今日の一言「1000字投稿連載は水曜更新するとして、ちょっと休憩」「休憩でブログ書くって……」
んで、司星者セインは、2000年刊行である。そして、あとがきを読んで知ったけど、2000年の時に作者は33歳ぐらいだったようだ。
ほぼ、20年前である。
今の僕と同年代である。
プロと比べてもしゃーないが、あと数年研鑽を積んでも、とても追いつけそうになさそうである。
この作品に、「貌狩りのアルゴー」という敵が登場するのであるが、とっても敵である。やることなすこと非道である。残虐だ。むかつく奴である。「倒さねばならない敵」感がひしひし伝わってくる。
ある方が、物語には「困難」が必要だと書かれていたが、これは真に思う。
ひだまりスケッチ的な日常ほのぼの系の作品であっても、「困難」はある。主人公のゆのっちは、文化祭の出展物を仕上げようと努力を重ね、そして一つの作品を完成させる。見物人たちからは一定の評価を得た。だが、それはまだ彼女の納得いく作品ではなかった。彼女は作品を満足いくものにできなかった悔しさから、あることを計画する……。
と、その困難が客観的に大きかろうがどうだろうが、当人にとっての困難性がより感情移入できるものであれば、それは物語として感動を与えるのである。
それはそうと、司星者セインは二巻買うか。でもこれ、ある方いわく、完結しなさそうらしいんだよなぁ。
いっつも、このブログは、自分のことを書き始める。主観的である。
けれども、今回のタイトル「面白い文章について考える」であるけれども、「主観的」な文章を最近欲している。
ある方が、「何を見るか、するかじゃなくて、最終的には【誰とするか】だよ」と言っていた。
そのときは、僕は本能的に「否」と思った。しかし、冷静に考えてみると、それはそれで適切な表現に思った。
もちろん、その根本的にすべき対象は重要である。
でも、自分で感じられることには限界がある。
だから、他者のレビューなるものが重要になる。
といったことを書きたいと思ったのだけれども、なんか違うな。筆がのらない。
「こうするのが大切だよー!」
というのはいいが、それを、お前はどう思ってるんだ、ということを問いたい。
朝早く起きて活動した方が効率がよいといわれる。
まぁそれはそうなのかもしれない。でもそれに対して、お前はどう思っているんだ? どう行動しているんだ? それを書いてほしい。
なんかのセミナーに参加した。こういう業績をあげた偉い人がこんなことを言っていた。ほうなるほど、で? お前はそれをどう感じて、どう思って、どうしようとして、実際に1週間後、1か月後、1年後に何をしたのか?
そういうのを書いてほしい。
複雑な自然体系に、科学・技術、法律、金融、思想……まぁすごい。
すごいけど、真理の探究なんてしちゃあいけない気がする。
神がいるか、いないか、そんな単純なことすら、長い歴史の中で決着がつかないことである。
結局、言葉では幸せは導けなかったのである。そして、これからもそうだろう。
そうした、「評価」が曖昧な世界において、いかに生きるべきだろうか。
こういった不透明な時代において、「お金」という価値観が信奉されるのは無理もない。わかりやすいのだ。会社のために献身しても、ふと上司が変わったとたんにこれまでの業績がなかったことにされるかもしれない。お客様のためにサービスしてきても、商品が売れなきゃ倒産する。
やっぱりお金だ。
お金があるから取引ができる。お金があるから信用できる。お金があるから生きていける。
いやまぁ当たり前だ。人間は、欲望と身体に規定された存在である。そしてその欲望は、生きたい・知りたい・仲間になりたいという本能を有している。
……ちょっとリセットしよう。なんか、久しぶりだと文章に詰まる。とりあえず、二本目のビールをあける。
あーこの、プシュッという音がいいよなぁ。きっとこの感覚は、10年前の俺にはとても分からなかったろう。
なんだっけ? そう、困難だ。
俺、なんか困難あるんだろうか?
