教的な考え方が好きなのではない。これは何度も書いているけれども、現世御利益を求める仏教とか、全く興味がない。般若心経は諳んじられるけれども、南無阿弥陀仏を唱えれば浄土にいけるとか信じているわけではない。
キリスト教は、あんまり、よく分からないけれども、グノーシス主義とか、結構面白いと思ったし、日本の神話とかも面白いと思う。
でも、これらについては、いくら説明したとしても、宗教=胡散臭い=気持ち悪いの思考構造が構築されている人にとっては、理解できるものではないため、初めから触れないことが得策である。
そう、この話題になると僕はいつも思うのだけれども、話せば分かるとか、誰とでも理解しあえるとか、そんなわけないだろと、アホかと。
センチネル族に対して、インド政府は、何度も友好関係を結ぼうと接触を試みたらしい。スマトラ島地震のときは、救援物資を供給するためヘリを飛ばしたが、相手から送られたのは、矢の雨だったとか、もう笑い話である。
極端な思考の人が多いから、すぐさま書かなければいけないけれども、だからと言って、対話とか、他者とのコミュニケーションを諦めてよいという意味ではない。限界はある、という、当たり前のことでしかない。
おっと、時間が残り5分。制限時間を考えて、できる限り整理して書こうと思っていたら、思考がとまり、書く量も考える量も減ってしまいそうだ。もう一つだけ、メモすると、ダメブログ界なるものがあるということだ。
ダメブログ界
ダメブログ界とは、その名の通り、自己卑下とか、何かいわゆる底辺的な思考や生活を送っている人たちの、みじめな生き様をさらすブログの総称、そしてそれらの集まりのことを指す。俺は思った。おお、まさに、俺の居場所が見つかった! と。
ところが、それらを読んでいくうちに、あれ、これ、多分、俺、相手にされないぞ、と思った。
それこそ、先日書いた、ラーメン食べたら贅沢もの、みたいな、そんな感じだ。
恐ろしいことに、ダメブログ界にも、カーストがあるのだ。
ええと、カーストってのは、ヴァルナとジャーティの二つの総称で、ヴァルナは、バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つで、ジャーテイというさらに細かい身分制度があって、それって3000ぐらいも分かれていて、それというのは、人は下を見て自分より弱い人とか立場の低い人がいると安心するからだって、確か本田透さんが言ってた気がするけれど、なんかそれを思い出した。
で、僕は、何だか、やっぱり、居場所をなくした小動物のように項垂れて、結局この場に帰ってきたのであるわけだが、ああ、もう30分たったか。
何だか時間ほんと早いなぁ……。
とりまず、日課は順調にこなせている。完全にルーチンの波に乗った。繰り返しになるけれども、今後問題は、例外事象への対応策。睡眠時間6時間を除く可用時間が2時間未満の際はルーチン免除であるという規定をもう一度思い出したところで、終わりにしよう。
いやぁ、ちょっと、もう一つだけ書かせてもらおう。
ホント、これ、時間、早いって。
もう2016年終わってしまうよ。
マジかよ。30代だぜ。
よく考えたら、いやぁほんと、よく生きてきたもんだ。20代です、きゃぴっ☆とか言ってられねーんだぜ。本気か。
これが僕が思い描いていた生活か、人生なのか?
いやそんなことはどうでもいい、これから、俺はどう生きていくつもりなんだ?
自サイトの改革だってやりたいし、曲作りも久しぶりにやりたい、書き始めた小説の短編も完結させたい。
仕事のスキルアップもしたい、多分ダメだったろう資格試験のリベンジもしたい。
恋活したい、婚活したい……ん? それはどうだろ。
友達100人つくりたい……ん? それはどうだろ?
おいおい、徹底して考えるんじゃないのかよ。こんな、日々忙殺されて過ぎていっていいのかよ。
もう一回ぐらい、本気で、全力で生きてみなくていいのかよ。
うるせー、黙れ、落ち着け。
超おつちいけ。どうどう、スティスティ。
いいか? 取りあえず、今日は、もう、終わり。歯磨きして、寝なさい。OK?
いえすまいろーど。
今日は、久々に早く帰ってくることができた、と思ったら、もう21時か。外食して帰ってきてお風呂に入ってストレッチ、音読して、後はボーっとしていた。
時間、あっというまだな。
筋トレ、先にやってしまうか。……よし、今日の日課終わり。
一週間続けられると、軌道に乗る。あとは、特殊事象にどう対応するかが問題だ。目下、今週の土日を乗り切れるか。後は、今年の正月あたりの帰省とかかな。いや、その前の忘年会シーズンも危険だ。とか考えると、一人でいた方がよほど自己研鑽には良いのではないか、と思いますが、いえいえ、人との会話が脳を活性化させるのですよ。別に他者がいなくても、声に出して、自分との対話でもいいと思いますよ、やったことありませんが。でも、こうやって、文章において自分会議はよく試しております。中々、続かないものなのですがね、これもまた。
俺、幸せな人間か?
