今日の一言「良かった」
しかしまぁその、「アルミ缶の上にあるみかん」とかって、そんな現実があるんかぃってものは確かにつまらない(TPOに合っていない)と思うけれども、場に即した言葉遊びであれば、ある程度の面白さはあると思う。
え、じゃあ、「お手洗い行ってきます」「おうおう、トイレにいっといれ」はどうか?
つまらない。しかし、「週間が習慣になった」は、別にそんなに悪くない気もする。そもそも、ギャグとして思っていない。笑わせようという意図はない。そうか何か? 動機がなければ、悪いことしてもいいってアレなんか? いやそういうわけじゃ……とか、どうでもいいことをつい書いてしまう。前書きである。
「瑞風」(みずかぜ)と読む。みずみずしい風。喜ばしい風。同名の特急列車がある模様。「ずいふう」と読むと、能楽で天性の理想的な風体を示すという。
――なんか、あれだ、その文脈ぶっちぎって、情報だけ詰め込むってのが違和感がある。
しかし、それも仕方がないか。そもそも、自分の記事は、しょっちゅう話題が変わって統一感ないし。
しかし、仕事のストレスは割かし少なめだった気がする。
来週は……うーむ。
再来週は……うーむ、うーむ……。
再来週は特にイベント(仕事・私事)が多くてやっかいだなぁ。
まぁしかし、「良かった」理由を挙げれば、少し「インプット」に生活を割り振りできそうな気がしたことである。
ちなみに、軽々に「インプット」「アウトプット」という用語を独自に使っているけれども、例えば、小説を書くというのは、どちらに当たるのだろうか。当たると、僕は思っているのか。その場合は、インプットアウトプットという言葉ではなく、「生産」という言葉がピンとくる。ゲームするのは「消費」という認識である。――すぐさま書いておかねばならぬのは、「消費」も悪いことではない。
中庸だ。
インプットもアウトプットも両面が大事だし、生産も消費も双方が大事だ。
ただ、バランスが崩れるとよくない。
例えば、「仕事」は、通常、「生産」であるはずなのだが、しかし、「無生産的」であると思ってしまうことが多くある。わからずやを説得することなど。しかし、物事の進め方において、「納得感」をもってやってもらうことは大事だし、「調整ごと」というのも仕事の大事なことの一つだ。
しかし、「調整」自体は、生産的には僕は思えない。調整の先にある行為が生産なのだ。
だから、大きな意味において、広い範囲においては、調整を含めてその仕事は「生産」なのだろうけれども、しかし、しかし、しかし。
昨今の若いもんは生意気だ、という言説もあるのだろうけれども、「成長感」がない行為は苦痛である。
いや、書類の紙をめくる単純作業だって、成長間は十分に感じられるはずだ。そのめくるスピードの向上は、自分の能力として獲得できることだ。紙をめくることの意味はここでは度外視だ。
故にその「成長感」というのは、己で見定めるというか、定義していかねばならない。
先の、「納得感」というのも、ストーリーを共感させるということが必要となる。
適当なことを書くが、「恋愛」だって同じだ。
「俺と付き合うと、こんな生活が待ってるよ」
ということを感じさせることが重要だ。
いや、それを「口」でいうと、「うぜえナルシス男」となってしまう。それは、なんとなくそんな雰囲気をつくりださなければいけない。
というわけで、「ストーリー作り」といっても、二次元媒体の場合と、三次元媒体(己の身体)とで、分けて考える必要があるだろう。
ここで、浅慮であれば、「ああ、どうせ三次元媒体の方が大事で、会得するのも難しいんでしょ」となるだろうが、そういうつまらないことを僕は今までも、これからも書きたくはない。
今回の記事の中でも書いてきただろう、インプットもアウトプットも大事だ、中庸だ、バランスだと。――ああ、それ自体つまらない考えなのだけれども、しかし、納得感は強いので仕方がない。
三次元は、基本的に、己の心身で創り出される。変えがたきルックスや、声の抑揚・高低、身振りしぐさ筋肉など。
どれもが大事だ。
いくら緻密な正論であっても、大きな声で威圧されてしまうこともあるかもしれない、許されない、間違っていることは間違っていると主張せねばなるまい。そのとき、病弱で見るからに怯懦であれば、間違いなく舐められる。
心も、体も、思考も、感情も、すべてバランスよく鍛えていかなければいけない。
何故か? 戦うためだ。
え、何と?? というか、何の話だよこの記事。
仕方がない。
道半ばである。まだ到着駅がみえない。いやそもそも、線路通ってない。あぜ道だ。オフロードだ。
だから、こういうときは、勉強するしかないのである。
俺は、高校生、ないしは、中学生ぐらいから、「何で生きてんだろう……(肯定的な意味でこういった問いを持つ人は少なくないが、一方俺は否定的な意味だった)」と思っていた。そんときの対処方法は、とりあえず勉強する(進学する)程度のものだった。いやまぁそれで東大などに入れたらそれはそれでかっこいいと思うが、――実際、東大生の人が「やりたいことがわかんなかったのでとりあえず東大はいりました」的なことを言っているのを聞いて「くそぉぉ」と思ったりしたが(笑)、しかし、方法としては流石と思う。
要は「可能性」ということだと思う。
差別的な言葉遣いと知りつつも分かりやすく書けば、底辺大学よりも東大の方が選べる人生の幅は広いのではなかろうか。いやこれは、底辺大学よりも高卒のほうが実は良い暮らしなんだぜ、とか、そういう学歴どうこうの意味で書いていない――のだけれども、早とちりな「ザマス」系の人たちはきっと差別的にとらえることだろう。そういうバカげた自体になる可能性が思い浮かぶので、「ザマス」(表現規制派)は許容できないのである(※)。
※しかし、確かにこれは難しい問題であって、誰かを傷つける目的は俺は一切ないのだけれども、その「一切ない」ことが証明できないばかりか、実際に傷ついた結果に陥った人がいた場合どう責任がとれるのか、ということを言われ始めると、「はいろんぱー」的になりそうである。そうは思ってもなお、やはり表現規制の動きは反対なのだ、これは単なる意固地なのか。かっこいい言葉を使えば、信念なのか。いやいやそれとも、「俺もいじめられたり、嫌な思いたくさんしてきたし」という被害者意識――というか、報復精神なのか。
――と、長くなってきたな案の定。今日はここまでだ。(続けることを目的にした場合、全力を出し尽くさない方がいい場合がある。120%出して力尽きるより、70%ぐらいの力で、数か月、数年と続けられた方が、トータル成果は高い)
(かっこ書きである。面白い記事を書きたい。というか、昨年、11月ぐらいからめっきり更新が少なくなっていた気がする。で、その間も、「書こうと思えばできるけれど、やる気が起きないな」みたいに思っていた気がする。「うちの子は、やればできる子なんです!」みたいな。それって逆に、「今できていない」という証明ともいえる。ゴウタマ・シッダールタ氏も言っている。「今ナウが大事なんだぜ」と。――まぁしかし、やはり、長年続けてきた甲斐があってか、週間更新程度であれば、このぐらいの文量ならそれほど苦労なく書けることは分かった。誰かの役に立つのかとか、そもそも自分のためになるのかとか、そういうことは今は見ざる聞かざる言わざるだ。だが、それでもやはり、どっちかというと、役に立ったほうがいいし、面白いほうがいい。どうしたら面白くなるんだろう。いや、ベストセラー作品を生み出すとかいうことではなくて、この苦労レベルにおいて、よりよくするにはどうしたらよいのか、という、妥協的思考である。ただ、しかし、そうはいっても、一ついえることは、「ゼロよきゃ、絶対書いてた方がいい」というのは、僕は納得レベルで思う。皆さん(何処を向いている)、10年前の自分が、どんな状況で、どんなことを考えていたかって、覚えていますか? 「え、10年前か、ああ、あのときはな……」と自分語りが始められる人はいいけれども、僕の凡人記憶装置では、正直全然分からない。分からない中で、読み返したりすると、――ああ、この過去の思考に触れた時の感覚は、ちょっと表現が難しい。要するに「へー」っという感覚なんだけれども、俺はこれが結構大事なものだと思うのである。何故かというのは上手く表現できないが、きっとおそらく、人間が、時間的存在だからじゃあないかと思う)
前書き
週間更新が、習慣更新になってきた。おやじギャグ。しかし、おやじギャグとは何なのか。おやじギャグとは、安直で下世話で、つまらないものを指す言葉遊びのようだ。すると、週刊が習慣だ、ってのも相当なおやじギャグな気がする。しかしまぁその、「アルミ缶の上にあるみかん」とかって、そんな現実があるんかぃってものは確かにつまらない(TPOに合っていない)と思うけれども、場に即した言葉遊びであれば、ある程度の面白さはあると思う。
え、じゃあ、「お手洗い行ってきます」「おうおう、トイレにいっといれ」はどうか?
