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ブログ整理に意味はあるのか
2016/11/09 00:22 | Comments(2) | 思考及び書くこと
最近ルーチンの、筋トレストレッチ音読のことをあまり書いていないが、続けられている。
そして、一年前の記事とか読んでいると、やっぱり、ちょうど「ルーチン再開するぜ!」とか書いてある。その時は、英文の音読と単純計算練習だった。歴史は繰り返す。

それにしても、短い映画感想の記事が多く、過去の記事から遡っていると、中身のなさにイライラさせられる。何だろう、映画の分析とか、そんなの別に興味はない、それをみてどう思ったか、どうしようと思ったか、その感情を書き残しておいて頂かなければ、わざわざクリックして開いた労力に見合わない。ということで、20~30ぐらい削除したりしたけれども、まだまだ沢山あって、途中で放棄した。

ので、「思考の垂れ流しだって未来の自分には役に立つかもよ~♪」なんて甘っちょろい考えは、捨てよう。メモはメモでいいのだけれど、それは、感情レベルで想起可能な内容を書き残しておくべきであって、それができないのであれば、そもそも投稿ボタンを押すべきではない。

これは、文章の長いか短いか、ではないけれども、短いとやっぱり価値は薄い……いや、他の方のブログは短いながら非常にウィットに富んでいて、面白く楽しませてくれるのだけれども、基本的に僕が書く記事は、短ければ短いほど価値が薄い気がする。

ある方からコメント頂いて、「よくまぁ毎日こんな長文書けるねぇ」と言って頂いたが、(まぁそれが皮肉なのかどうなのかと、一応同時思考的には生じるけれども、結論的には嬉しい感情に収まった)逆に、短いと意味が希薄なのである。


例えば、上のことだけで終わってしまうと、数日後にこの記事を開いた僕は、イラっとするわけである。

仕事の苛々とルーチンの効用

自己啓発ブログ何かになりたくないけれども、このルーチンというのは、やっぱり役に立つなぁと思う。そして、これは取りあえず書いておく必要があるだろう。

昨日もだけれど、今日もかなり苛々しながらの帰宅であった。何だろ、中々人の心は難しいね、じゃなくて、思い通りに事が運ぶってのは難しいなぁと、今、落ち着いてみるとそんな達観した、他人ごとな感情だけれども、いざ渦中にいると結構面倒なものである。

これまでの経験上、このさかだった気持ちを抑えてくれるのは、ゲームとかテレビとか、ぼけーっと頭を使わないような行為であった。
しかし、イライラしようが、疲れていようが、おなかが痛かろうが、眠かろうが、とにかく、筋トレストレッチ音読はする! と強い気持ちで、それを実行すると、何だか少し落ち着くのだということが、昨日と今日とで分かった。

ひたすら筋トレと、ポジティブ思考を説くブログとか、何だか、某有名テニスプレーヤーの「頑張れ頑張れがんばれ! お前ならできる! 絶対できる! 諦めるな! 頑張れ! できるできるできる! 頑張れ!!」という、熱いエール、応援のようで、うぜぇ……って気持ちになるわけだけれども、まぁ、言ってることとかやってることは、間違いじゃあないと思う。

これも他のある方の記事で読んだけれども、「自殺するくらいなら筋肉を殺せ!」というのも、生きる方策の一つであるだろう。


と、そういうのは認めておいて、やっぱり、タイミングは重要で、ほんとに落ち込んでるときにそのような熱い気持ちは、その人の絶望を、むしろ深めてしまう可能性についても考慮しなければならない……と書いておきながら、いや結局、そんなタイミングなんて、他人のことを100%完全理解などできないのだから、気にしていては何も始まらない。

悩んで何もしないぐらいなら、何かやって失敗した方がまし。という諺のようなものだ。

いやそれもまた、その失敗が取り返しのつかないものだったり、その失敗が人生のかなり深いところでトラウマ的な傷になって、一生引きずっていかざるえなくなってしまったりと、それもまたタイミングである。

そこから導き出されることは何か?

考えたって無駄である

「生きる意味を徹底して考える」
というタイトルにするまで、結構悩んだものだった。
いや、考えてどうすんだよ、という感情。

この感情は、どう考えても、否定できるものではない。

いや、すぐにね、例えば、

「戦略の失敗は戦術でカバーできるものではないし、戦術の失敗は戦闘でカバーできるものではないのだ」

という、目的や目標、全体をとらえることや深い思考の重要性を説く言説、諺、諧謔、標語、モットーなど、探せばたくさん見つけることはできる。

むしろ、大きな考え方、それを他の表現で、「信念」とか表現してもいいけれども、その信念があるから、現実の個々の事象、日常の判断のスピードを高速にすることができ、それが仕事の能率や達成率に影響するのだ、ということも言える。


だから、思考自体が無駄、というよりも、大きな思考は重要であり、普段、うだうだ、あー仕事めんどーだなーとか、あいつむかつくよなーとか、今日のお昼は何たべよっかなーとか、そんなことに時間使ってるのはもったいないということなのである。


結論:考えることは無駄じゃない。しかし、日常個々の事象に対する思考は無駄である。

無駄とは何か

その、大きいこと、信念とか、生きる意味ってのを僕が探し求めようとするのは、上に書いた結論のような呪縛のせいかもしれない。

しかし、そんなカッコつけるまでもなく、単純に、僕は、この考えるということ、思考というものと決別することに失敗したのである。
「君、キモチワルイよ?」
と言われようが、である。

だから、「ファイトファイト! 頑張れば何でもできるよ!!」という記事よりも、むしろダメブログと言われる系の方に共感というか、面白みを覚えたわけである。


けれども、同時思考的に、その、「思考の垂れ流し」に対する劣等感と、「無駄じゃね?」という思いと、常に戦いながら書かなければいけないところが、少しばかり苦しいところ。段々書いているうちにテンションが上がってくるときは、徐々に楽しくなっていくのだけれども、例えば今日とか、書いていてあまり楽しくないのである。

