今日の一言「体調と住環境が良くない」「整える気力が起きない」
先日飲み会に出席し、飲みすぎたのか分からないが、頭の痛さが生じ、帰宅後も結局何もできなかった。飲み会での交流の内容はともかく、結果、家に帰ってからの行動に影響が生じてしまったのは間違いなくデメリットであった。しかし、初対面の人も多いような会だと、気分を乗っけるために少々いつも以上に飲んでしまう。
僕は、いやな気分や、面倒な状態に置かれることを避けたいのだ。初対面の人と「上手く」会話をすることに気をもむなんて、面倒なこと他ならない。合わない人とは仕方がないし、ある程度の次元で上手く付き合えればそれでいいのだ。そう、それは学校生活のように……とか思ったかは分からないが、その性かも分からないが、学校の修学旅行みたいなのに参加して何か戦闘に巻き込まれるような夢をみた。
そして、まだ、今も、気分が優れない。体調もすぐれない。
ああ、しかし、先日、普段とは違う電車に乗って、郊外の流れゆく景色を車窓から見ているとき、そしてその視界のわきには、楽しそうなカップルや、はしゃぐ子供をなだめる若い父親の姿が見えていた。
僕は一人、氷の入ったコーヒーを飲んでいた。
体調も、透き通ったように軽かった。
寒くもなく、熱くもなかった。
ウォークマンの、静かなBGMが耳の奥を撫でていく。
僕は、こんな時間がずっと続いてもいいかもしれない、と思った。何をするでもない、ただ悠久の時間。
NISAの方がいいとか、こっちの証券会社の方がいいとか、いろいろ考えていたが、結局判断ができなかったから、もう思い切って、まずは購入することから始めてみた。じゃあ、少額でいいじゃないかというところだが、単元が1000株だったので30万円強となった。
一つ、書いておけば、株って、普通の買い物と違う感覚だと思った。買い物は、お金を使って物を手に入れるものだが、株の場合は、いったい全体、何を買っているのか感覚がよく分からない。このよく分からない感覚を言語化しておきたいと思うのだけれども、いってみれば、何か減っている感覚ではないということだ。
当たり前かもしれない。あくまで投資は、利益を出すことが目的なので、損しようと思って買うことはない。30万の買い物とは大きいが、――そもそも、買い付け余力として100万円証券会社に振り込んだわけだが――かなり、適当な気持ちで買っている。
よく調べもしないで知識もないまま始めるのはまったくもって危険で、愚かな行為だろう。
ただ、そういう意味では、1年~3年前から、株を始めてみようとは思っていたわけであり、証券会社に口座を開いたのももう一年以上前になるが、その間、いろいろ理由を付けてやっていなかったわけだが、取り敢えず始めてみなければ何も始まらない。0を1にした、と、そんなイメージ。
NISA口座の申し込みも、同時に行った、今日この頃である。
USB機器の取り外しなんてのは、PCトラブルでもっとも初めに試してみるべきことであり、当然僕も何度もそんなことは試しているわけだけれども、それでも動かず、CMOS初期化や放電やら、いろいろ試してみたわけである。
なんとも、症状は同じく、ASUSのロゴから先に進めずフリーズするというものだが、その解決策が、バラバラで、再現性がない。困ったものだ。
ということで、買い替えを本格的に検討し始める。それにあたって、これまでのPCのスペックについて調べてみることにした。
基本、高額になるのは、
・グラフィックボード
・CPU
・メモリ
・マザーボード
・電源
この種類である。後はケースとか、HDD・SSDとか。
この色々調べるのにあたって、
・Winキー+Rでファイル名を指定して実行を起動し、「shell:startup」と打って、開いたフォルダ内に、起動しておきたいアプリケーション(エクセルとかメモ帳)のショートカットを入れると、Windows起動時に起動できる(win10になってからやり方が不明だった)
・メモリのDDR3という規格から、DDR4への進化は性能も2倍ぐらい上がっていること
・i7-2600(5年前)からi7-6700で、性能は上がっているが、通常の使用用途としてはそれほど体感できるほどの性能向上はないこと。(それよか、SSDとかアクセスするストレージ装置やメモリの進化が大きいこと
・マザーボード(MB)を変更すると、アプリケーションによっては、MBにライセンス情報を組み込ませたりしているため、再認証が必要になる可能性があること
・オフィスは、OEM(original equipment manifacture、スペル適当。PC自体に組み込まれている)ため、他のPCで使ってはならないこと。パッケージ版(インストール先のPCを問わない)ものは、アマゾンで2ライセンスセットで3万5千円ぐらいで販売されていた(パワーポイント込みのビジネス・ホームエデション。ワードとエクセルだけのパーソナルは5千円ぐらい安い)。
OEM版は、2万4千円ぐらいだった。
がわかった。
現行スペック(上記表)を満たすものを揃えようとすると、(HDDやその他機器は除いて)15万ぐらい必要であることが分かった。当時現在のPCを購入したときの値段は、約28万円だった(税込み・送料とかもろもろ込み)。
グラボを現在品で代用すると、6万円引きぐらいで、10万切った金額で作れそうである。自作の方が安くて高性能のPCを作れるというのは嘘ではないのだろう。
オフィスどうするか問題もある。今後もPCの買い替えを考えるなら、永続ライセンス版の方がいい気がする。2台で3万5千円であれば、一台当たり1万7千円ぐらいで、どう考えても安い。しかし、ノートPCを買う予定はない。いっそのこと、ノートPCとデスクトップ、二台とも買おうか、という案も生じる。
などと、検討していたら、有に5時間ぐらい過ぎている気がする。
最近始めた新しい某趣味は、知人の勧められるままに道具をそろえたため、あまり検討はしていなかった。というか、新しい趣味なのであれば、そもそも、道具に何がいいかもよく分からない。実際、使ってみなければ、検討材料がないのだ。スペック(性能指標値)的な良さと、自分が使ってみての体感とは大きく違う。
道具(パーツ)への拘りというのは、ある程度知識や実体験がなければ、あまり意味がない。
というわけで、基本的に、よくよく、よーく考えてから物を購入するため(ここでは、食料品や生活雑貨的なものは除く)、衝動買いというものに無縁である。ので、基本的にお金を貯めることに苦労したことはない。お金に苦労したことがない、と書くと非難轟轟な気がするが、まぁ実際、さほど収入が高いわけではないが、生活レベルが低いので問題ないのである。
ケチか? と問われたら、そうかもしれないが、そういうわけでもない。別に後輩に飲み会や食事をおごってやることに抵抗があるわけでもない。女性とデートにいったときに、女性がお手洗いに立った間に支払いを済ませておくというのも別に構わない。
けれども、それらは、「交際費」という費用として勘案しているものであって、いちおう、これぐらいならいいか、と思っているということである。どうでもいいが、女性が接待してくれるお店も交際費ぐらいに思っている。さらにどうでもいいが、この交際費とは、コミュニケーション能力の向上のため、とも思っている。興味のない女性におごるなんてとんでもない! といった記事をみたが、しかし、何かしら勉強させて頂いていると思っている。思うようにしているというよりも、思っているのだ。よくある、女性が接待してくれるお店で器量がよくない人に当たって後悔したとかいうのもあるけれども、それはそれで面白く興味深い経験をさせてもらったということで、特に落ち込んだりもしない。
何の話かというと、パソコン購入の話だけれども、今も、取り敢えず動いている。一度起動すると、何ら問題なく動いてくれるのである。
んじゃまぁ、このまま使い続けてもいいかなぁとも思ってくる。
しかし、きっと、明日は明日で、起動するとフリーズして、メモリやら何やらを取り外したりなんだりして……というのを毎回毎回やるとなると、このストレスは、多少お金かけてでも解決した方がいいだろうという気になってくる。


届くのおせえ、というのはさておき、読み始める。
ふむふむ、共感できる内容である。しかし、解決策が何とも心もとない、という印象。まだしっかり読んでないけれども、原因とか、駄目な思考パターンとかの分析は良いと思う。けれど、じゃあどうやって解決すればいいのかという策が示されていないような気がする、もう少しちゃんと読まなきゃだけど。
例えば、時間外労働の件とか、管理職がユーティリティプレーヤーになっちゃあかん、とか、そうだそうだ、と思う。
実務と管理は分けるべきだ、というのが解決策の一つだと書かれている。
事務職とかコストダウンで切り離すけれども、それは一時的な経費としては削減できても、結局効率悪いとか、そうかもしれんのだけど、僕はそのレベルじゃなくて、もう少し深い話がほしいと思っている。
業務の複雑化である。
そう、アウトソーシングできる部分はして、コアコンピタンス(核となる事業や業務)に力を注ぐ方がいいのだ。ただ、具体的業務になってくると、当然先の見通しも難しいし、やるべき業務というのも明確に決まっていない場合がある。
そういった場合に、「自分で考えて行動して解決する」ことが求められるわけだけど、そういうことを、うまい具合に「権限移譲」するってのは、結局のところ、その業務についての知識が必要になってくるわけで、その知識を身に着けた管理者ってのは、……まとめると。
まとめると、本来は、その業務を熟知した叩き上げの人が、管理者になれば、具体的にその業務に必要な時間やコストというのが、実感的に分かるわけだから、人の配置やスケジューリングもより具体性をもってできるわけだ。
けれども、複雑化した業務の場合は、「実務者と管理者」が共同的に取り組まなければならなくなる。実務者からの報告によって管理者が管理するという形態が望ましいが、複雑化した業務の場合、その報告の形態が非常に難しい。管理者は、形骸化した報告を聞いて、形骸化した管理を行う……。
まぁ、僕の上のようなことに答えている書籍もあるのだろう。が、結局、その業務内容を熟知する必要があるという点は変わらないと思う。これは、僕が、「生きる意味を考えるのは、結局自分自身でなければならない。人から優れた知見が与えられたとしても、それを判断し、実感に落とし込めるのは他ならない自分だけなのだから」と言っているように、思っているように、仕事の解決法ってのは、ここ具体的でなければ、実効性はないと思うのである。
いや、だからといって、本全般が無意味とは思わない。思考において、足りない部分の補足はどうしても必要だろう。しかし、昨今、自己啓発本を恐らく結構な数を読んだ僕としては、新しい知見なんて、全然見つからんわけである。というのは、傲慢な書き方だけれども、その「表現方法」の違いによって、確かに、胸にストンと落ち込むようなものは、まだまだあるだろう。けれども、核となる部分で、「あ、これは新しい!」「パラダイムシフトが始動する……ずごごご」とかいうのは殆どないのである。
テクニック的な部分はあると思うよ? けれども、「思考」「思想」レベルでは中々ないという意味である。時間管理のライフハック術とかは、結構新しいのはあるかもしれない。
なんか、長くなってまとまりがなくなってきて、ブラウザの反応が、僕のタイピング速度よりも遅くなってきたので、強制終了。
(そう、物語だ! 書こうと思って、ワードを開いて画面を見つめるが、……何も浮かばない! 何も書けない! そう本当に、一文字も書けなかった。ショックだった)
まずは手を動かそう
どうにも、やる気が起きないときというのがあるだろう。先日飲み会に出席し、飲みすぎたのか分からないが、頭の痛さが生じ、帰宅後も結局何もできなかった。飲み会での交流の内容はともかく、結果、家に帰ってからの行動に影響が生じてしまったのは間違いなくデメリットであった。しかし、初対面の人も多いような会だと、気分を乗っけるために少々いつも以上に飲んでしまう。
僕は、いやな気分や、面倒な状態に置かれることを避けたいのだ。初対面の人と「上手く」会話をすることに気をもむなんて、面倒なこと他ならない。合わない人とは仕方がないし、ある程度の次元で上手く付き合えればそれでいいのだ。そう、それは学校生活のように……とか思ったかは分からないが、その性かも分からないが、学校の修学旅行みたいなのに参加して何か戦闘に巻き込まれるような夢をみた。
そして、まだ、今も、気分が優れない。体調もすぐれない。
ああ、しかし、先日、普段とは違う電車に乗って、郊外の流れゆく景色を車窓から見ているとき、そしてその視界のわきには、楽しそうなカップルや、はしゃぐ子供をなだめる若い父親の姿が見えていた。
僕は一人、氷の入ったコーヒーを飲んでいた。
体調も、透き通ったように軽かった。
寒くもなく、熱くもなかった。
ウォークマンの、静かなBGMが耳の奥を撫でていく。