いや、そりゃ、人並みにはある。当たり前だ、凡人だもの。
しかしだ、それらの困難が、じゃあ、絶対解決しなきゃいけないかっていうとそうじゃないし、死ぬわけでもない。
生と死が隣り合わせの時代や、身分制度が強固な時代では、理不尽な死を命じられることもあったろう。
司星者セインを読んでよくわかったのは、俺は、理不尽な死ってのを、ものすごく悪だと、嫌悪するのだと、憎しみを抱くのだと分かった。残虐な部下たちのトップに君臨する魔女王アグナスの非道は客観的にはMAXなのだろうが、取り急ぎ苛立たせられたのはアルゴー氏の、老梟の化け物に部下に突撃を命じ、無意味な死を強要したところである。
その前に、アルゴー氏の軍団は、罪もない人々の田舎の村を壊滅に追いやっている。女子供も容赦なく皆殺しである。それはそれでなんて酷いんだ……と思ったものだが、それ以上に、部下を駒のように扱い殺したところに苛立った。
いや、結局、化け物には勝利したのだから、戦術的には、アルゴー氏の采配は正しかった。その意味では部下たちも決して無駄死になどではなかった。しかしそれでも、その非情な選択には憤りを思った。
という、僕は、「理不尽さ」というのを強く憎んでいることが分かった。
たいてい僕がイライラしているのは、その理不尽さである。その大きい小さいはあれど。小さいのはむしろ、「不公平感」といったものであったりするが。
無意味に死んでいった人たちに追悼の意を表す。
あーしかし、「意味」なんて、とても主観的なものである。
ガンに侵され、余命3か月と言われた人は、まだ幸せかもしれない。交通事故で一瞬にして命を落としたら、その人の生きてきた意味はいったいなんだったのだろうか。
僕はまだ幸せである。こうやってブログを書いてから死ぬことができる。
僕は、生きる意味を考え、道半ばで死んだ。――そういった意味は与えられる。誰から? 自分だ。だが、その自分はもうすでにこの世にはいない。それでも、僕は意味を求める、何故だろうか? なんてことを常に考えているから碌なことができないのである。
ただ、道筋は、朧げな光を放って見えている。
このように問い続けることで、僕はまだ、一歩か、半歩か、むしろ後退しているのかはわからないが、「動く」ことはできるのである。
と、思う。
それは、刹那的ではなくて、ずっと、永続的に光を放つようなもの。
遊びでも仕事でもスポーツでも読書でもなんでもいいから、なんかないかなぁって思う。そして、たいていの人にとって、それは家族――特に子どもなんだろうなぁって思う。
いやまぁ、自己愛が強い人は、自分を愛することでやってけるかもしれない。たぐいまれな才能があれば、その才能が活かせる場が、面白いものなんだろうって思う。
自分の子供ってのは、それだけで特別だから価値があるのだ。
特別な何かって、あんまし、人には、ない。
いやまぁ、ふつーに生きることはそれだけでとても大事なことで、素晴らしいことで、感謝すべきことで、大切なことで、運が良いことで、ありがたいことである。
俺はしかし、なんか、……。
いや、じゃあ、家族をつくるためにがんばれって思うのだが、そもそも、「がんばれ」ない。気力が起きない。何もしたくない。何もしないのが、何もしていない時がむしろ幸せである。
んじゃー、生きたくないんじゃない? ってすら思う。うむ。
ってところでビールを三本目。
プシュッ。カッ。
うーんいい音だ。そして、キンキンに冷えてやがる。――うめぇ。
そう。これもまた人生のよくある形態である。酒におぼれる図。
仕事にも、家族にも、趣味にも恵まれなかったら、だいたい陥るのが、酒かギャンブルかである。
まぁ、それはそれでありなんだろうと思う。アルコールが体に、頭にまわることで、思考がゆるやかになる。いやなことも、理不尽なことも、少しだけやわらぐ。
いーんじゃね? それもまた。
あったかい部屋と、好きな音楽とをながせたらもう最高のひとときじゃあないか。
しかしこれは、アイドルや、ミュージシャンに熱狂するのとだいたい同じ構図である。
対して。
美しいものとは、やはり、愛情や、友情といったものなのではなかろうか。
上には、理不尽な死を憎むと書いた。
しかし、理不尽ではない、自ら望んだ、誰か自分以外のために命を投げ出すというのが、本当に大事なことなのではなかろうか?