ああ、そう思う。だから、俺の人生とお前の人生とっかえてくれ。
と、ギャンブルで自己破産された人にもちかけられたら、俺は無碍に断るだろう。相手にもしない。と、いうより、人に「騙される」というのが非常に好きじゃない。その「騙される」というのが嫌なので、逆にもう、人を「信じるしかできない」状態にまでなってきているが、一方で、「何も信じられていない」ともいえる。いわば、「裏切る」行為含めた信用なのであるが、それって、心から信じてないよね、とか批判もある。ただ、そういった、「こころから」とか、そういう表現はもう相手にしないことにしている。いや、口語として「あり」なのは分かるが、言語表現として、文章として、言葉として、所詮露に忽ち消え去る幻想でしかない。
……というのが、僕が、両親を事故でなくした人とか、50歳で天涯孤独で猫と暮らす女性とか、親や弟からお金を無心されてつつ派遣社員として頑張る30代の人とかのブログを読んで思った感想だ。
どこが感想なんだ……と自分でも思うけれども、結局なんだろう、一番僕の実感に近い言葉を選ぶなら、タイトルに挙げた、「きりのなさ」になると思う。
なんだろう。僕の、みじめで非リア充的なくだらない人生の表現を読んで、少しでも元気出たり、楽しんでもらうような、そんな役立て方してもらえたらいいな、ぐらい考えていたけれども、なんてことない。失恋したーとか離婚したーとか会社で上司に使えねぇ奴扱いされたーとか、その程度、なんら珍しくも何ともなくて。
うーん、じゃあ、ポジティブ日記でも書けばいいのだろうか。
「人生を好転させる7つの習慣」とか、「これで大丈夫! 物ぐさな人でも計画倒れを無くす方法」とか、そんなの書けばいいんだろうか。
いや、そもそも、書かんでいいよ、勝手にローカルな記事で自己満ひたってろ、ってことだろうか。
……ああ、こうなると、過去記事、
を参照する。
うーむ、まとめ、で、やっぱり、「役に立ちたい」と書いている。その「役に立つ」というのが、今揺らいできた。
そうすると、「整理しやすい」「後から読みやすい」「カテゴリ分け便利」の、表面的な理由だけが残ってくる。
それだけで、本当に続けてよいのか。
そう、前提として、やっぱり、こうして書いているのは、楽しいのである。結構、優位に楽しいのである。ゲームとかやってるより楽しかったりするのである。
だから、今後も、書くこと自体は多分、死ぬまで続くような気がする。まぁそれはいい、ただ、それを公開して何になるんやねん、と、そういうことだ。
そういう感覚のまま書いてるときって、たいてい、後から読んでも非常に面白くない。ある意味、「黒歴史」的な、後から読んで、「あああああうぁああぁ!!」と赤面し穴を掘って入りたくなるようなものになりがちである。
意外と、恋について云々最近書いている奴は、やべぇかなと思っていたけれども、案外、平気だった。それは多分、完全に傍観者になってしまってるからだというのと、それらを書いていた時、確かに、非常に不快な気持であったからだと思う。
それが、甘美な幻想、懐古的なエクスタシーの中で書いていたら、きっとおぞましいものに仕上がった気がする、恐ろしい。
だから本来、これらの記事は、文章は、言葉は、未来や過去の僕との対話であるべきであって、決して、他者へ向けたものであってはいけないと思う。いや故にそれが、どこかしら引っかかりになって、誰かの思考に幾何かでも影響を与えられたら、それは嬉しいことなのであって、そのことが、まさに、ブログやめようとしてたときにメッセージくれた二人の方への紛れもない、久々に思考の介在しない感謝の気持ちとなったわけだけれども、それは、いわば偶然の、幸運な出来事であったのであり、そこに、私の行為としての影響があったわけではないのだ。
思い出してきた、そう、僕が今日朝に思ったのは、努力信仰の否定、である。
思った、のだけれども、表現がすっ飛んでしまった。何だっけ? 思い出せない、まぁいいや。
結論だけ書くとすれば、「努力」として頑張っても、それは失敗する、ということだ。
努力自体を楽しみながらやらねばならない、と、そういうことだ。すぐさま、批判が飛んでくる、こわぇえ、ええと、そうだよな、人生そんな甘いもんじゃないよな、苦しいこともあるのが人生だよな、シッダールタさんも、一切皆苦って言ってたもんな。
仰る通りだ、認める、俺が間違っている……が、それでも、努力なんてもう知らん、と、言い切る。いや、お前が最近始めた、まぁ一般的には大したことない日課、ルーチンとか、仕事とか、何なの? それは、努力って言わないの?
まず、ルーチンは、「習慣」のためにやってることであり、努力とは違う。いや、今は確かに、努力なのかもしれないが、努力が目的ではない。洗濯や部屋の掃除は努力か? まぁ、汚部屋とかゴミ屋敷においては努力になるだろうが、じゃあ、歯を磨くとか、風呂に入るとか、それは努力か? 今日とか段々寒くなってくると、風呂に入るのも面倒になってくるが、別にそれを努力とは言わない。普通にするのが習慣だ。
習慣にする過程に、わずかばかり、努力があるかもしれない。けれども、努力は、できる限り「無い」方がいい。だから、努力なんてしない方がいい、ということだ。
努力はしない方がいい、と書いた。
でも、じゃあ、やりたくない仕事、面倒な仕事を、お金稼ぐために頑張ってやるのって、それ、努力というんじゃないのか、と。そして、そういうのひっくるめて、人生って奴で、それは必要なことだろう、好きなことばっかり追求するのって、そんなの無茶だろうと、前の記事で書いた。
これは、矛盾じゃなかろうか。
まず、これはくだらないレベルのことになるけれども、この世は、ポジティブとネガティブと、どっちがいいんだっけ? ポジティブだ。徹底して、ポジティブであるのが、この世界の「正解」である。
んじゃあ、面倒な勉強とか、やりたくない仕事を、無理やり嫌々やることは、正解か? 否。ダメなことだ。
であれば、やっぱり、楽しいこと、好きなことをとことんやって生きていくのが、至上である、ということになる。
これが前提だ。そして、これは正しい。正論だ。覆らない。「自分は、自分が不幸なのが幸せです♪」なんて人がいたとしても、何のことは無い、やっぱり、それは「幸せ」なのだ。
苦しい、イヤだ、めんどくさい、心配だ、焦り。
それらネガティブな感情は、何故あるのだろうか? それは、リスクヘッジ、危機回避のために必要な心の働きである。
生きたい、という本能のために、自己保存するために、人は、危険を回避しようと頭を使う。
メンドクサイという感情から、もっと効率的な行動方策を考え出し、焦りからは、スピーディーなアウトプットパフォーマンスを発揮させる。
であれば、常に満々大満足ハッピー超サイコー、な状態など、原理的に不可能である。
と、同時に、最初の前提のとおり、やっぱり、楽しいこと・好きなことが、正解である。矛盾、矛盾。
その矛盾を調整するのが、人間が行うべきすべての行動、思考である。
だから、人間は、どう生きるかというと、その、現実と、発生する感情とを勘案し、可及的速やかに、そしてどこまでもポジティブに、明るく、好きで、楽しく、幸せにしていくのが、正しい生き方なのである。
俺はダメな人間だ。
頑張ったって成果はでない。
ぶさいくだし体格もよくない。
頭も悪い。
一芸に秀でてるわけでない。
流されやすい。
疲れやすい。
などなど、ネガティブなことを書いたり言ったり、やったり考えたりしては、一瞬たりともダメなのだ。
世界は、自分の頭の中で創造した物語などではない。
いくら、発生する負の感情を抑圧しようと、それは収まることを知らない。
その負の感情を利用して、現実的な行動方策(それは時に攻撃的なものであったろう)に昇華してきたが、その方針は、精神力(MP)を大量に消費することになる。
メンタルポイント(MP)は、嬉しいことや楽しいことがあったりすると少し回復するけれども、その均衡が崩れ始めると、ゼロサムゲームどころか、人生のあらゆる場面において、何ら楽しいとか気持ちいとかそんな感情が発生しなくなっていくのである。