僕は、こんな時間がずっと続いてもいいかもしれない、と思った。何をするでもない、ただ悠久の時間。
株を購入
指値していだけれども、とある銘柄を初めて注文してみた。NISAの方がいいとか、こっちの証券会社の方がいいとか、いろいろ考えていたが、結局判断ができなかったから、もう思い切って、まずは購入することから始めてみた。じゃあ、少額でいいじゃないかというところだが、単元が1000株だったので30万円強となった。
一つ、書いておけば、株って、普通の買い物と違う感覚だと思った。買い物は、お金を使って物を手に入れるものだが、株の場合は、いったい全体、何を買っているのか感覚がよく分からない。このよく分からない感覚を言語化しておきたいと思うのだけれども、いってみれば、何か減っている感覚ではないということだ。
当たり前かもしれない。あくまで投資は、利益を出すことが目的なので、損しようと思って買うことはない。30万の買い物とは大きいが、――そもそも、買い付け余力として100万円証券会社に振り込んだわけだが――かなり、適当な気持ちで買っている。
よく調べもしないで知識もないまま始めるのはまったくもって危険で、愚かな行為だろう。
ただ、そういう意味では、1年~3年前から、株を始めてみようとは思っていたわけであり、証券会社に口座を開いたのももう一年以上前になるが、その間、いろいろ理由を付けてやっていなかったわけだが、取り敢えず始めてみなければ何も始まらない。0を1にした、と、そんなイメージ。
NISA口座の申し込みも、同時に行った、今日この頃である。
PC買い替えの検討
で、パソコンの方は、相変わらず調子が悪いが、基盤をいろいろいじっていると、時折起動するので、だましだまし使っている。今回は、USB機器を全部取り外して、1回、2回ぐらい再起動したら繋がった。USB機器の取り外しなんてのは、PCトラブルでもっとも初めに試してみるべきことであり、当然僕も何度もそんなことは試しているわけだけれども、それでも動かず、CMOS初期化や放電やら、いろいろ試してみたわけである。
なんとも、症状は同じく、ASUSのロゴから先に進めずフリーズするというものだが、その解決策が、バラバラで、再現性がない。困ったものだ。
ということで、買い替えを本格的に検討し始める。それにあたって、これまでのPCのスペックについて調べてみることにした。
基本、高額になるのは、
・グラフィックボード
・CPU
・メモリ
・マザーボード
・電源
この種類である。後はケースとか、HDD・SSDとか。
この色々調べるのにあたって、
・Winキー+Rでファイル名を指定して実行を起動し、「shell:startup」と打って、開いたフォルダ内に、起動しておきたいアプリケーション(エクセルとかメモ帳)のショートカットを入れると、Windows起動時に起動できる(win10になってからやり方が不明だった)
・メモリのDDR3という規格から、DDR4への進化は性能も2倍ぐらい上がっていること
・i7-2600(5年前)からi7-6700で、性能は上がっているが、通常の使用用途としてはそれほど体感できるほどの性能向上はないこと。(それよか、SSDとかアクセスするストレージ装置やメモリの進化が大きいこと
・マザーボード(MB)を変更すると、アプリケーションによっては、MBにライセンス情報を組み込ませたりしているため、再認証が必要になる可能性があること
・オフィスは、OEM(original equipment manifacture、スペル適当。PC自体に組み込まれている)ため、他のPCで使ってはならないこと。パッケージ版(インストール先のPCを問わない)ものは、アマゾンで2ライセンスセットで3万5千円ぐらいで販売されていた(パワーポイント込みのビジネス・ホームエデション。ワードとエクセルだけのパーソナルは5千円ぐらい安い)。
OEM版は、2万4千円ぐらいだった。
がわかった。
現行スペック(上記表)を満たすものを揃えようとすると、(HDDやその他機器は除いて)15万ぐらい必要であることが分かった。当時現在のPCを購入したときの値段は、約28万円だった(税込み・送料とかもろもろ込み)。
グラボを現在品で代用すると、6万円引きぐらいで、10万切った金額で作れそうである。自作の方が安くて高性能のPCを作れるというのは嘘ではないのだろう。
オフィスどうするか問題もある。今後もPCの買い替えを考えるなら、永続ライセンス版の方がいい気がする。2台で3万5千円であれば、一台当たり1万7千円ぐらいで、どう考えても安い。しかし、ノートPCを買う予定はない。いっそのこと、ノートPCとデスクトップ、二台とも買おうか、という案も生じる。
などと、検討していたら、有に5時間ぐらい過ぎている気がする。
買い物について
株の話を書いたけれども、基本的に僕は、買い物するときはとことん検討する。最近始めた新しい某趣味は、知人の勧められるままに道具をそろえたため、あまり検討はしていなかった。というか、新しい趣味なのであれば、そもそも、道具に何がいいかもよく分からない。実際、使ってみなければ、検討材料がないのだ。スペック(性能指標値)的な良さと、自分が使ってみての体感とは大きく違う。
道具(パーツ)への拘りというのは、ある程度知識や実体験がなければ、あまり意味がない。
というわけで、基本的に、よくよく、よーく考えてから物を購入するため(ここでは、食料品や生活雑貨的なものは除く)、衝動買いというものに無縁である。ので、基本的にお金を貯めることに苦労したことはない。お金に苦労したことがない、と書くと非難轟轟な気がするが、まぁ実際、さほど収入が高いわけではないが、生活レベルが低いので問題ないのである。
ケチか? と問われたら、そうかもしれないが、そういうわけでもない。別に後輩に飲み会や食事をおごってやることに抵抗があるわけでもない。女性とデートにいったときに、女性がお手洗いに立った間に支払いを済ませておくというのも別に構わない。
けれども、それらは、「交際費」という費用として勘案しているものであって、いちおう、これぐらいならいいか、と思っているということである。どうでもいいが、女性が接待してくれるお店も交際費ぐらいに思っている。さらにどうでもいいが、この交際費とは、コミュニケーション能力の向上のため、とも思っている。興味のない女性におごるなんてとんでもない! といった記事をみたが、しかし、何かしら勉強させて頂いていると思っている。思うようにしているというよりも、思っているのだ。よくある、女性が接待してくれるお店で器量がよくない人に当たって後悔したとかいうのもあるけれども、それはそれで面白く興味深い経験をさせてもらったということで、特に落ち込んだりもしない。
何の話かというと、パソコン購入の話だけれども、今も、取り敢えず動いている。一度起動すると、何ら問題なく動いてくれるのである。
んじゃまぁ、このまま使い続けてもいいかなぁとも思ってくる。
しかし、きっと、明日は明日で、起動するとフリーズして、メモリやら何やらを取り外したりなんだりして……というのを毎回毎回やるとなると、このストレスは、多少お金かけてでも解決した方がいいだろうという気になってくる。
ゆとりの法則を読む
アマゾンで注文したら届いた。届くのおせえ、というのはさておき、読み始める。
ふむふむ、共感できる内容である。しかし、解決策が何とも心もとない、という印象。まだしっかり読んでないけれども、原因とか、駄目な思考パターンとかの分析は良いと思う。けれど、じゃあどうやって解決すればいいのかという策が示されていないような気がする、もう少しちゃんと読まなきゃだけど。
例えば、時間外労働の件とか、管理職がユーティリティプレーヤーになっちゃあかん、とか、そうだそうだ、と思う。
実務と管理は分けるべきだ、というのが解決策の一つだと書かれている。
事務職とかコストダウンで切り離すけれども、それは一時的な経費としては削減できても、結局効率悪いとか、そうかもしれんのだけど、僕はそのレベルじゃなくて、もう少し深い話がほしいと思っている。
業務の複雑化である。
そう、アウトソーシングできる部分はして、コアコンピタンス(核となる事業や業務)に力を注ぐ方がいいのだ。ただ、具体的業務になってくると、当然先の見通しも難しいし、やるべき業務というのも明確に決まっていない場合がある。
そういった場合に、「自分で考えて行動して解決する」ことが求められるわけだけど、そういうことを、うまい具合に「権限移譲」するってのは、結局のところ、その業務についての知識が必要になってくるわけで、その知識を身に着けた管理者ってのは、……まとめると。
まとめると、本来は、その業務を熟知した叩き上げの人が、管理者になれば、具体的にその業務に必要な時間やコストというのが、実感的に分かるわけだから、人の配置やスケジューリングもより具体性をもってできるわけだ。
けれども、複雑化した業務の場合は、「実務者と管理者」が共同的に取り組まなければならなくなる。実務者からの報告によって管理者が管理するという形態が望ましいが、複雑化した業務の場合、その報告の形態が非常に難しい。管理者は、形骸化した報告を聞いて、形骸化した管理を行う……。
まぁ、僕の上のようなことに答えている書籍もあるのだろう。が、結局、その業務内容を熟知する必要があるという点は変わらないと思う。これは、僕が、「生きる意味を考えるのは、結局自分自身でなければならない。人から優れた知見が与えられたとしても、それを判断し、実感に落とし込めるのは他ならない自分だけなのだから」と言っているように、思っているように、仕事の解決法ってのは、ここ具体的でなければ、実効性はないと思うのである。
いや、だからといって、本全般が無意味とは思わない。思考において、足りない部分の補足はどうしても必要だろう。しかし、昨今、自己啓発本を恐らく結構な数を読んだ僕としては、新しい知見なんて、全然見つからんわけである。というのは、傲慢な書き方だけれども、その「表現方法」の違いによって、確かに、胸にストンと落ち込むようなものは、まだまだあるだろう。けれども、核となる部分で、「あ、これは新しい!」「パラダイムシフトが始動する……ずごごご」とかいうのは殆どないのである。
テクニック的な部分はあると思うよ? けれども、「思考」「思想」レベルでは中々ないという意味である。時間管理のライフハック術とかは、結構新しいのはあるかもしれない。
なんか、長くなってまとまりがなくなってきて、ブラウザの反応が、僕のタイピング速度よりも遅くなってきたので、強制終了。
(そう、物語だ! 書こうと思って、ワードを開いて画面を見つめるが、……何も浮かばない! 何も書けない! そう本当に、一文字も書けなかった。ショックだった)
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今日の一言「何だか気持ちが曇っているときは、とにかく書いていきましょう」「面白くないことを書いてしまうことの不安や恐怖もまた生ず」
エアコンが不要になってから久しい。新入生、新入社員も、新しい環境に慣れ始め、五月病が深刻化している時期である。
気づけば、こんな時期である。
月日が経つスピードに唯々圧倒される。
そういえば、昨年の今頃は、「いろいろ」あった。主に、生活面で変化が大きかった。
一睡もできない日々が続いた、と書けたら分かりやすいけれども、厳密な徹夜は若いころから全然できない。ただ、1~2時間で目が覚めて、みたいな状態はあった。
離婚、以外に、大事な人との永遠の別れもちょうど重なった。いろいろ、であった。
けれども、終わってみると、何とあっけないものであろうか。
ふと、数日間、異なる環境で生活していたけれども、いつもと違う人たちと生活すると、「ふつう」「常識」という言葉が、相当、かなり、自分の人生というものに対し影響していると気づかされる。
例えば、学校に行って、部活動をして、友人をつくって、大学に行って、恋人をつくって、バイトをして、就職して、車を買って、部下を育成し、昇格して、結婚し、マイホームを買って、子どもをつくって、育てて、子どもとキャッチボールをして、両親の介護をして、二人目をつくって、退職をして、両親とお別れをして、孫をみて、……死ぬ。
その順番とか、内容の深度とかは兎も角、なんとなく、地元で暮らしていた頃はそんなことを、当たり前だと思っていた、気がする。
そいで、まぁ、そんなルートに外れないようにと、せっせと、「頑張って」いた気がする。
小学生低学年の頃までは良かった。思考というものは殆ど生じていなかった。それ以降、その時々で、「当たり前」というのに、亀裂や懊悩が生じ、翳りを見せ始めていった。何とか、修正しようと試みた。しかし、それを「努力」と呼ぶことの、なんと哀しいことか。
特に、若者の将来について、大人が夢を語るような、そんな番組をみた。
それ自体は面白かったし、高校生や大学生が、真剣に議論する様は、応援したい気持ちになった。
若者には未来がある。
俺には、無い。
いや、俺にも夢はあった……のか?
