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人間が怖い何のやる気もしない
2017/09/09 23:21 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「体調が良くない頭が痛い」「友人との約束を二つもボツにしてしまった」



退廃した体と心

 金曜日飲み会、24時半に就寝。
 土曜日、10時半に目が覚める。頭痛。倦怠感。
 何とか起き上がり、パソコンを付ける。投資の勉強・調べものを1時間ぐらいする。体調はなお悪い。布団に入る。
 13時目が覚める。買っておいたパンを食べる。体調なお悪し、布団に入る。
 16時目が覚める。カップラーメンを食べる。体調なお悪し、布団に入る。
 22時目が覚める。つけ麺を作って食べる。体調なお悪し、今ここ。

 寝たり起きたりを繰り返すが、一向に体調がよくならない。
 熱は測っていないが多分ない。頭の重さ、鈍重な痛みと倦怠感が続く。

 これは、身体的な症状もそうだけれども、どちらかというと、精神的な不調も原因であると思われる。


 精神的に、とても、具体がよくない。
 分かっている、これは、今にはじまったことではない。何年も何年も、昔から続くうつ状態(うつ病とは言っていない)の症状だ。
 明確なうつ病というよりかは、「精神因性神経症」である。これは、自分の意思において、生ある状態から意義消失することを意味する。

 この状態を防ぐには、もはや、「書く」ということしか残されていない。少なくても、それ以外の方法で、自分自身を回復させられたことは思い浮かばない。

 人に話したらどうか?
 否。先日の飲み会においても、友人との会話においても、このブログで書いているような、「実感」としてあるものについては、本質的な表現で語ることができるようになった。つまり、できるだけ多くの人に受け入れられやすいような表現で語ることができるようになったという意味である。例えば、明るく元気に生きることは大切だ、とか。

 しかし、そういった人との関わり交流においては、気分の悪さがより明確になっていく気がするのである。理由は、「結局合わない人はいる」「さらに深い部分での共有はできない」「会話は泡のように消えていき信念化が難しい」などが思いつく。だがまずは、そういった理由を挙げるより、実際に気分が改善されないという事実に目を向けるべきである。


 本来的に、人は、人の中で生きていかざるを得ないし、その中で幸せや快感や喜びを得ていくべきものであるのだから、以上の症状は、「病気」として考えるべきだろう。

二つのブログ

 布団の中から、新しく、二つのブログを読んだ。
 一つは、LGBTで発達障害の方の過去に体験したエッセイ。とても読みやすい語り口調で、いわゆる「健常者」には分からない世界の見え方が、分かりやすい比喩を交えて書かれていた。
 一つは、美人で若い女性が、出会った男性たちにダメ出しをしていくブログ。これも、「それはひどいなぁ」と思わせられたり、ああ、やっぱり美人はそういう思考なのだろうなぁと思ったり面白かった。

 これらのブログが、具合の悪さを助長したのかどうかは分からないが、僕に生じたのは、一つ目は、「あなたの苦しみは良く分かる。自分を理解されないという苦しみや、いじめられたりいじられたりする苦痛は忘れようとも中々忘れられないというのはよく分かる」といったことを、何とか伝えたいなぁということ。
 もう一つのブログの方では、人間ってめんどくせぇなぁという気持ち。

 まぁ、二つ目のほうは、もう少し後でもっと掘り下げて書いてみよう。
 一つ目のほうは、確かに、「共感」という感情が浮かび上がったものの、しかし、その僕の中に生じた「よく分かる」という気持ちが、なんと傲慢で醜いものか……と自分自身が嫌になった。
 ああ……この感覚の変化が何故起こるのか、僕もよくわからない。わからないけれども、きっと「純粋性」への希求なのだろう。
 つまり、菩薩の心、神の心を持ちたいという憧れなのである。――飛躍したか? もう少し書けば、つまり、「その人を救いたい」という気持ちに根差さなければ、いくら「つらかったね。苦しかったね。よくわかるよ。頑張って」と思ったところで、それは浅ましい自己保身なのではなかろうか、という思いが僕の中に生じるということである。