うしおととら、とか、からくりサーカスとか、その辺の自己犠牲感をうまく描いている気がする。
家族のように大事にしていた飼い犬を、トラックに轢かれそうになった瞬間体を張って守った。犬は助かった。守った飼い主は死んだ。
こんなニュースが流れたら、きっと美談だとみんな思うだろう。
一方で、アングラな口コミサイトなどでは、「飼い主バカだろ」といった書き込みも多くみられると思われる。
まぁしかし、命とは等価交換みたいなもので、その飼い主が、妻も子供もいる状態なら、きっと「バカだろう」派が多いだろうが、一方、90歳の天涯孤独のおじいちゃんなら、「美談」派が多い気がする。
でも、命って、そんなもんなんだろうか? 俺はなんか、そういった「自己犠牲」的な云々にも、なんか違和感がある。――というひょうげんをすると、おめーは、そういった「じぶんのいのち」より大切な何かをもってねーからそういうことを思うんだ。矮小なやっちゃな。と言われる。反論は、ない。
でも俺は、そんなに、自分の命も大切と思うわけでもない。才能あるたくさんの人たちと比べたら、価値のない人間だ。でもだからといって、価値ある人に臓器提供する気もさらさらない。
要するに、このあたりの、倫理観的なことは、書いたり、考えたりしないほうがよいのである。
たいてい、小難しいことを考える奴は、モテない。
そんな、金にもならないことを考えるぐらいなら、お金稼いで女の子にプレゼントしたほうがましである。――とかいておいて、おれは全くそう思っていない。
袋小路だ。
これ以上、新しいことを考えられそうもない。
ああ、酒なんて飲まなければよかったか。
いやだからさ、グダグダいってねーで、行動し、積み上げて、研鑽しろってことだ。
こう、グダグダ文章が物語として光るのは、ものすごくカッコよくて強い主人公が、時折見せる挫折の瞬間ぐらいである。
年がら年中、ぐだぐだ、「僕って何」的に言ってるやつが、何言ってんだボケが、って話である。
あー、なんやかんや、先週は、1,000字ぐらいは創作で書いた。なんとか、もっとちゃんと書く時間を取りたい。
今年の目標は、なんといっても、「創作」なのである。にもかかわらず、俺は、些末事に(といっても仕事とかその他はずせないことではある。要するに、今年の目標以外のこと)時間を使っているのだろうか。
ただ、一つ、物語は、今連載している奴ではないが、完成しそうな見込みがついた。プロットが、一応、自分で納得できたのである。――これなら、まぁ、書いていってもいいかなぁ、と思わせられた。
なんつーか。
自分で後から読んで、「面白いな」と思えるレベルのものじゃないと、正直書けないことが分かった。
いやこれは、昔からそうだったのかもしれない。
しかし、むかーしよりは、物語に触れる量が少しだけ増えたので――それと、人生に求めるものが増えたので――、物語に求めるものが格段に多くなっていっている。
表現が稚拙だが、面白い物語しか書けないのである。
え? 俺は、面白い物語を書けるのか? 否。そうではない。かけないから、書けていないのであるこれは、詰みではなかろうか。面白い物語しか書けない。しかし、自分では面白い物語を書けない。以上終了。
……。うわー! ちくしょう、どうしたらいいんだ。
書くしかねえ。
面白くなくても、書くしかねえ。
書かないと、面白い物語は書けねえ。
俺は別に、物語を書いて、それで生計を立てようと思ってるわけじゃあない。
単に、俺自身が面白いと思える物語をかけるようになりたいのだ。人生で例えるなら、自給自足である。
自分で野菜作って、畜産して、発電して生きていきたいのである。
しかし、そのためには、自分の力不足がはんぱねええ。
努力するしかなかろう。
