逆算の思考とは、ある目的を達成した瞬間から遡って考えることである。
このブログの目的、生きる意味を見つけた、その瞬間をイメージする。
その意味は、揺らぎなく、確定していて、暖かく、希望そのものであり、信念となるものであり、すべての行為の準拠点であり、喜ばしいものであり、永遠性があり、到達点である。
僕は、傷つき、涙し、悩み苦しみ、怒り、憎しみ、時に倒れ、諦めそうになり、それでも立ち上がり、そこに到達した。
いま僕は、最高の状態であり、これからもずっとそうあり続けるのである。
ここに僕は、至上の最大の深遠なる意味を得たのだ!
世界は輝いて見え、行き交う人への惜しみ無く止めない感謝が溢れ、呼吸の瞬間、朝目が覚めたこと、心地よい眠気、他者の語る言葉はまるで素敵か心踊る音楽のようで、沸き立ち希望に溢れ、何にでも興味が湧き、楽しく、今生きているこのこと自体が最高のものだと信じ感じる。
ああ素晴らしきかな!
ついに、僕はたどり着いたのだ!!
世界は、こんなにも美しく素晴らしいものだったのだ!
二人以上の人の会話があったとき、それは言語によるルールが、暗黙の規定が発生するというのが、ヴィトゲンシュタインさんの言語ゲームの考え方であり、
それを応用して、ある宗教学者さんが、仏教の悟りというのは、それは悟りゲームなのだ、と言っていた。
仏陀により示された悟りの境地、しかし、そのサンガに加わる修行者たちは、その悟りというのを知らないのである。
悟りは分からない。
しかし、悟りというのは素晴らしいものであるとして、厳しい修行を投げ出さず、励むのである。
まだ到達していない真理に到達する、知るというのは、この悟りゲームのように、一見すると不毛のようで、一度そのゲームに組み込まれたものたちにしたら、それは絶対的なルールになるのである。
僕が冒頭試みた、逆算思考は、このゲームから抜け出すための唯一の方法かもしれない。
最高の状態。
真理とかいった言葉。
よくスピリチュアル系のブログにおいて散見されるものだけれども、これが多いほどに僕のイライラというか、虚しさというか、つまらなさ、胡散臭さというのが飛躍的に上昇する。
僕が単に、駄文をいつまでも書き続けられる能力があるから、そう思うだけかもしれないが、とにかく、真理とか最高とか幸せとかそういった言葉を使いたくなるのは、思考停止だ、と思う。
仏陀さんは、もうその存在が神がかっていて、悪意ある人の問いかけにも即座に臨機応変に答え続ける力があったから、ああ、この人は本当に悟りという状態にあるのだ、と、誰しも信じさせることができたのだろう。
対機説法という、その相手に合わせて分かりやすい例えを用いて説明するというやり方の徹底こそ、その人の信頼性に繋がるのだと思う。
だから、とにかく私を信じなさい! 神を信じなさい! そうしたら楽園に行けるのですよ! というのは、思考停止で、興味をもてないのだ。
思考停止、というのは、何だかかっこいい表現っぽいが、これもまた危険な言葉なのだと、書いておいた方がいいかもしれない。
例えば、うえで書いてきた流れからすると、英語の勉強すればグローバル社会でも活躍できるよ、という標語があったときに、それもとにかく否定し続けるのだ。英語は、文法とか語彙力じゃあない、何を話すか、の方がずっと重要だよ、とか。
資本主義は社会主義にまさる、といったって、南北経済格差とか過労死とか色々問題起こってるじゃあないか、とか。
確かに、思考停止は危険なのだけれども、それは逆に、なにもかも否定し始める、懐疑主義に突如変貌することがあるのだ。
僕は結構、いまでも、これの呪縛から逃れられていない気がするものの、昔はもっとその強制力はきついものだった。