で、このあまり楽しくないときに書いた記事が、翌日以降読んで、逆に面白かった時もあるし、やっぱり面白くなかったときもある。


だから、「無駄」というのだけれども、この無駄ってのも非常に曖昧な概念でしかないと僕は思うのだ。
最初の方に書いた、イライラをゲームに充てて時間を無駄にしたなぁ、というコメントについても、ゲーム自体、エンターテイメントとか、物語を摂取するのに重要な要素だと思うし(相州戦神館學園というPCゲームがあることを最近知ったけれども、何だか面白そうである。テレビは無いけれどPCゲームならいける)、そのイライラを鎮静する意味を考えれば、単純に無駄とはいえないだろう。すぐさま書いておくべきは、他の目標があったとき、その逃避的行動は目標に対して「無駄」である。

ので、無駄というのは、達成すべき目標に対しての相対的な概念であるのだ。
さらに書いておけば、その「無駄認定」を、仕事場など、共同生活においては、よく他者から指定、規定されるものである。
それが、ストレスチェック的な用語を使えば、「自己コントロール感」の不全に繋がり、ストレスになる、という構造である。

面白いとは何か

さて、この記事は、明日読んで面白いんだろうか。

また情けないことを書けば、いやそれは、メモしておかなければという思いからなのだけれど、面白いかどうかって、結局、自分の感情だけで判断は難しいものである。

ある方が、自身の作品について、これ面白いんかなぁ……どうなんだろ、と呟かれていて、いやぁ、あなたの作品だったら絶対面白いッスよ、と思うのだけれど、ただ、その感覚は分かるのである。
(でた! 「分かる」という上から目線! お前何様だぜ! ……という思考の邪魔だてはここでは無視しよう)

さらに、一つ話をすっ飛ばして書くと、「面白いですよ!」という他者の評価があったとしても、その「信頼性」というのが問題になってきて、この「懐疑」という感情は何ともやっかいなものである(僕はもう呪いという表現を使っている)。


その、面白いかどうか、ということについて、僕がこの小見出しの冒頭、情けないこと、と書いたのは、読了ボタンが押されていないと、「あれ、俺、なんかダメなこと書いちゃったの? 面白くなかったか……いやそうだよな、普段も別に面白くなんてないし、役に立つことなんてちっともないけれど、頑張ってボタンは押してくださってた方がいたってだけなんだよな。ああ、ほんとごめんなさい、いやでもほんと、何かダメなこと書いちゃったかな、ぁぁぁぁどうしよう!」
みたくなるのである(いや、ちょっと誇張している気がするけれど……)。
そして、こんなこと書くと、もはや、どんな言い訳を書いても、コメント乞食とか、拍手乞食とか、まぁそんなことになるわけだ。自分の発言には責任をもちましょう♪ というわけだ。


が、しかし、こういった、情けない部分の表現も含めて、余すところなく表現していくことが、徹底的に、という表現だと、またいつもの「言い訳」なのだけれども、まぁ必死に言い訳しようじゃないか、ということである。


ただまぁ、指標としては、結局、明日の自分、もっともっと先の未来の自分が、面白いと、役に立つと、そう思えるかどうかが重要な点なので、拍手やコメントといったものは、付加要素(いやとっても嬉しいものなんだけど)に過ぎないことを意識しておくべきである。

幸福の限界効用逓減

当たり前の幸せに気付こう。

と、スピリチュアルとかありがたい法話などで説かれたりするものだ。
その付随する思考がいかに胡散臭いものであって、ビジネス的であろうが、僕はこの考えは重要だと思っている。

いや、いつも書いているように、幸せって何ぞよ、というのは別の次元の話しだ。

取りあえず、「良い状態、気持ち良い状態、心地よい状態」という事象自体を幸せとしたとき、「上へ上へ!」という思考は、その基盤となっている大切なものを見過ごしてしまう可能性が潜んでいる。

そのあたりに、「頑張れ頑張れファイト行ける! やればできる!」的な熱いメッセージというものへの懐疑が生じる所以でもある。

何というか、ランナーズハイのように、その走ることとか、頑張ることそれ自体が「気持ち良いこと」など、幸せであるという次元に昇華できるのであればよいのだが、何かの目標に対しての努力なのであれば、その努力は、できるだけ無い方がよいと思う。

いやそんなこというと、「苦しんだものが救われる」とかいう、物語の王道から外れてしまうわけで、それってつまんねーじゃん、ともなりかねない。
そもそも、僕が前の記事で書いた「死は別にバッドエンドではない。のうのうと人を騙して蹴落として好き勝手やった奴が嫁や子供に囲まれて幸せな生活を送る、とかいうのがバッドエンドに他ならない」というのに反するのではなかろうか。

やっぱり、苦しんで、悩んで、頑張って、そのあげくにつかむ幸せっていう、そういった物語が、僕たちのハートを掴むんじゃあなかろうか。

おっと、小見出しと話しがまたズレてきた。


でもこの部分、結構重要だわな。

努力の否定は悪人の肯定か

「努力信仰の否定!」
とかっこつけて書いたのも、最近の記事だった気がするけれど、でも、努力しないで、他人をこきつかって、楽に出世して、周りを苦しめながら楽しく気持ちよくなるようなこと、それってホントに正しいといえるのか、ってことだ。

僕は、そんなつもりで書いていたわけではないが、まぁ、初めてその記事を読んだ人は、そう感じても仕方がないな。もし批判コメントがなされるなら、そういった部分なのだろう。
ただそれに対して、きっと僕は面食らうわけだ。え、何をいってんの? そんなわけないじゃん? と思うわけだ、だが、文章上、記事から読み取れる内容としては、そういった批判はまさに的を射ているわけだ。


