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アラウンドフォーティ
2019/03/09 11:05 | Comments(3) | 思考及び書くこと
今日の一言「定期更新」「ルーチンは大事だ」
◇前書き
 今週はきっと、土日とも書く時間が取れない気がするから、今、30分制限で書く。
 前書き、という書き出しに甘えてしまっている。実際読みたくなる文章は「フック」が必要だ。
 それと、「コンセプト」が明確になっている必要がある。
 様々な投稿サイトなどで作品を読み始めるときに、タイトル、前書き、プロローグと第一話で、読み進めるかどうかが決まるといって過言ではない。
 流麗な文章で始まったらいいのかというと、そうではない、というのは実感としてある。
 最近読んだある作品は、文章力は正直、お前が言うなを脇に置いておいて、十分とはいえなかった。けれども、雪原の中を、仲間たちが、雪玉をぶつけふざけあいながらも、次の集落を目指すという風景は、十分にイメージできた。
 何の難しい言葉など使われていなかったし、語順や表現としても普通、であった。でもそれでも十分なのだ。あ、そろそろ小見出しつけるか。
◇読み続けようと思う作品
 しかし、上の作品は、一話目で閉じてしまった。「コンセプト」が見えなかったからである。
 このアイディアとコンセプトの違いは、もう少し詳しく書いていった方がいいが、今回の記事では見送ろう。
 簡単に書けば、「もし○○だったら?」という投げかけである。
 恋愛至上主義にうんざりして、最終兵器彼女という作品は好きだったが本棚から排除した、というのをかなり昔に書いた気がするが、タイトルから分かるコンセプトの例として分かりやすい。「自分の彼女が、世界を救うための最終兵器だったら?」ということだ。
 この、コンセプトを先に提示しておく、というのが大事だと、最近思った。
 物語の書き始めにおいて、いきなり印象的な戦闘シーンをおく、というのはまぁ重要だが、少し陳腐……と書くと言い過ぎだが、もうちょっと工夫ができないかとも思っていたのである。
 それに対して、その、印象的なシーンをおく、というのもその方向性を求めていいが、同時に、コンセプトを、たとえばタイトルとか前書きにおいて提示しておいて、それが十分魅力的であれば、序盤がやや設定的な記述になったとしても、読者の興味を一応維持できるだろうということだ。
 フェイトステイナイトという作品は(片仮名にすると格好悪いが、スマホからということで許して欲しい)、「もしアーサー王やギルガメッシュなど過去の英雄を現世に召還して万能の願望器の争奪戦が起こったら?」というのがコンセプトだ(たぶん)。めちゃくちゃ中二心をくすぐるだろう。
◇今年の目標として
 せっかく登録した「NOTE」の活用も考えたい。
 しかし、今年は、カクヨム連載中の作品も進めたい。一応裏の目標として、あれは、ブッダが菩提樹の下で悟りを開いた歳までに、30話以上で完結するというのがある。
 その裏の目標、俺は実は結構、まじめに考える度に恐怖なんだ。
「死ぬ」というのは怖いものだ。
 だが、その歳になるまでに、俺は、「方向性」を示そうと思っている。今は大分、絞られてきているが、そこから着実に進んでいこうという覚悟である。
 カウントダウン行動法のことは書いたっけ?
◇カウントダウン行動法
 書いたことないな。書こう。
 行動するときの最終兵器、秘密兵器、裏技、まぁなんでもいいが、そういったものだ。
 朝起きられないとき。
 頭が痛いとき。
 やる気が起きないとき。
 そういうときに、「まぁ、がんばるか」と思って取りかかるだろう。
 それの強化版だ。
 まず、行動するべきことを厳密に定義する。たとえば、朝起きる、というのは未熟だ。布団から起きあがって、二足で立つ、ぐらい具体的にしなければならない。
 次に、30秒なり、10秒なり、それは、その人のやりやすい時間でいいが、俺は、30秒にしている。
 あとは、カウントダウンする。
 それだけだ。単純だ。
 だが、その、0秒になったら、最初に定義した行動を必ずしなければならない。
 必ず、だ。
 このカウントダウン行動法……このネーミングは今考えたが、これをいつからやっているかは分からない。たぶん、高校生ぐらいかな。
 何回使ったか分からないが、これを破ったことは一度もない。
 一度も、だ。
 絶対やる。
 これを破ったら、僕は僕じゃなくなる、ぐらいに思っている。絶対的ルールだ。
 それぐらい強烈なものだ。
 逆に行うと、できる範囲で、精神的な云々で対処できる、物理的に可能な範囲の定義しか行わない、というのもポイントである。
◇35歳
 でだ、その話を戻すと、その絶対ルールレベルで、一歩を進めていこうという掲示、が、その裏の目標である。
 怖い。
 逆に行えば、それまでは、色々試してみる時間と考えている。一種ターニングポイントにしようということだ。
 もちろん、これまでの知見を考えれば、そんな一瞬で変化は起こらないのであって、その瞬間に向けて、徐々に行動法策を絞って鋭角的にしていく必要があるのである。
 と思っている。
(かっこ書きである。カクヨムの記事を、最初から直近まで読み返してみた。面白いと思う。3年ぐらい前から書き始めたが、うん、合格だ。いや、つまらないと思う人にはつまらないと思うだろうし、まぁ読んだところで何か新しい知見は得られないだろうが、だが、文章作品として、俺はおKをだす。まったく知らないどこかで、まったく知らない誰かが、このレベルの作品を書いていれば、とりあえずブックマークはするだろう。そのレベルにはなっている。それを目標にしていたので、合格だ、と思った。もちろん、一部流し読みだったり、後半は疲れて、あんまり読めなかったが(かっこ笑い)。まぁ多くの人もそんな感じだろう。だが、それでいい。多くの書籍だって、斜め読み程度のものだってあるんだ。といったところで三十分、時間切れ)

