今日の一言「映像が綺麗でもストーリーがダメだと総じてダメだよな、というのは映画でもゲームでも同じ何だよな」
うーむ。ユニバーサルスタジオジャパンさんが手がけているので、少し期待したけれども、結論的には残念であった。2時間を使うほどの価値はなかった。というよりもこれ、完結してねーじゃねーか! 主要キャラクターみんな退場しちゃって、え、これからどうなるの、って状態で、本当にそのまま終わっちまうという。これでヒットしたら続編つくろうかなみたいな考えらしい。
それなら最初から、「1」とかうたってほしい。これは詐欺といっていいのではなかろうか、と思うぐらいだ。(前に、同じように、映像はきれいだけど、ストーリーは「今後にご期待だぜ!」的に終わった映画があった。あれ以来だ。その作品が何だったか思い出せないが)
なんだっけ、シュレックとかいう作品は、結局スリーぐらいまで続いていた気がするけど、あれは、イチだけでも十分面白かった。ジュラシックパークとかもそうだろう。基本、映画は一本で完結して頂きたい。2時間の中にどうストーリーを描くか、そこが重要なんだろうと思うのだけど。
うーむ。重厚なファンタジーであれば、やっぱりゲームオブスローンズにかなわないな。まぁあれは18禁といっていいほどで、一方これは全年齢向けなのだろうから、仕方がないと思うけれども、ただ、グロテスクとかエロティックが表現できないのならば、もっとストーリーの面で力を入れて欲しいと思わざるをえない。
具体的にどこがどうだからよくなかったか、というのは、時間をかければできるけれども、もうそろそろ寝る時間だからそれはやめる。
マス・コミュニケーションにおける宣伝効果なんだろうか。しかし、アマゾンさんでも高評価である。
これ、実はシミュレーションゲームを題材にしているらしい。だから、そのファンとかが映像だけ期待していたり、という層もあるのかもしれない。
僕も、ジュラシックパークの最新作は、とりあえず恐竜がかっこよく動いてたからストーリーはともかく満足した。しかし、このウォークラフトについては、原作を知らない自分としては正直楽しめなかった。
というわけで、今回の記事として書いておくべきは、まぁ、いつも書いてることだけど、やっぱり、他者のレビューとか、あまりあてにならん、というわけだ。
と、同時に、もう少し踏み込んで書けば、結局、「読者(視聴者)に受け入れられるような作品」を描こうとしても、万人受けするような作品なんて、昨今相当に困難なのである。
みんな感覚違うのだ。来歴が異なっているのだ。普遍的な美、というのはあるかもしれない。かわいい女の子や綺麗なお姉さんは僕も好きだ。けれども、その「かわいい」とか「きれい」というのは、誰しも共通ではないのである。
もっと複雑だ。例えば、最近流行っていたらしいドラマの女優さんは僕もかわいいし綺麗だと思うが、じゃあ近しい場面で一緒になったときに、その女性を選ぶかというと、これまたちょっと違うと思う。それは何故か、「様々な社会性」が影響するからだ。これについて書くと長くなりそうだからやめる。
いや、他者の言葉を無視するとか、そういうことじゃない。そもそも、自分一人の考え何てモノ自体、幻想に過ぎない。
その上で、他人の気持ちなんてもうおもんぱかるのを、できるだけやめようと思う。
いろいろ考えて考えて、何時間もかけてメールしたとしても、思いなんて半分も伝わらない。
いろんなパターンを考えて、会話に臨んだとしても、思ったように会話が進むなんて滅多にない。
そもそも、「僕がどう思ったか」というのは、他者にとって全く関係ないことである。哀しいことだけど。
だから、他人のことなんて考えても無駄だ。
というのは、すぐさま書いておかなければいけないのは、そんなこと全くないということだ。他者を気遣い、優しくし、情けは人の為ならず、愛し、めでて、慈しみ、大切にすることが重要だ。
その上で、やっぱり、他者のことに頭を及ぼす時間を、可能な限り小さくするべきだ。
ものすごーく、端折って書いている。
恐らく、自分ですら、読み返したときに、この意味をひろうことはできない気がする。でも、だ。
とても大事なことを書いている気がする。
明日になると、きっと、あまりの恥ずかしさに赤面して悶えるだろうけれども、でも、この感覚は、酒も入っていない素面におけるこの感覚は、書き残すに値するだろう。
他者に幸せになってもらうという「目的」があった場合、それを達成するための行動方策が一番重要なのだ。
こういったら、こう感じさせるのじゃないか、こう思われるんじゃないか、そんなことに頭を使うことが無意味であるというわけだ。
愛して欲しい?
そうじゃない、それは目的としてよくない。お前さんがどうしたいかだよ。愛されたいじゃあだめだ。「愛したい」であるべきだ。
愛という概念がたとえで分かりやすい気がしたからそうしたけど、別にそれだけに限ることじゃあない。全部だ。生き方すべて。
彼女がいらないわけじゃないが、積極的につくりたいと思うわけでもない、とある方にコメントを頂いて、まさに重要な感覚であると思った。
それが目的になっていないなら、する必要が無いのであるが、しかし、いい歳して恋人もいないのか、とか、クリスマスに一人過ごすのか、とか、そういった外野的な言葉が脳内を占有する場合に注意する必要がある。
そしてそれは、時に、実在する他者ではなくて、自分自身の声だったりもするから、よーく耳を傾ける必要があると思う(実のところ、彼女を欲しているというわけだ。しかし、それは何故かということを再度考えたときに、自分の周りはみんないるし……というものだったりして、これはよくよく無限ループとなる場合がある。危険やのぅ)。
モテたい、というのは違うのだ。それって、女の子からちやほやされて、ハーレムをつくりたいということなんだろうか? そしたら、あ、暗くなってきたね、ちょっと灯りをつけましょうか、といって一万円に火を灯すぐらいお金がなきゃだめだろう。それに、ハーレムって、物語の中ではとっても素敵に思えるけれども、実際問題、お金たくさんもって、高級住宅たてて、5人ぐらいの女性を住まわせて、とかできたとして、その女性たちから「本当に愛されている」とか思えるだろうか? どーせ金にむらがってんだろ? とか思わなかろうか。いや、むしろ超越した感覚になるのだろうか、それはなってみなきゃ分からない。ただ一ついえるのは、何だかすげーめんどくさそうだ、という、僕の感覚である(かっこわらい)。
となると、モテたいというのは、目的として何かおかしい。
けれども、同時に、だ。イケメンの方が、はるかに得した人生を送れることは間違いない。(イケメンの定義は不十分だ。しかし、ここでは大して意味はない。単純に、ルックスが良い方がよい、というだけである。当たり前である。不細工よりは美しい方がいいし、汚いよりは綺麗な方がいい、単純な真理である。それに真っ向から喧嘩をうる仏教さんはんぱねーっす!)
話がそれている。そうじゃなくて、つまりだ、モテたいとか目的になりえないことを考える暇があったら、誰か一人でも本気で愛してみろってんだ!
ダメブロ界の方々の多くは、彼女欲しいとかそもそも思わないという。それに対して、負け惜しみだ、本当は欲しいに違いないとか、そんな批判をするのは全くもって無意味である。
そうじゃねーんだよ、愛すべき対象がいないんだよ。
というのは、「女性」という存在に対しての理想というか、求めるものがなくなってしまっているんだ。「彼女」や「結婚」といった事実が欲しいだけであれば、困難を極めるであろうが、それでも、努力で解決する範囲のことなのである。
北村透谷という文芸家は、一夫一婦制のロマンティックラブに対して憧れ、一人の女性を愛することにした。しかし、現実の女性は違った。絶望した透谷さんは25歳の若さで自殺した。
いやいや透谷さん、自殺何てしなくても、女性になんて憧れなくても、人生楽しむ方法がありんすよ、というのが、昨今増えてきている、おひとり様という新たな生き方、人生プランである。
というか、上のロマンティックラブの話も、もう何度も書いてきたようなことの気がするし、ああ、やっぱり歳とってくると同じ話を繰り返しするようになっちまうのかのぅ……。
ただ、脳科学的な、ダイナミックセンターコアという思考をつかさどる神経群の働きとして、繰り返し同様のことを思考することによって、斬新なアイディアが生み出される、ということなのだそうだ。
人間、結局、興味のないことだとか、重要性が無い、と判断したことは、頭の記憶からすっぽり抜け落ちていくのである。一週間前の夕食が何だっか覚えている人は、ちょっと人生の重要度がおかしいんじゃないか、ということである。(もちろん、くだらないことだが書いておけば、その一週間前が彼女と祝ったクリスマスパーティーだったりしたら、話は別である)
インプット無くして、アイディア無し。
何か煮詰まったら、インプットに励むといい。そこから新たな解決策が見出すことができるようになるのだ。
反対に、インプットもしたくないが、何だか悶々と苦しんでいるようなときは、取りあえずどんどんアウトプットするべきである。
くだらない、と思っていることであっても、それは、数日後の自分にとっては発見になるかもしれないのだから。
……うーん、何か、うまい具合にまとまるかと思ったけど、残念、諦めよう。おやすみなさい。
人間(オーク)関係が希薄
オークと人間の橋渡し的存在を担うことになった女性性をもつハイブリットさんが、何故人間に心を寄せていくのかイマイチ理解ができなかった(というよりも、描写が足りなすぎる。一目ぼれして恋に落ちるレベルで理由が希薄)。うーむ。ユニバーサルスタジオジャパンさんが手がけているので、少し期待したけれども、結論的には残念であった。2時間を使うほどの価値はなかった。というよりもこれ、完結してねーじゃねーか! 主要キャラクターみんな退場しちゃって、え、これからどうなるの、って状態で、本当にそのまま終わっちまうという。これでヒットしたら続編つくろうかなみたいな考えらしい。
それなら最初から、「1」とかうたってほしい。これは詐欺といっていいのではなかろうか、と思うぐらいだ。(前に、同じように、映像はきれいだけど、ストーリーは「今後にご期待だぜ!」的に終わった映画があった。あれ以来だ。その作品が何だったか思い出せないが)
なんだっけ、シュレックとかいう作品は、結局スリーぐらいまで続いていた気がするけど、あれは、イチだけでも十分面白かった。ジュラシックパークとかもそうだろう。基本、映画は一本で完結して頂きたい。2時間の中にどうストーリーを描くか、そこが重要なんだろうと思うのだけど。
うーむ。重厚なファンタジーであれば、やっぱりゲームオブスローンズにかなわないな。まぁあれは18禁といっていいほどで、一方これは全年齢向けなのだろうから、仕方がないと思うけれども、ただ、グロテスクとかエロティックが表現できないのならば、もっとストーリーの面で力を入れて欲しいと思わざるをえない。
具体的にどこがどうだからよくなかったか、というのは、時間をかければできるけれども、もうそろそろ寝る時間だからそれはやめる。
その割に高評価である
と、正直、全くおすすめできる作品ではないのだけれども、案の定(?)、高評価なのである。マス・コミュニケーションにおける宣伝効果なんだろうか。しかし、アマゾンさんでも高評価である。
これ、実はシミュレーションゲームを題材にしているらしい。だから、そのファンとかが映像だけ期待していたり、という層もあるのかもしれない。
僕も、ジュラシックパークの最新作は、とりあえず恐竜がかっこよく動いてたからストーリーはともかく満足した。しかし、このウォークラフトについては、原作を知らない自分としては正直楽しめなかった。
というわけで、今回の記事として書いておくべきは、まぁ、いつも書いてることだけど、やっぱり、他者のレビューとか、あまりあてにならん、というわけだ。
と、同時に、もう少し踏み込んで書けば、結局、「読者(視聴者)に受け入れられるような作品」を描こうとしても、万人受けするような作品なんて、昨今相当に困難なのである。
みんな感覚違うのだ。来歴が異なっているのだ。普遍的な美、というのはあるかもしれない。かわいい女の子や綺麗なお姉さんは僕も好きだ。けれども、その「かわいい」とか「きれい」というのは、誰しも共通ではないのである。
もっと複雑だ。例えば、最近流行っていたらしいドラマの女優さんは僕もかわいいし綺麗だと思うが、じゃあ近しい場面で一緒になったときに、その女性を選ぶかというと、これまたちょっと違うと思う。それは何故か、「様々な社会性」が影響するからだ。これについて書くと長くなりそうだからやめる。
周りに流されるな自分を信じろ
取りあえず、思ったのは、その、なんだ、好き勝手やるしかないってことだよ。いや、他者の言葉を無視するとか、そういうことじゃない。そもそも、自分一人の考え何てモノ自体、幻想に過ぎない。
その上で、他人の気持ちなんてもうおもんぱかるのを、できるだけやめようと思う。
いろいろ考えて考えて、何時間もかけてメールしたとしても、思いなんて半分も伝わらない。
いろんなパターンを考えて、会話に臨んだとしても、思ったように会話が進むなんて滅多にない。
そもそも、「僕がどう思ったか」というのは、他者にとって全く関係ないことである。哀しいことだけど。
だから、他人のことなんて考えても無駄だ。
というのは、すぐさま書いておかなければいけないのは、そんなこと全くないということだ。他者を気遣い、優しくし、情けは人の為ならず、愛し、めでて、慈しみ、大切にすることが重要だ。
その上で、やっぱり、他者のことに頭を及ぼす時間を、可能な限り小さくするべきだ。
ものすごーく、端折って書いている。
恐らく、自分ですら、読み返したときに、この意味をひろうことはできない気がする。でも、だ。
とても大事なことを書いている気がする。
明日になると、きっと、あまりの恥ずかしさに赤面して悶えるだろうけれども、でも、この感覚は、酒も入っていない素面におけるこの感覚は、書き残すに値するだろう。
目的を果たす
他者の感情が重要なのではない。他者に幸せになってもらうという「目的」があった場合、それを達成するための行動方策が一番重要なのだ。
こういったら、こう感じさせるのじゃないか、こう思われるんじゃないか、そんなことに頭を使うことが無意味であるというわけだ。
愛して欲しい?