つまらない。しかし、「週間が習慣になった」は、別にそんなに悪くない気もする。そもそも、ギャグとして思っていない。笑わせようという意図はない。そうか何か? 動機がなければ、悪いことしてもいいってアレなんか? いやそういうわけじゃ……とか、どうでもいいことをつい書いてしまう。前書きである。
少し役に立ちそうなコーナー
「嶺渡し」(ねわたし)と読む。高い峰から吹き降ろす風。「村の北に聳える山からの嶺渡しが、厳しい冬の訪れを感じさせる」とかって使うんだと思う。「瑞風」(みずかぜ)と読む。みずみずしい風。喜ばしい風。同名の特急列車がある模様。「ずいふう」と読むと、能楽で天性の理想的な風体を示すという。
――なんか、あれだ、その文脈ぶっちぎって、情報だけ詰め込むってのが違和感がある。
しかし、それも仕方がないか。そもそも、自分の記事は、しょっちゅう話題が変わって統一感ないし。
今週を振り返って
今日の一言も、随分形骸的だな。「良かった」っておいそりゃなんだ。何が良かったんだ。いやそれが分かれば苦労しない。しかし、仕事のストレスは割かし少なめだった気がする。
来週は……うーむ。
再来週は……うーむ、うーむ……。
再来週は特にイベント(仕事・私事)が多くてやっかいだなぁ。
まぁしかし、「良かった」理由を挙げれば、少し「インプット」に生活を割り振りできそうな気がしたことである。
ちなみに、軽々に「インプット」「アウトプット」という用語を独自に使っているけれども、例えば、小説を書くというのは、どちらに当たるのだろうか。当たると、僕は思っているのか。その場合は、インプットアウトプットという言葉ではなく、「生産」という言葉がピンとくる。ゲームするのは「消費」という認識である。――すぐさま書いておかねばならぬのは、「消費」も悪いことではない。
中庸だ。
インプットもアウトプットも両面が大事だし、生産も消費も双方が大事だ。
ただ、バランスが崩れるとよくない。
例えば、「仕事」は、通常、「生産」であるはずなのだが、しかし、「無生産的」であると思ってしまうことが多くある。わからずやを説得することなど。しかし、物事の進め方において、「納得感」をもってやってもらうことは大事だし、「調整ごと」というのも仕事の大事なことの一つだ。
しかし、「調整」自体は、生産的には僕は思えない。調整の先にある行為が生産なのだ。
だから、大きな意味において、広い範囲においては、調整を含めてその仕事は「生産」なのだろうけれども、しかし、しかし、しかし。
昨今の若いもんは生意気だ、という言説もあるのだろうけれども、「成長感」がない行為は苦痛である。
いや、書類の紙をめくる単純作業だって、成長間は十分に感じられるはずだ。そのめくるスピードの向上は、自分の能力として獲得できることだ。紙をめくることの意味はここでは度外視だ。
故にその「成長感」というのは、己で見定めるというか、定義していかねばならない。
ストーリー作りが大事だ
だから、これからの世の中で、大事になるスキルって何だと言われたら、ストーリーを作る技術だと言える。(言えないかもしれない、もっと大事なもんがある、マーケティングやプログラミングだ、という人もいるだろう、そういう雑多なことはすべて除外した上で、差し当たり言い切らせていただく)先の、「納得感」というのも、ストーリーを共感させるということが必要となる。
適当なことを書くが、「恋愛」だって同じだ。
「俺と付き合うと、こんな生活が待ってるよ」
ということを感じさせることが重要だ。
いや、それを「口」でいうと、「うぜえナルシス男」となってしまう。それは、なんとなくそんな雰囲気をつくりださなければいけない。
というわけで、「ストーリー作り」といっても、二次元媒体の場合と、三次元媒体(己の身体)とで、分けて考える必要があるだろう。
ここで、浅慮であれば、「ああ、どうせ三次元媒体の方が大事で、会得するのも難しいんでしょ」となるだろうが、そういうつまらないことを僕は今までも、これからも書きたくはない。
今回の記事の中でも書いてきただろう、インプットもアウトプットも大事だ、中庸だ、バランスだと。――ああ、それ自体つまらない考えなのだけれども、しかし、納得感は強いので仕方がない。
二次元と三次元のストーリー
二次元は、基本的に、絵と文字で創り出される。技術の進歩で、写真や動画も含まれるようになった。虚構、という呼称もされる。三次元は、基本的に、己の心身で創り出される。変えがたきルックスや、声の抑揚・高低、身振りしぐさ筋肉など。
どれもが大事だ。
いくら緻密な正論であっても、大きな声で威圧されてしまうこともあるかもしれない、許されない、間違っていることは間違っていると主張せねばなるまい。そのとき、病弱で見るからに怯懦であれば、間違いなく舐められる。
心も、体も、思考も、感情も、すべてバランスよく鍛えていかなければいけない。
何故か? 戦うためだ。
え、何と?? というか、何の話だよこの記事。
続けることである
大体において、先日の記事で、「俺の記事、たまに面白いぜ」とか書いて、恥ずかしくなかったのか、いや、きっと恥ずかしくなるだろうと思いながら書いた。逆に言えば、そのときは全く恥ずかしくなかった。今すげー恥ずかしい赤面紅潮だ。仕方がない。
道半ばである。まだ到着駅がみえない。いやそもそも、線路通ってない。あぜ道だ。オフロードだ。
だから、こういうときは、勉強するしかないのである。
俺は、高校生、ないしは、中学生ぐらいから、「何で生きてんだろう……(肯定的な意味でこういった問いを持つ人は少なくないが、一方俺は否定的な意味だった)」と思っていた。そんときの対処方法は、とりあえず勉強する(進学する)程度のものだった。いやまぁそれで東大などに入れたらそれはそれでかっこいいと思うが、――実際、東大生の人が「やりたいことがわかんなかったのでとりあえず東大はいりました」的なことを言っているのを聞いて「くそぉぉ」と思ったりしたが(笑)、しかし、方法としては流石と思う。
要は「可能性」ということだと思う。
差別的な言葉遣いと知りつつも分かりやすく書けば、底辺大学よりも東大の方が選べる人生の幅は広いのではなかろうか。いやこれは、底辺大学よりも高卒のほうが実は良い暮らしなんだぜ、とか、そういう学歴どうこうの意味で書いていない――のだけれども、早とちりな「ザマス」系の人たちはきっと差別的にとらえることだろう。そういうバカげた自体になる可能性が思い浮かぶので、「ザマス」(表現規制派)は許容できないのである(※)。
※しかし、確かにこれは難しい問題であって、誰かを傷つける目的は俺は一切ないのだけれども、その「一切ない」ことが証明できないばかりか、実際に傷ついた結果に陥った人がいた場合どう責任がとれるのか、ということを言われ始めると、「はいろんぱー」的になりそうである。そうは思ってもなお、やはり表現規制の動きは反対なのだ、これは単なる意固地なのか。かっこいい言葉を使えば、信念なのか。いやいやそれとも、「俺もいじめられたり、嫌な思いたくさんしてきたし」という被害者意識――というか、報復精神なのか。
――と、長くなってきたな案の定。今日はここまでだ。(続けることを目的にした場合、全力を出し尽くさない方がいい場合がある。120%出して力尽きるより、70%ぐらいの力で、数か月、数年と続けられた方が、トータル成果は高い)
(かっこ書きである。面白い記事を書きたい。というか、昨年、11月ぐらいからめっきり更新が少なくなっていた気がする。で、その間も、「書こうと思えばできるけれど、やる気が起きないな」みたいに思っていた気がする。「うちの子は、やればできる子なんです!」みたいな。それって逆に、「今できていない」という証明ともいえる。ゴウタマ・シッダールタ氏も言っている。「今ナウが大事なんだぜ」と。――まぁしかし、やはり、長年続けてきた甲斐があってか、週間更新程度であれば、このぐらいの文量ならそれほど苦労なく書けることは分かった。誰かの役に立つのかとか、そもそも自分のためになるのかとか、そういうことは今は見ざる聞かざる言わざるだ。だが、それでもやはり、どっちかというと、役に立ったほうがいいし、面白いほうがいい。どうしたら面白くなるんだろう。いや、ベストセラー作品を生み出すとかいうことではなくて、この苦労レベルにおいて、よりよくするにはどうしたらよいのか、という、妥協的思考である。ただ、しかし、そうはいっても、一ついえることは、「ゼロよきゃ、絶対書いてた方がいい」というのは、僕は納得レベルで思う。皆さん(何処を向いている)、10年前の自分が、どんな状況で、どんなことを考えていたかって、覚えていますか? 「え、10年前か、ああ、あのときはな……」と自分語りが始められる人はいいけれども、僕の凡人記憶装置では、正直全然分からない。分からない中で、読み返したりすると、――ああ、この過去の思考に触れた時の感覚は、ちょっと表現が難しい。要するに「へー」っという感覚なんだけれども、俺はこれが結構大事なものだと思うのである。何故かというのは上手く表現できないが、きっとおそらく、人間が、時間的存在だからじゃあないかと思う)
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今日の一言「良かった」「いや逆に何があったら『悪かったなのか』」
実は、「毎日〇〇を続ける!」というのはあるけれども、週に1回とか、月に1回とか、そういった作業はあまりやったことがない(それか、記憶に残っていない)。
土曜日に更新する、という規定が良かったのかもしれない。基本休日であるという条件と、曜日が決まっていると覚えやすいという条件によって。
あと、「前書き」から始められるというのは心理的負担が少ない。結構いつも、最初の小見出しをどうしようか悩んでいたのである。
「埒外」と「怯懦」である。
「らちがい」と「きょうだ」と読む。
想像の埒外だ――などと、「枠から外れたこと」を指す。
怯懦な性格だ――などと、「おくびょうできのよわいこと」を指す。
正直に書こう。
どちらも、意味としては分かっていた(あっていた)が、一番目は読めていたが、二番目は、「ほうじゅ」と読んでいた。お恥ずかしい。「きょうだ」と読むのか。自分の無知さに怯懦で強打。
まぁ、埒外はともかく、「怯懦」は、言葉として知らなくても、日常生活もビジネスでも困ることはないだろう。これらは「教養」部分だと思う。
何故勉強しなければならないのか?
この疑問は、日本人なら誰しも抱くものだが、しかしながら途上国・後進国においては、発生しない疑問だろう。いわゆる教育が義務かどうかによるだろう。
国は教育を受けさせる義務があり、我々は教育を受ける権利がある。
だから、個人の主義主張感覚思考問わず、みんなが教育を受けるから、「何故?」という疑問が発生するのだ。
教育が義務でなければ、「勉強しなくてもいいから、さっさと働け」である。
まぁそれはそうと、何故勉強しなければならないかに対しての答えの一つとして、「教養を身に着けるため」というのがある。ただ、これは、実感に乏しい説明だろう。「何故勉強を……」などと思う人にとっては、「教養なんてなくても生きていける」と思う。
しかし、現代においては、実用的な知識と、教養上の知識についての境界が、グレーになっているといえる(勝手に思いついただけなので、エビデンスを出せとか言われても分からない)。
まぁ思い付きでも、理由があるから書いていけば、仕事というのが、「価値をつくる」というものであるからだ。
経済の対象は、モノとサービスだが、どちらも、付加価値が利益となる。しかし果たして、最低限生きていくのに必要な仕事というものを想定し、それに有する知識やスキルを「実用的な知識・スキル」と定義したときに、「最低限生きていくのに必要な仕事」というのは何だろうか。
人は水を飲んで、エネルギー源を摂取できたら生きられる。エネルギーだけじゃあ病気のリスクが高いから、じゃあ、ミネラルやビタミンも必須だとしても、「食」があればよいということになる。
服と建物がないと寒い。衣住も必要だろう。
んじゃあ、農業と、水道業と、アパレルと、建築業界があればいいのか。それ以外は贅沢品なのか。
たぶん、半分正解で、半分間違い。
定義の問題に過ぎない。
何の?
