今日の一言「死後の体液すごい」
「ザ・ノンフィクション」
よい作品だった。テレビ番組に「作品」というのは間違っているだろうか。内容が内容なので、「よい」というのは間違っているだろうか。いささかの言葉遣いに悩むよりも、書きたいと思ったこと、書かなければならないことを優先して書き進めたい。
ここ一年の間に、漫画で、同内容を取り扱った作品を読む機会があった。タイトルは忘れてしまったけれども、中々に興味深かった。
自殺や、孤独死した人の部屋の清掃を行う、「特殊清掃員」。死後、二週間足らずで、死体の腐敗は進み、悪臭が部屋の外まで流れ出す。死体はぐちゃぐちゃになって、体中の血液や汗やその他の体液は、カーペットや畳など当たり前で、床板もたやすく浸透し、家の基礎までしみわたっていく。
それらの影響範囲を瞬時に判断、確認し、特殊な道具や薬品で処置をしていく仕事である。
一般のテレビ番組で放映できる程度の編集がされているとはいえ、それでも、その現場の凄惨さは伝わってきた。
最近僕は、「面白いことないかなぁ」とか言っている。それは否定することではない、ただし、「死んでしまいたい」とか、「生きている意味が分からない」とか、そんな表現をする前に、よくよく、「死」について、考えてみたいと思う。
「つまんねぇなぁ」
という言葉を発する、その瞬間に、自分が、自分のいるこの部屋で、喉をかきむしって、胸をつまらせ呼吸困難に陥り、助けを呼ぼうと腕をあげながらフローリングに倒れ込む、その瞬間を、想像してみたらどうだろうか。
生きることも死ぬことも、その表現について、言葉が、軽くなってはいないだろうか。
感情を込めて言葉をつむいでいるか? よく自問自答したい。
表現的に、言葉の使い方など気にせず書き進めたい、と書いたけれども、その書きたいことは、「言葉を丁寧に使いたい」という思いである。
どういうことか。つまり、「生きる意味」とか、「生きているのがつまらねえ」とか、「一生独りでいいや」とか、そういった感覚を表す言葉について、よく考えて使いたいと思うということだ。
ただ、先日夜、帰宅の途を歩んでいるとき、「いや、やっぱりちがうな」と思った。
スポーツ観戦を、僕は否定するわけではない、と最初に書きながら、しかし、野球やサッカーを観るというのは、消費的エンタメ行為であると思う。
ボクシングを観戦するのは、「自分ではない誰か」が戦っているのに、血沸き肉踊らせるのである。スポーツチームの勝ち負けに一喜一憂するのは、その勝敗が、まさに自分の運命を左右するような何かであるかのように思い込むことである。
いや違う、そんな大そうなものではないのだ。単に、楽しきゃいい、なんか、ルールに従って人同士が対戦するのを、勝ち負けを観るのが楽しいのだ。それは、それ以上でも、それ以下でもない。
もう一度念のため書いておこう。スポーツ観戦を、僕は否定しているのではない(※)。同じスポーツを行う人たちの会話のタネにもなるだろうし、自分がスポーツをやるうえで、参考になることもあるだろう。
しかし、やっぱり、自分の「生き様」的な何かに影響を与えるようなエンターテイメントと、ただ現実的な問題の解決とは異なる次元において感情の恒常性(つまり落ち着きたいとか癒されたいとか)を求めるエンターテイメントとは、大きく異なるものに思える。
もちろん、創作するうえで、自分がどっちを目指すかなど、それを、最初から決める必要などないし、作り手と受け手との関係性からも、どっちになるかは分からないだろう。
しかし、エンターテイメントというものに、「生産的な何か」を求める人と、「癒し的な何か」を求める人と、両者は存在することだろう。
※「それじゃあ、自分が野球するわけでもないのに、どっかの球団の勝敗がとっても気になる人については否定しているのか」と問われると、そうかもしれない。
しかし、エンタメとはそもそも何だ?
人生とは、物語である。そして、それをどんな物語にするかは、自分の、自由意志に委ねられている。自由意志があるのか、ないのか、その疑問というか、問いというのも大事だけれども、現時点の僕の考えとしては、自由意志は「ある」としている。いやそもそも、じゃあ、「自由意志」って何だよ、という表現の無限遡及を回避するための、十分な定義をする紙面はここにはない。
法律の条文が難しい理由や、専門書が難しい理由は何だろうか。
それは、「定義」が緻密であるからだ。複雑な文章構造で、読解が難儀である文章であっても、驚くほど、その意味するところがシンプルだったりすることがある。それは、法律の条文や専門書は、厳密な、普遍的な表現を目指しているからである。
しかしそもそも、現実の「世界」は、「言葉」で区切れるものではない。
厳密な相互理解など、不可能である。しかし、お互いが「分かっている」という前提を共有することが、人間は可能である。その高度複雑化した体系的な決めごとが、「社会」であったり、法律であったりするのである。
その、「お互いが分かっている」というために必要なのが、「感情」という機能である(※)。
さて、じゃあ、改めて、エンタメとは何か。僕は、「物語」という語と同様に使っているのだ。
人生=物語=エンターテイメント
としているのだ。しかし、エンターテイメントとは、「娯楽」という訳である。変じゃないか? 娯楽とは、現実でメインでやることから外れた、余暇に行うことである。そんな定義は分かっているが、僕は、その「現実でメインでやること」というのが、そもそも、「生きることそのものじゃなかろうか」と思うのである。
※そういう意味で、「アイ・ロボット」や「エクス・マキナ」に登場するアンドロイドが、見た目が完全にロボット(アンドロイド)であるにも関わらず、その言わば不思議な「人格」(攻殻機動隊で言うところの「ゴースト」)を感じさせるところが面白い。
前述のテレビ番組においては、結局遺族が一度も訪れずに清掃費用50万ぐらいも支払いたくないと大家さんともめるケースもあれば、まだ清掃が完全に終わっていない現場にかけつけて、故人の想いでの品をみながら涙を流すケースもあった。
後者が感動的だった、というのはそうなのだけれども、僕はもう一つ思ったことがあった。
――家族がいようがいまいが、独り死ぬこともある。
そして、この記事の自分の文章を読み返してみて、「うーむ、面白くない」と思った。
何というか、何を言いたいのかよく分からない。Aか、Bか、それともCなのか、Aの否定をしたいのか、Bの否定をしたいのか、それによってCの肯定をしたいのか、よく分からない。
分からない、分からないを連発している記事が、面白くなる可能性があるのだろうか?
問題提起は重要だ。しかし、問題を提起したまま終わってしまえば、先日触れた、アイアムアヒーローの最終巻のような印象を与えることになるだろう。問題を提起したら、解決しなきゃならないのだ。それが「責任」である。
が。
そんな肩ひじ張って、真面目くさった感覚をもって書いていくと、そりゃあもう、面白くない。読んだ人は面白いと思う可能性があっても、自分はきっと、面白くないだろう。
僕が他者のブログで期待しているのは、「プロセス」である。
結果ではない。結果は分かっている。「幸せになっちまえよ!」で以上だ。
婚活で頑張っている人がいる。付き合っていた人に先立たれてしまった人がいる。子どもを失った人がいる。子どもが障害を抱えていた人がいる。不妊治療に苦しむ人がいる。難病を抱えている人がいる。孤独に押しつぶされそうになっている人がいる。いじめにあって苦しんでいる人がいる。貧困に喘いでいる人がいる――いろんな「物語」がある。
それらすべてに共通した結論、最終回、エンディングは何だろうか? ハッピーエンドになりやがれ、である。
僕がいつも思う、全世界の平和と幸福というのはそういうことだ。
だから、「〇〇したら●●になりました!」とかいう、結論が見えているブログに、価値を僕は求めていない。
ある方が言っていた言葉をふと思い出した。
「物語(小説など二次元の世界に限る。以下同じ)であれば、うだうだドロドロしたのを求めていないんです。そんなの、現実(僕らの物理環境に限る。以下同じ)で沢山溢れているじゃないですか。けれど、現実において、何かもがいているとか、必死になっているようなものは、ちょっと物語とは違って、面白いんですよね」
僕はこの記事において、物語、という言葉を、現実も含めて全部、物語である、と書いてきた。それは、二次元の物語でも、現実の物語でも、どちらも、終わりがあることには変わらないからだ。
けれども、上のある方の言葉における表現においては、二次元と現実の物語では決定的な差異がある。それは、その「終わり」を第三者として追体験できることである。時間軸を異なってみることができるということだ。
今まさに、物語の中に組み込まれているのが「現実」であり、物語を物語として俯瞰することができるのが、二次元の物語である、ということだ。
何だか、長くなってきたし、主旨が分かりにくくなってきたので、強制終了とする。
(続く)
特殊清掃員の仕事を見た
事故物件、大家さん、遺族とのいざこざ、死臭、孤独死、体液、しみ、床下まで浸透。「ザ・ノンフィクション」
よい作品だった。テレビ番組に「作品」というのは間違っているだろうか。内容が内容なので、「よい」というのは間違っているだろうか。いささかの言葉遣いに悩むよりも、書きたいと思ったこと、書かなければならないことを優先して書き進めたい。
ここ一年の間に、漫画で、同内容を取り扱った作品を読む機会があった。タイトルは忘れてしまったけれども、中々に興味深かった。
自殺や、孤独死した人の部屋の清掃を行う、「特殊清掃員」。死後、二週間足らずで、死体の腐敗は進み、悪臭が部屋の外まで流れ出す。死体はぐちゃぐちゃになって、体中の血液や汗やその他の体液は、カーペットや畳など当たり前で、床板もたやすく浸透し、家の基礎までしみわたっていく。
それらの影響範囲を瞬時に判断、確認し、特殊な道具や薬品で処置をしていく仕事である。
一般のテレビ番組で放映できる程度の編集がされているとはいえ、それでも、その現場の凄惨さは伝わってきた。
言葉を丁寧に使いたいと思った
孤独死をした人は、みな、玄関を向いているのだという。それは、苦しいから。苦しくて、もがいて、助けを求めようと、出口を求めるのである。しかし、力尽き、倒れる。最近僕は、「面白いことないかなぁ」とか言っている。それは否定することではない、ただし、「死んでしまいたい」とか、「生きている意味が分からない」とか、そんな表現をする前に、よくよく、「死」について、考えてみたいと思う。
「つまんねぇなぁ」
という言葉を発する、その瞬間に、自分が、自分のいるこの部屋で、喉をかきむしって、胸をつまらせ呼吸困難に陥り、助けを呼ぼうと腕をあげながらフローリングに倒れ込む、その瞬間を、想像してみたらどうだろうか。
生きることも死ぬことも、その表現について、言葉が、軽くなってはいないだろうか。
感情を込めて言葉をつむいでいるか? よく自問自答したい。
表現的に、言葉の使い方など気にせず書き進めたい、と書いたけれども、その書きたいことは、「言葉を丁寧に使いたい」という思いである。
どういうことか。つまり、「生きる意味」とか、「生きているのがつまらねえ」とか、「一生独りでいいや」とか、そういった感覚を表す言葉について、よく考えて使いたいと思うということだ。
でもつまらないもんはつまらない
話しが若干変わってしまうが、先日、「生産的エンタメも消費的エンタメもどっちもどうでもいい分類である」ということで、「そうかもしれないなぁ」と思った。ただ、先日夜、帰宅の途を歩んでいるとき、「いや、やっぱりちがうな」と思った。
スポーツ観戦を、僕は否定するわけではない、と最初に書きながら、しかし、野球やサッカーを観るというのは、消費的エンタメ行為であると思う。
ボクシングを観戦するのは、「自分ではない誰か」が戦っているのに、血沸き肉踊らせるのである。スポーツチームの勝ち負けに一喜一憂するのは、その勝敗が、まさに自分の運命を左右するような何かであるかのように思い込むことである。
いや違う、そんな大そうなものではないのだ。単に、楽しきゃいい、なんか、ルールに従って人同士が対戦するのを、勝ち負けを観るのが楽しいのだ。それは、それ以上でも、それ以下でもない。
もう一度念のため書いておこう。スポーツ観戦を、僕は否定しているのではない(※)。同じスポーツを行う人たちの会話のタネにもなるだろうし、自分がスポーツをやるうえで、参考になることもあるだろう。
しかし、やっぱり、自分の「生き様」的な何かに影響を与えるようなエンターテイメントと、ただ現実的な問題の解決とは異なる次元において感情の恒常性(つまり落ち着きたいとか癒されたいとか)を求めるエンターテイメントとは、大きく異なるものに思える。
もちろん、創作するうえで、自分がどっちを目指すかなど、それを、最初から決める必要などないし、作り手と受け手との関係性からも、どっちになるかは分からないだろう。
しかし、エンターテイメントというものに、「生産的な何か」を求める人と、「癒し的な何か」を求める人と、両者は存在することだろう。
※「それじゃあ、自分が野球するわけでもないのに、どっかの球団の勝敗がとっても気になる人については否定しているのか」と問われると、そうかもしれない。
エンタメの語がそもそもブレている
そもそも、「ザ・ノンフィクション」的なテレビ番組を、「エンターテイメント」と僕は今表現しているわけだけれども、それが間違っていると言われたら、そうかもしれん。しかし、エンタメとはそもそも何だ?
