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大衆居酒屋の描写
2016/08/24 20:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
一人、静かに呑みたいと思い、居酒屋に足を運び、カウンターに座るが、隣の人がタバコ吸いまくりで迷惑きわまりない、というのは、喫煙可な場所なので仕方がないが。気になって、ゆっくりできない。料理はおいしい店なのに残念。

もうちっと、隣に気を使ってほしいもんだがな。
ほんとは、ウォークマンとか使わないのが通、なんだろうな。隣の人と打ち解ける、みたいな。まぁそんなのもあるかもしれん、が。結局店員さんの猛々しい女性の声とか、お客さんのワッハハ楽しそうな声が、残念ながら煩くて、ウォークマンである。


まぁ、耳に差し込んでも、聞こえるから、逆にちょうどいいぐらいだが。


とか、不満いいつつ、やっぱり、旨いから、追加注文してしまう。


早く帰ったところで



若者が、被爆者の語り部に多く参加しているという。
意外にも、なんで生きてるんだ、自分なんて生きている価値がないんじゃないか、と思っている人は多いらしい。

それを、認めて、カミングアウトして、やる気に転化して、成功をおさめる、という構図、これにも、もう飽きてしまった。

なんというか、もう、相対化の魔物にとりつかれると、恐ろしいことになる、言い換えれば、とてつもない怠け病、となるが、どのみち、苦しむのは自分である。


いや、逆に、逆にだ、戦争末期、食料もない、広島にいたというだけで、ピカドンに犯されているから婚約者の親にも婚約破棄された、とか、ひでー話だ。戦争はよくない。


しかし、逆に、戦争時と今とを同質にみろ、というのも難しいのではないか。


もっといえば、上の悲劇的な被爆者よりも、親から虐待をうけて、再婚相手の男にレイプされつつ、お前なんて生まれてこなければよかったのに、と言われ続けて育った人と、どっちが辛く、可哀想と思うのか?


僕は、比較することすら無価値と思う。間違いない。両方たいへんで、よく頑張った、素晴らしい、すごい。



これが、比較思考の無意味性である。
下をみてもきりがない。だから上を向いて歩こう、ではないが、結局のところ、他者は他者である。

ここで、やっぱり書いておくべきは、俺は別に、他者への共感ができないサイコではないということだ。むしろ、共感しすぎるぐらいである、と言っても、ここまでの文章は、絶対に覆せない印象を与える。
だから、自分の気持ちの吐露など、絶対にすべきではない、いやなに、100%の理解が不可能であるならば、大した問題ではない、危険な誤解が生じる部分は伏せて、共感性、安全性の高い部分で生きていけばよいのだ。

偽りの自分


ってことを、昨日はウィル君に見破られた、つまり、なんやかんや、やっぱり、物理世界に対し、心をとざしてしまったのだ、と。

と、いいつつ、こうやって書くのは、やっぱりどこか、他者の承認を求めるのである。

いつまでも終わらない、トートロジー、無限遡及。



しかしだ、もうそうであれば、もうどこまでも書き続けてやる、って、そんな自暴自棄的なのも発生する。

これは、アルコールのせいもあるかもしれない。


ああ、しかし、あれだ、強い、生き甲斐、って、なんだろう。

こうなってくると、もう、ほんと、周りの、生きている人たち、みんなすげーっと思う。
よく生きてるな、いやほんと、それだけですごいよ、欲求があることがすごい。


でも諦めていないしつこさ



といいつつも、こういった生き甲斐のなさを、仕事帰りのアルコールとか、ゲームとか、宝くじとか、車とか、女とか、そういうもので満足しちゃいけない、って、ストッパーがいる。どこにいやがる?

