直近三日間ぐらいの苛立ちが今日、最高潮に達した!
しかし、帰ってきたぞ、俺は、帰ってきたぁ! 帰り、いつもvolume10ぐらいのWALKMANからカナル型イヤホンを伝って流れる音楽を、倍のvolume20ぐらいに爆音にして、ユーロビートとかハードロックを流してきた。
周囲の音が一切聞こえなくなって危ないことこの上ないが、この方法、初めて試したけれども、もうどうしようもなく心がざわついているときは、有効な手段な気がした。耳の鼓膜へのダメージはプライスレスだ。
そんな狂ったテンションのまま風呂に入って、ルーチンをこなす。うん、だんだん、少しずつ落ち着いてきた。しかし、何か、何もする気が起きない。……酒だ、酒をもってこい! こんなときは、キンキンに冷やしたグラスに、大きなロックアイスを転がし、ビーフィーター24を注ぎ、グレープフルーツジュースを入れ、最近購入した金属製のちょっとカッコいいマドラー(100均だけどな!)でステア。そして飲む。うん、美味い。落ち着いてきた。
ログ、ローカルな日記を掘り起こす。こういうとき、探してみるのは、同じ月の何年か前の日記。2004年までさかのぼった。
いやぁ、いいこと書いてるじゃないか。え、そうでもない? そうかもしれない。でも、少なくても、10年後の俺は、過去の君の記事が、面白いと思ったよ。
(――なんて、書き方まで似てきた気がする!)
うん、これ、同じようなことが、つい最近も頭をよぎっていた気がするけれど、一週間前に書いた記事と、やっぱり10年前に書いた記事では、重みが違うよ。その重みってのは、書いた瞬間の心の傾けようという意味ではなく、今の自分に跳ね返ってくるずしりとした重み。
それでいて、一応成果をだしているという、結果もあるから、本当に頭が下がるもんだ。
今の俺はどうや? なんかやってるのか? がんばっとっか?
その成果というのが、だいぶ、疲れ果てる原因でもある、というのは、結局、赤門の東京大学ぐらいじゃないと、「頑張ったね」とはならない、という事実。比較してもきりがないのだけれど、自分として頑張ったとしても、ああ、その程度なのね、的な。この感覚、伝わるだろうか、はっきりいって、これ、中卒だろうが何だろうが、このループにかかると、「成果」すべてが無価値になってくる。
小説書いて、アクセス44人ぐらいあって、うれしーな、とか書いている。
この今のブログのアクセス数から考えると、いや確かにすごいんだろうけど、その数字のしょぼさ、ってのは、もう明らかである。いかに、過去はネット利用者も少なかったとか、そんな説明をいくらしようとも、過去の武勇伝なんて、誰もすごいとは思わない。
この流れの記載が、その証左であろう。
「楽しいことする、やりたいことする、それが人生でしょ」
「うん、そりゃあ分かってんだけど、何だかやりたいことが見つからないんだよね……」
「そんなわけないじゃん! 人間、必ず欲求ってのがあるんだよ!」
と、そんな脳内会話だったのだろう。
というか、ほんと、笑っちゃうぐらい、寂しい人間だなぁ。このブログ記事は、いま一応公開してるけれど、上の引用記事って、ほんと、どこにも公開する気も、そんなこと思ってもいなかったわけだ。よくまぁ、飽きずに、ホント書き続けていたもんだ。
いやぁ、その大会、いったい何を基準に審査するんだろうな。
書いた文量?
経験年数?
それとも、1時間以内とか、決められた時間にどんだけ面白い文章書けるか、とか?
最初に決めたテーマから、関連性は損なわさずに、どれだけ全く関係ない思考に展開できるか、とか。
惨めさとか可哀そうさをどれだけ醸せるかとか。
――ものすごーく、生産性ない大会だなぁ(かっこわらい)。
とにかく、もう苛々して仕方がないときとか、何もやる気が起きなくて、でも眠くもないようなときは、
・無心でルーチンをする
・爆音で音楽を聴く
・過去ログをあさってみる
・くだらないとか気にしないで書き続ける
と、対応してみるのは如何かと、提案しておこう。
いやでもさっきまで、本当に、イラついていたんだ。
過去中学か、高校かぐらいに、「おめーマジ使えねーから消えろよ」と言われたのに匹敵するほどムカついてい……いや、うーん、それらと比べると、全然大したことない気もするな。
このやり方、あんまり好きじゃないんだけどなぁ。いわゆる、他者とか、過去とかと比較して、「ああ、今って結構マシじゃね?」的に慰めるという方法。有効なのは分かるんだけど、何というか、好きじゃないんだよな。何か、「真理的」じゃない。うまく表現できないが、よい方法とは思えない。
じゃあ、爆音で音楽ながして耳を悪くするのがいい方法なのか、と言われると、それは違う気もするのだけれど……。
でも、この、比較思考は、常に自分より下の人間を探し続けるとか、逆に、常に自分より上の人を妬み続けるとか、落ちぶれていく原因だと思うのだ。
ようは、バランスよく使ってみましょう、という、くだらない結論でしかないのだけれど、できるだけ使いたくないと思うわけだ。
……しかし、落ち着いたはいいが、やっぱり、10年前に思った通り、何だか、何をやりたいか、やっぱりよく分からない。
しかし、帰ってきたぞ、俺は、帰ってきたぁ! 帰り、いつもvolume10ぐらいのWALKMANからカナル型イヤホンを伝って流れる音楽を、倍のvolume20ぐらいに爆音にして、ユーロビートとかハードロックを流してきた。
周囲の音が一切聞こえなくなって危ないことこの上ないが、この方法、初めて試したけれども、もうどうしようもなく心がざわついているときは、有効な手段な気がした。耳の鼓膜へのダメージはプライスレスだ。
そんな狂ったテンションのまま風呂に入って、ルーチンをこなす。うん、だんだん、少しずつ落ち着いてきた。しかし、何か、何もする気が起きない。……酒だ、酒をもってこい! こんなときは、キンキンに冷やしたグラスに、大きなロックアイスを転がし、ビーフィーター24を注ぎ、グレープフルーツジュースを入れ、最近購入した金属製のちょっとカッコいいマドラー(100均だけどな!)でステア。そして飲む。うん、美味い。落ち着いてきた。
ログ、ローカルな日記を掘り起こす。こういうとき、探してみるのは、同じ月の何年か前の日記。2004年までさかのぼった。
やっぱり楽しいことをしなくちゃ!人生、たった一度の人生、誰のものでもない。ボクだけの人生。幸い、ルックスも、運動能力、頭の回転だって悪いけれど、僕にはこの、“思考”がある。なんだって可能にする思考が。勉強とは、頭を鍛えることだ。大学に行くために勉強しているんじゃない。自分が一番したいことをする。これこそ生きる意味ではないだろうか。それがないから困っているんだって? そんなはずはないよ。人間には、必ず、生まれつき、“欲望”という能力が備わっているんだから。生まれたとき“オギャー”って泣いたでしょ?おっぱい飲みたいって思ったでしょ?
生きたいって思ったでしょ?それが人間だ。 これはみーんな同じ。人間の成長とは、欲望の変質の過程といえるのかもしれない。食べたい、寝たい、排泄したいというだけの欲望から、次第に認められたい、愛されたいというものに変わっていくのだ。
感情はないけどやっぱり自分
10年以上前に書いた記事に、ちょっと勝てないと思ったよ。いやぁ、いいこと書いてるじゃないか。え、そうでもない? そうかもしれない。でも、少なくても、10年後の俺は、過去の君の記事が、面白いと思ったよ。
(――なんて、書き方まで似てきた気がする!)
うん、これ、同じようなことが、つい最近も頭をよぎっていた気がするけれど、一週間前に書いた記事と、やっぱり10年前に書いた記事では、重みが違うよ。その重みってのは、書いた瞬間の心の傾けようという意味ではなく、今の自分に跳ね返ってくるずしりとした重み。
それでいて、一応成果をだしているという、結果もあるから、本当に頭が下がるもんだ。
今の俺はどうや? なんかやってるのか? がんばっとっか?
その成果というのが、だいぶ、疲れ果てる原因でもある、というのは、結局、赤門の東京大学ぐらいじゃないと、「頑張ったね」とはならない、という事実。比較してもきりがないのだけれど、自分として頑張ったとしても、ああ、その程度なのね、的な。この感覚、伝わるだろうか、はっきりいって、これ、中卒だろうが何だろうが、このループにかかると、「成果」すべてが無価値になってくる。
小説書いて、アクセス44人ぐらいあって、うれしーな、とか書いている。
この今のブログのアクセス数から考えると、いや確かにすごいんだろうけど、その数字のしょぼさ、ってのは、もう明らかである。いかに、過去はネット利用者も少なかったとか、そんな説明をいくらしようとも、過去の武勇伝なんて、誰もすごいとは思わない。
頑張ることへの心労
と、さも、今考えましたーといったように書いているけれど、恐らく、いや、過去記事読んでいた確信したけど、こいつ、絶対同じこと考えてた、思ってたと思う。>自分が一番したいことをする。
>これこそ生きる意味ではないだろうか。
>これこそ生きる意味ではないだろうか。
>それがないから困っているんだって?
>そんなはずはないよ。人間には、必ず、生まれつき、“欲望”という能力が備わっているんだから。
>そんなはずはないよ。人間には、必ず、生まれつき、“欲望”という能力が備わっているんだから。
この流れの記載が、その証左であろう。
「楽しいことする、やりたいことする、それが人生でしょ」
「うん、そりゃあ分かってんだけど、何だかやりたいことが見つからないんだよね……」
「そんなわけないじゃん! 人間、必ず欲求ってのがあるんだよ!」
と、そんな脳内会話だったのだろう。
というか、ほんと、笑っちゃうぐらい、寂しい人間だなぁ。このブログ記事は、いま一応公開してるけれど、上の引用記事って、ほんと、どこにも公開する気も、そんなこと思ってもいなかったわけだ。よくまぁ、飽きずに、ホント書き続けていたもんだ。
駄文選手権
うん、何だか、全く自慢にならないけれども、先日書いた、「俺、くだらないことなら永遠にずっと書き続けてられるよ」ってのは、あながち嘘じゃなさそうだ。何やっても一位になれない中途半端な人間だけれども、何だか駄文選手権でもあったら、全国大会とか世界大会に出場してもいいせんいくんじゃなかろうか(かっこわらい)。いやぁ、その大会、いったい何を基準に審査するんだろうな。
書いた文量?
経験年数?
それとも、1時間以内とか、決められた時間にどんだけ面白い文章書けるか、とか?
最初に決めたテーマから、関連性は損なわさずに、どれだけ全く関係ない思考に展開できるか、とか。
惨めさとか可哀そうさをどれだけ醸せるかとか。
――ものすごーく、生産性ない大会だなぁ(かっこわらい)。
でも落ち着いた
まぁ、この、記事の中身自体に一切意味はなくとも、一つ事実として実感として書けるのは、今、ようやく落ち着いたよ、ということだ。(酒のおかけじゃね? いや、違う、やっぱり、こうぐだぐだ書いたことによる効能と思う)とにかく、もう苛々して仕方がないときとか、何もやる気が起きなくて、でも眠くもないようなときは、
・無心でルーチンをする
・爆音で音楽を聴く
・過去ログをあさってみる
・くだらないとか気にしないで書き続ける
と、対応してみるのは如何かと、提案しておこう。
いやでもさっきまで、本当に、イラついていたんだ。
過去中学か、高校かぐらいに、「おめーマジ使えねーから消えろよ」と言われたのに匹敵するほどムカついてい……いや、うーん、それらと比べると、全然大したことない気もするな。
このやり方、あんまり好きじゃないんだけどなぁ。いわゆる、他者とか、過去とかと比較して、「ああ、今って結構マシじゃね?」的に慰めるという方法。有効なのは分かるんだけど、何というか、好きじゃないんだよな。何か、「真理的」じゃない。うまく表現できないが、よい方法とは思えない。
じゃあ、爆音で音楽ながして耳を悪くするのがいい方法なのか、と言われると、それは違う気もするのだけれど……。
でも、この、比較思考は、常に自分より下の人間を探し続けるとか、逆に、常に自分より上の人を妬み続けるとか、落ちぶれていく原因だと思うのだ。
ようは、バランスよく使ってみましょう、という、くだらない結論でしかないのだけれど、できるだけ使いたくないと思うわけだ。
……しかし、落ち着いたはいいが、やっぱり、10年前に思った通り、何だか、何をやりたいか、やっぱりよく分からない。
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逆算の思考とは、ある目的を達成した瞬間から遡って考えることである。
このブログの目的、生きる意味を見つけた、その瞬間をイメージする。
その意味は、揺らぎなく、確定していて、暖かく、希望そのものであり、信念となるものであり、すべての行為の準拠点であり、喜ばしいものであり、永遠性があり、到達点である。
僕は、傷つき、涙し、悩み苦しみ、怒り、憎しみ、時に倒れ、諦めそうになり、それでも立ち上がり、そこに到達した。
いま僕は、最高の状態であり、これからもずっとそうあり続けるのである。
ここに僕は、至上の最大の深遠なる意味を得たのだ!
