今日の一言「やっぱり長くなった」「基本的に、『面白い作品を書ききる。今年度中に。』というだけの内容」
1人はいずれ死ぬ。有限の存在である。 高
2未来のことは誰も分からない。リスクはゼロにはならない。 高
9実感が大事。実感の積み重ねが価値観。価値観の総体が信念。 高
22理念としては世界平和、自由、平等、正義が大事。しかし実現性が問題となる。 高
23社会とはルールの体系である。体系とは一定の法則のまとまりのことである。 高
24ルールとは約束と決まりである。しかしそのルールの根拠は「信頼」である。だから信頼、信用は大事である。 高
28宗教とは信仰を取り扱う「科学」である。 高
36ルーチン日課を続けることは散漫な注意を集中させることに意味がある。 高
37創作をすることは重要である。人生は物語であるから。 高
しばらく経ってから読み返しても、大きく批判したい気持ちは起こらない。ただ、もうちょっと、分かりやすく、かつ短めに表現できないものかなぁとは思う。
他者のブログなど読んでいると、様々な「信じているもの」というものがある。プロフィールに、「私の前世はノアの箱舟プロジェクトに参加したのです」とか「神々との対立から与えられた課題は現在は瞑想によって解決しています」とか書かれていて、びっくりすることもある。
他者がどんな考えをもっていようが、たいていのことでは驚くことはないのではあるが、やはり世界(日本)は広く、人はたくさんいるのであるなぁと思う。
馬鹿にしているわけではない。
たとえば、最近とある作品のことを記事にしているが、「アニメ面白い! まじ感動した」という主張が、そもそも、「うわ……いまどきそんな人いるんだ。アニメなんて子供がみるもんでしょ? 30代で……きも……」と思う人もいるだろうと思うのである。
そういう人たちの存在を考えたうえで、なおかつそういった記事を書くというのは、「神さまはいまーっす! しんじてまーす!」というのと、あまり変わらない。
この「変わらない」という表現も難しいものである。ここで言いたいのは、「善」と「偽善」も本質的にはあまり変わらないという意味においてである。実際、アニメが好きというのと、神様が好きというのとでは、次元がまったく異なるともいえる。
そして、その「神様を信じる」という行為自体、僕は否定する気にはなれない。
神様なんて信じるのは怪しい宗教である、と切り捨てたくなる気持ちもわからなくもないが、「信じる」ことができるのは、これまた人間としての能力である。恋愛を信じる、友情を信じる、いろんな「信じる」があるが、その対象が、目先のものではなく、より高次なもの(神)に向かっているというのは、逆に素晴らしいことではなかろうかと思う。
ただ、僕は、残念なことに、「神」を信じることができない。
いや、それどころか、すべての、「信じる」という行為ができない。
簡単に表現すると、そういった言葉が適切に思えるが、どうにもこの感情の対処に苦慮している。
これもとあるブログを読んでいてのことだが、
・テレビ見ていて笑ったり、ご飯食べておいしいと思うことはある。しかししばらくしたらまた暗黒世界だ
・人生がつらいと言っていた人が、仕事を見つけて、頼りにされているというメールをもらった。喜んで、よかったねと声をかけたが、その人は、前と同じように「つらい、さみしい」のだという。
といった表現に出会った。
これ、分からない人にとっては、「何甘えてるの?」で一笑で終わる。
逆に、親しい人に死に別れたとか、彼女にふられたとか、大金を失ったとか、そういったわかりやすい悲劇のほうが「ラク」だったりする。
明確な弱者に対して、人は優しい。国も社会も集団も、困っている人や弱っている人は大切にしようとする。
むかーしむかしは、「戦えない奴は潔く腹をかっさばいて死ね」とか言われたかもしれないが、昨今現代社会特に日本は恵まれている。弱者にとっても、居場所が与えられる社会である。男女平等、貧困撲滅、自由平和である。
