今日の一言「アニメ、サイコパス面白い」
サイコパスというアニメーション作品の第一期。第二期はいまいちであるという噂を聞くけれども、取りあえず序盤はいい感じだ。マサオカのおやっさんかっこいい。「ネットで検索? 不要だ。人間不平等起源論、俺の頭には入っている」とか、言ってみたい台詞である。
2012年ごろの作品のようだ。攻殻機動隊を手掛けたプロダクションIGが製作に携わっている。Fateに携わった虚淵玄氏も関わっているようである。あまり、声優とか、監督とか、脚本とか、制作会社とか、そういう「中の人」的なのにはあまり興味なかったけれども、いい作品を効率よく求めるなら、やっぱり知名度がある人を追った方がいいのかもしれないなぁと思った。最近、涼宮ハルヒの憂鬱を見返してみたりしてたが、今見ても面白い。京都アニメーションさんの作品も、フルメタルパニックとかもいい仕事だなぁと思ったりする。
ただやっぱり、「誰がつくったか」というよりも、その作品自体がどうであったか、というのが一番重要なことだと僕は思う。あくまで、効率的に良い作品を探すなら、その確率を高めるなら、という話しだろう。
と、まぁ、こんな大した面白くもないことを書いておく必要があるのかと思いつつも、いまいち、何が面白いかということは、今の自分の感覚と、この先の自分の感覚(後から読み返したとき)とで異なっているから、仕方がない、書いておくかと。
本来、被害者である女性だが、レイプされたりひどいことされたせいで、「憎しみ」とかそんな感情が高まってしまったのかもしれない。
それによって、ドミネーター(犯罪係数によって対象を識別し攻撃できる銃)で、エリミネーター(殺害対象)にまで犯罪係数を高めてしまう。
同僚が、レイプ犯のみならず、被害者も手にかけようとした瞬間、主人公は、同僚をとめて、結果的に被害者女性は助かる。
めでたしめでたし。
しかし、その後の展開で僕は驚愕した。
なんと、その被害者女性は、エリミネーターから、制圧対象まで犯罪係数が下がり、挙句の果てに、セラピーによりますます回復傾向になっていっている、というのである!
え、いいことじゃないか、助かって良かったね、というわけだ。何を驚くことがあるだろう?
驚きだよ! 完璧なシステムたるシビュラ(しびら?)システムにおいて、一度は「もう更生の余地ないからさっさとしっかり照準合わせて殺っちゃってー」と判定されたあとに、極度の犯罪現場の緊張状態が回復し、セラピーを受けることによって、回復してしまうということだ。
これは恐ろしいことである。これは、冤罪ではないのだろうか? 恐らく、そうではないのだ。一度犯罪係数が高まって、殺害対象になって、ちょうど執行官(犯罪者を処分する仕事をする人)が目の前にいたら、裁判もなく殺害なのである。
僕は体当たりされてしまった被害者なのであるが、しかし、「危険なことをしようとする人」(この場合、むかつくクソ野郎に消えてもらいたいと本気で思ったこと)と判断されてしまえば、「逮捕される」対象になりえるのである。
このサイコパスの世界は、全員が、感情指数も計測されて、濁っていたら強制的にセラピーを受けさせられる。
精密なことに、いちゃいちゃするカップルをみて、ショッピングモールで苛立ちを高めた孤独な男性も、「ちょっと感情が濁っちゃってますね~。ご同行いただけますか?」と任意同行(いや強制収監)されてしまうのである。
そんな世界が生きづらいのではないか?
という疑問は、さほど重要視されることはない。
このことは、何となく感じてはいたけれども、先般のサピエンス全史なんかを読んでいると、そもそも、農耕を始めた時点で、人類は、「生きづらい」生活を選択していったのだ。
僕たちが効率をもとめ、富を求め、正義をもとめ、幸せを求め……多くのものを求めていけばいくほどに、新たな「生きづらさ」が蔓延していくのだ。
しかし、すぐさま書くべきは、その「生きづらさ」は、大半の人たちは気づきもしない。多くの子どもや子孫に囲まれ、幸せな一生を送るのである。ところが、その「生きづらさ=常識」というものから、零れ落ちてしまう人は必ず存在している。これまでも存在していたし、これからも存在し続ける。
社会性。
人が生きていくうえで必ず身につけなければいけない、他者と協力するという行為および、それに伴う思考や感情。
これは避けることはできない。そしてそのことが、同時に人の生存戦略の一つである「多様性」という概念との軋轢や矛盾をうみ、これまた発生する負の感情の数々。
気に入らない奴は、殺してしまいたい。社会性を維持するためには、足手まといは排除すべきだ。
この感情は、一般的ではあるが、「人類の平等」や「福祉国家」というイデオロギーにおいては、そのまま表現することは許されない。弱者の切り捨て、ということで、批判の対象にされる。
そこで、サイコパスという作品においては、「シビラシステム」という、「完璧な」システムが、その「切り捨ててもいい人たち」を判断してくれるのである。
これは、「神」の代替である。
神が人類を造物し、それゆえに人は全員平等なのだ、という「神話」を、情報社会において人は信じることができなくなった。
その代わりとなったのが、「完璧なシステム」である。
システムは、人でないがゆえに、誤ることがない。絶対にいつも正しい。だから、それに基づく判断は、例え「殺人」だとしても、正しいのである、と。
僕たちは、資本主義法治国家や、IT社会の中で生きているけれども、まぁ結局のところ、それらも、多くの巨大な(噂話で繋がってられる150人程度の集団よりも遥かに大きな)集団を維持するための、共同主観的(共同幻想)な方策なのである。
法律は、絶対正しいものだと思う。それに従わなければ、罰せられる。
しかし、ハンムラビ法典もまた、法の体系である。しかし、前1776年あたりのハンムラビ法典では、人類平等なんてうたわれていない。上層民と、自由民と、奴隷にわけられて、されに男女平等なんかもない。女も子供も、男よりも低い価値しか認められていなかった。
そんな、不平等で野蛮な法であっても、従わなければ罰せられた。どうやって? 武力である。
その構造は、今も変わらない。法律に従わなければ、例えば罰金になったりする。けれども、それも無視し続けたらどうなろうか? 警察が出動し、身柄を拘束され、独房にぶっこまれる。
これは、法的で正当な「正義」なのだけれども、その行為だけを考えてみれば、殴って拉致って閉じ込める、ということである。
つまり、頭のいい法律家たちが支配しているようなイメージがある法律だけれども、その法律を維持するには、権力=武力が必要不可欠なのである。
だから、軍備縮小とか、軍隊は不要だとか、そういう議論を否定するつもりも、政治的な思考をする気もないけれども、まぁ難しいことだろうなと思う。理想的には、世界平和をこよなく希求するけれども、「強制力」がないルールは、そもそもルールとして成り立たない、形骸化すると、僕は思ってしまう。この考えは、もしかすると、感情の濁りや犯罪係数が高いからなのかもしれないけれども。
すごく、自分の、この記事と主旨が関係ないことを書くと、
某国の基地を撤廃しろと主張する人たちがいたとして、その人たちは、戦闘機の爆音や兵士の婦女暴行などで長年苦しんでいることなのだけれども、ルールを破って危険な国に攻め入られたとき、それに対抗する「力」は要しておく必要がある。ということは、付近の住民の「騒音被害」よりも優先される、と考えられることであるので、ただ、基地撤廃を主張するだけでは、結局のところ、多くの人の理解を得ることは不可能になってくる。
しかし、その論理もまた不十分であり、そもそも、他国に攻め入られたときにその基地の某国が、本当に自国を守ってくれるという保障もない。その保障を、お金やルールや何でもいいが、確立していくというのが、本当の外交として重要なことである。
より大きな目的を掲げられたとき、人は、「みんなのためなら仕方がないか」と考え始めることになる。しかし、その大きな目的は、往々にして中身がない場合がある。具体的方策に基づいた方針は強い。しかしその具体的な方策というのは、実は、目先の、小さい些末なことの積み重ねなのである。理想と現実とのギャップ。これを丁寧に埋めていく作業なくして、「調整ごと」を上手くやることはできない。
しかしながら。
ここが重要なことだけれども、いくら「論理的」で「正義」で正しく普遍的であろうとも、それは、「強制力」を伴ったものでなければ、役に立たないことが往々にしてあるし、
逆に、いくら正義や論理がぶっこわれていても、「いいからやれ!!」と無理やり従わされるような場面も、我々生きていく中では当然直面していくことなのである。
買えない理由を明確に伝えて、説得することも大事かもしれないが、そもそも、「ダメなもんはダメ」ということを教えてもいいと思う。
理詰めでしか動けない人間は、時に弱い。がーん!とぶったたいて、ダメなもんはダメ! といって、泣こうが喚こうが、絶対にゆずらない。そんなことも必要だろう。
が、それも、そればっかり続けていると、「なにやっても、いくら正しくてもだめなもんはだめ」という無気力を醸成する場合もある。
いやはや、教育とは難しいものである。まぁ関係ないんだけど。
久々に当たり作品
小見出しがいつも大げさなんだよな。「久々に」とか、別にそんなこと無かろうが。いや、ただ、ある方にはとても申し訳ないのだけれども、最近見たカバネリや東京マグニチュード8.0より面白かった。まだ4話までぐらいしか見れていないけれども。サイコパスというアニメーション作品の第一期。第二期はいまいちであるという噂を聞くけれども、取りあえず序盤はいい感じだ。マサオカのおやっさんかっこいい。「ネットで検索? 不要だ。人間不平等起源論、俺の頭には入っている」とか、言ってみたい台詞である。
2012年ごろの作品のようだ。攻殻機動隊を手掛けたプロダクションIGが製作に携わっている。Fateに携わった虚淵玄氏も関わっているようである。あまり、声優とか、監督とか、脚本とか、制作会社とか、そういう「中の人」的なのにはあまり興味なかったけれども、いい作品を効率よく求めるなら、やっぱり知名度がある人を追った方がいいのかもしれないなぁと思った。最近、涼宮ハルヒの憂鬱を見返してみたりしてたが、今見ても面白い。京都アニメーションさんの作品も、フルメタルパニックとかもいい仕事だなぁと思ったりする。
ただやっぱり、「誰がつくったか」というよりも、その作品自体がどうであったか、というのが一番重要なことだと僕は思う。あくまで、効率的に良い作品を探すなら、その確率を高めるなら、という話しだろう。
と、まぁ、こんな大した面白くもないことを書いておく必要があるのかと思いつつも、いまいち、何が面白いかということは、今の自分の感覚と、この先の自分の感覚(後から読み返したとき)とで異なっているから、仕方がない、書いておくかと。
犯罪係数
最初の事件において、ある被害者の女性が、監禁され暴行、レイプされていたことで、犯罪係数があがってしまった。犯罪係数とは、シヴュラ(しびら?)システムという全人類を管理するネットワークシステムにおいて、その人の感情や思考等を分析し、「犯罪を起こしそうな可能性」を数値化したものである。(←勝手な僕の解釈)本来、被害者である女性だが、レイプされたりひどいことされたせいで、「憎しみ」とかそんな感情が高まってしまったのかもしれない。
それによって、ドミネーター(犯罪係数によって対象を識別し攻撃できる銃)で、エリミネーター(殺害対象)にまで犯罪係数を高めてしまう。
同僚が、レイプ犯のみならず、被害者も手にかけようとした瞬間、主人公は、同僚をとめて、結果的に被害者女性は助かる。
めでたしめでたし。
しかし、その後の展開で僕は驚愕した。
なんと、その被害者女性は、エリミネーターから、制圧対象まで犯罪係数が下がり、挙句の果てに、セラピーによりますます回復傾向になっていっている、というのである!