無味乾燥。まだ、何も感じなくなるのであればいいが、だんだん、すべてに不満や、怒りをもつようになる。そのもじゃもじゃ、ぐちゃぐちゃ、トゲトゲが、外に向かえば他者を物理的に傷つけるし、自分に向かえば自殺に繋がったりする。
こうなると、もう、単純に救い出すことは困難だ。
人は変われない、とか、大人になると変われなくなるとか、巷では言われるけれども、俺は嫌いな言葉だ。人はいつ、どんなときでも、変わることができる。いや、その言い方すらバカバカしい、人は常に変わっている。
ただ、その、人を人足らしめるもの、それは前々の記事などでも書いてきたが、「記憶」と「感情」、それは、長年蓄積され、構築されたものは、変わりにくい、否むしろこれについては、変わらないと言っていい。積み重なった思いから、感情が抜け落ちたとしても、それは、記憶として残り続ける。無かったことには、リセットされることには、ならないのだ。
だが、その、記憶や感情を用いるのは、ほかならぬ、今、現存している、この瞬間の、僕たちだ。
今、この瞬間にも、考え方を変えることはできるのだ。僕は、それを信じてやまない。
けれども、そうなのだけれども、負の感情に支配されてしまうと、MPの回復は相当困難になってしまう。
それは、ポジティブであるのが至上命題だからだ。
現実と自己をポジティブな方向に調整するのが正しい生き方だ。
しかし、負の感情の発生は避けられない。
負の感情それ自体は、人間の生存方策上必要なものだからだ。
だが、負の感情に支配されてしまうと、人は正しい生き方ができなくなる。
じゃあ、お前の日記は、何故いつもネガティブなことを書くのか。
アンサー、それは、発生する感情を無視しても、それは逆効果だと分かっているからだ。
自分のこと、本気でいい人間だと思っていられる人はいい。
だが、自分の内から発せられる言葉を無視して、周囲から求められる人間像であろうとし続けたとき、発生することは容易に想像できる、というよりも、俺は、もう欲求がなくなっていった。
何に対しても興味をなくしてしまった。
そう、負の感情の無視は、負の感情だけでなく、すべての感情をそぎ落としてしまうのである。
感情感情、と、異なる言葉を使ってきたが、最近の僕の言葉からすれば、「実感」というのと同義である。実感と感情を大事にしようということだ。
スゲー人いっぱいいる。
ポジティブな方面はもちろんだけど、ネガティブな方面も、突き抜けてすごい人がいっぱいいる。
一凡人の俺の考えなんて、何になるってんだ、いや何にもならんじゃないか……。
という思いを、無視しちゃならん、ということだ。
いや、今も、そう思うし、正直不快な状態であるのは間違いないけれども、でも、でもだ。
それを表現し、カタチにしておくのは、非常に重要であるということだ。
なにせ、感情とか実感とか、大事だ大事だいってるわりに、その感情とか実感ってのが、「なんんなのか」さっぱり分からんからだ。
タイトルに表現したように、上見ても下見てもきりがないから、だから、とにかく自分の気持ちを大事にしようぜ、ということ、それが、今この瞬間表現できたから、「ああ、俺、そうか、そういう気持ちだったんだな」となるのであって、これをしないと、「うーん、何だか、よく分からないけど、他の人の記事読んでたら焦りというか不安というか、なんだか不快な気分になってきたなぁ……」となって、強い酒でも飲んで忘却しようと試みるかもしれない。
「忘れることは大事さ」
「酒ってのが、人生には必要なもんだよ」
という、人生の先輩の教訓はあるかもしれない、だが、僕は、それらには反抗する。
徹底して考えてやる、表現してやる、と、そういう宣戦布告である。
そのうえで、ハッピーエンドを迎える、そういうシナリオだ。
だから、俺のこれまでの記事は、そしてこれからの記事も、全部、ハッピーハッピー超ハッピーなものなのだけれども、残念ながらそれが伝わらずに、気持ち悪い、何言ってるか分からない、さようなら、となることもあったわけで、これからもあろうことと思うので、何とも恐怖なのであるけれど。
いやぁ、ハッピーエンドじゃない物語なんて、読みたくないじゃん?
確かに、昔、バッドエンドだってありだ、と思っていた。20代前半くらいだったろうか。いや、ここでいうバッドエンドってのは、「俺の人生失敗ばかりだった。今日も僅かばかりの日当をもらうためバイトに行き、一日の締めくくりはコンビニ弁当だ。こんな孤独な人生、もう嫌だ。俺は一人寂しく、大量の睡眠薬を口に運んだ」という物語があったとして、その事細かな心理描写がしっかりされていたら、それは、単純なバッドエンドとは俺は思わない気がする。
彼、は、そこで死を選んだのだとしても、彼のその悲惨で目も当てられない辛い人生に、ようやく安寧が訪れたとしたら、それはそれで、不謹慎極まりないが、かっこつきの「ハッピーエンド」と解釈できまいか、いや、そう解釈したい、いや、俺はする。そうじゃなきゃ、彼が可哀そう……かわいそう? 同情? くだらん感情だ、いや、まぁそうだとしても、とにかく、上の物語はハッピーエンドだと、俺はしたい。
本当のバッドエンドってのは、ネトラレ、はどうか分からないが、人騙して私服こやすクソ野郎が、結局何のお咎めなく幸せに年取って孫に看取られて死ぬとか、それは本当の意味のバッドエンドだ。そんな物語読みたくない、いや害悪だとすら思うだろう。屑には相応の報いがあって欲しいと思う。(まー、その、屑とかクソ野郎とかいう定義もまた、とくに明確なわけじゃなくて、その時々で変わる感覚的なものに過ぎないわけだけれど)
少し話がずれたが、別に、死そのものがバッドエンドってわけじゃない。
仏教聖典において、ブッダがクシナガラで入滅したのが、弟子たちはみな涙して惜しむだろうけれども、別にバッドエンディングなんかじゃないだろう、
(キリストさんは何か復活しちゃうから、ここでの例えがちょっと違う気がした)
まぁ……その、なんだ。
割かし、なんか、このブログ続けてどうすんだ、と、本気で思ってしまっていたが、取りあえず、ハッピーエンドにするまで、もう少し続けさせて頂きたい。
連載中止、打ち切りとか、嫌だ。
どんなものであれ、完結、完成したものってのは、価値があるものだと思う。
小学校ぐらいに作曲した稚拙な曲であっても、逆に、今それよりはもっと良いのを作れると思うのであれば、それはそれでとても価値があることだ。
何事も、諦めないで最後までやり通すことが大事なのだ……
……と、何だかきれいな感じで終わろうとしたけれども、またすぐさま、「諦めるということの重要性と、その使い方について」とか浮かんでしまった。
うーん……、どうしても、何だか、表現するたびに違和感が残るんだよな。
確かに、「理想と現実のギャップ」とか、「実感の重要性」とか、違和感がなくなってきた表現もあるのだけれども、総体として何か事象を表現しようとしたとき、又は、ある事象から抽象的にして応用できるように試みたとき、どうしても様々な違和感が発生していくのである。
例えば、「真理なんてない」という何度か書いてみた表現も、それはそれでやはり違和感なのである。そんな理由を考えながら殆ど指を止めずに書いていると、気づいたら、おぉ?! 1時間半も過ぎている、というわけか。
――命は光陰に移されて暫くも停め難し。
時間、あっというまだな。
筋トレ、先にやってしまうか。……よし、今日の日課終わり。
一週間続けられると、軌道に乗る。あとは、特殊事象にどう対応するかが問題だ。目下、今週の土日を乗り切れるか。後は、今年の正月あたりの帰省とかかな。いや、その前の忘年会シーズンも危険だ。とか考えると、一人でいた方がよほど自己研鑽には良いのではないか、と思いますが、いえいえ、人との会話が脳を活性化させるのですよ。別に他者がいなくても、声に出して、自分との対話でもいいと思いますよ、やったことありませんが。でも、こうやって、文章において自分会議はよく試しております。中々、続かないものなのですがね、これもまた。
ネガティブ日記を読んで
なんだろう、例えば、お外でラーメン食べてきました、超美味しかったです、と書いたとして、それに対して、「なんだお前、リッチじゃないか。こちとら、カップラーメンだって贅沢で、袋めんしか食えないんだぞ」とかコメントされても、正直複雑な表情しかできん。俺、幸せな人間か?