(かっこ書きである。うーむ。だめだ。面白い文章が書けない。――だが、まぁ、仮にだ、この感覚で書いた文章が何かの役に立つのであれば、うれしいことである。まぁそういった感覚は傲慢なのであるけれども、8年前、2010年の記事など読めば、まぁ、書いておいてよかったのではなかろうかと思う。8年、か。長いようで短い。過去の自分は、まだ、自分がその先どういったイベントに出会うかを知らなかった。その先のイベントを知った今の自分が見れば、――その描いている文章に、字面以上の感慨を覚えるのである。この感覚は、「日記」という媒体の、その著者しか味わうことのできないものである。僕は、若い人に何ら人生訓なるものを授けるほど、できた人間ではないけれども、「日記」を書くということは勧めてもよいと思っている。もちろん、この日記とは、ブログのように公開を前提としなくてもよい。そして、巷にいわれるような「事象」を淡々と書くものではない。そうしたイベントの記述は、手帳にでも書いておけばよい。要するに、思考のプロセスの記述である。これ、大事。何に対して、何を、どのような順序で考え、感じるのか。それをメモしておくことが、重要に思う。少なくても、僕のように人生の迷子になってしまった人にとっては。――人生の迷子! これまた、20代で書くのと、30代で書くのは全く意味が違うだろう。いや良い意味では当然なくて、悪い意味で。深刻な意味で。いや、それはダメでしょう、といった意味で。ふむ、しかし、酔いがまわってくれば、それすらも呑み込んでやろう、という気にもなってくる。うぬぼれもさえもそれは才能、である)
司星者セイン読了
ベニー松山さんという方の小説を読み終える。ううむ、巧い。この方の、「風よ。竜に届いているか」も読んで、表現の上手さに舌を巻いたのであった。んで、司星者セインは、2000年刊行である。そして、あとがきを読んで知ったけど、2000年の時に作者は33歳ぐらいだったようだ。
ほぼ、20年前である。
今の僕と同年代である。
プロと比べてもしゃーないが、あと数年研鑽を積んでも、とても追いつけそうになさそうである。
この作品に、「貌狩りのアルゴー」という敵が登場するのであるが、とっても敵である。やることなすこと非道である。残虐だ。むかつく奴である。「倒さねばならない敵」感がひしひし伝わってくる。
ある方が、物語には「困難」が必要だと書かれていたが、これは真に思う。
ひだまりスケッチ的な日常ほのぼの系の作品であっても、「困難」はある。主人公のゆのっちは、文化祭の出展物を仕上げようと努力を重ね、そして一つの作品を完成させる。見物人たちからは一定の評価を得た。だが、それはまだ彼女の納得いく作品ではなかった。彼女は作品を満足いくものにできなかった悔しさから、あることを計画する……。
と、その困難が客観的に大きかろうがどうだろうが、当人にとっての困難性がより感情移入できるものであれば、それは物語として感動を与えるのである。
それはそうと、司星者セインは二巻買うか。でもこれ、ある方いわく、完結しなさそうらしいんだよなぁ。
困難とは
さて、僕にとって困難って何だろうか?いっつも、このブログは、自分のことを書き始める。主観的である。
けれども、今回のタイトル「面白い文章について考える」であるけれども、「主観的」な文章を最近欲している。
ある方が、「何を見るか、するかじゃなくて、最終的には【誰とするか】だよ」と言っていた。
そのときは、僕は本能的に「否」と思った。しかし、冷静に考えてみると、それはそれで適切な表現に思った。
もちろん、その根本的にすべき対象は重要である。
でも、自分で感じられることには限界がある。
だから、他者のレビューなるものが重要になる。
といったことを書きたいと思ったのだけれども、なんか違うな。筆がのらない。
文章に求めること
要するに、一般論を書いている文章は面白くないのである。「こうするのが大切だよー!」
というのはいいが、それを、お前はどう思ってるんだ、ということを問いたい。
朝早く起きて活動した方が効率がよいといわれる。
まぁそれはそうなのかもしれない。でもそれに対して、お前はどう思っているんだ? どう行動しているんだ? それを書いてほしい。
なんかのセミナーに参加した。こういう業績をあげた偉い人がこんなことを言っていた。ほうなるほど、で? お前はそれをどう感じて、どう思って、どうしようとして、実際に1週間後、1か月後、1年後に何をしたのか?