え、いいことじゃないか、助かって良かったね、というわけだ。何を驚くことがあるだろう?
驚きだよ! 完璧なシステムたるシビュラ(しびら?)システムにおいて、一度は「もう更生の余地ないからさっさとしっかり照準合わせて殺っちゃってー」と判定されたあとに、極度の犯罪現場の緊張状態が回復し、セラピーを受けることによって、回復してしまうということだ。
これは恐ろしいことである。これは、冤罪ではないのだろうか? 恐らく、そうではないのだ。一度犯罪係数が高まって、殺害対象になって、ちょうど執行官(犯罪者を処分する仕事をする人)が目の前にいたら、裁判もなく殺害なのである。
タイミング性
先日、トラブルにより、口論というか、あわや喧嘩のような状態になったとき、僕は暴力を避けて戦略的撤退(といえばかっこいいかもしれないが、ただ危険を感じて逃げただけである)をした際に、おそらく、感情は濁り、犯罪係数は格段にとびはねたことだろう。僕は体当たりされてしまった被害者なのであるが、しかし、「危険なことをしようとする人」(この場合、むかつくクソ野郎に消えてもらいたいと本気で思ったこと)と判断されてしまえば、「逮捕される」対象になりえるのである。
このサイコパスの世界は、全員が、感情指数も計測されて、濁っていたら強制的にセラピーを受けさせられる。
精密なことに、いちゃいちゃするカップルをみて、ショッピングモールで苛立ちを高めた孤独な男性も、「ちょっと感情が濁っちゃってますね~。ご同行いただけますか?」と任意同行(いや強制収監)されてしまうのである。
負の感情はダメなものか?
この作品が何を言いたいものなのか、正直まだ4話くらいしか見てないし、敢えてウィキとか説明をみていないから分からないけれども、自動運転やノンアルコールビールや、カフェインレスコーヒーのように、今後「危険なもの」をどんどん排除していくことが「正義」となれば、そのうち、人間の感情にまで手が及ぶだろうことは、そんなにサイエンスフィクションのようには思えない。そんな世界が生きづらいのではないか?
という疑問は、さほど重要視されることはない。
このことは、何となく感じてはいたけれども、先般のサピエンス全史なんかを読んでいると、そもそも、農耕を始めた時点で、人類は、「生きづらい」生活を選択していったのだ。
僕たちが効率をもとめ、富を求め、正義をもとめ、幸せを求め……多くのものを求めていけばいくほどに、新たな「生きづらさ」が蔓延していくのだ。
しかし、すぐさま書くべきは、その「生きづらさ」は、大半の人たちは気づきもしない。多くの子どもや子孫に囲まれ、幸せな一生を送るのである。ところが、その「生きづらさ=常識」というものから、零れ落ちてしまう人は必ず存在している。これまでも存在していたし、これからも存在し続ける。
社会性。
人が生きていくうえで必ず身につけなければいけない、他者と協力するという行為および、それに伴う思考や感情。
これは避けることはできない。そしてそのことが、同時に人の生存戦略の一つである「多様性」という概念との軋轢や矛盾をうみ、これまた発生する負の感情の数々。
負の感情を発する人を排除すれば事が済むのか
サイコパスという作品は、勝手な妄想で書けば、管理社会というものへの警鐘と思う。気に入らない奴は、殺してしまいたい。社会性を維持するためには、足手まといは排除すべきだ。
この感情は、一般的ではあるが、「人類の平等」や「福祉国家」というイデオロギーにおいては、そのまま表現することは許されない。弱者の切り捨て、ということで、批判の対象にされる。
そこで、サイコパスという作品においては、「シビラシステム」という、「完璧な」システムが、その「切り捨ててもいい人たち」を判断してくれるのである。
これは、「神」の代替である。
神が人類を造物し、それゆえに人は全員平等なのだ、という「神話」を、情報社会において人は信じることができなくなった。
その代わりとなったのが、「完璧なシステム」である。
システムは、人でないがゆえに、誤ることがない。絶対にいつも正しい。だから、それに基づく判断は、例え「殺人」だとしても、正しいのである、と。
法やシステムの普遍性への神話
この記事の最後に、一つ、生きる上で何の役にも立たないが、生きる意味を考える上では無視できないことを、思い出し、忘れないようにするために書いておこう。僕たちは、資本主義法治国家や、IT社会の中で生きているけれども、まぁ結局のところ、それらも、多くの巨大な(噂話で繋がってられる150人程度の集団よりも遥かに大きな)集団を維持するための、共同主観的(共同幻想)な方策なのである。
法律は、絶対正しいものだと思う。それに従わなければ、罰せられる。
しかし、ハンムラビ法典もまた、法の体系である。しかし、前1776年あたりのハンムラビ法典では、人類平等なんてうたわれていない。上層民と、自由民と、奴隷にわけられて、されに男女平等なんかもない。女も子供も、男よりも低い価値しか認められていなかった。
そんな、不平等で野蛮な法であっても、従わなければ罰せられた。どうやって? 武力である。
その構造は、今も変わらない。法律に従わなければ、例えば罰金になったりする。けれども、それも無視し続けたらどうなろうか? 警察が出動し、身柄を拘束され、独房にぶっこまれる。
これは、法的で正当な「正義」なのだけれども、その行為だけを考えてみれば、殴って拉致って閉じ込める、ということである。
つまり、頭のいい法律家たちが支配しているようなイメージがある法律だけれども、その法律を維持するには、権力=武力が必要不可欠なのである。
だから、軍備縮小とか、軍隊は不要だとか、そういう議論を否定するつもりも、政治的な思考をする気もないけれども、まぁ難しいことだろうなと思う。理想的には、世界平和をこよなく希求するけれども、「強制力」がないルールは、そもそもルールとして成り立たない、形骸化すると、僕は思ってしまう。この考えは、もしかすると、感情の濁りや犯罪係数が高いからなのかもしれないけれども。
すごく、自分の、この記事と主旨が関係ないことを書くと、
某国の基地を撤廃しろと主張する人たちがいたとして、その人たちは、戦闘機の爆音や兵士の婦女暴行などで長年苦しんでいることなのだけれども、ルールを破って危険な国に攻め入られたとき、それに対抗する「力」は要しておく必要がある。ということは、付近の住民の「騒音被害」よりも優先される、と考えられることであるので、ただ、基地撤廃を主張するだけでは、結局のところ、多くの人の理解を得ることは不可能になってくる。
しかし、その論理もまた不十分であり、そもそも、他国に攻め入られたときにその基地の某国が、本当に自国を守ってくれるという保障もない。その保障を、お金やルールや何でもいいが、確立していくというのが、本当の外交として重要なことである。
より大きな目的を掲げられたとき、人は、「みんなのためなら仕方がないか」と考え始めることになる。しかし、その大きな目的は、往々にして中身がない場合がある。具体的方策に基づいた方針は強い。しかしその具体的な方策というのは、実は、目先の、小さい些末なことの積み重ねなのである。理想と現実とのギャップ。これを丁寧に埋めていく作業なくして、「調整ごと」を上手くやることはできない。
しかしながら。
ここが重要なことだけれども、いくら「論理的」で「正義」で正しく普遍的であろうとも、それは、「強制力」を伴ったものでなければ、役に立たないことが往々にしてあるし、
逆に、いくら正義や論理がぶっこわれていても、「いいからやれ!!」と無理やり従わされるような場面も、我々生きていく中では当然直面していくことなのである。
蛇足
ある店で、10歳ぐらいの男の子が、父親に、「これ買って」とだだをこねていた。かわいらしいものだ、と最初は思っていたが、売り場を一周して戻ってきても、何十分もまだ「買って」「そんなもの買っても仕方ないだろ」を続けていた。買えない理由を明確に伝えて、説得することも大事かもしれないが、そもそも、「ダメなもんはダメ」ということを教えてもいいと思う。
理詰めでしか動けない人間は、時に弱い。がーん!とぶったたいて、ダメなもんはダメ! といって、泣こうが喚こうが、絶対にゆずらない。そんなことも必要だろう。
が、それも、そればっかり続けていると、「なにやっても、いくら正しくてもだめなもんはだめ」という無気力を醸成する場合もある。
いやはや、教育とは難しいものである。まぁ関係ないんだけど。
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今日の一言「ものすごく暗い内容のため読む際は部屋を明るくして心が落ち着いたときに読みましょう」
ある方が、長期の休みが終わりに近づいて憂鬱だと仰っていたが、まさに自分も、長い夏休みの終わりに学校が始まるようなそんな閉塞感が最近ずっと続いている。
しかたねぇ、誰も助けてくれないなら、自分で、生きる意味、なんて大層なものみつけてやろうと、徹底して考える、と、ブログを始めたが、おい、全然はなしが進んでないじゃないか。
友人の多くが、結婚したり、子供ができたりと、まぁそんな報告が多いのも理由なのか?
そうだとしたら、単なるひがみだが、そういった生活に憧れを今はもてないという、そういう状況というか感覚。
恋に臆病とか、彼女ができなくて悩んでいた、というのは高校生くらいはそうだったが
別にできないことが問題には思えず、それらをやりたいと思えないというのがある。
いやそもそも、彼女をつくろう、というのも、それが恋をしてやりたかったこと、というよりかは、どこかしらその経験自体を求めていた、どっちかというと、勉強に近いような感覚だった気がする。
そういう意味では、恋らしき恋ってのは、中学生ぐらいの初恋が、最初で最後の、女の子を好きになる、という感情だったのかもしれない。
とか、そんなことどうでもいいんだよな。
こういった表現で、なんとなく可哀想な自分、的なのにひたれて満足してたようなときもあったような気がするけど、今は心底どうでもいいと思ってしまう。
そして、このどうでもよさ、というのが、ほぼ生きること生活すること全般にひろがるから大変だ。
そんな状況でも、仕事はせねばならん。
やらねばならん、やる。やればやるほど精神ポイントが削られている気がする。
休みがむしろ、絶望を深める可能性さえある。
そしたら、メンタルポイントは、どうしたら回復するんだ?