そういう意味で、発達障害とか、今まで「変わった人だね」ですまされていたのが、「病気」として扱われるようになるということは有意義であるともいえる。
ただ、「弱い人や困っている人を助けましょう」ということだけを、学校の道徳で教えていれば、それが「正解」だった時代は、もう終わってしまっていると僕は思っている。
ここですぐさま書くべきは、僕は、その理念が間違っているとは全然思ってないということだ。実感表の22番、「理念としては世界平和、自由、平等、正義が大事。しかし実現性が問題となる。」ということである。
この「しかし」の部分が重要だ。
理念としての「正義」を考えることが、必ずしも役に立つわけではないということだ。無駄ではないと思う。しかし、その正義をどう実現するのか。「力」が必要だ。昔であれば暴力、資本主義社会でいえば「金・資本」。
>信じることとは何か
という問題提起であった。だが、この問題は、僕にとってもうあまり重要性がない。
神だとか、スピリチュアルとか、お金だとか、よく巷で価値があるとされることがあったとして、それらが「嘘」とは思わない。
問題は、「僕」が、それらを信じることができるのか(=委託(コミット)できるのか)ということである。
コミットとか、横文字使ってかっこ悪いと思うが、どうにも、この言葉がしっくりくるのだ。
>委託する、引き渡す、ゆだねる、付する、(…に)身を任す、(審議のために)委員会に付託する、掛かり合いにさせる:、(責任上)引き受ける、(…を)約束する、約束する
英和辞書をひけば、こんな感じ。僕は、身を任すという意味でよく使っている。(どうでもいいが、これ、マッスルになる会社のCMで使われる前から使っているのだ。だから何だということだが。ちなみに、そのCMでの意味は、結果を約束する、という意味ではなかろうか)
で、その身を任すということだが、「何に?」というのは明らかで、「自分の人生に」ということになる。
ここで、実感表の1番、「有限性」についてが重要になる。
が、その行為自体は根本的に否定している。(めんどくせーやつだな)
実感表の3番、これは、実感レベル中であるが、「楽しむことが重要。苦しみ自体に価値はない。苦しみの低減を望まないのは生存欲求と反する。」というのもある。
つまり、うえで取り上げた、「少しの幸せはあるが、また歳を重ねるにつれて、気持ちが落ち込んで暗黒になっていく」という人の在り方は、認められないということである。
中途半端である。
だったら、早く死んだほうが幸せなのではないか? と、これは割かしマジで思う。こんなことを思う人間は、この幸せな現代社会には認められないだろうとも思う。許されざる人格である。サイコパスで出てくる潜在犯の矯正保護施設に送られるべきであろう。
いやしかしだ。
きっと、精神科医フランクル氏は反対するだろうが、不治の病に侵されて、体を蝕まれ、耐え難い苦痛に泣き叫びながら残りの時間を過ごさなければいけないとした場合――いやもちろん極端な例だが――すぐさま死を希うのではなかろうか。
もちろん。
人には生存欲求なるものがあるため、潜在的に「死」を恐怖する。(そういった意味で、ドリフターズに出てくるトヨちゃんとか武士の死生観は驚くべきといえる。ただ、その観念を取り入れようというのは愚策である。しかし、ときおり、「大和魂を復活すべきだ」とか主張しだす人も発生する。日本人は平和ボケしてダメだ、もっと対外情勢に対してなど危機感をもたねばダメだという主張もわからんでもないが、これもドリフターズだったかもしれないが、他の作品でもみたことがあるが、人は基本的に「自分の死は信じられない」ものである。あまり好きな表現ではないが、あらゆる芸術(物語)は死からの逃避である――というのは、まぁそんなに外れてないとも思う)
ので、さっさと腹をかっさばいて死ね、というのも無理がある。
とはいえ。
毎日毎日、苦しい、俺なんて死んだほうがいいんだ、人生全然よいことなんてなかった……。
なんて、どんな拷問ですかと。としたら、その生きていること自体を認めて、愚痴を吐く時間を、「幸せ」とは何かを考える時間にしてはどうかと思うわけである。