「生きる」
ということのだ。
現代社会で忘れてはいけないのが、「電気」だろう。
電気がなければ、スマホもパソコンも使えない。
でも、本来的には、電気がなくても、人という種は生きることができるはずなのだ。
要は、勉強というのは、個の処理能力を高めるための方法の一つである。勉強だけしててもダメだ。体もメンテナンスしとかんといかんだろう。
んでその個の処理能力を高めるというのに、「競争」という手段が、現状は最適とされているけれども、行き過ぎた競争は破綻する。
要は、自分との闘いである。
A氏が100%で成し遂げたことを、B氏は50%でやってのけるかもしれない。
絶対評価では、B氏は100点で、A氏は50点。
相対評価では、A氏は100点で、B氏は50点。
評価の難しいところである。
しかし、問題はそこだけじゃなくて、評価の「対象」もそうだ。
カオスな自然に対しての「数値化」は、あくまで人為的なものであることを認識するべきである。
もちろん、それはとても役立つことで否定されることではないが、それが常に絶対条件ではないことに気付くべきだ。
という、根本的に評価が非常に難しいという前提があるから、「人と比べても仕方がないよ」という励ましが有用になるのだけれども、その前提が知らない人に、「自分は自分、人は人だよ」と慰めたところで、心には響かない。
「でもだって、自分は周りと比べてあんなことも、こんなこともできないんだ……」
ここで僕は、日和見的に、「役に立たない人なんていない。みんな、何かしらの役に立っているんだ」なんて風に思えない。
「役立たずは、役立たずだ」
――なんだけれども、しかし、最初の方に書いたことを思い出してほしい。
「生きる」定義ってなんなのか。
食べて、寒くなく寝て、繁殖するだけなら、世の大半の仕事は不要だ。
もう一つ、慰めを書けば、個人事業主以外で仕事をしていて、職場に馴染めず、自分の意義が感じられない人は、給与明細をみてみればよい。たくさん「控除」されている。税金だ。税金とは何か、国や地方公共団体に収めるお金だ。税金は、公共のサービスのために使われる。そう、あなたがいくら会社で「役立たず!」呼ばわりされていても、給料をもらっている以上は、日本社会に貢献できているのだ!!
しかし、半分正解ではある。
要は、定義の問題だ。
いっくら公共サービスに貢献していようが、その会社の中で役立たず呼ばわりされていたら苦痛である。
もっといえば、消費活動だって、消費税があるんだから、貢献している! と思おうと思えば、思ってもいいのだ。
ただ、そういった(屁)理屈と、自分との感覚のギャップは問題にすべきである。
どんなに正論でも、もっともらしい理屈でも、自分に合わないものは「間違い」なのだ。
(ここでいつも、快楽殺人犯を例に挙げたくなる。この問題が、僕は中々しっくりくる「納得感」が得られないところだ。「自分」は大事だと思うが、しかし、多種多様な「自分」を総体的に認めるということは、いったいどういう現象になるのか。――という僕の考えや感覚はともかく、現代社会においては、「切り捨てる」という手段が取られている。死刑や監獄への隔離。それは十分機能しているといえる。じゃあ恒久普遍の正解なのか? それは疑義を呈してもいいと思う)
>「人を不快にするコンテンツの発信は許されるのか」
について、考えてみたいと思う。
いやぁ、許されるでしょ。
と、僕は取り敢えず、創作者の端くれとして言いたいと思う。
ただこうなると、先入観にとらわれて、うまく情報が整理できないかもしれない。しかし、上に書いてきたように、まず、「自分」を基準に考えないと、結局きれいな理屈が構築されても、「納得」できなくなる。だから、取り敢えずこのまま進めよう。
で、その、何故許されるのか。
創作だからだ。
というのが、初めに思いつく理由である。
グランド・セフト・オートというゲームがあって、オープンワールドのクライム(犯罪)アクションだ。
現実に、市街地を200km/hで爆走したり、無辜の市民をロケットランチャーで爆殺したりしたらダメ、ゼッタイ。
しかし、ゲームはゲームである。
5作目は、リアルな映像と相成って、結構な没入感があるけれども、だからといって、「おーっし、現実でもセブンイレブンで強盗すっか!」とはならない。
なる人もいる! というのが、否定派の主張だが、しかし果たして本当か。
残虐拷問の歴史をちょいと見てみたまえ。歴史じゃなくて、今でもそういう国がある。インドのサティーという風習をご存じだろうか。現代ではさすがにないのだろうが、19世紀ぐらいまでは続いていたらしい(WIKI)。
津山30人殺しは、20世紀の事件だ。テレビも十分に普及してなかったろうし、ましてやコンシューマ型ゲーム機やパソコンなんてない時代だ。
残虐なゲームの有無はともかく、人間は残虐な心(も)をもっているというのが、僕の人間観である。
もちろん、それだけじゃなかろうが、逆に、「面白い(残虐な)ゲームによって、現実の事件の抑止力になっている」とかって可能性もあるんじゃなかろうか(これも根拠薄弱だろう)。
氏は、その差を「目的」であると書かれていた。
前者は、故意に嫌がることをしているのに対し、後者は故意ではない(嫌がらせることを目的としていない)違いであるということだ。
なるほどそのとおりと思う。
しかし、氏も触れられているが、「目的(動機)の違いがあっても、人を不快にさせたという事実は事実」でもある。
僕はこの部分に、改めて、現実と二次元は違う、ということを持ち出したいと思う。
コンテンツの発信は、あくまでも二次元なのである。実写だろうが、文字媒体だろうが、絵だろうが、二次元という媒体は、そこに、受信者の選択制が介在する。
「いやなら見るなバーカ!」は、正当な主張なのである。
いやまて、コンテンツ発信という手段を通じて「嫌がること」が発生したのだとしたら、それは手段の違いであって、直接手を下したのと間接的に攻撃したのとの違いで、どっちもどっちではないか。いやそういうことではない。
例えば、18禁コンテンツを見るときに(さらっと普段から見ているような書き方になったが、そういう意味じゃないんだからね! みてるけど)、「あなたは18歳以上ですか?」とワーニングされるだろう。あれは、法律がどうこういう問題とは関係なく、非常に重要なのだ。フィルタリングなのだ。見たくない人は、みないことができるのだ。
僕は、「歩きスマホ」と、「歩きたばこ」どっちが重罪かというと、断然、問答無用に後者だと思っている。歩きたばこは、避けようがないのだ。歩きスマホは、ちょっと避ければいいだけだ。その、「自己回避可能性」の概念は、僕は非常に大きいと思うのである。
なので、「人が嫌がるコンテンツ」を、誰の目にも回避しようなく映るような発信の仕方は、僕も認められるべきではないと思う。
つまり、大層な「現実」様であるが、しかし、その現実における「正しい絶対普遍の条件」というものも、また存在しないのである。――というのは、僕が諸行無常・諸法無我という考え方に近しいから、という個人思考的な問題であるのだけれども、ただ、覚えておいて良い観点の一つだとは思う。
稚拙なたとえになるが、昨今、エスカレータで右側(関西では左側)を空けるのをやめようという方向性になっているようだ。理由、危ないから。
僕は正直、そんな、危ないんだろうか、注意して歩けばいいんじゃないかと思ってしまうが、まぁ、それがルールになるなら別に従ってもいいかなぐらいに思う。
つまんない、些末な例えのようだけれども、問題としては似ていて、「エスカレータを歩く」というのが「嫌だ」という人が増えたから、そういうルールになろうとしているのだろう(増えた、というのは、単純な人数ではないことは分かっている。「風潮」というか、「リスク」に対する考え方の変化も関係する)。でも、「急いでいる人のことを慮って、片方を開けておく」というのだって、大切な考え方の一つだったはずなのだ。そのマナーが生きていた頃は、聳え立つ要塞のようにエスカレータの真ん中に立つ人は「嫌な奴」だったはずなのだ。
(かっこ書きである。珍しく……もないけれども、本文が長くなったので、かっこ書きはやめておく。ただ、書いておきたいのは、「不快なコンテンツ」というのは、これは主観概念だ。僕は山椒とかの「しびれ」の味覚が不快だけれども、好きな人もいるのだろう。山椒を世界から排除せよ、という主張は成り立たない。不快なコンテンツといったところで、それが不快どころか感動する人もいるかもしれないのだ。「不快」の基準をだれが決めるのか。決められるのか。決められないなら、ゾーニングした上で認めるしかない、と思うのである。甘ちゃんかなぁ、でも、今のところそれぐらいしか思い浮かばない)
前書き
いいぞいいぞ、続けられている。週刊更新。実は、「毎日〇〇を続ける!」というのはあるけれども、週に1回とか、月に1回とか、そういった作業はあまりやったことがない(それか、記憶に残っていない)。
土曜日に更新する、という規定が良かったのかもしれない。基本休日であるという条件と、曜日が決まっていると覚えやすいという条件によって。
あと、「前書き」から始められるというのは心理的負担が少ない。結構いつも、最初の小見出しをどうしようか悩んでいたのである。
今週の役に立つこと
何か役に立つことをちりばめたいと書いた。今回は、「埒外」と「怯懦」である。
「らちがい」と「きょうだ」と読む。
想像の埒外だ――などと、「枠から外れたこと」を指す。
怯懦な性格だ――などと、「おくびょうできのよわいこと」を指す。
正直に書こう。
どちらも、意味としては分かっていた(あっていた)が、一番目は読めていたが、二番目は、「ほうじゅ」と読んでいた。お恥ずかしい。「きょうだ」と読むのか。自分の無知さに怯懦で強打。
まぁ、埒外はともかく、「怯懦」は、言葉として知らなくても、日常生活もビジネスでも困ることはないだろう。これらは「教養」部分だと思う。
何故勉強しなければならないのか?