世界は輝いて見え、行き交う人への惜しみ無く止めない感謝が溢れ、呼吸の瞬間、朝目が覚めたこと、心地よい眠気、他者の語る言葉はまるで素敵か心踊る音楽のようで、沸き立ち希望に溢れ、何にでも興味が湧き、楽しく、今生きているこのこと自体が最高のものだと信じ感じる。
ああ素晴らしきかな!
ついに、僕はたどり着いたのだ!!
世界は、こんなにも美しく素晴らしいものだったのだ!
二人以上の人の会話があったとき、それは言語によるルールが、暗黙の規定が発生するというのが、ヴィトゲンシュタインさんの言語ゲームの考え方であり、
それを応用して、ある宗教学者さんが、仏教の悟りというのは、それは悟りゲームなのだ、と言っていた。
仏陀により示された悟りの境地、しかし、そのサンガに加わる修行者たちは、その悟りというのを知らないのである。
悟りは分からない。
しかし、悟りというのは素晴らしいものであるとして、厳しい修行を投げ出さず、励むのである。
まだ到達していない真理に到達する、知るというのは、この悟りゲームのように、一見すると不毛のようで、一度そのゲームに組み込まれたものたちにしたら、それは絶対的なルールになるのである。
僕が冒頭試みた、逆算思考は、このゲームから抜け出すための唯一の方法かもしれない。
最高の状態。
真理とかいった言葉。
よくスピリチュアル系のブログにおいて散見されるものだけれども、これが多いほどに僕のイライラというか、虚しさというか、つまらなさ、胡散臭さというのが飛躍的に上昇する。
僕が単に、駄文をいつまでも書き続けられる能力があるから、そう思うだけかもしれないが、とにかく、真理とか最高とか幸せとかそういった言葉を使いたくなるのは、思考停止だ、と思う。
仏陀さんは、もうその存在が神がかっていて、悪意ある人の問いかけにも即座に臨機応変に答え続ける力があったから、ああ、この人は本当に悟りという状態にあるのだ、と、誰しも信じさせることができたのだろう。
対機説法という、その相手に合わせて分かりやすい例えを用いて説明するというやり方の徹底こそ、その人の信頼性に繋がるのだと思う。
だから、とにかく私を信じなさい! 神を信じなさい! そうしたら楽園に行けるのですよ! というのは、思考停止で、興味をもてないのだ。
思考停止、というのは、何だかかっこいい表現っぽいが、これもまた危険な言葉なのだと、書いておいた方がいいかもしれない。
例えば、うえで書いてきた流れからすると、英語の勉強すればグローバル社会でも活躍できるよ、という標語があったときに、それもとにかく否定し続けるのだ。英語は、文法とか語彙力じゃあない、何を話すか、の方がずっと重要だよ、とか。
資本主義は社会主義にまさる、といったって、南北経済格差とか過労死とか色々問題起こってるじゃあないか、とか。
確かに、思考停止は危険なのだけれども、それは逆に、なにもかも否定し始める、懐疑主義に突如変貌することがあるのだ。
僕は結構、いまでも、これの呪縛から逃れられていない気がするものの、昔はもっとその強制力はきついものだった。
どうやってそれから逃れたかというと、いやまぁいまでも完全に逃れられてはいないけれど、とにかく、その懐疑とは、反転して、その懐疑自体がまさに真実実感として生まれ生じているではないか、という考え方である。
懐疑主義という、そのあり方に、名前を与えてあげたのだ。
固有名詞を帯びると、それはひとつの概念となる。
その止めどない思考や表現のうずにおいては、どこまでいっても、それは現象であり、行為の一つにすぎず、終わらない旅、無限ループになる。
それを、概念かできれば、抽象化できれば、ひとつの存在として規定できれば、表現によって、到達点がみえてくるのである。
以上により、僕は例え周囲にとって意味がなかろうが、他のサラリーマンブログのように小遣い稼ぎの意味がなかろうが、拍手やコメントがなかろうが、
思考に、意味を与えるために、書き続けなければいけないのだ。それが無限ループだったり、トートロジーになっていると思わない限り、その行為自体に名前を、概念を与えることができるまで、繰り返しインプットし、アウトプットしていく必要があるのだ、
と、昨日書こうと思っていたら、拍手もコメントまで頂けた。
本当によい人たちに恵まれたなぁ幸せだなぁ嬉しいなぁ、と冒頭に戻る。
風邪の具合はよくなく、今日もまた、なかなか上手くいかない可能性、問題が待ち構えているけれど、精神的にはきっとなんとか乗り越えられそうである。
人はやはり、こうやって、支えられて生きているのだな。素晴らしきかな。
しかしだ、この、人にたいしての希望と絶望というものも、また今度メモしておきたいけれども、というのは、さわりだけ書けば、物理時間の共有性をどう対処するか。
それにしても昨日の記事は長かった。もう少ししたら一万字に到達しそうだった。
毎日一万字書けたら、作家としてたいしたものだと、小説家を目指す何方かが、仰っていた。
それはいいのだが、まぁ、一時間程度は、お酒を飲みながら、他のことをしながらもかかっているのだ。
まぁ、その半分の30分でもいい。
その時間をだ、物理環境を共有する、例えば、ルームシェアの親友でも、恋人嫁でもいいが、毎日毎日話していたら、それどうなんだということである。
口頭で愚痴っちゃうと、すぐ消えてしまう。
第一の問題がこれで、話すことで一時的な感情は抑えられるかもしれないが、残らないから、読み返すことができない。
もうひとつは、口頭言語の限界性で、昨日のものも、今日の記事も、口頭ベースの筆記ではあるけれど、例えば昨日の記事を音声にしたとき、どれほど伝わるかってこと。
先日ついぞ思い出せなかったが、メラビアンの法則、言語以外の情報も大事な要素だよ、というのも関係するから、疲れてイライラした顔をしていたら、ますます話の中身が伝わらないだろう。
さらに、もうひとつはタイミング性。
対面コミュニケーションは、相手の時間を、言葉は悪いけど、奪う。
文章、メールとかは、いってしまえば、相手のペースで読むという行為をしてもらえる。というのは、自分の伝えたい情報も発信していながら、読むという行為は相手が主体なのだから、相手としては、自分がしている、という感覚を保持できるのだ。これを、自己コントロール感という。
となると、家に帰ったら温かい家庭が、というのは、中々よくよく考える必要がある。
家に帰って、いらいらを持ち帰って、愚痴をいうのは得策ではないということだ。
子供の寝顔をみて癒されるのでもいい、綺麗なお嫁さんの日常会話を聞いて和むのでもいい、その家庭自体がマイナス感情のリセットの場であるべきであり、決して、感情の発露の場であってはならないのだ。
にもかかわらず、家庭内暴力とか、まぁそんな問題はあるのだけれども、全く、、悲しいことである。
ゆえにだ、もし、家庭を望むとしても、このような記事は、どこかしら価値が残るのではないか、とすら思うのである。
例えば、ダメブログ界のエキスパートたちは、その多くがオフ会などでも面識があるという。しかし、これは完全邪推だけれども、多分、そのブログにおいては日々の口のようなものを書き連ねたとしても、実際対面であったときまで、愚痴の言い合い合戦みたいなことにはならないのではないか。
もっとふつーに、散歩楽しんだり、お酒のんで笑ったり、相互行為としてのコミュニケーションを楽しむのではないだろうか。
だから、ぼくのこの記事群からすると、なんとも随分愚痴愚痴して話が長いやつだと思われるだろうが、あまりこういったことを話すことはないのである。
逆に、これも試してみなければ分からないという発そうより、機会をみつけては、こういった思考や価値観や信念といった話を織りまぜてみようとはしているが、
なんとも悲しいかな、そんなことに付き合ってくれる人はいないのである。
(たまに会った友人とかはいたとしてもだ、繰り返しになるが、こんな話に毎日付き合ってくれる人がどこにいる? 物理的に無理だ。専業主婦の奥さんだって願い下げだろう)
だから。
ほんとに書きたかったことだけど、僕はなんか、ほんと、一般的には、普通の考えの人たちからは、気持ち悪いとか言われちゃうけれど、
物理世界の人たちより、毎日のようにこのブログを開いてくれて、わざわざもうワンクリックして読みましたボタン押してくれる方々を、本当に嬉しく、大切に思うのである。
すぐさま書いておくべきは、あぁ、もう時間がないけど、
すぐ、批判されるのは、いくらネット上で素晴らしい人にあえても、やっぱり現実世界を生きていることには変わらないから、いざ君が病気になったり問題を抱えたとき、そのネットの人たちは助けてくれるのか?
とか、そんな批判がとんでくる。
だが、病気なったら医者にいくだろ?
素人の友人が助けてくれるか? 不法医療行為じゃね? とか、そんなくだらないことはともかく、なんというかな、その、金があれば大抵解決する時代になっちゃってるよね、とか、それもちょっと暴言だし、
そもそも、別に物理環境の方々全部無価値とか、そんなこといってるわけじゃなくて、そりゃもちろん、多くの人に支えられて生きてるわけだけど、
なんというのかな、きっと、足りてないな、伝わらないな、いや、伝えてどうする、違う、この伝えるというのは、恐らく、明日の僕にたいして、伝わるかどうかということだろう。
もう現時点性として書き続けられないから、この記事で書ききれなかったことを、紡いでほしいと、そうした願いなのだろう。
このブログの目的、生きる意味を見つけた、その瞬間をイメージする。
その意味は、揺らぎなく、確定していて、暖かく、希望そのものであり、信念となるものであり、すべての行為の準拠点であり、喜ばしいものであり、永遠性があり、到達点である。
僕は、傷つき、涙し、悩み苦しみ、怒り、憎しみ、時に倒れ、諦めそうになり、それでも立ち上がり、そこに到達した。
いま僕は、最高の状態であり、これからもずっとそうあり続けるのである。
ここに僕は、至上の最大の深遠なる意味を得たのだ!
世界は輝いて見え、行き交う人への惜しみ無く止めない感謝が溢れ、呼吸の瞬間、朝目が覚めたこと、心地よい眠気、他者の語る言葉はまるで素敵か心踊る音楽のようで、沸き立ち希望に溢れ、何にでも興味が湧き、楽しく、今生きているこのこと自体が最高のものだと信じ感じる。
ああ素晴らしきかな!
ついに、僕はたどり着いたのだ!!
世界は、こんなにも美しく素晴らしいものだったのだ!