人生とは、物語である。そして、それをどんな物語にするかは、自分の、自由意志に委ねられている。自由意志があるのか、ないのか、その疑問というか、問いというのも大事だけれども、現時点の僕の考えとしては、自由意志は「ある」としている。いやそもそも、じゃあ、「自由意志」って何だよ、という表現の無限遡及を回避するための、十分な定義をする紙面はここにはない。
法律の条文が難しい理由や、専門書が難しい理由は何だろうか。
それは、「定義」が緻密であるからだ。複雑な文章構造で、読解が難儀である文章であっても、驚くほど、その意味するところがシンプルだったりすることがある。それは、法律の条文や専門書は、厳密な、普遍的な表現を目指しているからである。
しかしそもそも、現実の「世界」は、「言葉」で区切れるものではない。
厳密な相互理解など、不可能である。しかし、お互いが「分かっている」という前提を共有することが、人間は可能である。その高度複雑化した体系的な決めごとが、「社会」であったり、法律であったりするのである。
その、「お互いが分かっている」というために必要なのが、「感情」という機能である(※)。
さて、じゃあ、改めて、エンタメとは何か。僕は、「物語」という語と同様に使っているのだ。
人生=物語=エンターテイメント
としているのだ。しかし、エンターテイメントとは、「娯楽」という訳である。変じゃないか? 娯楽とは、現実でメインでやることから外れた、余暇に行うことである。そんな定義は分かっているが、僕は、その「現実でメインでやること」というのが、そもそも、「生きることそのものじゃなかろうか」と思うのである。
※そういう意味で、「アイ・ロボット」や「エクス・マキナ」に登場するアンドロイドが、見た目が完全にロボット(アンドロイド)であるにも関わらず、その言わば不思議な「人格」(攻殻機動隊で言うところの「ゴースト」)を感じさせるところが面白い。
生きているから生きている
現実……仕事、と言い換えても良いが、仕事と余暇という対比は、あまり重要性をもたない。(少なくても僕にとっては。そして、今後の社会や人々にとっても、恐らくは。)前述のテレビ番組においては、結局遺族が一度も訪れずに清掃費用50万ぐらいも支払いたくないと大家さんともめるケースもあれば、まだ清掃が完全に終わっていない現場にかけつけて、故人の想いでの品をみながら涙を流すケースもあった。
後者が感動的だった、というのはそうなのだけれども、僕はもう一つ思ったことがあった。
――家族がいようがいまいが、独り死ぬこともある。
しばらく経って
ある方のブログを読んで、「文章力がすごい」と思った。「読ませる文章」だと思った。そして、この記事の自分の文章を読み返してみて、「うーむ、面白くない」と思った。
何というか、何を言いたいのかよく分からない。Aか、Bか、それともCなのか、Aの否定をしたいのか、Bの否定をしたいのか、それによってCの肯定をしたいのか、よく分からない。
分からない、分からないを連発している記事が、面白くなる可能性があるのだろうか?
問題提起は重要だ。しかし、問題を提起したまま終わってしまえば、先日触れた、アイアムアヒーローの最終巻のような印象を与えることになるだろう。問題を提起したら、解決しなきゃならないのだ。それが「責任」である。
が。
そんな肩ひじ張って、真面目くさった感覚をもって書いていくと、そりゃあもう、面白くない。読んだ人は面白いと思う可能性があっても、自分はきっと、面白くないだろう。
僕が他者のブログで期待しているのは、「プロセス」である。
結果ではない。結果は分かっている。「幸せになっちまえよ!」で以上だ。
婚活で頑張っている人がいる。付き合っていた人に先立たれてしまった人がいる。子どもを失った人がいる。子どもが障害を抱えていた人がいる。不妊治療に苦しむ人がいる。難病を抱えている人がいる。孤独に押しつぶされそうになっている人がいる。いじめにあって苦しんでいる人がいる。貧困に喘いでいる人がいる――いろんな「物語」がある。
それらすべてに共通した結論、最終回、エンディングは何だろうか? ハッピーエンドになりやがれ、である。
僕がいつも思う、全世界の平和と幸福というのはそういうことだ。
だから、「〇〇したら●●になりました!」とかいう、結論が見えているブログに、価値を僕は求めていない。
ある方が言っていた言葉をふと思い出した。
「物語(小説など二次元の世界に限る。以下同じ)であれば、うだうだドロドロしたのを求めていないんです。そんなの、現実(僕らの物理環境に限る。以下同じ)で沢山溢れているじゃないですか。けれど、現実において、何かもがいているとか、必死になっているようなものは、ちょっと物語とは違って、面白いんですよね」
僕はこの記事において、物語、という言葉を、現実も含めて全部、物語である、と書いてきた。それは、二次元の物語でも、現実の物語でも、どちらも、終わりがあることには変わらないからだ。
けれども、上のある方の言葉における表現においては、二次元と現実の物語では決定的な差異がある。それは、その「終わり」を第三者として追体験できることである。時間軸を異なってみることができるということだ。
今まさに、物語の中に組み込まれているのが「現実」であり、物語を物語として俯瞰することができるのが、二次元の物語である、ということだ。
何だか、長くなってきたし、主旨が分かりにくくなってきたので、強制終了とする。
(続く)
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今日の一言「いきなりド暗い話をしたい」「聞きたくない」
サキちゃんが、最初ツンツンしているが、しんちゃんの開けっぴろげでアホで、それでいて温かい接し方により、徐々に心を開いていくのが良かった。きゅんとなった。描き方が上手い。ストーリーとか、キャラクターメイキングというのはこうじゃなきゃダメだ。
子供向け作品(全年齢対象)のため、ある意味安心して、「お約束」としてみることができるから、少し落ち着いた気分の時に見るのはいい。
いつもは、父ちゃんのヒロシさんがカッコいい場面が多い映画だけれど、今回は、母ちゃんのみさえさんが超かっこよかった。子どもを思う母の愛って、いいもんだなぁ。
一般的な話はおいておいて、とにかくここに、学生時代にいじめにあって、友達に裏切られて、誰も助けてくれなくて、孤立して寂しく哀しい学校生活(幼稚園生活でもいいが)を送った人を考えてみよう。
その人にとって、クレヨンしんちゃんの、愛とか友情という作品は、心をうつのだろうか?