偽善でもいいと思うが

 分かりにくいだろうか?
 もっと書くと、偽善と善との話になっていく。僕が依然ある友人へ、偽善と善も本質的には変わらないのだ、その行為が尊いのだ、と必死に語ったのは、僕自身、「偽善」の塊のようなやつなんじゃないかと、薄々自分のことを思っているからである。

 この点、つらいから、あまり書きたくないけれども、これもある友人から言われた、「結局お前は自分のことが一番なんだろ?」というのは、言いえて妙である。

 やっぱり……そうなのか、と、どん底に陥った(かっこわらい)。

 俺が、他人の幸せを願うのは、全部偽善で、全部自分に利するところがあるからなのか。
 真に、他者の幸せを願っているわけではないのか、と。

 だが、俺はやっぱり分からない。菩薩の心つーのが分からない。
 菩薩は、確かに、衆生を救うために一生を使うのだろう。小乗(上座部)仏教で目指される阿羅漢(己の悟りを目指す)とは違う。
 しかしそれは、他者を救うという行為が、自己の存在規定(レーゾンデートル)と一致したという状態に過ぎないのではないか。
 過ぎない? 愚かしい記述だ。そんなことを言い出したら、人間は食らって糞出して死ぬに過ぎない存在ってことになるが、そんなことはあるまい。人間の生はそれだけで素晴らしいものだ、美しいものだ。生きてるってそれだけで良いことなのだ。

 ――っていうことを、俺は思えない。
 これが病気だと思う。

 生きていることに何の価値があるのだ。
 おいしいものを食べることになんの意味があるのだ。
 美人とセックスして、快楽を得てだからなんだというのだ。
 子供をつくって育てて、それがなんだというのだ。

 全部、いずれ必ずおとずれる死、に向かう過程の一つに過ぎない。



 ……。んなはずねーよ。そんなことはない、生きていることは素晴らしいことなんだ、って、そう思うこともあるのだけれども。おいしいもの食べたらそれだけで幸せになるのは間違いないのだけれども。人と会話して、ぶつかったり、その中で共感する部分があったりしたときの心地よさは決して無意味ではないと思うのだけれども。

 ただ、具合が悪いと、どうしても、そっち方面、暗い感情の方へ引きずり込まれていく。

廃棄物と漂流物

 ドリフターズという漫画があって、歴史上の偉人たちが、現実世界における死に際に異世界に送られて、どったんばったん活躍するという作品である。
 で、その偉人たちが異世界におくられる際に、「廃棄物」か「漂流物」か選ばれるのだ。
 廃棄物になると、その異世界における人類を根こそぎ滅ぼそうとする勢力に加わる。
 漂流物になると、まぁ、世界を救おうという気があるのかはわからないが、廃棄物と対抗する勢力に加わる。

 俺は偉人じゃないから、死に際に異世界に送られることはないけれども、もし送られるとしたら、廃棄物と漂流物の、どっちになるのだろうか。

 漂流物となった薩摩藩士の島津豊久とか、織田信長とかは、まぁそりゃあもう残虐なことをしたりする。「死生観が違うのだ」と語られる場面もあるが、「人を裏切る」「殺す」という行為自体で、漂流物と廃棄物に分かれるというわけではないのだろう。

 僕は、「人を好きか」というところが、ポイントだと思う。
 
 廃棄物の方は、人類(国や部族など)を救おうとして、結果的に敗れたり裏切られたりして死に直面した方々だ。「人」という存在に対して、根源的な恨みを抱いたのだとしても不思議ではない。
 人は……というか、生命は、自分以外の生命を奪いながら生きている。それが自然の摂理なのだと言ってしまえばそのままなのだが、その行為過程自体が、どうしてそれだけで「素晴らしいもの」といえるのだろうか?