文章表現の限界性なのかもしれないが、ここを諦めるのは、本末転倒である。


いやぁ、しかし、もう今日は終わりにするか。
何だか、書いていてあまり楽しくなかったし、やっぱり疲れたよ……。

これで、明日読んでも面白くなかったら、まったく「無駄」な時間だったなぁ……と、なるのだろうか? という、それに対しての疑義、という意味はあったのかもしれない。

眠い目をこすりながら明日以降を考える

しかし、11月の初旬が終わろうとしている。時間、本当にまったなしだ。

着々と仕事して、作品つくって、彼女つくって、結婚して、子どもつくって頑張っている人もいるいっぽう、俺は夜な夜なこんな記事ばっか書いていると。

で、他のブロガーさんのように、同士をみつけて、一緒に鍋パーティーやったり、オフ会で街を探索したりとか、有意義なことに活用しているわけでもなく、ただ一人、永遠と自分の止まらない思考をせっせと表現するだけ。

いやほんと、止まらんのだよな、今、日本全国全体レベルでは速い部類のタイピング速度に合わせて書いているとはいえ、思考的には浮かんでは消え浮かんでは消えとにかくカオスに溢れている。

その溢れる思考を、一定の表現にすることで、道筋を立てようというのが、この無駄に長い記事たちの役割なのだけれど、一体、いつになったら前に進めるのだろうか。

そのヒントを探すために、過去記事を読んだりしているが、何だろうか、着眼点や、取り巻く環境の違いから表現される言葉や文章は異なるとはいえ、この膨大に垂れ流される思考を何とかアウトプットしようとしているその試みは通底している気がする。

って書くと、さもいつも高尚なこと考えてますよ、的な印象になるような気もするが、いや、高尚な人は、こんなことしないわけだ。
高尚な人は、どうやったら世界の貧困問題が救えるのか、医療水準をあげられるのか、経済を発展させられるのか、国を守れるのかとか、そんな偉いことにリソースを使うのである。


いやそれはもちろん、僕も、他の人の役に立ちたいし、誰かから感謝されたら嬉しいし、もっと頑張ろうとか、それは思うのだろうけれど、何だろう、何なんだ、何だっけ、その、うーん、こう、表現が浮かばないときは頭が真っ白になってしまうのだが、ええと、「目的」みたいなものが、今消えてしまっているというか、失われたというのか、どっかいっちゃった感じである。

違和感

一人暮らしするぞ。大学入るぞ。友達つくるぞ。資格取るぞ。彼女つくるぞ。就職するぞ。結婚するぞ。お金稼ぐぞ。



こうやって、ぐちゃーっと、書きなぐりながら、時に泣いて、時に苛々して、むかついて、怒り、奮い立たせ、鼓舞し、何とか色々やってきた。

ダメブログ界的には、「ケッエリートが」「たまたま運がよかったんだろ」「裕福なお坊ちゃんめ」みたいに散々非難轟轟なのだろう。そうなんだろう、僕は恵まれていて、運が良かったんだろう。その恵まれて幸せな環境やリソースを使って、もっともっと上昇していけばいいことなんだろう。

でも、何か違う。

ここで、その時々で、僕がどんだけ悩んで苦しんでいたか、という表現は、多分今無理やり作り出さなくても、当時の記録があるだろうから探して貼り付ければすむだろう。
ただ、そうやって表現したところで、「なに? 悲劇の主人公気分? うわキモ☆」「あー、惨めな自分に浸ってキモチよくなりたいってことだね~」という批判にしかならないだろう。

そうなんだよな。
可哀そうだね、よしよし、と慰めてくれるのは、誰しも母親ぐらいなもんだろう。いや、母親でさえもこんな記事読んだら「キモッ!」ってなるかもしれまい。

という意味から、やっぱり、ホントに致命的な重要な問題については、他者に愚痴いっても解決なんてしないよ、という、なんとも寂しい結論を、僕は自分自身で強化肯定してしまうのであるが、何だろう、ここら辺について、なんか、物語に期待する部分でもある。

「愛ってめんどくせーもんだけど、でも、悪いだけのもんじゃないぜ」

とある方が言っていて、僕は非常に感銘を受けた。その言葉の前にあった、人ってホントにダメでどうしようもない奴も多いけれども、でも、人の善意なるものも、それもまた人の本性なんだ、という流れからの話し。


ホントそうだよ、その通りだよ。

悪い部分にだけ目を向けてたって仕方がない。いいところ、美しいところ、綺麗なところ、素晴らしいところ、耽美煌々、法悦恍惚、人の発展により培われた文化はまたその一つの在り方なのだ。



が。

違和感だ。

この、現実という規定において、この生活において、この「無目的性」において、違和感が強くなる。

……恐ろしい、何だか、戦慄した、身の毛がよだった。


ああ、だから、本当に、ぐだぐだ苛々なんてしている場合じゃなくて、

物語のインプットと、

人生の目的(生きる意味)を、

もっと真剣に、もっと早急に突き詰めていく必要があるのだ。



僕の書いた記事がよくなかったから拍手してもらえなかったのかとか、
僕が言った言葉が相手をどんな気持ちにさせてしまったとか、
そんなこと考えてる暇なんてないんだ。

とにかく、寝よう。寝ることの重要性もまた、疑う余地のない対応方針の一つだ。


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人生のグラフ化ってできるのかな
2016/11/07 22:15 | Comments(0) | イライラ対処
生きることを決意した者たちは、ただ生きる者を圧倒する!!