漠然と、俺は、悩んでいる人に寄り添って、助けてあげたかった。生きていていいんだ、つらいのは貴方だけじゃないんだ、って、そんな風に励ましてあげるような、見守ってあげられるような、そんな仕事をしたかった。そういった仕事をして、お金をもらって生きていけたらいいなって思った。
けれども、どこまで真剣に考えたかは置いておいて、そういった「導ける人」ってのは、根本から「明るい人」じゃないとダメなんだなって、そう思わされた。楽天的な人というのか、「人は何故生きるのか?」なんて考えないような人。そういった、カリスマ性がある人。ルックスや、腕力で人を納得させられる人。
俺はどうやら、そういう人間ではないようだと、気づかされた。
せいぜい、馴れ合い程度しかできない。「つらいんだね。僕もつらいんだよ」と、共感するぐらいしかできない。しかし、それは本当の意味での「救い」ではない。結局何も変えられない。
だったら、悩んでいる人への救いは、そうした、カリスマ性のある人に任せる。俺には、向いていないのだ、と。
宮台さんは、終わりなき日常を生きろという。
フランクルさんは、人生に意味を求めるのではない、人生から意味を問われているのだ、と仰っている。
ある方は、「生きる意味を考えるというのは、自分自身を知ることである」と仰っていた。その方は、自分を見つめる中で、自分のしたいことを漠然とした中で、少しずつ具体化していっている。
俺は、まだ立ち止まっているのか。
余談だが、俺はこう、夜更けに、もしくは黄昏時に、一人思索に耽っているのが好きだ。
毎週バイトだり、出かける用事があったり、忙しい日々が続き、ふと予定がなくなった日などとても良い。
窓から差し込む燃ゆる夕陽が、部屋に明暗の縞をつくる様など、思考を止めて侘寂の思いを生じさせる。
ただ、こうした思いは、日々の生活の「切れ目」にあるからこそ、静かに心を打つのであって、その「日常」が無いときには、黄昏の思いは生じないのではないかと思う。
閑話休題。
5月は、あっという間に終わるだろう。
一年は、あっという間に過ぎるだろう。
気づけば、いろんなものを手にして、そしてそれ以上に無くしているのだろう。
お金は大事。だが、それ以上に、時間が大事。
役に立つというのは、そう、別に、お金になる儲け話とかじゃなくてもいいし、ライフハック的な何かじゃなくてもいい。
ただ、誰かに、何らかの影響を与えられるような、そんな可能性が欲しい。
その影響は、できれば、プラスのものであったら嬉しい。
いやむしろ、マイナスな影響何て与えたくない。
よし、何か最近のことメモをしてみるか。
話は、うーん、見たやつがたまたまだったのかもしれないけれども、世にも奇妙な物語とかの方が話の深さ的には面白いと思う。ただ、何か作業中に見るのはいい気がする。
アニメーションと同じで、途中まではちまちま読んでいて、後半が近づくにつれて一気に読んでしまう。電車から降りても中々やめられず、そのまま立ち尽くしながら読んでいた。それだけ引き込まれていった。
序盤は、詳細な歴史の教科書を読んでいるようで、少々退屈であった。章立てのタイトルも分かりづらい。きっと意味があるのだろうけれども、一巻を読み終えてもまだ分かっていない。「読者諸氏に置かれては、主人公の人となりについて、まずはこのような描写に止めておくことで満足されたい」とか、そんな視点(書き方)も気持ちを倦厭させた。時折入る訳注は、確かに、アラビア(イスラム圏)についての知識が足りない自分にとってはありがたかったものの、何だか物語の趣向を削がれてしまう。
おそらく、某氏の勧めがなければ、書店で手に取ったとしても購入することはなかったであろう。しかし、一巻を読み終えた今だから分かる。これは面白い。ということで、二巻、三巻の購入も決定した。
しっかし。一巻に登場する稀代の魔術師である主人公は、なんとも醜悪な男である。
途中までは、ルックスから疎まれ、蔑まされた王子が知略をもってし成り上がる話だと思っていたが、――いやその予測はある意味当たってはいたのだが――とんでもなかった。
だがこの物語はまだ始まったに過ぎない。二巻、三巻とどのように展開していくか楽しみである。
ブログ公開用のグラフ画像をワンクリックで出力できる機能を追加。
現状、一か月おきの集計なので、半年ぐらいしたら、年次のグラフを出力できる機能を追加して、ひとまず完成ということにしようかと検討している。
そして、某WEBサイトでも、大きな改修を近々に行うことを宣言したため、これもスケジュールを組んで対応していきたいと思う。
まとまった時間があれば、いろいろ進めてみたいと思いつつ、平日とか、優先度はどうしても低くなる。
文字がかなり綺麗に見えるし、クロームで書いていて頻発したクラッシュ問題も一度も起こったことがなくて気に入っていたのだが……。試しに、クロームを起動したら、やっぱりサクサク動く。となると、やはりブラウザに原因がありそうだ。他にも、クリックごとに新しいタブが開いたり、使いづらい点が多かったりするが、だが、文字の表示のきれいさは、段違いである。やはりスレイプニールを使いたい。遅い原因を探ろう。
そして、次回は、「コンプレックス」について書こう。もう時間がなくなってしまった。
役に立つ情報とは、「客観的」なものだ。つまり、事実であれば再現性があって、思考ならば論理性が求められるものである。
それ以外のものは、一人称に過ぎず、つまり、「あー、君がそう思うんなら、そうなんじゃないの」程度のものである。
仕事って、そういうものである。感情は、唾棄される。
コミュニケーションとかいうけれど、それは、再現性と論理性を円滑にまわしていくための「技法」に過ぎない。本当の、人間的な、カオスの、アナログな、複雑な感情というのは、もともとノーサンキューなのである。
という観点でいけば、僕のブログの役に立つ度は、0.001%に満たないだろう。
唯一、かどうか分からないが、真理に近いのは、「唯一絶対普遍の真理など存在しない」というものであるが、じゃあこれが「論理的」かというと、そうではないし、むしろ、真理に対する否定である命題のため、甚だ役に立つか不明である。
だがここで、僕は一つ言いたくなることがある。「役に立つ情報」=「客観的」(=再現性があり、論理的であるもの)という等式が、果たして役に立つのか。
もちろん、「役に立つ情報」∋「客観的」(※1)というのは正しいだろう。その逆は疑問だ。客観的であれば、必ず役に立つかは疑問だからだ。
必要条件というのと、十分条件という言葉が、何回覚えても忘れてしまう(※2)が、「役に立つ情報」と「客観的」というのは、
(1)役に立つ情報 ⇒ 客観的
(2)客観的 ⇒ 役に立つ情報
結局どちらも成り立たないから、必要条件でも、十分条件でもないってことか。
つまり、反例が一つでもあればよいので、(1)は、役に立つ情報が、必ずしも客観的ではないこともあるから、偽。
(2)は、同じく、客観的であるからといって、必ずしも役に立つとは限らないから、偽。
じゃあ、役に立つ情報って、なんだよ!
となったとき、それは、「人の心を動かすもの」(感動させるもの)ではなかろうか。
些末な情報だとしても、「へー、そうなんだ」と少しでも思わせたなら、それは感動したということであり、何らかの影響をその人に与えられたということだ。「よくわらかない」「つまらなかった」というのは、確かに「なんの役にも立たなかった」と言いたくなってしまうが、しかしそれでも、感動ではある。
ということは、「あれはつまらなかった」ということが分かったということで、それは一種、「役に立つ情報」と言えるのではなかろうか。
ということは、以下の図式が成り立つ。
役に立つ情報 ⇒ 感動する
逆に、
感動する ⇒ 役に立つ情報
とも言えるのではなかろうか。ということは、感動させる情報というのは、役に立つ情報の「必要十分条件」なのではなかろうか。
※1 A∋B としたとき、BはAに属する、つまり、包含されること(BはAの要素であること)を示す。
※2 p⇒(ならば)q が真のとき、「pは、qの十分条件」「qはpの必要条件」となる。
例)遠藤⇒人間 は真
人間⇒遠藤 は偽
この場合、「遠藤⇒人間」が真なので、遠藤は人間であるための十分条件。
人間は、遠藤であるための必要条件。(=遠藤であれば、必ず人間である)
(だから何だ? という突っ込みが生じたところで、今日は終わり)
当たり前の生活
5月も中旬である。エアコンが不要になってから久しい。新入生、新入社員も、新しい環境に慣れ始め、五月病が深刻化している時期である。
気づけば、こんな時期である。
月日が経つスピードに唯々圧倒される。
そういえば、昨年の今頃は、「いろいろ」あった。主に、生活面で変化が大きかった。
一睡もできない日々が続いた、と書けたら分かりやすいけれども、厳密な徹夜は若いころから全然できない。ただ、1~2時間で目が覚めて、みたいな状態はあった。
離婚、以外に、大事な人との永遠の別れもちょうど重なった。いろいろ、であった。
けれども、終わってみると、何とあっけないものであろうか。
ふと、数日間、異なる環境で生活していたけれども、いつもと違う人たちと生活すると、「ふつう」「常識」という言葉が、相当、かなり、自分の人生というものに対し影響していると気づかされる。
例えば、学校に行って、部活動をして、友人をつくって、大学に行って、恋人をつくって、バイトをして、就職して、車を買って、部下を育成し、昇格して、結婚し、マイホームを買って、子どもをつくって、育てて、子どもとキャッチボールをして、両親の介護をして、二人目をつくって、退職をして、両親とお別れをして、孫をみて、……死ぬ。
その順番とか、内容の深度とかは兎も角、なんとなく、地元で暮らしていた頃はそんなことを、当たり前だと思っていた、気がする。
そいで、まぁ、そんなルートに外れないようにと、せっせと、「頑張って」いた気がする。
小学生低学年の頃までは良かった。思考というものは殆ど生じていなかった。それ以降、その時々で、「当たり前」というのに、亀裂や懊悩が生じ、翳りを見せ始めていった。何とか、修正しようと試みた。しかし、それを「努力」と呼ぶことの、なんと哀しいことか。
幼いころの夢
上のようなことを書いてしまうのは、自分はテレビを殆どみないけれども、テレビを長時間見る機会があったからだと思う。特に、若者の将来について、大人が夢を語るような、そんな番組をみた。
それ自体は面白かったし、高校生や大学生が、真剣に議論する様は、応援したい気持ちになった。
若者には未来がある。
俺には、無い。
いや、俺にも夢はあった……のか?
