今日の一言「途中まで書いてたの消えた」「眠れないから書こう」
友人からアドバイスをもらい、メモリの抜き差し(およびアルコール系で拭き清掃)を実施。だめ。8GB(DDR4)×2構成だが、×1にして起動。あ、動いた。
原因は、メモリの可能性もある、が、8GB(DDR4)×2は、1万5千円ぐらい。マザーボード不具合の可能性もあるのであれば、メモリを試しで購入するというのはリスクが怖い。
そんなこんなで、24時オーバー。
何だか意識が朦朧とし、まとめ系サイトのサーフィンをしてしまった1時間半は虚しき哉。
先日の、結果を出さなきゃだめだ、という記事は、あれは何だったのか。イライラして書いた、後悔はしていない……いや本当か?
たまに、むしゃくしゃしながら書いた記事が、案外、あとから読んで(同じタイミングでむしゃくしゃしているときは)面白かったりするのだけれど、今は到底読みたいと思わない記事である。
映画のロボジーを見た。結構面白かった。中盤のダレ感が気になって、飛ばしてみようかと思ったが、このダレダレの状態から、どうやって後半オチを付けるのだろうかと気になって、頑張って見続けた。なるほど、よい感じでまとめてきたな、といった感じだった。ヒロイン的な子が仲間になって一緒に研究をするようになってハッピーエンド、といったところから、結局同じ道を辿ることになってしまうという二段階オチにもなっていて、よかったと思った。
とかって書いていたら、途中まで書いていた記事を操作ミスで消してしまった。これは、PC不具合とか関係なく、完全に僕のミスだけれど、ショックはショックだ。
街中でトラブルに巻き込まれたり(かなり嫌な思いをした。が、まぁ後続の生活に影響するレベルではなかった)もするし、最近、ツキまわりがよくない気がする。
けれども、僕に言わせたら、つらい人生、どうしてあなた方は、ちっぽけな「幸せ」的な奴で満足しつつ生きていられるのですか? といった感じである。これは傲慢な感情なのか?
死刑執行前の気持ちは如何なるものだろう。先日、そんな感じの夢をみたと仰っていた方がいた。
いやぁ相当悪夢だと思う。
僕は、「死ぬ」夢をみたことがある。死ぬというか、「死んだ」夢だ。死者になった夢だ。意識だけはある、だが、死んでいるので、何もできない、何も見えない。何も感じられない。それでも、おぼろげな意識だけはある。自分が誰かも思い出せない、何もできない、身体の感覚も無い、それでも、意識だけはある。
これ、僕が生きてきた中で、これ以上の悪夢はない。まだ、上司にいびられたり、恋人にふられたり、借金を背負ったりとか、そんな夢の方がましだ。それらのつらい出来事は、まだまだ救いがある。「死」という救いがある。
死んだ夢には、救いがない。完璧な閉塞。完全なる絶望。
僕は以前、「死は無であって欲しい」と書いた。この意味は、意識だけが残ってしまった場合、これほど恐ろしいことはないからだ。ネットで、10億年ボタン? とか、そんな動画だか記事だかがあったと思う。あれもものすごく怖い。
概念的に、「意識の残った死」ほど怖いものはないと思う。
ここ数年で、大切な人の死をまた経験したけれども、本当に、安らかに眠って、いやその眠りとは、決して夢などみないように、深いノンレム睡眠であって欲しいと思う(いやはや、ネットでちょっと調べたら、ノンレム睡眠中でも夢は見ているのだそうだ、それが覚醒したら思い出せないだけだということだそうだが、まったく、いろんな説があるものだなぁ)。
最近うまい具合に生活がコントロールできていない(アンコントロール的な事象が多く起こっているせいだ)。
人は、コントロール感によって、生きる実感を得ているという表現も聞いたことがある。
自分の人生は、自分でコントロールできるということ、これが重要なことなのだ。そして、そのコントロールの範囲や多寡については、「お金」というものが大きくかかわってくる(人脈的なのもお金による! 社会関係資本! なんたることだ!)。
ので、なんだか夢とか希望とか、目標とか目的とかない人でも、取り敢えずお金が欲しくなる、というのは、そのコントロール感を得たいからだと言える。それは、本能に近いものである。生きたいという脳神経細胞の本能と、知りたいという本能によってつくり出されているのだろう。
うん、まぁその、コントロールできることも重要だが、取り敢えず、目下、今後、1か月でも、3か月でもいいから、この先々で、とっても面白いようなことが欲しい!