一概には言えない。
仮定1)「俺は、こんな助けてくれる友達なんていなかった。それどころか、裏切られた。でも、もし、こんなしんちゃんのような友達がいたら、人生かわっていたかもしれない。そうだ、今からでも遅くない。もう一度、頑張ってみよう」
仮定2)「俺は、こんな助けてくれる友達なんていなかった。それどころか、裏切られた。こんな、苦しいとき、困ったときに助けてくれる友達、人なんて、所詮はアニメの世界でしかありえない。俺の人生はどうせこの先も真っ暗だ。一人で生きていくしかないんだ。つまんねぇ。みんな死ね」
と、どちらの感情が発生するかは、非常に繊細な問題だ。そのときのちょっとした環境や、タイミング、その人の性格傾向、もしくは血液型とかそんな占いチックな影響によっても変わってしまうかもしれない。
だから、どっちが正しいとか、そういう傾向があるとか、そういった一般的な話、科学的な話をするつもりはない。
ただし、仮定1でも、仮定2でも、共通していることがある。何か。
「友情」
自体は、とても素晴らしいものであると、認めていることである。
仮定2は、確かに、自暴自棄になっている。しかし、それでも、もし、万が一、何かの因果で、自分にも助けてくれる友達があらわれたなら、どんなに良かっただろうと、そんな思いが発生しているのである。
ここで、仮定3として、そもそもそういった友情とか愛とかを一切感じない、思わない人というのも想定してもいいが、それは所謂「サイコパス」という存在であり、この次元の話しをするときは、別個にした方がいいだろう。
二次元、三次元、リアル、ネット、の違いがあっても、僕は、その違いにさほど興味がないというか、重要性を思っていない。この感覚が、そもそも、ふつうのひとと、相容れない場合があるけれども、たぶん、説明が足りていないだけな気がする。
昔から、ドラマにはまる人はいたわけだけれども、アニメにはまる人に対しては気持ち悪いという感情を抱く時代があった。三次元の映像はよくて、二次元の映像はよくない、というのは、いささか不自然に思う。じゃあ文字媒体の小説とかで、頭の中で想像を膨らませるのはどうなんだ? むっつりスケベじゃないのか? いやそもそも、ドラマだって、テレビ筐体の中での物語であれば、所詮は二次元でしかない。
とにかく、物語ってのは、人に、生き方を与えてくれるものである。
本当に、何もなく、一から、生き方を構築できる人など、いない。ただし、広義の二次元の物語に頼らない人もいる。昔はみんなそうだった。親や、会社や、友人や、夫婦関係、その関係性において、「物語」を学んでいった。
いまは、いろんなところで、物語を学ぶことができる。
人生は、物語である。
正解がない物語だ。しかし、終わりは必ずやってくる。
人生は、クソゲーだともいわれる。
そうかもしれない。イケメンはそれだけで得をするかもしれない。
同じことを言っても、信頼性が変わったりする。
僕はよく、イケメンブサメンを例に挙げるけれども、最近読ませて頂いているブログさんでは、学歴についてよく取りあげられている。それもきっと関係すると思う。
金もそうだ。僕と同じ歳のブログさんで、4000万円近い資産を、投資努力の末手にしている方もいる一方、貧乏な人もいるだろう。そういった人は、お金がある人をうらやむ。
いじめられた経験がある人もいるだろう。性的虐待をうけたとか、トラウマがある人もいるだろう。
きりがねーよ。
他者と比べることの無意味さは、俺はとことん思う。思いながら、ネトゲなり、創作活動なり、なんでもそうだが、スゲー人はこの世にいっぱいいるから、やる気をなくしてしまうことは往々にしてあるんだけど、まぁ、それはおいておく。
とにかく、自分の「いい!」と思う感性を、ずっと、磨き続けて欲しいと思う。
大人になったら、嫌なことも無理してでも、耐えたり、頑張ったりすることも必要だ、時には。それでも、いやむしろ、そのことを、「いやだ!」「めんどい!」と思うなら、それはそれで、大切な感情であると、しっかりインプットして欲しい。その嫌だ、めんどい、という思いから、大事なことが何か分かることだってあるのだから。
そういったことをせずに、「我慢」とか、「真面目」とかして生きてくると、俺みたいに、「何が面白いのか分からねえ」とか、「生きる意味って何なんだろう」とかなる。
これはとっても哀しいことだ。是非、若い皆さんは、そんなことにならないように、「自分」ってものを大切にして欲しい。
つーか、意味のない啓蒙である。我慢とか、真面目とかで、今現に生きている人たちは少なからずいるわけだが、その人たちにとって、それが「正」、正しいことなのだから、「真面目にやんなくていいよ」という掛け声は、単に堕落の象徴に過ぎないのである。
だからこそ、僕が常日頃書いている、「反転したポジティブ」というのが大事になるのだけれども、まぁ、これも上手い具合に伝えられる自信がない。というか、そんなことを欲している人が誰なのか、分からん。いるのかどうかも、分からん。ただ、少なくても、ひとりだけはいるから、こうして書いているのだけれどもな。
因みに最後に。
テーマとか、主張が一貫しているブログさんは、やっぱり面白いのだけれど、そうではない、矛盾したことを言ったり書いたりしているブログさんでも、面白い場合がある。
ただ、その場合は、そのブログ主さんが、自分が二律背反的なことを言ったりしていることに自覚的であることが必要条件である。
無自覚に、矛盾したことをさも当然のごとく書き続けられる人は、それは精神錯乱者か、詐欺師である。
僕はどうだろうか。
過去の記事から読んでいくと、取り巻く環境や、興味の対象などは違うけれども、しかし、結節点になるような事柄は、変わっていないような気がする。
でも、変わっている部分もある気がする。その差分が、今後の「面白いこと」「良いと感じること」を見つけていく上で、大事なような気がするけれども、膨大なテキストの中から探していくのは、至難の業である。
(といったところから、物語の大切さについて書きたいところだが、時間切れ、というか、眠い)
ユメミーワールドを見た
クレヨンしんちゃんの映画、「ユメミーワールド」を見た。面白かった。サキちゃんが、最初ツンツンしているが、しんちゃんの開けっぴろげでアホで、それでいて温かい接し方により、徐々に心を開いていくのが良かった。きゅんとなった。描き方が上手い。ストーリーとか、キャラクターメイキングというのはこうじゃなきゃダメだ。
子供向け作品(全年齢対象)のため、ある意味安心して、「お約束」としてみることができるから、少し落ち着いた気分の時に見るのはいい。
いつもは、父ちゃんのヒロシさんがカッコいい場面が多い映画だけれど、今回は、母ちゃんのみさえさんが超かっこよかった。子どもを思う母の愛って、いいもんだなぁ。
暗い話に反転する
ところで、皆さんはいじめ、というのをどう思うだろうか? よくないことだ、と口をそろえて言うだろう。しかし、実際問題、自分も加害者になったり、被害者になったりする可能性は、特に閉鎖空間の学生生活においては大きいのである。一般的な話はおいておいて、とにかくここに、学生時代にいじめにあって、友達に裏切られて、誰も助けてくれなくて、孤立して寂しく哀しい学校生活(幼稚園生活でもいいが)を送った人を考えてみよう。
その人にとって、クレヨンしんちゃんの、愛とか友情という作品は、心をうつのだろうか?
一概には言えない。
仮定1)「俺は、こんな助けてくれる友達なんていなかった。それどころか、裏切られた。でも、もし、こんなしんちゃんのような友達がいたら、人生かわっていたかもしれない。そうだ、今からでも遅くない。もう一度、頑張ってみよう」
仮定2)「俺は、こんな助けてくれる友達なんていなかった。それどころか、裏切られた。こんな、苦しいとき、困ったときに助けてくれる友達、人なんて、所詮はアニメの世界でしかありえない。俺の人生はどうせこの先も真っ暗だ。一人で生きていくしかないんだ。つまんねぇ。みんな死ね」
と、どちらの感情が発生するかは、非常に繊細な問題だ。そのときのちょっとした環境や、タイミング、その人の性格傾向、もしくは血液型とかそんな占いチックな影響によっても変わってしまうかもしれない。
だから、どっちが正しいとか、そういう傾向があるとか、そういった一般的な話、科学的な話をするつもりはない。
ただし、仮定1でも、仮定2でも、共通していることがある。何か。
「友情」
自体は、とても素晴らしいものであると、認めていることである。
仮定2は、確かに、自暴自棄になっている。しかし、それでも、もし、万が一、何かの因果で、自分にも助けてくれる友達があらわれたなら、どんなに良かっただろうと、そんな思いが発生しているのである。
ここで、仮定3として、そもそもそういった友情とか愛とかを一切感じない、思わない人というのも想定してもいいが、それは所謂「サイコパス」という存在であり、この次元の話しをするときは、別個にした方がいいだろう。
物語の効用
何が言いたいか。エンターテイメントにおける物語も、政治信条による物語も、イデオロギーによる物語も、ゲームによる物語も、ハイファンタジーも、科学による物語も、結婚制度による物語も、テレビ番組による物語も、すべて、物語である。二次元、三次元、リアル、ネット、の違いがあっても、僕は、その違いにさほど興味がないというか、重要性を思っていない。この感覚が、そもそも、ふつうのひとと、相容れない場合があるけれども、たぶん、説明が足りていないだけな気がする。
昔から、ドラマにはまる人はいたわけだけれども、アニメにはまる人に対しては気持ち悪いという感情を抱く時代があった。三次元の映像はよくて、二次元の映像はよくない、というのは、いささか不自然に思う。じゃあ文字媒体の小説とかで、頭の中で想像を膨らませるのはどうなんだ? むっつりスケベじゃないのか? いやそもそも、ドラマだって、テレビ筐体の中での物語であれば、所詮は二次元でしかない。
とにかく、物語ってのは、人に、生き方を与えてくれるものである。
本当に、何もなく、一から、生き方を構築できる人など、いない。ただし、広義の二次元の物語に頼らない人もいる。昔はみんなそうだった。親や、会社や、友人や、夫婦関係、その関係性において、「物語」を学んでいった。
いまは、いろんなところで、物語を学ぶことができる。
人生のマイナス要素
このように、「物語」を、こういった文脈で用いていくと、単に、エンターテイメントの物語を指しているのではないことが分かるだろう。人生は、物語である。
正解がない物語だ。しかし、終わりは必ずやってくる。
人生は、クソゲーだともいわれる。
そうかもしれない。イケメンはそれだけで得をするかもしれない。
同じことを言っても、信頼性が変わったりする。
僕はよく、イケメンブサメンを例に挙げるけれども、最近読ませて頂いているブログさんでは、学歴についてよく取りあげられている。それもきっと関係すると思う。
金もそうだ。僕と同じ歳のブログさんで、4000万円近い資産を、投資努力の末手にしている方もいる一方、貧乏な人もいるだろう。そういった人は、お金がある人をうらやむ。
いじめられた経験がある人もいるだろう。性的虐待をうけたとか、トラウマがある人もいるだろう。
きりがねーよ。
他者と比べることの無意味さは、俺はとことん思う。思いながら、ネトゲなり、創作活動なり、なんでもそうだが、スゲー人はこの世にいっぱいいるから、やる気をなくしてしまうことは往々にしてあるんだけど、まぁ、それはおいておく。
とにかく、自分の「いい!」と思う感性を、ずっと、磨き続けて欲しいと思う。
大人になったら、嫌なことも無理してでも、耐えたり、頑張ったりすることも必要だ、時には。それでも、いやむしろ、そのことを、「いやだ!」「めんどい!」と思うなら、それはそれで、大切な感情であると、しっかりインプットして欲しい。その嫌だ、めんどい、という思いから、大事なことが何か分かることだってあるのだから。
そういったことをせずに、「我慢」とか、「真面目」とかして生きてくると、俺みたいに、「何が面白いのか分からねえ」とか、「生きる意味って何なんだろう」とかなる。
これはとっても哀しいことだ。是非、若い皆さんは、そんなことにならないように、「自分」ってものを大切にして欲しい。
アンビバレンス
とか、啓発的に書いてみるなんて、がらじゃねえか。つーか、意味のない啓蒙である。我慢とか、真面目とかで、今現に生きている人たちは少なからずいるわけだが、その人たちにとって、それが「正」、正しいことなのだから、「真面目にやんなくていいよ」という掛け声は、単に堕落の象徴に過ぎないのである。
だからこそ、僕が常日頃書いている、「反転したポジティブ」というのが大事になるのだけれども、まぁ、これも上手い具合に伝えられる自信がない。というか、そんなことを欲している人が誰なのか、分からん。いるのかどうかも、分からん。ただ、少なくても、ひとりだけはいるから、こうして書いているのだけれどもな。
因みに最後に。
テーマとか、主張が一貫しているブログさんは、やっぱり面白いのだけれど、そうではない、矛盾したことを言ったり書いたりしているブログさんでも、面白い場合がある。
ただ、その場合は、そのブログ主さんが、自分が二律背反的なことを言ったりしていることに自覚的であることが必要条件である。
無自覚に、矛盾したことをさも当然のごとく書き続けられる人は、それは精神錯乱者か、詐欺師である。
僕はどうだろうか。
過去の記事から読んでいくと、取り巻く環境や、興味の対象などは違うけれども、しかし、結節点になるような事柄は、変わっていないような気がする。
でも、変わっている部分もある気がする。その差分が、今後の「面白いこと」「良いと感じること」を見つけていく上で、大事なような気がするけれども、膨大なテキストの中から探していくのは、至難の業である。
(といったところから、物語の大切さについて書きたいところだが、時間切れ、というか、眠い)
今日の一言「通常記事は久しぶり」「おバカな記事だって難しいよ」
そんな方々がよく利用しているアメーバブログというメディア。
ぶっちゃけた、正直ベースな感想とすると、中身が薄い!!!