漠然と、俺は、悩んでいる人に寄り添って、助けてあげたかった。生きていていいんだ、つらいのは貴方だけじゃないんだ、って、そんな風に励ましてあげるような、見守ってあげられるような、そんな仕事をしたかった。そういった仕事をして、お金をもらって生きていけたらいいなって思った。
けれども、どこまで真剣に考えたかは置いておいて、そういった「導ける人」ってのは、根本から「明るい人」じゃないとダメなんだなって、そう思わされた。楽天的な人というのか、「人は何故生きるのか?」なんて考えないような人。そういった、カリスマ性がある人。ルックスや、腕力で人を納得させられる人。
俺はどうやら、そういう人間ではないようだと、気づかされた。
せいぜい、馴れ合い程度しかできない。「つらいんだね。僕もつらいんだよ」と、共感するぐらいしかできない。しかし、それは本当の意味での「救い」ではない。結局何も変えられない。
だったら、悩んでいる人への救いは、そうした、カリスマ性のある人に任せる。俺には、向いていないのだ、と。
何故生きるのか、生きているからだ
同語反復的に、自己言及的に生きよ、というのを、本で読んだ。宮台さんは、終わりなき日常を生きろという。
フランクルさんは、人生に意味を求めるのではない、人生から意味を問われているのだ、と仰っている。
ある方は、「生きる意味を考えるというのは、自分自身を知ることである」と仰っていた。その方は、自分を見つめる中で、自分のしたいことを漠然とした中で、少しずつ具体化していっている。
俺は、まだ立ち止まっているのか。
余談だが、俺はこう、夜更けに、もしくは黄昏時に、一人思索に耽っているのが好きだ。
毎週バイトだり、出かける用事があったり、忙しい日々が続き、ふと予定がなくなった日などとても良い。
窓から差し込む燃ゆる夕陽が、部屋に明暗の縞をつくる様など、思考を止めて侘寂の思いを生じさせる。
ただ、こうした思いは、日々の生活の「切れ目」にあるからこそ、静かに心を打つのであって、その「日常」が無いときには、黄昏の思いは生じないのではないかと思う。
閑話休題。
5月は、あっという間に終わるだろう。
一年は、あっという間に過ぎるだろう。
気づけば、いろんなものを手にして、そしてそれ以上に無くしているのだろう。
お金は大事。だが、それ以上に、時間が大事。
役に立つことを書きたい
と、まぁ、つらつら書いていくのはいつものことだけれども、まぁ、公開する以上は、なんらか、役に立つことを書きたい。役に立つというのは、そう、別に、お金になる儲け話とかじゃなくてもいいし、ライフハック的な何かじゃなくてもいい。
ただ、誰かに、何らかの影響を与えられるような、そんな可能性が欲しい。
その影響は、できれば、プラスのものであったら嬉しい。
いやむしろ、マイナスな影響何て与えたくない。
よし、何か最近のことメモをしてみるか。
笑うセールスマン
笑うセールスマンNEWをアマゾンプライムで見た(無料の奴だけ)。オープニングの曲とアニメーションのセンスがいいと思った。NEWというか、NEWじゃない奴はみたことないのだけれど。話は、うーん、見たやつがたまたまだったのかもしれないけれども、世にも奇妙な物語とかの方が話の深さ的には面白いと思う。ただ、何か作業中に見るのはいい気がする。
アラビアの夜の種族
一巻を読了す。アニメーションと同じで、途中まではちまちま読んでいて、後半が近づくにつれて一気に読んでしまう。電車から降りても中々やめられず、そのまま立ち尽くしながら読んでいた。それだけ引き込まれていった。
序盤は、詳細な歴史の教科書を読んでいるようで、少々退屈であった。章立てのタイトルも分かりづらい。きっと意味があるのだろうけれども、一巻を読み終えてもまだ分かっていない。「読者諸氏に置かれては、主人公の人となりについて、まずはこのような描写に止めておくことで満足されたい」とか、そんな視点(書き方)も気持ちを倦厭させた。時折入る訳注は、確かに、アラビア(イスラム圏)についての知識が足りない自分にとってはありがたかったものの、何だか物語の趣向を削がれてしまう。
おそらく、某氏の勧めがなければ、書店で手に取ったとしても購入することはなかったであろう。しかし、一巻を読み終えた今だから分かる。これは面白い。ということで、二巻、三巻の購入も決定した。
しっかし。一巻に登場する稀代の魔術師である主人公は、なんとも醜悪な男である。
途中までは、ルックスから疎まれ、蔑まされた王子が知略をもってし成り上がる話だと思っていたが、――いやその予測はある意味当たってはいたのだが――とんでもなかった。
だがこの物語はまだ始まったに過ぎない。二巻、三巻とどのように展開していくか楽しみである。
創作進捗グラフ作成ツール
どうやら、さっそく使ってくださっている方がいるようなので、バージョンアップをしてみた。ブログ公開用のグラフ画像をワンクリックで出力できる機能を追加。
現状、一か月おきの集計なので、半年ぐらいしたら、年次のグラフを出力できる機能を追加して、ひとまず完成ということにしようかと検討している。
そして、某WEBサイトでも、大きな改修を近々に行うことを宣言したため、これもスケジュールを組んで対応していきたいと思う。
黒い砂漠
相変わらずストーリーや戦闘(狩り)によるレベルアップを進める時間がなく、単に放置でできる料理とか、野菜果物栽培、まき割りと、生活をしている。まとまった時間があれば、いろいろ進めてみたいと思いつつ、平日とか、優先度はどうしても低くなる。
役に立たないこと
うーむ。最近、何だか、某氏に教えてもらって気に入って使っているブラウザ「スレイプニール」がもっさりしている。文字がかなり綺麗に見えるし、クロームで書いていて頻発したクラッシュ問題も一度も起こったことがなくて気に入っていたのだが……。試しに、クロームを起動したら、やっぱりサクサク動く。となると、やはりブラウザに原因がありそうだ。他にも、クリックごとに新しいタブが開いたり、使いづらい点が多かったりするが、だが、文字の表示のきれいさは、段違いである。やはりスレイプニールを使いたい。遅い原因を探ろう。
そして、次回は、「コンプレックス」について書こう。もう時間がなくなってしまった。
役に立つ情報とは、「客観的」なものだ。つまり、事実であれば再現性があって、思考ならば論理性が求められるものである。
それ以外のものは、一人称に過ぎず、つまり、「あー、君がそう思うんなら、そうなんじゃないの」程度のものである。
仕事って、そういうものである。感情は、唾棄される。
コミュニケーションとかいうけれど、それは、再現性と論理性を円滑にまわしていくための「技法」に過ぎない。本当の、人間的な、カオスの、アナログな、複雑な感情というのは、もともとノーサンキューなのである。
という観点でいけば、僕のブログの役に立つ度は、0.001%に満たないだろう。
唯一、かどうか分からないが、真理に近いのは、「唯一絶対普遍の真理など存在しない」というものであるが、じゃあこれが「論理的」かというと、そうではないし、むしろ、真理に対する否定である命題のため、甚だ役に立つか不明である。
だがここで、僕は一つ言いたくなることがある。「役に立つ情報」=「客観的」(=再現性があり、論理的であるもの)という等式が、果たして役に立つのか。
もちろん、「役に立つ情報」∋「客観的」(※1)というのは正しいだろう。その逆は疑問だ。客観的であれば、必ず役に立つかは疑問だからだ。
必要条件というのと、十分条件という言葉が、何回覚えても忘れてしまう(※2)が、「役に立つ情報」と「客観的」というのは、
(1)役に立つ情報 ⇒ 客観的
(2)客観的 ⇒ 役に立つ情報
結局どちらも成り立たないから、必要条件でも、十分条件でもないってことか。
つまり、反例が一つでもあればよいので、(1)は、役に立つ情報が、必ずしも客観的ではないこともあるから、偽。
(2)は、同じく、客観的であるからといって、必ずしも役に立つとは限らないから、偽。
じゃあ、役に立つ情報って、なんだよ!
となったとき、それは、「人の心を動かすもの」(感動させるもの)ではなかろうか。
些末な情報だとしても、「へー、そうなんだ」と少しでも思わせたなら、それは感動したということであり、何らかの影響をその人に与えられたということだ。「よくわらかない」「つまらなかった」というのは、確かに「なんの役にも立たなかった」と言いたくなってしまうが、しかしそれでも、感動ではある。
ということは、「あれはつまらなかった」ということが分かったということで、それは一種、「役に立つ情報」と言えるのではなかろうか。
ということは、以下の図式が成り立つ。
役に立つ情報 ⇒ 感動する
逆に、
感動する ⇒ 役に立つ情報
とも言えるのではなかろうか。ということは、感動させる情報というのは、役に立つ情報の「必要十分条件」なのではなかろうか。
※1 A∋B としたとき、BはAに属する、つまり、包含されること(BはAの要素であること)を示す。
※2 p⇒(ならば)q が真のとき、「pは、qの十分条件」「qはpの必要条件」となる。
例)遠藤⇒人間 は真
人間⇒遠藤 は偽
この場合、「遠藤⇒人間」が真なので、遠藤は人間であるための十分条件。
人間は、遠藤であるための必要条件。(=遠藤であれば、必ず人間である)
(だから何だ? という突っ込みが生じたところで、今日は終わり)
今日の一言「神々や巨人の戦いに関するべきではない」「卑屈になりゃいいってわけでもない」
そんなことはさておき、僕がすげーなーって思うある精神科医さんのブログに対して、これまたすげーなーって思う漫画家さんの人が自身のブログで記事コメントをしていて非常に面白かった。
お二方とも、それなりのご職業についているわけで、こんなインターネット界隈で論争してても、然程の経済的価値は生み出さないだろう。もちろん、知名度とか、アフィリエイト的な価値を無視するわけではないが、そういったことよりも、むしろ彼らは、「自身の主張」をすることに価値を重きしていることが、何となく伝わってくる。
僕も、同じ作品をみた「仲間」であるので、色々と思うところや言いたいことが生じるのであるが、もうそこらへんは、天上世界の戦いということで、楽しく拝見させて頂くのみである。
この感覚。
これを、先日僕が批判的に書いた、ボクシングとか野球とかの観戦に、自らが参加するでもなく熱中できる人たちの感覚であるのだと、そう表現して構わなければ、僕は先日の言葉を撤回する必要があるかもしれない。
(ただそれは、注釈で書いた通り、「自分がそのスポーツをする際の参考となるだろう意味において」と考えれば、敢えて撤回するほどのことでもない)
アラビアの夜の種族。
第一巻が届く。読み始める。想像していたもの、思っていたものとは違っていたが、面白そうである。一巻の半分ぐらい読んだあたりで、続巻を買うか決めよう。
話は唐突に変わる。
明るい記事を書こう。このブログを開始してから、一年ぐらい経つ。結果的に、書き続けてきて良かったなと思う。
素晴らしい人たちに出会えたことは、何より大切なものである。この出会えたというのは、初めて接触したという意味だけではなく、コメントなどを頂くことによって、その表現や思考に触れることができたこと、そのこと自体もさしている。
僕が求めていたコミュニケーションのカタチが、そこにあった。
他者にあわせて、同調するコミュニケーションは、ホモサピエンスの進化の源でもあり、否定されるものではない。けれども、単なる生きることや、楽しむことを目的としたコミュニケーションを、僕は求めていなかった。
と、書くと、僕の周りの人全員が、享楽的な考えしかもっていないような感じになるけれども、意図はそうではない。対面コミュニケーションの限界、である。いやもちろん、「本音を言い合える仲」の友人を、ちゃんとつくっていないということに批判は当然あるだろう。けれども、そういった仲の友人がいないというのが問題ではなく、「本音を、好きな時に好きなように言える」ということが僕が求めていたものであったのだ。
そんな、小学生じみた思いを抱き続けているなど、なんと惨めで矮小な人間であるのか。
それは致し方ないと思ってきている。僕は、意味を求めてしまった。求めるしかないような状態におかれてしまった。
まさに、僕が、こういったことを思い、書く、その過程そのものが、「生きるということの重荷の積み下ろし」な気もしてくる。