うおぉ! すごい、熱いぜ!!
と、シグルイ全15巻読んで思った。しかし、かなり精神的にえぐられた。最近ふれた作品のなかでもトップクラスだ。



いやなんというか、お殿様のご乱心で、ただ平伏してただけで首に刀刺されて殺されちゃったり、もうほんと人の命なんて身分の違いでゴミ滓のように扱われる。

なんかの思想家が、昨今の男子はナヨナヨしていかん! 武士の心を呼び戻せ! とかいってるが、アホかと思う。
やれ坂本龍馬とか赤穂浪士とか新撰組とか分からないが、そういった時代ものの上っ面のエンターテイメント性だけに焦点をあてて、昔は良かったなぁなんて言ってる奴の言葉に耳をかす必要はない。

昔はよかったとか、くだらない思考である。
スマホとかインターネットとか、いやそれどころか3cと呼ばれる三種の神器とかなんとか、便利な道具やシステムを享受しておきながら、思想分野においてのみ郷愁を覚えるなど、身の毛もよだつおぞましい人種である。

ものすごく疲れている

何だか攻撃的なのは、精神的にも身体的にも疲れているからだろう。

いやぁなんだか、思い通りいかないことが多いと、様々疲れる。そして、何だかずっと熱っぽかった。
鼻水とと喉のいたさも復活だ。



なんだ、これ。昨日、ライフプランだーマネープランだーとか、人生の見通しを立てようとしたら、この疲れである。

だが、これはちょっと、いいタイミングにも思える。つまり、最低な気分なときに、どれだけやれるか、ルーチンをちゃんとこなせるか、その辺りが問われているのだろう。

グラフ化

ある先駆的な方からコメントを頂いて、プラニングはグラフにすることが大事だよと教えていただいた。
きっと、グラフ化できないと、ちゃんと理解したことにはならないんだよという教授なのだと思った。

僕は、今日帰ったらやろうと思っていた。しかし、きっと無理だろう。ルーチンをいやいやこなすだけで終わりそうだ。

そして、そんな毎日がずっと過ぎるのだ。

なにか、いろいろ、作曲とか創作とか、ホームページ更新プログラミングとか、本を読んだり、ランニングしたり、色々やろうと思ったことは、きっと何ヵ月かまえにあった気がする。


帰ると、何もする気になれない。

亡霊のようにゲームをやって時間をまぎらわしていたのが、ちょうど一年前ぐらいの今ごろだった気がする。(今はコンシューマー(据え置き機)は引っ越しと同時にすべて売り払った)

過去の言葉

奇跡的に最初の話に戻るが、過去はよかったと、そんなことを思うのはおろかなことである、と言いながら、過去の、歴史は、とても役に立つものである。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。



いやもちろん、優れた偉人の言葉、伝記などは素晴らしいだろう。しかし、この他ならない自分の言葉というのは、違った重みになる。
それは、くだらないことでも、ちょっといいことでも、どちらも役に立つのだ。


そのことを、書き続けること、ここまで書き連ねてきた何年もの蓄積が、そのことを少しでも示せたらよいと思う。


いやおまえ、結局一年前と同じような状況じゃないか、書いてた意味あんのかよ? あん?

精神の安寧

指摘はごもっともである。この書くことによる示唆というのは、僕自身がハッピーエンドにならなければ示せないものだろう。

ただ、ひとつ、いま時点でもいえるのは、先程までのあのぐちゃぐちゃした苛立ちが、少し緩和されてきたのだ。


うーむ、これ、誰かとの会話で解消できるものだろうか?

僕は、否、と思う。

誰か他の人との会話においては、独白じゃだめだとおもう。教会の懺悔はともかく、キャッチボールが会話には必要だ。

何を話しても、自分の話したいことにむけさせる人もいるが、そんなオナニーに付き合っているのはむしろ余計に疲れることだろう。


という流れから、他者に愚痴るのは徒労に終わる、と表現したのもその一年くらい前な気がする。

そのときは、共感が強すぎる優しい人相手だと、申し訳ない気持ちも発生するからなぁ、ということも書いていたが。


一年前の感覚

いや驚くべきはやはり、その時間経過の感覚。もう一年前なのだ。

なんという早さだ。秋の夕べは釣瓶落とし、だっけ、いやなんか違う。


恐ろしいほど早い。
子供をもつ人なら、その成長に驚くのではなかろうか。

俺は、自分の成長のなさに驚いてるぞ!かっこわらい

ううむ、あるブログにおいて、数年前と変わっていないとか思うなら、それは「変わっていない」のではなくて、「後退している」(落ちぶれている)ということなのだ、と書かれていた。
うわぁー。


グラフ化、やってみるかな。まぁ、こればかりは、帰ってからの気分次第、ルーチンの実施が最重要事項。考えることとか、そんなことよりも、まず、身体に習慣を作ることが、待ったなしの同時並行に重要。

帰宅後

帰った。
服を脱ぐ。
筋トレをする。音読をする。ストレッチをする。

そして、グラフを作る。



うーむ。センス無いな。エクセル、マクロは少しコピペで何か作ることはできるけれど、グラフの機能ってほとんど触ったことないんだよなぁ。というか、グラフってこういうのなのか? もっと様々な要素(収支とかその他)が複雑に絡み合ったりした奴のことを指すのじゃあないのか? ほんとによく分からない。

……まぁ、何となく、感覚で、50歳リタイアすると地獄の底へまっしぐらだぜ、って感じが出てる気がする、かっこわらい。お先真っ暗だぜ、しかし、こう見ると、収入がなくなるとたったの数年で資産が底をついてしまうということが分かる。やっぱり、経常的な収入源は大事なのである。

でも、さすが先駆者さんのコメントだなぁと思ったのは、実際グラフ化してみると、表の上だと何となくそうなんじゃないかなぁと思っていたことが、明確に可視化されるのだ。
例えば、③の状態ラインにおいて、赤と緑と紫では、傾きが紫に行く方がきつくマイナスになっている。
これは、昨日の記事において、年金の計算を、リタイア時期に合わせて再計算したことによる。
恐らく、年金額を50歳・55歳・60歳で同じで算出していたら、③の状態におけるグラフの傾きは、同じになっていただろう。


ううむ、しかしこれ、この後どうやって活かしていけばいいのだろう、よく分からない。

エクトプラズムの放出

と、帰宅中から、帰宅後ルーチン、グラフを作ってここまでやって、何だか魂が抜けた気がする。

おいおい、この程度、もっと頑張ってる人は大勢いるんだぜ? この程度でへばってどうするんだ! さぁ、もうひと頑張り! もしくは、早めに寝て、朝早く起きて仕事しようぜ☆


うるせーうるせー、お前ら、どうしてそう、次から次へと話しかけてきやがるんだ。
静かにしやがれ。少し休ませろや。


休む? あはは、バカなこといってんのは君の方だよ。
君だよ? さっき、もう一年も経っちゃったんだなぁ、早いなぁ、なんて言ってたのは。ここでまたダラダラしてたら、何も始まんないよ?