と、思うのだけれども、でも、適度な改行だったり、写真の貼り方だったり、絵文字とか顔文字とか記号の使い方だったり、歯切れの良い短文だったり、いざ真似すると難しかったりする。
問題は、……
今日はお仕事がんばったぞ♪
久佐嘉さん(仮名)にも褒められたし!
よーし、明日も私ふぁいとぉ~★
[自撮り写真]
とか、僕はとくに目指したいと思わないということ、および、そもそも誰もそんなの求めてない!
……のだけれども、じゃあ、僕の「イライラ対処」記事とか、それって、結局、何ら変わらないんじゃないかなぁとも思ったりする。
結局、アメブロとか、副収入目当てなのかもしれないけれども、大勢が見てくれるということ、承認欲求とか、目立ちたいとか、ちやほやされたいというそういった欲求を満たすための媒体の一躍も担っているのではないかと思う。
その点、僕も、やっぱり、認められたリ、共感してもらえるってのは、すごく嬉しいことだと思う。
だから、芸能人、その他の有名人の人のブログも、いわゆるダメブロ界の人たちのブログも、同じブログというメディアを使っている仲間なんだ!!
ただ、一日、一日を、大切に生きたいとは思う。特に最近は、「ああ、生きていて良かったなぁ」って思ったりする。本気で思っているのか分からないけれども、取りあえず、ひとりでいるときは、例えば朝起きたときとか、口に出して言うようにしている、というよりも、自然にそんな言葉が発せられる。
で、まぁ、その、「寂しい」って感情。
あんまり、ない。
あんまり、というと、やっぱりあるのかもしれないが、そこら辺は、よく分からない。
よく分からないけれども、最近、本をぱらぱらと読めるようになってきた。
やっぱり、本は、面白いと思う。読んだあとに、特段、語れることがあんまりないんだけど、直喩と隠喩について、とか。直喩の方が、「●●のようだ」という説明的で、隠喩の方が一見、ウィットがきいているというか、ハッとさせられるような表現である、とみなされがちだ。
直喩例)彼の勇敢さはライオンのようだ。
隠喩例)彼はライオンだ!
けれども、それはあくまで、直喩と、隠喩を対比してみるから、「隠喩いいね!」となるだけであって、いきなり、
ライオンだ!
といったら、なんのこっちゃ、となる。
小説とかで有効なのは、そのシーンにおいて、決してサバンナにいるわけでも、動物園にいるわけでもなく、ごくごく日常生活のなかで、「俺、ちょっと店長にかけあってみますよ」とかバイトくんが言ったときに、「かっこいい! ライオンだ!」みたいに使うと、あー、隠喩なんだなぁ、って分かるということだ。
だからなんだ。
取りあえず、10回分と考えると、2か月半後ぐらい分である。そうすると、6月ぐらいだ。今が3月で、6月。
あー、長いようで、短いような。
そう考えると、ほんっと、人生短いっすなぁ。取りあえず目標の半年間を達成するには、9月ぐらいまで続けることになる。そこまでに完結させられるだろうか。きっと、10万字も到達しないだろう。ちなみに、文庫本程度は10万字ぐらいであるということである。
1年に、一作品つくっていくにしても、40歳までに10個いけるかどうか。
80歳で死ぬとして、40作品つくれるかどうか。
そう考えると、もう既に、何作品も完結した作品をつくられている方々って、すげーなーと思う。
ちょっと上から目線と言うか、小ばかにするような表現をこれからすることになるが、最近は本気で、中学生レベルの文章表現力しかなくても、ちゃんとストーリーつくって完結した作品を書ける人ってすごいなと思う。
何というか、表現力は、後から身に着けてもいいと思う……し、やっぱり、ストーリーメイキングできる能力ってのは、ある意味才能なのかなぁとも思う。
どんなに素晴らしい作品に触れて摂取しても、それを、自分の物語として再構成して、表現するってのは、やっぱりどこか、違うことだと思う。よくない例えしか今思い浮かばないが、人を殺したいと思うのは誰でもあるが、実際に殺すのとは大きな乖離があるように。
こう、その、「冷めた観方」みたいなのがかっこいいと思っているわけでは、決してないのだが、どっかしらその、ベルトコンベアーに乗り損ねた商品みたいな気分になるのはどうしてなのか。
例えば、ある精神科医の先生の「認められたい」という承認・所属欲求が、僕に足りない、という診断があったとして。ヴィクトールさんの人間は創造・体験・態度の三つの価値を追究していかねばならないと発破をかけられたとして。
俺は、何か、うまーく表現できないのだが、その「いきづらさ」か何か、表現できたとして、概念化できたとして、じゃあ、それで問題が解決するのかどうか、と思う。
苦しい理由、というものを、言語化できたとして、それが解決するかどうか。もちろん、発達障害やら学習障害やらADHDやら、その診断がついたことにより、「ああ、やっぱり、そうだったんだ」という安心感のようなものが得られる人もいることだろう。ただ、結局、問題はそこからの人生であることには違いない。ようやくスタートラインにたったようなものではなかろうか。
言語、とは、記号である。
無限の世界を、分類することである。モノ・コトに、延々、名前をつけていっても、終わりはない。
だから、僕が、いくら、僕のことを、こうしてブログに書いていっても、100記事、1000記事、10000記事になろうが、「僕」という表現は、完結しないのである。
これについて、「自分」が常に変化しているからである、とコメント頂いたわけであるが、この指摘は非常に鋭くて僕の魂魄に突き刺さった。
ただし、その観点とは別に、そもそも、表現できることに限りはないのである。自分というものを正確に完璧に表現できる言語など、存在しえないのである。
……という面からも、他者との完全理解というのは不可能である、という僕は立場というか、考え方をもっているわけだけれども、この考え方が役に立つかと言うと、気休め程度の役にもたちゃあしない! だからなんだって、話。いやぁ、だからこそ、ちょっとでも、「分かり合えた!」「共感した!」という感覚が重要だし、大切なんだよ、という教訓にはなるかもしれない。分かり合えるというのは難しいことなんだから、ちゃんとコミュニケーションとらなきゃならんのだよ、という教訓にはなるかもしれない、ただ、その程度だ。
ただ、表現に限りが無いのであれば、やっぱり、「絶対ポジティブ思考」であるべきだと、僕は思う。
満たされているなぁ、幸せだなぁ、感謝でいっぱいだなぁ、嬉しいなぁ。
おぅ、どうした? アップ系の薬でもやったんか? と思うようだが、それでもやっぱり、楽天・楽観的であることが、大切な気がする。
と、わざわざ書く時点で、僕は、そういう性格ではないのだろう。本当の楽天的な人は、そんなこと自体考えないのではあるまいか。
んー、でも、いーんじゃないか、と思う(何が?)。その、色んな人がいていーんじゃないの、と思う。毎日のように、愚痴をSNSやらブログに書き散らしているような人もいる。何年も、「あー、俺はダメな奴なんだ、死んだ方がいいんだ」と書きながら、取りあえず生きている人もいる。「孤独でもいーんすよ」という人もいる。「働きたくないでござる」と言い続けている人もいる。
いーんじゃないか、と思う。
ただ、みんな、取りあえず、幸せになったらいいんじゃないか、と思う。
え、ひとごと? お前は?
