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拍手コメントと同時反転思考
2016/10/31 21:00 | Comments(2) | イライラ対処
ニートの履歴書というブログをweb拍手で教えていただき、読んでみた。面白そうだ、と、また微妙な表現。この、面白そうという感覚はなんなんだろう。ただ、これは、ほんの2、3の記事を読めば分かる。

ちなみに拍手の画像を任意で変えられることを知ったので、拍手ではなく、読了ボタンに変えてみた。

拍手というと、なんだか大袈裟な気がする。単に、読みましたよー的な軽い感じで押して頂けるだけで嬉しいとの思い。



しかし、この拍手コメントに対しては、返信した方がよいのだろうか、なれてなくて少し悩んだ。

通常コメントではなく、外部からは見えない拍手コメントにするというのは、何だか極秘のホットライン的な意味なのだろうかと疑問が生じたのだ。

たいてい僕が悩むのは、同時思考として、反対のことが浮かぶ場合である。

そんな極秘とか関係なく、単に通常コメントが画像認証とか面倒だとか、コメントにするまでもないと考えて頂いたのか、そもそも何も理由がないかもしれない。

いやいやそもそも、こうやって悩むこと自体、コメントへの返信を義務になってしまうことへの恐れなのではないかとか、自己感情にまで及んでくると完全に行動ストップとなる。



今回は、結局、自分だったらやっぱり自分のコメントを取り上げてもらったら嬉しいなと思ったので、こうした結論となった。

ブログやめようかな、と記事を書いたときに頂いたコメントも、嬉しく思ったことをこの場で書かせて頂きます。ありがとうございました。

同時思考


しかし、通常生活においては、この、自分だったらどうか、が判断基準にならないこともある。

そもそも、俺としてはどっちでもいいや、というものだ。

完全自分と関係ないことで、こうした判断が必要な事態自体少いと思われがちだが、そんなこともない。
ん、というのはもしかして、僕の他者への興味の希薄さが原因か、それはおいておく。



ルーチン



で、なんとか、正念場の土日を乗りきって続けられている。

今日も多分大丈夫だろう。と、だんだん、自分に対しての信頼度が上がっていく。
この感覚は悪いことではない。
なんというか、赤ん坊が、できることが少しずつ増えていくようなそんな感じ。

ただ、もう大人になってくると、頑張って日課をこなしても、別に誰から褒められるわけでもない。
せいぜい、未来の自分から誉めてもらえるかどうか。

それでも続けるってのは、脳の自己報酬神経群を活発にしてやらねばならない。

そういう意味で、ブログとは良いものである。もちろん、表面的に、ただ、ルーチンを続けることのみを書き続けるのはよくない。書きたいことがあって、日課のことなど、そのついで、ぐらいでよい。でないと、むしろ、ブログを書くこと自体がルーチンになってしまう。それでは、本来やろうとしたルーチンにさらに負荷をかけただけになってしまう。本末転倒である。


結婚観


ある、IT関係に勤めて35歳ぐらいの独身の方のブログにおいて、俺は結婚するという努力を避けているのではない、結婚したいとそもそも思っていないのだ、とあった。

高収入でもイケメンでもないから、努力して結婚できたとしても、同年代か、それ以上の、おばさんしか相手にしてもらえないだろう、それに、高齢出産は障害児が生まれる確率が高くなる、低収入で障害児もちで妻も皺が多いとなれば、他の努力をしたほうがましだ、と。



差別的発言だー、とか、そんなくだらない批判はどうでもよいが、この記述は、結局のところ、批判者を退けられるものにはならない。

そもそも、低収入だろうが、イケメンじゃなかろうが、若くてきれいな嫁さんを見つけることを諦めてるだけじゃないか、とか。

ただ、僕は、他のその方の記事を読んでいて、決してその方が努力をしていないわけではないことも十分感じ取れるから、そうした考えと信念をもっていることは、むしろかっこいいと思う。


同時に、さて、年老いて、死ぬその間際において、自分の孤独な人生に何を思うのか、その点が気になる。もちろん、孤独かどうかなんて、それまた相対概念に過ぎず、他者視点においてどうでもいいことである、何度も書いているが、ここでは、実感が唯一のジャイロスコープ、羅針盤だ。


ステータスとしての結婚



青春時代、異性とラブラブできなかったと、そういう劣等感において、それが払拭できなかったとする。

その代替に、おとなになって誰かと結婚して
セックスできたとして、その劣等感が克服できるのかどうか。


もし、その青春時代の瞬間こそ、自分自身のすべての欲求の根源だとしたとき、大人になってからの結婚が何になるのか、我が子の存在がなんになるのか。

これが問題のひとつ。

逆に、じゃあ結婚も、子供もいたことがないのに、その幸せを、どうせつまらないものだと諦めてよいものか、というのが、反転した問題のひとつ。



この、反転した方の問題は、想像力の欠けた人たちに多いものだが、それゆえ単純な経験の必要性という強力なロジックにより、覆すことが困難である。


戦う必要はない



ゆえに、……、時間の都合により、だいぶカットして、必要な表現だけ残しているが、これらの、いわゆる生き方とか、幸せとかいうもんだいについて、一切他者と争う必要はないのだ。

