P.25 脇山
P.42 植草
彼らの思考をトレースしてみよう。
脇山君は、勉強という価値観を至上に考えている。しかし、時田君の、「君は女にもてない」という価値観によって、自己の価値観を揺さぶられる。薄々、自分でもそれに気づいていて、ルサンチマンを溜め込んでいるから、それに対してショックを受ける。そういう状態において、真理さんに弄ばれ、成績がガクッっと落ちる。
植草君は、黒川さんにフられる。何故かというと、「不幸ぶってる」からだという。黒川さんが貧血で苦しんでいるとき、それに気づいてあげられず、自分の思考の話をしていた。それは確かに、フられるに値する行為だろう。
さて、前提を書くのは疲れる。
心の痛点も偉大だが、体のそれは、もっと頑固だ。存在感がある。そのことを知り尽くした上で、思考に身を任せられる人間に出会ったら、ぼくは無条件に尊敬してしまうのだが。
これだ。
つまり、僕はこういう人間になりたいということ。
そしてこれが、このブログの趣旨というわけなのだ。
説明が必要だ。
まず、健康。これが無くては、死ぬことはできない。体の苦痛によって自死を選ぶのならば、それは単に、体の苦痛によって殺されたということになる。
まぁ本当は、孤独や不安といった感情から死を選ぶのも、本当の意味で自死とはいえないのかもしれない。
しかし、僕は別に、すべてに満足しつつも、それでもなお死を選ぼうというのではない。
僕は、このブログの終わりを、三つ考えている。
一つは、僕が死んだとき。
二つ目は、僕の求める承認が得られたとき。これについては、追々突き詰めていく必要があるだろう。
三つ目は、何らかの「生きがい」を得られたとき。
「生きがい」というのは、「これのためなら何があっても生きてやる」という強い信念のようなものだ。
だから、二つ目の「承認」が、例えば恋人や自分の子どもであれば、それは「生きがい」とも関連する。全く異なるものといえるのは、1だけだろう。
ただ、僕が死んだときというのも、二種類考えられる。一つは、偶発的な死。つまり事故だ。
もう一つは、満足した死。これは、自分の「幸せ」を達成する手段、または目的が即ち「死」だと、本当に確信できたときに行われるものだ。
上記のゴールにたどり着く手段として、このブログを書き綴っていこうと思う。それ以外の雑多なことは、他のブログか、mixiにでも書けばいい。
ブログに必要なのは、「テーマ性」だ。テーマを崩すということは、即ち、何も考えていないということになる。脱線はいい。それは新しい視点を与えてくれるものだ。そういう意味では、全くテーマと関係の無いことなど、ありえないのかもしれないが、例えば、今日の朝食は抜いてしまった、などということは、わざわざ書く必要は無いだろう。
取り敢えず、今日のところは以上。