たぶん、僕なんかよりもコミュニケーション能力があって、できることも多くて、頭の回転も速いような人である。
しかし、そんな人でも、行き詰って、悩んだりするのである。いわんや、僕は。
・dotamaさんというラッパーについて
⇒PCと人間のバトル動画
・オルフェンズ2期8話「火星の王」におけるタカキくんの選択
・ ・・・
いざ書こうとすると思い出せない。そういうもんか。
ウォッチしているブログさんが30を超えた。こうなってくると、もっと精査してもよいかなという気になってくる。更新頻度とか、内容とか。
すごーい良いと思う記事を書いてくださるかたであっても、頻度が一年に一回であれば、ウォッチリスト(更新チェッカー)に入れておくのも微妙な気がしてくる。
かずうちゃあたる、じゃあないが、量はときどき、質を凌駕する場合があることを忘れてはならない。
んでまー、その、内容的な精査をするにあたって、「同じことを繰り返し」書かれているブログさんは、整理対象になるだろう。
しかし、この「繰り返し」とは、決して、「結論」が同じという意味ではない。
上の、dotamaさんという方のことは、まさにいつも訪問させて頂いているブログさんで取り上げられていたから知った。ラップとか、ほとんど聞いたこともないし興味もなかったが、面白いと思った。
ブラックサンダーの動画とか、これ、いいなぁ。めっちゃ笑ったけど考えさせられた。いやなんかこれ、結局非リア負けてねぇか? と思いながら全4エピソードみて、最後のエピソードのエンディングがよくまとまっていると思った。是非続きがあったら見たい作品の一つとなったのであった……。
恋人に先立たれて苦しんでいる人、婚活で彼氏を見つけて愛をはぐくんでる人、いろいろいらっしゃる。その毎日に、劇的なイベントがあるわけではない。たいてい、僕らの人生の毎日など、似たようなことの繰り返しである。(※1)
様々な作品だって同じである。主人公たちの毎日を、事細かにピックアップしたって、面白い作品にはならない。筋トレ修行シーンを、365日流されても、なんじゃそりゃとなる。
大事なのはプロセスである、と先日書いたけれども、もう一つ、「表現」も重要である。
・ああ、つらい、つらい、もう人生やっていけない。死んだほうがましだ、俺なんてダメな奴だ
そんなネガティブな人を、僕は嫌いではない。(※2)
ネガティブな女の子とか可愛いと思う。本当の意味でのリア充、イケメンは、当然それだけで価値があるのだけれども、いわんや人は、強くもあり弱くもあるので、であるならば、「ネガティブ」の人の方が、他者の痛みや思いやりを分かっている、そんな風に思うのだ。(決して、ポジティブの人が思いやりがないというわけではない。(※4))
というわけで、ネガティブな記事が面白くないとか、駄目だとか、ブクマはずそうとか、そういう意味ではない。
ただ、その結論に至るまでの表現が、常に同じものであったときに、その価値は急速に失われていく。(壊れたレコード)
1.既存の問題を効率よく解決すること
2.成長すること
1.がビジネス的には役に立つことである。ここでいう「既存の問題」というのは、ディープラーニングのように、新しい概念を提示(医療・介護のプランを提示したりとか、ビッグデータからマーケティングの特徴を提示するとか)できる場合も含めて考えている。
2.の方が、僕が期待している部分だけれども、僕らの言ったことを「理解」し、それを「解釈」し、新しい「経験」としてインプットし、それをもとに新しい「アウトプット」を行うということ。これが、より「汎用的な」部分で可能になること。そんなことを期待している。
それって、じゃあ、何かに役に立つのか、というと、たぶん、エンターテイメント的な意味でしか役に立たなそうだけれども。
※1蛇足:だからこそ、僕は、少しでも違った風にしたくて、何か書きたくなるのかもしれないが)
※2:この表現について、ある方は、「そりゃあな、ネガティブとか、底辺の人間のブログとかに人気があるのは、そいつをみてると、落ち着くからだ。安心感があるからだ」と看破されている。非常に鋭い。けれども、この感覚(※3)をもってしまうというのは、それだけで人生つらい可能性がある。
※3:自分の感覚を、同時に客観視してしまうことは、必ずしも良いことではない
※4:ポジティブの人の思いやりは、その純粋性において価値があるけれども、それは天性の感覚のようでもある。ネガティブの人は、その「痛み」(=実感)があるがゆえに、それを避けようと考える場合がある。それはとても論理的な、人間的な行為に思えるのである。まぁもっとも、その痛みゆえに、他者に対して攻撃的になったり、自分自身を攻め続けて潰れてしまう場合だってあるわけなので、ネガティブも手放しで肯定することはできない。(長々書いているが、当たり前のことである。しかし、明確に表現しておくことに重要性がある)
上に書いてきたように、僕は、ネガティブだろうが、ポジティブだろうが、そんなことはどっちでもいいと思っているけれども、「変化」(ここでいう変化は、自己と、それを取り巻く環境の両面を含む)がなければ、面白いとは思えない。
すぐさま、書いておくべきは、その変化が、先日書いた「攻めの人生」と一致してはいないということである。
先日、「鉄血のオルフェンズでは、特に興味があるキャラクターがいなかった」と書いたけれども、それは撤回したい。妹を学校にいれてあげたいという思いから民間軍事会社に就職したタカキくんという男の子は、一期では「ふーん」ぐらいだったけれども、二期ではとてもかっこよかった(敵に利用され、その判断は、結果的に間違っていたわけだけれども)。
2期8話目で、彼は大きな決断をするわけだけれども、その決断が、他の仲間たちの方向性とも異なっていて、けれども、とても説得力もあってよかった。この辺りは、機会があれば改めて書いてみたいと思う。――この作品、僕はもう、この8話目が最終話でもいいんじゃないかと思うぐらい良かった(かっこわらい)。
話はずれたが、「変化」ってのは、どんな場面や生き方でもできるもんである。
「攻めの人生」というのは、先日の記事で便宜上表現しただけだが、じゃあ、「守りの人生」と呼ぶべきものがあったとして、それは、「変化」なくしてやってけるものなのか? ということだ。
守ったって、攻めたって、どっちみち変化は避けられないのである。(というのを、また宗教臭くなって嫌だと思う人も多いだろうが、「諸行無常」と言ったりする)
長くなったので、この辺にしておきたい。ダラダラとであれば、まだしばらく書き続けられそうだけれども、「変化」という意味で、もう少し今後は、まとまりのある文章を書きたいものである。
(思い出した、そういえば、「定義する」ということ、それ自体について書こうと思ったんだった。まぁとにかくオルフェンズは最後まで見よう)
知識人のバトルは面白い
商業的な意味におけるテレビ討論なんて、何ら価値がないと思っている。もちろん、「何ら」なんてのは修辞表現に過ぎず、「商業的」に意味があるんだから、価値が全くないはずもない。そんなことはさておき、僕がすげーなーって思うある精神科医さんのブログに対して、これまたすげーなーって思う漫画家さんの人が自身のブログで記事コメントをしていて非常に面白かった。
お二方とも、それなりのご職業についているわけで、こんなインターネット界隈で論争してても、然程の経済的価値は生み出さないだろう。もちろん、知名度とか、アフィリエイト的な価値を無視するわけではないが、そういったことよりも、むしろ彼らは、「自身の主張」をすることに価値を重きしていることが、何となく伝わってくる。
僕も、同じ作品をみた「仲間」であるので、色々と思うところや言いたいことが生じるのであるが、もうそこらへんは、天上世界の戦いということで、楽しく拝見させて頂くのみである。
この感覚。
これを、先日僕が批判的に書いた、ボクシングとか野球とかの観戦に、自らが参加するでもなく熱中できる人たちの感覚であるのだと、そう表現して構わなければ、僕は先日の言葉を撤回する必要があるかもしれない。
(ただそれは、注釈で書いた通り、「自分がそのスポーツをする際の参考となるだろう意味において」と考えれば、敢えて撤回するほどのことでもない)
本音のコミュニケーション
話は唐突に変わる。アラビアの夜の種族。
第一巻が届く。読み始める。想像していたもの、思っていたものとは違っていたが、面白そうである。一巻の半分ぐらい読んだあたりで、続巻を買うか決めよう。
話は唐突に変わる。
明るい記事を書こう。このブログを開始してから、一年ぐらい経つ。結果的に、書き続けてきて良かったなと思う。
素晴らしい人たちに出会えたことは、何より大切なものである。この出会えたというのは、初めて接触したという意味だけではなく、コメントなどを頂くことによって、その表現や思考に触れることができたこと、そのこと自体もさしている。
僕が求めていたコミュニケーションのカタチが、そこにあった。
他者にあわせて、同調するコミュニケーションは、ホモサピエンスの進化の源でもあり、否定されるものではない。けれども、単なる生きることや、楽しむことを目的としたコミュニケーションを、僕は求めていなかった。
と、書くと、僕の周りの人全員が、享楽的な考えしかもっていないような感じになるけれども、意図はそうではない。対面コミュニケーションの限界、である。いやもちろん、「本音を言い合える仲」の友人を、ちゃんとつくっていないということに批判は当然あるだろう。けれども、そういった仲の友人がいないというのが問題ではなく、「本音を、好きな時に好きなように言える」ということが僕が求めていたものであったのだ。
そんな、小学生じみた思いを抱き続けているなど、なんと惨めで矮小な人間であるのか。
それは致し方ないと思ってきている。僕は、意味を求めてしまった。求めるしかないような状態におかれてしまった。
まさに、僕が、こういったことを思い、書く、その過程そのものが、「生きるということの重荷の積み下ろし」な気もしてくる。
労働と人生について
ある方が、自身の生き方に関するブログ記事を書き始めている。データが消失するなど、困難にも直面しつつ、少しずつ書き進めているようだ。たぶん、僕なんかよりもコミュニケーション能力があって、できることも多くて、頭の回転も速いような人である。
しかし、そんな人でも、行き詰って、悩んだりするのである。いわんや、僕は。
数日経って
いろいろと書きたいことが発生す。・dotamaさんというラッパーについて
⇒PCと人間のバトル動画
・オルフェンズ2期8話「火星の王」におけるタカキくんの選択
・ ・・・
いざ書こうとすると思い出せない。そういうもんか。
ウォッチしているブログさんが30を超えた。こうなってくると、もっと精査してもよいかなという気になってくる。更新頻度とか、内容とか。
すごーい良いと思う記事を書いてくださるかたであっても、頻度が一年に一回であれば、ウォッチリスト(更新チェッカー)に入れておくのも微妙な気がしてくる。
かずうちゃあたる、じゃあないが、量はときどき、質を凌駕する場合があることを忘れてはならない。
んでまー、その、内容的な精査をするにあたって、「同じことを繰り返し」書かれているブログさんは、整理対象になるだろう。
しかし、この「繰り返し」とは、決して、「結論」が同じという意味ではない。
上の、dotamaさんという方のことは、まさにいつも訪問させて頂いているブログさんで取り上げられていたから知った。ラップとか、ほとんど聞いたこともないし興味もなかったが、面白いと思った。
ブラックサンダーの動画とか、これ、いいなぁ。めっちゃ笑ったけど考えさせられた。いやなんかこれ、結局非リア負けてねぇか? と思いながら全4エピソードみて、最後のエピソードのエンディングがよくまとまっていると思った。是非続きがあったら見たい作品の一つとなったのであった……。
結論ではなくその表現(プロセス)の重要性
話がずれた、そう、結論は特に気にならない。恋人に先立たれて苦しんでいる人、婚活で彼氏を見つけて愛をはぐくんでる人、いろいろいらっしゃる。その毎日に、劇的なイベントがあるわけではない。たいてい、僕らの人生の毎日など、似たようなことの繰り返しである。(※1)
様々な作品だって同じである。主人公たちの毎日を、事細かにピックアップしたって、面白い作品にはならない。筋トレ修行シーンを、365日流されても、なんじゃそりゃとなる。