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役に立つ文章とは
2019/03/05 10:27 | Comments(0) | 思考及び書くこと
役に立つ文章は必要か?
今日の一言「臨時の記事だ」「またスマホからだ」
◇前書き
 前回の記事は、小見出しとの間に改行を挟んでいたが、投稿すると消えてしまった。
 編集の観点からいっても、スマホは適切ではないと思う。
 さて、とある方のブログ記事を読んでいて、文章講座サロンに参加されたということである。それについて、ふと思ったことをメモしておこうと思う。
◇必要性
 個人的に、その方の文章力は卓越しているので、単純に、向上心があってすごいなと思った。よく自己啓発的な云々において、自分と異なる分野の人とか、普段付き合わない人と交流することは大事だという。そういった意味において、脳機能の普段使わない部分がワーキングバーストでレバレッジなサムシングを引き起こすことだろう。
 是非どんなことが話し合われて、どういった方向性が目指される集まりで、そこでどんな気づきや学びがあったのか、続報をお待ちしたい。ちょっと一歩離れたところからの興味津々は野次馬的で好きではないが、まぁ、単純に興味があるというのが自分の感覚のメモしておきたいことだ。
◇役に立つこと
 そこで、キーワードが「役に立つ」という言葉だった。「オタクは役に立たないことに熱中する生き物だ、だから異質な環境でやっていけるのか」(曲解・極解)と述べられていた。
 オタクって何だろうか、そもそも最近、オタクという言葉もきかなくなっている気がする、という、どーどーめぐりの疑問が一つ浮かんだが、まずもって、オタクは役に立たないことに興味を持つ、という定義をしておこう。
 一方で、そのサロンでは、「うける」文章とは、役に立つ文章であるとされているということだ。
 役に立つ、という次元は、二つあると思う。
 実用的な面と、精神的な面。または、物質的な面と精神的な面。もしくは、お金がもうかるという面と、心が満たされる面、と表現してもいいと思う。
 おそらく、そのサロンでは、文章を書くことでお金を稼いで生きていこうと、そういう人たちの集まりなのではないか。で、お金を稼ぐという面での役に立つというのは、上の二元論においては、前者である。
◇お金の価値
 ここで少しわき道にそれて、お金を稼ぐというか、お金という存在自体を考えてみる。教科書的な、価値の尺度です、的なことではなくて、もう少し自分に引きつけて考えてみる必要がある。
 現実問題、お金は、物品取得のためのツールである。そして、物品、生活必需品がなければ、僕らは数日と生きていくことができない。だから、お金を稼ぐ。
 反面、実はお金を使うというのも難しいことである。一ヶ月10万円しかなければ、余剰のお金を捻出するのは難しいだろう。その次元においては、お金は、生活必需品レベルの存在だ。
 しかし、一ヶ月20万、30万ならば、どうだろう。まぁ初月は、贅沢なお肉を食べて使い切ってしまうかもしれないが、しばらくしたら余るだろう。
 そこですぐに、高級車や、高級マンションに住みかえれば、使い切ることは当然可能だが、じゃあ、例えを100万ないし200万にするだけだし、そういう意味ではない。とにかく、お金が余ったとしよう。
 投資する、というのが一つお金の使い道で考えられる。しかし、投資にも積極的な投資とそうでないものがあると思っていて、ある意味で、経済循環の中の投票行為である、という考えが僕は好きである。まぁ実際、株式は、上場された時点で企業に入るお金は決まっていて、いくら株価があがったところでその企業にお金が入るわけではない。もちろん、株主のために株価向上をうたうのだろうが、どこまでモチベーションになるのかは、勉強不足で分からない。
 話が少しそれた。要は、余剰で経済は実は回っているのである。本当に、生活必需品レベルでのお金の量は超えている。もちろんその、どのレベルを最低レベルとするか、というのはある。昔は諦めていた病気も、現代医療で治せるという場合もあるだろう。「昔は対処しようがなかった病気なので、死にました」というのはただの医療過誤とされるだろう。
◇投票活動
 話がそれるので、小見出しを変えて方向転換を試みる。つまり、僕らは、極度の貧困でなければ、余剰資金がある、ということだ。そこをまず認める必要がある。
 いやいや、生活が苦しいんだ、かつかつだ、という人もいるだろう。恐らく、現実が見えていないとか、もっと大変な人はいるとか、批判が大きくなると思われる。落ち着いて欲しい。
 そもそも、投資とか、貯金とか、それは余剰なのだ。
 本当にその日ぐらしでなければ、限界ぎりぎりレベルではない。もちろん、全く余剰がなければ、将来の不安で満足な精神状態を保てないだろうが、まぁそんな議論をしたいのではなくて、おまえ等全員恵まれているんだぜ、と、まずは認めてみよう、という試行である。
◇投票
 文章を書いてお金を稼ぎたい、そのためには役立つ文章を書くべきだ、というときの、役立つというのは、投票したくなるような文章を作り出す、ということである。
 この、投票という言葉は、商品の対価とは異なる。商品の対価、まぁ値段というのは、その物品を手に入れるために必要なお金の量である。
 対して、投資、投票というのは、「これから先」も価値に含めている。
 要するに、株式だったら、これから先もっと株価が上がるだろうと、取り引きしたらもっと大きな利益が得られるだろうと言う期待。投票は、たとえば政治なら、この政治家に投票したら、もっとよい行政をしてくれるんだろうという期待。
 期待、があると、人はお金を払いたくなる。そうでなければ、値切りたくなる。豚肉は、もっと安いスーパーがあったら、そっちで買うだろう。だが、そこでしかないもの、それ以上の価値があると感じられる物には、多少高くてもお金を払う。
 文章だったら、この人は、もっと新しい視点や、もっと新しいことや、気づかなかったことを教えてくれると思う、とか。エンターテイメントとしては、この作品は面白かった、だがきっと、この感動を超える何かも、この先うみだしてくれるんだろうという、期待。
◇後書き
 何の話だっけ……。だめだ、スマホからだと、流れがよく分からない。でも、いったん、メモしたかったことは書けたような気もする。
 書けたっけ。なんだ、その、オタクは役に立たないものを求めるのに、役に立つことだけを目指す文章って、無味無臭の、カフェインレスコーヒーみたいな奴何じゃないかって、そんな方向性を書きたかった気がする。
 この記事だと、役に立つことは必要だ、という結論に思われるかもしれない。そうじゃない。
 むしろ、オタクは役に立たない物を求める、というのが、しかし、それは、役に立つの次元の前者の、お金になる、というレベルであって、後者の役に立つというレベルもあるんじゃないか、と。うまく繋がりを書けないが、本文中で書いた、おまえ等みんな余剰的に生きてるんだぜ、ということを考えたときに、前者の役に立つと、後者の役に立つに、優劣はないんじゃないかと、思うわけである。
 だから、そのサロン的なサムシングにおいて、その役に立つが前者だけの方向性だけが追求されるものであれば、当然違和感があるんだろうし、広い意味での役に立つなら、……まぁとはいえ逆に実践的な講座にはならないかもしれないので、難しいところだろう。まぁそういう意味もあって、興味があることは間違いない。
(かっこ書きである。うーむ、論理的ではない文章になった気がする。推敲できる環境にないので、気が向いたら直すかもしれない。とりあえず、字間隔がくっつき過ぎなのはなおしたい。まぁでもその、俺は、その人の書く文章を面白いと思うのである。それは、「役に立たない」(ここではいい意味で用いているのは当然だが、しかし、面白いという自体が役に立っているともいえる)記事だろうと、魂魄揺さぶられる作品だろうが、どちらもだ。だからその、まぁなんだ、これからも、読ませてもらいたい、と思う、なんだそりゃ。とにかく、現状は言葉が出尽くしたのと、時間切れ)