どうやってそれから逃れたかというと、いやまぁいまでも完全に逃れられてはいないけれど、とにかく、その懐疑とは、反転して、その懐疑自体がまさに真実実感として生まれ生じているではないか、という考え方である。
懐疑主義という、そのあり方に、名前を与えてあげたのだ。
固有名詞を帯びると、それはひとつの概念となる。
その止めどない思考や表現のうずにおいては、どこまでいっても、それは現象であり、行為の一つにすぎず、終わらない旅、無限ループになる。
それを、概念かできれば、抽象化できれば、ひとつの存在として規定できれば、表現によって、到達点がみえてくるのである。
以上により、僕は例え周囲にとって意味がなかろうが、他のサラリーマンブログのように小遣い稼ぎの意味がなかろうが、拍手やコメントがなかろうが、
思考に、意味を与えるために、書き続けなければいけないのだ。それが無限ループだったり、トートロジーになっていると思わない限り、その行為自体に名前を、概念を与えることができるまで、繰り返しインプットし、アウトプットしていく必要があるのだ、
と、昨日書こうと思っていたら、拍手もコメントまで頂けた。
本当によい人たちに恵まれたなぁ幸せだなぁ嬉しいなぁ、と冒頭に戻る。
風邪の具合はよくなく、今日もまた、なかなか上手くいかない可能性、問題が待ち構えているけれど、精神的にはきっとなんとか乗り越えられそうである。
人はやはり、こうやって、支えられて生きているのだな。素晴らしきかな。
しかしだ、この、人にたいしての希望と絶望というものも、また今度メモしておきたいけれども、というのは、さわりだけ書けば、物理時間の共有性をどう対処するか。
それにしても昨日の記事は長かった。もう少ししたら一万字に到達しそうだった。
毎日一万字書けたら、作家としてたいしたものだと、小説家を目指す何方かが、仰っていた。
それはいいのだが、まぁ、一時間程度は、お酒を飲みながら、他のことをしながらもかかっているのだ。
まぁ、その半分の30分でもいい。
その時間をだ、物理環境を共有する、例えば、ルームシェアの親友でも、恋人嫁でもいいが、毎日毎日話していたら、それどうなんだということである。
口頭で愚痴っちゃうと、すぐ消えてしまう。
第一の問題がこれで、話すことで一時的な感情は抑えられるかもしれないが、残らないから、読み返すことができない。
もうひとつは、口頭言語の限界性で、昨日のものも、今日の記事も、口頭ベースの筆記ではあるけれど、例えば昨日の記事を音声にしたとき、どれほど伝わるかってこと。
先日ついぞ思い出せなかったが、メラビアンの法則、言語以外の情報も大事な要素だよ、というのも関係するから、疲れてイライラした顔をしていたら、ますます話の中身が伝わらないだろう。
さらに、もうひとつはタイミング性。
対面コミュニケーションは、相手の時間を、言葉は悪いけど、奪う。
文章、メールとかは、いってしまえば、相手のペースで読むという行為をしてもらえる。というのは、自分の伝えたい情報も発信していながら、読むという行為は相手が主体なのだから、相手としては、自分がしている、という感覚を保持できるのだ。これを、自己コントロール感という。
となると、家に帰ったら温かい家庭が、というのは、中々よくよく考える必要がある。
家に帰って、いらいらを持ち帰って、愚痴をいうのは得策ではないということだ。
子供の寝顔をみて癒されるのでもいい、綺麗なお嫁さんの日常会話を聞いて和むのでもいい、その家庭自体がマイナス感情のリセットの場であるべきであり、決して、感情の発露の場であってはならないのだ。
にもかかわらず、家庭内暴力とか、まぁそんな問題はあるのだけれども、全く、、悲しいことである。