そうじゃない、それは目的としてよくない。お前さんがどうしたいかだよ。愛されたいじゃあだめだ。「愛したい」であるべきだ。
愛という概念がたとえで分かりやすい気がしたからそうしたけど、別にそれだけに限ることじゃあない。全部だ。生き方すべて。
主体的に生きる
結局、主体的に生きるしかないんだ、そう思った。彼女がいらないわけじゃないが、積極的につくりたいと思うわけでもない、とある方にコメントを頂いて、まさに重要な感覚であると思った。
それが目的になっていないなら、する必要が無いのであるが、しかし、いい歳して恋人もいないのか、とか、クリスマスに一人過ごすのか、とか、そういった外野的な言葉が脳内を占有する場合に注意する必要がある。
そしてそれは、時に、実在する他者ではなくて、自分自身の声だったりもするから、よーく耳を傾ける必要があると思う(実のところ、彼女を欲しているというわけだ。しかし、それは何故かということを再度考えたときに、自分の周りはみんないるし……というものだったりして、これはよくよく無限ループとなる場合がある。危険やのぅ)。
モテたいという感覚への懐疑
なんだっけ、話しがそれた。モテたい、というのは違うのだ。それって、女の子からちやほやされて、ハーレムをつくりたいということなんだろうか? そしたら、あ、暗くなってきたね、ちょっと灯りをつけましょうか、といって一万円に火を灯すぐらいお金がなきゃだめだろう。それに、ハーレムって、物語の中ではとっても素敵に思えるけれども、実際問題、お金たくさんもって、高級住宅たてて、5人ぐらいの女性を住まわせて、とかできたとして、その女性たちから「本当に愛されている」とか思えるだろうか? どーせ金にむらがってんだろ? とか思わなかろうか。いや、むしろ超越した感覚になるのだろうか、それはなってみなきゃ分からない。ただ一ついえるのは、何だかすげーめんどくさそうだ、という、僕の感覚である(かっこわらい)。
となると、モテたいというのは、目的として何かおかしい。
けれども、同時に、だ。イケメンの方が、はるかに得した人生を送れることは間違いない。(イケメンの定義は不十分だ。しかし、ここでは大して意味はない。単純に、ルックスが良い方がよい、というだけである。当たり前である。不細工よりは美しい方がいいし、汚いよりは綺麗な方がいい、単純な真理である。それに真っ向から喧嘩をうる仏教さんはんぱねーっす!)
話がそれている。そうじゃなくて、つまりだ、モテたいとか目的になりえないことを考える暇があったら、誰か一人でも本気で愛してみろってんだ!
ダメブロ界の方々の多くは、彼女欲しいとかそもそも思わないという。それに対して、負け惜しみだ、本当は欲しいに違いないとか、そんな批判をするのは全くもって無意味である。
そうじゃねーんだよ、愛すべき対象がいないんだよ。
というのは、「女性」という存在に対しての理想というか、求めるものがなくなってしまっているんだ。「彼女」や「結婚」といった事実が欲しいだけであれば、困難を極めるであろうが、それでも、努力で解決する範囲のことなのである。
北村透谷という文芸家は、一夫一婦制のロマンティックラブに対して憧れ、一人の女性を愛することにした。しかし、現実の女性は違った。絶望した透谷さんは25歳の若さで自殺した。
いやいや透谷さん、自殺何てしなくても、女性になんて憧れなくても、人生楽しむ方法がありんすよ、というのが、昨今増えてきている、おひとり様という新たな生き方、人生プランである。
プロットを書かないと収拾がつかなくなる
あれ、この記事って、ウォークラフトの感想じゃなかったの?(かっこわらい)というか、上のロマンティックラブの話も、もう何度も書いてきたようなことの気がするし、ああ、やっぱり歳とってくると同じ話を繰り返しするようになっちまうのかのぅ……。
ただ、脳科学的な、ダイナミックセンターコアという思考をつかさどる神経群の働きとして、繰り返し同様のことを思考することによって、斬新なアイディアが生み出される、ということなのだそうだ。
人間、結局、興味のないことだとか、重要性が無い、と判断したことは、頭の記憶からすっぽり抜け落ちていくのである。一週間前の夕食が何だっか覚えている人は、ちょっと人生の重要度がおかしいんじゃないか、ということである。(もちろん、くだらないことだが書いておけば、その一週間前が彼女と祝ったクリスマスパーティーだったりしたら、話は別である)
インプット無くして、アイディア無し。
何か煮詰まったら、インプットに励むといい。そこから新たな解決策が見出すことができるようになるのだ。
反対に、インプットもしたくないが、何だか悶々と苦しんでいるようなときは、取りあえずどんどんアウトプットするべきである。
くだらない、と思っていることであっても、それは、数日後の自分にとっては発見になるかもしれないのだから。
……うーん、何か、うまい具合にまとまるかと思ったけど、残念、諦めよう。おやすみなさい。
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今日の一言「影響されることの恐怖が孤独を招く」
ええと、サイコパス、一期の半分ぐらい見た。これは良作に思う。しかし、ちょっと調べたところ、一般的な評価はかなり低いようだ。シビュラシステムが欠陥システム過ぎてダメだ、ということが一つの要因らしい。
けれども、思うに、その「システム」というものに対する認識の違いが感覚の違いなんだと思う。
この作品はそもそも、システム(今流行のAIなどを含めてもいい)の完璧性への懐疑をしたいんだと思う。その意味で、この半分ぐらいみた段階では成功していると思うのだけれども、いやいや、裁判も何もないままドミネーター(対象となる人の性格や思考や感情などから判断する犯罪係数によって制圧から処刑までしてくれる銃)が全部判断してくれて、それを良しとする社会何て、リアリティなさすぎっしょ、というのが、批判の主たるものじゃなかろうか。
それは、もっともなようで、あまり興味をもてない指摘である。
人は何故生きるのか、生きるために生きるのだ、というぐらい、トートロジーでつまらない感想に思える。
そもそも、資本主義だとか、法律だとか、宗教とか、人のつくった広義のシステムで、完璧なものなどあったろうか。
世界的な宗教は、人類の愛と普遍性を求めていただろうが、聖地を邪教徒から取り戻そうと、幼い子供たちまで戦地に送り込んだ。そして、戦うことが死後神の国に行けると信じ込ませた。今の資本主義は大分改善されたものの、勃興期では、過剰な労働で多くの人が命を落とした。昨今のブラック企業どころの騒ぎではなかっただろう。
そうした、システムを信奉する人たちへの懐疑、警鐘というのをしたいのだろうと、2話か、3話ぐらいまで見た段階で何となく思ったが、半分ぐらい見た段階で、(恐らく)ラスボスのマキシマが登場したことで、彼の台詞の中などで分かった。
しかし、前述のドミネーターは反応しない。犯罪係数は低いままだ。撃てない。
ますますエスカレートするマキシマの行動、ついには人質を……。
それでも、ドミネーターは反応しない。おかしいだろ! 人を殺す意志をもつ相手に対して、犯罪ではないと、「悪」ではないというのか! 欠陥システムだ! というわけである。
しかしそれこそが、システムを「神」として信奉し、自らの意志を機械に任せてしまった人々への警鐘というわけである。
まぁ、これについては、今後、何故シビュラシステムが、マキシマの犯罪係数を計測できなかったのか、もう少し明確な説明が欲しいところだ。
ただ、批判ばかりする人のレビューはつまらないから、勝手な妄想を書くと、恐らく、多くの「普通の犯罪者」は、「自己の快楽」を求めているのではなかろうか。シヴュラシステムは、人類の幸福、正しいこと、正義、発展に寄与する指数を計測して定め、それと乖離する行動や思考や感情や性格を持つ人を、犯罪者認定していると思われる。
マキシマ氏の場合は、彼の言動の表面的に見てしまうと、全くもってクソ外道なわけだけれども、彼の本来的な意図、理念、理想自体は、シヴュラシステムをも、「正しい」と判断させるだけの、普遍性や正義をもちあわせているということなのでは無かろうか。
か弱い女性の喉を掻っ切ることは正義などでは無いだろう。しかし、それを補ってあまりあるほど、「人類」という存在への禍々しくも神々しい「愛」とか「正義」みたいなものに満ちているということなのでは無かろうか。
(そうはいっても、彼自身も何か楽しそうであるし、「自己」はなくて、人類の幸福を希求しているのだ、という説明はどうにも不十分な気がするし、まぁそこら辺は今後の展開に期待しよう)
問題は、面白いと、自分は思った、ということのメモなのである。一方で、この作品の評価はかなり低いようだ。何故二期まで製作が決まったのか全く理解できないという意見も多数のようである。
それによって僕は思った、あれ、やっぱり、この作品面白くないのかな、と。
他者からの影響というか、周りに流されるというか、空気を読むというか、そういうこと全般を、特に最近、嫌悪すべきと思っている。
いやもともと、何か流行にのるとか、そういうのに気持ち悪さを覚えていたし、右に倣え的な行動や考え方というのも違和感があった。いまさら、である。
ただ、そうはいっても、やっぱり、人間っていうのは社会的な動物であって~みたいな、そういう常識的なものによって、やっぱり、「正しい」考え方ってのがあるのだろうと、そんな風に合わせてやってきたことが多かった。
結局、何か上手くやろうと思ってやったことって、今になって残ってないよな。
サイトの運営なんて、金にもならなければ、周囲の人に言わせたら、無駄でしかないということになる。英単語の一つでも、数学の問題といたり、文系がいいなら、国語の文章題でもやってた方がましなんじゃないか、と言われるだろう。
けれども、交友関係然り、勉強しかり、趣味しかり。
結局、今となって、30代となって残ってるものは、本当に「やりたい」「やろう」と思ったことだけである。
これまでは、ローカルなコミュニティで一生を過ごした。家族、血縁、地域、学校、会社、など。それがすべてであった。だから、そこでの地位の向上や、周囲との関係性の円滑化が、人生始まりから終わりまで、至上命題だった。
今はどうなのか?