大事なのはプロセスである、と先日書いたけれども、もう一つ、「表現」も重要である。
・ああ、つらい、つらい、もう人生やっていけない。死んだほうがましだ、俺なんてダメな奴だ
そんなネガティブな人を、僕は嫌いではない。(※2)
ネガティブな女の子とか可愛いと思う。本当の意味でのリア充、イケメンは、当然それだけで価値があるのだけれども、いわんや人は、強くもあり弱くもあるので、であるならば、「ネガティブ」の人の方が、他者の痛みや思いやりを分かっている、そんな風に思うのだ。(決して、ポジティブの人が思いやりがないというわけではない。(※4))
というわけで、ネガティブな記事が面白くないとか、駄目だとか、ブクマはずそうとか、そういう意味ではない。
ただ、その結論に至るまでの表現が、常に同じものであったときに、その価値は急速に失われていく。(壊れたレコード)
少し脱線(AIについて)
人工知能に期待している面もあるが、それがビジネスに役立てる意味に向いているうちは、十分な興味をもてない。というのは、人工知能とは、以下の二つの解釈ができるからである。1.既存の問題を効率よく解決すること
2.成長すること
1.がビジネス的には役に立つことである。ここでいう「既存の問題」というのは、ディープラーニングのように、新しい概念を提示(医療・介護のプランを提示したりとか、ビッグデータからマーケティングの特徴を提示するとか)できる場合も含めて考えている。
2.の方が、僕が期待している部分だけれども、僕らの言ったことを「理解」し、それを「解釈」し、新しい「経験」としてインプットし、それをもとに新しい「アウトプット」を行うということ。これが、より「汎用的な」部分で可能になること。そんなことを期待している。
それって、じゃあ、何かに役に立つのか、というと、たぶん、エンターテイメント的な意味でしか役に立たなそうだけれども。
※1蛇足:だからこそ、僕は、少しでも違った風にしたくて、何か書きたくなるのかもしれないが)
※2:この表現について、ある方は、「そりゃあな、ネガティブとか、底辺の人間のブログとかに人気があるのは、そいつをみてると、落ち着くからだ。安心感があるからだ」と看破されている。非常に鋭い。けれども、この感覚(※3)をもってしまうというのは、それだけで人生つらい可能性がある。
※3:自分の感覚を、同時に客観視してしまうことは、必ずしも良いことではない
※4:ポジティブの人の思いやりは、その純粋性において価値があるけれども、それは天性の感覚のようでもある。ネガティブの人は、その「痛み」(=実感)があるがゆえに、それを避けようと考える場合がある。それはとても論理的な、人間的な行為に思えるのである。まぁもっとも、その痛みゆえに、他者に対して攻撃的になったり、自分自身を攻め続けて潰れてしまう場合だってあるわけなので、ネガティブも手放しで肯定することはできない。(長々書いているが、当たり前のことである。しかし、明確に表現しておくことに重要性がある)
同じことしか表現されないのはAIにも劣る
ちょっと辛辣な表現を敢えてすれば、「ある事象」に対して、繰り返し同じ感情を抱き(ここまでは良い)、同じアウトプット(愚痴だとか、実質的暴力だとか)しかできないのは、動物と同じである。知能がある、とは言い難い。上に書いてきたように、僕は、ネガティブだろうが、ポジティブだろうが、そんなことはどっちでもいいと思っているけれども、「変化」(ここでいう変化は、自己と、それを取り巻く環境の両面を含む)がなければ、面白いとは思えない。
すぐさま、書いておくべきは、その変化が、先日書いた「攻めの人生」と一致してはいないということである。
先日、「鉄血のオルフェンズでは、特に興味があるキャラクターがいなかった」と書いたけれども、それは撤回したい。妹を学校にいれてあげたいという思いから民間軍事会社に就職したタカキくんという男の子は、一期では「ふーん」ぐらいだったけれども、二期ではとてもかっこよかった(敵に利用され、その判断は、結果的に間違っていたわけだけれども)。
2期8話目で、彼は大きな決断をするわけだけれども、その決断が、他の仲間たちの方向性とも異なっていて、けれども、とても説得力もあってよかった。この辺りは、機会があれば改めて書いてみたいと思う。――この作品、僕はもう、この8話目が最終話でもいいんじゃないかと思うぐらい良かった(かっこわらい)。
話はずれたが、「変化」ってのは、どんな場面や生き方でもできるもんである。
「攻めの人生」というのは、先日の記事で便宜上表現しただけだが、じゃあ、「守りの人生」と呼ぶべきものがあったとして、それは、「変化」なくしてやってけるものなのか? ということだ。
守ったって、攻めたって、どっちみち変化は避けられないのである。(というのを、また宗教臭くなって嫌だと思う人も多いだろうが、「諸行無常」と言ったりする)
長くなったので、この辺にしておきたい。ダラダラとであれば、まだしばらく書き続けられそうだけれども、「変化」という意味で、もう少し今後は、まとまりのある文章を書きたいものである。
(思い出した、そういえば、「定義する」ということ、それ自体について書こうと思ったんだった。まぁとにかくオルフェンズは最後まで見よう)
今日の一言「なんだか久々な気がする」「過去の記事を読むと最近のことのようだ」
自由とは何か、責任とは何か。お金を稼ぐとは何か、生きるとは何か。そういった問いはわきに置いておこう。完全に捨て去るのではない、ちょっとばかり、保留にするのである。
最近ふと思うのだけれども、「冒頭」が大事だと思う。面白い物語というのは、これからどういった展開がまっているのか、最初に期待させてくれるものだ。もちろん、優れた作者・創作者の作品は、序盤がふつーでも、これまでの経験から後半にきっと楽しませてくれるだろうという信仰があるがゆえに、読み進めることができる。(しかし、村上春樹さんの1Q84は、50ページぐらいで投げ出した。前編後編まとめて新品で買ったのに、そのまま中古本屋いきとなった珍しいパターンだ。その後、レビューとかあらすじとか紹介しているのを見ると、後半は結構面白そうな気もしたけれども、また買って読もうとは思えない)
本当に心の底までしみ込んでくるような作品というのは、小説媒体が多いと思う。しかし、小説というのは、頭を使うし、その、「読む」という行為を行うだけの環境整備が必要になる。ページをめくる腕や指は、その読むという作業に特化する必要がある。簡単な言葉で表現するなら、小説媒体はコストがかかるのだ。
一方で、映像作品(映画・アニメ)は、食事中でも見ることができる。視聴コストが低いのである。(漫画は、その中間か)
実際、序盤、1話~5話? あたりは、そんなに引き込まれてはいなかった。ただ、中盤以降に描かれるという主人公のダークさ、「ま、いっか、こいつは殺してもいい奴だから」という台詞のシーン(※)みたさに、流しで見ていった。
そうこうしているうちに、だんだん引き込まれていった。主人公の一団が、テイワーズというマフィア的な企業と提携することになり、義兄弟の契りを結ぶシーンとか、楽しかった。
現在、オープニングテーマが変わる話数まで視聴完了したが、一期については、最後までみようという意思が強くなっている。
※噂で聞くのと、実際に自分で見るのとは、やはり印象が異なっている。まさか、こんなにもさらっと描かれる(OP前の)シーンだったとは。前知識なく自分一人で観ていたら、気にもとめないシーンだったかもしれない。けれども確かに、主人公の葛藤を描く重要なシーンの一つであることは疑い得ない。
それ以外にも、ヒロインの唇をあまり深く考えず奪ったあたりで手が震えていたり、農園をひらきたいと夢を語るところとか、文字の勉強をするところとか、幼馴染のオルガくんと、同じ「我」という文字があるところにちょっと嬉しそうにしたりとか、子どもらしい可愛いところがある。それと反して、敵は容赦なく殺しちゃうところが、こうして思い返すと、ダーク系主人公としていい感じだなぁ。
しかし、序盤、あまりのめり込めなかった理由は、ヒロインの二人に魅力が感じられなかったところだ。なんだろう、10年前ぐらいだったら、ときめいていた気もするが……。話しが段々それていくが、マクロスFの二人のヒロインも、どちらにも魅力が殆ど感じられなかったので、途中でほおりだしてしまった。
うーむ、そういう意味だと、オルフェンズも、誰か応援したいような、強い感情移入というか、憧れ的なキャラクターはいないなぁ。強いてあげれば、タービンズの名瀬さんとか、ギャラルホルンという軍事組織の尉官であったクランクさんはかっこよかった。超序盤で某少年兵に惨殺され物語の舞台から退場してしまうが……。
そういえば、初代ガンダムの、ランバ・ラル大尉もかっこよかった。逆に、それ以外、あまり魅力的なキャラクターがいなかった気がする。ガンダムシリーズって、群像劇(小説で言えば、第三者視点)なわけなので、魅力的なキャラクターが仰山いるか、ストーリーが目まぐるしく面白いかしないと、継続してみようという気になれないのである(※※)。
※※とか、熱烈なファンが多いガンダムシリーズについて批判的なことを書くと、ファンの方々から石を投げられるだろう。しかしこれは単に、今現在、自分にとっては合わない、というレベルに過ぎず、大した問題ではない。僕はエヴァとか攻殻が好きだけれども、それを面白くないという人もいるわけだ。僕も、そういう人には、面白い点を是非知ってもらいたいと思って色々話したくなってしまうだろうけれども、合わないもんはしょうがない。それこそ多様性だ、価値観だ。
・鉄血のオルフェンズ
・攻殻機動隊実写版(ゴーストインザシェル)
・映画リセット
殴り書きしたメモが残っていなかったら、「リセット」とか、見たことすら忘れていた。
この映画は、不完全燃焼だった。なるほど、アマゾンレビューにあるように、キリスト教の原罪と天地創造(ノアの大洪水後の再生のような)をテーマにしているようなことは、神への冒涜を口走るごとに危険が発生するような描写から感じ取ることができた。
しかし、この記事の冒頭で書いたように、その「冒頭」において、そもそも、これが何を描いた作品なのかが、全く分からず、非常に退屈だったといえる。結局、「闇」とは何だったのかも明確に明かされることもない。深い意味はともかく、ドンパチアクションで楽しませる作品もあるけれども、取りあえず人がどんどん闇に飲み込まれていくというパニックが描写されるだけで、よく分からない。
ああ、その、よく分からなさでいくと、もう一つ思い出した。
・映画フィギュアなあなた
18禁作品だが、ふとアマゾンプライムであったので見てみた。女の人の裸体をみることが目的であればよかろうが、これもストーリーがひどかった。
序盤の、主人公が会社において、損失を出した失敗を上司から一人に押し付けられて、左遷させられるシーンとか、まぁ掴みとしてはいいと思う。主人公の怒りというか、苛立ちというか、憎しみというか、哀しみというか、自暴自棄になっていく様がよく表現されていたように思う。しかし、肝心な、等身大フィギュアを拾った後のストーリーがどうにもこうにも冗長で、早送りなしには見ることができなかった。
この残念さ加減。これが、小説媒体で、無理して最後まで読み続けて、結局やっぱり駄目だった、となると、もうこの時間を無駄にした感じが多大なものになる。だらだらと、昼まで寝てしまったときの方が、まだマシに思えてしまうから不思議である。
音読、の成果は分からないが、筋トレは、正直、大したことをやっていないのだけれども、身体の見た目に分かる程効果はあった。始める前に写真とっておけばよかったけれども、僧帽筋、上腕二頭筋が太くなり、腹筋のしわが深くなった。
(筋肉の名称)
正しい筋トレの仕方とか、健康器具とか、健康サプリとか、まぁ色々あるけれども、とにかく、継続することができなければ、成果には結びつかない。だからこそ、「何を」継続するかについて、非常に重要なのである。だから、目標とか、目的をしっかりもちなさいと、僕はいつも自分に言っている、のであるが、残念ながら迷走中である。
ようやく、ここから、書こうと思ったことに取り掛かれる。
……のだけれども、どうにも長くなってしまったのでいったん打ち切ろう。