ゆえにだ、もし、家庭を望むとしても、このような記事は、どこかしら価値が残るのではないか、とすら思うのである。
例えば、ダメブログ界のエキスパートたちは、その多くがオフ会などでも面識があるという。しかし、これは完全邪推だけれども、多分、そのブログにおいては日々の口のようなものを書き連ねたとしても、実際対面であったときまで、愚痴の言い合い合戦みたいなことにはならないのではないか。
もっとふつーに、散歩楽しんだり、お酒のんで笑ったり、相互行為としてのコミュニケーションを楽しむのではないだろうか。
だから、ぼくのこの記事群からすると、なんとも随分愚痴愚痴して話が長いやつだと思われるだろうが、あまりこういったことを話すことはないのである。
逆に、これも試してみなければ分からないという発そうより、機会をみつけては、こういった思考や価値観や信念といった話を織りまぜてみようとはしているが、
なんとも悲しいかな、そんなことに付き合ってくれる人はいないのである。
(たまに会った友人とかはいたとしてもだ、繰り返しになるが、こんな話に毎日付き合ってくれる人がどこにいる? 物理的に無理だ。専業主婦の奥さんだって願い下げだろう)
だから。
ほんとに書きたかったことだけど、僕はなんか、ほんと、一般的には、普通の考えの人たちからは、気持ち悪いとか言われちゃうけれど、
物理世界の人たちより、毎日のようにこのブログを開いてくれて、わざわざもうワンクリックして読みましたボタン押してくれる方々を、本当に嬉しく、大切に思うのである。
すぐさま書いておくべきは、あぁ、もう時間がないけど、
すぐ、批判されるのは、いくらネット上で素晴らしい人にあえても、やっぱり現実世界を生きていることには変わらないから、いざ君が病気になったり問題を抱えたとき、そのネットの人たちは助けてくれるのか?
とか、そんな批判がとんでくる。
だが、病気なったら医者にいくだろ?
素人の友人が助けてくれるか? 不法医療行為じゃね? とか、そんなくだらないことはともかく、なんというかな、その、金があれば大抵解決する時代になっちゃってるよね、とか、それもちょっと暴言だし、
そもそも、別に物理環境の方々全部無価値とか、そんなこといってるわけじゃなくて、そりゃもちろん、多くの人に支えられて生きてるわけだけど、
なんというのかな、きっと、足りてないな、伝わらないな、いや、伝えてどうする、違う、この伝えるというのは、恐らく、明日の僕にたいして、伝わるかどうかということだろう。
もう現時点性として書き続けられないから、この記事で書ききれなかったことを、紡いでほしいと、そうした願いなのだろう。
このブログの目的、生きる意味を見つけた、その瞬間をイメージする。
その意味は、揺らぎなく、確定していて、暖かく、希望そのものであり、信念となるものであり、すべての行為の準拠点であり、喜ばしいものであり、永遠性があり、到達点である。
僕は、傷つき、涙し、悩み苦しみ、怒り、憎しみ、時に倒れ、諦めそうになり、それでも立ち上がり、そこに到達した。
いま僕は、最高の状態であり、これからもずっとそうあり続けるのである。
ここに僕は、至上の最大の深遠なる意味を得たのだ!
世界は輝いて見え、行き交う人への惜しみ無く止めない感謝が溢れ、呼吸の瞬間、朝目が覚めたこと、心地よい眠気、他者の語る言葉はまるで素敵か心踊る音楽のようで、沸き立ち希望に溢れ、何にでも興味が湧き、楽しく、今生きているこのこと自体が最高のものだと信じ感じる。
ああ素晴らしきかな!
ついに、僕はたどり着いたのだ!!
世界は、こんなにも美しく素晴らしいものだったのだ!