この疑問は、日本人なら誰しも抱くものだが、しかしながら途上国・後進国においては、発生しない疑問だろう。いわゆる教育が義務かどうかによるだろう。
国は教育を受けさせる義務があり、我々は教育を受ける権利がある。
だから、個人の主義主張感覚思考問わず、みんなが教育を受けるから、「何故?」という疑問が発生するのだ。
教育が義務でなければ、「勉強しなくてもいいから、さっさと働け」である。
まぁそれはそうと、何故勉強しなければならないかに対しての答えの一つとして、「教養を身に着けるため」というのがある。ただ、これは、実感に乏しい説明だろう。「何故勉強を……」などと思う人にとっては、「教養なんてなくても生きていける」と思う。
しかし、現代においては、実用的な知識と、教養上の知識についての境界が、グレーになっているといえる(勝手に思いついただけなので、エビデンスを出せとか言われても分からない)。
まぁ思い付きでも、理由があるから書いていけば、仕事というのが、「価値をつくる」というものであるからだ。
経済の対象は、モノとサービスだが、どちらも、付加価値が利益となる。しかし果たして、最低限生きていくのに必要な仕事というものを想定し、それに有する知識やスキルを「実用的な知識・スキル」と定義したときに、「最低限生きていくのに必要な仕事」というのは何だろうか。
人は水を飲んで、エネルギー源を摂取できたら生きられる。エネルギーだけじゃあ病気のリスクが高いから、じゃあ、ミネラルやビタミンも必須だとしても、「食」があればよいということになる。
服と建物がないと寒い。衣住も必要だろう。
んじゃあ、農業と、水道業と、アパレルと、建築業界があればいいのか。それ以外は贅沢品なのか。
たぶん、半分正解で、半分間違い。
定義の問題に過ぎない。
何の?
「生きる」
ということのだ。
現代社会で忘れてはいけないのが、「電気」だろう。
電気がなければ、スマホもパソコンも使えない。
でも、本来的には、電気がなくても、人という種は生きることができるはずなのだ。
小見出し変える
役に立たないことが大半を締め出したので小見出しを変える。要は、勉強というのは、個の処理能力を高めるための方法の一つである。勉強だけしててもダメだ。体もメンテナンスしとかんといかんだろう。
んでその個の処理能力を高めるというのに、「競争」という手段が、現状は最適とされているけれども、行き過ぎた競争は破綻する。
要は、自分との闘いである。
A氏が100%で成し遂げたことを、B氏は50%でやってのけるかもしれない。
絶対評価では、B氏は100点で、A氏は50点。
相対評価では、A氏は100点で、B氏は50点。
評価の難しいところである。
しかし、問題はそこだけじゃなくて、評価の「対象」もそうだ。
カオスな自然に対しての「数値化」は、あくまで人為的なものであることを認識するべきである。
もちろん、それはとても役立つことで否定されることではないが、それが常に絶対条件ではないことに気付くべきだ。
という、根本的に評価が非常に難しいという前提があるから、「人と比べても仕方がないよ」という励ましが有用になるのだけれども、その前提が知らない人に、「自分は自分、人は人だよ」と慰めたところで、心には響かない。
「でもだって、自分は周りと比べてあんなことも、こんなこともできないんだ……」
ここで僕は、日和見的に、「役に立たない人なんていない。みんな、何かしらの役に立っているんだ」なんて風に思えない。
「役立たずは、役立たずだ」
――なんだけれども、しかし、最初の方に書いたことを思い出してほしい。
「生きる」定義ってなんなのか。
食べて、寒くなく寝て、繁殖するだけなら、世の大半の仕事は不要だ。
もう一つ、慰めを書けば、個人事業主以外で仕事をしていて、職場に馴染めず、自分の意義が感じられない人は、給与明細をみてみればよい。たくさん「控除」されている。税金だ。税金とは何か、国や地方公共団体に収めるお金だ。税金は、公共のサービスのために使われる。そう、あなたがいくら会社で「役立たず!」呼ばわりされていても、給料をもらっている以上は、日本社会に貢献できているのだ!!
定義
詭弁っぽい。しかし、半分正解ではある。
要は、定義の問題だ。
いっくら公共サービスに貢献していようが、その会社の中で役立たず呼ばわりされていたら苦痛である。
もっといえば、消費活動だって、消費税があるんだから、貢献している! と思おうと思えば、思ってもいいのだ。
ただ、そういった(屁)理屈と、自分との感覚のギャップは問題にすべきである。
どんなに正論でも、もっともらしい理屈でも、自分に合わないものは「間違い」なのだ。
(ここでいつも、快楽殺人犯を例に挙げたくなる。この問題が、僕は中々しっくりくる「納得感」が得られないところだ。「自分」は大事だと思うが、しかし、多種多様な「自分」を総体的に認めるということは、いったいどういう現象になるのか。――という僕の考えや感覚はともかく、現代社会においては、「切り捨てる」という手段が取られている。死刑や監獄への隔離。それは十分機能しているといえる。じゃあ恒久普遍の正解なのか? それは疑義を呈してもいいと思う)
不快なコンテンツの創造について
では、関連して、先週書けたら書こうとしていた、>「人を不快にするコンテンツの発信は許されるのか」
について、考えてみたいと思う。
いやぁ、許されるでしょ。
と、僕は取り敢えず、創作者の端くれとして言いたいと思う。
ただこうなると、先入観にとらわれて、うまく情報が整理できないかもしれない。しかし、上に書いてきたように、まず、「自分」を基準に考えないと、結局きれいな理屈が構築されても、「納得」できなくなる。だから、取り敢えずこのまま進めよう。
で、その、何故許されるのか。
創作だからだ。
というのが、初めに思いつく理由である。
グランド・セフト・オートというゲームがあって、オープンワールドのクライム(犯罪)アクションだ。
現実に、市街地を200km/hで爆走したり、無辜の市民をロケットランチャーで爆殺したりしたらダメ、ゼッタイ。
しかし、ゲームはゲームである。
5作目は、リアルな映像と相成って、結構な没入感があるけれども、だからといって、「おーっし、現実でもセブンイレブンで強盗すっか!」とはならない。
なる人もいる! というのが、否定派の主張だが、しかし果たして本当か。
残虐拷問の歴史をちょいと見てみたまえ。歴史じゃなくて、今でもそういう国がある。インドのサティーという風習をご存じだろうか。現代ではさすがにないのだろうが、19世紀ぐらいまでは続いていたらしい(WIKI)。
津山30人殺しは、20世紀の事件だ。テレビも十分に普及してなかったろうし、ましてやコンシューマ型ゲーム機やパソコンなんてない時代だ。
残虐なゲームの有無はともかく、人間は残虐な心(も)をもっているというのが、僕の人間観である。
もちろん、それだけじゃなかろうが、逆に、「面白い(残虐な)ゲームによって、現実の事件の抑止力になっている」とかって可能性もあるんじゃなかろうか(これも根拠薄弱だろう)。
現実と二次元
要するに、現実と二次元は密接に関わりながら、全く異なるものだ、という、当たり前のことである。「うるせえ!! 人の気持なんか知るか!! 俺は俺のスキを表現する!! その結果どれだけ人が不快になろうが知るか!! いやなら見るなバーカ!!」「人が嫌がることをする」のは疑いなく悪いことだ。では「人が嫌がることをする」のと「人が嫌がるコンテンツを発信する」ことの差はどこにあるのか。――螺旋のモノリス
氏は、その差を「目的」であると書かれていた。
前者は、故意に嫌がることをしているのに対し、後者は故意ではない(嫌がらせることを目的としていない)違いであるということだ。
なるほどそのとおりと思う。
しかし、氏も触れられているが、「目的(動機)の違いがあっても、人を不快にさせたという事実は事実」でもある。
僕はこの部分に、改めて、現実と二次元は違う、ということを持ち出したいと思う。
コンテンツの発信は、あくまでも二次元なのである。実写だろうが、文字媒体だろうが、絵だろうが、二次元という媒体は、そこに、受信者の選択制が介在する。
「いやなら見るなバーカ!」は、正当な主張なのである。
いやまて、コンテンツ発信という手段を通じて「嫌がること」が発生したのだとしたら、それは手段の違いであって、直接手を下したのと間接的に攻撃したのとの違いで、どっちもどっちではないか。いやそういうことではない。
例えば、18禁コンテンツを見るときに(さらっと普段から見ているような書き方になったが、そういう意味じゃないんだからね! みてるけど)、「あなたは18歳以上ですか?」とワーニングされるだろう。あれは、法律がどうこういう問題とは関係なく、非常に重要なのだ。フィルタリングなのだ。見たくない人は、みないことができるのだ。
僕は、「歩きスマホ」と、「歩きたばこ」どっちが重罪かというと、断然、問答無用に後者だと思っている。歩きたばこは、避けようがないのだ。歩きスマホは、ちょっと避ければいいだけだ。その、「自己回避可能性」の概念は、僕は非常に大きいと思うのである。
なので、「人が嫌がるコンテンツ」を、誰の目にも回避しようなく映るような発信の仕方は、僕も認められるべきではないと思う。
あと一つ
しかし、もう一つの疑義を、僕は書いておきたい。つまり、大層な「現実」様であるが、しかし、その現実における「正しい絶対普遍の条件」というものも、また存在しないのである。――というのは、僕が諸行無常・諸法無我という考え方に近しいから、という個人思考的な問題であるのだけれども、ただ、覚えておいて良い観点の一つだとは思う。
稚拙なたとえになるが、昨今、エスカレータで右側(関西では左側)を空けるのをやめようという方向性になっているようだ。理由、危ないから。
僕は正直、そんな、危ないんだろうか、注意して歩けばいいんじゃないかと思ってしまうが、まぁ、それがルールになるなら別に従ってもいいかなぐらいに思う。
つまんない、些末な例えのようだけれども、問題としては似ていて、「エスカレータを歩く」というのが「嫌だ」という人が増えたから、そういうルールになろうとしているのだろう(増えた、というのは、単純な人数ではないことは分かっている。「風潮」というか、「リスク」に対する考え方の変化も関係する)。でも、「急いでいる人のことを慮って、片方を開けておく」というのだって、大切な考え方の一つだったはずなのだ。そのマナーが生きていた頃は、聳え立つ要塞のようにエスカレータの真ん中に立つ人は「嫌な奴」だったはずなのだ。