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通奏低音を求めて
2019/03/04 01:06 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「定期更新だ」「最近土曜日から日曜日になっている」
◇前書き
 目が、かゆい。
 花粉症だろう。先日は風邪をひいていたから、鼻水はどちらが原因か分からない。
 とあるプライベートの問題が起きている。具体的には書かないが、恋人的な云々とは全く関係ない問題だ。自分の身体の問題でもない。まぁそれは、目がかゆいという問題があるけれども、そういう次元ではない。
 そういったバタバタ中であり、土曜日更新ができなかったのであり、これは特に問題ない。免除規定である。ただ、今は、スマホからなんとか書いて投稿できそうであるが、土日どちらも使えなかった場合は、いくら免除規定とはいえ、いかがなものか。月に4回は最低投稿するという、それを、3月中までは続けるという目標を立てているのであれば、平日だろうがくらいついていかねばなるまい。
◇特に書きたいことはない
 今回の記事は、目的先行ではなく、ルーチン先行である。要するに、特に書きたいことはないけれども、「書く」という目標ゆえに書いているのである。
 こういうときはわりかし、珍しく苦痛である。
 だから、文章を書くのが嫌いだとか、面倒だとか、苦痛だという人の気持ちも分からなくもない。
 逆に、だからこそ分かるのだけれども、書くのが面倒だというのは、「タイピングが下手」という次元を超えれば、それは、「書きたいことがないから」なのである。
 ではその、書きたいこととは何かといえば、それは、「思ったこと」「伝えたいこと」なのである。
 しかし、それらが、他の誰かに、対面的なコミュニケーションにおいて伝えることができていれば、あえて、パソコンを立ち上げて、文字を書こうなどとは思わないのである。
◇書きたくないときに書くことは逆にレア
 なので、「書きたくない」でも書く、というのは、レアである。
 たいていのブログなんかは、「これを主張したい」もしくは、「この商品をクリックしてほしい」というわけであるから、「目的」が見えている。
 逆に、目的、が見えている記事は、わかりやすいのだろうけれども、面白くない。
 ストーリーの基本的な構成は、以下のような流れだという。
(パート1導入)
・つかみを入れる
・ストーリーの設定を伝える
・立ち向かうべき問題が発生する
(パート2反応)
・発生した問題に反応する
・問題解決の糸口を見つける
・問題への対処・攻撃を開始する
(パート3攻撃)
・問題と向き合い戦う
・途中ピンチになる
・最後となる新しい情報が示される
(パート4解決)
・問題に主体的に立ち向かう
・問題を解決する
 創作者は、こうした構成に物語をあてはめることを生理的に嫌うという。わからんでもない。僕も上で書いたように、「目的」が見えている記事は面白くないと書いた。
 しかし、実際に物語を書いたことがある人は、一回でも書いたことがある人は分かるだろうが、いくら最初にすばらしいアイディアだと思った内容でも、いざ実際に書き始めていくと、書き進める困難にぶつかる。
 自分で自分の物語を面白いと思わなくなっていくこともある。
 なんども推敲しているうちに、飽きてしまうこともある。
 であれば、ある程度の形を、ストーリーの構成として、それを多くの人はプロットと呼ぶのだろうが、プロットを立ててから書き始めていった方が効率がよいだろうことは想像できる。
 だが、日記はどうか。あえて、ブログという言葉は使わなかった。
 日記は、思考のプロセスの記録である。
 パソコンではないので、マルチウインドウを使えない、辞書をひいて日記という語を調べられない。上の定義は、僕の勝手なものだ。だが、はずれてはいないと思う。
◇日記
 答えや、目的がある場合に、日記など書く必要があるだろうか。
 僕は、その点が明確になるように、昔、「ログ」という言葉を使っていた。
 ログとは、プログラムの処理を可視化できるように、処理時間と処理を行う内容とその結果をテキストファイルなどに書き出したものだ。
 これを、僕は、自分の頭の中の思考や言葉を、そのまま書き出すようなイメージとして、ログと呼んでいたのだ。ゼロ秒思考ともいう。瞬間アウトプットと呼んでもいいかもしれない。呼び方はどうでもいい。
 何故これをしていたかというと、とにかく、不快な状況だったからだ、と一言でいうなら済んでしまう。
 人生、いろいろある。
 そのいろいろは、その人たちそれぞれにおいて違っていて、そしてその感じ方も違う。
 無限大に問題はあふれているのだ。
 しかし、混乱さなかにいると、その問題を問題として認識することも困難になる。
 だから、その問題を可視化するために、ログ等作業が必要になるのだ。
 だから、幸せまっただなかで、不満も何もないような人は、こういった作業は必要ないだろう。
◇生きる意味というのは普遍である
 僕は、個々個別の問題を取り上げて、その対処を考えるということを、このブログにおいて託していない。だから、抽象的な表現になり、読む人は面白くないだろうと思う。
 一般論的なことを読んでも、人は面白いと思わない。
 しかしあえて、僕はそのつまらないことをする。
 恐らく、僕の問題自体も、10代のころとは、変わってきていることが分かる。
 要するに、異性の、女の子から好きになってもらえるのかという、恋愛の問題。感情的な次元では、その頃の方が、よほど精神的には堪えていたのだろうけれども、今思うに、それほど重大な問題には思えない。
 しかしその頃も、生殖によって生物は子孫を残していくのに、自分は異性に認められることがなく、そんな自分は生きている価値はあるのだろうか、といった、現状でも考えていそうなことも思っていたのだ。
 うん? どうなんだ? いま、すごく違和感があった。そんなこと思っているのだろうか? 当時も思っていたのだろうか?
 むしろ、当時は、好きになった女の子がいて、でもその子は他の人のことを好きで、諦めなければいけない、と。しかし、自分の中に生じるその人を好きになったと、大事にしたいという思いが満たされないならば、自分という存在は何か価値があるのかと、そういった感じだったような。子孫がどうこうということではなかった気がする。
 ……というように、もはや、よく分からないのである。
 昔のログでも引き出してくれば、その片鱗は感じられるかもしれない。しかし、それは実際問題、単なる記録に過ぎない。あれだ、物語と同じなのだ。自分のことであるのに、小説やアニメをみるのと同じ程度の感覚なのだ。しかも、自分のつたない文章力によるものだから、もっというなれば、小説やアニメにすら劣る感情再現率かもしれない。
◇物語の重要性
 物語と現実は別だ。