悟りゲーム
二人以上の人の会話があったとき、それは言語によるルールが、暗黙の規定が発生するというのが、ヴィトゲンシュタインさんの言語ゲームの考え方であり、
それを応用して、ある宗教学者さんが、仏教の悟りというのは、それは悟りゲームなのだ、と言っていた。
仏陀により示された悟りの境地、しかし、そのサンガに加わる修行者たちは、その悟りというのを知らないのである。
悟りは分からない。
しかし、悟りというのは素晴らしいものであるとして、厳しい修行を投げ出さず、励むのである。
まだ到達していない真理に到達する、知るというのは、この悟りゲームのように、一見すると不毛のようで、一度そのゲームに組み込まれたものたちにしたら、それは絶対的なルールになるのである。
僕が冒頭試みた、逆算思考は、このゲームから抜け出すための唯一の方法かもしれない。
最高の状態。
真理とかいった言葉。
よくスピリチュアル系のブログにおいて散見されるものだけれども、これが多いほどに僕のイライラというか、虚しさというか、つまらなさ、胡散臭さというのが飛躍的に上昇する。
僕が単に、駄文をいつまでも書き続けられる能力があるから、そう思うだけかもしれないが、とにかく、真理とか最高とか幸せとかそういった言葉を使いたくなるのは、思考停止だ、と思う。
仏陀さんは、もうその存在が神がかっていて、悪意ある人の問いかけにも即座に臨機応変に答え続ける力があったから、ああ、この人は本当に悟りという状態にあるのだ、と、誰しも信じさせることができたのだろう。
対機説法という、その相手に合わせて分かりやすい例えを用いて説明するというやり方の徹底こそ、その人の信頼性に繋がるのだと思う。
だから、とにかく私を信じなさい! 神を信じなさい! そうしたら楽園に行けるのですよ! というのは、思考停止で、興味をもてないのだ。
懐疑主義との対抗
思考停止、というのは、何だかかっこいい表現っぽいが、これもまた危険な言葉なのだと、書いておいた方がいいかもしれない。
例えば、うえで書いてきた流れからすると、英語の勉強すればグローバル社会でも活躍できるよ、という標語があったときに、それもとにかく否定し続けるのだ。英語は、文法とか語彙力じゃあない、何を話すか、の方がずっと重要だよ、とか。
資本主義は社会主義にまさる、といったって、南北経済格差とか過労死とか色々問題起こってるじゃあないか、とか。
確かに、思考停止は危険なのだけれども、それは逆に、なにもかも否定し始める、懐疑主義に突如変貌することがあるのだ。
僕は結構、いまでも、これの呪縛から逃れられていない気がするものの、昔はもっとその強制力はきついものだった。
呪いの解除
どうやってそれから逃れたかというと、いやまぁいまでも完全に逃れられてはいないけれど、とにかく、その懐疑とは、反転して、その懐疑自体がまさに真実実感として生まれ生じているではないか、という考え方である。
懐疑主義という、そのあり方に、名前を与えてあげたのだ。
固有名詞を帯びると、それはひとつの概念となる。
その止めどない思考や表現のうずにおいては、どこまでいっても、それは現象であり、行為の一つにすぎず、終わらない旅、無限ループになる。
それを、概念かできれば、抽象化できれば、ひとつの存在として規定できれば、表現によって、到達点がみえてくるのである。
コメントなどの感謝
以上により、僕は例え周囲にとって意味がなかろうが、他のサラリーマンブログのように小遣い稼ぎの意味がなかろうが、拍手やコメントがなかろうが、
思考に、意味を与えるために、書き続けなければいけないのだ。それが無限ループだったり、トートロジーになっていると思わない限り、その行為自体に名前を、概念を与えることができるまで、繰り返しインプットし、アウトプットしていく必要があるのだ、
と、昨日書こうと思っていたら、拍手もコメントまで頂けた。
本当によい人たちに恵まれたなぁ幸せだなぁ嬉しいなぁ、と冒頭に戻る。
風邪の具合はよくなく、今日もまた、なかなか上手くいかない可能性、問題が待ち構えているけれど、精神的にはきっとなんとか乗り越えられそうである。
人はやはり、こうやって、支えられて生きているのだな。素晴らしきかな。
しかしだ、この、人にたいしての希望と絶望というものも、また今度メモしておきたいけれども、というのは、さわりだけ書けば、物理時間の共有性をどう対処するか。
温かい家庭
それにしても昨日の記事は長かった。もう少ししたら一万字に到達しそうだった。
毎日一万字書けたら、作家としてたいしたものだと、小説家を目指す何方かが、仰っていた。
それはいいのだが、まぁ、一時間程度は、お酒を飲みながら、他のことをしながらもかかっているのだ。
まぁ、その半分の30分でもいい。
その時間をだ、物理環境を共有する、例えば、ルームシェアの親友でも、恋人嫁でもいいが、毎日毎日話していたら、それどうなんだということである。
口頭で愚痴っちゃうと、すぐ消えてしまう。
第一の問題がこれで、話すことで一時的な感情は抑えられるかもしれないが、残らないから、読み返すことができない。
もうひとつは、口頭言語の限界性で、昨日のものも、今日の記事も、口頭ベースの筆記ではあるけれど、例えば昨日の記事を音声にしたとき、どれほど伝わるかってこと。
先日ついぞ思い出せなかったが、メラビアンの法則、言語以外の情報も大事な要素だよ、というのも関係するから、疲れてイライラした顔をしていたら、ますます話の中身が伝わらないだろう。
さらに、もうひとつはタイミング性。
対面コミュニケーションは、相手の時間を、言葉は悪いけど、奪う。
文章、メールとかは、いってしまえば、相手のペースで読むという行為をしてもらえる。というのは、自分の伝えたい情報も発信していながら、読むという行為は相手が主体なのだから、相手としては、自分がしている、という感覚を保持できるのだ。これを、自己コントロール感という。
となると、家に帰ったら温かい家庭が、というのは、中々よくよく考える必要がある。
思考との決別
家に帰って、いらいらを持ち帰って、愚痴をいうのは得策ではないということだ。
子供の寝顔をみて癒されるのでもいい、綺麗なお嫁さんの日常会話を聞いて和むのでもいい、その家庭自体がマイナス感情のリセットの場であるべきであり、決して、感情の発露の場であってはならないのだ。
にもかかわらず、家庭内暴力とか、まぁそんな問題はあるのだけれども、全く、、悲しいことである。
ゆえにだ、もし、家庭を望むとしても、このような記事は、どこかしら価値が残るのではないか、とすら思うのである。
例えば、ダメブログ界のエキスパートたちは、その多くがオフ会などでも面識があるという。しかし、これは完全邪推だけれども、多分、そのブログにおいては日々の口のようなものを書き連ねたとしても、実際対面であったときまで、愚痴の言い合い合戦みたいなことにはならないのではないか。
もっとふつーに、散歩楽しんだり、お酒のんで笑ったり、相互行為としてのコミュニケーションを楽しむのではないだろうか。
だから、ぼくのこの記事群からすると、なんとも随分愚痴愚痴して話が長いやつだと思われるだろうが、あまりこういったことを話すことはないのである。
逆に、これも試してみなければ分からないという発そうより、機会をみつけては、こういった思考や価値観や信念といった話を織りまぜてみようとはしているが、
なんとも悲しいかな、そんなことに付き合ってくれる人はいないのである。
(たまに会った友人とかはいたとしてもだ、繰り返しになるが、こんな話に毎日付き合ってくれる人がどこにいる? 物理的に無理だ。専業主婦の奥さんだって願い下げだろう)
だから。
ほんとに書きたかったことだけど、僕はなんか、ほんと、一般的には、普通の考えの人たちからは、気持ち悪いとか言われちゃうけれど、
物理世界の人たちより、毎日のようにこのブログを開いてくれて、わざわざもうワンクリックして読みましたボタン押してくれる方々を、本当に嬉しく、大切に思うのである。
すぐさま書いておくべきは、あぁ、もう時間がないけど、
すぐ、批判されるのは、いくらネット上で素晴らしい人にあえても、やっぱり現実世界を生きていることには変わらないから、いざ君が病気になったり問題を抱えたとき、そのネットの人たちは助けてくれるのか?
とか、そんな批判がとんでくる。
だが、病気なったら医者にいくだろ?
素人の友人が助けてくれるか? 不法医療行為じゃね? とか、そんなくだらないことはともかく、なんというかな、その、金があれば大抵解決する時代になっちゃってるよね、とか、それもちょっと暴言だし、
そもそも、別に物理環境の方々全部無価値とか、そんなこといってるわけじゃなくて、そりゃもちろん、多くの人に支えられて生きてるわけだけど、
なんというのかな、きっと、足りてないな、伝わらないな、いや、伝えてどうする、違う、この伝えるというのは、恐らく、明日の僕にたいして、伝わるかどうかということだろう。
もう現時点性として書き続けられないから、この記事で書ききれなかったことを、紡いでほしいと、そうした願いなのだろう。
最近ルーチンの、筋トレストレッチ音読のことをあまり書いていないが、続けられている。
そして、一年前の記事とか読んでいると、やっぱり、ちょうど「ルーチン再開するぜ!」とか書いてある。その時は、英文の音読と単純計算練習だった。歴史は繰り返す。
それにしても、短い映画感想の記事が多く、過去の記事から遡っていると、中身のなさにイライラさせられる。何だろう、映画の分析とか、そんなの別に興味はない、それをみてどう思ったか、どうしようと思ったか、その感情を書き残しておいて頂かなければ、わざわざクリックして開いた労力に見合わない。ということで、20~30ぐらい削除したりしたけれども、まだまだ沢山あって、途中で放棄した。
ので、「思考の垂れ流しだって未来の自分には役に立つかもよ~♪」なんて甘っちょろい考えは、捨てよう。メモはメモでいいのだけれど、それは、感情レベルで想起可能な内容を書き残しておくべきであって、それができないのであれば、そもそも投稿ボタンを押すべきではない。
これは、文章の長いか短いか、ではないけれども、短いとやっぱり価値は薄い……いや、他の方のブログは短いながら非常にウィットに富んでいて、面白く楽しませてくれるのだけれども、基本的に僕が書く記事は、短ければ短いほど価値が薄い気がする。
ある方からコメント頂いて、「よくまぁ毎日こんな長文書けるねぇ」と言って頂いたが、(まぁそれが皮肉なのかどうなのかと、一応同時思考的には生じるけれども、結論的には嬉しい感情に収まった)逆に、短いと意味が希薄なのである。
例えば、上のことだけで終わってしまうと、数日後にこの記事を開いた僕は、イラっとするわけである。
昨日もだけれど、今日もかなり苛々しながらの帰宅であった。何だろ、中々人の心は難しいね、じゃなくて、思い通りに事が運ぶってのは難しいなぁと、今、落ち着いてみるとそんな達観した、他人ごとな感情だけれども、いざ渦中にいると結構面倒なものである。
これまでの経験上、このさかだった気持ちを抑えてくれるのは、ゲームとかテレビとか、ぼけーっと頭を使わないような行為であった。
しかし、イライラしようが、疲れていようが、おなかが痛かろうが、眠かろうが、とにかく、筋トレストレッチ音読はする! と強い気持ちで、それを実行すると、何だか少し落ち着くのだということが、昨日と今日とで分かった。
ひたすら筋トレと、ポジティブ思考を説くブログとか、何だか、某有名テニスプレーヤーの「頑張れ頑張れがんばれ! お前ならできる! 絶対できる! 諦めるな! 頑張れ! できるできるできる! 頑張れ!!」という、熱いエール、応援のようで、うぜぇ……って気持ちになるわけだけれども、まぁ、言ってることとかやってることは、間違いじゃあないと思う。
これも他のある方の記事で読んだけれども、「自殺するくらいなら筋肉を殺せ!」というのも、生きる方策の一つであるだろう。
と、そういうのは認めておいて、やっぱり、タイミングは重要で、ほんとに落ち込んでるときにそのような熱い気持ちは、その人の絶望を、むしろ深めてしまう可能性についても考慮しなければならない……と書いておきながら、いや結局、そんなタイミングなんて、他人のことを100%完全理解などできないのだから、気にしていては何も始まらない。
悩んで何もしないぐらいなら、何かやって失敗した方がまし。という諺のようなものだ。
いやそれもまた、その失敗が取り返しのつかないものだったり、その失敗が人生のかなり深いところでトラウマ的な傷になって、一生引きずっていかざるえなくなってしまったりと、それもまたタイミングである。
そこから導き出されることは何か?