むしろ、他者を攻撃しなくては自己を保てないような弱者にかまってる余裕はない。

結婚して子供がいて本当に幸せな人は、独身で子供がいなくて孤独な人に対して、変わってるなと思うかもしれないが、別に自らの価値観を押し付けようとはしないものだ。

某新興宗教などは、こうあるべきだを押し付けがちであり、一概には書けないけれども、それはある意味、宗教がなければ、その組織がなければ自己を保てない弱者、と換言することもできる。


……、とか書きながら、この弱者という表現、すなわち、ニーチェの、超人になれ、という言葉が、同時に浮かび、それもまた違うよな、っという思いによって、やっぱり思考が停止しがちである。


なんでもかんでも反論が浮かぶ。



ダメブログ界カースト



とか書いてると、自慢だとか、頭いいだとか、他者を見下してるとかわんさか批判になる。

んなわけないだろ。

むしろこれは、呪いであると、僕はこのことも何度も書いてきてる。


思考なんて、現状を理想に近づけるための方策にすぎないのだ。

現状超人幸せハッピーな人たちに、思考など必要ないのだ。だから、哲学者たちの言葉は、往々にして人々には響かず、思考者は発狂して路傍に倒れるのだ。
 
ダメブログ界は、すべてそうじゃないと思うけれども、どこか、自分がどれほど惨めか、大変な状況なのか、お金がないのか、コミュ障なのか、年齢=素人童貞歴だとか、自己卑下に真剣に取り組んでいる気がする。

そうじゃなくて、やっぱり、自己に問いかけ続けてる人の記事は面白いし、かっこいいと思う。
冒頭に戻ると、それが、何個か読むと何となく伝わってくるのだ。
そして、僕が他者への興味が希薄というのも、この辺に関係きてそうだ、それはおいておいて。


死ぬ瞬間



そして、また反転するが、


思考とはどうでもいいものだ


と書いておきながら、僕は、多くのひとがそのうち必要になるだろうとも思っている。

50歳かもしれない。
60歳かもしれない。

本当に死ぬ直前かもしれない。

メメントモリ、死を思えとか言うのではない、発狂して倒れた哲学者ではないが、偉人が偉人であるのは、それが常人では中々到達しえない領域がゆえに、それゆえに、理解や実感が難しいものである。


じゃあ、やはり死の瞬間の恐怖なんて忘れ、享楽的に生きることを目指すべきだ、と、やはり同時的に浮かびながら、過去の自分の記事や、経験の実感において、それは不可能なのだと、この三十代のタイミングでも感じたことを、未来の自分への遺産としてメモし、この記事を終えることとする。


真剣になるべきこと



補足。

問うべきは自分。
言い訳とか、後悔とか、大嫌いである。

もちろん、ここでの言い訳や後悔は、他者比較における相対的なものではない。

例えば、飲み会で時間がとれなくてルーチンができなかった、というのは言い訳に他ならないが、例外対処ルールにより、それは、自分のなかでは一切言い訳でも後悔でもない。


では、例えば、今日、いま、お腹が痛いのだけど、筋トレストレッチは、やめてもいいのだろうか?

今日は、何とか我慢すれば実施できそうだ。では、もっともっと体調が悪かったときは?



実際、音読のルーチンも、以前インフルエンザで咽をやられ、熱が40℃近くなって数字う寝込んだとき、中断し、結局そのままずるずる、体調が回復しても、ルーチンの再開ができなくなった。

この場合、睡眠時間6時間以外の可用時間二時間未満ルールが適用できない。


しかし、体調の悪さ、というのは、数値化しづらく、判断が難しい。治るのも、何日かかるか推測できない。さて困った。

これは課題、だけれとも、今日のところは問題提起まで。









拍手[2回]

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コメント

久しぶりの更新うれしかったです。
僕も自分のブログに寄せられるコメントには以前は振り回されることもありましたが、今は自分のブログだから自分の好きなようにやってます。
気楽に継続するのが一番ですね。
posted by うーたんURLat 2016/11/01 18:02 [ コメントを修正する ]
うーたんさんコメントありがとうございます。
今日、時間ができたときに書こうかなと思ったことを、正に表現して頂いた感じです。
ニートの履歴書さんをみてらいくつも記事を読んでいて、ふとそれにつくコメントも読んでみたのです。
そうすると、心ないコメントがいくつも……。

批判はむしろ私も頂きたいところですが、その多くは、しねだとかつまんないだとかあほだとか、そんな一言があるだけだったり。

コメント欄閉鎖するひとの気持ちもわかるなぁと思ったのでした。

ので、ほんと、気楽にやってくのが大事ですね。
うーたんさんのブログもいつも更新楽しみにしていますが、どうか無理はなさらないでくださいね。
posted by 遠藤at 2016/11/01 22:13 [ コメントを修正する ]

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