宿屋で寝ると全快まで回復するけど、寝ればいいってもんだいでもない。
自己コントロール性、というのもある。
資産があれば自由が買えるから、それによって精神充足する、ってのもある。
しかし、いくら余剰資産があっても、使いたいものもなく、かといってアーリーりタイヤできるほどもなく。
アーリーリタイアした人とか、それを目指す人のブログなんかも結構面白いが、しかし、その後の人生として、何がどう充足して楽しいのかよくわからない。
切り詰めて生活して、慎ましい自由を得てそれの繰り返しで孤独に死ぬ……いやもちろん、とっても魅力的に思えるけど、でも、そういう次元ではいまの生活でも別にいいや、って感じ、難しいけど、そこまでコミットできるほど素晴らしいようにはみえない、ということだ。
東京マグニチュードも面白かった。
けどさ、両親と再開できて和解もできて大切な人生を一日一日過ごしていこう、めでたしでたし、なんだけど、その後、老後になった主人公はどうなった?
ほんとに、人生最高に幸せにまっとうできたのか?
つまり、
ひっきょう、俺は狂ってしまったのだろう。
多くの人は、苦労しながら、大変なことも乗り越えながら、なんとか人生を歩んで、そして死ぬ。
そこに、そもそも、生きてること自体を懐疑する、というような人はいないだろう。
どこの人も、どこの本も、知人の言葉も生きることそれ自体は自明なものとされている。
いや、ごめん、それは、正しい。
人間の本能は、生きたい、知りたい、仲間になりたい、の三つだ。
進んで死ぬ、というのは、細胞レベルのアポトーシスはあるが、一個の人間として、そんなことあっていいものか。
であれば、本当に、自ずから、やりたいと、理想的な、本当に楽しくて仕方がないそんな生活というのがあるはずではなかろうか?
それへの道のりがあまりにも遠すぎて、いやになってしまっているのではないか?
理想的な生活があるにもかかわらず、それへの道のりが遠いことによる絶望。
もう1つは、理想的な生活を見いだせなくなる絶望。
絶望には二つの形態がある。
では、例えば、仕事が辛くて悩んでる人は、どちらだろうか?
仕事がつらい、上司から無理難題やノルマを課せられる、同僚や客が理不尽だ、単純作業過ぎてつまらない、など。
まぁ理由は様々だろう。
それらの問題が解決すれば、再び、生きる希望を見出せるようになるのか?
お金がたくさんあって、欲しいもの何でも買えて、車も女も抱き放題。酒池肉林に生きていく。
いろんな物語がある。
最近俺は、どの物語に対しても、どうにも本気になれない。例えば、高校時代、最終兵器彼女という作品があって、高校生の男女の切ない恋の物語なんだけど、途中別れたり、すれ違ったりいろいろするのだけれども、最終的には一緒になって、世界最後のときも、物理現実的な身体はなくしてしまっても、心の中でずっと二人は「恋していく」という作品なのだけれども、まぁコミットできないわな!(かっこわらい)
いや、純情的に、好きになった人と、ずーっと一緒に、困難を乗り越えて生きていくって、今も昔も、恋愛作品的なやつの根本命題というか、繰り返しあの手この手で同じテーマを装飾して洗練され続けているものだ。
しかしだ、子供を生めない体になってしまった女性が、強い男を育てることに生きがいを見出すことが、まぁできればそれはラッキーというか幸せだけれども、「やっぱり、自分の子供を自分の手で抱きたかった」という思いがずーっと残り続けているとしたら、その人の人生は、この先、何があろうが、「身体的限界性」によって、不幸でしかありえない、哀しいことだけれども。
いやもともと、何か外属性による問題と、僕の問題視している事象については、きっと関係ないだろうなと、思っていたことではあったけれども、ただそれは、童貞であるという事実がある以上は、もはや何ら理論を積み重ねても簡単に精神が覆ってしまう事態なのであって、僕は全身全霊決意して行動に励んだ。
その結果、「成果」に結び付いたといえようが、結局、最初の方に書いた通り、何か「恋して」「本当の欲求として」の行動であったとは言い難いのである。
いつぞやから、僕は一体、何も望めなくなっていたのだろうか? 簡単な仮の回答を書いておけば、初恋の成就が潰えたことだろう。
どんなに「頑張って」も「努力して」も、世の中、人は空を飛べないのと同じぐらいくだらないほど当たり前のように、成し遂げられないことってのは存在するのである。
だからどうした? そんな小学生みたいなダダをこねてないで、もっと頑張って、真剣に、生きてみろよ。頑張れ、頑張れ頑張れ……。
いいよ、頑張るのはやぶさかじゃない。だが、頑張ってそれがどうしたってんだ? 必死に生きて、40歳なって、50歳なって、60歳なって、70歳なって、それで病気になって死んで、それが何だってんだ?
子どもを育てる? 次世代への継承? 70億人も人がいるのに? 人類とっても反映してない? 自分の遺伝子残してそれがなんだっての?
まったく無意味だ。
でもさ、だったら、この役に立たない俺が、ずっと生きてることで、このクソみたいな世界に復讐してやってもいいじゃないか。滓のように生きてやるよばーかばーか。
と、いじめられてたとき、もうふっきれて反抗というか抵抗したこともあったようななかったような。それ以降はあぶないやつと思われたのかどうなのか分からないが、あまりいじめられることもなくなったような変わらなかったような。
んー、なんつーか、まぁ、思い出せば出すほど、くそみたいな周りの奴らだったし、まぁ俺自身ももっとクソみたいなやつだったのだろうけれども、何か過去に戻りたいとは一切思わないな。
かといって、今がじゃあ最高に幸せかってのも何か違うけど、取りあえず平穏安寧の暮らしって気もする。
そういう意味ではこう、過去との比較思考って役に立っちゃうんだけど、そんな、過去に対しての不平不満を言いながら毎日生きていくって、それまたくだらない人生だよなぁ。
ここで、「どんだけクソみたいな人生なのか」というのは意味がない。
ダメブロ界の作品なんかを読んでいると、うわ……これはマジきついっすわ、ぱねぇ。と思うのがいくつも読むことができる。それが割り増ししてるのか、創作なのかは分からないけれども、まぁ割かし本当なのだろう。じゃなきゃ、表現できないようなレベルの作品がたくさんある。あのレベルで創作だとしたら、もうそれはそれですげーや、って思うぐらいだ。
うわー中途半端だねぇ。ポジティブでもないし、ネガティブなことも中途半端。あっはは、本当に何にもできない半端野郎だな。
この記事読んでさ、読んだ人がさ、「ああ、こんなダメな奴がいるんだ……、俺はまだましなほうだな。よし、もうちょっと頑張ってみっか」とか思わせられるぐらいダメ人間アピールしてみろよ。ほら、ほら!
うっせーはげ! そんなこと目的にしてんじゃねえんだよ。意味を探してるんだよ、ロールモデルだよ!
あのさ、そもそも、周りの人の生き方で、楽しそうなのがねーんだよ。
上司も、先輩も、友人もその他大勢の人たち、いやもっと広げて、ニュースで称賛される人でもいいし、世界で活躍する人でもいい。
なんか、どれもこれも、いや、「すげー」とは思うけれども、「僕もああなりたい!」と目をキラキラ輝かせて思えないんだよな。
仕事ができる先輩上司とか沢山いるよ。でも、みんな血眼になって、時にお客さんに頭をさげて、使えない部下に苛立ちながらとっても頑張ってるよ。全然楽しそうに思えないよ。
中には、もう仕事なんてツールに過ぎないとして、趣味にはしって楽しんでる人もいるよ。でもそれも何か見習いたいというか、ロールモデルとしては欠陥に思えるよ。
アーリーリタイヤを目指して節制して頑張ってる人もいるよ。実際45歳でリタイアして、自由気ままに一人暮らしを謳歌している人もいるよ。お金を貯めたことはすごいことだと思うけれども、何かその自由になってやりたいことがよく分からないし、あんまり憧れないよ。
批判ばっかだな!
でもそうなんだ。「こうなりたい!」と思えるような人がいないのだ、色々探しているけど。
ある精神科医のブログの作者さんは、結構面白いよ。書いている内容から、結構思考レベルで近くて目指すべき人な気がするよ。でもちょっと、やっぱりブログとかじゃあ分からない部分が多いよ。
こんなこと書いていると、「は? てめー、凡人カスのくせに偉そうになに言ってんだよ、死ねよ」って言われるよ。哀しいよ。でも、そんなこと思う奴には絶対憧れないし、その他にも、憧れるような人がいないってのは、哀しいけれども真実なところだよ。
いやすぐさま書いておけば、他者に感動を与えられるような作品をつくれる人は、本当心の底からすごいと思うよ。かっこいいと思うよ。でも、今回問題になってるのは、特定の技能的な部分じゃなくて、全人格的な、物理現実的な生き方においてのことなんだよ。
創作は楽しいことなんだよ。力になることなんだよ。でも、それと物理現実とはちょっと違うんだよ。映画監督とか、小説家、としての生き方にあこがれるわけではないんだよ、ここがちょっと難しいところなんだ。
頑張れとか、逃げるな戦えとか。
分かってるというのに。分かっていて、どうしようもなく疲れてくるから書いてるだけだろうが。
第一、グチグチした人はきらいなんだ。
愚痴をいうなら、もうそれは本当に表現になるぐらい徹底しろ、といいたい。
ドストエフスキーは読んだことないけれども、どす黒く暗くなれば、それはそれで人類の発明品だ。
それにしてもつまらないなぁ。
つまらないとか言ってる奴がつまらないんだ。負け組なんだ、脳はレッテルはるから、悪い情報ばっかり見えるようになって悪循環になるんだ、とか、まぁ分かってる。
よくないことしてるんだろうと、もっと明るくなれ、楽しくなれ、喜びをこの手に! と思う。知識的には。
でももう、どうしようもなくむなしい。やる気が起きない。つまらない。
まぁ本気で自殺するなら、取りあえず会社やめてからだな(かっこわらい)。
それはまぁともかく、今後の、暗い出来事、危機として考えられるのが、親の死というのがあるだろう。
両親は健在だが、いずれ人は死ぬ。
そしたら、俺ひとりやん。
死んでも泣いてくれるひとおらんやん。
無気力やん。
……。
とか、3年経って、資産も潰えて、経済的にも困窮したとする。
おぉう。もう死ぬしかないじゃん、と。
そもそも、セーフティネットとして、「経済的困窮したぐらいで自殺する」というそれ自体が、制度的欠陥というか、自殺する人の精神構造の危機というわけであって、別にお金がなくても再チャレンジできる社会であるのが当然望ましい。
ただ、もう天涯孤独になっちまって、お金もなく、社会的なつながりもなく、という状態になったら、まぁ、もう生きてて仕方がねえや、ってなるだろうね。
それに、ここが重要だが、「大抵の【真面目な】人たち」は、そういった孤独になった人たちに対して、「自業自得」としか思わない。
僕だって、2000万円ぐらい親から借金してギャンブルにつぎ込んで多重債務になったとか、お前、マジ消えていいよ、と思ってしまう。キャバクラとかホストにつぎ込んでエトセトラ、とかも同様にアホとしか思えない。
けどまぁ、そういう図々しい奴らが生きはびこって、一方で責任感が強くて頑張ってきた人が自殺する世の中、ほんとおかしいよね。(いや実際そんなことが起こってるかどうかは、要検討調査が必要。実は、ごくわずかな事例をマスメディアが面白おかしく取り上げてるだけという可能性は十分にある。ただ、そういった社会学的な問題提起について、僕はもはや一切興味はない。他者の心配をしている余裕なんてない!)