後編へ続く、的な。この記事は、最近みた作品についてのコメントのみで終わってしまったようだ。一つ、書いておくべきは、作品への批判が目的ではないということだ。あくまでも、「自分はこう思った」ということへのメモである。
聖書くらいしか物語がなかった中世以前とは異なり、今や、小説、映画、漫画、ドラマ、演劇、落語、オペラ、数々の物語と、その表現技法に溢れているのが現代である。
どんなに頭が良くて、時間の使い方が上手い人でも、そのすべてに触れることは不可能である。
であるからにして、自分はどういった作品を求めているのか、これまでどういったものを観たとき、どういった感覚を抱いたのか、それを表現しておくことは、非常に重要なのである。
ということを書いてみて、もう一つ、最近取りあげようと思ったものを思い出した。
読者と作者のための地雷作品回避法三種
――限界まで耐える、途中で打ち切る、読まずに避ける
地雷作品の回避、と銘打っているが、実際は、面白い作品に効率的に出会う方法とも読み替えることが可能だろう。
僕も、無意識的に、ここで挙げられている三種の方法を実践していたわけだけれども、こうして、理論的というか、緻密に表現されているのを読んで、直観的に「長い!」と思ったけれども、それ以上に唯々すごいなぁと思った。
僕の記事も長さでは時おり負けてはいないと思うけれども、話しがあっちらこっちら飛んでいったり、理論的ではなく感覚的に「こう思う」と断じてしまっていたりと、似ても似つかない構成である。
上のブログの方は、頭が良くて実直な方なんだなぁと思う。
こういう方の記事を読んでいると、いやぁ俺ってダメな奴だなぁと思ってしまうのだけれども、まぁ僕のように、こんなテキトーに記事を書くというのも、時おり面白かったり、大事だったりするんだよ、ということを、どこかの誰かにちょっとでも伝えられたらいいなぁと、そんな淡い期待を抱きつつ。
(続く)
敢えて何もしない日をつくる
何かを求めて、何かをしなければと焦燥にかられる毎日である。休日であっても、何かを充実させなければならないという強迫観念が生じる。やめよう。自由とは何か、責任とは何か。お金を稼ぐとは何か、生きるとは何か。そういった問いはわきに置いておこう。完全に捨て去るのではない、ちょっとばかり、保留にするのである。
最近ふと思うのだけれども、「冒頭」が大事だと思う。面白い物語というのは、これからどういった展開がまっているのか、最初に期待させてくれるものだ。もちろん、優れた作者・創作者の作品は、序盤がふつーでも、これまでの経験から後半にきっと楽しませてくれるだろうという信仰があるがゆえに、読み進めることができる。(しかし、村上春樹さんの1Q84は、50ページぐらいで投げ出した。前編後編まとめて新品で買ったのに、そのまま中古本屋いきとなった珍しいパターンだ。その後、レビューとかあらすじとか紹介しているのを見ると、後半は結構面白そうな気もしたけれども、また買って読もうとは思えない)
本当に心の底までしみ込んでくるような作品というのは、小説媒体が多いと思う。しかし、小説というのは、頭を使うし、その、「読む」という行為を行うだけの環境整備が必要になる。ページをめくる腕や指は、その読むという作業に特化する必要がある。簡単な言葉で表現するなら、小説媒体はコストがかかるのだ。
一方で、映像作品(映画・アニメ)は、食事中でも見ることができる。視聴コストが低いのである。(漫画は、その中間か)
オルフェンズ
ガンダムシリーズは、初代の総集編映画を見てから、二作目となるが、鉄血のオルフェンズをみている。これは、あるエンターテイナーが面白いレビューというか感想を書かれているから興味をもったわけであるが、多分、そうした紹介を目にしなければ、一生見ることはなかったように思える。多分、対面コミュニケーションで、友人から薦められても、食指が動かなかったろうと思う。実際、序盤、1話~5話? あたりは、そんなに引き込まれてはいなかった。ただ、中盤以降に描かれるという主人公のダークさ、「ま、いっか、こいつは殺してもいい奴だから」という台詞のシーン(※)みたさに、流しで見ていった。
そうこうしているうちに、だんだん引き込まれていった。主人公の一団が、テイワーズというマフィア的な企業と提携することになり、義兄弟の契りを結ぶシーンとか、楽しかった。
現在、オープニングテーマが変わる話数まで視聴完了したが、一期については、最後までみようという意思が強くなっている。
※噂で聞くのと、実際に自分で見るのとは、やはり印象が異なっている。まさか、こんなにもさらっと描かれる(OP前の)シーンだったとは。前知識なく自分一人で観ていたら、気にもとめないシーンだったかもしれない。けれども確かに、主人公の葛藤を描く重要なシーンの一つであることは疑い得ない。
それ以外にも、ヒロインの唇をあまり深く考えず奪ったあたりで手が震えていたり、農園をひらきたいと夢を語るところとか、文字の勉強をするところとか、幼馴染のオルガくんと、同じ「我」という文字があるところにちょっと嬉しそうにしたりとか、子どもらしい可愛いところがある。それと反して、敵は容赦なく殺しちゃうところが、こうして思い返すと、ダーク系主人公としていい感じだなぁ。
しかし、序盤、あまりのめり込めなかった理由は、ヒロインの二人に魅力が感じられなかったところだ。なんだろう、10年前ぐらいだったら、ときめいていた気もするが……。話しが段々それていくが、マクロスFの二人のヒロインも、どちらにも魅力が殆ど感じられなかったので、途中でほおりだしてしまった。
うーむ、そういう意味だと、オルフェンズも、誰か応援したいような、強い感情移入というか、憧れ的なキャラクターはいないなぁ。強いてあげれば、タービンズの名瀬さんとか、ギャラルホルンという軍事組織の尉官であったクランクさんはかっこよかった。超序盤で某少年兵に惨殺され物語の舞台から退場してしまうが……。
そういえば、初代ガンダムの、ランバ・ラル大尉もかっこよかった。逆に、それ以外、あまり魅力的なキャラクターがいなかった気がする。ガンダムシリーズって、群像劇(小説で言えば、第三者視点)なわけなので、魅力的なキャラクターが仰山いるか、ストーリーが目まぐるしく面白いかしないと、継続してみようという気になれないのである(※※)。
※※とか、熱烈なファンが多いガンダムシリーズについて批判的なことを書くと、ファンの方々から石を投げられるだろう。しかしこれは単に、今現在、自分にとっては合わない、というレベルに過ぎず、大した問題ではない。僕はエヴァとか攻殻が好きだけれども、それを面白くないという人もいるわけだ。僕も、そういう人には、面白い点を是非知ってもらいたいと思って色々話したくなってしまうだろうけれども、合わないもんはしょうがない。それこそ多様性だ、価値観だ。
最近みた作品
・外見至上主義・鉄血のオルフェンズ
・攻殻機動隊実写版(ゴーストインザシェル)
・映画リセット
殴り書きしたメモが残っていなかったら、「リセット」とか、見たことすら忘れていた。
この映画は、不完全燃焼だった。なるほど、アマゾンレビューにあるように、キリスト教の原罪と天地創造(ノアの大洪水後の再生のような)をテーマにしているようなことは、神への冒涜を口走るごとに危険が発生するような描写から感じ取ることができた。
しかし、この記事の冒頭で書いたように、その「冒頭」において、そもそも、これが何を描いた作品なのかが、全く分からず、非常に退屈だったといえる。結局、「闇」とは何だったのかも明確に明かされることもない。深い意味はともかく、ドンパチアクションで楽しませる作品もあるけれども、取りあえず人がどんどん闇に飲み込まれていくというパニックが描写されるだけで、よく分からない。
ああ、その、よく分からなさでいくと、もう一つ思い出した。
・映画フィギュアなあなた
18禁作品だが、ふとアマゾンプライムであったので見てみた。女の人の裸体をみることが目的であればよかろうが、これもストーリーがひどかった。
序盤の、主人公が会社において、損失を出した失敗を上司から一人に押し付けられて、左遷させられるシーンとか、まぁ掴みとしてはいいと思う。主人公の怒りというか、苛立ちというか、憎しみというか、哀しみというか、自暴自棄になっていく様がよく表現されていたように思う。しかし、肝心な、等身大フィギュアを拾った後のストーリーがどうにもこうにも冗長で、早送りなしには見ることができなかった。
この残念さ加減。これが、小説媒体で、無理して最後まで読み続けて、結局やっぱり駄目だった、となると、もうこの時間を無駄にした感じが多大なものになる。だらだらと、昼まで寝てしまったときの方が、まだマシに思えてしまうから不思議である。
ルーチン(筋トレと音読)
この記事の右にあるブログパーツ、カウントアップを観れば、180日を超えている。半年を継続することができたということである。これは結構頑張ったといえるだろう。音読、の成果は分からないが、筋トレは、正直、大したことをやっていないのだけれども、身体の見た目に分かる程効果はあった。始める前に写真とっておけばよかったけれども、僧帽筋、上腕二頭筋が太くなり、腹筋のしわが深くなった。
(筋肉の名称)
正しい筋トレの仕方とか、健康器具とか、健康サプリとか、まぁ色々あるけれども、とにかく、継続することができなければ、成果には結びつかない。だからこそ、「何を」継続するかについて、非常に重要なのである。だから、目標とか、目的をしっかりもちなさいと、僕はいつも自分に言っている、のであるが、残念ながら迷走中である。
ゴールデンウィークと夏休みの予定(を立てたかった)
さて。ようやく、ここから、書こうと思ったことに取り掛かれる。
……のだけれども、どうにも長くなってしまったのでいったん打ち切ろう。
後編へ続く、的な。この記事は、最近みた作品についてのコメントのみで終わってしまったようだ。一つ、書いておくべきは、作品への批判が目的ではないということだ。あくまでも、「自分はこう思った」ということへのメモである。
聖書くらいしか物語がなかった中世以前とは異なり、今や、小説、映画、漫画、ドラマ、演劇、落語、オペラ、数々の物語と、その表現技法に溢れているのが現代である。
どんなに頭が良くて、時間の使い方が上手い人でも、そのすべてに触れることは不可能である。
であるからにして、自分はどういった作品を求めているのか、これまでどういったものを観たとき、どういった感覚を抱いたのか、それを表現しておくことは、非常に重要なのである。
ということを書いてみて、もう一つ、最近取りあげようと思ったものを思い出した。
読者と作者のための地雷作品回避法三種
――限界まで耐える、途中で打ち切る、読まずに避ける
地雷作品の回避、と銘打っているが、実際は、面白い作品に効率的に出会う方法とも読み替えることが可能だろう。
僕も、無意識的に、ここで挙げられている三種の方法を実践していたわけだけれども、こうして、理論的というか、緻密に表現されているのを読んで、直観的に「長い!」と思ったけれども、それ以上に唯々すごいなぁと思った。
僕の記事も長さでは時おり負けてはいないと思うけれども、話しがあっちらこっちら飛んでいったり、理論的ではなく感覚的に「こう思う」と断じてしまっていたりと、似ても似つかない構成である。
上のブログの方は、頭が良くて実直な方なんだなぁと思う。
こういう方の記事を読んでいると、いやぁ俺ってダメな奴だなぁと思ってしまうのだけれども、まぁ僕のように、こんなテキトーに記事を書くというのも、時おり面白かったり、大事だったりするんだよ、ということを、どこかの誰かにちょっとでも伝えられたらいいなぁと、そんな淡い期待を抱きつつ。
(続く)
今日の一言「命は光陰に移されて暫くもとどめ難し」「一年が経つぜ」
が、辞書的な定義としては、語り聞かせることということでもあり、何もフィクションに限定されるものではない。
僕はこの記事で、「人生は物語である」という主張をしようと思うのだけれども、その主張の意味するところは、自分の生き方を構築する上での、方法論の整理ということである。
よって、「人生は物語ではない」という主張と対立をする必要はないと思う。
人生とは何か。生きてから死ぬまでの、生きている間のことである。それを、どのように全うするのか。
……上のような問題提起のやり方では、僕は、言葉が出てこない。何だか、面白くない。心が動かない。
落ち着いた時間。何も予定がない時間。そんな休日。それが幸せである。
幸せ?