全部が全部そうじゃないし、未だローカルな関係が重要なのは、あまり変わっていないと思う。(よく分からないけどかっこいいから使えば、未だゲマインシャフトが有効である、とか言ってみたり)
だから、ローカルがいいとか、グローバルがいいとか、そういう問題じゃなくて、重要なのは、今の時代は、「選択が可能になった」ことにある。
そして、すぐさまインプットすべきは、自分はどうであるか、ということである。
一般論的なことしか書かれないブログは、総じて面白くない。
スピリチュアル系のブログであれ、そのスピリチュアルを批判するブログであれ、人類とはー、新興宗教の奴らはー、愛とはー、悩みを解決するにはーとか。ぶっちゃけ、全部くだらないと最近思う。いやもちろん、最初はいろいろ参考にさせてもらったものは大いにある。ザ・シークレットの引き寄せの法則とか、面白い本だった。けれども、いまや、それらの、二次、三次、四次……といった情報ばかりである。いや、反転すぐに書いておけば、それらが無駄とは思わない、何故ならば、最初に書いたように、ローカルなコミュニティは未だ有効性はなくなっていないと思うからであって、というのは、同じ神託であっても、全く知らない人からきくのと、信頼する身近な人から聞くのでは、意味合い(影響力)がまったく異なるからだ。
つまり、「僕にとって」は、それらはくだらない、というわけである。
何かを批判するということは、正直、あまり意味ある行為ではないのだ。
その批判とは、「批判しなければ自分に害が及ぶ」からするべきであるのだ。全く関係ないところで、ただ批判だけするというのは、「批評家」という職業であれば別だが、単なる暇つぶしでしかないのだが、それは全く持って悪趣味な暇つぶしと言わざるを得ない。
サイコパスで、全身サイボーグ化して、後は脳みそだけだね~その脳みそを若返らせるには、狩りで殺した人間の骨でつくったパイポを吸って、血肉わき踊るような壮絶な命のやりとりをすることだよねーといっていた、サイボーグ技術の会社の会長さんぐらい悪趣味である。
ただ、ちょっと離れて考えてみれば、どうして批判のための批判をしてしまうのか、その理由も理解できる。
つまり、秩序というのは、結局共同主観的なものであって、その批判する対象というのは、自分の感覚から「ズレ」があるものである。そのズレをほっておいて、そのズレが段々と大きくなって、それが主流となってしまうと、結局のところ自分が困るのである。
だから、異端をできる限り排除しようとする心が生じる。
だから、とても人間的な行為である。
けれども、それって、隣の国の野蛮人、ちょっと人間とは思えないから虐殺するよ~というのと、同じ心性と思ってしまう。いやもちろん、生物的に殺すのと、社会的に殺すのでは、意味合いもその抵抗感も違うことだろうが、まぁ、上に取り上げた会長さんの言葉を借りると「程度の問題」である。
猟奇的な殺人を繰り返す高校生女子の犯人を追い詰めた際、そのカリスマを持つ女生徒を先生も生徒もみんな守ろうとする。そんな中、マサオカさんは、クソ女を守ろうとする先生を取り押さえて、こう言い放つ。
「いやー先生、今のご時世、少年法とか無いんですわ」
やば、しびれた、濡れた、かっこいい!(とか、こんなシーンに感動するとかやっぱりちょっと俺はおかしいのか(かっこわらい))
まぁ、取りあえず、二期をみるかどうかはまだ未定だけれども、年内最後に近づいて、面白い作品に出会えたのはよかった。(年内期待していた小説は残念ながら翌年に持ち越しなのか……)
システムに対する認識
いやぁ、マキシマ氏チーター並みに強い。その強さが批判になっているようだ。ええと、サイコパス、一期の半分ぐらい見た。これは良作に思う。しかし、ちょっと調べたところ、一般的な評価はかなり低いようだ。シビュラシステムが欠陥システム過ぎてダメだ、ということが一つの要因らしい。
けれども、思うに、その「システム」というものに対する認識の違いが感覚の違いなんだと思う。
この作品はそもそも、システム(今流行のAIなどを含めてもいい)の完璧性への懐疑をしたいんだと思う。その意味で、この半分ぐらいみた段階では成功していると思うのだけれども、いやいや、裁判も何もないままドミネーター(対象となる人の性格や思考や感情などから判断する犯罪係数によって制圧から処刑までしてくれる銃)が全部判断してくれて、それを良しとする社会何て、リアリティなさすぎっしょ、というのが、批判の主たるものじゃなかろうか。
それは、もっともなようで、あまり興味をもてない指摘である。
人は何故生きるのか、生きるために生きるのだ、というぐらい、トートロジーでつまらない感想に思える。
そもそも、資本主義だとか、法律だとか、宗教とか、人のつくった広義のシステムで、完璧なものなどあったろうか。
世界的な宗教は、人類の愛と普遍性を求めていただろうが、聖地を邪教徒から取り戻そうと、幼い子供たちまで戦地に送り込んだ。そして、戦うことが死後神の国に行けると信じ込ませた。今の資本主義は大分改善されたものの、勃興期では、過剰な労働で多くの人が命を落とした。昨今のブラック企業どころの騒ぎではなかっただろう。
そうした、システムを信奉する人たちへの懐疑、警鐘というのをしたいのだろうと、2話か、3話ぐらいまで見た段階で何となく思ったが、半分ぐらい見た段階で、(恐らく)ラスボスのマキシマが登場したことで、彼の台詞の中などで分かった。
ラスボス登場
マキシマは、頭も良くてイケメンで、運動神経も抜群だけど、犯罪者だ。女の子を人質にして、カミソリで切り刻むぐらい悪者だ。しかし、前述のドミネーターは反応しない。犯罪係数は低いままだ。撃てない。
ますますエスカレートするマキシマの行動、ついには人質を……。
それでも、ドミネーターは反応しない。おかしいだろ! 人を殺す意志をもつ相手に対して、犯罪ではないと、「悪」ではないというのか! 欠陥システムだ! というわけである。
しかしそれこそが、システムを「神」として信奉し、自らの意志を機械に任せてしまった人々への警鐘というわけである。
まぁ、これについては、今後、何故シビュラシステムが、マキシマの犯罪係数を計測できなかったのか、もう少し明確な説明が欲しいところだ。
ただ、批判ばかりする人のレビューはつまらないから、勝手な妄想を書くと、恐らく、多くの「普通の犯罪者」は、「自己の快楽」を求めているのではなかろうか。シヴュラシステムは、人類の幸福、正しいこと、正義、発展に寄与する指数を計測して定め、それと乖離する行動や思考や感情や性格を持つ人を、犯罪者認定していると思われる。
マキシマ氏の場合は、彼の言動の表面的に見てしまうと、全くもってクソ外道なわけだけれども、彼の本来的な意図、理念、理想自体は、シヴュラシステムをも、「正しい」と判断させるだけの、普遍性や正義をもちあわせているということなのでは無かろうか。
か弱い女性の喉を掻っ切ることは正義などでは無いだろう。しかし、それを補ってあまりあるほど、「人類」という存在への禍々しくも神々しい「愛」とか「正義」みたいなものに満ちているということなのでは無かろうか。
(そうはいっても、彼自身も何か楽しそうであるし、「自己」はなくて、人類の幸福を希求しているのだ、という説明はどうにも不十分な気がするし、まぁそこら辺は今後の展開に期待しよう)
他者からの影響
というよりも、レビューをしようと思って記事を書こうと思ったわけではないのだ。問題は、面白いと、自分は思った、ということのメモなのである。一方で、この作品の評価はかなり低いようだ。何故二期まで製作が決まったのか全く理解できないという意見も多数のようである。
それによって僕は思った、あれ、やっぱり、この作品面白くないのかな、と。
他者からの影響というか、周りに流されるというか、空気を読むというか、そういうこと全般を、特に最近、嫌悪すべきと思っている。
いやもともと、何か流行にのるとか、そういうのに気持ち悪さを覚えていたし、右に倣え的な行動や考え方というのも違和感があった。いまさら、である。
ただ、そうはいっても、やっぱり、人間っていうのは社会的な動物であって~みたいな、そういう常識的なものによって、やっぱり、「正しい」考え方ってのがあるのだろうと、そんな風に合わせてやってきたことが多かった。
結局、何か上手くやろうと思ってやったことって、今になって残ってないよな。
サイトの運営なんて、金にもならなければ、周囲の人に言わせたら、無駄でしかないということになる。英単語の一つでも、数学の問題といたり、文系がいいなら、国語の文章題でもやってた方がましなんじゃないか、と言われるだろう。
けれども、交友関係然り、勉強しかり、趣味しかり。
結局、今となって、30代となって残ってるものは、本当に「やりたい」「やろう」と思ったことだけである。
選択的関係性
これは、時代の進歩を素直に喜ぶべきである。これまでは、ローカルなコミュニティで一生を過ごした。家族、血縁、地域、学校、会社、など。それがすべてであった。だから、そこでの地位の向上や、周囲との関係性の円滑化が、人生始まりから終わりまで、至上命題だった。
今はどうなのか?