まぁ、上で取り上げた方は、「若いときは楽しかった」と書かれていて、この辺りはちょっと共感できないな、とも思っている。
僕は、ループものが結構好きかもしれないが、戻りたい過去とか、一切ない。そういう意味では、実感表12番「言い訳や文句、後悔は役にたたない。反省と再行動は役に立つ。」をちゃんと実践できている気がする。
マジックワードで、
「日々ますます、あらゆる面であらゆることが良くなっている」
といったようなことを、毎日鏡の前で唱えていると、本当に人生が改善されるという。
よく覚えていないが、昔、失恋してショックを受けていたころ、1か月ぐらい実践したところ、確かに効果があったと思う。とかいうと、スピリチュアル乙! となるが、まぁ、人の心は、ある意味では、それほど科学的でも複雑でもないということである。
ただ、じゃあ今この実践をやってみようか、というのはちょっと違う気がする。
どっちかというと、もうこれは信じているのである。
前にも書いたけれども、仕事でうまくいかなくても、離婚した後であっても、「ああ、生きていてよかったなぁ」なんてことを、ふと思ったり、口にしたりするのである。
しっかし。
実感表6番、「ただ生きてるだけで意味があるというのは認められない。」のである。
こうならないように、実感表をちゃんと引用して、余計なことを書かないようにしているというのに。
なんというか、答えは、書き始める前に、考えて、なんとなくメモしていたのである。
・面白い作品を書ききる。今年度中に。
というものである。
仕事もする。投資の勉強もする。女の子とデートもする。
が。
最大優先順位は、創作に置くということだ。
なんで? と言われても上手く答えられない。
ただ、10年後、20年後に、「お前、30代前半に何してたの?」と(自分に)言われたときに、「これを書いた」と言いたい。
そんな漠然とした感じ。
とりあえず、前段階として、1~2年前ぐらいに、「作品を完結させる」という目標は達成している。次は、「自分自身本気で面白いと思えるものを創る」ということだ。
これ、とても難しいものではある。「本気で面白い」って、そもそも俺は、何を面白いと思うのか。
その、面白いというものを、「感じる」のではなく、「創る」というのが、本当に可能なのか。
その、「本気」とは、どういう意味なのか。
ただ、期限をつくる必要はあるのか? というのについては、必要だと思う。
間違いなく必要だ。
実感表1番、「人生は有限である」ということだ。
しかし、理由はそれだけではない。人は、自分の死を有意に想像することはできない。「明日がある」と思ってしまう。その根拠なき「信じる」ということ! 神様やスピリチュアルを信じることと何ら変わらない。我々は、一番大事なことをわかっていながら、その生きてることに対して哀しいほど無自覚なのだ。
話が若干変わるが、メモしておこうと思ったのは、俺の来歴として、10代ぐらいのとき、非常に大きな欲望(成し遂げたいこと)があって、それが諸所の事情でダメになって、そこから代替的な目標を立てて、上手くいくことがあればダメなこともあったで、まぁ平々凡々やってきた、と。ただ、その10代ぐらいのときの欲望からの挫折(諦念)によって、僕は、人生にコミットすることができなくなったのだと思う。
わかりやすく書けば、「(自分に対しての)言い訳」が上手くなったのである。
これは、よいことでもある。失敗しても、それほど落ち込まずに、次の行動にうつることができる。
でも、だめなことでもある。自分の人生を、自分のものだと思えなくなるのである。
失敗したことや、苦しいことや悲しいことも、さっさと捨て去ることができる一方で、良いことがあった、上手くいった、成功した――それらの体験も、自分のものだとは思えなくなるのだ。
僕が、上のほうで取り上げた人に対して「苦しいと思っているならそれを解釈して幸せの方向へもっていかないと人生もったいなくない?」といったのは、つまり、「諦念のススメ」でもあるわけだ。
それは果たして、万人に勧められる良い方法なのだろうか?