 だが、現実をつくっているのは物語だ、というトートロジー的なことを、上手に表現したい。分かってくれる人はいるだろうか。
 物、というのは、もう疑う余地もなく、現実に存在している。それがないとか、そういうことではない。しかし、物に意志はない。何か行動するのは、人間に固有の性質だ。
 筋肉を躍動させることだけが行動ではない。
 何か頭の中で考えることだって、行動の一つだ。
 行動するための源泉となるのが、物語なのだ。
 イヤ違うよ、労働契約だよ。就業規則に従って会社に行くのだよ、というのは、それはそれで事実だが、しかし、会社に所属しているのは、それは、自ら選び取った(もしくは与えられた)自分の物語なのだ。
 僕は、あまりにもつらいときに、ゲーム的人生という考えを試みていた。
 つまり、「自分」というのに拘るからつらいのであって、そうじゃなくて、「自分」という名前の存在は、ゲームのプレイヤーなのだと。
 人生というのは、壮大なゲームであって、それを演じているのだと。つらいとか苦しいとか言うのも、そういった仕様、というか、演出なのだと。
 この試みは、成功したのか、失敗だったのか。
 分からないが、まぁ、こんな感覚も悪くないと思う。
 人生の意味、といったときに、「人生なんてのは、壮大な暇つぶしなのだ」という言説も、一定数支持があるようだ。
◇後書き
 何やら、取りとめがなくなった、いつもか。
 まぁその、3000字は超えたから、とにかく投稿はしよう。
 ああ、ばたばたとしていて、結局12時を超えてしまったか。
 そうだな。
 しかし、人はいずれ死ぬ。
 何度も書いてきたフレーズだが、しかしやはり、死ぬよなぁと思う。
 そうした中、自分が生きているというのは、なんとも奇跡的なことだよなとも思うし、長く生きている人たちは、それだけで、まぁまぁ、よくやってきたもんだなぁとも思う。
 歩きたばこをするような奴は死んでしまえと思うわけだが、まぁそれでも、
生きてるってすごい、ああ、表現が小学生並みだが、仕方がない。
 ああ、違う、そうじゃない、最後になって思い出した。
 ニーチェという人がだな、「何故」を知る人は、その殆どの「どうやって」に耐えられる、というようなことを述べていたということだそうな。
 今僕は、生きているだけですごいんだから、別に生きる意味なんて考える必要はないんだよな、って方向で締めくくろうとしたけれども、そもそも、この記事のどこかに書こうと思っていたのは、そうはいっても、「何故」はやはり重要なのだ、ということであった。
 この、書いている瞬間の感情。思考。これは本当に移ろいやすいのである。
「自分」なんて、固定的に書いてしまうが、さも、首尾一貫同じことを考えたり書いていますよと、そういった風体で書いているけれども、全然そんなことないのである。
 この曖昧性を、人の脳の性質は許容しがたいのであるが、いやそれは、自然に対する生存戦略として正しいのであるが、複雑化した社会、高度専門化した社会とか言われるけれども、その曖昧のままに認めるというか、受容することが重要だと思う。
 しかし、それはあまりにもカオスすぎて、人間としては耐え難い苦痛を与えるものなのであるが、だからこそ、生きる意味を徹底して考えることによって、そのカオスの中にも、通底する思想というものを見いだすことはできないのかと、そう思うわけである。
 もっと具体的に書けば、今僕は、30代であるが、これが、過去の10代や、20代、そしてその先の40代や50代といった先にも当てはまるような、根源的な思想というのを、見いだしたいということなのだ。
 更に、これから何が起こるか全く予想もつかないわけである。
 だから、個別具体的に何か対処を考えたところで、それがその先も使えるようなものとは分からないのだ。
 そうしたこともふまえた、何が起ころうとも、いついかなる時代も、自分の身体状態や思考状態がどうあっても、通底するような思想。それを探すことを、生きる意味を徹底して考えると、今は呼びたい。
 遠大、曖昧模糊で、砂上の楼閣のようである。
 だが、役に立つことだとは思わなかろうか。
 そんなことは無理だし、無駄だと、誰しも思うことだろう。
 しかし、もし実現できたら? それが例え自己満足だったとしても、その思想によって、客観的に幻想だとしても、自己が充足されたら?
 悪いことではないと思う。
(かっこ書きである。スマホ投稿で、5000字を超えようとしているのは、きっと初めてだろう。まぁ、エレコム製のBluetoothキーボードを使っているから、厳密にスマホ投稿ではないのだが、やはりデスクトップとは全然感覚が違った。まぁ、キーボードの打ちやすさは、まぁまぁよかったと思う。何が大きく違うかというと、コピペのしやすさと、前に書いた文書の読み返しやすさである。推敲という作業は全く持ってむいていない。メモ、には十分な気はする。なんだっけ、名前が出てこないが、キングジムの、メモだけできる電子機器。あれ使ってみようかと思ったが、たぶん、スマホとほぼ同じ使い勝手になる気がする。ディスプレイの大きさと、持ち運びやすさのちょうどいい感じが難しい。そういう意味で、大画面でゲームしてみたいというのはあったけれど、いざ大画面、40型とかでやってみると、すげー疲れることが分かった。やはり、21型ぐらいがちょうどいいきがする。なんの話だ。とにかくだ、最近ここ数年のことで書いておいた方がいいのは、積極的に死にたいということは思わなくなったということだ。0代や10代のころは、割と死にたいと思っていた。今生きているから、死にたい詐欺になってしまったが、結構本気であった。本気で試みて、いやでも、死んだ後もそれはそれで苦しいかもしれないという思考が働き、恐怖と、しかし現実もつらいし、とで、非常に困っていた。それを「生きづらい」と表現していた。今は、まぁ、この先の異動でどうなるか全然分からないが、まぁまぁ、なんとかはなるだろうと思っている。こんな俺でも、できることはいくつかはあるのだなという自負が芽生えたのと、まぁ仮に職を失うことになったとしても、5年くらいは最低限の生活を維持できそうな資産があるというのもある。まぁこれは物価など経済状態でどうにでもなってしまうが、それでも、しばらくは大丈夫な気がする。それと、これまで、くっそ苛つくことだとか、死にたいくらいイヤなことなどもあったし、それに比べたら、今後起こることって、それ以上なんだろうか、という楽観的な考え。こういうことを書くと、マジでそういう目にあったりするという、マーフィーの法則的なのがあるので、あえて書かないようにしていたけれども、今の精神状態というか、問題の渦中というか、まぁもう書いてしまえという気がしている。まぁ、何とかなる。この何とかというのは、くっそダメな状況も含めて、何とかなるのである。そう、たとえばこういうこと、「何とかなる」というのは、通底して使えそうな思想の一つだ。こういったのを、なんか、もっと、固めていきたいなと、そんなことを深夜に思う)