ああ、そう思う。だから、俺の人生とお前の人生とっかえてくれ。
と、ギャンブルで自己破産された人にもちかけられたら、俺は無碍に断るだろう。相手にもしない。と、いうより、人に「騙される」というのが非常に好きじゃない。その「騙される」というのが嫌なので、逆にもう、人を「信じるしかできない」状態にまでなってきているが、一方で、「何も信じられていない」ともいえる。いわば、「裏切る」行為含めた信用なのであるが、それって、心から信じてないよね、とか批判もある。ただ、そういった、「こころから」とか、そういう表現はもう相手にしないことにしている。いや、口語として「あり」なのは分かるが、言語表現として、文章として、言葉として、所詮露に忽ち消え去る幻想でしかない。
……というのが、僕が、両親を事故でなくした人とか、50歳で天涯孤独で猫と暮らす女性とか、親や弟からお金を無心されてつつ派遣社員として頑張る30代の人とかのブログを読んで思った感想だ。
どこが感想なんだ……と自分でも思うけれども、結局なんだろう、一番僕の実感に近い言葉を選ぶなら、タイトルに挙げた、「きりのなさ」になると思う。
なんだろう。僕の、みじめで非リア充的なくだらない人生の表現を読んで、少しでも元気出たり、楽しんでもらうような、そんな役立て方してもらえたらいいな、ぐらい考えていたけれども、なんてことない。失恋したーとか離婚したーとか会社で上司に使えねぇ奴扱いされたーとか、その程度、なんら珍しくも何ともなくて。
うーん、じゃあ、ポジティブ日記でも書けばいいのだろうか。
「人生を好転させる7つの習慣」とか、「これで大丈夫! 物ぐさな人でも計画倒れを無くす方法」とか、そんなの書けばいいんだろうか。
いや、そもそも、書かんでいいよ、勝手にローカルな記事で自己満ひたってろ、ってことだろうか。
……ああ、こうなると、過去記事、
何故ブログを書くのか
・整理しやすいから・後から読みやすいから・カテゴリ分けが便利これらは表面上の理由。じゃあ非公開でもいいじゃないか、となる。・公開を意識することで、文章が読みやすくなり、結果あとから自分が読んだ時も理解しやすい・少しでも、自分の苦悩などが、誰かの役に立ってほしい(笑いでも、カタルシスでも、参考としてでも)<まとめ>役に立ちたい、その思いから、ブログを書き、公開している。
を参照する。
うーむ、まとめ、で、やっぱり、「役に立ちたい」と書いている。その「役に立つ」というのが、今揺らいできた。
そうすると、「整理しやすい」「後から読みやすい」「カテゴリ分け便利」の、表面的な理由だけが残ってくる。
それだけで、本当に続けてよいのか。
そう、前提として、やっぱり、こうして書いているのは、楽しいのである。結構、優位に楽しいのである。ゲームとかやってるより楽しかったりするのである。
だから、今後も、書くこと自体は多分、死ぬまで続くような気がする。まぁそれはいい、ただ、それを公開して何になるんやねん、と、そういうことだ。
結局単なる自慢になってはいないか
常々、気を付けなければと思うのは、「俺、こんなこと考えられますよ、すごいでしょw」的な感覚になってはいまいか、という心配。そういう感覚のまま書いてるときって、たいてい、後から読んでも非常に面白くない。ある意味、「黒歴史」的な、後から読んで、「あああああうぁああぁ!!」と赤面し穴を掘って入りたくなるようなものになりがちである。
意外と、恋について云々最近書いている奴は、やべぇかなと思っていたけれども、案外、平気だった。それは多分、完全に傍観者になってしまってるからだというのと、それらを書いていた時、確かに、非常に不快な気持であったからだと思う。
それが、甘美な幻想、懐古的なエクスタシーの中で書いていたら、きっとおぞましいものに仕上がった気がする、恐ろしい。
だから本来、これらの記事は、文章は、言葉は、未来や過去の僕との対話であるべきであって、決して、他者へ向けたものであってはいけないと思う。いや故にそれが、どこかしら引っかかりになって、誰かの思考に幾何かでも影響を与えられたら、それは嬉しいことなのであって、そのことが、まさに、ブログやめようとしてたときにメッセージくれた二人の方への紛れもない、久々に思考の介在しない感謝の気持ちとなったわけだけれども、それは、いわば偶然の、幸運な出来事であったのであり、そこに、私の行為としての影響があったわけではないのだ。
思い出してきた、そう、僕が今日朝に思ったのは、努力信仰の否定、である。
努力信仰の否定
今日朝に書いた内容において、お金がなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。彼女ができなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。しかし、現実の存在規定は忘れるな。国家予算レベルの金を手にするのは個人では無理だし、アイドルレベルの美貌の女の子と付き合うのは無理だ。しかし、現実への働きかけと、自らの存在規定の変化によって、理想自己と現実自己のかい離を小さくすることはできる。それを人は努力といい、イキイキしているといい、前向きだといい、頑張ってるといい、かっこいいという。と書いたけれども、その「努力」を、実はすぐさま否定しなければならないと、書き終わって駅の中を歩きながら思っていた。
思った、のだけれども、表現がすっ飛んでしまった。何だっけ? 思い出せない、まぁいいや。
結論だけ書くとすれば、「努力」として頑張っても、それは失敗する、ということだ。
努力自体を楽しみながらやらねばならない、と、そういうことだ。すぐさま、批判が飛んでくる、こわぇえ、ええと、そうだよな、人生そんな甘いもんじゃないよな、苦しいこともあるのが人生だよな、シッダールタさんも、一切皆苦って言ってたもんな。
仰る通りだ、認める、俺が間違っている……が、それでも、努力なんてもう知らん、と、言い切る。いや、お前が最近始めた、まぁ一般的には大したことない日課、ルーチンとか、仕事とか、何なの? それは、努力って言わないの?