悟りゲーム
二人以上の人の会話があったとき、それは言語によるルールが、暗黙の規定が発生するというのが、ヴィトゲンシュタインさんの言語ゲームの考え方であり、
それを応用して、ある宗教学者さんが、仏教の悟りというのは、それは悟りゲームなのだ、と言っていた。
仏陀により示された悟りの境地、しかし、そのサンガに加わる修行者たちは、その悟りというのを知らないのである。
悟りは分からない。
しかし、悟りというのは素晴らしいものであるとして、厳しい修行を投げ出さず、励むのである。
まだ到達していない真理に到達する、知るというのは、この悟りゲームのように、一見すると不毛のようで、一度そのゲームに組み込まれたものたちにしたら、それは絶対的なルールになるのである。
僕が冒頭試みた、逆算思考は、このゲームから抜け出すための唯一の方法かもしれない。
最高の状態。
真理とかいった言葉。
よくスピリチュアル系のブログにおいて散見されるものだけれども、これが多いほどに僕のイライラというか、虚しさというか、つまらなさ、胡散臭さというのが飛躍的に上昇する。
僕が単に、駄文をいつまでも書き続けられる能力があるから、そう思うだけかもしれないが、とにかく、真理とか最高とか幸せとかそういった言葉を使いたくなるのは、思考停止だ、と思う。
仏陀さんは、もうその存在が神がかっていて、悪意ある人の問いかけにも即座に臨機応変に答え続ける力があったから、ああ、この人は本当に悟りという状態にあるのだ、と、誰しも信じさせることができたのだろう。
対機説法という、その相手に合わせて分かりやすい例えを用いて説明するというやり方の徹底こそ、その人の信頼性に繋がるのだと思う。
だから、とにかく私を信じなさい! 神を信じなさい! そうしたら楽園に行けるのですよ! というのは、思考停止で、興味をもてないのだ。
懐疑主義との対抗
思考停止、というのは、何だかかっこいい表現っぽいが、これもまた危険な言葉なのだと、書いておいた方がいいかもしれない。
例えば、うえで書いてきた流れからすると、英語の勉強すればグローバル社会でも活躍できるよ、という標語があったときに、それもとにかく否定し続けるのだ。英語は、文法とか語彙力じゃあない、何を話すか、の方がずっと重要だよ、とか。
資本主義は社会主義にまさる、といったって、南北経済格差とか過労死とか色々問題起こってるじゃあないか、とか。
確かに、思考停止は危険なのだけれども、それは逆に、なにもかも否定し始める、懐疑主義に突如変貌することがあるのだ。
僕は結構、いまでも、これの呪縛から逃れられていない気がするものの、昔はもっとその強制力はきついものだった。
呪いの解除
どうやってそれから逃れたかというと、いやまぁいまでも完全に逃れられてはいないけれど、とにかく、その懐疑とは、反転して、その懐疑自体がまさに真実実感として生まれ生じているではないか、という考え方である。
懐疑主義という、そのあり方に、名前を与えてあげたのだ。
固有名詞を帯びると、それはひとつの概念となる。
その止めどない思考や表現のうずにおいては、どこまでいっても、それは現象であり、行為の一つにすぎず、終わらない旅、無限ループになる。
それを、概念かできれば、抽象化できれば、ひとつの存在として規定できれば、表現によって、到達点がみえてくるのである。
コメントなどの感謝
以上により、僕は例え周囲にとって意味がなかろうが、他のサラリーマンブログのように小遣い稼ぎの意味がなかろうが、拍手やコメントがなかろうが、
思考に、意味を与えるために、書き続けなければいけないのだ。それが無限ループだったり、トートロジーになっていると思わない限り、その行為自体に名前を、概念を与えることができるまで、繰り返しインプットし、アウトプットしていく必要があるのだ、
と、昨日書こうと思っていたら、拍手もコメントまで頂けた。
本当によい人たちに恵まれたなぁ幸せだなぁ嬉しいなぁ、と冒頭に戻る。
風邪の具合はよくなく、今日もまた、なかなか上手くいかない可能性、問題が待ち構えているけれど、精神的にはきっとなんとか乗り越えられそうである。
人はやはり、こうやって、支えられて生きているのだな。素晴らしきかな。
しかしだ、この、人にたいしての希望と絶望というものも、また今度メモしておきたいけれども、というのは、さわりだけ書けば、物理時間の共有性をどう対処するか。
温かい家庭
それにしても昨日の記事は長かった。もう少ししたら一万字に到達しそうだった。
毎日一万字書けたら、作家としてたいしたものだと、小説家を目指す何方かが、仰っていた。