そういうのを書いてほしい。
世の中をシンプルに生きる
世の中なめちゃあいかんと思う。複雑な自然体系に、科学・技術、法律、金融、思想……まぁすごい。
すごいけど、真理の探究なんてしちゃあいけない気がする。
神がいるか、いないか、そんな単純なことすら、長い歴史の中で決着がつかないことである。
結局、言葉では幸せは導けなかったのである。そして、これからもそうだろう。
そうした、「評価」が曖昧な世界において、いかに生きるべきだろうか。
こういった不透明な時代において、「お金」という価値観が信奉されるのは無理もない。わかりやすいのだ。会社のために献身しても、ふと上司が変わったとたんにこれまでの業績がなかったことにされるかもしれない。お客様のためにサービスしてきても、商品が売れなきゃ倒産する。
やっぱりお金だ。
お金があるから取引ができる。お金があるから信用できる。お金があるから生きていける。
理不尽さを憎む
バカバカしいほどシンプルだが、これらは、「生きる」ことが前提とされている。いやまぁ当たり前だ。人間は、欲望と身体に規定された存在である。そしてその欲望は、生きたい・知りたい・仲間になりたいという本能を有している。
……ちょっとリセットしよう。なんか、久しぶりだと文章に詰まる。とりあえず、二本目のビールをあける。
あーこの、プシュッという音がいいよなぁ。きっとこの感覚は、10年前の俺にはとても分からなかったろう。
なんだっけ? そう、困難だ。
俺、なんか困難あるんだろうか?
いや、そりゃ、人並みにはある。当たり前だ、凡人だもの。
しかしだ、それらの困難が、じゃあ、絶対解決しなきゃいけないかっていうとそうじゃないし、死ぬわけでもない。
生と死が隣り合わせの時代や、身分制度が強固な時代では、理不尽な死を命じられることもあったろう。
司星者セインを読んでよくわかったのは、俺は、理不尽な死ってのを、ものすごく悪だと、嫌悪するのだと、憎しみを抱くのだと分かった。残虐な部下たちのトップに君臨する魔女王アグナスの非道は客観的にはMAXなのだろうが、取り急ぎ苛立たせられたのはアルゴー氏の、老梟の化け物に部下に突撃を命じ、無意味な死を強要したところである。
その前に、アルゴー氏の軍団は、罪もない人々の田舎の村を壊滅に追いやっている。女子供も容赦なく皆殺しである。それはそれでなんて酷いんだ……と思ったものだが、それ以上に、部下を駒のように扱い殺したところに苛立った。
いや、結局、化け物には勝利したのだから、戦術的には、アルゴー氏の采配は正しかった。その意味では部下たちも決して無駄死になどではなかった。しかしそれでも、その非情な選択には憤りを思った。
という、僕は、「理不尽さ」というのを強く憎んでいることが分かった。
たいてい僕がイライラしているのは、その理不尽さである。その大きい小さいはあれど。小さいのはむしろ、「不公平感」といったものであったりするが。
なぜ生きることが必要か
その、殺された人たち。無意味に死んでいった人たちに追悼の意を表す。
あーしかし、「意味」なんて、とても主観的なものである。
ガンに侵され、余命3か月と言われた人は、まだ幸せかもしれない。交通事故で一瞬にして命を落としたら、その人の生きてきた意味はいったいなんだったのだろうか。
僕はまだ幸せである。こうやってブログを書いてから死ぬことができる。
僕は、生きる意味を考え、道半ばで死んだ。――そういった意味は与えられる。誰から? 自分だ。だが、その自分はもうすでにこの世にはいない。それでも、僕は意味を求める、何故だろうか? なんてことを常に考えているから碌なことができないのである。
ただ、道筋は、朧げな光を放って見えている。
このように問い続けることで、僕はまだ、一歩か、半歩か、むしろ後退しているのかはわからないが、「動く」ことはできるのである。
面白いものに触れたい
あー、なんか面白いもんないかなー。と、思う。