いや黙れよ、だから、ホントは精魂尽きて……というより何だか体調の悪さとイライラさに悶えていたけれども、ルーチンもちゃんとやったじゃないか、褒めてよ。

うわ、キモ。何? いい歳して、誰かから褒められたりしないと何もできないの? しょうがないなー、はいはい、いい子イイ子でちゅね~。



……。

もう今日は風呂に入って寝る。

(くだらない茶番を書いていたらふと思った。今回のグラフって資産ベースに作ってるけど、幸福度とか何か思考的な要素でグラフ化ってできないもんかな。ブログの書いた文字数の累積グラフとか……いや、それみて何が分かるってんだ却下)

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ライフ&マネープラニング
2016/11/06 15:10 | Comments(0) | 目的・目標
昨日、ライフ&マネープランを立ててみようと思い立ち、取り組んだところ、4時間ぐらいかかった。先に結論を書いてしまうと、

・50歳でリタイアしようとすると、約1750万円を用意する必要がある。
・55歳でリタイアしようとすると、約240万円を用意する必要がある。

ということが分かった。60歳でリタイアするとすれば、特に追加資金は不要。

前提

まず、そもそも、お前は何歳まで生きるつもりなんや?
ということで、厚労省の簡易生命表を元にして考えてみる。



推計1推計2
簡易生命表20072015
当時年齢2129
平均余命58.6952.43
死亡予測年齢79.6981.43
(厚労省簡易生命表 第1表(男性)から遠藤作成)

あ、歳ばれてしまった。まぁいいや。つまり、2007年の生命表(平均寿命とか算出するもとになる統計表)からすると、21歳の人が死ぬのは58.69年後なので、79.69歳まで生きるということになり、
2015年の最新の生命表で計算すると、29歳の人が死ぬのは52.43年後なので、81.43歳まで生きるということになる。

昨今、平均寿命が80歳ぐらい、といわれているので、まぁ納得する計算結果である。

ということで、取りあえず僕も、80歳まで生きることを前提に試算してみることとする。

前提2

ひとまず、住宅、結婚・子供その他ライフイベントはすべて無視。
家賃とか、普段の生活費(インフラ)はずーっと同じだと考える。

ここで、食費は含めるが、飲み会とか車両等維持費とか、DVD・CD借りたり、本やゲーム買ったりとか、突発的な経費は含めないとする(というのは面倒だったというだけだけど)。

病気にかかる医療費とかも特に考慮していない(65歳以後のリスクは格段にあがるとのことだけれど)。

年金は、65歳から受給とし、国民年金が約6万5千円ぐらいと聞くのでそれと、厚生年金は、
http://www.dcnavi.jp/shinkin/F0600/F0406/html/F0406_01.asp
これを参考に計算する。

退職金はよく分からないので計算には含めないこととする。

給与も、特に変わらず、ずーっと同じだと考える。(ボーナスもあるか分からないし含めないこととする)

シミュレーション1(60歳リタイア)

60歳まで働いた場合。

60歳以後、年金受給まで、収入はゼロとなる。ので、64歳の時点で収支がプラスかマイナスかで、用意すべきお金が分かる。

で、60歳まで働いた場合、資産(普通預金など)が、64歳までどんどんマイナスになっていくが、それでも、マイナスにはならなかった。
(試算の仕方としては、エクセルを用いて、現年齢から80歳までを横軸に並べて、それぞれの収支の要素を立てに並べ、毎年の資産合計を導いた)


というわけで、60歳まで現行生活を維持していくと、取りあえず破産はしないということになった。

もちろん、これは、80歳まで、特に何も新しいことはせず、ずっと同じことを、決められた経費内で生きていくという場合の試算である。
不動産など大きな買い物をした場合はまた、変わってくる。


まぁ、現状変わらず(給与削減とか物価高騰とか、災害とか詐欺とか、致命的な何かが起こらない限り)慎ましく生きていく分には、何となくそんな感じはしていたから、これは新しい発見でも何でもない気がする。

ただ、実際、何歳の時の預貯金がいくらぐらいなのか、とか、実際の数値で見ることができるようになったのは、有益だと思った。

で、重要なのは、次のシミュレーションからだ。

シミュレーション2(50歳リタイア)

50歳で仕事をやめたとする。
そうすると、収入源が、51歳から0円となる。

すると、65歳の年金受給まで、ずっと収入なしとなり、その間は預貯金等資産を食いつぶして生活する必要があるわけだ。

すると、55歳ぐらいの早々に、資産はゼロとなる。この時点で、保険(終身・個人年金)を解約し、臨時収入とする。
一時的に資産は回復するが、それもつかの間、翌年にはやっぱりマイナスになって、マイナス額はどんどん膨れ上がっていく。
結果として、64歳時点では、1750万ぐらいのマイナス額になる。うひゃー。


65歳からは、年金がもらえる、という想定で、若干、マイナス額は減らしていけるものの、80歳時点でも、1590万ぐらいのマイナスのままとなる。完全破産である。

ということで、最初に書いた結論のとおり、もし50歳でリタイアするならば、50歳の時点で、1750万ぐらいを資産として計上しておく必要があるのだ。
うーん。退職金は計算に含めてないけれど、50歳での退職金なんて、300万ももらえたら良い方なんじゃないかな。そもそももらえるかも分からないし。となると、このシミュレーションはちょっと現実味がない気がしてくる。

シミュレーション3(55歳リタイア)