俺は……よく分からん。
何だろ、幸せっちゃあ幸せだろうし、「リア充爆発しろ!」と思えば不幸な気もする。ただ、どっちでもいい気がしている。
前も書いた気がするけれども、そもそも、「幸せ」とか「ポジティブ」という言語表現にとらわれている時点で、既に罠にはまっている。
幸せ、ポジティブなんてのは、相対的な概念であり、その言葉に意味を注入できるとすれば、それは、「実感」に他ならんわけだ。
で、逆に書けば、「実感」があれば、別に「あー幸せだなぁ~」なんてしみじみ言う必要なんてないわけだ。
物語って、新学力とかエンプロイアビリティなんてビジネス的な表現すれば、問題解決能力だと思う。
問題。課題。困難。ハードル。軋轢。葛藤。
ひっくるめていろーんな問題があって、それにどう対処していくのか、というのが、すべての物語の基本ストーリーである。
日常ほのぼの系作品にそんなもんないのでは? という指摘もありそうだが、いや、そんなことぁーない。日常の、ほのぼのとした課題などが描かれているはずだ、よく観察してみるといい。
ここでいう問題は、社会問題だとか、異性問題だとか、その問題の大小を言うのではない。
自分で設定した問題について、逃げずに立ち向かって何らかの答えを出していくという作業、それが「物語」なのである。
ドラゴンクエストでは、悪い魔王が街を荒らしている、このままでは世界が滅びてしまう、戦え勇者たちよ! 的な問題解決である。
ライトノベル的な異世界転生や転移でも、人生やり直すぞ!とか、元の世界に帰らなきゃ!的な問題解決である。
学園ものでもそうだ。いじめられたり、モテなかったり、勉強できなかったり、スクールカーストの底辺でもがく……問題解決である。
この、問題解決能力が、生きていく上で、大切なことだと思う。イデオロギーも、宗教も希薄化した現代においては、特にそうなんじゃなかろうか。
そして、もう少し踏み込んで考えると、この問題解決能力とは、「解決力」が重要ではなく、「問題設定力」が重要なんじゃなかろうか。
適切な問題を設定して、それを解決していくという人生の繰り返しが、即ち、充実感だとか幸福感だとかに繋がるんじゃなかろうか。
とかって、こうやって考えている最中は結構楽しかったりするのだが、考えれば考えるほど、その結論的なものが、どうにも、矮小だったり脆弱だったり、くだらないもののように思えてくるというこの病気について、是非命名したい。
あー、やっぱり、中二病とか、高二病とか大二病的なのになるんかな。
俺って、「ふつーの人」とちょっと違うことを考えられますよ(キリッ)的なやつをあざ笑う、その様をさらに思って自嘲して……という、無限ループ的な。
(あー、何か、面白いこと書きたい)
芸能人のブログ
芸能人とか、歌手とか、有名な人、知識人とか、とにかくテレビとかに出てる人たち。そんな方々がよく利用しているアメーバブログというメディア。
ぶっちゃけた、正直ベースな感想とすると、中身が薄い!!!
と、思うのだけれども、でも、適度な改行だったり、写真の貼り方だったり、絵文字とか顔文字とか記号の使い方だったり、歯切れの良い短文だったり、いざ真似すると難しかったりする。
問題は、……
今日はお仕事がんばったぞ♪
久佐嘉さん(仮名)にも褒められたし!
よーし、明日も私ふぁいとぉ~★
[自撮り写真]
とか、僕はとくに目指したいと思わないということ、および、そもそも誰もそんなの求めてない!
……のだけれども、じゃあ、僕の「イライラ対処」記事とか、それって、結局、何ら変わらないんじゃないかなぁとも思ったりする。
結局、アメブロとか、副収入目当てなのかもしれないけれども、大勢が見てくれるということ、承認欲求とか、目立ちたいとか、ちやほやされたいというそういった欲求を満たすための媒体の一躍も担っているのではないかと思う。
その点、僕も、やっぱり、認められたリ、共感してもらえるってのは、すごく嬉しいことだと思う。
だから、芸能人、その他の有名人の人のブログも、いわゆるダメブロ界の人たちのブログも、同じブログというメディアを使っている仲間なんだ!!
人との繋がり
あー、その、何を言いたいんだろう。よく分からないんだなぁ、最近……いや、別に最近でもなく、ここずっと、何年もそんな感じかもしれない。ただ、一日、一日を、大切に生きたいとは思う。特に最近は、「ああ、生きていて良かったなぁ」って思ったりする。本気で思っているのか分からないけれども、取りあえず、ひとりでいるときは、例えば朝起きたときとか、口に出して言うようにしている、というよりも、自然にそんな言葉が発せられる。
で、まぁ、その、「寂しい」って感情。
あんまり、ない。
あんまり、というと、やっぱりあるのかもしれないが、そこら辺は、よく分からない。
よく分からないけれども、最近、本をぱらぱらと読めるようになってきた。
やっぱり、本は、面白いと思う。読んだあとに、特段、語れることがあんまりないんだけど、直喩と隠喩について、とか。直喩の方が、「●●のようだ」という説明的で、隠喩の方が一見、ウィットがきいているというか、ハッとさせられるような表現である、とみなされがちだ。
直喩例)彼の勇敢さはライオンのようだ。
隠喩例)彼はライオンだ!
けれども、それはあくまで、直喩と、隠喩を対比してみるから、「隠喩いいね!」となるだけであって、いきなり、
ライオンだ!
といったら、なんのこっちゃ、となる。
小説とかで有効なのは、そのシーンにおいて、決してサバンナにいるわけでも、動物園にいるわけでもなく、ごくごく日常生活のなかで、「俺、ちょっと店長にかけあってみますよ」とかバイトくんが言ったときに、「かっこいい! ライオンだ!」みたいに使うと、あー、隠喩なんだなぁ、って分かるということだ。
だからなんだ。
連載
取りあえず、最近始めた連載活動、10話分ぐらいまで書き進めた。取りあえず、週刊更新を予定している。何曜日か決めようか、どうしようか、まだブレている。取りあえず、10回分と考えると、2か月半後ぐらい分である。そうすると、6月ぐらいだ。今が3月で、6月。
あー、長いようで、短いような。
そう考えると、ほんっと、人生短いっすなぁ。取りあえず目標の半年間を達成するには、9月ぐらいまで続けることになる。そこまでに完結させられるだろうか。きっと、10万字も到達しないだろう。ちなみに、文庫本程度は10万字ぐらいであるということである。
1年に、一作品つくっていくにしても、40歳までに10個いけるかどうか。
80歳で死ぬとして、40作品つくれるかどうか。
そう考えると、もう既に、何作品も完結した作品をつくられている方々って、すげーなーと思う。
ちょっと上から目線と言うか、小ばかにするような表現をこれからすることになるが、最近は本気で、中学生レベルの文章表現力しかなくても、ちゃんとストーリーつくって完結した作品を書ける人ってすごいなと思う。
何というか、表現力は、後から身に着けてもいいと思う……し、やっぱり、ストーリーメイキングできる能力ってのは、ある意味才能なのかなぁとも思う。
どんなに素晴らしい作品に触れて摂取しても、それを、自分の物語として再構成して、表現するってのは、やっぱりどこか、違うことだと思う。よくない例えしか今思い浮かばないが、人を殺したいと思うのは誰でもあるが、実際に殺すのとは大きな乖離があるように。
夢いっぱい!
タイトルはあんまり意味がある分けではないけれども、何だか色々人に触れていて、ぼーぜんとした「すげーなー」って思いが生じた。こう、その、「冷めた観方」みたいなのがかっこいいと思っているわけでは、決してないのだが、どっかしらその、ベルトコンベアーに乗り損ねた商品みたいな気分になるのはどうしてなのか。
例えば、ある精神科医の先生の「認められたい」という承認・所属欲求が、僕に足りない、という診断があったとして。ヴィクトールさんの人間は創造・体験・態度の三つの価値を追究していかねばならないと発破をかけられたとして。
俺は、何か、うまーく表現できないのだが、その「いきづらさ」か何か、表現できたとして、概念化できたとして、じゃあ、それで問題が解決するのかどうか、と思う。
苦しい理由、というものを、言語化できたとして、それが解決するかどうか。もちろん、発達障害やら学習障害やらADHDやら、その診断がついたことにより、「ああ、やっぱり、そうだったんだ」という安心感のようなものが得られる人もいることだろう。ただ、結局、問題はそこからの人生であることには違いない。ようやくスタートラインにたったようなものではなかろうか。
言語、とは、記号である。
無限の世界を、分類することである。モノ・コトに、延々、名前をつけていっても、終わりはない。
だから、僕が、いくら、僕のことを、こうしてブログに書いていっても、100記事、1000記事、10000記事になろうが、「僕」という表現は、完結しないのである。
これについて、「自分」が常に変化しているからである、とコメント頂いたわけであるが、この指摘は非常に鋭くて僕の魂魄に突き刺さった。
ただし、その観点とは別に、そもそも、表現できることに限りはないのである。自分というものを正確に完璧に表現できる言語など、存在しえないのである。
……という面からも、他者との完全理解というのは不可能である、という僕は立場というか、考え方をもっているわけだけれども、この考え方が役に立つかと言うと、気休め程度の役にもたちゃあしない! だからなんだって、話。いやぁ、だからこそ、ちょっとでも、「分かり合えた!」「共感した!」という感覚が重要だし、大切なんだよ、という教訓にはなるかもしれない。分かり合えるというのは難しいことなんだから、ちゃんとコミュニケーションとらなきゃならんのだよ、という教訓にはなるかもしれない、ただ、その程度だ。
幸せいっぱい!
タイトルに意味はない。ただ、表現に限りが無いのであれば、やっぱり、「絶対ポジティブ思考」であるべきだと、僕は思う。
満たされているなぁ、幸せだなぁ、感謝でいっぱいだなぁ、嬉しいなぁ。
おぅ、どうした? アップ系の薬でもやったんか? と思うようだが、それでもやっぱり、楽天・楽観的であることが、大切な気がする。
と、わざわざ書く時点で、僕は、そういう性格ではないのだろう。本当の楽天的な人は、そんなこと自体考えないのではあるまいか。
んー、でも、いーんじゃないか、と思う(何が?)。その、色んな人がいていーんじゃないの、と思う。毎日のように、愚痴をSNSやらブログに書き散らしているような人もいる。何年も、「あー、俺はダメな奴なんだ、死んだ方がいいんだ」と書きながら、取りあえず生きている人もいる。「孤独でもいーんすよ」という人もいる。「働きたくないでござる」と言い続けている人もいる。
いーんじゃないか、と思う。
ただ、みんな、取りあえず、幸せになったらいいんじゃないか、と思う。
え、ひとごと? お前は?