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生き方を考えるということ
2019/02/22 17:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「臨時の記事だ」「体調が良くない」

前書き

 転機、というのは、しばしば運命的に降りかかるものである。
 これは、自らの行動で引き寄せるものもあれば、まったく無関係のところから湧いて出てくることもある。

 しかし何れにせよ、どちらも、自分の身に起こったことだ。

 それに対しての、反応は必ず必要になる。
 逃げるか、戦うか、情報収集するか、呆然とするか、行動は複数考えられる。
 何もしないということも含めて、行動になる。


 さて、自分に起こった転機を、どう対処するか。
 ここで、物語であれば、フックとなるようなイベントを提起するのだが、自分については、単に異動になりそうだということでしかない。

 拒否する明確な理由もなければ、進んで異動先でやりたいことがあるわけでもない。
 そういう意味では、与えられた機会だと考えて、進んで精いっぱいやるのがよいことだろうと思う。

 思う、のだが、果たして、僕は、本当にそう思っているのだろうか。

これまでを振り返って

 特に転職したこともないので、キャリアなんて言葉を使うと烏滸がましいが、これまで、新規プロジェクトを任されることが多かった。多かった、と書くとまた抽象的だから、具体的には3回だと思う。3回とはいえ、それぞれ3~4年だと考えると、まぁまぁの頻度だと思う。

 で、まぁ、一応、成功と失敗というくだらない二分で考えれば、今のところそれぞれは動いているのだから、成功と言っていいと思う。しかしすぐさま書けば、まぁまぁ、いろいろ、大変なことも多かった。――多かった、具体的に書けることは、きっと多くない。記録を探せば思い出すかもしれないが、潜在的に刻まれた「多かった」という感覚を立証する程度ではなかろう。

 でもまぁ、大変だったのだ。
 それで、次も大変だろうと思われる。

 いやここで、「大変」という抽象的な言葉は無意味であって、じゃあ、今の所属のままであれば大変じゃないか、といえば、それはそれで大変だろうし、とはいえ、今と比べたら、大変だろうというだけだ。そして、その「だろう」は、分からないから推測に過ぎない。実は大変じゃないかもしれない。今の所属のままのほうが大変かもしれない。分からない。誰も。

相談することの無意味性

 先日の、飲み会の話に関連する。
 先日は、その、イライラ度が高かったから過激な言葉になっていたが、別にそんな、人類の敵だと思うほどに飲み会が嫌ではないのだ。適度に、2か月に一回ぐらいあってもいいと思う(そりゃ少ないよ、と言われるかもしれんが、まぁ僕としてはそれぐらいでいい気がする)。

 ただ、要は、誰に相談したところで、結局、矢面に立つのは自分だという意識が強い。

 この考え方を、そもそも、心理学とか、メンタリティとか、スピリチュアルとか、行動科学とか、その他いろいろな方法では排除しようとするんだと思う。

「自分」「自分」「自分」

 ってこだわることは、百害である。
 自分を捨てて、公共の精神を身に着けることが、大人であり、素晴らしい人間であり、それがひいては自分のためでもある――それは分かっている。
 分かっているが、凡人として、悟りの境地はまだ遠い。