(かっこ書きである。珍しく……もないけれども、本文が長くなったので、かっこ書きはやめておく。ただ、書いておきたいのは、「不快なコンテンツ」というのは、これは主観概念だ。僕は山椒とかの「しびれ」の味覚が不快だけれども、好きな人もいるのだろう。山椒を世界から排除せよ、という主張は成り立たない。不快なコンテンツといったところで、それが不快どころか感動する人もいるかもしれないのだ。「不快」の基準をだれが決めるのか。決められるのか。決められないなら、ゾーニングした上で認めるしかない、と思うのである。甘ちゃんかなぁ、でも、今のところそれぐらいしか思い浮かばない)
今日の一言「目標を掲げてから二回目」「良かった」
毎週更新の日だ。
しかし、そんな実感は全然ない。
無いけれども、記憶に残っていたから、やろうと思った。全然習慣化していないが、
平成31年3月30日(土)まで。
は、続けようと決めたので、モチベーションは維持したい。
書くこととしては、
前書き
土曜日だ。毎週更新の日だ。
しかし、そんな実感は全然ない。
無いけれども、記憶に残っていたから、やろうと思った。全然習慣化していないが、
平成31年3月30日(土)まで。
は、続けようと決めたので、モチベーションは維持したい。
書くこととしては、
・今日の一言で、一週間(ぐらいが)「良かった」or「悪かった」か
・前書き
・何か本文的なの
・一週間の振り返りの理由
である。
そうか、今日の一言のところで、良かったか悪かったのか書かないといけなかったのか、と後付けで追記する。良かった、と思う。
やっぱり、ごく後半の展開が自分的には残念だった。バトルはやっぱり人類にとっては正解なんだろうか……。
と、いうよりも、今週よかった理由に挙げてもいいくらい、「Angel Beats!」が面白かった。
これ、2010年の古い作品なんだが、――というか、おもった。2010年って、今、自分思ったより、書いている瞬間よりも、もうかなり昔なんだな。
「結構前の作品」
って意味で書こうとしたけれども、ほぼ10年前か。10年。
「あれから10年――」
みたいなナレーションって、もう相当経った的に感じるけれども、2010年という数字的には、そんなに前の気がしない。
それってたぶん、「自分が生きていた時代」だからというのもある気がする。
ので、書こうと思っていたのは間違いないし、実際書いていたのだけれども、投稿に至らなかったことは言い訳しておく。
今も、体調があまりよくない――なんだ、花粉症か、画面酔いなのか。
そして、嫌な夢を見た。
過去に、2、3度、「死んだ夢」をみたことがある。
あれは、原体験として、全経験としても、最大に怖いだろう。
死んだ夢は、自分の意識があるかないか分からないその境界のような状態――「ほぼ無」で、永遠に、文字通り永遠にその状態が続くことを感じさせる夢である。
いつも思うが、文字にすると、その怖さが半減どころか、全然続かない。
だが、まともに思考することも、体を動かすことも(むしろ体なんてもはやなかろう)、何もできないのに、うっすらと、曖昧で真っ暗な意識の断片がふらふらとし続けるのだ。
死が、「完全な無」だったらどんなによいことかと、発狂しそうになりながら思うのだ。
――という夢の、新しいバージョンが今回あった。
死刑をまつ夢だ。
刑務官のような人と、自分が、会話している。談笑。ふだんの、日常のような感じだ。
「今日の労務は、世界史の勉強をしましょう」
そういって、青い表紙の新品の大学ノートが机に置かれる。
そして、表紙に自分の名前を書くように促される。
自分は、ペンをとり、自分の名前を書こうとするが、そこで気づく。
自分は、これから、死刑になるのだと。
「薬物注射ですか」
刑務官は、微笑を崩さないまま首を振った。
「薬物注射がいい……そのほうが、眠ったように死ねるから」
自分の思いは、刑務官に伝わったのだろうか。
しかし、思いはともかく、その要求が実現することなどないことがすぐに分かった。
「では、絞首刑ですか」
今度は、刑務官は何も動じなかった。
それで、答えが分かった。
「さ、名前を書いて」
促されるまま大学ノートに向かう。
ああ、しかし、僕は本当に死刑になるのだ。だから、こんなノートに名前を書いたって、好きな世界史の勉強をしたって、全部なくなってしまうんだ。
苗字まで書いたところで、手が震えて、かけなくなってしまう。
「どうせ、名前なんて書いても、これも、すぐに捨ててしまうんでしょう」
悲鳴にも似た声がでる。
刑務官は動じない。
しばらく僕は、ただ恐怖を感じていた。
様々な思いが浮かんできた(ように思った)。
出会った人。
楽しかったこと。
嫌だったこと。
様々なことが浮かんで、それらが全部消えてしまうんだと、自分がこの世界から、社会から、なくなってしまうんだということが、ただ、ただ、とてつもなく、どうしようもなく、恐怖だった。
とか。
で、寝ていたけれども、頭の痛さで明け方に何度か目が覚めた。
正直、「悪かった」。
しかし、まぁその、夢の話だし、一週間の振り返りとしては、最初の方に書いたかもしれないが、仕事での問題も取りあえず方向性も見えたし、来週は落ち着かせられそうであるから、まぁよかったと思う。
だが、昨日今日、土日という意味では、「悪かった」評価をしたいところである。
(かっこ書きである。何か、当初考えていた振り返りの記事と全く違うようになった。まったくもって体調の悪さと、夢のせいだ。土曜日に更新すると決めて、2回目でこの体たらくは落ち込んでしまう。が、いつもの免除規定で(ちゃんと書いてなかったが)、体調不良や、その他イベントによって書けないときは除外されるので、早速これを適用しようと思う。来週は多分、日帰りで旅行には行くが、まぁ大丈夫、書けるだろう。というか、本当は、「Angel Beats!」について書こうかと思っていたのである。あらすじは、見終わってからWIKIみたら、ほぼこれ、ストーリーなんじゃないかと思うくらい完全にまとまっていた。完全ネタバレに思う。見てない人は見ちゃいけないと思う。まぁその、僕の言葉で悪意のある表現をすれば、「よくある学園ものにバトルを持ち込みつつギャグパート多めだが感動させにくる作品」である。あまり好みの作品ではない気がしたが、導入は、シュタインズゲートと同様に、OP曲だった。「My Soul,Your Beats!」という曲なんだそうだが、これも今調べた。Angel……以下面倒なのでAB作品――のOP曲ということも知らなかったが、ニコニコ動画のアニソンメドレー的なので聞いたことがあって、「あぁ、いい曲だなぁ」と思っていたのだ。そんな状態で、アマプラでAB作品が「おすすめ」みたいにあがってきたので見てみると、「あ、この曲だ!」っとなって見始めたのだ。そんな動機だった。今回の僕のみた夢の話と関係ないようだが、今思うに、関係している気がしてきた。AB作品のテーマの一つに、「消滅」というのがあって、満足すると、その世界(現実を模して構築され隔絶された異世界)から消えるのである。その消滅とは何か、その世界とは何かということが打ち出されつつ作品は進んでいくのであるが、不思議なことに、「満足したら消える」のである。登場人物たちは、自分のやりたかったことを成し遂げたとき、幸せそうな顔をして消滅していく。そのシーンは、それはそれで感動的なのだけれども、しかし僕は、99%の感動のうち、対1%の部分で、「なんか怖い」と思っていたのではなかったか。「満足した死」って、何なんだろう。本当にそんなものあるのか――いや、その消滅する瞬間の彼彼女らは、そんな疑問なんて思わずに、本当に満たされて消えていったのだろう。でも、――だが、本当に、そうなのか。……なーんてことを、土曜日に書ければいいかなーぐらいに、先週? 今週? は思っていたのである。それがこんなことになるなんて……。また来週、覚えていたらもう少し詳しく書いてみようかな。あと、とある方のブログで、作品公開が順調にスタートされていて、そっちも見に行きたいが、まだ十分に確認できていない。ああ、そうそう、その中で、「人を不快にするコンテンツの発信は許されるのか」といったテーマが書かれていた。僕などより相当深く考えられているようであったが、このテーマについては、自分なりにも考えておいた方がいいだろうな、と思ったので、これも書きたい。関係ないけど、上の死刑の話で、そもそも自分が何か悪いことをしたのかとか全然分からないが、ただ、怖かったことは事実だけれども、でもそれでも、いや逆に、死刑制度はあっても仕方がないんじゃないかなって思った、逆に。いやそりゃ本当に怖かったのだけれども、ただ、それは、殺される被害者だって同じことだと思う。いやその被害者が、通り魔的に一気に首をかっきられて死んだら、「思考的恐怖=死が何かは分からないこと」もなく死ぬから、死刑という制度はおぞましいかもしれない、けれども、監禁して、体の端から徐々に切り刻んで死に至らしむようなことだったら――いや、その、個別具体的な状態を勘案して刑を考えるなんて、そもそも難しいと思うけれども、それでも、「感情的に」死刑というのはあった方がいいような気がした。死刑撲滅派の人たちは高尚な精神をもっているのかもしれないが、今のところ僕は、(夢の)経験的に、そこまでの精神はもてなそうだ)
である。
そうか、今日の一言のところで、良かったか悪かったのか書かないといけなかったのか、と後付けで追記する。良かった、と思う。
正解するカドは序盤はやっぱり面白い
アマゾンプライムで「Angel Beats!」を見終わって、暇だったので「正解するカド」の0話~2話ぐらいを流しで見ていたら、やっぱりこれ面白かった。すごいワクワクする。キャラクターもいいね。やっぱり、ごく後半の展開が自分的には残念だった。バトルはやっぱり人類にとっては正解なんだろうか……。
と、いうよりも、今週よかった理由に挙げてもいいくらい、「Angel Beats!」が面白かった。
これ、2010年の古い作品なんだが、――というか、おもった。2010年って、今、自分思ったより、書いている瞬間よりも、もうかなり昔なんだな。
「結構前の作品」
って意味で書こうとしたけれども、ほぼ10年前か。10年。
「あれから10年――」
みたいなナレーションって、もう相当経った的に感じるけれども、2010年という数字的には、そんなに前の気がしない。
それってたぶん、「自分が生きていた時代」だからというのもある気がする。
死刑を待つ夢
――といったところまで書いて、どうしようも、本当に頭が痛くなって、力尽きてしまった。ので、書こうと思っていたのは間違いないし、実際書いていたのだけれども、投稿に至らなかったことは言い訳しておく。