まず、ルーチンは、「習慣」のためにやってることであり、努力とは違う。いや、今は確かに、努力なのかもしれないが、努力が目的ではない。洗濯や部屋の掃除は努力か? まぁ、汚部屋とかゴミ屋敷においては努力になるだろうが、じゃあ、歯を磨くとか、風呂に入るとか、それは努力か? 今日とか段々寒くなってくると、風呂に入るのも面倒になってくるが、別にそれを努力とは言わない。普通にするのが習慣だ。
習慣にする過程に、わずかばかり、努力があるかもしれない。けれども、努力は、できる限り「無い」方がいい。だから、努力なんてしない方がいい、ということだ。
生き方について
本当は、「生きる意味」を考えたいところだが、多分、「生き方」を書いているうちに時間切れというか、限界になりそうだ(頭と体が)。努力はしない方がいい、と書いた。
でも、じゃあ、やりたくない仕事、面倒な仕事を、お金稼ぐために頑張ってやるのって、それ、努力というんじゃないのか、と。そして、そういうのひっくるめて、人生って奴で、それは必要なことだろう、好きなことばっかり追求するのって、そんなの無茶だろうと、前の記事で書いた。
これは、矛盾じゃなかろうか。
まず、これはくだらないレベルのことになるけれども、この世は、ポジティブとネガティブと、どっちがいいんだっけ? ポジティブだ。徹底して、ポジティブであるのが、この世界の「正解」である。
んじゃあ、面倒な勉強とか、やりたくない仕事を、無理やり嫌々やることは、正解か? 否。ダメなことだ。
であれば、やっぱり、楽しいこと、好きなことをとことんやって生きていくのが、至上である、ということになる。
これが前提だ。そして、これは正しい。正論だ。覆らない。「自分は、自分が不幸なのが幸せです♪」なんて人がいたとしても、何のことは無い、やっぱり、それは「幸せ」なのだ。
現実とのギャップ
次に、何それ、できんの、それ? 現実的なの? という問い。苦しい、イヤだ、めんどくさい、心配だ、焦り。
それらネガティブな感情は、何故あるのだろうか? それは、リスクヘッジ、危機回避のために必要な心の働きである。
生きたい、という本能のために、自己保存するために、人は、危険を回避しようと頭を使う。
メンドクサイという感情から、もっと効率的な行動方策を考え出し、焦りからは、スピーディーなアウトプットパフォーマンスを発揮させる。
であれば、常に満々大満足ハッピー超サイコー、な状態など、原理的に不可能である。
と、同時に、最初の前提のとおり、やっぱり、楽しいこと・好きなことが、正解である。矛盾、矛盾。
その矛盾を調整するのが、人間が行うべきすべての行動、思考である。
だから、人間は、どう生きるかというと、その、現実と、発生する感情とを勘案し、可及的速やかに、そしてどこまでもポジティブに、明るく、好きで、楽しく、幸せにしていくのが、正しい生き方なのである。
俺はダメな人間だ。
頑張ったって成果はでない。
ぶさいくだし体格もよくない。
頭も悪い。
一芸に秀でてるわけでない。
流されやすい。
疲れやすい。
などなど、ネガティブなことを書いたり言ったり、やったり考えたりしては、一瞬たりともダメなのだ。
感情の処遇
と、そんなこと言っても、感情は発生する。世界は、自分の頭の中で創造した物語などではない。
いくら、発生する負の感情を抑圧しようと、それは収まることを知らない。
その負の感情を利用して、現実的な行動方策(それは時に攻撃的なものであったろう)に昇華してきたが、その方針は、精神力(MP)を大量に消費することになる。
メンタルポイント(MP)は、嬉しいことや楽しいことがあったりすると少し回復するけれども、その均衡が崩れ始めると、ゼロサムゲームどころか、人生のあらゆる場面において、何ら楽しいとか気持ちいとかそんな感情が発生しなくなっていくのである。
無味乾燥。まだ、何も感じなくなるのであればいいが、だんだん、すべてに不満や、怒りをもつようになる。そのもじゃもじゃ、ぐちゃぐちゃ、トゲトゲが、外に向かえば他者を物理的に傷つけるし、自分に向かえば自殺に繋がったりする。
こうなると、もう、単純に救い出すことは困難だ。
人は変われない、とか、大人になると変われなくなるとか、巷では言われるけれども、俺は嫌いな言葉だ。人はいつ、どんなときでも、変わることができる。いや、その言い方すらバカバカしい、人は常に変わっている。
ただ、その、人を人足らしめるもの、それは前々の記事などでも書いてきたが、「記憶」と「感情」、それは、長年蓄積され、構築されたものは、変わりにくい、否むしろこれについては、変わらないと言っていい。積み重なった思いから、感情が抜け落ちたとしても、それは、記憶として残り続ける。無かったことには、リセットされることには、ならないのだ。
だが、その、記憶や感情を用いるのは、ほかならぬ、今、現存している、この瞬間の、僕たちだ。
今、この瞬間にも、考え方を変えることはできるのだ。僕は、それを信じてやまない。
けれども、そうなのだけれども、負の感情に支配されてしまうと、MPの回復は相当困難になってしまう。
まとめ
努力なんてしてはいけない。それは、ポジティブであるのが至上命題だからだ。
現実と自己をポジティブな方向に調整するのが正しい生き方だ。
しかし、負の感情の発生は避けられない。
負の感情それ自体は、人間の生存方策上必要なものだからだ。
だが、負の感情に支配されてしまうと、人は正しい生き方ができなくなる。
じゃあ、お前の日記は、何故いつもネガティブなことを書くのか。
アンサー、それは、発生する感情を無視しても、それは逆効果だと分かっているからだ。
自分のこと、本気でいい人間だと思っていられる人はいい。
だが、自分の内から発せられる言葉を無視して、周囲から求められる人間像であろうとし続けたとき、発生することは容易に想像できる、というよりも、俺は、もう欲求がなくなっていった。
何に対しても興味をなくしてしまった。
そう、負の感情の無視は、負の感情だけでなく、すべての感情をそぎ落としてしまうのである。
感情感情、と、異なる言葉を使ってきたが、最近の僕の言葉からすれば、「実感」というのと同義である。実感と感情を大事にしようということだ。
スゲー人いっぱいいる。
ポジティブな方面はもちろんだけど、ネガティブな方面も、突き抜けてすごい人がいっぱいいる。
一凡人の俺の考えなんて、何になるってんだ、いや何にもならんじゃないか……。
という思いを、無視しちゃならん、ということだ。
いや、今も、そう思うし、正直不快な状態であるのは間違いないけれども、でも、でもだ。