ここで、実感表2番「未来のことは誰も分からない。リスクはゼロにはならない。」というのも関係してくる。
完全に、自分の人生にコミットすることは、確かに、人としての生きざまとしてかっこいいことは間違いないが、しかし、漫画やアニメじゃないので、失敗という可能性もあるのである。物語では、失敗した結果、それを糧として成功に導いてハッピーエンドというのが多いけれども、失敗したらすぐさま「腹掻っ捌いて死ぬ」だとか「なーに、失敗したら単に死ぬだけよ」と諦念できるものだろうか。
正直。
特に問題もなければ、苦痛もなければ、悲しみもなければ、何もない。
涅槃寂静。
心が凪のように穏やかである。
なので、僕が一般に「弱者」なのかというと、たぶん違うと思うし、「ダメ人間」カテゴリにブログ村を選択してよいかというと、それもダメな気がする。
じゃあ、至極一般、普通の人だと。幸せに生きていく人の一員だと。
――そういわれると、なんか、これも、シュタインズ・ゲートの感想がうまく書けなかったのと同じに、なんか違和感なのである。
繰り返しになるが、この違和感は、「甘ったれるな」で切り捨てられることであるので、誰にも相談ができない。そういう意味で、孤独なのだが、じゃあ、「友達ゼロのおっさんが孤独に生きるブログ」と題せるかというと、ふつうのことを相談できる人はいるし、それもちょっと違う。
そもそも、この違和感について、特定の誰かに話そうという気になれない。
いや、話さなかったら理解なんてされるわけないっしょ、というのはもっともだ。
でも、そもそも、自己責任という言葉が流行るこのご時世、結局最終的には己が判断をくださないといけないとしたら、他者との会話になんの意味があるのか。
いやいやわかっている、そんなこと言うやつが、そんなことをブログに書くなんて卑怯じゃないかと。
そう、だから、なんか、一人は嫌なんだ。寂しいんだ。孤独なんだ。だから、「公開」して書いているのだ。
でも、適切な他者の求め方が分からない。相談の仕方が分からない。相談されることはあっても、人をどう頼っていいかが分からない。教えることはできても、人に教えを請うやり方が分からないのだ。
これはまぁ、実感が高い方なのであるが、これもいけない、よくない定義かもしれない。
コミュニケーションのもつ、「感情統制」の機能を書けて(表現できて)いない。
人と会話することによる、ただそれ自体の効用・意義というものについて、僕は上手く実感できていないのだろう。ただ、その必要性とか、実際に存在するということ自体は信じられている。でも、それをどうやって使えばいいかが分からない。
この点が、「お前、人に興味ないだろ」と言われる所以だろうとも思っている。
人に興味がない……のではなくて、その会話の「意義」について、無意識に求めてしまう心性がよくないのだろう。その人が好きな映画とか、好みのタイプとか、デートのときはとても興味をもって聞ける。でもそれは、その人と親しくなるための目的だったり、次にあったときの会話の種にするためだったり、プレゼントするときの材料だったり、目的があるのだ。――あー、なんか、こうやってかくと、やっぱり、おれは最低な人間で生きている価値がない気がしてくるな(かっこかなしいわらい)。ただ、その人が喜ぶ顔がみたいとか、そういった優しい気持ちがないかというと、そんなことはなくて、喜んでくれたらうれしい。――と同時に、喜ばすことができたという自分の行為にとっての安心感もあるのだろうという「邪推」も自分の中に発生してしまうが。
(長くなったので強制かっこ書きである。この、「人への頼り方」と、コミュニケーションの感情機能について、もう少し掘り下げて書かねばなるまい。人に頼るぐらいなら自分でやってしまうタイプである。これはよくない。よくないのは分かっているので、できるだけ人に仕事を割り振ったり、お願いするようにはしているが、それ自体が結構ストレスの原因だったりする。もう一つ、雑談の効用についてもよくわかっている。専門的にはアイスブレイクとかいうのだったか。ただ、それゆえ、そもそも「効用」といった言葉がまっさきに出てきてしまう点がもうダメダメである。心底会話を楽しもうという気持ちがもともとない。――あ、だからか。だから、SNSとか、ツイッターとかも苦手なのか。ブログはどっちかというと独白である。相互コミュニケーションの面もあるが、自分の考えの整理(もしくは、お金系スピ系の場合は「教化」)の面が強い。ああやはり、いろいろな面で実感を37個ぐらいも挙げても、まだ新しい気づきがあるのか。まだまだやること、考えることは多いわけだな。「衛府の七忍」という漫画も面白そうだ。しかし連載中なのか。その前に、「エクゾスカル零」か「覚悟のススメ」を読んでみるか)