指が止まってしまったよ。もうこれ以上は、哀しいことも、つらいことも、むかつくことも、ネガティブなことも、暗いことも、書けない。
全力を出し切った。
もうほんと、今日は頑張った!(わらい)
うん、「徹底」した気がする!
よーし。明日はもっと暗くてネガティブな奴を書くぞ!!
いや、冗談ではなく、もう本当に、中途半端に過去に浸って、カタルシスを得て満足して明日をなぁなぁと頑張ろうとか、そんなこと思わねえ。思ってやるもんか。
感動したならそれを本気で、苛々したならそれを本気で、憂鬱ならそれを本気で書いてやるよ。
(憂鬱なときに本気で書く、というのは、甚だ矛盾としか思えない表現。でも、身体が重くて頭が痛くて気分がふさぎ込んでいても、そのこと自体を書きなぐってやりたい)
いやはやほんっと、最悪な気分だ、だがまだ足りない。
誰か面白いこと書いてくれ
本当に誰か、心から感動して、何か前向きに突き進んで、今後ぶれずに人生全うできるような、考え方でも体験でも作品でも何でもいいから与えてくれよ。ある方が、長期の休みが終わりに近づいて憂鬱だと仰っていたが、まさに自分も、長い夏休みの終わりに学校が始まるようなそんな閉塞感が最近ずっと続いている。
しかたねぇ、誰も助けてくれないなら、自分で、生きる意味、なんて大層なものみつけてやろうと、徹底して考える、と、ブログを始めたが、おい、全然はなしが進んでないじゃないか。
友人の多くが、結婚したり、子供ができたりと、まぁそんな報告が多いのも理由なのか?
そうだとしたら、単なるひがみだが、そういった生活に憧れを今はもてないという、そういう状況というか感覚。
恋に臆病とか、彼女ができなくて悩んでいた、というのは高校生くらいはそうだったが
別にできないことが問題には思えず、それらをやりたいと思えないというのがある。
いやそもそも、彼女をつくろう、というのも、それが恋をしてやりたかったこと、というよりかは、どこかしらその経験自体を求めていた、どっちかというと、勉強に近いような感覚だった気がする。
そういう意味では、恋らしき恋ってのは、中学生ぐらいの初恋が、最初で最後の、女の子を好きになる、という感情だったのかもしれない。
とか、そんなことどうでもいいんだよな。
こういった表現で、なんとなく可哀想な自分、的なのにひたれて満足してたようなときもあったような気がするけど、今は心底どうでもいいと思ってしまう。
そして、このどうでもよさ、というのが、ほぼ生きること生活すること全般にひろがるから大変だ。
そんな状況でも、仕事はせねばならん。
やらねばならん、やる。やればやるほど精神ポイントが削られている気がする。
メンタルポイントの回復
お疲れだね、休みな、という方策は正しい。しかしながら、最初に引用した素晴らしい方のお言葉のとおり、休みそれ自体は、必ずしも心と体を回復させるものではないのである。休みがむしろ、絶望を深める可能性さえある。
そしたら、メンタルポイントは、どうしたら回復するんだ?
宿屋で寝ると全快まで回復するけど、寝ればいいってもんだいでもない。
自己コントロール性、というのもある。
資産があれば自由が買えるから、それによって精神充足する、ってのもある。
しかし、いくら余剰資産があっても、使いたいものもなく、かといってアーリーりタイヤできるほどもなく。
アーリーリタイアした人とか、それを目指す人のブログなんかも結構面白いが、しかし、その後の人生として、何がどう充足して楽しいのかよくわからない。
切り詰めて生活して、慎ましい自由を得てそれの繰り返しで孤独に死ぬ……いやもちろん、とっても魅力的に思えるけど、でも、そういう次元ではいまの生活でも別にいいや、って感じ、難しいけど、そこまでコミットできるほど素晴らしいようにはみえない、ということだ。
物語も同様
東京マグニチュードも面白かった。
けどさ、両親と再開できて和解もできて大切な人生を一日一日過ごしていこう、めでたしでたし、なんだけど、その後、老後になった主人公はどうなった?
ほんとに、人生最高に幸せにまっとうできたのか?
幸せの次元の変化
つまり、
ひっきょう、俺は狂ってしまったのだろう。
多くの人は、苦労しながら、大変なことも乗り越えながら、なんとか人生を歩んで、そして死ぬ。
そこに、そもそも、生きてること自体を懐疑する、というような人はいないだろう。
どこの人も、どこの本も、知人の言葉も生きることそれ自体は自明なものとされている。
いや、ごめん、それは、正しい。
人間の本能は、生きたい、知りたい、仲間になりたい、の三つだ。
進んで死ぬ、というのは、細胞レベルのアポトーシスはあるが、一個の人間として、そんなことあっていいものか。
であれば、本当に、自ずから、やりたいと、理想的な、本当に楽しくて仕方がないそんな生活というのがあるはずではなかろうか?
それへの道のりがあまりにも遠すぎて、いやになってしまっているのではないか?
二つの回答
理想的な生活があるにもかかわらず、それへの道のりが遠いことによる絶望。
もう1つは、理想的な生活を見いだせなくなる絶望。
絶望には二つの形態がある。
では、例えば、仕事が辛くて悩んでる人は、どちらだろうか?
仕事がつらい、上司から無理難題やノルマを課せられる、同僚や客が理不尽だ、単純作業過ぎてつまらない、など。
まぁ理由は様々だろう。
それらの問題が解決すれば、再び、生きる希望を見出せるようになるのか?
理想の生活を想像する
不満があって、時おり楽しくて、大きな変化はないけれども、毎日それとなく充実して、お酒やおいしいものや友人に囲まれて生きていく。お金がたくさんあって、欲しいもの何でも買えて、車も女も抱き放題。酒池肉林に生きていく。
いろんな物語がある。
最近俺は、どの物語に対しても、どうにも本気になれない。例えば、高校時代、最終兵器彼女という作品があって、高校生の男女の切ない恋の物語なんだけど、途中別れたり、すれ違ったりいろいろするのだけれども、最終的には一緒になって、世界最後のときも、物理現実的な身体はなくしてしまっても、心の中でずっと二人は「恋していく」という作品なのだけれども、まぁコミットできないわな!(かっこわらい)
いや、純情的に、好きになった人と、ずーっと一緒に、困難を乗り越えて生きていくって、今も昔も、恋愛作品的なやつの根本命題というか、繰り返しあの手この手で同じテーマを装飾して洗練され続けているものだ。
しかしだ、子供を生めない体になってしまった女性が、強い男を育てることに生きがいを見出すことが、まぁできればそれはラッキーというか幸せだけれども、「やっぱり、自分の子供を自分の手で抱きたかった」という思いがずーっと残り続けているとしたら、その人の人生は、この先、何があろうが、「身体的限界性」によって、不幸でしかありえない、哀しいことだけれども。
身体的限界性による不幸
彼女ができたことがある、結婚したことがある、それらの経験は、もはや何の自慢にも、何の心のよりどころにもなりゃしない、ということが、最近の問題の一つ。いやもともと、何か外属性による問題と、僕の問題視している事象については、きっと関係ないだろうなと、思っていたことではあったけれども、ただそれは、童貞であるという事実がある以上は、もはや何ら理論を積み重ねても簡単に精神が覆ってしまう事態なのであって、僕は全身全霊決意して行動に励んだ。
その結果、「成果」に結び付いたといえようが、結局、最初の方に書いた通り、何か「恋して」「本当の欲求として」の行動であったとは言い難いのである。
いつぞやから、僕は一体、何も望めなくなっていたのだろうか? 簡単な仮の回答を書いておけば、初恋の成就が潰えたことだろう。
どんなに「頑張って」も「努力して」も、世の中、人は空を飛べないのと同じぐらいくだらないほど当たり前のように、成し遂げられないことってのは存在するのである。
だからどうした? そんな小学生みたいなダダをこねてないで、もっと頑張って、真剣に、生きてみろよ。頑張れ、頑張れ頑張れ……。
いいよ、頑張るのはやぶさかじゃない。だが、頑張ってそれがどうしたってんだ? 必死に生きて、40歳なって、50歳なって、60歳なって、70歳なって、それで病気になって死んで、それが何だってんだ?
子どもを育てる? 次世代への継承? 70億人も人がいるのに? 人類とっても反映してない? 自分の遺伝子残してそれがなんだっての?
まったく無意味だ。
復讐としての生き方
全く無意味だ。何ら価値もない。でもさ、だったら、この役に立たない俺が、ずっと生きてることで、このクソみたいな世界に復讐してやってもいいじゃないか。滓のように生きてやるよばーかばーか。
と、いじめられてたとき、もうふっきれて反抗というか抵抗したこともあったようななかったような。それ以降はあぶないやつと思われたのかどうなのか分からないが、あまりいじめられることもなくなったような変わらなかったような。
んー、なんつーか、まぁ、思い出せば出すほど、くそみたいな周りの奴らだったし、まぁ俺自身ももっとクソみたいなやつだったのだろうけれども、何か過去に戻りたいとは一切思わないな。
かといって、今がじゃあ最高に幸せかってのも何か違うけど、取りあえず平穏安寧の暮らしって気もする。
そういう意味ではこう、過去との比較思考って役に立っちゃうんだけど、そんな、過去に対しての不平不満を言いながら毎日生きていくって、それまたくだらない人生だよなぁ。
ここで、「どんだけクソみたいな人生なのか」というのは意味がない。
ダメブロ界の作品なんかを読んでいると、うわ……これはマジきついっすわ、ぱねぇ。と思うのがいくつも読むことができる。それが割り増ししてるのか、創作なのかは分からないけれども、まぁ割かし本当なのだろう。じゃなきゃ、表現できないようなレベルの作品がたくさんある。あのレベルで創作だとしたら、もうそれはそれですげーや、って思うぐらいだ。
まだまだ大したことない
おーい。その程度? 暗い日記だよーとか書いておいて、その程度なの? もっと心底、読んだ人9割ぐらい憂鬱にさせるぐらいのこと書けないの?うわー中途半端だねぇ。ポジティブでもないし、ネガティブなことも中途半端。あっはは、本当に何にもできない半端野郎だな。
この記事読んでさ、読んだ人がさ、「ああ、こんなダメな奴がいるんだ……、俺はまだましなほうだな。よし、もうちょっと頑張ってみっか」とか思わせられるぐらいダメ人間アピールしてみろよ。ほら、ほら!
うっせーはげ! そんなこと目的にしてんじゃねえんだよ。意味を探してるんだよ、ロールモデルだよ!
