今日の一言「毎日疲れたとかやる気ないとかつまらないとか言ってる気がする」「言ってはいない、思ってるだけだ」
穏やかな気持ちでいたいと思いながら、ますますイライラを高めていく自分にさらにいらだつという悪循環である。
しかしこう……無気力だ虚無だと言っているのと比べて、イライラしている方がよほど人間的ではなかろうか……んなはずはない。まぁ、人間的かどうかは置いておいて、それが良いことだとは到底思えない。
とか言うと、「怒ったり、不満をぶちまけることも大切だよ!」なんてしたり顔で言われたりしたらもうさらにイライラは高まっていく。
じゃあ、お前、いったい、どうして欲しいんだよ? なんて言って欲しいんだ? どうやったら助けてあげられるんだ?
――放っておいて欲しい、のだろうと思う。
こう、なんだ、人との関わり合いはとても重要だと思いつつも、やっぱり、「疲れる」。
「話せばすっきりするさ!」
って言う方法だってあるんだろうが、どうにも性にあわない、のかもしれない。
なんなんだろうな。
――これは、自分との対話って面が強いと思う。特にこのイライラ対処は。
対話……というか、口論なり、言い争いなり、ケンカなりかもしれない。
抑えがたき自分の感情を、理性なる自分が調整しようとしているのかもしれない。
これが、他者との会話や関わりになると、「他者」という調整相手が増えるために、余計に疲れてしまうのかもしれない。
自分の最初に印象というか、浮かんだ言葉を使うとわかりづらいが、要は、「人は人、己は己」という言説である。
これを突き詰めると、他者の考えは正しいけれども、そうじゃない考えもある、ということで、どこまでいっても相対主義や懐疑主義に陥る。
本当に正しいことって、必要なんじゃないか?
――そんなもの無い。とニーチェさんはいう。真理や神なんてのは、ルサンチマンを抱えた弱者がつくりあげた幻想蒙昧に過ぎないと。
――だから。真理なんてものは捨て去って、「力への意志」……つまり、欲望のなすところを目指せと。自分の感覚を信じろと。
人生は永遠回帰なのだと。
お前は、今のこの生活、この時間を、毎回毎回繰り返すのだ。すべての条件、すべての感情、すべての環境がそのまま繰り返される、終わりなきメリーゴーランドなのだと。
そうした人生において、お前は、今行おうとしていることを、この先、何度も何度も何度も何度も何度も繰り返すのだけれども、それでも、今お前は、その為そうとしていることを、やる気になるのか?
やる気になるのだとすれば、やればよい。
そうじゃないと思うのなら、やめたほうがよいだろう。
確かに、今なそうとしていることが、「永遠に繰り返されるとしても、それでもやるべきことか?」という問いかけは、力強さを思わせる。
ところが、その実践的側面を考えたときに、まずもって、人は自分の呼吸を意識するのも大変なのに、絶え間なく過ぎ去る時間と、空間(そして身体)の制約の中で、逐一の決断を本当に意識的に行えるのだろうか――いや無理である。
すべてを意識することは不可能である。――とはいいつつ、結構何度も試してみたことはある。より実践的に、24時間をセクション(ある単位ごと)に区切って、それぞれの時間帯に自分はどういった状態でどういった判断を行っているのか、明確に規定しようとしたり。
人間の行為行動は、必ずしもすべて意識下において行われるものではないので、無理な試みであった。それでも、無駄なこととは思わない。スケジュール管理なんて、その一端である。しかし、感情や悩みというものが存在する以上、常に明確な判断などできないのである。
時間の意識がなければ、実は判断は単純なのである。
今この瞬間の快をとるか、どうか、それだけだ。
しかし、人は、未来を想像する。
例えば、遅い時間に目の前の甘いプリンを食べることは、将来の健康に悪影響だろうが、いま・この瞬間においては、悩む必要などない。食べろ。そうして、背徳的な甘美にすら身を包み込むだろう。
未来。
しかし、未来とは、本当にやってくるのだろうか?
明日という時間が、どうしてまぎれもなく自分のものだと信じられるのか?
なんの根拠もない。根拠もないが、しかし、単に信じる。
しかしだ。その、途方もなく、朧げな未来という奴があるおかげで、「悩み」が生じるのだ。
今こうして、夜も更けて、体も疲れた状態で、なお、書き続けること……それが、何故必要なのか。わからない。悩む。でも、これまでの経験上、僕は、今、書くことを選択する。他の様々なことよりも優先させて。
今日の記事は、正直分からない。ただ、分かりやすくするための努力はしよう。
分かりやすくするためには、何が必要なのか? ――素直さだ。
ええと、素直に書くと、疲れた。
疲れた……とは何か。疲れたという言葉を説明すると、「体のだるさ」と、「つまらなさ」と、「やる気の出なさ」である。
とにかく……こう、人とかかわることをできるだけ避けたいと思ってしまう。
親しい人だろうが、優しい女性だろうが、親だろうがなんだろうが、もうとにかく会いたくも話したくもない。
――なんでこう、人を怖がるのだろう?