全部が全部そうじゃないし、未だローカルな関係が重要なのは、あまり変わっていないと思う。(よく分からないけどかっこいいから使えば、未だゲマインシャフトが有効である、とか言ってみたり)
だから、ローカルがいいとか、グローバルがいいとか、そういう問題じゃなくて、重要なのは、今の時代は、「選択が可能になった」ことにある。
そして、すぐさまインプットすべきは、自分はどうであるか、ということである。
一般論的なことしか書かれないブログは、総じて面白くない。
スピリチュアル系のブログであれ、そのスピリチュアルを批判するブログであれ、人類とはー、新興宗教の奴らはー、愛とはー、悩みを解決するにはーとか。ぶっちゃけ、全部くだらないと最近思う。いやもちろん、最初はいろいろ参考にさせてもらったものは大いにある。ザ・シークレットの引き寄せの法則とか、面白い本だった。けれども、いまや、それらの、二次、三次、四次……といった情報ばかりである。いや、反転すぐに書いておけば、それらが無駄とは思わない、何故ならば、最初に書いたように、ローカルなコミュニティは未だ有効性はなくなっていないと思うからであって、というのは、同じ神託であっても、全く知らない人からきくのと、信頼する身近な人から聞くのでは、意味合い(影響力)がまったく異なるからだ。
つまり、「僕にとって」は、それらはくだらない、というわけである。
批判軸の構築
上のようなことは、それ自体くだらないと思っている。何かを批判するということは、正直、あまり意味ある行為ではないのだ。
その批判とは、「批判しなければ自分に害が及ぶ」からするべきであるのだ。全く関係ないところで、ただ批判だけするというのは、「批評家」という職業であれば別だが、単なる暇つぶしでしかないのだが、それは全く持って悪趣味な暇つぶしと言わざるを得ない。
サイコパスで、全身サイボーグ化して、後は脳みそだけだね~その脳みそを若返らせるには、狩りで殺した人間の骨でつくったパイポを吸って、血肉わき踊るような壮絶な命のやりとりをすることだよねーといっていた、サイボーグ技術の会社の会長さんぐらい悪趣味である。
ただ、ちょっと離れて考えてみれば、どうして批判のための批判をしてしまうのか、その理由も理解できる。
つまり、秩序というのは、結局共同主観的なものであって、その批判する対象というのは、自分の感覚から「ズレ」があるものである。そのズレをほっておいて、そのズレが段々と大きくなって、それが主流となってしまうと、結局のところ自分が困るのである。
だから、異端をできる限り排除しようとする心が生じる。
だから、とても人間的な行為である。
けれども、それって、隣の国の野蛮人、ちょっと人間とは思えないから虐殺するよ~というのと、同じ心性と思ってしまう。いやもちろん、生物的に殺すのと、社会的に殺すのでは、意味合いもその抵抗感も違うことだろうが、まぁ、上に取り上げた会長さんの言葉を借りると「程度の問題」である。
マサオカのおやっさんの台詞
突然、サイコパスの作品に戻ると、一番好きなキャラはマサオカさんだな。猟奇的な殺人を繰り返す高校生女子の犯人を追い詰めた際、そのカリスマを持つ女生徒を先生も生徒もみんな守ろうとする。そんな中、マサオカさんは、クソ女を守ろうとする先生を取り押さえて、こう言い放つ。
「いやー先生、今のご時世、少年法とか無いんですわ」
やば、しびれた、濡れた、かっこいい!(とか、こんなシーンに感動するとかやっぱりちょっと俺はおかしいのか(かっこわらい))
まぁ、取りあえず、二期をみるかどうかはまだ未定だけれども、年内最後に近づいて、面白い作品に出会えたのはよかった。(年内期待していた小説は残念ながら翌年に持ち越しなのか……)
今日の一言「アニメ、サイコパス面白い」
サイコパスというアニメーション作品の第一期。第二期はいまいちであるという噂を聞くけれども、取りあえず序盤はいい感じだ。マサオカのおやっさんかっこいい。「ネットで検索? 不要だ。人間不平等起源論、俺の頭には入っている」とか、言ってみたい台詞である。
2012年ごろの作品のようだ。攻殻機動隊を手掛けたプロダクションIGが製作に携わっている。Fateに携わった虚淵玄氏も関わっているようである。あまり、声優とか、監督とか、脚本とか、制作会社とか、そういう「中の人」的なのにはあまり興味なかったけれども、いい作品を効率よく求めるなら、やっぱり知名度がある人を追った方がいいのかもしれないなぁと思った。最近、涼宮ハルヒの憂鬱を見返してみたりしてたが、今見ても面白い。京都アニメーションさんの作品も、フルメタルパニックとかもいい仕事だなぁと思ったりする。
ただやっぱり、「誰がつくったか」というよりも、その作品自体がどうであったか、というのが一番重要なことだと僕は思う。あくまで、効率的に良い作品を探すなら、その確率を高めるなら、という話しだろう。
と、まぁ、こんな大した面白くもないことを書いておく必要があるのかと思いつつも、いまいち、何が面白いかということは、今の自分の感覚と、この先の自分の感覚(後から読み返したとき)とで異なっているから、仕方がない、書いておくかと。
本来、被害者である女性だが、レイプされたりひどいことされたせいで、「憎しみ」とかそんな感情が高まってしまったのかもしれない。
それによって、ドミネーター(犯罪係数によって対象を識別し攻撃できる銃)で、エリミネーター(殺害対象)にまで犯罪係数を高めてしまう。
同僚が、レイプ犯のみならず、被害者も手にかけようとした瞬間、主人公は、同僚をとめて、結果的に被害者女性は助かる。
めでたしめでたし。
しかし、その後の展開で僕は驚愕した。
なんと、その被害者女性は、エリミネーターから、制圧対象まで犯罪係数が下がり、挙句の果てに、セラピーによりますます回復傾向になっていっている、というのである!
え、いいことじゃないか、助かって良かったね、というわけだ。何を驚くことがあるだろう?
驚きだよ! 完璧なシステムたるシビュラ(しびら?)システムにおいて、一度は「もう更生の余地ないからさっさとしっかり照準合わせて殺っちゃってー」と判定されたあとに、極度の犯罪現場の緊張状態が回復し、セラピーを受けることによって、回復してしまうということだ。
これは恐ろしいことである。これは、冤罪ではないのだろうか? 恐らく、そうではないのだ。一度犯罪係数が高まって、殺害対象になって、ちょうど執行官(犯罪者を処分する仕事をする人)が目の前にいたら、裁判もなく殺害なのである。
僕は体当たりされてしまった被害者なのであるが、しかし、「危険なことをしようとする人」(この場合、むかつくクソ野郎に消えてもらいたいと本気で思ったこと)と判断されてしまえば、「逮捕される」対象になりえるのである。
このサイコパスの世界は、全員が、感情指数も計測されて、濁っていたら強制的にセラピーを受けさせられる。
精密なことに、いちゃいちゃするカップルをみて、ショッピングモールで苛立ちを高めた孤独な男性も、「ちょっと感情が濁っちゃってますね~。ご同行いただけますか?」と任意同行(いや強制収監)されてしまうのである。
そんな世界が生きづらいのではないか?
という疑問は、さほど重要視されることはない。
このことは、何となく感じてはいたけれども、先般のサピエンス全史なんかを読んでいると、そもそも、農耕を始めた時点で、人類は、「生きづらい」生活を選択していったのだ。
僕たちが効率をもとめ、富を求め、正義をもとめ、幸せを求め……多くのものを求めていけばいくほどに、新たな「生きづらさ」が蔓延していくのだ。
しかし、すぐさま書くべきは、その「生きづらさ」は、大半の人たちは気づきもしない。多くの子どもや子孫に囲まれ、幸せな一生を送るのである。ところが、その「生きづらさ=常識」というものから、零れ落ちてしまう人は必ず存在している。これまでも存在していたし、これからも存在し続ける。
社会性。
人が生きていくうえで必ず身につけなければいけない、他者と協力するという行為および、それに伴う思考や感情。
これは避けることはできない。そしてそのことが、同時に人の生存戦略の一つである「多様性」という概念との軋轢や矛盾をうみ、これまた発生する負の感情の数々。
気に入らない奴は、殺してしまいたい。社会性を維持するためには、足手まといは排除すべきだ。
この感情は、一般的ではあるが、「人類の平等」や「福祉国家」というイデオロギーにおいては、そのまま表現することは許されない。弱者の切り捨て、ということで、批判の対象にされる。
そこで、サイコパスという作品においては、「シビラシステム」という、「完璧な」システムが、その「切り捨ててもいい人たち」を判断してくれるのである。
これは、「神」の代替である。
神が人類を造物し、それゆえに人は全員平等なのだ、という「神話」を、情報社会において人は信じることができなくなった。
その代わりとなったのが、「完璧なシステム」である。
システムは、人でないがゆえに、誤ることがない。絶対にいつも正しい。だから、それに基づく判断は、例え「殺人」だとしても、正しいのである、と。
僕たちは、資本主義法治国家や、IT社会の中で生きているけれども、まぁ結局のところ、それらも、多くの巨大な(噂話で繋がってられる150人程度の集団よりも遥かに大きな)集団を維持するための、共同主観的(共同幻想)な方策なのである。
法律は、絶対正しいものだと思う。それに従わなければ、罰せられる。
しかし、ハンムラビ法典もまた、法の体系である。しかし、前1776年あたりのハンムラビ法典では、人類平等なんてうたわれていない。上層民と、自由民と、奴隷にわけられて、されに男女平等なんかもない。女も子供も、男よりも低い価値しか認められていなかった。
そんな、不平等で野蛮な法であっても、従わなければ罰せられた。どうやって? 武力である。
その構造は、今も変わらない。法律に従わなければ、例えば罰金になったりする。けれども、それも無視し続けたらどうなろうか? 警察が出動し、身柄を拘束され、独房にぶっこまれる。
これは、法的で正当な「正義」なのだけれども、その行為だけを考えてみれば、殴って拉致って閉じ込める、ということである。
つまり、頭のいい法律家たちが支配しているようなイメージがある法律だけれども、その法律を維持するには、権力=武力が必要不可欠なのである。
だから、軍備縮小とか、軍隊は不要だとか、そういう議論を否定するつもりも、政治的な思考をする気もないけれども、まぁ難しいことだろうなと思う。理想的には、世界平和をこよなく希求するけれども、「強制力」がないルールは、そもそもルールとして成り立たない、形骸化すると、僕は思ってしまう。この考えは、もしかすると、感情の濁りや犯罪係数が高いからなのかもしれないけれども。
すごく、自分の、この記事と主旨が関係ないことを書くと、
某国の基地を撤廃しろと主張する人たちがいたとして、その人たちは、戦闘機の爆音や兵士の婦女暴行などで長年苦しんでいることなのだけれども、ルールを破って危険な国に攻め入られたとき、それに対抗する「力」は要しておく必要がある。ということは、付近の住民の「騒音被害」よりも優先される、と考えられることであるので、ただ、基地撤廃を主張するだけでは、結局のところ、多くの人の理解を得ることは不可能になってくる。
しかし、その論理もまた不十分であり、そもそも、他国に攻め入られたときにその基地の某国が、本当に自国を守ってくれるという保障もない。その保障を、お金やルールや何でもいいが、確立していくというのが、本当の外交として重要なことである。
より大きな目的を掲げられたとき、人は、「みんなのためなら仕方がないか」と考え始めることになる。しかし、その大きな目的は、往々にして中身がない場合がある。具体的方策に基づいた方針は強い。しかしその具体的な方策というのは、実は、目先の、小さい些末なことの積み重ねなのである。理想と現実とのギャップ。これを丁寧に埋めていく作業なくして、「調整ごと」を上手くやることはできない。
しかしながら。
ここが重要なことだけれども、いくら「論理的」で「正義」で正しく普遍的であろうとも、それは、「強制力」を伴ったものでなければ、役に立たないことが往々にしてあるし、
逆に、いくら正義や論理がぶっこわれていても、「いいからやれ!!」と無理やり従わされるような場面も、我々生きていく中では当然直面していくことなのである。
買えない理由を明確に伝えて、説得することも大事かもしれないが、そもそも、「ダメなもんはダメ」ということを教えてもいいと思う。
理詰めでしか動けない人間は、時に弱い。がーん!とぶったたいて、ダメなもんはダメ! といって、泣こうが喚こうが、絶対にゆずらない。そんなことも必要だろう。
が、それも、そればっかり続けていると、「なにやっても、いくら正しくてもだめなもんはだめ」という無気力を醸成する場合もある。
いやはや、教育とは難しいものである。まぁ関係ないんだけど。
久々に当たり作品
小見出しがいつも大げさなんだよな。「久々に」とか、別にそんなこと無かろうが。いや、ただ、ある方にはとても申し訳ないのだけれども、最近見たカバネリや東京マグニチュード8.0より面白かった。まだ4話までぐらいしか見れていないけれども。サイコパスというアニメーション作品の第一期。第二期はいまいちであるという噂を聞くけれども、取りあえず序盤はいい感じだ。マサオカのおやっさんかっこいい。「ネットで検索? 不要だ。人間不平等起源論、俺の頭には入っている」とか、言ってみたい台詞である。
2012年ごろの作品のようだ。攻殻機動隊を手掛けたプロダクションIGが製作に携わっている。Fateに携わった虚淵玄氏も関わっているようである。あまり、声優とか、監督とか、脚本とか、制作会社とか、そういう「中の人」的なのにはあまり興味なかったけれども、いい作品を効率よく求めるなら、やっぱり知名度がある人を追った方がいいのかもしれないなぁと思った。最近、涼宮ハルヒの憂鬱を見返してみたりしてたが、今見ても面白い。京都アニメーションさんの作品も、フルメタルパニックとかもいい仕事だなぁと思ったりする。
ただやっぱり、「誰がつくったか」というよりも、その作品自体がどうであったか、というのが一番重要なことだと僕は思う。あくまで、効率的に良い作品を探すなら、その確率を高めるなら、という話しだろう。
と、まぁ、こんな大した面白くもないことを書いておく必要があるのかと思いつつも、いまいち、何が面白いかということは、今の自分の感覚と、この先の自分の感覚(後から読み返したとき)とで異なっているから、仕方がない、書いておくかと。
犯罪係数
最初の事件において、ある被害者の女性が、監禁され暴行、レイプされていたことで、犯罪係数があがってしまった。犯罪係数とは、シヴュラ(しびら?)システムという全人類を管理するネットワークシステムにおいて、その人の感情や思考等を分析し、「犯罪を起こしそうな可能性」を数値化したものである。(←勝手な僕の解釈)本来、被害者である女性だが、レイプされたりひどいことされたせいで、「憎しみ」とかそんな感情が高まってしまったのかもしれない。
それによって、ドミネーター(犯罪係数によって対象を識別し攻撃できる銃)で、エリミネーター(殺害対象)にまで犯罪係数を高めてしまう。
同僚が、レイプ犯のみならず、被害者も手にかけようとした瞬間、主人公は、同僚をとめて、結果的に被害者女性は助かる。
めでたしめでたし。
しかし、その後の展開で僕は驚愕した。
なんと、その被害者女性は、エリミネーターから、制圧対象まで犯罪係数が下がり、挙句の果てに、セラピーによりますます回復傾向になっていっている、というのである!