それを表現し、カタチにしておくのは、非常に重要であるということだ。
なにせ、感情とか実感とか、大事だ大事だいってるわりに、その感情とか実感ってのが、「なんんなのか」さっぱり分からんからだ。
タイトルに表現したように、上見ても下見てもきりがないから、だから、とにかく自分の気持ちを大事にしようぜ、ということ、それが、今この瞬間表現できたから、「ああ、俺、そうか、そういう気持ちだったんだな」となるのであって、これをしないと、「うーん、何だか、よく分からないけど、他の人の記事読んでたら焦りというか不安というか、なんだか不快な気分になってきたなぁ……」となって、強い酒でも飲んで忘却しようと試みるかもしれない。
「忘れることは大事さ」
「酒ってのが、人生には必要なもんだよ」
という、人生の先輩の教訓はあるかもしれない、だが、僕は、それらには反抗する。
徹底して考えてやる、表現してやる、と、そういう宣戦布告である。
そのうえで、ハッピーエンドを迎える、そういうシナリオだ。
だから、俺のこれまでの記事は、そしてこれからの記事も、全部、ハッピーハッピー超ハッピーなものなのだけれども、残念ながらそれが伝わらずに、気持ち悪い、何言ってるか分からない、さようなら、となることもあったわけで、これからもあろうことと思うので、何とも恐怖なのであるけれど。
ハッピーエンド
大丈夫か、なんか、話しが最初メモしておこうと思ったこととずれてないか? まぁいい、とにかく、思いつくままメモしておこう。いやぁ、ハッピーエンドじゃない物語なんて、読みたくないじゃん?
確かに、昔、バッドエンドだってありだ、と思っていた。20代前半くらいだったろうか。いや、ここでいうバッドエンドってのは、「俺の人生失敗ばかりだった。今日も僅かばかりの日当をもらうためバイトに行き、一日の締めくくりはコンビニ弁当だ。こんな孤独な人生、もう嫌だ。俺は一人寂しく、大量の睡眠薬を口に運んだ」という物語があったとして、その事細かな心理描写がしっかりされていたら、それは、単純なバッドエンドとは俺は思わない気がする。
彼、は、そこで死を選んだのだとしても、彼のその悲惨で目も当てられない辛い人生に、ようやく安寧が訪れたとしたら、それはそれで、不謹慎極まりないが、かっこつきの「ハッピーエンド」と解釈できまいか、いや、そう解釈したい、いや、俺はする。そうじゃなきゃ、彼が可哀そう……かわいそう? 同情? くだらん感情だ、いや、まぁそうだとしても、とにかく、上の物語はハッピーエンドだと、俺はしたい。
本当のバッドエンドってのは、ネトラレ、はどうか分からないが、人騙して私服こやすクソ野郎が、結局何のお咎めなく幸せに年取って孫に看取られて死ぬとか、それは本当の意味のバッドエンドだ。そんな物語読みたくない、いや害悪だとすら思うだろう。屑には相応の報いがあって欲しいと思う。(まー、その、屑とかクソ野郎とかいう定義もまた、とくに明確なわけじゃなくて、その時々で変わる感覚的なものに過ぎないわけだけれど)
少し話がずれたが、別に、死そのものがバッドエンドってわけじゃない。
仏教聖典において、ブッダがクシナガラで入滅したのが、弟子たちはみな涙して惜しむだろうけれども、別にバッドエンディングなんかじゃないだろう、
(キリストさんは何か復活しちゃうから、ここでの例えがちょっと違う気がした)
まぁ……その、なんだ。
割かし、なんか、このブログ続けてどうすんだ、と、本気で思ってしまっていたが、取りあえず、ハッピーエンドにするまで、もう少し続けさせて頂きたい。
連載中止、打ち切りとか、嫌だ。
どんなものであれ、完結、完成したものってのは、価値があるものだと思う。
小学校ぐらいに作曲した稚拙な曲であっても、逆に、今それよりはもっと良いのを作れると思うのであれば、それはそれでとても価値があることだ。
何事も、諦めないで最後までやり通すことが大事なのだ……
……と、何だかきれいな感じで終わろうとしたけれども、またすぐさま、「諦めるということの重要性と、その使い方について」とか浮かんでしまった。
うーん……、どうしても、何だか、表現するたびに違和感が残るんだよな。
確かに、「理想と現実のギャップ」とか、「実感の重要性」とか、違和感がなくなってきた表現もあるのだけれども、総体として何か事象を表現しようとしたとき、又は、ある事象から抽象的にして応用できるように試みたとき、どうしても様々な違和感が発生していくのである。
例えば、「真理なんてない」という何度か書いてみた表現も、それはそれでやはり違和感なのである。そんな理由を考えながら殆ど指を止めずに書いていると、気づいたら、おぉ?! 1時間半も過ぎている、というわけか。
――命は光陰に移されて暫くも停め難し。
やっぱり、昨日の記事は面白くなかったな、では何が面白いかというのは、やはり、その瞬間には分からなくて、後々意味を帯びてくる、そんなのもあるだろうと、残しておく。
駄文は、捨て去らねばならないのか、価値あるものだけが残らなければならないのか、それは、その通りだと思いながら、その価値の判断は不定不常だという思いである。
どこか、思考に甘さがないか。甘さというのは何か。ストイックではないということ。ストア派はもういい。理性追求はまた正しくあり、いま僕が問うべきは、その理性の存在形である。
理性の完成形とか、完全な姿とか、それは俗に、神と呼ばれる。あはは、僕は神にすがろうとしているのか。
しかし、人間の生き方は、実のところ、神を信じるか、自己を信じるかのどちらかしかない。日本人は神の概念を理解しにくいが、菩薩や阿羅漢を目指すあり方に近いからだろう。
そんな中、僕は真実なるもの、神なるものに憧れをもったがゆえに、所謂生きづらさを抱えることになった、とか、そんな遠回しな表現を、昨日や、第四歩の記事は自ら根底から覆そうとするのである。
しかし、恋という心の現象もまた、それが脳の本能にもとづく、生きたい、仲間になりたい、知りたい、自己保存の欲から織り成すものだとしても、その発生自体を否定することに何ら意味はない。
すべて空なりとするのであれば、発生する感情もまた、空でありながら、むしろ、それを捨て去ろうとする感情が不自然というもの、同時にその捨て去ろうとする意思すらも、認めざるを得ないのだ。
ただ、そのありのままの描写。
こうあったとき、その言葉は非常に繊細さをかく。
おそらく、初めて読む人は、なんと適当なことをダラダラ書き続けているだろうと、呆れ返ることである。
ところが、まさに、この思考過程にこそ、この記憶と感情の再起性にこそ、このブログの価値を認めるのだ、いうまでもなく、その価値は自らのためにあり、にもかかわらず、誰かの役に立ちたいというのは傲慢なかんがかたであり、同時にわりかし本気で思ってる。