仏門に入っても同じこと

 ベジタリアンになれということではない。肉、旨いし。
 つーか、菜食主義者でも、植物、生きているでしょ? どうしても、命を奪って生きていくしかないのである。

 そういう意味では、僧侶になっても、この連関からは逃れられない。

 唯一、終わりがあるとしたら、輪廻転生を信じないのであれば、明白だろう。だが、それしかないわけだ。


 と、いうような思考が、布団の中で延々と流れるわけですよ。
 もう起き上がる気力もありませんな(かっこわらい)。

 こんなこと、表現できやしない。
 こんなこと誰かに相談しても、よくて「ま、まぁがんばれや」と引きつった笑いでいわれるか、「きもっ」と避けられるか、「じゃあさっさと死ねばいいだろ!」と怒鳴られるかである。

 なので言わない、言えない。
 せいぜい、「人の一生は限りがあるんだから、死に際に『ああ、素晴らしい人生だったなぁ』と思えるように、できれば日々の生活の中で、『生きているって素晴らしいなぁ』と思えるようにやって行こうぜ!」と言うぐらいである。これは全くその通りに思っているが、実際、この表現の内に潜む、というか、根本命題的なものは、「生きているって、本当に意味があることなのか?」ということである。

生きていることに意味があるのか

何のために生きるのか、人生の意味を探し続けています。最近はやっぱり人生に意味はないのではないか、生きることに意味がないなら早く死んでしまった方が得なのではないかと思ってしまっています・・・

 これもとあるブログさんからである。
「得か」という表現の部分は、やや違和感がある(損得というよりも、むしろ命題として「すべき」といった感覚が僕は強いかもしれない)けれども、ほぼ僕が暗い感情に引きずり込まれている際の感覚を表現されていると思う。

 ある精神科医さんの著書によれば、「精神因性神経症」といって、現代人に増えてきている症状だという。これはうつ病とかよりも、むしろ精神医学的に「健常」の状態のほうが、顕著に表れるという(深刻なうつ病の場合はむしろこんな「生きる意味」とか考えられるほどの元気がない)。


 まぁ、別に病気だろうが何だろうが、いいんだけどさ。
 何が困るかというと、もうほんと、「どうでもいい」と思ってしまうことが問題である。

 すぐさま死にたいとか、生きたいとかそういうのではなくて、何もしたくないし、何もできなくなるのである。


(かっこ書きである。あーもう、これ仕事のせいもあるな。正義だけじゃあやってけないし。効率とかずるがしこさとかもねぇとやってらんないとかストレスだな。シュタインズ・ゲートも見終わってしまったせいもあるかもな。でも、劇場版とか、シュタインズ・ゲート0(zero)というのもあるらしい。ゲームも買ってみたいが、win版はwin7までしか対応してなかったこの野郎。PSvita買うかな、しかしソフトも含めて結構高いのな。不人気と聞いていたからもっと値下がりしてるかと思ったが。そういえば、シン・ゴジラも観てみたいな。エクゾスカル零と覚悟のススメもみたいな。ナイツ&マジックもみたいな。ペルソナ4ゴールデンもみたいな。……って全部消費系じゃないか! 生産的なことしろや! ……しかし、その、生産への欲求というよりも、強迫観念が逆にうつ状況をつくりだしているのかもしれない。うむ、つまり精神力が低い人間だということじゃ。とりあえずルーチンは無理やりでもする)

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コメント

 人の生と、生命活動、及びそれに付随する一切の種を保存するための行動それ自体に意味や価値はないと思っています。
 そもそも、意味や価値というものが人間それぞれの持つ価値観によって生まれた概念であり、その価値観が個々によって完全な同一でない以上、そこに普遍かつ不変的な意味・価値といったものは無いと考えます。
 でも、意味や価値がなかったらいけないことでもあるんでしょうか?
 価値があろうがなかろうか、私たちが今生きていることに変わりはありませんし、そこに価値や意味を見い出すのか、付与するのかはそれぞれの自由でいいんじゃないかと思います。
 そういう考え方をする人がいてもいいし、どんな考えでも否定するしない、どう受け止めるかも人それぞれでいいんじゃないかなと。
 まぁ、他者に害を及ぼさない範囲で、とは思いますが。