俺は……よく分からん。
何だろ、幸せっちゃあ幸せだろうし、「リア充爆発しろ!」と思えば不幸な気もする。ただ、どっちでもいい気がしている。
前も書いた気がするけれども、そもそも、「幸せ」とか「ポジティブ」という言語表現にとらわれている時点で、既に罠にはまっている。
幸せ、ポジティブなんてのは、相対的な概念であり、その言葉に意味を注入できるとすれば、それは、「実感」に他ならんわけだ。
で、逆に書けば、「実感」があれば、別に「あー幸せだなぁ~」なんてしみじみ言う必要なんてないわけだ。
などと30代おっさんが述べております
物語つくれる人ってすごいなぁ(唐突)。物語って、新学力とかエンプロイアビリティなんてビジネス的な表現すれば、問題解決能力だと思う。
問題。課題。困難。ハードル。軋轢。葛藤。
ひっくるめていろーんな問題があって、それにどう対処していくのか、というのが、すべての物語の基本ストーリーである。
日常ほのぼの系作品にそんなもんないのでは? という指摘もありそうだが、いや、そんなことぁーない。日常の、ほのぼのとした課題などが描かれているはずだ、よく観察してみるといい。
ここでいう問題は、社会問題だとか、異性問題だとか、その問題の大小を言うのではない。
自分で設定した問題について、逃げずに立ち向かって何らかの答えを出していくという作業、それが「物語」なのである。
ドラゴンクエストでは、悪い魔王が街を荒らしている、このままでは世界が滅びてしまう、戦え勇者たちよ! 的な問題解決である。
ライトノベル的な異世界転生や転移でも、人生やり直すぞ!とか、元の世界に帰らなきゃ!的な問題解決である。
学園ものでもそうだ。いじめられたり、モテなかったり、勉強できなかったり、スクールカーストの底辺でもがく……問題解決である。
この、問題解決能力が、生きていく上で、大切なことだと思う。イデオロギーも、宗教も希薄化した現代においては、特にそうなんじゃなかろうか。
そして、もう少し踏み込んで考えると、この問題解決能力とは、「解決力」が重要ではなく、「問題設定力」が重要なんじゃなかろうか。
適切な問題を設定して、それを解決していくという人生の繰り返しが、即ち、充実感だとか幸福感だとかに繋がるんじゃなかろうか。
とかって、こうやって考えている最中は結構楽しかったりするのだが、考えれば考えるほど、その結論的なものが、どうにも、矮小だったり脆弱だったり、くだらないもののように思えてくるというこの病気について、是非命名したい。
あー、やっぱり、中二病とか、高二病とか大二病的なのになるんかな。
俺って、「ふつーの人」とちょっと違うことを考えられますよ(キリッ)的なやつをあざ笑う、その様をさらに思って自嘲して……という、無限ループ的な。
(あー、何か、面白いこと書きたい)
今日の一言「……」
取りあえず、30分を目途に書いてみるか。書くことも、そもそもパソコンを起動させるのも久々である。
色々と、目標を立てて、それに向けてやってこようとした。生活を、いい方向にしようとした。
しかし、いろいろと、仕事が忙しくて、上手くいかなかった。
仕事が忙しいというのは、何だろうか。
忙しくない仕事などというのはあるのだろうか。無い。そこに問題があるのではない。
時間。
存在。
今僕は、何に向かっているのか。
何でもできる。しかし、何もできない。
意味が分からない? 意味、シンボル、記号。シニフィエ、シニフィアン。概念。抽象。答え、真理。
理解。
自分。自己。自我。
コミュニティ、コミュニケーション。
サイコパス、感情、喜怒哀楽、怒り、焦燥、怖れ。
人生は、暇つぶしなのか。すべての芸術は、死からの逃避なのか。
子どもとは愛するものなのか。生きがいなのか。
社会とは何か。システムとは何か。効率化の果ては自己のパーツ化なのか。
唯一性と一回性。すべては、不可逆な時間の中で生み出される。
ただ、信じることができる概念は何か。
その根源を、根本を、意味概念を求めて遡っていく作業、それが哲学というならば、今必要なのは哲学なのか。
夢を見た。夢……それは、日々の業務に押しつぶされること。自分を見失うこと、自分、自分とは。
そういってもらいたい。同時に、それを認められない。頑迷固執の老害である。
認められたい。所属欲求と承認欲求を求めたい。充たされない思いが、自己の消耗へとつながっていく。俺は誰だ。俺は、僕は、私は、誰だ。
表現の違いというが、では、その意味されるものは本当に存在するのか。疑う余地はない、ネコという概念は、catといったり、ロシア語でコーシカ、ドイツ語でカッツェ。呼ばれ方は複数あっても、ネコという概念は疑いようはない。
だが、その猫の概念とはなんだ。耳が二つ、目が二つ。髭が生えている。四足歩行。体毛に覆われている。これだけでは、ネコにはならない。どこまで条件を挙げていけば、ネコになるのだろうか? しかし、そんなことを考えずとも、私たちは、ネコの画像をみたら、一瞬でその猫の概念を認識することができる。
生得的なもの。
自らの身体を信じること。五感。インプットされる情報。それだけが、信じるべき対象。
現象学とは、猫という概念は一先ず置いておき、まずは現実表出しているものに着目する考え方である。ネコという完璧な定義は、辞書をひいても出てこないけれども、取りあえず、辞書的な意味が理解できれば、他者との共通理解を行うことができる。これがコミュニケーションである。
でも、時に人は、ひとりの時間を欲する。
しかしそれは、あくなき、承認欲求を求める、終わりなき戦いではないのか。どこか、小さなサークルでも、会社でも、友人関係のわでもいい。どこか、自分の居場所を求め、そこで、能力を発揮する必要もなく、ただ、存在しているだけで、その所属コミュニティの維持に役立てられるような、そんな存在となること。
それが、所属欲求である。
認められたい、という思いよりも、ただ、その場にいるだけでいい、そんな場所。
ニートや、孤独を愛する人、個人投資家、人間嫌い、そんな人たちも、SNSや、ブログをやったり、記事を書いたりして、何か、繋がりを求めている。
それは何故か。承認欲求を求める場合、投資家としての成功だとか、俺は人とは違うんだぜ、という自尊心を充たそうとしている場合もあるかもしれない。
ただ、それだけではなく、単に、そのインターネットというツールが、自分の居場所を与えてくれるのかもしれない。
本来。家は、家族は、その、居場所であった。
であるからにして、その家族が崩壊するような、家庭内暴力だとか、別居、離婚、姑嫁の確執だとか、ドメスティックな事件は、その当たり前と思われている崩壊を示唆するがため、センセーショナルな報道へと繋がる。
報道と言えば、大きな地震から、数年が経った。
生き残った命は、大切にしなければならない。露命を無常の風に任すること勿れ。
30分が経った。もう外は真っ暗だけど、散歩にでかけよう。
(お酒を飲んでいるわけでもないが、何だか、陶酔的な気分である)
あっという間に
気づいたら1日が終わっていた。本当に時間が過ぎるのは早い。取りあえず、30分を目途に書いてみるか。書くことも、そもそもパソコンを起動させるのも久々である。
色々と、目標を立てて、それに向けてやってこようとした。生活を、いい方向にしようとした。
しかし、いろいろと、仕事が忙しくて、上手くいかなかった。
仕事が忙しいというのは、何だろうか。
忙しくない仕事などというのはあるのだろうか。無い。そこに問題があるのではない。
時間。
存在。
今僕は、何に向かっているのか。
何でもできる。しかし、何もできない。
意味が分からない? 意味、シンボル、記号。シニフィエ、シニフィアン。概念。抽象。答え、真理。
理解。
自分。自己。自我。
コミュニティ、コミュニケーション。
サイコパス、感情、喜怒哀楽、怒り、焦燥、怖れ。
時間
詩や、俳句や、短歌や、散文は、陶酔なのか。人生は、暇つぶしなのか。すべての芸術は、死からの逃避なのか。
子どもとは愛するものなのか。生きがいなのか。
社会とは何か。システムとは何か。効率化の果ては自己のパーツ化なのか。
唯一性と一回性。すべては、不可逆な時間の中で生み出される。
ただ、信じることができる概念は何か。
その根源を、根本を、意味概念を求めて遡っていく作業、それが哲学というならば、今必要なのは哲学なのか。
夢を見た。夢……それは、日々の業務に押しつぶされること。自分を見失うこと、自分、自分とは。
何をすべきか
お前は、これをすべきだ。そういってもらいたい。同時に、それを認められない。頑迷固執の老害である。
認められたい。所属欲求と承認欲求を求めたい。充たされない思いが、自己の消耗へとつながっていく。俺は誰だ。俺は、僕は、私は、誰だ。
表現の違いというが、では、その意味されるものは本当に存在するのか。疑う余地はない、ネコという概念は、catといったり、ロシア語でコーシカ、ドイツ語でカッツェ。呼ばれ方は複数あっても、ネコという概念は疑いようはない。
だが、その猫の概念とはなんだ。耳が二つ、目が二つ。髭が生えている。四足歩行。体毛に覆われている。これだけでは、ネコにはならない。どこまで条件を挙げていけば、ネコになるのだろうか? しかし、そんなことを考えずとも、私たちは、ネコの画像をみたら、一瞬でその猫の概念を認識することができる。
生得的なもの。
自らの身体を信じること。五感。インプットされる情報。それだけが、信じるべき対象。
現象学とは、猫という概念は一先ず置いておき、まずは現実表出しているものに着目する考え方である。ネコという完璧な定義は、辞書をひいても出てこないけれども、取りあえず、辞書的な意味が理解できれば、他者との共通理解を行うことができる。これがコミュニケーションである。
コミュニケーションとは
人は、ひとりでは生きていけない。でも、時に人は、ひとりの時間を欲する。
しかしそれは、あくなき、承認欲求を求める、終わりなき戦いではないのか。どこか、小さなサークルでも、会社でも、友人関係のわでもいい。どこか、自分の居場所を求め、そこで、能力を発揮する必要もなく、ただ、存在しているだけで、その所属コミュニティの維持に役立てられるような、そんな存在となること。
それが、所属欲求である。
認められたい、という思いよりも、ただ、その場にいるだけでいい、そんな場所。
ニートや、孤独を愛する人、個人投資家、人間嫌い、そんな人たちも、SNSや、ブログをやったり、記事を書いたりして、何か、繋がりを求めている。
それは何故か。承認欲求を求める場合、投資家としての成功だとか、俺は人とは違うんだぜ、という自尊心を充たそうとしている場合もあるかもしれない。
ただ、それだけではなく、単に、そのインターネットというツールが、自分の居場所を与えてくれるのかもしれない。
本来。家は、家族は、その、居場所であった。
であるからにして、その家族が崩壊するような、家庭内暴力だとか、別居、離婚、姑嫁の確執だとか、ドメスティックな事件は、その当たり前と思われている崩壊を示唆するがため、センセーショナルな報道へと繋がる。
報道と言えば、大きな地震から、数年が経った。