怖い? 俺が? 人を? 何故?
てきとーに、「怖い」という表現を使ったら、案外しっくりきたのが不思議だが、しかし、別に怖いわけではない。ただ、「いらいら」させられる。
イライラとは何か? 疲れたとは違うのか?
うーん、ここら辺の内容は、もっと落ち着いたときに書いておくべきだ。
とにかく、この記事は、このどうしようもない感情というか気持ちを、できるだけ書き残しておこう、表現しておこうというものである。
そして、人を遠ざけたいという感覚……これが何でなんだろうということをもう少し掘り下げてみたい。
(かっこ書きである。全然まとまらないけど、体の方が限界である。寝よう。ああ、しかし、書き足りない。今日、早く帰られたのに、いらいらし過ぎて何も手につかなかった。そしたらウォーキングデッド見てしまった。またダラダラ2時間ぐらいみてしまったよ。うん、これはまず、絶対禁止しよう。昨日宣言したのに、まったく何やってんだか。……あ、もしかしたら、これもイライラの原因だったのかもしれない。……いや、それはちょっと違うな。そもそも見る前からイライラしてたし。だいたい、この「いらいら」って表現がそもそも気に食わないんだよな。イライラってなんだよほんと。もっとちゃんと表現しろよ、と思う。「てめーむかつくんだよ」的なこといってる人と変わらないじゃないか。「むかつく」っていわれても、具体的に何がどう気に食わないのかいわないと、コミュニケーションとしては失敗である。――いや、まぁ、「威圧」とか「恐怖による支配」という意味では役に立つのだろうけれども、そういう奴らがホント好きじゃない。ああ、そうだ、少し思い出したが、「利用される」というのが非常に気に食わない。が、しかし、「利用」という言葉がよくないけれども、「助け合う」というのと、根本的にはあまり違わないとは思う。問題は、そこに「人格」を認めているかどうかだ。人を人として扱ったうえで、「役に立ってもら」っているのかどうか、ということ。それを助けてもらう、というのか、利用している、というのか、もはや感覚の問題だ。ああ、もう、目が明かなくなってきから強制終了)
疲れた
どうして、こう、やること、なすこと、会う人、話す人、読んだり、聞いたり、――その他いろいろ、イライラさせられるのか。穏やかな気持ちでいたいと思いながら、ますますイライラを高めていく自分にさらにいらだつという悪循環である。
しかしこう……無気力だ虚無だと言っているのと比べて、イライラしている方がよほど人間的ではなかろうか……んなはずはない。まぁ、人間的かどうかは置いておいて、それが良いことだとは到底思えない。
とか言うと、「怒ったり、不満をぶちまけることも大切だよ!」なんてしたり顔で言われたりしたらもうさらにイライラは高まっていく。
じゃあ、お前、いったい、どうして欲しいんだよ? なんて言って欲しいんだ? どうやったら助けてあげられるんだ?
――放っておいて欲しい、のだろうと思う。
こう、なんだ、人との関わり合いはとても重要だと思いつつも、やっぱり、「疲れる」。
「話せばすっきりするさ!」
って言う方法だってあるんだろうが、どうにも性にあわない、のかもしれない。
矛盾注意報
おま、放っておいて欲しいとかいっておいて、ブログ書くのは何なんだ、と思う。なんなんだろうな。
――これは、自分との対話って面が強いと思う。特にこのイライラ対処は。
対話……というか、口論なり、言い争いなり、ケンカなりかもしれない。
抑えがたき自分の感情を、理性なる自分が調整しようとしているのかもしれない。
これが、他者との会話や関わりになると、「他者」という調整相手が増えるために、余計に疲れてしまうのかもしれない。
ニヒリズム
他者の言葉を受け入れられない、他者を認められない……というのは、反転した全許容のせいもある。自分の最初に印象というか、浮かんだ言葉を使うとわかりづらいが、要は、「人は人、己は己」という言説である。
これを突き詰めると、他者の考えは正しいけれども、そうじゃない考えもある、ということで、どこまでいっても相対主義や懐疑主義に陥る。
本当に正しいことって、必要なんじゃないか?
――そんなもの無い。とニーチェさんはいう。真理や神なんてのは、ルサンチマンを抱えた弱者がつくりあげた幻想蒙昧に過ぎないと。
――だから。真理なんてものは捨て去って、「力への意志」……つまり、欲望のなすところを目指せと。自分の感覚を信じろと。
人生は永遠回帰なのだと。
お前は、今のこの生活、この時間を、毎回毎回繰り返すのだ。すべての条件、すべての感情、すべての環境がそのまま繰り返される、終わりなきメリーゴーランドなのだと。
そうした人生において、お前は、今行おうとしていることを、この先、何度も何度も何度も何度も何度も繰り返すのだけれども、それでも、今お前は、その為そうとしていることを、やる気になるのか?
