今日の一言「……」
取りあえず、30分を目途に書いてみるか。書くことも、そもそもパソコンを起動させるのも久々である。
色々と、目標を立てて、それに向けてやってこようとした。生活を、いい方向にしようとした。
しかし、いろいろと、仕事が忙しくて、上手くいかなかった。
仕事が忙しいというのは、何だろうか。
忙しくない仕事などというのはあるのだろうか。無い。そこに問題があるのではない。
時間。
存在。
今僕は、何に向かっているのか。
何でもできる。しかし、何もできない。
意味が分からない? 意味、シンボル、記号。シニフィエ、シニフィアン。概念。抽象。答え、真理。
理解。
自分。自己。自我。
コミュニティ、コミュニケーション。
サイコパス、感情、喜怒哀楽、怒り、焦燥、怖れ。
人生は、暇つぶしなのか。すべての芸術は、死からの逃避なのか。
子どもとは愛するものなのか。生きがいなのか。
社会とは何か。システムとは何か。効率化の果ては自己のパーツ化なのか。
唯一性と一回性。すべては、不可逆な時間の中で生み出される。
ただ、信じることができる概念は何か。
その根源を、根本を、意味概念を求めて遡っていく作業、それが哲学というならば、今必要なのは哲学なのか。
夢を見た。夢……それは、日々の業務に押しつぶされること。自分を見失うこと、自分、自分とは。
そういってもらいたい。同時に、それを認められない。頑迷固執の老害である。
認められたい。所属欲求と承認欲求を求めたい。充たされない思いが、自己の消耗へとつながっていく。俺は誰だ。俺は、僕は、私は、誰だ。
表現の違いというが、では、その意味されるものは本当に存在するのか。疑う余地はない、ネコという概念は、catといったり、ロシア語でコーシカ、ドイツ語でカッツェ。呼ばれ方は複数あっても、ネコという概念は疑いようはない。
だが、その猫の概念とはなんだ。耳が二つ、目が二つ。髭が生えている。四足歩行。体毛に覆われている。これだけでは、ネコにはならない。どこまで条件を挙げていけば、ネコになるのだろうか? しかし、そんなことを考えずとも、私たちは、ネコの画像をみたら、一瞬でその猫の概念を認識することができる。
生得的なもの。
自らの身体を信じること。五感。インプットされる情報。それだけが、信じるべき対象。
現象学とは、猫という概念は一先ず置いておき、まずは現実表出しているものに着目する考え方である。ネコという完璧な定義は、辞書をひいても出てこないけれども、取りあえず、辞書的な意味が理解できれば、他者との共通理解を行うことができる。これがコミュニケーションである。
でも、時に人は、ひとりの時間を欲する。
しかしそれは、あくなき、承認欲求を求める、終わりなき戦いではないのか。どこか、小さなサークルでも、会社でも、友人関係のわでもいい。どこか、自分の居場所を求め、そこで、能力を発揮する必要もなく、ただ、存在しているだけで、その所属コミュニティの維持に役立てられるような、そんな存在となること。
それが、所属欲求である。
認められたい、という思いよりも、ただ、その場にいるだけでいい、そんな場所。
ニートや、孤独を愛する人、個人投資家、人間嫌い、そんな人たちも、SNSや、ブログをやったり、記事を書いたりして、何か、繋がりを求めている。
それは何故か。承認欲求を求める場合、投資家としての成功だとか、俺は人とは違うんだぜ、という自尊心を充たそうとしている場合もあるかもしれない。
ただ、それだけではなく、単に、そのインターネットというツールが、自分の居場所を与えてくれるのかもしれない。
本来。家は、家族は、その、居場所であった。
であるからにして、その家族が崩壊するような、家庭内暴力だとか、別居、離婚、姑嫁の確執だとか、ドメスティックな事件は、その当たり前と思われている崩壊を示唆するがため、センセーショナルな報道へと繋がる。
報道と言えば、大きな地震から、数年が経った。
生き残った命は、大切にしなければならない。露命を無常の風に任すること勿れ。
30分が経った。もう外は真っ暗だけど、散歩にでかけよう。
(お酒を飲んでいるわけでもないが、何だか、陶酔的な気分である)
あっという間に
気づいたら1日が終わっていた。本当に時間が過ぎるのは早い。取りあえず、30分を目途に書いてみるか。書くことも、そもそもパソコンを起動させるのも久々である。