諸先輩方のだらしなさ
あんまりやったことないことにチャレンジ。人のせいにするよー。あのさ、そもそも、周りの人の生き方で、楽しそうなのがねーんだよ。
上司も、先輩も、友人もその他大勢の人たち、いやもっと広げて、ニュースで称賛される人でもいいし、世界で活躍する人でもいい。
なんか、どれもこれも、いや、「すげー」とは思うけれども、「僕もああなりたい!」と目をキラキラ輝かせて思えないんだよな。
仕事ができる先輩上司とか沢山いるよ。でも、みんな血眼になって、時にお客さんに頭をさげて、使えない部下に苛立ちながらとっても頑張ってるよ。全然楽しそうに思えないよ。
中には、もう仕事なんてツールに過ぎないとして、趣味にはしって楽しんでる人もいるよ。でもそれも何か見習いたいというか、ロールモデルとしては欠陥に思えるよ。
アーリーリタイヤを目指して節制して頑張ってる人もいるよ。実際45歳でリタイアして、自由気ままに一人暮らしを謳歌している人もいるよ。お金を貯めたことはすごいことだと思うけれども、何かその自由になってやりたいことがよく分からないし、あんまり憧れないよ。
批判ばっかだな!
でもそうなんだ。「こうなりたい!」と思えるような人がいないのだ、色々探しているけど。
ある精神科医のブログの作者さんは、結構面白いよ。書いている内容から、結構思考レベルで近くて目指すべき人な気がするよ。でもちょっと、やっぱりブログとかじゃあ分からない部分が多いよ。
こんなこと書いていると、「は? てめー、凡人カスのくせに偉そうになに言ってんだよ、死ねよ」って言われるよ。哀しいよ。でも、そんなこと思う奴には絶対憧れないし、その他にも、憧れるような人がいないってのは、哀しいけれども真実なところだよ。
いやすぐさま書いておけば、他者に感動を与えられるような作品をつくれる人は、本当心の底からすごいと思うよ。かっこいいと思うよ。でも、今回問題になってるのは、特定の技能的な部分じゃなくて、全人格的な、物理現実的な生き方においてのことなんだよ。
創作は楽しいことなんだよ。力になることなんだよ。でも、それと物理現実とはちょっと違うんだよ。映画監督とか、小説家、としての生き方にあこがれるわけではないんだよ、ここがちょっと難しいところなんだ。
え、つまり逃げてるだけじゃね?
すぐ君はそんなことを言ってくる。頑張れとか、逃げるな戦えとか。
分かってるというのに。分かっていて、どうしようもなく疲れてくるから書いてるだけだろうが。
第一、グチグチした人はきらいなんだ。
愚痴をいうなら、もうそれは本当に表現になるぐらい徹底しろ、といいたい。
ドストエフスキーは読んだことないけれども、どす黒く暗くなれば、それはそれで人類の発明品だ。
それにしてもつまらないなぁ。
つまらないとか言ってる奴がつまらないんだ。負け組なんだ、脳はレッテルはるから、悪い情報ばっかり見えるようになって悪循環になるんだ、とか、まぁ分かってる。
よくないことしてるんだろうと、もっと明るくなれ、楽しくなれ、喜びをこの手に! と思う。知識的には。
でももう、どうしようもなくむなしい。やる気が起きない。つまらない。
もっと暗いこと書いておこう
まだいいよ。取りあえず会社辞めても3年ぐらいは現行生活を続けられるぐらいの資産もある。まぁ本気で自殺するなら、取りあえず会社やめてからだな(かっこわらい)。
それはまぁともかく、今後の、暗い出来事、危機として考えられるのが、親の死というのがあるだろう。
両親は健在だが、いずれ人は死ぬ。
そしたら、俺ひとりやん。
死んでも泣いてくれるひとおらんやん。
無気力やん。
……。
とか、3年経って、資産も潰えて、経済的にも困窮したとする。
おぉう。もう死ぬしかないじゃん、と。
そもそも、セーフティネットとして、「経済的困窮したぐらいで自殺する」というそれ自体が、制度的欠陥というか、自殺する人の精神構造の危機というわけであって、別にお金がなくても再チャレンジできる社会であるのが当然望ましい。
ただ、もう天涯孤独になっちまって、お金もなく、社会的なつながりもなく、という状態になったら、まぁ、もう生きてて仕方がねえや、ってなるだろうね。
それに、ここが重要だが、「大抵の【真面目な】人たち」は、そういった孤独になった人たちに対して、「自業自得」としか思わない。
僕だって、2000万円ぐらい親から借金してギャンブルにつぎ込んで多重債務になったとか、お前、マジ消えていいよ、と思ってしまう。キャバクラとかホストにつぎ込んでエトセトラ、とかも同様にアホとしか思えない。
けどまぁ、そういう図々しい奴らが生きはびこって、一方で責任感が強くて頑張ってきた人が自殺する世の中、ほんとおかしいよね。(いや実際そんなことが起こってるかどうかは、要検討調査が必要。実は、ごくわずかな事例をマスメディアが面白おかしく取り上げてるだけという可能性は十分にある。ただ、そういった社会学的な問題提起について、僕はもはや一切興味はない。他者の心配をしている余裕なんてない!)
もう暗いこと書けません
……もう無理。これ以上はさすがに思いつかない。指が止まってしまったよ。もうこれ以上は、哀しいことも、つらいことも、むかつくことも、ネガティブなことも、暗いことも、書けない。
全力を出し切った。
もうほんと、今日は頑張った!(わらい)
うん、「徹底」した気がする!
よーし。明日はもっと暗くてネガティブな奴を書くぞ!!
いや、冗談ではなく、もう本当に、中途半端に過去に浸って、カタルシスを得て満足して明日をなぁなぁと頑張ろうとか、そんなこと思わねえ。思ってやるもんか。
感動したならそれを本気で、苛々したならそれを本気で、憂鬱ならそれを本気で書いてやるよ。
(憂鬱なときに本気で書く、というのは、甚だ矛盾としか思えない表現。でも、身体が重くて頭が痛くて気分がふさぎ込んでいても、そのこと自体を書きなぐってやりたい)
いやはやほんっと、最悪な気分だ、だがまだ足りない。
今日の一言「メモ帳を持ち歩いていないと色々忘れている」
※以下小見出しごとの記事は複数日のまとめのため関連性はあまり無い
今日は、面白そうなブログさんを、2つぐらい見つけた。更新チェッカーに登録。しかし、この情報に辿り着くまでに、1時間以上かかっている。無駄が多い。
そして、どうにも、期待している人のブログとかサイトとかは、「更新されたかな~」と、何度も足を運んでしまうのである。その無駄を省くために更新チェッカーを導入したのだ。
つまり、更新チェッカー以外に、ブックマークは使用しない、と決めてもいい気がする。
あと、まとめ系サイトの、関連する記事、とかいうのも、あれ危険だ。次から次へと気になるキャッちーなタイトルにつられてクリックしてしまう。が、大した内容じゃないことが9割である。
大した内容なのか、そうじゃないのかは、かなり主観的なものであって、運要素が大きい部分だ。
だからこそ、いい情報を掘り当てるのではないかと、そんな期待によって、欲望が制御されているわけだ。
アフォーダンスという概念は、椅子に座るのではなく、椅子が座れるように促しているのだ、というもの。うーん、これに関しての数百頁に渡る書籍を読んで、もっと深い概念だった気がするけれども、5~6年前の情報記憶などこの程度だということか。もう一度本を開けば、いろいろ溢れてくるのだろうけれども、何もないと何も浮かばない。知識は、引き出しにしまわれているというよりも、数珠つなぎのように、マトリックス上に複雑に絡み合っているので、その一本を引き抜こうとすると、関連する知識情報がもじゃもじゃと一緒にくっついてくるのである。
んー、というのは、またしても傲慢で痛い子だなぁ。いやそれというのも、最近「不幸」とかくと大げさだけれども、様々な生活状況において、苛々の火種が爆発しているのである。
先日はひどかった。さすがの自分も(何が「さすが」だ、気持ち悪い奴め)、苛々を通り越して怒り、そうとう口汚く相手を罵った。しかし、相手の方が殴りかかってきたし、もっとひどいことを言ってきたりした。恐ろしいことである。おかげで、次の日も何かトラブルに巻き込まれるんじゃないかと、人混みが怖かったぐらいだ。明日はどうだろうか……長く続くようならPTSDだぞほんと。
しかし、そのできごとは、相手がもう完全に論理破綻(いやそもそもそういう次元じゃなかった)していて、その矛盾を怒鳴りながらだけれども明確に発することができたことは、「お、意外と俺、やるじゃん?」という変な感覚も生まれたりもした……が、もうそれを超越して腹立たしかった!(と、書いていてまた怒りが復活してくるかっこわらい)
その日、かなり具体的なエピソードを書いたのだが、結局、予約投稿にしておいて、公開前に消した。
理由はいろいろあるけれども、まぁ、あんまり具体的な話を書いても仕方がないし、今みたいに苛立ちを増幅させることを敢えてする必要はあるまい。
年末になると、忙しくて、頭のおかしい人が増えるのだろうか。何とも、世界の平和と人類の幸福を願わずにはいられない。ハッピーメリークリスマス。
コーヒーは、カフェラテにしてもブラックにしても、自分で作った奴の方が美味しいし、果物や野菜ジュースも、自分で買ってきた奴の方が美味しい。
まぁそれでも、3時間で1000円ぐらいなので、漫画3冊でも読めば、単行本500円としたら、まぁ効率はよい気がする。
問題は、その読んだ作品を、どれだけ摂取し、「役立てられるか」ということだと思うけれども、この「役に立つかどうか」という視点も、これまた非常に繊細に扱わなければいけない概念のため、ここでは保留。
※以下小見出しごとの記事は複数日のまとめのため関連性はあまり無い
ネットサーフィンの効率化
情報収集のために、ブックマークを整理しようかなと思い始めてきた。今日は、面白そうなブログさんを、2つぐらい見つけた。更新チェッカーに登録。しかし、この情報に辿り着くまでに、1時間以上かかっている。無駄が多い。
そして、どうにも、期待している人のブログとかサイトとかは、「更新されたかな~」と、何度も足を運んでしまうのである。その無駄を省くために更新チェッカーを導入したのだ。
つまり、更新チェッカー以外に、ブックマークは使用しない、と決めてもいい気がする。
あと、まとめ系サイトの、関連する記事、とかいうのも、あれ危険だ。次から次へと気になるキャッちーなタイトルにつられてクリックしてしまう。が、大した内容じゃないことが9割である。
大した内容なのか、そうじゃないのかは、かなり主観的なものであって、運要素が大きい部分だ。
だからこそ、いい情報を掘り当てるのではないかと、そんな期待によって、欲望が制御されているわけだ。
アフォーダンスという概念は、椅子に座るのではなく、椅子が座れるように促しているのだ、というもの。うーん、これに関しての数百頁に渡る書籍を読んで、もっと深い概念だった気がするけれども、5~6年前の情報記憶などこの程度だということか。もう一度本を開けば、いろいろ溢れてくるのだろうけれども、何もないと何も浮かばない。知識は、引き出しにしまわれているというよりも、数珠つなぎのように、マトリックス上に複雑に絡み合っているので、その一本を引き抜こうとすると、関連する知識情報がもじゃもじゃと一緒にくっついてくるのである。
誰か俺を楽しませてくれよ