では間をとって、55歳でリタイアの場合はどうだろう。資産の仕方はシミュレーション2と同じ。

この場合も、64歳時点の資産合計を見てみる、すると、240万ぐらいのマイナスである。
うーん、やっぱりマイナスかぁ……でも、まぁ、なんか、ちょっと現実味がある気もする。

運よく退職金が300万ぐらいもらえたら、何とか年金受給まで食つなぐこともできそうである。
(もっとも、実は今回の資産において、年金額は満期間で計算しているため、早期リタイアした場合の減額分を考慮できていない。※)

※いや、それってやっぱり大きな違いなんじゃなかろうか、と思って再計算を実施。
↓↓↓

結論の修正

50歳、55歳、60歳における、厚生年金の計算をそれぞれ実施してみたところ、結論が大きく変わった。
(年金受給後も、今の生活レベルを続けると、マイナス収支になってしまった。ということは、64歳時点の資産合計ではなく、80歳時点の資産合計をみなければ、用意するべき金額が分からないということだ)


結論、
50歳リタイアの場合、約2300万円必要。
55歳リタイアの場合、約580万円必要。
60歳リタイアの場合、長生きすればするほど資産は目減りしてくものの、80歳時点でもプラス状態を維持できている。

となった。


必要金額は変わったものの、大きな結論として、やっぱり50歳リタイアは厳しそうだなぁというのと、55歳リタイアの場合、何とか方法はあるのではないか、という気もする。

しかし、年金計算ではないけれど、ちょっとした前提が変わると、試算結果が全く異なってくるという点が面白い。
例えば、食費を2万円ぐらい切り詰めると、結果は大きく変わって、55歳リタイアの場合も、80歳時点の収支がプラスになってくるのだ。

4時間ぐらいかけて作った表だけど、経費とか、数値をいろいろ変更して結果をシミュレーションできるのは面白いし有意義だと思った。

ライフプラニング

で、ここまではあくまで、マネープラニングである。
ここまでが言ってしまえば大きな前提に過ぎない。

僕がいつも意識が向いているのは、どうやって生きるか、というよりも、何故生きるのか、何のために生きるのか、の方であるので、重要なのはここからである。

とか書くと、「裕福な野郎は今すぐ地獄に落ちろ」とか「今まさに貧困で苦しんでいる俺の苦しみなんて理解できないのだろう」とか、まぁそんな批判がたくさんくるだろう。

どっかの記事で読んで面白いなーっと思ったのは、批判とか、妬みってのは、自分に近い人に向くものだ、というものである。もっとお金持ちの、石油王とかゲイツさんとか、会長社長さんとか、資産が億単位であるような人には、妬みは生まれにくい。それよりも、僕が今何千万ぐらいでどうしよっかなーといっている方が、攻撃の対象になりやすいのである。

その気持ちも分からないでもない。

これもあるブログで読んだのだけれど、
「左手で女の肩を抱きながら、右手のスマホで『僕はもうだめだ……』とか言ってる奴は信用ならん」
というのは全くその通りに思うし、はっきりいって僕もむかつく対象だ。

ただ、これは、かなり前から僕はそう思ってきたのだけれど、妬みとか憎しみって、ほんと無駄な感情だよな、と思うわけである。人を憎む時間があったら、もっと楽しいことに使うべきである――もちろん、すぐさま書いておくべきは、そんなこと言ってお前が単に家族を殺されたこともない甘ちゃん坊ちゃんだからそんなこと言ってるだけだ、という批判はもっともだと思う点である。そこで僕は、学生時代虐められた経験を持ち出して反論することもできるけれど、そもそも、このやりとりというか、考え方というか、感じ方というか、その全体が僕はもう無駄としか思えない。

とか言っていて、上のように長文になるのは、どこか自信のなさなんじゃないの、と、これも同時思考的に発生するのだけれど、だからこそ、書いておいているのである。永遠に僕は、自分一人でも批判を続けられる。一生終わらない永劫回帰。そこから導かれるのは、「他者への興味のなさ」なわけであって、でも、これはちょっとそのまま用いると害悪が多くて……ああ、話しが逸れまくる、中断。

ライフプラニングの話しじゃなかったんかよ!


よく考えたら、朝からコーヒー以外ほとんど何も口にしていない。

取りあえず、今日はここまでにしよう。



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無為に時を過ごす(家の片づけ)
2016/11/05 23:59 | Comments(0) | イライラ対処

先日書いたメモ

この感覚は、足りない、表現が足りない。
夜にでもまた考えてみよう、そう書き残した。

しかし、本当に足りなかった。いま、酒が入り少し疲れて帰宅中では、そのとき、何を思って、何を表現したいのか分からない。

喉もいたい、鼻水もでる。風邪である。インフルエンザも含めると、少なくても三回目だ。もっとかかってたかもしれない。おかしい、免疫が弱ってるのか。

なんとか、しかし、帰るときにこうして、ブログを書けるのは、多分、帰ってルーチンができる余裕があるのだろう。

しかしそれにしても体調が悪い。

そして一夜明け

気付いたら昼過ぎ。体調の悪さは残っているが、少しよくなった気もした。

しかし、昼まで寝ると、残りの時間の効率がものすごく低くなるのである。それは経験上分かっているが、過ぎてしまったものは仕方がない。何せ、体調が悪いという「言い訳」が自分を納得させてしまうのである。

居は気を映す、だったっけか。違った、居は気を移す、だった。部屋を片付けた。先週の土日が家の仕事を何もできなかったため、荒れに荒れていた。何故こうも、部屋は荒れていくのだろう。掃除機は毎日かけたいぐらいだ。
最近、ものが少しずつ増えてきている気がする。何年かおきに、一気に大量にモノを捨てるのだけれども、本当に、ほんとーにもっと最小限にしたいもの。しかし、最近、着るものが結構ぎりぎりの状態になっており、洗濯をさぼると下着も何もないということになっている。それが洗濯をさせる動機にもなるから、やはり、追いつめられると人は行動する、ということなのだろうか、何の話だ、所詮が家事の話しで大げさすぎる。

家事

しかしだ、会社での仕事は重要で、家事は重要ではない、というと、それは違うんじゃないかと思う人も少なくないのではなかろうか。
昔、男性が会社に行き、女性は家庭を守った(家事をした)。そんな時代は、とうに終わった、……のか?