 その前提において、誰かに相談して、そのアドバイスが仮に大正解だったとしても、そのアドバイスを選択し、行動するのは自分だということに変わりはない。

 その正解かもしれないアドバイスを得るために、誰かとコミュニケーションをするというのは大事かもしれない。
 しかし、それは、時に、選択肢を広げるだけで、余計に惑う可能性があることは忘れてはならない。

 他人のせいにする人がいるかもしれない。そういう人は、ある意味幸せである。
 自分の責任を放棄して、相手を攻撃することに時間を使うことができるのだ。

 僕は、できない。

自分の人生は自分のものだ

 ちょっと違う、という人もいるかもしれない。
 社会のため、家族のため、子供のため、いろいろ意味はあると思う。

 必ずしも、自分の人生は、自分だけのものではないのだ。

 でも、自分のものでもあるはずだ。

 であれば、何か起こったことを他人のせいにして、自分は悪くないと殻にこもることを僕はよしとしない。
 もちろん、その「他人」を叩き潰さなければ自分がつぶされてしまうような状況であれば別だ。それは、責任の放棄などではなく、戦闘である。戦いだ。戦わなくては勝てない。逃げるが勝ちというのもあるが、それは戦略的撤退といって、ある意味での戦いだ。

 ただ、そんな戦いが発展する前に対処するのが、本来賢い生き方である。「賢い」ことが、少年漫画的には、「悪い大人」的に描かれる場合もあるが、それはミスリードである。賢いことは正しい。簡単だ、楽しいのと苦しいのはどっちがいい? 楽しいのだ。では、賢いのと愚かなのはどちらがいい? 賢いのだ。以上証明終了、だ。

 いや待ってくれ、愚かなこともある意味幸せな場合がある、と?
 そう、それは、僕がずっと書き続けていることの一つでもある。「知らなくてもいいことがある」というわけだ。それはそうだ。だが、もうまさに、目の前に迫った転機、機会、事象に対して、さぁもう知らなかったことにはできないのである。

ちょっと役に立つかもコーナー

「擬宝珠」(ぎぼし)と読む。橋や寺社の柱の上に取り付けられた、先が尖った円形の装飾。木の腐食を防ぐ役割もあるらしい。金属のケースが多い。如意宝珠を模して(擬して)作られたという。如意宝珠とは、仏教における霊験を表す珠で、意のままに願いを叶える宝という意味があるという。それ自体が信仰の対象となる。仏像が手にもっていたりする、雫みたいなやつ。Fateの聖杯みたいなやつ(というのは僕の勝手な付け加え)。

 擬宝珠の説明から離れたな。

今後について

 というわけで、この記事は、今後の自分の方策についての、感情的基盤を確立する意味になる。

 ――と書いてきたことで、大分もう、気持ちとしての整理はついた。
 不思議なことで、特に、その異動先のこととか、具体的なサムシングは別に不要なのだ。

 要は、その仕事に対して自分がどう立ち向かうかの「姿勢」の問題であり、そこで実際何をするかは、その場で、その時間で対応していくことであるのだ。逆に、今できることは、その「姿勢」の確認程度しかない。

 その、予想される仕事の内容に関する関連情報を調べるとか、そこに属していた経験のある人から情報を聞くとか、体調を整えるとか、様々やるべきことはあるが、そうした個々の行動の上に立つものが、「気持ち」だと思う。


 心とは、しなやかであったほうが、ストレス耐性が強いとされる。
 ストレスフリーな世界が望ましいとされる現代と反するが、しかし、しなやかさという表現においては、「意志」が感じられない。

 何かなそうという、強固な意志、決意。動機。

 

 本来、そういったことを、友人や家族、同僚たちと話し合うべきなんだろうか。
 しかし、しかし、しかし……。

 どうにも苦手だ。何故か。弱みをさらすようなものなのか。信頼していると口では、思考では思っていても、他者という存在を身体が拒否しているのか。過去に諸々あった事柄が、雲のように曖昧模糊としながらも、じわじわと僕の身体にまとわりついているからなのか。



(かっこ書きである。ブログのエディタに、文字数チェッカーがついていたらいいな。もしくは、ワードに貼り付けながら書いたほうがよいか。まぁどちらにせよ、強制的にアプリケーションが落ちて消えてしまうということは何度も経験済みだ。小まめなバックアップが何より大事。ところで、このかっこ書きの手前までで、約3000字である。以前、1000字ぐらいにおさめたらどうか、ということをやっていた気がするが、ちょうどいいのは3000な気がする。口頭(早め)で1分で話せるのが、400字ぐらいということなので、7~8分ぐらいだろう。これを口頭で聞いたらどうか。10分を、一方的に話されたら、たいてい人はうんざりする。会話とは、おそらく、30秒~1分程度の短い内容の応酬なのだと思う。ストップウォッチ片手に今度はかってみようかな(冗談)。一方で、文章で(3000字)書くと、これも推測だが、30分~1時間程度だと思う。ということは、口頭の方が断然情報効率は良いはずなのである。が、僕はそうは思わない。そういう面もあると思うが、文章にするにはするで、「残る」という意味が大きい。それと、口頭で言ったことって、実際問題相手に伝わっていないという可能性が大いにあるだろう。「頭の回転が速い人」とかいう表現があるが、あれは、話題となる事象についての予備知識・本知識があるからである。または類縁する内容について知っているか。もちろんそれらを瞬時にカテゴライズし、発言に結び付ける能力の速さはあるだろう。しかし、どんなに頭の良い人でも、回転が速くても、門外漢の話題にそこまでの能力は発揮できない。――というのはどうでもいいか。何だろうその、新しい環境になることに対しての不安の描写だったわけだが、上手く書ききれたのだろうか、分からない。分からないが、3000字超えたら機械的に投稿しよう。きっと何かは表現できているはずだ)