たまには、他者への期待について書いてみたりする。んー、というのは、またしても傲慢で痛い子だなぁ。いやそれというのも、最近「不幸」とかくと大げさだけれども、様々な生活状況において、苛々の火種が爆発しているのである。
先日はひどかった。さすがの自分も(何が「さすが」だ、気持ち悪い奴め)、苛々を通り越して怒り、そうとう口汚く相手を罵った。しかし、相手の方が殴りかかってきたし、もっとひどいことを言ってきたりした。恐ろしいことである。おかげで、次の日も何かトラブルに巻き込まれるんじゃないかと、人混みが怖かったぐらいだ。明日はどうだろうか……長く続くようならPTSDだぞほんと。
しかし、そのできごとは、相手がもう完全に論理破綻(いやそもそもそういう次元じゃなかった)していて、その矛盾を怒鳴りながらだけれども明確に発することができたことは、「お、意外と俺、やるじゃん?」という変な感覚も生まれたりもした……が、もうそれを超越して腹立たしかった!(と、書いていてまた怒りが復活してくるかっこわらい)
その日、かなり具体的なエピソードを書いたのだが、結局、予約投稿にしておいて、公開前に消した。
理由はいろいろあるけれども、まぁ、あんまり具体的な話を書いても仕方がないし、今みたいに苛立ちを増幅させることを敢えてする必要はあるまい。
年末になると、忙しくて、頭のおかしい人が増えるのだろうか。何とも、世界の平和と人類の幸福を願わずにはいられない。ハッピーメリークリスマス。
ネカフェのPC性能
昔は、自宅にはノートPCしかなく、ネットカフェのほうが断然性能がよいものだった。
今となっては、ネカフェのPCの方が断然性能が悪く、動作の遅さに非常に辟易してしまう。
もともと、遠藤浩輝先生の新連載ソフトメタルヴァンパイアを読みに来たのだったが、置いてなかった。正確には、検索にはヒットするけれども、どこにも見当たらなかった。
代わりに、進撃の巨人の最新刊を読んだ。21巻はずいぶんと話が広がった。進展した、というよりも、広がったという感じ。
ここまで広げてしまって、逆に大丈夫か、と心配になるぐらいであった。
テラフォーマーズも読んだ。うしじまくんとか、うそくいとかも読もうかなぁと思ったけど、気乗りしなかった。
飲み物も、昔は、飲み放題だなんてすごいな! と思っていた。けれども、1杯か2杯くらいで十分。あんまり飲んでもお腹が具合よくなくなる。それに、正直あまり美味しいと思えなくなっている。コーヒーは、カフェラテにしてもブラックにしても、自分で作った奴の方が美味しいし、果物や野菜ジュースも、自分で買ってきた奴の方が美味しい。
まぁそれでも、3時間で1000円ぐらいなので、漫画3冊でも読めば、単行本500円としたら、まぁ効率はよい気がする。
問題は、その読んだ作品を、どれだけ摂取し、「役立てられるか」ということだと思うけれども、この「役に立つかどうか」という視点も、これまた非常に繊細に扱わなければいけない概念のため、ここでは保留。
サイトの方は、過去の利用者さんのメッセージなどで、思うところがあった。評価とか、感想とか。
想像上の秩序
想像上の秩序、ということで、客観と、主観と、共同主観の三つがあるということだ。サピエンス全史より。
うん、面白いな。漫画とかアニメとか、小説もいいけれども、この本は面白い。明日は上巻全部読破したいな。
脳に悪い習慣として、「ああ、これは大体わかってる」と思うと、記憶力が低下するのである。しかし、この本は、ああ、わかっていた、と、そう感じさせる表現が多い。
もっと早く出会っていたらよかったか? いや、このタイミングが望ましかった。
いろいろと経験し、チャレンジし、ぶつかってみて、その結果としてフィードバックされた結果があるから、一文一文が面白いと感じるのだろう。
体が、痛い。
今年の目標その3
もっと友人たちと遊んだり、クリスマスプレゼントを買いにイルミネーションが輝く街に繰り出したり、そんなリア充的なことをしては如何だろうか。
それはそれでとても楽しいことだろう。それらの有用性について思いをはせる前に、自分の先日打ち立てた目標を達成すべく、自らの行動を決定する、この決定するという自由意志こそが、人として生きる、ということではあるまいか。
という言語表現ができるようになったのは、今回の記事のインプット目的の「文字」よりも前の、7万年前の認知革命によるものである。
しかし、こうした口承によるものは、150人程度の噂話で繋ぎとめられる集団をはるかにこえ、大きな国という概念に発達したサピエンスの集団を維持するシステムには不十分だった。
税を徴収するには、国の成り立ちを物語る、神話や法律の制定を繰り返し口頭で伝えるだけでは不十分だ。何故ならば、人は、大量の数理的データをインプットできるような脳構造をしていない。
狩猟採集民は、我々現代人(の個々人)よりはるかに深遠で幅広い自然についての知識をインプットしていた。しかしその知識は、どの木に食べられる実がなっているか、にとどまり、その木に何百の実がなっているから、自分の集団に必要な量はこれぐらいで、残りは他の部族との貴重品の交換に用いよう、とはならない。
税金を徴収する場合は、国に住む人たちの数の把握はもちろん、個々人の所有、負債、控除や割引の情報、滞納金や罰金といった数の情報を保持しておく必要がある。
数万人単位の国において、それらを、どんな天才的な記憶力を保持する人がいたとしても、正確に処理するのは難しいだろう。
ということで、紀元前の3500年ごろ、それよりもっと前から発明されたのは、書記という体系だった。
2万9千 大麦 37年 クシム
みたいな。クシムというのは、肩書かもしれないし、名前かもしれないということだが、署名だとのことである。もしそうだとしたら、人類初めの認識できる当時の名前をもった個人である、とのことだ。
不完全な書記体系というのは、話し言葉によるものではなく、一定の、限定された領域の表現を目的とした書記体系のことである。
アンデス文化においては、縄目のキープと呼ばれる書記体系が用いられた。縄にコブをつくり、それによって数を現したということだ。スペイン人に支配されるまで、それで十分高度な文明を維持発展させることができたということだ。
本のレビューをしようというのではないのだ。
例えば、キープという文字の存在は、「ああ、そういえばそんなのあったね」という記憶はあっても、その記憶を呼び起こすだけに本を読んだのでは、あまりにもったいない。
そうではなくて、知見としてインプットしたいこととしては、
文字は、まずは数を保存するために用いられたこと
ということだ。
同時に、忘れないようにすべきなのは、「認知革命」が起こったのは、7万年前であり、人類が決して、文字の使用を始める前に、「神話」的ものがたりを想像しうる言語を使っていたということである。
巨大な柱や、ラスコー、アルタミラの洞窟壁画といった、宗教性を帯びた作品を狩猟採集民たちも残しているということだ。
もっと思い出してみると、言語は、サピエンスだけの特有のものではない。
「ライオン きたぞ やべえ 逃げろ」
というのはネアンデルタール人も発していただろうし、霊長類、いや、それいがいの動物においても、集団の仲間に情報を伝えるために発声するということは行っている。
サピエンスの進化で重要だったのは、「事実」の伝達以外に、「物語」を語ることができる言語を発明したことであった、そのことである。
今後、僕の言葉で書くと、「概念記憶」の重要性が高まっていくように思える。これも別に新しい概念ではなく、「ストーリーをつくる技術」とか、ビジネスにおいても重要だよ、ということがうたわれていたりする。
虚構の言語の発明、集団の巨大化、文字の発明、思考方法の変化。
こうやってインプットしていると、つい忘れてしまうのだけれど、サブカルチャー的な存在も念頭においておく必要がある。
確かに、言語や、文字による集団の統一かがはかられていたことは疑い得ないだろう。しかし、それ以外の、例えば、音楽的な要素……または、踊りや舞いといった、人々の感性にうったえかける概念が集団の統一化に寄与していた面はあることだろう。
そういったものの証明は今後も不可能に思われる。文字の発明の起源は、年代の特定技術や発掘技術の向上により徐々に明らかになっていくかもしれないが、音楽は証拠として残されるものは何もないからだ。
初期のメソポタミアのシュメール人が残したのは、もっぱら行政上の処理であり、不完全な書記体系であった。それが、紀元前3000年ごろになると、象形文字や粘土板に刻まれた楔形文字、中国の亀甲文字など、数理的なものだけでなく、口頭での表現や、神話や愛の歌も記せるようになっていったという。
だが、それでめでたしめでたしではなかった。
たくさんの情報を保存できたとしても、それを適切に管理し、必要な時に引き出す方法がなければ、机の周りに積み重なる書類の山でで辟易してしまうことだろう。
それにより、官僚制や、文書管理責任者(法律家や会計士など)の役職が固定化することとなっていった。
外部記憶装置(ハードディスクやUSB記憶媒体)に記憶(日記やブログ)すらも保存するようになった。
人工知能は、1か0の書記体系で、サピエンスがどのように思考し、感情を有し、表現するのかを教えようとする試みだ。
そうすることで、私たちの生活や人生がより豊かになることを信じて。
この、人間とサイボーグとアンドロイドとの違いという部分については興味のある分野だ。
精巧なラブドールがつくられ、リアルなアンドロイドが作られている。
https://www.youtube.com/watch?v=KmTRU04AvRc
↑これはまだ不気味の谷が残ってる
https://www.youtube.com/watch?v=BQvX8UKN4VI
↑これは3DCGだが、ここまでくるとアリだ、と思う
見た目の問題は解決するかもしれない。
しかし、思考については如何だろうか。
治水のために暦を発明し、効率的に人を殺すために兵法を深め、自然を支配し自らが豊かになるように人は知識と行動を積み重ねてきた。
人工知能も、人の生活をよりよくしてくれるものだと、そう信じているから今投資が投資をよんでいるのだろう。
サピエンス全史でもふれられているが、それに対して懐疑することは、さほど意味をなさない。
共同幻想(共同客観)が醸成された場合、個々人、少ない集団の考えは、当然「異端」として排除されるか無視されるだけである。
マトリックスやターミネーターのような、人工知能の反乱が描かれていても、昨今人工知能への期待が高まっているのは、やっぱりそれが、「金になる」と同時に「人にとってよいもの」だという期待があるからだろう。
しかし恐らく、「人工知能」に対しての印象というのは、今の時点、多くの人にとって統一をみていない。
例えば、自動運転の技術だって、人工知能なんじゃあないかと僕は思ってしまう。前の車との距離を確認し、白線の内側を走っていることを確認し、アクセルとブレーキ(エンジンブレーキ)によってスピードを調整して目的地を目指す。というのは、人間が行っている思考や行動と何ら変わらない。それを自動的に行っているのだ。
多分、違う。
人工知能といっているのは、もっと高次の思考体系……つまり、「創造」ができることを指しているのではなかろうか。