31歳、32歳、33歳、34歳、35歳、36歳、37歳、38歳、39歳……と、30代というのはそれほど多くはない。
なんか、35歳でも、40歳でもいいけれども、なんか希望的な、この歳になったらこんなことがある! 的な、楽しいイベントはなかろうか。
入学、卒業、大学デビュー、車、マイホーム、結婚、子ども、まぁ、昔のライフイベント的なのはそんな感じだ。うーむ、どれも魅力がない。全然ない。
で、調べてみると、DELLのエイリアンウェアとか、見た目がかっこよい(ネーミングセンスは好みではないが……)。
そもそも、グラフィックボードは、「黒い砂漠」という3Dゲームをサクサク遊ぶために、GeForce980tiという、当時10万近くした気がする高価な装置を購入したわけだけれども、それが壊れているわけではどうやらなさそうなので、グラボがついていない状態でBTO(カスタマイズ通販パソコン)で購入し、後付けするのもいいかもしれない。
この際、自作を始めてみるのも楽しいかもしれない。
いやいや、そもそも、ホームページの開発環境(PHP言語)や、小説書くだけだったら、サーフェスとか、もっとスマートなPCとかタブレット的な奴でもいいかもしれない。
まぁそんなこと考えて、欲しいものを検討するというのは、ちょっと楽しい。
そう、欲しいものを買う、ということが、あんまり僕はないのだ。
物欲にまみれていなくてよいね、と言われるかもしれない。そんな気もする。だが、やっぱり、この資本主義社会というか、消費社会において、物を買うというのは、楽しいことであるべきなのだ。でなければ、楽しく社会を生きていけないのだ。欲しいものがあるから面倒でも働いて、お金を貯めて、買う。このサイクルが楽しい! って人は、別に「生きる意味」とかどうでもいいんだと思う。
僕も、必要なものは買う。でもそれは、必要にせまられているから買うだけであって、買ったときにカタルシスはない。ただお金が減っただけ。生活が激変するわけでもなく、まぁ変わらない。最新機種や装置になったとしても、いまや、別に感動するほど機能や性能が増えるわけじゃあない。(980tiはもうほとんど主流ではなくなったが、最新のグラボにもそこそこ迫る性能ではある。もっとも、消費電力とかそのあたりの付加要素はいろいろあるわけだが)
まぁ、ここしばらくは、パソコン買うのを検討することを楽しみに当座しのぐとしようかな。
まぁ、しかし、買って結局何をするのか、というと、今と何も変わらないわけで、そういう意味だと、結局、「必要に迫られて買う」程度のことでしかない。
あーなんか、欲しいものないかなぁ。
得たいものでも、成し遂げたいことでも、もらいたい評価でもいい。
なんかないかなぁ……。
ってのは、ほんと、ダメ人間だと思う。そんなこと思うのって、ほんとひどい話だと思う。
そう、そう思って、いつぞやか以前、「ダメ人間」カテゴリのブログ村登録をしようと思ったけれども、どうやら、一般に「ダメ」というのは、ギャンブル依存とか、なんか借金せおったとか、ニートとか、対人恐怖症とか、そういう系統でないと許されないらしい。
ダメ人間にもなれず、意識高い系にもなれず、エリートにもなれず、俺はいったい何なんだ、となる。
普通人間だ。
そう、僕は、ごく普通の、一般大衆、衆生に向けて常に語りかけているのである!!
と書くと、いやいや、お前そもそも、ちょっと変わってるねとか言われたりするだろう、と。
やっぱり、普通なんかじゃあないんじゃないか、と。
じゃあ一体なんなんだ、と。
なんなんだ、というのは、これはこれで一つテーマではあるけれども、それより、目下緊急、喫緊の必要なことは、楽しいことってないかなぁってことである。
(ああ、もう、こんなこと考えてしまうことがそもそも嫌気が指す! なんか違う方向に梶切してから終わりたいが、もう眠い、終わり!)