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外連味でも前向きさは見せるべき
2019/02/08 22:37 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「悪かった」

前書き

 前回、臨時で書いた記事において、「LGBTは認めるべきだが、公的支援の必要性まで本当にあるのか、各々が当事者意識をもって考えるべきである」と書いた。

 かなり、炎上必須の記事であったが、よかった、辺境無名の自分の適当ブログでは、天網恢恢なインターネットとはいえ、そこまで大問題にはならないようだ。

 とはいえ、一応、補足の内容を書いた方がいい気がしている。また、自分の知識も小学生並みなので、いくつかの記事を参照してみた。

公的支援の理由

 で、上の記事を読んでみて、拙い僕の理解力だと、

「LGBTは、かわいそうだから支援が必要なのではない。LGBTは、歴史的にも証明された、人間不変の在り方なのである。また、近代国家は、自由と平等が保障されねばならぬ。であるからにして、LGBTを支援するということは、基本的人権の尊重であり当たり前のことである。結婚制度等から排除されている現状は速やかに解決すべきだ」

 という読み取りをした。

 繰り返し書くが、僕は、LGBTを認めるべきだと思っているし、差別意識もない。
 さらに、表現規制問題(所謂「ザマス」)も同様に、自由と平等であるべきであって認められるべきだという理屈にも繋がると思っている。
 いやいや、有害な表現は他者を害するに当たり、LGBTは誰も傷つけないのだから全く別だ、というのは、「いや私はLGBTの存在が不快だ」という、昨今多い政治家等「失言」する方々を許容する方向性であると言え、やはりザマスは変だ、と思う。

個人信条と制度設計は違うと思う

 ただ、上の、真っ当な記事を読んで、まぁ「理解」はした気がするけれども、「納得感」はあまりなかった。
 というのは、政治は再分配だ、という理解があるからである。

 100万円の予算があって、90万円をLGBT支援にまわし、10万円を少子化対策にまわす、という政策は、やはり反対すると思う。(極端なバカげた例だ)

 むしろ、独身で寂しくて子供がいなくて可哀そうな僕ら(「ら」というか俺一人かもしれんが)に対しての支援をして頂きたい。


 というのは、半分冗談で、半分本気であるが、LGBTの人たちがガチで苦しんでいることへの想像力の欠如なんだと思う。しかし、しかしだ、想像力、としたときに、「ああ、そうか、こんな不便もあるんだ、『かわいそうだな』」という意識にしかならないと思う。
 基本的な人権として、当然認められるべきだ――という、きっと理念的に完ぺき無双なのだろうが、そうした崇高な思考には、どうやら、僕のような凡人には難しいようだ。

 なかなか紛争やら、失言やら、いじめやら様々な人間関係の負の問題が、文明が起こってから何千年もたつのに中々解決しない理由だと思う。
 システム設計上の根本的な問題が解決できていないのである。暫定対処で、その都度パッチ対応をしてきているのだ。――いやそれ自体は、先人の不断の努力であり素晴らしいことだ。

前向きな価値を提示する

 なので、「基本的人権が~」とか、きれいなことを言っていてもダメなのである。
 人間、そんなに頭がよくない。頭というか、頭だけで動いているのではない。身体的な痛みをもってして、なお哲学できる人を僕は尊敬する。

 だからだ。
「LGBT支援は、今後活気ある日本をつくりだすために必須です。日本は先進国の中でもLGBT支援が遅れていますが、今後平等を推し進めることで、住みやすい国になり、結果的に子供も増え、外国からの投資も増え、豊かな国になっていくのです」

 とかって、外連味でもいいから、「みんなのためになる」という理念を発出するべきである。

「お兄ちゃんなんだから、我慢しなさい」
 と、弟や妹に注力する親をみて、「そうだ、僕はお兄ちゃんなんだから、我慢しなきゃ」と思うことが「正しい」ことであるが、しかし、内心問題やっぱり悔しいし、寂しいものである。LGBTの人たちを支援しまーっすという言説を、「俺は関係ない」と思う人が聞けば、やっぱり「なんか損した」気分になるのである。

 卑しい人間だと思うだろう。いや実際問題、自己中心的で卑しい人間なのである。
 なのであるが、しかし、そうした汚い心性もまた、人間なのである。

 だから僕が前の記事で書きたかったことは、
「正直、LGBTの人たちの支援の必要性はよく分からない(それは、結婚や医療や子育て等様々な生活でギャップがあるという事実は知った上で)けれども、マイノリティの差別を撤廃する方向というのは支持していいと思う。人間の価値観は多様であり、様々な生き方が認められていいわけであるから、不平等な状態があるというのであれば、それは解決した方がよいだろう」
 ということである。
 一方で、
「まぁそれはそうだけれども、昨今、少子高齢化とか、外交問題とかたくさん「大変だー大変だー」と言われているわけだが、そういった状態でなお、LGBT支援の必要性も語られるということは、まぁまぁ日本もまだまだ余裕があるってことだな」
 とも思うわけである。いいことだが。
 ――とかって、皮肉っぽくなるから、あれだ、さっきの外連味じゃないが、「少子高齢化対策とかにお金使ったとしても、焼け石に水なんで、むしろ新しい動きとしてのLGBT支援を打ち出した方が、それ関連の運動とか保障とかビジネスとか人の「動き」が発生するから、経済的にも良い方向につながるぜ」って言説がもっとあった方がうまくいくんだろうなぁと思う。


 だからだ。ああ、この小見出し長くなりすぎだけれども、とあるお笑い芸人氏も言っていたようだが、「政治家の失言をあげつらってないで、『子供を産まないと生産性がない』って意見に対して、子供を産まない俺(私)がいることで日本にこんなにメリットになってるんだぜとか前向きのこと言ってみろってんだ」という風にも思う。