神を信じられるなら問題は少ない
実感のまとめの、実感レベルが高いものを引用。1人はいずれ死ぬ。有限の存在である。 高
2未来のことは誰も分からない。リスクはゼロにはならない。 高
9実感が大事。実感の積み重ねが価値観。価値観の総体が信念。 高
22理念としては世界平和、自由、平等、正義が大事。しかし実現性が問題となる。 高
23社会とはルールの体系である。体系とは一定の法則のまとまりのことである。 高
24ルールとは約束と決まりである。しかしそのルールの根拠は「信頼」である。だから信頼、信用は大事である。 高
28宗教とは信仰を取り扱う「科学」である。 高
36ルーチン日課を続けることは散漫な注意を集中させることに意味がある。 高
37創作をすることは重要である。人生は物語であるから。 高
しばらく経ってから読み返しても、大きく批判したい気持ちは起こらない。ただ、もうちょっと、分かりやすく、かつ短めに表現できないものかなぁとは思う。
他者のブログなど読んでいると、様々な「信じているもの」というものがある。プロフィールに、「私の前世はノアの箱舟プロジェクトに参加したのです」とか「神々との対立から与えられた課題は現在は瞑想によって解決しています」とか書かれていて、びっくりすることもある。
他者がどんな考えをもっていようが、たいていのことでは驚くことはないのではあるが、やはり世界(日本)は広く、人はたくさんいるのであるなぁと思う。
馬鹿にしているわけではない。
たとえば、最近とある作品のことを記事にしているが、「アニメ面白い! まじ感動した」という主張が、そもそも、「うわ……いまどきそんな人いるんだ。アニメなんて子供がみるもんでしょ? 30代で……きも……」と思う人もいるだろうと思うのである。
そういう人たちの存在を考えたうえで、なおかつそういった記事を書くというのは、「神さまはいまーっす! しんじてまーす!」というのと、あまり変わらない。
この「変わらない」という表現も難しいものである。ここで言いたいのは、「善」と「偽善」も本質的にはあまり変わらないという意味においてである。実際、アニメが好きというのと、神様が好きというのとでは、次元がまったく異なるともいえる。
そして、その「神様を信じる」という行為自体、僕は否定する気にはなれない。
神様なんて信じるのは怪しい宗教である、と切り捨てたくなる気持ちもわからなくもないが、「信じる」ことができるのは、これまた人間としての能力である。恋愛を信じる、友情を信じる、いろんな「信じる」があるが、その対象が、目先のものではなく、より高次なもの(神)に向かっているというのは、逆に素晴らしいことではなかろうかと思う。
ただ、僕は、残念なことに、「神」を信じることができない。
いや、それどころか、すべての、「信じる」という行為ができない。
信じることと自分を委託(コミット)すること
虚脱感。黄昏。簡単に表現すると、そういった言葉が適切に思えるが、どうにもこの感情の対処に苦慮している。
これもとあるブログを読んでいてのことだが、
・テレビ見ていて笑ったり、ご飯食べておいしいと思うことはある。しかししばらくしたらまた暗黒世界だ
・人生がつらいと言っていた人が、仕事を見つけて、頼りにされているというメールをもらった。喜んで、よかったねと声をかけたが、その人は、前と同じように「つらい、さみしい」のだという。
といった表現に出会った。
これ、分からない人にとっては、「何甘えてるの?」で一笑で終わる。
逆に、親しい人に死に別れたとか、彼女にふられたとか、大金を失ったとか、そういったわかりやすい悲劇のほうが「ラク」だったりする。
明確な弱者に対して、人は優しい。国も社会も集団も、困っている人や弱っている人は大切にしようとする。
むかーしむかしは、「戦えない奴は潔く腹をかっさばいて死ね」とか言われたかもしれないが、昨今現代社会特に日本は恵まれている。弱者にとっても、居場所が与えられる社会である。男女平等、貧困撲滅、自由平和である。
そういう意味で、発達障害とか、今まで「変わった人だね」ですまされていたのが、「病気」として扱われるようになるということは有意義であるともいえる。