というタイトルにするまで、結構悩んだものだった。
いや、考えてどうすんだよ、という感情。
この感情は、どう考えても、否定できるものではない。
いや、すぐにね、例えば、
「戦略の失敗は戦術でカバーできるものではないし、戦術の失敗は戦闘でカバーできるものではないのだ」
という、目的や目標、全体をとらえることや深い思考の重要性を説く言説、諺、諧謔、標語、モットーなど、探せばたくさん見つけることはできる。
むしろ、大きな考え方、それを他の表現で、「信念」とか表現してもいいけれども、その信念があるから、現実の個々の事象、日常の判断のスピードを高速にすることができ、それが仕事の能率や達成率に影響するのだ、ということも言える。
だから、思考自体が無駄、というよりも、大きな思考は重要であり、普段、うだうだ、あー仕事めんどーだなーとか、あいつむかつくよなーとか、今日のお昼は何たべよっかなーとか、そんなことに時間使ってるのはもったいないということなのである。
結論:考えることは無駄じゃない。しかし、日常個々の事象に対する思考は無駄である。
しかし、そんなカッコつけるまでもなく、単純に、僕は、この考えるということ、思考というものと決別することに失敗したのである。
「君、キモチワルイよ?」
と言われようが、である。
だから、「ファイトファイト! 頑張れば何でもできるよ!!」という記事よりも、むしろダメブログと言われる系の方に共感というか、面白みを覚えたわけである。
けれども、同時思考的に、その、「思考の垂れ流し」に対する劣等感と、「無駄じゃね?」という思いと、常に戦いながら書かなければいけないところが、少しばかり苦しいところ。段々書いているうちにテンションが上がってくるときは、徐々に楽しくなっていくのだけれども、例えば今日とか、書いていてあまり楽しくないのである。
で、このあまり楽しくないときに書いた記事が、翌日以降読んで、逆に面白かった時もあるし、やっぱり面白くなかったときもある。
だから、「無駄」というのだけれども、この無駄ってのも非常に曖昧な概念でしかないと僕は思うのだ。
最初の方に書いた、イライラをゲームに充てて時間を無駄にしたなぁ、というコメントについても、ゲーム自体、エンターテイメントとか、物語を摂取するのに重要な要素だと思うし(相州戦神館學園というPCゲームがあることを最近知ったけれども、何だか面白そうである。テレビは無いけれどPCゲームならいける)、そのイライラを鎮静する意味を考えれば、単純に無駄とはいえないだろう。すぐさま書いておくべきは、他の目標があったとき、その逃避的行動は目標に対して「無駄」である。
ので、無駄というのは、達成すべき目標に対しての相対的な概念であるのだ。
さらに書いておけば、その「無駄認定」を、仕事場など、共同生活においては、よく他者から指定、規定されるものである。
それが、ストレスチェック的な用語を使えば、「自己コントロール感」の不全に繋がり、ストレスになる、という構造である。
また情けないことを書けば、いやそれは、メモしておかなければという思いからなのだけれど、面白いかどうかって、結局、自分の感情だけで判断は難しいものである。
ある方が、自身の作品について、これ面白いんかなぁ……どうなんだろ、と呟かれていて、いやぁ、あなたの作品だったら絶対面白いッスよ、と思うのだけれど、ただ、その感覚は分かるのである。
(でた! 「分かる」という上から目線! お前何様だぜ! ……という思考の邪魔だてはここでは無視しよう)
さらに、一つ話をすっ飛ばして書くと、「面白いですよ!」という他者の評価があったとしても、その「信頼性」というのが問題になってきて、この「懐疑」という感情は何ともやっかいなものである(僕はもう呪いという表現を使っている)。
その、面白いかどうか、ということについて、僕がこの小見出しの冒頭、情けないこと、と書いたのは、読了ボタンが押されていないと、「あれ、俺、なんかダメなこと書いちゃったの? 面白くなかったか……いやそうだよな、普段も別に面白くなんてないし、役に立つことなんてちっともないけれど、頑張ってボタンは押してくださってた方がいたってだけなんだよな。ああ、ほんとごめんなさい、いやでもほんと、何かダメなこと書いちゃったかな、ぁぁぁぁどうしよう!」
みたくなるのである(いや、ちょっと誇張している気がするけれど……)。
そして、こんなこと書くと、もはや、どんな言い訳を書いても、コメント乞食とか、拍手乞食とか、まぁそんなことになるわけだ。自分の発言には責任をもちましょう♪ というわけだ。
が、しかし、こういった、情けない部分の表現も含めて、余すところなく表現していくことが、徹底的に、という表現だと、またいつもの「言い訳」なのだけれども、まぁ必死に言い訳しようじゃないか、ということである。
ただまぁ、指標としては、結局、明日の自分、もっともっと先の未来の自分が、面白いと、役に立つと、そう思えるかどうかが重要な点なので、拍手やコメントといったものは、付加要素(いやとっても嬉しいものなんだけど)に過ぎないことを意識しておくべきである。
と、スピリチュアルとかありがたい法話などで説かれたりするものだ。
その付随する思考がいかに胡散臭いものであって、ビジネス的であろうが、僕はこの考えは重要だと思っている。
いや、いつも書いているように、幸せって何ぞよ、というのは別の次元の話しだ。
取りあえず、「良い状態、気持ち良い状態、心地よい状態」という事象自体を幸せとしたとき、「上へ上へ!」という思考は、その基盤となっている大切なものを見過ごしてしまう可能性が潜んでいる。
そのあたりに、「頑張れ頑張れファイト行ける! やればできる!」的な熱いメッセージというものへの懐疑が生じる所以でもある。
何というか、ランナーズハイのように、その走ることとか、頑張ることそれ自体が「気持ち良いこと」など、幸せであるという次元に昇華できるのであればよいのだが、何かの目標に対しての努力なのであれば、その努力は、できるだけ無い方がよいと思う。
いやそんなこというと、「苦しんだものが救われる」とかいう、物語の王道から外れてしまうわけで、それってつまんねーじゃん、ともなりかねない。
そもそも、僕が前の記事で書いた「死は別にバッドエンドではない。のうのうと人を騙して蹴落として好き勝手やった奴が嫁や子供に囲まれて幸せな生活を送る、とかいうのがバッドエンドに他ならない」というのに反するのではなかろうか。
やっぱり、苦しんで、悩んで、頑張って、そのあげくにつかむ幸せっていう、そういった物語が、僕たちのハートを掴むんじゃあなかろうか。
おっと、小見出しと話しがまたズレてきた。
でもこの部分、結構重要だわな。
とかっこつけて書いたのも、最近の記事だった気がするけれど、でも、努力しないで、他人をこきつかって、楽に出世して、周りを苦しめながら楽しく気持ちよくなるようなこと、それってホントに正しいといえるのか、ってことだ。
僕は、そんなつもりで書いていたわけではないが、まぁ、初めてその記事を読んだ人は、そう感じても仕方がないな。もし批判コメントがなされるなら、そういった部分なのだろう。
ただそれに対して、きっと僕は面食らうわけだ。え、何をいってんの? そんなわけないじゃん? と思うわけだ、だが、文章上、記事から読み取れる内容としては、そういった批判はまさに的を射ているわけだ。
文章表現の限界性なのかもしれないが、ここを諦めるのは、本末転倒である。
いやぁ、しかし、もう今日は終わりにするか。
何だか、書いていてあまり楽しくなかったし、やっぱり疲れたよ……。
これで、明日読んでも面白くなかったら、まったく「無駄」な時間だったなぁ……と、なるのだろうか? という、それに対しての疑義、という意味はあったのかもしれない。
着々と仕事して、作品つくって、彼女つくって、結婚して、子どもつくって頑張っている人もいるいっぽう、俺は夜な夜なこんな記事ばっか書いていると。
で、他のブロガーさんのように、同士をみつけて、一緒に鍋パーティーやったり、オフ会で街を探索したりとか、有意義なことに活用しているわけでもなく、ただ一人、永遠と自分の止まらない思考をせっせと表現するだけ。
いやほんと、止まらんのだよな、今、日本全国全体レベルでは速い部類のタイピング速度に合わせて書いているとはいえ、思考的には浮かんでは消え浮かんでは消えとにかくカオスに溢れている。
その溢れる思考を、一定の表現にすることで、道筋を立てようというのが、この無駄に長い記事たちの役割なのだけれど、一体、いつになったら前に進めるのだろうか。
そのヒントを探すために、過去記事を読んだりしているが、何だろうか、着眼点や、取り巻く環境の違いから表現される言葉や文章は異なるとはいえ、この膨大に垂れ流される思考を何とかアウトプットしようとしているその試みは通底している気がする。
って書くと、さもいつも高尚なこと考えてますよ、的な印象になるような気もするが、いや、高尚な人は、こんなことしないわけだ。
高尚な人は、どうやったら世界の貧困問題が救えるのか、医療水準をあげられるのか、経済を発展させられるのか、国を守れるのかとか、そんな偉いことにリソースを使うのである。
いやそれはもちろん、僕も、他の人の役に立ちたいし、誰かから感謝されたら嬉しいし、もっと頑張ろうとか、それは思うのだろうけれど、何だろう、何なんだ、何だっけ、その、うーん、こう、表現が浮かばないときは頭が真っ白になってしまうのだが、ええと、「目的」みたいなものが、今消えてしまっているというか、失われたというのか、どっかいっちゃった感じである。
こうやって、ぐちゃーっと、書きなぐりながら、時に泣いて、時に苛々して、むかついて、怒り、奮い立たせ、鼓舞し、何とか色々やってきた。
ダメブログ界的には、「ケッエリートが」「たまたま運がよかったんだろ」「裕福なお坊ちゃんめ」みたいに散々非難轟轟なのだろう。そうなんだろう、僕は恵まれていて、運が良かったんだろう。その恵まれて幸せな環境やリソースを使って、もっともっと上昇していけばいいことなんだろう。
でも、何か違う。
ここで、その時々で、僕がどんだけ悩んで苦しんでいたか、という表現は、多分今無理やり作り出さなくても、当時の記録があるだろうから探して貼り付ければすむだろう。
ただ、そうやって表現したところで、「なに? 悲劇の主人公気分? うわキモ☆」「あー、惨めな自分に浸ってキモチよくなりたいってことだね~」という批判にしかならないだろう。
そうなんだよな。
可哀そうだね、よしよし、と慰めてくれるのは、誰しも母親ぐらいなもんだろう。いや、母親でさえもこんな記事読んだら「キモッ!」ってなるかもしれまい。
という意味から、やっぱり、ホントに致命的な重要な問題については、他者に愚痴いっても解決なんてしないよ、という、なんとも寂しい結論を、僕は自分自身で強化肯定してしまうのであるが、何だろう、ここら辺について、なんか、物語に期待する部分でもある。
「愛ってめんどくせーもんだけど、でも、悪いだけのもんじゃないぜ」
とある方が言っていて、僕は非常に感銘を受けた。その言葉の前にあった、人ってホントにダメでどうしようもない奴も多いけれども、でも、人の善意なるものも、それもまた人の本性なんだ、という流れからの話し。
ホントそうだよ、その通りだよ。
悪い部分にだけ目を向けてたって仕方がない。いいところ、美しいところ、綺麗なところ、素晴らしいところ、耽美煌々、法悦恍惚、人の発展により培われた文化はまたその一つの在り方なのだ。
が。
違和感だ。
この、現実という規定において、この生活において、この「無目的性」において、違和感が強くなる。
……恐ろしい、何だか、戦慄した、身の毛がよだった。
ああ、だから、本当に、ぐだぐだ苛々なんてしている場合じゃなくて、
物語のインプットと、
人生の目的(生きる意味)を、