つまり、プログラミングされたこと(自動運転や工場で製品をつくること)ではなく、新たに、現存する情報から、必要な情報をピックアップし、そこからシミュレートし、新しい結論生み出すようなこと、そういった創造ができるのが、人工知能と呼ばれ、期待されているものなのではなかろうか。
(上のは、完全に世迷い事、というか、何も調べず書いているから、適当極まりない単なる個人的な感想ですらないメモというか落書きだ。)
そうなったとき、果たして、人間が果たすべきこと、これから学ぶべきことって何だろうか。
いやそもそも、理想の社会って何だろうか。
汗水たらして働くことが重要ではない、ということだろう。汗水たらして働くことが重要なのだとしたら、ロボットや工業化や人工知能は不要だ。
楽して効率的に食糧や価値を生産することが大事だ、ということだ。
(とか考えると、完全蛇足だけれども、やっぱり、「頑張ること」とか、修羅場をくぐりぬけるとか、そういったことが昨今の時代要請に逆行しているように思えるのであるが、これはまた別の機会に)
と、本の内容と段々かけ離れてきた段階で、終了とする。何だかこのまま続けても終わりがなさそうだ。
前書き
休日に、読書に時間をあてるというのは、如何なものだろうか。もっと友人たちと遊んだり、クリスマスプレゼントを買いにイルミネーションが輝く街に繰り出したり、そんなリア充的なことをしては如何だろうか。
それはそれでとても楽しいことだろう。それらの有用性について思いをはせる前に、自分の先日打ち立てた目標を達成すべく、自らの行動を決定する、この決定するという自由意志こそが、人として生きる、ということではあるまいか。
という言語表現ができるようになったのは、今回の記事のインプット目的の「文字」よりも前の、7万年前の認知革命によるものである。
しかし、こうした口承によるものは、150人程度の噂話で繋ぎとめられる集団をはるかにこえ、大きな国という概念に発達したサピエンスの集団を維持するシステムには不十分だった。
数理的データの取り扱いの必要性
国を維持するには、税金が必要である。税を徴収するには、国の成り立ちを物語る、神話や法律の制定を繰り返し口頭で伝えるだけでは不十分だ。何故ならば、人は、大量の数理的データをインプットできるような脳構造をしていない。
狩猟採集民は、我々現代人(の個々人)よりはるかに深遠で幅広い自然についての知識をインプットしていた。しかしその知識は、どの木に食べられる実がなっているか、にとどまり、その木に何百の実がなっているから、自分の集団に必要な量はこれぐらいで、残りは他の部族との貴重品の交換に用いよう、とはならない。
税金を徴収する場合は、国に住む人たちの数の把握はもちろん、個々人の所有、負債、控除や割引の情報、滞納金や罰金といった数の情報を保持しておく必要がある。
数万人単位の国において、それらを、どんな天才的な記憶力を保持する人がいたとしても、正確に処理するのは難しいだろう。
ということで、紀元前の3500年ごろ、それよりもっと前から発明されたのは、書記という体系だった。
不完全な書記体系と完全な書記体系
まず、私たちの用いる言語表現は、「完全な書記体系」である。一方、はじめに使われ始めた文字、書記といった体系は、もっぱら、「数理的データ」を取り扱うものだった。2万9千 大麦 37年 クシム
みたいな。クシムというのは、肩書かもしれないし、名前かもしれないということだが、署名だとのことである。もしそうだとしたら、人類初めの認識できる当時の名前をもった個人である、とのことだ。
不完全な書記体系というのは、話し言葉によるものではなく、一定の、限定された領域の表現を目的とした書記体系のことである。
アンデス文化においては、縄目のキープと呼ばれる書記体系が用いられた。縄にコブをつくり、それによって数を現したということだ。スペイン人に支配されるまで、それで十分高度な文明を維持発展させることができたということだ。
今回インプットすべきこと
本の内容をまとめる作業というのは、大学のレポートなどでは重要だろうが、正直面倒なものである。しかし、ここで、正確な引用(例えばページの何ページにこう書いてあるから、これはこういう意味である、とか)を行って考察するということは必要ない。本のレビューをしようというのではないのだ。
例えば、キープという文字の存在は、「ああ、そういえばそんなのあったね」という記憶はあっても、その記憶を呼び起こすだけに本を読んだのでは、あまりにもったいない。
そうではなくて、知見としてインプットしたいこととしては、
文字は、まずは数を保存するために用いられたこと
ということだ。
同時に、忘れないようにすべきなのは、「認知革命」が起こったのは、7万年前であり、人類が決して、文字の使用を始める前に、「神話」的ものがたりを想像しうる言語を使っていたということである。
巨大な柱や、ラスコー、アルタミラの洞窟壁画といった、宗教性を帯びた作品を狩猟採集民たちも残しているということだ。
もっと思い出してみると、言語は、サピエンスだけの特有のものではない。
「ライオン きたぞ やべえ 逃げろ」
というのはネアンデルタール人も発していただろうし、霊長類、いや、それいがいの動物においても、集団の仲間に情報を伝えるために発声するということは行っている。
サピエンスの進化で重要だったのは、「事実」の伝達以外に、「物語」を語ることができる言語を発明したことであった、そのことである。
文字とそれをアウトプットする方法
流れに沿って書いていくのに飽きてきた。今後、僕の言葉で書くと、「概念記憶」の重要性が高まっていくように思える。これも別に新しい概念ではなく、「ストーリーをつくる技術」とか、ビジネスにおいても重要だよ、ということがうたわれていたりする。
虚構の言語の発明、集団の巨大化、文字の発明、思考方法の変化。
こうやってインプットしていると、つい忘れてしまうのだけれど、サブカルチャー的な存在も念頭においておく必要がある。
確かに、言語や、文字による集団の統一かがはかられていたことは疑い得ないだろう。しかし、それ以外の、例えば、音楽的な要素……または、踊りや舞いといった、人々の感性にうったえかける概念が集団の統一化に寄与していた面はあることだろう。
そういったものの証明は今後も不可能に思われる。文字の発明の起源は、年代の特定技術や発掘技術の向上により徐々に明らかになっていくかもしれないが、音楽は証拠として残されるものは何もないからだ。
初期のメソポタミアのシュメール人が残したのは、もっぱら行政上の処理であり、不完全な書記体系であった。それが、紀元前3000年ごろになると、象形文字や粘土板に刻まれた楔形文字、中国の亀甲文字など、数理的なものだけでなく、口頭での表現や、神話や愛の歌も記せるようになっていったという。
だが、それでめでたしめでたしではなかった。
たくさんの情報を保存できたとしても、それを適切に管理し、必要な時に引き出す方法がなければ、机の周りに積み重なる書類の山でで辟易してしまうことだろう。
それにより、官僚制や、文書管理責任者(法律家や会計士など)の役職が固定化することとなっていった。
コンピュータへの教育
そして今私たちは、更に思考方法を変えて、コンピュータに対して分かりやすい言語を用いるようになっている。1か0の世界。2進法。外部記憶装置(ハードディスクやUSB記憶媒体)に記憶(日記やブログ)すらも保存するようになった。
人工知能は、1か0の書記体系で、サピエンスがどのように思考し、感情を有し、表現するのかを教えようとする試みだ。
そうすることで、私たちの生活や人生がより豊かになることを信じて。
この、人間とサイボーグとアンドロイドとの違いという部分については興味のある分野だ。
精巧なラブドールがつくられ、リアルなアンドロイドが作られている。
https://www.youtube.com/watch?v=KmTRU04AvRc
↑これはまだ不気味の谷が残ってる
https://www.youtube.com/watch?v=BQvX8UKN4VI
↑これは3DCGだが、ここまでくるとアリだ、と思う
見た目の問題は解決するかもしれない。
しかし、思考については如何だろうか。
感情の体系
不確定な要素があるから、人間は人間なのだ。と言い切ってしまえば、人工知能など不要である。治水のために暦を発明し、効率的に人を殺すために兵法を深め、自然を支配し自らが豊かになるように人は知識と行動を積み重ねてきた。
人工知能も、人の生活をよりよくしてくれるものだと、そう信じているから今投資が投資をよんでいるのだろう。
サピエンス全史でもふれられているが、それに対して懐疑することは、さほど意味をなさない。
共同幻想(共同客観)が醸成された場合、個々人、少ない集団の考えは、当然「異端」として排除されるか無視されるだけである。
マトリックスやターミネーターのような、人工知能の反乱が描かれていても、昨今人工知能への期待が高まっているのは、やっぱりそれが、「金になる」と同時に「人にとってよいもの」だという期待があるからだろう。
しかし恐らく、「人工知能」に対しての印象というのは、今の時点、多くの人にとって統一をみていない。
例えば、自動運転の技術だって、人工知能なんじゃあないかと僕は思ってしまう。前の車との距離を確認し、白線の内側を走っていることを確認し、アクセルとブレーキ(エンジンブレーキ)によってスピードを調整して目的地を目指す。というのは、人間が行っている思考や行動と何ら変わらない。それを自動的に行っているのだ。
人工知能
複雑な製造を行う工場でのロボットたちも、「知能」をもっていると言っていいのではないか?多分、違う。
人工知能といっているのは、もっと高次の思考体系……つまり、「創造」ができることを指しているのではなかろうか。
つまり、プログラミングされたこと(自動運転や工場で製品をつくること)ではなく、新たに、現存する情報から、必要な情報をピックアップし、そこからシミュレートし、新しい結論生み出すようなこと、そういった創造ができるのが、人工知能と呼ばれ、期待されているものなのではなかろうか。
(上のは、完全に世迷い事、というか、何も調べず書いているから、適当極まりない単なる個人的な感想ですらないメモというか落書きだ。)
そうなったとき、果たして、人間が果たすべきこと、これから学ぶべきことって何だろうか。
いやそもそも、理想の社会って何だろうか。
汗水たらして働くことが重要ではない、ということだろう。汗水たらして働くことが重要なのだとしたら、ロボットや工業化や人工知能は不要だ。
楽して効率的に食糧や価値を生産することが大事だ、ということだ。
(とか考えると、完全蛇足だけれども、やっぱり、「頑張ること」とか、修羅場をくぐりぬけるとか、そういったことが昨今の時代要請に逆行しているように思えるのであるが、これはまた別の機会に)
と、本の内容と段々かけ離れてきた段階で、終了とする。何だかこのまま続けても終わりがなさそうだ。
今日の一言「久しぶりに作品見て泣いた」
「心配」
という感情を、もう一人の状態と上手く絡めて、引っ張っていた。
ぐぞぉぉ、騙された……、でもいい作品だった。泣いた。
しかし、この「感動」何に基づくものだろうか?