それはいいのだが、まぁ、一時間程度は、お酒を飲みながら、他のことをしながらもかかっているのだ。
まぁ、その半分の30分でもいい。
その時間をだ、物理環境を共有する、例えば、ルームシェアの親友でも、恋人嫁でもいいが、毎日毎日話していたら、それどうなんだということである。
口頭で愚痴っちゃうと、すぐ消えてしまう。
第一の問題がこれで、話すことで一時的な感情は抑えられるかもしれないが、残らないから、読み返すことができない。
もうひとつは、口頭言語の限界性で、昨日のものも、今日の記事も、口頭ベースの筆記ではあるけれど、例えば昨日の記事を音声にしたとき、どれほど伝わるかってこと。
先日ついぞ思い出せなかったが、メラビアンの法則、言語以外の情報も大事な要素だよ、というのも関係するから、疲れてイライラした顔をしていたら、ますます話の中身が伝わらないだろう。
さらに、もうひとつはタイミング性。
対面コミュニケーションは、相手の時間を、言葉は悪いけど、奪う。
文章、メールとかは、いってしまえば、相手のペースで読むという行為をしてもらえる。というのは、自分の伝えたい情報も発信していながら、読むという行為は相手が主体なのだから、相手としては、自分がしている、という感覚を保持できるのだ。これを、自己コントロール感という。
となると、家に帰ったら温かい家庭が、というのは、中々よくよく考える必要がある。
思考との決別
家に帰って、いらいらを持ち帰って、愚痴をいうのは得策ではないということだ。
子供の寝顔をみて癒されるのでもいい、綺麗なお嫁さんの日常会話を聞いて和むのでもいい、その家庭自体がマイナス感情のリセットの場であるべきであり、決して、感情の発露の場であってはならないのだ。
にもかかわらず、家庭内暴力とか、まぁそんな問題はあるのだけれども、全く、、悲しいことである。
ゆえにだ、もし、家庭を望むとしても、このような記事は、どこかしら価値が残るのではないか、とすら思うのである。
例えば、ダメブログ界のエキスパートたちは、その多くがオフ会などでも面識があるという。しかし、これは完全邪推だけれども、多分、そのブログにおいては日々の口のようなものを書き連ねたとしても、実際対面であったときまで、愚痴の言い合い合戦みたいなことにはならないのではないか。
もっとふつーに、散歩楽しんだり、お酒のんで笑ったり、相互行為としてのコミュニケーションを楽しむのではないだろうか。
だから、ぼくのこの記事群からすると、なんとも随分愚痴愚痴して話が長いやつだと思われるだろうが、あまりこういったことを話すことはないのである。
逆に、これも試してみなければ分からないという発そうより、機会をみつけては、こういった思考や価値観や信念といった話を織りまぜてみようとはしているが、
なんとも悲しいかな、そんなことに付き合ってくれる人はいないのである。
(たまに会った友人とかはいたとしてもだ、繰り返しになるが、こんな話に毎日付き合ってくれる人がどこにいる? 物理的に無理だ。専業主婦の奥さんだって願い下げだろう)
だから。
ほんとに書きたかったことだけど、僕はなんか、ほんと、一般的には、普通の考えの人たちからは、気持ち悪いとか言われちゃうけれど、
物理世界の人たちより、毎日のようにこのブログを開いてくれて、わざわざもうワンクリックして読みましたボタン押してくれる方々を、本当に嬉しく、大切に思うのである。
すぐさま書いておくべきは、あぁ、もう時間がないけど、
すぐ、批判されるのは、いくらネット上で素晴らしい人にあえても、やっぱり現実世界を生きていることには変わらないから、いざ君が病気になったり問題を抱えたとき、そのネットの人たちは助けてくれるのか?
とか、そんな批判がとんでくる。
だが、病気なったら医者にいくだろ?
素人の友人が助けてくれるか? 不法医療行為じゃね? とか、そんなくだらないことはともかく、なんというかな、その、金があれば大抵解決する時代になっちゃってるよね、とか、それもちょっと暴言だし、
そもそも、別に物理環境の方々全部無価値とか、そんなこといってるわけじゃなくて、そりゃもちろん、多くの人に支えられて生きてるわけだけど、
なんというのかな、きっと、足りてないな、伝わらないな、いや、伝えてどうする、違う、この伝えるというのは、恐らく、明日の僕にたいして、伝わるかどうかということだろう。
もう現時点性として書き続けられないから、この記事で書ききれなかったことを、紡いでほしいと、そうした願いなのだろう。
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