え、いいことじゃないか、助かって良かったね、というわけだ。何を驚くことがあるだろう?
驚きだよ! 完璧なシステムたるシビュラ(しびら?)システムにおいて、一度は「もう更生の余地ないからさっさとしっかり照準合わせて殺っちゃってー」と判定されたあとに、極度の犯罪現場の緊張状態が回復し、セラピーを受けることによって、回復してしまうということだ。
これは恐ろしいことである。これは、冤罪ではないのだろうか? 恐らく、そうではないのだ。一度犯罪係数が高まって、殺害対象になって、ちょうど執行官(犯罪者を処分する仕事をする人)が目の前にいたら、裁判もなく殺害なのである。
タイミング性
先日、トラブルにより、口論というか、あわや喧嘩のような状態になったとき、僕は暴力を避けて戦略的撤退(といえばかっこいいかもしれないが、ただ危険を感じて逃げただけである)をした際に、おそらく、感情は濁り、犯罪係数は格段にとびはねたことだろう。僕は体当たりされてしまった被害者なのであるが、しかし、「危険なことをしようとする人」(この場合、むかつくクソ野郎に消えてもらいたいと本気で思ったこと)と判断されてしまえば、「逮捕される」対象になりえるのである。
このサイコパスの世界は、全員が、感情指数も計測されて、濁っていたら強制的にセラピーを受けさせられる。
精密なことに、いちゃいちゃするカップルをみて、ショッピングモールで苛立ちを高めた孤独な男性も、「ちょっと感情が濁っちゃってますね~。ご同行いただけますか?」と任意同行(いや強制収監)されてしまうのである。
負の感情はダメなものか?
この作品が何を言いたいものなのか、正直まだ4話くらいしか見てないし、敢えてウィキとか説明をみていないから分からないけれども、自動運転やノンアルコールビールや、カフェインレスコーヒーのように、今後「危険なもの」をどんどん排除していくことが「正義」となれば、そのうち、人間の感情にまで手が及ぶだろうことは、そんなにサイエンスフィクションのようには思えない。そんな世界が生きづらいのではないか?
という疑問は、さほど重要視されることはない。
このことは、何となく感じてはいたけれども、先般のサピエンス全史なんかを読んでいると、そもそも、農耕を始めた時点で、人類は、「生きづらい」生活を選択していったのだ。
僕たちが効率をもとめ、富を求め、正義をもとめ、幸せを求め……多くのものを求めていけばいくほどに、新たな「生きづらさ」が蔓延していくのだ。
しかし、すぐさま書くべきは、その「生きづらさ」は、大半の人たちは気づきもしない。多くの子どもや子孫に囲まれ、幸せな一生を送るのである。ところが、その「生きづらさ=常識」というものから、零れ落ちてしまう人は必ず存在している。これまでも存在していたし、これからも存在し続ける。
社会性。
人が生きていくうえで必ず身につけなければいけない、他者と協力するという行為および、それに伴う思考や感情。
これは避けることはできない。そしてそのことが、同時に人の生存戦略の一つである「多様性」という概念との軋轢や矛盾をうみ、これまた発生する負の感情の数々。
負の感情を発する人を排除すれば事が済むのか
サイコパスという作品は、勝手な妄想で書けば、管理社会というものへの警鐘と思う。気に入らない奴は、殺してしまいたい。社会性を維持するためには、足手まといは排除すべきだ。
この感情は、一般的ではあるが、「人類の平等」や「福祉国家」というイデオロギーにおいては、そのまま表現することは許されない。弱者の切り捨て、ということで、批判の対象にされる。
そこで、サイコパスという作品においては、「シビラシステム」という、「完璧な」システムが、その「切り捨ててもいい人たち」を判断してくれるのである。
これは、「神」の代替である。
神が人類を造物し、それゆえに人は全員平等なのだ、という「神話」を、情報社会において人は信じることができなくなった。
その代わりとなったのが、「完璧なシステム」である。
システムは、人でないがゆえに、誤ることがない。絶対にいつも正しい。だから、それに基づく判断は、例え「殺人」だとしても、正しいのである、と。
法やシステムの普遍性への神話
この記事の最後に、一つ、生きる上で何の役にも立たないが、生きる意味を考える上では無視できないことを、思い出し、忘れないようにするために書いておこう。僕たちは、資本主義法治国家や、IT社会の中で生きているけれども、まぁ結局のところ、それらも、多くの巨大な(噂話で繋がってられる150人程度の集団よりも遥かに大きな)集団を維持するための、共同主観的(共同幻想)な方策なのである。
法律は、絶対正しいものだと思う。それに従わなければ、罰せられる。
しかし、ハンムラビ法典もまた、法の体系である。しかし、前1776年あたりのハンムラビ法典では、人類平等なんてうたわれていない。上層民と、自由民と、奴隷にわけられて、されに男女平等なんかもない。女も子供も、男よりも低い価値しか認められていなかった。
そんな、不平等で野蛮な法であっても、従わなければ罰せられた。どうやって? 武力である。
その構造は、今も変わらない。法律に従わなければ、例えば罰金になったりする。けれども、それも無視し続けたらどうなろうか? 警察が出動し、身柄を拘束され、独房にぶっこまれる。
これは、法的で正当な「正義」なのだけれども、その行為だけを考えてみれば、殴って拉致って閉じ込める、ということである。
つまり、頭のいい法律家たちが支配しているようなイメージがある法律だけれども、その法律を維持するには、権力=武力が必要不可欠なのである。
だから、軍備縮小とか、軍隊は不要だとか、そういう議論を否定するつもりも、政治的な思考をする気もないけれども、まぁ難しいことだろうなと思う。理想的には、世界平和をこよなく希求するけれども、「強制力」がないルールは、そもそもルールとして成り立たない、形骸化すると、僕は思ってしまう。この考えは、もしかすると、感情の濁りや犯罪係数が高いからなのかもしれないけれども。
すごく、自分の、この記事と主旨が関係ないことを書くと、
某国の基地を撤廃しろと主張する人たちがいたとして、その人たちは、戦闘機の爆音や兵士の婦女暴行などで長年苦しんでいることなのだけれども、ルールを破って危険な国に攻め入られたとき、それに対抗する「力」は要しておく必要がある。ということは、付近の住民の「騒音被害」よりも優先される、と考えられることであるので、ただ、基地撤廃を主張するだけでは、結局のところ、多くの人の理解を得ることは不可能になってくる。
しかし、その論理もまた不十分であり、そもそも、他国に攻め入られたときにその基地の某国が、本当に自国を守ってくれるという保障もない。その保障を、お金やルールや何でもいいが、確立していくというのが、本当の外交として重要なことである。
より大きな目的を掲げられたとき、人は、「みんなのためなら仕方がないか」と考え始めることになる。しかし、その大きな目的は、往々にして中身がない場合がある。具体的方策に基づいた方針は強い。しかしその具体的な方策というのは、実は、目先の、小さい些末なことの積み重ねなのである。理想と現実とのギャップ。これを丁寧に埋めていく作業なくして、「調整ごと」を上手くやることはできない。
しかしながら。
ここが重要なことだけれども、いくら「論理的」で「正義」で正しく普遍的であろうとも、それは、「強制力」を伴ったものでなければ、役に立たないことが往々にしてあるし、
逆に、いくら正義や論理がぶっこわれていても、「いいからやれ!!」と無理やり従わされるような場面も、我々生きていく中では当然直面していくことなのである。
蛇足
ある店で、10歳ぐらいの男の子が、父親に、「これ買って」とだだをこねていた。かわいらしいものだ、と最初は思っていたが、売り場を一周して戻ってきても、何十分もまだ「買って」「そんなもの買っても仕方ないだろ」を続けていた。買えない理由を明確に伝えて、説得することも大事かもしれないが、そもそも、「ダメなもんはダメ」ということを教えてもいいと思う。
理詰めでしか動けない人間は、時に弱い。がーん!とぶったたいて、ダメなもんはダメ! といって、泣こうが喚こうが、絶対にゆずらない。そんなことも必要だろう。
が、それも、そればっかり続けていると、「なにやっても、いくら正しくてもだめなもんはだめ」という無気力を醸成する場合もある。
いやはや、教育とは難しいものである。まぁ関係ないんだけど。
今日の一言「ものすごく暗い内容のため読む際は部屋を明るくして心が落ち着いたときに読みましょう」
ある方が、長期の休みが終わりに近づいて憂鬱だと仰っていたが、まさに自分も、長い夏休みの終わりに学校が始まるようなそんな閉塞感が最近ずっと続いている。
しかたねぇ、誰も助けてくれないなら、自分で、生きる意味、なんて大層なものみつけてやろうと、徹底して考える、と、ブログを始めたが、おい、全然はなしが進んでないじゃないか。
友人の多くが、結婚したり、子供ができたりと、まぁそんな報告が多いのも理由なのか?
そうだとしたら、単なるひがみだが、そういった生活に憧れを今はもてないという、そういう状況というか感覚。
恋に臆病とか、彼女ができなくて悩んでいた、というのは高校生くらいはそうだったが
別にできないことが問題には思えず、それらをやりたいと思えないというのがある。
いやそもそも、彼女をつくろう、というのも、それが恋をしてやりたかったこと、というよりかは、どこかしらその経験自体を求めていた、どっちかというと、勉強に近いような感覚だった気がする。
そういう意味では、恋らしき恋ってのは、中学生ぐらいの初恋が、最初で最後の、女の子を好きになる、という感情だったのかもしれない。
とか、そんなことどうでもいいんだよな。
こういった表現で、なんとなく可哀想な自分、的なのにひたれて満足してたようなときもあったような気がするけど、今は心底どうでもいいと思ってしまう。
そして、このどうでもよさ、というのが、ほぼ生きること生活すること全般にひろがるから大変だ。
そんな状況でも、仕事はせねばならん。
やらねばならん、やる。やればやるほど精神ポイントが削られている気がする。
休みがむしろ、絶望を深める可能性さえある。
そしたら、メンタルポイントは、どうしたら回復するんだ?
宿屋で寝ると全快まで回復するけど、寝ればいいってもんだいでもない。
自己コントロール性、というのもある。
資産があれば自由が買えるから、それによって精神充足する、ってのもある。
しかし、いくら余剰資産があっても、使いたいものもなく、かといってアーリーりタイヤできるほどもなく。
アーリーリタイアした人とか、それを目指す人のブログなんかも結構面白いが、しかし、その後の人生として、何がどう充足して楽しいのかよくわからない。
切り詰めて生活して、慎ましい自由を得てそれの繰り返しで孤独に死ぬ……いやもちろん、とっても魅力的に思えるけど、でも、そういう次元ではいまの生活でも別にいいや、って感じ、難しいけど、そこまでコミットできるほど素晴らしいようにはみえない、ということだ。
東京マグニチュードも面白かった。
けどさ、両親と再開できて和解もできて大切な人生を一日一日過ごしていこう、めでたしでたし、なんだけど、その後、老後になった主人公はどうなった?
ほんとに、人生最高に幸せにまっとうできたのか?
つまり、
ひっきょう、俺は狂ってしまったのだろう。
多くの人は、苦労しながら、大変なことも乗り越えながら、なんとか人生を歩んで、そして死ぬ。
そこに、そもそも、生きてること自体を懐疑する、というような人はいないだろう。
どこの人も、どこの本も、知人の言葉も生きることそれ自体は自明なものとされている。
いや、ごめん、それは、正しい。
人間の本能は、生きたい、知りたい、仲間になりたい、の三つだ。
進んで死ぬ、というのは、細胞レベルのアポトーシスはあるが、一個の人間として、そんなことあっていいものか。
であれば、本当に、自ずから、やりたいと、理想的な、本当に楽しくて仕方がないそんな生活というのがあるはずではなかろうか?
