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他者のブログに触れて(ネガティブ日記の功罪)
2016/10/25 07:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
やっぱり、昨日の記事は面白くなかったな、では何が面白いかというのは、やはり、その瞬間には分からなくて、後々意味を帯びてくる、そんなのもあるだろうと、残しておく。

駄文は、捨て去らねばならないのか、価値あるものだけが残らなければならないのか、それは、その通りだと思いながら、その価値の判断は不定不常だという思いである。

徹底しているか



どこか、思考に甘さがないか。甘さというのは何か。ストイックではないということ。ストア派はもういい。理性追求はまた正しくあり、いま僕が問うべきは、その理性の存在形である。

理性の完成形とか、完全な姿とか、それは俗に、神と呼ばれる。あはは、僕は神にすがろうとしているのか。

しかし、人間の生き方は、実のところ、神を信じるか、自己を信じるかのどちらかしかない。日本人は神の概念を理解しにくいが、菩薩や阿羅漢を目指すあり方に近いからだろう。
そんな中、僕は真実なるもの、神なるものに憧れをもったがゆえに、所謂生きづらさを抱えることになった、とか、そんな遠回しな表現を、昨日や、第四歩の記事は自ら根底から覆そうとするのである。

しかし、恋という心の現象もまた、それが脳の本能にもとづく、生きたい、仲間になりたい、知りたい、自己保存の欲から織り成すものだとしても、その発生自体を否定することに何ら意味はない。

すべて空なりとするのであれば、発生する感情もまた、空でありながら、むしろ、それを捨て去ろうとする感情が不自然というもの、同時にその捨て去ろうとする意思すらも、認めざるを得ないのだ。

ありのまま



ただ、そのありのままの描写。
こうあったとき、その言葉は非常に繊細さをかく。
おそらく、初めて読む人は、なんと適当なことをダラダラ書き続けているだろうと、呆れ返ることである。

ところが、まさに、この思考過程にこそ、この記憶と感情の再起性にこそ、このブログの価値を認めるのだ、いうまでもなく、その価値は自らのためにあり、にもかかわらず、誰かの役に立ちたいというのは傲慢なかんがかたであり、同時にわりかし本気で思ってる。



他者のブログ



最近、他の人の記事を探そうとして、読んでいる。
ネガティブ日記と称しながら、単に料理ブログだったりがっかりすることも多いが、また二つ、面白そうなのを見つけた。

しかし、ひとつは、ギャンブルでお金をすったとか、またサラ金でお金を借りてしまったとか、そんな、割かしガチにどん底になっている人のようだ。もちろん、僕は多分半年ぐらいは単にエンターテイメントとして読み、そのうちああ、この人は実在する人間だと確信していき、それでもどこか、ある特別な出来事出もない限り、虚構性を内に秘め続けるだろうが、まぁ、字面を信じるならかなり大変そうだ。


ひとつふたつ、共感できないのは、ギャンブルとサラ金である。
僕が裕福な暮らしだから共感できないのだと批判されるだろうが、ギャンブルするくらいなら映画やドラマ、アニメ、ゲームなど、物語に触れていた方がよほど有意義で、お金もかからない。

そもそも、ギャンブルとは不確実性のリスクを楽しむものであって、真実なるものを希求する僕の考えや生き方にまったく反するものである。
その思考が、いわゆる面白くないやつ、と批判されるのと嫌なので、宝くじ買ったり、競馬にいってみたり、パチンコやってみたりと、一回二回ぐらいは試した。が、やはりそれらに時間とコストをかけようとは思わない。

とか書くと、ギャンブル好きの方からの支持をもらえる可能性が消える。
でもそれでいいと思う。何か、自己を表現することで恐れていたのは、いってしまえば誰かに嫌われることである。誰とでもうまくやるという、処世方針を捨てた訳ではない。レベル感の問題だ。
行動レベルでの一致と、思考レベルの一致は、同一ではない。

俺は、今でも、思考が違っても、行動を共にすることは可能と考えている。

それは、信頼はできなかろうが、信用はできるということだ。
共通言語があれば、たとえ、記憶とモチベーションが感情を司るA10神経群で増幅されるものだとしても、それでも、理性的な人間存在のあり方を、俺は信じる、うん、完全に話がずれた。


ネガティブ度でも敵わない



他者の記事の中で、やっぱり、俺なんかよりよっぽど苦労してる人たくさんいるんやな、と思う。
よほど、俺の記事よりも表現力が豊富で、真に迫る内容だなって、思うのもある。

逆に、俺は矮小だーダメ人間だーとか書いてる俺の記事だが、やっぱり、これ、完全に、全部、あますことなく、いやほとんどが、ポジティブな記事なんだなと、そう思った。



なんだろう、何が違うのか、ただのネガティブと、反転したネガティブと、

ただのポジティブと、反転したポジティブと。


なんか、暗いだけの記事にも、明るいだけの記事にも、非常に違和感だというのがわかった。

それが最近の発見。スピリチュアルとかで、ポジティブ日記のつまらなさはわかっていたのだが、ネガティブ日記もまたそんなに面白くないのだ。

いや、考えれば当たり前で、僕は前々から、比較思考は無意味、といっていた。それは、オンラインゲーム症候群のように、すげええ人をみてやる気を失うだけでなく、自分より下の人をみてもきりがないってことだ。

上も下もない。あるのはただ自我、自己、自分。



なんだろう、偉そうなこと書いてると思うが、現実の問題に対して希望を失ってるのは、失望であって、絶望ではない。

恋して、ダメで、彼女もできず就職も決まらず、やりたいこともなければ目指すべき理想もないという状態で、であれば、彼女をつくる、就職する、趣味をつくる、目標をつくるとやってきた。

で、その果てに、精神力をいろいろ使ってきて、じゃあ結局、なんだったのか、というのが、最近のずっとテーマである。

だから、この記事たちは、僕がいま直面する問題を取り上げているのではないのだ。
とか、書くと、これまた支持をどんどん失っていく。偉そうな記事とか、意識高い系の記事なんて、共感を呼びにくいし、面白くないのである、わかってる、黙れ、そんなことはどうでもいい。



目標を達成した先にあるもの



お金がなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。

彼女ができなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。


しかし、現実の存在規定は忘れるな。
国家予算レベルの金を手にするのは個人では無理だし、アイドルレベルの美貌の女の子と付き合うのは無理だ。

しかし、現実への働きかけと、自らの存在規定の変化によって、理想自己と現実自己のかい離を小さくすることはできる。

それを人は努力といい、イキイキしているといい、前向きだといい、頑張ってるといい、かっこいいという。




ああ、それはとてもとても良いことだ。
何ら間違ってない、人としての生き方だ。

ギャンブルに溺れ、サラ金で身を崩し、自らを顧みることなく他者を僻み、周りのせいにだけする人たちを、僕は救う気はない。いや、誰も救ってほしいとは思ってなかろうが、単に例えというか、これも表現でしかないのだけれども。

いやむしろ、努力しようとして、できないんだ、がんばらなきゃ、でもダメなんだ……というのは分かるし、応援したい。

うん、わかった、単に僕はギャンブルってのが好きじゃないだけだな。



しかし、まあ、ただ、ブログってのも、巡り合わせである。

黙っていては、一生知ることがなかった人の情報。

ブログって、一時期はやって、もう廃れたと思ってたけど、逆に、いまも続けてる人はなんというか、それなりに重みがあるというか、その続けてる意味ってのが、その人にとってあるのであって、それが僕の求める意味に近いと、それは非常に参考になると、これまた上から目線なんだけど、でもそう思う。




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