よく分からない。ただ、何だかこう、家族愛とか、そういうのっていいな、というものなんだろうか。
たまたま東京に孫が遊びに来ていて、目の前で失ってしまったおじいさんおばあさん。献身的にボランティア活動をこなす。「わたしが……死ぬべきでした」とか、台詞も重いものがあった。
突然大事な人に先立たれてしまうというのは、とても悲しいことだと思う。
こういう感動的な奴は、サピエンス全史とか、そういった書籍では味わえないものだ。
これこそ、物語、エンターテイメントとしての価値である。
感動を与えない作品に意味はない。いや、即自的な充足を与えるものもあるから、それは言い過ぎだけれども、お金払ったり時間をかけて見るのであれば、そういう上質なものを求めたい。それにはやはり、深い人間理解が不可欠だ。
そういう意味では、最近連載中のとあるバトルファンタジー小説は良かった。作者さんは難解な設定と描写とで、続きが書き進めずに苦しんでいるという。ここで僕は、何と言葉をかけてあげられるだろうか。
頑張ることは無意味だ、と最近書いている。
しかし、僕は、「頑張れ」と鬼の形相でいってみようか。「血反吐を吐いて身悶えようが、俺を楽しませる作品を仕上げてくれやがれお願いします!」
今の自分では能力不足ではあるが、いずれ、人に感動を与えられる作品を紡ぎたいものだ。
しかし内実、その「カンドウ」にもさまざま種類があって、その死狂いの作品からの感動と、今回見た東京マグニチュード8.0からもらった感動と、
まだ結局見れていないが、「君の名は。」からもらえるかもしれない感動と、では、種類が違うことだろう。
けれども、何も浮かばない。そうなんだ、感動する作品読んだり見たりしたあとは、特に言葉は不要になる。
ただ、酒でも飲みながら、いっぷく、ぼーっとしているのが、至上の幸福に思えるもんだからぁああ大変だ。
東京マグニチュード8.0は、家族愛だぜ?
一人カクテル飲みながら涙を流してるなんて、矛盾じゃねーか? と思うわけだ。
ここに、普遍的な感情と、現実との乖離が潜んでいる。
貴族階級のお偉方は、オペラで悲劇をみて涙を流したかもしれないが、下層階級の労働者が貧困に喘いでいるのに無関心でいられる。
孫をなくして悲しんでいながらボランティア活動に精を出すおじいさんに感動しながら、バスの席の前に立ったご老人に対して席をゆずろうとはしない。
なんというか、車内で化粧をする人が昨今問題になっていたが、なんというか、近しい人、即ち「物語がある人」に対しては優しくできようが、街ですれ違う大多数を相手にしたとき、それを「人」として認識できるかどうかは、教育水準とか人格水準によって作り出せるとは限らない。
特にだ、宗教的観点や、ヒエラルヒー(ヒエラルキー)によって、他者との交わりがある程度規定されていた社会構造においては、まぁ決まった儀礼的様式に従って他者と接していればよかったからある意味簡単だった(それが幸福かどうかは別として)。
取りえず、想像上の秩序だろうと、共同主観的なルールだろうと、今の我々は、平等人権的な考えによっているから、年よりも子供も誰かれも、基本的人権をもった人、なのだから、それなりに尊重して接しなければならない。
でも尊重って何だよ? 冠婚葬祭、お中元とか渡してればいいのか? 年賀状かけばいいの? よく分からない。
僕もうるっときた。
その一方で、先日、街を歩いていたら、頭のおかしい奴にからまれた。
変なの。
何故、死にゆく小さな命に、砂上の楼閣のような夢をみせてあげることが、人々の感動を呼ぶのだろうか?
実際、感動的な話で、僕も涙しそうになったから、きっと僕はサイコパスとかじゃないんだろうけれども、でも、何か、どっか、胡散臭いなぁとも思う。
イラっとする出来事のときも、誰も助けてくれなかった。みんなシーンとして、静まり返っていた。見て見ぬふりだ。目も合わせない。
東京駅で、脳こうそくだかで倒れた人がいて、誰も立ち止まって助けようとはしなかったという。それを、たまたま通りかかった芸能人が助けて救急車呼んだというのが、「美談」としてニュースになったという。
なんか、変じゃないか? その変、という感覚が何なのかよく分からないし、今日は表現しようとする気も起らないけれども。
みんな、「都合のいい物語」を欲してるだけじゃない?
自分は手を汚したくないけど、「人間の素晴らしいところ」という幻想を信じ、すがってるだけじゃない?
今年も残りわずか。
どうか、多くの人に平穏と平和と幸福が訪れますように。
いや、残り僅かな時間、休みが終わるとか、そういった気分のせいなのか。
その両方かもしれない。
ヘルプミーである。
ふむ……しかし、いやぁしかしながら、「なんやかんや言って」、結論的なものから逃げているように思える。
書くことはそれ自体かちのあることです! とか自分に言い聞かせて、結論から逃げているのではなかろうか?
人生に自分を全力でぶつけているだろうか。
残り僅かの年の瀬に、何を思うのか。
ミスリードが多すぎて見事に引っかかった
やられた……。まさか、8話目がそういうことだとは全然気付かなかった。「心配」
という感情を、もう一人の状態と上手く絡めて、引っ張っていた。
ぐぞぉぉ、騙された……、でもいい作品だった。泣いた。
しかし、この「感動」何に基づくものだろうか?
よく分からない。ただ、何だかこう、家族愛とか、そういうのっていいな、というものなんだろうか。
たまたま東京に孫が遊びに来ていて、目の前で失ってしまったおじいさんおばあさん。献身的にボランティア活動をこなす。「わたしが……死ぬべきでした」とか、台詞も重いものがあった。
突然大事な人に先立たれてしまうというのは、とても悲しいことだと思う。
いい感想じゃあないな
どういうシーンが、どうであったから、こう感じた、というのが正しい感想なのだろうが、ネタバレ的な感じも何だか今の気分に合わないし、まぁ、最後まで見てよかった、という感想を残しておこう。こういう感動的な奴は、サピエンス全史とか、そういった書籍では味わえないものだ。
これこそ、物語、エンターテイメントとしての価値である。
感動を与えない作品に意味はない。いや、即自的な充足を与えるものもあるから、それは言い過ぎだけれども、お金払ったり時間をかけて見るのであれば、そういう上質なものを求めたい。それにはやはり、深い人間理解が不可欠だ。
そういう意味では、最近連載中のとあるバトルファンタジー小説は良かった。作者さんは難解な設定と描写とで、続きが書き進めずに苦しんでいるという。ここで僕は、何と言葉をかけてあげられるだろうか。
頑張ることは無意味だ、と最近書いている。
しかし、僕は、「頑張れ」と鬼の形相でいってみようか。「血反吐を吐いて身悶えようが、俺を楽しませる作品を仕上げてくれやがれお願いします!」
今の自分では能力不足ではあるが、いずれ、人に感動を与えられる作品を紡ぎたいものだ。
しかし内実、その「カンドウ」にもさまざま種類があって、その死狂いの作品からの感動と、今回見た東京マグニチュード8.0からもらった感動と、
まだ結局見れていないが、「君の名は。」からもらえるかもしれない感動と、では、種類が違うことだろう。
何かいいこと書きたい気分
何か書きたい気分になった。けれども、何も浮かばない。そうなんだ、感動する作品読んだり見たりしたあとは、特に言葉は不要になる。
ただ、酒でも飲みながら、いっぷく、ぼーっとしているのが、至上の幸福に思えるもんだからぁああ大変だ。
東京マグニチュード8.0は、家族愛だぜ?
一人カクテル飲みながら涙を流してるなんて、矛盾じゃねーか? と思うわけだ。
ここに、普遍的な感情と、現実との乖離が潜んでいる。
貴族階級のお偉方は、オペラで悲劇をみて涙を流したかもしれないが、下層階級の労働者が貧困に喘いでいるのに無関心でいられる。
孫をなくして悲しんでいながらボランティア活動に精を出すおじいさんに感動しながら、バスの席の前に立ったご老人に対して席をゆずろうとはしない。
なんというか、車内で化粧をする人が昨今問題になっていたが、なんというか、近しい人、即ち「物語がある人」に対しては優しくできようが、街ですれ違う大多数を相手にしたとき、それを「人」として認識できるかどうかは、教育水準とか人格水準によって作り出せるとは限らない。
特にだ、宗教的観点や、ヒエラルヒー(ヒエラルキー)によって、他者との交わりがある程度規定されていた社会構造においては、まぁ決まった儀礼的様式に従って他者と接していればよかったからある意味簡単だった(それが幸福かどうかは別として)。
取りえず、想像上の秩序だろうと、共同主観的なルールだろうと、今の我々は、平等人権的な考えによっているから、年よりも子供も誰かれも、基本的人権をもった人、なのだから、それなりに尊重して接しなければならない。
でも尊重って何だよ? 冠婚葬祭、お中元とか渡してればいいのか? 年賀状かけばいいの? よく分からない。
メリークリスマス
5歳の難病で死にかけた男の子に、サンタさんがやってきてくれたというニュースがやっていた。大反響で、いい話だなぁとなったということだ。僕もうるっときた。
その一方で、先日、街を歩いていたら、頭のおかしい奴にからまれた。
変なの。
何故、死にゆく小さな命に、砂上の楼閣のような夢をみせてあげることが、人々の感動を呼ぶのだろうか?
実際、感動的な話で、僕も涙しそうになったから、きっと僕はサイコパスとかじゃないんだろうけれども、でも、何か、どっか、胡散臭いなぁとも思う。
イラっとする出来事のときも、誰も助けてくれなかった。みんなシーンとして、静まり返っていた。見て見ぬふりだ。目も合わせない。
東京駅で、脳こうそくだかで倒れた人がいて、誰も立ち止まって助けようとはしなかったという。それを、たまたま通りかかった芸能人が助けて救急車呼んだというのが、「美談」としてニュースになったという。
なんか、変じゃないか? その変、という感覚が何なのかよく分からないし、今日は表現しようとする気も起らないけれども。
みんな、「都合のいい物語」を欲してるだけじゃない?
自分は手を汚したくないけど、「人間の素晴らしいところ」という幻想を信じ、すがってるだけじゃない?
今年も残りわずか。
どうか、多くの人に平穏と平和と幸福が訪れますように。
非常に憂鬱な気分に
あぁ……。書いていると段々ハイになっていて、苛々とかそういった感情もなくなっていく、というのが最近分かったことだが、逆に、「感動した」ということを書いていくと、だんだんその感動が劣化し、苛々……というよりも、非常に鬱屈した、鬱々とした、憂鬱な気分になっていく、のだろうか。いや、残り僅かな時間、休みが終わるとか、そういった気分のせいなのか。
その両方かもしれない。
ヘルプミーである。
ふむ……しかし、いやぁしかしながら、「なんやかんや言って」、結論的なものから逃げているように思える。
書くことはそれ自体かちのあることです! とか自分に言い聞かせて、結論から逃げているのではなかろうか?
人生に自分を全力でぶつけているだろうか。
残り僅かの年の瀬に、何を思うのか。