それへの道のりがあまりにも遠すぎて、いやになってしまっているのではないか?
理想的な生活があるにもかかわらず、それへの道のりが遠いことによる絶望。
もう1つは、理想的な生活を見いだせなくなる絶望。
絶望には二つの形態がある。
では、例えば、仕事が辛くて悩んでる人は、どちらだろうか?
仕事がつらい、上司から無理難題やノルマを課せられる、同僚や客が理不尽だ、単純作業過ぎてつまらない、など。
まぁ理由は様々だろう。
それらの問題が解決すれば、再び、生きる希望を見出せるようになるのか?
お金がたくさんあって、欲しいもの何でも買えて、車も女も抱き放題。酒池肉林に生きていく。
いろんな物語がある。
最近俺は、どの物語に対しても、どうにも本気になれない。例えば、高校時代、最終兵器彼女という作品があって、高校生の男女の切ない恋の物語なんだけど、途中別れたり、すれ違ったりいろいろするのだけれども、最終的には一緒になって、世界最後のときも、物理現実的な身体はなくしてしまっても、心の中でずっと二人は「恋していく」という作品なのだけれども、まぁコミットできないわな!(かっこわらい)
いや、純情的に、好きになった人と、ずーっと一緒に、困難を乗り越えて生きていくって、今も昔も、恋愛作品的なやつの根本命題というか、繰り返しあの手この手で同じテーマを装飾して洗練され続けているものだ。
しかしだ、子供を生めない体になってしまった女性が、強い男を育てることに生きがいを見出すことが、まぁできればそれはラッキーというか幸せだけれども、「やっぱり、自分の子供を自分の手で抱きたかった」という思いがずーっと残り続けているとしたら、その人の人生は、この先、何があろうが、「身体的限界性」によって、不幸でしかありえない、哀しいことだけれども。
いやもともと、何か外属性による問題と、僕の問題視している事象については、きっと関係ないだろうなと、思っていたことではあったけれども、ただそれは、童貞であるという事実がある以上は、もはや何ら理論を積み重ねても簡単に精神が覆ってしまう事態なのであって、僕は全身全霊決意して行動に励んだ。
その結果、「成果」に結び付いたといえようが、結局、最初の方に書いた通り、何か「恋して」「本当の欲求として」の行動であったとは言い難いのである。
いつぞやから、僕は一体、何も望めなくなっていたのだろうか? 簡単な仮の回答を書いておけば、初恋の成就が潰えたことだろう。
どんなに「頑張って」も「努力して」も、世の中、人は空を飛べないのと同じぐらいくだらないほど当たり前のように、成し遂げられないことってのは存在するのである。
だからどうした? そんな小学生みたいなダダをこねてないで、もっと頑張って、真剣に、生きてみろよ。頑張れ、頑張れ頑張れ……。
いいよ、頑張るのはやぶさかじゃない。だが、頑張ってそれがどうしたってんだ? 必死に生きて、40歳なって、50歳なって、60歳なって、70歳なって、それで病気になって死んで、それが何だってんだ?
子どもを育てる? 次世代への継承? 70億人も人がいるのに? 人類とっても反映してない? 自分の遺伝子残してそれがなんだっての?
まったく無意味だ。
でもさ、だったら、この役に立たない俺が、ずっと生きてることで、このクソみたいな世界に復讐してやってもいいじゃないか。滓のように生きてやるよばーかばーか。
と、いじめられてたとき、もうふっきれて反抗というか抵抗したこともあったようななかったような。それ以降はあぶないやつと思われたのかどうなのか分からないが、あまりいじめられることもなくなったような変わらなかったような。
んー、なんつーか、まぁ、思い出せば出すほど、くそみたいな周りの奴らだったし、まぁ俺自身ももっとクソみたいなやつだったのだろうけれども、何か過去に戻りたいとは一切思わないな。
かといって、今がじゃあ最高に幸せかってのも何か違うけど、取りあえず平穏安寧の暮らしって気もする。
そういう意味ではこう、過去との比較思考って役に立っちゃうんだけど、そんな、過去に対しての不平不満を言いながら毎日生きていくって、それまたくだらない人生だよなぁ。
ここで、「どんだけクソみたいな人生なのか」というのは意味がない。
ダメブロ界の作品なんかを読んでいると、うわ……これはマジきついっすわ、ぱねぇ。と思うのがいくつも読むことができる。それが割り増ししてるのか、創作なのかは分からないけれども、まぁ割かし本当なのだろう。じゃなきゃ、表現できないようなレベルの作品がたくさんある。あのレベルで創作だとしたら、もうそれはそれですげーや、って思うぐらいだ。
うわー中途半端だねぇ。ポジティブでもないし、ネガティブなことも中途半端。あっはは、本当に何にもできない半端野郎だな。
この記事読んでさ、読んだ人がさ、「ああ、こんなダメな奴がいるんだ……、俺はまだましなほうだな。よし、もうちょっと頑張ってみっか」とか思わせられるぐらいダメ人間アピールしてみろよ。ほら、ほら!
うっせーはげ! そんなこと目的にしてんじゃねえんだよ。意味を探してるんだよ、ロールモデルだよ!
あのさ、そもそも、周りの人の生き方で、楽しそうなのがねーんだよ。
上司も、先輩も、友人もその他大勢の人たち、いやもっと広げて、ニュースで称賛される人でもいいし、世界で活躍する人でもいい。
なんか、どれもこれも、いや、「すげー」とは思うけれども、「僕もああなりたい!」と目をキラキラ輝かせて思えないんだよな。
仕事ができる先輩上司とか沢山いるよ。でも、みんな血眼になって、時にお客さんに頭をさげて、使えない部下に苛立ちながらとっても頑張ってるよ。全然楽しそうに思えないよ。
中には、もう仕事なんてツールに過ぎないとして、趣味にはしって楽しんでる人もいるよ。でもそれも何か見習いたいというか、ロールモデルとしては欠陥に思えるよ。
アーリーリタイヤを目指して節制して頑張ってる人もいるよ。実際45歳でリタイアして、自由気ままに一人暮らしを謳歌している人もいるよ。お金を貯めたことはすごいことだと思うけれども、何かその自由になってやりたいことがよく分からないし、あんまり憧れないよ。
批判ばっかだな!
でもそうなんだ。「こうなりたい!」と思えるような人がいないのだ、色々探しているけど。
ある精神科医のブログの作者さんは、結構面白いよ。書いている内容から、結構思考レベルで近くて目指すべき人な気がするよ。でもちょっと、やっぱりブログとかじゃあ分からない部分が多いよ。
こんなこと書いていると、「は? てめー、凡人カスのくせに偉そうになに言ってんだよ、死ねよ」って言われるよ。哀しいよ。でも、そんなこと思う奴には絶対憧れないし、その他にも、憧れるような人がいないってのは、哀しいけれども真実なところだよ。
いやすぐさま書いておけば、他者に感動を与えられるような作品をつくれる人は、本当心の底からすごいと思うよ。かっこいいと思うよ。でも、今回問題になってるのは、特定の技能的な部分じゃなくて、全人格的な、物理現実的な生き方においてのことなんだよ。
創作は楽しいことなんだよ。力になることなんだよ。でも、それと物理現実とはちょっと違うんだよ。映画監督とか、小説家、としての生き方にあこがれるわけではないんだよ、ここがちょっと難しいところなんだ。
頑張れとか、逃げるな戦えとか。
分かってるというのに。分かっていて、どうしようもなく疲れてくるから書いてるだけだろうが。
第一、グチグチした人はきらいなんだ。
愚痴をいうなら、もうそれは本当に表現になるぐらい徹底しろ、といいたい。
ドストエフスキーは読んだことないけれども、どす黒く暗くなれば、それはそれで人類の発明品だ。
それにしてもつまらないなぁ。
つまらないとか言ってる奴がつまらないんだ。負け組なんだ、脳はレッテルはるから、悪い情報ばっかり見えるようになって悪循環になるんだ、とか、まぁ分かってる。
よくないことしてるんだろうと、もっと明るくなれ、楽しくなれ、喜びをこの手に! と思う。知識的には。
でももう、どうしようもなくむなしい。やる気が起きない。つまらない。
まぁ本気で自殺するなら、取りあえず会社やめてからだな(かっこわらい)。
それはまぁともかく、今後の、暗い出来事、危機として考えられるのが、親の死というのがあるだろう。
両親は健在だが、いずれ人は死ぬ。
そしたら、俺ひとりやん。
死んでも泣いてくれるひとおらんやん。
無気力やん。
……。
とか、3年経って、資産も潰えて、経済的にも困窮したとする。
おぉう。もう死ぬしかないじゃん、と。
そもそも、セーフティネットとして、「経済的困窮したぐらいで自殺する」というそれ自体が、制度的欠陥というか、自殺する人の精神構造の危機というわけであって、別にお金がなくても再チャレンジできる社会であるのが当然望ましい。
ただ、もう天涯孤独になっちまって、お金もなく、社会的なつながりもなく、という状態になったら、まぁ、もう生きてて仕方がねえや、ってなるだろうね。
それに、ここが重要だが、「大抵の【真面目な】人たち」は、そういった孤独になった人たちに対して、「自業自得」としか思わない。
僕だって、2000万円ぐらい親から借金してギャンブルにつぎ込んで多重債務になったとか、お前、マジ消えていいよ、と思ってしまう。キャバクラとかホストにつぎ込んでエトセトラ、とかも同様にアホとしか思えない。
けどまぁ、そういう図々しい奴らが生きはびこって、一方で責任感が強くて頑張ってきた人が自殺する世の中、ほんとおかしいよね。(いや実際そんなことが起こってるかどうかは、要検討調査が必要。実は、ごくわずかな事例をマスメディアが面白おかしく取り上げてるだけという可能性は十分にある。ただ、そういった社会学的な問題提起について、僕はもはや一切興味はない。他者の心配をしている余裕なんてない!)
指が止まってしまったよ。もうこれ以上は、哀しいことも、つらいことも、むかつくことも、ネガティブなことも、暗いことも、書けない。
全力を出し切った。
もうほんと、今日は頑張った!(わらい)
うん、「徹底」した気がする!
よーし。明日はもっと暗くてネガティブな奴を書くぞ!!
いや、冗談ではなく、もう本当に、中途半端に過去に浸って、カタルシスを得て満足して明日をなぁなぁと頑張ろうとか、そんなこと思わねえ。思ってやるもんか。
感動したならそれを本気で、苛々したならそれを本気で、憂鬱ならそれを本気で書いてやるよ。
(憂鬱なときに本気で書く、というのは、甚だ矛盾としか思えない表現。でも、身体が重くて頭が痛くて気分がふさぎ込んでいても、そのこと自体を書きなぐってやりたい)
いやはやほんっと、最悪な気分だ、だがまだ足りない。
誰か面白いこと書いてくれ
本当に誰か、心から感動して、何か前向きに突き進んで、今後ぶれずに人生全うできるような、考え方でも体験でも作品でも何でもいいから与えてくれよ。ある方が、長期の休みが終わりに近づいて憂鬱だと仰っていたが、まさに自分も、長い夏休みの終わりに学校が始まるようなそんな閉塞感が最近ずっと続いている。
しかたねぇ、誰も助けてくれないなら、自分で、生きる意味、なんて大層なものみつけてやろうと、徹底して考える、と、ブログを始めたが、おい、全然はなしが進んでないじゃないか。
友人の多くが、結婚したり、子供ができたりと、まぁそんな報告が多いのも理由なのか?