ダメな思考というか、いわゆる自分で考えられない人は、そういった言説をすぐに信じる。
年収300万円だと結婚できないとか、そういうテレビなどの台詞をまにうける。

しかも、それが、いわゆる「一般常識」として、会話のネタになるもんだからたちが悪い。
ワイドショーとか、噂話とか、世論形成って本当に悪徳だなぁと感じるわけだけれど、じゃあ、お前が何か価値ある思想信条を皆に説けるのか、というと、いやぁ何もありません、となるので、もう、テレビとか新聞とかに流されるしかないのは仕方がない。

仕方がないのだけれども、ある種呪われた人は、それを信じることが中々できない。
もちろん、それは頭が悪いから、インプットが十分にできないという欠陥であることは一つ理由なのだけれども、「人の輪に入れない」というのは、社会という、組織という、人間社会という集団の中で生きるには、中々困難な能力不足であるのだ。

え、家事の話しじゃなかったっけ?
そう、部屋を片付けて、掃除をしたら、少し体調もよくなった気がした。
まずは、ちっぽけな自分の家ぐらい、しっかりと管理していきたいものだと、そう思ったというメモなのだけれども、何故いつもこう余計なことを書きつつ長くなってしまうのか。

その理由の一つに、何だか、昨日と今日とは、書くことにあまり、意欲を高められなかったのだ。

ネットサーフィン

何をしていたかというと、ネットサーフィンである。

最近、他の方のブログをよく読むようになったのだけれども、それにかこつけて、何だか全然趣旨が違う動画や画像や記事を読んだりしてしまっている。

これは、よくない、うん、よくない。

ということで、先日から、サイトの更新チェッカーを導入してみた。

DiffBrowser (ディフブラウザ)

http://www010.upp.so-net.ne.jp/suede/diffbrowser.html


詳しい説明は時間がもったいないから書かない。感想として、非常に便利だった。
自分のブラウザ、クロームとかIEとかのお気に入りなんて、いらないじゃん、とおもった。

全部これで管理すれば、余計なサイトに時間を使うことも減りそうな気がする。
(まぁ、その管理に時間を使うことが、そもそもどうかという問題はありそうだ)

お金のこと

ただ、その無益に思えるネットサーフィンも、一つ、「セミリタイア」という言葉を知ったことは、有益だったと思う。
いや、その意味はよく分からないのだけれども、僕の解釈では、早期退職、ということだ。

何も、60歳、65歳の定年まで働き続ける必要はないと、そういう風に考え、人生プランをしっかり練って、いやーな仕事に耐えつつ頑張る、というような記事、これも件のダメブログ界と同じようにたくさんあることが分かった。

いろんな人がいる、いろんな生き方がある、なるほどなぁ、と。


僕は取りあえず、生きるか、死ぬか、という次元から検討しているが、働くか、働かないか、みたいな選択を考えるのも、一つ現実方策としていい気がしてきた。

いやぁ、今すぐ自死するなら、取りあえず会社辞めて、退職金もらって(果たして、今辞めて退職金が出るのか、それすらも分かっていない。その辺り、生きることを徹底的に考えられていないボケナスである)、取りあえずお金が尽きるまで好きなことして、後は死ぬ、みたいな方法だってあるわけだ。
(いや、すぐさま思うのは、その「好きなこと」って何だ? というものなのだけれども、あくまで思考実験である)


ということで、先日、終身保険と個人年金保険にも入ったことだし、しばらく、お金の面からのプランを検討してみようかと思う。あ、今日はもう寝る。でないと、また、明日昼まで寝て、具合が悪くて……という悪循環である。しかし何故だ、こう、寝る時間になると色々思考が動き出す。朝は何故か、あまり考えたくない。これ、逆であるべきだと思うが、これって、何か理由があった気がする。思い出せない、まぁいいや。

経費と心的満足

とりまず、スーツ上下をクリーニングに出すと、750円ぐらいかかるということだ。
(いや別に、これまでクリーニングを使ったことがないとかではないが、あまり意識したことがなかった。毎月定常的にかかるインフラ代とかは何となく覚えているが、たまに使う経費に意識は薄いのだ。割引券やポイント使ったりしていると、なおさら通常料金がよく分からない。安いのか、高いのか)

例えば、最近コンビニのコーヒーをよく利用するけれども、自分でカフェラテ作れるし、それを代用したらどうなのか? とか考えてみる。
そもそも、コーヒー豆、いつもいくらぐらいで購入しているかよくおぼえていない。たしか、200g600円ぐらいだと思う。

200gで何杯つくれるのか? 調べてみる、ふむふむ、いっぱい約10gとのことだ。ということは、20杯つくれる。え、それしか作れないの? 意外だなぁ。

すると、一杯あたり、30円である。ほぅ、安い。コンビニのコーヒーは、ブラックは100円、カフェラテでも150円~200円である。

カフェラテを作るには、牛乳も必要だ。牛乳は1L200円ぐらい。大体、一杯に、150mlぐらい使うとすると、あー計算面倒だから、200ml使うとすると、5杯分、1杯40円だ。おお、コーヒーより牛乳が高い。

水代とか、コーヒーメーカーの電気代とか、牛乳の電子レンジでスチームドミルクにする電気代とかを除いて、単純に計算すると、

30円+40円で、70円となる。

ふむふむ、そうすると、150円のカフェラテを月に20日間買ったとすると、

80円×20日間で、月に1600円の節約になるということだ!



おお! 1600円!