最近、他の人の記事を探そうとして、読んでいる。
ネガティブ日記と称しながら、単に料理ブログだったりがっかりすることも多いが、また二つ、面白そうなのを見つけた。
しかし、ひとつは、ギャンブルでお金をすったとか、またサラ金でお金を借りてしまったとか、そんな、割かしガチにどん底になっている人のようだ。もちろん、僕は多分半年ぐらいは単にエンターテイメントとして読み、そのうちああ、この人は実在する人間だと確信していき、それでもどこか、ある特別な出来事出もない限り、虚構性を内に秘め続けるだろうが、まぁ、字面を信じるならかなり大変そうだ。
ひとつふたつ、共感できないのは、ギャンブルとサラ金である。
僕が裕福な暮らしだから共感できないのだと批判されるだろうが、ギャンブルするくらいなら映画やドラマ、アニメ、ゲームなど、物語に触れていた方がよほど有意義で、お金もかからない。
そもそも、ギャンブルとは不確実性のリスクを楽しむものであって、真実なるものを希求する僕の考えや生き方にまったく反するものである。
その思考が、いわゆる面白くないやつ、と批判されるのと嫌なので、宝くじ買ったり、競馬にいってみたり、パチンコやってみたりと、一回二回ぐらいは試した。が、やはりそれらに時間とコストをかけようとは思わない。
とか書くと、ギャンブル好きの方からの支持をもらえる可能性が消える。
でもそれでいいと思う。何か、自己を表現することで恐れていたのは、いってしまえば誰かに嫌われることである。誰とでもうまくやるという、処世方針を捨てた訳ではない。レベル感の問題だ。
行動レベルでの一致と、思考レベルの一致は、同一ではない。
俺は、今でも、思考が違っても、行動を共にすることは可能と考えている。
それは、信頼はできなかろうが、信用はできるということだ。
共通言語があれば、たとえ、記憶とモチベーションが感情を司るA10神経群で増幅されるものだとしても、それでも、理性的な人間存在のあり方を、俺は信じる、うん、完全に話がずれた。
他者の記事の中で、やっぱり、俺なんかよりよっぽど苦労してる人たくさんいるんやな、と思う。
よほど、俺の記事よりも表現力が豊富で、真に迫る内容だなって、思うのもある。
逆に、俺は矮小だーダメ人間だーとか書いてる俺の記事だが、やっぱり、これ、完全に、全部、あますことなく、いやほとんどが、ポジティブな記事なんだなと、そう思った。
なんだろう、何が違うのか、ただのネガティブと、反転したネガティブと、
ただのポジティブと、反転したポジティブと。
なんか、暗いだけの記事にも、明るいだけの記事にも、非常に違和感だというのがわかった。
それが最近の発見。スピリチュアルとかで、ポジティブ日記のつまらなさはわかっていたのだが、ネガティブ日記もまたそんなに面白くないのだ。
いや、考えれば当たり前で、僕は前々から、比較思考は無意味、といっていた。それは、オンラインゲーム症候群のように、すげええ人をみてやる気を失うだけでなく、自分より下の人をみてもきりがないってことだ。
上も下もない。あるのはただ自我、自己、自分。
なんだろう、偉そうなこと書いてると思うが、現実の問題に対して希望を失ってるのは、失望であって、絶望ではない。
恋して、ダメで、彼女もできず就職も決まらず、やりたいこともなければ目指すべき理想もないという状態で、であれば、彼女をつくる、就職する、趣味をつくる、目標をつくるとやってきた。
で、その果てに、精神力をいろいろ使ってきて、じゃあ結局、なんだったのか、というのが、最近のずっとテーマである。
だから、この記事たちは、僕がいま直面する問題を取り上げているのではないのだ。
とか、書くと、これまた支持をどんどん失っていく。偉そうな記事とか、意識高い系の記事なんて、共感を呼びにくいし、面白くないのである、わかってる、黙れ、そんなことはどうでもいい。
お金がなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。
彼女ができなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。
しかし、現実の存在規定は忘れるな。
国家予算レベルの金を手にするのは個人では無理だし、アイドルレベルの美貌の女の子と付き合うのは無理だ。
しかし、現実への働きかけと、自らの存在規定の変化によって、理想自己と現実自己のかい離を小さくすることはできる。
それを人は努力といい、イキイキしているといい、前向きだといい、頑張ってるといい、かっこいいという。
ああ、それはとてもとても良いことだ。
何ら間違ってない、人としての生き方だ。
ギャンブルに溺れ、サラ金で身を崩し、自らを顧みることなく他者を僻み、周りのせいにだけする人たちを、僕は救う気はない。いや、誰も救ってほしいとは思ってなかろうが、単に例えというか、これも表現でしかないのだけれども。
いやむしろ、努力しようとして、できないんだ、がんばらなきゃ、でもダメなんだ……というのは分かるし、応援したい。
うん、わかった、単に僕はギャンブルってのが好きじゃないだけだな。
しかし、まあ、ただ、ブログってのも、巡り合わせである。
黙っていては、一生知ることがなかった人の情報。
ブログって、一時期はやって、もう廃れたと思ってたけど、逆に、いまも続けてる人はなんというか、それなりに重みがあるというか、その続けてる意味ってのが、その人にとってあるのであって、それが僕の求める意味に近いと、それは非常に参考になると、これまた上から目線なんだけど、でもそう思う。
駄文は、捨て去らねばならないのか、価値あるものだけが残らなければならないのか、それは、その通りだと思いながら、その価値の判断は不定不常だという思いである。
徹底しているか
どこか、思考に甘さがないか。甘さというのは何か。ストイックではないということ。ストア派はもういい。理性追求はまた正しくあり、いま僕が問うべきは、その理性の存在形である。
理性の完成形とか、完全な姿とか、それは俗に、神と呼ばれる。あはは、僕は神にすがろうとしているのか。
しかし、人間の生き方は、実のところ、神を信じるか、自己を信じるかのどちらかしかない。日本人は神の概念を理解しにくいが、菩薩や阿羅漢を目指すあり方に近いからだろう。
そんな中、僕は真実なるもの、神なるものに憧れをもったがゆえに、所謂生きづらさを抱えることになった、とか、そんな遠回しな表現を、昨日や、第四歩の記事は自ら根底から覆そうとするのである。