そうだとしたら、単なるひがみだが、そういった生活に憧れを今はもてないという、そういう状況というか感覚。
恋に臆病とか、彼女ができなくて悩んでいた、というのは高校生くらいはそうだったが
別にできないことが問題には思えず、それらをやりたいと思えないというのがある。
いやそもそも、彼女をつくろう、というのも、それが恋をしてやりたかったこと、というよりかは、どこかしらその経験自体を求めていた、どっちかというと、勉強に近いような感覚だった気がする。
そういう意味では、恋らしき恋ってのは、中学生ぐらいの初恋が、最初で最後の、女の子を好きになる、という感情だったのかもしれない。
とか、そんなことどうでもいいんだよな。
こういった表現で、なんとなく可哀想な自分、的なのにひたれて満足してたようなときもあったような気がするけど、今は心底どうでもいいと思ってしまう。
そして、このどうでもよさ、というのが、ほぼ生きること生活すること全般にひろがるから大変だ。
そんな状況でも、仕事はせねばならん。
やらねばならん、やる。やればやるほど精神ポイントが削られている気がする。
メンタルポイントの回復
お疲れだね、休みな、という方策は正しい。しかしながら、最初に引用した素晴らしい方のお言葉のとおり、休みそれ自体は、必ずしも心と体を回復させるものではないのである。休みがむしろ、絶望を深める可能性さえある。
そしたら、メンタルポイントは、どうしたら回復するんだ?
宿屋で寝ると全快まで回復するけど、寝ればいいってもんだいでもない。
自己コントロール性、というのもある。
資産があれば自由が買えるから、それによって精神充足する、ってのもある。
しかし、いくら余剰資産があっても、使いたいものもなく、かといってアーリーりタイヤできるほどもなく。
アーリーリタイアした人とか、それを目指す人のブログなんかも結構面白いが、しかし、その後の人生として、何がどう充足して楽しいのかよくわからない。
切り詰めて生活して、慎ましい自由を得てそれの繰り返しで孤独に死ぬ……いやもちろん、とっても魅力的に思えるけど、でも、そういう次元ではいまの生活でも別にいいや、って感じ、難しいけど、そこまでコミットできるほど素晴らしいようにはみえない、ということだ。
物語も同様
東京マグニチュードも面白かった。
けどさ、両親と再開できて和解もできて大切な人生を一日一日過ごしていこう、めでたしでたし、なんだけど、その後、老後になった主人公はどうなった?
ほんとに、人生最高に幸せにまっとうできたのか?
幸せの次元の変化
つまり、
ひっきょう、俺は狂ってしまったのだろう。
多くの人は、苦労しながら、大変なことも乗り越えながら、なんとか人生を歩んで、そして死ぬ。
そこに、そもそも、生きてること自体を懐疑する、というような人はいないだろう。
どこの人も、どこの本も、知人の言葉も生きることそれ自体は自明なものとされている。
いや、ごめん、それは、正しい。
人間の本能は、生きたい、知りたい、仲間になりたい、の三つだ。
進んで死ぬ、というのは、細胞レベルのアポトーシスはあるが、一個の人間として、そんなことあっていいものか。
であれば、本当に、自ずから、やりたいと、理想的な、本当に楽しくて仕方がないそんな生活というのがあるはずではなかろうか?
それへの道のりがあまりにも遠すぎて、いやになってしまっているのではないか?
二つの回答
理想的な生活があるにもかかわらず、それへの道のりが遠いことによる絶望。
もう1つは、理想的な生活を見いだせなくなる絶望。
絶望には二つの形態がある。
では、例えば、仕事が辛くて悩んでる人は、どちらだろうか?
仕事がつらい、上司から無理難題やノルマを課せられる、同僚や客が理不尽だ、単純作業過ぎてつまらない、など。
まぁ理由は様々だろう。
それらの問題が解決すれば、再び、生きる希望を見出せるようになるのか?
理想の生活を想像する
不満があって、時おり楽しくて、大きな変化はないけれども、毎日それとなく充実して、お酒やおいしいものや友人に囲まれて生きていく。お金がたくさんあって、欲しいもの何でも買えて、車も女も抱き放題。酒池肉林に生きていく。
いろんな物語がある。
最近俺は、どの物語に対しても、どうにも本気になれない。例えば、高校時代、最終兵器彼女という作品があって、高校生の男女の切ない恋の物語なんだけど、途中別れたり、すれ違ったりいろいろするのだけれども、最終的には一緒になって、世界最後のときも、物理現実的な身体はなくしてしまっても、心の中でずっと二人は「恋していく」という作品なのだけれども、まぁコミットできないわな!(かっこわらい)
いや、純情的に、好きになった人と、ずーっと一緒に、困難を乗り越えて生きていくって、今も昔も、恋愛作品的なやつの根本命題というか、繰り返しあの手この手で同じテーマを装飾して洗練され続けているものだ。
しかしだ、子供を生めない体になってしまった女性が、強い男を育てることに生きがいを見出すことが、まぁできればそれはラッキーというか幸せだけれども、「やっぱり、自分の子供を自分の手で抱きたかった」という思いがずーっと残り続けているとしたら、その人の人生は、この先、何があろうが、「身体的限界性」によって、不幸でしかありえない、哀しいことだけれども。
身体的限界性による不幸
彼女ができたことがある、結婚したことがある、それらの経験は、もはや何の自慢にも、何の心のよりどころにもなりゃしない、ということが、最近の問題の一つ。いやもともと、何か外属性による問題と、僕の問題視している事象については、きっと関係ないだろうなと、思っていたことではあったけれども、ただそれは、童貞であるという事実がある以上は、もはや何ら理論を積み重ねても簡単に精神が覆ってしまう事態なのであって、僕は全身全霊決意して行動に励んだ。
その結果、「成果」に結び付いたといえようが、結局、最初の方に書いた通り、何か「恋して」「本当の欲求として」の行動であったとは言い難いのである。
いつぞやから、僕は一体、何も望めなくなっていたのだろうか? 簡単な仮の回答を書いておけば、初恋の成就が潰えたことだろう。
どんなに「頑張って」も「努力して」も、世の中、人は空を飛べないのと同じぐらいくだらないほど当たり前のように、成し遂げられないことってのは存在するのである。
だからどうした? そんな小学生みたいなダダをこねてないで、もっと頑張って、真剣に、生きてみろよ。頑張れ、頑張れ頑張れ……。
いいよ、頑張るのはやぶさかじゃない。だが、頑張ってそれがどうしたってんだ? 必死に生きて、40歳なって、50歳なって、60歳なって、70歳なって、それで病気になって死んで、それが何だってんだ?
子どもを育てる? 次世代への継承? 70億人も人がいるのに? 人類とっても反映してない? 自分の遺伝子残してそれがなんだっての?
まったく無意味だ。
復讐としての生き方
全く無意味だ。何ら価値もない。でもさ、だったら、この役に立たない俺が、ずっと生きてることで、このクソみたいな世界に復讐してやってもいいじゃないか。滓のように生きてやるよばーかばーか。
と、いじめられてたとき、もうふっきれて反抗というか抵抗したこともあったようななかったような。それ以降はあぶないやつと思われたのかどうなのか分からないが、あまりいじめられることもなくなったような変わらなかったような。
んー、なんつーか、まぁ、思い出せば出すほど、くそみたいな周りの奴らだったし、まぁ俺自身ももっとクソみたいなやつだったのだろうけれども、何か過去に戻りたいとは一切思わないな。
かといって、今がじゃあ最高に幸せかってのも何か違うけど、取りあえず平穏安寧の暮らしって気もする。
そういう意味ではこう、過去との比較思考って役に立っちゃうんだけど、そんな、過去に対しての不平不満を言いながら毎日生きていくって、それまたくだらない人生だよなぁ。
ここで、「どんだけクソみたいな人生なのか」というのは意味がない。
ダメブロ界の作品なんかを読んでいると、うわ……これはマジきついっすわ、ぱねぇ。と思うのがいくつも読むことができる。それが割り増ししてるのか、創作なのかは分からないけれども、まぁ割かし本当なのだろう。じゃなきゃ、表現できないようなレベルの作品がたくさんある。あのレベルで創作だとしたら、もうそれはそれですげーや、って思うぐらいだ。
まだまだ大したことない
おーい。その程度? 暗い日記だよーとか書いておいて、その程度なの? もっと心底、読んだ人9割ぐらい憂鬱にさせるぐらいのこと書けないの?うわー中途半端だねぇ。ポジティブでもないし、ネガティブなことも中途半端。あっはは、本当に何にもできない半端野郎だな。
この記事読んでさ、読んだ人がさ、「ああ、こんなダメな奴がいるんだ……、俺はまだましなほうだな。よし、もうちょっと頑張ってみっか」とか思わせられるぐらいダメ人間アピールしてみろよ。ほら、ほら!
うっせーはげ! そんなこと目的にしてんじゃねえんだよ。意味を探してるんだよ、ロールモデルだよ!
諸先輩方のだらしなさ
あんまりやったことないことにチャレンジ。人のせいにするよー。あのさ、そもそも、周りの人の生き方で、楽しそうなのがねーんだよ。
上司も、先輩も、友人もその他大勢の人たち、いやもっと広げて、ニュースで称賛される人でもいいし、世界で活躍する人でもいい。
なんか、どれもこれも、いや、「すげー」とは思うけれども、「僕もああなりたい!」と目をキラキラ輝かせて思えないんだよな。
仕事ができる先輩上司とか沢山いるよ。でも、みんな血眼になって、時にお客さんに頭をさげて、使えない部下に苛立ちながらとっても頑張ってるよ。全然楽しそうに思えないよ。
中には、もう仕事なんてツールに過ぎないとして、趣味にはしって楽しんでる人もいるよ。でもそれも何か見習いたいというか、ロールモデルとしては欠陥に思えるよ。
アーリーリタイヤを目指して節制して頑張ってる人もいるよ。実際45歳でリタイアして、自由気ままに一人暮らしを謳歌している人もいるよ。お金を貯めたことはすごいことだと思うけれども、何かその自由になってやりたいことがよく分からないし、あんまり憧れないよ。
批判ばっかだな!
でもそうなんだ。「こうなりたい!」と思えるような人がいないのだ、色々探しているけど。
ある精神科医のブログの作者さんは、結構面白いよ。書いている内容から、結構思考レベルで近くて目指すべき人な気がするよ。でもちょっと、やっぱりブログとかじゃあ分からない部分が多いよ。
こんなこと書いていると、「は? てめー、凡人カスのくせに偉そうになに言ってんだよ、死ねよ」って言われるよ。哀しいよ。でも、そんなこと思う奴には絶対憧れないし、その他にも、憧れるような人がいないってのは、哀しいけれども真実なところだよ。
いやすぐさま書いておけば、他者に感動を与えられるような作品をつくれる人は、本当心の底からすごいと思うよ。かっこいいと思うよ。でも、今回問題になってるのは、特定の技能的な部分じゃなくて、全人格的な、物理現実的な生き方においてのことなんだよ。
創作は楽しいことなんだよ。力になることなんだよ。でも、それと物理現実とはちょっと違うんだよ。映画監督とか、小説家、としての生き方にあこがれるわけではないんだよ、ここがちょっと難しいところなんだ。
え、つまり逃げてるだけじゃね?