ただ、「弱い人や困っている人を助けましょう」ということだけを、学校の道徳で教えていれば、それが「正解」だった時代は、もう終わってしまっていると僕は思っている。
ここですぐさま書くべきは、僕は、その理念が間違っているとは全然思ってないということだ。実感表の22番、「理念としては世界平和、自由、平等、正義が大事。しかし実現性が問題となる。」ということである。
この「しかし」の部分が重要だ。
理念としての「正義」を考えることが、必ずしも役に立つわけではないということだ。無駄ではないと思う。しかし、その正義をどう実現するのか。「力」が必要だ。昔であれば暴力、資本主義社会でいえば「金・資本」。
小見出しおかしくなったな
上の小見出しは失敗である。>信じることとは何か
という問題提起であった。だが、この問題は、僕にとってもうあまり重要性がない。
神だとか、スピリチュアルとか、お金だとか、よく巷で価値があるとされることがあったとして、それらが「嘘」とは思わない。
問題は、「僕」が、それらを信じることができるのか(=委託(コミット)できるのか)ということである。
コミットとか、横文字使ってかっこ悪いと思うが、どうにも、この言葉がしっくりくるのだ。
>委託する、引き渡す、ゆだねる、付する、(…に)身を任す、(審議のために)委員会に付託する、掛かり合いにさせる:、(責任上)引き受ける、(…を)約束する、約束する
英和辞書をひけば、こんな感じ。僕は、身を任すという意味でよく使っている。(どうでもいいが、これ、マッスルになる会社のCMで使われる前から使っているのだ。だから何だということだが。ちなみに、そのCMでの意味は、結果を約束する、という意味ではなかろうか)
で、その身を任すということだが、「何に?」というのは明らかで、「自分の人生に」ということになる。
ここで、実感表の1番、「有限性」についてが重要になる。
愚痴を言う人を否定したいわけではない
この記事――というか、このブログ全体が、巨大な愚痴のようでもある僕が言えたことではないが、ネガティブな人とか、ぐちぐちした人を否定するつもりも、嫌いでもない。むしろ好きだ。が、その行為自体は根本的に否定している。(めんどくせーやつだな)
実感表の3番、これは、実感レベル中であるが、「楽しむことが重要。苦しみ自体に価値はない。苦しみの低減を望まないのは生存欲求と反する。」というのもある。
つまり、うえで取り上げた、「少しの幸せはあるが、また歳を重ねるにつれて、気持ちが落ち込んで暗黒になっていく」という人の在り方は、認められないということである。
中途半端である。
だったら、早く死んだほうが幸せなのではないか? と、これは割かしマジで思う。こんなことを思う人間は、この幸せな現代社会には認められないだろうとも思う。許されざる人格である。サイコパスで出てくる潜在犯の矯正保護施設に送られるべきであろう。
いやしかしだ。
きっと、精神科医フランクル氏は反対するだろうが、不治の病に侵されて、体を蝕まれ、耐え難い苦痛に泣き叫びながら残りの時間を過ごさなければいけないとした場合――いやもちろん極端な例だが――すぐさま死を希うのではなかろうか。
もちろん。
人には生存欲求なるものがあるため、潜在的に「死」を恐怖する。(そういった意味で、ドリフターズに出てくるトヨちゃんとか武士の死生観は驚くべきといえる。ただ、その観念を取り入れようというのは愚策である。しかし、ときおり、「大和魂を復活すべきだ」とか主張しだす人も発生する。日本人は平和ボケしてダメだ、もっと対外情勢に対してなど危機感をもたねばダメだという主張もわからんでもないが、これもドリフターズだったかもしれないが、他の作品でもみたことがあるが、人は基本的に「自分の死は信じられない」ものである。あまり好きな表現ではないが、あらゆる芸術(物語)は死からの逃避である――というのは、まぁそんなに外れてないとも思う)
ので、さっさと腹をかっさばいて死ね、というのも無理がある。
とはいえ。
毎日毎日、苦しい、俺なんて死んだほうがいいんだ、人生全然よいことなんてなかった……。
なんて、どんな拷問ですかと。としたら、その生きていること自体を認めて、愚痴を吐く時間を、「幸せ」とは何かを考える時間にしてはどうかと思うわけである。
まぁ、上で取り上げた方は、「若いときは楽しかった」と書かれていて、この辺りはちょっと共感できないな、とも思っている。