しかし、恋という心の現象もまた、それが脳の本能にもとづく、生きたい、仲間になりたい、知りたい、自己保存の欲から織り成すものだとしても、その発生自体を否定することに何ら意味はない。
すべて空なりとするのであれば、発生する感情もまた、空でありながら、むしろ、それを捨て去ろうとする感情が不自然というもの、同時にその捨て去ろうとする意思すらも、認めざるを得ないのだ。
ありのまま
ただ、そのありのままの描写。
こうあったとき、その言葉は非常に繊細さをかく。
おそらく、初めて読む人は、なんと適当なことをダラダラ書き続けているだろうと、呆れ返ることである。
ところが、まさに、この思考過程にこそ、この記憶と感情の再起性にこそ、このブログの価値を認めるのだ、いうまでもなく、その価値は自らのためにあり、にもかかわらず、誰かの役に立ちたいというのは傲慢なかんがかたであり、同時にわりかし本気で思ってる。
他者のブログ
最近、他の人の記事を探そうとして、読んでいる。
ネガティブ日記と称しながら、単に料理ブログだったりがっかりすることも多いが、また二つ、面白そうなのを見つけた。
しかし、ひとつは、ギャンブルでお金をすったとか、またサラ金でお金を借りてしまったとか、そんな、割かしガチにどん底になっている人のようだ。もちろん、僕は多分半年ぐらいは単にエンターテイメントとして読み、そのうちああ、この人は実在する人間だと確信していき、それでもどこか、ある特別な出来事出もない限り、虚構性を内に秘め続けるだろうが、まぁ、字面を信じるならかなり大変そうだ。
ひとつふたつ、共感できないのは、ギャンブルとサラ金である。
僕が裕福な暮らしだから共感できないのだと批判されるだろうが、ギャンブルするくらいなら映画やドラマ、アニメ、ゲームなど、物語に触れていた方がよほど有意義で、お金もかからない。
そもそも、ギャンブルとは不確実性のリスクを楽しむものであって、真実なるものを希求する僕の考えや生き方にまったく反するものである。
その思考が、いわゆる面白くないやつ、と批判されるのと嫌なので、宝くじ買ったり、競馬にいってみたり、パチンコやってみたりと、一回二回ぐらいは試した。が、やはりそれらに時間とコストをかけようとは思わない。
とか書くと、ギャンブル好きの方からの支持をもらえる可能性が消える。
でもそれでいいと思う。何か、自己を表現することで恐れていたのは、いってしまえば誰かに嫌われることである。誰とでもうまくやるという、処世方針を捨てた訳ではない。レベル感の問題だ。
行動レベルでの一致と、思考レベルの一致は、同一ではない。
俺は、今でも、思考が違っても、行動を共にすることは可能と考えている。
それは、信頼はできなかろうが、信用はできるということだ。
共通言語があれば、たとえ、記憶とモチベーションが感情を司るA10神経群で増幅されるものだとしても、それでも、理性的な人間存在のあり方を、俺は信じる、うん、完全に話がずれた。
ネガティブ度でも敵わない
他者の記事の中で、やっぱり、俺なんかよりよっぽど苦労してる人たくさんいるんやな、と思う。
よほど、俺の記事よりも表現力が豊富で、真に迫る内容だなって、思うのもある。
逆に、俺は矮小だーダメ人間だーとか書いてる俺の記事だが、やっぱり、これ、完全に、全部、あますことなく、いやほとんどが、ポジティブな記事なんだなと、そう思った。
なんだろう、何が違うのか、ただのネガティブと、反転したネガティブと、
ただのポジティブと、反転したポジティブと。
なんか、暗いだけの記事にも、明るいだけの記事にも、非常に違和感だというのがわかった。
それが最近の発見。スピリチュアルとかで、ポジティブ日記のつまらなさはわかっていたのだが、ネガティブ日記もまたそんなに面白くないのだ。
いや、考えれば当たり前で、僕は前々から、比較思考は無意味、といっていた。それは、オンラインゲーム症候群のように、すげええ人をみてやる気を失うだけでなく、自分より下の人をみてもきりがないってことだ。
上も下もない。あるのはただ自我、自己、自分。
なんだろう、偉そうなこと書いてると思うが、現実の問題に対して希望を失ってるのは、失望であって、絶望ではない。
恋して、ダメで、彼女もできず就職も決まらず、やりたいこともなければ目指すべき理想もないという状態で、であれば、彼女をつくる、就職する、趣味をつくる、目標をつくるとやってきた。
で、その果てに、精神力をいろいろ使ってきて、じゃあ結局、なんだったのか、というのが、最近のずっとテーマである。
だから、この記事たちは、僕がいま直面する問題を取り上げているのではないのだ。
とか、書くと、これまた支持をどんどん失っていく。偉そうな記事とか、意識高い系の記事なんて、共感を呼びにくいし、面白くないのである、わかってる、黙れ、そんなことはどうでもいい。
目標を達成した先にあるもの
お金がなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。
彼女ができなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。
しかし、現実の存在規定は忘れるな。
国家予算レベルの金を手にするのは個人では無理だし、アイドルレベルの美貌の女の子と付き合うのは無理だ。
しかし、現実への働きかけと、自らの存在規定の変化によって、理想自己と現実自己のかい離を小さくすることはできる。
それを人は努力といい、イキイキしているといい、前向きだといい、頑張ってるといい、かっこいいという。
ああ、それはとてもとても良いことだ。
何ら間違ってない、人としての生き方だ。
ギャンブルに溺れ、サラ金で身を崩し、自らを顧みることなく他者を僻み、周りのせいにだけする人たちを、僕は救う気はない。いや、誰も救ってほしいとは思ってなかろうが、単に例えというか、これも表現でしかないのだけれども。
いやむしろ、努力しようとして、できないんだ、がんばらなきゃ、でもダメなんだ……というのは分かるし、応援したい。
うん、わかった、単に僕はギャンブルってのが好きじゃないだけだな。
しかし、まあ、ただ、ブログってのも、巡り合わせである。
黙っていては、一生知ることがなかった人の情報。
ブログって、一時期はやって、もう廃れたと思ってたけど、逆に、いまも続けてる人はなんというか、それなりに重みがあるというか、その続けてる意味ってのが、その人にとってあるのであって、それが僕の求める意味に近いと、それは非常に参考になると、これまた上から目線なんだけど、でもそう思う。