幸せって何だ。平穏な感情。時間。空間と時間。
責任。自らの行為が、現実に与える影響について、自分が引き受けること。
しかし、その責任の所在は、法律という、人が作り上げたルールに基づくものになる。
僕は、人に、何かを教える仕事をしたかった。
しかし、いろいろ考えて、僕自身が、いったい、何が教えられるのか分からなくなって、辞めた。何か、ピンポイントの知識を教えることは可能だろう。けれども、「人格」として、人間として、何か教えることができるかと自問自答した際に、僕は、あまりにも自分自身に、自信がなかった。
どんな生き方が正しいのか、分からなかった。
どうすれば、普遍的に、みんな幸せになれるのか分からなかった。
勉強を教える仕事もしたことがある。けれども、何故勉強をするのか。勉強をしたら必ず幸せになれるのか、自信はもてなかった。
言い換えれば、責任をとるのが嫌だったのかもしれない。否定されるのが嫌だったのかもしれない。「お前の生き方は間違っている!」とか「お前のせいで人生が失敗した!」とか言われるのが嫌だったのかもしれない。そんなふうに言われても、他者の人生なんて背負えない、そう思ったのかもしれない。
そんな風にいろいろ悩んでいた時期について、「必死に考えていた」という表現ができるかどうか、僕は疑問である。遊んでいる時間はあったのだ。一分一秒、ずっと真剣に考えていたわけではなかった。睡眠時間だってあった。寝る間を惜しんで毎日考えていたかというと、そうではなかった。
必死さが足りなかったと、過去の自分を責めることはいくらでも可能だろう。
むしろ、過去にかえって、もっといろんなことにチャレンジしてみて、その結果、もっとひどいことになる可能性だってあることを、タイムマシンに期待する人たちは思わないのだろうか。
「あのとき、ああしておけばよかった」
というのは、その時間平面上での結果であって、過去にもどって、もう一度その場面をやったときに、その「ああしたこと」の結果がどうなるかなど、わかりゃしないのである。そういう意味で、僕は、過去に戻りたいと思ったことはこの方一度もない。やり直したい自分の人生など、いついつ時点もありはしない。後悔という感情が生じたことがないと言えばうそになろうが、少し時間をおいて冷静に考えれば、せめてできるのは、反省と言う作業にすぎない。
だから、僕は、この先、残りの、10年なのか、20年なのか、30年なのか、40年なのか、50年なのか60年なのか分からないが、その残りの時間をどう使おうかしか考えないことにする。(する、というか、している。)
ちなみに、70年はないだろう。60年もない気がする。多分、それぐらいになると、そもそも、「自己」という単一の記憶維持が曖昧になっている気がする。分かりやすく書けば、「ボケ」ているだろう。
その段階までになって、未だ、「自分とは何か」「生きる意味とは何なのか」なんて考えているとは、ちょっと想像しにくい。
その、最後の最後で、「ああ、ワシの人生は、本当に無意味じゃったのぅ……」と、そんな風に思って死んでいく可能性がなくもないが、多分、先日みた、「ザ・ノンフィクション」の特殊清掃の現場なんかみていると、「ウッ苦しい、た、助けてくれ、うぁあぐああぎゃああ! ……」と、「死」を感じることができるかどうかも、不明なところだ。
先日、ちょっと危険な目にあったけれども、その瞬間は、「死ぬ」とかどうとか、感じている暇はなかった。とにかく、目の前の危険の対処に全身全霊意識が集中していた。そんなもんである。
だから、「死」を考えることができるのは、逆説的だが、結局、安全に生きている今、でしかありえない。
トイレ掃除もしたし、エアコンのフィルター清掃も行った。エアコンのフィルターはかなり埃がたまっていた。一か月に一度掃除するというのは必要かもしれない。あの埃の中で暖房を焚いていたと思うと、少し気分が悪くなる。
料理もするようになった。今日つくった焼きポテトは、分厚く切りすぎたせいか、火の通りが悪かった。まぁ自分で食べる分には十分だ。人に出せるレベルの料理も作れるようになった方がよいのだが。
目標というのは、何か、「できるようになること」に対しての行動方策である。最近、それがないのだ。
焦るな、今年の大目標は何だ? そう、整理をすることだ。体系と、住居。身の回りを見渡す。うん、いい感じだ。少しずつ物が整理されてきている。この休日は、箱類を整理した。HDDとかその他ソフトウェア等の空き箱だ。引っ越しとか、もろもろをするときはあって便利だった。けれども、捨てることにしよう。使用頻度が低いけれども、スペースを広く使っているものは、思い切って捨てた方がいい。本の整理にいつも時間を使うけれども、本は、意外と並べておけばそう邪魔にはならないのだ。それ以外の、細々としたものの整理が、綺麗に部屋を保つために必要であろう。
なら書いてみよう、書いてみる。その内容のなさに驚愕する! 仕方がない、知能が低いのだから仕方がないと思いつつ、いつもなら、そのまま投稿する。しかし、最近、他者のブログで面白い記事を読んだ。おーん。これは……こんな、どーでもいい、くだらないことを書いている俺は、いったい何なんだ。こんなもん投稿していいのかあああ(言外の叫び)。
ふむ……。
なるほど、やはり、何か、インプットが無ければ、僕は書けないのだ。一からなにか新しいことを生み出せるなんて、そんな天才だなんて自分を思ってはいかんのである。
んで、そのインプットした内容に対する感動さ……思いというのが、なにも、自分だけの特別なものだという思い、それすらもかなぐり捨てて良かろう。
信じて、よかろう。
自分のこの感性、感覚、思い、思考、感覚、感動、目的、意味……信念、生き様、その他に共感や、近いものを思ってくれる人が存在することを。
まー苦難である。深い付き合いをしなければそんな人と出会えることはないし、それをするにあたってぶつかりあって、時に傷つくことや嫌な思いをすることもあろう。
それだけではない。そもそも、他者とかかわるということは、自分自身の上記の感覚等を、上手い具合に表現する方法を明確にしておく必要がある。
それでも、何もせずに厭世するよりはよかろう。
(たまには、ものすごい明るい記事でも書いてみようか。嘘くさくなりそうだな)
物語という言葉について
まず、物語という語をきくと、小説やドラマなど、フィクションを想像する。が、辞書的な定義としては、語り聞かせることということでもあり、何もフィクションに限定されるものではない。
僕はこの記事で、「人生は物語である」という主張をしようと思うのだけれども、その主張の意味するところは、自分の生き方を構築する上での、方法論の整理ということである。
よって、「人生は物語ではない」という主張と対立をする必要はないと思う。
人生とは何か。生きてから死ぬまでの、生きている間のことである。それを、どのように全うするのか。
……上のような問題提起のやり方では、僕は、言葉が出てこない。何だか、面白くない。心が動かない。
なりたい職業
他者と自分……。何だろうか、何もないところから、言葉をつむぐのは難しい。落ち着いた時間。何も予定がない時間。そんな休日。それが幸せである。
幸せ?
幸せって何だ。平穏な感情。時間。空間と時間。
責任。自らの行為が、現実に与える影響について、自分が引き受けること。
しかし、その責任の所在は、法律という、人が作り上げたルールに基づくものになる。
僕は、人に、何かを教える仕事をしたかった。
しかし、いろいろ考えて、僕自身が、いったい、何が教えられるのか分からなくなって、辞めた。何か、ピンポイントの知識を教えることは可能だろう。けれども、「人格」として、人間として、何か教えることができるかと自問自答した際に、僕は、あまりにも自分自身に、自信がなかった。
どんな生き方が正しいのか、分からなかった。
どうすれば、普遍的に、みんな幸せになれるのか分からなかった。
勉強を教える仕事もしたことがある。けれども、何故勉強をするのか。勉強をしたら必ず幸せになれるのか、自信はもてなかった。
言い換えれば、責任をとるのが嫌だったのかもしれない。否定されるのが嫌だったのかもしれない。「お前の生き方は間違っている!」とか「お前のせいで人生が失敗した!」とか言われるのが嫌だったのかもしれない。そんなふうに言われても、他者の人生なんて背負えない、そう思ったのかもしれない。
そんな風にいろいろ悩んでいた時期について、「必死に考えていた」という表現ができるかどうか、僕は疑問である。遊んでいる時間はあったのだ。一分一秒、ずっと真剣に考えていたわけではなかった。睡眠時間だってあった。寝る間を惜しんで毎日考えていたかというと、そうではなかった。
必死さが足りなかったと、過去の自分を責めることはいくらでも可能だろう。
残りの人生をどう使うか
過去を責めても、戻れるわけでもないし、戻ったところで、結局、何か大きく変えることはできないだろう。今の自分の知識や感情があったとしても、時間的限界性や身体的限界性によって、未来を劇的に変えることなどできはしない。むしろ、過去にかえって、もっといろんなことにチャレンジしてみて、その結果、もっとひどいことになる可能性だってあることを、タイムマシンに期待する人たちは思わないのだろうか。
「あのとき、ああしておけばよかった」
というのは、その時間平面上での結果であって、過去にもどって、もう一度その場面をやったときに、その「ああしたこと」の結果がどうなるかなど、わかりゃしないのである。そういう意味で、僕は、過去に戻りたいと思ったことはこの方一度もない。やり直したい自分の人生など、いついつ時点もありはしない。後悔という感情が生じたことがないと言えばうそになろうが、少し時間をおいて冷静に考えれば、せめてできるのは、反省と言う作業にすぎない。
だから、僕は、この先、残りの、10年なのか、20年なのか、30年なのか、40年なのか、50年なのか60年なのか分からないが、その残りの時間をどう使おうかしか考えないことにする。(する、というか、している。)
ちなみに、70年はないだろう。60年もない気がする。多分、それぐらいになると、そもそも、「自己」という単一の記憶維持が曖昧になっている気がする。分かりやすく書けば、「ボケ」ているだろう。
その段階までになって、未だ、「自分とは何か」「生きる意味とは何なのか」なんて考えているとは、ちょっと想像しにくい。
その、最後の最後で、「ああ、ワシの人生は、本当に無意味じゃったのぅ……」と、そんな風に思って死んでいく可能性がなくもないが、多分、先日みた、「ザ・ノンフィクション」の特殊清掃の現場なんかみていると、「ウッ苦しい、た、助けてくれ、うぁあぐああぎゃああ! ……」と、「死」を感じることができるかどうかも、不明なところだ。
先日、ちょっと危険な目にあったけれども、その瞬間は、「死ぬ」とかどうとか、感じている暇はなかった。とにかく、目の前の危険の対処に全身全霊意識が集中していた。そんなもんである。
だから、「死」を考えることができるのは、逆説的だが、結局、安全に生きている今、でしかありえない。
ただ独り黄泉に赴くのみなり
先日、目標にしていた本の読了が終わってから、目標のない生活をしている。トイレ掃除もしたし、エアコンのフィルター清掃も行った。エアコンのフィルターはかなり埃がたまっていた。一か月に一度掃除するというのは必要かもしれない。あの埃の中で暖房を焚いていたと思うと、少し気分が悪くなる。
料理もするようになった。今日つくった焼きポテトは、分厚く切りすぎたせいか、火の通りが悪かった。まぁ自分で食べる分には十分だ。人に出せるレベルの料理も作れるようになった方がよいのだが。
目標というのは、何か、「できるようになること」に対しての行動方策である。最近、それがないのだ。
焦るな、今年の大目標は何だ? そう、整理をすることだ。体系と、住居。身の回りを見渡す。うん、いい感じだ。少しずつ物が整理されてきている。この休日は、箱類を整理した。HDDとかその他ソフトウェア等の空き箱だ。引っ越しとか、もろもろをするときはあって便利だった。けれども、捨てることにしよう。使用頻度が低いけれども、スペースを広く使っているものは、思い切って捨てた方がいい。本の整理にいつも時間を使うけれども、本は、意外と並べておけばそう邪魔にはならないのだ。それ以外の、細々としたものの整理が、綺麗に部屋を保つために必要であろう。
書きたいしかし書けない
ああ、しかし、書くことないなぁ。いや、なんというか、「書きたい」という衝動はあるのだ。なら書いてみよう、書いてみる。その内容のなさに驚愕する! 仕方がない、知能が低いのだから仕方がないと思いつつ、いつもなら、そのまま投稿する。しかし、最近、他者のブログで面白い記事を読んだ。おーん。これは……こんな、どーでもいい、くだらないことを書いている俺は、いったい何なんだ。こんなもん投稿していいのかあああ(言外の叫び)。
ふむ……。
なるほど、やはり、何か、インプットが無ければ、僕は書けないのだ。一からなにか新しいことを生み出せるなんて、そんな天才だなんて自分を思ってはいかんのである。
んで、そのインプットした内容に対する感動さ……思いというのが、なにも、自分だけの特別なものだという思い、それすらもかなぐり捨てて良かろう。
信じて、よかろう。
自分のこの感性、感覚、思い、思考、感覚、感動、目的、意味……信念、生き様、その他に共感や、近いものを思ってくれる人が存在することを。
まー苦難である。深い付き合いをしなければそんな人と出会えることはないし、それをするにあたってぶつかりあって、時に傷つくことや嫌な思いをすることもあろう。
それだけではない。そもそも、他者とかかわるということは、自分自身の上記の感覚等を、上手い具合に表現する方法を明確にしておく必要がある。
それでも、何もせずに厭世するよりはよかろう。
(たまには、ものすごい明るい記事でも書いてみようか。嘘くさくなりそうだな)