僕は、ループものが結構好きかもしれないが、戻りたい過去とか、一切ない。そういう意味では、実感表12番「言い訳や文句、後悔は役にたたない。反省と再行動は役に立つ。」をちゃんと実践できている気がする。
マジックワードで、
「日々ますます、あらゆる面であらゆることが良くなっている」
といったようなことを、毎日鏡の前で唱えていると、本当に人生が改善されるという。
よく覚えていないが、昔、失恋してショックを受けていたころ、1か月ぐらい実践したところ、確かに効果があったと思う。とかいうと、スピリチュアル乙! となるが、まぁ、人の心は、ある意味では、それほど科学的でも複雑でもないということである。
ただ、じゃあ今この実践をやってみようか、というのはちょっと違う気がする。
どっちかというと、もうこれは信じているのである。
前にも書いたけれども、仕事でうまくいかなくても、離婚した後であっても、「ああ、生きていてよかったなぁ」なんてことを、ふと思ったり、口にしたりするのである。
しっかし。
実感表6番、「ただ生きてるだけで意味があるというのは認められない。」のである。
生きてることにコミットしやがれ
あー! 長くなってきた。こうならないように、実感表をちゃんと引用して、余計なことを書かないようにしているというのに。
なんというか、答えは、書き始める前に、考えて、なんとなくメモしていたのである。
・面白い作品を書ききる。今年度中に。
というものである。
仕事もする。投資の勉強もする。女の子とデートもする。
が。
最大優先順位は、創作に置くということだ。
なんで? と言われても上手く答えられない。
ただ、10年後、20年後に、「お前、30代前半に何してたの?」と(自分に)言われたときに、「これを書いた」と言いたい。
そんな漠然とした感じ。
とりあえず、前段階として、1~2年前ぐらいに、「作品を完結させる」という目標は達成している。次は、「自分自身本気で面白いと思えるものを創る」ということだ。
これ、とても難しいものではある。「本気で面白い」って、そもそも俺は、何を面白いと思うのか。
その、面白いというものを、「感じる」のではなく、「創る」というのが、本当に可能なのか。
その、「本気」とは、どういう意味なのか。
ただ、期限をつくる必要はあるのか? というのについては、必要だと思う。
間違いなく必要だ。
実感表1番、「人生は有限である」ということだ。
しかし、理由はそれだけではない。人は、自分の死を有意に想像することはできない。「明日がある」と思ってしまう。その根拠なき「信じる」ということ! 神様やスピリチュアルを信じることと何ら変わらない。我々は、一番大事なことをわかっていながら、その生きてることに対して哀しいほど無自覚なのだ。
目標と実践
さて、目標が決まれば、実践のための小目標を立てていかねばなるまい。しかし、シュタインズ・ゲートのゲームもやってみたいし、――PSVITA?でも買うか――そもそも今年度と来年度、仕事が忙しい気がする。その後どうなるかは、今年度次第かもしれないし。……と、まぁ、言い訳しようとすればいくらでもできる。仕事ってのは便利である。手軽に、自分の意義っつーのを与えてくれる。どんなつまらない仕事でも、誰かの命令に従うだけでも、そこにいることによって、自分という存在を意識することができる。話が若干変わるが、メモしておこうと思ったのは、俺の来歴として、10代ぐらいのとき、非常に大きな欲望(成し遂げたいこと)があって、それが諸所の事情でダメになって、そこから代替的な目標を立てて、上手くいくことがあればダメなこともあったで、まぁ平々凡々やってきた、と。ただ、その10代ぐらいのときの欲望からの挫折(諦念)によって、僕は、人生にコミットすることができなくなったのだと思う。
わかりやすく書けば、「(自分に対しての)言い訳」が上手くなったのである。
これは、よいことでもある。失敗しても、それほど落ち込まずに、次の行動にうつることができる。
でも、だめなことでもある。自分の人生を、自分のものだと思えなくなるのである。
失敗したことや、苦しいことや悲しいことも、さっさと捨て去ることができる一方で、良いことがあった、上手くいった、成功した――それらの体験も、自分のものだとは思えなくなるのだ。
僕が、上のほうで取り上げた人に対して「苦しいと思っているならそれを解釈して幸せの方向へもっていかないと人生もったいなくない?」といったのは、つまり、「諦念のススメ」でもあるわけだ。
それは果たして、万人に勧められる良い方法なのだろうか?