生き残った命は、大切にしなければならない。露命を無常の風に任すること勿れ。
30分が経った。もう外は真っ暗だけど、散歩にでかけよう。
(お酒を飲んでいるわけでもないが、何だか、陶酔的な気分である)
今日の一言「日々の断絶という言葉は言い当て妙」
1.専門性を追究する・彼女をつくる
という方策と、
2.「求めるもの」について、再度解釈を試みる
という方策を検討し、「1.」よりも先に「2.」を整理する必要があることを決定した(導き出した)。
その「2.」とは、上の引用のとおり、「思考と生活を整理する」というものであった。
それでは、今回の記事では、その整理する方針について、より具体的に決めていこう。
1.については、「現実へのアプローチ」といってよい。いわゆる、一般的な目標と大差ない。一般的な目標とは、高校に入学するとか、会社に入社するとか、ダイエットするとか、「現実」と「自分」を分けて考えたとき、自分を現実に向けて「変化させる」ことである。
2.については、その逆といってよい。自分を現実に合わせていくのが1.である。2.は、自分を成り立たせている根源を明らかにしていく作業である。難しい表現をしてしまった。例えば、フロイトさんの精神分析において、エス(衝動)・エゴ(自我)・スーパーエゴ(超自我)という概念があることはお分かりの通りだろう。
衝動 → 自我 ← 超自我
みたいな感じで、自我は成り立っている。
(自分と自己と、自我の言葉は厳密には違うのだけれど、今回の記事では同じように用いている)
自分とは何か? という問いは深遠であって、それを明らかにして生きている人など、そうそういないと思われる。それでも、多くの人が、特にこの問題を抱えずに生活できているのは、基本的に「自分」と「現実」が一致(※1)しているからである。
ちなみに、少し余談となるが、「衝動」部分がおかしい(現実とのズレが大きい)場合は、「精神病」と言われるし、「超自我」の部分がおかしい場合は、教育のせいにされたりする。
ただしどのみち、「大人」という存在においては、そういった自我の保持や安定性というのは、完成されたものとみなされる。「君、大人なんだから、ちゃんとしてよ」と言われるのは、「自我が正常な状態なんだから、正常な判断ができるんでしょ?」ということを言われているのである。もっと俗的に書けば、TPO(とき・場所・条件(場合))の判断がちゃんとできるんでしょ、ということである。
さらに余談となってしまうが、僕の記事というか、僕が問題視している事柄全般は、一般的社会道徳・ルールを前提(※2)としているし、身体・精神の病気を対象とはしていない。ただ、精神病など、そういった極端な事例などを考えざるをえないのは、その「正常」と「異常」とのグレーゾーンがかなり広がっていると感じているからである。何をもって正常……ちゃんとしてね、といえるのか、正直よく分からないのである。
くだらない例えを書いてしまおうか。ホロコーストを持ち出すまでもなく、虐殺することはおぞましく悪いことである。では、虐殺することについて、空想したり妄想したり、小説に書き出すことは悪なのだろうか。否である。しかし、完全な大人とか、完全な人間とか、完全な理想というものを考えたときに、そういった「悪い考え」が生じるのは、やっぱり「完全」ではないのではなかろうか。
くだらない例えであった。ここで、「くだらない」といっているのは、これら、正義とか、悪とか考えることがくだらないというのではなく、単に僕の興味の対象外であるということだ。つまり、実感伴って、そんな「完全な善」なるものを、僕は「否」と思っているのである。清濁あわせもったのが人間であると僕は思っているに過ぎない。で、その実感をもってして、「人間嫌い」という感情エラーというか、表現をたまにしてしまうが、これについては、
という、ある方のコメントを読んで、いやぁまさに、その通りですよ、と思った。カッコいい。僕も、こういう人になりたい。そう、こういう人になるために、「整理」が、今は、必要なのだ。
※1:誰もが完全に一致しているなど殆どない。だからこそ、日々の生活に悩みや苦しみ、欲求不満が生じるのである。それをもって、「みんな色々大変なんだから」という言葉に正当性を与えている。
※2:この前提に、実感が伴っているかという問題はまた別にある。ただ、やらなきゃならないこと、というのは避けられないのであって、それから単に逃げようというわけではない。問題は、その「やるべきこと」自体の曖昧さ(社会や環境や状況や人によって異なること)である。
フランクルさん言葉と絡めて理解すると、2週間と、15分は「体験価値」であろう。それでもって、「一生」については、「創造価値」にも思えるが、もはやこれは「態度価値」何ではなかろうか。
ここまで思考体系を確立されている方は、これからも、悩みや苦しみがあったとしても、きっと、困難があっても乗り越えていくのだろう。思考よりも、最初に挙げた「1.」の、現実へのアプローチについて、尽力していくことが有効であろうと思う。
最近、ある東大工学部卒の研究者の著書を読んでいて、そのあとがきか何かに、「自分とは何か」のような、僕と似たようなことを若いころに思っていた、と書かれていた。その方は、勉強もそうだが、理系だけれども、哲学書ばかり読んでいたという。そして結局、だからこそ、取りあえず勉強して東大に入って、自分の明らかにしたいことを精一杯つとめていったという。
突拍子もないから上手く説明できないけれども、前提として思うのは、「人間とは何か」「生きる意味とは何か」「自分とは何か」という問題意識が生じるのは、別に珍しいことではなく、そこから発展した技術、芸術、思想・思考といったものは、数多く存在するのである。
(分かりやすく代表的なのは仏教であろう)
芸術や思想分野は、比較的その問題意識が分かりやすいが、技術(例えば、経営だってそうだし、仕事だって、何だって)は、その現実への還元要素が大きいために、その根源にある問題意識は見えにくい。それでも、何らかの、自らの、根源的な問題意識に根差して、人は現実へのアプローチを事欠かないのである。
であるからにして、単に思考をもってして、問題解決をはかろうというのは、大きな間違いを犯しているのではなかろうか? という疑問はもっともである。
確かに、家にひきこもって、自分の頭だけで考え続けるということに、限界があることは否定できない。
ただし、僕は、完全なスタンドアローン状態を目指しているのではなく、現実からのフィードバックも当然受け入れることにしている。これは、単なる中途半端な修正主義になるだろうか。そうではない。むしろ、「思考」というのが、身体を前提にしている以上、完全な単独者として思考することは不可能だし、そもそも、その「問題」そのものも、現実を前提にしていることは言うまでもないことだ。
分かりにくいな。だとすると、僕の考える「現実」というものは、二つの層(レイヤー)で重ね合わされているのかもしれない。レイヤーという横文字を使ったのは、イメージとして、ペイントソフト的なものを連想したからだ。地層としてしまうと、表層と深層とで、深層の上に完全に表層部分がのっかっているイメージとなる。そうではなくて、一部は深層部分が飛び出ていたりと、表層と深層が折り重なって、一つの絵として認識できる状態、というイメージである。
(何だろう、頭の中で描かれた図を、実際に作成しようとすると、何かちょっと違うくなる。イメージの足りなさってことだろうか)
ダメだダメだ、このままでは、来週を乗り切れない。
……ところで、別に、自分だけ辛いとか言ってるんじゃないんだからな!!(逆ギレというか突然ギレ)
どーせ、こんな愚痴ぐち書いてると、「あーこいつ、自分に浸ってんな~」とか、「はいはい、どーせ、自分が世界の中心で一番大変だって思ってんでしょー」とか、そんな感想しか抱かれんのである。
そんなことはとうに、分かっているのである。
みんな大変で、みんな必死にがんばってるのである。
だから、幸せそうなひとをみると、みんな引きづり下ろそうと、嫉妬したりするのである。みんな一緒に不幸になりましょうね~というわけである。
ふざけんな、ひとりでやってろ。世界が、苦しみに満ちたものであって言い訳ないだろ。俺はいつでも、世界平和と、みんなの幸せを願ってやまない。俺が、ポジティブしか「ありえない」というのは、そういう意味においてである。
それは。
世界思想である。一般常識である、ルールである、法律である、決まりである。
人が、長い間かけて、必死に構築してきた、社会システムである。それらを疑ったり、逸脱しようとしたり、逃げ出そうとする人は、同時に、それらの恩恵もうけることができない。それらから逃避する人たちは、それらの「恩恵」の理解が不十分である、努力不足である。
今回の記事の上の方で、
>僕の記事というか、僕が問題視している事柄全般は、一般的社会道徳・ルールを前提としているし、身体・精神の病気を対象とはしていない。
と書いたのは、そういう意味である。
それを前提にして、……じゃあ、僕はどうしようか、と。そういう目的である。
生きるのつらい絶対殺すマン
仕事や人生で疲れている人に、「生きるのつらい絶対殺すマン」はいうのである。
「ほむほむ。でもそれって、義務感だけで生きてる状態だよね」
「〇〇さんは、何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」
と。
この後の流れは、まったくもって感動的であり、非常に素晴らしい作品だと思った。
が、問題は、「何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」この問いである。
今まさに、これへの対策を行っているのである。
どれだけ緊急性のあることかがお分かりであろう!(誰に言っている?)
感情の希薄化、と書くと、とても大げさになってしまう。今すぐ病院池、となってしまうかもしれない。そこまででは無いのだけれども、ただ、
「何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」
これを聞かれるたびに、「うぁああああ」っとなるのである。パソコンのフリーズ状態だ。
長くなったので強制終了。
(取りあえず、直近の行動方策と、優先順位を立てなければまずい)
最近の振り返り
例えば、婚活とか人脈を広げるための作業(努力? なんといえばいいんだ? 単純に「行動」でいいのか)をするにあたって、このブログとかサイト運営とかどうしたらいいんだ?先日、
自己開示しなければ、「本気で他者と向き合って」みたいなことにはなり得まい。しかしながら、このぐちゃぐちゃーっとした状態の、思考の渦みたいなものの開示は、正直、お忙しい誰もがノーサンキューであるに違いない。これは自己卑下ではない。対面状況において、愚痴や悩みを延々と聞かされたら、恋人友人関係であったとしても、いずれ疲れ果ててしまうであろう。
であるならば、やはり、ある程度、思考も生活も、整理できた状態であるのが望ましい。
目標を立てなきゃ、と焦ってしまったが、落ち着こう。今年1月に立てた目標は何だ?