もっと真剣に、もっと早急に突き詰めていく必要があるのだ。
僕の書いた記事がよくなかったから拍手してもらえなかったのかとか、
僕が言った言葉が相手をどんな気持ちにさせてしまったとか、
そんなこと考えてる暇なんてないんだ。
とにかく、寝よう。寝ることの重要性もまた、疑う余地のない対応方針の一つだ。
そして、一年前の記事とか読んでいると、やっぱり、ちょうど「ルーチン再開するぜ!」とか書いてある。その時は、英文の音読と単純計算練習だった。歴史は繰り返す。
それにしても、短い映画感想の記事が多く、過去の記事から遡っていると、中身のなさにイライラさせられる。何だろう、映画の分析とか、そんなの別に興味はない、それをみてどう思ったか、どうしようと思ったか、その感情を書き残しておいて頂かなければ、わざわざクリックして開いた労力に見合わない。ということで、20~30ぐらい削除したりしたけれども、まだまだ沢山あって、途中で放棄した。
ので、「思考の垂れ流しだって未来の自分には役に立つかもよ~♪」なんて甘っちょろい考えは、捨てよう。メモはメモでいいのだけれど、それは、感情レベルで想起可能な内容を書き残しておくべきであって、それができないのであれば、そもそも投稿ボタンを押すべきではない。
これは、文章の長いか短いか、ではないけれども、短いとやっぱり価値は薄い……いや、他の方のブログは短いながら非常にウィットに富んでいて、面白く楽しませてくれるのだけれども、基本的に僕が書く記事は、短ければ短いほど価値が薄い気がする。
ある方からコメント頂いて、「よくまぁ毎日こんな長文書けるねぇ」と言って頂いたが、(まぁそれが皮肉なのかどうなのかと、一応同時思考的には生じるけれども、結論的には嬉しい感情に収まった)逆に、短いと意味が希薄なのである。
例えば、上のことだけで終わってしまうと、数日後にこの記事を開いた僕は、イラっとするわけである。
仕事の苛々とルーチンの効用
自己啓発ブログ何かになりたくないけれども、このルーチンというのは、やっぱり役に立つなぁと思う。そして、これは取りあえず書いておく必要があるだろう。昨日もだけれど、今日もかなり苛々しながらの帰宅であった。何だろ、中々人の心は難しいね、じゃなくて、思い通りに事が運ぶってのは難しいなぁと、今、落ち着いてみるとそんな達観した、他人ごとな感情だけれども、いざ渦中にいると結構面倒なものである。
これまでの経験上、このさかだった気持ちを抑えてくれるのは、ゲームとかテレビとか、ぼけーっと頭を使わないような行為であった。
しかし、イライラしようが、疲れていようが、おなかが痛かろうが、眠かろうが、とにかく、筋トレストレッチ音読はする! と強い気持ちで、それを実行すると、何だか少し落ち着くのだということが、昨日と今日とで分かった。
ひたすら筋トレと、ポジティブ思考を説くブログとか、何だか、某有名テニスプレーヤーの「頑張れ頑張れがんばれ! お前ならできる! 絶対できる! 諦めるな! 頑張れ! できるできるできる! 頑張れ!!」という、熱いエール、応援のようで、うぜぇ……って気持ちになるわけだけれども、まぁ、言ってることとかやってることは、間違いじゃあないと思う。
これも他のある方の記事で読んだけれども、「自殺するくらいなら筋肉を殺せ!」というのも、生きる方策の一つであるだろう。
と、そういうのは認めておいて、やっぱり、タイミングは重要で、ほんとに落ち込んでるときにそのような熱い気持ちは、その人の絶望を、むしろ深めてしまう可能性についても考慮しなければならない……と書いておきながら、いや結局、そんなタイミングなんて、他人のことを100%完全理解などできないのだから、気にしていては何も始まらない。
悩んで何もしないぐらいなら、何かやって失敗した方がまし。という諺のようなものだ。
いやそれもまた、その失敗が取り返しのつかないものだったり、その失敗が人生のかなり深いところでトラウマ的な傷になって、一生引きずっていかざるえなくなってしまったりと、それもまたタイミングである。
そこから導き出されることは何か?
考えたって無駄である
「生きる意味を徹底して考える」というタイトルにするまで、結構悩んだものだった。
いや、考えてどうすんだよ、という感情。
この感情は、どう考えても、否定できるものではない。
いや、すぐにね、例えば、
「戦略の失敗は戦術でカバーできるものではないし、戦術の失敗は戦闘でカバーできるものではないのだ」
という、目的や目標、全体をとらえることや深い思考の重要性を説く言説、諺、諧謔、標語、モットーなど、探せばたくさん見つけることはできる。
むしろ、大きな考え方、それを他の表現で、「信念」とか表現してもいいけれども、その信念があるから、現実の個々の事象、日常の判断のスピードを高速にすることができ、それが仕事の能率や達成率に影響するのだ、ということも言える。
だから、思考自体が無駄、というよりも、大きな思考は重要であり、普段、うだうだ、あー仕事めんどーだなーとか、あいつむかつくよなーとか、今日のお昼は何たべよっかなーとか、そんなことに時間使ってるのはもったいないということなのである。
結論:考えることは無駄じゃない。しかし、日常個々の事象に対する思考は無駄である。
無駄とは何か
その、大きいこと、信念とか、生きる意味ってのを僕が探し求めようとするのは、上に書いた結論のような呪縛のせいかもしれない。しかし、そんなカッコつけるまでもなく、単純に、僕は、この考えるということ、思考というものと決別することに失敗したのである。
「君、キモチワルイよ?」
と言われようが、である。
だから、「ファイトファイト! 頑張れば何でもできるよ!!」という記事よりも、むしろダメブログと言われる系の方に共感というか、面白みを覚えたわけである。
けれども、同時思考的に、その、「思考の垂れ流し」に対する劣等感と、「無駄じゃね?」という思いと、常に戦いながら書かなければいけないところが、少しばかり苦しいところ。段々書いているうちにテンションが上がってくるときは、徐々に楽しくなっていくのだけれども、例えば今日とか、書いていてあまり楽しくないのである。
で、このあまり楽しくないときに書いた記事が、翌日以降読んで、逆に面白かった時もあるし、やっぱり面白くなかったときもある。
だから、「無駄」というのだけれども、この無駄ってのも非常に曖昧な概念でしかないと僕は思うのだ。
最初の方に書いた、イライラをゲームに充てて時間を無駄にしたなぁ、というコメントについても、ゲーム自体、エンターテイメントとか、物語を摂取するのに重要な要素だと思うし(相州戦神館學園というPCゲームがあることを最近知ったけれども、何だか面白そうである。テレビは無いけれどPCゲームならいける)、そのイライラを鎮静する意味を考えれば、単純に無駄とはいえないだろう。すぐさま書いておくべきは、他の目標があったとき、その逃避的行動は目標に対して「無駄」である。
ので、無駄というのは、達成すべき目標に対しての相対的な概念であるのだ。
さらに書いておけば、その「無駄認定」を、仕事場など、共同生活においては、よく他者から指定、規定されるものである。
それが、ストレスチェック的な用語を使えば、「自己コントロール感」の不全に繋がり、ストレスになる、という構造である。
面白いとは何か
さて、この記事は、明日読んで面白いんだろうか。また情けないことを書けば、いやそれは、メモしておかなければという思いからなのだけれど、面白いかどうかって、結局、自分の感情だけで判断は難しいものである。
ある方が、自身の作品について、これ面白いんかなぁ……どうなんだろ、と呟かれていて、いやぁ、あなたの作品だったら絶対面白いッスよ、と思うのだけれど、ただ、その感覚は分かるのである。
(でた! 「分かる」という上から目線! お前何様だぜ! ……という思考の邪魔だてはここでは無視しよう)
さらに、一つ話をすっ飛ばして書くと、「面白いですよ!」という他者の評価があったとしても、その「信頼性」というのが問題になってきて、この「懐疑」という感情は何ともやっかいなものである(僕はもう呪いという表現を使っている)。
その、面白いかどうか、ということについて、僕がこの小見出しの冒頭、情けないこと、と書いたのは、読了ボタンが押されていないと、「あれ、俺、なんかダメなこと書いちゃったの? 面白くなかったか……いやそうだよな、普段も別に面白くなんてないし、役に立つことなんてちっともないけれど、頑張ってボタンは押してくださってた方がいたってだけなんだよな。ああ、ほんとごめんなさい、いやでもほんと、何かダメなこと書いちゃったかな、ぁぁぁぁどうしよう!」
みたくなるのである(いや、ちょっと誇張している気がするけれど……)。
そして、こんなこと書くと、もはや、どんな言い訳を書いても、コメント乞食とか、拍手乞食とか、まぁそんなことになるわけだ。自分の発言には責任をもちましょう♪ というわけだ。
が、しかし、こういった、情けない部分の表現も含めて、余すところなく表現していくことが、徹底的に、という表現だと、またいつもの「言い訳」なのだけれども、まぁ必死に言い訳しようじゃないか、ということである。
ただまぁ、指標としては、結局、明日の自分、もっともっと先の未来の自分が、面白いと、役に立つと、そう思えるかどうかが重要な点なので、拍手やコメントといったものは、付加要素(いやとっても嬉しいものなんだけど)に過ぎないことを意識しておくべきである。
幸福の限界効用逓減
当たり前の幸せに気付こう。と、スピリチュアルとかありがたい法話などで説かれたりするものだ。
その付随する思考がいかに胡散臭いものであって、ビジネス的であろうが、僕はこの考えは重要だと思っている。
いや、いつも書いているように、幸せって何ぞよ、というのは別の次元の話しだ。
取りあえず、「良い状態、気持ち良い状態、心地よい状態」という事象自体を幸せとしたとき、「上へ上へ!」という思考は、その基盤となっている大切なものを見過ごしてしまう可能性が潜んでいる。
そのあたりに、「頑張れ頑張れファイト行ける! やればできる!」的な熱いメッセージというものへの懐疑が生じる所以でもある。
何というか、ランナーズハイのように、その走ることとか、頑張ることそれ自体が「気持ち良いこと」など、幸せであるという次元に昇華できるのであればよいのだが、何かの目標に対しての努力なのであれば、その努力は、できるだけ無い方がよいと思う。
いやそんなこというと、「苦しんだものが救われる」とかいう、物語の王道から外れてしまうわけで、それってつまんねーじゃん、ともなりかねない。
そもそも、僕が前の記事で書いた「死は別にバッドエンドではない。のうのうと人を騙して蹴落として好き勝手やった奴が嫁や子供に囲まれて幸せな生活を送る、とかいうのがバッドエンドに他ならない」というのに反するのではなかろうか。
やっぱり、苦しんで、悩んで、頑張って、そのあげくにつかむ幸せっていう、そういった物語が、僕たちのハートを掴むんじゃあなかろうか。
おっと、小見出しと話しがまたズレてきた。
でもこの部分、結構重要だわな。
努力の否定は悪人の肯定か
「努力信仰の否定!」とかっこつけて書いたのも、最近の記事だった気がするけれど、でも、努力しないで、他人をこきつかって、楽に出世して、周りを苦しめながら楽しく気持ちよくなるようなこと、それってホントに正しいといえるのか、ってことだ。
僕は、そんなつもりで書いていたわけではないが、まぁ、初めてその記事を読んだ人は、そう感じても仕方がないな。もし批判コメントがなされるなら、そういった部分なのだろう。
ただそれに対して、きっと僕は面食らうわけだ。え、何をいってんの? そんなわけないじゃん? と思うわけだ、だが、文章上、記事から読み取れる内容としては、そういった批判はまさに的を射ているわけだ。