それは、刹那的ではなくて、ずっと、永続的に光を放つようなもの。
遊びでも仕事でもスポーツでも読書でもなんでもいいから、なんかないかなぁって思う。そして、たいていの人にとって、それは家族――特に子どもなんだろうなぁって思う。
いやまぁ、自己愛が強い人は、自分を愛することでやってけるかもしれない。たぐいまれな才能があれば、その才能が活かせる場が、面白いものなんだろうって思う。
自分の子供ってのは、それだけで特別だから価値があるのだ。
特別な何かって、あんまし、人には、ない。
いやまぁ、ふつーに生きることはそれだけでとても大事なことで、素晴らしいことで、感謝すべきことで、大切なことで、運が良いことで、ありがたいことである。
俺はしかし、なんか、……。
いや、じゃあ、家族をつくるためにがんばれって思うのだが、そもそも、「がんばれ」ない。気力が起きない。何もしたくない。何もしないのが、何もしていない時がむしろ幸せである。
んじゃー、生きたくないんじゃない? ってすら思う。うむ。
ってところでビールを三本目。
プシュッ。カッ。
うーんいい音だ。そして、キンキンに冷えてやがる。――うめぇ。
そう。これもまた人生のよくある形態である。酒におぼれる図。
仕事にも、家族にも、趣味にも恵まれなかったら、だいたい陥るのが、酒かギャンブルかである。
まぁ、それはそれでありなんだろうと思う。アルコールが体に、頭にまわることで、思考がゆるやかになる。いやなことも、理不尽なことも、少しだけやわらぐ。
いーんじゃね? それもまた。
あったかい部屋と、好きな音楽とをながせたらもう最高のひとときじゃあないか。
しかしこれは、アイドルや、ミュージシャンに熱狂するのとだいたい同じ構図である。
対して。
美しいものとは、やはり、愛情や、友情といったものなのではなかろうか。
上には、理不尽な死を憎むと書いた。
しかし、理不尽ではない、自ら望んだ、誰か自分以外のために命を投げ出すというのが、本当に大事なことなのではなかろうか?
うしおととら、とか、からくりサーカスとか、その辺の自己犠牲感をうまく描いている気がする。
救ったものもまた死ぬ
でも、そうはいっても、自分の命を投げ出してでも助けたいような何かって、本当にあるんだろうか?家族のように大事にしていた飼い犬を、トラックに轢かれそうになった瞬間体を張って守った。犬は助かった。守った飼い主は死んだ。
こんなニュースが流れたら、きっと美談だとみんな思うだろう。
一方で、アングラな口コミサイトなどでは、「飼い主バカだろ」といった書き込みも多くみられると思われる。
まぁしかし、命とは等価交換みたいなもので、その飼い主が、妻も子供もいる状態なら、きっと「バカだろう」派が多いだろうが、一方、90歳の天涯孤独のおじいちゃんなら、「美談」派が多い気がする。
でも、命って、そんなもんなんだろうか? 俺はなんか、そういった「自己犠牲」的な云々にも、なんか違和感がある。――というひょうげんをすると、おめーは、そういった「じぶんのいのち」より大切な何かをもってねーからそういうことを思うんだ。矮小なやっちゃな。と言われる。反論は、ない。
でも俺は、そんなに、自分の命も大切と思うわけでもない。才能あるたくさんの人たちと比べたら、価値のない人間だ。でもだからといって、価値ある人に臓器提供する気もさらさらない。
具合が悪くなってくる
うーむ、このあたりのことを書いていると、気分が悪くなるな。たんに酒のせいかもしれない。要するに、このあたりの、倫理観的なことは、書いたり、考えたりしないほうがよいのである。
たいてい、小難しいことを考える奴は、モテない。
そんな、金にもならないことを考えるぐらいなら、お金稼いで女の子にプレゼントしたほうがましである。――とかいておいて、おれは全くそう思っていない。
袋小路だ。
これ以上、新しいことを考えられそうもない。
ああ、酒なんて飲まなければよかったか。
だからこそ物語が必要なんだこんちくしょうが!