 遠藤さんの場合の「~で、だから何だというのだ」に対しても、同じ「だからどうした?」が返せるんじゃないかなと思ったりします。
「~って思えないんだ」
「そっか、それで? そう思ったならそれでいいんじゃない? そう思うことも、どうにかしたいと思い悩むことも、すべてひっくるめて気の済むまで好きにしてみていいと思うよ」
 と、こんな感じに。
 で、結局私の場合は「じゃあ好きなこと、興味のあること、好きだと思えることをやっていられるような生き方ができればいいかな」って形に落ち着くわけです。
 とはいえ実際は環境によるしがらみとかは色々あったりするので、完全に好き勝手できるわけではなくて、折り合いをつけたり諦めたりとか仕方なくとかあったりするわけですけれど。

 ちなみに、私もやりたいことがなくなる瞬間ってのはあったりします。やってる途中のものがあったり、やらなきゃと思ってるものがある中でも、ふとした瞬間、唐突に無気力になることがあります。
 えてしてそういう時は、外部からの刺激(漫画、ゲーム、小説、映画、音楽その他諸々)を得ているうち(多少は自分から摂取しようとしないといけなかったりしますが)に回復しているんですけどね。
posted by 白銀URLat 2017/09/10 03:18 [ コメントを修正する ]
 ありがとうございますありがとうございます。端的に言いますと、白銀さんの書いていただいた通りだと思っています。

 実際は、この生命の連関には、深遠なる意味があるのかもしれません。ただ、現実問題として考えたときに、それは「人のレベル」では到達しえないものだと考えられます。ブロイラーや食用の牛豚は、人間の食糧となるという「崇高な」意味があるかもしれませんが、その価値について、ブロイラーたちは理解することは永遠に不可能であり、理解したところで何の意味もない。
 宗教やスピ系の話の中で、人間は神の大いなる実験の一部であるとかいうのがありますが、所詮それは人の創造に過ぎないと思っています。もちろん、神や宇宙人がいるかもしれませんが、その存在が真であったとしても、人として生まれついた以上はその次元の思考に辿り着くことはできないと思うわけです。

 ゆえに、白銀さんのおっしゃる通り、
>人の生と、生命活動、及びそれに付随する一切の種を保存するための行動それ自体に意味や価値はないと思っています。 そもそも、意味や価値というものが人間それぞれの持つ価値観によって生まれた概念であり、その価値観が個々によって完全な同一でない以上、そこに普遍かつ不変的な意味・価値といったものは無いと考えます。
 と私も思います。

 なので。
 そのうえで我々がどう生きるべきかというと、
>「じゃあ好きなこと、興味のあること、好きだと思えることをやっていられるような生き方ができればいいかな」って形に落ち着く
 ――べきだと思います。

 そのうえで。
 僕がときおり、闇に堕ちてしまうのが、その「好きなこと」という部分が原因となっているのです。僕の感覚表現・言葉で言い換えると「欲望」というものになります。
 より生理的なものは「欲動」。満たせているけれども、さらに求めたいという意味をプラスすれば「欲望」と「欲求」という表現を分ける必要もあるかもしれません。より、生理的なものを左に配置して、より遠くにあるものを右に配置して、
 欲動<欲求<欲望
 と表現するとします。この場合において、「欲動」がなくなることはあまりないのですが、欲求から先がなくなることがまれに発生するのです。
 これをどう対処しようかというのが、このブログ全体の目的でもあります。

 考えてみると、欲求も欲望も随分枯渇しているなぁと思う今日この頃であります。状態として表現すれば「無気力」ということになりますが、その原因が、そもそも欲求の希薄化にあるのではないかと思うのです。

 これまた傲慢な書き方になるのですが、手に入れたいものは殆ど手にしている・手に入れることができる状況といえます。いやもちろん、望みとは本来は限りないもので、数万人のフォロワーが欲しい(承認欲求)とか、性格もよくてグラマラスな女性といちゃいちゃしたいとか、庭付き豪邸を都心に欲しいとか、挙げれば挙げられるでしょう。ただ、それらが本来的に欲しいのか、求めているのかというと甚だ疑問。……まぁこれも、心理学的に「すっぱいぶどう」(=合理化)であると言われる可能性は尽きないわけですが、ただ、じゃあどこまで、いつまで求め続ければ幸せになるんだというのは常日頃思うことでもあります。