今も、体調があまりよくない――なんだ、花粉症か、画面酔いなのか。
そして、嫌な夢を見た。
過去に、2、3度、「死んだ夢」をみたことがある。
あれは、原体験として、全経験としても、最大に怖いだろう。
死んだ夢は、自分の意識があるかないか分からないその境界のような状態――「ほぼ無」で、永遠に、文字通り永遠にその状態が続くことを感じさせる夢である。
いつも思うが、文字にすると、その怖さが半減どころか、全然続かない。
だが、まともに思考することも、体を動かすことも(むしろ体なんてもはやなかろう)、何もできないのに、うっすらと、曖昧で真っ暗な意識の断片がふらふらとし続けるのだ。
死が、「完全な無」だったらどんなによいことかと、発狂しそうになりながら思うのだ。
――という夢の、新しいバージョンが今回あった。
死刑をまつ夢だ。
刑務官のような人と、自分が、会話している。談笑。ふだんの、日常のような感じだ。
「今日の労務は、世界史の勉強をしましょう」
そういって、青い表紙の新品の大学ノートが机に置かれる。
そして、表紙に自分の名前を書くように促される。
自分は、ペンをとり、自分の名前を書こうとするが、そこで気づく。
自分は、これから、死刑になるのだと。
「薬物注射ですか」
刑務官は、微笑を崩さないまま首を振った。
「薬物注射がいい……そのほうが、眠ったように死ねるから」
自分の思いは、刑務官に伝わったのだろうか。
しかし、思いはともかく、その要求が実現することなどないことがすぐに分かった。
「では、絞首刑ですか」
今度は、刑務官は何も動じなかった。
それで、答えが分かった。
「さ、名前を書いて」
促されるまま大学ノートに向かう。
ああ、しかし、僕は本当に死刑になるのだ。だから、こんなノートに名前を書いたって、好きな世界史の勉強をしたって、全部なくなってしまうんだ。
苗字まで書いたところで、手が震えて、かけなくなってしまう。
「どうせ、名前なんて書いても、これも、すぐに捨ててしまうんでしょう」
悲鳴にも似た声がでる。
刑務官は動じない。
しばらく僕は、ただ恐怖を感じていた。
様々な思いが浮かんできた(ように思った)。
出会った人。
楽しかったこと。
嫌だったこと。
様々なことが浮かんで、それらが全部消えてしまうんだと、自分がこの世界から、社会から、なくなってしまうんだということが、ただ、ただ、とてつもなく、どうしようもなく、恐怖だった。
かっこ書きに向かう
といった夢と、あと、事故にあう夢をみた。あう、というか、同乗していた車で、事故をおこした、というか。車線変更してきた人をひいた。最初自分が運転していると思って、路肩にとめようと思っても止め方がわからず焦っていたら、自分は助手席だった。とか。
で、寝ていたけれども、頭の痛さで明け方に何度か目が覚めた。
正直、「悪かった」。
しかし、まぁその、夢の話だし、一週間の振り返りとしては、最初の方に書いたかもしれないが、仕事での問題も取りあえず方向性も見えたし、来週は落ち着かせられそうであるから、まぁよかったと思う。
だが、昨日今日、土日という意味では、「悪かった」評価をしたいところである。
(かっこ書きである。何か、当初考えていた振り返りの記事と全く違うようになった。まったくもって体調の悪さと、夢のせいだ。土曜日に更新すると決めて、2回目でこの体たらくは落ち込んでしまう。が、いつもの免除規定で(ちゃんと書いてなかったが)、体調不良や、その他イベントによって書けないときは除外されるので、早速これを適用しようと思う。来週は多分、日帰りで旅行には行くが、まぁ大丈夫、書けるだろう。というか、本当は、「Angel Beats!」について書こうかと思っていたのである。あらすじは、見終わってからWIKIみたら、ほぼこれ、ストーリーなんじゃないかと思うくらい完全にまとまっていた。完全ネタバレに思う。見てない人は見ちゃいけないと思う。まぁその、僕の言葉で悪意のある表現をすれば、「よくある学園ものにバトルを持ち込みつつギャグパート多めだが感動させにくる作品」である。あまり好みの作品ではない気がしたが、導入は、シュタインズゲートと同様に、OP曲だった。「My Soul,Your Beats!」という曲なんだそうだが、これも今調べた。Angel……以下面倒なのでAB作品――のOP曲ということも知らなかったが、ニコニコ動画のアニソンメドレー的なので聞いたことがあって、「あぁ、いい曲だなぁ」と思っていたのだ。そんな状態で、アマプラでAB作品が「おすすめ」みたいにあがってきたので見てみると、「あ、この曲だ!」っとなって見始めたのだ。そんな動機だった。今回の僕のみた夢の話と関係ないようだが、今思うに、関係している気がしてきた。AB作品のテーマの一つに、「消滅」というのがあって、満足すると、その世界(現実を模して構築され隔絶された異世界)から消えるのである。その消滅とは何か、その世界とは何かということが打ち出されつつ作品は進んでいくのであるが、不思議なことに、「満足したら消える」のである。登場人物たちは、自分のやりたかったことを成し遂げたとき、幸せそうな顔をして消滅していく。そのシーンは、それはそれで感動的なのだけれども、しかし僕は、99%の感動のうち、対1%の部分で、「なんか怖い」と思っていたのではなかったか。「満足した死」って、何なんだろう。本当にそんなものあるのか――いや、その消滅する瞬間の彼彼女らは、そんな疑問なんて思わずに、本当に満たされて消えていったのだろう。でも、――だが、本当に、そうなのか。……なーんてことを、土曜日に書ければいいかなーぐらいに、先週? 今週? は思っていたのである。それがこんなことになるなんて……。また来週、覚えていたらもう少し詳しく書いてみようかな。あと、とある方のブログで、作品公開が順調にスタートされていて、そっちも見に行きたいが、まだ十分に確認できていない。ああ、そうそう、その中で、「人を不快にするコンテンツの発信は許されるのか」といったテーマが書かれていた。僕などより相当深く考えられているようであったが、このテーマについては、自分なりにも考えておいた方がいいだろうな、と思ったので、これも書きたい。関係ないけど、上の死刑の話で、そもそも自分が何か悪いことをしたのかとか全然分からないが、ただ、怖かったことは事実だけれども、でもそれでも、いや逆に、死刑制度はあっても仕方がないんじゃないかなって思った、逆に。いやそりゃ本当に怖かったのだけれども、ただ、それは、殺される被害者だって同じことだと思う。いやその被害者が、通り魔的に一気に首をかっきられて死んだら、「思考的恐怖=死が何かは分からないこと」もなく死ぬから、死刑という制度はおぞましいかもしれない、けれども、監禁して、体の端から徐々に切り刻んで死に至らしむようなことだったら――いや、その、個別具体的な状態を勘案して刑を考えるなんて、そもそも難しいと思うけれども、それでも、「感情的に」死刑というのはあった方がいいような気がした。死刑撲滅派の人たちは高尚な精神をもっているのかもしれないが、今のところ僕は、(夢の)経験的に、そこまでの精神はもてなそうだ)
今日の一言「臨時の記事だ」
HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)という言葉があるのを最近知った。
病気ではないけれども、外界の刺激に敏感な傾向がある人のことを言うそうだ。
参考リンク
でまぁ、診断基準的なのもあって、5人に1人の割合でHSPはいるということだ。
――という言葉で、「結構多いな」と思えるかというと、その1/5というのが、国や社会や集団によるのかとか、諸条件が気になるし、個別具体的にどう当てはまるのかというのは納得感をもてない(男女の差に優位はないらしい)。
ただ、「鬱」とか「LGBT」じゃあないけれども、そういった概念があるということは、覚えておいて損はないと思う。
HSPの人は、車の走るスピードが(ふつーの人より)速く感じたり、電話の音とか(ふつーの人より)うるさく感じたりするということだ。
ただ、HSPという言葉は、「個性」というか、才能だという肯定的な意味で用いられているということである。細かいことによく気づいたり、抽象的思考に優れていたりするということだ。
例えば、「内奥(ないおう)」という言葉は、「心の内奥」などと用いて、内部の奥深いところを示すという、まぁ読んで字の通りのものだけれども、実際用法として自分が使えるか、というと使えない。
読んで理解できるものと、自分が思考言語、ないしは口頭言語として使えるものは別だ。(対義を「理解可能言語」と表現したところであまり意味はない)
ということで、何かこう外部から、言葉をメモして、思考言語をもっと豊かにできたらどうかと思いついたことを、まず今回の記事としてメモしたい。
「通奏低音」――これも読んで字のごとく、音楽で流れる低音パートのことや、物事や考えの底部に流れていることを示すわけだが、意識的に使おうと思わなければ、理解可能言語のまま終わる。
しかし果たして――言葉の豊かさは、思考の豊かさになるのか。
むしろ、物理などは、自然のカオスを、より単純な一つの法則によって描こうと試みるのである。冗長な表現をしたところで、理解が深まったとは言えないのではないか。
両方必要である。(つまらない回答だ)
僕は、理系とか文系とか、そういった考えもつまらないと思う。両方大切だ。
自然に対してのアプローチが違うだけなのだ。専門家になるのでなければ、両方のアプローチを知っておいて損はない。
目標、立てた瞬間は、「やれる(実行できる)」と思うものだ。
それを、いろいろな「障害」があった後、数日後に同じモチベーションを保ってられるのか、その確認作業をできるだけ、最初は頻繁に行う。そのうち、感覚を広げていって、定着感を確かめる、そんな風な作業が必要なのだ。
ということと、休日について、だ。
「生きてるだけでしんどい」
という記事というか、タイトルを読んで、「ああ、なるほど」と思った。
「休日誘われると嬉しいちゃ嬉しいけど、生きているだけで負債がたまっていくから、休日はそれを回復するのに使わないといけないのだ」
という。
先日、かっこ書きで、「知人等に誘われて、実際行ってみると楽しかったりするけれどもリソース消費が激しい」ということを書いたが、その、「何もしないこと」に忙しいのである。
予定が特にないと、「暇でしょ」と言われるけれども、そうじゃないんだ、ということだ。