ここで、実感表2番「未来のことは誰も分からない。リスクはゼロにはならない。」というのも関係してくる。
完全に、自分の人生にコミットすることは、確かに、人としての生きざまとしてかっこいいことは間違いないが、しかし、漫画やアニメじゃないので、失敗という可能性もあるのである。物語では、失敗した結果、それを糧として成功に導いてハッピーエンドというのが多いけれども、失敗したらすぐさま「腹掻っ捌いて死ぬ」だとか「なーに、失敗したら単に死ぬだけよ」と諦念できるものだろうか。
助けを求める方法
「なーに、人生、なんとかなるさ」正直。
特に問題もなければ、苦痛もなければ、悲しみもなければ、何もない。
涅槃寂静。
心が凪のように穏やかである。
なので、僕が一般に「弱者」なのかというと、たぶん違うと思うし、「ダメ人間」カテゴリにブログ村を選択してよいかというと、それもダメな気がする。
じゃあ、至極一般、普通の人だと。幸せに生きていく人の一員だと。
――そういわれると、なんか、これも、シュタインズ・ゲートの感想がうまく書けなかったのと同じに、なんか違和感なのである。
繰り返しになるが、この違和感は、「甘ったれるな」で切り捨てられることであるので、誰にも相談ができない。そういう意味で、孤独なのだが、じゃあ、「友達ゼロのおっさんが孤独に生きるブログ」と題せるかというと、ふつうのことを相談できる人はいるし、それもちょっと違う。
そもそも、この違和感について、特定の誰かに話そうという気になれない。
いや、話さなかったら理解なんてされるわけないっしょ、というのはもっともだ。
でも、そもそも、自己責任という言葉が流行るこのご時世、結局最終的には己が判断をくださないといけないとしたら、他者との会話になんの意味があるのか。
いやいやわかっている、そんなこと言うやつが、そんなことをブログに書くなんて卑怯じゃないかと。
そう、だから、なんか、一人は嫌なんだ。寂しいんだ。孤独なんだ。だから、「公開」して書いているのだ。
でも、適切な他者の求め方が分からない。相談の仕方が分からない。相談されることはあっても、人をどう頼っていいかが分からない。教えることはできても、人に教えを請うやり方が分からないのだ。
コミュニケーションとは
人との会話、コミュニケーションについて、情報伝達であるとしたのは、実感表29番「コミュニケーションとは情報(意思)伝達のことである。そして、コミュニケーションの目的は、相手を自分の意図通りに行動させることである。」の、実感レベル中である。これはまぁ、実感が高い方なのであるが、これもいけない、よくない定義かもしれない。
コミュニケーションのもつ、「感情統制」の機能を書けて(表現できて)いない。
人と会話することによる、ただそれ自体の効用・意義というものについて、僕は上手く実感できていないのだろう。ただ、その必要性とか、実際に存在するということ自体は信じられている。でも、それをどうやって使えばいいかが分からない。
この点が、「お前、人に興味ないだろ」と言われる所以だろうとも思っている。
人に興味がない……のではなくて、その会話の「意義」について、無意識に求めてしまう心性がよくないのだろう。その人が好きな映画とか、好みのタイプとか、デートのときはとても興味をもって聞ける。でもそれは、その人と親しくなるための目的だったり、次にあったときの会話の種にするためだったり、プレゼントするときの材料だったり、目的があるのだ。――あー、なんか、こうやってかくと、やっぱり、おれは最低な人間で生きている価値がない気がしてくるな(かっこかなしいわらい)。ただ、その人が喜ぶ顔がみたいとか、そういった優しい気持ちがないかというと、そんなことはなくて、喜んでくれたらうれしい。――と同時に、喜ばすことができたという自分の行為にとっての安心感もあるのだろうという「邪推」も自分の中に発生してしまうが。
(長くなったので強制かっこ書きである。この、「人への頼り方」と、コミュニケーションの感情機能について、もう少し掘り下げて書かねばなるまい。人に頼るぐらいなら自分でやってしまうタイプである。これはよくない。よくないのは分かっているので、できるだけ人に仕事を割り振ったり、お願いするようにはしているが、それ自体が結構ストレスの原因だったりする。もう一つ、雑談の効用についてもよくわかっている。専門的にはアイスブレイクとかいうのだったか。ただ、それゆえ、そもそも「効用」といった言葉がまっさきに出てきてしまう点がもうダメダメである。心底会話を楽しもうという気持ちがもともとない。――あ、だからか。だから、SNSとか、ツイッターとかも苦手なのか。ブログはどっちかというと独白である。相互コミュニケーションの面もあるが、自分の考えの整理(もしくは、お金系スピ系の場合は「教化」)の面が強い。ああやはり、いろいろな面で実感を37個ぐらいも挙げても、まだ新しい気づきがあるのか。まだまだやること、考えることは多いわけだな。「衛府の七忍」という漫画も面白そうだ。しかし連載中なのか。その前に、「エクゾスカル零」か「覚悟のススメ」を読んでみるか)
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