今年は整理の年にしよう。
というものであった。
1.専門性を追究する・彼女をつくる
という方策と、
2.「求めるもの」について、再度解釈を試みる
という方策を検討し、「1.」よりも先に「2.」を整理する必要があることを決定した(導き出した)。
その「2.」とは、上の引用のとおり、「思考と生活を整理する」というものであった。
それでは、今回の記事では、その整理する方針について、より具体的に決めていこう。
もう一度整理
上の、1.と2.の違いについて、分かりにくいかもしれないから、現在の気分に基づき、もう一度表現しなおしてみる。1.については、「現実へのアプローチ」といってよい。いわゆる、一般的な目標と大差ない。一般的な目標とは、高校に入学するとか、会社に入社するとか、ダイエットするとか、「現実」と「自分」を分けて考えたとき、自分を現実に向けて「変化させる」ことである。
2.については、その逆といってよい。自分を現実に合わせていくのが1.である。2.は、自分を成り立たせている根源を明らかにしていく作業である。難しい表現をしてしまった。例えば、フロイトさんの精神分析において、エス(衝動)・エゴ(自我)・スーパーエゴ(超自我)という概念があることはお分かりの通りだろう。
衝動 → 自我 ← 超自我
みたいな感じで、自我は成り立っている。
(自分と自己と、自我の言葉は厳密には違うのだけれど、今回の記事では同じように用いている)
自分とは何か? という問いは深遠であって、それを明らかにして生きている人など、そうそういないと思われる。それでも、多くの人が、特にこの問題を抱えずに生活できているのは、基本的に「自分」と「現実」が一致(※1)しているからである。
ちなみに、少し余談となるが、「衝動」部分がおかしい(現実とのズレが大きい)場合は、「精神病」と言われるし、「超自我」の部分がおかしい場合は、教育のせいにされたりする。
ただしどのみち、「大人」という存在においては、そういった自我の保持や安定性というのは、完成されたものとみなされる。「君、大人なんだから、ちゃんとしてよ」と言われるのは、「自我が正常な状態なんだから、正常な判断ができるんでしょ?」ということを言われているのである。もっと俗的に書けば、TPO(とき・場所・条件(場合))の判断がちゃんとできるんでしょ、ということである。
さらに余談となってしまうが、僕の記事というか、僕が問題視している事柄全般は、一般的社会道徳・ルールを前提(※2)としているし、身体・精神の病気を対象とはしていない。ただ、精神病など、そういった極端な事例などを考えざるをえないのは、その「正常」と「異常」とのグレーゾーンがかなり広がっていると感じているからである。何をもって正常……ちゃんとしてね、といえるのか、正直よく分からないのである。
くだらない例えを書いてしまおうか。ホロコーストを持ち出すまでもなく、虐殺することはおぞましく悪いことである。では、虐殺することについて、空想したり妄想したり、小説に書き出すことは悪なのだろうか。否である。しかし、完全な大人とか、完全な人間とか、完全な理想というものを考えたときに、そういった「悪い考え」が生じるのは、やっぱり「完全」ではないのではなかろうか。
くだらない例えであった。ここで、「くだらない」といっているのは、これら、正義とか、悪とか考えることがくだらないというのではなく、単に僕の興味の対象外であるということだ。つまり、実感伴って、そんな「完全な善」なるものを、僕は「否」と思っているのである。清濁あわせもったのが人間であると僕は思っているに過ぎない。で、その実感をもってして、「人間嫌い」という感情エラーというか、表現をたまにしてしまうが、これについては、
ある時期、様々な愛の形に触れ、めんどうだなと思ったこともありましたが、そもそも大多数の人間は愛の実在を特に疑う余地もない前提として動いたり喋ったりしているという事実は人間世界の現実であり、それは「面倒」ということよりも、よほど重いことなのだと思います(注:主旨をできるだけ損なわないように原文を大幅に改訂させて頂いている)
という、ある方のコメントを読んで、いやぁまさに、その通りですよ、と思った。カッコいい。僕も、こういう人になりたい。そう、こういう人になるために、「整理」が、今は、必要なのだ。
※1:誰もが完全に一致しているなど殆どない。だからこそ、日々の生活に悩みや苦しみ、欲求不満が生じるのである。それをもって、「みんな色々大変なんだから」という言葉に正当性を与えている。
※2:この前提に、実感が伴っているかという問題はまた別にある。ただ、やらなきゃならないこと、というのは避けられないのであって、それから単に逃げようというわけではない。問題は、その「やるべきこと」自体の曖昧さ(社会や環境や状況や人によって異なること)である。
賞味15分の感傷だって価値がある
本題の「整理」に入る前に、もう一つ、素晴らしい記事を発見したので書いておきたい。感動などを得るために、どうしたらいいのか、という主旨において、一生そういうものを味わいたければ、リスクを恐れず生きたい人生を生きればいいかっこいい。惚れる。
仕事なんて辞めてもいいし、辞めずに打ち込んでもいい
多分、苦しみはあるけど、同じくらいそういうものを味わえると思う
生きたい人生なんて分からないよ?って人もいると思う
そういう人は分かるまで本気で悩んでくれ
それだけで一生、そういう生き方ができるだろうね
案外、もんもんとして辛い人生なんてものは味わえないものです
だいたい、今なんでこんな辛い人生を送っているんだろうって感じている人は、考えることを辞めて、今の辛さを耐えることにせいを出す。懸命な判断だと思う。でも、生きたい人生って何だって本気で考え続けるのは辛いけど、それこそ喜びになるのではないか?
2週間そういうものを味わいたいのであれば、小説を読むか、漫画を読むか、ゲームをすればいい
これだっていう作品に出会うのは難しいけど、出会うことが出来たなら最高に心が揺さぶられることだろう
15分そういうものを味わいたければ、音楽を聞こう
なかなかそういうものには出会えないけどね
でも、出会えれば15分は楽しめる
フランクルさん言葉と絡めて理解すると、2週間と、15分は「体験価値」であろう。それでもって、「一生」については、「創造価値」にも思えるが、もはやこれは「態度価値」何ではなかろうか。
ここまで思考体系を確立されている方は、これからも、悩みや苦しみがあったとしても、きっと、困難があっても乗り越えていくのだろう。思考よりも、最初に挙げた「1.」の、現実へのアプローチについて、尽力していくことが有効であろうと思う。
現実問題へ到達できない
悔しいというか残念なことに、僕は、10年も20年も前から、その前の次元でとまってしまっている。すなわち、「2.」の部分だ。最近、ある東大工学部卒の研究者の著書を読んでいて、そのあとがきか何かに、「自分とは何か」のような、僕と似たようなことを若いころに思っていた、と書かれていた。その方は、勉強もそうだが、理系だけれども、哲学書ばかり読んでいたという。そして結局、だからこそ、取りあえず勉強して東大に入って、自分の明らかにしたいことを精一杯つとめていったという。
突拍子もないから上手く説明できないけれども、前提として思うのは、「人間とは何か」「生きる意味とは何か」「自分とは何か」という問題意識が生じるのは、別に珍しいことではなく、そこから発展した技術、芸術、思想・思考といったものは、数多く存在するのである。
(分かりやすく代表的なのは仏教であろう)
芸術や思想分野は、比較的その問題意識が分かりやすいが、技術(例えば、経営だってそうだし、仕事だって、何だって)は、その現実への還元要素が大きいために、その根源にある問題意識は見えにくい。それでも、何らかの、自らの、根源的な問題意識に根差して、人は現実へのアプローチを事欠かないのである。
であるからにして、単に思考をもってして、問題解決をはかろうというのは、大きな間違いを犯しているのではなかろうか? という疑問はもっともである。
確かに、家にひきこもって、自分の頭だけで考え続けるということに、限界があることは否定できない。
ただし、僕は、完全なスタンドアローン状態を目指しているのではなく、現実からのフィードバックも当然受け入れることにしている。これは、単なる中途半端な修正主義になるだろうか。そうではない。むしろ、「思考」というのが、身体を前提にしている以上、完全な単独者として思考することは不可能だし、そもそも、その「問題」そのものも、現実を前提にしていることは言うまでもないことだ。
分かりにくいな。だとすると、僕の考える「現実」というものは、二つの層(レイヤー)で重ね合わされているのかもしれない。レイヤーという横文字を使ったのは、イメージとして、ペイントソフト的なものを連想したからだ。地層としてしまうと、表層と深層とで、深層の上に完全に表層部分がのっかっているイメージとなる。そうではなくて、一部は深層部分が飛び出ていたりと、表層と深層が折り重なって、一つの絵として認識できる状態、というイメージである。
(何だろう、頭の中で描かれた図を、実際に作成しようとすると、何かちょっと違うくなる。イメージの足りなさってことだろうか)
目標立てる主旨と乖離していないか
はぁ……。疲れた。ダメだダメだ、このままでは、来週を乗り切れない。
……ところで、別に、自分だけ辛いとか言ってるんじゃないんだからな!!(逆ギレというか突然ギレ)
どーせ、こんな愚痴ぐち書いてると、「あーこいつ、自分に浸ってんな~」とか、「はいはい、どーせ、自分が世界の中心で一番大変だって思ってんでしょー」とか、そんな感想しか抱かれんのである。
そんなことはとうに、分かっているのである。
みんな大変で、みんな必死にがんばってるのである。
だから、幸せそうなひとをみると、みんな引きづり下ろそうと、嫉妬したりするのである。みんな一緒に不幸になりましょうね~というわけである。
ふざけんな、ひとりでやってろ。世界が、苦しみに満ちたものであって言い訳ないだろ。俺はいつでも、世界平和と、みんなの幸せを願ってやまない。俺が、ポジティブしか「ありえない」というのは、そういう意味においてである。
それは。
世界思想である。一般常識である、ルールである、法律である、決まりである。
人が、長い間かけて、必死に構築してきた、社会システムである。それらを疑ったり、逸脱しようとしたり、逃げ出そうとする人は、同時に、それらの恩恵もうけることができない。それらから逃避する人たちは、それらの「恩恵」の理解が不十分である、努力不足である。
今回の記事の上の方で、
>僕の記事というか、僕が問題視している事柄全般は、一般的社会道徳・ルールを前提としているし、身体・精神の病気を対象とはしていない。
と書いたのは、そういう意味である。
それを前提にして、……じゃあ、僕はどうしようか、と。そういう目的である。
生きるのつらい絶対殺すマン
仕事や人生で疲れている人に、「生きるのつらい絶対殺すマン」はいうのである。
「ほむほむ。でもそれって、義務感だけで生きてる状態だよね」
「〇〇さんは、何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」
と。
この後の流れは、まったくもって感動的であり、非常に素晴らしい作品だと思った。
が、問題は、「何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」この問いである。
今まさに、これへの対策を行っているのである。
どれだけ緊急性のあることかがお分かりであろう!(誰に言っている?)
感情の希薄化、と書くと、とても大げさになってしまう。今すぐ病院池、となってしまうかもしれない。そこまででは無いのだけれども、ただ、
「何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」
これを聞かれるたびに、「うぁああああ」っとなるのである。パソコンのフリーズ状態だ。
長くなったので強制終了。
(取りあえず、直近の行動方策と、優先順位を立てなければまずい)