なんかどっかにでかけないと「休日がもったいない」とか、そんなん、全然違うんだ、ということだ。
で、まぁ、そういう感覚と、HSP(ハイリーセンシティブパーソン)とが密接に結びつくのかとか、まぁ疑問は多く発生するけれども、そんなことはどうでもいいのである。
大事なのは、そうした「思考表現」によって自己理解が可能になる、ということだ。
流行りの言葉を使えば、「自己肯定感」でも「承認欲求」でもいい。
ま、とにかく、普遍的に大切なのは、誰しも、「いい感じの状態」でいることだろう。
(かっこ書きである。飲み会と仕事が上手くいかないのとで、非常に疲れている。仕事の方は、自分が悪いというわけではないけれども、まぁその、問題が発生したという結果に対しては、責任がないとは言えないだろう。堤防を越える津波が来ることを予見できなかったら犯罪なのだ。しかし、責任というのは曖昧なものだなと思う。いやまぁ実際、上司の裁量とか、会社の規約とか、日本国法とか、ちゃんとした基準はあるんだろう。しかし、科学でさえも自然のすべてを解明できていないのに、所詮人間の作ったルールが完ぺきなものであるはずはないのだ。そして、ルールを運用するのもまた人間に過ぎないのだ。科学的思考や資本主義的思考は、普遍的なものが絶対的にあるかのように振舞ってきた。――的な書き出しすると、神やスピリチュアル的なものがあって、それらを信じてるのか、とか疑われそうだけれども、結局、そういったものの信仰もまた、絶対性の誤謬である。かといって、相対主義論に拠ってしまうのも間違っている――何故なら、実際に運動量保存則が成り立つケースは存在するのだ。窃盗罪は「10年以下の懲役または50万円以下の罰金」であって、ちゃんと基準をもって量刑が言い渡されるのである。事実は、事実として存在する。しかし、毎日ふつーに生きていくにしたって、その判断は、いつも流動的であり、不確定要素があり、時間的制約もあり、大変だ。お昼に今日何を食べようかという思考も面倒だ、大変なリソース消費だ(大げさ)。ちなみに、量刑の懲役か罰金かというのは、数か月前ぐらいに何かで調べるまで、被告人が選べるのかと思っていたら、そうじゃなかった。大の大人がお恥ずかしい。しかし、「知らないこと」というのは、もうそりゃ沢山ある。きりがない。だから、無知の知的態度が大事なのは言うまでもなくて、逆にそうだからこそ、そのきりのない中で「ストーリー」を構築できる人が、作家としてだけじゃあなくて、どんな分野でも成功できる。何故ならば、一般ピーポーは、ストーリーを構築できない。誰かのストーリーに寄り添って生きるしかない。さらに悲劇的には、自分自身のストーリーさえ構築できない。「自分の人生は自分のものだ!」とか掛け声は立派だが、その実は惨憺たるものだ――と書くと言い過ぎなのは承知の上だが、まぁその、思ったほど簡単なことじゃあない。まだ学校の勉強していた方が楽なもんである。にもかかわらず、子供たちに、「将来の夢は」なんてのは、酷な話である。いやまぁ大事なことで、やめるべきだという主張ではない。でも、「お父さんのようなお医者さんになりたいです!」とかいうのが、本当に「自分のストーリー」なのか、ということの疑義だ。ということを書くとスグサマ逆に、「別に自分のストーリーいらないんじゃない?」というのも思い浮かぶけれども、まぁその、あった方がいいと思う――というかかっこ書き長い。本文とどっちが長いのかと思うくらいだ。やめよう)
前書き
土曜日毎週更新と決定している。しかし、別にそれ以外に書いてもいい。書く。HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)という言葉があるのを最近知った。
病気ではないけれども、外界の刺激に敏感な傾向がある人のことを言うそうだ。
参考リンク
でまぁ、診断基準的なのもあって、5人に1人の割合でHSPはいるということだ。
――という言葉で、「結構多いな」と思えるかというと、その1/5というのが、国や社会や集団によるのかとか、諸条件が気になるし、個別具体的にどう当てはまるのかというのは納得感をもてない(男女の差に優位はないらしい)。
ただ、「鬱」とか「LGBT」じゃあないけれども、そういった概念があるということは、覚えておいて損はないと思う。
HSPの人は、車の走るスピードが(ふつーの人より)速く感じたり、電話の音とか(ふつーの人より)うるさく感じたりするということだ。
ただ、HSPという言葉は、「個性」というか、才能だという肯定的な意味で用いられているということである。細かいことによく気づいたり、抽象的思考に優れていたりするということだ。
役立つことを一つぐらい散りばめたい
ぐだぐだ書くのもいいが、一つぐらい、常に役立つことを含めたいと思った。例えば、「内奥(ないおう)」という言葉は、「心の内奥」などと用いて、内部の奥深いところを示すという、まぁ読んで字の通りのものだけれども、実際用法として自分が使えるか、というと使えない。
読んで理解できるものと、自分が思考言語、ないしは口頭言語として使えるものは別だ。(対義を「理解可能言語」と表現したところであまり意味はない)
ということで、何かこう外部から、言葉をメモして、思考言語をもっと豊かにできたらどうかと思いついたことを、まず今回の記事としてメモしたい。
「通奏低音」――これも読んで字のごとく、音楽で流れる低音パートのことや、物事や考えの底部に流れていることを示すわけだが、意識的に使おうと思わなければ、理解可能言語のまま終わる。
しかし果たして――言葉の豊かさは、思考の豊かさになるのか。
むしろ、物理などは、自然のカオスを、より単純な一つの法則によって描こうと試みるのである。冗長な表現をしたところで、理解が深まったとは言えないのではないか。
両方必要である。(つまらない回答だ)
僕は、理系とか文系とか、そういった考えもつまらないと思う。両方大切だ。
自然に対してのアプローチが違うだけなのだ。専門家になるのでなければ、両方のアプローチを知っておいて損はない。
雑記的部分
といったことを思ったのと、「毎週土曜日更新」という目標のインプットのために、今日ぐらいは、書いておかねばなるまいと思ったのだ。目標、立てた瞬間は、「やれる(実行できる)」と思うものだ。
それを、いろいろな「障害」があった後、数日後に同じモチベーションを保ってられるのか、その確認作業をできるだけ、最初は頻繁に行う。そのうち、感覚を広げていって、定着感を確かめる、そんな風な作業が必要なのだ。
ということと、休日について、だ。
「生きてるだけでしんどい」
という記事というか、タイトルを読んで、「ああ、なるほど」と思った。
「休日誘われると嬉しいちゃ嬉しいけど、生きているだけで負債がたまっていくから、休日はそれを回復するのに使わないといけないのだ」
という。
先日、かっこ書きで、「知人等に誘われて、実際行ってみると楽しかったりするけれどもリソース消費が激しい」ということを書いたが、その、「何もしないこと」に忙しいのである。
予定が特にないと、「暇でしょ」と言われるけれども、そうじゃないんだ、ということだ。
なんかどっかにでかけないと「休日がもったいない」とか、そんなん、全然違うんだ、ということだ。
で、まぁ、そういう感覚と、HSP(ハイリーセンシティブパーソン)とが密接に結びつくのかとか、まぁ疑問は多く発生するけれども、そんなことはどうでもいいのである。
大事なのは、そうした「思考表現」によって自己理解が可能になる、ということだ。
流行りの言葉を使えば、「自己肯定感」でも「承認欲求」でもいい。
ま、とにかく、普遍的に大切なのは、誰しも、「いい感じの状態」でいることだろう。
(かっこ書きである。飲み会と仕事が上手くいかないのとで、非常に疲れている。仕事の方は、自分が悪いというわけではないけれども、まぁその、問題が発生したという結果に対しては、責任がないとは言えないだろう。堤防を越える津波が来ることを予見できなかったら犯罪なのだ。しかし、責任というのは曖昧なものだなと思う。いやまぁ実際、上司の裁量とか、会社の規約とか、日本国法とか、ちゃんとした基準はあるんだろう。しかし、科学でさえも自然のすべてを解明できていないのに、所詮人間の作ったルールが完ぺきなものであるはずはないのだ。そして、ルールを運用するのもまた人間に過ぎないのだ。科学的思考や資本主義的思考は、普遍的なものが絶対的にあるかのように振舞ってきた。――的な書き出しすると、神やスピリチュアル的なものがあって、それらを信じてるのか、とか疑われそうだけれども、結局、そういったものの信仰もまた、絶対性の誤謬である。かといって、相対主義論に拠ってしまうのも間違っている――何故なら、実際に運動量保存則が成り立つケースは存在するのだ。窃盗罪は「10年以下の懲役または50万円以下の罰金」であって、ちゃんと基準をもって量刑が言い渡されるのである。事実は、事実として存在する。しかし、毎日ふつーに生きていくにしたって、その判断は、いつも流動的であり、不確定要素があり、時間的制約もあり、大変だ。お昼に今日何を食べようかという思考も面倒だ、大変なリソース消費だ(大げさ)。ちなみに、量刑の懲役か罰金かというのは、数か月前ぐらいに何かで調べるまで、被告人が選べるのかと思っていたら、そうじゃなかった。大の大人がお恥ずかしい。しかし、「知らないこと」というのは、もうそりゃ沢山ある。きりがない。だから、無知の知的態度が大事なのは言うまでもなくて、逆にそうだからこそ、そのきりのない中で「ストーリー」を構築できる人が、作家としてだけじゃあなくて、どんな分野でも成功できる。何故ならば、一般ピーポーは、ストーリーを構築できない。誰かのストーリーに寄り添って生きるしかない。さらに悲劇的には、自分自身のストーリーさえ構築できない。「自分の人生は自分のものだ!」とか掛け声は立派だが、その実は惨憺たるものだ――と書くと言い過ぎなのは承知の上だが、まぁその、思ったほど簡単なことじゃあない。まだ学校の勉強していた方が楽なもんである。にもかかわらず、子供たちに、「将来の夢は」なんてのは、酷な話である。いやまぁ大事なことで、やめるべきだという主張ではない。でも、「お父さんのようなお医者さんになりたいです!」とかいうのが、本当に「自分のストーリー」なのか、ということの疑義だ。ということを書くとスグサマ逆に、「別に自分のストーリーいらないんじゃない?」というのも思い浮かぶけれども、まぁその、あった方がいいと思う――というかかっこ書き長い。本文とどっちが長いのかと思うくらいだ。やめよう)
今日の一言「月4回ルーチンとはどんなものか」