そしていきなりテンションが上がる。というか、狂ってくる。いやだからさ、グダグダいってねーで、行動し、積み上げて、研鑽しろってことだ。
こう、グダグダ文章が物語として光るのは、ものすごくカッコよくて強い主人公が、時折見せる挫折の瞬間ぐらいである。
年がら年中、ぐだぐだ、「僕って何」的に言ってるやつが、何言ってんだボケが、って話である。
あー、なんやかんや、先週は、1,000字ぐらいは創作で書いた。なんとか、もっとちゃんと書く時間を取りたい。
今年の目標は、なんといっても、「創作」なのである。にもかかわらず、俺は、些末事に(といっても仕事とかその他はずせないことではある。要するに、今年の目標以外のこと)時間を使っているのだろうか。
ただ、一つ、物語は、今連載している奴ではないが、完成しそうな見込みがついた。プロットが、一応、自分で納得できたのである。――これなら、まぁ、書いていってもいいかなぁ、と思わせられた。
なんつーか。
自分で後から読んで、「面白いな」と思えるレベルのものじゃないと、正直書けないことが分かった。
いやこれは、昔からそうだったのかもしれない。
しかし、むかーしよりは、物語に触れる量が少しだけ増えたので――それと、人生に求めるものが増えたので――、物語に求めるものが格段に多くなっていっている。
表現が稚拙だが、面白い物語しか書けないのである。
え? 俺は、面白い物語を書けるのか? 否。そうではない。かけないから、書けていないのであるこれは、詰みではなかろうか。面白い物語しか書けない。しかし、自分では面白い物語を書けない。以上終了。
……。うわー! ちくしょう、どうしたらいいんだ。
書くしかねえ。
面白くなくても、書くしかねえ。
書かないと、面白い物語は書けねえ。
俺は別に、物語を書いて、それで生計を立てようと思ってるわけじゃあない。
単に、俺自身が面白いと思える物語をかけるようになりたいのだ。人生で例えるなら、自給自足である。
自分で野菜作って、畜産して、発電して生きていきたいのである。
しかし、そのためには、自分の力不足がはんぱねええ。
努力するしかなかろう。
(かっこ書きである。うーむ。だめだ。面白い文章が書けない。――だが、まぁ、仮にだ、この感覚で書いた文章が何かの役に立つのであれば、うれしいことである。まぁそういった感覚は傲慢なのであるけれども、8年前、2010年の記事など読めば、まぁ、書いておいてよかったのではなかろうかと思う。8年、か。長いようで短い。過去の自分は、まだ、自分がその先どういったイベントに出会うかを知らなかった。その先のイベントを知った今の自分が見れば、――その描いている文章に、字面以上の感慨を覚えるのである。この感覚は、「日記」という媒体の、その著者しか味わうことのできないものである。僕は、若い人に何ら人生訓なるものを授けるほど、できた人間ではないけれども、「日記」を書くということは勧めてもよいと思っている。もちろん、この日記とは、ブログのように公開を前提としなくてもよい。そして、巷にいわれるような「事象」を淡々と書くものではない。そうしたイベントの記述は、手帳にでも書いておけばよい。要するに、思考のプロセスの記述である。これ、大事。何に対して、何を、どのような順序で考え、感じるのか。それをメモしておくことが、重要に思う。少なくても、僕のように人生の迷子になってしまった人にとっては。――人生の迷子! これまた、20代で書くのと、30代で書くのは全く意味が違うだろう。いや良い意味では当然なくて、悪い意味で。深刻な意味で。いや、それはダメでしょう、といった意味で。ふむ、しかし、酔いがまわってくれば、それすらも呑み込んでやろう、という気にもなってくる。うぬぼれもさえもそれは才能、である)
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一巻ではいまひとつ強い印象のなかったズァグ氏ですが、二巻で背負ったものや行動原理が描かれ、ダークヒーローとしての咆哮を上げたりしますます。個人的には二巻のほうが数段評価は上ですね。
まぁ、そこで打ち切られるんですけどね!!!!