近況メモ
パソコンの調子が悪い。ASUSロゴから、フリーズ。F2またはDELキーでBIOSセットアップにうつれるが、キーも反応しない。友人からアドバイスをもらい、メモリの抜き差し(およびアルコール系で拭き清掃)を実施。だめ。8GB(DDR4)×2構成だが、×1にして起動。あ、動いた。
原因は、メモリの可能性もある、が、8GB(DDR4)×2は、1万5千円ぐらい。マザーボード不具合の可能性もあるのであれば、メモリを試しで購入するというのはリスクが怖い。
そんなこんなで、24時オーバー。
何だか意識が朦朧とし、まとめ系サイトのサーフィンをしてしまった1時間半は虚しき哉。
先日の、結果を出さなきゃだめだ、という記事は、あれは何だったのか。イライラして書いた、後悔はしていない……いや本当か?
たまに、むしゃくしゃしながら書いた記事が、案外、あとから読んで(同じタイミングでむしゃくしゃしているときは)面白かったりするのだけれど、今は到底読みたいと思わない記事である。
映画のロボジーを見た。結構面白かった。中盤のダレ感が気になって、飛ばしてみようかと思ったが、このダレダレの状態から、どうやって後半オチを付けるのだろうかと気になって、頑張って見続けた。なるほど、よい感じでまとめてきたな、といった感じだった。ヒロイン的な子が仲間になって一緒に研究をするようになってハッピーエンド、といったところから、結局同じ道を辿ることになってしまうという二段階オチにもなっていて、よかったと思った。
とかって書いていたら、途中まで書いていた記事を操作ミスで消してしまった。これは、PC不具合とか関係なく、完全に僕のミスだけれど、ショックはショックだ。
街中でトラブルに巻き込まれたり(かなり嫌な思いをした。が、まぁ後続の生活に影響するレベルではなかった)もするし、最近、ツキまわりがよくない気がする。
死んだ夢
なんか、「生きる意味なんて、考える意味わかりませんけど? かっこワラ」とか仰る方は多い。けれども、僕に言わせたら、つらい人生、どうしてあなた方は、ちっぽけな「幸せ」的な奴で満足しつつ生きていられるのですか? といった感じである。これは傲慢な感情なのか?
死刑執行前の気持ちは如何なるものだろう。先日、そんな感じの夢をみたと仰っていた方がいた。
いやぁ相当悪夢だと思う。
僕は、「死ぬ」夢をみたことがある。死ぬというか、「死んだ」夢だ。死者になった夢だ。意識だけはある、だが、死んでいるので、何もできない、何も見えない。何も感じられない。それでも、おぼろげな意識だけはある。自分が誰かも思い出せない、何もできない、身体の感覚も無い、それでも、意識だけはある。
これ、僕が生きてきた中で、これ以上の悪夢はない。まだ、上司にいびられたり、恋人にふられたり、借金を背負ったりとか、そんな夢の方がましだ。それらのつらい出来事は、まだまだ救いがある。「死」という救いがある。
死んだ夢には、救いがない。完璧な閉塞。完全なる絶望。
僕は以前、「死は無であって欲しい」と書いた。この意味は、意識だけが残ってしまった場合、これほど恐ろしいことはないからだ。ネットで、10億年ボタン? とか、そんな動画だか記事だかがあったと思う。あれもものすごく怖い。
概念的に、「意識の残った死」ほど怖いものはないと思う。
ここ数年で、大切な人の死をまた経験したけれども、本当に、安らかに眠って、いやその眠りとは、決して夢などみないように、深いノンレム睡眠であって欲しいと思う(いやはや、ネットでちょっと調べたら、ノンレム睡眠中でも夢は見ているのだそうだ、それが覚醒したら思い出せないだけだということだそうだが、まったく、いろんな説があるものだなぁ)。
楽しいこと探そう
ああ、もう、駄目だ駄目だ!最近うまい具合に生活がコントロールできていない(アンコントロール的な事象が多く起こっているせいだ)。
人は、コントロール感によって、生きる実感を得ているという表現も聞いたことがある。
自分の人生は、自分でコントロールできるということ、これが重要なことなのだ。そして、そのコントロールの範囲や多寡については、「お金」というものが大きくかかわってくる(人脈的なのもお金による! 社会関係資本! なんたることだ!)。
ので、なんだか夢とか希望とか、目標とか目的とかない人でも、取り敢えずお金が欲しくなる、というのは、そのコントロール感を得たいからだと言える。それは、本能に近いものである。生きたいという脳神経細胞の本能と、知りたいという本能によってつくり出されているのだろう。
うん、まぁその、コントロールできることも重要だが、取り敢えず、目下、今後、1か月でも、3か月でもいいから、この先々で、とっても面白いようなことが欲しい!