文章表現の限界性なのかもしれないが、ここを諦めるのは、本末転倒である。
いやぁ、しかし、もう今日は終わりにするか。
何だか、書いていてあまり楽しくなかったし、やっぱり疲れたよ……。
これで、明日読んでも面白くなかったら、まったく「無駄」な時間だったなぁ……と、なるのだろうか? という、それに対しての疑義、という意味はあったのかもしれない。
眠い目をこすりながら明日以降を考える
しかし、11月の初旬が終わろうとしている。時間、本当にまったなしだ。着々と仕事して、作品つくって、彼女つくって、結婚して、子どもつくって頑張っている人もいるいっぽう、俺は夜な夜なこんな記事ばっか書いていると。
で、他のブロガーさんのように、同士をみつけて、一緒に鍋パーティーやったり、オフ会で街を探索したりとか、有意義なことに活用しているわけでもなく、ただ一人、永遠と自分の止まらない思考をせっせと表現するだけ。
いやほんと、止まらんのだよな、今、日本全国全体レベルでは速い部類のタイピング速度に合わせて書いているとはいえ、思考的には浮かんでは消え浮かんでは消えとにかくカオスに溢れている。
その溢れる思考を、一定の表現にすることで、道筋を立てようというのが、この無駄に長い記事たちの役割なのだけれど、一体、いつになったら前に進めるのだろうか。
そのヒントを探すために、過去記事を読んだりしているが、何だろうか、着眼点や、取り巻く環境の違いから表現される言葉や文章は異なるとはいえ、この膨大に垂れ流される思考を何とかアウトプットしようとしているその試みは通底している気がする。
って書くと、さもいつも高尚なこと考えてますよ、的な印象になるような気もするが、いや、高尚な人は、こんなことしないわけだ。
高尚な人は、どうやったら世界の貧困問題が救えるのか、医療水準をあげられるのか、経済を発展させられるのか、国を守れるのかとか、そんな偉いことにリソースを使うのである。
いやそれはもちろん、僕も、他の人の役に立ちたいし、誰かから感謝されたら嬉しいし、もっと頑張ろうとか、それは思うのだろうけれど、何だろう、何なんだ、何だっけ、その、うーん、こう、表現が浮かばないときは頭が真っ白になってしまうのだが、ええと、「目的」みたいなものが、今消えてしまっているというか、失われたというのか、どっかいっちゃった感じである。
違和感
一人暮らしするぞ。大学入るぞ。友達つくるぞ。資格取るぞ。彼女つくるぞ。就職するぞ。結婚するぞ。お金稼ぐぞ。こうやって、ぐちゃーっと、書きなぐりながら、時に泣いて、時に苛々して、むかついて、怒り、奮い立たせ、鼓舞し、何とか色々やってきた。
ダメブログ界的には、「ケッエリートが」「たまたま運がよかったんだろ」「裕福なお坊ちゃんめ」みたいに散々非難轟轟なのだろう。そうなんだろう、僕は恵まれていて、運が良かったんだろう。その恵まれて幸せな環境やリソースを使って、もっともっと上昇していけばいいことなんだろう。
でも、何か違う。
ここで、その時々で、僕がどんだけ悩んで苦しんでいたか、という表現は、多分今無理やり作り出さなくても、当時の記録があるだろうから探して貼り付ければすむだろう。
ただ、そうやって表現したところで、「なに? 悲劇の主人公気分? うわキモ☆」「あー、惨めな自分に浸ってキモチよくなりたいってことだね~」という批判にしかならないだろう。
そうなんだよな。
可哀そうだね、よしよし、と慰めてくれるのは、誰しも母親ぐらいなもんだろう。いや、母親でさえもこんな記事読んだら「キモッ!」ってなるかもしれまい。
という意味から、やっぱり、ホントに致命的な重要な問題については、他者に愚痴いっても解決なんてしないよ、という、なんとも寂しい結論を、僕は自分自身で強化肯定してしまうのであるが、何だろう、ここら辺について、なんか、物語に期待する部分でもある。
「愛ってめんどくせーもんだけど、でも、悪いだけのもんじゃないぜ」
とある方が言っていて、僕は非常に感銘を受けた。その言葉の前にあった、人ってホントにダメでどうしようもない奴も多いけれども、でも、人の善意なるものも、それもまた人の本性なんだ、という流れからの話し。
ホントそうだよ、その通りだよ。
悪い部分にだけ目を向けてたって仕方がない。いいところ、美しいところ、綺麗なところ、素晴らしいところ、耽美煌々、法悦恍惚、人の発展により培われた文化はまたその一つの在り方なのだ。
が。
違和感だ。
この、現実という規定において、この生活において、この「無目的性」において、違和感が強くなる。
……恐ろしい、何だか、戦慄した、身の毛がよだった。
ああ、だから、本当に、ぐだぐだ苛々なんてしている場合じゃなくて、
物語のインプットと、
人生の目的(生きる意味)を、
もっと真剣に、もっと早急に突き詰めていく必要があるのだ。
僕の書いた記事がよくなかったから拍手してもらえなかったのかとか、
僕が言った言葉が相手をどんな気持ちにさせてしまったとか、
そんなこと考えてる暇なんてないんだ。
とにかく、寝よう。寝ることの重要性もまた、疑う余地のない対応方針の一つだ。
生きることを決意した者たちは、ただ生きる者を圧倒する!!
うおぉ! すごい、熱いぜ!!
と、シグルイ全15巻読んで思った。しかし、かなり精神的にえぐられた。最近ふれた作品のなかでもトップクラスだ。


いやなんというか、お殿様のご乱心で、ただ平伏してただけで首に刀刺されて殺されちゃったり、もうほんと人の命なんて身分の違いでゴミ滓のように扱われる。
なんかの思想家が、昨今の男子はナヨナヨしていかん! 武士の心を呼び戻せ! とかいってるが、アホかと思う。
やれ坂本龍馬とか赤穂浪士とか新撰組とか分からないが、そういった時代ものの上っ面のエンターテイメント性だけに焦点をあてて、昔は良かったなぁなんて言ってる奴の言葉に耳をかす必要はない。
昔はよかったとか、くだらない思考である。
スマホとかインターネットとか、いやそれどころか3cと呼ばれる三種の神器とかなんとか、便利な道具やシステムを享受しておきながら、思想分野においてのみ郷愁を覚えるなど、身の毛もよだつおぞましい人種である。
いやぁなんだか、思い通りいかないことが多いと、様々疲れる。そして、何だかずっと熱っぽかった。
鼻水とと喉のいたさも復活だ。
なんだ、これ。昨日、ライフプランだーマネープランだーとか、人生の見通しを立てようとしたら、この疲れである。
だが、これはちょっと、いいタイミングにも思える。つまり、最低な気分なときに、どれだけやれるか、ルーチンをちゃんとこなせるか、その辺りが問われているのだろう。
きっと、グラフ化できないと、ちゃんと理解したことにはならないんだよという教授なのだと思った。
僕は、今日帰ったらやろうと思っていた。しかし、きっと無理だろう。ルーチンをいやいやこなすだけで終わりそうだ。
そして、そんな毎日がずっと過ぎるのだ。
なにか、いろいろ、作曲とか創作とか、ホームページ更新プログラミングとか、本を読んだり、ランニングしたり、色々やろうと思ったことは、きっと何ヵ月かまえにあった気がする。
帰ると、何もする気になれない。
亡霊のようにゲームをやって時間をまぎらわしていたのが、ちょうど一年前ぐらいの今ごろだった気がする。(今はコンシューマー(据え置き機)は引っ越しと同時にすべて売り払った)
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
いやもちろん、優れた偉人の言葉、伝記などは素晴らしいだろう。しかし、この他ならない自分の言葉というのは、違った重みになる。
それは、くだらないことでも、ちょっといいことでも、どちらも役に立つのだ。
そのことを、書き続けること、ここまで書き連ねてきた何年もの蓄積が、そのことを少しでも示せたらよいと思う。
いやおまえ、結局一年前と同じような状況じゃないか、書いてた意味あんのかよ? あん?
ただ、ひとつ、いま時点でもいえるのは、先程までのあのぐちゃぐちゃした苛立ちが、少し緩和されてきたのだ。
うーむ、これ、誰かとの会話で解消できるものだろうか?
僕は、否、と思う。
誰か他の人との会話においては、独白じゃだめだとおもう。教会の懺悔はともかく、キャッチボールが会話には必要だ。
何を話しても、自分の話したいことにむけさせる人もいるが、そんなオナニーに付き合っているのはむしろ余計に疲れることだろう。
という流れから、他者に愚痴るのは徒労に終わる、と表現したのもその一年くらい前な気がする。
そのときは、共感が強すぎる優しい人相手だと、申し訳ない気持ちも発生するからなぁ、ということも書いていたが。
なんという早さだ。秋の夕べは釣瓶落とし、だっけ、いやなんか違う。
恐ろしいほど早い。
子供をもつ人なら、その成長に驚くのではなかろうか。
俺は、自分の成長のなさに驚いてるぞ!かっこわらい
ううむ、あるブログにおいて、数年前と変わっていないとか思うなら、それは「変わっていない」のではなくて、「後退している」(落ちぶれている)ということなのだ、と書かれていた。
うわぁー。
グラフ化、やってみるかな。まぁ、こればかりは、帰ってからの気分次第、ルーチンの実施が最重要事項。考えることとか、そんなことよりも、まず、身体に習慣を作ることが、待ったなしの同時並行に重要。
服を脱ぐ。
筋トレをする。音読をする。ストレッチをする。
そして、グラフを作る。
うーむ。センス無いな。エクセル、マクロは少しコピペで何か作ることはできるけれど、グラフの機能ってほとんど触ったことないんだよなぁ。というか、グラフってこういうのなのか? もっと様々な要素(収支とかその他)が複雑に絡み合ったりした奴のことを指すのじゃあないのか? ほんとによく分からない。
……まぁ、何となく、感覚で、50歳リタイアすると地獄の底へまっしぐらだぜ、って感じが出てる気がする、かっこわらい。お先真っ暗だぜ、しかし、こう見ると、収入がなくなるとたったの数年で資産が底をついてしまうということが分かる。やっぱり、経常的な収入源は大事なのである。
でも、さすが先駆者さんのコメントだなぁと思ったのは、実際グラフ化してみると、表の上だと何となくそうなんじゃないかなぁと思っていたことが、明確に可視化されるのだ。
例えば、③の状態ラインにおいて、赤と緑と紫では、傾きが紫に行く方がきつくマイナスになっている。
これは、昨日の記事において、年金の計算を、リタイア時期に合わせて再計算したことによる。
恐らく、年金額を50歳・55歳・60歳で同じで算出していたら、③の状態におけるグラフの傾きは、同じになっていただろう。
ううむ、しかしこれ、この後どうやって活かしていけばいいのだろう、よく分からない。
おいおい、この程度、もっと頑張ってる人は大勢いるんだぜ? この程度でへばってどうするんだ! さぁ、もうひと頑張り! もしくは、早めに寝て、朝早く起きて仕事しようぜ☆
うるせーうるせー、お前ら、どうしてそう、次から次へと話しかけてきやがるんだ。
静かにしやがれ。少し休ませろや。
休む? あはは、バカなこといってんのは君の方だよ。
君だよ? さっき、もう一年も経っちゃったんだなぁ、早いなぁ、なんて言ってたのは。ここでまたダラダラしてたら、何も始まんないよ?
いや黙れよ、だから、ホントは精魂尽きて……というより何だか体調の悪さとイライラさに悶えていたけれども、ルーチンもちゃんとやったじゃないか、褒めてよ。
うわ、キモ。何? いい歳して、誰かから褒められたりしないと何もできないの? しょうがないなー、はいはい、いい子イイ子でちゅね~。
……。
もう今日は風呂に入って寝る。
(くだらない茶番を書いていたらふと思った。今回のグラフって資産ベースに作ってるけど、幸福度とか何か思考的な要素でグラフ化ってできないもんかな。ブログの書いた文字数の累積グラフとか……いや、それみて何が分かるってんだ却下)
うおぉ! すごい、熱いぜ!!