すぐ君はそんなことを言ってくる。頑張れとか、逃げるな戦えとか。
分かってるというのに。分かっていて、どうしようもなく疲れてくるから書いてるだけだろうが。
第一、グチグチした人はきらいなんだ。
愚痴をいうなら、もうそれは本当に表現になるぐらい徹底しろ、といいたい。
ドストエフスキーは読んだことないけれども、どす黒く暗くなれば、それはそれで人類の発明品だ。
それにしてもつまらないなぁ。
つまらないとか言ってる奴がつまらないんだ。負け組なんだ、脳はレッテルはるから、悪い情報ばっかり見えるようになって悪循環になるんだ、とか、まぁ分かってる。
よくないことしてるんだろうと、もっと明るくなれ、楽しくなれ、喜びをこの手に! と思う。知識的には。
でももう、どうしようもなくむなしい。やる気が起きない。つまらない。
もっと暗いこと書いておこう
まだいいよ。取りあえず会社辞めても3年ぐらいは現行生活を続けられるぐらいの資産もある。まぁ本気で自殺するなら、取りあえず会社やめてからだな(かっこわらい)。
それはまぁともかく、今後の、暗い出来事、危機として考えられるのが、親の死というのがあるだろう。
両親は健在だが、いずれ人は死ぬ。
そしたら、俺ひとりやん。
死んでも泣いてくれるひとおらんやん。
無気力やん。
……。
とか、3年経って、資産も潰えて、経済的にも困窮したとする。
おぉう。もう死ぬしかないじゃん、と。
そもそも、セーフティネットとして、「経済的困窮したぐらいで自殺する」というそれ自体が、制度的欠陥というか、自殺する人の精神構造の危機というわけであって、別にお金がなくても再チャレンジできる社会であるのが当然望ましい。
ただ、もう天涯孤独になっちまって、お金もなく、社会的なつながりもなく、という状態になったら、まぁ、もう生きてて仕方がねえや、ってなるだろうね。
それに、ここが重要だが、「大抵の【真面目な】人たち」は、そういった孤独になった人たちに対して、「自業自得」としか思わない。
僕だって、2000万円ぐらい親から借金してギャンブルにつぎ込んで多重債務になったとか、お前、マジ消えていいよ、と思ってしまう。キャバクラとかホストにつぎ込んでエトセトラ、とかも同様にアホとしか思えない。
けどまぁ、そういう図々しい奴らが生きはびこって、一方で責任感が強くて頑張ってきた人が自殺する世の中、ほんとおかしいよね。(いや実際そんなことが起こってるかどうかは、要検討調査が必要。実は、ごくわずかな事例をマスメディアが面白おかしく取り上げてるだけという可能性は十分にある。ただ、そういった社会学的な問題提起について、僕はもはや一切興味はない。他者の心配をしている余裕なんてない!)
もう暗いこと書けません
……もう無理。これ以上はさすがに思いつかない。指が止まってしまったよ。もうこれ以上は、哀しいことも、つらいことも、むかつくことも、ネガティブなことも、暗いことも、書けない。
全力を出し切った。
もうほんと、今日は頑張った!(わらい)
うん、「徹底」した気がする!
よーし。明日はもっと暗くてネガティブな奴を書くぞ!!
いや、冗談ではなく、もう本当に、中途半端に過去に浸って、カタルシスを得て満足して明日をなぁなぁと頑張ろうとか、そんなこと思わねえ。思ってやるもんか。
感動したならそれを本気で、苛々したならそれを本気で、憂鬱ならそれを本気で書いてやるよ。
(憂鬱なときに本気で書く、というのは、甚だ矛盾としか思えない表現。でも、身体が重くて頭が痛くて気分がふさぎ込んでいても、そのこと自体を書きなぐってやりたい)
いやはやほんっと、最悪な気分だ、だがまだ足りない。
今日の一言「メモ帳を持ち歩いていないと色々忘れている」
※以下小見出しごとの記事は複数日のまとめのため関連性はあまり無い
今日は、面白そうなブログさんを、2つぐらい見つけた。更新チェッカーに登録。しかし、この情報に辿り着くまでに、1時間以上かかっている。無駄が多い。
そして、どうにも、期待している人のブログとかサイトとかは、「更新されたかな~」と、何度も足を運んでしまうのである。その無駄を省くために更新チェッカーを導入したのだ。
つまり、更新チェッカー以外に、ブックマークは使用しない、と決めてもいい気がする。
あと、まとめ系サイトの、関連する記事、とかいうのも、あれ危険だ。次から次へと気になるキャッちーなタイトルにつられてクリックしてしまう。が、大した内容じゃないことが9割である。
大した内容なのか、そうじゃないのかは、かなり主観的なものであって、運要素が大きい部分だ。
だからこそ、いい情報を掘り当てるのではないかと、そんな期待によって、欲望が制御されているわけだ。
アフォーダンスという概念は、椅子に座るのではなく、椅子が座れるように促しているのだ、というもの。うーん、これに関しての数百頁に渡る書籍を読んで、もっと深い概念だった気がするけれども、5~6年前の情報記憶などこの程度だということか。もう一度本を開けば、いろいろ溢れてくるのだろうけれども、何もないと何も浮かばない。知識は、引き出しにしまわれているというよりも、数珠つなぎのように、マトリックス上に複雑に絡み合っているので、その一本を引き抜こうとすると、関連する知識情報がもじゃもじゃと一緒にくっついてくるのである。
んー、というのは、またしても傲慢で痛い子だなぁ。いやそれというのも、最近「不幸」とかくと大げさだけれども、様々な生活状況において、苛々の火種が爆発しているのである。
先日はひどかった。さすがの自分も(何が「さすが」だ、気持ち悪い奴め)、苛々を通り越して怒り、そうとう口汚く相手を罵った。しかし、相手の方が殴りかかってきたし、もっとひどいことを言ってきたりした。恐ろしいことである。おかげで、次の日も何かトラブルに巻き込まれるんじゃないかと、人混みが怖かったぐらいだ。明日はどうだろうか……長く続くようならPTSDだぞほんと。
しかし、そのできごとは、相手がもう完全に論理破綻(いやそもそもそういう次元じゃなかった)していて、その矛盾を怒鳴りながらだけれども明確に発することができたことは、「お、意外と俺、やるじゃん?」という変な感覚も生まれたりもした……が、もうそれを超越して腹立たしかった!(と、書いていてまた怒りが復活してくるかっこわらい)
その日、かなり具体的なエピソードを書いたのだが、結局、予約投稿にしておいて、公開前に消した。
理由はいろいろあるけれども、まぁ、あんまり具体的な話を書いても仕方がないし、今みたいに苛立ちを増幅させることを敢えてする必要はあるまい。
年末になると、忙しくて、頭のおかしい人が増えるのだろうか。何とも、世界の平和と人類の幸福を願わずにはいられない。ハッピーメリークリスマス。
コーヒーは、カフェラテにしてもブラックにしても、自分で作った奴の方が美味しいし、果物や野菜ジュースも、自分で買ってきた奴の方が美味しい。
まぁそれでも、3時間で1000円ぐらいなので、漫画3冊でも読めば、単行本500円としたら、まぁ効率はよい気がする。
問題は、その読んだ作品を、どれだけ摂取し、「役立てられるか」ということだと思うけれども、この「役に立つかどうか」という視点も、これまた非常に繊細に扱わなければいけない概念のため、ここでは保留。
※以下小見出しごとの記事は複数日のまとめのため関連性はあまり無い
ネットサーフィンの効率化
情報収集のために、ブックマークを整理しようかなと思い始めてきた。今日は、面白そうなブログさんを、2つぐらい見つけた。更新チェッカーに登録。しかし、この情報に辿り着くまでに、1時間以上かかっている。無駄が多い。
そして、どうにも、期待している人のブログとかサイトとかは、「更新されたかな~」と、何度も足を運んでしまうのである。その無駄を省くために更新チェッカーを導入したのだ。
つまり、更新チェッカー以外に、ブックマークは使用しない、と決めてもいい気がする。
あと、まとめ系サイトの、関連する記事、とかいうのも、あれ危険だ。次から次へと気になるキャッちーなタイトルにつられてクリックしてしまう。が、大した内容じゃないことが9割である。
大した内容なのか、そうじゃないのかは、かなり主観的なものであって、運要素が大きい部分だ。
だからこそ、いい情報を掘り当てるのではないかと、そんな期待によって、欲望が制御されているわけだ。
アフォーダンスという概念は、椅子に座るのではなく、椅子が座れるように促しているのだ、というもの。うーん、これに関しての数百頁に渡る書籍を読んで、もっと深い概念だった気がするけれども、5~6年前の情報記憶などこの程度だということか。もう一度本を開けば、いろいろ溢れてくるのだろうけれども、何もないと何も浮かばない。知識は、引き出しにしまわれているというよりも、数珠つなぎのように、マトリックス上に複雑に絡み合っているので、その一本を引き抜こうとすると、関連する知識情報がもじゃもじゃと一緒にくっついてくるのである。
誰か俺を楽しませてくれよ
たまには、他者への期待について書いてみたりする。んー、というのは、またしても傲慢で痛い子だなぁ。いやそれというのも、最近「不幸」とかくと大げさだけれども、様々な生活状況において、苛々の火種が爆発しているのである。
先日はひどかった。さすがの自分も(何が「さすが」だ、気持ち悪い奴め)、苛々を通り越して怒り、そうとう口汚く相手を罵った。しかし、相手の方が殴りかかってきたし、もっとひどいことを言ってきたりした。恐ろしいことである。おかげで、次の日も何かトラブルに巻き込まれるんじゃないかと、人混みが怖かったぐらいだ。明日はどうだろうか……長く続くようならPTSDだぞほんと。
しかし、そのできごとは、相手がもう完全に論理破綻(いやそもそもそういう次元じゃなかった)していて、その矛盾を怒鳴りながらだけれども明確に発することができたことは、「お、意外と俺、やるじゃん?」という変な感覚も生まれたりもした……が、もうそれを超越して腹立たしかった!(と、書いていてまた怒りが復活してくるかっこわらい)
その日、かなり具体的なエピソードを書いたのだが、結局、予約投稿にしておいて、公開前に消した。
理由はいろいろあるけれども、まぁ、あんまり具体的な話を書いても仕方がないし、今みたいに苛立ちを増幅させることを敢えてする必要はあるまい。
年末になると、忙しくて、頭のおかしい人が増えるのだろうか。何とも、世界の平和と人類の幸福を願わずにはいられない。ハッピーメリークリスマス。
ネカフェのPC性能
昔は、自宅にはノートPCしかなく、ネットカフェのほうが断然性能がよいものだった。
今となっては、ネカフェのPCの方が断然性能が悪く、動作の遅さに非常に辟易してしまう。
もともと、遠藤浩輝先生の新連載ソフトメタルヴァンパイアを読みに来たのだったが、置いてなかった。正確には、検索にはヒットするけれども、どこにも見当たらなかった。
代わりに、進撃の巨人の最新刊を読んだ。21巻はずいぶんと話が広がった。進展した、というよりも、広がったという感じ。
ここまで広げてしまって、逆に大丈夫か、と心配になるぐらいであった。
テラフォーマーズも読んだ。うしじまくんとか、うそくいとかも読もうかなぁと思ったけど、気乗りしなかった。
飲み物も、昔は、飲み放題だなんてすごいな! と思っていた。けれども、1杯か2杯くらいで十分。あんまり飲んでもお腹が具合よくなくなる。それに、正直あまり美味しいと思えなくなっている。コーヒーは、カフェラテにしてもブラックにしても、自分で作った奴の方が美味しいし、果物や野菜ジュースも、自分で買ってきた奴の方が美味しい。
まぁそれでも、3時間で1000円ぐらいなので、漫画3冊でも読めば、単行本500円としたら、まぁ効率はよい気がする。
問題は、その読んだ作品を、どれだけ摂取し、「役立てられるか」ということだと思うけれども、この「役に立つかどうか」という視点も、これまた非常に繊細に扱わなければいけない概念のため、ここでは保留。
サイトの方は、過去の利用者さんのメッセージなどで、思うところがあった。評価とか、感想とか。
想像上の秩序
想像上の秩序、ということで、客観と、主観と、共同主観の三つがあるということだ。サピエンス全史より。
うん、面白いな。漫画とかアニメとか、小説もいいけれども、この本は面白い。明日は上巻全部読破したいな。
脳に悪い習慣として、「ああ、これは大体わかってる」と思うと、記憶力が低下するのである。しかし、この本は、ああ、わかっていた、と、そう感じさせる表現が多い。
もっと早く出会っていたらよかったか? いや、このタイミングが望ましかった。
いろいろと経験し、チャレンジし、ぶつかってみて、その結果としてフィードバックされた結果があるから、一文一文が面白いと感じるのだろう。
体が、痛い。