でも、僕自身、それを捨てちゃったら、俺が僕じゃなくなる気がする。

人は気持ちは変わる。

しかし、その人格の統一性は、記憶によって成り立つ。ゆえに、記憶がなくなれば、それは一個の死といえる。
そして、ここからが重要だが、記憶の連続性がなければ、それもまた死、であるのだ。


一笑されるだけのこと



とか言っても、どうせ、誰も理解できないのだ、と、僕は今思っている。
先程の、被爆者語ろう会に参加しようと思った若者たちでさえも、私の言うことは、きっと、共感はしたとしても、認められないし、そもそも必要としないだろうと、逆に思った。

つまり、いくら、自己の価値を見失い、生きることが嫌になった人も、絶望、をしているわけではない可能性がある、ということだ。


失望と絶望の違い



このあたりが、19世紀のキルケゴールさんがすごいところだ。

つまり、恋人にふられたとか、仕事でしっぱいしたとか、それらは人格否定がつきまとい、間違いなくつらいことだが、それはまだ絶望ではない。

理想の恋人と相思相愛になる、とか、出世して皆に認められる、とか、実現可能性がいかに小さく思われようとも、その幸せ的事象が存在しているうちは、望みに到達すること失ったのである。


対して、その、自分がありたいと思う理想、目的、到達点、それが無くなった状態、それは、望みが絶滅したのである。


と、まぁ、絶望と失望と、キルケゴールの死に至る病を、日本語を使い分けて説明していた本があったから、上のように表現しただけで、別にどっちがどっちとか、覚える必要はない。
望みが完全に失われた、と解釈すれば、失望が僕の表現したかった絶望と同じ意味にもとれる。

ので、ここの、違いは、未だ、自分が、ありたい姿を想像できるかの違い、と記憶すればよい。

ので、失望の場合は、いわゆるスピリチュアル的な、セルフイメージをもって、なりたい姿を引き寄せる的な、そういった生き方が効果を発する。
まず、社会から疎外された人のうち、大半はこの方法が有効である。


しかし、面倒くさい人間は、それすらできなくなる。
お金も、ルックスも、時間も、いっさいの諸条件を廃して、本当に自分のやりたいことを考える。まずやってみるといい、そして、やってみて、ああ、確かに、そのとき想像した自分になれた、よかった、幸せだ、……で、それがどうした? と、気づいてしまったとき、そこから、本当の絶望が始まる。


自分の絶望度は分からない



しかし、ここでも、結局、スピリチュアル的には、それはまだ、自分の本当のきもちを引き出せていないのです、宇宙のオーラを感じ、私たちとセッションして、本当の自分に出会いましょう、と言われるだけだ。


いや、よいのだ、その、自己を集団や組織にコミット(参画)できるなら、そうした方がよい。


しかし、困った人たちは、それがどうしてもできない。もしくは、何回かはできて、それによって救われたりうまくいったりしつつも、やっぱり、何か違うことに気づいてしまったのだ。


これを私は、呪いと表現している。
だって、全然よいことではないのだ。


わかったからどうしたらいいんだ



で、結局、その呪いを理解できた人も、そこで、じゃあどうしたらいいんだ、と、やっぱり、答えをもとめるようになる。


で、まぁ、何もないけど、例えば素晴らしい人格者が、答えを与えたとしよう。しかし、その後の展開は、すでに書いてきた無限遡及に吸収されてしまうほど、脆いものになっているのである。


この、相対化の呪いは、成功し、救われて、幸せになる度に、強度を増していく。


いやー、この記事、すごい言霊を発してる気がする、読んだ人に不快感どころか、倦怠感や嘔吐させるのではないか。

しかし、ここまで読めた人は、安心して欲しい、逆に
強固な自己を保持した、大人で魅力的な人だ。

一方で、そうでなくても共感した人は、遅かれ早かれ、この構造に気づく。
もう呪いにかかっている。
この呪いは、かかる人とかからない人がいる、むしろかかる素質がある人は、何れかかる。

僕は30代だが、これ、もっと遅くにかかってたらもっと大変だったな、と思うわけで、こうして書いている。


啓蒙活動だ、かっこわらい。 


最後に、反転して、意識高い系なこと書いておけば、この絶望の状態でなお、正しく、素晴らしく生きるにはどうしたらよいのか。それを、今後も真剣に考え、綴っていこう。

キルケゴールさんは、倫理的な生き方、神への信仰によって救いをえた。

さて、21世紀に生きるわたしは、それら先人の作品をもとに、どのような解を、方針を、目的をみつけ、生きていくのか。まずは、思考ができることに感謝を。

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