……それが、高いか安いか、例えば、重い水筒をもって移動する手間と体力を考えて、どうなのだろうか。



実際、細かい計算をしてみないと、それが本当に得なのかどうなのか、分からない。

で、なんでもかんでもコスト意識、となると、当然1600円のコストダウンは「正解」となるわけだけれども、毎朝早めに起きてカフェラテを作る時間を考えたときに、その体力的影響はどうなのかとか、そういったことも鑑みる必要がある。

ライフプランとマネープラン

小見出し、いつも、結構無視しながら書いてしまうが、タイトルってのはやっぱり重要である。

生きる意味を徹底して考える。

考えるのは、思考も、当然であるけれども、
生活それ自体についても考える必要がある。

そして、やっぱり、ジンは美味しいと思うんだ。最近、ウィスキーとか、日本酒とかが流行っているようだけれども、ジンのあのジュニパーベリーの香りとすっきりとした飲み口は、他の酒では味わえない。

だが、タンカレー※、おめーはダメだ。

※ジンの銘柄の一つ。何だか独特な、薬臭い臭いと刺激が強すぎる味で、正直もう二度と飲まなくていいと思った。(一回食べたり飲んでみてダメでも、その時の気分とか、その店がよくなかったりする可能性があるので、僕は、最低3回ぐらいは試してみることにしている。だが、タンカレーは何度試してもやっぱりまずかった。好きな人ごめんなさい)


あれ、ライフ&マネープランの話しじゃなかったっけ? もう寝る時間である。また明日。





↑こっちはおいしい

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ゼロ秒思考メモとは
2016/11/04 08:12 | Comments(0) | イライラ対処
ヴィトゲンシュタインという哲学者さんが、自動筆記といった表現をされていて、あぁ、これって僕がログと言って普段書いていたことと同じなんじゃないか?

と思ったのが2008年以降のいずれかだった気もするけれども、その行為自体はもっと前からやっていた。

何故こんなことを書いておこうかと思ったかというと、昨日二つばかしリンクを追加したが、そのブログも品質が非常に高いのだ。

ひとつは、現代事象などを、自らの視点で、自らの言葉で、分かりやすい構成と文法で記述されている。

ひとつは、自分で調べたことを、独自の視点を踏まえ分かりやすくビジュアルも工夫して構成されている。




そして、もうひとつ、ある方が、分かりやすく文法まもって書かれた文章なんてみんな同じだよ、オリジナリティとか言って夢見てないで現実みろよ! と言っていて、これまた鋭い視点だな、と、いつもの上から目線的に思った。

上から目線



いやぁ、本当に、三つともすげーなぁ、って思ったのは事実なんだが、でも、それを実際表現するって難しいことだ。

素晴らしかったです! 見習いたいです!

なんか、違う。
だから僕は、感情を伝える文章と、事実を伝える文章と、二種類は違うベクトルを向いてると思う。

自慢ではないが、多分みるひとからすると自慢になるのだが、仕事上、いわゆるビジネス文書的なのを書くことは多いし、文章を取り扱うサイトを運営していることもあるから、文章の基本的な文法とか、分かりやすく伝える技術、例えば起承転結の構成を意識するとか、一文を短くするとか、接続詞や語尾を意識するとか、まぁ単純なことだけれども知識はあって、経験もある。


けれども、いってるそばから、上の文章はダメな例である。

そして、見出しが、上から目線となっていて、そもそも話がずれている、ダメダメだ。


思考メモ



だから、これまで、いやぁ、こんなこと、公開したって意味ないよな。グーグル先生の社会においては、価値ある情報だけが発信されるべきだな、そう思ってきた。

違うと、僕は、いまの僕は、言い切れる、と……思う、やっぱり断定まではいけない。

ただ、最近他の方の、いわゆるダメブログとかも読んでみて、そのなかである方が、

いいとししたおっさんどもが、ダメさを衆目にさらして寂しさをまぎらわしてるだけであり、未来ある若者に害悪の集団と判断されようが仕方がない


と仰っていて、うーむ、なるほどなぁ、と腕組みして考えさせられた。


で、これが、感情を伝える文章だ。

僕は最近、事実よりも、実感を優先してインプットしたいから、これらの文章は価値があると思う。

でも、てっとり早く何かの解決を願うひとの場合、誰か知らない人の、だらだらやたら長文の、思考の垂れ流しみたいなものは、それこそ害悪なのである。


まとめ



時間がないので、珍しくまとめをしてみよう。

文章には、事実を伝える文書と、感情を伝える文書の二種類がある。

僕は現時点後者を重要視している。

感情を伝えるには、敢えて思考を廃してアウトプットするのも有効である。

それを僕はゼロ秒思考メモと読んでいる。(あれ、これ、本当に自分で考えた言葉だっけ? 何だか最近引用して頂いたことがあり、そちらに引き寄せられてるだけ? そもそも、正確に言うなら、ゼロ思考メモじゃないか? 秒って何? 必要? ……正確な表現を考えるというのは、他者に伝えるに当たって大切なことだが、実に様々な想定をしていく必要があり、それは時に本当に書こうとしたこと、伝えようとしたことを蔑ろにする場合があり、注意が必要だ)

しかし、グーグル等SEO的には、前者が優先され後者は淘汰されるだろう。



うわー、中身薄いな。他の方々のブログに比べるとなんて矮小なんだ……

ただ、それは事実として、例えば、死んだらどうなるかとか考えたところで無駄であることはその通りだが、ポジティブ思考が正しいのは当たり前だが、日々の生活を大切にすることは前提だが、だがそれでも、だ。

僕は、もうこの数年のうちに、人生という物語の、エンディングのプロットを立てようと思っている。

ここ数年、とか言っちゃうところが、まだまだ子供であまちゃんなのだが、これは未来の自分への言葉でもある。


なんだろう、たいていの人がそうであろうと、僕はやっぱり、日々の生活が楽しきゃいいや、っという考えにはなれなかった、し、きっとこれからもそうな気がする。

いや、この表現、足りない、足りなすぎて、きっと誤解を与える、他者はもちろん、自分にとっても。そうじゃない、けれど、時間がない、この点は、今日の夜にでも考えたい、覚えていれば、だけれども。









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