 働かないことが良いことなのか? これもまた疑問。働きたくないという欲求という表現は可能かもしれませんが、そうした「否定欲求」は、その裏に隠れた「肯定欲求」があるはずだと思っているため、重要視していません。

 ――ところが、その肯定的な欲求が、自分自身よく分からなくなっている。これは年々、日に日に強くなっている気がするのです。

 一方で、比較的気分がよいときは、それは良いことなのじゃあなかろうか、欲求欲望が少ないこと(悟り世代とかこれまた微妙な表現に思いますが)自体は良いことなのだと思ったりするのです。

 ただ問題は、昨日今日みたいに、具合が悪いときなんですよね……って、なんかコメントの返信じゃあなくなってる気がする。

>外部からの刺激(漫画、ゲーム、小説、映画、音楽その他諸々)を得ているうち(多少は自分から摂取しようとしないといけなかったりしますが)に回復

 私もこれぐらいしか思いつかないですが、確かに有効な方法ですね。
 外に出かけたり、走ったり、ドライブしたりすると気分も変わることもあります。

>遠藤さんの場合の「~で、だから何だというのだ」に対しても、同じ「だからどうした?」が返せるんじゃないかなと思ったりします。 「~って思えないんだ」 「そっか、それで? そう思ったならそれでいいんじゃない? そう思うことも、どうにかしたいと思い悩むことも、すべてひっくるめて気の済むまで好きにしてみていいと思うよ」

 これもその通りですなぁ。
 ので、

元気!⇒落ち込む・無気力⇒回復行為⇒元気!

 という繰り返しにおいて、残りの人生生きていくという方法もありだと思っています。なんか、いつもこういうと「上から目線だ」と叱られるのですが、ほんと、良いことだと思いますし、ほとんどみんなそうやって生きているんじゃないかなぁと思っています。
 ただ、なんか、その、僕は、どうやら……言いにくいし、認めたくない部分もありますが、その繰り返しについてどうにも意義や価値を見出せないというか、「それで?」と思うのです。「で?」もなにも、それそのものが「答え」なわけですが、どうにもそれが「つまらない」というか、ため息がでるというか、憂鬱さが増してくるというか……。

 いや、この原因の一つは、「代替不可な人間」という「実感」がないことだとはある程度予測できていることはいます。
 そういう意味では、仕事においては、現場を取り仕切る立場ということもあり、ある程度必要とされているという実感はありますが、ただそれも、じゃあ絶対代替不可能か、といわれたら、そうは思えない。いやいやもちろん、そんなこといったら、ある製品を作っている工場の総責任者だとしても、その製品自体が本当に必要かという疑問だって投げかけられますし、この問い自体もあまり意味はないわけです。
 そういう意味で、「子ども」という存在にとって、「親」というのは、ある程度「代替不可能性」が高いので、これは一つ意義になるのかなぁと思ってはいます。ただ、これについては「飽きたらやめる」と簡単にできることではないので、ある程度慎重になっている部分もありますが……それに、さらに言い訳じみたことになりますが、子どもにだって必ず親が必要なのかというのもありますし(片親だったらまともな子供に育たないとか主張したら大顰蹙でしょう)、そもそも、最初の話に戻りますが、生命自体に何か意味ってあったんだっけ? ということもよぎってくるとさらに憂鬱さが加速したりします。

 ……長いしループしたことばかり書いていますなぁ(笑)。
 しかし、本当にありがとうございます。白銀さんにはいつもとても良いタイミングでコメント頂いている気がします! 体調の悪さはあまり良くなっていませんが、これを書いているうちに精神的には少しよくなってきました。やっぱりアウトプットは重要だなぁ。
posted by endoat 2017/09/10 14:55 [ コメントを修正する ]

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