と、シグルイ全15巻読んで思った。しかし、かなり精神的にえぐられた。最近ふれた作品のなかでもトップクラスだ。
いやなんというか、お殿様のご乱心で、ただ平伏してただけで首に刀刺されて殺されちゃったり、もうほんと人の命なんて身分の違いでゴミ滓のように扱われる。
なんかの思想家が、昨今の男子はナヨナヨしていかん! 武士の心を呼び戻せ! とかいってるが、アホかと思う。
やれ坂本龍馬とか赤穂浪士とか新撰組とか分からないが、そういった時代ものの上っ面のエンターテイメント性だけに焦点をあてて、昔は良かったなぁなんて言ってる奴の言葉に耳をかす必要はない。
昔はよかったとか、くだらない思考である。
スマホとかインターネットとか、いやそれどころか3cと呼ばれる三種の神器とかなんとか、便利な道具やシステムを享受しておきながら、思想分野においてのみ郷愁を覚えるなど、身の毛もよだつおぞましい人種である。
ものすごく疲れている
何だか攻撃的なのは、精神的にも身体的にも疲れているからだろう。いやぁなんだか、思い通りいかないことが多いと、様々疲れる。そして、何だかずっと熱っぽかった。
鼻水とと喉のいたさも復活だ。
なんだ、これ。昨日、ライフプランだーマネープランだーとか、人生の見通しを立てようとしたら、この疲れである。
だが、これはちょっと、いいタイミングにも思える。つまり、最低な気分なときに、どれだけやれるか、ルーチンをちゃんとこなせるか、その辺りが問われているのだろう。
グラフ化
ある先駆的な方からコメントを頂いて、プラニングはグラフにすることが大事だよと教えていただいた。きっと、グラフ化できないと、ちゃんと理解したことにはならないんだよという教授なのだと思った。
僕は、今日帰ったらやろうと思っていた。しかし、きっと無理だろう。ルーチンをいやいやこなすだけで終わりそうだ。
そして、そんな毎日がずっと過ぎるのだ。
なにか、いろいろ、作曲とか創作とか、ホームページ更新プログラミングとか、本を読んだり、ランニングしたり、色々やろうと思ったことは、きっと何ヵ月かまえにあった気がする。
帰ると、何もする気になれない。
亡霊のようにゲームをやって時間をまぎらわしていたのが、ちょうど一年前ぐらいの今ごろだった気がする。(今はコンシューマー(据え置き機)は引っ越しと同時にすべて売り払った)
過去の言葉
奇跡的に最初の話に戻るが、過去はよかったと、そんなことを思うのはおろかなことである、と言いながら、過去の、歴史は、とても役に立つものである。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
いやもちろん、優れた偉人の言葉、伝記などは素晴らしいだろう。しかし、この他ならない自分の言葉というのは、違った重みになる。
それは、くだらないことでも、ちょっといいことでも、どちらも役に立つのだ。
そのことを、書き続けること、ここまで書き連ねてきた何年もの蓄積が、そのことを少しでも示せたらよいと思う。
いやおまえ、結局一年前と同じような状況じゃないか、書いてた意味あんのかよ? あん?
精神の安寧
指摘はごもっともである。この書くことによる示唆というのは、僕自身がハッピーエンドにならなければ示せないものだろう。ただ、ひとつ、いま時点でもいえるのは、先程までのあのぐちゃぐちゃした苛立ちが、少し緩和されてきたのだ。
うーむ、これ、誰かとの会話で解消できるものだろうか?
僕は、否、と思う。
誰か他の人との会話においては、独白じゃだめだとおもう。教会の懺悔はともかく、キャッチボールが会話には必要だ。
何を話しても、自分の話したいことにむけさせる人もいるが、そんなオナニーに付き合っているのはむしろ余計に疲れることだろう。
という流れから、他者に愚痴るのは徒労に終わる、と表現したのもその一年くらい前な気がする。
そのときは、共感が強すぎる優しい人相手だと、申し訳ない気持ちも発生するからなぁ、ということも書いていたが。
一年前の感覚
いや驚くべきはやはり、その時間経過の感覚。もう一年前なのだ。なんという早さだ。秋の夕べは釣瓶落とし、だっけ、いやなんか違う。
恐ろしいほど早い。
子供をもつ人なら、その成長に驚くのではなかろうか。
俺は、自分の成長のなさに驚いてるぞ!かっこわらい
ううむ、あるブログにおいて、数年前と変わっていないとか思うなら、それは「変わっていない」のではなくて、「後退している」(落ちぶれている)ということなのだ、と書かれていた。
うわぁー。
グラフ化、やってみるかな。まぁ、こればかりは、帰ってからの気分次第、ルーチンの実施が最重要事項。考えることとか、そんなことよりも、まず、身体に習慣を作ることが、待ったなしの同時並行に重要。
帰宅後
帰った。服を脱ぐ。
筋トレをする。音読をする。ストレッチをする。
そして、グラフを作る。
うーむ。センス無いな。エクセル、マクロは少しコピペで何か作ることはできるけれど、グラフの機能ってほとんど触ったことないんだよなぁ。というか、グラフってこういうのなのか? もっと様々な要素(収支とかその他)が複雑に絡み合ったりした奴のことを指すのじゃあないのか? ほんとによく分からない。
……まぁ、何となく、感覚で、50歳リタイアすると地獄の底へまっしぐらだぜ、って感じが出てる気がする、かっこわらい。お先真っ暗だぜ、しかし、こう見ると、収入がなくなるとたったの数年で資産が底をついてしまうということが分かる。やっぱり、経常的な収入源は大事なのである。
でも、さすが先駆者さんのコメントだなぁと思ったのは、実際グラフ化してみると、表の上だと何となくそうなんじゃないかなぁと思っていたことが、明確に可視化されるのだ。
例えば、③の状態ラインにおいて、赤と緑と紫では、傾きが紫に行く方がきつくマイナスになっている。
これは、昨日の記事において、年金の計算を、リタイア時期に合わせて再計算したことによる。
恐らく、年金額を50歳・55歳・60歳で同じで算出していたら、③の状態におけるグラフの傾きは、同じになっていただろう。
ううむ、しかしこれ、この後どうやって活かしていけばいいのだろう、よく分からない。
エクトプラズムの放出
と、帰宅中から、帰宅後ルーチン、グラフを作ってここまでやって、何だか魂が抜けた気がする。おいおい、この程度、もっと頑張ってる人は大勢いるんだぜ? この程度でへばってどうするんだ! さぁ、もうひと頑張り! もしくは、早めに寝て、朝早く起きて仕事しようぜ☆
うるせーうるせー、お前ら、どうしてそう、次から次へと話しかけてきやがるんだ。
静かにしやがれ。少し休ませろや。
休む? あはは、バカなこといってんのは君の方だよ。
君だよ? さっき、もう一年も経っちゃったんだなぁ、早いなぁ、なんて言ってたのは。ここでまたダラダラしてたら、何も始まんないよ?
いや黙れよ、だから、ホントは精魂尽きて……というより何だか体調の悪さとイライラさに悶えていたけれども、ルーチンもちゃんとやったじゃないか、褒めてよ。
うわ、キモ。何? いい歳して、誰かから褒められたりしないと何もできないの? しょうがないなー、はいはい、いい子イイ子でちゅね~。
……。
もう今日は風呂に入って寝る。
(くだらない茶番を書いていたらふと思った。今回のグラフって資産ベースに作ってるけど、幸福度とか何か思考的な要素でグラフ化ってできないもんかな。ブログの書いた文字数の累積グラフとか……いや、それみて何が分かるってんだ却下)
昨日、ライフ&マネープランを立ててみようと思い立ち、取り組んだところ、4時間ぐらいかかった。先に結論を書いてしまうと、
・50歳でリタイアしようとすると、約1750万円を用意する必要がある。
・55歳でリタイアしようとすると、約240万円を用意する必要がある。
ということが分かった。60歳でリタイアするとすれば、特に追加資金は不要。
ということで、厚労省の簡易生命表を元にして考えてみる。
(厚労省簡易生命表 第1表(男性)から遠藤作成)
あ、歳ばれてしまった。まぁいいや。つまり、2007年の生命表(平均寿命とか算出するもとになる統計表)からすると、21歳の人が死ぬのは58.69年後なので、79.69歳まで生きるということになり、
2015年の最新の生命表で計算すると、29歳の人が死ぬのは52.43年後なので、81.43歳まで生きるということになる。
昨今、平均寿命が80歳ぐらい、といわれているので、まぁ納得する計算結果である。
ということで、取りあえず僕も、80歳まで生きることを前提に試算してみることとする。
家賃とか、普段の生活費(インフラ)はずーっと同じだと考える。
ここで、食費は含めるが、飲み会とか車両等維持費とか、DVD・CD借りたり、本やゲーム買ったりとか、突発的な経費は含めないとする(というのは面倒だったというだけだけど)。
病気にかかる医療費とかも特に考慮していない(65歳以後のリスクは格段にあがるとのことだけれど)。
年金は、65歳から受給とし、国民年金が約6万5千円ぐらいと聞くのでそれと、厚生年金は、
http://www.dcnavi.jp/shinkin/F0600/F0406/html/F0406_01.asp
これを参考に計算する。
退職金はよく分からないので計算には含めないこととする。
給与も、特に変わらず、ずーっと同じだと考える。(ボーナスもあるか分からないし含めないこととする)
60歳以後、年金受給まで、収入はゼロとなる。ので、64歳の時点で収支がプラスかマイナスかで、用意すべきお金が分かる。
で、60歳まで働いた場合、資産(普通預金など)が、64歳までどんどんマイナスになっていくが、それでも、マイナスにはならなかった。
(試算の仕方としては、エクセルを用いて、現年齢から80歳までを横軸に並べて、それぞれの収支の要素を立てに並べ、毎年の資産合計を導いた)
というわけで、60歳まで現行生活を維持していくと、取りあえず破産はしないということになった。
もちろん、これは、80歳まで、特に何も新しいことはせず、ずっと同じことを、決められた経費内で生きていくという場合の試算である。
不動産など大きな買い物をした場合はまた、変わってくる。
まぁ、現状変わらず(給与削減とか物価高騰とか、災害とか詐欺とか、致命的な何かが起こらない限り)慎ましく生きていく分には、何となくそんな感じはしていたから、これは新しい発見でも何でもない気がする。
ただ、実際、何歳の時の預貯金がいくらぐらいなのか、とか、実際の数値で見ることができるようになったのは、有益だと思った。
で、重要なのは、次のシミュレーションからだ。
そうすると、収入源が、51歳から0円となる。
すると、65歳の年金受給まで、ずっと収入なしとなり、その間は預貯金等資産を食いつぶして生活する必要があるわけだ。
すると、55歳ぐらいの早々に、資産はゼロとなる。この時点で、保険(終身・個人年金)を解約し、臨時収入とする。
一時的に資産は回復するが、それもつかの間、翌年にはやっぱりマイナスになって、マイナス額はどんどん膨れ上がっていく。
結果として、64歳時点では、1750万ぐらいのマイナス額になる。うひゃー。
65歳からは、年金がもらえる、という想定で、若干、マイナス額は減らしていけるものの、80歳時点でも、1590万ぐらいのマイナスのままとなる。完全破産である。
ということで、最初に書いた結論のとおり、もし50歳でリタイアするならば、50歳の時点で、1750万ぐらいを資産として計上しておく必要があるのだ。
うーん。退職金は計算に含めてないけれど、50歳での退職金なんて、300万ももらえたら良い方なんじゃないかな。そもそももらえるかも分からないし。となると、このシミュレーションはちょっと現実味がない気がしてくる。
この場合も、64歳時点の資産合計を見てみる、すると、240万ぐらいのマイナスである。
うーん、やっぱりマイナスかぁ……でも、まぁ、なんか、ちょっと現実味がある気もする。
運よく退職金が300万ぐらいもらえたら、何とか年金受給まで食つなぐこともできそうである。
(もっとも、実は今回の資産において、年金額は満期間で計算しているため、早期リタイアした場合の減額分を考慮できていない。※)
※いや、それってやっぱり大きな違いなんじゃなかろうか、と思って再計算を実施。
↓↓↓
(年金受給後も、今の生活レベルを続けると、マイナス収支になってしまった。ということは、64歳時点の資産合計ではなく、80歳時点の資産合計をみなければ、用意するべき金額が分からないということだ)
結論、
50歳リタイアの場合、約2300万円必要。
55歳リタイアの場合、約580万円必要。
60歳リタイアの場合、長生きすればするほど資産は目減りしてくものの、80歳時点でもプラス状態を維持できている。
となった。
必要金額は変わったものの、大きな結論として、やっぱり50歳リタイアは厳しそうだなぁというのと、55歳リタイアの場合、何とか方法はあるのではないか、という気もする。
しかし、年金計算ではないけれど、ちょっとした前提が変わると、試算結果が全く異なってくるという点が面白い。
例えば、食費を2万円ぐらい切り詰めると、結果は大きく変わって、55歳リタイアの場合も、80歳時点の収支がプラスになってくるのだ。
4時間ぐらいかけて作った表だけど、経費とか、数値をいろいろ変更して結果をシミュレーションできるのは面白いし有意義だと思った。
ここまでが言ってしまえば大きな前提に過ぎない。
僕がいつも意識が向いているのは、どうやって生きるか、というよりも、何故生きるのか、何のために生きるのか、の方であるので、重要なのはここからである。
とか書くと、「裕福な野郎は今すぐ地獄に落ちろ」とか「今まさに貧困で苦しんでいる俺の苦しみなんて理解できないのだろう」とか、まぁそんな批判がたくさんくるだろう。
どっかの記事で読んで面白いなーっと思ったのは、批判とか、妬みってのは、自分に近い人に向くものだ、というものである。もっとお金持ちの、石油王とかゲイツさんとか、会長社長さんとか、資産が億単位であるような人には、妬みは生まれにくい。それよりも、僕が今何千万ぐらいでどうしよっかなーといっている方が、攻撃の対象になりやすいのである。
その気持ちも分からないでもない。
これもあるブログで読んだのだけれど、
「左手で女の肩を抱きながら、右手のスマホで『僕はもうだめだ……』とか言ってる奴は信用ならん」
というのは全くその通りに思うし、はっきりいって僕もむかつく対象だ。
ただ、これは、かなり前から僕はそう思ってきたのだけれど、妬みとか憎しみって、ほんと無駄な感情だよな、と思うわけである。人を憎む時間があったら、もっと楽しいことに使うべきである――もちろん、すぐさま書いておくべきは、そんなこと言ってお前が単に家族を殺されたこともない甘ちゃん坊ちゃんだからそんなこと言ってるだけだ、という批判はもっともだと思う点である。そこで僕は、学生時代虐められた経験を持ち出して反論することもできるけれど、そもそも、このやりとりというか、考え方というか、感じ方というか、その全体が僕はもう無駄としか思えない。
とか言っていて、上のように長文になるのは、どこか自信のなさなんじゃないの、と、これも同時思考的に発生するのだけれど、だからこそ、書いておいているのである。永遠に僕は、自分一人でも批判を続けられる。一生終わらない永劫回帰。そこから導かれるのは、「他者への興味のなさ」なわけであって、でも、これはちょっとそのまま用いると害悪が多くて……ああ、話しが逸れまくる、中断。
ライフプラニングの話しじゃなかったんかよ!