色々と、目標を立てて、それに向けてやってこようとした。生活を、いい方向にしようとした。
しかし、いろいろと、仕事が忙しくて、上手くいかなかった。
仕事が忙しいというのは、何だろうか。
忙しくない仕事などというのはあるのだろうか。無い。そこに問題があるのではない。
時間。
存在。
今僕は、何に向かっているのか。
何でもできる。しかし、何もできない。
意味が分からない? 意味、シンボル、記号。シニフィエ、シニフィアン。概念。抽象。答え、真理。
理解。
自分。自己。自我。
コミュニティ、コミュニケーション。
サイコパス、感情、喜怒哀楽、怒り、焦燥、怖れ。
時間
詩や、俳句や、短歌や、散文は、陶酔なのか。人生は、暇つぶしなのか。すべての芸術は、死からの逃避なのか。
子どもとは愛するものなのか。生きがいなのか。
社会とは何か。システムとは何か。効率化の果ては自己のパーツ化なのか。
唯一性と一回性。すべては、不可逆な時間の中で生み出される。
ただ、信じることができる概念は何か。
その根源を、根本を、意味概念を求めて遡っていく作業、それが哲学というならば、今必要なのは哲学なのか。
夢を見た。夢……それは、日々の業務に押しつぶされること。自分を見失うこと、自分、自分とは。
何をすべきか
お前は、これをすべきだ。そういってもらいたい。同時に、それを認められない。頑迷固執の老害である。
認められたい。所属欲求と承認欲求を求めたい。充たされない思いが、自己の消耗へとつながっていく。俺は誰だ。俺は、僕は、私は、誰だ。
表現の違いというが、では、その意味されるものは本当に存在するのか。疑う余地はない、ネコという概念は、catといったり、ロシア語でコーシカ、ドイツ語でカッツェ。呼ばれ方は複数あっても、ネコという概念は疑いようはない。
だが、その猫の概念とはなんだ。耳が二つ、目が二つ。髭が生えている。四足歩行。体毛に覆われている。これだけでは、ネコにはならない。どこまで条件を挙げていけば、ネコになるのだろうか? しかし、そんなことを考えずとも、私たちは、ネコの画像をみたら、一瞬でその猫の概念を認識することができる。
生得的なもの。
自らの身体を信じること。五感。インプットされる情報。それだけが、信じるべき対象。
現象学とは、猫という概念は一先ず置いておき、まずは現実表出しているものに着目する考え方である。ネコという完璧な定義は、辞書をひいても出てこないけれども、取りあえず、辞書的な意味が理解できれば、他者との共通理解を行うことができる。これがコミュニケーションである。
コミュニケーションとは
人は、ひとりでは生きていけない。でも、時に人は、ひとりの時間を欲する。
しかしそれは、あくなき、承認欲求を求める、終わりなき戦いではないのか。どこか、小さなサークルでも、会社でも、友人関係のわでもいい。どこか、自分の居場所を求め、そこで、能力を発揮する必要もなく、ただ、存在しているだけで、その所属コミュニティの維持に役立てられるような、そんな存在となること。
それが、所属欲求である。
認められたい、という思いよりも、ただ、その場にいるだけでいい、そんな場所。
ニートや、孤独を愛する人、個人投資家、人間嫌い、そんな人たちも、SNSや、ブログをやったり、記事を書いたりして、何か、繋がりを求めている。
それは何故か。承認欲求を求める場合、投資家としての成功だとか、俺は人とは違うんだぜ、という自尊心を充たそうとしている場合もあるかもしれない。
ただ、それだけではなく、単に、そのインターネットというツールが、自分の居場所を与えてくれるのかもしれない。
本来。家は、家族は、その、居場所であった。
であるからにして、その家族が崩壊するような、家庭内暴力だとか、別居、離婚、姑嫁の確執だとか、ドメスティックな事件は、その当たり前と思われている崩壊を示唆するがため、センセーショナルな報道へと繋がる。
報道と言えば、大きな地震から、数年が経った。
生き残った命は、大切にしなければならない。露命を無常の風に任すること勿れ。
30分が経った。もう外は真っ暗だけど、散歩にでかけよう。
(お酒を飲んでいるわけでもないが、何だか、陶酔的な気分である)
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