しかし、効率化を考えれば、ある程度定型文、テンプレートにのっとったほうが、確実に早く書くことができる。
それで、今回の記事は、前回の記事のかっこ書きで書いた、「月4回は書く。で、一週間の振り返りをする。良かったか悪かったか、そしてその理由を書く」とのことの練習をしてみたい。
時間制限を設ける。今回は20分だ。タイトルの記入や、その他もろもろ含めて20分とする。実質、文字を書くのは15分ぐらいになるだろう。
そうしたとき、どのぐらいまで書けるのか。本当はこういった、時間に追われて書くというのはあまり好きではないのだ。追われて書く意識がなくても、おおかた、1時間ぐらいで「投稿しよう」という勢いにはなるのだけれども、15~20分という時間ではどうなのか、というのが今回の目的だ。
――というか、その、よいわるいの基準って何なのか。それがないと、毎回そこに悩む気がする。
気分だよ、気分。
良い気分でいられたか、悪い気分だったか、ということだ。
しかしだ、1分、1時間、1日、1週間と、時間区切りにはなるものの、気分ってのは、そんな区切られるもんなのか。もちろんそんなわけはない。
良い悪いも、言ってしまえば、1秒単位で変わってしまう可能性がある、不確かなものだ。
そんな不確かなものを、そもそも、実際の気分発生タイミングと、「書く」というタイミングがズレている状態で、その良しあしを書き残すことに意味はあるのか。
あるかどうかじゃねえ、とりあえずやってみるって話だ。
で、「良い」と書いた。
何故よかったのか。
特に悪いことがなかったからだ。――いや、先日の記事で、「あーもっと、コミュニケーションうまくやりゃあよかったぁ……」って悩んでなかったろうか。
しかし、今日は全然そんなことはなかった。散歩というか街を歩いたり、おいしい外ご飯食べたりして、大変満足だった。気の置けない人と一緒の食事ってのはいいもんだ。
――ということは、その、単純に、今日の気分がよかったから、「良い」という判断になったということじゃあなかろうか。
これが、先日、「失敗したな」と思った日に書いたら、当然、「悪い」という判断にならないだろうか。
しかし、「基準」がないと、結局「良い悪い」もよくわからないものになり、形骸化し、習慣化しなかった。
「マジ」で、習慣づけしたいときは、逆に、「やらなくてもいい時(条件)」(=免除規定)を設けたほうがよほど良い。
もしくは、「こういったときはやる」という条件を決めて、それを丁寧に履行していくのがよいだろう。
ただし、それよりなにより大事なのは、それを心底、「やりたい」乃至は、それをやることで「達成したい」というものがあるかどうか、だ。
現状の低下(劣化)は、意識する必要はない。しかし、「現状維持」以上は、何らかの目的意識をもっていないと達成できないのである。
大事なことを書いた。現状維持以上、だ。現状維持も、意識しなければ成り立たないことを銘記すべきである。
なんというか、その、脈絡関係ないが思い出したのだけれども、おばあちゃんがいるのだけれども、体が弱っていて、もう幾ばくも無いといった状態のようだ。
しかしそれより、認知症で、もう、何も分からないようで、一日中寝ているような状態だ。
現代で老いるというのは、こういうことなのかと思った。
姥捨て山、というと、なんとも昔話で恐ろしい気がしていたが、自分のことも何もできなくなり、誰か、何かも認識できなくなったら、そういう人たちを受け入れる施設や組織がなかったら、家族という単位ではもうどうしようもなくなっていたのだろうと勝手に思う。
筋トレは続けている、と前回も書いたが、人体器官で一番大事なのは筋肉ではない。
心臓でも肺でもない。
それは脳だ。
脳があるから、自分を自分として認知できる。「わたし」というものが、そもそも相対的なもので、絶対ではないというのが仏教的な教えかもしれないが、しかし、西洋哲学的な意味での「わたし」を考えたとき、最も大切なのは「脳」である。
認知症を、「過去のことを覚えているが、新しいインプットができなくなること」と思っていたが、ひどくなると、過去のことさえも分からなくなる――いこーる、自分自身すら分からなくなるという状態だとすれば、「わたし」として「生きる」ということは、いったいどこまでが成り立つことなのか、などと思わずにはいられない。
――といったところで、20分。
(かっこ書きである。やばい、そうか、かっこ書きもあった。これも含めると、もっと早めに切り上げないと、20分というのは難しい。ただ、一つ書いておけば、「意外に長かった」という感覚。そりゃそうかもしれない、「書かなきゃ」という義務的に書くと、長く感じるのだ。いつもは、もうそりゃもう適当に……いやいやゴホンゴホン、勢いよくゼロ秒思考的に書いているから、特に負担もなかったわけである。今回もゼロ秒であるが、まぁその、「入り」が違ったから長く感じたのかなぁ。とりあえず、徐々にもう少し中身がある記事というか、しょっぱなから、何が言いたいかがもっと明確になるような記事を、(できれば短時間で)書いていきたい)
前書き
なんだ、このやる気のないタイトルは。しかし、効率化を考えれば、ある程度定型文、テンプレートにのっとったほうが、確実に早く書くことができる。
それで、今回の記事は、前回の記事のかっこ書きで書いた、「月4回は書く。で、一週間の振り返りをする。良かったか悪かったか、そしてその理由を書く」とのことの練習をしてみたい。
時間制限を設ける。今回は20分だ。タイトルの記入や、その他もろもろ含めて20分とする。実質、文字を書くのは15分ぐらいになるだろう。
そうしたとき、どのぐらいまで書けるのか。本当はこういった、時間に追われて書くというのはあまり好きではないのだ。追われて書く意識がなくても、おおかた、1時間ぐらいで「投稿しよう」という勢いにはなるのだけれども、15~20分という時間ではどうなのか、というのが今回の目的だ。
先週の振り返り
えーっと、そうだな。まぁ、良かったんじゃなかろうか。――というか、その、よいわるいの基準って何なのか。それがないと、毎回そこに悩む気がする。
気分だよ、気分。
良い気分でいられたか、悪い気分だったか、ということだ。
しかしだ、1分、1時間、1日、1週間と、時間区切りにはなるものの、気分ってのは、そんな区切られるもんなのか。もちろんそんなわけはない。
良い悪いも、言ってしまえば、1秒単位で変わってしまう可能性がある、不確かなものだ。
そんな不確かなものを、そもそも、実際の気分発生タイミングと、「書く」というタイミングがズレている状態で、その良しあしを書き残すことに意味はあるのか。
あるかどうかじゃねえ、とりあえずやってみるって話だ。
で、「良い」と書いた。
何故よかったのか。
特に悪いことがなかったからだ。――いや、先日の記事で、「あーもっと、コミュニケーションうまくやりゃあよかったぁ……」って悩んでなかったろうか。
しかし、今日は全然そんなことはなかった。散歩というか街を歩いたり、おいしい外ご飯食べたりして、大変満足だった。気の置けない人と一緒の食事ってのはいいもんだ。
――ということは、その、単純に、今日の気分がよかったから、「良い」という判断になったということじゃあなかろうか。
これが、先日、「失敗したな」と思った日に書いたら、当然、「悪い」という判断にならないだろうか。
目的が違う
――というわけで、毎週の振り返り、ということをやってみたのは、別に今回が初めてではない。月単位だったりしたかもしれないが、試していたことはあったのだ。しかし、「基準」がないと、結局「良い悪い」もよくわからないものになり、形骸化し、習慣化しなかった。
「マジ」で、習慣づけしたいときは、逆に、「やらなくてもいい時(条件)」(=免除規定)を設けたほうがよほど良い。
もしくは、「こういったときはやる」という条件を決めて、それを丁寧に履行していくのがよいだろう。
ただし、それよりなにより大事なのは、それを心底、「やりたい」乃至は、それをやることで「達成したい」というものがあるかどうか、だ。
現状の低下(劣化)は、意識する必要はない。しかし、「現状維持」以上は、何らかの目的意識をもっていないと達成できないのである。
大事なことを書いた。現状維持以上、だ。現状維持も、意識しなければ成り立たないことを銘記すべきである。
良かった理由
まぁその、お正月、実家でのんびり過ごせたことが良かった、といった理由で、初回、今回は許していただこう(自分に)。なんというか、その、脈絡関係ないが思い出したのだけれども、おばあちゃんがいるのだけれども、体が弱っていて、もう幾ばくも無いといった状態のようだ。
しかしそれより、認知症で、もう、何も分からないようで、一日中寝ているような状態だ。
現代で老いるというのは、こういうことなのかと思った。
姥捨て山、というと、なんとも昔話で恐ろしい気がしていたが、自分のことも何もできなくなり、誰か、何かも認識できなくなったら、そういう人たちを受け入れる施設や組織がなかったら、家族という単位ではもうどうしようもなくなっていたのだろうと勝手に思う。
筋トレは続けている、と前回も書いたが、人体器官で一番大事なのは筋肉ではない。
心臓でも肺でもない。
それは脳だ。
脳があるから、自分を自分として認知できる。「わたし」というものが、そもそも相対的なもので、絶対ではないというのが仏教的な教えかもしれないが、しかし、西洋哲学的な意味での「わたし」を考えたとき、最も大切なのは「脳」である。
認知症を、「過去のことを覚えているが、新しいインプットができなくなること」と思っていたが、ひどくなると、過去のことさえも分からなくなる――いこーる、自分自身すら分からなくなるという状態だとすれば、「わたし」として「生きる」ということは、いったいどこまでが成り立つことなのか、などと思わずにはいられない。
――といったところで、20分。
(かっこ書きである。やばい、そうか、かっこ書きもあった。これも含めると、もっと早めに切り上げないと、20分というのは難しい。ただ、一つ書いておけば、「意外に長かった」という感覚。そりゃそうかもしれない、「書かなきゃ」という義務的に書くと、長く感じるのだ。いつもは、もうそりゃもう適当に……いやいやゴホンゴホン、勢いよくゼロ秒思考的に書いているから、特に負担もなかったわけである。今回もゼロ秒であるが、まぁその、「入り」が違ったから長く感じたのかなぁ。とりあえず、徐々にもう少し中身がある記事というか、しょっぱなから、何が言いたいかがもっと明確になるような記事を、(できれば短時間で)書いていきたい)