よく考えたら、朝からコーヒー以外ほとんど何も口にしていない。
取りあえず、今日はここまでにしよう。
・50歳でリタイアしようとすると、約1750万円を用意する必要がある。
・55歳でリタイアしようとすると、約240万円を用意する必要がある。
ということが分かった。60歳でリタイアするとすれば、特に追加資金は不要。
前提
まず、そもそも、お前は何歳まで生きるつもりなんや?ということで、厚労省の簡易生命表を元にして考えてみる。
| 推計1 | 推計2 | |
| 簡易生命表 | 2007 | 2015 |
| 当時年齢 | 21 | 29 |
| 平均余命 | 58.69 | 52.43 |
| 死亡予測年齢 | 79.69 | 81.43 |
あ、歳ばれてしまった。まぁいいや。つまり、2007年の生命表(平均寿命とか算出するもとになる統計表)からすると、21歳の人が死ぬのは58.69年後なので、79.69歳まで生きるということになり、
2015年の最新の生命表で計算すると、29歳の人が死ぬのは52.43年後なので、81.43歳まで生きるということになる。
昨今、平均寿命が80歳ぐらい、といわれているので、まぁ納得する計算結果である。
ということで、取りあえず僕も、80歳まで生きることを前提に試算してみることとする。
前提2
ひとまず、住宅、結婚・子供その他ライフイベントはすべて無視。家賃とか、普段の生活費(インフラ)はずーっと同じだと考える。
ここで、食費は含めるが、飲み会とか車両等維持費とか、DVD・CD借りたり、本やゲーム買ったりとか、突発的な経費は含めないとする(というのは面倒だったというだけだけど)。
病気にかかる医療費とかも特に考慮していない(65歳以後のリスクは格段にあがるとのことだけれど)。
年金は、65歳から受給とし、国民年金が約6万5千円ぐらいと聞くのでそれと、厚生年金は、
http://www.dcnavi.jp/shinkin/F0600/F0406/html/F0406_01.asp
これを参考に計算する。
退職金はよく分からないので計算には含めないこととする。
給与も、特に変わらず、ずーっと同じだと考える。(ボーナスもあるか分からないし含めないこととする)
シミュレーション1(60歳リタイア)
60歳まで働いた場合。60歳以後、年金受給まで、収入はゼロとなる。ので、64歳の時点で収支がプラスかマイナスかで、用意すべきお金が分かる。
で、60歳まで働いた場合、資産(普通預金など)が、64歳までどんどんマイナスになっていくが、それでも、マイナスにはならなかった。
(試算の仕方としては、エクセルを用いて、現年齢から80歳までを横軸に並べて、それぞれの収支の要素を立てに並べ、毎年の資産合計を導いた)
というわけで、60歳まで現行生活を維持していくと、取りあえず破産はしないということになった。
もちろん、これは、80歳まで、特に何も新しいことはせず、ずっと同じことを、決められた経費内で生きていくという場合の試算である。
不動産など大きな買い物をした場合はまた、変わってくる。
まぁ、現状変わらず(給与削減とか物価高騰とか、災害とか詐欺とか、致命的な何かが起こらない限り)慎ましく生きていく分には、何となくそんな感じはしていたから、これは新しい発見でも何でもない気がする。
ただ、実際、何歳の時の預貯金がいくらぐらいなのか、とか、実際の数値で見ることができるようになったのは、有益だと思った。
で、重要なのは、次のシミュレーションからだ。
シミュレーション2(50歳リタイア)
50歳で仕事をやめたとする。そうすると、収入源が、51歳から0円となる。
すると、65歳の年金受給まで、ずっと収入なしとなり、その間は預貯金等資産を食いつぶして生活する必要があるわけだ。
すると、55歳ぐらいの早々に、資産はゼロとなる。この時点で、保険(終身・個人年金)を解約し、臨時収入とする。
一時的に資産は回復するが、それもつかの間、翌年にはやっぱりマイナスになって、マイナス額はどんどん膨れ上がっていく。
結果として、64歳時点では、1750万ぐらいのマイナス額になる。うひゃー。
65歳からは、年金がもらえる、という想定で、若干、マイナス額は減らしていけるものの、80歳時点でも、1590万ぐらいのマイナスのままとなる。完全破産である。
ということで、最初に書いた結論のとおり、もし50歳でリタイアするならば、50歳の時点で、1750万ぐらいを資産として計上しておく必要があるのだ。
うーん。退職金は計算に含めてないけれど、50歳での退職金なんて、300万ももらえたら良い方なんじゃないかな。そもそももらえるかも分からないし。となると、このシミュレーションはちょっと現実味がない気がしてくる。
シミュレーション3(55歳リタイア)
では間をとって、55歳でリタイアの場合はどうだろう。資産の仕方はシミュレーション2と同じ。この場合も、64歳時点の資産合計を見てみる、すると、240万ぐらいのマイナスである。
うーん、やっぱりマイナスかぁ……でも、まぁ、なんか、ちょっと現実味がある気もする。
運よく退職金が300万ぐらいもらえたら、何とか年金受給まで食つなぐこともできそうである。
(もっとも、実は今回の資産において、年金額は満期間で計算しているため、早期リタイアした場合の減額分を考慮できていない。※)
※いや、それってやっぱり大きな違いなんじゃなかろうか、と思って再計算を実施。
↓↓↓
結論の修正
50歳、55歳、60歳における、厚生年金の計算をそれぞれ実施してみたところ、結論が大きく変わった。(年金受給後も、今の生活レベルを続けると、マイナス収支になってしまった。ということは、64歳時点の資産合計ではなく、80歳時点の資産合計をみなければ、用意するべき金額が分からないということだ)
結論、
50歳リタイアの場合、約2300万円必要。
55歳リタイアの場合、約580万円必要。
60歳リタイアの場合、長生きすればするほど資産は目減りしてくものの、80歳時点でもプラス状態を維持できている。
となった。
必要金額は変わったものの、大きな結論として、やっぱり50歳リタイアは厳しそうだなぁというのと、55歳リタイアの場合、何とか方法はあるのではないか、という気もする。
しかし、年金計算ではないけれど、ちょっとした前提が変わると、試算結果が全く異なってくるという点が面白い。
例えば、食費を2万円ぐらい切り詰めると、結果は大きく変わって、55歳リタイアの場合も、80歳時点の収支がプラスになってくるのだ。
4時間ぐらいかけて作った表だけど、経費とか、数値をいろいろ変更して結果をシミュレーションできるのは面白いし有意義だと思った。
ライフプラニング
で、ここまではあくまで、マネープラニングである。ここまでが言ってしまえば大きな前提に過ぎない。
僕がいつも意識が向いているのは、どうやって生きるか、というよりも、何故生きるのか、何のために生きるのか、の方であるので、重要なのはここからである。
とか書くと、「裕福な野郎は今すぐ地獄に落ちろ」とか「今まさに貧困で苦しんでいる俺の苦しみなんて理解できないのだろう」とか、まぁそんな批判がたくさんくるだろう。
どっかの記事で読んで面白いなーっと思ったのは、批判とか、妬みってのは、自分に近い人に向くものだ、というものである。もっとお金持ちの、石油王とかゲイツさんとか、会長社長さんとか、資産が億単位であるような人には、妬みは生まれにくい。それよりも、僕が今何千万ぐらいでどうしよっかなーといっている方が、攻撃の対象になりやすいのである。
その気持ちも分からないでもない。
これもあるブログで読んだのだけれど、
「左手で女の肩を抱きながら、右手のスマホで『僕はもうだめだ……』とか言ってる奴は信用ならん」
というのは全くその通りに思うし、はっきりいって僕もむかつく対象だ。
ただ、これは、かなり前から僕はそう思ってきたのだけれど、妬みとか憎しみって、ほんと無駄な感情だよな、と思うわけである。人を憎む時間があったら、もっと楽しいことに使うべきである――もちろん、すぐさま書いておくべきは、そんなこと言ってお前が単に家族を殺されたこともない甘ちゃん坊ちゃんだからそんなこと言ってるだけだ、という批判はもっともだと思う点である。そこで僕は、学生時代虐められた経験を持ち出して反論することもできるけれど、そもそも、このやりとりというか、考え方というか、感じ方というか、その全体が僕はもう無駄としか思えない。
とか言っていて、上のように長文になるのは、どこか自信のなさなんじゃないの、と、これも同時思考的に発生するのだけれど、だからこそ、書いておいているのである。永遠に僕は、自分一人でも批判を続けられる。一生終わらない永劫回帰。そこから導かれるのは、「他者への興味のなさ」なわけであって、でも、これはちょっとそのまま用いると害悪が多くて……ああ、話しが逸れまくる、中断。
ライフプラニングの話しじゃなかったんかよ!
よく考えたら、朝からコーヒー以外ほとんど何も口にしていない。
取りあえず、今日はここまでにしよう。