やる気になるのだとすれば、やればよい。
そうじゃないと思うのなら、やめたほうがよいだろう。
分かりやすい人生訓である
超人になれとニーチェさんは言うけれども、どうやったらなれるんだ、と。確かに、今なそうとしていることが、「永遠に繰り返されるとしても、それでもやるべきことか?」という問いかけは、力強さを思わせる。
ところが、その実践的側面を考えたときに、まずもって、人は自分の呼吸を意識するのも大変なのに、絶え間なく過ぎ去る時間と、空間(そして身体)の制約の中で、逐一の決断を本当に意識的に行えるのだろうか――いや無理である。
すべてを意識することは不可能である。――とはいいつつ、結構何度も試してみたことはある。より実践的に、24時間をセクション(ある単位ごと)に区切って、それぞれの時間帯に自分はどういった状態でどういった判断を行っているのか、明確に規定しようとしたり。
人間の行為行動は、必ずしもすべて意識下において行われるものではないので、無理な試みであった。それでも、無駄なこととは思わない。スケジュール管理なんて、その一端である。しかし、感情や悩みというものが存在する以上、常に明確な判断などできないのである。
悩むということ
判断が難しいのは、時間が未来に向かって常に流れ続けていることも一つ原因だ。時間の意識がなければ、実は判断は単純なのである。
今この瞬間の快をとるか、どうか、それだけだ。
しかし、人は、未来を想像する。
例えば、遅い時間に目の前の甘いプリンを食べることは、将来の健康に悪影響だろうが、いま・この瞬間においては、悩む必要などない。食べろ。そうして、背徳的な甘美にすら身を包み込むだろう。
未来。
しかし、未来とは、本当にやってくるのだろうか?
明日という時間が、どうしてまぎれもなく自分のものだと信じられるのか?
なんの根拠もない。根拠もないが、しかし、単に信じる。
しかしだ。その、途方もなく、朧げな未来という奴があるおかげで、「悩み」が生じるのだ。
今こうして、夜も更けて、体も疲れた状態で、なお、書き続けること……それが、何故必要なのか。わからない。悩む。でも、これまでの経験上、僕は、今、書くことを選択する。他の様々なことよりも優先させて。
わかりやすい記事にしよう
昨日の記事は、分かりやすかった。今日の記事は、正直分からない。ただ、分かりやすくするための努力はしよう。
分かりやすくするためには、何が必要なのか? ――素直さだ。
ええと、素直に書くと、疲れた。
疲れた……とは何か。疲れたという言葉を説明すると、「体のだるさ」と、「つまらなさ」と、「やる気の出なさ」である。
とにかく……こう、人とかかわることをできるだけ避けたいと思ってしまう。
親しい人だろうが、優しい女性だろうが、親だろうがなんだろうが、もうとにかく会いたくも話したくもない。
――なんでこう、人を怖がるのだろう?
怖い? 俺が? 人を? 何故?
てきとーに、「怖い」という表現を使ったら、案外しっくりきたのが不思議だが、しかし、別に怖いわけではない。ただ、「いらいら」させられる。
イライラとは何か? 疲れたとは違うのか?
うーん、ここら辺の内容は、もっと落ち着いたときに書いておくべきだ。
とにかく、この記事は、このどうしようもない感情というか気持ちを、できるだけ書き残しておこう、表現しておこうというものである。
そして、人を遠ざけたいという感覚……これが何でなんだろうということをもう少し掘り下げてみたい。
(かっこ書きである。全然まとまらないけど、体の方が限界である。寝よう。ああ、しかし、書き足りない。今日、早く帰られたのに、いらいらし過ぎて何も手につかなかった。そしたらウォーキングデッド見てしまった。またダラダラ2時間ぐらいみてしまったよ。うん、これはまず、絶対禁止しよう。昨日宣言したのに、まったく何やってんだか。……あ、もしかしたら、これもイライラの原因だったのかもしれない。……いや、それはちょっと違うな。そもそも見る前からイライラしてたし。だいたい、この「いらいら」って表現がそもそも気に食わないんだよな。イライラってなんだよほんと。もっとちゃんと表現しろよ、と思う。「てめーむかつくんだよ」的なこといってる人と変わらないじゃないか。「むかつく」っていわれても、具体的に何がどう気に食わないのかいわないと、コミュニケーションとしては失敗である。――いや、まぁ、「威圧」とか「恐怖による支配」という意味では役に立つのだろうけれども、そういう奴らがホント好きじゃない。ああ、そうだ、少し思い出したが、「利用される」というのが非常に気に食わない。が、しかし、「利用」という言葉がよくないけれども、「助け合う」というのと、根本的にはあまり違わないとは思う。問題は、そこに「人格」を認めているかどうかだ。人を人として扱ったうえで、「役に立ってもら」っているのかどうか、ということ。それを助けてもらう、というのか、利用している、というのか、もはや感覚の問題だ。ああ、もう、目が明かなくなってきから強制終了)
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