 生産性のない人間は死ね――なんて、なんともディストピアであるが、しかし、生物繁殖的な低次元において、子供を産まないとその種族は滅びるのは間違いない。その低次元において、その発言は何ら間違っていないのである。失言政治家も、別に日本を滅ぼそうとか、自分の既得権益を守ろうとだけ思っているわけではないはずだ。日本をよくしたいという思いが根底にあるはずだ。そこに歩み寄らずに、人格批判ばっかりしているのは、それこそ「人権(かっこわらい)」侵害だ。

 すぐさま書いておくが、失言を許容すべきだという意味でもなければ、何か貢献しない人間は死ねといっているわけでもない。伝わるだろうか。わからない、最近人にどう思われているかもあまり気にならなくなってくるし、興味がわかない。ちゃんと伝えようという気持ちも薄くなり、できるだけ黙っていようとか思ってしまう。よくない傾向だ。

実存重視は変わらない

 ああああ、くだらないことを書いた。
 上のようなことは、正直、僕の中でものすごく優先度が低い。
 低いけれども、ただ、表現規制問題については、これは実存問題に直結するから、めんどくせーが戦う必要があると思っている。軍(でもいいし政府でもいいし何でもいいが)が検閲したものしか出版できないとか、最悪の世界だ。そういった最悪な存在も含めて、神のような善き存在も含めて、カオスなのが人間なのである。ここは譲れない。

 まぁその頑固な信条のせいで、どっちかというと「人間嫌い」という表現をときたま使ってしまうけれども、でもでも、良いひとだってたくさん(?)会ってきたし、人に助けてもらったことだってたくさん(?)あるし、好きな人たちはたくさん(?)いるのである。
 まぁその……、肉体的はともかく、精神的にリアル系で助けられた記憶はそんなにないのが、俺が変人な所以なのかもしれん。こっぱずかしいから挙げないけれど、僕がいつも「助けられた」ということで浮かぶのは、時折このブログにコメントくださる方々と、社会人1~2年目ぐらいに出会った思考の達人である。
 まぁその、そういった普通じゃない遍歴があるから、「SNSやらなんちゃらで、昨今の若者は現実的な付き合いを軽視している」とか「まっとうじゃない表現は規制すべきだ」みたいな意見が生理的に受け入れられないのだろう。ま、もうそもそも若者じゃあないけどね(かっこわらい)。

ちょっと役に立つかもコーナー

 忘れてた。唐突に入れる。

「挙って」(こぞって)と読む。残らず、みんな、という意味。

「琳瑯」(りんろう)と読む。美しい玉(宝石)や詩文のこと。「徐に立ち上がった男の青い目は、琳瑯のごとく輝いている」とかって使う、たぶん。

 というか、役に立つコーナーといいつつ、なんかこれなんて読む漢字コーナーみたいになってきたな。しかし他に思いつかないからもうしばらく続けよう。

来週

 来週は、ちょっと忙しそうである。時間というか、精神時間的に。要は、イベントごとというか、普段と違うこと(普段と違う人と会う)をする必要があるのだ。
 ある程度うまくやる自信は、もういい歳した大人(仮)なので、あるのだが、しかし、精神的な消費は避けようがないのである。それが「成長だよ」とか、リア充コミュ充たちは言うだろうが、しかし、結果と、それに対しての「努力」は、見えにくいということは、みな想像力に逞しくなって頂きたい限りである。まぁ期待なんてしていないのだが。


 だが、まぁそんな気が重い話とは別に、某方が、50万超の作品を完結させ、プレ公開してくれる可能性があることを示唆された。これは楽しみである。

 感想や批評の書き方講座について書こうという記事を書いて、実際途中まで書いているが、そっちも止まってしまっているが、最終的には、感想や批評をポイントを押さえて全力で書くということは、自分の読解力や創作力にも繋がるのだという方向にもっていきたい。

 特に、全力で書かれた作品には、激辛批評として全力で当たりたいと思う。
 特になんかその、おべんちゃらというかお世辞というか、そういうのは求められてないと思う。そもそもそういったの苦手である。

 全力出せるってのは、大人になっていくと、なかなかそういった場面がなかったりする。
 まぁその、常に全力だったら力尽きてしまうのだが、たまには自分の力を目いっぱい使うってのも必要だろう。
 ――と、なんかさも、大きなことをできるような風に書いてしまったが、まぁいい、そういった気構えというか、ウォーミングアップである。創作するのも大変だが本気で作品にあたるというのもまた割と大変である。


(かっこ書きである。うーん、なんか、今回はゼロ秒思考ではない部分も多々あり、書くのに結構疲れた。思ったのだが、外出し、帰路において、「よし、今日も終わった。帰ったらあれやって、これやって……」と思いいざ家にかえると、「ぐでー」ってしてしまうのは、家に帰ってきてからやることが、無意識部分で結構あるのだからだと思った。家の玄関に立つ。鍵を出す。鍵を開ける。家に入る。鍵を置く。靴を脱ぐ。コートを脱ぐ。スーツを脱ぐ、手を洗う、うがいをする、部屋着を着る、暖房をつける、朝布団がしきっぱなしだったら寄せる……とか。一つ一つは短い時間だが、いろいろやっているうちに、「あれやって! これやって!」と希望に満ちていた気持ちが、帰ってきた疲れもあわせって失われていくのである。本気で何か仕上げようとかいう場合は、家に帰る前に時間を作るというのが必要だろうなと思った。――全く関係ないが、MIB(メンインブラック)3をアマプラで見た。そげん期待していなかったが、面白かった。ストーリーとしてダレがなかった。一気に見れてしまった。そしてギャグ風なのに感動もさせてくれやがって……。グリフィムという異星人がいるのだが、彼の超常スキルがすごい。すごすぎて、常人(彼は人間ではないが)では精神異常まったなしだろう。要は、多次元解釈、並行世界線を同時にみることができる能力である。未来の様々な結果も、知る――ではなく視ることができるのだ。それでも、世界が帰結しようとする運命には抗えない……うーむ、やっぱり僕は時空モノが好きなんだろうか)

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