31歳、32歳、33歳、34歳、35歳、36歳、37歳、38歳、39歳……と、30代というのはそれほど多くはない。
なんか、35歳でも、40歳でもいいけれども、なんか希望的な、この歳になったらこんなことがある! 的な、楽しいイベントはなかろうか。
入学、卒業、大学デビュー、車、マイホーム、結婚、子ども、まぁ、昔のライフイベント的なのはそんな感じだ。うーむ、どれも魅力がない。全然ない。
魅力のある生き方
パソコンの調子が悪い。で、調べてみると、DELLのエイリアンウェアとか、見た目がかっこよい(ネーミングセンスは好みではないが……)。
そもそも、グラフィックボードは、「黒い砂漠」という3Dゲームをサクサク遊ぶために、GeForce980tiという、当時10万近くした気がする高価な装置を購入したわけだけれども、それが壊れているわけではどうやらなさそうなので、グラボがついていない状態でBTO(カスタマイズ通販パソコン)で購入し、後付けするのもいいかもしれない。
この際、自作を始めてみるのも楽しいかもしれない。
いやいや、そもそも、ホームページの開発環境(PHP言語)や、小説書くだけだったら、サーフェスとか、もっとスマートなPCとかタブレット的な奴でもいいかもしれない。
まぁそんなこと考えて、欲しいものを検討するというのは、ちょっと楽しい。
そう、欲しいものを買う、ということが、あんまり僕はないのだ。
物欲にまみれていなくてよいね、と言われるかもしれない。そんな気もする。だが、やっぱり、この資本主義社会というか、消費社会において、物を買うというのは、楽しいことであるべきなのだ。でなければ、楽しく社会を生きていけないのだ。欲しいものがあるから面倒でも働いて、お金を貯めて、買う。このサイクルが楽しい! って人は、別に「生きる意味」とかどうでもいいんだと思う。
僕も、必要なものは買う。でもそれは、必要にせまられているから買うだけであって、買ったときにカタルシスはない。ただお金が減っただけ。生活が激変するわけでもなく、まぁ変わらない。最新機種や装置になったとしても、いまや、別に感動するほど機能や性能が増えるわけじゃあない。(980tiはもうほとんど主流ではなくなったが、最新のグラボにもそこそこ迫る性能ではある。もっとも、消費電力とかそのあたりの付加要素はいろいろあるわけだが)
まぁ、ここしばらくは、パソコン買うのを検討することを楽しみに当座しのぐとしようかな。
まぁ、しかし、買って結局何をするのか、というと、今と何も変わらないわけで、そういう意味だと、結局、「必要に迫られて買う」程度のことでしかない。
あーなんか、欲しいものないかなぁ。
得たいものでも、成し遂げたいことでも、もらいたい評価でもいい。
なんかないかなぁ……。
ってのは、ほんと、ダメ人間だと思う。そんなこと思うのって、ほんとひどい話だと思う。
そう、そう思って、いつぞやか以前、「ダメ人間」カテゴリのブログ村登録をしようと思ったけれども、どうやら、一般に「ダメ」というのは、ギャンブル依存とか、なんか借金せおったとか、ニートとか、対人恐怖症とか、そういう系統でないと許されないらしい。
ダメ人間にもなれず、意識高い系にもなれず、エリートにもなれず、俺はいったい何なんだ、となる。
普通人間だ。
そう、僕は、ごく普通の、一般大衆、衆生に向けて常に語りかけているのである!!
と書くと、いやいや、お前そもそも、ちょっと変わってるねとか言われたりするだろう、と。
やっぱり、普通なんかじゃあないんじゃないか、と。
じゃあ一体なんなんだ、と。
なんなんだ、というのは、これはこれで一つテーマではあるけれども、それより、目下緊急、喫緊の必要なことは、楽しいことってないかなぁってことである。
(ああ、もう、こんなこと考えてしまうことがそもそも嫌気が指す! なんか違う方向に梶切してから終わりたいが、もう眠い、終わり!)
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